鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

2015年12月

最初にヒットしたのが いいたい砲台 Grosse Valley Note というブログ。

ワルターはこの曲を1959年の11/16と11/18に録音しています。

ワルターはこのブルックナーの9番録音する数日前の11/12と11/13の両日、 同曲をロサンゼルスフィルと演奏していたようです。

BRUNO WALTER DISCOGRAPHY

というサイトには (probably the Los Angeles Philharmonic) と記載されている。

またこのサイトには、Los Angeles  Philharmonic November 12 or 13, 1959; Los Angeles (live performance)  • Source: Private collection という海賊盤があることも記載されている。

次が、geezenstacの森 さんのブログ。

録音/1959/11/16,18 アメリカン・リージョン・ホール ロス・アンジェルス  P:ジョン・マックルーア

となっている。

「決してこの曲のベスト盤には入ってきませんが」というとおり、たしかにオーソドックスな演奏とは言えないが、「こちらのほうが正当だ」と主張しているようにも思える。

ところで、今度は7番のほうが気になる。残念ながら日本語の文章には見当たらない。

Recorded On: 11.13.19.22.27/3/61 at American Legion Hall

となっており、同じホールでの録音だ。技師が違うのだろうか。

なおニューヨーク・フィルとの演奏は

December 23, 1954; Carnegie Hall (live performance)

となっており、Testament SBT 1424 というCDがあるそうだ。

この録音とは直接関係ないが、第8番ワルター&ニューヨーク・フィルというページに、下記のような記述があった。

1941年1月のニューヨーク・フィルハーモニーとのライブ録音があるらしい。その試聴記である。

この演奏はとにかく独特である。デフォルメが凄い。…落ち着きは全くなくテンポをいじりまくる。…本来なら「邪道」「却下」と言いたいところだが、ここまで突き抜けてしまっていると却ってサバサバする。それどころか妙に魅力的なのである。…こんなハチャメチャ演奏してて委員会とは言いたくなる。

 

フォステックスのDAC(HP-A8)にはSDカードのスロットがついていて、ここに音源を入れるとパソコン無しで再生できることになっている。

SDカード1枚で1フォルダあたり30ファイルが入り、そのフォルダが15個作れるそうだ。つまり連続演奏であれば長さに関係なく450曲入ることになる。SDは85GBある。

モーツァルトのピアノ協奏曲ならCD12枚だから、十分お釣りが来る。

しかしまだやってない。CDはExactAudioCopyでFLACファイルにしてハードディスクに入れたのだが、DACのフォーマット対応はDSD、WAV、AIFFのみだ。

それでFLAC→WAVとCD→WAVのどっちが速いか考えている。

とりあえず、FLAC→WAVのコンバーターを探してみた。

FLACdrop

というフリーソフトがあった。ちょっとセッティングが面倒だが、出来上がれば後は簡単でドラッグ・アンド・ドロップでスイスイ行ける。

ただあんまり使いみちはないソフトかもしれない。

面白い表を見つけた。出典は杉野圀明「戦後期における日本資本主義と生産力基盤問題」という論文。立命館大学の先生らしい。

元ネタは経済企画庁の発行した「戦後経済史」という本だ。

生産設備

前の記事でも書いたように、生産にはヒト、モノ、設備が必要だ。基幹産業であれば、人はある程度確保されていたろう。しかしモノは原料、エネルギーをふくめ皆無に等しかった。そこで問題はヒトとモノさえ確保できれは生産再開が可能だったかということになる。

それが上記の空襲被害率だ。本格的に空襲が始まった昭和20年初頭から7ヶ月の間にどれだけの設備がやられたかという表である。

火発は3割がやられた。石油精製能力は6割が失われた。どういうわけか肥料工場が徹底してやっつけられている。

これに対して製鉄工場の被害はゼロということになっている。水力発電もゼロだ。その他はアルミ、工作機械、自動車、セメントが20%台とやられている。

これは日本側の資料だが、毎日新聞によると終戦直後に「アメリカ合衆国戦略爆撃調査団」という調査グループがきて、空爆の効果を調べているそうだ(未見)。

空襲効果
これだけで云々するのもなんだが、意外と設備は残っていることが分かる。逆に言えば日本は原料・エネルギー不足で操業停止に追い込まれたことになる。

つまり空爆というのは、産業構造破壊には意外に役に立っていないということだ。むしろ国民に恐怖を与え苦しめるという心理的効果のほうが大きかったのではないか。

しかし、もしそれがわかってやったとすれば、これは非人道的作戦で「人類に対する罪」を構成することになる。

いずれにせよ、日本を敗戦に追い込む上でもっとも効率的だったのは、機雷封鎖と輸送船攻撃による経済封鎖作戦だったことになる。

書評欄に尾崎左永子さんの歌集「薔薇断章」が紹介されている。
5首が紹介されているが、その中から3首引用する。

いつの日も やがては海に吸われゆく 街川の水 冬日に光る

茅原(かやはら)は光乱して吹かれゐき 蜻蛉(あきつ)は宙に とどまりながら

禱(いの)るべきこと おほよそは無きままに 永く 掌を合はす時あり 今は

三枝さんという方が評しているが、必ずしも同感できない。
一首目と二首目は光の詩で、しかも秋であり冬である。透明な、乾いた、明るいのに温かみの感じられないLEDみたいな光だ。
1首目は、「街川」と「冬日」がダブルで造語・濃縮されている。この凝縮された叙景に、どう上の句をつけるかだ。そこで「吸われゆく」という言葉が作られた。そして「いつの日」と「冬日」があやうく説明にならず、リズムになる。かなり人工(つくりもの)的な歌といえる。「吸われゆく」が感じ取れるかどうかが分かれ目だ。私などは下賤だから、吸われゆくというと便器の水が、最後にゴボゴボと音を立てて吸われるさまが思い浮かんでしまう。
2首目も「ウーム」と唸る歌だ。アシやヨシでなくカヤというのは、私の子供の頃の情景にはない。山家(やまが)の風情だ。逆光で見ているから光が乱れるので、そろそろ日暮れ時の情景だろう。カヤが揺れるさまは「そよそよ」という感じではあるまい。
「吹かれゐき」が分からないが、「ゐき」は「逝き」を念頭に置いているのだろう。普通は草が動かず、蜻蛉が動くのだが、この情景では逆になっている。カヤが「吹かれゐく」のに、アキツが留まるのである。
これも頭のなかでこしらえた情景に思える。
失礼ながら、この婆さん、まだ悪達者なところがある。「おほよそは無い」と自分では思っていても、どうして、まだ芯はナマだ。枯れるにはヨクもアクも残っている。そのうち「最後の歌集、その第三弾」が出るかもしれない。


  議論の中間まとめ

1.復興の原動力は外因か内因か

議論をおおまかに分けると復興の原動力をアメリカの支援に求めるか、日本自身の再生力に求めるかということになる。とりあえず外因説と内因説と名づけておく。

どちらも一理あるのだが、どちらかと言えば内因説は後ろのほう(朝鮮戦争・講和以降)まで引っ張って論じる傾向がある。したがってこの問題を論じるときは戦後前期と戦後後期に分けて話すのが良いようだ。

2.戦後をどう区切るか

すると、どこで分けるかがまた問題になるが、一応朝鮮戦争開始までを前期、そこから昭和30年の「戦後は終わった」宣言までとするのが区切りが良いのではないか。同じように高度成長期も神武景気・岩戸景気からなべ底不況までを前期とし、東京オリンピックからオイルショック(第二次)くらいまでを後期と考えるのが妥当であろう。

3.戦後前期はどういう時期だったのか

復興というが、この時期は厳密な意味で復興期とはいえず。終戦から半年くらいは旧システムの瓦解期ともいうべきで、本当の奈落は昭和21年の夏くらいから22年いっぱいくらいにやってきた。

それなりに上向きかけるのは、アメリカによる各種のテコ入れが始まっていこうのことである。そして急速な景気の持ち直しがインフレを呼び、財政・金融が破綻しドッジプランが導入されるにいたり二番底を迎える。これが昭和24年のことである。

すなわち終戦後から朝鮮戦争までのわずか5年間が、墜落期、谷底期、インフレ期、緊縮期という4つの小区に分かれるのである。

日本の経済はこういう経過を辿りつつ復興に向かった。そういう意味では戦後前期というのは厳密な意味での復興期ではなく、崩壊寸前の限界をくぐり抜けた復興前期と呼ぶべきかもしれない。

