鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

2015年10月

長生きしている人には二通りある。元気で矍鑠として長生きしている人と、病気がちで頭がもうろうとして生きている人だ。

これは対立しているわけではなく、前者が徐々に後者に移行して、最後にあの世へと旅立っていくわけだ。後者のケースは前者に比べて少ない。高齢者が増えればその数も増えるが、比率としては変わらない。平均寿命が20歳も伸びたが、それによって増えたのは元気で矍鑠として長生きしている人だ。

後者のケースはさらに2つに分けられる。お金に余裕のある人とない人だ。残念ながら後者の比率が圧倒的に高い。そうなると貧しくて病気がちで頭がもうろうとしている人たちは、世間から持て余されることになる。なぜなら貧しい老人を支えている家族は大抵が同じように貧しいからだ。

老々介護が問題になっているが、問題はそうではない。大きな困難は貧々介護にあるのだ。

お願いしたいのは、こういう老人にできれば月20万円、せめて15万円は払って欲しいということだ(医療費は別で)。当節、元気な若者でもそのくらいはかかる。それに介護の人件費は上乗せして欲しい。こちらも「それでなんとかやってくれ」といわれれば、なんとかしてみようと思う。“安楽死”だとか、治療はしないで欲しいとか、そんな話はそれだけでなくなる。

私はときどき、お年寄りが“死んだふり”しているのではないかと思うことがある。誰しも、だんだんと笑わなくなって、怒らなくなって、喋らなくなって、そして食べなくなってという経過を取るのだが、本当にそれが自然経過なのだろうか。それは強いられた経過なのではないか。

以前、熊の冬眠の話を書いたことがある。地球温暖化で彼らの生息場所も徐々に暖かくなってきた。そうすると冬眠せずに冬を過ごしてしまう熊が増えてきたという。生物の本には「彼らが自然に適応して冬眠という手段を身につけることでみごとに自然の脅威を克服した」みたいなことが書いてあるが、彼らは決して好き好んでそうしているわけではない。冬眠したあと目が覚めてくれるか、そのまま死んでしまうかは運任せだ。生き残る可能性がかなり高いからこそ「冬眠」なのであって、そうでなければ自殺行為だ。

お年寄りの「喋らなくなって、そして食べなくなって」という経過も、同じように強いられた経過である可能性がある。だから我々はぎりぎりその変化を見極めなければならない。本当に我々はするべきことをしたのか? し残したことはないのか。もっと早めに手は打てなかったのか。

京都大学の木下専助教授らが分かりやすい図を作ってくれている。「パーキンソン病の病態に迫る」というプレスリリースで、素人向けの簡単な解説だ。

パーキンソン病というのは、平ったく言うと、中脳にある黒質という神経細胞集団が衰えてしまうために、運動能力が落ちてしまう病気だ。

中脳の黒質は「運動せえ」という命令を出す。この命令は神経線維を伝わって大脳基底核の線条体というところに達する。そこで大脳の処理も加えて全身に命令を送り出す。

この際命令を伝えるメッセンジャーとなるのはドパミンという物質で、これが枯渇してくると(1割位と言われる)、命令が伝わらなくなってしまう。これがパーキンソン病だ。

昔、私が学生の頃はこの黒質→線条体経路は錐体外路系と言って、なにかアクセサリーみたいな扱いを受けていたが、そんなものは嘘っぱちだということが分かってきた。三位一体を説くマクリーンの呪いのひとつだったのだ。

私の「3脳セオリー」にもとづけば、中脳こそが運動に関わる生物進化の王道であり、他の経路はバイパスにすぎない。ただ5感の中で視覚だけが飛び抜けて発達するようになると、どうしても視覚による補正を受けなくてはならなくなるので、行動の当否を評価するシステムの介在が必要になったのだと思われる。

話を戻す。

この黒質の神経細胞の中にシヌクレインが溜まってくる。そして他のタンパクを巻き込んでレビー小体という封入体が出来上がる。このレビー小体が直接悪さをしているのかどうかは分からないが、とにかくそれが増えるに従ってドパミンの分泌が落ちてくる。

それを図示したのが下の図だ。

病態モデル

シヌクレインというのはAβ(アミロイドβタンパク)と違って本来は悪者ではなく、脳に必要な蛋白らしい。それが何かの都合で変性してしまうと細胞死に繋がる。中には編成したシヌクレインを取り込んだまま生き延びている神経細胞もあって、それがレビー小体として表現されている、というのがこの図のあらましである。

木下先生たちは、シヌクレインが編成するのにはSept4というもう一つのタンパクが関係するようだということを主張しているのだが、それはとりあえず置いておこう。

なおこの文章の下には簡単な用語解説がついていて便利だ。これも転載しておく。

(注2)α-シヌクレイン:
 神経終末に大量に存在する機能未知の蛋白質で、レビー小体の主成分として知られている。遺伝性パーキンソン病の原因遺伝子産物の1つである。

(注3)レビー小体:
 パーキンソン病などにおいて神経細胞内に形成される封入体で、なかでも黒質ドパミン神経細胞内に形成されるものは円形で均一、同心円状の芯を持つ。変性したα-シヌクレインを主成分とし、副成分として複数の蛋白質を含む。

(注4)シヌクレイン病に分類される疾患群:
 パーキンソン病の大部分、レビー小体型認知症、多系統萎縮症の一部

(注5)ドパミン神経細胞 (ドパミンニューロン):
 ドパミンを神経伝達物質とする神経細胞。細胞体は中脳腹側部(黒質)に存在し、線条体や大脳皮質などに投射した神経終末からドパミンを放出する。パーキンソン病においては、ドパミン神経細胞の選択的な機能障害や細胞死が起こる。

(注6)セプチン:
 細胞骨格系を構成する一群の蛋白質。アクチンやチューブリンなどの細胞骨格蛋白質と協調して、細胞分裂や細胞形態形成に関与する。ヒトのセプチン遺伝子Sept1-Sept13に由来するセプチンのほとんどは脳に多く含まれる。

最近の不破さんの話はまことにスリリングで、どう受け止めたらいいのか、戸惑いを感じてしまうほどである。

要するに、とにかく「伝統」と呼ばれるものからスターリン的要素を剔抉して、徹底的に浄化しようということに執念を燃やしている。その迫力はこれまでの「反スタもの」に比べて格段の違いがある。

本日の「本と私」という党外の人に向けた講演でも、その思いは一貫している。

その中で、「うーむ」とうなった箇所を上げておく。

1949年の11月、新中国の誕生直後に北京で開かれたアジア太平洋州労働組合会議で、劉少奇が武装闘争の大号令をかけたんです。
翌年には、いわゆる「50年問題」で、日本共産党への武装闘争方針の押し付けが始まりました。
私たちは、そこに劉少奇演説の流れを見ていたのですが、この本 の第1冊に劉少奇のスターリン宛の手紙(49年8月)があり、“労働組合会議で武装闘争を呼びかけるのは反対だ”と訴えていました。それをスターリンは押し切ったのです。

ここでこの本 と言っているのは、2007年に不破さんが北京に行ったとき、たまたま本屋で見つけたという「建国以来 劉少奇文稿」である。

毛沢東以前の中国共産党について勉強したが、“お殿様の言うことは何でも飲み込む”姿勢は、中国共産党の習い性となっている。清朝時代の“美風”をそのままに引きずっている。近代市民文化の未成熟がその背景にあるのだろう。

それがスターリン主義を増長させた。酷な言い方だが、結局のところその“美風”は、客観的に見れば“下からのスターリン主義”と批判されても仕方ない。

ただその組織が国を支配するようになってくると、そこから抜け出す自由はもはやない。“美風”は“悪風”となる。そして劉少奇自らがその犠牲となった。

“悪風”は、最後は自分たちで克服していくほかないのである。


どうも書いていて、我ながら隔靴掻痒の感がある。

中国の伝統として白髪三千丈的な表現がある。言葉が踊るのだ。

だから言葉と実際の感情の間には乖離が生じることがある。それがスターリン的な荒っぽい表現を加えたために、一層それが激しくなる。それを外部の人間が見ると、とくに日本人だと非常に激しく受け取ってしまう。

事実としては、陳独秀も瞿秋白も李立三も、悪しざまに罵られ、指導部のポストを追われた。しかし党には残り、何時の日か再起している。あの王明ですら、革命後は政府の要職を務めている。

だから、政権交代劇はひょっとするとコミンテルンの顔を立てるために行われたにすぎないのかもしれない。

ということは、コミンテルンの指令は一応は受け取られるが、意に沿わないものであればいずれは破棄するつもりだったかもしれない。ただやるのであれば本気でやらなければならない。「それが民主集中制というものだ」ということか。

劉少奇にもその傾向がうかがわれる。勤工検留学生上がりに特有の気質かもしれない。

そこへ行くと王明は結構本気だった。彼の讒言で多くの活動家幹部が粛清されたり、敵に売り渡されたりしている。康生はもっと本気(むしろ狂気というべきか)だった。浅間山荘の連合赤軍連中のように、言葉と行いの間に隙間がなかった。

最近では多系統萎縮症はGCI蓄積病として総括されるようだ。これが大別するとP型(パーキンソンなど)とC型(脊髄小脳変性症など)になる。

つまり、多系統萎縮症はパーキンソン病と脊髄小脳変性症の中間に位置する、ということになる。

長年、神経学の果てしなく続く病名に悩まされてきた私としては、まことに同慶の至りである。

これに代わり、遺伝子屋さんがまたジャングルを形成しつつあるが、根っこさえしっかりしておけば、あとはそれぞれの持場でしっかりやってくれればよい。

ただ遺伝子学そのものは、未だ星雲状態で、そこには現象的認識の果てしない空間が広がっている。

脊髄小脳変性症という病気は、気の遠くなるほどの亜種を含んでいる。

1969年、Graham らは脊髄小脳変性症のうちオリーブ橋小脳萎縮症、線条体黒質変性症、Shy-Drager症候群を包括して「多系統萎縮症」と称するよう提唱した。その理由は省略する(正直のところ良くわからない)。

ところが、1989年 Papp ら、多系統萎縮症では例外なく オリゴデンドログリアに嗜銀性封入体が出現すると報告した。これは異常フィラメントが集簇した構造物である。なぜ今ごろになって見つかったのかというと、通常のHE染色では染まりにくかったからである。これに銀の入った特殊な染色液をかけると、「透明人間」が見えるようになった。

GCI

       IGAKUKEN [Neuropathology Database]より

その後、この染色法で調べていくとグリア細胞の核内にもGNIと呼ばれる封入体が発見された。さらに本体の神経細胞を調べていくと、細胞質内にNCI封入体、細胞核内にNNI封入体、神経突起内にneuropil threads という封入体が発見された。実は多系統萎縮症の脳は封入体だらけだったのだ。

研究者たちは色めき立った。アルツハイマーにおけるアミロイドやタウのように、これら5種類の封入体がが神経細胞脱落をもたらすかも知れないと考えられるからである。

「多系統萎縮症」と無理やりまとめたが、もともと3つの疾患を強引にまとめた病名で、どこかの政党並みに出身派閥がある。ところが病理学所見が一致すると、これらは実の兄弟だと分かったことになる。それだけなら、めでたしめでたしだが、どうもこの封入体が病気の原因になっているのではないかということになって、話はそれではすまなくなった。彼らが実の兄弟なら父親は誰かということになる。

その後の研究で、GCI封入体の本態がα-シヌクレインであることが分かった。アルツハイマーでアミロイド小体からAβ(アミロイドβタンパク)が同定されたのと同様である。これは衝撃の事実だ。パーキンソン病で蓄積されるレビー小体もα-シヌクレインである。MSA、パーキンソン病、レビー小体病は“αシヌクレイン症”という新たな疾患概念を形成することになる。

ただし、パーキンソン病ではグリア内蓄積はあるが核内蓄積は認められない。逆にMSAではレビー小体は形成されないなどかなりの違いはある。また他に封入体探しも進んでいて、ALSのブニナ小体、前頭側頭葉変性症のユビキチン陽性封入体、ピック病のピック小体などが報告されている。“αシヌクレイン”という苗字が同じでも血がつながっているとは限らないのである。

というわけで、いまや封入体の本態であるαシヌクレインをどの遺伝子がどういうふうに作っているのかに関心が集中しているようだ。アミロイドβタンパクに対するカスケード戦略がここでも再現されていると見てよい。

しかし、一足飛びに遺伝子に行くにはちょっと早すぎるような気もする。まず、αシヌクレインが本当に犯人なのか、どういうふうに犯行を行なっているのかがまだはっきりしない。遺伝子を検索するなら、多系統萎縮プローンの動物(あるとすれば)で、αシヌクレイン産生遺伝子をノックダウンして、多系統萎縮症が抑制できるかどうかも示して欲しい。

1.氾濫する憶測記事

“キューバ 国交回復”と入れて、グーグルで検索すると山のような記事にあたる。しかし数は多いが、中身は大同小異だ。

しかもうんざりするような話ばかりだ。

オバマの点数稼ぎ、政策転換により変革を促したい米国とか

経済苦境を解決したいキューバとか、ソ連なき後、孤立からの脱却を狙っているとか

これからキューバの人権問題が浮かび上がる、ビジネスチャンスを伺う産業界、

さらに言うなら、日本のメディアは本当はキューバなんかに興味はないのだ。欧米諸国でこのニュースがもてはやされるからお付き合いしているだけだ。

そういう連中の言うことを聞いていても、何の役にも立たない。

すみません。以後アメリカ・キューバ関係のことを米玖関係と書かせてもらいます。玖というのはキューバを漢字で書くと玖瑪となるからです。ちなみに米国というのはアメリカの漢字書きが亜米利加となるからです。

2.国際外交上の原則が確認された

なぜ米国交回復がそれほどまでに重大なニュースなのか。

まず言っておきたいこと、それは米玖国交回復が世界の外交の原則に関わっているからこそ、重視されているということだ。

それは経済封鎖という外交手段である。

これまでアメリカは国際外交の原則 を蹂躙し続けてきた。

それがもはや許されなくなった。そのことを明らかにしたから、その故に、このニュースは重大なのだ。

米国の側にどんな言い分があろうと、どんな歴史的経過があろうと、この外交原則は破ってはならないのである。

3.守るべき国際原則とは何か

それは国連の制裁解除決議に端的に示されている。去る10月28日には23回目の決議が採択された。反対したのは米国とイスラエルのみ。あの日本ですら賛成 しているのだ。

