鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

AALA関連記事は「aala_newsの編集日記」http://blog.livedoor.jp/aala_news/ に移りました(6Nov.2023) 中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 「ラテンアメリカの政治」(http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ )がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

2015年12月

最初にヒットしたのが いいたい砲台 Grosse Valley Note というブログ。

ワルターはこの曲を1959年の11/16と11/18に録音しています。

ワルターはこのブルックナーの9番録音する数日前の11/12と11/13の両日、 同曲をロサンゼルスフィルと演奏していたようです。

BRUNO WALTER DISCOGRAPHY

というサイトには (probably the Los Angeles Philharmonic) と記載されている。

またこのサイトには、Los Angeles  Philharmonic November 12 or 13, 1959; Los Angeles (live performance)  • Source: Private collection という海賊盤があることも記載されている。

次が、geezenstacの森 さんのブログ。

録音/1959/11/16,18 アメリカン・リージョン・ホール ロス・アンジェルス  P:ジョン・マックルーア

となっている。

「決してこの曲のベスト盤には入ってきませんが」というとおり、たしかにオーソドックスな演奏とは言えないが、「こちらのほうが正当だ」と主張しているようにも思える。

ところで、今度は7番のほうが気になる。残念ながら日本語の文章には見当たらない。

Recorded On: 11.13.19.22.27/3/61 at American Legion Hall

となっており、同じホールでの録音だ。技師が違うのだろうか。

なおニューヨーク・フィルとの演奏は

December 23, 1954; Carnegie Hall (live performance)

となっており、Testament SBT 1424 というCDがあるそうだ。

この録音とは直接関係ないが、第8番ワルター&ニューヨーク・フィルというページに、下記のような記述があった。

1941年1月のニューヨーク・フィルハーモニーとのライブ録音があるらしい。その試聴記である。

この演奏はとにかく独特である。デフォルメが凄い。…落ち着きは全くなくテンポをいじりまくる。…本来なら「邪道」「却下」と言いたいところだが、ここまで突き抜けてしまっていると却ってサバサバする。それどころか妙に魅力的なのである。…こんなハチャメチャ演奏してて委員会とは言いたくなる。

 

フォステックスのDAC(HP-A8)にはSDカードのスロットがついていて、ここに音源を入れるとパソコン無しで再生できることになっている。

SDカード1枚で1フォルダあたり30ファイルが入り、そのフォルダが15個作れるそうだ。つまり連続演奏であれば長さに関係なく450曲入ることになる。SDは85GBある。

モーツァルトのピアノ協奏曲ならCD12枚だから、十分お釣りが来る。

しかしまだやってない。CDはExactAudioCopyでFLACファイルにしてハードディスクに入れたのだが、DACのフォーマット対応はDSD、WAV、AIFFのみだ。

それでFLAC→WAVとCD→WAVのどっちが速いか考えている。

とりあえず、FLAC→WAVのコンバーターを探してみた。

FLACdrop

というフリーソフトがあった。ちょっとセッティングが面倒だが、出来上がれば後は簡単でドラッグ・アンド・ドロップでスイスイ行ける。

ただあんまり使いみちはないソフトかもしれない。

面白い表を見つけた。出典は杉野圀明「戦後期における日本資本主義と生産力基盤問題」という論文。立命館大学の先生らしい。

元ネタは経済企画庁の発行した「戦後経済史」という本だ。

生産設備

前の記事でも書いたように、生産にはヒト、モノ、設備が必要だ。基幹産業であれば、人はある程度確保されていたろう。しかしモノは原料、エネルギーをふくめ皆無に等しかった。そこで問題はヒトとモノさえ確保できれは生産再開が可能だったかということになる。

それが上記の空襲被害率だ。本格的に空襲が始まった昭和20年初頭から7ヶ月の間にどれだけの設備がやられたかという表である。

火発は3割がやられた。石油精製能力は6割が失われた。どういうわけか肥料工場が徹底してやっつけられている。

これに対して製鉄工場の被害はゼロということになっている。水力発電もゼロだ。その他はアルミ、工作機械、自動車、セメントが20%台とやられている。

これは日本側の資料だが、毎日新聞によると終戦直後に「アメリカ合衆国戦略爆撃調査団」という調査グループがきて、空爆の効果を調べているそうだ(未見)。

空襲効果
これだけで云々するのもなんだが、意外と設備は残っていることが分かる。逆に言えば日本は原料・エネルギー不足で操業停止に追い込まれたことになる。

つまり空爆というのは、産業構造破壊には意外に役に立っていないということだ。むしろ国民に恐怖を与え苦しめるという心理的効果のほうが大きかったのではないか。

しかし、もしそれがわかってやったとすれば、これは非人道的作戦で「人類に対する罪」を構成することになる。

いずれにせよ、日本を敗戦に追い込む上でもっとも効率的だったのは、機雷封鎖と輸送船攻撃による経済封鎖作戦だったことになる。

書評欄に尾崎左永子さんの歌集「薔薇断章」が紹介されている。
5首が紹介されているが、その中から3首引用する。

いつの日も やがては海に吸われゆく 街川の水 冬日に光る

茅原(かやはら)は光乱して吹かれゐき 蜻蛉(あきつ)は宙に とどまりながら

禱(いの)るべきこと おほよそは無きままに 永く 掌を合はす時あり 今は

三枝さんという方が評しているが、必ずしも同感できない。
一首目と二首目は光の詩で、しかも秋であり冬である。透明な、乾いた、明るいのに温かみの感じられないLEDみたいな光だ。
1首目は、「街川」と「冬日」がダブルで造語・濃縮されている。この凝縮された叙景に、どう上の句をつけるかだ。そこで「吸われゆく」という言葉が作られた。そして「いつの日」と「冬日」があやうく説明にならず、リズムになる。かなり人工(つくりもの)的な歌といえる。「吸われゆく」が感じ取れるかどうかが分かれ目だ。私などは下賤だから、吸われゆくというと便器の水が、最後にゴボゴボと音を立てて吸われるさまが思い浮かんでしまう。
2首目も「ウーム」と唸る歌だ。アシやヨシでなくカヤというのは、私の子供の頃の情景にはない。山家(やまが)の風情だ。逆光で見ているから光が乱れるので、そろそろ日暮れ時の情景だろう。カヤが揺れるさまは「そよそよ」という感じではあるまい。
「吹かれゐき」が分からないが、「ゐき」は「逝き」を念頭に置いているのだろう。普通は草が動かず、蜻蛉が動くのだが、この情景では逆になっている。カヤが「吹かれゐく」のに、アキツが留まるのである。
これも頭のなかでこしらえた情景に思える。
失礼ながら、この婆さん、まだ悪達者なところがある。「おほよそは無い」と自分では思っていても、どうして、まだ芯はナマだ。枯れるにはヨクもアクも残っている。そのうち「最後の歌集、その第三弾」が出るかもしれない。


  議論の中間まとめ

1.復興の原動力は外因か内因か

議論をおおまかに分けると復興の原動力をアメリカの支援に求めるか、日本自身の再生力に求めるかということになる。とりあえず外因説と内因説と名づけておく。

どちらも一理あるのだが、どちらかと言えば内因説は後ろのほう(朝鮮戦争・講和以降)まで引っ張って論じる傾向がある。したがってこの問題を論じるときは戦後前期と戦後後期に分けて話すのが良いようだ。

2.戦後をどう区切るか

すると、どこで分けるかがまた問題になるが、一応朝鮮戦争開始までを前期、そこから昭和30年の「戦後は終わった」宣言までとするのが区切りが良いのではないか。同じように高度成長期も神武景気・岩戸景気からなべ底不況までを前期とし、東京オリンピックからオイルショック(第二次)くらいまでを後期と考えるのが妥当であろう。

3.戦後前期はどういう時期だったのか

復興というが、この時期は厳密な意味で復興期とはいえず。終戦から半年くらいは旧システムの瓦解期ともいうべきで、本当の奈落は昭和21年の夏くらいから22年いっぱいくらいにやってきた。

それなりに上向きかけるのは、アメリカによる各種のテコ入れが始まっていこうのことである。そして急速な景気の持ち直しがインフレを呼び、財政・金融が破綻しドッジプランが導入されるにいたり二番底を迎える。これが昭和24年のことである。

すなわち終戦後から朝鮮戦争までのわずか5年間が、墜落期、谷底期、インフレ期、緊縮期という4つの小区に分かれるのである。

日本の経済はこういう経過を辿りつつ復興に向かった。そういう意味では戦後前期というのは厳密な意味での復興期ではなく、崩壊寸前の限界をくぐり抜けた復興前期と呼ぶべきかもしれない。

4.戦後前期はどういう時期だったのか…つづき

戦後前期は、国家存亡の危機ともいうべき限界期だったのだが、同時にそれは政治構造と経済システムに根本的な変革が加えられた時期でもあった。

だから多くの論者が、この時期に行われたさまざまな変革を取り上げて、「これこそが復興の決め手だった」と主張している。

しかし一般的にはこの手の変革は後から効いてくるものであり、当座の役には立たないものが多い。それどころか、短期的には混乱に拍車をかける危険すらある。

例えば引揚にしても、わずか1年余りで数百万もの人間を身一つで送還するのは、アメリカからすれば「棄民」に近い措置である。

だからGHQが行ったさまざまな方策は、①当面の危機回避の手段としての対策と、②日本の政治・経済システムを枠付けた構造政策とに分けて評価しなければならない。とくに危機回避手段の中でどれがもっとも有効であったかという視点から評価しなければならない。

それらの政策コンプレックス(カンフル剤)こそが日本を破滅から救ったといえるだろう。

5.戦後前期における内因の評価

実はこれが一番難しい。さまざまな論者が様々な意見を挙げているが、多くは抽象的で、「精神」的ですらある。江戸時代からの伝統とか、明治維新の力とか言っても始まらない。「中国4千年の歴史」が中国人の戦いに何の役にも立たなかったのと同じである。

ゼロ戦とか戦艦大和の技術力とか言うが、むしろそんな程度で自慢しいてたのが恥ずかしくなるほどの技術力格差だった。「三等国」としての自覚、それを自覚したのが、戦後経済成長の出発点だったのではないか。

しかし、これまで言われていたようにすべてがアメリカ頼みだったわけではなく、かなり「残存体力」も物を言っている思う。

要はその辺りを具体的に数字で評価する必要があるということだ。とはいえ、目下のところそれ以上の情報はない。

ある意見で、「戦争での工場などの損害は40%です」というのが初耳だった。6割残存を「健在」と見るかどうかは別の話になるが、昭和21年5月に八幡製鐵の工場が健在で操業していたのには驚いた。周囲はまったくの焼け野原だが。

6.愚かな戦争政策の終結

これもある意味で内因だが、戦争が終わった事自体の効果を見ておく必要がある。つまり「悪い内因」、本土決戦を呼号する「狂気」が消失したということだ。

生産には人、モノ、設備(生産手段)が必要だ。日本全土が潜水艦と機雷で海上封鎖されており、船舶も底をついていたから、モノはまったくない。しかし他のものが揃えば生産再開のスタンバイはできていることになる。

戦争が敗戦に終わったのは戦争政策が愚かだったからで(もちろん戦争そのものが愚かではあるが)、ある論者は次のように喝破しており、説得力がある。

日本が太平洋戦争に敗れた理由 1.英米を敵に回したため技術の移入が止まった。2.軍事優先の予算による財政圧迫。3.大陸の利権にこだわって近隣の国家、ついには英米をも敵に回した。

7.まとめ

政治的要因は意識的に排除して論じているので、実際にはそう単純ではない。しかし戦後経済発展の出発点として戦後前期を評価するときには、この辺りでのコンセンサスを形成しておく必要があるのではないかと思う。

最後に、ある論者の感想を引用する。すごく共感するところがある。

戦後の日本は荒廃し誰もが貧乏でした。そんな時外国(米国)映画を見ると車や若者の格好など豊かな姿をうらやましく見ていました。
自分たちもあのようになりたいという欲望を国民皆が持ちました。その欲望が活力となり、まじめに働いた結果だと思います。

戦後の経済復興・成長の土台についてどんな説があるのかを紹介してみたい。

といっても難しい論文をいくつも読んで論評しようと言うのではない。

教えて! goo

の「解答」を並べてみただけだ。いわば床屋談義の集大成ということだ。「諸説」の「」はそういう意味だ。

文字通り諸説紛紛というか、百花繚乱というか、人それぞれだ。

戦後の経済困難がいかに克服されたか、という問題と、その後の高度経済成長を可能にしたものが混同されてる傾向がある。若い世代にとっては当然だろう。

また、現在の時代閉塞の状況と比べ高度成長の時代を憧れを持って見つめている雰囲気がある。我々世代の実感としては「よくやった」説ではなく、「うまく行っちゃった」説に傾くのだが。

まずはかたっぱしから挙げてみて、その上でいくつかの傾向にまとめられるものならまとめてみたい。


1.明治維新における身分制度の廃止

理由: 学歴をベースにした公平な社会が、適材適所を達成した。高い識字率を通じて国の意向が全国民に届いた。

2.高い貯蓄額、輸出主導と保護貿易、海外模倣と応用研究偏重、国防費負担の節約

ちょっと各論的話題も含まれるが。

3.インフラが健在だった

理由: この中の「戦争での工場などの損害は40%です」というのが初耳だった。6割残存を「健在」と見るかどうかは別の話になるが、昭和21年5月に八幡製鐵の工場が健在で操業していたのには驚いた。周囲はまったくの焼け野原だが。

4.東西冷戦の間で儲けた、憲法9条(平和の分前)、勤勉な国民性、財閥解体と農地解放による機会均等

理由: これはライシャワーの意見の紹介だそうだ。

4.安価な原油、金融市場の安定、平等な社会など8条件

理由: 記載なし

5.江戸時代からの蓄積

理由: ソフトは自前、ハードの技術を世界から取り寄せ接ぎ木しただけ。

6.上部構造の破滅がプラスに働く

理由: 人口集積地が「焼け野原」になり、既存の構造物や既得権益が殆ど0になったから。

7.アメリカとの同盟

理由: 戦後初期においてアメリカからの基礎知識、技術の導入が可能だった。

8.大量生産技術の導入(アメリカから)

理由: 高い教育水準、導入を阻害する既得権益者の焼失、導入を可能にする戦前からのシステム、低賃金

9.(羅列だが重複しない部分)1ドル360円の国際為替レート、米国の核の傘、労使関係、トランジスタなど技術供与、自民党単独政権で政治的安定、

10.(羅列だが重複しない部分)世界平和と自由貿易体制、人口が増えたこと、教育の質、旺盛な消費志向、株主の感覚の違い、

11.反共の防波堤としての育成

理由: アメリカは意図的な日本優遇策をとった。プラザ合意で終了。

12.高貯蓄率

理由: 先進国の総貯蓄のおよそ6割は日本。国内に貯蓄と言う形で資本が存在していた。国際収支(資本収支)は気にしなくてよかった。

13.軍事費(防衛費)GNP1%の壁。

理由: 不況のときは.無駄遣い(再生産されない消費)が必要ですが.好況の時の軍需費は経済発展の妨げにしかなりません。

14.アメリカ(豊かさ)へのあこがれ

理由:(この文章は秀逸なので、そのまま転載) 戦後の日本は荒廃し誰もが貧乏でした。そんな時外国(米国)映画を見ると車や若者の格好など豊かな姿をうらやましく見ていました。
自分たちもあのようになりたいという欲望を国民皆が持ちました。その欲望が活力となり、まじめに働いた結果だと思います。

15.愚かな政策の終結

理由: 日本が太平洋戦争に敗れた理由 1.英米を敵に回したため技術の移入が止まった。2.軍事優先の予算による財政圧迫。3.大陸の利権にこだわって近隣の国家、ついには英米をも敵に回した。

16.ハイパーインフレ

理由: 戦時国債を解消してしまった。円が他の通貨に比べて大幅に値下がりしたため輸出がしやすくなった。

17.アメリカに占領された幸運

18.戦災による設備のスクラップアンドビルト

19.朝鮮戦争特需

1950年から1952年までの3年間に特需として10億ドル(3600億円)。当時の日本の国家予算が8千億円。

20.ガリオア・エロア 「ララ物資」「ケア物資」

1946年から51年にかけて、約6年間にわたり日本が受けたガリオア・エロア援助の総額は、約18億ドル。そのうちの13億ドルは無償援助(贈与)であった。

ガリオア資金:米軍予算の一部を使って、旧敵国の民主化復興を支援するために設立され占領地救済政府基金(GARIOA:Government Appropriation for Relief in Occupied Area Fund)、、食糧・肥料・石油・医薬品など生活必要物資の緊急輸入という形で行われ、日本では、当初は貿易資金特別会計に繰り入れられ、貿易の補助金と して日本政府の裁量で運用されていたが、1949年からはドッジ・ラインの枠組みの中で西ドイツと同様に見返り資金としての計上を義務付けられた。
 エロア資金:占領地経済復興基金(EROA:Economic Rehabilitation in Occupied Areas)石炭や鉄鉱石、工業機械など生産物資の供給、綿花や羊毛などの輸入原料購入に充てられた。

「ララ物資」LARA(Licensed Agencies for Relief of Asia:公認アジア救済連盟) 戦後、日本を救済するために、アメリカはもとより、カナダ、中南米の各地から集まった資金や物資を一括し対日救援物資と して送り出す窓口として、1946年6月に結成されたNGOが、「ララ:LARA」であった。 そして同年11月、アメリカの有力NGOの協力を得て、輸 送を開始し、全てのララ物資は無事横浜港に到着したのである。
(推定では当時のお金で約400億円相当)
「ケア物資」 1945年の終戦直後、戦後、救済のために、アメリカで設立されたNGOの一つに「ケア」(CARE:Cooperative for Assistance and Relief Everywhere)があった。「ケア」は1948年にヨ-ロッパ以外ではじめて日本に事務所を開設し、救援活動を開始した。 1948年から55年に かけて、日本などに送られた「ケア物資」は金額にして5000万ドル(当時では180億円、現在の貨幣価値に換算すれば約4000億円)に達した。 その 内容は、食料品、菓子、コーヒー、紅茶、砂糖、および石鹸など日用品も含め多岐にわたるものであった。 このケア物資によって助けられた日本人は小中学生 をはじめ1,500万人に上った。

21.日本の高級官僚の権限の大きさ

内務省は解体されたが、その一部は経産省などで残っている。戦争協力官僚はパージされたが、殆どはそのまま居座った。

逆に公職追放で若い官僚が進出したという意見もある。

22.「吉田ドクトリン」なる伝説

23.共通規格化

朝鮮戦争の時に占領軍から共通規格化の指示があり、アメリカとの共通規格化が実現した。

戦争が終わったとき、これが払い下げられて、日本は最新の製造設備を獲得した。

東京タワーは朝鮮戦争のあとアメリカ軍が払い下げた戦車を溶かして作った(ほんまかいな?)

24.主要国の戦後賠償の放棄

第一次世界大戦でドイツに対して課した高額な賠償がドイツを戦争に走らせた要因となった反省から。

そのため敗戦国でありながら復興に必要な資金を確保できた。

25.第二の文明開化 三等国としての自覚

①ミッドウェーの電探(レーダー)性能差による敗北→②飛び石作戦によるB29大挙襲来→③長崎、広島の原爆→④敗戦→⑤日本人による日米生産能力差の認識→⑥戦後復興⑦→科学繊維の開発→⑧高度成長→⑨→日米基礎研究投資の差を認識、日本の国家予算による基礎研究重視

次は 疲れてきたので簡単に。

YAHOO 知恵袋

1.復興資金の提供

領地域救済政府基金(1946年)、ついで占領地域経済復興基金が供給された。双方の合計は現在価値で12兆円。

他に技術提供も行われた(どんな?)

