鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

13年4月、ぷらら・Broachより移行しました。 中身が雑多なので、カテゴリー(サイドバー)から入ることをおすめします。 過去記事の一覧表はhttp://www10.plala.or.jp/shosuzki/blogtable001.htm ホームページは http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」です。

2015年11月

広井良典さんの「定常型社会」(岩波新書)という本ほど、何回も挫折する本も珍しい。

パラパラと読む分にはなかなか面白いのだが、身を入れて読もうとするとたちまち字面が負えなくなる。

なにか話が変な方向に行ってしまうのである。「おいおい、ちょっと待てよ。そこから先は道が違うんじゃないの」ということだ。

そして彼が何かしらの定式めいたものを打ち出す頃にはすっかり白けてしまうのだ。

結局彼の言う定常社会というのは停滞社会のことだ。「停滞しても安定した社会」というのが彼の理想社会、というと言いすぎかもしれないが、少なくとも「モデル社会」だ。

私は以前「平和な中規模国家」というイメージを提起したことがるが、それとは似て非なるものがあるようだ。

私はいまだにマルクスの言うように「現代社会は真の人間史が始まるトバ口の社会だ」と信じているから、とにかく宗派が違うのである。

広井さんの言葉をつなげていくと、昔の「主婦と生活」の特集にあった「やりくり上手で幸せな家庭を」という記事を思い出してしまう。

「資源は有限だ」という前提で「欲望も無限ではない」とか「高望みしなければ人間幸せ気分になれる」というお説教がつい思い出されてしまうのである。

この手の話は必ず天井論を前提にしている。

1.資源には天井がある。

2.環境には天井がある。

3.人間の欲望には天井がある。

これらのうちのどれか、あるいはそれらの組み合わせで議論を立ててくる。

古くはローマクラブの提言、最近では温暖化、国内限定バージョンでは飽食社会論などがそれである。

それらは大抵が善意の提言であり、儲け主義への警告であるから、積極的な意義を持っている。ただ、それを絶対化されたり生活信条化されると、ついていけなくなる。相容れないものを感じてしまうのである。

世界史的、あるはもっと振りかぶって人類史的には、人間は資源に天井がないこと、欲望にも天井がないことを証明してきたではないか。

と言っても、人類の歴史はたかだか数万年に過ぎず、その中でもしばしば絶滅の危機を乗り越えてきたので、これから先も絶滅の危機はやってくると考えておいたほうが良いのだが。

とにかく「天井論者」に言っておきたいのは、簡単に世の中を数値化して論じないで欲しいということだ。

世の中常に反省と積み上げで出来ている。環境が悪化すれば改善するし、エネルギーが不足すれば省エネ技術が発展する。技術が飽和すればそこに革命的が技術が登場する。

問題なのは社会の無政府性が社会進歩を妨げ、場合によっては社会を破壊してしまうことだ。そのことも世界史的に見れば極めて明瞭な事実だ。ローマ帝国が崩壊したように、大英帝国が没落したように、アメリカの世紀もいずれ終わりを遂げるかもしれない。しかしそれは人類の叡智が終わりを告げたわけではない。むしろ発展していったからこそ、古い入れ物が間尺に合わなくなっていったのである。


ゴーストップ事件

1933年(昭和8年)に大阪の天六交叉点で起きた陸軍兵と巡査の喧嘩が事の起こり。

それに端を発して陸軍と警察のメンツをかけた大規模な対立に発展した。

当時信号を「ゴーストップ」と呼んだことから、ゴーストップ事件と言われる。(ウィキペディア)


大阪市北区の天神橋筋6丁目交叉点(通称 天六)には、当時珍しい交通信号機があった。

ようやく自動信号が付いたころで、往来の人、車とも不慣れのため信号無視が多く、かえって危険だと交差点の中央に巡査が立ち、交通整理していた。(大阪日日新聞

tenroku

                 天六交差点

天六交差点には、新京阪鉄道「天神橋」駅がそびえていた。この建物は、大正14年に高架プラットホームを設けた日本初の高層ターミナルビルとして建造された。その一角に大阪府警察曾根崎署天六派出所も入っていた。

天神橋
         天神橋駅

この日の巡査は戸田忠夫が担当していた。戸田は阪急梅田駅前が勤務場所だったが、同僚の病欠でこの日だけ天六に回されていた。

戸田巡査

中村1等兵

  戸田忠雄巡査

 中村政一一等兵

  

1.事件の発端

6月17日午前11時40分頃、休暇外出中の中村政一一等兵(第4師団第8連隊第6中隊所属)が、市電に乗ろうとして交差点を横断した。この時信号は赤だったが、中村はこれを無視した。

戸田忠夫は中村をメガホンで注意した。さらに取り調べのため、中村を天六派出所まで連行した。

派出所内で、中村は「軍人は憲兵には従うが、警察官の命令に服する義務はない」と抗弁し抵抗した。

押し問答の末に、派出所内で殴り合いの喧嘩となり、双方ともに顔面に負傷した。

2.憲兵の介入

喧嘩は相当長時間にわたったようで、見かねた見物人が憲兵隊に通報した。

大手前憲兵分隊から、憲兵隊伍長が駆けつけた。伍長は中村を保護し連れ出した。戸田もこれを受け入れ、中村を解放した。

中村は原隊には戻らず、大手前憲兵分隊で憲兵の尋問を受けた。

中村の供述: 停止信号に気づかず横断しかけたところはじめて赤信号に気づいた。
…戸田巡査が飛んできて後ろから首筋をつかまれた。…交番へ連行しようとするのでふり切った。ところが、同巡査は前から上着をひっつかんで派出所に連行した。
通行人が『兵隊に無茶するな』と言ったことから、戸田巡査と口論になり、殴られた。その際、よけるために突き飛ばしたので、同巡査の第二ボタンが取れた(大阪朝日新聞)

3.憲兵隊の抗議

その2時間後、憲兵隊は「公衆の面前で軍服着用の帝国軍人を侮辱したのは断じて許せぬ」として曽根崎署に対して抗議した。

大阪日日新聞の記載は異なっている。抗議したのは、憲兵隊から報告を受けた第八連隊の直属上官だったとされている。

曽根崎署は戸田を聴取した。戸田は「信号無視をし、先に手を出したのは中村一等兵である」と証言した。

4.事件の情報は上層部に及ぶ

この日、中村の原隊である第8連隊と、戸田の所属する曽根崎署のトップはともに不在であった。このため情報が直接上部にあげられることになった。

大阪日日では、井関参謀長は事件当日には不在で、情報は直接寺内師団長に上がった。慎重派の井関に対し、寺内は「瞬間湯沸器」で直情傾向のため、騒ぎが大きくなったという。

と、ここまでが当日の経過。

これにより事件はにわかに大掛かりなものとなった。

4日後(21日)には事件の概要が憲兵司令官や陸軍省にまで伝わった。最終的には昭和天皇の耳にまで入ることとなった。

5.師団と府警の対決

22日、軍がまずアクションを起こした。

第8連隊の所属する第4師団の井関参謀長が、「この事件は一兵士と一巡査の事件ではなく、皇軍の威信にかかわる重大な問題である」との声明書を発表し、警察に謝罪を要求した。

