鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

2015年11月

広井良典さんの「定常型社会」(岩波新書)という本ほど、何回も挫折する本も珍しい。

パラパラと読む分にはなかなか面白いのだが、身を入れて読もうとするとたちまち字面が負えなくなる。

なにか話が変な方向に行ってしまうのである。「おいおい、ちょっと待てよ。そこから先は道が違うんじゃないの」ということだ。

そして彼が何かしらの定式めいたものを打ち出す頃にはすっかり白けてしまうのだ。

結局彼の言う定常社会というのは停滞社会のことだ。「停滞しても安定した社会」というのが彼の理想社会、というと言いすぎかもしれないが、少なくとも「モデル社会」だ。

私は以前「平和な中規模国家」というイメージを提起したことがるが、それとは似て非なるものがあるようだ。

私はいまだにマルクスの言うように「現代社会は真の人間史が始まるトバ口の社会だ」と信じているから、とにかく宗派が違うのである。

広井さんの言葉をつなげていくと、昔の「主婦と生活」の特集にあった「やりくり上手で幸せな家庭を」という記事を思い出してしまう。

「資源は有限だ」という前提で「欲望も無限ではない」とか「高望みしなければ人間幸せ気分になれる」というお説教がつい思い出されてしまうのである。

この手の話は必ず天井論を前提にしている。

1.資源には天井がある。

2.環境には天井がある。

3.人間の欲望には天井がある。

これらのうちのどれか、あるいはそれらの組み合わせで議論を立ててくる。

古くはローマクラブの提言、最近では温暖化、国内限定バージョンでは飽食社会論などがそれである。

それらは大抵が善意の提言であり、儲け主義への警告であるから、積極的な意義を持っている。ただ、それを絶対化されたり生活信条化されると、ついていけなくなる。相容れないものを感じてしまうのである。

世界史的、あるはもっと振りかぶって人類史的には、人間は資源に天井がないこと、欲望にも天井がないことを証明してきたではないか。

と言っても、人類の歴史はたかだか数万年に過ぎず、その中でもしばしば絶滅の危機を乗り越えてきたので、これから先も絶滅の危機はやってくると考えておいたほうが良いのだが。

とにかく「天井論者」に言っておきたいのは、簡単に世の中を数値化して論じないで欲しいということだ。

世の中常に反省と積み上げで出来ている。環境が悪化すれば改善するし、エネルギーが不足すれば省エネ技術が発展する。技術が飽和すればそこに革命的が技術が登場する。

問題なのは社会の無政府性が社会進歩を妨げ、場合によっては社会を破壊してしまうことだ。そのことも世界史的に見れば極めて明瞭な事実だ。ローマ帝国が崩壊したように、大英帝国が没落したように、アメリカの世紀もいずれ終わりを遂げるかもしれない。しかしそれは人類の叡智が終わりを告げたわけではない。むしろ発展していったからこそ、古い入れ物が間尺に合わなくなっていったのである。


ゴーストップ事件

1933年(昭和8年)に大阪の天六交叉点で起きた陸軍兵と巡査の喧嘩が事の起こり。

それに端を発して陸軍と警察のメンツをかけた大規模な対立に発展した。

当時信号を「ゴーストップ」と呼んだことから、ゴーストップ事件と言われる。(ウィキペディア)


大阪市北区の天神橋筋6丁目交叉点(通称 天六)には、当時珍しい交通信号機があった。

ようやく自動信号が付いたころで、往来の人、車とも不慣れのため信号無視が多く、かえって危険だと交差点の中央に巡査が立ち、交通整理していた。(大阪日日新聞

tenroku

                 天六交差点

天六交差点には、新京阪鉄道「天神橋」駅がそびえていた。この建物は、大正14年に高架プラットホームを設けた日本初の高層ターミナルビルとして建造された。その一角に大阪府警察曾根崎署天六派出所も入っていた。

天神橋
         天神橋駅

この日の巡査は戸田忠夫が担当していた。戸田は阪急梅田駅前が勤務場所だったが、同僚の病欠でこの日だけ天六に回されていた。

戸田巡査

中村1等兵

  戸田忠雄巡査

 中村政一一等兵

  

1.事件の発端

6月17日午前11時40分頃、休暇外出中の中村政一一等兵(第4師団第8連隊第6中隊所属)が、市電に乗ろうとして交差点を横断した。この時信号は赤だったが、中村はこれを無視した。

戸田忠夫は中村をメガホンで注意した。さらに取り調べのため、中村を天六派出所まで連行した。

派出所内で、中村は「軍人は憲兵には従うが、警察官の命令に服する義務はない」と抗弁し抵抗した。

押し問答の末に、派出所内で殴り合いの喧嘩となり、双方ともに顔面に負傷した。

2.憲兵の介入

喧嘩は相当長時間にわたったようで、見かねた見物人が憲兵隊に通報した。

大手前憲兵分隊から、憲兵隊伍長が駆けつけた。伍長は中村を保護し連れ出した。戸田もこれを受け入れ、中村を解放した。

中村は原隊には戻らず、大手前憲兵分隊で憲兵の尋問を受けた。

中村の供述: 停止信号に気づかず横断しかけたところはじめて赤信号に気づいた。
…戸田巡査が飛んできて後ろから首筋をつかまれた。…交番へ連行しようとするのでふり切った。ところが、同巡査は前から上着をひっつかんで派出所に連行した。
通行人が『兵隊に無茶するな』と言ったことから、戸田巡査と口論になり、殴られた。その際、よけるために突き飛ばしたので、同巡査の第二ボタンが取れた(大阪朝日新聞)

3.憲兵隊の抗議

その2時間後、憲兵隊は「公衆の面前で軍服着用の帝国軍人を侮辱したのは断じて許せぬ」として曽根崎署に対して抗議した。

大阪日日新聞の記載は異なっている。抗議したのは、憲兵隊から報告を受けた第八連隊の直属上官だったとされている。

曽根崎署は戸田を聴取した。戸田は「信号無視をし、先に手を出したのは中村一等兵である」と証言した。

4.事件の情報は上層部に及ぶ

この日、中村の原隊である第8連隊と、戸田の所属する曽根崎署のトップはともに不在であった。このため情報が直接上部にあげられることになった。

大阪日日では、井関参謀長は事件当日には不在で、情報は直接寺内師団長に上がった。慎重派の井関に対し、寺内は「瞬間湯沸器」で直情傾向のため、騒ぎが大きくなったという。

と、ここまでが当日の経過。

これにより事件はにわかに大掛かりなものとなった。

4日後(21日)には事件の概要が憲兵司令官や陸軍省にまで伝わった。最終的には昭和天皇の耳にまで入ることとなった。

5.師団と府警の対決

22日、軍がまずアクションを起こした。

第8連隊の所属する第4師団の井関参謀長が、「この事件は一兵士と一巡査の事件ではなく、皇軍の威信にかかわる重大な問題である」との声明書を発表し、警察に謝罪を要求した。

抗議文の内容(大阪日日より)
中村一等兵は地理不案内で、天六交差点の自動信号機に気づかず、横断せむとしたところ、いきなり巡査戸田に襟首をつかまれ、交番に連行され、鉄拳で上唇付近を四回、右掌(てのひら)で頬(ほお)および左耳を強打され、左鼓膜を破られて全治し難いとの診断を受けた。
軍人が法律違反を犯したる場合は、まず憲兵隊に通報すべきなるを、一巡査が勝手に不法行為をなしたること、絶対に許すべからざる暴挙なり。軍に対する大阪府警の悪意ある挑戦と見ざるを得ず。
…本事件は明白に軍人に対する警察の暴行傷害侮辱事件なり。一兵士対一巡査の偶発的街頭問題に非(あら)ず。因(よ)りて師団の総力をあげ、断固たる決意で解決に当たる所在なり。

穏便に事態の収拾を図ろうとしていた警察側も態度を硬化させた。

大阪府の粟谷警察部長が第4師団からの抗議文に反駁。

中村政一一等兵はメガホンを用いて再三の戸田巡査の注意に、「生意気ぬかすな、憲兵のいうことなら聞くが、お巡りなど問題にならぬ」と暴言を吐いた。
交番に連れていくと戸田の背中を思いきり軍靴で蹴りあげ、なにをすると振り向いた顔面に、アッパーカットをくら わせ、負傷させた。
よって揉み合いになったが、市民の通報で憲兵伍長が駆けつけて、大事に至らずに済んだ。たったこれだけのことである。
…街頭通行の非番兵士は一市民の資格しかない。当然信号は順守せねばならぬ。法を無視してよいとの特権があるはずはない。
…兵士が陛下の赤子なら、我ら警官も銃後を固める陛下の赤子である。陳謝弁明する気は毛頭ない。(大阪日日)

6.師団長と府知事の交渉が決裂

24日、事態を収拾すべく、寺内第4師団長と大阪府知事の会見が持たれたが、これも決裂した。

大阪朝日

28日、井関参謀長が二度目の言明。「軍人の身体は上御一人に捧げてある。したがって外出中でも軍服を着ていれば、軍の統帥権内にある。地方人のただなかで面目を潰された時は、昔の武士なら相手を切り捨て、切腹するほどのものだ」と強調。

これに対し粟屋警察部長も、「軍隊行動でない個人としての軍人と、一般市民の扱いに違いはない」と反論する。(れきこん

粟屋は大分県知事を務めたあと農林省に勤務。昭和17年に退官したが、請われて広島市長に就任。原爆により死亡した。

問題は軍部と内務省との対立に発展し、もはや大阪では解決できず、中央での交渉が必要となった。

府知事は上京して山本内務大臣に要望を伝える。

警察の措置は法を守る番人として当然のことだ。大阪府は軍に一歩も譲るつもりはない。軍の謝罪で収めてもらいたい(大阪日日)

7.東京での内務省と陸軍の対決

東京でも攻勢に出たのは軍部だった。

寺内から報告を受けた荒木陸軍大臣は、「伝統ある大日本帝国陸軍の名誉にかけ、大阪府警察部を謝らせる」と発言した。7月3日には現地に乗り込み、第4師団を督励するなど対立を煽った。全国在郷軍人会も中村の応援に乗り出した。

これに対し、山本内務大臣と松本警保局長(現在の警察庁長官に相当)は、「謝罪など論外、その兵士こそ逮捕・起訴すべきだ」との意見で一致した。

松本警保局長の回想: 五・一五事件の直後で、またいつ何が起こるかわからん時点で治安の重責を負う者は誰もが命がけだった。特に軍人が増長して横車を押す傾向が起きたのに対して、警保局長として黙止できない立場に立ったので終始軍部と戦った。

8.中村が戸田を告訴

7月18日、中村一等兵は大阪地方裁判所に対し、戸田巡査を相手取り告訴した。当然、寺内師団長の指図によるものである。

告訴内容は、刑法第195条(特別公務員暴行陵虐)、同第196条(特別公務員職権濫用等致死傷)、同第204条(傷害罪)、同第206条(名誉毀損罪)とされた。

大阪地検は調査に乗り出す一方、両者の和解を勧告した。小山法務大臣も二度にわたり来阪し、斡旋に努める。

9.両者の暴露合戦

憲兵隊は戸田巡査の本名は中西であることを暴いた。警察は中村一等兵が過去に7回の交通違反を犯していることを発表した。

ただしこれは本人が否定している。中村は入隊前は馬力(荷馬車の御者)で、積み荷のことで巡査に注意されたことがあったという。

メディアはこれらの経過を、「軍部と警察の正面衝突」などと大きく報じた。

7月18日、曽根崎署の高柳署長は過労で倒れ、10日後に死亡した。事件の目撃者の一人は、憲兵と警察の度重なる厳しい事情聴取に耐え切れず自殺した。

10.「和解」と軍部の実質的勝利

10月末、福井県で陸軍特別大演習。臨席した天皇が荒木陸軍大臣へ「大阪でゴー・ストップ事件というのがあったが、どうなったのか」と質問したという。(この項は未確定情報)

11月7日、県府知事の要請を受けた白根兵庫県知事が調停に乗り出した。事態を憂慮した昭和天皇の特命によるものとされる。

白根の実兄は宮内省幹部。天皇の意を受け、斎藤首相に「陛下が心痛されている」と伝えたという。これを受け、斎藤首相が司法大臣に事件の決着を指示した(大阪日日)

11月18日、井関参謀長と粟屋大阪府警察部長が共同声明書を発表した。

師団側:軍部が府当局の注意を喚起せし所以は、皇軍建設の本義を宣明し、軍人の特殊地位を明徴にせんとせしに外ならず。
警察側:親善なる関係の下に進んできた両者に、気まずいことが出来たが、円満解決をみたことは喜びに堪えず(考察ニッポン