4.戦後前期はどういう時期だったのか…つづき

戦後前期は、国家存亡の危機ともいうべき限界期だったのだが、同時にそれは政治構造と経済システムに根本的な変革が加えられた時期でもあった。

だから多くの論者が、この時期に行われたさまざまな変革を取り上げて、「これこそが復興の決め手だった」と主張している。

しかし一般的にはこの手の変革は後から効いてくるものであり、当座の役には立たないものが多い。それどころか、短期的には混乱に拍車をかける危険すらある。

例えば引揚にしても、わずか1年余りで数百万もの人間を身一つで送還するのは、アメリカからすれば「棄民」に近い措置である。

だからGHQが行ったさまざまな方策は、①当面の危機回避の手段としての対策と、②日本の政治・経済システムを枠付けた構造政策とに分けて評価しなければならない。とくに危機回避手段の中でどれがもっとも有効であったかという視点から評価しなければならない。

それらの政策コンプレックス(カンフル剤)こそが日本を破滅から救ったといえるだろう。

5.戦後前期における内因の評価

実はこれが一番難しい。さまざまな論者が様々な意見を挙げているが、多くは抽象的で、「精神」的ですらある。江戸時代からの伝統とか、明治維新の力とか言っても始まらない。「中国4千年の歴史」が中国人の戦いに何の役にも立たなかったのと同じである。

ゼロ戦とか戦艦大和の技術力とか言うが、むしろそんな程度で自慢しいてたのが恥ずかしくなるほどの技術力格差だった。「三等国」としての自覚、それを自覚したのが、戦後経済成長の出発点だったのではないか。

しかし、これまで言われていたようにすべてがアメリカ頼みだったわけではなく、かなり「残存体力」も物を言っている思う。

要はその辺りを具体的に数字で評価する必要があるということだ。とはいえ、目下のところそれ以上の情報はない。

ある意見で、「戦争での工場などの損害は40%です」というのが初耳だった。6割残存を「健在」と見るかどうかは別の話になるが、昭和21年5月に八幡製鐵の工場が健在で操業していたのには驚いた。周囲はまったくの焼け野原だが。

6.愚かな戦争政策の終結

これもある意味で内因だが、戦争が終わった事自体の効果を見ておく必要がある。つまり「悪い内因」、本土決戦を呼号する「狂気」が消失したということだ。

生産には人、モノ、設備(生産手段)が必要だ。日本全土が潜水艦と機雷で海上封鎖されており、船舶も底をついていたから、モノはまったくない。しかし他のものが揃えば生産再開のスタンバイはできていることになる。

戦争が敗戦に終わったのは戦争政策が愚かだったからで(もちろん戦争そのものが愚かではあるが)、ある論者は次のように喝破しており、説得力がある。

日本が太平洋戦争に敗れた理由 1.英米を敵に回したため技術の移入が止まった。2.軍事優先の予算による財政圧迫。3.大陸の利権にこだわって近隣の国家、ついには英米をも敵に回した。

7.まとめ

政治的要因は意識的に排除して論じているので、実際にはそう単純ではない。しかし戦後経済発展の出発点として戦後前期を評価するときには、この辺りでのコンセンサスを形成しておく必要があるのではないかと思う。

最後に、ある論者の感想を引用する。すごく共感するところがある。

戦後の日本は荒廃し誰もが貧乏でした。そんな時外国(米国)映画を見ると車や若者の格好など豊かな姿をうらやましく見ていました。
自分たちもあのようになりたいという欲望を国民皆が持ちました。その欲望が活力となり、まじめに働いた結果だと思います。

戦後の経済復興・成長の土台についてどんな説があるのかを紹介してみたい。

といっても難しい論文をいくつも読んで論評しようと言うのではない。

教えて! goo

の「解答」を並べてみただけだ。いわば床屋談義の集大成ということだ。「諸説」の「」はそういう意味だ。

文字通り諸説紛紛というか、百花繚乱というか、人それぞれだ。

戦後の経済困難がいかに克服されたか、という問題と、その後の高度経済成長を可能にしたものが混同されてる傾向がある。若い世代にとっては当然だろう。

また、現在の時代閉塞の状況と比べ高度成長の時代を憧れを持って見つめている雰囲気がある。我々世代の実感としては「よくやった」説ではなく、「うまく行っちゃった」説に傾くのだが。

まずはかたっぱしから挙げてみて、その上でいくつかの傾向にまとめられるものならまとめてみたい。


1.明治維新における身分制度の廃止

理由: 学歴をベースにした公平な社会が、適材適所を達成した。高い識字率を通じて国の意向が全国民に届いた。

2.高い貯蓄額、輸出主導と保護貿易、海外模倣と応用研究偏重、国防費負担の節約

ちょっと各論的話題も含まれるが。

3.インフラが健在だった

理由: この中の「戦争での工場などの損害は40%です」というのが初耳だった。6割残存を「健在」と見るかどうかは別の話になるが、昭和21年5月に八幡製鐵の工場が健在で操業していたのには驚いた。周囲はまったくの焼け野原だが。

4.東西冷戦の間で儲けた、憲法9条(平和の分前)、勤勉な国民性、財閥解体と農地解放による機会均等

理由: これはライシャワーの意見の紹介だそうだ。

4.安価な原油、金融市場の安定、平等な社会など8条件

理由: 記載なし

5.江戸時代からの蓄積

理由: ソフトは自前、ハードの技術を世界から取り寄せ接ぎ木しただけ。

6.上部構造の破滅がプラスに働く

理由: 人口集積地が「焼け野原」になり、既存の構造物や既得権益が殆ど0になったから。

7.アメリカとの同盟

理由: 戦後初期においてアメリカからの基礎知識、技術の導入が可能だった。

8.大量生産技術の導入(アメリカから)

理由: 高い教育水準、導入を阻害する既得権益者の焼失、導入を可能にする戦前からのシステム、低賃金

9.(羅列だが重複しない部分)1ドル360円の国際為替レート、米国の核の傘、労使関係、トランジスタなど技術供与、自民党単独政権で政治的安定、

10.(羅列だが重複しない部分)世界平和と自由貿易体制、人口が増えたこと、教育の質、旺盛な消費志向、株主の感覚の違い、

11.反共の防波堤としての育成

理由: アメリカは意図的な日本優遇策をとった。プラザ合意で終了。

12.高貯蓄率

理由: 先進国の総貯蓄のおよそ6割は日本。国内に貯蓄と言う形で資本が存在していた。国際収支(資本収支)は気にしなくてよかった。

13.軍事費(防衛費)GNP1%の壁。

理由: 不況のときは.無駄遣い(再生産されない消費)が必要ですが.好況の時の軍需費は経済発展の妨げにしかなりません。

14.アメリカ(豊かさ)へのあこがれ

理由:(この文章は秀逸なので、そのまま転載) 戦後の日本は荒廃し誰もが貧乏でした。そんな時外国(米国)映画を見ると車や若者の格好など豊かな姿をうらやましく見ていました。
自分たちもあのようになりたいという欲望を国民皆が持ちました。その欲望が活力となり、まじめに働いた結果だと思います。

15.愚かな政策の終結

理由: 日本が太平洋戦争に敗れた理由 1.英米を敵に回したため技術の移入が止まった。2.軍事優先の予算による財政圧迫。3.大陸の利権にこだわって近隣の国家、ついには英米をも敵に回した。

16.ハイパーインフレ

理由: 戦時国債を解消してしまった。円が他の通貨に比べて大幅に値下がりしたため輸出がしやすくなった。

17.アメリカに占領された幸運

18.戦災による設備のスクラップアンドビルト

19.朝鮮戦争特需

1950年から1952年までの3年間に特需として10億ドル(3600億円)。当時の日本の国家予算が8千億円。

20.ガリオア・エロア 「ララ物資」「ケア物資」

1946年から51年にかけて、約6年間にわたり日本が受けたガリオア・エロア援助の総額は、約18億ドル。そのうちの13億ドルは無償援助(贈与)であった。

ガリオア資金:米軍予算の一部を使って、旧敵国の民主化復興を支援するために設立され占領地救済政府基金(GARIOA:Government Appropriation for Relief in Occupied Area Fund)、、食糧・肥料・石油・医薬品など生活必要物資の緊急輸入という形で行われ、日本では、当初は貿易資金特別会計に繰り入れられ、貿易の補助金と して日本政府の裁量で運用されていたが、1949年からはドッジ・ラインの枠組みの中で西ドイツと同様に見返り資金としての計上を義務付けられた。
 エロア資金:占領地経済復興基金(EROA:Economic Rehabilitation in Occupied Areas)石炭や鉄鉱石、工業機械など生産物資の供給、綿花や羊毛などの輸入原料購入に充てられた。