米国の対キューバ経済封鎖は、国連憲章、国際法、民族自決権、内部問題不干渉、国内政策の域外適用、自由貿易に反するものである。

ということで、やたらと引っかかっているが、根本的には「自由貿易の原則」の侵害なのであろう。

自由貿易は第2次世界大戦の反省の上に作られた原則で、弱者の保護を前提としつつもすべての国々の産業の基盤となっている。

問題は制裁という行為にあるのではなく、それを強大国が単独で、実力封鎖という手段で押し付けることにある。そのことが自由貿易の原則を著しく毀損することになる。

当然それは内政干渉にもなるし、民族自決権の侵害にもなる。これが米を除く全ての国の共通認識だ。

なお、日本のでは経済制裁(economic sanctions)と報道されているが、これはおそらくは意図的な誤訳であり、決議は取引禁止(Embargo)となっている。制裁は、どちらかと言えば“言うことを聞かせる”方に力点がある。せめて経済封鎖(economic blockade)というべきであろう。

主として澤江史子(上智大学総合グローバル学部) 「トルコ民主化の経緯」を柱に各種資料の情報を付加した。

1923年10月 トルコ共和国の樹立が宣言される。共和人民党の一党制が敷かれる。

1924年3月 大統領を国家元首とし、国民主権や世俗主義を柱とする国家建設が宣言される。(脱亜入欧)

1937年 世俗主義条項が憲法に挿入された。トルコ民族文化が国家の存立基盤だと考え、非トルコ系民族文化や、共産主義運動を主要脅威とみなし、抑圧した。

1950年 選挙による政権交代が実現し、民主党政権が誕生。第1位政党が当該選挙区議席を独占する選挙制度のため、民主党は国会で圧倒的多数を維持する。

1960年 

4月 民主党政権批判が高まる。民主党メンデレス政権は軍隊を動員して共和人民党の選挙活動を妨害し、メディアへの検閲体制を強める。さらに共和人民党を「無神論者」や「共産主義者」などと呼び、政治活動禁止、同党に関する調査委員会の設立を強行採決。全大学が閉鎖され,多数が秘密裏に拘束される。

5月27日 1回目のクーデター。護憲クーデターとしての側面を持つ。当時の陸軍総司令官であったギュルセル大将を担いだ青年将校グループが打倒。

5月 軍は民主党幹部を逮捕し、党の解散、国会の停止を宣言する。旧民主党幹部は懲役刑に、党首等3人は絞首刑に処せられた。

1961年 民政移管のための総選挙。「民主主義体制擁護の貢献者」として軍部の政治介入が正当化される。大統領は軍出身者が占め、軍幹部が終身議員に着任。4軍司令官よりなる国家安全保障会議に内閣への「助言権」が与えられる。

1970年 イスラーム復興運動が勃興。国民秩序党が創設される。新選挙制度のもと国会は小党分立状態となり、政権交代が繰り返される。

1971年 政治介入を示唆する軍首脳の書簡が大統領に送付され、内閣が総辞職に追い込まれる。「書簡クーデター」と呼ばれる。軍のアタチュルク思想からの離反。

1972年 ビュレント・エジェビトが共和人民党の新党首になる。党及び政治の民主化を主張し,軍の政治介入に反対する。

1980年 国民生活は年率100%を超えるハイパー・インフレで疲弊し、テロが激化。

政治混乱の直接の原因はイスラム勢力の増大によるものだった。イスラム派は建国の父アタチュルクを批判、世俗主義を否定した。これに対抗する左翼も勢力を伸ばす。両者の対立は武力衝突へと発展する。

1980年 2回目のクーデター(9月12日クーデター)。政治混乱と経済政策の停滞を理由とする。約3年の間、軍部による独裁政治が繰り返される。旧政党は全て非合法化されて幹部は懲役刑に処せられる。しかし軍の真の敵は共和人民党と左翼勢力だった。

1982年 軍政下に憲法が制定される。議会選挙は比例代表制で10%の足切り条項。「国家安全保障会議の決定事項を、内閣は最優先に考慮する」ことが明文化される。

1983年 総選挙が実施。軍事政権のチェックを通った政党と政治家のみが参加。

1987年 トルコがEU正式加盟を申請。これを契機にEUの民主化基準が外圧となり、これに沿った民主化が求められるようになる。

1987年 選挙プロセスが大幅に民主化され、野党の政権獲得も可能になる。

1990年 クルド語での出版や音楽活動が解禁される。

1995年 大学の学生や教員が政党の党員になる権利や、上級公務員が労組を結成する権利が認められた。

1995年 総選挙。親イスラームの福祉党が第一党となる。軍幹部の圧力で第二党の中道右派政党が政権を握る。

1996年7月 政権党の腐敗が発覚。福祉党を首班とする連立に移行。

1997年2月 福祉党のイスラーム復興の動きに軍が反応。国家安全保障会議は福祉党が国是である世俗主義原則に反すると批判。「体制の危機」を宣言。福祉党非合法化を始めとする復興勢力弾圧が実行される。福祉党幹部でイスタンブル市長のエルドアンも投獄される。

2002年 総選挙。中道右派とイスラム勢力の結集した公正発展党が勝利。

2004年 国家保安裁判所を廃止する憲法改正。メディア・教育への軍の関与も制限される。

2005年10月 民主化プロセスが認められ、EU加盟の最終段階である正式加盟交渉が開始される。

2006年 EUによる民主化の進捗報告書。軍幹部が政治的影響力を行使しようとして公式・非公式に政治的発言を行うことが続いていると指摘。テロ対策法が広範に解釈され、自由を抑圧する法的根拠となっていると警告。

2007年 総選挙。公正発展党は圧倒的な勝利を収め、単独過半数を獲得。

2008年6月 憲法裁判所、大学構内でのスカーフ着用容認の憲法改正を違憲とする判決。

2009年1月 国営放送にクルド語専門チャンネルが開設される。

2010年 憲法改正。①80年クーデターの実行者を起訴することが可能になった。これにより軍政期の拷問やパージ等の責任を司法で争うことが可能となった。②軍の人事についても思想・信条などを理由とする人事は司法に提訴することが可能となった。③司法人事も変更され、下級判事の意見が反映されるようになる。④高等教育やマスメディアの統制委員会における軍代表常任委員ポストが廃止される。⑤国家治安裁判所が廃止される。しかし言論の自由などの面でさらに実質的な改革が進むのかは不明確。

2012年 アンカラ第12高等裁判所が1980年のクーデターの首謀者の裁判を始める。被告はKenan Evren参謀総長とTahsin Şahinkaya空軍司令官(いずれも当時)の二人。

2013年5月 イスタンブールで民衆の抗議デモが盛り上がる。

エルドアンはイスラムの位置づけ、ケマル・パシャへの評価を明確にしないまま、スカーフ着用の緩和や酒類販売の制限などを進め、これに抵抗が起きると強権的に対処しようとした。

  

トルコ情勢を検討する際は、トルコ軍の野蛮さを念頭に置かなければならない。ここに触れていない解説記事は、基本的にはクソである。


たとえば、10月22日、アンカラでのエルドアンの発言はひどいものだ。

アンカラ駅前自爆テロ事件に関し、エルドアン大統領は、「アンカラ駅前で発生した事件は、テロをいかにして共同で引き起こすことができるかを示すものだっ た。そこにはDEAH(ISIL)も、クルド労働者党(PKK)も、アサド政権の諜報機関(ムハバラート)も、シリア北部のクルド民主統一党(PYD)も いて、皆で一緒になってこのテロを計画した」と語った。

誰が考えてもナンセンスの極みで、トルコ政府には情報収集能力が欠如していると言われても仕方ない。

しかし、あえて深読みすれば、このナンセンスさは、それが軍部による犯行だった可能性を暗に示唆しているのではないか(正しいかどうかは別)。

エルドアン個人の様々な思惑を推量しても始まらない。背後にいるトルコ軍部がどういうものなのかを、我々は理解しておく必要があるだろう。


1997年9月12日付けの新聞「ラディカル」はクーデター記念特集で,80 年9月から三年間の出来事として,次のような数字をあげている。

*拘留者総数 65万人(うち23万人が裁判へ)

*死刑求刑 7千人(うち517 人に死刑判決,49人が処刑される)

*非合法組織メンバーとして裁判を受けた者 9万8千404人

*要注意人物として記録された者 168万3千人(うち38万8千人にパスポート取得禁止措置)

*外国への亡命者 3万人(うち1万4千人がトルコ国籍を失う)

*不審死 300人(うち171人が拷問死,いまだに行方不明の者800人)

*刑務所のハンストによる死者 14人

*閉鎖された団体 2万3千667組織

*解雇者数 教師3千854人,大学研究者120人,裁判官47人

*左遷された公務員 7千233人

*解雇された公務員 9千400人

*発禁映画 937本

「ラディカル」紙が掲載したパージの数字は,国家の唯一の「守護者」となった軍が,その目的を遂行するための権力を行使するとどうなるかを示すものである。
70 年代の混乱の中で,国民の間には,軍に政治介入を求める期待感もあった。そして,クーデターによって,日常的に起きていたテロ騒ぎはなくなり,平穏な市民生活が戻ってきた。だが,その後の大規模な政治弾圧は,時代を暗い雰囲気にさせた。

アタチュルク,そして軍…現代トルコ〈非民主性〉の系譜より

 軍部独裁の経過については、次の記事に掲載しておく。

これらの蛮行を繰り返した軍幹部は未だにのうのうと暮らしている。彼らがもっとも恐れているのは左翼の伸長ではないか。アルゼンチンやチリのように軍の残虐行為が暴露され、その責任が問われることではないか。

80年代、トルコは中南米と並び人権侵害が甚だしく強い国だった。

しかし左翼のネットワークがつながらなかったために、真相はほとんど分からずじまいだった。アムネスティかほそぼそと断片的な情報が流れてきたが、全体像をつかむにはあまりにも情報が不足していた。

驚くべきことに、それは現在もなおそうである。

1.巨大な数をどう評価するか

各種情報を総合しても、なぜこれほど多くの人が弾圧されたのかは分からない。それどころか軍事独裁を賞賛する声すらある。

2.目的と数との不整合

左右両派が激突して政局が不安定だった、経済が停滞していた、国民が政争に飽き飽きしていた…

と理由はあげられている。それならクーデターで店じまいすれば終わりだ。おそらくそれから大量弾圧が始まったのだろう。

目的からすればこのような数は不必要だ。ピノチェトもアルゼンチンの独裁もたんに混乱を収集するためのクーデターではない。だからあれだけの数が必要だったのだ。トルコもおそらくそうだろう。

これについての説明がない。

3.「目的」と出口の不整合

左右両派の激突を避けるためというのが目標だったはずだが、弾圧の犠牲者は圧倒的に左翼だ。

ケマルの宗旨から言えば、最大の敵はイスラムのはずだが、実際にはイスラムは温存された。根こそぎにされたのはケマル左派だ。ここに80年クーデターの最大の特徴がある。

統計から見ればあまりにはっきりしているこの事実に、ほとんどの文献(少なくとも日本語文献)は目をつぶっている。

あまり乗り気ではないが、洋文献に当たるしかなさそうだ。


「小規模デイサービスは、もういらない」というのが政府・財務相・厚労相の考えだ。


週刊朝日 14年11月

国は潰したい?小規模デイサービス

1.主導は財務省

介護報酬の「現行からの6%程度引き下げ」を主張。6%削ったとしても、「運営に必要な資金は確保できる」とする。

2.株式会社・フランチャイズで乱立

企業は全国800カ所以上でFC展開している。「月に100万円の収入は確実」と宣伝。

FC加盟料300万円、毎月、ロイヤルティーなどの名目で20万円をとる。設置者がリスクを背負う。

競争激化で採算が悪化。人手不足が拍車。

3.行政からの締め付け

人員体制や介護内容などの届け出が義務化された。サービスの質を維持するためのガイドラインも策定した。(これは当たり前だ)

機能訓練指導員として、看護師などの有資格者配置が義務付け(15年度より)

介護報酬値下げで高齢者施設がさらなる悪循環へ

14年6月、「地域医療・介護推進法」が成立した。“負担増・給付縮小”が基本方向だ。

同じ6月に、「介護・障害福祉従事者の処遇改善に関する法律」が全会一致で成立した。これは矛盾している。

介護分野の昨年の求人倍率は2倍、介護福祉士養成校の入学者も減って、定員80人に対しわずか20人だ。

赤旗 15年3月

介護報酬を4月から大幅に削減

上乗せの「加算」を除けばマイナス4・48%と過去最大規模の削減となる。廃業する事業者が続出、介護基盤崩壊の危機となっている。

全国老人福祉施設協議会は今改定で「5割近くの施設が赤字に転落する」と試算。
北海道で89事業所を対象としたアンケート: 77%が報酬改定で「経営は後退せざるを得ない」と回答。対応は「賃金・労働条件の引き下げ」31%、「人員配置数の引き下げ」42%。「事業所廃止」19%。

小規模デイサービスを狙い撃ち

小規模型デイサービスでは要介護者は約9~10%の報酬削減、要支援者は市町村の事業となり、さらに報酬が下げられる(推計25%)。

現場の試算では年間200~300万円ほどの減益となる。これでやっていけるところは殆どないだろう。


けあZine 15年3月

これで終わらない小規模デイサービス

小規模デイサービスへの風当たりの強さはまだまだ続く。小規模デイサービスは1年の経過措置を経て、地域密着型デイサービスに移行する。

定員10名の小規模デイサービスは、もういらないということだ。


問題は二つある。

まず一つは、小規模デイサービスはいらないのかということだ。

答えは、はっきりしている。必要だ。

ただ、量と質の問題はある。とくにフランチャイズ制で儲けを至上目的とするようなデイは有害かもしれない。

ただそれは、運営基準を厳しくしていけば良いので、それがクリアできるような施設なら大いに奨励されるべきだ。

逆に、そのへんのおじさん、おばさんが預かるようなサービスの形態は、共助の観点からも、介護難民を生じさせないためにも、限界集落の崩壊を防ぐためにも、柔軟に取り組むべきだと思う。