20日には戸田巡査と中村一等兵が会い、互いに詫びて幕を引いた。

和解の内容は公表されていないが、その後警察が兵士を勾留することはなくなったことから、軍部の実質的勝利とみられる。

篠田謙一さんの「DNAから見えた日本人の起源」は、やはりどう考えても時代遅れだと思う。

弥生がベタになっているのが致命的だ。人類史的な考えから言えば、弥生時代という考えがそもそも雑駁すぎる。

1.食事対象で時期区分する必要がある

土器は主要な生活資源ではないし、生産様式を表現するものでもない。マンモスやトナカイを追う狩猟生活が一方であり、一方で漁猟を主体とする生活があり、森林地帯では果実や木の実を採取する生活があった。これが基本である。

これらの違いは自然環境の違いに規定されたものであり、優劣の差ではない。

しかし絶え間ない気候変動により人類は絶えず移動を余儀なくされた。そして人種同士の衝突も否応なしに起こった。

2.南北が戦えば北が勝つ

その時に戦闘力の差は種族の存亡を決定する。戦闘力から言えば狩猟民族が圧倒的に強いのは当然である。

狩猟民族は強固な集団を形成し、その集団力を頼りに生存を図る。大動物を捕らえ殺す手段はそのまま人を殺す手段となる。

一方採取生活は、小家族を単位として広い縄張りの中で数少ない果実を分け合うべく散在する。縄張りの向こうはすべて敵である。団結のしようもない。

かくして人種の入れ替え、混淆は、常に北方人優位の形で継起した。

3.第一次民族大移動

最大の北方種族の移動は1万5千年から1万年前にかけておきている。主要な流れはイルクーツクからハイラルにかけて住んでいた北方民族が黄河領域へと進出したことである。

これと時期を同じくしてアムール川下流域の北方民族が間宮海峡・宗谷海峡・津軽海峡を越え本州に進出した。さらにシベリアのどこからか、一群の集団がベーリング海峡を越えアメリカ大陸に渡った。

なぜこの時期に大規模な民族大移動が起きたのかは分からないが、おそらく気候上の問題であろう。

もともと、アジアに先着したのはメラネシア系の種族だった。したがって長江流域くらいまでは南方系民族が先住していた可能性はある。

台湾の少数民族や沖縄で見つかっている古代人の骨はそれを示唆している。ひょっとしてその北限は日本の本土に及んでいたかもしれない。

彼らは漁労や採集生活を営んでいた可能性がある。北方民族はそれを学ぶことで南方での生活に馴化していったのかもしれないし、独自にそのような生活を創りだしたかもしれない。

ただ稲や麦のような穀物を集めてご飯とか麺類とかの形にして属する習慣は、南方系種族との出会い抜きには考えにくい。

4.長江文明の発生

かくして北方系種族は南方系(メラネシア系)種族を駆逐するか同化するか、いずれにせよ圧倒する一方で、その文化を取り入れた。

そして栗林を作って栗を栽培するのと同じように、米や麦を栽培するようになった。これが世界初の文明である長江文明である。それは8千年前ころから発展を遂げ、数千年にわたり続くことになる。

なぜそう言えるか。それは同じ時期に発生した日本の縄文文化が、栗の栽培にとどまっているからである。その結果稲作文化は東アジアの主流となっていくの対し、三内丸山文化は盲腸のように途切れてしまうのである。

ミトコンドリアDNAであろうと、Y染色体であろうと、ゲノムであろうと、この大きな流れ、歴史的な重畳(ちょうじょう)性を前提にしなければ読み解くことはできない。

5.第二の民族大移動

これは紀元前2千年頃に始まり、南方人を駆逐し長江文明を開いた北方人を、新手の北方人(いわゆる騎馬民族)が押しやる形で展開した。

押しやると言っても、基本的には同種のモンゴロイドであるから、半ば駆逐しなから、半ば混住するょうな形で拡大していく。

中国大陸の中原は基本的にはこの新北方人が支配する世界となり長江人はその辺縁に押しやられた。昆明、雲南、ベトナムのタイ族と繋がる首飾り状の分布形態がそれを示している。これはいったん台湾海峡で途切れたあと、朝鮮半島南部へとつながっていく。

朝鮮半島南部では長江人の暮らすいわゆる三韓地方に北方から新北方人が迫り、漢の時代に南端を残して制圧された。その後満州の扶余人が征服王朝たる百済を建国し睨みを効かせた。

5.旧弥生人(長江系)の渡来

この時期に長江人が大挙して九州に渡ってくる。中国大陸の民族大移動に比べれば遥かに小規模ではあるが、それでも大移動である。弥生時代に日本に稲作文化をもたらしたのはこの長江人の流れであろう。

九州に入った長江人と縄文人が争った形跡は見られない。彼らは共存しつつある程度住み分けを行ったと思われる。なぜなら縄文人の主要な生活範囲は近畿以東と思われるからである。

また縄文人は比較的早期から稲作文明を受け入れ、積極的に同化していった可能性がある。(習合文化としての銅鐸文明)

6.新弥生人(扶余系? 天孫族)

新北方人は遅れて朝鮮半島南部に進出し、百済・新羅・任那を形成した。そして日本にも進出した。これが天孫族と呼ばれる人々である。彼らは長江人を駆逐するのではなく君臨した。

したがって日本人の源流を探る場合、縄文人と弥生人ではなく第一波の北方人(関東・東北・南北海道の縄文人)、長江人、天孫系の三種の時系列的混合として捉えなければならない。

7.事実ではあるが真実の一断面

問題はDNA解析がそれを裏付けてくれるか否かであるが、歴史学的素養のないDNA屋さんの解釈を鵜呑みにしてはいけないと思う。現に、ミトコンドリアDNAの研究者が言うことはゲノム屋さんの言うことと矛盾していることもたくさんある。

ゲノムにネアンデルタール人の痕跡が残っているからといって、その人をネアンデルタール人だとはいえない。

一つの知見を世紀の大発見のように誇大宣伝したり、針小棒大・我田引水などの四文字熟語で迫られても、それを時系列や空間的広がりの中に定位する検証なしには、真実に近づくことはできないのである。



フランスでのテロに対する私の感想ですが、いささか不穏当かも知れません。つぶやきとして聞いておいてください。
1.国内の独裁者、イスラエルをふくむ国外列強の干渉のもとで、塗炭の苦しみ
にあえぐ中東諸国の人々に心から同情する。また、その中で民主主義を もとめ
苦闘する多くの人々に、心よりの連帯の意を表する。
2.中東諸国の民主化と平和の実現は中東諸国人民みずからの事業であり、我々
はこれを支持する。同時にいかなる国外勢力からの干渉にも反対する。
3.テロはこれらの運動とはまったく関係のない挑発行動であり、平和と民主主
義を求める人々にとって許すことのできない分裂策動である。それが宗 教的な
ものであると否とを問わず、我々はテロを厳しく糾弾する。
4.それと同時に中東人民の自主的・民主的運動との連帯を一層強化する決意を
表明する。

北星大学 植村さんの去就で一歩前進

マケルナ会からメール(27日付)が届いた。ここに転載しておく。

「負けるな北星!の会」賛同人の皆様 
植村さんは3月から、韓国ソウルに本部があるカトリック大学で勤務することに
なりました。これにより、北星大学の雇用は来年3月末の任期満了で終了します。
カトリック大学では、客員教授(有給)の待遇で、期間は1年。宿舎は無料で用
意されます。
日本語学科の学生など対象の教養学科で週2日、講義する予定です。

カトリック大学は、裁判のことも含め、植村さんや北星の状況を理解した上で招
聘しました。植村さんは、これまでよりも大勢の学生を教えることができます
し、この機会に日韓関係など、ご自身の研究も深めたいと考えています。

北星学園大学の田村学長は、植村さんから報告を受け、次のように話されました。
・植村さんの教育者としての能力が評価されたものであり、大変嬉しく思った。
・色々と報道されているが、次年度の雇用継続に関しては本当に悩んでいた。
・カトリック大学校は北星の姉妹校でもあり、今後共、色々な場面で北星に来て
いただきたい。

次が、植村さんの礼状

uemura
以下は私の感想

事務局の皆様
大変ご苦労様でした。
ある意味で予想外の結論でしたが、
身の落ち着き先が決まったというのは
大変良いことだと思います。
ロッククライミングで言うと、
宙ぶらりんで両腕だけで頑張っていたのが、
しっかりした足がかりを確保できたということでしょう。
さぁ、これから本格的なクライミングの開始です。
鈴木頌


浜矩子さんの 「通貨を知れば世界が読める」(PHP新書 2011年) という本を読みながら、途方に暮れている。
そもそも、謳い文句が「1ドル50円時代の到来」ということになっているから、意地悪い言い方をすれば、浜さんは円安時代を読めなかったことになる。すなわち通貨を知らなかったことになる。
問題は通貨という経済システムを知っても、為替相場の動きは読めないということにある。そこでなぜ読めないのかということが問題になる。
やはり、一度ディーラーや輸出入業者の“マインド”のところに戻らなければならないのだろう。そしてそのときどきのマインド形成過程を分析しながら、帰納的に為替相場を規定するものを探っていかなければならないのだろう。
そしてより長期的には慢性的な生産過剰、資本過剰、慢性不況、慢性バブル、通貨垂れ流しという枠組みの中に位置づけていかなければならないのではないか。
通貨というのはそもそも株式市場や債券市場と異なり、何よりも安定性が求められる。その安定性が毀損された状況が為替相場の乱高下ということになる。為替相場に安定性をもたらすのは国家の通貨政策である。ところが一方では通貨に対するガバナンスを事実上放棄するような手前勝手な通貨政策が横行し、他方では為替の乱高下により国家そのものが存亡の危機に立たされる事態も発生している。
このような事態が続けば、将来の道は二つしかない。通貨鎖国、あるいは戦前のような通貨ブロック体制への逆戻りか、ケインズの提唱した世界通貨への道かという選択である。

と、とりあえず並べてみたが、これだけでは内務省とはなんぞやというのがちっとも分からない。
とくに軍隊とのダイナミックな関係がまったく見えてこない。
とにかく分かったのは、共産党の綱領に書いてあった絶対主義的天皇制とか、軍事的・封建的帝国主義とかいう規定(32年テーゼ)が、当時の現実の政治状況とはかけ離れていることだ。
内務省・警察機構が国内における民主主義を踏み潰し、戦争への道を掃き清めたことは間違いない。しかし彼らが直接戦争を煽り、国民を戦争へと導いたかというとそうでもない。
さりとて消極的でも戦争に抵抗したかというとそうでもない。むしろ積極的に後押しして、銃後の備えに勤しんだというべきだろう。となると、内務省は最悪のオポチュニストということになるが、それほどまでに無定見だったのだろうか。
ここで なぜ内務省は軍の暴走を後押ししたのか という問題が重くのしかかってくる。それは内務省の持つ独特の風土によるものであったのか、それとも、そもそも官僚であるが故の習性にもとづくものなのか、この辺の判断がどうもすっきりしない。
とりあえずヒントとなるのが、福島の原発事故に関する国会の調査委員会の報告だ。
国会事故調は、原産協会と東電が、経産省を縛り付け、安全神話を押し付け、必要な対策を怠ってきたことが原発事故の究極の原因であり、その故にこそ、事故を「人災」と糾弾したのである。
この報告では、原発事故の主犯として財界を挙げている。しかし、報告を読んだ私の感想はむしろ逆だ。
財界でも政界でもなく、経産省は米国の意も受けながら、すべての戦略をコーディネートしてきた。それは財界ではなく「総資本」としての支配者の意向を反映している。
この論理から言えば、日中戦争を泥沼化し太平洋戦争へと突き進んでいったのは、軍部の跳ね上がり集団ではなく、内務省に反映されたネオコン的・妄信的「総資本」の意志であったということになる。
この辺りの政治的ダイナミズムをうまく説明している人はいないだろうか。


内務省の歴史

1873年(明治6年) 

5月 岩倉使節団が帰朝。副使、大久保利通はプロイセン王国の帝国宰相府をモデルに、強い行政権限を持つ官僚機構の創設を目指す。

11月 明治6年政変により大久保が政府の実権を握る。内務省が設置され、初代の内務卿に大久保が就任。地方行政と治安維持を主務とする。

当初は上局(後の総務局)の下に大蔵省の勧業寮、戸籍寮、駅逓寮、土木寮、地理寮が移管された。また司法省からは警保寮、工部省から測量司が移管された。
76年に庶務局(後の県治局)、衛生局が新設、77年に社寺局が移管される。

1876年(明治9年)

