鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

2016年01月

作品番号順に、めぼしい物を拾っていく。

Lyadov Arabesques Op. 4 - No. 4 in E

Lyadov 2 Pieces Op. 9 - 1 Valse in F sharp

LYADOV Prelude D flat major OP10 No1 (有名曲)

Lyadov - M.Rapetti-4 Preludes Op. 13 - No. 4 in F sharp minor

ここで、管弦楽にも手を出す。実際に手を出したのかどうかは知らないが、この曲作りは明らかにオーケストレーションを狙ったものだ。

Solovieva Liadov - About olden times, Op.21

悪い曲ではないのだが、ラペッティは持て余し気味だ。スロヴァーク・フィルの演奏で管弦楽版が聞けるが、編曲は陳腐だ。

この後作品番号の20番台はつまらない。こんな曲を年に2集くらい出していて、よく「音楽家」が続けられたものだと思う。実家に金があったんだろうね。

Lyadov - M.Rapetti-Bagatelle in D flat かなり長い不調の底から立ち直った頃の曲。

Inna Poroshina Lyadov-Mazurka in G Major, Op. 31, no. 1 (Rustic)

Robin Zebaida Plays Anatol Liadov's Prelude in B flat minor, Op 31, no 2

Cherkassky_Lyadov Musical Snuff Box, Op 32 超有名曲。と言うよりリャードフといえばこの曲しか知られていないと言ってもいいくらいだ。プレトニョフがアンコールで弾いた“ぜんまいのきれかかったオルゴール”という趣向もある。

Prelude Op 36_3 in G major この単純さはなんだ。それは次の曲で分かる。Lyadov - Etude op.37 - Grinberg

作品39の前奏曲集は二つの短調曲が良い

Lyadov 4 Preludes Op. 39 - No. 2 in C minor、 No. 4 in F sharp minor

作品40は全曲を聴くことはできないが、聴いた3曲がいずれも佳曲である。しかしあまりに短い。「俳句」みたいなものだ。

そして作品44がリャードフの最高傑作と思われる船歌だ。この辺りが40歳代前半でもっとも油の乗った時期になる。作品39より前は聞かなくてもいいくらいだ。

主題はきわめて単純だ。これをどう弾くかで曲の印象はまったく変わってくる。

試しに聴き比べてほしい。YouTubeで調べればすぐに出てくる。

Anatoly Lyadov Barcarolle for Piano Op.44 (1898) with pianist Miki Aoki

Tatiana Nikolaeva plays Liadov Barcarolle in F sharp major, Op. 44

作品48のカンツォネッタも名曲だ。

世紀が変わり、46歳になったリャードフに「先生、そろそろ長編をどうです。俳句ばっかりじゃ大作曲家になれませんよ」とそそのかされたのかどうか、書いたのが「ポーランド民謡の変奏曲」(作品51)、今度はそれなりに形になったようだ。

ならば、今度は大きい曲でということで書いたのが交響詩「ババ・ヤーガ」。「古い時代について」に比べれば、オーケストレーションはまことにみごとだが、どこまで自分でやったのやら。

リムスキー・コルサコフにも似ているし、プロコフィエフにも似ている。ディアギレフが食指を動かしたのもうなずける。何よりもの特徴は「短い!」ということだ。これでどこが「交響詩」というのだ。これではパ・ド・ドゥも踊り切らないうちに曲が終わってしまう。

作品57の「3つの小品」は、私のもっとも好きな曲。マズルカはゾクッとくるほどだ。

Victor Paukstelis plays Anatoly Lyadov Three Pieces, Op. 57

ピアノを相手に俳句みたいな曲ばかり書いていると、時代に対して超然としてくる。「浮世離れ」してくると、こんな曲も平気で書けることになる。

とても良い曲だが、「ショパンもどきでは?」と言われればそのとおりである。しかし素敵な曲だ。

大曲「管弦楽のためのロシア民謡」(大曲と行ってもたかが知れているが)はもっと演奏されて良い曲だと思う。編曲は大変シンプルで、リムスキーのような光彩陸離たる油彩ではない。そのかわりきわめてすっきりとして風通しが良い。プロコフィエフの古典交響曲みたいだ。

ただプロコフィエフには精密機械の感じがあるが、この人はお茶漬けサラサラのサラサラ感だ。日本人には理屈抜きに気持ち良い。

いよいよ最後に近づいた。リャードフ54歳の大作「キキーモラー」だ。おじさんギャグになるが、この曲は絶対に聞き漏らさないでください。You Tubeではアンセルメ(なんと1953年のステレオ録音)とスヴェトラーノフが聞ける。両方とももらさず聞いてください。(テルミカーノフの演奏もあった)

「火の鳥」になりそこねた曲であり、リャードフがストラビンスキーになりそこねた曲である。あえて言っちまうと、ストラビンスキーはリャードフの語法を“盗んだ”可能性もある。

これが1909年の作品。当然のことではあるが、19世紀を突破している。同年代のグラズノフが相変わらずの曲作りをしているのとは大違いだ。「三年寝太郎」のはずが、知らぬ間に新世代の語法を身に着けてしまったらしい。いかにも遅咲きの桜だ。

それから5年後、作品64の「4つの小品」でリャードフは無調音楽の世界に足を踏み入れている。とはいっても、恐る恐る片足突っ込んだ感じで、最後はシャバの調性世界に戻るのだが、59歳でこういう冒険をするというのもなかなかできないことである。

ネットで耳にできる限りで、最後の作品がバイオリンの小曲「挽歌」(1914年)である。

潮田益子 Lyadov Song of Sorrow op.67

これは完全な調性の世界である。せいぜいフォーレ風味くらいだ。

この年の8月、第一次世界大戦の始まった月、リャードフは世を去る。59歳だ。惻隠するに、まぁだいたいいい具合に世の中生きたんではないかと思う。

「もう少し…」という気もあるが、そのくらいが一番良いのだよ。


You Tube、You Tubeと書いていますが、実はかなりの部分は下記のサイトからのものです。

MP3LIO.NET

この検索窓に“Lyadov”と入れてください。Rapetti の全曲録音の殆どがダウンロードできます。(たぶん、厳格にやれば違法に近いと思うが)

この1週間、ロシア音楽にズブズブとはまっています。

とくにこの2,3日はリャードフばかりです。

ウィキペディアの曲名一覧を見てもらえば分かるのですが、この人は長い曲も書かないし、大規模な曲も書きません。

ひたすら4,5分の曲ばかりです。

だから有名にはなれませんが、いかにも日本人好みです。どうして日本でこれだけ冷遇されているのでしょう。

「日本で」と書いたのは、外国ではけっこう聞かれているからです。そこへ行くとキュイなんかは外国でもあまり相手にされていません。

YouTube などで集めたらこんなになりました。

Lyadov

たしかにピアノ作品を聞きたくてウィンドウ・サーフィンしたのでピアノ曲中心になっており、管弦楽作品のいくつかは落ちていますが、それにしても作品のほとんどがピアノ小品であることは明らかです。

1855年生まれで作曲番号のついた曲が1876年辺りからですから、21歳。プロの作曲家としては随分と遅咲きです。モーツァルトならもうケッヘル300番位です。

死んだのが1914年、59歳の時です。その年に作品番号のついた最後の曲「挽歌」を作っています。これが作品67になります。38年で67曲ですから年間1.8曲ということになります。

半年に1曲。しかもピアノ小品集ばかり。よほど生活が大変だったのでしょうか?。

どっこい、その生活たるや波瀾0丈で、まったく何もありません。

なぜか?。これに関してウィキペディアはきわめて辛辣です。

リムスキー=コルサコフの作曲科に籍を置いたが、常習的欠席を理由に、1876年に除籍された。

リャードフは、同時代の音楽家から高い評価を得たほどの技術的な手腕に長じていたが、持ち前の不甲斐なさから、進歩が妨げられた。

ここまで言うか?と思いますが、客観的に見て稀代の寡作家であることは間違いないようです。

日本ではこういう小説家いますよね。例えば広津和郎、上林暁。研ぎ澄まされた短編小説、いわゆる私小説をぽつりぽつりと書いて、数は少ないが熱狂的なフアンから神様扱いされたりして…。

私はリャードフってそういう人じゃないかと思います。上の表で言うと作品2の「ピリュールキ」から作品67の「挽歌」まで隙がない。「名曲」かどうかは別にして「駄作」はない。すべての曲に意味がある。

そうは言っても流れはあります。

一つは1989年、44歳の時に作ったバラード『古い時代から』(作品21)というのがあります。元はピアノ曲ですが、明らかにオーケストラ用の草稿です。ピアノ曲としては面白くもなんともありません。

ちょっと、流行作曲家に色気を示したのかもしれません。しかしそれは直ぐにやめてしまいます。聞いてもらえばわかりますが、あまり面白くはないのです。編曲のせいもあるのではないでしょうか。

ということでまたピアノ小曲集の作家に戻ります。

そうして次が48歳の時に作った「音楽の玉手箱」の大ヒットです。これで気を良くしたのかリャードフは長大作に手を出しました。それが「グリンカの主題による変奏曲」です。

しかし長大作を作るのには変奏を繰り返したり、フーガや対位法の技法を駆使しなければなりません。「グリンカの主題による変奏曲」を作ってみて、「オレはそういう理屈っぽいのには合っていないんだ」と思ったのではないでしょうか。