2.既存構造の破壊による最適化

3.(結果として)インフラへの集中投資となり、投資効率が良かった

4.海外領土は赤字の要因であり、これを失ったことで効率化

5.ブレトンウッズ枠組みで自由市場へのアクセスが可能になった

戦争による人的被害は一般国民を含め268万人、人口の4%

資産的一般国富の被害は、生産財、消費財、交通財、建築物を含めて全体の25%にのぼり、終戦時の価格で 653億円といわれる。

戦災で失った住居家屋は220万戸、強制疎開を含めると戦前約1,400万戸の住居家屋は1,135万戸に減少していた。

明治以後 拡大した領土は失われ、ここに海外からの復員者・引揚者約600万人を受け入れての再建であった。

6.ドッジプランによるインフレの終息

7.進駐軍特需

占領軍のための飛行場の新設・整備、兵舎や家族用住宅の建築、高級将校用の接収住宅の改築など

 一面では詳細な仕様書、機械化工法、近代的管理、進んだ設備、安全衛生など多くのことを学ぶ機会

 

復員・引揚という形でわずか2,3年のうちに600万(国内人口の10%)の人口増加をきたした。更にそれに並行する形でベビーブームが起きた。

これらの人口増加が戦後の経済発展にどのように影響しているのだろうか。

少しネットで調べてみたが、あまりこの手の文章はない。

むしろ戦後の経済発展を説明する文章が、なぜかしらこの問題と避けているような様子さえ伺える。

これはいったいどうしたことだろう。

思い出してみると、確か小学生の頃は「日本は狭い国土に過密な人口を抱えている。資源もほとんどない。だから貧しいのであって、ここから抜け出すには外国との貿易を盛んに行い、各人が刻苦勉励して稼ぐしかないのだ」と教えられたような気がする。

そしてアルゼンチンの大草原の写真を見せられて、「穀物が無制限に実り、牛がどんどん育つ、毎日草履みたいなステーキを食っている、こういう国こそ豊かな国というのだ」と言われて、なにか納得した記憶がある。人口の多いのは豊かさの印ではなく貧しさの印なのだ。

肉屋に買い物に行かされて、豚肉を100グラム40円位(今の金銭感覚だと800円位?)で買った。それをカレーに入れて一家6人で食べるのだ。いま考えると、それはまさに貧しさの印だ。

話がそれた。

つまりこの頃は人口が多いということは決してポジティブには受け止められていなかった。戦後の経済発展の要因として豊富な人口資源が上げられないのは、この頃の教育の後遺症かもしれない。


ということで、記事の見出しは「引揚者は戦後の発展にどのように貢献したか」としたが、その答えは「目下不明、仔細検討中」ということになる。あしからず。

これまでの勉強で、①戦後引揚は空前の、ほとんど奇跡的と言っていいほどの民族大移動だったということ、②それがGHQの強力なイニシアチブのもとに行われた準軍事作戦だったということ、については理解ができた。

しかし3つめの問題、日本がそれをどのように受容したのかということについては、未だ理解が深まったとはいえない。以前浮浪児の勉強をした時に、浮浪児のかなりの部分が引揚者の子供だったことについて知っている。

彼らがさまざまな苦難を味わいつつ、どのように日本に適応し順化していったのかは、まったく未知のテーマである。(同時代者としてはお恥ずかしい限りであるが)

安岡健一さんの引揚者と戦後日本社会 という文献を見つけたので、紹介がてら抜き出してみる。

なお見出しは、我ながらちょっと大仰だと思う。ご勘弁を。

1.日本政府は嫌々ながらに受け入れた

日本政府は当初「現地定着方針」,つまり在留者はそのまま現地に止まるべきだという方針を打ち出していました。

「出来得る限り,現地に於て共存親和の実を挙ぐべく忍苦努力すべし」(8月31日の終戦処理会議)

ありていに言えば養育放棄だ。「忍苦努力」とは良くも言ったものだ。

2.GHQではなくアメリカ本国がイニシアティブをとった

GHQはポツダム宣言を履行するため軍の復員と解体を急いだが、民間人の帰還はその後と考えていた。

1845年の末にアメリカ本国の政府の方針が転換した。政府内で、中国大陸に日本人が存在し続けることへの警戒感が高まったためと言われる。

それを受けてGHQも日本人の「早期全面引揚」を実施する方向で動いた。

日本政府は最後の段階まで受入れに向けて自発的に行動せず,外地居住者の現地定着方針を維持し続けた。

3.引揚者は無産者だった

「日本」へ持ち込み可能な資産は一人1000円以内に制限された。それまでの財産は凍結された。

この大量の人の移動を受け止める時の条件は,まさにこれらの人が何も持っていなかったというところから始まるのです。

4.引揚者はよそ者だった

すなわち戦後日本の領域以外のアジアに暮らした経験があり,その意味において戦後日本社会においては「他者」であった,…「他者性」を強く帯びた存在であった。

ちょっと文学的表現だが、本音で言うとこういうことだ。

外地帰りの人はそれぞれの行った先で、それなりに「いい思い」をしていた。知識もあるし、皇国史観一色ではない。東京の子が田舎に疎開したのと同じで、お互いに馴染めないのである。

5.引揚者は怒っていた

彼らは周囲の状況が不穏になるに連れて、「帰心矢のごとき」状況で戻ってきた。

のではあるが、一面では急かされて身ひとつで、いわば「強制連行」のような形で連れ戻されたという側面もある。

GHQは連れてくれば仕事は終わり、政府はあからさまに迷惑顔、世間も自分のことで精一杯、という状況に引揚者はいきなり突き落とされた。「いま浦島」である。

彼らは「戦争の犠牲を(すべての国民が)均分化すべきだ」と主張しました。そしてこの理念に連なる個別の要求として「未帰還者の早期帰還」とか「生活保護の適用」「在外資産の補償の要求」等が出てくる形になります。

そして、出身地ごとに組織され、集団として声を上げるようになる。それ以外に実を守るすべはなかった。

1948年末から49年にかけてメディア上に「赤い引揚者」という言葉がしばしば登場します。

というのも、こういう背景があったからであろう。

6.もっとも深刻な住宅問題

1948年の時点で,京都府には引揚者約7万人,27000世帯が暮らしていました。その内約4000世帯が住宅を持たず収容施設を必要としていました。

当時の行政が,収容施設の運用によって対応できたのは,この内,わずか3割程度に過ぎませんでした。

ということは2800世帯が宿なし・ルンペン生活か物置ぐらし家族バラバラぐらしをしていたことになる。全体の1割強だ。京都でこうなら、ほかは推して知るべしだ。

7.「引揚者」の抹消

1950年以降,政府は「引揚者」の抹消に向けて動き出す。

引揚者は行政の「援護対象として考慮しない方針」からさらに進めて、引揚者寮を整理する方針が国から示された。

引揚者への対応変化は,占領の終結後に軍人恩給が復活し,旧軍人に対する援護が着々と整備されていくことと対称的です。

こうして敗戦直後に存在したさまざまな団体は,49年以降,大半が解散していく。

驚いたのだが、引揚者団体全国連合会

はもはや存在しない。このリンクはもうつながらない。
東京都千代田区永田町1-11-28相互永田町ビル2Fという住所はあるが、つながらない。

中国帰還者

公式のものとしてはアジア歴史資料センターの「公文書に見る終戦 -復員・引揚の記録-」というもの。

意外と言っては失礼だが、ウィキペディアの「引き揚げ」の記事が要領よくまとまっており、全体像の理解に役立つ。上のサイトもこの記事のリンクで初めて知った。「引揚者」という同種の記事もあるが、個別の人物にも焦点を当てているためにやや散漫な印象がある。

率直に言って、多くの記事は引き揚げについてと言うより引揚者の手記のようなものが多く、PDF論文も各論の迷路に入りこんだものがほとんどだ。

さらに右翼の諸君の記事はことさらに感情的で、一方的だ。


終戦時海外にいた日本人は、軍人350万人、一般邦人310万人であった。この内一般法人が「引揚者」と呼ばれ、軍人は「復員兵」と呼ばれた。 しかしその人達を載せた船はいずれも引揚船と呼ばれている。

「引揚者に対する特別交付金の支給に関する法律」(昭和42年)で「引揚者」の定義が行われている。

「外地」(日本本土以外の地域)に1945年(昭和20年)8月15日まで引き続き1年以上生活の本拠を有していた者で、終戦に伴って発生した事態に基づく外国官憲の命令、生活手段の喪失等のやむを得ない理由により同日以後日本に引き揚げた者

しかし、基準にはまらないケースが数多くあるため、3つのケース(内容略)が引揚者として扱われた。


昭和20年(1945年)

45年8月

8月 ポツダム宣言が発表される。日本軍の即時武装解除と早期本国帰還を一連の措置としてもとめる。いっぽう民間人帰還については触れられず。

8月14日 外務省、在外公館に対し「三カ国宣言受諾に関する訓電」を発する。「居留民はできる限り現地に定着させる方針」を指示。

8月15日 終戦(ポツダム宣言受諾声明の発表)。この時点で軍人・民間人計660万人以上が海外に在住していた。

陸軍が308万人、海軍が45万人。一般人300万人。
軍管区別では中国312万人(47%)。ソ連(旧満州ふくむ)161万人(24%)。英蘭74万人(11%)。オーストラリア(ボルネオ、英領ニューギニアなど)14万人(2%)。アメリカ(沖縄などふくむ)99万人(15%)

8月21日 総合計画局および内務省管理局が在外邦人引揚の計画を立案することが決まる。(実際にはまったく計画は進行しなかったようである)

8月22日 樺太からの引揚者を載せた小笠原丸・泰東丸・第二新興丸、増毛町沖において、国籍不明の潜水艦の攻撃を受ける(後にソ連軍潜水艦であったことが判明)。小笠原丸・泰東丸が沈没。3隻で約1700名の犠牲者を出す。

8月23日 朝鮮に向かう引揚船浮島丸、舞鶴湾港外において触雷・沈没。524名が死亡。

機雷の触雷事故としては、45年だけで、この他室戸丸(10月7日神戸・魚崎沖 死者355名)、華城丸(10月13日神戸港沖 死者175名)、珠丸(10月14日壱岐島勝本沖 死者541名)がある。

8月23日 ソ連、残留日本兵のシベリア抑留(強制労働)を決定。

8月28日 横浜に米軍が進駐。朝鮮在留日本人送還のため、釜山と仙崎・博多を結び興安丸、徳寿丸の運行を許可。

8月30日 次官会議、外地および樺太在留邦人の引揚者に関する応急措置要綱を決定する。

45年9月

9月01日 興安丸が釜山に向け仙崎を出港。翌日には引揚者7000人を載せ仙崎に入港。引揚船第一船となる。

9月03日 100総トン以上の船舶がGHQ総司令部の指揮下に入る。

9月07日 「外征部隊および居留民帰還輸送等に関する実施要綱」が閣議で了解される。「現地の悲状にかんがみ、内地民生上の必要を犠牲にしても、優先的に処置する」ことを指示。(この項については9月20日の記事と食い違いあり、少し検討が必要。)

9月15日 氷川丸が舞鶴を出航。軍人・軍属(約2千人)の救援のためマーシャル諸島のミレ島に向かう。

氷川丸(NKK)と高砂丸(OSK)の2隻が日本に残された外洋航海可能な船舶だった。ともに特設病院船として艤装されていた。(別記事に掲載)

9月18日 引揚者上陸港(10ヶ所)が指定される。舞鶴、浦賀、呉、下関、博多、佐世保、鹿児島、横浜、仙崎、門司。(記事からは誰が指定したのか不明)

9月20日 「外地から内地に引揚げる者…に対する応急援護のため」都道府県に引揚民事務所を設置することを決定。(帰郷した引揚者への内務省レベルの対応であろうか?)

9月24日 次官会議、海外邦人帰還に関し、「極力海外に残留せしめるため、その生命財産の安全を保障する」ことを決定。

連合軍は「日本陸海軍の移動に第一優先を、民間人の移動に第二優先を附与すべし」と指示したとされる。

45年10月

10月03日 アーノルド軍政長官、在朝日本人の本国送還を発表。これを機に、民間人の引き揚げが本格化する

10月10日 GHQ、佐世保などを引揚受入港に指定。引揚事務所を設置する。

10月14日 済州島からの引揚第一船が佐世保に入港。陸軍部隊9997人が上陸。(良く分からないが輸送船1隻に1万人も乗るだろうか。スッポンポンでもあるまいに)

10月15日 GHQ、引揚者の受け入れのため受入事務所の設置を指令。引揚に関する中央責任庁として厚生省が任命される。(GHQは内務省を解体し、あらたに引揚者のためのシステムを立ち上げたとみられる)

10月16日 GHQの細部指令。海外日本人の本国送還に関する方針、引揚のための船舶確保等について指令。

GHQ・極東海軍司令官の下にSCAJAP(Shipping Control Authority for Japanese Merchant Marine)が設立される。100トンを超える船舶の運航や船員管理にあたる。氷川丸などの病院船運行もSCAJAPが管理する。

10月22日 厚生省社会局に引揚援護課を新設。浦賀・舞鶴・呉・下関・博多・佐世保・鹿児島に地方引揚援護局が設置される。また横浜・仙崎・門司の三出張所が設置される。

45年11月

11月24日 上記に加えて唐津、仙崎、宇品、田辺、名古屋、函館に地方引揚援護局が設置される。(この後5月までの半年にわたり頻繁に新設・廃止が繰り返される。いかにも戦闘態勢である)

11月01日 栄丸遭難事件が発生。台湾疎開から沖縄行きの引き揚げ船が遭難して約100人が死亡。

当時、沖縄は米軍占領下に置かれ、引き揚げ事業は開始されていなかった。このため多くの沖縄出身者は民間船による密航で自力帰国した。

45年12月

12月01日 陸軍省、海軍省が廃止される。後身として第1(陸軍)、第2(海軍)復員省が発足。

復員省の所管のもとに佐世保など旧鎮守府に地方復員局が設置された。旧陸海軍軍人の引揚業務を行う。職員の大半は引揚船に乗組み、旧軍人、一般邦人を迎えに行く。

12月01日 厚生省、引揚援護局を設置。一般邦人の引揚業務を開始。

12月7日 スカジャップ、日本船に加え、米国艦船を導入し復員業務に投入。

リバティ型輸送船(7000トン)を100隻、LST艦(戦車揚陸艦3000トン)を85隻、病院船6隻が貸与された。

12月15日 「生活困窮者への緊急生活援護要綱」が閣議決定される。戦災者・引揚者・留守家族・傷痍軍人・戦没遺家族等に対し緊急援護の措置を講じるもの。


昭和21年(1946年)

46年1月

1~10月 海外からの引揚げがピークを迎える。最初は南洋諸島からの民間人約2万人の引き揚げ。この作戦は4月までにほぼ完了。

1月15日 NHK、「復員だより」の放送を開始。約1年にわたり続けられる。

1月 中国国民党、中国共産党、アメリカの三者会談。中国残留日本人の帰還方式について協議。東北部残留の日本人を国民党支配区に移送、遼寧省錦州 の葫芦(ころ)島から送還することで合意。なお旧関東州と安東(中朝国境)の日本人は東北民主連軍(紅軍)とソ連軍が送還することとなる。

46年3月

3月 ソ連軍の東北部撤退が本格化。これに代わり国府軍が東北部に進駐開始。

3月 引揚援護院が設置される。援護局、医務局、地方引揚援護局がおかれる。

3月16日 GHQ、「引揚げに関する基本指令」を発する。

3月 福岡に女性患者のための「二日市保養所」が設置される。

4月 南朝鮮にいた民間人のほとんどが日本へ引き揚げを完了。総数は40万人におよぶ。

46年5月

5月7日 錦州地区に集結した日本人が、葫芦島からの引き揚げを開始。46年末までに102万人、48年末までに105万人の送還を完了。葫芦島に移動するまでの間に24万人が死亡したとされる。

満州からの引き揚げ者の犠牲者は日ソ戦での死亡者を含めて約24万5000人にのぼり、このうち8万人近くを満蒙開拓団員が占める。民間人犠牲者の数は、東京大空襲や広島への原爆投下、さらには沖縄戦を凌ぐ。
6月 第一復員省と第二復員省が統合して復員庁となる。その後厚生省に所属。

10月05日 大陸同胞救援連合会が結成される。中国に取り残された日本人の帰還促進を呼びかける。

11月27日 「引揚に関する米ソ暫定協定」サハリンと北朝鮮、大連のソ連占領地区からの日本人引き揚げが米ソ間で合意。

11月 テイチクから田端義夫の「かえり船」が発売され、大ヒット。(歌詞はどうもしっくりこない)

46年12月

12月8日 シベリア引き揚げ船第一船、大久保丸などが5000人を乗せて舞鶴に入港。大連引き揚げ第一船が佐世保入港、3000人帰還。

12月19日 日本の要請を受けたアメリカがソ連との交渉。「ソ連地区引揚に関する米ソ暫定協定」が成立。サハリンと千島地区からの引き揚げが開始。49年7月の第5次引き揚げまでに29万2590人が引き揚げる。(終戦時の在住者は40万人。公式引き揚げまでに数万人が脱出していた)

12月 共産党支配地域を含めて、東北部の日本人の大半が引き揚げを完了。

12月 46年末までに、東南アジア、台湾、中国、朝鮮半島南部居住民の9割が引き揚げを完了。

昭和22年(1947年)

22年末までにソ連軍管区以外の陸海軍兵士の復員がほぼ完了。

 

昭和23年(1948年)

5月 引き揚げ事業が一段落したのを機に、復員局と引揚援護院は一体となって引揚援護庁という厚生省の外局となった。これに伴い地方引揚援護局はすべて閉鎖される。

引揚者団体全国連合会が発足。

昭和24年

01月09日 佐世保にボゴタ丸が入港。フィリピンより日本人将兵4,515人の遺体と300余柱の遺骨を運ぶ。1ヶ月をかけて野天で火葬される。身元不明の遺骨300は、そのまま埋葬される。

6月27日 ソ連からの帰還者を乗せた高砂丸が到着。乗船者2千名は”インターナショナル”を歌いながら入国する。

24年末までに軍人軍属を含む624万人が帰還を完了。その後、朝鮮戦争の開戦により帰国事業は停滞。

昭和25年

4月 ソ連の捕虜抑留の実態が明らかになる。国会は「在外抑留同胞引揚に関する決議」を採択し国連に提訴する。国連は捕虜特別委員会を設置。

昭和27年

12月 北京放送、中国在留の日本人3万人の帰還を援助すると発表。

昭和28年
3月5日 北京協定が締結される。「日本人居留民帰国問題に関する共同コミュニケ」発表。

3月23日 中国からの帰還が再開される。第一船は興安丸、第二船は高砂丸で合計3968人。

中国帰還者

11月19日 日ソ赤十字会談。「日本人捕虜の送還に関する共同コミュニケ」を発表。

11月26日 興安丸、ソ連からの再開第一次引揚船として舞鶴を出港。

昭和29年(1954年)

3月31日 厚生省の引揚援護庁が廃止される。

昭和30年(1955年)

6月 日ソ国交回復交渉が開始。日本はシベリヤ抑留者全員の即時帰国をもとめる。

昭和31年

7月 中国からの釈放日本人戦犯335名が興安丸で舞鶴に入港。

10月 日ソ共同宣言・通商議定書調印、抑留者全員の釈放が決定される。

12月26日 興安丸最後の便が舞鶴港に入港。シベリヤ抑留者の最終集団が帰国。

日ソ国交回復により、樺太の日本人約800人とその朝鮮人家族約1500人が集団帰国 

 


引揚げ関係年表として下記を参照した。

引揚関係年表(全般)

引揚関係年表・昭和21年

引揚関係年表・昭和22年

ウィキペディアの以下の事項を参照した。

引き揚げ

引揚者

引揚援護庁

地方引揚援護局

在外父兄救出学生同盟

栄丸遭難事件

三船殉難事件 小笠原丸 第二号新興丸

葫芦島在留日本人大送還

興安丸 高砂丸

引揚者団体全国連合会

 

戦後引き揚げを勉強してみて、いくつか初めて分かったことがある。
第一に、これはすさまじい大作戦だったということだ。

終戦時海外にいた日本人は、軍人350万人、一般邦人310万人であった。その殆どを昭和21年末までにほぼ引揚完了させている。ソ連軍管区はやや遅れたものの、その後の1年の間にほぼ帰還を完了させている。

わずか1年半足らずの間に500万人以上の移動をやり遂げたのだ。当時の交通状況を考えれば、驚異的な数字である。ある意味で「史上最大の作戦」とも言える規模だ。

まずこのことに我々はもっと関心を抱くべきであろうと思う。

第二に、これはアメリカによる準軍事作戦だったということだ。

虚脱状態にある日本政府に、そのようなことができようはずはない。キャパもなかったし、やる気もなかったろうと思う。

その尻を叩いてやらせたのはアメリカである。しかもポツダム宣言の最重要課題として、軍事作戦並みの厳しさでそれを遂行させた。そのための資材も惜しみなく与えた。返還を渋る国があれば頭越しに直接交渉して、返還交渉をまとめ上げた。だから出来たのである。

我々は氷川丸や高砂丸、興安丸の活躍ぶりを知っている。しかし少し計算してみればわかることであるが、一回の搬送人員が数千人として、三隻で1万人だ。600万人運ぶにはそれぞれが600回往復しなければならない。

氷川丸など修理続きで、せいぜい5,6回往復しただけでお役御免になっている。つまり引揚者の大多数は米軍のリバティー船やLSTで帰ってきたのだ。

第三に、600万人もの「難民」を一気に受け入れさせられた側の受け入れ能力である。

あのドイツでさえ東西統一のあと東ドイツを持て余した。東ドイツは想像以上に貧しかった。なんとか経済的に受容したが、10年はかかった。

日本は敗戦直後で居住者でさえ食うに事欠く状態だ。そこに突如600万人の「よそ者」が裸同然で飛び込んできたわけだ。我が家でさえ、4人も居候が転がり込んできた。祖父、叔父、叔母、それと未だに何だったのかわからない人が一人いた(まもなくいなくなったが)

それがなんとか飢え死にしなくて済んだのは、直接的には配給と闇屋のおかげだが、より根本的には日本にまだ余力があったからだ。本土決戦をやらなくて済んだおかげだ。(沖縄の人には申し訳ないが)

その余力がどこにあったのかは今後の検討課題である。しかし「国破れて山河あり」という時の山河は、この場合、ただの自然ではなく人的資源やノウハウの蓄積を含めた「隠れ資産」と見るべきであろう。


他にも未だあるだろうが、言いたいことは「戦後引揚」を社会現象とか恨みつらみとしてみていたのでは本質を見誤るということだ。

我々は(正確には“私”は)、「引き揚げ」というとどうもナホトカから興安丸に乗って舞鶴に着いた抑留者のイメージを抱きがちだが、あえて言えばそれは「落ち穂拾い」であり、引き揚げの大部分はそれよりずっと前、終戦直後から1年半から2年のうちに集中していたということを銘記しておくべきであろう。

こんな動画 と書いたのですが、実はこの前後に延々と映像が続いていて、すべて1946年5月の日本の情景です。

すべて“総天然色”。日がな見ていてすっかりハマりました。

感想を総じて言えば、この時点でも日本は廃墟どころではないということです。

アメリカがどのくらい爆弾を落としたかは知らないが、日本全土の広さから言えば引っかき傷程度で、戦前の日本はほとんど無傷で生き残っていることがわかります。

確かに大都市の殆どは焼け野原になりましたが、実のところペラペラと燃え上がったのは庶民(街場の勤労者)の民家だけで、生産設備は結構しぶとく生き残っていたこともわかります。

ポツダム宣言の受諾をめぐって、軍部が「まだ戦える」と突っ張ったのも、あながち“狂気の沙汰”とばかりは言い切れないかも知れません。

これだけの社会的・経済的土台が残っていて、その上においかぶさっていた内務省官僚だの、軍部だの、コンツェルンだの、要するに「絶対主義天皇制」のかさぶたが取れれば、戦後日本が大発展を遂げても何の不思議はないでしょう。

田舎は昭和10年代の最盛期日本の力と気分をそのまま維持していた。その力が都市の再生と新権力層の成立を促し、一方で600万人に及ぶ帰還者を受容し生産力に転換させていったのだろうと思います。