「ララ物資」LARA(Licensed Agencies for Relief of Asia:公認アジア救済連盟) 戦後、日本を救済するために、アメリカはもとより、カナダ、中南米の各地から集まった資金や物資を一括し対日救援物資と して送り出す窓口として、1946年6月に結成されたNGOが、「ララ:LARA」であった。 そして同年11月、アメリカの有力NGOの協力を得て、輸 送を開始し、全てのララ物資は無事横浜港に到着したのである。
(推定では当時のお金で約400億円相当)
「ケア物資」 1945年の終戦直後、戦後、救済のために、アメリカで設立されたNGOの一つに「ケア」(CARE:Cooperative for Assistance and Relief Everywhere)があった。「ケア」は1948年にヨ-ロッパ以外ではじめて日本に事務所を開設し、救援活動を開始した。 1948年から55年に かけて、日本などに送られた「ケア物資」は金額にして5000万ドル(当時では180億円、現在の貨幣価値に換算すれば約4000億円)に達した。 その 内容は、食料品、菓子、コーヒー、紅茶、砂糖、および石鹸など日用品も含め多岐にわたるものであった。 このケア物資によって助けられた日本人は小中学生 をはじめ1,500万人に上った。

21.日本の高級官僚の権限の大きさ

内務省は解体されたが、その一部は経産省などで残っている。戦争協力官僚はパージされたが、殆どはそのまま居座った。

逆に公職追放で若い官僚が進出したという意見もある。

22.「吉田ドクトリン」なる伝説

23.共通規格化

朝鮮戦争の時に占領軍から共通規格化の指示があり、アメリカとの共通規格化が実現した。

戦争が終わったとき、これが払い下げられて、日本は最新の製造設備を獲得した。

東京タワーは朝鮮戦争のあとアメリカ軍が払い下げた戦車を溶かして作った(ほんまかいな?)

24.主要国の戦後賠償の放棄

第一次世界大戦でドイツに対して課した高額な賠償がドイツを戦争に走らせた要因となった反省から。

そのため敗戦国でありながら復興に必要な資金を確保できた。

25.第二の文明開化 三等国としての自覚

①ミッドウェーの電探(レーダー)性能差による敗北→②飛び石作戦によるB29大挙襲来→③長崎、広島の原爆→④敗戦→⑤日本人による日米生産能力差の認識→⑥戦後復興⑦→科学繊維の開発→⑧高度成長→⑨→日米基礎研究投資の差を認識、日本の国家予算による基礎研究重視

次は 疲れてきたので簡単に。

YAHOO 知恵袋

1.復興資金の提供

領地域救済政府基金(1946年)、ついで占領地域経済復興基金が供給された。双方の合計は現在価値で12兆円。

他に技術提供も行われた(どんな?)

2.既存構造の破壊による最適化

3.(結果として)インフラへの集中投資となり、投資効率が良かった

4.海外領土は赤字の要因であり、これを失ったことで効率化

5.ブレトンウッズ枠組みで自由市場へのアクセスが可能になった

戦争による人的被害は一般国民を含め268万人、人口の4%

資産的一般国富の被害は、生産財、消費財、交通財、建築物を含めて全体の25%にのぼり、終戦時の価格で 653億円といわれる。

戦災で失った住居家屋は220万戸、強制疎開を含めると戦前約1,400万戸の住居家屋は1,135万戸に減少していた。

明治以後 拡大した領土は失われ、ここに海外からの復員者・引揚者約600万人を受け入れての再建であった。

6.ドッジプランによるインフレの終息

7.進駐軍特需

占領軍のための飛行場の新設・整備、兵舎や家族用住宅の建築、高級将校用の接収住宅の改築など

 一面では詳細な仕様書、機械化工法、近代的管理、進んだ設備、安全衛生など多くのことを学ぶ機会

 

復員・引揚という形でわずか2,3年のうちに600万(国内人口の10%)の人口増加をきたした。更にそれに並行する形でベビーブームが起きた。

これらの人口増加が戦後の経済発展にどのように影響しているのだろうか。

少しネットで調べてみたが、あまりこの手の文章はない。

むしろ戦後の経済発展を説明する文章が、なぜかしらこの問題と避けているような様子さえ伺える。

これはいったいどうしたことだろう。

思い出してみると、確か小学生の頃は「日本は狭い国土に過密な人口を抱えている。資源もほとんどない。だから貧しいのであって、ここから抜け出すには外国との貿易を盛んに行い、各人が刻苦勉励して稼ぐしかないのだ」と教えられたような気がする。

そしてアルゼンチンの大草原の写真を見せられて、「穀物が無制限に実り、牛がどんどん育つ、毎日草履みたいなステーキを食っている、こういう国こそ豊かな国というのだ」と言われて、なにか納得した記憶がある。人口の多いのは豊かさの印ではなく貧しさの印なのだ。

肉屋に買い物に行かされて、豚肉を100グラム40円位(今の金銭感覚だと800円位?)で買った。それをカレーに入れて一家6人で食べるのだ。いま考えると、それはまさに貧しさの印だ。

話がそれた。

つまりこの頃は人口が多いということは決してポジティブには受け止められていなかった。戦後の経済発展の要因として豊富な人口資源が上げられないのは、この頃の教育の後遺症かもしれない。


ということで、記事の見出しは「引揚者は戦後の発展にどのように貢献したか」としたが、その答えは「目下不明、仔細検討中」ということになる。あしからず。

これまでの勉強で、①戦後引揚は空前の、ほとんど奇跡的と言っていいほどの民族大移動だったということ、②それがGHQの強力なイニシアチブのもとに行われた準軍事作戦だったということ、については理解ができた。

しかし3つめの問題、日本がそれをどのように受容したのかということについては、未だ理解が深まったとはいえない。以前浮浪児の勉強をした時に、浮浪児のかなりの部分が引揚者の子供だったことについて知っている。

彼らがさまざまな苦難を味わいつつ、どのように日本に適応し順化していったのかは、まったく未知のテーマである。(同時代者としてはお恥ずかしい限りであるが)

安岡健一さんの引揚者と戦後日本社会 という文献を見つけたので、紹介がてら抜き出してみる。

なお見出しは、我ながらちょっと大仰だと思う。ご勘弁を。

1.日本政府は嫌々ながらに受け入れた

日本政府は当初「現地定着方針」,つまり在留者はそのまま現地に止まるべきだという方針を打ち出していました。

「出来得る限り,現地に於て共存親和の実を挙ぐべく忍苦努力すべし」(8月31日の終戦処理会議)

ありていに言えば養育放棄だ。「忍苦努力」とは良くも言ったものだ。

2.GHQではなくアメリカ本国がイニシアティブをとった

GHQはポツダム宣言を履行するため軍の復員と解体を急いだが、民間人の帰還はその後と考えていた。

1845年の末にアメリカ本国の政府の方針が転換した。政府内で、中国大陸に日本人が存在し続けることへの警戒感が高まったためと言われる。

それを受けてGHQも日本人の「早期全面引揚」を実施する方向で動いた。

日本政府は最後の段階まで受入れに向けて自発的に行動せず,外地居住者の現地定着方針を維持し続けた。

3.引揚者は無産者だった

「日本」へ持ち込み可能な資産は一人1000円以内に制限された。それまでの財産は凍結された。

この大量の人の移動を受け止める時の条件は,まさにこれらの人が何も持っていなかったというところから始まるのです。

4.引揚者はよそ者だった

すなわち戦後日本の領域以外のアジアに暮らした経験があり,その意味において戦後日本社会においては「他者」であった,…「他者性」を強く帯びた存在であった。

ちょっと文学的表現だが、本音で言うとこういうことだ。

外地帰りの人はそれぞれの行った先で、それなりに「いい思い」をしていた。知識もあるし、皇国史観一色ではない。東京の子が田舎に疎開したのと同じで、お互いに馴染めないのである。

5.引揚者は怒っていた

彼らは周囲の状況が不穏になるに連れて、「帰心矢のごとき」状況で戻ってきた。

のではあるが、一面では急かされて身ひとつで、いわば「強制連行」のような形で連れ戻されたという側面もある。

GHQは連れてくれば仕事は終わり、政府はあからさまに迷惑顔、世間も自分のことで精一杯、という状況に引揚者はいきなり突き落とされた。「いま浦島」である。

彼らは「戦争の犠牲を(すべての国民が)均分化すべきだ」と主張しました。そしてこの理念に連なる個別の要求として「未帰還者の早期帰還」とか「生活保護の適用」「在外資産の補償の要求」等が出てくる形になります。