抗議文の内容(大阪日日より)
中村一等兵は地理不案内で、天六交差点の自動信号機に気づかず、横断せむとしたところ、いきなり巡査戸田に襟首をつかまれ、交番に連行され、鉄拳で上唇付近を四回、右掌(てのひら)で頬(ほお)および左耳を強打され、左鼓膜を破られて全治し難いとの診断を受けた。
軍人が法律違反を犯したる場合は、まず憲兵隊に通報すべきなるを、一巡査が勝手に不法行為をなしたること、絶対に許すべからざる暴挙なり。軍に対する大阪府警の悪意ある挑戦と見ざるを得ず。
…本事件は明白に軍人に対する警察の暴行傷害侮辱事件なり。一兵士対一巡査の偶発的街頭問題に非(あら)ず。因(よ)りて師団の総力をあげ、断固たる決意で解決に当たる所在なり。

穏便に事態の収拾を図ろうとしていた警察側も態度を硬化させた。

大阪府の粟谷警察部長が第4師団からの抗議文に反駁。

中村政一一等兵はメガホンを用いて再三の戸田巡査の注意に、「生意気ぬかすな、憲兵のいうことなら聞くが、お巡りなど問題にならぬ」と暴言を吐いた。
交番に連れていくと戸田の背中を思いきり軍靴で蹴りあげ、なにをすると振り向いた顔面に、アッパーカットをくら わせ、負傷させた。
よって揉み合いになったが、市民の通報で憲兵伍長が駆けつけて、大事に至らずに済んだ。たったこれだけのことである。
…街頭通行の非番兵士は一市民の資格しかない。当然信号は順守せねばならぬ。法を無視してよいとの特権があるはずはない。
…兵士が陛下の赤子なら、我ら警官も銃後を固める陛下の赤子である。陳謝弁明する気は毛頭ない。(大阪日日)

6.師団長と府知事の交渉が決裂

24日、事態を収拾すべく、寺内第4師団長と大阪府知事の会見が持たれたが、これも決裂した。

大阪朝日

28日、井関参謀長が二度目の言明。「軍人の身体は上御一人に捧げてある。したがって外出中でも軍服を着ていれば、軍の統帥権内にある。地方人のただなかで面目を潰された時は、昔の武士なら相手を切り捨て、切腹するほどのものだ」と強調。

これに対し粟屋警察部長も、「軍隊行動でない個人としての軍人と、一般市民の扱いに違いはない」と反論する。(れきこん

粟屋は大分県知事を務めたあと農林省に勤務。昭和17年に退官したが、請われて広島市長に就任。原爆により死亡した。

問題は軍部と内務省との対立に発展し、もはや大阪では解決できず、中央での交渉が必要となった。

府知事は上京して山本内務大臣に要望を伝える。

警察の措置は法を守る番人として当然のことだ。大阪府は軍に一歩も譲るつもりはない。軍の謝罪で収めてもらいたい(大阪日日)

7.東京での内務省と陸軍の対決

東京でも攻勢に出たのは軍部だった。

寺内から報告を受けた荒木陸軍大臣は、「伝統ある大日本帝国陸軍の名誉にかけ、大阪府警察部を謝らせる」と発言した。7月3日には現地に乗り込み、第4師団を督励するなど対立を煽った。全国在郷軍人会も中村の応援に乗り出した。

これに対し、山本内務大臣と松本警保局長(現在の警察庁長官に相当)は、「謝罪など論外、その兵士こそ逮捕・起訴すべきだ」との意見で一致した。

松本警保局長の回想: 五・一五事件の直後で、またいつ何が起こるかわからん時点で治安の重責を負う者は誰もが命がけだった。特に軍人が増長して横車を押す傾向が起きたのに対して、警保局長として黙止できない立場に立ったので終始軍部と戦った。

8.中村が戸田を告訴

7月18日、中村一等兵は大阪地方裁判所に対し、戸田巡査を相手取り告訴した。当然、寺内師団長の指図によるものである。

告訴内容は、刑法第195条(特別公務員暴行陵虐)、同第196条(特別公務員職権濫用等致死傷)、同第204条(傷害罪)、同第206条(名誉毀損罪)とされた。

大阪地検は調査に乗り出す一方、両者の和解を勧告した。小山法務大臣も二度にわたり来阪し、斡旋に努める。

9.両者の暴露合戦

憲兵隊は戸田巡査の本名は中西であることを暴いた。警察は中村一等兵が過去に7回の交通違反を犯していることを発表した。

ただしこれは本人が否定している。中村は入隊前は馬力(荷馬車の御者)で、積み荷のことで巡査に注意されたことがあったという。

メディアはこれらの経過を、「軍部と警察の正面衝突」などと大きく報じた。

7月18日、曽根崎署の高柳署長は過労で倒れ、10日後に死亡した。事件の目撃者の一人は、憲兵と警察の度重なる厳しい事情聴取に耐え切れず自殺した。

10.「和解」と軍部の実質的勝利

10月末、福井県で陸軍特別大演習。臨席した天皇が荒木陸軍大臣へ「大阪でゴー・ストップ事件というのがあったが、どうなったのか」と質問したという。(この項は未確定情報)

11月7日、県府知事の要請を受けた白根兵庫県知事が調停に乗り出した。事態を憂慮した昭和天皇の特命によるものとされる。

白根の実兄は宮内省幹部。天皇の意を受け、斎藤首相に「陛下が心痛されている」と伝えたという。これを受け、斎藤首相が司法大臣に事件の決着を指示した(大阪日日)

11月18日、井関参謀長と粟屋大阪府警察部長が共同声明書を発表した。

師団側:軍部が府当局の注意を喚起せし所以は、皇軍建設の本義を宣明し、軍人の特殊地位を明徴にせんとせしに外ならず。
警察側:親善なる関係の下に進んできた両者に、気まずいことが出来たが、円満解決をみたことは喜びに堪えず(考察ニッポン

20日には戸田巡査と中村一等兵が会い、互いに詫びて幕を引いた。

和解の内容は公表されていないが、その後警察が兵士を勾留することはなくなったことから、軍部の実質的勝利とみられる。

篠田謙一さんの「DNAから見えた日本人の起源」は、やはりどう考えても時代遅れだと思う。

弥生がベタになっているのが致命的だ。人類史的な考えから言えば、弥生時代という考えがそもそも雑駁すぎる。

1.食事対象で時期区分する必要がある

土器は主要な生活資源ではないし、生産様式を表現するものでもない。マンモスやトナカイを追う狩猟生活が一方であり、一方で漁猟を主体とする生活があり、森林地帯では果実や木の実を採取する生活があった。これが基本である。

これらの違いは自然環境の違いに規定されたものであり、優劣の差ではない。

しかし絶え間ない気候変動により人類は絶えず移動を余儀なくされた。そして人種同士の衝突も否応なしに起こった。

2.南北が戦えば北が勝つ

その時に戦闘力の差は種族の存亡を決定する。戦闘力から言えば狩猟民族が圧倒的に強いのは当然である。

狩猟民族は強固な集団を形成し、その集団力を頼りに生存を図る。大動物を捕らえ殺す手段はそのまま人を殺す手段となる。

一方採取生活は、小家族を単位として広い縄張りの中で数少ない果実を分け合うべく散在する。縄張りの向こうはすべて敵である。団結のしようもない。

かくして人種の入れ替え、混淆は、常に北方人優位の形で継起した。

3.第一次民族大移動

最大の北方種族の移動は1万5千年から1万年前にかけておきている。主要な流れはイルクーツクからハイラルにかけて住んでいた北方民族が黄河領域へと進出したことである。

これと時期を同じくしてアムール川下流域の北方民族が間宮海峡・宗谷海峡・津軽海峡を越え本州に進出した。さらにシベリアのどこからか、一群の集団がベーリング海峡を越えアメリカ大陸に渡った。