昭和30年、「戦後10年、戦後は終わった」と盛んに唱えられました。私もおさなごころに覚えています。

ちょうどこの頃に、日本の生産水準は戦前の最高レベルを超えたのです。「戦後は終わった」という言葉は実に時代の雰囲気をよく象徴していました。

しかし、いま考えてみると、「戦争がなかったごとく」生活を続けてきた田舎の人々にとっては、「戦後は終わった」のではなく、「戦前は終わった」という実感のほうがふさわしかったのではないでしょうか。たしかに「一つの時代が終わった」という実感には間違いありませんが…


ちょっとこの感覚というのは大事にしていきたいと思います。

「戦後70年」を評価するときに、あるいは戦後の保守主義を評価するときに、決定的な拠り所の一つになるかもしれません。

我々が「興安丸」というと舞鶴、ナホトカ、抑留者ということになるが、実はその前に引揚船として大活躍していた。

そのことを今回はじめて知った。

興安丸の活動の歴史は大きく3つに分かれる。

最初は昭和12年から敗戦までの間で、その間は関釜連絡航路の新鋭船として活躍した。

第二期は敗戦から昭和23年までで、この時期は引揚船として釜山と日本の間をピストン輸送した。

これが終わったあと、いったん民間に払い下げられたが、朝鮮戦争が終わったあと、引揚が再開されると、昭和28年からふたたび引揚船として活躍した。往復の回数は延べ22回に及んだ。

これが舞鶴、ナホトカ、抑留者ということになる(ナホトカだけでなく天津、の秦皇島、樺太のホルムスクにも往復している)。道理で私が憶えているわけである。田端義夫ではなく「岸壁の母」の時代だ。

昭和31年末をもってシベリア抑留者の帰還が終わり、それとともに引揚船としての興安丸の時代は終わる。(その後昭和34年にベトナムからの帰還者受け入れのためハノイにも往復している)

その後幾多の変遷を経て、最終的には昭和45年に解体されて一生を終える。

ということで、仙崎の引揚者の話はこの第二の時期に相当するわけだ。


興安丸と仙崎には因縁話がある。

昭和20年4月、興安丸は下関沖で機雷に触れ損傷した。その後、興安丸は長門須佐湾に避難し、8月の終戦まで潜んでいた。

終戦後興安丸はふたたび航路についたが、それは仙崎・博多・釜山を結ぶ三角航路だった。なぜ戦前のごとく下関・釜山でなかったのかはよく分からない。佐世保と同じで帰還者の収容施設の関係だったのかもしれない。

氷川丸と高砂丸の行動については、文章ごとに、細かいところに期日の異同がある。

こういう時はアメリカ文献の方が当てになる。

"IJN Hospital Ship Hikawa Maru: Tabular Record of Movement"

"IJN Hospital Ship Takasago Maru: Tabular Record of Movement"

より、紹介する。

氷川丸

氷川丸

1945年8月15日: 交戦停止。病院船HIKAWA MARUとそれより少し小さいTAKASAGO MARU(Scapjapナンバー H-022)は、戦争を乗り切った大きい日本の客船である。

1945年9月: 占領軍、HIKAWA MARUに対し南洋、中国とオランダ領東インド諸島から日本まで兵士と一般人を輸送する業務につくよう命令。

1945年9月10日: 舞鶴を出港。Milleに向かう。

1945年9月27日: Milleに到着する。本国へ送還される軍隊・人員を乗船させて、同じ日に出発する。

1945年10月7日: 浦賀に到着する。
45年10月浦賀に入港した復員船「氷川丸」

45年10月浦賀に入港した復員船「氷川丸」

1945年10月26日: 浦賀を出発。

1945年10月31日: ウェーク島に到着する。およそ1,000人の兵士を乗せる。その後Kusaieに到着する。復員兵士・人員を収容。
1945年11月12日: 浦賀に到着する。軍隊・人員を陸揚げする。

1945年11月15日: 浦賀造船で修理とメンテナンスを経る。

1946年1月2日: 1ヶ月半を経て、修理が完了する。浦賀を出港。

1946年1月6日: 基隆(台湾)に到着する。軍隊と乗客を乗船させる。

1946年1月14日: Wewak(ニューギニア)に到着する。軍隊と乗客を乗船させる。

1946年1月23日: 浦賀に到着する。軍隊と乗客を陸揚げする。

1946年2月2日: 浦賀を出港。

1946年2月6日: 基隆に到着する。軍隊と乗客を乗船させる。

1946年2月15日: Fauro島に到着する。軍隊と乗客を乗船させる。さらにTorokinaに向かう。軍隊と乗客を乗船させ、その日に出発する。

1946年2月27日: 浦賀に到着する。軍隊と乗客を陸揚げする。

1946年3月3日: 横浜港を出発。ラバウルに向かう。

1946年3月11日: Rabaulに到着する。軍隊と乗客を乗船させる。その後、基隆に向かい、軍隊と乗客を乗船させて、その日出発する。

1946年3月23日: 鹿児島に到着する。軍隊と乗客を陸揚げする。その日、出発する。

1946年3月28日: 釜山に到着する。軍隊と乗客を乗船させて、その日出港。

1946年3月31日: 浦賀に到着する。軍隊と乗客を陸揚げする。その後乾ドックに入る。

1946年5月6日: 1ヶ月にわたる修理が完了する。浦賀を出港。

1946年5月15日: メナドに到着する。軍隊と乗客を乗船させて、その日出発。その後、Morotai、Balikpapan(ボルネオ)、サマリンダ、Makassar(セレベス)、バリ(インドネシア)をへてMorotaiにもどる。

1946年6月16日: Otaka(大阪?)に到着する。軍隊と乗客を陸揚げする。

1946年6月23日: 呉を出港。上海に向かう。

1946年7月5日: 上海から浦賀に到着する。軍隊と乗客を陸揚げする。

これが最後の帰還業務となる。この後改装を行い、NYKに返還される。

高砂丸

高砂丸

1945年9月2日: TAKASAGO MARU、帰国義務を引き受ける最初の日本の船となる。芝浦を出港しカロリン諸島のWoleai島、Woleai島に向かう。

1945年9月19日: Mereyonに到着する。軍隊と乗客を乗船させて、その日出発する。

1945年9月25日: 別府に到着する。軍隊と乗客を陸揚げする。

1945年10月24日: 徳山を出港。ミンダナオ島ダヴァオに向かう。

1945年10月29日: Davaoに到着する。軍隊と乗客を乗船させて、その日出発。

1945年11月1日: 佐世保に到着する。軍隊と乗客を陸揚げする。

1945年11月16日: 佐世保を出港。ふたたびダヴァオに向かう。

1945年11月27日: マニラに到着する。軍隊と乗客を乗船させる。

1945年12月1日: 公式に呉のAllied Repatriation Service所属となる。

1945年12月10日: Otakaに到着する。軍隊と乗客を陸揚げする。

1945年12月27日: Otakaを出発する。

1946年1月1日: Taclobanに到着する。軍隊と乗客を乗船させる。

1946年1月7日: マニラに到着する。軍隊と乗客を乗船させる。

1946年1月19日: 佐世保に到着する。軍隊と乗客を陸揚げする。この後、第二復員省の復員輸送艦に指定され中国からの引揚業務にあたる。
1946年1月30日: 10日間の修理を終え、佐世保を出港。上海に向かう。

1946年2月5日: 鹿児島に到着する。上海からの軍隊と乗客を陸揚げする。

1946年2月6日: 鹿児島を出港。ふたたび上海に向かう。

1946年2月13日: 鹿児島に到着する。上海からの軍隊と乗客を陸揚げする。

1946年2月24日: 佐世保を出港。上海に向かう。

1946年3月2日: 博多に到着する。上海からの軍隊と乗客を陸揚げする。

1946年3月4日: 博多を出港。塘沽(天津)に向かう。

1946年3月14日: 博多に到着する。塘沽(天津)からの軍隊と乗客を陸揚げする。この後、博多と塘沽の間をもう一往復。博多と上海の間を一往復。

1946年4月16日: 高雄に到着する。軍隊と乗客を乗船させる。

1946年4月23日: 佐世保に到着する。軍隊と乗客を陸揚げする。

1946年5月8日: 佐世保と塘沽の間を二往復する。

1946年6月5日: 神戸で修理に入る。

1946年6月26日: 3週間の修理を終え、神戸を出港。上海に向かう。

1946年7月7日: 佐世保に到着する。軍隊と乗客を陸揚げする。

1946年7月18日: 佐世保を出港。Korojima(天津)に向かう。

1946年8月4日: 佐世保に到着する。軍隊と乗客を陸揚げする。

1946年8月15日: 海軍List.から削除される

その後も高砂丸はナホトカ・舞鶴間、天津・舞鶴間の復員事業に参加している。1956年に名村造船に売却されスクラップとなった。

何か氷川丸と比べると、あまりにも差別されているような気がする。ブスは損だ。


どうでもいいけど、Otaka というのがわからなくて、グーグルで探したらこんな動画がありました。名古屋の大高はOdaka ですね。たしかに港の近くではありますが…

Fire fighting equipment being towed out of its underground revetment at an oil refinery in Otaka, Japan.

1946年5月30日に撮影した映像のようです。便所の汲み取りが珍しかったようで、長々と撮影しています。

追記: Otakaは大竹のようです。海兵団の跡地が利用されたのは佐世保と似ています。ここも41万人を受け入れています。


 

佐世保市のホームページから

引揚者は小船に乗りかえて浦頭(うらがしら)桟橋に上陸した。

引揚者は、し検疫(けんえき)を受けた。のみ、しらみ等の有害寄生虫(きせいちゅう)防除のため、DDTを身体中に吹きつけら れた。15歳から55歳までの女性は、婦人相談所で健康の問診を受けなければ「引揚証明書」が交付されなかった

引揚げのピークの21年1月~10月は毎月7万~12万人が上陸した。

厚生省の佐世保引揚援護局は、1日5,000人余を賄う元針尾海兵団内の 兵舎を援護局宿舎にあてた。収容人員は最高25,000人に達した。世話をする職員も1,000人を越えた。

引揚者は南風崎(はえのさき)駅から満員の引揚列車に乗り、故郷や親類縁者の家へと向かった。

やっと内地にたどり着いても栄養失調や病気で死んだ人が4,000人 もいた。その内半数は乳幼児だった。

引揚船内でコレラが流行し、佐世保港内に停船したまま何日も上陸できなかったこともあった。1ヶ月に600人の死者が出て、不眠不休で遺体の火葬を行ったこともあった。

ということで、浦頭とか南風崎などと馴染みのない地名が出てくる。そこで例によって地図を検索してみた。

南風崎

次に南風崎をウィキペディアでチェックする。

南風崎駅(はえのさきえき)は、長崎県佐世保市南風崎町にある、九州旅客鉄道(JR九州)大村線の駅である。
現在のハウステンボスの周辺に浦頭港という港があり、接続駅になっていた。太平洋戦争後、1945年(昭和20年)10月から1950年(昭和25年)4月まで、中国・東南アジア方面各地からの復員者・引揚者がこの駅より専用列車に乗り込んだことで有名。
昭和20年代初期の時刻表には、2 - 3往復の南風崎駅始発東京行きの普通列車(下りは早岐行き)が不定期列車として掲載されており、引揚援護局設置当時をしのぶことができる。

ということで、きわめて分かりやすい説明をありがとう。


まずは簡単なところから

仙崎について

山口県というところは、地図で見るとまことに取りとめないところで、たぶん下関と岩国が大所なのだろうが、いずれも県の端っこに位置しており、山口はいかにも政治的バランスで県庁所在地になっただけという感じだ。

山口大学(医学部)は宇部だったと思う。そして日本海側に長門市と萩市がある。長門市というのもいかにも町村合併のドサクサでつけましたという名前で、作り物めいている。

実はわたしは今日まで萩と長門市を混同していた。地図で見ると随分離れているから、商圏としても独立しているのであろう。

長門市に大きな島がくっついているのも初めて知った。日本海というのは、とくに山陰ではのっぺりとした海岸線がダラダラと続いているだけかと思っていた。しかしこの辺りはリアス式と言ってもいいほどの込み入った海岸線が形成されている。

山口

で、仙崎に行く前に長門市。

長門市は今年9月時点で人口3万5千人、胸を張って「市です!」と答えられる市である。と言っても40年前には5万5千人だったから、過疎化・高齢化の真っ直中にあることも間違いない。

昭和29年に大津郡深川町、仙崎町、通村、俵山村が合併、市制施行し、長門市になる。(ウィキペディア)

とのことだから、必ずしも最近のことではない。それにしても近隣から市名について文句は出なかったのだろうか。

それで深川の方が中心になってしまったのだが、この深川という町、なにもない。城下町でもないし産業都市でもない。むかし美祢の炭鉱(無煙炭がとれた)とを結ぶ鉄道の山陰本線とのジャンクションになっているから、それで発展したのかもしれないが、いまとなってはただの思い出話だ。

なお現在は長門市だが、平成の大合併まで日置町として存在した日置村の村長を務めたのが安倍晋太郎の父安倍寛で清廉潔白な人格者として知られ、地元で「大津聖人」、「今松陰」などと呼ばれた。

ホンマに情けない孫だ。

ということで、仙崎

仙崎

これで景色が悪かろうはずがない。市外は仙崎駅から海峡までの三角地帯だ。

ウィキペディアによると

関釜連絡船として就航していた興安丸が母港として釜山と仙崎・博多港を往復した。

仙崎港で受け入れた引き揚げ者は413,961人。これは博多・佐世保・舞鶴・浦賀に次ぐ5番目の人数である。

葫蘆島(華北)、上海、釜山からの上陸者が多かったと言われる。引揚者は汽車で下関に行き、そこから全国に分散した。

と、とりあえずここまで

本日のラ・テ面に、初めて知る事実が掲載されている。

記事そのものは、山口放送制作の「奥底の悲しみ~戦後70年、引き揚げ者の記憶」という番組の紹介なのだが、この番組が「特殊婦人」を知らしめた初物尽くしのすごいものだ。

引揚援護局は引揚者の中に「特殊婦人」という分類を設けていた。それぞれの港に「婦人特殊相談所」も設けられていた。

以下、引用させていただく。

「特殊婦人」とは、敗戦後の中国大陸や朝鮮半島で旧ソ連軍兵士から性的暴行を受けた女性たちのことで、望まない妊娠に苦しんだ人もいました。

この事実が、いくつかの証言で裏付けられていく。

「女学校の級友の3分の1が帰ってこなかった」「抵抗すれば殺された」「帰国する船から海に飛び込んだ人もいた」

福岡県二日市町(現つくし野市)に解説された保養所では、極秘裏に中絶が行われていた。当時保養所の看護婦を務めていた女性は「一日も早く体をきれいにして故郷に帰してあげたかった」と語ります。

以上が核心的事実。

それ以外にも知らなかったことがひとつ。山口県長門市の仙崎というところに港があって、ここも戦後引揚げ者を迎え入れていた。その数が41万人というのには驚いた。

恥ずかしながら、引揚者イコール興安丸イコール舞鶴港というのが刷り込まれていて、疑ったこともなかったが、考えてみればなぜわざわざ舞鶴なのかという疑問は湧いて当然だ。

「特殊婦人」ももちろんそうだが、戦後引き揚げの実相を少し調べてみなくてはいけないようだ。


忘れていた。この記事は山口放送でこの番組の制作にあたった佐々木聡ディレクターを讃えたものだ。佐々木さんはこの番組で日本放送文化大賞グランプリを獲得したそうだ。この記事からだけでもそれだけの重みはありそうだ。


ということで、調べた結果が以下の記事


名前出していいのかわからないが、そういう名前でコメントしてくれたので、そういう人だということにして使わせてもらう。
12月14日CDG利用しました。
喫煙所ありました。
K37横です。
JAlがK41から搭乗なのですぐ近くです。
ローマ(FCO)もありました。
これでは流石に何のことやら分からない。
解説すると、CDGは Aéroport de Paris-Charles-de-Gaulle の略。パリ国際空港のことだ。
K37とかK41というのは搭乗口の番号。
JA lというのは日本航空。社用の人でないとなかなか使えない。
国際線Aérogare 2のターミナルEのことだろう。
cdg
きっとこの辺りだ。以前報告した通り。
ついでに
ローマ(FCO)というのは Aeroporto di Fiumicino の略。正式にはローマ市ではなく近郊のフィウミチーノ市にある。正式にはレオナルド・ダ・ヴィンチ空港と呼ばれるが、「丹頂釧路空港」と同じで、誰もそうは呼ばない。
ここも、情報通りに喫煙所があったということで、ご同慶の至りである。

Four comfortable furnished smoking lounges equipped with strong exhaust fans allow passengers to smoke in these designated areas within the airport. They are located in:

  • the Departures Area of Terminal 1 airside, beyond the security checkpoint
  • Terminal 3, Boarding D area for international departures
  • Terminal 3, Boarding G area for international departures
  • Terminal 3, Boarding H area for international departures
禁煙対策にはラチェットがかかっていて、一度進むと後戻りは効かない。今はただ「嫌煙テロリスト」みたいな大統領が登場しないことを祈るのみである。







ベネズエラの選挙結果について

1.選挙結果について

12月6日に行われたベネズエラ国会選挙で、故チャベス以来民族革命を担ってきた左派政党が大きな敗北を喫しました。政権を担ってきたマドゥロ大統領は、今後は少数与党のもとで難しい政権運営を迫られると思います。

2.野党勢力の狙い

野党連合は選挙後に声明を発し、民営化を推進すること、外国資本を積極的に導入すること、放送の「中立化」を促進することなどを公言しています。また労働者保護法や貧困者への福祉なども削減する方向です。

そして選挙法を改正し、憲法を改正し、最終的にはマドゥーロ大統領を解任することを狙っています。

3.選挙の敗北の原因

故チャベスが1999年に大統領に就任して以来、ベネズエラの人々の暮らしは劇的に改善しました。それは国際機関も認めているところです。しかし最近では国民の要求も多様化し、それに応えることができなかったことから物不足・インフレが亢進し、国民の不満が高まっていました。

そして昨年からの「逆オイルショック」で財政が困難になったことから、不満が一斉に野党側に流れたものと思われます。

もう一つの原因は、アルゼンチンの大統領選挙の敗北にも見られるように、アメリカがラテンアメリカに対する攻撃を強めていることです。今回の選挙でも大企業・野党連合が物不足を意識的に煽った(いわゆる「経済戦争」)と言われています。また以前の政権から引き継いだ「ガソリン補助金」制度などバラマキ型の財政システムも危機をもたらしたと言われます。

4.選挙敗北の影響

ラテンアメリカ諸国は平和と連帯のイニシアチブをとり続け、米国の覇権を拒否し、多くの国でクーデターの企てを食い止め、域内貿易を発展させてきました。キューバと米国の国交回復もラテンアメリカ諸国の働きかけで初めて可能となったものです。

その先頭に立ったのがベネズエラでした。そのベネズエラが挫折することの影響は計り知れないものがあります。アメリカはアルゼンチン、ベネズエラに続いてラテンアメリカ最大の国ブラジルを狙っていると言われています。

5.ラテンアメリカとベネズエラ人民との連帯と強めよう

今後米国と野党連合はマドゥーロ政権の打倒を狙いさまざまな不安定化工作を強めると思います。民衆への攻撃もさらに強まるだろうと思われます。

私たちも戦争法廃棄などの闘いを強めるとともに、アメリカと国際的独占企業との共通の闘いとして、ラテンアメリカとベネズエラ人民との連帯を強めていく必要があると思います。

下の図は、前項記事につけられたものである。

「ベネズエラ革命が何を残したのか」を、何よりも雄弁に物語ってている。

b&a

テレビ番組ではないが、まさに「劇的変換! ビフォア・アンド・アフター」である。

ちょっと見にくいので説明しておく。

左の灰色がチャベス革命の前、右のえんじ色が革命後である。

一番上が平均年間インフレ率である。前が48%、後が27%でその差は歴然である。ただしこれにはイロイロ事情があって、単純には比べられない。

2番めが失業率。これも11%から6%に劇的に低下している。ただこれも景気が劇的によくあったわけではないので、失対事業などでふくらませている可能性はある。

3番めは貧困率。これも失業率とほぼ平行している。

4番めは社会支出(Social Spending)で、11%から19%に著増している。

下から2番めは年金受給者数(Pension Recipients)。39万人から258万人へと6倍強に増えている。といっても、革命前には軍人か役人くらいしかもらっていなかったということだろう。

一番下は大学へのアクセスということだが、どういう数字なのかわからない。まぁ大幅に増えていることは間違いない。

以上のごとく革命前後の差は歴然としている。「バラマキ」と言われようと、これだけの数字(マクロ)を示されれば、左翼政府の功績は否定しがたい。

しかし、それは、「それなのに、なぜ負けたのか」という答えにはまったくなっていない。

おそらくいちばん安易だが説得力のある説明は、バラマキでつなぎ留めてきた支持が、逆オイルショックで不可能になった、ということになるのではないか。

とくに厳しい輸入制限で、「金はあるのに、物が買えない」という閉塞感は相当不利に働いたと思う。

財政問題では、とくに非常識なガソリン補助金制度が、財政の底に穴を開けてしまった。ただこれは経済攻撃の手段として意図的に利用された可能性もある(断定はできないが)。

この問題については下記を参照されたい。

原油安問題については下記を参照されたい

ベネズエラ 選挙後どうなる?