そして、出身地ごとに組織され、集団として声を上げるようになる。それ以外に実を守るすべはなかった。

1948年末から49年にかけてメディア上に「赤い引揚者」という言葉がしばしば登場します。

というのも、こういう背景があったからであろう。

6.もっとも深刻な住宅問題

1948年の時点で,京都府には引揚者約7万人,27000世帯が暮らしていました。その内約4000世帯が住宅を持たず収容施設を必要としていました。

当時の行政が,収容施設の運用によって対応できたのは,この内,わずか3割程度に過ぎませんでした。

ということは2800世帯が宿なし・ルンペン生活か物置ぐらし家族バラバラぐらしをしていたことになる。全体の1割強だ。京都でこうなら、ほかは推して知るべしだ。

7.「引揚者」の抹消

1950年以降,政府は「引揚者」の抹消に向けて動き出す。

引揚者は行政の「援護対象として考慮しない方針」からさらに進めて、引揚者寮を整理する方針が国から示された。

引揚者への対応変化は,占領の終結後に軍人恩給が復活し,旧軍人に対する援護が着々と整備されていくことと対称的です。

こうして敗戦直後に存在したさまざまな団体は,49年以降,大半が解散していく。

驚いたのだが、引揚者団体全国連合会

はもはや存在しない。このリンクはもうつながらない。
東京都千代田区永田町1-11-28相互永田町ビル2Fという住所はあるが、つながらない。

中国帰還者

公式のものとしてはアジア歴史資料センターの「公文書に見る終戦 -復員・引揚の記録-」というもの。

意外と言っては失礼だが、ウィキペディアの「引き揚げ」の記事が要領よくまとまっており、全体像の理解に役立つ。上のサイトもこの記事のリンクで初めて知った。「引揚者」という同種の記事もあるが、個別の人物にも焦点を当てているためにやや散漫な印象がある。

率直に言って、多くの記事は引き揚げについてと言うより引揚者の手記のようなものが多く、PDF論文も各論の迷路に入りこんだものがほとんどだ。

さらに右翼の諸君の記事はことさらに感情的で、一方的だ。


終戦時海外にいた日本人は、軍人350万人、一般邦人310万人であった。この内一般法人が「引揚者」と呼ばれ、軍人は「復員兵」と呼ばれた。 しかしその人達を載せた船はいずれも引揚船と呼ばれている。

「引揚者に対する特別交付金の支給に関する法律」(昭和42年)で「引揚者」の定義が行われている。

「外地」(日本本土以外の地域)に1945年(昭和20年)8月15日まで引き続き1年以上生活の本拠を有していた者で、終戦に伴って発生した事態に基づく外国官憲の命令、生活手段の喪失等のやむを得ない理由により同日以後日本に引き揚げた者

しかし、基準にはまらないケースが数多くあるため、3つのケース(内容略)が引揚者として扱われた。


昭和20年(1945年)

45年8月

8月 ポツダム宣言が発表される。日本軍の即時武装解除と早期本国帰還を一連の措置としてもとめる。いっぽう民間人帰還については触れられず。

8月14日 外務省、在外公館に対し「三カ国宣言受諾に関する訓電」を発する。「居留民はできる限り現地に定着させる方針」を指示。

8月15日 終戦(ポツダム宣言受諾声明の発表)。この時点で軍人・民間人計660万人以上が海外に在住していた。

陸軍が308万人、海軍が45万人。一般人300万人。
軍管区別では中国312万人(47%)。ソ連(旧満州ふくむ)161万人(24%)。英蘭74万人(11%)。オーストラリア(ボルネオ、英領ニューギニアなど)14万人(2%)。アメリカ(沖縄などふくむ)99万人(15%)

8月21日 総合計画局および内務省管理局が在外邦人引揚の計画を立案することが決まる。(実際にはまったく計画は進行しなかったようである)

8月22日 樺太からの引揚者を載せた小笠原丸・泰東丸・第二新興丸、増毛町沖において、国籍不明の潜水艦の攻撃を受ける(後にソ連軍潜水艦であったことが判明)。小笠原丸・泰東丸が沈没。3隻で約1700名の犠牲者を出す。

8月23日 朝鮮に向かう引揚船浮島丸、舞鶴湾港外において触雷・沈没。524名が死亡。

機雷の触雷事故としては、45年だけで、この他室戸丸(10月7日神戸・魚崎沖 死者355名)、華城丸(10月13日神戸港沖 死者175名)、珠丸(10月14日壱岐島勝本沖 死者541名)がある。

8月23日 ソ連、残留日本兵のシベリア抑留(強制労働)を決定。

8月28日 横浜に米軍が進駐。朝鮮在留日本人送還のため、釜山と仙崎・博多を結び興安丸、徳寿丸の運行を許可。

8月30日 次官会議、外地および樺太在留邦人の引揚者に関する応急措置要綱を決定する。

45年9月

9月01日 興安丸が釜山に向け仙崎を出港。翌日には引揚者7000人を載せ仙崎に入港。引揚船第一船となる。

9月03日 100総トン以上の船舶がGHQ総司令部の指揮下に入る。

9月07日 「外征部隊および居留民帰還輸送等に関する実施要綱」が閣議で了解される。「現地の悲状にかんがみ、内地民生上の必要を犠牲にしても、優先的に処置する」ことを指示。(この項については9月20日の記事と食い違いあり、少し検討が必要。)

9月15日 氷川丸が舞鶴を出航。軍人・軍属(約2千人)の救援のためマーシャル諸島のミレ島に向かう。

氷川丸(NKK)と高砂丸(OSK)の2隻が日本に残された外洋航海可能な船舶だった。ともに特設病院船として艤装されていた。(別記事に掲載)

9月18日 引揚者上陸港(10ヶ所)が指定される。舞鶴、浦賀、呉、下関、博多、佐世保、鹿児島、横浜、仙崎、門司。(記事からは誰が指定したのか不明)

9月20日 「外地から内地に引揚げる者…に対する応急援護のため」都道府県に引揚民事務所を設置することを決定。(帰郷した引揚者への内務省レベルの対応であろうか?)

9月24日 次官会議、海外邦人帰還に関し、「極力海外に残留せしめるため、その生命財産の安全を保障する」ことを決定。

連合軍は「日本陸海軍の移動に第一優先を、民間人の移動に第二優先を附与すべし」と指示したとされる。

45年10月

10月03日 アーノルド軍政長官、在朝日本人の本国送還を発表。これを機に、民間人の引き揚げが本格化する

10月10日 GHQ、佐世保などを引揚受入港に指定。引揚事務所を設置する。

10月14日 済州島からの引揚第一船が佐世保に入港。陸軍部隊9997人が上陸。(良く分からないが輸送船1隻に1万人も乗るだろうか。スッポンポンでもあるまいに)

10月15日 GHQ、引揚者の受け入れのため受入事務所の設置を指令。引揚に関する中央責任庁として厚生省が任命される。(GHQは内務省を解体し、あらたに引揚者のためのシステムを立ち上げたとみられる)

10月16日 GHQの細部指令。海外日本人の本国送還に関する方針、引揚のための船舶確保等について指令。

GHQ・極東海軍司令官の下にSCAJAP(Shipping Control Authority for Japanese Merchant Marine)が設立される。100トンを超える船舶の運航や船員管理にあたる。氷川丸などの病院船運行もSCAJAPが管理する。

10月22日 厚生省社会局に引揚援護課を新設。浦賀・舞鶴・呉・下関・博多・佐世保・鹿児島に地方引揚援護局が設置される。また横浜・仙崎・門司の三出張所が設置される。

45年11月

11月24日 上記に加えて唐津、仙崎、宇品、田辺、名古屋、函館に地方引揚援護局が設置される。(この後5月までの半年にわたり頻繁に新設・廃止が繰り返される。いかにも戦闘態勢である)

11月01日 栄丸遭難事件が発生。台湾疎開から沖縄行きの引き揚げ船が遭難して約100人が死亡。

当時、沖縄は米軍占領下に置かれ、引き揚げ事業は開始されていなかった。このため多くの沖縄出身者は民間船による密航で自力帰国した。

45年12月

12月01日 陸軍省、海軍省が廃止される。後身として第1(陸軍)、第2(海軍)復員省が発足。

復員省の所管のもとに佐世保など旧鎮守府に地方復員局が設置された。旧陸海軍軍人の引揚業務を行う。職員の大半は引揚船に乗組み、旧軍人、一般邦人を迎えに行く。

12月01日 厚生省、引揚援護局を設置。一般邦人の引揚業務を開始。

12月7日 スカジャップ、日本船に加え、米国艦船を導入し復員業務に投入。

リバティ型輸送船(7000トン)を100隻、LST艦(戦車揚陸艦3000トン)を85隻、病院船6隻が貸与された。

12月15日 「生活困窮者への緊急生活援護要綱」が閣議決定される。戦災者・引揚者・留守家族・傷痍軍人・戦没遺家族等に対し緊急援護の措置を講じるもの。


昭和21年(1946年)