なぜこの時期に大規模な民族大移動が起きたのかは分からないが、おそらく気候上の問題であろう。

もともと、アジアに先着したのはメラネシア系の種族だった。したがって長江流域くらいまでは南方系民族が先住していた可能性はある。

台湾の少数民族や沖縄で見つかっている古代人の骨はそれを示唆している。ひょっとしてその北限は日本の本土に及んでいたかもしれない。

彼らは漁労や採集生活を営んでいた可能性がある。北方民族はそれを学ぶことで南方での生活に馴化していったのかもしれないし、独自にそのような生活を創りだしたかもしれない。

ただ稲や麦のような穀物を集めてご飯とか麺類とかの形にして属する習慣は、南方系種族との出会い抜きには考えにくい。

4.長江文明の発生

かくして北方系種族は南方系(メラネシア系)種族を駆逐するか同化するか、いずれにせよ圧倒する一方で、その文化を取り入れた。

そして栗林を作って栗を栽培するのと同じように、米や麦を栽培するようになった。これが世界初の文明である長江文明である。それは8千年前ころから発展を遂げ、数千年にわたり続くことになる。

なぜそう言えるか。それは同じ時期に発生した日本の縄文文化が、栗の栽培にとどまっているからである。その結果稲作文化は東アジアの主流となっていくの対し、三内丸山文化は盲腸のように途切れてしまうのである。

ミトコンドリアDNAであろうと、Y染色体であろうと、ゲノムであろうと、この大きな流れ、歴史的な重畳(ちょうじょう)性を前提にしなければ読み解くことはできない。

5.第二の民族大移動

これは紀元前2千年頃に始まり、南方人を駆逐し長江文明を開いた北方人を、新手の北方人(いわゆる騎馬民族)が押しやる形で展開した。

押しやると言っても、基本的には同種のモンゴロイドであるから、半ば駆逐しなから、半ば混住するょうな形で拡大していく。

中国大陸の中原は基本的にはこの新北方人が支配する世界となり長江人はその辺縁に押しやられた。昆明、雲南、ベトナムのタイ族と繋がる首飾り状の分布形態がそれを示している。これはいったん台湾海峡で途切れたあと、朝鮮半島南部へとつながっていく。

朝鮮半島南部では長江人の暮らすいわゆる三韓地方に北方から新北方人が迫り、漢の時代に南端を残して制圧された。その後満州の扶余人が征服王朝たる百済を建国し睨みを効かせた。

5.旧弥生人(長江系)の渡来

この時期に長江人が大挙して九州に渡ってくる。中国大陸の民族大移動に比べれば遥かに小規模ではあるが、それでも大移動である。弥生時代に日本に稲作文化をもたらしたのはこの長江人の流れであろう。

九州に入った長江人と縄文人が争った形跡は見られない。彼らは共存しつつある程度住み分けを行ったと思われる。なぜなら縄文人の主要な生活範囲は近畿以東と思われるからである。

また縄文人は比較的早期から稲作文明を受け入れ、積極的に同化していった可能性がある。(習合文化としての銅鐸文明)

6.新弥生人(扶余系? 天孫族)

新北方人は遅れて朝鮮半島南部に進出し、百済・新羅・任那を形成した。そして日本にも進出した。これが天孫族と呼ばれる人々である。彼らは長江人を駆逐するのではなく君臨した。

したがって日本人の源流を探る場合、縄文人と弥生人ではなく第一波の北方人(関東・東北・南北海道の縄文人)、長江人、天孫系の三種の時系列的混合として捉えなければならない。

7.事実ではあるが真実の一断面

問題はDNA解析がそれを裏付けてくれるか否かであるが、歴史学的素養のないDNA屋さんの解釈を鵜呑みにしてはいけないと思う。現に、ミトコンドリアDNAの研究者が言うことはゲノム屋さんの言うことと矛盾していることもたくさんある。

ゲノムにネアンデルタール人の痕跡が残っているからといって、その人をネアンデルタール人だとはいえない。

一つの知見を世紀の大発見のように誇大宣伝したり、針小棒大・我田引水などの四文字熟語で迫られても、それを時系列や空間的広がりの中に定位する検証なしには、真実に近づくことはできないのである。



フランスでのテロに対する私の感想ですが、いささか不穏当かも知れません。つぶやきとして聞いておいてください。
1.国内の独裁者、イスラエルをふくむ国外列強の干渉のもとで、塗炭の苦しみ
にあえぐ中東諸国の人々に心から同情する。また、その中で民主主義を もとめ
苦闘する多くの人々に、心よりの連帯の意を表する。
2.中東諸国の民主化と平和の実現は中東諸国人民みずからの事業であり、我々
はこれを支持する。同時にいかなる国外勢力からの干渉にも反対する。
3.テロはこれらの運動とはまったく関係のない挑発行動であり、平和と民主主
義を求める人々にとって許すことのできない分裂策動である。それが宗 教的な
ものであると否とを問わず、我々はテロを厳しく糾弾する。
4.それと同時に中東人民の自主的・民主的運動との連帯を一層強化する決意を
表明する。

北星大学 植村さんの去就で一歩前進

マケルナ会からメール(27日付)が届いた。ここに転載しておく。

「負けるな北星!の会」賛同人の皆様 
植村さんは3月から、韓国ソウルに本部があるカトリック大学で勤務することに
なりました。これにより、北星大学の雇用は来年3月末の任期満了で終了します。
カトリック大学では、客員教授(有給)の待遇で、期間は1年。宿舎は無料で用
意されます。
日本語学科の学生など対象の教養学科で週2日、講義する予定です。

カトリック大学は、裁判のことも含め、植村さんや北星の状況を理解した上で招
聘しました。植村さんは、これまでよりも大勢の学生を教えることができます
し、この機会に日韓関係など、ご自身の研究も深めたいと考えています。

北星学園大学の田村学長は、植村さんから報告を受け、次のように話されました。
・植村さんの教育者としての能力が評価されたものであり、大変嬉しく思った。
・色々と報道されているが、次年度の雇用継続に関しては本当に悩んでいた。
・カトリック大学校は北星の姉妹校でもあり、今後共、色々な場面で北星に来て
いただきたい。

次が、植村さんの礼状

uemura
以下は私の感想

事務局の皆様
大変ご苦労様でした。
ある意味で予想外の結論でしたが、
身の落ち着き先が決まったというのは
大変良いことだと思います。
ロッククライミングで言うと、
宙ぶらりんで両腕だけで頑張っていたのが、
しっかりした足がかりを確保できたということでしょう。
さぁ、これから本格的なクライミングの開始です。
鈴木頌


浜矩子さんの 「通貨を知れば世界が読める」(PHP新書 2011年) という本を読みながら、途方に暮れている。
そもそも、謳い文句が「1ドル50円時代の到来」ということになっているから、意地悪い言い方をすれば、浜さんは円安時代を読めなかったことになる。すなわち通貨を知らなかったことになる。
問題は通貨という経済システムを知っても、為替相場の動きは読めないということにある。そこでなぜ読めないのかということが問題になる。
やはり、一度ディーラーや輸出入業者の“マインド”のところに戻らなければならないのだろう。そしてそのときどきのマインド形成過程を分析しながら、帰納的に為替相場を規定するものを探っていかなければならないのだろう。
そしてより長期的には慢性的な生産過剰、資本過剰、慢性不況、慢性バブル、通貨垂れ流しという枠組みの中に位置づけていかなければならないのではないか。
通貨というのはそもそも株式市場や債券市場と異なり、何よりも安定性が求められる。その安定性が毀損された状況が為替相場の乱高下ということになる。為替相場に安定性をもたらすのは国家の通貨政策である。ところが一方では通貨に対するガバナンスを事実上放棄するような手前勝手な通貨政策が横行し、他方では為替の乱高下により国家そのものが存亡の危機に立たされる事態も発生している。
このような事態が続けば、将来の道は二つしかない。通貨鎖国、あるいは戦前のような通貨ブロック体制への逆戻りか、ケインズの提唱した世界通貨への道かという選択である。