迫り来る民営化

テレスール国際リサーチ部(ベネズエラ政府が出資する国際通信社)

12月14日


1.右翼連合(MUD)の圧勝

右翼の連合(MUD)は12月6日のベネズエラの下院選挙で圧倒的多数を勝ち取った。

それは過去17年にわたる左翼政権の政策や法律から劇的に離脱することを意味する。

選挙戦の只中に、MUDはウェブサイトで法律のリストを発表した。議員たちは1月5日に議会が開始されたら。それらの法律をひっくり返すと公言した。

そこには、基礎生活商品の価格統制の撤廃、重要企業やサービスの民営化、基盤産業の外国企業への譲渡、地方警察の強化、公共メディアの「独立」と民営化などがふくまれる。

これらの変化は、劇的にベネズエラの政治・社会景観を変えるだろう。

2.価格統制の廃止と民営化

価格統制諸法(the fair prices and food security laws)の撤廃は、ベネズエラ人に必需品への安価なアクセスを失わせ、公平な価格と食糧安全保障を無効にするだろう。

野党は言う。「これがもの不足の問題を解決する」と。

政府は反論する。物不足の原因は密輸犯罪と野党の支援する経済戦争のためだと。

他の2つの法律は、民営化への道を開けるだろう。ひとつは戦略的な企業の国有化を逆戻しする。そして民間企業の資産を脅かす「公共使用の宣言」(the declaration of public utility)を無効にするだろう。

彼らの文書にはこう説明されている。「我々の考えは、食物、薬、家庭用品と個別医療のような重要な領域において、企業活動の復活を支持することである」

もう一つの法律は公共サービスの「非集中化」である。公共サービス事業は自治体に分散される。そして民間のサービスプロバイダに下請契約する権限を与える。

MUDによればこの計画は独占と特権を抑制するためのものである。「それは政府が公共サービスの供給において作り出した障害を除去する。それは民間企業あるいは半官半民企業との戦略的協力を産み出すためのコンセッションである」とされる。

3.外国投資の大幅緩和

この領域の第3の法律は、大規模な基盤プロジェクトのために外国の投資家と多国籍銀行にコンセッションをあたえるだろう。

左翼政権はこのような外国資本との取引を終わらせるべく尽力してきた。それは主権を強化し、国内事件への外国の干渉を避けるためである。それはとくに米国を念頭に置いている。

米国の歴史は内政干渉の歴史であり、その政策は通常その国の資本の国内利益を守るためのものであった。

MUDは、特に道路、水道、ゴミ収集、港と空港について言及する。

「多国間の資金提供を認め奨励する。それはその融資はコンセッションを利用することで、政府と協調する民間企業が返済する。大規模なプロジェクトを発展させるためには、大規模な投資が必要であり、そのことにより事業の効率も上がる」と謳っている。

4.地方警察の強化

ベネズエラは非常にリアルな犯罪問題を抱えている。MUDはそれを「ベネズエラの市民が日夜向き合うもっとも深刻な問題」と表現している。

MUD計画では、地方のおよび州警察勢力により多くのパワーを与えることになっている。しかし、それらの警察はしばしば反対派の地方政府によって動かされている。

2002年にウーゴ・チャベス大統領を倒そうとしたクーデター企てで、重要な役割を演じたのは、まさにカラカスの地方警察であった。

5.メディアに関して

国会で多数を占める反政府派は、公共メディアにおける「覇権終了」法を提案している。そしてメディア報道担当の「独立」の保証を主張する。

MUDは、これらの変化は憲法で保証されたものであり、「より良いクオリティ・オブ・ライフ」に導くものだと主張している。


あまりにむごい 伊方原発

伊方原発が再稼働に向けて動き始めている。すでに外堀は埋められたようだ。

地図を見てみると、2つの点に気付かされる。

ひとつは、伊方原発が見事に中央構造線の直上に建てられているということだ。中央構造線は南アルプスに始まり、四国を横断して阿蘇山に至る大断層だ。とりわけ紀の川、吉野川、新居浜から佐田岬半島へと繋がるあたりは実にくっきりとしていて、ある種の美しさを感じてしまう。テレビの天気予報で毎日日本地図を見るたびに、まるで吉永小百合を見ているかのような錯覚にとらわれる。

これだけラインがくっきりしているといのは、その断層がまだできて間もない新鮮なものであることを示している。地形というのは絶えず侵食を受け、どんどん崩れていくものである。人間も年を取れば角が取れ、皮膚は渋皮のようになり、どんな美人でもただのババアになってしまう。

つまり伊方はとびっきり生きのいい断層のどまんなかにあるということが分かる。

もう一つは伊方原発が佐田岬半島の付け根に位置するということだ。半島を腕とすると、伊方原発は脇の下になる。動脈、静脈、知覚神経、運動神経、リンパ管のすべてが原発の直ぐ側を通過している。ここに何かあれば、たちまち腕そのものがダメになってしまう場所だ。

ダメになった腕はどうなるか、その住民はどうなるか。

瀬戸内海は島が非常に多い。しかしどういうわけかこの辺り一帯に限って島はない。周りは伊予灘と豊後水道だ。だから住民は放射能をたっぷり浴びて死ぬしかない。

それを分かっていて、やるのだから、随分むごいことをするものだ。

電気は足りているのだから、再稼働に国益はひとつもない。目的はただひたすら金のためである。

安全神話がまかり通っていた時代、騙されたと言い訳もできるだろうが、福島原発の後、その言い訳はもう通用しない。

賛成派の人というのは金のために、自分の利益のために目が見えなくなって、ご先祖様も子孫も半島の先に住んでいる人たちも、勝手に売り飛ばして恥じない人らしい。伊方原発というのは、存在そのものがそういうどす黒い悪意の塊りなのだ。地図を見ていて、つくづく思う。

つけたし

伊方町は佐田岬半島の全体をふくむ町である。

付け根から順に旧伊方町、旧瀬戸町、旧三崎町の3つの町からなる。人口はちょっと古いが平成大合併ころのもので、伊方町が1万人、瀬戸町が3千人、三崎町が4千人の人口を抱えていた。

いまはすべて合わせても1万人しかいない。過疎化のレベルを超えて限界集落化が進んでいる。

集落の名は全て「…浦」となっており、海岸沿いの僅かな平地にそって集落が点在しているさまが予想される。(グーグルの航空写真を見てもまさにそうなっている)

瀬戸町の中心三机には宇和島藩のお番所がおかれ、明治の頃にはなんと三机銀行まであった。ここが南北700メートルしかない地峡だったため、パナマのような地位にあったのである。徳川時代初期には実際に運河づくりが着工されたが挫折。おかげで宇和島藩は改易となっている。

佐田岬

旧伊方町は原発に身売りする代わりにたんまり金をもらったが、瀬戸町、三崎町はあずかり知らない。しかし事故が起きれば、伊方の人は逃げられても瀬戸町、三崎町の人は逃げ場所がない。

これはあまりに不条理ではないか。

毎日新聞16日朝刊編集長のこだわり(松木健)
この1年の世相を表す「今年の漢字」に「安」が選ばれました。今年成立した安保関連法の「安」であり、同法で集団的自衛権を行使できるようにした安倍晋三首相の「安」でもあります。「安心、安全」の「安」というより、「不安」の「安」のような気もします。

まことにそのとおり。
啄木になにかそんな歌があった気がするが、思い出せない。
「これも忍びよる認知症か」と、また不安
不安を隠すのに酒の量が増える、これもまた不安
しかし、酒は相変わらずうまい。これは「安心」の安

も、だいぶ実像とのズレが生じてきた。

今回、補筆改訂する。


なお、このレビューはピアノ小曲をあれこれ聴き比べながら作成したもので、作者の全体像は必ずしも浮かび上がって来るわけではない。最初にそのことをお断りしておく。

1.19世紀後半のロシア音楽界の概括

19世紀後半のロシア音楽の発展は、ヨーロッパ的なものとロシア的なものの相克の中で発展していった。

それはグリンカがロシア的なものを追求し始めたことから始まった。

アントン・ルビンシュタイン(以下アントン)のヨーロッパ基準の導入は、ロシア的なものを追求する流れと激しく衝突した。

それは、とくに5人組側で、主観的には「ロシア国民音楽はいかにあるべきか」をめぐる論争であったが、客観的には「何をなすべきか」の論争ではなく、「何から始めるべきか」をめぐる論争であった。

この衝突は数年後にアントンが撤退することで終了するのだが、アントンが提唱した音楽活動の近代化、プロフェッショナル化の方向はロシア派にも受け入れられた。

同時に、アントン派の中にも古典的な形式の中にロシア的なものを追求する流れが生み出された。

この二つの流れは1870年代後半には、事実上合流した。これを代表するものがチャイコフスキーであった。ロシア派の最後の担い手であったムソルグスキーは早逝し、バラキレフは長い沈黙に入った。

80年代を通じてチャイコフスキーはとくにヨーロッパで大活躍したが、その間にロシア国内では新しい波が訪れて、リャードフ、アレンスキー、グラズノフ、タネーエフらが次々と登場した。それはラフマニノフとスクリアビンによってピークに達する。

それらを束ねたのはR.コルサコフであった。そしてそれに財政的支援を与えたのは王侯貴族ではなく、ベリャーエフという新興の富豪であった。一方、ロシア音楽のヌーベルバーグを形作った作曲家たちの多くは、没落しつつある下級貴族の子弟であった。

ここにロシアの音楽論争の深い根があったと思われる。

 

2.西欧音楽への憧憬とグリンカ

1840年にチャイコフスキーが生まれている。バラキレフはその4年前だ。Rコルサコフはその4年後だ。彼らが青年期に達したときがロシア音楽の激変期となるのだが、それには40年から50年にかけての胎動期を見ておく必要がある。

この頃のロシアの音楽界は貴族を中心としたサロン音楽とオペラが中心で、演奏家も素人に毛が生えた程度の水準だったようだ。しかし西欧音楽への憧憬は強かった。次から次へと西欧の音楽家がやってきて公演していた。

要するにヨーロッパ人音楽家の草刈り場であったわけだ。

その中から、西欧に出て名前を上げる演奏家もポツポツと現れてきた。その代表がグリンカとアントン・ルビンシュタインで、彼らの曲は西欧でも評価されていた。

42年にはグリンカのオペラ「ルスランとリュドミラ」が初演されている。しかしロシア人の曲をロシア人は喜ばなかった。国内のマーケットは外国人で満たされていた。

このような状況に気落ちしたグリンカは40年代末には作曲活動を辞めてしまった。

今日ではグリンカのピアノ曲のほとんどをYou Tubeで聞くことができる。率直に言えば「ロシア民族音楽の始祖」と言うには程遠い。バラキレフが一生懸命かつぎあげた結果とも言える。

 

3.観念的運動としての「ロシア民族音楽」

最初、「ロシアの民族性」の考えは文学の世界からもたらされた。私は詳しくないので孫引きに留めるが、チェルヌイシェフスキーが「国民芸術論」を提唱し、これが音楽界、とくに若手音楽家に多大な影響をもたらしたようである。

彼は「芸術の現実に対する美的関係」を著し、「国民芸術」を称揚した。しかし「芸術の主題は知性の抽象ではなく客観的に観察し得る現実である」とのべ、技巧や形式を否定したともとられかねないところがある。

おそらく、彼は「芸術」の階級的側面を強調したかったのであろう。王侯貴族のサロンにおける美辞麗句を連ねた詩作ではなく、「民衆の生の声」で歌えということなのだろうが、これをそのまま音楽の世界に持ち込むにはいろいろ問題がある。

まず第一に音楽というのは作り手とともに演奏家が不可欠であり、それには必ず一定の修練を必要とすることである。もっと深刻なのは、音楽の世界ではそもそも「民衆の声」を語るほどに基礎ができていないということだ。

ということで、まずは実作活動から育て上げていかなければならない。

それに挑戦したのがバラキレフだ。

彼は52年にカザン大学に入学。専攻は数学だった。地元でアマチュア・ピアニストとして腕を上げたバラキレフは、音楽家で身を立てようとペテルブルクに出てきた。
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ロシア連邦内のタタールスタン共和国の首都。ウラル山脈の西、ボルガ川中流域に位置する。スンニ派のトルコ系タタール人が人口の約53%、ロシア人が約40%を占める。いずれにしてもド田舎だ。

彼は早速、ひそかに師と仰ぐグリンカの元を訪れた。バラキレフと面会したグリンカは、バラキレフを後継者と評価したという。

当時すでにグリンカは引退しており、ロシア民族音楽を熱く語るバラキレフに心揺るがされかもしれない。バラキレフをそれとなく焚き付けた可能性もある。

後述するが、同じ年ウィーンにいたアントンは、「グリンカなどのロシア国民音楽の試みは失敗した」と述べている。グリンカにはそのことが念頭にあったとも考えられる。

55年、バラキレフは「国民音楽」を主張する評論家スターソフとともに「グリンカが残した国民主義的音楽の継承・発展」を提唱。「新ロシア楽派」を形成した。

そして実作に取り組むべく仲間を誘って勉強会を始めた。これが「五人組」の基礎となる。最初に参加したのはキュイとムソルグスキーであった。彼らはグリンカだけでなくシューマン、ベルリオーズなど後期ロマン派の作品のスコアを徹底して解析した。他の二人は当時はまだ素人同然であり、実際にはバラキレフが手を取り足を取り教えたらしい。

 

4.アントン・ルビンシュタイン旋風

時期が重なっていてわかりにくいが、さまざまなできごとをパズルのようにはめ込んでいくと、どうも僅かながらバラキレフの動きが先行しているようだ。

つまりアントンがいろいろ動いて、それに対するアンチテーゼとして五人組が登場したのではなく、きわめて萌芽的ながら、バラキレフたちが「ロシア民族音楽」の形成をもとめて動き始めたところに、ドカンとアントン旋風が襲来したというのが正確なようだ。少なくとも本人たちの気持ちはそうだった。

アントンは若いときから海外で演奏旅行を続けていた。リストの知己を得てドイツ圏内ではかなり名を挙げていた。その風貌から「小ベートーベン2世」と噂されたこともあったようだ。

1848年にドイツを中心に2月革命が起きると、彼はロシアに戻った。彼は宮廷ピアニストに招かれ、一躍ロシア音楽の一人者となった。オペラも上演するが、このオペラをめぐり「国民音楽」派の論客スターソフとの論争になる。

アントンは革命の鎮静を待っていったんドイツに戻るが、この滞在でかなりファイトを掻き立てられたらしい。

彼はウィーンの音楽雑誌にロシアの音楽状況に関して寄稿した。「①ロシア民謡はただ悲しいだけで単調である。②グリンカなどのロシア国民音楽の試みは失敗した。③ロシア民謡を取り込もうとすることが失敗の元となっている」と書いた。

この文章がロシア国内に激しい反発を呼んだのは当然であるが、それはもとより承知の上だ。

アントンの主張にはもう一つの側面があった。それはワーグナーなど後期ロマン派を評価せず、ソナタ形式や和声法・対位法を無上のものと捉える傾向があった。この点では彼は頑固だった。リストと対立することさえ辞さなかった。

それから10年経った1858年、アントンはベルリンでの成功を引っさげてペテルブルクに乗り込んできた。彼はペテルブルクの雑誌に寄稿。ロシア音楽界のオペラ偏重やアマチュア主義を非難。国内音楽水準の向上のためにプロの音楽家養成の必要性を訴えた。

彼はまず自宅に支援者を招き毎週のように演奏会を開いた。回を重ねるうちに参加者の中心メンバーの中からロシア音楽協会設立の機運が盛り上がった。なかなか巧みな作戦である。

音楽協会はコンサート向けの楽団を組織、アントンの指揮で定期演奏会が始まった。演奏会ではキュイの「スケルツォ」も初演されるなど、それなりの気配りもしている。

ついで彼は音楽学校の設立を目指した。音楽文化の建設には高等音楽教育が不可欠だと主張し、大公妃エレナ・パヴロヴナの賛同を得た。

大公妃の宮殿の一部を借り音楽教室を開校しプロ音楽家の養成に着手した。こうして62年にはサンクトペテルブルク音楽院が設立されることになる。

アントンは教師に外国人を起用した。ピアノ科教授にはポーランド人のレシュテツキを招聘した。この人事はなぜか5人組を痛く刺激したようである。

 

2.国内音楽家の反発と5人組

アントンの主張は二面性を持っている。ロシア音楽界の技術水準の向上を目指すのは正しいのだが、やはり上から目線になっている。そして音楽を「高尚」な芸術として高みに持って行こうとする。

小説でも文法は必要なのだが、何をもって「高尚」と成すかは人それぞれである。アントンは余分な議論を持ち込んだ。

それに対して、バラキレフやスターソフが一斉に反発した。技術の問題はさておいて、「グリンカが残した国民主義的音楽の継承・発展」を強く主張しアントンに対抗した。

言い分そのものはまことにもっともであるから、この若者集団は大いに注目を集め、アントンの対抗馬と目されるまでになった。ボロディンとRコルサコフが加わるのもこの頃のことである。

その背景にはクリミア戦争の敗北と新国王アレクサンドル2世による農奴解放(61年)などの国政改革により、国内に自由で進歩的な空気が広がり、既成の枠を飛び出したいという欲求が広がっていたことが影響している。

ただしこのあたりは政治史の話になるので詳述は避ける。

いずれにしても、一方における宮廷内改革、他方における大衆レベルの改革があり、「主義主張は異なれど、どっちも頑張れ」ということだったのではないだろうか。

時代の寵児となったバラキレフは篤志を募り無料音楽学校を設立した。音楽学校にはオーケストラが併設され、バラキレフが指揮者となって定期演奏会を開始した。

この無料音楽学校というのは、いまでいえばベネズエラのエル・システマみたいなもので、年齢・性別・職業の制限はなく、優れた声や音感に恵まれながら経済的な理由などにより音楽の勉強手段を持たない人々を広く受け入れた。毎週日曜日に開校され、ペテルブルク大学医学部の空き教室を利用して開かれた。

学生から選抜されたメンバーで合唱団とオーケストラが編成された。ロマーキンが合唱団を指導し、バラキレフはオーケストラを指揮した。

63年からは定期演奏会を開くほどになり、グリンカや5人組の曲の他、ベルリオーズやリスト、シューマンなどの新作を紹介した。最盛期には音楽院管弦楽団と人気を二分した。(ウィキより)

バラキレフ・グループは「小さいけれども、すでに力強いロシアの音楽家の一団」と称えられた。評論家のスターソフは、この作曲家集団を「五人組」と名付けた。

 

3.「国内音楽家」の実態

当時の国内音楽家の多くは、まさにアントンの言う「職業的訓練を積んでいないアマチュア集団」であった。ただアントンが批判しているのは「アマチュア主義」であって、その底にアントンは「作曲家の社会的地位の欠如」を見ていたのである。

「音楽界」という世界は、出来上がったものではなく、いわば無人の野であった。そこに畑を開くのか水田を作るのか、いずれにしても食べていける世界を作らなければならない。楽徒が育っていくのは、その次の世代である。

ここで私は、アマチュアの大量進出の基礎に下層貴族の社会進出という側面を見て置かなければならないと思う。アレクサンドルの農奴解放は下層貴族の没落をもたらした。

同時に、社会ヒエラルキーの中層に固定されて一生を送っていた人々が、社会教育の発展により別の道を与えられ、ペテルブルクという活躍の場を与えられることで表舞台に飛び出してきた。そういう時代として見ておかなければならないと思う。

たとえば、チャイコフスキーが入学したペテルブルク音楽院の第1期生は179人。税関の官吏、予審判事補佐、技術士官、近衛連隊の中尉などさまざまな経歴を持っていた。グルジア人やイギリス人も含まれていたという。

 

4.アントンの辞任と5人組

二つの学校の対抗と並立は67年まで10年にわたり続く。そしてアントンの突然の辞任をもって幕を閉じる。

辞任の理由には5人組からの攻撃もあっただろうが、主要にはパトロンたるロシア王室の無理解であった。王室は音楽院の教師や生徒たちを夜会で演奏させるなど、自分の使用人のように扱ったそうだ。これではハイドン時代だ。100年遅れている。

よくもアントンは四面楚歌の中で10年も頑張ったものだと感心する。

アントンがやめれば、彼の連れてきた外国人教授陣もいなくなる。こうしてペテルブルク音楽院は空き家状態になってしまった。

ドイツに戻ってしまったアントンに代わり、バラキレフが音楽監督に就任した。5人組が指導スタッフに参加する。形としては5人組がペテルブルクを制圧したように見える。しかし事態は逆であった。

しかしアントン辞任の原因となった王宮との関係は依然そのままであった。バラキレフはその非妥協的な性格から王室と衝突した。そして1年後には解雇されてしまう。

もっとも非妥協的なチェルヌイシェフスキー主義者であったムソルグスキーは、農奴解放後に実家が没落し、官僚の道もひらけず、バラキレフからは批判され、アルコールにひたるようになる。

69年に完成した歌劇「ボリス・ゴドゥノフ」は、思想性を理由に帝室劇場から上演を拒否された。71年にはついに無一文となり、Rコルサコフのもとに転がり込んで居候となる。

ボロディンとキュイには本業があった。残されたのはもっとも若いリムスキー・コルサコフのみであった。この頃、自由主義改革は終わり反動化の時代へと移行していく。

お互い切磋琢磨していた二つの音楽団体であったが、バラキレフがペテルブルク音楽院に移動したことにより、無料音楽学校の存在意義は薄れた。

1870年、バラキレフが音楽院を解雇された翌年、今度は財政難から無料音楽学校での連続演奏会が中止された。両腕をもがれたバラキレフは音楽活動ができなくなってしまう。

72年になるとさらに状況は悪化。経済的に困窮したバラキレフは、ワルシャワの鉄道会社の事務員となり、ペテルブルクを去る。

ただし無料音楽学校の演奏活動は止まったわけではない。何とかかんとか生き延びた。皮肉なことに、1917年にロシア革命が成立した時、革命政権がこれを解散させたのである。

5人組は「5人」のまま発展を止めてしまった。このあとも長期にわたり5人組の人脈は生き続けるが、思想としての5人組はほぼ終わりを告げたと見るべきであろう。

残されたRコルサコフはどうなったか。

バラキレフのいなくなったあとのペテルブルク音楽院は、アザンチェフスキーが院長となった。アザンチェフスキーは民族主義者ではなかったが、リベラルな近代主義者であった。

彼は民族派音楽にも配慮した。彼の下で現代派の旗頭チャイコフスキーの「ロメオとジュリエット」がとりあげられた。そして76年にはついにいわくつきの歌劇「ボリス・ゴドゥノフ」が上演されるに至ったのである。