多分、それは正解だろうと思います。リャードフのためにあえて一言言えば、「そんなのはただの百姓仕事」なのです。

しかし、彼の理系能力には疑問符がつくものの、音感は大変優れていました。きちっとやれば、彼は立派な管弦楽作品も作れたと思います。

その証拠が1905年の交響詩「バーバ・ヤガー」(作品56)です。この時すでにリャードフは50歳。何かを始めるにはもう遅すぎる年ですが、とにかくこの曲があまりに素晴らしい。(そしてあまりに短い)

リャードフは立て続けて「管弦楽のための8つのロシア民謡」(1906年)、交響詩「キキーモラ –」(1909年)を発表し、一躍、管弦楽の作曲者として注目を集めることになります。

しかしこの時すでに54歳、当節で言えば70歳を過ぎたあたりでしょう。乾坤一擲の大勝負をかけるにはもうスタミナがついて行きません。

ディアギレフの委嘱に応じることができず、いわば代役として「火の鳥」を書いたストラヴィンスキーがトンビになって油揚げをさらっていくわけですが、やむを得ないことだったのではないでしょうか。

作品番号のついた最後の作品となる「挽歌」(作品67)は、フランス近代音楽風です。バイオリンがところどころで無調への揺らぎを示します。

保守的といえばそうなのですが、私には彼が慎重に着実に時代の流れを取り込もうそしていたのだろうと思います。リャードフにはそれが似合っています。


追補(2月1日)

hoi
大したものはないです。

作品53のホ短調のマズルカは作品57と通ずるものがあります。

リャードフの最後の10年は管弦楽作家だったようです。ピアノの小曲ばかりで室内楽も書いたことがなかった人なのに、ちょっと背伸びしすぎでしょう。



rosia

ここには私がかろうじて耳にしたことがある作曲家のみを上げてある。ウィキペディアにはこの倍くらいの作曲家が掲載されている。

注目すべきは、5人組最長老のボロディンから数えてもショスタコーヴィッチまでの間にわずか70年である。この短期の間に、次から次へと世界を魅了するような音楽家が現れたことになる。

特にリャードフからラフマニノフまでの20年というのが、ロシア音楽の黄金期であり、それは19世紀末のチャイコフスキー=リムスキー・コルサコフ時代からラフマニノフ・スクリアビン時代を通じてストラヴィンスキー=プロコフィエフ時代へとつながっていく。

そしてそれはロシア革命で中断され、スターリン時代に圧殺され、一旦音楽世界から顔を消した。

そしてソ連の崩壊にともなって、特に右側の列の人たちが続々と発掘されていることになる。

その中でもとくに、*印の人たちの曲が注目であり、以後、順番に紹介していく。



Youtubeでダウンロードしたファイルがお化けになってしまった。
ファイルの容量はゼロなのに、ファントムだけが残ってしまい、画面上から消えない。
別に悪さをするわけでもないので、無視すればよいのだが、やはり気になる。
ネットで色々調べたが、MSdosを使わないとならないらしい。
ファイル名が文法違反なので読みに行けず、その結果消去もできないということらしい。
文法違反なのにどうして受け付けたのか、受け付けてからダメだと言われても、理屈は立たないのではないかと思うのだが、泣く子と地頭には勝てない。
多くのFAQで勧めているのが ren コマンド。ファイル名を読みやすい単純なものに取り替え、認識可能にし、その上で delete するというものだ。
正直コレはダメ。そもそも認識しないファイルの名前を rename するというのが無理だと思う。“” マークで括ると読めるようになるというが、私の場合ダメだった。

また調べていくと、chkdsk E: /f が良いというので、こちらを試してみた。
こちらでうまくいくようだ。
不良ファイルは三段重ねになっていて、親フォルダー、子フォルダー、ファイルというふうになっていた。親フォルダー名は問題なく、子フォルダー名がひどい文字化けになっていた。この子フォルダーが開けないから、その奥にどんなファイルがあるのかはわからない。
そこで他のフォルダーやファイルを他所に避難させてから、USBに差した媒体(メモリースティック)ごとcheck disk をかけた。
親フォルダーは残り、その奥の子フォルダーは消えてしまった。
そこで親フォルダーを削除して一件落着に相成りました。
実は、外部媒体だけではなくデスクトップにも幽霊が残っている。こちらはちょっとやばいので、まだ手を出しかねている。

それにしてもひどいもので、MSDOSのプロンプトなど綺麗サッパリ忘れている。
私たちがパソコンに触り始めた頃はBASICの時代で、これで標準偏差のプログラムなどを自作したものだった。それがDOSが出てきて格段にプロンプトが豊富になり、NECの9800シリーズの頃は一太郎や桐の作業環境をこれでいじったりしたものだった。何冊も本を買って、「物知り博士」に聞いたりしながらなんとか使えるようになった、筈だったのに…
泳ぎや自転車は一生忘れないというが、逆上がりもできなくなったし、老化は静かに着実に進んでいますねぇ。


というサイトで、面白い記事があったので紹介する。

チャイコフスキーはメック夫人に宛てた手紙の中で、こんなことを書いております。(以下の引用は森田 稔「新チャイコフスキー考」より)

「キュイは才能のあるディレッタントです。彼の音楽は独自性はありませんが、エレガントで、優雅です。あまりに色っぽくて、言ってみれば、手入れがよすぎ て、したがって初めは気に入られますが、すぐに飽きられてしまいます。(中略)しかし、繰り返しますが、彼にはやはり才能があります。少なくとも趣味と感 覚があります」

これだけ読みますと、そんなに褒めてもいないようですが、同じ手紙のボロディンとムソルグスキーについて書かれた部分を見れば、チャイコフスキーがキュイをどう考えていたのかよくわかります。

◇ボロディンについて
「彼は知識の不足から身を誤りました。それで、彼はキュイほどの趣味もなく、技術があまりに足りないので、他人の援助がなくては一行も作曲することができません」

◇ムソルグスキーについて
「この人は友人キュイがいつもこせこせしているとはいえ、礼儀正しく優雅であるのと正反対です。彼は反対に自分の教養のなさを売りものにし、無知を誇りとして、出たとこ勝負でいい加減にやって、ただただ自分の天才を信じ込んでいるだけです」

虫も殺さぬ顔をして、腹の底ではこんなことを考えていたのですね。チャイコフスキーという人は…
でも考えて見れば、チャイコフスキーという人はもともとペテルブルク大学の法学部を卒業して大蔵省のエリート候補生だったわけで、このくらいのことは考えて当たり前かもしれません。

キタラのコンサート会場で、アレンスキーの評伝を販売していた。

高橋さんという方が書いたもので、ブックレット・サイズで650円。日本語で唯一の評伝だという。

それを昼から読み始めて、一気に読み終えた。なかなかに中身の濃い、力の入った労作である。

1ヶ月ほど前に5人組とチャイコフスキーの織りなす歴史について勉強したばかりで、それと噛み合わせると人脈が非常によく分かる。

1.西欧音楽への憧憬

2.国内音楽家の反発

3.「国内音楽家」の実態

4.5人組のペテルブルク制圧

5.チャイコフスキーは何をしていたか

6.モスクワ音楽院という微妙な立ち位置

7.ピアノ協奏曲第1番の意義

8.国内で不動の地位を獲得したチャイコフスキー

見た目には「正」のアントン・ルビンシュテイン、「反」のバラキレフと5人組、「合」のチャイコフスキーというきわめてヘーゲル弁証法的な流れだが、なにせ人間のやることだからそう綺麗には行かない。

ペテルブルク対モスクワという対立、チャイコフスキーとリムスキー・コルサコフの対立という図式のもとに世紀末のロシア音楽界が展開していく。

この対立は初期のアントン対バラキレフの対立のようにイデオロギー的なものではない。リムスキー・コルサコフはチャイコフスキーを尊敬していたし、チャイコフスキーもロシア民族色をしっかりと打ち出すことでは引けを取るものではなかった。

ただし、チャイコフスキーの下でモスクワ音楽院を管理するタネーエフは、ペテルブルクに対抗するべく西欧音楽理論の徹底をもとめていたようで、この辺が震源地かもしれない。

アレンスキーのモスクワ行き

こういう状況のもとでアレンスキーのモスクワ行きが実現するのだが、この話は20年前にチャイコフスキーがモスクワに赴いた話と瓜二つなのである。

アレンスキーはペテルブルク音楽院の作曲科を首席で卒業した。院長のリムスキー・コルサコフの覚えもきわめてめでたかったようである。

そのアレンスキーをモスクワのタネーエフが招請した。そして文字通り下にも置かぬ歓待ぶりを示した。この話、ニコライ・ルビンシュテインがチャイコフスキーをヘッドハンティングした話と完全にダブる。ひょっとすると伝記作者が作り上げてるかもしれない。

もちろんモスクワ音楽院のカリスマであるチャイコフスキーもアレンスキーを大歓迎したという。かつての自分の姿をダブらせていたかもしれない。

一方、裏切られた形のリムスキー・コルサコフはアレンスキーに対してシニカルな態度を貫いたという。

アレンスキーはやはりつなぎ役であろう

ということで、鳴り物入りでモスクワ入りしたアレンスキーではあったが、その後小曲や室内楽で素晴らしい物は残しても、ビッグヒットを飛ばすには至らず、一生を終えている。

YouTubeでピアノ協奏曲や交響曲が聞けるが、やはり構成力に乏しいところがある。トルストイやドストエフスキーのあの辟易するようなスタミナとは対局に位置する人である。

小説家というよりはエッセイストなのだろう。

彼の最大の功績はラフマニノフを作り上げたところにあるらしい。「あーそうですか」と、とりあえずはそう言うほかない。なぜかというと、私もラフマニノフの大仰ぶりにいささか辟易する人間の一人だからである。