もう一つの問題は、財務省主導で、目先のそろばんだけで動いて良いのかどうかということだ。

結局そこで浮かせた金は、法人税減税とか公共事業とかに回ることになる。それから見れば、どんな欠陥があろうとも、はるかに生きた金の使い方だ。

少なくとも、その金は老人福祉の分野で使うべき金であって、富裕層のための金ではない。

結局、1週間ほどをかけて「毛沢東のライバルたち」の年表に没頭しました。
どうやら完成です。
以前ブログに連載した「毛沢東以前の中国共産党」は拡充されて、この年表に一本化されています。
中国共産党の人脈は次のように分類されると思います。
1.マルクス主義の紹介者たち
この人たちの多くは日本留学組で、日本語訳された文献を通じてマルクス主義を知り、それを中国に紹介しました。1915年から20年ころにかけての時代です。この人たちの中から中国共産党が結成されることになります。
2.五四運動の世代
北京で軍閥政府の対外追従に抗議する大運動がありました。この時、共産党に飛び込んだ北京大学の学生を中心とするエリート世代があります。中国共産党の最古参に属する人たちです。
3.湖南湖北の農民運動
湖南湖北は中国の中でも遅れた農村地帯で、その分農村運動は激しいものがありました。これを代表したのが毛沢東たちです。
この地域は同時に勤工検留学生を多く輩出しました。したがって出身地域、年代ともに両者は重なっています。
4.勤工検留学生のグループ
同じ国外留学でも日本に留学したエリート層ではなく、フランスで働きながら学ぶという経験を積んだ人たちです。学ぶと言っても条件は劣悪で、ストライキを起こして強制送還させられた人もいます。戦前の共産党の主軸をになった人の多くがこのグループです。
5.コミンテルン・グループ
1930年までは1~4のグループが運動を担っていましたが、一斉蜂起戦術の失敗の後、コミンテルンの指示によって指導部メンバーは一新されます。
新たなメンバーはすべてモスクワ帰りの、ほとんど闘争経験を持たない新人でした。古手の活動家は粛清されるか、山岳ゲリラのもとに送り込まれるかしました。
ところが、彼らにとっては不幸なことに、その後1年も経たないうち、弾圧で上海での活動が不可能になってしまいました。こうして彼ら自身が解放区に入らざるを得なくなり、厳しい戦いの中で古参幹部の方針に従わざるを得なくなります。
6.その他のグループ
北京大学を中心に知識人のグループがありましたが、張作霖によって集団処刑されてしまいます。
上海、武漢、広州にはそれぞれ強大な労働者グループが形成され、労働者党員の幹部も生まれますが、その後の弾圧の中で消滅の運命をたどります。
国民党軍に潜入した共産党員も一連の武装蜂起に参加していますが、共産党の組織活動とは性格が異なるようです。
中国共産党にとっては、6大会というのが非常に大事な会議で、その後、はじめて諸活動の全面展開と党独自の組織づくりが始まります。その再建過程で左翼文化戦線も活発になります。党の活動が厳しくなったあとも合法面での活動がギリギリ維持されていました。彼らとスメドレーらは連携しながら党のパイプ役を勤めますが、ユージン・デブス事件で一網打尽にされてしまいます。
様々な理由から多くの党幹部がモスクワに在留していましたが、その殆どはスターリンの大粛清の犠牲となってしまいました。

ということで、それぞれのグループからこれはと思う名前を上げてみると、
1.陳独秀(徳田球一みたいな人)
2.李大釗(野坂参三みたいな人)
3.
張国燾(志賀義雄みたいな人)
4.
蔡和森 27年7月に陳独秀とともに指導部を降りている。その後モスクワでの療養生活に入る。
5.
瞿秋白(不破哲三みたいな人)
6.李立三 28年の6会大会(モスクワで開かれた再建大会)のあと党を再建
7.周恩来 中国のミコヤン。絶対にトップには立たない。
というわけで、並べてみると李立三が最強の指導者ということになります。ただ6大会では、本来は李立三ではなく蔡和森が就任するはずだったかもしれません。
ソ連=コミンテルンは一方で国民党との無原則的妥協を強いつつ、他方で極左冒険主義を煽るという犯罪的役割で一貫しています。李立三に無謀な蜂起を強いたのも当時のコミンテルンの極左方針そのものです。
そして最後には党指導部を事実上解体して、粛清屋の若者を送り込むという形で、中国共産党に引導を渡す結果となりました。
こういう経過を身をもって体験した毛沢東が、後年になって日本国民の闘争に野蛮な干渉をしたのは一体どうしてでしょうか。


この度、老健入所者の管理から足を洗うことになった。
思えば2010年の7月以来であるから、5年余りを入所者の管理に費やしたことになる。
やった仕事は入所者の転帰についての調査だけだから、ほとんど何もしていない事になる。
RSVの仕事については、まとめたかったが果たせなかった。
「諸般の事情」で、できないことがあまりにも多い。今となっては思いつくままに書き残すのみである。
A 病院へ送るタイミング 
1. 基本方針
この問題が常に最大の判断を要する問題だった。
基本的には中間施設という枠は下りの中間としてしか考えていなかったから、できるだけ元気で長く生活してもらうことが目標だった。
同時に「看取りはやらない」というのも自分なりの原則にしていた。もちろん原理的には「看取り」も一つの選択肢なのかもしれない。しかしそれをやり始めると、老健の「堕落」になるのではないか、とも思う。
ほとんどの場合、病院に送った人のベッドは確保して置かなければならないから、経営的には負担になる。
ただ、そのことで医療・看護はやるべき範疇がはっきりしてくるので、「老健らしさ」を維持するための必要なコストと考えざるをえない。
いま少しづつ医療保険枠が拡大しつつあるので、とくに感染症などでは、だんだん療養型との垣根が変化してくるかもしれないと思っている。
2.疾患別に見た場合
脳血管系、冠疾患系では何も逡巡する余地はない。そのまま救急車を呼んで、診療情報提供書は後日送るかたちで乗せちまうほかない。
吐下血、イレウスなど消化器系も考える余地はない。むしろ判断の遅れがあとで問題になることが多いので、「多少早いかな」と思う段階で決断している。
転倒・骨折疑いは意外と悩む。明らかな骨折でなければ一応レントゲンをとって判断する。しかしこちらの読影力もあるので、ナースの判断が一番頼りになる。したがってどのナースの判断かも重要な情報になる。
肺炎は最初の頃はすべて送っていた。しかし病院の入院患者に比べると意外に抗生剤がよく効く(AB/PCでも効く!)ので、最近ではコストもふくめて判断している。
3.最終盤医療
もう食べなくなった、低アルブミン、低ナトリウムと揃ってくると、療養型への移動を考えなければならなくなってくる。
こういう時は、ご家族の意向が大きく左右する。同時にこちらの死生観が問われてくる。明らかにどうしようもない場合を除けば、私は原則としてPEGをおすすめしている。
PEGであとどのくらい生きるのか、その人生にどれほどの意義があるのかは、問うてはいけない質問だと思う。ただPEGを勧めてもほとんどの家族は頷かない。
それをどれほど強く勧めるかについて、私も最近はだいぶ弱気になっている。しかし基本は変わってはいない。
「生きる権利」は、場合によっては患者みずからの意志を超えてまで存在すると思う。生者のうちには「生きていたい」とつぶやく生命力があるはずだ。そうでなければ、それは形を変えた自殺容認論になってしまう。
「もう生きていてもしょうがないですから」という家族には、「そんならあんたも死ぬか?」と叫びたくなることもある。
B 老健のクスリ
1.基本となるクスリ
ほんとに必要なクスリは意外に少ない。申し訳ないが、認知の薬はゾロもふくめすべて止めさせてもらっている。経営的に成り立たないからだ。認知のクスリを出している老健もたくさんある。しかし病院との連携のない孤立した老健では、それはしわ寄せを呼ぶ。
50人の認知症にクスリを出せば1ヶ月に50万だ。ケアワーカーが二人雇える。そのほうが絶対に患者にも良い。
アスピリンなどの抗血小板剤もダラダラとは使わない(PCI後の人には仕方ないから使うが)。私の調査では、の梗塞や心筋梗塞の再発率はかなり低い。転倒・出血・血腫のリスクのほうがはるかに高い。
ただし血圧はしっかり抑えている。リスクカバーとしてははるかに有意義だろうと思う。降圧剤の選択としてはATⅡ阻害剤はすべてACE阻害剤に切り替えている。咳は出たほうが良いくらいだが、幸か不幸か咳の副作用はほとんどない。
女性の場合はフルイトラン1/2錠が第一選択である。申し訳ないほど安い。
意外に多いのが症候性てんかんで、抗けいれん薬はポピュラーな処方である。ODっぽい人にも予防投薬している。
意外に多いといえば、下肢の浮腫の中に深部静脈血栓がかなりいるのではないかという印象を持っている。ワーファリンを使う場合、ほとんどが心房細動を念頭に置いていると思うが、DVTの場合もワーファリンが有効かもしれないと思っている。
緩下剤(カマもふくめ)はほとんどの人に投与している。排便は老健におけるきわめて重要な儀式で、浣腸・摘便・失禁・弄便・便汚染の処理をふくめてケアワーカーの主要な業務の一つである。
一度便臭軽減のため、入所者にココア粉末の投与を提案したが却下された。彼らは「臭いは仕事のうちだ」と主張した。頭が下がります。
2.投与量はもっと少なく
血圧の薬はほとんど常人と同量である。糖尿の薬や抗生剤もあまり変わらないと思う。違うのは向精神薬である。
精神科の先生が週1回回診してくれている。その処方がきわめて微妙なさじ加減なのにびっくりした。とにかく基本は半量である。
普通のクスリでも例えばPL顆粒は常用量使えばとんでもないことになる。意識はどろどろになるし、おしっこは出なくなる。後から「この人緑内障でした」ということになる。だからナースはPLを使いたがらない。ひどい時はこちらで出した処方を無視して、葛根湯ですましている。
つづきはあした

昨日の続き
ただし葛根湯が効くのは初期の軽症のみだ。本格的な風邪になればロキソニンしかない。なのにナースは抵抗する。「この人血圧低いんです」、「この人便秘があるので困るんです」とくる。「だからどうした!」という言葉を飲み込みつつ、「頼むから使ってください」とお願いすることになる。
それで血圧下がればそれは補液の対象だ。それに汗かいて熱が下がれば水も飲むようになる。
それを何度も繰り返して、やっと解熱剤使ってもらえるようになった。
ロキソニンで血圧が下がるのには理由がある。基本的には1回1錠では多すぎるのだ。半錠で十分効果がある。それと血圧が下がる人は「隠れ脱水」を伴っているからだ。大体が低張性脱水だから臨床的には目立たない。低ナトリウムならそれだけで脱水と思って良いと思う。
ということで、目下の風邪の第一選択はロキソニン1錠の2xだ。これでダメなら補液する。ついでだが、ブルフェンは年寄りにはまったく効かない。
3.抗生物質
老健入所者の最近は割と素直だ。サワシリンでも効くことがある。むしろ流行りのクラビットが意外と効かない。流石に尿路感染はしつこいが、セフェム系でなんとかしのげている。
抗生物質の点滴も割と早めに開始する。抗生物質はたいていナトリウムを含んでいて、それを生食100に溶かすから、案外ナトリウムが効いているのかもしれない。
慢性気管支炎にはクラリスロマイシンの予防投与を積極的に行っている。ただ使うとすれば1日2錠必要な気がする。どうも1錠では抑えきれないような印象がある。
肺炎球菌ワクチンはできれば全例やりたいくらいだが、金額の問題もあってルーチン化していない。こちらの構えが甘いのだろう。
4.糖尿病
これが実はけっこう苦労する。PEG導入で一気にDMセミコーマまで行ってしまったケースも有る。精神科の薬で悪化してインシュリン導入をやむなくさせてしまったケースも有る。
DM専門医から見れば眉をひそめられるかもしれないが、私はアマリールか、しからずんばインシュリンという主義で、とにかく下げりゃいいんだろうとやっている。
一番の理由は、訳の分からないクスリほど高いということにある。
薬代が院所持ち出しのところで、ケアワーカーになんぼの給料出せているかを考えれば、製薬会社に奉仕するのはきわめて癪である。
5.利尿剤
とても重要だと思っている。とにかく利尿剤をいじってろくなことはない。多少多いかなと思っても我慢してそのまま使うようにしている。
HANPとかADH阻害薬(サムスカ)のようなものはなくても、ラシックス単味でかなりのところまでやれると思う。問題はケチらないことである。
先ほどの“かくれ脱水”と矛盾するようだが、“隠れ心不全”もけっこう多い。とくに老人は心臓が固くなっているので心不全になっても心拡大は来ない。
咳が長引いたらとにかくCTをとることだ。胸水の診断はCTでしかできないと言って過言ではない。
6.有象無象のクスリ
とにかく年寄りだからいろいろ悪いからいろいろかかっている。したがってクスリもいろいろだ。
基本的には全部切りたいのだが、たくさんクスリを飲んでいる人ほど、訴えもたくさんなので、切るのは容易ではない。
世の中には漢方好きの医者がたくさんいて、平気で数種類重ねて出す。これはバッサリ切る。こんなにたくさん飲んだら低カリどころではなく肺線維症まで心配になる。どうせツムラの下敷き見て出しているんだろう。私もそうだから。
整形もこわい。90の婆さんに平気でロキソニン1日3錠出す。そしていちじくの葉っぱのように胃薬をつけてくる。さらに筋弛緩剤とヴィタミンDとカルシウム、さらにメチコバールだ。そしてどっさりと外用薬。
泌尿器科も、眼科も耳鼻科も3,4種類の薬を出す。かくしてトータルは20種類以上となる。「地獄への道は善意と若干のそろばんで敷き詰められている」のだ。

C 老健とは何か
絶対的な基準というのはかなり難しいが、療養型・特養・有料老人ホームと並べてみると、相対的な位置づけはある程度見えてくる。
1.医療の観点から見た老健
医療という観点から見れば、まさに中間施設である。しかも在宅に向けての中間ではなく療養型に向かう中間施設だろうと思う。中間というのはある意味では中途半端ということでもあるが、それなりの守備範囲ではツボにはまった効用を発揮するし、瞬間的には病院と同じ機能を発揮することも出来る。融通はきくがスタミナはないヘタレ組織で、私にはもっともふさわしいところかもしれない。
2.リハ・介護の観点から見た老健
本来の機能から見れば、回復期リハを終了した患者が自宅復帰への足がかりとして生活に見合ったリハをする施設ということになろうが、実際にはそのようなケースはほとんどない。
そういう幸運なケースはほとんどが老健を通過せずに自宅復帰しているのではないか。老健に途中下車する人はたいてい病気以外の何らかの生活困難を抱えている。大抵の場合、その困難は解決不能である。いわば下り線に乗り換えてこの施設にやってくるのである。
したがって、リハのゴールは最善の場合も現状維持にとどまる。
私はそういうリハもあっていいのではないかと考えている。そういう減点法的な評価体系があってしかるべきだろうと思う。1年経って、10点満点のところ9.5で抑えられた、よくやったという評価である。
そしてその0.5の不足分のところをケアワーカーが補う、という形で老健が成り立っているのではないかと思う。
3.リハと介護が車の両輪
私は利用者が入所する時、必ず家族にこう説明している。
「ここには医者もナースもいて、いまこうやって私が説明しているが、実はわたしたちは後見役なのです。この施設の主役はリハビリ技師とケアワーカーなので、医療の側はそれを後ろから支えているにすぎないのです」
「この施設は入所者の皆さんが一日でも長く生活レベルを維持し、健康レベルを維持し、一日でも長生きできるようにお手伝いすることが目的です」
自分ではこの立場を守っているつもりだが、どうもナースは手を出したがる。実際手出しせざるを得ない状況が日々起こっているわけだが、この「原則」はいつも念頭に置いて置かなければならないと思っている。
4.「療養病棟化」せざるを得ない現状
「実際手出しせざるを得ない状況が日々起こっている」と書いたが、遺憾ながらそういうことになっている。急性期病院からは、ICUから一般病棟に戻すような気分で患者が送り返されてくる。
「こちらから頼んだのだからしかたない」と泣き泣き受け入れるのだが、朝まで酸素吸入していた患者を午後には送ってくる。「酸素オフでSpO90あるので大丈夫だと思います」、「あと3日間、ADH拮抗薬使ってください」、どこが大丈夫なんだ!
5.割安入所施設としての期待
このあいだこういうケースがあった。これを聞いた時は愕然としたものだ。
ある日、特別養護老人ホームに入所中の方の奥さんが相談に見えられた。今度の一部負担の2倍化で、一部負担が耐えられなくなったというのだ。そこで療養型への移動を検討したいということだ。
これでは順序が逆ではないか。
特養はお年寄りの終の棲家のはずだ。そこにすら居れなくて、しかもその行く先が療養型とは何たる矛盾だろうか。
おそらく厚労省は、次は「それは療養型が安すぎるからだ」と言って療養型の一部負担を引き上げることだろう。「あっ、今度はここが出っ張っている」と言って人の命にかんなをかけているようなものだ。
そんな中で、老健も一種の割安(有料老人ホームやグループホームに比べて)な入所施設としての期待がかけられている。
ギリギリの医療と書いたが、まさにここのところでギリギリの頑張りがもとめられているような気がしている。