と、とりあえず並べてみたが、これだけでは内務省とはなんぞやというのがちっとも分からない。
とくに軍隊とのダイナミックな関係がまったく見えてこない。
とにかく分かったのは、共産党の綱領に書いてあった絶対主義的天皇制とか、軍事的・封建的帝国主義とかいう規定(32年テーゼ)が、当時の現実の政治状況とはかけ離れていることだ。
内務省・警察機構が国内における民主主義を踏み潰し、戦争への道を掃き清めたことは間違いない。しかし彼らが直接戦争を煽り、国民を戦争へと導いたかというとそうでもない。
さりとて消極的でも戦争に抵抗したかというとそうでもない。むしろ積極的に後押しして、銃後の備えに勤しんだというべきだろう。となると、内務省は最悪のオポチュニストということになるが、それほどまでに無定見だったのだろうか。
ここで なぜ内務省は軍の暴走を後押ししたのか という問題が重くのしかかってくる。それは内務省の持つ独特の風土によるものであったのか、それとも、そもそも官僚であるが故の習性にもとづくものなのか、この辺の判断がどうもすっきりしない。
とりあえずヒントとなるのが、福島の原発事故に関する国会の調査委員会の報告だ。
国会事故調は、原産協会と東電が、経産省を縛り付け、安全神話を押し付け、必要な対策を怠ってきたことが原発事故の究極の原因であり、その故にこそ、事故を「人災」と糾弾したのである。
この報告では、原発事故の主犯として財界を挙げている。しかし、報告を読んだ私の感想はむしろ逆だ。
財界でも政界でもなく、経産省は米国の意も受けながら、すべての戦略をコーディネートしてきた。それは財界ではなく「総資本」としての支配者の意向を反映している。
この論理から言えば、日中戦争を泥沼化し太平洋戦争へと突き進んでいったのは、軍部の跳ね上がり集団ではなく、内務省に反映されたネオコン的・妄信的「総資本」の意志であったということになる。
この辺りの政治的ダイナミズムをうまく説明している人はいないだろうか。


内務省の歴史

1873年(明治6年) 

5月 岩倉使節団が帰朝。副使、大久保利通はプロイセン王国の帝国宰相府をモデルに、強い行政権限を持つ官僚機構の創設を目指す。

11月 明治6年政変により大久保が政府の実権を握る。内務省が設置され、初代の内務卿に大久保が就任。地方行政と治安維持を主務とする。

当初は上局(後の総務局)の下に大蔵省の勧業寮、戸籍寮、駅逓寮、土木寮、地理寮が移管された。また司法省からは警保寮、工部省から測量司が移管された。
76年に庶務局(後の県治局)、衛生局が新設、77年に社寺局が移管される。

1876年(明治9年)

警保寮を廃止し警保局を設置。

1885年

内閣制が実施され、内務省も内閣に属することとなる。山縣有朋が初代大臣となる。

内務省処務条例が施行される。官房、総務局、県治局、警保局、土木局、衛生局、地理局、戸籍局、社寺局、会計局の局制が実施される。
その後はほぼこの体制(県治局、警保局、土木局、衛生局の四本柱)が維持される。

1890年

鉄道庁が内務省の外局として分離。後に逓信省に移管。

1900年(明治33年)

治安警察法が公布。自由民権運動などの政治活動の規制を主目的とする「集会及政社法」に、労働運動の規制を付加したもの。

1.政治結社・集会の届け出。集会における言論の制限と臨監。
2.街頭デモの禁止。
3.ストライキの禁止(労働条件・報酬に関し協同行動すること、“団結”に加入させること。同盟罷業において労務者を停廃させること)
4.軍人・警官、神職・僧侶、教員、女性の政治活動禁止。

神社局(元社寺局)が設立され、国家神道政策を司る。

1904年 日露戦争。

1910年 韓国併合。

1910年 総理大臣に直隷する拓殖局が設置され、植民地行政は内務省管轄を外れる。

1911年

大逆事件が発生(前年)。危険思想取締りのため、枢要地に特に専任警部を配置する。これを受け、警視庁に特別高等科(特高)が置かれる。

1918年

米騒動が発生。

1920年

社会局が外局として設置される。労働行政を司る。

1922年

日本共産党が創設される。この後社会運動の発展に伴い、北海道・神奈川・愛知・京都・大阪・兵庫・山口・福岡・長崎・長野などに特別高等科が設けられる。

1923年(大正12年)

6月 第一次共産党検挙事件。警視庁官房主事だった正力松太郎の独走と言われる。

1925年

5月 治安維持法が制定される。内務省は特別高等警察の元締として、思想犯や政治犯の取り締まりを監督。

1928年

3.15事件。1道3府27県で、共産党活動家の一斉摘発。

全府県に特別高等課が設けられる。主な警察署には「特別高等係」が配置される。

警保局(とくに保安課)が拡充強化され、思想警察を全国的に統轄することとなった。
府県の特高課長は直接に中央の保安課長と結びつき、その任免は保安課長に一任された。内務省の機密費も保安課長から直接に特高課長に送られていた。

1929年

4.16事件。約700人が検挙される。

1931年

警察精神作興運動。「陛下の警察官」の意識が強調される。

1932年 

共産党幹部の岩田義道が逮捕・虐殺される。

1933年

小林多喜二の虐殺。

1938年

1月 衛生・社会両局が厚生省として分離される。人事は内務省と一体のものとして運用される。

7月 内政会議(首相・蔵相・内相・文相で構成)が発足。内務省が主導して「国民精神総動員運動」の企画と指導を管轄する。

道府県庁内に総動員課・総動員事務局・事変課・時局課などを新設し、町村分会が隣保組織(部落会、隣保会)を組織した。

7月 産業報国連盟が発足。警察組織を中核として企業単位産報を組織につなぐ。

 

1940年 

大政翼賛会が発足。知事が翼賛会の地方支部長を兼ね、内務省による政治支配が完成。

1941年

治安維持法全面改正。予防拘禁制が実施される。

防空局が新設される。

 

4月 「国防保安法」が制定される。国防上、外国にたいして秘匿を要する重要な機密を保護することを目的とする。刑法以外に特別に重い刑罰が課される。政治的・思想的弾圧の手段として利用された。

12月 「言論出版集会結社等臨時取締法」が公布される。時局に関する「造言飛語」「人心惑乱」行為を処罰するもの。その内容がたとえ事実で、確実な根拠にもとづくものであっても処罰される。

1942年

2月 「戦時刑事特別法」が公布される。刑事手続について特別の取扱いを定める。「宣伝」行為処罰の規定では、「戦時に際し安寧秩序をびん乱する宣伝したる者」を実刑に処する。

 

 

1942年

拓務省が廃止され、植民地行政も内務省に一元化される。

1947年

5月 日本国憲法が制定。都道府県知事を公選制とするなど地方行政

の転換がなされる。

12月31日 内務省、GHQの指令により廃止・解体される。

 