日本アレンスキー協会という団体がある。
名前からしてきわめてコアーな団体だ。
ロシアの作曲家アレンスキーを愛好する人々の集まりだ。
アレンスキーという名前を知ってるだけでもかなりの好きものだが、なんとその会の本部が札幌にあって、半年に1回くらい例会を開いている。
私はこんな団体が札幌にあるなど知らなかった。灯台下暗しである。
その例会の場所がまたコアーで、“りんゆう会”といい会社の小さなビルに間借りしている。社長さんが“文化好き”らしく、ビルの中に小さなホールを作ってしまったらしい。
2,30年前まではこういう話はけっこうあったのだが、昨今の経済情勢のもとでは、さすがの太っ腹の社長さんでも、そのような余裕はなくなってしまった。
このホールというのが便利そうで不便なところにある。札幌駅から歩くと2,30分のところにあるのだが、何も交通手段はないからひたすら歩くしかない。決してわかりやすいところではなく、周りは「えっ、なんで?」というくらい倉庫や民家や虫食い駐車場が立ち並ぶ辺である。
ところで、そのアレンスキー協会がキタラでコンサートをやるというので物は試しと出かけてみた。あいにくの大雪でタクシーも捕まらない。道路は延々渋滞の列、とても間に合いそうにないと思ったら、途中から急に道幅が広くなって、スピードも上がる。どうやら7時の開演には間に合った。例年、雪祭り近くなると中心街は大規模な排雪が入る。雪まつりさまさまだ。
寝るかと思ったが、どうやら最後まで寝ないで聴き通した。
いろいろな演奏家が立ち代わりで演奏するが、中に一人だけびっくりするくらい上手い人がいて、びっくりした。同じピアノだが、鳴る音が違う。なんでもショパンコンクールで入賞した人らしい。一人でコンサートをやっても稼げる人なのに、なぜわざわざ東京から来てたった2曲で済ませたのか分からないが、大方誰かに無理やり頼まれたのだろう。
さすがに練習不足で、譜面を見ながらの演奏。ミスタッチも多かったが、やはり図抜けていた。2台のピアノの曲では、音色がまったく違っていて、相方が可哀想なくらいだった。

わざわざ一項起こすほどのものでもないので、付記しておく。

ショパンコンクール入賞のピアニストは宮谷理香さんという方でした。

宮谷さんとアレンスキーのドゥオ組曲4番を演奏したのは川染さんという方で、日本アレンスキー協会の会長さんでした。

アレンスキーの評伝を書いた人は高橋健一郎さんという方で、この方は当日、朗読者(アレンスキー・メロデクラメーション作品68)として出演されていた方でした。おみそれしました。

ロシア語が堪能な方で、評伝も直接原語にあたりながら書かれたもののようです。

当日のプログラムですが、作曲者で言うとアレンスキーの他リャドフ、グラズノフ、イッポリトフ・イワノフ、リャプノフ、カリンニコフ、グレチャニノフ、ソコロフ、カトワールの作品が上演されています。

すこしYoutubeで作品を探してみます。


アマゾンから爆買いしたCDが次々と到着している。

しばらくはジョージ・セル漬けになる。

まずは一番聞きたかったメンデルスゾーンのイタリア交響曲。音は意外と硬いままで、期待していた艶やかさはない。本当にリマスターしたのかと一瞬疑う。

むかしエピックのLPで聞いた頃は、同じコロンビアでもフィラデルフィアやバーンステインの録音と比べると明らかに見劣りがした。値段もその分安かった。CBSの下請けがそれなりのレコードを作っているという感じだった。

ただこの録音は1967年のもので、セルの中では新しい部類に入る。だから音はこれで十分なはずで、あるとすればセルが注文をつけてこの音にしたのかもしれない。

よく聴き込んでいると、合奏があまりに緻密なのでこじんまりと聞こえるのかもしれないと思う。無駄な音が一つもなくて、一つ一つに意味のある音がぎっしりと詰まっているのが分かる。

確かに、「…ながら」で聞くにはいささかしんどい。

音楽を聞いた時の快感というのには二種類あって、身を委ねるような快感と、前のめりになって「ウムウム」と唸りながら握りこぶしを固めるような快感がある。たとえは悪いが、麻薬の快感と覚せい剤の快感の違いのようなものだ。

麻薬系の快感を与えてくれるのがマゼールとベルリン・フィルのイタリア交響曲だ(残念ながらYoutubeからは消えてしまった)。セルの演奏が正確なリズムで気分を煽るのに対し、こちらはソノリティーが命だ。

こちらはリマスターでかなり音質が改善されている。最近のデジタル録音に比べれば見劣りはするものの、高校生の時に買った25センチ盤とは雲泥の相違で、とうてい同じ演奏とは思えない。

ただ、セルにしてもマゼールにしてもこれがイタリア交響曲のスタンダードかと言われるとちょっと迷うところがある。やはりクレンペラーによる刷り込みの影響は大きいのだ。


まいった。

どうにもセルのヨハン・シュトラウスがいいのだ。

ウィーン・フィルのワルツを聞いていると、どうにも違和感がつきまとう。

いかにも上流階級のお遊び半分みたいな贅肉たっぷりの演奏がダラダラと続くと、ウソっぽくて仕方がない。

もっと猥雑で、イナセで、肩で風を切って歩くようなトっぽいのがシュトラウスではないかと思う。

それをクラシック音楽として宮廷でとりあげるなら、それに思いっきりカミシモを履かせるのが礼儀というものだ。

セルはヨハン・シュトラウスの曲を世紀の名曲のように演奏する。そして決め所ではけっこう見栄を張ったりする。袴と白足袋の間から毛脛をちらつかせる風だ。

やはり当時のウィーンとそこでのシュトラウスの位置を知っているから出来る芸当だろう。

セルは、知ったかぶりの人はスツェル・ゲオルギーと書いたりして彼がハンガリー人であることを強調するが、生まれがブダペストというだけである。3歳の時からウィーンで生活し、第一次大戦が終わる頃までウィーンで学び生活していた。ハンガリーにさほどの義理はない。

第一、ユダヤ人だから、もともと「街の子巷の子」でありコスモポリタンである。セルの出自を問うなら、むしろ当時ロンドン、パリと並ぶ国際都市ウィーンの申し子と言うべきである。

ナチスとその戦争さえなければ、マーラー、ワルターに続く世代としてウィーンで店を張っていたかもしれない。

ピアニストとしてのデビューは11歳。1908年のことである。

マッハを先頭に哲学、経済学でウィーン学派が盛んに議論を戦わせ、組織労働者に支えられて社会民主党が勢力を伸ばし、1905年のロシア革命に敗れたトロツキーやブハーリンが亡命生活を送っていた。それが当時のウィーンだ。

それらもろもろの通奏低音としてヨハン・シュトラウスが鳴り響いていた。もちろんラジオなどない時代だから、庶民は辻つじでコーヒーを片手に新聞を読みながら、辻音楽のワルツに聞き入っていたのである。

セル少年はその時代をまぶたと心と体に焼き付けて大人になっている。だからセルのワルツは庶民目線、間違ってもブヨブヨの演奏には成り得ないのである。

もちろんセルの通例として、キビキビとした、悪く言えばとんがった演奏は当然である。その限りにおいてはワルツのお気楽な雰囲気はない。

しかしそのことをもって、ウィーン情緒とかけ離れているということはできない。

彼の演奏のような雰囲気は決してウィーン情緒の主流ではないかもしれない。しかし当時のウィーンには彼の演奏のような生真面目な生き方も間違いなくあったのだろうと思う。

同じようなことはイッセルシュテットの浅草サーカス小屋風ブラームス・ハンガリー舞曲にも言える。

私はむしろそういう演奏にこそウィーン情緒、庶民のウィーンを感じてしまうのである。



小出義夫さんの「物質基本粒子の質量— クォークとレプトン—」を読むと、「ニュートリノ振動」について少し分かったような気分になる。何よりも“色”とか“香り”とかが出てこないのが良い。ただしこの一節の後の段落には恐ろしい行列式が出てくる。

ニュートリノ変換
     図5 ニュートリノ振動:  Vμ → Vτ

ニュートリノは,生成時および検出時にはミューニュートリノ(Vμ) またはタウニュートリノ(Vτ)のどちらかの顔を見せる.
自由運動中はV2 とV3 の混合状態にあり,その比率を刻々と変化させながら運動する.

すでに述べたように電子ニュートリノ・ミューニュートリノ・タウニュートリノという名称は,ニュートリノを「弱い相互作用」と呼ばれる反応を利用して生成したり,検出したりするときの「状態」の名称です.(図の“寝た状態”)

一方,ニュートリノが自由に空間を運動しているときには,ニュートリノは定まった質量を持った「状態」として運動します。それをニュートリノ1・ニュートリノ2・ニュートリノ3 と呼ぶことにしましょう(図の真ん中の立った状態).

つまり,3 種のニュートリノは,(Ve, Vμ, Vτ ) という顔と(V1, V2, V3) という顔との2つの顔を持っているのです.

そして,その2 つの世界にズレが起こったとき、すなわち V1 = Ve, V2 = Vμ, V3 = Vτ でなくなったと

に,「ニュートリノ振動」という現象が起こります.