46年1月

1~10月 海外からの引揚げがピークを迎える。最初は南洋諸島からの民間人約2万人の引き揚げ。この作戦は4月までにほぼ完了。

1月15日 NHK、「復員だより」の放送を開始。約1年にわたり続けられる。

1月 中国国民党、中国共産党、アメリカの三者会談。中国残留日本人の帰還方式について協議。東北部残留の日本人を国民党支配区に移送、遼寧省錦州 の葫芦(ころ)島から送還することで合意。なお旧関東州と安東(中朝国境)の日本人は東北民主連軍(紅軍)とソ連軍が送還することとなる。

46年3月

3月 ソ連軍の東北部撤退が本格化。これに代わり国府軍が東北部に進駐開始。

3月 引揚援護院が設置される。援護局、医務局、地方引揚援護局がおかれる。

3月16日 GHQ、「引揚げに関する基本指令」を発する。

3月 福岡に女性患者のための「二日市保養所」が設置される。

4月 南朝鮮にいた民間人のほとんどが日本へ引き揚げを完了。総数は40万人におよぶ。

46年5月

5月7日 錦州地区に集結した日本人が、葫芦島からの引き揚げを開始。46年末までに102万人、48年末までに105万人の送還を完了。葫芦島に移動するまでの間に24万人が死亡したとされる。

満州からの引き揚げ者の犠牲者は日ソ戦での死亡者を含めて約24万5000人にのぼり、このうち8万人近くを満蒙開拓団員が占める。民間人犠牲者の数は、東京大空襲や広島への原爆投下、さらには沖縄戦を凌ぐ。
6月 第一復員省と第二復員省が統合して復員庁となる。その後厚生省に所属。

10月05日 大陸同胞救援連合会が結成される。中国に取り残された日本人の帰還促進を呼びかける。

11月27日 「引揚に関する米ソ暫定協定」サハリンと北朝鮮、大連のソ連占領地区からの日本人引き揚げが米ソ間で合意。

11月 テイチクから田端義夫の「かえり船」が発売され、大ヒット。(歌詞はどうもしっくりこない)

46年12月

12月8日 シベリア引き揚げ船第一船、大久保丸などが5000人を乗せて舞鶴に入港。大連引き揚げ第一船が佐世保入港、3000人帰還。

12月19日 日本の要請を受けたアメリカがソ連との交渉。「ソ連地区引揚に関する米ソ暫定協定」が成立。サハリンと千島地区からの引き揚げが開始。49年7月の第5次引き揚げまでに29万2590人が引き揚げる。(終戦時の在住者は40万人。公式引き揚げまでに数万人が脱出していた)

12月 共産党支配地域を含めて、東北部の日本人の大半が引き揚げを完了。

12月 46年末までに、東南アジア、台湾、中国、朝鮮半島南部居住民の9割が引き揚げを完了。

昭和22年(1947年)

22年末までにソ連軍管区以外の陸海軍兵士の復員がほぼ完了。

 

昭和23年(1948年)

5月 引き揚げ事業が一段落したのを機に、復員局と引揚援護院は一体となって引揚援護庁という厚生省の外局となった。これに伴い地方引揚援護局はすべて閉鎖される。

引揚者団体全国連合会が発足。

昭和24年

01月09日 佐世保にボゴタ丸が入港。フィリピンより日本人将兵4,515人の遺体と300余柱の遺骨を運ぶ。1ヶ月をかけて野天で火葬される。身元不明の遺骨300は、そのまま埋葬される。

6月27日 ソ連からの帰還者を乗せた高砂丸が到着。乗船者2千名は”インターナショナル”を歌いながら入国する。

24年末までに軍人軍属を含む624万人が帰還を完了。その後、朝鮮戦争の開戦により聞こk事業は停滞。

昭和25年

4月 ソ連の捕虜抑留の実態が明らかになる。国会は「在外抑留同胞引揚に関する決議」を採択し国連に提訴する。国連は捕虜特別委員会を設置。

昭和27年

12月 北京放送、中国在留の日本人3万人の帰還を援助すると発表。

昭和28年
3月5日 北京協定が締結される。「日本人居留民帰国問題に関する共同コミュニケ」発表。

3月23日 中国からの帰還が再開される。第一船は興安丸、第二船は高砂丸で合計3968人。

中国帰還者

11月19日 日ソ赤十字会談。「日本人捕虜の送還に関する共同コミュニケ」を発表。

11月26日 興安丸、ソ連からの再開第一次引揚船として舞鶴を出港。

昭和29年(1954年)

3月31日 厚生省の引揚援護庁が廃止される。

昭和30年(1955年)

6月 日ソ国交回復交渉が開始。日本はシベリヤ抑留者全員の即時帰国をもとめる。

昭和31年

7月 中国からの釈放日本人戦犯335名が興安丸で舞鶴に入港。

10月 日ソ共同宣言・通商議定書調印、抑留者全員の釈放が決定される。

12月26日 興安丸最後の便が舞鶴港に入港。シベリヤ抑留者の最終集団が帰国。

日ソ国交回復により、樺太の日本人約800人とその朝鮮人家族約1500人が集団帰国 

 


引揚げ関係年表として下記を参照した。

引揚関係年表(全般)

引揚関係年表・昭和21年

引揚関係年表・昭和22年

ウィキペディアの以下の事項を参照した。

引き揚げ

引揚者

引揚援護庁

地方引揚援護局

在外父兄救出学生同盟

栄丸遭難事件

三船殉難事件 小笠原丸 第二号新興丸

葫芦島在留日本人大送還

興安丸 高砂丸

引揚者団体全国連合会

 

戦後引き揚げを勉強してみて、いくつか初めて分かったことがある。
第一に、これはすさまじい大作戦だったということだ。

終戦時海外にいた日本人は、軍人350万人、一般邦人310万人であった。その殆どを昭和21年末までにほぼ引揚完了させている。ソ連軍管区はやや遅れたものの、その後の1年の間にほぼ帰還を完了させている。

わずか1年半足らずの間に500万人以上の移動をやり遂げたのだ。当時の交通状況を考えれば、驚異的な数字である。ある意味で「史上最大の作戦」とも言える規模だ。

まずこのことに我々はもっと関心を抱くべきであろうと思う。

第二に、これはアメリカによる準軍事作戦だったということだ。

虚脱状態にある日本政府に、そのようなことができようはずはない。キャパもなかったし、やる気もなかったろうと思う。

その尻を叩いてやらせたのはアメリカである。しかもポツダム宣言の最重要課題として、軍事作戦並みの厳しさでそれを遂行させた。そのための資材も惜しみなく与えた。返還を渋る国があれば頭越しに直接交渉して、返還交渉をまとめ上げた。だから出来たのである。

我々は氷川丸や高砂丸、興安丸の活躍ぶりを知っている。しかし少し計算してみればわかることであるが、一回の搬送人員が数千人として、三隻で1万人だ。600万人運ぶにはそれぞれが600回往復しなければならない。

氷川丸など修理続きで、せいぜい5,6回往復しただけでお役御免になっている。つまり引揚者の大多数は米軍のリバティー船やLSTで帰ってきたのだ。

第三に、600万人もの「難民」を一気に受け入れさせられた側の受け入れ能力である。

あのドイツでさえ東西統一のあと東ドイツを持て余した。東ドイツは想像以上に貧しかった。なんとか経済的に受容したが、10年はかかった。

日本は敗戦直後で居住者でさえ食うに事欠く状態だ。そこに突如600万人の「よそ者」が裸同然で飛び込んできたわけだ。我が家でさえ、4人も居候が転がり込んできた。祖父、叔父、叔母、それと未だに何だったのかわからない人が一人いた(まもなくいなくなったが)

それがなんとか飢え死にしなくて済んだのは、直接的には配給と闇屋のおかげだが、より根本的には日本にまだ余力があったからだ。本土決戦をやらなくて済んだおかげだ。(沖縄の人には申し訳ないが)

その余力がどこにあったのかは今後の検討課題である。しかし「国破れて山河あり」という時の山河は、この場合、ただの自然ではなく人的資源やノウハウの蓄積を含めた「隠れ資産」と見るべきであろう。


他にも未だあるだろうが、言いたいことは「戦後引揚」を社会現象とか恨みつらみとしてみていたのでは本質を見誤るということだ。

我々は(正確には“私”は)、「引き揚げ」というとどうもナホトカから興安丸に乗って舞鶴に着いた抑留者のイメージを抱きがちだが、あえて言えばそれは「落ち穂拾い」であり、引き揚げの大部分はそれよりずっと前、終戦直後から1年半から2年のうちに集中していたということを銘記しておくべきであろう。

こんな動画 と書いたのですが、実はこの前後に延々と映像が続いていて、すべて1946年5月の日本の情景です。

すべて“総天然色”。日がな見ていてすっかりハマりました。

感想を総じて言えば、この時点でも日本は廃墟どころではないということです。

アメリカがどのくらい爆弾を落としたかは知らないが、日本全土の広さから言えば引っかき傷程度で、戦前の日本はほとんど無傷で生き残っていることがわかります。

確かに大都市の殆どは焼け野原になりましたが、実のところペラペラと燃え上がったのは庶民(街場の勤労者)の民家だけで、生産設備は結構しぶとく生き残っていたこともわかります。