警保寮を廃止し警保局を設置。

1885年

内閣制が実施され、内務省も内閣に属することとなる。山縣有朋が初代大臣となる。

内務省処務条例が施行される。官房、総務局、県治局、警保局、土木局、衛生局、地理局、戸籍局、社寺局、会計局の局制が実施される。
その後はほぼこの体制(県治局、警保局、土木局、衛生局の四本柱)が維持される。

1890年

鉄道庁が内務省の外局として分離。後に逓信省に移管。

1900年(明治33年)

治安警察法が公布。自由民権運動などの政治活動の規制を主目的とする「集会及政社法」に、労働運動の規制を付加したもの。

1.政治結社・集会の届け出。集会における言論の制限と臨監。
2.街頭デモの禁止。
3.ストライキの禁止(労働条件・報酬に関し協同行動すること、“団結”に加入させること。同盟罷業において労務者を停廃させること)
4.軍人・警官、神職・僧侶、教員、女性の政治活動禁止。

神社局(元社寺局)が設立され、国家神道政策を司る。

1904年 日露戦争。

1910年 韓国併合。

1910年 総理大臣に直隷する拓殖局が設置され、植民地行政は内務省管轄を外れる。

1911年

大逆事件が発生(前年)。危険思想取締りのため、枢要地に特に専任警部を配置する。これを受け、警視庁に特別高等科(特高)が置かれる。

1918年

米騒動が発生。

1920年

社会局が外局として設置される。労働行政を司る。

1922年

日本共産党が創設される。この後社会運動の発展に伴い、北海道・神奈川・愛知・京都・大阪・兵庫・山口・福岡・長崎・長野などに特別高等科が設けられる。

1923年(大正12年)

6月 第一次共産党検挙事件。警視庁官房主事だった正力松太郎の独走と言われる。

1925年

5月 治安維持法が制定される。内務省は特別高等警察の元締として、思想犯や政治犯の取り締まりを監督。

1928年

3.15事件。1道3府27県で、共産党活動家の一斉摘発。

全府県に特別高等課が設けられる。主な警察署には「特別高等係」が配置される。

警保局(とくに保安課)が拡充強化され、思想警察を全国的に統轄することとなった。
府県の特高課長は直接に中央の保安課長と結びつき、その任免は保安課長に一任された。内務省の機密費も保安課長から直接に特高課長に送られていた。

1929年

4.16事件。約700人が検挙される。

1931年

警察精神作興運動。「陛下の警察官」の意識が強調される。

1932年 

共産党幹部の岩田義道が逮捕・虐殺される。

1933年

小林多喜二の虐殺。

1938年

1月 衛生・社会両局が厚生省として分離される。人事は内務省と一体のものとして運用される。

7月 内政会議(首相・蔵相・内相・文相で構成)が発足。内務省が主導して「国民精神総動員運動」の企画と指導を管轄する。

道府県庁内に総動員課・総動員事務局・事変課・時局課などを新設し、町村分会が隣保組織(部落会、隣保会)を組織した。

7月 産業報国連盟が発足。警察組織を中核として企業単位産報を組織につなぐ。

 

1940年 

大政翼賛会が発足。知事が翼賛会の地方支部長を兼ね、内務省による政治支配が完成。

1941年

治安維持法全面改正。予防拘禁制が実施される。

防空局が新設される。

 

4月 「国防保安法」が制定される。国防上、外国にたいして秘匿を要する重要な機密を保護することを目的とする。刑法以外に特別に重い刑罰が課される。政治的・思想的弾圧の手段として利用された。

12月 「言論出版集会結社等臨時取締法」が公布される。時局に関する「造言飛語」「人心惑乱」行為を処罰するもの。その内容がたとえ事実で、確実な根拠にもとづくものであっても処罰される。

1942年

2月 「戦時刑事特別法」が公布される。刑事手続について特別の取扱いを定める。「宣伝」行為処罰の規定では、「戦時に際し安寧秩序をびん乱する宣伝したる者」を実刑に処する。

 

 

1942年

拓務省が廃止され、植民地行政も内務省に一元化される。

1947年

5月 日本国憲法が制定。都道府県知事を公選制とするなど地方行政

の転換がなされる。

12月31日 内務省、GHQの指令により廃止・解体される。

 

 

 

 

昔とったYouTubeの田川寿美の音源が、流石にひどいので、新しい音源を探してみた。
最近はそれなりにメジャーになっているようで、はるかにたくさんの音源がアップされている。
実感として言えば、田川寿美は美空ひばりになりつつある。
違うところは、美空ひばりはともすれば下品になるのに対し田川寿美はともすれば上品になりすぎるところだ。
熱烈なフアンがいて大量のエアチェック動画を上げてくれている。これをずっと見ていると、2003年から05年にかけてが転換期になっているようだ。
1975年生まれで、今年40歳。92,3年からデビューして最初の数年は紅白に出たりして売れっ子だったようだ。その後売れなくなっていろいろやっている。
まず二重まぶたの整形をやって、しばらくしてから鼻もやっている。以前、「天は二物を与えず」と書いたが、いまはそれなりの顔になっている。
しかし一番の変化は発声法だ。おそらく03年から06年にかけてベルカント唱法を身につけた。しかもコブシもはるかに自在に操れるようになっている。
持ち前のやや太めのよく響く低音と、正確なリズム感は元からすごい。私が以前聞いて感心したのはその頃のものだ。
それに表情豊かで、絶対に崩さない中音域、そして頭声への切り替えと共鳴の会得で、とんでもない歌手になってしまった。
和服の時とドレスの時の発声の切り替え、細かいニュアンスの表現などただただ舌を巻くほかない。
日本歌謡界が生み出した最高の歌手ではないだろうか。(今日もいささか飲み過ぎた)

「企画展示 大久保利通とその時代」という展覧会が開かれているそうだ。
場所が千葉県佐倉市の国立歴史民俗博物館、展示資料の大半が書簡だそうで、とても見に行くほどの食指は動かない。
赤旗の文化面に短い紹介が載せられていて、その一節が面白かった。
慶応元年(1865年)9月 西郷隆盛あての書簡。多分この時西郷は薩摩で志士を束ね、大久保は京都に詰めていたと思う。
将軍、徳川家茂が第二次長州征伐を天皇に要請。これに対し天皇が出兵を命じる勅命を下した。薩摩は第一次長州征伐の時とは立場を変え、出兵を阻止すべく動いていた。その中心にいたのが大久保である。
紹介した米重さんによれば、
この勅命には天下万民が納得する正義がない。正義のない勅命は真の勅命ではない。
と大久保は書いているのだという。
この辺りから薩摩(大久保=西郷枢軸)の幕府離れが進んでいくのだが、その際の回転軸に「天下万民の正義」が据えられていたことは、一つの発見であった。
それ以上の新知識としては以下の行。
この書簡の写しは、土佐藩の坂本龍馬や長州藩にも回覧され、薩摩と長州が徳川幕府を倒すために手を結ぼうと接近するきっかけになった。
たしかに大量印刷が広がっていない時代、手紙の意義ははるかに大きかったのだろう。したがって、手紙といえども決して私的なものではなく、多くの者に回し読みされ、拡散されることを前提に書かれていたに違いない。そのような事例は世界史の中にいくらでもある。
この手紙は大久保の宣言である、と言える。同時にこれを読んだ西郷が、おそらくはその趣旨に共鳴するだろうということを全体に書かれているはずだ。
現にそれは各藩の志士に拡散し、大きな潮流を形作っていった。この宣言は、大久保こそが明治維新に動いていく流れの先頭に立ち、その方向(尊皇攘夷にとどまらない)を切り開いたことを示している。

京都精華大学の白井聡さんという方が、赤旗のインタビューに登場し、鮮やかな切り口を見せてくれている。
77年生まれというから私より30歳も年下だ。文脈から判断すると、多少民主党に肩入れしているようだ。「たしかにそういう人でないと切れない切り口だな」、と感心する。
記者の「立憲主義を回復するために、何が必要でしょうか?」という質問に対する答え。
2009年の「政権交代」の時には、市民の側はまだ、「傍観者」「観客」という面があったと思います。
「なにか面白いことをやって見せてくれ」というお任せ的なところがあった。
ところが「民主党政権は全くつまらない」といって見捨てたら、自民党が復活していま大変なことになっている。
と状況を評価したうえで、
主権者としての国民が姿を現すことが重要です。
とうちだす。
そのうえで、09年当時との主体的状況の違いを次のように表現する。
市民社会が目覚め、「傍観者では駄目だ」と、ますます多くの人が気づいています。
そのような形で市民運動が力を持ち始め、政党政治を動かしている。共産党の「国民連合政府」提案もそこから出てきました。
と、市民運動の帰結としての「国民連合政府」提案を位置づけている。つまり提案者は共産党であるにしても、それは総体としての市民運動の提起なのだという観点である。
これはある意味で「否定の否定」という弁証法なのだろうと思う。
実はこの一節が非常に気に入ったのは、大阪の選挙結果をどう評価しようかと悩んでいたからでもある。
維新というのは「なにか面白いことをやって見せてくれ」というお任せ的な劇場型運動である。
09年の市民の意識水準を大阪という場で再現しているところがあるのだろう。(もちろん維新の本質は極右であり民主党とは似ても似つかぬものであるが)
そして今度の大阪の選挙は、国民の多くがまだ09年の「傍観者」「観客」水準を越え得ていないことの表現として受け止める必要があるのだろう。
国民の多くが現状の変革を望みつつも、「傍観者」「観客」にとどまる限り、政治の方向は乱高下を繰り返す。しかしその中から否応なしに主体者としての市民が生まれざるを得ない。
そこには批判や論争による説得ではなく、行動への説得、そしてなによりも展望(国民連合政府)による説得が必要なのだろう。

日本人の起源 ミトコンドリアDNAによる分析

久しぶりの赤旗かため読み。16日と本日付の科学欄に見逃せない記事。

題名が「DNAから見えた日本人の起源」、篠田謙一さん(国立科学博物館)のインタビューをまとめた間宮利夫記者による相当な分量の記事だ。ただしDNAといってもミトコンドリアDNAの話で、ゲノム解析ではない。

話は多岐にわたるが、いずれもちょっと中途半端で、後から補充が必要なようだが、とりあえず記事をさらっておく。

1.ミトコンドリアDNA解析とゲノム解析

まずはミトコンドリアDNA解析の意義から。

DNA解析と言っても3つの解析法があることは周知の通り。ミトコンドリアは「イブ・セオリー」で有名になったが、現在ではゲノム解析の補助的手段と考えられている。

ただ、細胞核に比べてミトコンドリアのほうが残りやすいという優点があるようだ。それと、先行しているだけにデータの蓄積が豊富で統計的手法が取りやすい。

そういったことから、まずはミトコンドリアDNAで一定の予測を立て、ゲノム解析で確定していくという作業工程が目下の主流のようだ。

2.縄文人のミトコンドリアDNA

ミトコンドリアDNAは母方の祖先を探るものだが、大本はイブとしてもかなりの種類の祖先があり、日本人だけに限っても20以上の祖先(ハプログループ)が想定される。

まず結論から言うと、①最終氷期最寒期の北方からの移動、②4万年前以降の朝鮮半島からの移動、③4万年枚以降の南方から沖縄への移動、という3つの集団が日本人の基層となっている。

そして、これらの混合したものが縄文人となる。(ただし単一の人種というほどには混合していなかった)

縄文時代に日本に住んでいた人は、この三種にとどまらず、さまざまな時期にさまざまな人がやってきて、全体として縄文人を形成していた。

この記事でもっとも問題なのは、北方からの集団がN9b、南方がM7aとハプロタイプを同定されているにもかかわらず、朝鮮半島からの集団のハプロタイプが記載されていないことだ。
もう一つは南方系の頻度が比較的高いこと、北方系の比率が予想外に低い(4.6%)ことだ。この事実は私の積み上げてきた体感覚と相当食い違う。

3.弥生人のミトコンドリアDNA

弥生人というのが朝鮮半島から渡来した集団であることはほぼ確実であろう。D4aが縄文人から検出されていないことを考えると、彼らがD系のミトコンドリアDNAを持ち込んだことも間違いあるまい。

ということで、この点に関しては「二重構造説」を支持する所見である。

弥生時代以降の縄文人と弥生人の混合についても、従来説のとおりで、鎌倉時代に混合が完成するという説にも格段の異議はない。

4.アイヌ人と琉球人

アイヌは縄文人とは異なり、5世紀から10世紀にかけて北海道に流入したオホーツク人である。彼らはミトコンドリアDNA解析でYグループに属するが、これは北海道の縄文人には見られないものである。

アイヌ人が遅れてやってきた集団であることは多くの研究が示唆している。しかしそこまで遅れているとは予想外であった。
このことは東北で大和朝廷に滅ぼされた蝦夷が、アイヌ人ではなく縄文人であったことを示唆する。すなわち東北~北海道にかけては南から順に弥生人、縄文人(蝦夷)、アイヌ人という住み分けになっていたことになる。