彼は作曲と管弦楽法の教授をRコルサコフに依頼した。大抜擢ではあるが、Rコルサコフは困惑してしまった。モスクワのチャイコフスキーにまで相談を持ちかけたという。

後年の述懐によれば、「私はコラールの旋律に和声をつける事もできず、対位法そのものは1つも書いた事がなく、フーガの構造についてはおぼろげな概念さえ持っていなかった

 

5.チャイコフスキーは何をしていたか

チャイコフスキーは何をしていたか。実はこの間のゴタゴタを見事にすり抜けたのだった。

私はへそ曲がりだから、チャイコフスキー崇拝者がやるような無条件な賛美などするつもりはない。人前では虫も殺さぬ顔をしながら、ニコライ・ルビンシュタインがピアノ協奏曲の発表を邪魔したとか、アウアーがバイオリン協奏曲を悪しざまに罵ったとか手紙に書き綴るのは好きではない。

しかし彼の成し遂げた最大のこと、①ヨーロッパの最新の作曲技術を取り込みつつ、その上にロシア的なものを乗せて「ロシア国民音楽」を作り上げたこと、②その過程で標題性と叙情性という形で音楽の主題を把握したこと、は賞賛に値すると思う。

まず抑えておかなければならないのは、彼が稀代の秀才であったということである。ウラル山麓の鉱山町の役人の息子であったチャイコフスキーは、一家の将来を担い、ペテルブルクの法律学校に入学した。

この学校は東大法学部なみの難関で、卒業すれば半ば自動的に中央官庁のキャリア官僚になる。本当の金持ちは別な学校に行く。

彼も59年に卒業後法務省に入省、62年には早くも課長となっている。

しかし出世はそこまでだった。官僚の世界は地位が物を言う激烈なポスト争いの世界である。そこで生き抜いていく資質は、頭の良さとは別のものである。

入職後の成績は芳しくなかった。二度にわたり昇進を逃し、街頭を彷徨する日々を送っていた。家族への手紙で「すべてが不愉快だ。仕事もうまくいかないし、金もない」と書いている。

そんな中で61年、彼はロシア音楽協会の教室に聴講生として参加した。バラキレフと違って学生時代からミュージシャンとして活動していたわけではない。せいぜい学生合唱団に加わっていたという程度である。

おまけにその合唱団の指揮者はロマーキンであり、いまは無料音楽学校の指導者である。どうしてそちらに行かなかったのか。

想像するには、勤務先の法務省と音楽教室のあった大公妃の宮殿が近かったからではないか。それとたかが学生合唱団の一団員と指揮者の間にそれほどの義理があるとも思えない。

とにかく何気なしに入ったのであろうが、音楽はチャイコフスキーを一瞬にしてとりこにしたようだ。

翌年、音楽教室がペテルブルク音楽院に発展して、第一期性を募集した時、チャイコフスキーは躊躇なくエリート官僚の職をなげうって入学することになる。

ここでチャイコフスキーはアントンや外国人教師からみっちりと音楽の基礎を叩きこまれた。そして65年に卒業している。

シューベルト、シューマン、メンデルスゾーンをモデルとする保守的なアントンの先を行き、ベルリオーズ、リスト、ワーグナーの管弦楽法をも習得した。おまけにそのメトードで「序曲」を作ったことで、アントンは怒ったという。

やがて卒業という頃に、アントンの弟ニコライ・ルビンシュタインの訪問を受ける。モスクワ音楽教室の開設を準備中だったニコライは、教授を探してペテルブルグへやってきた。そして卒業作品を準備中のチャイコフスキーを見つけ口説いた。

すでにアントンは辞任の方向に動いていたし、その後の見通しも怪しげだということだったのだろう、チャイコフスキーはモスクワ行きを承諾した。この時チャイコフスキーはすでに26歳、一廉の処世術は身につけていた。


6.モスクワ音楽院という微妙な立ち位置

チャイコフスキーはみずから都落ちしたわけだが、果たしてそれに成算はあったのだろうか。法律学校を優等で卒業した人だ。それなりの計算があったはずだ。

まずデメリットを考えてみる。第一に西欧からはさらに離れる。第二に、それなりに音楽の中心である首都ペテルブルクからも離れる。第三に王室の援助は期待できず、モスクワの有力者にペテルブルクほどの資力もない。第四に組織者のニコライは、それなりに有名なピアニストではあるにしても兄アントンほどのカリスマ性はない。第五に、できたばかりの学校にどれほどの人材が集まるのかも分からない。優秀な人材はペテルブルクに行ってしまうだろう。

当時すでにチャイコフスキーはロシア随一の音楽理論家であった。彼にとってモスクワは、器としてはいかにも小さいのである。

チャイコフスキーはアントンの愛弟子と見られていて、それがアントンの辞任と時を同じくして弟ニコライの創設した学校に移るのだから、それが5人組の目にどう映るかという問題もある。

しかしチャイコフスキーを囲む状況はどんどん変わっていく。

まずバラキレフがチャイコフスキーに接触した。弦楽四重奏曲の作曲を勧め、第二楽章のアンダンテ・カンタービレにロシア民謡を用いるよう提案した。

バラキレフは60年に故郷のボルガ地方で、62年にはさらにコーカサスまで足を伸ばして民謡を採譜している。しかし膨大な資料を彼一人では使いこなせなかった。そこでアントン門下のチャイコフスキーに触手を伸ばしたのだ。

ペテルブルク音楽院に残ったリムスキー・コルサコフは、それまで音楽や作曲についての教育を受けたことがなく、就任後に和声法と対位法を学び始めた。この時、チャイコフスキーに相談し、助言を受けたと伝えられている。

もちろん、チャイコフスキー自身の能力が高かったからこそ状況が開かれたのだろうが、いずれにしてもチャイコフスキーに追い風が吹き始めたことは間違いない。


補.ピアノ協奏曲第1番の意義

しかしいくらチャイコフスキーが国内での影響力を強めたからといっても、所詮井の中の蛙、いつかは大海に漕ぎ出さなければならない。

その契機となったのがこの曲だろう。

この曲については必ずニコライが演奏を拒否してハンス・フォン・ビューローが成功させたというエピソードがついてくる。

これだけが取り出されて何度も何度も刷り込まれると、「あぁそうだったのか」と誰でも思ってしまう。しかし前後の関係から見ると、どうもこの話は素直には受け取れない。それを抜きにして考えてみよう。

なぜこの曲が成功したのか。結果的にはチャイコフスキーがモスクワもペテルブルクも乗り越えて、ハンス・フォン・ビューローに直接アタックして、それに成功したという事実が浮かび上がってくる。

ではなぜ天下のハンス・フォン・ビューローが、どこの馬の骨とも分からないチャイコフスキーという輩の曲を取り上げたか。私の推測では一つには国内に良い曲が枯渇していたこと、一つはロシアという異国趣味がマーケットに受け入れられるだろうという勘が働いたのではないかと思う。

興行的に見ると、クラシック音楽の市場は交響曲(コンサート)とオペラの間を行ったり来たりしている。ところが交響曲の方はシューマン、メンデルスゾーンで一服してなかなか次の演目が出てこない。ブラームスが孤軍奮闘しているが、いささか渋い。

一方、オペラの方はワーグナーが登場して次々とヒットを飛ばしていく。ハンス・フォン・ビューローに取っては面白くない時代である。

そこに西欧音楽の文法をしっかり踏んで、異国情緒を醸し出す手練手管にも熟達した作曲家が出てくれば大歓迎である。コンチェルトという「イロモノ」であれば、コンサートでの座りもいい。

とりあえず分かったのは、チャイコフスキーは5人組のあとの6人目だったということです。
ただしそれはあくまで出現順の番号としてそうだったということであって、5人組の思想とは別のところにチャイコフスキーの目標はあったのでしょう。
技術的に言えば、5人組の思いをもっと近代的な技法で描き出す試みであり、「ロシア的なものを」という思いは5人組に引けをとらないほど強烈であっただろうと思います。
ビジネス戦略的に言えば、西欧の音楽マーケットで「ロシアっぽさ」を売りにして成功し、それを逆輸入する形でロシア音楽の優位性を鼓吹しようという外圧利用型の迂回戦略です。これは戦後日本の例えばソニーの世界戦略でもよく見られたパターンです。

ウィキペディア「ロシアのクラシック音楽史」

国本静三「チャイコフスキーの生涯」

中林 曜子「チャイコフスキー≪ピアノ三重奏曲≫作品50について」

からの出典を重ねています。煩雑化を防ぐため、アントン・ルビンステイン、バラキレフ、チャイコフスキー、ムソルグスキーの4人に焦点を絞っています。
(2016年12月1日 1回目の増補しました)
(17年7月 2回目の増補です。今回は主に バクスト「ロシア・ソヴィエト音楽史」1971年 音楽之友社 からの出典です)

いろいろ地名が出てきますが、それはこちらの記事でご参照ください。

1836年 バラキレフ、ニジニ・ノブゴロドで中級官僚の息子として生まれる。

1840年 チャイコフスキー生誕。生地はウラル山脈西麓の鉱山町。父は製鉄場の監督官。

1842年 グリンカのオペラ「ルスランとリュドミラ」が初演。イタリア・オペラの席巻するロシア国内よりも、むしろ国外(フランス)で注目される。

グリンカはロシアの民族的旋律を積極的に使用。五人組によって「国民主義的音楽の嚆矢」ともてはやされたが、今日では多分に疑問とされている。

1844年 Rコルサコフ、ノブゴロドの田舎町に下級官僚の息子として生まれる。

1849年 ウィーンで活躍したアントン・ルビンステイン(以下アントン)、革命を避けロシアに戻る。宮廷ピアニストに招かれ自作オペラも上演するが、このオペラをめぐりスターソフとの論争になる。(スターソフは国民音楽を唱導する評論家で、のちに5人組のイデオローグとなる)

1851年 チャイコフスキー、ペテルブルグの法律学校に入学。ここは超エリート学校で、1835年に作られた。主に中流以下の貴族家庭の子弟が学んだ。チャイコフスキーは、繊細ではあったが、特別な音楽的才能は示していない。

1852年 バラキレフ、地元のカザン大学に入学。数学を学ぶ。

1854年 アントン、ベルリンなどの演奏旅行で成功を収める。リストとの交際が始まるが、ワーグナーなど後期ロマン派の評価について意見が分かれる。

1855年 アレクサンドル2世が帝位を継ぎ、自由主義的「大改革」を開始する。

1855年 アントン、ウィーンの音楽雑誌に寄稿。「①ロシア民謡はただ悲しいだけで単調である。②グリンカなどのロシア国民音楽の試みは失敗した。③ロシア民謡を取り込もうとすることが失敗の元となっている」と書き、国内に激しい反発を呼ぶ。

1855年 バラキレフと面会したグリンカは、バラキレフを後継者と評価したという。(当時すでにグリンカは引退しており、アントンを快く思わなかっただろう。バラキレフをそれとなく焚き付けた可能性もある)

1855年 チェルヌイシェフスキーが「芸術の現実に対する美的関係」を発表。「芸術の主題は知性の抽象ではなく客観的に観察し得る現実である」とし、形式的技巧を否定する。

1855年 バラキレフ、ピアノ演奏で名を挙げ、学業を放棄。ペテルブルクに出る。グリンカと会い音楽家となることを決意。音楽集団の組織化と理論化に着手。
1856年 バラキレフ、チェルヌイシェフスキーの「国民芸術論」の影響を受け、スターソフとともに「グリンカが残した国民主義的音楽の継承・発展」を提唱。「新ロシア楽派」を形成する。
1856年 Rコルサコフ、ペテルブルク海軍学校に入学。勉学の傍ら作曲を学ぶ。またチェルヌイシェフスキーやゲルツェンの著作にも親しむ。

1857年 バラキレフ、キュイ(55年)とムソルグスキー(56年)を巻き込みシューマン、ベルリオーズやグリンカの楽譜解釈に取り組む。またグリンカの主題を元にしたいくつかの曲を作る。

1858年 アントンが帰国。宮廷(とりわけ大公妃エレナ・パヴロヴナ)の支持を受けロシア音楽協会を設立。自ら芸術監督となる。

アントンは自宅で毎週演奏会を開いた。会の中心メンバーの中からロシア音楽協会設立の機運が盛り上がる。

1858年 チャイコフスキー、ロマーキンの学生合唱団に加入。ロマーキンはのちにバラキレフとともに無料音楽学校を創設。

1859年 アントン、音楽文化の建設には高等音楽教育が不可欠だと主張。大公妃の宮殿の一部を借り音楽教室を開校。プロ音楽家の養成に着手。


教師に外国人を起用。ピアノ科教授にはポーランド人のレシュテツキを招聘。ロシア音楽界のオペラ偏重やアマチュア主義、職業的訓練と社会的地位の欠如を批判。在来音楽家の排除に対しバラキレフらは激しく反発した。

1859年 ロシア音楽協会がコンサート向けの管弦楽団を組織。アントンの指揮で定期演奏会が始まる。キュイの「スケルツォ」も初演される。

1859年 チャイコフスキー、法律学校を卒業し、そのまま法務省にキャリア組として奉職。

入職後の成績は芳しくなかった。目標喪失症候群に陥ったようである。二度にわたり昇進を逃し、街頭を彷徨する日々を送っていたようだ。家族への手紙で「すべてが不愉快だ。仕事もうまくいかないし、金もない」と書いている。

1860年 バラキレフ、ボルガ川流域で民謡を採譜。62年にはコーカサスにも採譜旅行。その後民族色の強い曲を立て続けに発表。

1861年 アントン、ペテルブルクの雑誌に寄稿。ロシア音楽界が抱えるアマチュア主義を非難。プロの音楽家養成の必要性を訴える。

1861年 アレクサンドル2世による農奴解放などの改革が始まる。下級貴族や小荘園主には大きな打撃となる。

1861年 チャイコフスキー、ロシア音楽協会の教室に聴講生として参加。

1861年 海軍兵学校の学生だったリムスキー・コルサコフがバラキレフのサロンに加わる。最初は弟分の扱いで、本格的に作曲活動を行うのは、長い航海を終えた1865年のことになる。

1862年 音楽教室を母体としてサンクトペテルブルク音楽院が設立される。


一期生は179人。税関の官吏、予審判事補佐、技術士官、近衛連隊の中尉などさまざまな経歴を持っていた。グルジア人やイギリス人も含まれていた。

1862年 バラキレフらがペテルブルグ音楽院に対抗して無料音楽学校を設立。オーケストラを組織し、バラキレフが指揮者となって定期演奏会を開始する。

音楽院が古典派から前期ロマン派に比重をおいたのに対し、無料音楽学校は後期ロマン派やグリンカなど民族派の作品を演奏する。

1862年 チャイコフスキー、二度にわたり昇進に失敗したことから法務省でのキャリアアップを断念。音楽に専念することを決意。アントンの音楽院に入学する。

1862年 アントンの実弟ニコライ・ルビンシュタイン、ロシア音楽協会のモスクワ支部を組織。66年にモスクワ音楽院に昇格。

1863年 ボロディンがバラキレフのグループに参加。ボロディンは化学研究のためドイツに留学した際シューマンや後期ロマン派に心酔した。帰国後音楽の研鑽を積むためにバラキレフ・グループに接近した。

この人は稀代の秀才で、サンクトペテル大学の医学部を首席で卒業。この年30歳で早くも母校の教授に就任している。音楽活動はかなり晩年になるまで余技であった。


1864年 チャイコフスキー、「雷雨序曲」を制作。ベルリオーズ、リスト、ヴァーグナーの管弦楽法を取り入れた曲は、シューベルト、シューマン、メンデルスゾーンをモデルとする保守的なアントン院長の不興を買う。


チャイコフスキーの伝記は酷評、演奏不能などのオンパレードである(とくにウィキペディアの記載) しかしなぜ酷評を受けたのかの説明は殆どない。これでは少女漫画の世界である。

1865年 チャイコフスキー、音楽院を卒業。卒業作品「歓喜に寄せて」は5人組の一人、キュイから酷評される。


ただキュイというのは狷介かつ剣呑な批評家で、いたるところで筆禍事件を起こしている。したがって、その批評に不快感を催したとしても、ショックを受けるほどのものではない。問題はその背景に、アントン対バラキレフの対立があったか否かである。

1865年 ムソルグスキー、農奴解放で実家が没落し、官僚の道もひらけず、母の死を機にアルコールにひたるようになる。

1866年 ニコライ、モスクワ音楽院を創立する。ニコライはアントンとは異なり人格円満、5人組との交流もあった。

1866年 チャイコフスキー、アントンの実弟ニコライ・ルビンシュタインの招聘を受け、モスクワに赴任。


モスクワ音楽教室の開設を準備中だったニコライは、教授を探してペテルブルグへやってきた。そして卒業作品を準備中のチャイコフスキーを見つけ口説いた。(中林)

1867年 モスクワでバラキレフがスラヴ音楽の演奏会を組織。「小さいけれども、すでに力強いロシアの音楽家の一団」と称えられる。評論家のスターソフは、この作曲家集団を「五人組」と名付ける。

1867年 アントン、ロシア音楽協会とサンクトペテルブルク音楽院のすべての仕事から撤退し、ロシアを去る。

アントンは、パトロンの大公妃が教師や生徒たちを夜会で演奏させるなど、自分の使用人のように扱うのに耐えられなかったとされる。

1867年 ロシア音楽協会は音楽監督としてバラキレフを指名。その後も協会内アントン派との角逐が続く。

1868年 モスクワのチャイコフスキー、ペテルブルクのバラキレフとの直接交流を始める。


バラキレフはその非妥協的な性格から大公妃と衝突した。またムソルグスキーとリムスキー=コルサコフはバラキレフの過度の干渉を拒否した。孤立したバラキレフはモスクワのニコライとチャイコフスキーに接近した。

1869年 バラキレフ、ロシア音楽協会の幹部により音楽監督を解任される。
1869年 ムソルグスキー、「ボリス・ゴドゥノフ」を完成。帝室劇場の理事会に上演を依頼。帝室劇場は思想性を理由に「ボリス・ゴドゥノフ」の上演を拒否。その後数回にわたり上演拒否を繰り返す。

1869年 チャイコフスキー、モスクワ音楽院で使う理論書を執筆、西欧の理論書の翻訳も手掛ける。民族主義的な作品も手がけるようになる。出版業者ユルゲンソンの示唆によると言われる。 

1870年 財政難から無料音楽学校での連続演奏会が中止される。バラキレフはうつ状態となり音楽活動を放棄。

1871年 アザンチェフスキーがペテルグルグ音楽院の院長に就任。音楽院のカリキュラムを近代化し、作曲科の教師にリムスキー=コルサコフを招請。


アザンチェフスキーはチャイコフスキーの『ロメオとジュリエット』やムソルグスキーの『ボリス・ゴドゥノフ』を上演するなど、民族派音楽にも配慮した。その結果、無料音楽学校での連続演奏会の意義は薄れたという。

1871年 ペテルブルク音楽院の作曲と管弦楽法の教授にリムスキー・コルサコフが就任。リムスキー・コルサコフは路線転換にあたりモスクワのチャイコフスキーと相談したという。

私はコラールの旋律に和声をつける事もできず、対位法そのものは1つも書いた事がなく、フーガの構造についてはおぼろげな概念さえ持っていなかった。(後年の述懐)

1871年 リムスキー・コルサコフ、文無しのムソルグスキーを呼び、家具付きの部屋を借りて2人で共同生活を始める。 
1871年 チャイコフスキー、弦楽四重奏曲第1番の第二楽章(アンダンテ・カンタービレ)にロシア民謡をとりあげる。バラキレフの示唆を受けたものとされる。

バラキレフとの交流がルビンシュタイン兄弟との葛藤を生んでいた可能性がある。

1871年 それまでニコライの家に寄寓していたチャイコフスキー、家を出てアパートに居を移す。

1872年 チャイコフスキー、モスクワの新聞で音楽評を担当する。バラキレフとRコルサコフの曲に好意的な評価。

1872年 経済的に困窮したバラキレフは音楽界を退き、ワルシャワの鉄道会社の事務員の職に就く。その後バラキレフは自由主義から君主主義に移行、神秘主義者に変身する。

1873年 大公妃エレナ・パヴロヴナが死去。ロシア音楽協会とサンクトペテルブルク音楽院はロシア政府の経営となり、大公妃への依存から脱する

1874年 帝室劇場、ムソルグスキーの「ボリス・ゴドゥノフ」の公演を承認。全曲が初演される。

1874年 リムスキー・コルサコフ、バラキレフの引退後空席となっていた無料音楽学校の管弦楽団の音楽監督を引き継ぐ。

1875年 チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番が完成。ニコライに献呈するが、ニコライは「この作品は陳腐で不細工であり、役に立たない代物であり、貧弱な作品で演奏不可能である」とスターリンばりの罵詈雑言。


これもどう考えても単純な話ではない。
ニコライは10年前、卒業したてのチャイコフスキーをモスクワに招き、自宅に住まわせ、ともにモスクワ音楽院の創設期を担った人物である。何かウラがあると見なくてはならない。
ニコライに曲を弾いて聞かせたのが74年のクリスマスイブ。この時にニコライから批判されている。しかし1年足らず後の11月には、この曲がニコライの指揮でモスクワ初演されている(ピアノはタネーエフ)。
78年には、ニコライが死んで絶望する夢を見たことと、彼に強い愛情を感じていることを書き記している。

1875年 ドイツのピアニストのハンス・フォン・ビューローにピアノ協奏曲の楽譜を送る。ビューローの演奏により西欧各地で大ヒット。チャイコフスキーはロシアを代表する作曲家として知られるようになる。

前後の脈絡からすると、これはチャイコフスキーにとってだけでなくロシアの音楽界にとっても画期となる事件だったと思われる。同時にそれは、アントン-バラキレフ-5人組と続く革新運動が、挫折したところに生じた動きだったことを示している。