ポツダム宣言の受諾をめぐって、軍部が「まだ戦える」と突っ張ったのも、あながち“狂気の沙汰”とばかりは言い切れないかも知れません。

これだけの社会的・経済的土台が残っていて、その上においかぶさっていた内務省官僚だの、軍部だの、コンツェルンだの、要するに「絶対主義天皇制」のかさぶたが取れれば、戦後日本が大発展を遂げても何の不思議はないでしょう。

田舎は昭和10年代の最盛期日本の力と気分をそのまま維持していた。その力が都市の再生と新権力層の成立を促し、一方で600万人に及ぶ帰還者を受容し生産力に転換させていったのだろうと思います。

昭和30年、「戦後10年、戦後は終わった」と盛んに唱えられました。私もおさなごころに覚えています。

ちょうどこの頃に、日本の生産水準は戦前の最高レベルを超えたのです。「戦後は終わった」という言葉は実に時代の雰囲気をよく象徴していました。

しかし、いま考えてみると、「戦争がなかったごとく」生活を続けてきた田舎の人々にとっては、「戦後は終わった」のではなく、「戦前は終わった」という実感のほうがふさわしかったのではないでしょうか。たしかに「一つの時代が終わった」という実感には間違いありませんが…


ちょっとこの感覚というのは大事にしていきたいと思います。

「戦後70年」を評価するときに、あるいは戦後の保守主義を評価するときに、決定的な拠り所の一つになるかもしれません。

我々が「興安丸」というと舞鶴、ナホトカ、抑留者ということになるが、実はその前に引揚船として大活躍していた。

そのことを今回はじめて知った。

興安丸の活動の歴史は大きく3つに分かれる。

最初は昭和12年から敗戦までの間で、その間は関釜連絡航路の新鋭船として活躍した。

第二期は敗戦から昭和23年までで、この時期は引揚船として釜山と日本の間をピストン輸送した。

これが終わったあと、いったん民間に払い下げられたが、朝鮮戦争が終わったあと、引揚が再開されると、昭和28年からふたたび引揚船として活躍した。往復の回数は延べ22回に及んだ。

これが舞鶴、ナホトカ、抑留者ということになる(ナホトカだけでなく天津、の秦皇島、樺太のホルムスクにも往復している)。道理で私が憶えているわけである。田端義夫ではなく「岸壁の母」の時代だ。

昭和31年末をもってシベリア抑留者の帰還が終わり、それとともに引揚船としての興安丸の時代は終わる。(その後昭和34年にベトナムからの帰還者受け入れのためハノイにも往復している)

その後幾多の変遷を経て、最終的には昭和45年に解体されて一生を終える。

ということで、仙崎の引揚者の話はこの第二の時期に相当するわけだ。


興安丸と仙崎には因縁話がある。

昭和20年4月、興安丸は下関沖で機雷に触れ損傷した。その後、興安丸は長門須佐湾に避難し、8月の終戦まで潜んでいた。

終戦後興安丸はふたたび航路についたが、それは仙崎・博多・釜山を結ぶ三角航路だった。なぜ戦前のごとく下関・釜山でなかったのかはよく分からない。佐世保と同じで帰還者の収容施設の関係だったのかもしれない。

氷川丸と高砂丸の行動については、文章ごとに、細かいところに期日の異同がある。

こういう時はアメリカ文献の方が当てになる。

"IJN Hospital Ship Hikawa Maru: Tabular Record of Movement"

"IJN Hospital Ship Takasago Maru: Tabular Record of Movement"

より、紹介する。

氷川丸

氷川丸

1945年8月15日: 交戦停止。病院船HIKAWA MARUとそれより少し小さいTAKASAGO MARU(Scapjapナンバー H-022)は、戦争を乗り切った大きい日本の客船である。

1945年9月: 占領軍、HIKAWA MARUに対し南洋、中国とオランダ領東インド諸島から日本まで兵士と一般人を輸送する業務につくよう命令。

1945年9月10日: 舞鶴を出港。Milleに向かう。

1945年9月27日: Milleに到着する。本国へ送還される軍隊・人員を乗船させて、同じ日に出発する。

1945年10月7日: 浦賀に到着する。

1945年10月26日: 浦賀を出発。

1945年10月31日: ウェーク島に到着する。およそ1,000人の兵士を乗せる。その後Kusaieに到着する。復員兵士・人員を収容。

1945年11月12日: 浦賀に到着する。軍隊・人員を陸揚げする。

1945年11月15日: 浦賀造船で修理とメンテナンスを経る。

1946年1月2日: 1ヶ月半を経て、修理が完了する。浦賀を出港。

1946年1月6日: 基隆(台湾)に到着する。軍隊と乗客を乗船させる。

1946年1月14日: Wewak(ニューギニア)に到着する。軍隊と乗客を乗船させる。

1946年1月23日: 浦賀に到着する。軍隊と乗客を陸揚げする。

1946年2月2日: 浦賀を出港。

1946年2月6日: 基隆に到着する。軍隊と乗客を乗船させる。

1946年2月15日: Fauro島に到着する。軍隊と乗客を乗船させる。さらにTorokinaに向かう。軍隊と乗客を乗船させ、その日に出発する。

1946年2月27日: 浦賀に到着する。軍隊と乗客を陸揚げする。

1946年3月3日: 横浜港を出発。ラバウルに向かう。

1946年3月11日: Rabaulに到着する。軍隊と乗客を乗船させる。その後、基隆に向かい、軍隊と乗客を乗船させて、その日出発する。

1946年3月23日: 鹿児島に到着する。軍隊と乗客を陸揚げする。その日、出発する。

1946年3月28日: 釜山に到着する。軍隊と乗客を乗船させて、その日出港。

1946年3月31日: 浦賀に到着する。軍隊と乗客を陸揚げする。その後乾ドックに入る。

1946年5月6日: 1ヶ月にわたる修理が完了する。浦賀を出港。

1946年5月15日: メナドに到着する。軍隊と乗客を乗船させて、その日出発。その後、Morotai、Balikpapan(ボルネオ)、サマリンダ、Makassar(セレベス)、バリ(インドネシア)をへてMorotaiにもどる。

1946年6月16日: Otaka(大阪?)に到着する。軍隊と乗客を陸揚げする。

1946年6月23日: 呉を出港。上海に向かう。

1946年7月5日: 上海から浦賀に到着する。軍隊と乗客を陸揚げする。

これが最後の帰還業務となる。この後改装を行い、NYKに返還される。

高砂丸

高砂丸

1945年9月2日: TAKASAGO MARU、帰国義務を引き受ける最初の日本の船となる。芝浦を出港しカロリン諸島のWoleai島、Woleai島に向かう。

1945年9月19日: Mereyonに到着する。軍隊と乗客を乗船させて、その日出発する。

1945年9月25日: 別府に到着する。軍隊と乗客を陸揚げする。

1945年10月24日: 徳山を出港。ミンダナオ島ダヴァオに向かう。

1945年10月29日: Davaoに到着する。軍隊と乗客を乗船させて、その日出発。

1945年11月1日: 佐世保に到着する。軍隊と乗客を陸揚げする。

1945年11月16日: 佐世保を出港。ふたたびダヴァオに向かう。

1945年11月27日: マニラに到着する。軍隊と乗客を乗船させる。

1945年12月1日: 公式に呉のAllied Repatriation Service所属となる。

1945年12月10日: Otakaに到着する。軍隊と乗客を陸揚げする。

1945年12月27日: Otakaを出発する。

1946年1月1日: Taclobanに到着する。軍隊と乗客を乗船させる。

1946年1月7日: マニラに到着する。軍隊と乗客を乗船させる。

1946年1月19日: 佐世保に到着する。軍隊と乗客を陸揚げする。この後、第二復員省の復員輸送艦に指定され中国からの引揚業務にあたる。
1946年1月30日: 10日間の修理を終え、佐世保を出港。上海に向かう。