以下略



原子核からクォークへの流れは比較的よく解説されており、理解が可能だが、電子(エレクトロン)から親戚筋(レプトン)が増えていく道筋(認識の)はあまり説明された記憶がない。

ちょっとこの辺をやっておかないと、ニュートリノを扱っていても危なっかしい。

少し年表にして、足跡を辿ってみよう。

電子の研究の歴史については、コトバンクの中の以下の解説が大変詳しい

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

1836年 ファラデー、最強の絶縁体である真空での電流(放電)研究を開始。

* ドイツの物理学者オイゲン・ゴルトシュタイン、真空のガラス管に電極を通し、陰極線が走るのを観察。この流れが陰極から発生したため「陰極線」と名付ける。

* ドイツの物理学者プリュッカー、放電管を作成。陰極に近いガラス壁が蛍光を放つことを発見し、放射線が陰極から出ているためと主張。放射線が磁石の作用で曲げられることも発見する。

* 陰極線の正体について、波動説と粒子流説とに分かれ論争。

1896年 ゼーマン、ナトリウムを磁場において炎光スペクトルを観測。D線領域が拡大することを発見する。

* ロレンツは「原子内の軽いイオン」が磁場の大きさに応じて周波数が変化するためと説明。粒子説を裏付ける。

1897年 イギリスの物理学者ジョセフ・ジョン・トムソン、陰極線の正体が粒子線、すなわち負に荷電した電子であるということを証明。これが電子の発見とされる。

トムソンは、回転鏡を用いて陰極線の速さを測定。陰極線の速度は電磁波(光)の100分の1以下であった。
電線の中の電子の速度は1時間では40㎝、これはカタツムリの進む速さよりも遅い(教科書の教えてくれない物理

1898年 ペラン、陰極線を金属箱にとらえ、箱が負に帯電するのを観測。電子が負の電荷を持つ粒子であることを示す。

* J. J. トムソン、陰極線が電子であること、電子が単一であること、その電荷量が水素イオン1個の電荷に匹敵することを確認。質量あたりの比電荷は水素イオンの1000倍に達する。

1900年 ベックレル、ウラン化合物が放射能を持ち、自発的に放射線を発するのを発見。その中のβ線が電子と同じものであると報告。

この頃は原子内で陽子と結合した電子が何らかのきっかけで飛び出すと考えられていた。

1902年 ギルバート・ルイス、原子の立体モデルを提唱。これによると、原子は立方体状で電子はその8つの頂点に存在するとされた。

1904年 J. J. トムソン、ぶどうパン・モデルを提唱。これによれば、正の電荷のスープの中に電子が散らばっているとされる。

1904年 長岡半太郎、土星型原子モデルを提唱。電子は正電荷を帯びた原子核の周りを土星の環の様な形で回っていると主張。(ほう、そうか。長岡半太郎って偉かったんだ)

1906年 トムソン、一連の研究によりノーベル物理学賞を受賞。

1911年 アーネスト・ラザフォード、太陽惑星モデルを提唱。電子は原子核の周りを惑星の様に回っている、と主張。

1913年 ニールス・ボーア、ラザフォード・モデルをもとに、電子は特定の量子条件や振動数条件を満たす電子軌道を回っている、と主張。これが量子力学で補強され定着することになる。

1928年 ポール・ディラック、ポジトロン(陽電子)の存在を提唱。4年後にアンダーソンが、霧箱を用いて宇宙線由来のポジトロンの観測に成功。

ディラックの理論は解説を読んでもさっぱりわからない。結論としては、電子は広がりを持たない「点粒子」であるが、「電子が光子(フォトン)の雲を周りに着」ているということだそうだ。

ちょっと気が重いが、以前からの宿題であるニュートリノ(振動)にとりかかる。

私は超文科系で、物理も数学もテンで歯がたたない。ここではニュートリノの文科系的理解を図りたい。

最初に梶田先生みずからの説明(朝日新聞 2015年10月6日)

物の状態が変わって変身するということは、その分だけ時間が経過していることになります。つまり、ニュートリノが別の型に変わるということはニュートリノの時計が進んでいるのです。時計が進んでいるなら、ニュートリノは光速じゃない。光速で飛んでいない物には質量があるのです。

ということで、例によって年表づくりから

元ネタはスーパーカミオカンデのサイトのニュートリノの歴史というページ。ウィキペディア、

1930年 オーストリアの物理学者パウリ、ベータ崩壊時のエネルギー減少現象について「幽霊のような粒子がどこかに飛び出してしまうから」という 仮説をたてる。そしてこの想像上の粒子を「ニュートロン」と名付ける。ニュートロンは電荷を帯びておらず中性であるということから名付けられた。

実際には、パウリ以前に、中性子のベータ崩壊で「崩壊後の運動エネルギーの発生量が質量の減少に見合わない」という現象が発見されていた。質量の減少した分のすべてがエネルギーにならず消えてしまうのである。
ボーアはこれを「ベータ崩壊ではエネルギー保存の法則が破れる」と表現している。

1932年 ニュートロン(中性子)が発見される。幽霊粒子の方のニュートロンの名は宙に浮く。

1933年 イタリアの物理学者フェルミ、パウリの幽霊粒子を検討。これを「ニュートリノ」とリネームする。「-イノ」は接尾辞で「小さい方の中性子」ということになる。

陽子と同じ質量で電荷を持たない中性子と似た関係で、電荷を持たない電子と考えられる。

1936年 C.D.アンダーソン、ミュー粒子を発見。当初中間子の一つとされたが、質量が重いことを除いては電子のような性質を持つことが判明。核子と同じように電子にもグループがあることが分かる。

1948年 ローゼンフェルト、素粒子のうち軽い方のグループにレプトンと命名する。ギリシャ語で“軽粒子”という意味。

自然に存在するレプトンは電子とニュートリノで、これを第一世代という。第二世代(ミュー)は新たに発見されたもので、加速器などによる高エネルギー衝突で発生し、ただちに粒子崩壊する。当時は第三世代(タウ)はまだ作れなかった。

1956年 カワンとライネス、ニュートリノの存在を実証。

1956年 ハンガリーのギュラ・チカイ、ヘリウム6がベータ崩壊し、ニュートリノを発生する過程を、霧箱で撮影することに成功。

1957年 ブルーノ・ポンテコルボ、ニュートリノと反ニュートリノの間で「ニュートリノ振動」が起きると提唱。

ニュートリノが空間を飛ぶ間に波の位相が変化する現象。これはニュートリノの固有波形が質量に依存しているためであり、波形の変化の証明は質量が存在していることを意味する(と言われてもわからないが、説明を聞くともっとわからなくなる。後で勉強)

1956年 アメリカの物理学者ライネスら、原子炉から生まれるニュートリノを捕捉。実在が証明される。

原子炉から生じたニュートリノビームを水に当て、水分子中の原子核と反応させた。これにより生じる中性子と陽電子を確認。

1958年 チェレンコフ効果を発見し、検出装置を作成したチェレンコフら3人がノーベル賞を受賞。

ニュートリノと衝突した電子はチェレンコフ光を発生する。これを増倍管で検出するとニュートリノが来た方向が分かる。

1962年 レーダーマンら、陽子ビームで作成したパイ中間子の崩壊により、ミュー・ニュートリノの作成に成功。ミューニュートリノの存在が最終的に確認される。

1962年 坂田昌一ら、ポンテコルボの式を元に世代間のニュートリノ振動を予測。ニュートリノが質量の異なる電子・ミュー・タウの型の間で変化することで、振動が発生すると予想した。

1969年 アメリカの物理学者デイビス、太陽ニュートリノの観測を開始。観測の結果「太陽ニュートリノ問題」が発生。

太陽ニュートリノ問題: 太陽からのニュートリノはすべて電子ニュートリノとされる。しかし電子ニュートリノは理論値の 1/3しか観測できなかった。理論が間違っているのか、どこかに消えたのか、観測技術に問題があるのか。これらが約30年間にわたる物理学上の大問題とな る。

1974年 SLAC国立加速器研究所が第三世代レプトンとなるタウ粒子を実証。

1983年 カミオカンデ(水チェレンコフ宇宙素粒子観測装置)が完成。大統一理論の陽子崩壊を実証することを目的とする。

ニュートリノの電子との衝突を検出し、それにより陽子崩壊を実証することを目的とする。
3000トンの超純水を蓄えたタンクと、その壁面に設置した1000本の光電子増倍管(口径20インチ)からなる。

1987年 

1月 カミオカンデグループが太陽ニュートリノの観測を開始する。

2月 カミオカンデグループ、超新星爆発からのニュートリノの観測に成功。これにより小柴教授がノーベル賞を受賞。

16万光年彼方の超新星1987Aが超新星爆発(重力崩壊)を起こした時のニュートリノを捕らえた。ここから「ニュートリノ天文学」が開始される。

1989年 カミオカンデグループ、太陽ニュートリノの観測によりデイビスのグループと同じく、ニュートリノ観測量が理論値より低いことを確認。

1989年 カミオカンデグループ、大気ニュートリノにおいて電子ニュートリノとミューニュートリノの成分比が理論値と食い違うことを発見。

観測では、地球を貫通してきたミューニュートリノが上空からのものに比べ半減していた(電子ニュートリノは変化なし)
これはミューが波形を変えタウに変化したためである。(タウは現在のところスーパーカミオカンデでは計測できない)

1996年 カミオカンデに替わるスーパーカミオカンデが完成。世界最高精度のニュートリノ観測装置となる。

カミオカンデの成果: 結局、当初の目的である陽子崩壊の観測は実現せず。
これは陽子の寿命が少なくとも1033年以上であることを示し、大統一理論に修正を迫ることになった。