1876年 メック夫人、チャイコフスキーへの支援を開始。13年間にわたって年6,000ルーブルの年金を贈る。

1878年 チャイコフスキー、モスクワ音楽院講師を辞職する。その後約10年間、フィレンツェやパリ、ナポリなどヨーロッパを転々とする。

ここは「チャイコフスキー物語」の一番の突っ込みどころで、押しかけ女房との結婚生活の破綻が背景となって、自殺を図るなど深刻なうつ状態に陥る。ゲイの話も絡んでくる。ただ制作活動の行き詰まりではないから回復は早い。ひょっとするとたんなるトンズラにすぎないのかもしれない。

1878年 スイス逗留中のチャイコフスキー、ラロのスペイン交響曲に影響を受けバイオリン協奏曲を作曲。ペテルブルク音楽院教授レオポルト・アウアーに楽譜を送る。アウアーは演奏不可能として初演を拒絶する。


エキゾチズムの売れ線狙いで、しかもロシアをエキゾチズムの対象としてかなり野卑に描き出したのだから、その「似非民族主義」をアウアーが快く思わなかっただろうことは想像に難くない。
それにしても「書簡」という形で、あることないことネチネチと書き綴るのは、あまり上品な趣味ではない。「松居一代」なみだ。

1878年 ペテルブルク音楽院の学生リャードフが「5人組グループ」に加わる。
1878年 キュイ、軍事技術学校の築城学教授に就任。

キュイはバクストにより酷評されている。

キュイはその音楽様式においてロマン的な微細画家である。それらはサロンや家庭での演奏には適するが、音楽会の舞台用ではない。それはシューマンの劇的、律動的激しさも、ショパンの叙情的な表現力も持っていない。

1879年 ムソルグスキー、大蔵省を退職。友人の世話で会計検査院に入職。

1880年 メック夫人、パリ音楽院の学生クロード・ドビュッシーを夏の間の家庭音楽家として雇う。
1880年 ムソルグスキー、会計検査院からも退職。レオーノワ(歌手)のピアノ伴奏者として南部ロシアを楽旅。

1981年 ライプツィヒ音楽院教授アドルフ・ブロツキー(ロシア人ヴァイオリニスト)が初演。ハンスリックは「悪臭を放つ音楽」と酷評するが、次第に名曲との評価が定着。

1881年 ニコライがパリで客死。ニース滞在中のチャイコフスキーはピアノ三重奏曲を贈り追悼の意を表す。


なぜピアノ・トリオなのか。それはメック夫人がピアノ・トリオを書くようせっついていたためでもある。メック夫人は「ドビュッシーも書いたのに…」とけしかけている。後年、メック夫人はチャイコフスキーからドビュッシーに乗り換えている。

1881年 レーピン、『作曲家モデスト・ムソルグスキーの肖像』を製作。

レーピンのムソルグスキー
1881年3月28日 ムソルグスキー、アルコール中毒にて死亡(42歳)


ムソルグスキーは81年初めに心臓発作で入院していた。レーピンは入院先でこの絵を描いた。描き上げて11日後、ムソルグスキーは息を引き取った。付き添いが密かに与えたブランデーが発作死の引き金となったと言われる

1881年 リムスキー・コルサコフ、無料音楽学校の音楽監督のポストを辞退。バラキレフを呼び戻す。空いた時間はムソルグスキーの遺作を整理するために費やされる。

バラキレフは長年うつ状態にあったが、徐々に回復した。この間、Rコルサコフとリャードフの援助を受けていたとされる。

1882年 近衛師団や近衛騎兵隊の軍楽隊を基礎として「宮廷管弦楽団」が編成される。レニングラード・フィルハーモニー交響楽団の前身。
1883年 バラキレフ、宮廷礼拝堂の楽長に任命される。その後、無料音楽学校から撤退し、10年以上にわたり楽界での沈黙を守る。

1884年 リムスキー・コルサコフの家で音楽サロンが持たれるようになる。このサロンに材木商ベリャーエフが参加。サロンに集まった音楽家が、「ベリャーエフ・グループ」を形成。リムスキー=コルサコフによれば、「バラキレフ・グループは革命的だったが、ベリャーエフ・グループは進歩的(漸進的)とされる。

1885年 ベリャーエフ、Rコルサコフを指揮者としてロシア管弦楽演奏会を開始。またグリンカ賞を設ける。

1886年 ベリャーエフが音楽出版社を作り、その最高顧問にリムスキー=コルサコフ、グラズノフ、リャードフを招く。

1887年 チャイコフスキー、4ヶ月にわたりドイツ・フランスを演奏旅行。ドイツではブラームス、グリーク、R.シュトラウス、マーラー、プラハではドヴォルシャーク、パリではグノー、マスネと知己を得る。

1889年 パリ万国博覧会。ベリャーエフが企画しロシア音楽のコンサートが行われ、反響を呼ぶ。リムスキー・コルサコフ指揮でグリンカ、ボロディン、ムソルグスキーなどの楽曲が演奏された。

1891年 チャイコフスキー、パリに行き、その後アメリカに渡り、カーネギー・ホールの柿落としに自作品を指揮してデビュー。

1891年 モスクワ音楽院ピアノ科の卒業式で二人の金メダル(ラフマニノフとスクリャービン)が誕生する。作曲科の首席はラフマニノフが獲得。

1892年11月 チャイコフスキーがコレラで急死(53歳)。ロシア皇帝アレクサンドル3世は国葬を命じる。

1897年 バラキレフ、ロシア地理協会で収集された民謡を出版するための責任者となる。

1905年1月 「血の日曜日」事件が発生。リムスキー=コルサコフは政府批判を行ない、「学生達を扇動した」としてペテルブルク音楽院の教授職を解かれる。これに対しグラズノフやリャードフらが抗議の辞職。 (1年後に復職) 

1906年 音楽院の管理者側が折れ、グラズノフが院長に就任。Rコルサコフも教授職に復帰する。

1908年6月 リムスキー・コルサコフが心臓発作で死亡。二人の高弟グラズノフとストラヴィンスキーのほか、リャードフ、アレンスキー、プロコフィエフなどを育てる。

1910年 バラキレフが死亡。最後まで面倒を見たリャプノフが遺作の整理にあたる。




  

盲蛇に怖じずというか、酒の勢いでつい知ったかぶりをしてしまったようだ。

少し勉強をしていくうちに、チャイコフスキーと5人組の関係はさほど単純なものではないことに気づいた。

19世紀後半ロシアの枠組み

まず大枠を確認しておきたい。チャイコフスキーが生まれたのが切りの良い1840年。音楽の道に踏み込むのは1860年ころだ。

ロシアはロマノフ王朝の最盛期。南方や東方への膨張の真っ最中だ。しかし西欧の産業革命には乗り遅れ、国内的にはまだ中世の眠りの中にあった。

しかし西欧文化は新たな工業製品とともに怒涛のごとく押し寄せてくる。これらに対応し、西欧に追いつき追い越すためには、まず大量の知識人の養成が必要だ。それには従来の支配層たる荘園主の子息だけではとても間に合わない。

そこで中下層から優秀な人材を発掘し西欧式のエリート教育を施す必要がある。かくして知識の大衆化が一斉に始まる。同時に彼らを国家の枠にはめ込むためには、国民国家として民族精神を注入していかなければならない。「和魂洋才」である。

これらの時代状況は明治維新下の日本とまったく同様だ。違うところは、日本は曲がりなりにも権力交代を伴う政治変革があったが、ロシアはまったく旧態依然ということだ。

この辺の「鬱積感」というのが根っこにあるから、「和魂洋才」の「和」というのが問われざるを得なくなる。少なくともロシア近代化を目指す者にとって、「和魂」とは単純なツァーリ体制賛美ではなかったろう。

それは動揺を繰り返しつつ、究極的に1917年の革命へと向かっていく流れの源流となる。

変革の動きと西洋音楽の位置づけ

19世紀半ばに至って、西洋音楽は一面では大衆娯楽化し、他方で重厚長大化している。辺縁地域から文化としてそれを仰ぎ見た時、まずは100人をこす団員によって奏でられる、1時間に達するような長時間の交響曲である。

それは観客千人を越えるような大劇場で演じられ、莫大な費用が投じられ、それだけの見返りを産み出す。グランドオペラであれば、さらにその数倍の費用を要するであろう。

それはまさに資本主義の象徴としての意味を持っている。

しかし翻って見るに、ロシアにはそれだけの観客がいない。さてどうするかということである。

次は、もう少しチャイコフスキーと5人組をめぐる小状況(とくに人脈)について調べてみたい。


私は中学時代に音楽の授業でこう習った。

チャイコフスキーは親西欧的な性向で名声を博した。これに対しロシア5人組はロシア民族主義を押し出し、これがロシア音楽の二つの流れを形作った。

今では、これは大嘘だと言える。少なくとも事実は相当ねじまがって伝えられている。

結局、話はバラキレフの評価に行き着く。

バラキレフというのは実は大した人物ではない。グリンカを奉じてロシア民族主義を鼓吹するイデオローグにすぎない。

しかも民族主義と言っても国民を巻き込んだ民族主義ではなく、王宮や富裕層のサロンで展開された西洋風音楽の展開形態をめぐる内輪話にすぎない。

だいたいが、グリンカを奉じながらロシア民族主義を語るのが筋違いであり、グリンカは国内ではほとんど評価されることなく、むしろフランスやドイツで一旗揚げた人物である。

だからバラキレフの法螺話に乗ったのはサロンに出入りする高級軍人だけだった。だから彼らの民族主義はエリートのアマチュアリズムと何の矛盾もなく癒合したのである。

田舎出の音楽好きの秀才チャイコフスキーにとっては、それに迎合するか、それとも別な道を探すしか道はなかった。

だからチャイコフスキーはペテルブルク音楽院を出ながらモスクワ音楽院に移ったのである。そしてモスクワはペテルブルクよりはるかに遠隔の地にありながら、親西欧的な音楽を取り入れ、成功したのである

今でこそ政府のあるモスクワに対してペテルブルクは「古都」になっているが、チャイコフスキーの時代にはペテルブルクこそが首都であり、モスクワは「古都」に過ぎなかった。

おそらくバラキレフとチャイコフスキーの対立点は二つあったと思う。一つ(表面的)は芸術としての練度を重視するか、「民族性」を重視するかのちがいであり、もう一つ(実質的)はサロンの外の民衆に音楽を通じてどう接点を形成し、どう語りかけていくかの違いであろう。

そこのところでは5人組とチャイコフスキーとの間にさほどの違いがあるわけではない。バラキレフさえいなければ十分に両立可能なものであった。チャイコフスキーは仕切りなおしたグリンカだった。

しかし一度こじれた人間関係はいろんな余波を呼んでいくことになる。


すみません。上記の文章は一知半解、誤解に基づく独断です。

「日記」ですので、あえて抹消はしません。

を御覧ください。



とは言いつつも、大井さんの文章をそのまま読み飛ばすのは惜しい。

いくつか拾っておく。

まず大井さんは、認知症の機転の基本として、記憶障害を取り出す。これにより社会との疎通が失われ、その代償機転としてヴァーチュアルな世界が形成される。

この「擬似世界」は虚構であるためにさ、まざまな不都合をきたす。これが認知症だ、ということになる。

しかしこれだけでは何も言っていないに等しい。①記憶障害、②交流障害、③仮想世界の形成のいづれが本質なのかが語られていないからである。

つぎに他者から見た認知症について、3つの特徴を上げる。これは尊厳死協会のアンケートによるものだ。

①惨めな状態、②認知症は病気である、③認知症は恐怖である。

まあアンケートだから適当なものだ。

認知症は病気なのか?

ただ気になるのが「認知症は病気である」という項目。これは大井さんが必ずしもそう思っていないから、わざわざ取り上げたのだろう。

おそらく大井さんは、アミロイド沈着というアルツハイマーの本態はさておいて、症候論もふくめての「痴呆症候群」として捉えるべきだとの思いがあるのだろう。

「痴呆症」は病気なのか?

誰がつけたかしらないが、「認知症」というのはあいまいで不正確な名称だ。要するに「痴呆症」が差別だから言い換えたに過ぎない。盲目者が視力障害者になり、ろうあ者が聴力障害者になるのと同じで、言葉の言い換えが範疇の曖昧化に繋がる。

あえて「老年痴呆」と言葉を戻して、議論してみよう。これは高齢化に伴い知力の高度の衰えがもたらされた状態だ。明らかに病的状態(病気と言ってもいい)ではあるが、これは「症候群」であって、疾患(単一の病理変化にもとづく病気)ではない。

正常の人でも加齢により知力は衰えるのだから、要は程度問題である。周辺症状により対人関係に支障をきたすこともあるが、これも程度問題である。しかもこちらの方はある程度薬物によるコントロールが可能である。

現に私が見ている痴呆老人の多くは穏やかで、介護者との接触も保たれている。徘徊は好奇心のなせる業のごとく見える。

もちろん進行すれば周囲との接触は徐々に失われ、沈思黙考あるいは独語の世界に入る。しかしその時も強い呼びかけには普通に応える。あえて言えば、「人とともに生きる」のがだんだん面倒くさくなってきたのである。

別に惨めでも、恐怖でもない。人に突然襲いかかって苦痛と不安と恐怖をもたらすものが「病気」だとすれば、「病気」のうちにふくめて良いのかさえ考えてしまう状態だ。

アルツハイマー病は間違いなく病気だが

最初にも述べた通り、間違いなくアルツハイマーは病気(アミロイド蓄積症)だ。原因から病態生理までふくめてかなり明らかになっている。

これが世間にも理解されるようになってきたことはご同慶の至りだ。ただしあまりにも広義に捉えられすぎている。

痴呆症のすべてがアルツハイマーではない。まして老人につきもののさまざまな生活障害(極端な場合は寝たきり、垂れ流し)までもがアルツハイマーのせいにされては、アルツハイマーが可哀想だ。

アルツハイマー病を哲学的に考察する必要はない

多くのアルツハイマー型認知症を見ての感想だが、この病気やこの病気の罹患者を哲学的に解釈する必要はないと思う。

この病気は社会学的サイドから膨らませられすぎている。治療法こそ未確立だが、福祉的な対応は十分に可能であり、むしろ患者の生活を「悲惨」なものに貶めている社会政策的な対応の不備が主要な問題だと思う。

その意味では、痴呆症に限定せず、老人の抱えるさまざまな肉体的・精神的ハンディキャップをどう救い上げていくか、もっと広い視点からの対応が必要だ。

哲学的にあつかうなら、老いをどう見つめていくかが問われることになろう。その中で、もっと各論を旺盛に展開しながら、精神機能(大脳)、神経機能(脳幹)、神経内分泌機能(間脳)を総合的にすくい取る分野が展開されていくことになるのではないか。

大井玄「痴呆老人は何を見ているか」(新潮新書 2007年)

という本を読んだ。というより最後の方は飛ばし読みだ。

書き出しは至極快調で、「ふむふむ」と頷いたり、赤線を引きながら読み始めたのだが、途中から何か変になってくる。

臨床症例の観察は臨床心理学に収斂し、さらには哲学へと向かって行ってしまう。

私は、正直言って痴呆症の臨床心理学などはあまり意味がないと思っている。あまりに個人差が大きいために、らっきょの皮むきになりかねない。

アルツハイマー的な病理機序は、ある意味で老化の本質のひとつであり、もし心理学的追究をすゝのなら老化(心身機能の低下)に伴い、そのひとつとして出現する心理的諸特徴を概括していくほうが生産的ではないかと思う。

前にも言ったことがあるが、認知症の臨床研究は諸症状を中核症状と周辺症状とに分けることで飛躍的に進歩したと思う。

この点については大井さんも異論はなさそうだ。その上で、次は中核症状の進行に対する適応機転、あるいは不適応機転が生じてくる。これを周辺症状と分離することはかなり困難だ。

一応、最近の認知症研究では、これを早期周辺症状と晩期周辺症状に分けて考えようとしている。大井さんが「別世界の形成」とか「自己の異形成」みたいな感じで論じているのは、この晩期の周辺症状にあたるのかもしれない。

さらにうつ病に近いような心身の不活発状態、統合失調に近いような「離人」状態もかなり高率に出現し、これも広義の周辺症状にふくめてもいいのかもしれない。

東芝 粉飾決算 その後の動き

2015年07月11日

を書いて以来数ヶ月が経過した。この間あまりまじめにフォローしてなかったので、かなり分からなくなってきた。

8月12日に下記の記事をまとめてアップした。

2015年08月12日 

2015年08月12日 

2015年08月12日 

2015年08月12日 

2015年08月13日  

結局、WH社との関係が一番の問題であることが分かった。もう一つはこの明らかな粉飾決算事件がどこまで指弾されるのか、どこからウヤムヤにされるのか、誰がもみ消そうとしているのか、あたりが今後の問題だろうと考えた。

その後戦争法反対の運動の中で、ちょっと頭が回らなくなった経過もある。

ということで、気を取り直して再チャレンジ。7月12日以降の動きをフォローしようと思う。

残念ながら前回最終日の7月12日よりかなり事実が経過してしまったため、かなりニュースが削除されてしまった。日時についても発生日時と掲載日時が微妙にぶれており、このため重複記載もあるかもしれない。

後で訂正・補充できるものについては補充していきたいと思う。

15年7月

7.20 第三者委員会、自主チェックと合わせ1560億円の利益水増しがあったことを確認。「経営トップの過度な当期利益重視の姿勢に原因があった」と指摘。

1560億円という数字は、08年度以降の累積利益である約5,700億円の1/4に当たる。

5月時点で判明していた「工事進行基準の処理に関わる」粉飾に加え、「PC事業部の部品の押し込み販売」や「半導体事業部の在庫評価」でも粉飾が明らかになった。(粉飾の手口については近日出荷さんのブログに詳しい)

7.21 東芝が記者会見。取締役8人の辞任が発表される。前田CFOより「WHは安定的な収益をきっちりと上げており、買収当時に比べ利益は大幅に拡大している」との回答が行われる。

7.24 経済産業省、会社法の運用指針を公表。社外取締役の役割を明確にし、監督機能の強化を促す。(まことにとぼけた話です)

15年8月

8.19 第三者委員会の調査に追加した調査で570億円が追加される。(粉飾発覚にもとづく固定資産の減額分)

8.31 15年3月期の決算(および金融商品取引法に定められた有価証券報告書)の発表を再度延期する。新たに10件の不適切会計が発覚したためとされる。金融庁(関東財務局)は、9月7日まで再延期することを承認。

15年9月

9.07 東芝が15年3月期決算を発表。連結税引き後利益は378億円の赤字となる。

9.07 東芝、有価証券報告書を提出。過去7年間通算で、利益を2250億円以上かさ上げしていたとされる。これは第三者委員会の調査における1560億円から700億円。8月の追加調査から120億円増えている。これは累積利益報告の40%に達する。

9.15 東証、投資家に注意を促す「特設注意市場銘柄」に東芝株を指定。企業統治などの管理体制に深刻な問題があるとする。

9.30 臨時株主総会。取締役の過半数を社外取締役にするなど、経営陣を一新。

WHを含む原子力事業で5156億円の「のれん及び無形資産」を計上。一方でWHの売上高や利益、資産状況は明らかにせず。

15年10月

10.24 東芝、事業売却による本格リストラに着手。スマホ用画像センサーや赤字が続く白色LED事業からの撤退を検討。

10月 貸借対照表(B/S)に関して触れなかった第三者委員会に隠蔽共犯の疑い。さらに役員交代後も事実を隠蔽し続けた室町現社長が同罪である可能性も浮上。さらに沈黙を守る「社外取締役」の責任も問われることになる。

15年11月

11.07 4~9月期決算を発表。「サービスや燃料事業が着実で、福島第1原発事故以降は安全対策というビジネスが伸びている」とするが、数字は明らかにせず。

WH問題については、「この9月末でも減損の兆候は見当たらず、資産性があると判断した」と述べる。

11.09 東芝、「役員責任調査委員会」の調査報告書を公表(公表のお知らせと調査報告書:PDF)。歴代3社長と元最高財務責任者(CFO)計5人の責任を明確化する。しかし室町正志社長ら現執行部は免罪される。

役員責任調査委員会: 東芝の依頼を受け、弁護士を中心に構成される。新旧役員の法的責任の有無と、それに伴う東芝からの損害賠償請求の可能性を調査。

11.09 東芝は、「役員責任調査委員会」の報告を元に、旧経営陣5人への損害賠償請求訴訟を起こす。

11.12 日経、WHで1600億円の巨額減損が発生し赤字決算となっていたことを明らかにする。社内メールの漏洩から明らかになる。

11.13 東芝、ウェスチングハウス社単体の減損を開示。

11.16 東証、東芝は開示基準に違反する可能性があると指摘。12年度のWH単体決算で約762億円の「のれん代」の減損損失を計上したにもかかわらず、情報開示しなかったことが問題とされる。

11.17 東芝、東証の指摘を受け、WH単体の減損に至った経緯を開示。連結の減損処理を見送ったことについては、「公正価値は帳簿価格を上回っている」と強弁。

11.26 弁護士や大学教授らのグループの「第三者委員会報告書格付け委員会」、7月に東芝の第三者委が出した報告書を批判。東芝に頼まれた範囲に調査を絞ったことで「第三者性」が欠落したとする。

11.27 東芝社長が記者会見。内容は①ウエスチングハウスの減損の詳細。②あらたな「事業計画」に就いてである。

①減損の詳細: 06年の買収以降、WHの累積営業赤字は3億ドルに達していた。東芝はWHが計上した減損損失を、本体の連結決算(のれん料の減損)に反映しなかった。室町社長は、WHの経営状況を開示しなかったことを陳謝。

②「64基計画」と呼ばれる事業計画: “世界的に原子炉がどんどん建っていく”と予想し、“今後15年間で64基の原発受注”を骨子とし、“18年度以降は利益が3倍増”という荒唐無稽なもの。当面する経営苦境については、「売却できる事業は売却する」とのべる。

15年12月

12.01 証券取引等監視委員会、東芝に74億円前後の課徴金の納付をもとめる。旧幹部の刑事告発は見送られる。企業の統治がずさんなため誰1人全体像を把握できていなかった結果、個人の刑事責任を問えないとする。