1946年2月5日: 鹿児島に到着する。上海からの軍隊と乗客を陸揚げする。

1946年2月6日: 鹿児島を出港。ふたたび上海に向かう。

1946年2月13日: 鹿児島に到着する。上海からの軍隊と乗客を陸揚げする。

1946年2月24日: 佐世保を出港。上海に向かう。

1946年3月2日: 博多に到着する。上海からの軍隊と乗客を陸揚げする。

1946年3月4日: 博多を出港。塘沽(天津)に向かう。

1946年3月14日: 博多に到着する。塘沽(天津)からの軍隊と乗客を陸揚げする。この後、博多と塘沽の間をもう一往復。博多と上海の間を一往復。

1946年4月16日: 高雄に到着する。軍隊と乗客を乗船させる。

1946年4月23日: 佐世保に到着する。軍隊と乗客を陸揚げする。

1946年5月8日: 佐世保と塘沽の間を二往復する。

1946年6月5日: 神戸で修理に入る。

1946年6月26日: 3週間の修理を終え、神戸を出港。上海に向かう。

1946年7月7日: 佐世保に到着する。軍隊と乗客を陸揚げする。

1946年7月18日: 佐世保を出港。Korojima(天津)に向かう。

1946年8月4日: 佐世保に到着する。軍隊と乗客を陸揚げする。

1946年8月15日: 海軍List.から削除される

その後も高砂丸はナホトカ・舞鶴間、天津・舞鶴間の復員事業に参加している。1956年に名村造船に売却されスクラップとなった。

何か氷川丸と比べると、あまりにも差別されているような気がする。ブスは損だ。


どうでもいいけど、Otaka というのがわからなくて、グーグルで探したらこんな動画がありました。名古屋の大高はOdaka ですね。たしかに港の近くではありますが…

Fire fighting equipment being towed out of its underground revetment at an oil refinery in Otaka, Japan.

1946年5月30日に撮影した映像のようです。便所の汲み取りが珍しかったようで、長々と撮影しています。

追記: Otakaは大竹のようです。海兵団の跡地が利用されたのは佐世保と似ています。ここも41万人を受け入れています。


 

佐世保市のホームページから

引揚者は小船に乗りかえて浦頭(うらがしら)桟橋に上陸した。

引揚者は、し検疫(けんえき)を受けた。のみ、しらみ等の有害寄生虫(きせいちゅう)防除のため、DDTを身体中に吹きつけら れた。15歳から55歳までの女性は、婦人相談所で健康の問診を受けなければ「引揚証明書」が交付されなかった

引揚げのピークの21年1月~10月は毎月7万~12万人が上陸した。

厚生省の佐世保引揚援護局は、1日5,000人余を賄う元針尾海兵団内の 兵舎を援護局宿舎にあてた。収容人員は最高25,000人に達した。世話をする職員も1,000人を越えた。

引揚者は南風崎(はえのさき)駅から満員の引揚列車に乗り、故郷や親類縁者の家へと向かった。

やっと内地にたどり着いても栄養失調や病気で死んだ人が4,000人 もいた。その内半数は乳幼児だった。

引揚船内でコレラが流行し、佐世保港内に停船したまま何日も上陸できなかったこともあった。1ヶ月に600人の死者が出て、不眠不休で遺体の火葬を行ったこともあった。

ということで、浦頭とか南風崎などと馴染みのない地名が出てくる。そこで例によって地図を検索してみた。

南風崎

次に南風崎をウィキペディアでチェックする。

南風崎駅(はえのさきえき)は、長崎県佐世保市南風崎町にある、九州旅客鉄道(JR九州)大村線の駅である。
現在のハウステンボスの周辺に浦頭港という港があり、接続駅になっていた。太平洋戦争後、1945年(昭和20年)10月から1950年(昭和25年)4月まで、中国・東南アジア方面各地からの復員者・引揚者がこの駅より専用列車に乗り込んだことで有名。
昭和20年代初期の時刻表には、2 - 3往復の南風崎駅始発東京行きの普通列車(下りは早岐行き)が不定期列車として掲載されており、引揚援護局設置当時をしのぶことができる。

ということで、きわめて分かりやすい説明をありがとう。


まずは簡単なところから

仙崎について

山口県というところは、地図で見るとまことに取りとめないところで、たぶん下関と岩国が大所なのだろうが、いずれも県の端っこに位置しており、山口はいかにも政治的バランスで県庁所在地になっただけという感じだ。

山口大学(医学部)は宇部だったと思う。そして日本海側に長門市と萩市がある。長門市というのもいかにも町村合併のドサクサでつけましたという名前で、作り物めいている。

実はわたしは今日まで萩と長門市を混同していた。地図で見ると随分離れているから、商圏としても独立しているのであろう。

長門市に大きな島がくっついているのも初めて知った。日本海というのは、とくに山陰ではのっぺりとした海岸線がダラダラと続いているだけかと思っていた。しかしこの辺りはリアス式と言ってもいいほどの込み入った海岸線が形成されている。

山口

で、仙崎に行く前に長門市。

長門市は今年9月時点で人口3万5千人、胸を張って「市です!」と答えられる市である。と言っても40年前には5万5千人だったから、過疎化・高齢化の真っ直中にあることも間違いない。

昭和29年に大津郡深川町、仙崎町、通村、俵山村が合併、市制施行し、長門市になる。(ウィキペディア)

とのことだから、必ずしも最近のことではない。それにしても近隣から市名について文句は出なかったのだろうか。

それで深川の方が中心になってしまったのだが、この深川という町、なにもない。城下町でもないし産業都市でもない。むかし美祢の炭鉱(無煙炭がとれた)とを結ぶ鉄道の山陰本線とのジャンクションになっているから、それで発展したのかもしれないが、いまとなってはただの思い出話だ。

なお現在は長門市だが、平成の大合併まで日置町として存在した日置村の村長を務めたのが安倍晋太郎の父安倍寛で清廉潔白な人格者として知られ、地元で「大津聖人」、「今松陰」などと呼ばれた。

ホンマに情けない孫だ。

ということで、仙崎

仙崎

これで景色が悪かろうはずがない。市外は仙崎駅から海峡までの三角地帯だ。

ウィキペディアによると

関釜連絡船として就航していた興安丸が母港として釜山と仙崎・博多港を往復した。

仙崎港で受け入れた引き揚げ者は413,961人。これは博多・佐世保・舞鶴・浦賀に次ぐ5番目の人数である。

葫蘆島(華北)、上海、釜山からの上陸者が多かったと言われる。引揚者は汽車で下関に行き、そこから全国に分散した。

と、とりあえずここまで

本日のラ・テ面に、初めて知る事実が掲載されている。

記事そのものは、山口放送制作の「奥底の悲しみ~戦後70年、引き揚げ者の記憶」という番組の紹介なのだが、この番組が「特殊婦人」を知らしめた初物尽くしのすごいものだ。

引揚援護局は引揚者の中に「特殊婦人」という分類を設けていた。それぞれの港に「婦人特殊相談所」も設けられていた。

以下、引用させていただく。

「特殊婦人」とは、敗戦後の中国大陸や朝鮮半島で旧ソ連軍兵士から性的暴行を受けた女性たちのことで、望まない妊娠に苦しんだ人もいました。

この事実が、いくつかの証言で裏付けられていく。

「女学校の級友の3分の1が帰ってこなかった」「抵抗すれば殺された」「帰国する船から海に飛び込んだ人もいた」

福岡県二日市町(現つくし野市)に解説された保養所では、極秘裏に中絶が行われていた。当時保養所の看護婦を務めていた女性は「一日も早く体をきれいにして故郷に帰してあげたかった」と語ります。

以上が核心的事実。

それ以外にも知らなかったことがひとつ。山口県長門市の仙崎というところに港があって、ここも戦後引揚げ者を迎え入れていた。その数が41万人というのには驚いた。

恥ずかしながら、引揚者イコール興安丸イコール舞鶴港というのが刷り込まれていて、疑ったこともなかったが、考えてみればなぜわざわざ舞鶴なのかという疑問は湧いて当然だ。

「特殊婦人」ももちろんそうだが、戦後引き揚げの実相を少し調べてみなくてはいけないようだ。


忘れていた。この記事は山口放送でこの番組の制作にあたった佐々木聡ディレクターを讃えたものだ。佐々木さんはこの番組で日本放送文化大賞グランプリを獲得したそうだ。この記事からだけでもそれだけの重みはありそうだ。


ということで、調べた結果が以下の記事


名前出していいのかわからないが、そういう名前でコメントしてくれたので、そういう人だということにして使わせてもらう。
12月14日CDG利用しました。
喫煙所ありました。
K37横です。
JAlがK41から搭乗なのですぐ近くです。
ローマ(FCO)もありました。
これでは流石に何のことやら分からない。
解説すると、CDGは Aéroport de Paris-Charles-de-Gaulle の略。パリ国際空港のことだ。
K37とかK41というのは搭乗口の番号。
JA lというのは日本航空。社用の人でないとなかなか使えない。
国際線Aérogare 2のターミナルEのことだろう。
cdg
きっとこの辺りだ。以前報告した通り。
ついでに
ローマ(FCO)というのは Aeroporto di Fiumicino の略。正式にはローマ市ではなく近郊のフィウミチーノ市にある。正式にはレオナルド・ダ・ヴィンチ空港と呼ばれるが、「丹頂釧路空港」と同じで、誰もそうは呼ばない。
ここも、情報通りに喫煙所があったということで、ご同慶の至りである。