トルコが何故かシッチャカメッチャカになっている。
理由ははっきりしているので、エルドアンが迷走を重ねているからだ。
何故エルドアンがヘンチクリンになったのか。
それはトルコ軍部が強烈な圧力をかけているからだ。
トルコの軍部はもともと人民弾圧にかけては凄腕だ。
10万20万殺すのはへとも思っていない。
今でも、いつでも表舞台に立つ準備はできている。
エルドアンはこういう連中とうまく折り合いながら、少しづつ実績を積み重ねてきた。
こいつらをやっつけるだけの力は未だに身につけてはいない。
それはトルコの薄皮一枚の民主主義の現状だろう。タイやエジプトと同じだ。
それでトルコの軍部がどういう論理で動いているかというと、アメリカの軍産複合体の言うがままの戦略だ。
これが随分変わってきている。
もともとはロシアの南下を防ぐ防壁である。すなわちどういう形であれ、共産主義(基本的にはスターリン主義)を防ぐことに存在意義があった。
そういう存在意義が薄れ、彼らの土台も揺らいでいた。
ところが今度は中東からの原理主義の拡大を防ぐ防壁としての役割がにわかにクロースアップされてきた。
軍としてはなんであれ紛争の火種があればよい。
そうやってエルドアンのおしりに火をつけた。
しかし今度は軍部も相当やばい。下手をすれば自分のところにも火の粉が降りかかる。
なぜならアメリカの中東戦略はイスラエルの中東戦略の後追いだからである。
イスラエルが決めて、それにトルコが追随することになる。
そうするとどうなるか。
1.トルコがスンニ派攻撃の主役となる
2.その結果生じた難民の受け皿となる
3.スンニ派テロの標的となる
4.イスラエルと同列にみなされることになる
ある意味で、「ザマァ見ろ」の世界だが、それで軍部の無責任ぶりが明らかになれば、トルコ情勢は大きく変わるだろう。
そのリトマス試験紙はエルドアン対EU、エルドアン対クルドの関係として現れてくるだろうと思う。
さしものトルコ軍部にも、ようやく落日が訪れようとしている。そこに注目してトルコを見ていこう。

とにかくまことに内容充実、脂っこい本である。AALAの全国総会の後、大塚駅前のブックオフで410円で買ったが、その10倍の値打ちはある。
まずこの本の骨組みを紹介しておこう。
この本の奥付は以下のようである。

岩波新書(新赤版)1251
シリーズ 中国近現代史 ③ 「革命とナショナリズム 1925-1945」
第1刷発行 2010年
著者は 石川禎浩(よしひろ)さん

1963年(昭和38年)生まれというから、私より二回り近く下の52歳だ。
京都大学の文学部卒業で、現在は人文研の准教授という肩書(准教授って知らないが、助教授より下か? もうポツダム教授で終わるかも知れない)

その博識ぶりと、見識の確かさには舌を巻く。私もいささか勉強したつもりだったが、共産党側と国民党側の見解の激しい相違の中で、情報の取捨選択に右往左往させられてきたので、このことには感服する。「実事求是」に対するひとつの拠り所を得た思いである。

蒋介石を回転軸としつつ、その右回りスピンよりは少し左側に中国民衆運動の重心を据えることで、20年代から30年代への確かな前進を確信していく作業が必要なのだろうと思う。
それによって共産党の運動を、毛沢東への流しこみでもなく、コミンテルンとスターリン主義の犠牲者としてペシミスティックに見るのでもない、積極的な視点が培われるのではないか。

私が毛沢東でない中国共産党の姿に興味を持ったきっかけは、映画監督の佐藤純彌さんの短いエッセイだった。上海のバンスに拠点を構え、巨大な生産都市にして歓楽都市の中で圧倒的な文化的影響力を発揮し続けた中国共産党のまばゆい姿が心に焼き付いている。その象徴が向警予だった。

結局、興味の持ち方がスケベェなんですね。

以下は岩波新書「シリーズ中国近現代史② 革命とナショナリズム」から編年風に抜書きしたものである。
いずれ「毛沢東以前の中国共産党」年表と合体するつもりだが、とりあえず掲載しておく。


1919年

10月 孫文らの中華革命党を中心として中国国民党(以下国民党)が結成される。

1921年

中国共産党が上海で第1回党大会を開催。この時の党員数は全国で50名余。

1922年

第一次奉直戦争。直隷派の勝利に終わる。

1923年

1月 孫文・ヨッフェ連合宣言が発表される。これによりソ連との連携方針が明らかになる。孫文は、「ソヴェート制度は中国には適さない」と留保。

この後、コミンテルン・ソ連から派遣されたマーリン、ボロジンらの助言を受け、党組織の改革「改進」が推進される。これまでの孫文専権党から、党大会を頂点とする近代政党に切り替わる。

3月 中国国民党、西南地方の軍閥を結集。広東で地方政権「大元帥府」を立ち上げる。

10月 北京の直隷派、「賄選」と呼ばれる議員買収で曹錕(金偏に昆)を大総統に選出する。直隷派は全国統一を目指し反対派(奉天派、安徽派)に圧力。

秋 国民党、党員の再登録を実施。広東省内の党員は3万から3千に減少する。

23年 孫文、ソ連に代表団を派遣。蒋介石も加わる。

蒋介石は日本に留学し陸軍で実習を積む。11年に帰国後は孫文の革命運動に加わり、軍事面で支え続けた。当初は必ずしも反共ではなく、孫文の連ソ容共方針にも積極的に賛同していた(石川)

1924年

1月 国民党、第1回全国代表大会を開催。国共合作を容認。ただし共産党員は国民党への二重加盟を求められた(党内合作)。共産党員の多数がこれに反対するが、コミンテルンに押し切られる。この時点で共産党員は全国で約500人。

6.16 広州の東郊外に黄埔軍官学校が開設される。総理に孫文、校長(軍の最高指導者)に蒋介石、党代表に廖仲愷が就任。ソ連軍事顧問団の指導を受ける。

9月 第二次奉直戦争が始まる。広東政府も反直隷同盟に加わる。両軍合わせ30万の兵力が動員される。南下した張作霖の奉天軍と直隷軍が北京東方の山海関付近で激突。

9月 国民党が広州の武力統一に乗り出す。翌年までに広東省の統一を実現。

10月 直隷軍の馮(ふう)玉祥が奉天軍に寝返る。北京を制圧し曹?を監禁する(北京政変)。背後を衝かれた直隷軍は総崩れとなる。

馮玉祥、自軍を「国民軍」と改称。皇帝退位後も紫禁城に住んでいた溥儀を放逐する。さらに張作霖の同意をえて、段祺瑞を北京政府の「臨時執政」に担ぎあげる。

12月 孫文、「北上宣言」を発し北京に入る。機能不全に陥った国会に代わり、全国の社会団体代表による「国民会議」を開催し、中央政治を一新せよと訴える。

国民党の党規約が制定される。ソ連共産党にならい、「民主主義的集権制度」を党の原則とする。

 

中国共産党の財政(石川:岩波新書中国近現代史③ より。以下石川と略す)
1924年度のデータで、総収入32千元。うち党費などによる収入は2千元足らずだった。すなわちソ連からの援助が3万元ということになる。党への直接援助の他に、労働組合やソ連政府援助の流用をあわせると10万元以上が中国共産党に流れたと考えられる。27年には援助総額は100万元に達した。石川の試算では当時の1元は現在の750円に相当するという。

レーニンが死亡。民族統一戦線を重視するソ連共産党・コミンテルンの対中方針はそのまま継続。

1925年

2月 上海の日系紡績工場「内外綿」で労働争議が始まる。

3.12 孫文、北京で軍閥政府と交渉中に死去。享年58歳。死因は肝臓がん。「革命なお未だ成功せず。同志なお須らく努力せよ」の遺言を残す。なお「連ソ容共」路線の継続を訴えるソ連あての遺言は、後の中華民国政府により無視された。

5月 広州で第2回全国労働大会が開かれる。「軍閥と国際帝国主義を打倒する革命」を決議。中華全国総工会の結成を宣言。166の組合、54万人の労働者を結集。

5.16 内外綿争議で、日本人職員が中国人労働者を射殺。共産党は糾弾闘争に立ち上がる。

5.30 「530事件」が発生。上海租界で、共産党の指導する判定示威運動。共同租界当局は群衆に対して発砲。13人の犠牲者を出す。

6月 上海総工会の呼びかけたゼネストに20万人が参加。総工会は中小企業家や学生団体とともに工商学連合会を結成し対外ボイコット運動を展開。都市機能は1ヶ月間麻痺状態に陥る。

6.23 広州の英仏租界の沙面を10万人が取り囲むデモが発生。恐慌をきたした守備隊の発砲により52人が死亡する。香港で働く13万人の労働者が広州に引き上げ。国民党政権の支援を受けた労働者糾察隊2千人が香港・広州間の交通を遮断し、香港と沙面を封鎖。

香港スト: 香港でのストは26年10月まで16ヶ月にわたり続けられた。この長期ストにより香港は「臭港」「死港」と化した(石川)。

6月 ロシア共産党政治局、中国(主に広東政府)への150万元の軍事援助を決定。これは4月から9月までの半年分とされる。

7月 広東の国民党政権、大元帥府から「国民政府」に改称。主席に汪精衛が就任。

8月 従来の諸軍を再編し国民革命軍が編成される。黄埔軍官学校の卒業生が中核を担う。

8月20日 孫文後継者と目された廖仲愷、広州市内で国民党右派により暗殺される。

夏 孫文側近の戴季陶、「孫文主義の哲学的基礎」、「国民革命と中国国民党」を相次いで発表。共産党の寄生政策を批判して、「純正民主主義」の徹底を訴える。

ただし戴季陶は蒋介石宛の私信で、「今日もっともよく奮闘せる青年は大多数が共産党であり、国民党の旧同志の腐敗・退廃は覆うべくもない」と告白している(石川)

秋 共産党員数が3千近くに達する。多くが国民党政府のメンバーとして活動。

11月 張作霖配下の郭松齢、馮玉祥と結び反乱を起こす。日本軍の支援を受けた張作霖は郭松齢の軍を殲滅。これを受けた馮玉祥の国民軍は北京を退去。西北方面で再起を狙う。

広州で「被抑圧民族連合会」、「ベトナム青年革命会」、「台湾革命青年団」などが結成される。

1926年

初頭 馮玉祥、国民党に加入し反乱を起こす。ソ連は国民軍を広東と並ぶ革命勢力とみなし、軍事顧問団の派遣や武器の援助を行う。蒋介石はソ連の二股膏薬に不信感を抱いたとされる。

1月 国民党第2回大会。左派が躍進したことから「左派による勝利の大会」と呼ばれる。汪精衛が最高得票を獲得。左派の支援も受けた蒋介石は、第2位で中央執行委員に選出される。

3.18 馮玉祥の国民軍と戦う張作霖に対し日本など列強が公然と支援。これに抗議する学生デモが北京で展開される。政府軍の発砲により47人が死亡。事件の責任を取り段祺瑞が引退。以後、奉天派支配のもとで直隷派との連合政府が成立するが、いずれも短命に終わる。(この年だけで5回の政権交代)

3月 中山(ちゅうざん)艦事件。国民革命軍の砲艦「中山」が蒋介石の承認なしに独自で航行。蒋介石は広州に戒厳令を布告し、ソ連軍事顧問団の公邸を包囲、労働者糾察隊の武器を押収。

蒋介石と広州訪問中のソ連使節団(団長ブブノフ)が事態の収拾をめぐり交渉。施設団はソ連軍事顧問団の越権行為を認め、顧問を更迭。さらに北伐の早期開始を容認し、そのために省港ストの収束方針を承認。

汪精衛はソ連の蒋介石への妥協に反発。国民政府軍軍事委員会主席の職を辞ししフランスへ去る。

4月 蒋介石が国民政府軍軍事委員会主席に就任。

5月 国民党、共産党員の国民党内での活動を制限する「整理党務案」を押し付ける。

5月 北伐を目指す国民革命軍が編成される。蒋介石が総司令に就任。

5月 北伐の前哨戦。国民革命軍北伐先遣隊が湖南省に入る。

呉佩孚が湖南省支配を狙うが、これに反発した省長代理の唐生智が戦を構える。国民革命軍はこれに介入し唐生智も国民革命軍に加わる(第8軍)。

6月 蒋介石、国民党主席(中央執行委員会常務委員会主席)のポストも獲得。

7月 国民党政府、「北伐宣言」を発表。国民革命軍動員令を発する。

北伐軍は全8軍、25師団編成。総兵力は10万を数えた。第1軍のみが黄埔学校卒業生を主体とする近代的軍隊で、残りは軍閥の部隊を再編したものであった。これに対抗したのは湖南の呉佩孚軍25万、江西の孫伝芳軍20万、彼らの背後には張作霖軍35万が控えていた。