琉球人(沖縄の縄文人)が南方系のM7aを特徴とするというのは、「あぁそうですか」という以外ない。本土の縄文人が沖縄まで展開していたと考えていたが、たしかにあまり根拠はなかった。

ただ、これについては台湾の歴史的人種構成がどうなっていたのかの解析がないと、納得はできない。たしかにマレー系の北進は台湾(バシー海峡)をもって途絶しているのである。

港川原人は高砂族(マレー系)に繋がる系譜で捉えられると思うが、縄文時代に台湾の多くは大陸からの渡来民に占拠された。しかし先島諸島や沖縄本島に孤立して南方系が取り残された可能性はあるだろう。

5.二重構造説の新段階

二重構造説(埴原)の核心となるのは二つの仮説である。

ひとつは縄文人は南方起源であること、そしてもう一つは朝鮮半島から弥生人が侵入し縄文人と混合して現在の日本人を形成したことである。

後者についてはほぼ確定したものと考えて良いであろう。しかし前者については強い疑問があり、むしろ否定的な見解が多いのではないだろうか。

これに対し、篠田さんはミトコンドリアDNA解析に基づいて縄文人三方向説を唱えた。しかし南方人は九州・本土に至っておらず、朝鮮半島人はこの記事を見る限り根拠のない主張である。

そして北方系渡来集団についてはきわめて低い評価しか与えられていない。これは北海道人の僻みだろうか。

鍵となるのは、ある程度期間を限定された大量の集団的流入であり、定着である。

長期に見たアクセスの経路としては朝鮮半島がもっともふさわしいので、ここからは絶えず流入があったと考えられる。しかし縄文文化が花開いたのは関東から東北、南北海道にかけてであり、その担い手が朝鮮半島経由であったとは考えにくい。

ということで、残念ながらこれまでの文献に比べて高い評価を与えるわけには行かないのである。

以下参考までにこれまでの記事

ワシントン中東政策研究所のサイトの PolicyWatch 2356

Explaining the Turkish Military's Opposition to Combating ISIS

Ed Stafford January 15, 2015

という文章の要約

日本語にすると「トルコ軍がISISとの闘いを嫌う理由」ということか。

 

リード部分

アンカラの政府はISISとの闘いに踏み切った。しかしそれは政治的な決定であり、軍はAKP、PKKとアラブへの伝統的な嫌悪感を抱き続けている。それはトルコのアラブ介入に対する強力な障害となる可能性がある。

イントロ部分

「トルコはなぜISISと戦う連合に積極的にかかわろうとしないのか?」 

これに関する議論は、殆どが政府の政策形成過程における軍の役割を黙殺している。

一つには、これは与党である正義進歩党の軍部抑制策を反映している。正義進歩党は2002年以来、政策形成過程における軍の役割を弱めてきた。そして国家情報機構(MIT)の影響力を強化した。これが対シリア方針に影響している。

しかし軍隊がISISとの戦いを渋るのには他にもいくつか理由がある。

それは何十年も前から存在し、深く根を下ろした理由である。すなわち軍の政治的指導力が低下していることへの恨みである。

このような視点は、AKP支配層以外の政治的にアクティブな人の間に共通したものとなっている。

エルゲネコンの凋落

Ergenekon is the name given to an alleged clandestine, secularist ultra-nationalist organization in Turkey with possible ties to members of the country's military and security forces.

2007年、AKPは軍指導部に対して一連の裁判を開始した。軍はトルコでの非宗教的な政治勢力のチャンピオンを自認していた。

2003年に発生したクーデター計画を機に、政府は検察権力と警察を動員し軍の押さえ込みを図った。

軍と非宗教主義者の連合が文民支配を覆そうとして邪悪な計画を企んだとされた。

「Ergenekon」裁判で、検察側はクーデター計画についての完全で納得のいく論拠を示せなかったが、それにもかかわらず政府は多数の非宗教的な野党の指導者と何百人もの軍幹部を投獄した。

全将軍のうち4分の1が獄に繋がれた。2011年8月に、軍隊の高級将校は大挙して辞任した。それはAKPの権威への服従するという暗黙のシグナルだった。

これを受けた政府も、軍隊をなだめる努力をおこなった。Ergenekon容疑者ほぼ全員が釈放された。

しかし軍の指導者たちは敵対心を捨てていない。政権担当者への感情は、ほとんど“受動的攻撃性”と言っていいものがある。彼らは多くの軍事的案件について助言を与えることを事実上拒否している。それは軍事的情報を収集しシナリオを作成するだけでも監獄に送られるという将軍たちの確信によってもたらされている。

クーデターの容疑が真実だったのかどうかは別にして、多くの高級将校はいまも確信している。「同僚たちは罪を捏造された。彼らはただたんに国内外の敵から国を守る計画を作成しただけだ」と。

クルド民族主義者への蓄積された憎悪

軍指導部はまた、クルディスタン労働者党(PKK)との平和を確保するという政府の方針に敵意を抱いている。クルド人ゲリラは過去30年にわたり何千人もの軍将兵を殺害している。

2011年、エルドアン(当時は首相)はクルド人グループとの和平会談を開始した。それはいまも続いている。

エルドアンはPKKとの対話の成功はイラクのクルド人地方政権との関係を改善し、クルド人を地域における重要な盟友とするという成果をもたらしたと信じている。

継続的な会談は国内の安定性の強化ももたらした。そして、6月の国会選挙でもう一つのAKP選挙勝利への道を開こうとしている。(これが目論見外れに終わり、今日の混乱をもたらしていることはご承知の通り:訳者)

軍の側から見れば、クルド人戦士への警戒心はますます高まりつつある。なぜなら彼らはクルド人社会が拡張するほど勢力を拡大し、PKKはそこから物的、精神的支持を受けて成長するからである。

40年前、PKKが武器を取り国家に対抗し始めたころ、トルコは軍事政権の時代だった。政府はクルド族を従属的な少数民族と見なしていた。そしてクルド族を独立したコミュニティと認めず、クルド語の使用を制限し、彼らの固有の歴史を否定する教育を行った。それらはすべて軍の非宗教的な民族主義思想の必要不可欠な一部であった。

この10年の間に、クルド人の人権状況は随分改善した。今では公的資金を供給されたクルド語テレビ・ネットワークが24時間放送を続けている。にも関わらず、多くのトルコ人はまだクルド族の民族主義を疑っている。特に軍の中枢と軍部よりの民間勢力内では、この立場は一般的である。

現在シリア北部ではISISと戦うクルド人がPKKと結び付きを強めており、これをしようという動きがトルコ国内にも強まっている。しかしこのような感情に対し軍はきわめて冷淡である。

アラブ人支援へのためらい

古い世代のアラブ人への憎しみは依然として残っている。

エルドアン大統領とダヴトグル首相は、中東における全てのスンニ派の自然な調和について語る。しかしオスマントルコ人帝国の500年にわたる支配は、トルコとアラブのスンニ派教徒の間に深い疑念を残している。

多くのトルコ人、とくに軍関係者は、過去の1世紀を西欧に支援されたアラブ人による一連の裏切りの時代として振り返る。例えば第一次世界大戦の時、アラブ人の指導者たちはイギリスと組んでイスタンブールに反旗を翻した。

2012年、シリア国境の町アクサカレでシリア軍の誤爆により5人のトルコ市民が犠牲となった。その直後に著者は一人の知識人(非宗教主義)と話す機会があった。彼はこう言い切った。「彼らはトルコ人ではない。アラブ人だ。我々にとって、それがなんだ?」

たしかにトルコ軍は軍事的にその攻撃に応じた。しかし報復は抑制されたものだった。いま同じように、軍将校の一部は多国籍の反ISIS作戦に加わることにも抵抗している。そこには根深い反アラブ感情が根ざしているように思える。

軍のかかえる懸念

トルコ軍の海外派兵はその属する政府の指令によるものであり、しばしば誤って語られるように米国やNATOの指示によるものではない。

トルコ軍は本質的に保守的な組織である。かれらは朝鮮戦争でのトルコの犠牲者数の多さについての国内で攻撃されたことを覚えている。トルコ軍はアフガニスタンでは戦闘任務を拒否した。

将軍たちの懸念は他にもある。それはISISやシリア軍と戦う場合に軍事技術上の弱点、あるいは作戦上の弱点が暴かれることについての懸念である。それは大衆の軍部離反を促す可能性がある。そしてエルドアンに対する政治闘争を継続する上での利点を失うことになる。

例えば2012年6月にトルコのジェット戦闘機がシリア軍により撃墜された事件は、そのような懸念があからさまになった手痛い事件であった。

結論

トルコがISISと戦うかどうかを決めるのは政治的な選択である。しかし、それはコバネでクルド人と肩を並べて戦えということであり、シリアに安全地帯を設置しアラブ人を保護せよということだ。軍の指導部にその選択を納得させるのは至難の業であり、そう簡単にことが進むとは思えない。


今年初めの記事なので少し古いです。しかも米国務省のシンクタンクのレポートなので、軍の立場に対してきわめて同情的ですが、事実関係については参考になると思います。6月の国会選挙の前がどうであったのかを知る上では、かえって有用かもしれません。

6月の選挙の結果は、エルドアンにとってだけではなく軍部にとっても予想外のものだっただろうと思います。それはリベラル派の進出を計算に入れていなかったためのものです。

2003年のクーデター計画の発覚後は、軍事独裁の再現を防ぐためにリベラル派もふくめ圧倒的な国民がエルドアンを支持しました。その結果、エルドアンは果敢な行動により軍の抑圧に成功し、EUの支持も取り付けて強固な基盤を確立することができました。

さらに権力基盤を強化するためにクルド人にもウイングを広げ、クルド人もこれに応じたことから、エルドアンの人気は不動のものとなりました。しかしその底では、リベラル派の急速な勢力拡大が進行していたのです。またイスラム原理主義への反感からエルドアン離れも進みました。

6月の選挙で明らかになったのはもう一方の主役としてのリベラル派の登場でしょう。選挙前にはエルドアン、軍部、クルドという3極構造であったのがエルドアン、軍部、クルド+リベラルの三極となりました。

これに応じて軍は立ち位置を代えオプションを変更する必要に迫られました。これは未だに進行中と思われますが、反クルド・反リベラルの路線を取るならば、従来以上にエルドアンとの距離を縮めなければならないし、反宗教・非アラブの路線を取るならクルドやリベラルに対する抑圧的態度を修正しなければなりません。

そこで両者の「不人気投票」が行われ、結果的には前者の路線を採択したのだろうと思われます。

なお「リベラル派」と便宜上一括しましたが、そのような呼び方はなく、果たしてそのような潮流が確固として存在しているのかどうかもわかりません。前後の状況からしてそういう親EU的な勢力があるだろう(とくに出稼ぎ労働者)と言う作業仮説に過ぎません。もう少し調査が必要のようです。

ディノラ・ヴァルシの全集が出るそうだ。

Legacy summarizes this collection with 40 recordings, divided into the categories live, studio, talk, and film.