 

 

 

昔とったYouTubeの田川寿美の音源が、流石にひどいので、新しい音源を探してみた。
最近はそれなりにメジャーになっているようで、はるかにたくさんの音源がアップされている。
実感として言えば、田川寿美は美空ひばりになりつつある。
違うところは、美空ひばりはともすれば下品になるのに対し田川寿美はともすれば上品になりすぎるところだ。
熱烈なフアンがいて大量のエアチェック動画を上げてくれている。これをずっと見ていると、2003年から05年にかけてが転換期になっているようだ。
1975年生まれで、今年40歳。92,3年からデビューして最初の数年は紅白に出たりして売れっ子だったようだ。その後売れなくなっていろいろやっている。
まず二重まぶたの整形をやって、しばらくしてから鼻もやっている。以前、「天は二物を与えず」と書いたが、いまはそれなりの顔になっている。
しかし一番の変化は発声法だ。おそらく03年から06年にかけてベルカント唱法を身につけた。しかもコブシもはるかに自在に操れるようになっている。
持ち前のやや太めのよく響く低音と、正確なリズム感は元からすごい。私が以前聞いて感心したのはその頃のものだ。
それに表情豊かで、絶対に崩さない中音域、そして頭声への切り替えと共鳴の会得で、とんでもない歌手になってしまった。
和服の時とドレスの時の発声の切り替え、細かいニュアンスの表現などただただ舌を巻くほかない。
日本歌謡界が生み出した最高の歌手ではないだろうか。(今日もいささか飲み過ぎた)

「企画展示 大久保利通とその時代」という展覧会が開かれているそうだ。
場所が千葉県佐倉市の国立歴史民俗博物館、展示資料の大半が書簡だそうで、とても見に行くほどの食指は動かない。
赤旗の文化面に短い紹介が載せられていて、その一節が面白かった。
慶応元年(1865年)9月 西郷隆盛あての書簡。多分この時西郷は薩摩で志士を束ね、大久保は京都に詰めていたと思う。
将軍、徳川家茂が第二次長州征伐を天皇に要請。これに対し天皇が出兵を命じる勅命を下した。薩摩は第一次長州征伐の時とは立場を変え、出兵を阻止すべく動いていた。その中心にいたのが大久保である。
紹介した米重さんによれば、
この勅命には天下万民が納得する正義がない。正義のない勅命は真の勅命ではない。
と大久保は書いているのだという。
この辺りから薩摩(大久保=西郷枢軸)の幕府離れが進んでいくのだが、その際の回転軸に「天下万民の正義」が据えられていたことは、一つの発見であった。
それ以上の新知識としては以下の行。
この書簡の写しは、土佐藩の坂本龍馬や長州藩にも回覧され、薩摩と長州が徳川幕府を倒すために手を結ぼうと接近するきっかけになった。
たしかに大量印刷が広がっていない時代、手紙の意義ははるかに大きかったのだろう。したがって、手紙といえども決して私的なものではなく、多くの者に回し読みされ、拡散されることを前提に書かれていたに違いない。そのような事例は世界史の中にいくらでもある。
この手紙は大久保の宣言である、と言える。同時にこれを読んだ西郷が、おそらくはその趣旨に共鳴するだろうということを全体に書かれているはずだ。
現にそれは各藩の志士に拡散し、大きな潮流を形作っていった。この宣言は、大久保こそが明治維新に動いていく流れの先頭に立ち、その方向(尊皇攘夷にとどまらない)を切り開いたことを示している。

京都精華大学の白井聡さんという方が、赤旗のインタビューに登場し、鮮やかな切り口を見せてくれている。
77年生まれというから私より30歳も年下だ。文脈から判断すると、多少民主党に肩入れしているようだ。「たしかにそういう人でないと切れない切り口だな」、と感心する。
記者の「立憲主義を回復するために、何が必要でしょうか?」という質問に対する答え。
2009年の「政権交代」の時には、市民の側はまだ、「傍観者」「観客」という面があったと思います。
「なにか面白いことをやって見せてくれ」というお任せ的なところがあった。
ところが「民主党政権は全くつまらない」といって見捨てたら、自民党が復活していま大変なことになっている。
と状況を評価したうえで、
主権者としての国民が姿を現すことが重要です。
とうちだす。
そのうえで、09年当時との主体的状況の違いを次のように表現する。
市民社会が目覚め、「傍観者では駄目だ」と、ますます多くの人が気づいています。
そのような形で市民運動が力を持ち始め、政党政治を動かしている。共産党の「国民連合政府」提案もそこから出てきました。
と、市民運動の帰結としての「国民連合政府」提案を位置づけている。つまり提案者は共産党であるにしても、それは総体としての市民運動の提起なのだという観点である。
これはある意味で「否定の否定」という弁証法なのだろうと思う。
実はこの一節が非常に気に入ったのは、大阪の選挙結果をどう評価しようかと悩んでいたからでもある。
維新というのは「なにか面白いことをやって見せてくれ」というお任せ的な劇場型運動である。
09年の市民の意識水準を大阪という場で再現しているところがあるのだろう。(もちろん維新の本質は極右であり民主党とは似ても似つかぬものであるが)
そして今度の大阪の選挙は、国民の多くがまだ09年の「傍観者」「観客」水準を越え得ていないことの表現として受け止める必要があるのだろう。
国民の多くが現状の変革を望みつつも、「傍観者」「観客」にとどまる限り、政治の方向は乱高下を繰り返す。しかしその中から否応なしに主体者としての市民が生まれざるを得ない。
そこには批判や論争による説得ではなく、行動への説得、そしてなによりも展望(国民連合政府)による説得が必要なのだろう。

日本人の起源 ミトコンドリアDNAによる分析

久しぶりの赤旗かため読み。16日と本日付の科学欄に見逃せない記事。

題名が「DNAから見えた日本人の起源」、篠田謙一さん(国立科学博物館)のインタビューをまとめた間宮利夫記者による相当な分量の記事だ。ただしDNAといってもミトコンドリアDNAの話で、ゲノム解析ではない。

話は多岐にわたるが、いずれもちょっと中途半端で、後から補充が必要なようだが、とりあえず記事をさらっておく。

1.ミトコンドリアDNA解析とゲノム解析

まずはミトコンドリアDNA解析の意義から。

DNA解析と言っても3つの解析法があることは周知の通り。ミトコンドリアは「イブ・セオリー」で有名になったが、現在ではゲノム解析の補助的手段と考えられている。

ただ、細胞核に比べてミトコンドリアのほうが残りやすいという優点があるようだ。それと、先行しているだけにデータの蓄積が豊富で統計的手法が取りやすい。

そういったことから、まずはミトコンドリアDNAで一定の予測を立て、ゲノム解析で確定していくという作業工程が目下の主流のようだ。

2.縄文人のミトコンドリアDNA

ミトコンドリアDNAは母方の祖先を探るものだが、大本はイブとしてもかなりの種類の祖先があり、日本人だけに限っても20以上の祖先(ハプログループ)が想定される。

まず結論から言うと、①最終氷期最寒期の北方からの移動、②4万年前以降の朝鮮半島からの移動、③4万年枚以降の南方から沖縄への移動、という3つの集団が日本人の基層となっている。

そして、これらの混合したものが縄文人となる。(ただし単一の人種というほどには混合していなかった)