1998年 スーパーカミオカンデでニュートリノ振動が発見される。これによりニュートリノが質量を持つことが証明された。梶田教授はこの業績でノーベル賞を受賞。

この質量はヒッグス粒子で説明できない。このためニュートリノの質量の説明は「素粒子の標準理論のほころび」だとされている。
ノーベル賞は2013年に標準模型の完成をたたえ、その2年後にはその破綻をたたえることになった。

2000年 フェルミラボのドヌーティ、タウニュートリノを実証。

2001年 カナダのサドベリー・ニュートリノ観測所のマクドナルド、太陽から飛来する電子ニュートリノがタウ・ニュートリノに変化していることを確認。太陽ニュートリノ問題に終止符を打つ。

サドベリー観測所はサドベリー市郊外のニッケル鉱山跡で、地下2,000メートルの施設。
重水を用いており、電子、ミュー、タウの三種類のニュートリノを観測できることが特徴。(隠し味に塩も入れているそうです)

2004年 K2K実験。つくば市の高エネルギー加速器研究機構 (KEK) からスーパーカミオカンデに向かってニュートリノを発射する。これによりニュートリノに質量があることが確定される。

2011年 OPERA、ニュートリノが光速より速いという実験結果を発表。翌年の再実験て撤回される。

2013年 鈴木教授(スーパーカミオカンデ)とマクドナルド(サドベリー・ニュートリノ観測所)、太陽ニュートリノの3つのフレーバー全てについて到来量を測定することに成功。

 

以前と同じく、キッズサイエンティストから勉強させてもらう。

しかしこのサイト名、けっこう傷つけられる。ガキにも分かるような易しい解説というのだろうが、私にはどうしてもついていけないところがある。

1.素粒子とは?

まず最初は素粒子論のおさらいになります。らっきょの皮むきのような話ですが、言葉を覚えなくてはならないので我慢してください。

原子は原子核と電子からなっています。
原子核を構成するのは陽子と中性子、それをくっつける中間子などから出来ています。これらをハドロンと呼びます。一方電子(およびその親類)の方はレプトンと呼ばれるようになりました。
さらに研究が進むとハドロンは6種類の素粒子の組み合わせで出来ていることがわかりました。これをクォークと呼びます。
この6種類のクォークとレプトンと呼ばれる電子の親類、6種類を合わせて素粒子(全12種類)と総称しています。


標準模型

2.ニュートリノとは?

素粒子のうち、レプトン族(電子の一族)には、電子、ミュ-粒子、タウ粒子があります。そしてそれに対応して電子ニュートリノ、ミュ-ニュートリノ、タウニュートリノという3種類のニュートリノがあります。

電子、ミュ-粒子、タウ粒子系とニュートリノ系の違いは電荷を持つか持たないかの違いです。

これは陽子に対する中性子(ニュートロン)の違いと似ているところがあります。

電荷を持たないということは、他の粒子との相互作用が弱いということです。だから他の粒子とあまり関係を持たずに、すっと通り抜けていってしまうのです。宇宙からやって来るニュ-トリノは地球をも貫いて行きます。

ニュートリノはこれまで質量ゼロとされてきましたが、質量を持つことが明らかになりました。しかしどのくらいの質量なのかはまだ分かっていません。

電子ニュートリノは放射性同位元素がベ-タ崩壊する場合に出現します。この時中性子が陽子と電子と電子ニュ-トリノに崩壊します。

原子炉からは大量のニュ-トリノが発生します。また水素などの核融合を行う太陽も、大量の電子ニュ-トリノが発生します。

ミュ-ニュ-トリノはパイ中間子が崩壊してミュー粒子になる時に発生します。

3.ニュートリノ振動

もしニュートリノに質量があると、3つのニュートリノ間で相互転換が許されることになります。このような、異なるニュ-トリノ間での相互移行を振動と呼んでいます。(…のだそうです)

そしてこれらのニュートリノが一定の割合で混じりあって、現実のニュートリノである電子ニュ-トリノ、ミュ-ニュ-トリノ、タウニュ-トリノが構成されます。

例えばあるニュートリノが質量の違う二種類のニュートリノから出来ているとします。このニュートリノは長時間飛行する間に、電子ニュ-トリノとミュ-ニュ-トリノ の間で転換が起こります。

ここの部分の説明は、わかりにくいというよりほとんど肝心のことが分からない。

4.ニュートリノに質量があるのはヒッグス粒子のため

いっぽう理論上は、ニュートリノは質量ゼロでなくてはなりません。

標準模型が原理として用いているゲージ場理論が成り立つためには、すべての素粒子の質量が厳密にゼロでなくてはならないからです。

実際、ビッグバン直後には、全ての素粒子が、何の抵抗を受けることもなく真空中を自由に運動できていたと考えられます。

しかし、ビッグバンから、10-13秒過ぎたころに、真空の相転移が起こり、真空がヒッグス粒子の場で満たされてしまいました。宇宙の冷却とともに真空はヒッグス粒子の海になってしまったのです。

クォークやレプトンはヒッグス場と反応し、あたかも水の中を泳ぐ魚のごとく、ヒッグス場によるブレーキを受けることになり質量のある粒子と同じふるまいをします。

光だけはヒッグス場とは反応しないので光速のままで飛び、質量はゼロのままです。(この文章は10年位前のもので、この頃はまだヒッグス粒子は証明されていなかった)

アマゾンで爆買い
この間、ペライアのモーツァルトPコン全集を買ったのに味をしめて、爆買いしてしまった。
考えてみると、人生はせいぜい後15年。そこまで持っても間違いなく認知になる。
惨めな老後は送りたくはないが、子や孫に余分な金を持たす必要はない。
なにせ、嫁さんの介護がある以上、ふらふらと放浪生活は送れない。ペグ付きのフロート制で24時間に4本も杭があって、おまけに週に5日は外来がある。
欲求不満は物欲で満たすほかないのだが、物欲はテンで乏しい。ズボンの裾がほつれたらホッチキスで止めるという具合だ。
ということでアマゾンでCDのまとめ買い。
基本はYouTubeで聞いて「これはやっぱり本物で聞かなくちゃ」というもの。
一応、心覚えに書いておく。
1.シューマン:交響曲全集 セル
2.メンデルスゾーン:イタリア、宗教改革 マゼール
3.ライヴ・イン・東京1970 セル
4.アレンスキー ピアノ音楽
5.セル指揮ハイドン
6.ドヴォルザーク:スラヴ舞曲(全曲)セル 
7.モーツァルト:ポストホルン・セレナード&アイネ・クライネ・ナハトムジーク他 ジョージ・セル
8.メンデルスゾーン:交響曲第4番「イタリア」、劇音楽「夏の夜の夢」&序曲「フィンガルの洞窟」 ジョージ・セル
9.美しく青きドナウ&「こうもり」序曲~ウィンナ・ワルツ名演集 ジョージ・セル
10.ドビュッシー:海&ラヴェル:ダフニスとクロエ第2組曲他 ジョージ・セル
11.夕べの夢想~ロシア・ピアノ小品集-3 トロップ
12.ロシアン・メランコリー~ロシア・ピアノ小品集-2 トロップ
13.モーツァルト:交響曲第28・33・35・39~41番他 ジョージ・セル
14.プロコフィエフ:交響曲第5番、キージェ中尉&ストラヴィンスキー:火の鳥 ジョージ・セル
15.グリーグ:ペール・ギュント、ビゼー:アルルの女、シューベルト:ロザムンデ ジョージ・セル
16.アルバムの綴り~ロシア・ピアノ小品集 トロップ
17.ドヴォルザーク:交響曲第7番~第9番、スメタナ:モルダウ他 ジョージ・セル
ということで、しめて2万2千円。
どうやっても1枚800円見当だ。これではどうやってもデフレだ。
だいたい買いたいものは買えたが、買えなかったのがイッセルシュテットのベートーベン交響曲全集とハンガリー舞曲。
絶版になってしまっているようだ。
逆にジョコンダ・デ・ヴィトーのブラームス協奏曲やリヒターのバッハなどは、ネットにアップロードされた音源で十分という感じだ。






クレンペラーBPOのブル7(1958 ルツェルン ライブ)
というのがあって、結局最後まで聞いてしまった。
音はひどい。聞くに堪えない。
しかしクレンペラーの棒に絡みつくようなBPOの演奏があまりに素晴らしい。普通のオケなら指揮者の要求する以上の音は出さないだろうが、このオケはそれ以上の音を出す。
クレンペラーといえば淫行騒ぎで新聞を賑わすムッツリスケベの校長先生のイメージ。BPOがそのクレンペラーをからかっているのだろうか。
前にも書いたが、マゼールの振ったメンデルスゾーンの「イタリア」と同じ雰囲気だ。オケが遊んでいる。
とにかくこの頃のBPOときたら、ジーナ・ロロブリジータかミレーユ・ドモンジョばりのグラマーだ。それで小技もケレンもたっぷりだ。下品になる前の木暮実千代か京マチ子、新しいところで草笛光子の趣。
まぁしかし、それにしても、この録音はひどい。
演奏する方も一期一会だろうが、聞く方も一期一会で、二度と聞きたいとは思わない。
でも一度は、歌舞伎町のボッタクリで美人局にあったつもりで聞いてみてください。


基本的には、前掲記事をひっくり返すようなものはない。(実は、その前に3回ひっくり返されて、そのたびに記事をボツにしている)