Promotion price until December 31st 99,- €, afterwards 119,- €

Here you can find the complete tracklist as PDF

だそうだ。

2004年には来日して演奏。その録音も含まれるようだ。

参考までに私のディノラ・ヴァルシ関連記事

衝撃のニュースだ。一番見たくないニュースだ。

年金財源の一つである年金積立金に一時、巨額の損失が発生した。その額は約8兆円という試算もある。

積立金を運用する「年金積立金管理運用独立行政法人」(GPIF)は昨年来、運用益を増やそうと、株式での運用比率を高めてきたが、それが裏目に出た(毎日新聞 11月13日)

いつかは来るかとは思ったが、もう来てしまった。

残念ながら生命保険と違って年金は解約できない。ほとんど税金みたいなものだ。どうせもらえるわけのない「年金」だから、泡と消えても惜しくはない。しかし介護保険が潰れると、飯の種がなくなってしまうことは間違いない。年寄りの死体が街中にごろごろし始めることは間違いないだろう。

我々の年金を使って博打をやっている奴がいる。この博打は絶対勝ち目がない。買いしかないからだ、パーしか出せない人がじゃんけんで勝てるわけがない。敗けないためには掛け金をどんどん大きくしていくしかない。

こういうのを「カモ」という。

gpif


11月12日 朝日新聞

放送倫理・番組向上機構(BPO)放送倫理検証委員会の川端和治(よしはる)委員長は「放送法を根拠にした 放送への政治介入は認められない」と主張した。

BPO放送倫理検証委員会は、NHK「クローズアップ現代」の放送倫理違反を指摘した。この意見書の中で、政府や自民党を批判した。

これに対し、安倍晋三首相や高市早苗総務相らが反論した。

検証委員会の川端委員長は、要旨以下のように反論した。

放送法が倫理規範であるということは、ほとんどの法律学者が認めている。

一方で、放送免許の許認可権を持つ総務省、旧郵政省は放送法に法規範性があると考え、その立場から行政指導をしてきた。

我々との間には立場の違いがある。そのことは十分承知している。

我々が「倫理規範」と解釈する理由は、放送法が成立した経緯にある。

放送法は1950年に国会に上程された。その際の趣旨説明では 「放送番組に対する検閲、監督等は一切行わない」と述べている。

つまり、「政治権力が直接規制を加えるならば、表現の自由を保障する日本の憲法のもとでは問題がある」という判断だ。それは戦前の日本の言論統制に対する反省にもとづいている。


上記の記事は、「クローズアップ現代」問題が分からないと、いまいちピンとこない。

これについても朝日新聞が報道している。(11月7日)

NHK「クロ現」過剰演出は「重大な倫理違反」 BPO

1.「クローズアップ現代」過剰演出の中身

昨年5月に「出家詐欺」という番組が制作・放映された。

この番組は、多重債務者がブローカーの手引で出家することによって、債務を免れる手法について報道したもの。

出家詐欺のブローカーの活動拠点を多重債務者が訪れ、出家について相談するという場面。初対面のようなやりとりをするが、実は2人は旧知で、場所も多重債務者が管理するビルの空き部屋だった。

というから、過剰演出というよりほとんど“芝居”に近い。

この点についてBPOが指摘し、NHKもこれを受け止め再発防止策などの手立てを講じた。

ということで、基本的にはこれで決着のはずだった。

2.政府の「行政指導」

ところがこれに政府・自民党が噛み付いた。この記事だけからでは良く分からないが、“高市早苗総務相がNHKを厳重注意し、自民党がNHK幹部を呼んで説明をさせた”らしい。

そこでBPOは政治の干渉を重大な問題と受け止めた。そして報告書の中で政治干渉を厳しく批判した。これが問題が大きくなったきっかけである。

委員会の政府批判は次のような柱からなっている。

①高市総務相の“厳重注意”は、「報道は事実をまげない」など放送法の規定を根拠にしている。

②しかし、これらの条項は放送事業者が自らを律するための『倫理規範』であって、政府が介入するべき法規範ではない。

③政府が放送法の規定に依拠して個別番組の内容に介入することは、(放送法の趣旨から見て)認められない。

④したがって、総務相による「厳重注意」は、放送法が保障する『自律』を侵害する行為である。

⑤高市総務省とは別に、自民党情報通信戦略調査会もNHKの幹部を呼び番組について説明させた。これも「放送の自由とこれを支える自律に対する政権党による圧力そのものである。

なお、検証委員会が国や与党に異議を表明するのは、発足いらい初めてのことだそうだ。

3.事態はのっぴきならなくなっている

高市総務相はBPOに対し早速反論している。

「厳重注意」はあくまで行政指導だ。いきすぎたとも拙速だとも思っていない。あくまでも要請であり、受けた側の自主性にゆだねるもの。法的拘束力はない。


此処から先の経過、一方における安倍首相の暴言、他方における民放連会長の決意表明は、いったん稿を改めたほうが良さそうだ。

非正規社員が4割を超えたそうだ。

そんな中で、泣けてくるような笑い話。これは沖縄タイムスの記事だ。

とても良い記事なので、ぜひ元記事2015年11月11日)を参照してください。

「官製ブラック企業」  ハローワーク職員の7割が非正規

沖縄では、安定雇用を働きかけるハローワークの職員7割が非正規だ。彼らには労働契約法などの法律が適用されず、正社員登用の道もない。

HW

上図は沖縄県内の非正規雇用率を比較したもの。ハローワークでは圧倒的に非正規率が高いことがわかる。

非正規のため公務員法に基づく身分保障がない一方で、労働契約法やパートタイム労働法など民間で働く非正規労働者のための法律も適用されない。

次年度も働き続けられるか決まるのは、契約終了の1カ月前の公募試験。

筆記試験はなく、面接が中心だ。なぜあの人が受かり、あの人が落ちたのか。合否の基準は「よく分からない」のが実情。

限られた定員をめぐる公募試験の倍率は3倍前後。「まるで椅子取りゲーム」だ。毎年1~2割の同僚が公募に落ちて職場を去り、送別会の準備に追われる。

「職場の誰かが公募を辞退してくれれば、自分は次年度も残れるかもしれない。いけないと分かっていてもそう思ってしまう。職場の空気は悪く、本当につらいです」 と、県内HWで働く女性の非正規相談員は語る。

これって、全国共通なのか?

Ⅰ 道東勤医協退職から老健施設勤務まで
Ⅱ 老健と病院の違い
   逃げられる嬉しさと、逃げられないヤバさ
Ⅲ 医者はお客さん
   厳しい経営、それ以上に厳しい職員の生活
   割り切りと、“見て見ぬふり”
Ⅳ 老健の“医療”
   厳密に言えば医療ではなく“保健”だが…やっていることは医療
Ⅴ 介護報酬改訂と財政審答申
   報酬なき労働強化の押し付け 訪問診療の規制、通所リハ会議の強制
   「潰れればいいんでしょう」路線 小規模デイケアつぶし 貧困ビジネス化の強制
Ⅵ 突然のアクシデント
   詳細は当日

みんなが力いっぱいチャレンジして、時には危ない橋も渡って、成功して、お金をウンと儲けるというのは悪いことではない。それは否定しない。(ただ我々にはそんなチャンスはないから、それほど積極的に褒めそやすほどのことではない)
中には、これを「社会の掟」と勘違いしている人がいる。「弱肉強食は世の習い」とか「貧乏は自己責任」とする主張だ。
それは社会の掟ではない。それはジャングルの掟であって、人間の社会はジャングルの掟で支配されないからこそ人間の社会なのだ。
社会の掟がまずあって、その範囲内で、社会の掟を壊さないかぎりにおいて、「闘いの掟」が成り立つ。ボクシングの殴り合いとかボールの奪い合いと同じようにルールがあって、その範囲内で好きなように稼いだりすれば良いのだ。
そこを善意で勘違いしている人もいれば、悪意ですり替えている人もいる。中にはルールそのものを変えてしまおうという人もいる。
その社会の掟を表したものが憲法の第3章だ。第3章は国民の権利という形で表現されているが、それは義務でもある。世の中にはそれらの権利を守らなければならない義務というものがある。それが「国の義務」という形で表現されているのだ。
この第3章の精神を守る限り、何をしようと勝手だ。それが自由主義というものだ。それが外国(外国の人々)に向かって開かれたもの、それが憲法九条の平和の精神だ。平和は国際社会の掟の核心となる、そういう確信が憲法9条を形作っているのだろうと思う。

ノーマ・フィールド 憲法9条は第3章の精神を基礎に読み込め』でとりあえず、彼女の言葉をそのまま引用したが、一度整理して置かなければならないだろう。

これまで私はこう考えていた。

憲法9条は割と価値中立的なところがあって、「武装放棄」が柱、その精神は憲法前文を読み解くことによって生きてくる、と。

それはそれとして正しいと思うのだが、そういう大上段に振りかぶる「そもそも論」ではなく、下からの積み上げ論も必要なんだなと思うようになった。

国民の市民的権利を擁護する中で、自ずから民主主義の精神や非暴力の思想が醸成され、その帰結として9条がもたらされるという論理が必要だと感じている。

というのも、満州事変に始まる15年戦争の戦争責任を問うなかで、戦争責任は大久保、伊藤、山形に遡って追及されなければならないことが分かったからだ。

もう一つは、戦争への道において、国内における反対の声、まっとうな常識を踏みにじり民主主義を圧殺してきた責任が、それ以上に問われなければならないということだ。

いま憲法第3章「国民の権利及び義務」・全31条をあらためて読んでみると、分かったのは、これらの条文が戦前においてはことごとく蹂躙されていたということだ。「戦争だからそうなった」のではなく、「そうなったから戦争になってしまったのだ」ということが、たしかに実感される。

この視点を持ち続けることはきわめて大事なことで、突き詰めると「戦争か平和か」ではなく「戦争か民主主義か」ということだ。


下記の演奏を見たら、カール・ライスターが嫌いになること請け合い。
https://www.youtube.com/watch?v=qBS7BC4aKGE
ブラームス クラリネット五重奏曲 ロ短調 作品115
2007年の紀尾井ホールでの録画=衛星放送のエアチェックだろうと思う。
カール・ライスターのほかは加藤知子 三浦章広 川本嘉子 山崎伸子の4人で、一所懸命やっている。
というよりいささか一所懸命やり過ぎている感もある。
クラリネットの入った弦楽四重奏の趣だ。それも気分はシンフォニー。
それがライスターには気に入らないらしい。クラリネットに弦楽四重奏による伴奏が入るようにしないとダメなようだ。
途中からはふてくされているように見える。弦の方も途中で気づいたらしく、少し引き気味に演奏している。
最後は…見てのお楽しみ。
ライスターの演奏を人間味に欠けると評する向きもあるが、これは恐らくテクニックの完璧さの裏返しであろう。
と、ウィキペディアには書いてあるが、そもそも演奏以前に“人間味に欠けている”のではないか。

赤旗の水曜エッセーが、今は「日本髪つれづれ話」という連載。

前進座で床山をされている谷川さんという方の文章だ。

これが初耳話満載。こんなことも知らずに時代小説を読んでいたのかと思うと、ちょっと恥ずかしい気分にさせられる。

風呂はなく銭湯通い。洗髪は月に1,2度、洗い粉で脂分を洗い流しました。大量に湯を使うので髪洗いの札は別料金でした。

…日本髪は頭が痒くなっても指でかくと乱れるので必ずかんざしでかき、櫛で乱れを整えました。そのしぐさにも女性の美しさが垣間見えました。

ということで、恐ろしく汚え! 毎日朝シャンが習慣の女性には卒倒するような話です。相当匂ったことでしょう。

うちのおふくろは、私が物心ついた頃はほとんどパーマでしたから、あまりこの手の話とは縁がありませんでした。ただ美容院へ行くのに「カミイさんに行ってくる」と言っていたので、田舎では両方兼ねていたのでしょう。

女性の洗髪料は私が学生の頃までまだ残っていました。でも実際にはショートカットの人には取っていなかったのではないでしょうか。良く知りませんが。

名前は知っていても実物や実際の使用法が分からないものがたくさん出てきます。

鬢付け油、洗い粉、桃割、櫛・かんざし、つまみ細工、薬玉、姉さんかぶり、箱枕、床山…

少し調べておきましょうか。


髪型(ウィキペディア)

丸髷、桃割れ、高島田などの髪型は江戸時代後期からのものだそうで、意外と新しい。束髪、耳隠しは明治に入ってからで、203高地はもちろん日露戦争後。

その他やたらと種類があって、ほとんど理解不能。

関連用語

髷(まげ):後頭部の髪を束ねて折り返したもの。

鬢(びん):側頭部の髪。女性なら張り出し、男性なら後ろに引きつめる

髱(たぼ):後頭部の髪を後ろに張り出したもの。

簪(かんざし):髪に挿す装身具。

櫛(くし):髪を梳いたり、装身具としても使う。

笄(こうがい):髪を掻き揚げる道具。装身具としても使う。

元結(もっとい):髪を結ぶ紐のこと。和紙の紙縒りで作られる。

髪油:椿油などの整髪料、

髪結い(かみゆい):江戸時代の理容師。男性は理髪店に通い、女性は巡回してもらう。

床山:映画・演劇、大相撲などで日本髪を結うスタッフ。


こうやって並べられても分かったようでわからない。百聞は一見にしかずということで、

gongontokyo というサイトで髪結いの実況が見られる。

かなりの拷問だ。

なおこのおじいさん、大庭啓敬(よしひろ)という方で、自毛で日本髪をを作れる数少ない結髪師なのだそうだ。

『かなすぎ』とゆうお店を浅草で開いている。

16才でこの業界に入り、芸者さんの髪を結っていたそうで今は80才。都内でも結髪師としては最高齢だそうです。

この大庭さんという方の兄の孫が折原ゆうさん(30歳)というタレントで、その折原さんのブログに紹介されていた。



以下少し写真を拾い集めて見る
これが洗い粉。(Sweet home OKINAWA より)
洗い粉
私は初めて見た。沖縄の地域限定かもしれない。
次は漫画入りの広告
みます
古し! 漫画で広告というサイトからのもの。
「昭和六年頃、『漫画と読物』という雑誌に掲載された漫画の広告です」だそうだ。
次が203高地髷。人気芸者のブロマイドだそうだ。
203
針尾三郎 随想録より