7.09 北伐軍本隊が広州を出発。

7.11 呉佩孚軍、湖南の省都長沙を撤退。北伐先遣隊と唐生智の第8軍が制圧。

8月中旬 北伐軍、湖南省の主要部を制圧。

8月末 北伐軍、汀泗橋・賀勝橋で呉佩孚軍主力を撃破。

9.23 スターリン、モロトフ宛に「漢口はやがて中国のモスクワになるだろう」と書き送る。

9月 馮玉祥の軍、綏遠省で挙兵。陝西省方面へ攻勢をかける。

9月 イギリス砲艦、長江上流の万県に砲撃を加える。

秋 蒋介石、腹心の邵力子をモスクワに派遣。「ソ連共産党とコミンテルンの指導のもとに、その歴史的役割を完遂する」ことを明らかにする。

10.10 北伐軍が武漢を制圧。呉佩孚軍はまもなく壊滅。

10月 共産党が主導して上海で第1回目の蜂起。失敗に終わる。

11.08 蒋介石の率いる直属部隊と第7軍(軍長・李宗仁)が省都南昌を制圧。孫伝芳軍の前に苦戦し、1万を超える戦死傷者を出す。

11月 馮玉祥の軍、西安に進出。陝西省の大部分を制圧する。

11月 広州の国民党中央、党と政府の武漢への移転を決定する。

12.09 福建省の省都福州が北伐軍により制圧される。

12月 湖南・湖北の農民協会、半年で40万から160万に拡大。各地で武装し北伐軍を側面支援。

12月 国民党中央の先遣隊が武漢に到着。党中央と政府の臨時連席会議を組織する。

主要メンバーは徐謙(司法部長)、孫科(孫文の長男)、陳友仁(外交部長)及び政府顧問のボロディン。

1927年

4月 国共合作下の武漢で、第5回共産党大会。党員数6万人。労働者が6割、農民2割、知識人2割の構成。女性党員も8%を占める。

5月 コミンテルン第8回執行委員会総会。トロツキーは武漢国民党の反動化を警告するが、スターリンは国民党を通じた土地革命を想定し、中国共秋収産党に武漢政府への協力を求める。

陳独秀、武漢分共の責任を問われ、「右傾日和見主義」の批判のもとに解任される。

7月 スターリンのモロトフあて書簡。「中国共産党の中央委員会には簡単なやさしい要求がある。それはコミンテルン執行委員会の指令を達成することだ」と盲従を求める。

8.01 南昌蜂起。国民革命軍内の共産党派だった葉挺、賀龍、朱徳らの部隊が江西省の省都を中心に反乱。「中国国民党革命委員会」の名義で「革命の政党」を受け継ぐことを宣言。広東での政権樹立を狙い、南下を開始。

8.07 共産党、漢口で緊急会議を開催。陳独秀の路線を批判するとともに、南昌蜂起に呼応して「秋収蜂起」(湖北・湖南で秋の収穫期に蜂起する方針)を決定。湖南の農村活動家・毛沢東が指揮に当たることとなる。

9月 南昌蜂起部隊、広東までの間に国民党の攻撃を受け壊滅し四散。秋収蜂起もことごとく鎮圧される。

10月 毛沢東、秋収蜂起の残党1千名を率い井崗山にこもる。井岡山は湖南・江西の省境をなす山岳地帯。緑林・土匪を取り込み「工農革命軍第1軍第1師第1団」を組織。

11月 共産党、左派国民党を僭称することをやめ、共産党のもとにソヴェートを建設する方針を決定。広東省陸豊・海豊にたどり着いた南昌蜂起軍の残党がソヴェートを名乗るがまもなく殲滅される。

12月 広州蜂起。広州ソヴェートが樹立されるがまもなく鎮圧される。この時武装勢力に初めて紅軍の名が付けられる。

1927年

1.01 「武漢国民政府」が正式にスタートする。

1.03 武漢政府の臨時連席会議、3月に国民党中央総会(二期三中全会)を開催すると決定。軍(蒋介石)からの権限回復を図る。

南昌(江西省)に北伐軍総司令部を構える蒋介石は、臨時連席会議の正統性を認めず。南昌で独自の中央政治会議を開催。二期三中全会の南昌開催を決議。しかし南昌在留の党中央委員の多くが武漢に移ったことから、蒋介石の正統性は薄れる。

1月初め 漢口の英租界で反英闘争が激化。武漢政府は英租界臨時管理委員会を設置し、租界を接収する。その後、江西省の九江でも英租界が接収される。租界接収の動きを見た列強は、最大の租界を抱える上海に軍を結集。

武漢の労働運動指導者だった劉少奇は「労働者は企業を倒産させるという要求を掲げ、賃金を驚くべき水準に引き上げ、一方的に労働時間を1日4時感以下に短縮した」と述懐する。また農民運動は土地没収や地主の迫害を常態化させ、食料米の流通を阻害した。(石川)

2月 共産党、第2回目の上海蜂起。失敗に終わる。

3月 武漢で国民党中央総会(二期三中全会)が開催される。党常務委員会主席ポストの廃止、軍総司令の権限制限などを決定。労工部長、農政部長には共産党員が就任。

3.21 共産党、第3回目の上海ゼネスト・蜂起。2日間にわたる市街戦の末、奉天軍を放逐することに成功。当初、租界への攻撃はなく、外国軍との衝突はなし。

3.22 北伐軍の先鋒が上海に入る。ゼネスト勢力は「上海特別市臨時政府」を樹立。

3.24 国民革命軍の第2,6軍が孫伝芳軍を駆逐し南京に入る。一部が外国領事館や教会を襲撃し外国人数人を殺傷する。英米の砲艦が南京城内を報復攻撃。死者多数を出す。

蒋介石は日本政府に急使を送り、南京事件の誠意ある処理を約した。日本政府は報復に同調せず、蒋介石と国民政府内の過激分子粛清について密約した(石川)。

3.26 蒋介石が上海に入る。

3月末 コミンテルン、上海の共産党組織に対し、武力による租界突入を禁止する通達。また労働者糾察隊の銃刀器の携行を禁じる。

3月末 武漢の国民党中央、南京駐留中の第6軍(左派系)に対し蒋介石の逮捕を密命する。蒋介石は第6軍を南京から移動させ、直系の第1軍を配備。

4.01 汪精衛がソ連経由で上海に戻る。ただちに蒋介石や共産党の陳独秀らと会談に入る。

4.04 蒋介石、「共産党分子はデマを流し、団結を損なっている。これ以上の撹乱行為は反革命だと言わざるを得ない」と発言。

4.05 スターリン、「蒋介石など右派も帝国主義者と闘っており、今決裂する必要はない」と演説する。

4.05 汪精衛、陳独秀と共同宣言を発表。両党の友好関係を確認。また蒋介石への信頼を表明。その後武漢に向かう。

4.08 スターリン、蒋介石あてにみずからの肖像写真を送り、「中国国民革命軍総司令官蒋介石氏の勝利」を祝う。

4.08 国民党中央、産業の中心地である南京への遷都を決定。

4.09 蒋介石、駐留先の南京で左派系の集会を弾圧、さらに江蘇省党部を襲撃する。

4.11 広州でも蒋介石派の軍による左派弾圧が行われる。

4.12早朝 蒋介石隷下の第26軍、上海市内各所で労働者糾察隊の武装解除に乗り出す。この衝突で糾察隊員300人が死亡。小銃3千、機関銃20などの武器が押収される。

4.13 上海総工会が26軍にデモ。軍の発砲でさらに多数の死傷者。軍は総工会本部を占拠し左派・共産党系組織の解散を命令。その後広州でも同様の弾圧。

この後、上海は驚異的な発展を遂げる。人口は300万人(東京・大阪は200万人)、消費電力も東京を上回る。バンドには高層建築が林立。女性は摩登(モダン)な旗袍(チャイナドレス)で着飾る。活字、映画文化などが花開き、繁華街は電飾で不夜城と化した。(石川)

4月 北京を支配する張作霖、ソ連大使館を強制捜査。潜伏中の李大ら共産党幹部を逮捕・処刑。

6月 張作霖、「安国軍政府」大元帥に就任。みずから政権を握る。

4.17 武漢の国民党中央、蒋介石をすべての職務から解任。党からも除名する。

4.17 蒋介石、南京在留の党役員を集め国民党中央政治会議と中央軍事委員会を組織する。

4.18 南京に胡漢民(孫文とともに働いた古参幹部)を主席とする独自の国民政府が樹立される。蔡元培(元北京大学学長)らが蒋介石政府の支持に回る。

5.30 コミンテルンの中国に関する決議。これに基づきスターリンの「5月指示」が送られる。(中国への到着は6月初め)。中国共産党に極左的方針を持ち込む一方、国民党左派との連携を説く。

主な内容は①土地革命の断固実行、②武漢政府と国民党の再改組、③共産党員2万人の武装、④労働者・農民5万人の国民革命軍への加入、⑤反動的な武漢の将領の処罰など(石川)

6月初め コミンテルンの現地代表ロイ、「5月指示」を汪精衛にリーク。汪精衛はソ連の支援増強を条件に5月指示を受け入れる。

6月末 武漢政府は1500万ルーブルの援助を求めたが、200万ルーブルしか得られず。このため中央政府における汪精衛の地位は一気に弱体化する。

6.10 馮玉祥が武漢政府、南京政府と相次いで会談。蒋介石の側に立ち、武漢側に蒋介石との協力と労農運動の抑制を求める。

6月 日本政府、英・米の同調を得て第一次山東出兵。2ヶ月後に撤兵する。

7.15 武漢の国民党中央が会議を開催。汪精衛は5月指示の存在を明らかにする。会議は党・政府・軍における共産党員の職務停止を決議する(武漢分共)。第一次国共合作は終わりを告げる。

8月 孫伝芳軍の追撃に移った蒋介石軍、徐州の闘いで惨敗。蒋介石は下野を宣言する。

9月 国民党の最高機関として中央特別委員会が招集される。みずからの正統性を批判された汪精衛はこれを不満として引退を言明。

9月 無役となった蒋介石が私人の資格で日本を訪問。田中義一首相らと会談を重ねる。

蒋介石は、日本が「かつてのソ連のごとく」北伐を支援してくれるようもとめたが、北支の権益拡大を狙う日本側は確たる言質を与えなかった(石川)

27年末 蒋介石と汪精衛が不在の中央特別委員会は、何も決まらないまま解散。

1928年

1月 蒋介石が国民革命軍総司令官に復帰。2月には党の軍事委員会主席、3月には中央政治会議主席も兼任する。

国民革命軍の再編: 共産党・左派の占めていた軍は吸収併合され、4つの集団軍に統合される。第1集団軍・蒋介石、第2集団軍・馮玉祥(河南)、第3集団軍・閻錫山(山西)、第4集団軍・李宗仁(広東)が守備範囲となる。総勢は60万に達し、北方部隊合わせて20万を圧倒する。

第二次北伐を開始。

4月 日本、第二次山東出兵。第6師団5千人が省都済南に派遣される。

5.03 済南事変発生。済南に進出した北伐軍と日本軍が衝突。日本側の砲撃により中国側軍民3千人以上が死傷する。北伐軍が撤退迂回したため、済南は1年にわたり日本の占領下に置かれる。

済南事件はその後の対中侵略の雛形となった。①出先機関が事件を拡大・激化、②軍中央・政府が後追い、③世論が「暴支膺懲」論で後押しというパターン。いっぽう①中国国民の主要敵は英国から日本に移り、②蒋介石の親日方針は解消され、③英米両国が日本を批判的に見るようになった。(石川)

6.03 張作霖、特別列車で北京を脱出。奉天に向かう。

6.04早朝 張作霖を載せた特別列車、奉天直前で爆破される。後に関東軍の謀略であることが明らかになる。

6.08 国民革命軍(北伐軍)、北京に無血入城。天安門に孫文の肖像が掲げられる。この時点で軍勢は200万人にまで膨れ上がる。

6.15 国民政府、北伐と全国統一の完成を宣言。南京を首都とし、北京は北平と改称する。

7月 張作霖の息子張学良が東3省保安総司令となる。国民党と手を結ぶ道を選択。

10月 国民党、「訓政綱領」を発表。6年間の党独裁期(訓政期)を経たあと憲政に移行するというもの。

11月29日 張学良が易幟を断行。東3省にも青天白日旗が翻ることになる。国民政府は張学良を東北辺防軍司令長官に任命し内政の自治を承認する。

1928年

4月 朱徳の率いる南昌蜂起軍の残党2千人が井岡山に合流。中国工農紅軍第4軍を編成。軍長に朱徳、党代表に毛沢東が就任。

6月 共産党の第6会大会。国内での開催が困難となりモスクワで行われる。党員は最大時の6万人から1万数千に激減。

1929年

29年初め 毛沢東の第4軍、井岡山を離脱。江西省南部の瑞金に移動。

1929年

5月 張学良、ハルビンのソ連領事館を強制捜索。その後中東鉄道(シベリア鉄道の満州通過部分)の接収に踏み切る。

8月 ソ連が東北部に侵入。張学良軍を撃破する。

11月 ハバロフスク休戦協定。中東鉄道は引き続きソ連の支配下に置かれることとなる。

ソ連は共産党に「労働者階級の祖国ソ連を守れ」のキャンペーンを強制。これに異議を唱えた陳独秀は党を除名される。

1930年

3月 共産党の影響のもとに魯迅を押し立てた左翼作家連盟が結成される。

汪精衛ら「改組派」、青年党員を結集し反将運動を起こす。閻錫山、馮玉祥、李宗仁が改組派に合流。河北での大規模な内戦(中原大戦)に発展する。双方合わせ100万の軍を動員、死傷者は30万人に上る。

9月 北平に「国民政府」が樹立される。主席に閻錫山、政府委員に汪精衛、馮玉祥、李宗仁が就任。

9月 張学良が蒋介石を支持し北平・天津に進出。これにより中原大戦は収束に向かう。

1930年

3月 この時点で、「革命根拠地」(ソヴェート)は15ヶ所、軍勢は合計で6万、銃器3万丁を確保する。ただしその多くが「遊民」(はみ出し者)によって占められていたという。

7月末 紅軍ゲリラが湖南省都・長沙および江西省都・南昌を同時攻撃。長沙を攻撃した第3軍団(彭徳懐)は1周間にわたり長沙を占拠。湖南省ソヴェート政府の樹立を宣言。朱徳・毛沢東の第4軍は南昌を攻撃するが甚大な被害を出し撤退。

9月 共産党の6期3中全会、上海で開催。

11月 蒋介石軍、第1回めの囲巣作戦。3ヶ月にわたる。

30年 上海の租界に中国側の特区法院(裁判所)が設置される。租界警察から中国側に政治犯の受け渡しが行われるようになり、向警予、鄧中夏、趙世炎、彭湃、揮代英らが相次いで逮捕・処刑される。

1931年

1月 共産党の6期3中全会、上海で開催。王明、博古(秦邦憲)、洛甫(張聞天)ら「28人のボリシェビキ」(ソ連で教育を受けた若い党員)が中枢を握る。ボスの王明はモスクワに戻り、博古、洛甫が周恩来とともに党を取り仕切る。

4月 2ヶ月にわたる第二次囲巣作戦。

7月 3ヶ月にわたる第三次囲巣作戦。

9月 満州事変の勃発により囲巣作戦が中止される。

9月 寧都蜂起が発生。囲巣作戦に動員された国民党軍1万7千が共産党に寝返る。

11.07 瑞金を首都とする「中華ソヴェート共和国」の建国が宣言される。臨時政府の主席に毛沢東、副主席に項英と張国壽(張国壽は湖北の根拠地鄂豫皖をしきっていた)、軍事委員会主席に朱徳が就任。ただし共産党の序列では王明、秦邦憲らが指導的地位にあり、政府の軍事委員会は党の軍事委員会(書記は周恩来)の管轄のもとにあった。