12.04 東芝、富士通、VAIO(ソニー)の3社がパソコン事業を統合する検討に入る。

12.05 東芝、白物家電の分離でシャープとの統合案が浮上。

12.05 画像用半導体の大分工場をソニーに売却。従業員約1100人がソニーに転籍することとなる。他の半導体事業の従業員についても、配置転換や早期退職により約1200人を削減する計画。

 

「戦争責任」という言葉を考える

調べていくうちにだんだん「戦争責任」という言葉が分からなくなってきた。

一体これは何だ。

1.一般人の戦争責任

戦争の道義的責任という言葉が出てくる。そもそもそんなものがあるのか。

戦争そのものが絶対悪だということになれば、それはそれとして分かるが、「ちょっと別の場所で議論してください」と思ってしまう。

戦争への熱狂というのは、古今東西どこでもあるわけで、我々にとっても9.11後のアメリカ人の発狂ぶりで、まざまざと見せつけられた。

群集心理みたいなものが暴走すると、ろくなことはないというのは分かる。

それと戦争責任という言葉を結びつけると、結果的には戦争責任という言葉の重さが失われてしまうようにも思える。

2.戦争責任は政治責任だ

やはり戦争責任は政治責任だとおもう。広い意味での軍事責任と言ってもよい。

しかも、厳密に言えば敗戦責任だ。これはまことに困ったことではあるが、実際には「勝てば官軍」だからしかたがない。

勝った軍や政府の責任が問われたことはない。もし問題となるなら、それは戦争に付随した各種の政策や戦略の誤りであろう。とくに人道的な観点からの誤りは戦争犯罪として指弾され、その責任が問われる。

もう一つは侵略か防衛かの判断である。外国の侵略に対して立ち上がった戦争であれば、負けても責任が問われることはない(戦術上の批判はなされるべきだが)。むしろ英雄として人々の記憶に刻まれるであろう。

内戦の場合は、侵略ではなく抑圧(Repression)と抵抗・解放(Liberation)の関係になるが、本質的には同じである。

そうなると、戦争責任というのは以下の四つ目表で問われることになる。

勝利

敗北

侵略

アウト

防衛

栄誉

伝説

戦争責任をよりリアルに問うなら、「戦争」一般ではなく、侵略戦争を行なった責任とその戦争に負けた責任ではないか。

日本は、明治維新以来?、?、を続けてきて、最後は?の暴走状態となり、結局アウトになった。

問題のひとつは、これらの?、?…が敗北の戦争責任につながっているかどうかにある。私にはどうもありそうな気がする。

これだと5分でなんとか間に合うと思う。もちろん暇があったら全文を読んで欲しい。それだけの読み応えはある。読み終わると人が変わったような気分になる。

1 知事に立候補した経緯と公約

沖縄は常に苦渋の選択を強いられてきた。その中で県民同士が保守・革新に別れ、いがみあっていた。私の持論は、敵は別のところにいるということだ。

普天間飛行場の辺野古移設に対する県民の反対意見は約8割、オール沖縄の機運はさらに高まっている。いま私たちは、「イデオロギーよりはアイデンティティー」で結集している。

2 沖縄について

(1)沖縄の歴史 (恥ずかしながら初耳のことばかりです)

沖縄には約500年に及ぶ琉球王国の時代があった。琉球王国は「万国津梁」(万国の架け橋)の精神でやってきた。

1853年、ペリー提督が浦賀に来港したが、彼はその前後、5回沖縄に立ち寄り、85日間にわたり滞在している。このとき、琉球は独立国として琉米修好条約を結んだ。オランダ、フランスとも条約を結んでいる。

1879年、琉球は日本国に併合された。このとき琉球処分が押し付けられ、沖縄の言葉であるウチナーグチの使用を禁止された。

沖縄の人たちは皇民化教育もしっかり受けて、日本国に尽くしたが、沖縄戦で10万を超える沖縄県民を含め、20万を超える方々の命が失われ、沖縄は焦土と化した。

ところが、日本は独立し、その引き換えに、沖縄は米軍の施政権下に一方的に差し出された。その後の27年間、沖縄県民は日本国民でもアメリカ国民でもなかった。漁船が拿捕されたとき、沖縄・琉球を表す三角の旗は何の役にも立たなかった。

当時の人々は、人権や自治権を獲得するために、米軍との間で血を流すような努力をしてきた。その間、日本は自分の力で日本の平和を維持したかのごとく、高度経済成長を謳歌 していたのだ。

(2)沖縄の将来像

(中略)

基地の整理縮小を図ることは当然。「日本の防衛のため」といって基地をたくさん置くのではなく、平和の緩衝地帯としての役割を果たしたい。

3 米軍基地について

(1)基地の成り立ちと基地問題の原点

米軍は住民を収容所に入れ、その間に土地を接収し基地を形成した。強制的に有無を言わさず奪われたのだ。

新しい基地が必要になると、住民を「銃剣とブルドーザー」で追い出し、家も壊して基地を造った。

講和条約発効当時、米軍基地の割合は本土9 対 沖縄1 だった。しかし米軍は基地を沖縄に移し、どんどん強化していった。沖縄の人々には、そのような横暴ともいえる手段に対抗するすべはなかった。

その結果、国土面積のわずか0・6%しかない沖縄県に、73・8%もの米軍専用施設が集中した。こうして理不尽きわまりない状況がもたらされた。

(2)普天間飛行場返還問題の原点

普天間基地の原点は戦後、住民が収容所に入れられているときに米軍に強制接収をされたことにある。

政府は過去(平成11年)に沖縄県が辺野古を受け入れた点を強調するが、そこには、政府にとって不都合な真実を隠蔽する、傲慢で悪意すら感じる姿勢がある。

当時の稲嶺知事は、辺野古を候補地とするにあたり、15年の使用期限を前提条件とした。政府はそれを受け入れた閣議決定を行なったが、その閣議決定は平成18年に一方的に廃止された。廃止された以上、受入れが白紙撤回されることは、小学生でも理解できる。

(3)「沖縄は基地で食べている」 基地経済への誤解

「沖縄は基地経済で成り立っている」というような話は、今や過去のものである。

日本の安全保障という観点から一定程度我慢し協力しているのであって、経済の面から見たら、むしろ邪魔なのだ。今や基地は沖縄経済発展の最大の阻害要因となっている。

(4)「沖縄は莫大な予算をもらっている」 沖縄振興予算への誤解

復帰に際して沖縄開発庁が創設され、沖縄振興予算の一括計上方式が導入された。47都道府県が一様に国から予算をもらったところに沖縄だけ3千億円上乗せをしてもらっているわけではない。

たとえば県民一人あたりの地方交付税は17位にとどまっている。

次のような事実についても、知っておいていただきたい。そもそも地方交付税は沖縄には復帰まで一切交付されなかった。

戦後、国鉄により全国津々浦々まで鉄道網の整備が行われた。同じ時期、沖縄県には国鉄の恩恵は一切なかった。しかし旧国鉄の債務は沖縄県民も負担している。

(5)基地問題に対する政府の対応

普天間が辺野古に移って、嘉手納以南のキャンプキンザーや、那覇軍港、キャンプ瑞慶覧とかが返されても、基地は0.7%しか減らない。なぜかというと、普天間の辺野古移設を含め、その大部分が県内移設だからだ。

(6)県民世論

4 日米安全保障条約

政府は、「今度は中東問題のために沖縄が大切、シーレーンのためにも沖縄が大切」と、どのように環境が変わっても沖縄には基地を置かなければいけないという説明ばかりだ。

沖縄一県に日本の防衛のほとんど全てを押し込めていれば、いざ、有事の際には、沖縄が再び戦場になることは明らかだ。

5 前知事の突然の埋立承認

6 前知事の承認に対する疑問-取消しの経緯 

(1)仲井眞前知事の埋立承認についての疑問

(2)第三者委員会の設置と国との集中協議

 第三者委員会の設置と法的瑕疵の確認

前知事の承認は、単純に公約違反というような政治的な意味合いにとどまらない問題をはらんでいた。

そこで第三者委員会を設置し再評価を行なった。その結果、平成27年7月16日に法律的な瑕疵があったとの報告を受けた。

 国との集中協議について

その後、平成27年8月10日から1ヶ月間、沖縄県と国との5回にわたる集中協議が行われた。以下は協議の内容に関わるコメント。

①差別的な取り扱い

沖縄は、冷戦構造のときには自由主義社会を守るという理由で基地が置かれた。今度は中国を相手に、さらには中東までも視野に入れて、沖縄に基地を置き続けるということだ。

これはまるで、私たちの沖縄というのは、ただ、ただ、世界の平和のためにいつまでも、膨大な基地を預かって未来永劫、 我慢しろということを強要されているのに等しい。

沖縄県民も日本人である。同じ日本人として、このような差別的な取り扱いは、決して容認できない。

②沖縄への集中配備は抑止力の強化にならない

「沖縄はもう中国に近すぎて、中国の弾道ミサイルに耐えられない。こういう固定的な、要塞的な抑止力というのは、大変脆弱性がある」というような軍事専門家の意見がある。

抑止力からすれば、もっと分散して配備することが理にかなっている。

③抑止力強化にオスプレイは筋違い

中国のミサイルへの脅威に、本当に沖縄の基地を強化して対応できるのか。オスプレイは運輸、輸送するための航空機であることを考えると、抑止力になるということは、まずあり得ない。

④沖縄県民の命への無関心

巡航ミサイルで攻撃されたらどうするのか。中谷防衛大臣はミサイルで対抗するという。迎撃ミサイルで全てのミサイルを迎撃することは不可能だ。

彼は沖縄県を単に領土としてしか見ていない。140万人の県民が住んでいることを理解していない。

大臣の発言を聞いたときには、私は心臓が凍る思いがしました。

⑤普天間の原点は橋本・モンデール会談ではなく、強制接収だ

菅官房長官は、「私は戦後生まれで、なかなかそういうことが分かりにくい。普天間の原点は橋本・モンデール会談だ」と答えた。

沖縄の抱える問題についてご理解いただけない、理解するつもりもない。

⑥「日本の真の独立」は神話ではない

沖縄が米軍の施政権下に置かれているときに、高等弁務官は「沖縄の自治は神話だ」と言った。しかしそれは神話ではなかった。(県民の悲願は達成され、祖国に復帰した)

しかし「日本の真の独立」は達成されていない。それが神話ではないことを証明しなければならない。

 承認取り消しに至る経過

省略

(3) 以上の経過の総括

米軍基地の負担は、沖縄県だけに押しつければよいという、安倍内閣の明確な意思の表れである。

沖縄県にのみ日米安全保障の過重な負担を強要する政府の対応そのものが、日本の安全保障を危うくしかねない。

7 主張

ここは翁長さんの思いが溢れているところなので、そのまま発言を引用したほうが良いだろう。

(1)政府に対して

安倍総理大臣は第一次内閣で「美しい国日本」と、そして今回は「日本を取り戻そう」とおっしゃっています。即座に思うのは「そこに沖縄は入っていますか」ということです。

「戦後レジームからの脱却」ともおっしゃっています。しかし、沖縄と米軍基地に関しては、「戦後レジームの死守」です。

日本と対立するということではありません。県益と国益は一致するはずです。

生産的でないから過去の話はやめろと言われても、それを言わずして、未来は語れないのです。いま現に膨大な米軍基地があるからです。

(2)国民、県民、世界の人々に対して

辺野古移設反対と述べると、「あなたは日米安保に賛成ではないですか」と質問されます。その時に私は、「本土の方々は日米安保に反対なのですか。賛成ならば、なぜ米軍基地を受け入れないのですか」と申し上げています。

私たちは暴力で対抗することはしません。法律に基づく権限を含め、私はあらゆる手法を駆使して辺野古新基地建設を阻止する覚悟です。

(3)アメリカに対して

アメリカは立派な当事者なのです。傍観者を装う態度は、もはや許されません。

日米安保を品格のある、誇りあるものにつくり上げ、そしてアジアの中で尊敬される日本、アメリカにならなければなりません。

 

ツィマーマンのショパンの協奏曲といえば、ジュリーニ・ロスアンジェルス交響楽団かコンドラシン・ロイアル・コンセルトヘボウと思っていた。 両方とも立派な演奏でショパンのコンチェルトはこれで決まりと思っていた。他に小澤征爾とベルリン・フィルというのもある。
 が、今度の録音は初めて聞いた。
ポーランド祝祭管弦楽団といういかにも覆面っぽい名前のオケで、ツィマーマンが弾き振りしている。 普通の演奏の倍も時間がかかっている。第二楽章など、止まってしまいそうだ。それだけでもすごいが、中身はもっとすごい。まいった!
私が知らなかっただけで、1990年というずい分昔の録音ではある。 フレーズというより、一つ一つの音符に意味が持たされている。音が呼吸している。 ポーランドの大平原の地面から湯気が立ち上っている雰囲気だ。最近のテレビで流行りだが、飛行機の空中撮影でなくパラグライダーで地面を舐めるように飛びながら牛や馬や低い木立を点綴させる撮影法だ。
これだけの演奏を楽団に強制して、実現させる力量(マネーの力か?)には圧倒される。
 ある意味で日本人好みの演奏かもしれない。前を向いて進むのではなく、下の景色を眺めながら進行過程そのものを楽しんでいる。
あぁ、やっと終わった。付き合わされるだけでも、けっこうぐったりだ。 まぁ、そう何回も聞きたいとは思わないが。

セキュラリズム secularism の意味が知りたくて、辞書を参照した。

英和辞典・和英辞典 - Weblio辞書

というページに、“世俗主義”と記載されている。ただ語源的ニュアンスも加味すると祭政の“分離主義”と言う方がピッタリ来るようだ。

宗教を俗世界から切り離すこと、とくに政治の世界から切り離すのが本来の趣旨らしい。

ところで、この辞書には発音もついていて、例文の“読み”を聞くことが出来る。

最初のフレーズが

an advocate of secularism

だが、聞いてびっくりする。

アン・アーキティ・セキュンナリザとしか聞こえない。

dもvも聞こえない。

それでは advocate (動詞)はどうなのか。

advocate は単独ならアボケッ、後ろに目的語がつけばアーボケだ。

あぁ、オレには英会話は無理だ。

赤澤史朗 「戦後日本の戦争責任論の動向」 立命館法学 2000年6号

宮田裕行 「戦後日本における戦争責任論」 千葉大学社会文化科学研究 2006年

を一応通読したが、正直いって相当うっとうしい。

こちらとしては「一体誰が悪かったんだ」というのを知りたいのだが、「戦後日本の戦争責任論」というのは、どうもそういうことを議論する場ではないらしい。ネット用語で言えば「スレ違い」だ。

最初からそういう問題意識を持って読めば、非常に深い内容がそこでは語られているのだが、ファクト収集の目的で飛び込んだ私には面食らってしまう。

そもそも論がこんぐらかってきた。我々が追求しようとしているのは、戦争犯罪なのかそれとも戦争責任なのだろうか。

客観的に見れば戦争責任を果てしなく拡大していくことは、果てしなく議論を拡散していくことになるし、結果として主犯者を免罪していくことに繋がる。

しかし平和を守る主体的責務との関係で捉えれば、過去に盲ることはできないし、その「共犯者」たる重みを後世に伝えていかなくてはならない。

その両方が共に大事なのであって、とくに後者の問題は教育と直結するだけにゆるがせにできない。

しかし、それを全面的に認めたうえであえて言うと、「我々の責任」論に埋没していて、真の戦争責任者を明らかにする作業が滞るのは、やはり本末転倒であろう。

それは戦争をする国を復活させようとしている勢力との闘いのさなかで営まれている論争である。何よりも、それを敵なし論として扱うことがないように望みたい。

 丸山真男の「戦争責任」論は、基本的には実践論として読むべきだろう。

しかも時空を限られた集団の実践論だ。時期で言えば、それは戦前派・戦中派に限定される。空間で言えば知識人・エリート層にとっての、あるいはその候補たちの世界の中で語られるべき論理だ。

「戦争を止められなかった共産党の責任」というのは、世間から見ればおよそ荒唐無稽な主張で、「気でも狂ったか」と思ってしまう。

それは共産党員や民青がうじゃじゃいて、声高に戦争責任を叫んでいるような、旧帝大とか有名私立大学のキャンパスの中で、初めて成り立ちうる議論である。

「黙れ、お前らだって責任あるじゃないか」と、講座派の若手学者に向かって叫ぶ、丸山の顔が目に浮かぶようである。

ところが、この言いがかりに近いセリフが、意外にシンパ層に受けてしまった。

原因は共産党の側にある。当時の共産党は反帝であって反戦ではなかった。どちらかと言えば好戦派だった。だから戦争責任を問う立場はご都合主義にならざるを得なかった。

おまけにスターリン主義だから、ソ連の戦争政策や干渉には反対できなかった。それが進歩とみなされていた。しかしそのメッキは急速に剥げ落ちつつあった。

外国や党中央の言うままではなく、自らの良心に従って戦おう、という呼びかけは進歩層の陣営内を席巻した。

かくして学内の進歩派は共産党派と“ノンポリ”の二つの潮流に分かれ、丸山は一方の旗頭に祭り上げられてしまった。

そういうことではないか、と、目下私は想像している。

戦争責任論の系譜

1945年

1946年 

伊丹万作「戦争責任者の問題」。「だまされた」と敗戦を了解する日本人の、「だまされる」ような自主性のなさの責任を指摘。

南原繁、貴族院本会議で演説。天皇の道義的責任を指摘して、その退位を主張。

1947年

1948年

大熊信行『国家悪』。国家が強制力を持って戦争犯罪の実行を迫っても、個人は普遍的人類的規範に立脚してそれを拒否しなければならない。

1949年

丸山真男「軍国支配者の精神形態」。本の政治指導者の主体性のなさと日本政治の「無責任の体系」を指摘。

1950年

1951年

1952年

1953年

戒能通孝「極東裁判」。第二次世界大戦は世界の民主主義勢力のファシズム諸国に対する戦争であり、東京裁判はその戦争の一部であった。

1955年 

遠山茂樹・今井清一・藤原彰『昭和史』。逆コースの中で氾濫した旧軍人らによって書かれた「戦記もの」の無反省さを批判。一方で、共産党を戦時下で抵抗する国民の極点として位置づける。

1956年

丸山真男「戦争責任論の盲点」。共産党の戦争責任(戦争を阻止できなかった前衛党としての政治責任)を追及。

1957年

亀井勝一郎(『現代史の課題』。松田道雄(『現代史の診断』。ともに共産党系の「昭和史」を批判。いわゆる『昭和史』論争となる。

『三光』が発行される。中国において戦犯として裁かれ釈放された日本軍人の告白を記したもの。

1958年

五味川純平『人間の条件』がベストセラーとなる(第1巻発行は56年)。中国での日本軍の残虐行為の事実が広く知られるようになる。

1959年

吉本隆明・武井昭夫『文学者の戦争責任』。民主主義文学者に、戦時中に戦争協力の事実があったことを暴露。

思想の科学研究会編『共同研究転向』の刊行が始まる(62年まで三巻が発行)。知識人の転向を独自の課題として検討。

1960年

竹内好「戦争責任について」。中国に対する戦争責任の自覚を通しての日本人のナショナルな主体性の創出を提起する。

1961年

『文学』の特集「戦争下の文学・芸術」(全3回)。情報局、戦時下の文学者と文学団体、映画・演劇・歌曲などに関し、戦争動員と戦争協力の諸相を掘り起こす。

1967年

玉城素『民族的責任の思想』。朝鮮における植民地支配の責任を問う。

1968年

1971年 

尾崎秀樹『旧植民地文学の研究』。日本人文学者や朝鮮人・中国人文学者と戦争や植民地支配との複雑な関係を論じる。

1972年

洞富雄『南京事件』。膨大な資料を踏まえて南京事件の実態に迫る。

本多勝一『中国の日本軍』。南京事件など日本軍の残虐行為に関する中国での聞き取りに基づく。

奥崎謙三『ヤマザキ、天皇を撃て!』。飢餓の南方戦線を体験した元兵士の手記。

1973年

高杉晋吾『日本医療の原罪』。細菌戦部隊であり捕虜の人体実験をおこなった七三一部隊について明らかにする。

1975年

井上清『天皇の戦争責任』。『木戸幸一日記』『杉山メモ』などこの時期に公刊された新資料を駆使し、天皇の戦争責任を問う。

江口圭一『日本帝国主義史論』。満州事変期の排外主義の形成を説明して、拝外主義に走ったジャーナリズムと国民の責任を論じる。

1978年

藤原彰『天皇制と軍隊』。天皇制国家機構の機構的特質をふまえて、天皇を含む宮中グループの特質と責任を明らかにする。戦後の「常識」は天皇に政治的・軍事的実権がなかったとされてきたが、これを実証的にうち破る。また「穏健派」とされていた宮中人脈の戦争責任があらためて問われる。

武田清子『天皇観の相剋』。敗戦前後の時期の連合諸国からの天皇と天皇制への厳しい眼と、天皇と天皇制の処遇をめぐっての対抗を、キリスト者の立場から紹介。

1981年

森村誠一『悪魔の飽食』。常石敬一『消えた細菌戦部隊』。七三一部隊の存在が広く一般にも知られるようになる。

1982年

歴史教科書問題が発生。教科書原稿で日本の「侵略」と書かれていた記述を、文部省が検定によって「進出」と書き直すことを強要した。家永訴訟はすでに65年に開始されていた。

洞富雄らによって南京事件調査研究会がつくられる。

1984年

細谷千博ほか編『国際シンポジウム「東京裁判を問う」』。東京裁判に対する肯定・否定のさまざまな議論を集大成する。

1985年

大沼保昭『東京裁判から戦後責任の思想へ』。東京裁判の意義と残された課題について論じる。

吉田裕『天皇の軍隊と南京事件』。南京事件調査研究会の成果をまとめたもの。いっぽうで田中正明らの南京事件否定論が登場。

1987年

朝日新聞テーマ談話室編『戦争』。加害体験の投稿が多く含まれる。

1988年

江口圭一『日中アヘン戦争』。日本の阿片密輸・密売を追及。

1989年

粟屋憲太郎『東京裁判論』。東京裁判における被告の選定過程などの究明を行う。

井口和起ほか編『南京事件京都師団関係資料集』。南京事件を記録した日本軍の兵士・下士官の当時の日記や手記を収集・公刊。


この年表は下記の論文の梗概にすぎない。

赤澤史朗 「戦後日本の戦争責任論の動向」 立命館法学 2000年6号

引用しておいて言うのもなんだが、文章そのものがやや関心領域が広すぎて、「開戦責任」に集中できないキライがある。

とりあえず、アップしておく。


内務省の歴史

1873年(明治6年) 