つまみ細工の作り方について下記のページで写真付きで説明されている。
帯の仕立て屋 ㈱みつやま 簡単!つまみ細工の作り方 【初級編】
出来上がり図のみ転載しておく。私の見るところ、決して簡単ではない。
ピン留め完成

済南事件から満州事変まで

これは1928年から31年までのほんの3年余りの動きだが、ここですべて太平洋戦争への骨格が決まっている。

いずれもう少し詳しい年表を作りたいと思うが、この年表でもあらましはわかる。

1.現地軍の独断専行

最大の現象的特徴は、現地軍の独断専行である。そしてこれが太平洋戦争に向かって突進し始める最初の動きである。

この独断専行はきわめて狭い目先の判断によって成り立っている。新たに成立した「中華民国」をどう扱うのか、将来どういう関係を形成していくのかのビジョンはまったくない。ひたすら貪るだけの行動である。

石原莞爾の満州=王道楽土のみが僅かにイデオロギーを感じさせるが、そもそも人さまの土地である。念仏もどきを唱えてみても、屁のつっかえにもならない。

永田鉄山が満州を反ソ・反共の砦にしようとしていたと言われるが、それならなおのこと中国政府の扱いが確立していなければならないのに、そこをみずからほじくり返していたのでは話にならない。

第一、この時点でソ連は最大の仮想敵国とはされていなかったのであるから、この理由は後付けの可能性が高い。

2.陸軍の反立憲的変質

もう一つの特徴、本質的にはむしろこちらのほうが重要かもしれないが、陸軍参謀本部の政府からの独立である。

それは「統帥権の独立」の野放図な拡大である。国家の専権事項である開戦の決断まで統帥権(名目上は天皇の権限)にふくめ、政府の役割を国内行政に局限するものだ。

この時点で開戦決断まで話が進んだわけではないが、政府と陸軍首脳の判断に中堅幕僚集団が公然と異議を唱え、それがまかり通っていく過程はきわめて深刻である。

3.内務省・警察が最大の推進者

第三の動きは、あまり表に浮かび上がらないが内務省の“軍部寄り”姿勢である。

この間、日本の社会主義運動は空前の高揚を迎える。多くの若者が社会主義に興味を寄せ、労働運動や文化運動に飛び込んでいった。これを警察機構は徹底的に押さえ込んだ。

あまつさえリベラルな社会思想までも敵視して、民主主義を形骸化させてしまった。つまり軍部独裁を防ぐ手立てをシラミ潰しにして、戦争への道を掃き清めたわけだ。

一方で右翼のテロには寛容で、首相が狙撃され、暗殺されてもほとんど取り締まることはなかった。度重なるクーデター計画の発覚についても積極的に取り締まった形跡はない。

これがやがて2.26事件へとつながり、日本を暗黒の社会へと導いていくことになる。東京裁判では、内務官僚への戦犯としての訴追が必要であったはずだ。

4.その他の戦争推進者

メディアとくにこの頃は大新聞が果たした役割は大きい。ただどこの国でもメディアは扇動者の役割をはたすので、これだけ責めても片手落ちということになる。裏で検閲や発禁処分の脅しで操る内務・警察官僚をまずは糾弾すべきであろう。

右翼やファシスト団体は内務省の手のひらの上で踊る道化にすぎない。大川周明がA級戦犯になるなど片腹痛い。そこには正力松太郎が座るべきであった。


蒋介石政権成立から太平洋戦争開始までの流れを追ってみた。両者が完全に一体化していることがよく分かる。

日中戦争の15年間を抜きに日本の国内政治は語れないし、そこにアジアで大量殺戮を敢行した人物がすべて出揃っているはずだ。


1928年

4月 第二次山東出兵。中国での治安維持を称して日本軍が出兵、6千人が山東省に展開。条約的根拠のないもので中国内外の抗議が高まる。

5月 済南事件(さいなんじけん)。山東省済南で、第二次山東出兵で駐留していた日本軍と国民革命軍との衝突。日本軍は事件を機に済南全域を占領。

6月 張作霖爆殺事件。関東軍により北京政府の事実上のトップ張作霖が暗殺される。

12月 蒋介石率いる国民革命軍が北京政府を倒し中国を統一。

1929年

6月 日本、国民政府を正式に承認する。中国の要請を受け、呼称を「支那」でなく「中華民国」に改める。

12月 奉ソ戦争により中東鉄道(シベリア鉄道の満州内部分)のソ連権益が承認される。

10月 ウォール街で大暴落が発生。世界的大恐慌となる。

1930年

9月 陸軍中佐橋本欣五郎らが桜会をつくる。クーデター計画を作成。翌年3月事件、9月事件を引き起こす。

11月 濱口雄幸首相が東京駅で狙撃され重傷。

1931年

9月18日 満州事変勃発。関東軍が奉天近郊柳条湖で南満州鉄道を爆破。これを中国軍の仕業とし、関東軍を出動。24時間で南満州の主要都市を占領する。

この作戦は関東軍の独断であり、石原莞爾作戦主任参謀、板垣征四郎高級参謀らによる謀略であったことが実証されている。

9月 若槻礼次郎内閣と南次郎陸将、金谷範三参謀総長ら陸軍首脳部は事態不拡大の方針をとる。

9月 陸軍中央の中堅幕僚グループ、関東軍の行動を支持する動き。

陸軍省の永田鉄山軍事課長、岡村寧次補任課長、参謀本部の東条英機編制動員課長、渡久雄欧米課長など。

10月 十月事件(陸軍軍人によるクーデター計画)

11月 清朝の廃帝(宣統廃帝溥儀)、奉天特務機関の手引きで日本租界を脱出。

12月 、第二次若槻内閣総辞職。西園寺元老は犬養毅(政友会)を次期首班に奏薦。

有力新聞は一斉に日本軍の行動を称える記事や写真で紙面を埋め尽くした。これにより関東軍を支持する熱狂的な世論が作り出された。

1932年 

1月 第一次上海事変が勃発。

2月 血盟団事件。前蔵相井上準之助、3月には三井合名理事団琢磨が射殺される。

3月 満州国の樹立が宣言される。

5月 国民党軍と日本軍が上海から撤退。

5月 5.15事件。首相官邸に闖入した海軍士官らが犬養首相を射殺。西園寺の奏薦により、斎藤実(海軍大将)内閣成立。政党政治は終焉を迎える。

1933年

1月 ヒトラー(ナチス党党首)がドイツ首相に就任。

2月 関東軍、熱河に侵入。

2月 小林多喜二が虐殺される。

3月 リットン調査団、満州国を中国に返還するよう求める報告書。国際連盟総会はこの報告書を賛成42、反対1(日本)、棄権1(タイ)で採決。日本は国際連盟を脱退。

4月 関東軍、山海関を越え華北侵入。関東軍司令官の武藤信義は功を認められ元帥となる。

5月 京都大学で滝川事件が発生。

7月 神兵隊事件が発覚する。

11月 華北に冀東防共自治委員会が設立される。日本軍の傀儡。

1934年 

3月 満州国、溥儀を皇帝として推戴。

3月 永田鉄山、軍務局長に就任。この時少将。

7月 斎藤内閣、帝人事件で総辞職。西園寺はさらに中間内閣を維持すべく、岡田啓介を首班に奏薦。

11月 陸軍士官学校事件。皇道派学生によるクーデター計画。

1935年

1月 広田外相が対中「不侵略」を表明。関係修復への動きが始まる。

2月 美濃部達吉の「天皇機関説」が問題化。美濃部は9月に貴族院議員を辞職。

3月 関東軍、対支政策を策定。「北シナ政権を絶対服従に導く」ことを確認。

5月 内閣調査局設置(37年に企画庁に改組)。革新官僚の中枢となる。

6月 梅津・何応欣協定。国民党は政府機関・軍の華北撤退に合意。7月にはチャハル省からも撤退。

7月 真崎教育総監が罷免される。

7月 第7回コミンテルン大会。反ファシズム人民戦線が提起される。中国共産党は国民党に対して内戦停止・抗日宣言。

8月 永田軍務局長、陸軍省内の執務室で相澤中佐(皇道派)に斬殺される。

11月 高橋是清蔵相、軍部の予算復活要求を退ける。

11月 華北の非武装地帯で冀東防共自治委員会が組織され、日本軍の支配下に入る。

1936年

1月 日本、ロンドン軍縮会議を脱退。

2月 2.26事件。皇道派青年将校が三日間にわたり帝都中枢を制圧。

3月 広田弘毅内閣成立。

5月 民政党の斎藤隆夫議員が「粛軍演説」を行う。

5月 軍部大臣現役武官制が復活する

11月 綏遠事件。関東軍の支援を背景に「内蒙古軍」が反乱。国民党軍により鎮圧される。

11月 ヒトラー政権との間で日独防共協定が締結される。

12月 西安事件。張学良が蒋介石を監禁する。

1937年

1月 廣田内閣が総辞職。宇垣一成に組閣が命じられるが、陸軍の反対により断念。これに代わり林銑十郎内閣が成立。

対中方針の転換: 対中優越観念の放棄。軍事的威嚇方針から平和交渉への変更を打ち出した。参謀本部戦争指導課長の石原莞爾は、華北工作などの放棄を唱える。

4月 外務、大蔵、陸軍、海軍大臣四相が「第三次北支処理要綱」で合意。北支分治や中国内政を乱す政治工作は行わないとする。しかし関東軍は対中高圧政策、対支一撃論を変更せず。