31年 中国共産党幹部の顧順章、向忠発が検挙され転向。上海の共産党組織は事実上の機能停止に追い込まれる。

1931年

2月 党の元老格で立法院長の胡漢民、蒋介石の方針に反発。蒋介石は胡漢民を逮捕、立法院長の職を剥奪する。

5月 胡漢民派の牙城である広州で反乱発生。これに汪精衛、孫科(孫文の長子)、李宗仁らが合流。「国民政府」の樹立を宣言する。

9.18 柳条湖事件が発生。その日のうちに関東軍が奉天、営口、長春など18都市を占領。朝鮮軍(朝鮮在駐の日本軍)が独断で国境を越え奉天に向かう。

9月 日本製品ボイコット運動により、日本商品の輸入は5分の1に落ち込む(12月実績)。「安内攘外」路線に固執する蒋介石への不満が高まる。

1932年

1.28 第一次上海事変。日本側の謀略により市街戦が展開される。

1月 満州事変を機に広州派が妥協。蒋介石の下野を条件に南京政府に合流。孫科が首班(行政院長)となる。

3.01 「満州国」が建国を宣言。

3月 孫科が退陣。汪精衛が行政院長、蒋介石が軍事委員長の「蒋汪合作体制」が発足する。

12月 宋慶齢、魯迅、蔡元培らが中国民権保障同盟(以下民権同盟)を結成。政治犯の釈放や言論の自由を求める。

1932年

7月 第4回目の囲巣作戦が開始される。国民党中央軍60万人が動員され、9ヶ月に及ぶ長期作戦となる。鄂豫皖の根拠地が壊滅するが、周恩来の指導により本拠地の囲巣作戦の撃退に成功。

10月 共産党の寧都会議。毛沢東は「右傾」を理由に党活動の第一線から排斥される。

1933年

初め 上海を逃れた共産党中央が瑞金に入る。王明は毛沢東の遊撃戦路線を否定。軍事指導権を取り上げる。

3月 蒋介石、日本軍による熱河侵攻を受け、いったん囲巣作戦を中止。

10月 第5次囲巣作戦が開始される。中央根拠地に対し正面だけで40万、後備もふくめ100万の大軍で押し寄せる。

11月 第一次上海事変で日本軍と戦った国民党軍19路軍の一部が福州で蜂起。反将抗日を掲げる福建人民政府を樹立。まもなく蒋介石の攻撃を受け崩壊。

1933年

6月 民権同盟幹部の楊杏仏、蒋介石の私兵集団「力行社」により暗殺される。同盟は活動停止に追い込まれる。

1934年 

4月 瑞金の北100キロの広昌で最大の決戦となる。紅軍は多大な犠牲者を出し敗退。中央根拠地の崩壊は時間の問題となる。

10月 共産党、中央根拠地からの撤退を決定。党中央が瑞金を撤収する。紅軍の基幹部隊である第一方面軍8万人が西方への移動を開始する。(長征そのものの過程については省略)

1935年

1.15 貴州省北部の遵義で中央政治局拡大会議が開かれる。伝説が多すぎるが、結果としては、①毛沢東ら現場の突き上げで秦邦憲(博古)とブラウン(軍事顧問)が指導権を放棄、②周恩来が指導権を掌握、これに張聞天、王稼祥がつく、③周恩来は毛沢東を政治局常務委員に引き上げる。なおこの時点で、秦邦憲は総書記の地位にとどまるが、2月には職を辞し、王稼祥がこれに代わる。

復元ではパスワードの問題は解決できず。結局、バックアップ・イメージから復元することになった。
DAコンバータの時もそうだったが、問題が起きてからイロイロ調べ始めるというのが毎度の話。
Lenovo のサイトを見たら私のノート・パソコン(Y560)はWin10 には対応していないことが分かった。さらに雑誌を見ると、オンラインのヴァージョン・アップはWin8を念頭に置いているようで、そもそも7からのジャンプアップに無理があるようだ.
多分、ログインとかパスワード認証の仕掛けが7と8のあいだで違っているのではないか。このことを強調すべきだろう。

バックアップによる復元が一晩かけて完成。だいぶ前に削除した古いファイルが復元された。多分4月ころにバックアップされたもののようだ。
ほとんどの情報はブログにあげてあるから、実害はあまりなかった。
WISWIGエディターも使えるようになったし、翻訳ソフトのユーザー登録もそのまま、user.dicも復活できた。とりあえずはめでたしめでたしだ。
もしWINDOWSをヴァージョンアップするときは、オンラインではなくやはりディスク版を購入すべきだろう。
勉強した、というか、させられた。ただほど高いものはないという言葉をあらためて痛感した。

土曜日の赤旗から
海外投資家の東証での日本売りが9月に入って際立っているようだ。
9月の海外投資家の日本株売り越しは2兆6千億円にのぼった。
とくに1日と29日には、1日で700円の急落と、売り浴びせ攻撃ともいうべき様相を呈している。
日本株

海外投資家が「日本売り」を強めているのに、株価が乱高下を繰り返しつつも維持されているのはなぜか。
それは国内信託銀行からの買いである。信託銀行の9月買い越し総額は8千億円近くに達した。
それに個人投資家の4千億の買い越しを足す形で株価は維持されている。
信託銀行の背後には年金運用機構(GPIF) がいる。GPIFは昨年株式投資枠を25%に拡大したことにより、17兆円の資金を手に入れた。これが信託銀行を通じて日本株の買い支えに回っているのである。

おそらく株式相場をあいだに、海外投資家と日本政府が対話をしているのだろう。
「リーマンショックの時には7千円だった相場、円安を織り込んでもちょっと高いんじゃないの?」
「いや、今のリフレ政策が維持されれば、このくらいでも十分適正です」
「果たしてどちらが正しいか」だが、日本政府が足元を見られていることは間違いない。
年金機構の15兆円を使い果たしたあと何が残っているかだ。
売り攻撃を仕掛けた投機資本はかなりのやけどを負っただろうが、もう少し長期のトレンド判断から日本離れをしている投資家もいるだろう。公的資金を株式相場に突っ込むような政府が、果たしてどのくらい信用できるだろうか。
前にも言ったが、1万4千円あたりが崖になる可能性はある。個人投資家はそこまで下がるとパニックになる。
97年危機のとき、アメリカは日本支持に回ったが、今度もそう行くか。
最悪の場合、「円安・株安」を引き金とする日本発の世界不況もありうる。

せっかくの3連休、これでパアになった。
予約を入れておいたが、いつまでも順番が来ない。雑誌を見たら、ソフトを導入するとすぐにダウンロードできるというので、直接あたってみた。かんたんにやれそうなので入れてみた。
しっかりバックアップしてからやれと書いてあったが、そんなことをしていたら日が暮れてしまう。
私のモットーは「備えなくして憂いなし」だ。
30分ほどで立ち上がった。
1.第一印象は、とにかく使い勝手が悪いということだ。
スマートフォンの指使いみたいな感じで、いまだにガラ系の私としては感覚的に合わない。
スタートボタンを押してみると、まったく異次元の世界が広がる。
2.ネットにつなごうとしたらエッジというブラウザーが出てくるが、まったく絵だらけで異次元だ。「俺はfirefoxでいいんだ」というがそこに行かせてくれない。
3.矢印がやたらと動くので、タッチパッドを無効化しようとしたが操作できない。シナプティクスのドライバーがないと言われる。仕方ないのでシナプティクスのサイトでWIN10用のドライバーを探してダウンロードして立ち上げたが、さっぱり効いているのかどうか分からない。
4.とにかくコントロールパネルを開こうと思ったが、ない!
雑誌を見ると、スタートボタンを右クリックすると出てくるという。たしかに出て来た。しかしこれではスタートボタンの意味がない。
むかし富士通やシャープのパソコンを買うと、デスクトップ画面いっぱいに要らないソフトがならんでいたが、あんな感じだ。
5.ソフトが壊れている。
自慢ではないが私の使っていたHTMLエディターは10年以上も前に買ったホームページ・クリエーターというソフトだ。今はそもそも会社がない。英文和訳ソフトも10年以上も前のシェアソフトでいまはバックアップもない。
この二つが壊れた。これがないと私は生きていけない。
Foobarも動かない。ファイルにアクセス出来ない。「聞きたかったらウィンドウズ・メディアプレーヤーでどうぞ」という仕掛けになっている。
6.先ほどやっとWIN7への復帰に成功したところ。
ソフトは壊れたままだ。どうしようかと頭を抱えている。
みなさん、寿命のあるかぎりはwin7を離れてはいけません。
そのうち11とか12とか出てくるでしょう。
MeとかVistaを買った人に比べればお金を出していないだけましですが、壊れたソフトを戻すには「まるごとバックアップ」による修復を試みるしかないのでしょう。
とりあえず明日は復元でなんとかならないかためしてみるつもりです。
それでは、お寝みなさい。





「盲、蛇に怖じず」(すみません、差別用語です)で「GDEはナンセンス」と書いたが、まんざら間違っていたわけではなさそうだ。
こんなページがあったので紹介しておく。リンクしようとしたら、間違えて元ページ閉じちゃった。すみません。無断借用になります。

GDEという言い方は、誤解を招く概念ですので使わないようになっていますが、これをGDP(支出側)と読み替えて考えてみますね。

先ほどの式では、

①生産 + 貿易差益 - 在庫品増加 = 国内総供給

国内総需要 = 最終消費支出 + 中間消費 + 総資本形成

ですから、少し書き換えて、

③生産 - 中間消費 = 最終消費支出 + 総資本形成 + 在庫品増加 + 貿易差益

となります。

一国全体では中間消費と中間投入は等しいですから、これの左辺がGDP(生産側)、右辺がGDP(支出側)です。

GDEだと『国内総支出』になってしまい、国内における総需要に見えてしまいます。

が、実際に意味しているのは「国内生産された付加価値に対する支出」ですから、総需要とは異なる概念です。

これでは、用語があまり適切とは言えませんので、2012年基準改定からこの言い方はしていません。

なんだそうだ。
の式が、私の提示した式ですね。ついでに国内総需要の式も提示してくれているので、三つ目の問題も一応解決。

それにしても、経理屋さんや統計屋さんの議論にはあまり加わりたくない。バランスシートの枠の中しか見ず、バランスシートで世の中がわかると思い込んでいる。貸借対照表の左と右がピタリと符合することに無上の喜びを感じる。これはフェティッシュな信心の世界だ。

国民総資産(gross national stock) の勉強

国民総資産は9294兆円(平成25年度末)とされ、米国に続き世界第2位となっている。今年の日本ハムのように、ソフトバンクにはとうてい及ばないが、他球団との関係では“ぶっちぎりの2位”となっている。

この国民総資産から総負債を差し引いたものを「国富」(正味資産)というのだそうだ。日本の「国富」は概ね3千兆円前後(対外純資産込み)で推移している。ということは金融資産=負債が6千兆円あるということになる。

人口1億とすると一人あたり3千万円ということか。ただしここに家計・企業・金融・公共の各部門がふくまれる。家計の総資産はこの内の1/3程度とされる。

「国富」は統計上は

1.生産資産である「在庫」、

2.「有形固定資産(住宅・建物、構築物、機械・設備、耐久消費財など)」、

3.「無形固定資産(コンピュータソフトウェア)」、

4.「非生産資産(土地、地下資源、漁場など)」

5.「対外純資産」

などからなる。金融資産はここにはふくまれない。

無形の文化資本などは勘定に入らない。


しかし、資産というのはあの貸借対照表の絡みで計上されるものであり、分かりにくいというより飲み込みにくいものだ。

竹中正治さんの記事(15年1月)から

NHKが「国民資産が前の年より7.2%増えて9294兆6000億円となった」と報道した。竹中さんはこれに噛みつく。

誰かの金融資産は別の誰かの負債であるから、国内での金融資産・負債は相殺してゼロになる。

株が上がっても、国債が大量に発行されても、それは貸し借りの関係が拡大しただけで、国富は増えない。

一国にとって意味があるのは、相殺されることのない非金融資産(主に土地と建物・設備など)と対外的な純資産(対外資産ー対外負債)だけだ。

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ということで会計学的にはすっきりするかもしれないが、これでは生産を引っ張り富を生み出す流動資産はすっぽり抜け落ちてしまう。簿価ばっかりの抜け殻のような指標になってしまう。

金融資産は、すべて貸し倒れになってしまえばチャラだが、実際にそんなことはありえないだろう。逆に、パブルで高騰した不動産(含み資産)がぺしゃんこになってしまう場合もある。

竹中さんには申し訳ないが、上図のイメージを踏まえたうえで、金融資産も含めた「国内総資産」を指標としていくことになるのではないか。



経済マクロの指標を「身体測定」の論理で考える

いくら経済の教科書を読んでも分からない。経済マクロの指標(ファンダメンタルズ)とは何かということだ。あれもある、これもあると並べ立てるだけでそこに論理的整合性はない。さらに経済マクロは財政マクロ、金融マクロなどと細分化される。

なにとなにをマクロ指標とするかで流派があるようにさえ見える。

そこで素人なりに考えてみた。わかりやすくするために、「身体測定」の論理を用いる。

1.身体測定

身体測定というのは、むかし小学校の頃やっていたもっとも単純な健康診断法である。基本的には身長と体重である。場合によっては座高と胸囲が加わった。短足の私は座高が嫌いだった。座高と健康の間に何の関係があるのか! 俳優やモデルになるわけでもないのに、胴長・短足で何が悪い!