主要ではないが、矛盾する点をいくつか上げておかなければならない。

1.「新日本文学」1950年2月号の座談会記録

不勉強のため、こういう記録があった事自体が初耳で、伊藤さんはこれを目下のスタンダードとしている。

ただ私の参照した倉田稔さんの論文もこの記録を参照しているので、大きな齟齬はない。それに窪川稲子、原泉、江口、小阪らの証言はその後発表されたものが多いので、「座談会」と矛盾しても、その都度個別に判断するしかない。

貴司山治の動きは、個別に取り上げなかったが、新聞社と連絡をとって笹本を動かしているのが貴司だということが初めて分かった。また築地小劇場に行って各所に連絡したのは、原泉というより貴司の差金だったのかもしれない。

要するに築地班チーフが貴司、馬橋班チーフが江口という二人の非党員で現場を仕切ったことになる。これに対し、初動で活躍した大宅、青柳の名はその後出てこない。

2.写真の人物について

① 図像2がまず撮られ、ついで人を入れ替えて図像1が撮られた。

② 図像2は写真を撮るからといって、遺体と母親セキさんを中心に自然に人々が蝟集してきた生々しい雰囲気が生きている。

③ そのあと人々の配置を入れ替え、怒りと抗議の意志を示すポーズをとった関係者が図像1である。

と、伊藤さんは読みこむ。③はちょっと言いすぎかもしれない、両方を比べると、親族筋と江口さんが消えてその隙間に後ろの連中がせり出したというふうに見えるからだ。とすると鹿地亘がKYだが。

問題は人物の比定である。

まずは窪川稲子だ。窪川稲子に居られると困るのである。

fig1

fig1_2

これが、伊藤さんによる比定である。(多分先人が行なったものだろう)

fig2

fig2_2

私はこれは稲子ではないと思う。稲子は写真を見てこれは自分と思い込んだ。だから帰ったのは午前2時だったと時間合わせをしているのではないか。

帰りも一緒だったのなら、なぜそこに中條や壺井がいないのか。踏切の向こうで貴司らと行き合ったのなら、どうして一緒に写真に映れるのか。

と、一応疑問を投げかけておく。

ついでにタキさんの件だが、私は田口タキと比定されている女性は多喜二の姉ではないかと思う。そして後ろのちょび髭がその旦那ではないか。

小林家の養女にはなったものの、家出してしまった人間が、通夜の席でこの位置に座るか? という当然の疑問がある。セキさんが座らせたのだとすれば、それはそれであるが…

「女3人が来て激しく泣いた」というのは江口の述懐であるが、江口はふじ子が来るなり泣き叫んだところは見ていない可能性がある。

これについて記載したのは小坂である。しかし小坂は当然の事ながら接吻シーンは見ていない。

つまり江口は隣室にいて、ふじ子の泣き叫ぶシーンを三人の女が泣いたと勘違いしていたかもしれない。これ以上の当て推量は意味ないが…

それにしても鹿地亘が目障りだ。

「昭和前期の図像学」の紹介

もうやめようと思ったら、また文献が出てきてしまった。 

【資料紹介】 昭和前期の図像学 ガラス乾板から浮かび上がる群像

という論文。

2015年5月20日

占領開拓期文化研究会機関誌「フェンスレス オンライン版」 第 3 号  に掲載されている。

著者は伊藤純さん。あの写真の発見者である。

題名が題名だけに、グーグルではなかなか引っかかってこない。しかし論議の焦点にもろにかぶっているので、触れない訳にはいかない。

以下、関連する部分を抜き出していく。

Ⅰ 1933年2月21日深夜の〝小林多喜二〟

A ガラス乾板の発見

数十枚のガラス乾板(大名刺判〔6.5cm × 9cm〕その他)が、貴司山治の遺品の中から発見された。デジタル化してポジ像に変換してみると、いくつか、注目すべき画像が検出された。

小林多喜二虐殺直後の写真はいつ誰によって、どのような状況下で撮影されたものか記載されていない。

今回見出されたガラス乾板の中に、この写真のネガが発見された。さらにもう一枚、手ぶれと露出ムラの激しいガラス乾板も見出された。

この事実は、「新日本文学」1950年2月号の座談会記録と整合する。

(そこでは)記憶の錯誤や食い違いがいくつか現れてきているが、総体として虐殺直後の事態の推移がかなりよく復元されている。

B 座談会による事実経過

時事新報の記者だった笹本寅(つよし)が、新聞カメラマン(前川)を連れて関係者をフォローし事態の把握に重要な役割を果たす。

多喜二の遺体が引き取られ馬橋の自宅に安置されたのが二十一日午後十時頃とされている。

安置直後、医師安田徳太郎が詳細な検屍を行う。その時、屍体の外況が写真撮影されており、この写真も広く流布しているが、撮影の背景はやはりほとんど説明されていない。

立野信之は「笹本から屍体の写真をもらった」と発言している。笹本(の指示を受けた前田カメラマン)は二十一日深夜、まだ官憲の張り込みが甘かった時点で、安田医師の検屍に居合わせて遺体を撮影したことになる。

同じ座談会で、江口渙は、田口タキ、小林幸と、もう一人の女性が、遺体の「右手の枕許にずらりと一列に坐つて…一斉にワーッと声を挙げて泣いた」と陳述した。

これに対し貴司は「……その晩僕がとった写真があるが、女の人はおらんよ。」と発言している。

これについて伊藤さんは下記のごとく推測している。

江口が物語った三人の女性のエピソードはおそらく、貴司や千田がデスマスク作成の手配のために遅れて馬橋に帰ってきた、それより以前の時間に起こったことであろう。

C 貴司のうごき

伊藤さんは同じ座談会の記事から騎士の動きを抜き出している。

貴司は二十一日夕刻、夕刊報道で事態を知った。

まず時事新報に笹本寅を訪ねてフォローを依頼した。笹本は新聞記者で警察の警戒下でも比較的行動しやすいと考えたと思われる。

その後、貴司は築地警察署、前田医院、築地小劇場などを経巡って、集まった人々と事態の対応にあたった。

貴司は築地小劇場で原泉とともにふじ子に対応した。

原泉や貴司など居合わせた人々が、「多喜二の妻」などと名乗っていると警察にどんな危害を加えられるかわからないので、何とかなだめて馬橋の小林宅にとりあえず赴かせた。

おそらく直接対応したのが原泉で、相談を受けて貴司が新聞社(時事新報)に手配したのだろう。

その後貴司は千田是也などとデスマスク採取の準備のために別行動をとり、深夜に至って馬橋にたどりついた。

D 画像について

大名刺判のカメラはジャバラのついた大きなカメラで、三脚を使うのが普通である。当時の感度の低い乾板では相当の長時間露出が必要となる。

この二枚の写真に関しては、著しいライティングの偏りや、人物に強い影が出ていることなどから閃光電球(フラッシュバルブ)が用いられていると想像される。

図像2がまず撮られ、ついで人を入れ替えて図像1が撮られた。

図像2は写真を撮るからといって、遺体と母親セキさんを中心に自然に人々が蝟集してきた生々しい雰囲気が生きている。

そのあと人々の配置を入れ替え、怒りと抗議の意志を示すポーズをとった関係者が図像1である。

後は、通夜の場面と直接関係ないので省略。

注(5)

伊藤ふじ子: 「妻だ」と名乗って築地小劇場と馬橋の小林宅に現れ、壮絶な別離を演じていずこかへ消えた。

前記「座談会」での貴司、原、壺井栄の発言、ことに原の言葉はそれが誰であったか分かっていたと思われる文言も含まれている。(座談会の時点で伊藤ふじ子が再婚し平穏な生活を送っていることがわかっていたので、あいまいな言及になったと思われる)

占領開拓期文化研究会 senryokaitakuki.com

ふじ子はいつ来ていつ去ったのか

ついに見つけた、空白の1時間

これまでどうにもこうにも嵌めようのなかったジグゾーパズルのピースが、原泉と窪川稲子の証言でかなり見え始めた。

1.原泉の斡旋

原泉は次のように語っている。

築地小劇場で気をもんでいる原泉のところへ、一人の若い女性が近付いてきた。 「わたしは小林の女房です」 とその女性は言った。
原泉には見覚えがあった。左翼劇場に研究生と して在籍していた伊藤ふじ子であった。
原は 「シーツ」 と指で唇をおさえ、「あんたが女房だなどと言ったらどういう ことになると思うの」 と精いっぱいの思いで話した。
伊藤は「あの人に どう しても一目会いたい」 と言った。ちょ う ど取材のためどこかの新聞記者が車で来た。
「むこう'へ行って、なにもいわないでお別れしてらっしゃい」 と、原はふじ子に言い、新聞記者には、「すまないけどこの人を連れて行ってほしい」 と馬橋の小林家を教えた。

これは想像だが、ふじ子は多喜二死亡のニュースを聞いて、矢も盾もたまらず築地署に向かったのだろう。と言っても見物人の一人でしかなかったが。

そして目前で原泉が警察と激しく殺り合うさまを目撃した。やがて弁護士や医者も来て交渉の主役が移ると、原泉はその場を離れ、築地小劇場に戻っていった。

「何たる幸運!」

ふじ子は原と面識があった。彼女自身が新劇の俳優として舞台に立ったこともあり、それは原の知るところでもあった。

ふじ子はおそらく築地小劇場に戻る原泉の後を追いかけていったのだろう。そして必死に声をかけた。中身はきわめて直截である。

原は勘の良い人らしく、一瞬で事情を飲み込んだ。そしてとるべき態度を指示したうえで、ツテを使って小林宅へと送り込んだのである。そしてなおいくつかの連絡を続けた後、みずからも小林宅に向かうことになる。