5月 岩倉使節団が帰朝。副使、大久保利通はプロイセン王国の帝国宰相府をモデルに、強い行政権限を持つ官僚機構の創設を目指す。

11月 明治6年政変により大久保が政府の実権を握る。内務省が設置され、初代の内務卿に大久保が就任。地方行政と治安維持を主務とする。

実体としては大久保によるクーデターに等しいものである。大久保の独裁のための政府内政府であり、軍隊を除く政府機能のほぼすべてがふくまれる。

当初は上局(後の総務局)の下に大蔵省の勧業寮、戸籍寮、駅逓寮、土木寮、地理寮が移管された。また司法省からは警保寮、工部省から測量司が移管された。
76年に庶務局(後の県治局)、衛生局が新設、77年に社寺局が移管される。

1875年 讒謗律を制定、新聞紙条例を制定、さらに出版条例を改正するなど自由民権運動への弾圧が強化される。

1876年(明治9年)

警保寮を廃止し警保局を設置。

1877年 西南戦争が勃発。戦争終結直後に大久保が暗殺される。軍幹部の山縣有朋が内務省に就任し軍政一体路線を強化。

1880年  国会開設運動を期にふたたび自由民権運動が盛り上がる。内務省は集会条例を制定、さらに新聞紙条例を制定するなど弾圧を強化。

1885年(明治18年)

内閣制が実施され、内務省も内閣に属することとなる。山縣有朋が初代大臣となる。

内務省処務条例が施行される。官房、総務局、県治局、警保局、土木局、衛生局、地理局、戸籍局、社寺局、会計局の局制が実施される。
その後はほぼこの体制(県治局、警保局、土木局、衛生局の四本柱)が維持される。

1887年 保安条例が制定される。尾崎行雄、星亨、片岡健吉、中江兆民ら451人を皇居外3里より外へ追放。建白運動への弾圧を強める。

1890年(明治23年)

集会条例をさらに包括的にした「集会及政社法」が制定される。自由民権運動は息の根を絶たれる。

鉄道庁が内務省の外局として分離。後に逓信省に移管。

1891年(明治24年) 日清戦争が始まる。内村鑑三の不敬事件、久米邦武の筆禍事件が相次いで発生。

1892年 第2回衆議院議員総選挙。内務大臣品川弥二郎は予戒令を発し、激しい選挙干渉をおこなう。

1900年(明治33年)

治安警察法が公布。自由民権運動などの政治活動の規制を主目的とする「集会及政社法」に、労働運動の規制を付加したもの。内務省の主要な弾圧対象が左翼にシフト。

1.政治結社・集会の届け出。集会における言論の制限と臨監。
2.街頭デモの禁止。
3.ストライキの禁止(労働条件・報酬に関し協同行動すること、“団結”に加入させること。同盟罷業において労務者を停廃させること)
4.軍人・警官、神職・僧侶、教員、女性の政治活動禁止。

神社局(元社寺局)が設立され、国家神道政策を司る。

1904年 日露戦争。

1910年 韓国併合。内務省が植民地行政を担当。

1910年 総理大臣に直隷する拓殖局が設置され、植民地行政は内務省管轄を外れる。

1911年

大逆事件が発生(前年)。危険思想取締りのため、枢要地に特に専任警部を配置する。これを受け、警視庁に特別高等科(特高)が置かれる。

1917年(大正6年) ロシア革命が勃発。

1918年(大正7年) 米騒動が発生。

1920年 社会局が外局として設置される。労働行政を司る。警視庁特別高等課に労働係が新設される。

1921年 第一次大本事件。出口王仁三郎らが不敬罪・新聞紙法違反で起訴される。

1922年

日本共産党が創設される。この後社会運動の発展に伴い、北海道・神奈川・愛知・京都・大阪・兵庫・山口・福岡・長崎・長野などに特別高等科が設けられる。

1923年(大正12年)

6月 第一次共産党検挙事件。警視庁官房主事だった正力松太郎の独走と言われる。

9月 関東大震災が発生。都下に戒厳令が施行される。朝鮮人集団虐殺のほか、共産党活動家、無政府主義者が軍の手により殺害される。

1925年(大正14年)

5月 治安維持法が制定される。内務省は特別高等警察の元締として、思想犯や政治犯の取り締まりを監督。

1926年(大正15年―昭和1年) 京都学連事件、水平社事件が相次ぐ。京都学連事件は最初の治維法適用例、後者は爆弾テロのでっち上げ。

1928年(昭和3年)

3.15事件。1道3府27県で、共産党活動家1568名の一斉摘発。労働農民党・日本労働組合評議会・全日本無産青年同盟に解散命令。河上肇、大森義太郎、向坂逸郎が大学教授を追放される。緊急勅令で治維法が改正され、最高刑を死刑とする。

7月 全府県に特別高等課が設けられ、主要な警察署には「特別高等係」が配置される。 警保局図書課の予算が倍増され、言論弾圧を拡大。

警保局(とくに保安課)が拡充強化され、思想警察を全国的に統轄することとなった。
府県の特高課長は直接に中央の保安課長と結びつき、その任免は保安課長に一任された。内務省の機密費も保安課長から直接に特高課長に送られていた。

1929年

4.16事件。約700人が検挙される。弾圧に反対する山本宣治代議士が刺殺される。

1930年

共産党シンパ事件がおこる。中野重治、三木清らが検挙される。

1931年

満州事変が勃発。

警察精神作興運動。「陛下の警察官」の意識が強調される。

1932年 

共産党幹部の岩田義道が逮捕・虐殺される。スパイの暗躍により極左方針が横行。「熱海事件」で残された共産党活動家が一網打尽となる。プロレタリア文化団体への弾圧が始まり、蔵原惟人、宮本百合子らが検挙される。

6月 警視庁特高課が特別高等部に昇格し権限を強化。思想弾圧は野放し状態となる。

10月 司法官赤化事件。東京地裁所属の尾崎陞判事らが共産党シンパとして検挙される。

1933年(昭和8年)

長野で二・四事件(教員赤化事件)。共産党シンパとされた教員138人の一斉検挙。信濃毎日新聞に「関東防空大演習を嗤う」を書いた桐生悠々が強制辞職。

小林多喜二の虐殺。最後の幹部であった宮本顕治、野呂栄太郎が逮捕され、共産党は壊滅。獄中の共産党幹部が転向表明。

1936年 

コム・アカデミー事件。山田盛太郎・平野義太郎・小林良正ら講座派研究者および左翼文化団体関係者の一斉検挙。

ひとのみち教団(PL教団)幹部の検挙、新興仏教青年同盟の妹尾義郎らが検挙。

1937年

『世界文化』同人の一斉検挙。中井正一・新村猛らが拘束される。東京帝大経済学部の矢内原忠雄教授が辞職に追い込まれる。

第1次人民戦線事件。山川均・猪俣津南雄らの労農派活動家、加藤勘十・鈴木茂三郎らの左派社会民主主義者417名がいっせい検挙される。翌年の第2次人民戦線事件では、大内兵衛・美濃部亮吉ら労農派教授が検挙される。

1938年

1月 衛生・社会両局が厚生省として分離される。人事は内務省と一体のものとして運用される。

2月 「国家総動員」が叫ばれるようになる。防共護国団員が国家総動員法に慎重姿勢を示す政友党、民政党本部を占拠。石川達三の「生きてゐる兵隊」が発禁となる。

3月 社会大衆党の西尾末広が政府を激励する演説をおこなう。 「ヒトラーの如くスターリンの如く」との発言が問題となり議員除名となる。

7月 内政会議(首相・蔵相・内相・文相で構成)が発足。内務省が主導して「国民精神総動員運動」の企画と指導を管轄する。

道府県庁内に総動員課・総動員事務局・事変課・時局課などを新設し、町村分会が隣保組織(部落会、隣保会)を組織した。

7月 産業報国連盟が発足。警察組織を中核として企業単位産報を組織につなぐ。

10月 反共の闘士、河合栄治郎東大教授の主著が、リベラルな傾向を非難され発禁となる。河合はその後辞職を迫られる。

11月 唯物論研究会事件。岡邦雄・戸坂潤・永田広志・新島繁ら幹部35名が検挙される。戸坂は終戦を目前に獄死。

1940年 

大政翼賛会が発足。知事が翼賛会の地方支部長を兼ね、内務省による政治支配が完成。

反軍演説を行った斎藤隆夫代議士が議員除名処分を受ける。

生活綴方運動への弾圧開始。村山俊太郎ら教員約300名が検挙される。「新興俳句弾圧事件」でも俳人多数が検挙される。

プロテスタント(メソジスト)系キリスト教会・救世軍への弾圧。日本人伝道者がスパイ容疑で憲兵に逮捕される。

1941年

1月 企画院事件。左翼前歴者の多い企画院内若手判任官の研究会を摘発、岡倉古志郎・玉城肇ら逮捕。その後和田博雄・勝間田清一・和田耕作ら中堅も検挙される。

3月 治安維持法全面改正。予防拘禁制が実施される。 396名を検挙・検束・仮収容。

防空局が新設される。

4月 「国防保安法」が制定される。国防上、外国にたいして秘匿を要する重要な機密を保護することを目的とする。刑法以外に特別に重い刑罰が課される。政治的・思想的弾圧の手段として利用された。

10月 ゾルゲ事件が発覚。

12月 「言論出版集会結社等臨時取締法」が公布される。時局に関する「造言飛語」「人心惑乱」行為を処罰するもの。その内容がたとえ事実で、確実な根拠にもとづくものであっても処罰される。

1942年

2月 「戦時刑事特別法」が公布される。刑事手続について特別の取扱いを定める。「宣伝」行為処罰の規定では、「戦時に際し安寧秩序をびん乱する宣伝したる者」を実刑に処する。

6月 中西功ら上海反戦グループが検挙される。

9月 横浜事件が発生。中央公論社・改造社社員の会合を共産党再建会議と見なし検挙。ほか日本評論社・岩波書店・朝日新聞社の編集者など49名を検挙。

9月 満鉄調査部事件。調査部の具島兼三郎、伊藤武雄、石堂清倫ら検挙。

1942年

拓務省が廃止され、植民地行政も内務省に一元化される。

1943年

創価教育学会の牧口常三郎・戸田城聖らが検挙される。

1944年

毎日新聞「竹槍では間に合わぬ」の記事で差し押さえ。

1945年

戦争敗北の流言が広まり東京で1月以来40余件が送検。

1947年

5月 日本国憲法が制定。都道府県知事を公選制とするなど地方行政の転換がなされる。

12月31日 内務省、GHQの指令により廃止・解体される。

 

 以前の赤旗で、上海や南京の慰安所が取り上げられたが、今回は武漢の慰安所が記事になっている。


武漢というのは長江を南京からさらに遡ったところで、もともと違う3つの街が合わさって武漢を形成している。その中で漢口の街の中心部に陸軍の慰安所があった。

1937年(昭和12年)の7月に柳条湖事件をきっかけとして日中戦争が開始されたが、それが本格化したのは8月の上海事変からで、ここから日本軍は内陸部に向かい進軍。その年の12月には南京を占領した。有名な南京大虐殺が起きたのはその時のことである。

蒋介石の国民政府は、その後も武漢に拠点を構え抵抗を続けた。日本軍はそれに引き込まれるようにズルズルと進軍を繰り返し、翌38年の10月に武漢を占領した。

本音はこの辺で一度休戦に持ち込みたかったのだが、蒋介石はさらに重慶にこもり抵抗を続けた。この頃からとくに米英両国の蒋介石政府への支援が活発となり、日本は完全に泥沼にはまりこんだのである。

というのは歴史の話。

さて、武漢に侵入した日本軍がまずやったのは慰安所づくりである。そして漢口地区目抜き通りの中山大道にあった資産家の建物を接収し、慰安所に改造した。その名を「漢口特殊慰安所」という。

その規模がすごい。慰安所と言っても一軒ではない。

漢口
内地でも見かけないほどの一大遊郭である。

ここには日本人や朝鮮人が運営する20あまりの施設がありました。…日本の敗戦までの7年間にわたり使用され、常に300人の慰安婦がいました。うち日本人と朝鮮人が半々だったといいます。

慰安婦だけで300人いれば、少なくともその数倍の雇い人がいただろう。これはもう一つの街だ。

しかも武漢の慰安所はここだけではない。全部で60ヶ所あったとされている。これだけの規模で運営されている施設が慰安婦の確保、食料その他の調達などで軍の関与なしに存在しうるわけはない。


ところで

慰安婦問題についてイロイロ難癖をつける人々は、彼女たちが性奴隷(籠の鳥)であり、性労働を強制され、それ以外の労働を許されない存在だったことを見ようとしない。

イロイロな理由があれば性奴隷制度が許されるのだとすれば、児童労働も黒人労働も同じ論理で許容されてしまうのである。

しかも、それを国家機構の柱である軍隊が(しかも栄えある皇軍が)やってしまったのである。客観的に見れば、国家による強制以外の何物でもない。

これが中核的事実であり、国家犯罪なのである。

フルヴェングラーのモルダウ

1951年にウィーンフィルを振った演奏がYouTubeで聞ける。

テンポを遅くとって管楽器にたっぷり歌わせている。中間部はまるでローエングリーンを聞いているようだ。

51年の録音なのにどうして? というほどに音はひどい。元の音がひどいのか録音技師が勝手に音をいじったのか、とにかくひどいが、演奏はすごい。

本当はこう鳴っているんだろうなと想像しつつ聴きこむと、さすがにすごい迫力だ。

ただどうしても、私はフルヴェングラーを純粋に音楽として聞き通せない。何年にどこで録音した演奏で、その時フルトヴェングラーは何をしていたのかということが念頭に来てしまう。

Michel Orsoni さんという人がコメントしているのを引用する。

フルヴェングラーは「我が祖国」をコンサートの冒頭に演奏した。それは1940年11月7日、プラハでのことだった。(この録音の10年前)
1940年その時、プラハはナチに占領された。
スメタナの「我が祖国」はチェコ民衆の独立のシンボルとなった作品である。
彼の演奏はナチ占領という恐ろしい状況における、彼の民衆への支持表明の一つの方法だった。

私にはその逆にしか思えない。ナチの勝利したプラハに乗り込んだナチの御用演奏家が、これみよがしに「我が祖国」を演奏すれば、チェコの民衆がそれをどう思うかは、火を見るより明らかではないか。

私はフルトヴェングラーをこういう言い方までして褒めそやすフリーク共の神経が理解できない。

東芝 粉飾決算 その後の動き

昨日の赤旗で、重い話題がふたつと書いたが、もう一つが東芝問題だ。

8月12日に下記の記事をまとめてアップした。

闇株新聞といういささか怪しげな名前のサイトがある。ダイヤモンド社がスポンサーで内容はしっかりしている

。その12月4日号に載った記事を引用しておく。

 それでも「名門企業だから刑事事件にならない」のか?

日経ビジネスの証拠(メール)は、入手方法によっては「証拠能力」がなくなります。しかし捜査当局があらためて令状をとって入手すれば、十分な証拠となるはずです。あくまで捜査当局が「そうすれば」の話ですが。

 第三者委員会や東京証券取引所や証券取引等監視委員会(SESC)らの責任問題まで飛び出してくれば、今度は東芝を「徹底的に悪者」に仕立て上げなければならなくなり、刑事事件化する可能性もなきにしもあらずです。

 しかし当局は予定通り、金融庁による73億円の課徴金処分だけで、何事もなかったように済ませようとするはずです。

日中歴史共同研究(概要)
 平成22年9月
1.経緯
(1)2005年4月の日中外相会談において、町村外務大臣(当時)より日中歴史共同研究を提案、翌5月の日中外相会談において、詳細は事務当局間で議論していくことで一致。
(2)2006年10月の安倍総理大臣(当時)訪中の際、日中首脳会談において、日中有識者による歴史共同研究を年内に立ち上げることで一致。同年11月、APEC閣僚会議の際の日中外相会談において、歴史共同研究の実施枠組みについて合意(別添参照)。
(3)2006年12月26-27日に北京で第1回全体会合、2007年3月19-20日に東京で第2回全体会合、2008年1月5-6日に北京で第3回全体会合を開催。研究成果をとりまとめる予定。
(4)2008年5月、胡錦濤国家主席訪日時に、首脳間で歴史共同研究の果たす役割を高く評価するとともに、今後も継続していくことで一致。
(5)2009年12月、第4回全体会合(最終会合)を実施し、今期の歴史共同研究は終了。会合では研究成果の発表方法につき一致するとともに、その一部を発表した。
(6)2010年1月31日、両国委員による自国語論文(報告書)を発表。  
目次・序(日本語)、日本語論文(PDF)PDF中国語論文翻訳版(PDF)PDF
(7)2010年9月6日、報告書翻訳版を発表。  
目次・序、日本語論文翻訳版、中国語論文翻訳版 英語翻訳版(日本側近現代史部分)

ということで、コンセンサスができたわけではないが、コンセンサスに近づこうとした文献と考えられる。この後どう歩み寄っていくかの課題が残されている。読むのはこれから。

1938年 ニューヨークタイムズ、ライフ誌などが相次いで南京虐殺を暴露。

1947年 南京戦犯裁判軍事法廷の判決。30万以上とする。

1948年 東京裁判(極東国際軍事裁判)の判決。20万人以上とする。松井司令官に対する判決では10万以上とする。

1971年 本多勝一記者(朝日新聞)が『中国の旅』を連載。

1973年 鈴木明が『「南京大虐殺」のまぼろし』(文藝春秋 1973年)を発表。

1982年 教科書検定で南京大虐殺の記述を削除。これに対し家永三郎が訴訟を起こす。

1985年 陸軍将校の親睦団体である偕行社の機関誌が、「南京戦史」を特集。大量虐殺の事実を認め謝罪。

1989年 偕行社が集めた証言が『南京戦史』として刊行される。少なくとも約1万6000名に上る捕虜などの殺害があったことを認める。

2008年 日本「南京」学会、1次資料を調査研究した結果、「南京虐殺」はなかったと主張。

2010年1月 日中歴史共同研究の報告書が発表される。日本側研究者は20万人を上限とする見解。


と、ここまでがウィキペディア(かなりまぼろし派の記載)で拾った経過。

これだけでも「論争」にはなっていないことが分かる。

変化球として、「国際法上『虐殺』に当たらない。故に、大虐殺はなかった」という議論もあるが、これは論外。

最後の項目に「日中歴史共同研究」があげられている。目下のところ日中両政府のコンセンサスと考えられる。稿を改めて紹介しておく。

本格的に勉強したい人は下記のサイトへ 

南京事件-日中戦争 小さな資料集 

ゆうのページ


本日の赤旗は、なかなか重い記事がふたつ載っている。
両方とも、少し調べたうえでないと書けない記事になるが、とりあえず南京大虐殺の方は、記事の紹介にとどめておく。
これは、ユネスコの世界記憶遺産に南京大虐殺関連の資料が登録されたことで、日本政府が攻撃し、ユネスコ分担金の停止をちらつかせた事件を扱っている。
記事の切り口は、はたしてどのような資料が登録されたかということを実際に紹介することで、安倍政権の非難が的はずれだということを論証しようとするものだ。
文化面のトップ記事で、筆者は笠原十九司さん、南京大虐殺の専門家だ。

1.記憶遺産登録の経過と内容
世界記憶遺産は、各国政府の申請を受けてユネスコが審査、登録の可否を決める仕組みになっている。審査の過程は別な話として、とりあえず問題なのが中国の申請内容だ。
この申請書はユネスコのホームページで閲覧できる。といっても、その記録リストである。
2.申請書のリスト
リストは全体として3部にわけられている。第一部が南京大虐殺当時の資料、第二部が東京裁判、南京軍事法廷に提出された資料、そして第三部が中華人民共和国成立後に撫順、太原で行われた戦犯裁判の資料となっている。第三部は一見無関係のようだが、この中の南京事件関係者の自筆供述書が取り上げられている。
詳細は省略するが、笠原さんによればこれらはすべて既出資料であり、その客観性(正確性ではない)は確認済みのものである。
3.申請書は犠牲者数について主張していない
大事なのはここであろう。笠原さんの文章を引用する。
日本政府高官が、「犠牲者数30万人以上という中国の主張が既成事実となる」と非難したと報じられている。
しかし申請書は、犠牲者総数について「概要」のところで東京裁判の判決書にある「20万人以上」を挙げているのみである。
「30万以上」は南京軍事法廷の判決書の数字を資料として紹介しているだけである。つまり「30万人虐殺を主張」してはいないのである。
中国側は数において争っているわけではない。「大虐殺」が存在したことを主張しているのである。ここが否定されてしまうと、日本政府の言い分は難癖に近くなってくる。
以下は川村外務報道官の談話。
中国の一方的な主張に基づき申請されたものであり、当該文書は完全性や真正性に問題がある。
しかし東京裁判の判決に「20万人以上」となっている以上、この数字を主張することは、少なくとも中国の立場からすれば一方的でもなんでもないのである。「文句があるなら東京裁判に言ってくれ」の世界だ。(個人的には20万人もやや過大ではないかとの印象を持っているが)

「30万人以上も殺したというのはデマだから、大虐殺はなかった」、というのは論理のすり替えである。それは「銃剣で追い立てて狩り出したというのはデマだから、従軍慰安婦はなかった」という論理に繋がるものがある。これだと卵が9個しかなかったら、「卵はなかった」ことになってしまう。
日本側関係者にはこういうほかない。「たのむから、もうそういう恥ずかしいこと言わないで」と。

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