おそらく意味があるのは平均値からの偏差であろうが、実際には大きいほうが良いと考えられた。「健康優良児」という表彰制度があって、昔で言えば甲種合格ということになる。

とにかくこれが一番プリミティブな健康診断である。ものすごく多くの仮定条件がつくので、それだけで決定的なことは言えないにしても、やはりまっさきに掲げるべきマクロ指標であろう。

身長・体重に相当するものは何であろうか。それは総資産であろう。資産と言っても色々あるが、とりあえずネットで総資産とくるめておく。

2.経年変化

身体測定は毎年やって経時変化を見ることによって、大きな意味を持っていくことになる。体は黙っていても成長していく。翌年の身体測定ではほぼ必ずすべての指標が増加している。この増加率が問題なのだ。

この増加は何によってもたらされたか。基本的には食べ物である。食べ物の栄養の内、半分が排出される。残りの半分が体に取り込まれ、その何割かは体を動かす動力として使われ、何割かは古くなった体成分と置き換えられる。すなわち消費される。そして残りの(多分1%くらい)成分が成長に用いられる。

この食い物の生産が国内総生産(GDP:Gross Domestic Product)にあたる。

3.ちょっと付け足し 「国内総支出」というナンセンス

これに対して国内総支出(GDE:Gross Domestic Expenditure)というのがある。排出分と消費分を合わせたものだとすれば、排出分が完全に再利用された場合、かつ総資産がゼロ成長の場合はGDP=GDEとなる。

ただ、ちょっとおかしいのは、食い物の生産には原料や材料が必要なのだが、それは総資産から振り向けられるほかない。だからGDPの分だけ総資産は目減りしているはずである。とすれば総支出と総生産が等しいとすれば、総資産は減っていくのではないか。

支出を生産的消費に向けられる部分と純粋に消費される部分に分けると、生産的消費への支出と生産額がイコールの関係になって、純粋消費分はそれでは埋めきれないのではないか。そう考えると生産分は消費分を上回っていると見るべきだろう。「支出」と「消費」という言葉の異同については注意が必要だ。

多分、国内総支出(GDE:Gross Domestic Expenditure)というのはいわば後知恵で、あまり意味のない統計数字だろう。我々の基本的関心は「売りと買い」にはない。欲しいのはその背後にある「生産と消費」である。「国内総消費」の数字(おそらくは剰余価値と照応)が独立して必要になるだろう。

三面等価:早わかりみたいなページを見ると、Y=C+I+G+(EX-IM) と御大層な式が掲げられている。Y(生産)はC(消費)の他にI(投資)、G(税金)、貿易収支が入りますよということだ。
この式を知っているかいないかが,間違った経済理解(一般常識)に進むか,本物の「経済学」に進むかの,分岐点なのです
しかし私に言わせれば、これは家計簿みたいなもので、「いろいろと金はかかるんですよ」と出口論を語っているにすぎない。
この式をもっと正確に書くなら
Y=Y'(生産経費)+I+G+(EX-IM)と書くべきだろう。
Y'を左に移せば
Y-Y'=I+G+(EX-IM)となる。
Y-Y'というのは生産活動により付加された価値だ。

4.食べれば大きくなる

GDPというのは生産活動に回る資産の割合でもある。成長期には驚くほどガツガツと食べる。エンゲル係数もこれに比例して上がることになる。

戦争中は金の指輪からお寺の鐘まで供出して兵器の生産に集中した。守るべき国民資産を削ってまで生産に回せばたしかに生産は上がる。

したがって、GDPは国民収奪の度合いを示す指標でもある。(正確には総資産に対する総生産の割合)

もちろん国や資本家に手持ち資産があれば、そちらを使えばいいのだが、新興国ではしばしば手持ち資産がないから、庶民の資産をひったくることになる。

ラテンアメリカ諸国の経済を分析するときにしばしばこの問題にぶつかる。GDPを収奪強度の指標としてみなければならない場面がしばしばある。

5.突然ですが、心臓突然死のお話

最近の発育曲線は知りませんが、30年ほど前は中学3年から高校1年生にかけてが危険な時期でした。

男子ではいろいろ不整脈が出る時期です。女子では生理不順、貧血、めまいなどが頻発します。

私はこう説明していました。急速に体は大きくなるが内臓は着実にしか成長しないので、ギャップが生じてしまう。そのしわ寄せが心臓に集中する。それは軽自動車のエンジンで大型トラックを動かしているようなものだと。

今では、もう少し心臓独自の事情が関与しているのではないかと思うようになっていますが、人に説得するにはきわめて有効な「仮説」であります。

GDP悪者論ではない。ただGDPを見るときには、その国の資本主義の歴史的発達段階、理論的には「総生産/総資産」の観点が必要だということを言いたかったのです。

6.とりあえずのまとめ

以上から、マクロ中のマクロというのは次のようなものであることが分かった。

国内総資産

国内総需要

国内総生産

国内総消費(生産的消費+純粋消費)

それらがどう関係するかというと、

①国内総資産から原資が抜き出され、生産に充てられる。

②原資(資本)は生産過程で消費され、それを上回る富(国内総生産)としてリターンされる。

③国内総生産から生産的消費分を国内総資産に戻す。残りの富が国民生活の糧として純粋消費されるが、一部は使わずに総資産に付け加えられる。

④増加した総資産の一部は生産のための原資として再利用される。そのための原資は生産が繰り返される度に増えていく。

⑤しかし元手が増えても自動的に生産が拡大するわけではない。総資産からどのくらいの資本が引き出されるかは、国内総需要、とくに純粋消費を目的とする需要によって規定される。

⑥生産の拡大は需要の拡大(欲望の増大)を必須条件とする。したがってGDP成長率は需要の拡大を間接的に示す指標である。

ここを把握するか否かが,間違った経済理解(一般常識)に進むか,本物の「経済学」に進むかの,分岐点なのです

これらがわかると、後はそれぞれを割ったりかけたりすれば出てくるものばかりである。

しかし国内総生産を除けばはっきりした数字では出てこない。だから貯蓄残高とか設備投資残高など出てくる数字を使って近似的に求めることになる。

それを称してマクロ経済学と言っているのではないだろうか。

間違っていたらごめんなさい。


すみません。気分が悪くなることうけ合いの写真を載せます。
難民
以下が第一報
難民を中傷するイラストを日本人の漫画家がフェイスブック(FB)に投稿し、「極めて差別的」などと国内外から批判が集中した。イラストは、実在するシリア難民の少女の写真と酷似しており、英国在住の写真家からの要請を受け、7日に削除された。
以下がその写真
難民2
国際支援団体「セーブ・ザ・チルドレンUK」の職員で写真家のジョナサン・ハイアムズ氏が、シリア国境に近いレバノンの難民キャンプで撮影した6歳の少女の写真と、構図や表情がそっくりだった。ハイアムズ氏はツイッターで「無垢(むく)な子供の写真がゆがんだ偏見を表現するために使われたことにショックと深い悲しみを覚える。シリアの人々の苦境をゆがめて伝えており、恥を知るべきだ」とコメント。
それで、この漫画家だが、堂々と実名で投稿しているのだ。
蓮見都志子氏。FBで「安倍総理を支える会」の管理人を自称している。自分の写真まで掲載している。
毎日新聞によると、蓮見氏は騒動が起きた後も「“なりすまし難民”ではないかと考えています」と投稿している。ハイアムズ氏がもとめる「恥の回路」が完全に破壊されているようだ。
以前、テレビのワイドショーで生活保護バッシングをやって、総スカンを食らうと「私の言論の自由が侵された」とさめざめと泣いた女性議員がいた。こういうのを「ワニの涙」という。
ところがテレビはこの議員を繰り返し登場させ、目一杯持ち上げた。批判した人たちは口をつぐんだ。
こういう漫画家がいること自体恐ろしいことだが、それをもてはやす環境が恐ろしい。いまや彼らは暗闇から人を刺すネトウヨではない。堂々と本名を名乗り、大手を振って表街道を闊歩している。まともな人間は陰で縮こまっている。インナー・サークルの体制化の過程が目前に現出しているのだ。

このままでは、今に甘粕少尉がもてはやされる時代がやってくる。
「国民連合政府」は、我々まともな人間の命綱だ。

ここまで拾ってきた「各界の声」から、「国民連合政府」の勘所を整理してみたいと思う。

各界の意見で国民連合政府構想を補強してみると、かなりその外形がすっきりしてくる。

1.国民連合政府の目標

まずその目標としては、戦争法を破棄するだけでなく、戦争法を成立させる過程で行われたさまざまな立憲主義、議会制民主主義の破壊を修復し、近代政治の本来のあり方に戻すことである。

憲法学者・長谷部恭男氏の主張は非常に重要である。
これからどう戦っていくか。最後は政権を変えるしかないと思う。今回の安保法制を廃止する法案を提出して成立させるだけでは駄目で、集団的自衛権行使を容認した閣議決定を「間違っていた」と、元に戻してもらわないといけない。
「国民連合政府」を最初に提示したのは共産党でなく、自民党推薦の参考人をつとめた憲法学者であったことを想起しなければならない。

立憲主義の再確立に関しては、専門家の合意を受けてその内容を確定していく必要がある。これについては長谷部さんの指摘が示唆的である。

毀損された憲法解釈の基本的論理
1.個別的自衛権の行使の条件(1972年の政府見解)
「日本の国の存立が脅かされる」事態の定義が拡大されている。
2.武力行使の限定が撤廃された
武力行使は限定されるというが、地球の反対側まで行って武力行使できるというのは、どう考えても限定されていない。 
3.「武力行使の一体化」禁止の撤廃
 弾薬の提供や発進準備中の航空機への給油は、明らかに憲法上禁じられてきた他国との武力行使の一体化だ。
4.政府の恣意的憲法解釈が可能に
内閣法制局長官の人事にまで手を突っ込んだ。政府の憲法解釈を、時の政権が変えられるようになった。立憲主義に対する正面からの挑戦としか言いようがない。

国民連合政府=内閣はこれらの手続きを完了した後、選挙管理内閣に移行する。したがってこの政府は暫定的な性格を持つ。

戦争法廃棄を担保するためには、閣議決定の破棄にとどまらず、内閣法制局のあり方再確立、防衛省への文民統制の徹底、自衛隊出動基準の再確認と厳密化などさまざまな法的手立てが必要となるが、それらの課題は国民連合政府のさしあたっての任務からは外れるかもしれない。

2.「野党共闘政権」としての性格

国民連合政府が成立するためには選挙での勝利が必要であり、そのためには野党の協力が必要である。

反対勢力は当面、野党勢力にとどまらざるをえないが、保守層からも民主主義・立憲主義を大切にする流れが強まることを望む。新しい政治はそのようにして生まれるはずだ。(憲法学者の浦田さん)

野党協力の到達点は9月18日の野党党首会談での合意である。すなわち「どういう事態になっても、今後とも憲法の立憲主義・平和主義・民主主義を守るために協力して行動する」という確認である。

(戦争法案が審議入りして以降)衆議院段階で2回、参議院段階で4回、合計6回の野党党首会談が行われた。
野党共闘は最初は頼りなかったが、次第に腰が定まった。それにより抵抗運動が盛り上がった。(中野)
そして「強引な採決に反対する」「法案の成立を阻止する」などで結束し、最後は、内閣不信任案や問責決議案を共同提出した。

「立憲主義・平和主義・民主主義」が現に毀損された以上、これを元に復することは、確認の延長上にある。

これが野党共闘の到達点であり、「野党共闘政権」のための出発点である。

基本的な政策理念の一致がなければ「野合」に過ぎないという批判はわかります。しかしいまは、違憲の安保法制を廃止し、安倍強権政治を止めるということ以上に崇高な理念があるでしょうか。(政治学者 山口二郎さん)

「国民連合政府」は実体としては「選挙協力にもとづく野党共闘政権」であるが、その性格はたんなる野党間の共闘ではなく国民的なものであるから、「国民連合政府」と称することは正しい。

しかし共産党が綱領で唱える「民主連合政府」と紛らわしいというのであれば、名称は「オリーブの木」などでも問題はないと思う。

3.戦争法反対運動の総括

これについては別のあつかいが必要だ。

一応、野党共闘と国民連合政府へと向かう巨大な流れについて注目しておこう。

まず国民の怒りの凄まじさ、平和への願いの強さをどう評価するか。

ここまで反対運動が盛り上がったこと、そしてこんなに憲法の平和主義への愛情が根深いものだったとは正直予想外でした。…立憲主義という言葉がこれほど浸透し、その是非が政治の争点になるというのも予想以上です。(政治学者 山口二郎さん)

闘いの精神が内的論理としているのは、「暴挙、独裁、非常事態、正論、大義、責務、本気、決意、覚悟」などの言葉だ。そしてそのなかで「国民的大義」という言葉が中核的イメージとして浮かび上がってきたといえるだろう。

池田香代子さんは、この闘いを「第3次安保闘争」と呼んでいる。その上で第1次、第2次安保闘争との違い、新しさを「無党派の若者を先頭に、市民が非暴力の抵抗権を行使し、運動の出口として選挙による議会制民主主義の回復を指し示した」と評価している。

この人は第1次も第2次も知らない世代と思う。体験者からすると、「いやいや、こんなものじゃなかったよ」と喉まで声が出かかるかもしれないが、それは飲み込もう。

若者の動きは波の先端の白浪のようなもので、実は中高年と女性を中心とした津波のようなうねりと地殻変動だった。それは過去二回の安保闘争を遥かに上回る規模で、既存政治を飲み込もうとしている。

4.野党共闘の論理

「国民的大義」が野党共闘を築き上げたという実感は多くの人が語っている。野党共闘は闘いのなかで育まれた。したがって、「暴挙、独裁、非常事態、正論、大義、責務、本気、決意、覚悟」という闘いの精神を受け継いでいる。

「憲法の立憲主義・平和主義・民主主義を守るために協力して行動する」という確認を守ることは、野党共闘に加わったすべての政党にとって存在価値をかけた大義であり、国民から課せられた責務なのである。

国会前に多くの皆さんが集まり、声を上げました。その声は反対派の野党に届き、野党と私たち市民の動きが完全に連帯しました。
強行はされたけど、そういった大きな賜物、これから社会を変えていくために必要な大きなものが生まれたと思っています。(ミサオ・レッドウルフさん)

野党は議会の中では少数派である。しかしいまや立憲主義・民主主義を守る運動の主人公となっている。

野党は今や国民の中では多数派である。野党は政府を握ることを恐れてはならない。多数派の声を代表し政府を握ることにより、立憲主義・民主主義を守らなければならない。

広瀬清吾さん(学術会議前会長)は「これからの運動は歴史上はじめての市民革命的大改革となるだろう。なぜならそれは反対運動を豊かに発展させ、国民多数の意思を国会の多数にし、そこに立つ政権を誕生させる運動だからだ」という。
小林節さんは「民主革命だ。(次は)政権交代だ! それ(国民連合政府)以外に方法はない!」と咆哮している。

もしそれが出来なければ、野党は国民を裏切ることになり、立憲主義・民主主義は野党とともに死んでしまうことになる。

だから野党が本当にしっかりしてもらわないと、国会機能が今の状態でずっと推移していくとしたら、自民党だけでなく野党の責任もあると言いたい。(庄原選出の自民党県議の小林秀矩さん)
政治の劣化に野党は共同の認識を持つべきです。国民連合政府をいかに成功させるかに議会制民主主義の未来がかかっています。(内橋克人さん)

 

5.国民連合政府樹立への行程

A 野党間合意

安倍内閣打倒、暫定的内閣の設置、閣議決定の廃棄、戦争法廃棄法案の策定

B 統一政策・統一スローガンの発表、選挙確認団体の立ち上げ、市民組織の扱い討議

C 選挙協力のすり合わせと公認候補の選定、(野田や前原も支持するのか? 彼らが民主党員として3条件を支持すれば支持することになる)