こうしてふじ子は第1.5陣として小林家に到着した。

第一陣というのは寝台車に乗った母セキ、自宅で待機していた三吾と多喜二の姉、タクシーで寝台車を追った江口と安田医師ら、彼らに同行したかもしれない中条、佐多稲子、壺井栄ら。独自のルートでほぼ同時に小林宅に入った小坂夫婦である。

第二陣は、築地署から向かった貴司山治ら、石膏を買うのに手間取った築地小劇場・美術家のグループ、そして連絡を終えた原泉である。彼らが到着したのは12時過ぎと思われる。

その間に、同盟関係者以外の報道陣が独自に車で到着していた。その中にふじ子もいたという前後関係になる。

ふじ子が着くなり遺体に抱きついたというのは先着の第1陣が見た状況だ。小坂は度肝を抜かれ、セキは鼻白んだ。佐多、中条、壷井が見ているかどうかは定かではない。

2.なぜ江口とふじ子の二人きりになったのか

遺体は到着後ただちに検案され、その後清拭措置を終えて書斎に安置されたから、ふじ子が着くなり飛びついたのは11時前後のことであろう。第二陣のグループは見ていないはずである。

そこで江口の接吻証言だが、証言にもある通りこのシーンを目撃したのは江口ただ一人である。だから澤地久枝の言うように、これは江口の創作の可能性もある。しかし私は信じたい。

十一時近くになると、多喜二のまくらもとに残ったのは彼女と私だけになる。すると彼女は突然多喜二の顔を両手ではさん で、飛びつくように接吻(せっぷん)した。私はびっくりした。「そんな事しちゃダメだ、そんな事しちゃダメだ」。思わずどなるようにいって、彼女を多喜二 の顔から引き離した。
「死毒のおそろしさを言って聞かすと、彼女もおどろいたらしく、いそいで台所へいってさんざんうがいをしてきた。一たん接吻すると気 持ちもよほど落ちついたものか、もう前のようにはあまり泣かなくなった。

当初、「皆がいなくなってから」という表現から、通夜が終わってからの話かと思ったが、どうもそうではなさそうだ。夜11時前というとまだ第2陣が到着する前だ。その時にふじ子と江口以外に誰もいなくなった瞬間があった。

3.窪川稲子の「午前2時」は11時の誤り

そこで窪川稲子の「午前2時」証言が登場する。

稲子、百合子、壷井栄、安田医師らは遺体の検案・清拭を終えて、多喜二宅をあとにしたのだ。そして帰る。江口が「皆が帰る」というのはこのことを指す。

その道すがらに「踏み切りの向うで貴司や、原泉子や、千田是也などと行き合」っている。そして貴司らが多喜二宅についたのが12時だ。

杉並ピースウォーク(10) 馬橋の多喜二の家の跡

によれば杉並町馬橋 3-375(杉並区阿佐ヶ谷南 2-22)とある。

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二重丸のあたりと思われる。道路はいまの道路と随分違っていて、「中大プール」と書いているあたりが踏切のようだ。踏切を渡ってしばらく行ってから左折して駅の北口に出たのかもしれない。
 

イメージ 1

「(不吉な黒っぽい幌をかけた)車は両側に桧葉の垣根のある、行き止りの路地の手前で止まっていた」という小坂多喜子の文章が当てはまる光景だ。

話を戻す。

ということは、稲子らは午前2時ではなく、その3時間も前に家を出たことになる。彼女たちは明日の仕事のために帰ったのだから、省線の終電に間に合わすつもりだったはずだ。(駅で円タクを拾う手もあるが)

逆算すると、稲子らが家を出て「踏切の向こう」に達する時間、そこで行き合った原泉らが家に到着するまでの時間、これを合わせた時間が「誰もいない」時間だ。

この1時間足らずの間だ。

慌てた江口が「死毒」など口から出任せを言って、とにかく帰らせようとする。意外にもふじ子は素直に言うことを聞いて帰る。台所で口をすすいでいるうちに我に返ったのかもしれない。なにしろ周りはスパイだらけなのだ。

とにかくも、この多喜二の通夜にふじ子接吻のエピソードを押し込めるとするなら、そこしかないのである。

そして名残りおしそうに立ち去っていったのは、もう一時近かった。

写真を撮ったのが午前1時とすれば、ふじ子はその直前までいたことになる。

ふじ子が帰った後、第二陣がどやどやとやってきて、写生したりデスマスクを撮ったり写真を撮ったりと大忙しである。

今回の写真、三吾の肩に手をかけた江口の何食わぬ顔はなぜか笑ってしまう。もっとも江口の頭のなかはそれどころではなかったろうが。(江口は百合子と稲子が通夜に来ていたのを記憶していない)

 

 多喜二の通夜で、新たに発見された写真の解読

多喜二通夜3

困った写真が発見されたものだ。

ふじ子とタキさんを時系列の中にどうはめ込んで良いのか、あらたな混乱を招くことになる。

これで三連休が潰れることになる。

1.撮影状況を読む

まずこの写真(以下写真B)の評価から。

「赤旗」(2月22日号)の説明では貴司山治の遺族、伊藤純さんが父の遺品を整理中に発見したものだとされている。

既発の有名な写真(以下写真A)と同じアングルでほぼ同時に撮られたものと考えられる。前列右端の原泉と後列左の小坂多喜子が、2枚の写真の両方に同じ位置で写っているからだ。その差は数分程度と思われる。

これまで写真Aの撮影者は「貴司山治あるいは『時事新報』のカメラマン前川」とされていたが、これで貴司山治の撮影であることが確定された。

写真Bはフラッシュを使わず天井からの電灯の光のみを光源としている。このため画像はレンブラント効果を生んでいるが、長時間露光のため、かなりぶれている。

コピーによる劣化を考えてもかなりフォーカスは甘いが、奥の顔の鮮明度から考えれば、絞りは開放ではなくf8くらいはかけているのではないか。それで手ブレがないのだから手持ちではなく三脚を立てていると思う。

伊藤さんは「写真のぶれが衝撃の大きさを物語っている」と書いているが、写真Bがぶれたのは手ブレではない。画面左側から来客があったからで、一斉にそちらを向いている。とくに後ろの人がそっぽを向いている。三吾さんの顔が二重になっているのは露光1秒として0.8秒くらいの時点で来客がガラガラと入ってきたのだろうと想像する。

あつまった面々は、いつ警察が検束に来るかもしれないというのでソワソワしていた。(矢島光子)

おそらくその時に小林家に到着したのが鹿地亘、千田是也らであったろうと思う。彼らは上野壮夫(小坂の夫)とともに遺体の枕元に座り、腕組みして遺体を見下ろした。そこで貴司が二度目のシャッターを押した。

それが写真Aであったと思う。デスマスク取りや写生はその後始まったのではなかろうか。

なお、上野先生は前列左端がタキサンではないかと推理している。

可能性はないではないが、下記の経過表から見て姉ではないかと思う。姉は絶対来ているはずだ。セキさんが背中におぶったまま築地まで行った、その孫は絶対に引き取らなければならないからだ。そのとなり性別不明の人物は姉の旦那と考えたい。

(付記: 伊藤さんは写真Aと比較して鹿地亘だと判断している。そのほうが正しいようだ。とすると後ろのちょび髭が旦那か)

タキさんは翌日の葬儀に来ている(とされている)。妹やその友達を連れて来ているので、おそらく葬式の手伝いのつもりで来ているのではないか。

2.写真撮影までの動向

「小林多喜二の死の政治的意味」倉田稔という論文を骨にして、当日の経過を追ってみたい。

なお、下記のアドレスは本日(1月11日)はつながらない。以下はGoogleのキャッシュで拾ったものである。

barrel.ih.otaru-uc.ac.jp/bitstream/10252/464/1/ER_53(2-3)_21-45.pdf

20日

正午 多喜二、赤坂で街頭連絡中に捕らえられ、築地署に連行きれる。

午後5時 多喜二、“取調中に急変”。署の近くの前田病院の往診を仰ぐ。(江口によれば午後4時ころ死亡)

午後7時 前田病院に収容したが既に死亡していることが確認される。“心蔵マヒで絶命”とされる。

21日

正午ころ 東京検事局が出張検視し、死亡を確認。 

午後3時 警視庁と検事局、多喜二が心臓マヒによ り死亡したと発表。ラジオの臨時ニュースと各紙夕刊で報じられた。

大宅壮一、貴司山治などが築地署にいち早く駆けつけ、当局との交渉にあたる。

築地小劇場で死亡を知った原泉が前田病院にかけつけ、「遺体に会わせろ」ともとめ、 特高とはげしくもみ合う。大宅壮一と貴司山治に救出された原泉は築地小劇場に戻り、各関係者と連絡を取る。

多喜二の母セキは 杉並区馬橋の自宅にいて、ラジオを聞いた隣家の主婦から,知らされた。セキは預かっていた二歳の孫(多喜二の姉の子)をネンネコでおぶると、築地署へかけつけた。

夕方 セキが築地署に到着。この時遺体は署の近くの前田病院に安置されていた。当初、警察はセキを二階の特高室に閉じ込め、なかなか会わそうとしなかった。

夕方 江口は吉祥寺の自宅にいて、配達された夕刊で多喜二の死を知った。大宅壮一からの電話があり、馬橋のセキさんを伴れて築地署へ来いと言われた。ただちに馬橋に向かうが留守のため、阿佐ヶ谷から省線でそのまま築地署に向かう。