5月 林内閣総辞職。近衛文麿による挙国一致内閣が成立。

7月 北支事変勃発。北京郊外の盧溝橋で日中両軍が衝突。政府は華北への派兵を声明。3個師団を送る。

7月 日本軍支那駐屯軍、北支で攻撃を開始。北平、天津地区を制圧。

8月 第二次上海事変が勃発。政府は断固膺懲を声明。長期戦も辞せず」とし、北支事変の名称を「支那事変」に改める。

8月 国民政府とソ連、不可侵条約を締結。

9月 蒋介石、第二次国共合作に踏み切る。西北地域の共産党軍(約3万人)は国民革命軍第8路軍に改編される。

9月 不拡大方針を主張した石原莞爾が参謀本部から関東軍に転出。

10月 国際連盟総会、日本の軍事行動を非難する決議を採択。

10月 企画庁と資源局が統合され、企画院が設置される。「革新官僚」の拠点となる。

11月 駐華ドイツ大使トラウトマンが日中和平の斡旋に乗り出す。

11月 日独伊三国防共協定締結。

11月 大本営が設置される。参謀本部に「大本営陸軍部」、軍令部に「大本営海軍部」が置かれる。

12月 日本軍が南京を攻略。南京大虐殺事件が発生。国民政府は武漢に移る。

1938年

1月 近衛内閣、「国民政府を対手とせず」と宣言。和平交渉は決裂。

3月 南京に中華民国維新政府が樹立される

3月 ナチス・ドイツによるオーストリア併合。

4月 国家総動員法が公布される。政府が人・物資などを統制。

4月 3ヶ月にわたる徐州作戦が開始される。

5月 近衛内閣改造。関東軍出身の板垣征四郎が陸相、東条英機が次官に就任。

6月 国民政府軍、撤退にあたり黄河堤防を破壊する。住民100万が死亡する。

7月 朝鮮・ロシア国境の張鼓峰において日ソ軍が衝突。

10月 日本軍、武漢三鎮占領。

11月 近衛内閣、「東亜新秩序」建設を声明。国民政府が抗日政策を放棄すれば参加を拒まないとする。

12月 政府、「対支処理方策」を決定。占拠地拡大を停止する方針を打ち出す。

12月 ハノイに逃亡した汪兆銘、近衛声明にもとづき日本と和平交渉に入ると発表。

1939年

1月 第一次近衛内閣総辞職。平沼騏一郎内閣が成立。

4月 中国軍、南支で春季反撃作戦。戦線は膠着状態に入り、戦費が拡大。

5月 重慶爆撃が始まる。半年間で死者4千人。

7月 アメリカ、日本の中国侵略を理由に日米通商航海条約を破棄。対日経済制裁を強める。

8月 ノモンハン事件。日本・外蒙古軍=ソ連軍が衝突。関東軍は第23・第07師団が壊滅、死傷率七割の惨敗を喫する。

8月 独ソ不可侵条約締結。平沼内閣は「欧州の情勢は複雑怪奇」と声明し退陣。阿部信行(陸軍大将)が組閣。

9月 ドイツ軍、ポーランドに侵攻。英仏、ドイツに宣戦。第二次世界大戦勃発。阿部内閣は、欧州大戦への不介入を声明。

9月 国民徴用令が施行される。朝鮮人の徴用・連行が始まる。

1940年

1月 安倍内閣が総辞職。米内光政内閣が成立。

3月 汪兆銘、南京国民政府を樹立。

6月 ドイツ軍パリを攻略、フランス降伏。

7月 米内内閣が崩壊。第二次近衛内閣が成立。東条英機が陸将、松岡洋右が外相に就任。

8月 松岡外相、外交人事で親英米派を一斉左遷。

8月 百団大戦が始まる。20万の八路軍が、山西から河北にかけての鉄道、通信網、日本軍警備拠点を一斉攻撃。日本軍は報復として三光作戦を展開。住民を大量虐殺。

9月 日本軍、フランス領インドシナの北部(仏印)に上陸。

9月 米国、鉄鋼・屑鉄の対日輸出を禁止。国民政府への財政支援を強化。

10月 ほぼすべての政党が解散し、大政翼賛会が発会。

1941年

1月 東條英機陸相、「戦陣訓」を全軍に示達。

東条という男、想像力が完全に欠落した異常人格であることが分かる。少なくとも政治家になるべき人物ではなかった。

4月 松岡洋右外相、モスクワで日ソ中立条約に調印。

6月 ドイツ、ソ連に宣戦。電撃作戦(バルバロッサ)で国境各所を突破。

7月 第三次近衛文麿内閣が発足。御前会議は独ソ戦不介入を決定、南方進出を強化し、対英米戦を辞せずと決定。対ソ戦開始を唱える松岡外相は失脚。

7月 日本軍、南部仏印に進駐。英米は日本資産を凍結。アメリカは石油の対日輸出を禁止。

8月 参謀本部、11月末の対英米戦作戦準備を開始。山本五十六連合艦隊司令長官、全艦隊に戦備を指示。

9月 御前会議において「帝国国策要領」決定。日米交渉に妥結の見込みなきときは対英米蘭開戦との決定。

10月 日米交渉継続か決裂かで、近衛首相と東条英機陸相が鋭く対立。第三次近衛内閣総辞職。

10月 木戸幸一内府の強い推薦により、陸相東条英機が組閣。東条内閣成立。東条が陸相・内相兼務

 

川田さんの「昭和陸軍」を読んで以来、何か喉に骨が引っかかるような気がするのだが、一体誰が日本という国の権力を握って日本を戦争へと導いていったのかが分からない。
らっきょの皮むきみたいなもので、何かするすると逃げられてしまう。みんな逃げていってしまう。
「たしかに私はそう主張したが、それを受け入れ決断したのは私ではない。私にはそのような権限はなかった」
そう言ってしまうと、最後には昭和天皇のご聖断ということになる。しかし、かと言って天皇こそが唯一の戦争犯罪人かというと、そういう人もいない。
結局、国の内外にあれだけの犠牲を出した戦争の最終責任を取ろうという人はいないし、誰も特定はできない。“みんな時代の犠牲者だったのだ” ということになる。そういう結論だけは許せない。

おおまかに言えば、薩長藩閥が天皇制なるものを巨大化させた。ところが巨大化したフィクションとしての天皇制がいつの間にか実体を伴うようになってきて、その「お化け」が日本という国を引っ張り回した結果があの戦争なのだろうと思う。
ということは、総体としての天皇制官僚群が権力の実態なのだということになる。その中の「革新官僚群」が戦争の方向を推進したのであろう。
明治維新で登場した薩長勢力には民族主義的傾向があった。それが日清・日露戦争の勝利を通じて朝鮮・中国蔑視の「選良」意識へと転化していく。これが武力唯一主義と結びついていく。ここに第一の戦犯がいる。
さらに列強の一員として海外進出を果たす中で、武力を背景に無理を押し通す「問答無用」外交が前面に押し出される。ただこれは明らかに時代錯誤であり、第一次世界大戦を経た欧米列強はすでに民族共存の方向に一歩を踏み出しつつあったから、それが一層目立つようになった。ここに第二の戦犯がいる。
やがて時代錯誤の日本の膨張主義は世界の指弾を浴びるようになる。ここで一定の軌道修正を図らなければならなかったし、事実行おうとしたのだが、この目論見は暴力的に打ち砕かれた。そして事実上の無政府状態のもとで盲動主義者の意のままに政治が動かされるようになった。「私にはそのような権限はなかった」はずの人間が権限を超えて、日本を孤立主義と唯我独尊主義に導いていった。彼らは間違うことなく第三の戦犯である。
しかし暴力に怯えて政治の責任を放棄し、軍の意向に唯唯諾諾と従った一群の政治家がいる。彼らは戦争に賛成しなかったという意味では戦争責任はないといえる。しかし日本国の統治を放棄して、軍に明け渡した責任は戦争責任と同じように重い。その意味であえて第四の戦犯と呼ぶことにする。
それはある意味で、戦争にむざむざ巻き込まれていった国民の責任と繋がるものもある。
これから少し、第四の戦犯に焦点を合わせて歴史を振り返ってみようと思う。

許すな! 憲法改悪・市民連絡会のホームページから

ノーマ・フィールドさんのお話 (2003年11月)

法律を慈しむとは

憲法の抽象性と具体化への努力

日本国憲法についての集まりをもてる日本の人々をうらやましく思います。第二次世界大戦という大変な代償を払ってこういう集会が開かれるのではないかと思 います。

その意味で日本の人びとが日本国憲法を自らのものにした戦後の歴史の重さをあらためて感じています。

9条に反対する人たちは、日本人が平和ぼけをしてしまったというけれども、私はこのぼけは、平和の大切さに対するぼけではないかと思います。

平和というものは、私たちの生活全てにとけ込んでいる根拠であるからこそ、見えにくくなっている。

もう一度、何に対して平和ぼけしているのかというと、それは紛争を暴力で解決する手段、その危険に対するぼけではないでしょうか。

きょうのタイトルの法律を慈しむの「慈しむ」ですが、私にとっては法律というものの抜きがたい抽象性をどうやって身近なものにするのかということです。抽象性を具体性に戻していく営みが必要である。

ひとつは私たちが知っていることに還元させていくこと。もうひとつ逆に想像力を発揮して、私たちの知らない事件に身を置いてみる。そういう二つの行為が必要ではないかと思います。

先ほど申したように平和なしでは何一つ始まらない。その意味で法律に対する私たちの感性を、9条に対する私たちの感性を、どうやって育てていくかというのが大きな問題ではないでしょうか。

「9条=非現実」を考える

久しぶりに日本国憲法を読み返してみて、現実性をいうならそれこそ日本国憲法は非現実的な理念ばかりではないかと思います。

たとえば第3章は、国民の権利及び義務などについて非常に理想的な理念を掲げているすばらしい章です。読んでいて非常に感動し、涙が出てくるような第3章だと思います。

国の責務が 第3章に明記されています。(しかし理想的ではあるが現実感はない) これは現実感(の希薄さ)において9条とどれほど違うでしょうか。

では非現実的である法律、条項をどのように考えたらいいのでしょうか。宣言・理念というものを法律の威厳を持たせて提示しなければ、政府のやっていることの違法性、嘘の度合いを測る手段がないわけです。

たとえばブッシュが今の戦争を平和と民主主義のためだといったときに、嘘の度合いを測ることがなかなかできません。9.11以後、アメリカは愛国者法が定められ、人権がどんどんむしばまれています。貧富の差もますます拡大し、アメリカの社会は生きにくくなっています。

改憲論をめぐって思うこと

55年体制以降の政権は、なぜこれほど夢中になって「憲法改正」に熱を上げてきたのでしょうか。本当に無効な9条だったらわざわざ改憲する必要がないのではないでしょうか。

そこで逆に私たちは憲法9条が果たしてきた役割を測れるのではないでしょうか。つまり9条を破棄して、もっと現状に即した法律を作るというのは本当に危険なことだと思います。

一国平和主義ではしょうがないともいわれます。でも、ここまでアメリカと密着してきた日本が、それでも(辛くも)憲法に平和主義をかかげてきた、それは世界の人びとに力になりうると思います。

(これは多忙な方のための抄録です。ぜひ原文をご参照ください)


本日2時からノーマ・フィールドさんの講演があるので、急いで事前学習です。

憲法の第3章をこの憲法の精華としてとらえる姿勢は共感できます。第3章の精神を土台に9条を読み込む視点が強調されているのだろうと思います。


高株価の裏側には、税金や年金積立金がある。
そこを群馬大名誉教授の山田博文さんがやさしく解説してくれている。
株高は政府の買い支えが演出している。
さまざまな策が講じられているが、代表的なのが次の二つである。

A.株価指数連動型上場投資信託(ETF)
これは要するに日銀による投資信託の買い入れである。形容詞がたくさん付いているのは、株の組み合わせ(ポートフォリオ)のことであって、株を買っていることに違いはない。
うまくいけば、リターンは大きいし、下がれば日銀券を印刷して株価を買い支えすればいいのだから、結構だらけのようにも見える。
しかし問題が4つある。
①ひとつは、株価操作という犯罪に限りなく近いということである。
グローバル・スタンダードが厳しく問われるようになっている今日、どこかの国の誰かが国際機関に「恐れながら」と訴え出れば、結構やばいことになりかねない。
②ふたつ目は、買うのはできても売れない株になってしまうことである。
日銀が株を売れば、売られた会社はたちまち凹む。国債と違って、大量に売れば日本の企業が潰れてしまう。現金化できなければ、評価額がどれほど高くても換金はできない。
パチンコの出玉を抱えて途方に暮れる姿が容易に予想される。
③日銀が銀行である以上、無限に買えるものではない。
バランスシートにリスク資産(ETF)が積み上がれば、中央銀行と日本円に対する信任が毀損される。
国債の場合は、期限が来れば、政府が100%償還しますが、ETFの場合は、日銀が市場で売却しなくてはバランスシートからリスク資産を消すことができません。
日銀が大量のETFを売りに出せば、株価は大暴落してしまいます。
BISで規定された自己資本比率の上限に達すれば、その時点であとは確実に訪れる暴落の日を待ち続けるしかない。
④日本の大企業のための経済運営を迫られることになる。
ETFは低リスクの優良企業株を中心に構成される。そうすると日本銀行の運命は大企業に託されることになる。そうすると大企業に不利になることはできないし、大企業のためならば国民を犠牲にしてでも利益を確保しなければならなくなる。
何の事はない。日本という国は大企業のための打出の小槌の役を担わされることになるのだ。

B.年金積立金の運用
これは以前の記事で書いたので詳細は省く。これはETF買い入れ策が上記の如き経過で行き詰まったところに持ち込まれた。
まことにひどい話で、勝手に実印を持ちだして親の金を博打につぎ込んでいるようなものだ。限りなく犯罪に近い。
それでこの記事の肝心なところは、それでどうなったかということだ。
株式の運用割合を12%から25%に引き上げたのだが、そのわずか半年後、今年の3月末現在ですでに株式の割合は22%に達している。
つまりほとんど終わっている。
次に打つ手は決まっている。運用割合をさらに30%、40%と上げていくことだ。年金積立金が底をつくまで連中はつぎ込むつもりをしている。これだけは止めさせなければならない。

この後、付け足し風に書かれてある一節は初耳だ。

今のところ真偽の確かめようがない。

とりあえずコピペだけしておく。

年金積立金は1990年の株式バブル崩壊でも利用されたことがあります。この時は、不良債権を抱え込んだ銀行を救済するために利用されました。

日経平均株価(225の大企業の株価の平均)が1万8千円を下回ると、年金積立金が指し値でこれらの株を購入し、株価を買い支えます。そして株価が上昇すると、すかさず銀行が保有株を売却します。これによって銀行は売却益を獲得し、株式の含み益を実現しました。
この売却益が不良債権の償却に利用されました。

株価吊り上げに利用され価格変動のある株式を抱え込んだ年金は、株価が下落すると巨額の累積赤字を抱え込むことになりました。その額は02年度の2兆6千億円から08年度の9兆3千億円まで膨らんでいきます。