縄文時代に日本に住んでいた人は、この三種にとどまらず、さまざまな時期にさまざまな人がやってきて、全体として縄文人を形成していた。

この記事でもっとも問題なのは、北方からの集団がN9b、南方がM7aとハプロタイプを同定されているにもかかわらず、朝鮮半島からの集団のハプロタイプが記載されていないことだ。
もう一つは南方系の頻度が比較的高いこと、北方系の比率が予想外に低い(4.6%)ことだ。この事実は私の積み上げてきた体感覚と相当食い違う。

3.弥生人のミトコンドリアDNA

弥生人というのが朝鮮半島から渡来した集団であることはほぼ確実であろう。D4aが縄文人から検出されていないことを考えると、彼らがD系のミトコンドリアDNAを持ち込んだことも間違いあるまい。

ということで、この点に関しては「二重構造説」を支持する所見である。

弥生時代以降の縄文人と弥生人の混合についても、従来説のとおりで、鎌倉時代に混合が完成するという説にも格段の異議はない。

4.アイヌ人と琉球人

アイヌは縄文人とは異なり、5世紀から10世紀にかけて北海道に流入したオホーツク人である。彼らはミトコンドリアDNA解析でYグループに属するが、これは北海道の縄文人には見られないものである。

アイヌ人が遅れてやってきた集団であることは多くの研究が示唆している。しかしそこまで遅れているとは予想外であった。
このことは東北で大和朝廷に滅ぼされた蝦夷が、アイヌ人ではなく縄文人であったことを示唆する。すなわち東北~北海道にかけては南から順に弥生人、縄文人(蝦夷)、アイヌ人という住み分けになっていたことになる。

琉球人(沖縄の縄文人)が南方系のM7aを特徴とするというのは、「あぁそうですか」という以外ない。本土の縄文人が沖縄まで展開していたと考えていたが、たしかにあまり根拠はなかった。

ただ、これについては台湾の歴史的人種構成がどうなっていたのかの解析がないと、納得はできない。たしかにマレー系の北進は台湾(バシー海峡)をもって途絶しているのである。

港川原人は高砂族(マレー系)に繋がる系譜で捉えられると思うが、縄文時代に台湾の多くは大陸からの渡来民に占拠された。しかし先島諸島や沖縄本島に孤立して南方系が取り残された可能性はあるだろう。

5.二重構造説の新段階

二重構造説(埴原)の核心となるのは二つの仮説である。

ひとつは縄文人は南方起源であること、そしてもう一つは朝鮮半島から弥生人が侵入し縄文人と混合して現在の日本人を形成したことである。

後者についてはほぼ確定したものと考えて良いであろう。しかし前者については強い疑問があり、むしろ否定的な見解が多いのではないだろうか。

これに対し、篠田さんはミトコンドリアDNA解析に基づいて縄文人三方向説を唱えた。しかし南方人は九州・本土に至っておらず、朝鮮半島人はこの記事を見る限り根拠のない主張である。

そして北方系渡来集団についてはきわめて低い評価しか与えられていない。これは北海道人の僻みだろうか。

鍵となるのは、ある程度期間を限定された大量の集団的流入であり、定着である。

長期に見たアクセスの経路としては朝鮮半島がもっともふさわしいので、ここからは絶えず流入があったと考えられる。しかし縄文文化が花開いたのは関東から東北、南北海道にかけてであり、その担い手が朝鮮半島経由であったとは考えにくい。

ということで、残念ながらこれまでの文献に比べて高い評価を与えるわけには行かないのである。

以下参考までにこれまでの記事

ワシントン中東政策研究所のサイトの PolicyWatch 2356

Explaining the Turkish Military's Opposition to Combating ISIS

Ed Stafford January 15, 2015

という文章の要約

日本語にすると「トルコ軍がISISとの闘いを嫌う理由」ということか。

 

リード部分

アンカラの政府はISISとの闘いに踏み切った。しかしそれは政治的な決定であり、軍はAKP、PKKとアラブへの伝統的な嫌悪感を抱き続けている。それはトルコのアラブ介入に対する強力な障害となる可能性がある。

イントロ部分

「トルコはなぜISISと戦う連合に積極的にかかわろうとしないのか?」 

これに関する議論は、殆どが政府の政策形成過程における軍の役割を黙殺している。

一つには、これは与党である正義進歩党の軍部抑制策を反映している。正義進歩党は2002年以来、政策形成過程における軍の役割を弱めてきた。そして国家情報機構(MIT)の影響力を強化した。これが対シリア方針に影響している。

しかし軍隊がISISとの戦いを渋るのには他にもいくつか理由がある。

それは何十年も前から存在し、深く根を下ろした理由である。すなわち軍の政治的指導力が低下していることへの恨みである。

このような視点は、AKP支配層以外の政治的にアクティブな人の間に共通したものとなっている。

エルゲネコンの凋落

Ergenekon is the name given to an alleged clandestine, secularist ultra-nationalist organization in Turkey with possible ties to members of the country's military and security forces.

2007年、AKPは軍指導部に対して一連の裁判を開始した。軍はトルコでの非宗教的な政治勢力のチャンピオンを自認していた。

2003年に発生したクーデター計画を機に、政府は検察権力と警察を動員し軍の押さえ込みを図った。

軍と非宗教主義者の連合が文民支配を覆そうとして邪悪な計画を企んだとされた。

「Ergenekon」裁判で、検察側はクーデター計画についての完全で納得のいく論拠を示せなかったが、それにもかかわらず政府は多数の非宗教的な野党の指導者と何百人もの軍幹部を投獄した。

全将軍のうち4分の1が獄に繋がれた。2011年8月に、軍隊の高級将校は大挙して辞任した。それはAKPの権威への服従するという暗黙のシグナルだった。

これを受けた政府も、軍隊をなだめる努力をおこなった。Ergenekon容疑者ほぼ全員が釈放された。

しかし軍の指導者たちは敵対心を捨てていない。政権担当者への感情は、ほとんど“受動的攻撃性”と言っていいものがある。彼らは多くの軍事的案件について助言を与えることを事実上拒否している。それは軍事的情報を収集しシナリオを作成するだけでも監獄に送られるという将軍たちの確信によってもたらされている。

クーデターの容疑が真実だったのかどうかは別にして、多くの高級将校はいまも確信している。「同僚たちは罪を捏造された。彼らはただたんに国内外の敵から国を守る計画を作成しただけだ」と。

クルド民族主義者への蓄積された憎悪

軍指導部はまた、クルディスタン労働者党(PKK)との平和を確保するという政府の方針に敵意を抱いている。クルド人ゲリラは過去30年にわたり何千人もの軍将兵を殺害している。

2011年、エルドアン(当時は首相)はクルド人グループとの和平会談を開始した。それはいまも続いている。

エルドアンはPKKとの対話の成功はイラクのクルド人地方政権との関係を改善し、クルド人を地域における重要な盟友とするという成果をもたらしたと信じている。

継続的な会談は国内の安定性の強化ももたらした。そして、6月の国会選挙でもう一つのAKP選挙勝利への道を開こうとしている。(これが目論見外れに終わり、今日の混乱をもたらしていることはご承知の通り:訳者)

軍の側から見れば、クルド人戦士への警戒心はますます高まりつつある。なぜなら彼らはクルド人社会が拡張するほど勢力を拡大し、PKKはそこから物的、精神的支持を受けて成長するからである。

40年前、PKKが武器を取り国家に対抗し始めたころ、トルコは軍事政権の時代だった。政府はクルド族を従属的な少数民族と見なしていた。そしてクルド族を独立したコミュニティと認めず、クルド語の使用を制限し、彼らの固有の歴史を否定する教育を行った。それらはすべて軍の非宗教的な民族主義思想の必要不可欠な一部であった。