夕方 青柳盛雄弁護士らが築地署に赴き、遺体の引渡しを要求。さらに連絡を受けた安田徳太郎医師がやってきて警察と交渉。

午後9時 孫をおぶったセキが特高室を出され前田病院に入る。

午後9時40分 遺体とセキら親戚を載せた寝台車が前田病院を出発。江口らがタクシーで後を追った。同乗者は藤川美代子、安田博士、染谷ら4人。

10時半ころ 遺体は「幌をかけた不気味な大きな自動車」(小坂多喜子)に乗せられて小林家に到着した。

この時小林家では近親や友人達が遺体を待ち受けていた。小坂多喜子は車に僅かに遅れて到着した。

どこからか連絡があって、いま小林多喜二の死体が戻ってくるという。私と上野壮夫は息せききって…走っている時、幌をかけ た不気味な大きな自動車が私たちを追い越していった。…あの車に多喜二がいる、そのことを直感的に知った。
私たちはその車のあとを必死に追いかけていく。 車は両側の檜葉の垣根のある、行き止まりの露地の手前で止まっていた。奥に面した一間に小林多喜二がもはや布団のなかに寝かされていた(小坂多喜子の回想)

小坂と上野
        小坂と上野

ほぼ同時に江口、安田らのタクシーも到着。

セキの「ああ、いたましい…」のシーンがあった後、安田が検視を行う。

検視の介助には窪川稲子と中条百合子があたっている。検視の後、壺井栄らが遺体を清拭した。

午後11時 窪川稲子の回想: 事件を知った時点で、窪川は中条の家(下落合)で夕食をともにしていた。時刻には他の証言と相当ズレており、その原因は稲子の思い違いにある。到着時刻は10時半前であろう。

そして多喜二死亡のニュースを聞き前田病院へ電話をかけ、死体は自宅へ帰ったと知る。

午後十一時、我々六人 は阿佐ヶ谷馬橋の小林の家に急ぐ。家近くなると、私は思わず駆け出した。

玄関を上がると左手の八畳の部屋の床の間の前に、蒲団の上に多喜二は横たえられていた。江口渙が唐紙を開けてうなづいた。

我々はそばへよった。安田博士が丁度小林の衣類を脱がせているところであった。

お母さんがうなるように声を上げ、涙を流したまま小林のシャツを脱がせていた。中条はそれを手伝いながらお母さんに声をかけた。

江口によれば、この間に多くの人が駆け込んできた。(このあたり江口の記憶はごちゃごちゃになっている)

午前2時 窪川稲子の回想: 壺井や、乳のみ児をおいてきた私や中條などが安田博士と一緒に外へ出た。…踏み切りの向うで自動車が止まり、降りた貴司や、原泉子や、千田是也などと行き合った。(これは午後11時半のことであろう。窪川らが小林宅にいたのは1時間余ということになる)

22日 

午前0時 千田是也, 岡本唐貴、原泉らがタクシーで到着。 「時事新報」 社のカメラマンが多喜二の丸裸の写真をとり、佐土(国木田)が多喜二のデス ・ マスクをとった。岡本唐貴が8号でスケッチを描いた。(時事新報の写真撮影はもっと前、検視時だと思う)

午前1時 小林家の6畳の書斎に遺体が安置され、人々は遺体を囲んだ。この時貴司山治により2枚の写真が撮られた。この後の記録はないので、写真撮影の後まもなく解散したのだろうと思う。

江口によれば以下の如し。
告別式は翌日午後一時から三時まで。全体的な責任者江口渙、財政責任者淀野隆三、プロット代表世話役佐々木孝丸となる。
通夜の第一夜は何時か寒む寒むと明け放れていた。

午後1時 告別式。会葬しよう と した32名が拘束される。母セキ、弟三吾、姉佐藤夫妻、江口と佐々木孝丸だけが参列。


以上が、参加者の証言をつなぎあわせた経過の概要である。


死せる多喜二を巡ぐる群像

多喜二問題は一応の決着をつけたつもりだったが、上野武治先生からいろいろ聞かされて、とてもそういうレベルではないことが分かった。

改めて勉強させていただく。

まずは上野先生の論文の紹介から。

論文の題名はけっこう長いが、メインは下記の通り

大月源二の絵「走る男」が現代に問いかけるもの

北星学園大学社会福祉学部北星論集 2014-03

論文の冒頭には大月源二の絵「走る男」が掲げられる一風変わった論文である。

img1

この絵は治安維持法違反で服役した大月が出獄翌年の1936年に描いたものである。小林多喜二の鎮魂を目的に制作されたものである。

仔細は上野先生の論文をご参照いただきたいが、とにかく上野先生はこの絵から大月と多喜二にのめりこんだ。

大月は小樽中学時代から多喜二と付き合いがあり、1928年以降の他記事の小説の挿絵や装丁を手がけた。

大月は1932年に逮捕されていて、多喜二の虐殺時は獄中にあった。上野先生が注目したのは33年10月に仮釈放になったあと、「伊藤ふじ子の訪問を受けた」ことである。

これは「多喜二と私」という回想録の下書きに書いてあって、本文には書かれていないもののようである。

ここから先は上野先生の推論。

(ふじ子は大月が)保釈されたことを聞いて,多喜二との地下生活や遺体の様子,夫を殺された無念さを伝えに訪れたものと推測される。

ただ,ふじ子にとりこの訪問は危険を伴うものであった。大月は厳重な監視下にあり,転向した大月がふじ子と多喜二の秘密を守る保障もなかったからである。

しかし,ふじ子は大月を信頼した上で意を決して訪れ,多喜二の葬儀にも参加できず,怒りや悲しみを分かち合う相手もいない苦しみを伝え,多喜二を弔う気持ちを共有できたのではないだろうか。

そして、翌34年3月に森熊猛と再婚したきっかけもこの会見にあると推測している。(以上については小樽美術館の金蔵さんの調査を受けての記述と思われる)


以上が本文であるが、実はこの論文、注釈のほうが面白い。注釈を書くために本文を書いた趣がある。

謝辞 …貴重なご助言をいただきました大月耕平様(故大月源二様ご子息),篠崎木綿子様(故森熊ふじ子様ご息女)…に深く御礼申し上げます。

注釈3.「多喜二と私」の「下書き」の最後は、手塚英孝の文章の下書きで終わっている。大月が手塚の評価を受け入れていたことを示す。

注釈9.澤地は「接吻した」との江口の記載に懐疑的である。

しかし筆者は江口の方が厳しい地下生活を共に闘ったふじ子の様子をリアルに書いていると考える。

ふじ子がこうした激しく強靭な内面と行動力を持っていたからこそ,あえて大月を訪ね,かつ,自身や多喜二の遺骨・遺品を含む秘密,そして森熊家の幸せと平和を守りぬくことができたのである。

確かに上野先生に一理がある。それほどでなければ、あの状況で、ふじ子に遺骨が渡るわけがない。

注釈10.森熊猛(1907-2004年)は夕張出身で北海中学卒。21歳の時,北海タイムス募集の漫画が入選,喫茶店「ネヴォ」の佐藤八郎の紹介でヤップ北海道支部の結成に参加,1932年12月に上京しヤップの活動に参加。ただし大月との直接の接触はなし。

注釈13.「ネヴォ」は1928 ~ 1936年,北2条西3丁目に開店,クラシック音楽を流しており,文化人や学生,社会運動家が出入りし,東京でも知られていた。佐藤は小樽育ちで多喜二とも交流あり,ヤップ道支部長を勤めていた。
1930年12月の一斉検挙で逮捕され,1ヶ月半ほど札幌中央署に留置され拷問を受けた。

注釈21.多喜二の告別式で葬儀委員長として務めた江口は,告別式への参加者が片っぱしから検束され,「杉並署は検束者でいっぱいになり,道場まで臨時の留置場に使ったほどの大検束だった」と回想。ふじ子がどうしたなど、どうでもいい状況だった。

注釈24.子息の耕平氏に「走る男」を見ていただき、「目元が多喜二とそっくりです」とのご指摘を頂いた。


とりあえず、オランド挫折の簡単なまとめ(というより感想)

1.オランドと彼の公約はEUの希望の星だった。それは貴重な経験だった。

2.オランドはユーロ危機の荒波に飲み込まれた。オランドにはこれに対抗して政策を実現できるだけの手段がなかった

3.EUのシステム(マーストリヒト体制)はオランド改革に障害となって立ちはだかった(とくに財政自主権と通貨発行権)

4.国際競争力強化の掛け声と「高コスト体質」の非難のもとに、国民の生活レベルのダウンがもとめられた。それはミニドイツ化の道である。しかし賃下げ競争にフランスの未来があるわけはない。さらなる衰退と従属国化への道である。

5.オランドの敗北はフランス風のやり方の敗北であり、EUの当初理念(Another World)の敗北である。

6.ドイツの勝利はドイツ(旧東独、ポーランド、移民を含めた)の後進性のためである。ドイツ国民はみずからの賃金の安さと生活の不安定さを「勤勉と従順」と言い換えて、自慢しているようにさえ見える。

7.フランスの移民労働者に対する閉鎖性は、経済発展の障害となり社会不安の原因となっている。これについては早急な改善が必要だ。

8.EUなくしてドイツなし。ドイツの一人勝ちはメルケルの孤立であり、ドイツとEUにとって崩壊の始まりである。

9.EU存続のためには、グローバリズムの論理によらない再建が必要である。(モンディアリザシオンMondializacion)

10.そのためにはEUの民衆の国境を超えた連携が必要である。ドイツ以外のすべての国の民衆はそれを期待している。

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