そのために保険料率が引き上げられ、支給開始年齢が先延ばしされました。こうして将来の老後の暮らしすら脅かされることになりました。

事実とすればひどい話だが、もう少し他の資料にもあたったうえでコメントしたい。



毎日新聞から高齢者事故の一覧表を転載する。

 ◇高齢者による主な突入事故

 発生日   場所              運転者    人的被害

<2012年>

 4月21日 津市の電器店          男性(78) 3人軽傷

12月20日 西東京市の喫茶店        男性(80) 4人死傷

<13年>

 3月 2日 千葉県流山市の居酒屋      女性(69) 8人重軽傷

 7月13日 兵庫県尼崎市の動物病院     男性(67) 4人重軽傷

 8月12日 東京都羽村市のプール施設の屋台 男性(79) 5人死傷

<14年>

 3月26日 鳥取県境港市のスポーツクラブ  男性(65) 1人重傷

 9月 5日 東大阪市のコンビニ       男性(79) 2人死傷

<15年>

 2月 3日 山口市の駅改修工事現場     男性(81) 3人重軽傷

 2月11日 和歌山県白浜町のスーパー    男性(79) 1人死亡

 6月24日 和歌山県有田市の事務所     男性(69) 1人死亡

 8月 1日 北海道室蘭市の衣料品店     女性(65) 4人軽傷

 ※年齢、被害は事故当時

ちょっと待てよ。65歳は高齢者か?
せめて75歳にしてよ。
それから、公共施設の高齢者割引、あれもやめてほしいね。
このあいだ夷酋列像の展覧会に行ったら、切符売り場で65歳以上かと聞かれた。
答える筋合いはない。
あんたよりたくさん給料もらっている。タバコも吸えるし酒も飲める。同情しこそすれ同情されるいわれはない。

だいたい悪いのは車のほうだ。
ついこの間まで(といっても4年になるが)、マニュアル車に乗っていた。マニュアルは嘘つかない。
最近はすっかり左足がなまってしまったが、使えといわれればいまでも使える。
だからブレーキは左足で踏むようにすればいいと思う。少なくとも踏み間違いはなくなる。
おそらく踏み間違いはバックの時に多いのだろうと思う。ペダルが視野から外れる。
これはマニュアル車でも同じだが、左足がクラッチの位置にあるから、ブレーキ・ペダルを間違えることはない。

こういうのはどうだろう。70歳過ぎたらマニュアル車しか乗ってはいけないということにする。そうするとマニュアル車を運転できない人はあきらめるしかない。口惜しかったら雪道の坂上発進やってみろ。下り坂のふかしながらのシフトダウンやってみろ。

オートマに乗り換えた時感じたのだが、これは精巧なコンピュータだということだ。人間にできないようなことまでやってしまう。しかしそこには小脳の機能しかなくて大脳の機能がない。大脳の機能が落ちた人間が運転するには怖すぎる。
大脳の機能が落ちた人間には格落ちのオートマのほうがふさわしいのかもしれない。

前の記事の元はこの表(産経

企業収益

10月16日、経済3団体の代表や企業経営者らが、政府から設備投資の拡大を求められた。首相を挟み、ズラリ着席した大物閣僚たちが、民間側に厳しく詰め寄った。

背景には、参院選を控えて、設備投資の鈍化が景気回復を足踏みさせているとの焦りがある。

財界側は、多少の誠意を示しつつ、その交換に法人税減税の前倒しをもとめるつもりだ。

「盗人にも三分の理」というが、確かに財界の言い分には一理ある。国内需要は設備投資できるような環境にはない。輸出環境も下り坂だ。

要するにトリクルダウンを期待して財界にサービスしたのに、見返りがないと政府がごねているわけだ。(ただしごねていると言っても、ごねているふりをしているだけで、選挙目当てのパフォーマンスであることは国民みんなが知っている)

で、そもそもトリクルダウンなどというセオリーがとうの昔に賞味期限が切れている。

以前バブルの時は余り金で土地やマンションを買ったのだが、いまはそれもやらず、ひたすら貯めこむのみだ。

法人税そのものは世界的な動向もあり、一朝一夕に変えられるものではないが、さまざまな優遇税制のダラダラ延長を止め、労働者への雇用責任(とくに社会保険負担)を果たさせるだけでも財源は湧いてくる。

これ以上老人福祉を後退させないと宣言するだけで、内需は一気に盛り上がるはずだ。内需の拡大が技術のイノベーションを生み、設備投資意欲を掻き立てる。財源がないというが、ここまでなら一文もかからずに実現できるはずだ。

小規模デイサービスの閉鎖が凄まじい勢いで広がっている。
赤旗が詳しく報道している。
まずこれが衝撃のチラシ
dayservice
ちょっとひとひねりしたチラシだから、分かりにくいかもしれない。
これが、札幌市や千葉市の小規模デイの事業所にFAXで送られてきているのだ。
「売れるときに売ってしまおう」というのは、要するに損を覚悟の投げ売りだ。そういう事業主がたくさんいるから成り立つビジネスだ。みんな一刻も早く、沈みつつある泥船から逃げ出そうと必死だ。
「現在、介護事業所を買いたいというニーズが高くなっています」というのは、ほとんどウソに近い。正しく書けば「現在、介護事業所を売りたいというニーズが高くなっています」だ。買うとすれば、更地か居抜きでなんぼかというハイエナ業者だろう。

先日の記事と一部ダブるが、今年4月の介護報酬改定を紹介しておく。
小規模デイサービスは要介護者で平均9.2%の大幅減。要支援の人は実に21%の引き下げとなる(要支援はいずれさらに引き下げ予定)。
職員体制に応じた加算があるが、小規模事業所はとても算定できない。
大阪での影響調査では、85%の小規模施設で平均12%の減。回答者の3割が「今後事業の縮小・撤退を考えている」と答えている。
つまり、この「業界」はすでに死に体なのだ。

赤旗はこのFAXの発信者に取材している。大手医療介護人材紹介業社の買取担当者だ(「M&A事業」というから笑わせる。人の弱みに付け込んで買い叩き、底値買いするアコギな商売だ)。
譲渡の申し込みは昨年の2~3倍に増えています。…理由は圧倒的に経営難で、全体の7~8割を占めています。
確かにこのところ雨後の筍のようにあちこちに、小規模デイサービスが増えた。「コンビニ潰れてデイとなる」という感じだ。これだけ一度にできると、中には「ウーム」というところもあるだろうと思う。
それはそれできちっとした監督が必要だ。悪質なものはそのうち淘汰されていくだろう、くらいに考えていた。何よりもニーズが有るのだから対応するのは当然である。

しかし厚労省の方向を見ると、小規模デイつぶしは大規模化を促す措置の一環と考えられる。はたしてそれが正しいのか、資金効率から言えば、それは逆だろう。
これはいまや世界の常識だが、日本の医療と社会保障を支えてきたのは開業医制だ。小規模でちまちまとやってきたからこそ、きわめて資金効率の高い医療システムが出来たのだ。

医療や介護の場面では経営的な意味でのスケールメリットはない。むしろ人件費の固定化が強力なデメリットになる。それは厚労省もよく知っているはずだ。ただし大規模化すれば、さまざまな監査の網をかけることができ、天下りのポストが増えることは間違いなかろう。
いまでも介護施設の書類の量たるや膨大なものだ。ケアの仕事より多いくらいの業務量になる。こういう書類を作らせて監査する人間のための仕事だ。こういう連中がいなくなれば、社会保険料は随分下がると思うが…

これは「週刊金曜日」主催の野党座談会で飛び出した言葉。
野党共闘を渋る民主党に共産党の小池さんが持ちだした。
黒澤明監督の映画「七人の侍」のセリフを引用したもの。
以下、記事をコピペしておく。
野党共闘の問題について、「七人の侍に“クビが飛ぶっつうのに髭の心配してどうするだ”というセリフがあります」と述べると、会場はどっと沸き、大きな拍手に包まれました。
司会の佐高信編集委員は、自民党が国民連合政府を「野合」だと非難していることについて、「自民党と公明党との野合以上の野合があるか」と一喝しました。

赤旗を読んでいないわけではないが、ブログの記事にしていない。
「そのうち、調べて」と理由をつけているが、年寄りに「その内」はない。
今日は少しやっておこう。
「主張」から
麻生財相が発表した資料で、いくつかの数字があげられている。
安倍政権発足後、大企業の経常利益は16兆円増えた(14年度末現在)
これに対し設備投資は5兆円、賃金は0.3兆円の増加にとどまった。
一方、企業の内部留保は50兆円も増えた。手持ちの現金・預金だけでも20兆円増えている。
経常利益と内部留保が合わないのは、円安・株高の含み資産効果が絡んでいるからだろう。
これは財務省が経済財政諮問会議に提出したものだ。
「主張」では“マスメディアはあまり注目していないが”とコメントしている。
少し調べてからと思ったが、10分もすると忘れてしまうので、メモ代わりにアップしておく。

1.「植物人間」という言葉
「植物人間」という言葉がある。これには二つのニュアンスがある。ひとつは生存機能が著しく障害され、さまざまなアシストを必要としている状態である。もう一つは、こちらの呼びかけに応答せず、コミニュケーション不能の状態で生きていることを指している。いずれの状況においても、それがかなり長期にわたることが条件となっている。
それを「尊厳」というもっともらしい言葉で切って捨てる時、そこには“植物人間はもはや人間ではない”という暗黙の論理が横たわっている。
その論理には3つの前提条件が含まれている。
1.尊厳を失った人間は人間ではない
2.他者に依存する生命は生物の名に値しない
3.意識的に動く生命が、人間的生命の本質である
しかし、これらは生物学的にはウソである。簡単なことだ。同じ論理を使えば、赤ん坊は人間ではなく植物人間だということになるからだ。
まあ、そう言っちまっては身もふたもない。こちらも常識はわきまえている。年寄りがふっと息を引き取るのを無理に引き止めるつもりはない。
ただそれを大上段に振りかざされると、俄然反抗心が頭をもたげる。
卵を産まなくなった鶏と一緒にされては困る。鶏には悪いが、鶏は卵を生むから「ニワトリ」(という商品)なのであって、卵を生まない鶏は電線の切れた電球と同じなのだ。我々社会の一員ではない。

2.進化論から見た動物と植物
しかし今回言いたいのは、そういう社会的定義ではない。
言いたいのは、人を「植物人間」と斬りつけ、動物と植物とを截然と分け、動物に優位性を与え、動物の中に優劣の階梯を形成するのは間違っているということである。それは、進化の立場からしても容認出来ない極論(形而上学)である。
まず、当たり前だが、生物は“動くもの”ではない。
生物とは生命を持ったものである。
生命とは何かというと、これはこれで難しい問題だが、おそらく代謝(同化と異化)装置と生殖(増殖)装置が生命の基本装置だろうと思う。
動かない生命はたくさんある。植物は、もちろん相対的なものだが、ちょこまかと動くものではない。しかし生命はある。成長もするし生殖も行う。そこには寿命があり、いつかは命を終える。動物が動かなくなったら植物になるというのでは植物に失礼だ。
動物というのは生命・生物の中ではかなり特殊な形態である。それは自己栄養装置を持たない生命形態である。そしてその代わりに移動装置と捕食装置を身に着けた生物である。
その昔、生命は少数の細胞の集合体であった時期に葉緑体を獲得し、植物として大発展する。大発展した植物を前提として、それに依存する形で動物が誕生する。さらに動物の間に食物連鎖が成立する。
だから、まさしく動物は他者に依存する生命なのである。食べ物を口から入れようがPEGからであろうとIVHからであろうと、それは形態の問題にすぎない。

3.動物の動物たる所以
ところで動物が動物であろうとする限り、捕食装置は必然的である。しかし動物が飛躍的に発展したのは移動能力が発展したからであって、捕食能力が向上したからではない。これは視覚の獲得が先行し、これに伴って脳神経系が発達したからである。(さらに言えばそれにふさわしい筋骨格系の発達も含まれる)
脳神経系の発達は、動物が“動く生物”から、体を動かし“移動する生物”に転化したことを意味する。そして“どうやって体を動かすか”と“どこへ動かすのか”という「動く」内容の二重化である。
哲学的に言えば、動かす自己と動く自己への分裂、すなわち意識の発生である。
ついでに言えば“なぜ動くのか”という問題がある。これは情動が絡む話で、「動け」という命令は神経系と内分泌系が接合する視床下部からくるのだが、ここでは省略する。

4.動物(脊椎動物)は生きる意志を持っている
動物が生きる意志と目的を持つのはこの頃まで遡る。(ただし昆虫類はまったく別個の発展を遂げているので、直接には云々できない)
魚の時代まで遡る、このような意識がそう簡単に消失するとは考えにくい。自発性の低下は結果であり、それは失われたのではなく障害されているか、抑制されていると見るべきである(脳幹障害では自発性の低下がプライマリーとなりうる)。
一番多いのはクスリ(とくに抗GABA作用)、もう一つは低栄養と低張性脱水、要するに疑似冬眠だ。

5.人の命は結構しぶとい
長々と述べたが、要するに尊厳とか人間性とか生命倫理などの言葉で語る論理は、およそ非科学的で独りよがりなものだということだ。坊主にバトンタッチするのはいつでも出来る。やり残しはないか最後のおさらいはしておくべきだろう。
人の命は人類以前から積み重ねられてきた営みの重層性の中にある。そこをしっかりと踏まえたうえで、我々は議論すべきだろうと思う。

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