この10年の間に、クルド人の人権状況は随分改善した。今では公的資金を供給されたクルド語テレビ・ネットワークが24時間放送を続けている。にも関わらず、多くのトルコ人はまだクルド族の民族主義を疑っている。特に軍の中枢と軍部よりの民間勢力内では、この立場は一般的である。

現在シリア北部ではISISと戦うクルド人がPKKと結び付きを強めており、これをしようという動きがトルコ国内にも強まっている。しかしこのような感情に対し軍はきわめて冷淡である。

アラブ人支援へのためらい

古い世代のアラブ人への憎しみは依然として残っている。

エルドアン大統領とダヴトグル首相は、中東における全てのスンニ派の自然な調和について語る。しかしオスマントルコ人帝国の500年にわたる支配は、トルコとアラブのスンニ派教徒の間に深い疑念を残している。

多くのトルコ人、とくに軍関係者は、過去の1世紀を西欧に支援されたアラブ人による一連の裏切りの時代として振り返る。例えば第一次世界大戦の時、アラブ人の指導者たちはイギリスと組んでイスタンブールに反旗を翻した。

2012年、シリア国境の町アクサカレでシリア軍の誤爆により5人のトルコ市民が犠牲となった。その直後に著者は一人の知識人(非宗教主義)と話す機会があった。彼はこう言い切った。「彼らはトルコ人ではない。アラブ人だ。我々にとって、それがなんだ?」

たしかにトルコ軍は軍事的にその攻撃に応じた。しかし報復は抑制されたものだった。いま同じように、軍将校の一部は多国籍の反ISIS作戦に加わることにも抵抗している。そこには根深い反アラブ感情が根ざしているように思える。

軍のかかえる懸念

トルコ軍の海外派兵はその属する政府の指令によるものであり、しばしば誤って語られるように米国やNATOの指示によるものではない。

トルコ軍は本質的に保守的な組織である。かれらは朝鮮戦争でのトルコの犠牲者数の多さについての国内で攻撃されたことを覚えている。トルコ軍はアフガニスタンでは戦闘任務を拒否した。

将軍たちの懸念は他にもある。それはISISやシリア軍と戦う場合に軍事技術上の弱点、あるいは作戦上の弱点が暴かれることについての懸念である。それは大衆の軍部離反を促す可能性がある。そしてエルドアンに対する政治闘争を継続する上での利点を失うことになる。

例えば2012年6月にトルコのジェット戦闘機がシリア軍により撃墜された事件は、そのような懸念があからさまになった手痛い事件であった。

結論

トルコがISISと戦うかどうかを決めるのは政治的な選択である。しかし、それはコバネでクルド人と肩を並べて戦えということであり、シリアに安全地帯を設置しアラブ人を保護せよということだ。軍の指導部にその選択を納得させるのは至難の業であり、そう簡単にことが進むとは思えない。


今年初めの記事なので少し古いです。しかも米国務省のシンクタンクのレポートなので、軍の立場に対してきわめて同情的ですが、事実関係については参考になると思います。6月の国会選挙の前がどうであったのかを知る上では、かえって有用かもしれません。

6月の選挙の結果は、エルドアンにとってだけではなく軍部にとっても予想外のものだっただろうと思います。それはリベラル派の進出を計算に入れていなかったためのものです。

2003年のクーデター計画の発覚後は、軍事独裁の再現を防ぐためにリベラル派もふくめ圧倒的な国民がエルドアンを支持しました。その結果、エルドアンは果敢な行動により軍の抑圧に成功し、EUの支持も取り付けて強固な基盤を確立することができました。

さらに権力基盤を強化するためにクルド人にもウイングを広げ、クルド人もこれに応じたことから、エルドアンの人気は不動のものとなりました。しかしその底では、リベラル派の急速な勢力拡大が進行していたのです。またイスラム原理主義への反感からエルドアン離れも進みました。

6月の選挙で明らかになったのはもう一方の主役としてのリベラル派の登場でしょう。選挙前にはエルドアン、軍部、クルドという3極構造であったのがエルドアン、軍部、クルド+リベラルの三極となりました。

これに応じて軍は立ち位置を代えオプションを変更する必要に迫られました。これは未だに進行中と思われますが、反クルド・反リベラルの路線を取るならば、従来以上にエルドアンとの距離を縮めなければならないし、反宗教・非アラブの路線を取るならクルドやリベラルに対する抑圧的態度を修正しなければなりません。

そこで両者の「不人気投票」が行われ、結果的には前者の路線を採択したのだろうと思われます。

なお「リベラル派」と便宜上一括しましたが、そのような呼び方はなく、果たしてそのような潮流が確固として存在しているのかどうかもわかりません。前後の状況からしてそういう親EU的な勢力があるだろう(とくに出稼ぎ労働者)と言う作業仮説に過ぎません。もう少し調査が必要のようです。

ディノラ・ヴァルシの全集が出るそうだ。

Legacy summarizes this collection with 40 recordings, divided into the categories live, studio, talk, and film.

Promotion price until December 31st 99,- €, afterwards 119,- €

Here you can find the complete tracklist as PDF

だそうだ。

2004年には来日して演奏。その録音も含まれるようだ。

参考までに私のディノラ・ヴァルシ関連記事

衝撃のニュースだ。一番見たくないニュースだ。

年金財源の一つである年金積立金に一時、巨額の損失が発生した。その額は約8兆円という試算もある。

積立金を運用する「年金積立金管理運用独立行政法人」(GPIF)は昨年来、運用益を増やそうと、株式での運用比率を高めてきたが、それが裏目に出た(毎日新聞 11月13日)

いつかは来るかとは思ったが、もう来てしまった。

残念ながら生命保険と違って年金は解約できない。ほとんど税金みたいなものだ。どうせもらえるわけのない「年金」だから、泡と消えても惜しくはない。しかし介護保険が潰れると、飯の種がなくなってしまうことは間違いない。年寄りの死体が街中にごろごろし始めることは間違いないだろう。

我々の年金を使って博打をやっている奴がいる。この博打は絶対勝ち目がない。買いしかないからだ、パーしか出せない人がじゃんけんで勝てるわけがない。敗けないためには掛け金をどんどん大きくしていくしかない。

こういうのを「カモ」という。

gpif


11月12日 朝日新聞

放送倫理・番組向上機構(BPO)放送倫理検証委員会の川端和治(よしはる)委員長は「放送法を根拠にした 放送への政治介入は認められない」と主張した。

BPO放送倫理検証委員会は、NHK「クローズアップ現代」の放送倫理違反を指摘した。この意見書の中で、政府や自民党を批判した。

これに対し、安倍晋三首相や高市早苗総務相らが反論した。

検証委員会の川端委員長は、要旨以下のように反論した。

放送法が倫理規範であるということは、ほとんどの法律学者が認めている。

一方で、放送免許の許認可権を持つ総務省、旧郵政省は放送法に法規範性があると考え、その立場から行政指導をしてきた。

我々との間には立場の違いがある。そのことは十分承知している。

我々が「倫理規範」と解釈する理由は、放送法が成立した経緯にある。

放送法は1950年に国会に上程された。その際の趣旨説明では 「放送番組に対する検閲、監督等は一切行わない」と述べている。

つまり、「政治権力が直接規制を加えるならば、表現の自由を保障する日本の憲法のもとでは問題がある」という判断だ。それは戦前の日本の言論統制に対する反省にもとづいている。