Four comfortable furnished smoking lounges equipped with strong exhaust fans allow passengers to smoke in these designated areas within the airport. They are located in:

  • the Departures Area of Terminal 1 airside, beyond the security checkpoint
  • Terminal 3, Boarding D area for international departures
  • Terminal 3, Boarding G area for international departures
  • Terminal 3, Boarding H area for international departures
禁煙対策にはラチェットがかかっていて、一度進むと後戻りは効かない。今はただ「嫌煙テロリスト」みたいな大統領が登場しないことを祈るのみである。







ベネズエラの選挙結果について

1.選挙結果について

12月6日に行われたベネズエラ国会選挙で、故チャベス以来民族革命を担ってきた左派政党が大きな敗北を喫しました。政権を担ってきたマドゥロ大統領は、今後は少数与党のもとで難しい政権運営を迫られると思います。

2.野党勢力の狙い

野党連合は選挙後に声明を発し、民営化を推進すること、外国資本を積極的に導入すること、放送の「中立化」を促進することなどを公言しています。また労働者保護法や貧困者への福祉なども削減する方向です。

そして選挙法を改正し、憲法を改正し、最終的にはマドゥーロ大統領を解任することを狙っています。

3.選挙の敗北の原因

故チャベスが1999年に大統領に就任して以来、ベネズエラの人々の暮らしは劇的に改善しました。それは国際機関も認めているところです。しかし最近では国民の要求も多様化し、それに応えることができなかったことから物不足・インフレが亢進し、国民の不満が高まっていました。

そして昨年からの「逆オイルショック」で財政が困難になったことから、不満が一斉に野党側に流れたものと思われます。

もう一つの原因は、アルゼンチンの大統領選挙の敗北にも見られるように、アメリカがラテンアメリカに対する攻撃を強めていることです。今回の選挙でも大企業・野党連合が物不足を意識的に煽った(いわゆる「経済戦争」)と言われています。また以前の政権から引き継いだ「ガソリン補助金」制度などバラマキ型の財政システムも危機をもたらしたと言われます。

4.選挙敗北の影響

ラテンアメリカ諸国は平和と連帯のイニシアチブをとり続け、米国の覇権を拒否し、多くの国でクーデターの企てを食い止め、域内貿易を発展させてきました。キューバと米国の国交回復もラテンアメリカ諸国の働きかけで初めて可能となったものです。

その先頭に立ったのがベネズエラでした。そのベネズエラが挫折することの影響は計り知れないものがあります。アメリカはアルゼンチン、ベネズエラに続いてラテンアメリカ最大の国ブラジルを狙っていると言われています。

5.ラテンアメリカとベネズエラ人民との連帯と強めよう

今後米国と野党連合はマドゥーロ政権の打倒を狙いさまざまな不安定化工作を強めると思います。民衆への攻撃もさらに強まるだろうと思われます。

私たちも戦争法廃棄などの闘いを強めるとともに、アメリカと国際的独占企業との共通の闘いとして、ラテンアメリカとベネズエラ人民との連帯を強めていく必要があると思います。

下の図は、前項記事につけられたものである。

「ベネズエラ革命が何を残したのか」を、何よりも雄弁に物語ってている。

b&a

テレビ番組ではないが、まさに「劇的変換! ビフォア・アンド・アフター」である。

ちょっと見にくいので説明しておく。

左の灰色がチャベス革命の前、右のえんじ色が革命後である。

一番上が平均年間インフレ率である。前が48%、後が27%でその差は歴然である。ただしこれにはイロイロ事情があって、単純には比べられない。

2番めが失業率。これも11%から6%に劇的に低下している。ただこれも景気が劇的によくあったわけではないので、失対事業などでふくらませている可能性はある。

3番めは貧困率。これも失業率とほぼ平行している。

4番めは社会支出(Social Spending)で、11%から19%に著増している。

下から2番めは年金受給者数(Pension Recipients)。39万人から258万人へと6倍強に増えている。といっても、革命前には軍人か役人くらいしかもらっていなかったということだろう。

一番下は大学へのアクセスということだが、どういう数字なのかわからない。まぁ大幅に増えていることは間違いない。

以上のごとく革命前後の差は歴然としている。「バラマキ」と言われようと、これだけの数字(マクロ)を示されれば、左翼政府の功績は否定しがたい。

しかし、それは、「それなのに、なぜ負けたのか」という答えにはまったくなっていない。

おそらくいちばん安易だが説得力のある説明は、バラマキでつなぎ留めてきた支持が、逆オイルショックで不可能になった、ということになるのではないか。

とくに厳しい輸入制限で、「金はあるのに、物が買えない」という閉塞感は相当不利に働いたと思う。

財政問題では、とくに非常識なガソリン補助金制度が、財政の底に穴を開けてしまった。ただこれは経済攻撃の手段として意図的に利用された可能性もある(断定はできないが)。

この問題については下記を参照されたい。

原油安問題については下記を参照されたい

ベネズエラ 選挙後どうなる?

迫り来る民営化

テレスール国際リサーチ部(ベネズエラ政府が出資する国際通信社)

12月14日


1.右翼連合(MUD)の圧勝

右翼の連合(MUD)は12月6日のベネズエラの下院選挙で圧倒的多数を勝ち取った。

それは過去17年にわたる左翼政権の政策や法律から劇的に離脱することを意味する。

選挙戦の只中に、MUDはウェブサイトで法律のリストを発表した。議員たちは1月5日に議会が開始されたら。それらの法律をひっくり返すと公言した。

そこには、基礎生活商品の価格統制の撤廃、重要企業やサービスの民営化、基盤産業の外国企業への譲渡、地方警察の強化、公共メディアの「独立」と民営化などがふくまれる。

これらの変化は、劇的にベネズエラの政治・社会景観を変えるだろう。

2.価格統制の廃止と民営化

価格統制諸法(the fair prices and food security laws)の撤廃は、ベネズエラ人に必需品への安価なアクセスを失わせ、公平な価格と食糧安全保障を無効にするだろう。

野党は言う。「これがもの不足の問題を解決する」と。

政府は反論する。物不足の原因は密輸犯罪と野党の支援する経済戦争のためだと。

他の2つの法律は、民営化への道を開けるだろう。ひとつは戦略的な企業の国有化を逆戻しする。そして民間企業の資産を脅かす「公共使用の宣言」(the declaration of public utility)を無効にするだろう。

彼らの文書にはこう説明されている。「我々の考えは、食物、薬、家庭用品と個別医療のような重要な領域において、企業活動の復活を支持することである」

もう一つの法律は公共サービスの「非集中化」である。公共サービス事業は自治体に分散される。そして民間のサービスプロバイダに下請契約する権限を与える。

MUDによればこの計画は独占と特権を抑制するためのものである。「それは政府が公共サービスの供給において作り出した障害を除去する。それは民間企業あるいは半官半民企業との戦略的協力を産み出すためのコンセッションである」とされる。

3.外国投資の大幅緩和

この領域の第3の法律は、大規模な基盤プロジェクトのために外国の投資家と多国籍銀行にコンセッションをあたえるだろう。

左翼政権はこのような外国資本との取引を終わらせるべく尽力してきた。それは主権を強化し、国内事件への外国の干渉を避けるためである。それはとくに米国を念頭に置いている。

米国の歴史は内政干渉の歴史であり、その政策は通常その国の資本の国内利益を守るためのものであった。

MUDは、特に道路、水道、ゴミ収集、港と空港について言及する。

「多国間の資金提供を認め奨励する。それはその融資はコンセッションを利用することで、政府と協調する民間企業が返済する。大規模なプロジェクトを発展させるためには、大規模な投資が必要であり、そのことにより事業の効率も上がる」と謳っている。

4.地方警察の強化

ベネズエラは非常にリアルな犯罪問題を抱えている。MUDはそれを「ベネズエラの市民が日夜向き合うもっとも深刻な問題」と表現している。

MUD計画では、地方のおよび州警察勢力により多くのパワーを与えることになっている。しかし、それらの警察はしばしば反対派の地方政府によって動かされている。

2002年にウーゴ・チャベス大統領を倒そうとしたクーデター企てで、重要な役割を演じたのは、まさにカラカスの地方警察であった。

5.メディアに関して

国会で多数を占める反政府派は、公共メディアにおける「覇権終了」法を提案している。そしてメディア報道担当の「独立」の保証を主張する。

MUDは、これらの変化は憲法で保証されたものであり、「より良いクオリティ・オブ・ライフ」に導くものだと主張している。


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