上記の記事は、「クローズアップ現代」問題が分からないと、いまいちピンとこない。

これについても朝日新聞が報道している。(11月7日)

NHK「クロ現」過剰演出は「重大な倫理違反」 BPO

1.「クローズアップ現代」過剰演出の中身

昨年5月に「出家詐欺」という番組が制作・放映された。

この番組は、多重債務者がブローカーの手引で出家することによって、債務を免れる手法について報道したもの。

出家詐欺のブローカーの活動拠点を多重債務者が訪れ、出家について相談するという場面。初対面のようなやりとりをするが、実は2人は旧知で、場所も多重債務者が管理するビルの空き部屋だった。

というから、過剰演出というよりほとんど“芝居”に近い。

この点についてBPOが指摘し、NHKもこれを受け止め再発防止策などの手立てを講じた。

ということで、基本的にはこれで決着のはずだった。

2.政府の「行政指導」

ところがこれに政府・自民党が噛み付いた。この記事だけからでは良く分からないが、“高市早苗総務相がNHKを厳重注意し、自民党がNHK幹部を呼んで説明をさせた”らしい。

そこでBPOは政治の干渉を重大な問題と受け止めた。そして報告書の中で政治干渉を厳しく批判した。これが問題が大きくなったきっかけである。

委員会の政府批判は次のような柱からなっている。

①高市総務相の“厳重注意”は、「報道は事実をまげない」など放送法の規定を根拠にしている。

②しかし、これらの条項は放送事業者が自らを律するための『倫理規範』であって、政府が介入するべき法規範ではない。

③政府が放送法の規定に依拠して個別番組の内容に介入することは、(放送法の趣旨から見て)認められない。

④したがって、総務相による「厳重注意」は、放送法が保障する『自律』を侵害する行為である。

⑤高市総務省とは別に、自民党情報通信戦略調査会もNHKの幹部を呼び番組について説明させた。これも「放送の自由とこれを支える自律に対する政権党による圧力そのものである。

なお、検証委員会が国や与党に異議を表明するのは、発足いらい初めてのことだそうだ。

3.事態はのっぴきならなくなっている

高市総務相はBPOに対し早速反論している。

「厳重注意」はあくまで行政指導だ。いきすぎたとも拙速だとも思っていない。あくまでも要請であり、受けた側の自主性にゆだねるもの。法的拘束力はない。


此処から先の経過、一方における安倍首相の暴言、他方における民放連会長の決意表明は、いったん稿を改めたほうが良さそうだ。

非正規社員が4割を超えたそうだ。

そんな中で、泣けてくるような笑い話。これは沖縄タイムスの記事だ。

とても良い記事なので、ぜひ元記事2015年11月11日)を参照してください。

「官製ブラック企業」  ハローワーク職員の7割が非正規

沖縄では、安定雇用を働きかけるハローワークの職員7割が非正規だ。彼らには労働契約法などの法律が適用されず、正社員登用の道もない。

HW

上図は沖縄県内の非正規雇用率を比較したもの。ハローワークでは圧倒的に非正規率が高いことがわかる。

非正規のため公務員法に基づく身分保障がない一方で、労働契約法やパートタイム労働法など民間で働く非正規労働者のための法律も適用されない。

次年度も働き続けられるか決まるのは、契約終了の1カ月前の公募試験。

筆記試験はなく、面接が中心だ。なぜあの人が受かり、あの人が落ちたのか。合否の基準は「よく分からない」のが実情。

限られた定員をめぐる公募試験の倍率は3倍前後。「まるで椅子取りゲーム」だ。毎年1~2割の同僚が公募に落ちて職場を去り、送別会の準備に追われる。

「職場の誰かが公募を辞退してくれれば、自分は次年度も残れるかもしれない。いけないと分かっていてもそう思ってしまう。職場の空気は悪く、本当につらいです」 と、県内HWで働く女性の非正規相談員は語る。

これって、全国共通なのか?

Ⅰ 道東勤医協退職から老健施設勤務まで
Ⅱ 老健と病院の違い
   逃げられる嬉しさと、逃げられないヤバさ
Ⅲ 医者はお客さん
   厳しい経営、それ以上に厳しい職員の生活
   割り切りと、“見て見ぬふり”
Ⅳ 老健の“医療”
   厳密に言えば医療ではなく“保健”だが…やっていることは医療
Ⅴ 介護報酬改訂と財政審答申
   報酬なき労働強化の押し付け 訪問診療の規制、通所リハ会議の強制
   「潰れればいいんでしょう」路線 小規模デイケアつぶし 貧困ビジネス化の強制
Ⅵ 突然のアクシデント
   詳細は当日

みんなが力いっぱいチャレンジして、時には危ない橋も渡って、成功して、お金をウンと儲けるというのは悪いことではない。それは否定しない。(ただ我々にはそんなチャンスはないから、それほど積極的に褒めそやすほどのことではない)
中には、これを「社会の掟」と勘違いしている人がいる。「弱肉強食は世の習い」とか「貧乏は自己責任」とする主張だ。
それは社会の掟ではない。それはジャングルの掟であって、人間の社会はジャングルの掟で支配されないからこそ人間の社会なのだ。
社会の掟がまずあって、その範囲内で、社会の掟を壊さないかぎりにおいて、「闘いの掟」が成り立つ。ボクシングの殴り合いとかボールの奪い合いと同じようにルールがあって、その範囲内で好きなように稼いだりすれば良いのだ。
そこを善意で勘違いしている人もいれば、悪意ですり替えている人もいる。中にはルールそのものを変えてしまおうという人もいる。
その社会の掟を表したものが憲法の第3章だ。第3章は国民の権利という形で表現されているが、それは義務でもある。世の中にはそれらの権利を守らなければならない義務というものがある。それが「国の義務」という形で表現されているのだ。
この第3章の精神を守る限り、何をしようと勝手だ。それが自由主義というものだ。それが外国(外国の人々)に向かって開かれたもの、それが憲法九条の平和の精神だ。平和は国際社会の掟の核心となる、そういう確信が憲法9条を形作っているのだろうと思う。

ノーマ・フィールド 憲法9条は第3章の精神を基礎に読み込め』でとりあえず、彼女の言葉をそのまま引用したが、一度整理して置かなければならないだろう。

これまで私はこう考えていた。

憲法9条は割と価値中立的なところがあって、「武装放棄」が柱、その精神は憲法前文を読み解くことによって生きてくる、と。

それはそれとして正しいと思うのだが、そういう大上段に振りかぶる「そもそも論」ではなく、下からの積み上げ論も必要なんだなと思うようになった。

国民の市民的権利を擁護する中で、自ずから民主主義の精神や非暴力の思想が醸成され、その帰結として9条がもたらされるという論理が必要だと感じている。

というのも、満州事変に始まる15年戦争の戦争責任を問うなかで、戦争責任は大久保、伊藤、山形に遡って追及されなければならないことが分かったからだ。

もう一つは、戦争への道において、国内における反対の声、まっとうな常識を踏みにじり民主主義を圧殺してきた責任が、それ以上に問われなければならないということだ。

いま憲法第3章「国民の権利及び義務」・全31条をあらためて読んでみると、分かったのは、これらの条文が戦前においてはことごとく蹂躙されていたということだ。「戦争だからそうなった」のではなく、「そうなったから戦争になってしまったのだ」ということが、たしかに実感される。

この視点を持ち続けることはきわめて大事なことで、突き詰めると「戦争か平和か」ではなく「戦争か民主主義か」ということだ。


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