D 選挙勝利と組閣

E 閣議での集団自衛権否認決定 憲法尊重の確認

F 戦争法廃棄法案の提出、審議、可決

G 選挙管理内閣への移行

6.「国民連合政府をもとめる会」がもとめられている

名称はどうでもよいのだが、野党共闘政権の実現をもとめる国民的圧力が高まっていくだろう。

若手弁護士の黒澤さんは、「各野党には、まず、この国民の闘いに応じること、国民のための政治をする覚悟を示すことを求めたい」という。この気迫が最大の圧力である。

具体的な行動としては、憲法学者の石川裕一郎さんの提言が非常に説得力を持っている。

今回の運動のなかで、日本の民主主義は、“ひとつ上のステージ”に上った。それは専門家、一般人がさまざまな情報を交換し、議論したためだ。
そのひとつ上のステージで「呼びかけ」が出されたのだから、それについてもひとつ上のステージで議論しよう。それは各野党が妥協可能な点をそれぞれの専門領域において検討し、具体的な提言を行うことである。
政党を上から目線で批判したり、どうせ野党はまとまらないと切り捨ててはいけない。

ということで、1.この間の野党共闘の前進(積み上げ)の意義をしっかり整理して捉え、その先に新たな共闘のあり方を模索すること。2.国民連合政府を踏み絵にして迫るのではなく、野党共闘のさらなるステップアップを最大の獲得目標とすること、3.そのためのひとつの叩き台として「国民連合政府」構想を最大限活用すること、を骨子としている。ややまどろっこしいようだが、たしかに正論である。

もちろん、この運動は倫理的運動ではなく政治選択そのものであるから、これまでになく「ハードルは高い」ものとなるだろう。

民主党の岡田委員長が「ハードルは高い」と言っているのは、逆説的にこの事を指しているのではないか。しかし津波のような国民のエネルギーは、このようなハードルを軽々と乗り越えて行ってしまうのではないか、とも思う。

シールズのツィッターを覗いてみる。彼らは猛烈な勢いで知識と知恵を吸収しつつある。
おじさんやおばさんが何故闘い続けてきたかを学びつつある。彼らは「偏向した」教科書で育ち、その上にネットの世界を受容してきた。
そこにはリアル・ワールドはなかった。いま垣根が取り払われて、おじさんやおばさんの世界が自分の身近なものとして迫ってきた。多分、おぎゃぁと生まれて以来初めての経験ではなかろうか。
「自己責任」の世界に切り離されてきた彼らが、初めて味わう「連帯」の世界「頼りあっていい世界」、「甘えてもいい世界」である。
人間が成長するためにはこういう世界が絶対に必要なのだ。
原発、慰安婦、ブラック企業から始まって嫌韓、侵略、沖縄、橋下、TPPと次々に生きた知識が広がっていく。
これらは見守るほかない。彼らは旺盛な食欲でこれらを噛み砕いて我がものとしていくであろう。
我々はこれを支えていくであろう。チリの民衆が学生を支えたのと同じように。

2015年9月26日 の日刊ゲンダイ
岡田さんは、細野さんや前原さんら保守系議員に気を使い過ぎ。それに世論は共産党アレルギーよ り、むしろ政権交代を台無しにした民主党へのアレルギーの方が強いのが現実です。党が一緒になるわけじゃないし、まずは参院選で自公に勝利して衆参のねじ れをつくる。そうしたことが理解できないのなら、政治オンチ。
ということで、どうも風は共産党に吹いているようだ。沢地さんが心配した「国民連合政府」という言葉へのアレルギーも案外無いみたいだ。(もちろん、これから国民連合政府=民主連合政府という反共攻撃が強化されるとは思うが)
というより、民主党を壊滅に追い込んだ世間の風が、いまや引導を渡しかねない状況になっている。
反「国民連合政府」を、どこまで貫けるか。沈みつつある泥船にしがみつく議員が、いつ思い切って「このまま死ぬよりマシ」と舵を切り替えるか。しばらくは力勝負になりそうだ。

国民連合政府の核は「野党共闘」による政権

我々が実現すべき政府は、戦争法を廃棄し、閣議決定など、これまでの非立憲的な政府判断や手続きを無効にする政府だ。

その政府は短命なものであり、任務を果たせばただちに選挙管理内閣に移行する。

この政府構想は、戦争法に反対するほとんどすべての人の一致したイメージと重なるであろう。


若い活動家たちの素直な気持ちを受け止めることが一番

その際、国会前で闘い続けてきた人の素直な気持ちを受け止めることが一番だろうと思う。若い活動家たちの確信は、「野党共闘」の成立と前進こそが闘争の最大の成果だということにある。

問題は巨大な自公連合と弱小な野党勢力の力関係にあるのではなく、野党がバラバラでまとまって抵抗できないことにある。国民世論の中では反対派が圧倒的なのだから、野党がまとまればその力は巨大なものとなる。

彼らはそう考え、野党がまとまるよう励まし続けた。そうしてついには野党が一致して法案に反対するまでに共闘を育て上げた。ここに確信を持つから法案成立後も挫折せず、意気軒昂としているのである。

彼らにとっては(そして我々にとっても)、「野党共闘」はたんなる野党の共闘ではなく、自らが作り上げた “固有名詞としての野党共闘” なのである。

彼らはこの「野党共闘」がさらに発展していくことを期待している。それは選挙協力であり、それによって「野党共闘」勢力が議会の過半数を制することであり、戦争法を廃棄することであり、戦争法成立の過程で侵された立憲主義と議会制民主主義の諸原則をもとに戻すことである。


「野党共闘政権」と共産党の「国民連合政府」は同じなのだが…

この願いに呼応する形で提起されたのが共産党の「国民連合政府」構想である。ただそこには微妙なブレがあるかもしれない。人によっては「天上から舞い降りてきた」構想のように聞こえるかもしれない。そこが「国民連合政府という名称へのアレルギー」(沢地)となって出てくるかもしれないのである。

澤地久枝さんの談話: 提案にある「国民連合政府」という名称にアレルギーを持つ人がいるかもしれないと思いましたが、先日、市田副委員長と対談した際、「政府の名称にはこだわらない」と説明されて納得しました。(10月4日 赤旗)

国会前で大闘争を指導した若き闘士たちは、「野党」の誠実さについて多少ナイーブなところがあるかもしれない。党派によっては力で押し込んでいかなければならない場面が出てくるかもしれない。

とはいえ、若き闘士たちが築き上げたこの枠組はきわめて貴重なものであり、これからの運動を積み上げていく際に、つねに「野党共闘」が原点として確認されていくべきだろう。


ジェームス三木の連載「ドラマに首ったけ」(赤旗ラ・テ面)は毎回面白い。時に一人で抱腹絶倒することもある。
このコラムと対角線上に掲載される鶴橋由夫のエッセイとしのぎを削っている。
本日(37回目)にはうーむと思わせるフレーズがあった。それが見出しの一文。
少し正確に引用しておこう。
全国の各家庭に受像機のあるテレビは、電気や水道に等しい。テレビドラマは小型映画ではなく、むしろラジオに絵がついたものと考えるの正当な評価ではなかったか。
…観客を暗闇に閉じ込めて、入場料をとり、会話も飲食もさせない映画館は、安直なテレビのあおりをまともに食らい、客席はガラガラになった。
実は抱腹絶倒したのはそれよりちょっと前。
脚本にミスプリントが多いという例で、自分の名が「ジュース三本」になっていたと書いた後、
大奥の局(つぼね)部屋に若侍が忍びこむというト書きで、「屋」が抜けていたこともある。
という赤旗に載せるにはちと憚られる、お下劣な話。

土日かけて東京のAALA総会に行って、帰ってきたら、また赤旗に各界の意見が満載。
当然の事ながら、当分終わりそうもない。
澤地久枝さん
提案にある「国民連合政府」という名称にアレルギーを持つ人がいるかもしれないと思いましたが、市田副委員長が「政府の名称にはこだわらない」と説明されて納得しました。
なるほど、そういうこともあるな。「統一戦線」論から説き起こす人もいるが、それはあくまで身内の議論だということをわきまえる必要があるな。とにかく「この際ケチなことを考えるな」と、沢地さんは諭しているのだと思う。
とにかく、革命をやろうっていうんじゃないのだから。(無党派の人が“なんとか革命”って騒ぐのは一向に差し支えないが…)
進歩勢力の課題、民主勢力の課題というのはそれぞれ独自にあって、論理はそれなりに一貫して分かちがたく結びついているのだが、今はそれはそれとして割りきっていかなければならない。
永田和宏さん(京大名誉教授・歌人)
こんどこそ従来の政党エゴを捨てて、戦争法を廃止に持ち込むというその一点で団結することが大切。
小異を捨てて共闘することが出来なかったことが今回の事態を招いたことを、各人が銘記すべきです。
小林秀矩さん(庄原選出の自民党県議)
だから野党が本当にしっかりしてもらわないと、国会機能が今の状態でずっと推移していくとしたら、自民党だけでなく野党の責任もあると言いたい。
ミサオ・レッドウルフさん
国会前に多くの皆さんが集まり、声を上げました。その声は反対派の野党に届き、野党と私たち市民の動きが完全に連帯しました。
強行はされたけど、そういった大きな賜物、これから社会を変えていくために必要な大きなものが生まれたと思っています。
千葉泰真さん(SEALDs活動家)
僕たちは国会前で声を上げ続けました。国会の中では、多くの野党議員が尽力しました。
野党の皆さんに強く念を押したい。どうか9月19日を悔しさを忘れないでください。僕たちの悔しさを共有し続けてください。


国民連合政府 各界の意見 その3

「ほぼ拾ったな」と思い、幕引きしようとしたら、赤旗日曜版の方にも意見が載せられていた。日刊とはほとんどダブっていない。

作家の室井佑月さん

選挙協力を提案した点だけ抜き出す報道も目立ちました。でも提案で一番大事な部分は、戦争法廃止などの「国民的大義」を掲げたところです。

安保法制を廃止することは国民の願い、それを実現するのは国民的な大義です。

戦争法を廃止し、立憲主義を取り戻した後は解散・総選挙を行うと明言しているのも共感を広げるでしょう。

ということで、「大義」を出発点に据えたこと、終点を明確にしたことを大きく評価している。この意見には共感を覚える。

政治学者の山口二郎さん

ここまで反対運動が盛り上がったこと、そしてこんなに憲法の平和主義への愛情が根深いものだったとは正直予想外でした。

学生、教員、市民が対等に並んで運動する姿は、60年安保でもなかったでしょう。

立憲主義という言葉がこれほど浸透し、その是非が政治の争点になるというのも予想以上です。

共産党の提案に、一部に否定的な反応がありますが、安倍政治を止めるには大同団結しかありません。敵の敵は味方というリアリズム を共有すべきです。

「基本的な政策理念の一致が必要」という意見(「野合批判」論)はわかります。しかしいまは、違憲の安保法制を廃止し、安倍強権政治を止めるということ以上に崇高な理念があるでしょうか。まず、そこから始めるべきです。

山口さんの意見はいまの情勢、というよりこれから予想される動きにピッタリと噛み合っている。素晴らしい。

もう一つは、我々の出発点として、「大義」と並んでもう一つの大事なこと、運動の前進への「感動」という論点を打ち出したことだ。

それにしても 敵の敵は味方というリアリズム とは言いも言ったり!

想田和弘さん(映画作家)

映画作家というのがどういう職業か分からない。それなりの共産党アレルギーの持ち主らしい。

言っていることはたいしたものではない。この人が赤旗に載ったことに意味があるようだ。

ただ赤旗登場のきっかけを次のように書いていることに注目した。

国民連合政府の呼びかけを報道で知り、ネットで全文と志位さんの記者会見の一問一答を読みました。良く検討され、考えぬかれた提案だと感じました。

先に上げた室井さんも同じような経過で提案に触れている。やはり、今やネット時代なのだ。

「第三次安保闘争」論について

確かに魅力的な提起だ。それは我々団塊の世代が待ち望んできたものでもあった。80年にも90年にも00年にも10年にも、その波はこなかった。

実に半世紀をかけてそのビッグウェーブが来たのだとしたら、それは血湧き胸躍る瞬間だ。しかし、次に来る波はもっと異質のものではなかろうか。

若者、若者というが、札幌やさらに田舎の町では相変わらず初老の活動家集団が主体だ。(いまや初老とさえ言えないほどの平均年齢70歳軍団だ)

運動のスタイルが「成熟」してきたのは、運動が高度化したのではなく、それを担う主体が「成熟化」したのも大きいと思う。今更ジグザグやフランスデモもないだろう。孫のような警官の指示に唯々諾々と従いながら、成すべきことは成していくというのが老人パワーにはふさわしいのかもしれない。

しかし老人は闘争の息が長いことを知っているから、挫折もしないしあきらめもしない。しつこい事この上ない。

話は変わるが、先日、アメリカ政治を研究する人と話す機会があった。

ちょっと、八つぁん熊さんの会話的に再現してみる。

「それで、オキュパイはどうなったんですかねぇ」

「どうもこうもない。見事に、ウソのように雲散霧消ですよ」

「たんなるファッションだったんでしょうかねぇ」

「あらためてアメリカの草の根保守の底力を見せつけられた思いです」

「例えば、それが公務員労働者の闘争や、パート労働者の最低賃金引き上げに反映されているとはいえませんか」

「うーむ、それはそれでしょうね。少なくともオキュパイをになった青年がそういう運動に関わっているという徴候はありません」

「むしろ、ニューヨーク市長選挙の勝利とかに関連しているかもしれません。彼らの中にはそういう運動のミリタントとして力を発揮できそうな人がたくさんいますから」

「結局、ウエイ・オブ・ライフは変わっていないということですか」

「そうですね。個人の力というのはすごいんですが、集団という論理を持ちにくいのかもしれませんね」

というふうに日米文化論になってしまうと、それ以上の話の接穂がない。

ただアメリカと日本は違うのだ。日本は若者を育てながら組織として成長していく。ただ育てる対象としての若者がいなかっただけだ。もう一頑張りとしつこさが必要だ。若者がメラメラと燃え上がるまで、その下で熾き火を寄せ集めてもう一度吹き起こさなければならないのだろう。

それが我らが世代の「第三次安保闘争」だろうと思う。そして全国で若者が燃え上がったとき、それは第3次などというせこいものではなく、国を根底から揺り動かす未曾有の大運動となっていくだろうと思う。

長谷部恭男さん(憲法学者)

赤旗で紹介された、東京新聞9月18日の長谷部恭男さんの主張が、まだ閲覧可能だ。

【言わねばならないこと】<特別編>憲法 踏み外していないか 憲法学者・長谷部恭男氏

消えた時のために要旨を紹介しておく。

「従来の憲法解釈の基本的論理は維持されている」という政府の主張には問題点がある。

1.1972年の政府見解は、個別的自衛権の行使が認められることを根拠づけている。しかし「日本の国の存立が脅かされ、国民の生命、幸福追求の権利が根底から覆される」事態がその前提となっている。例えば尖閣諸島をどこかの国が占拠したとして、それが「日本の国の存立が脅かされる事態」か議論の余地がある。いわんや集団的自衛権行使を正当化できるのか。

2.1959年の砂川判決は、米軍の駐留が憲法九条二項に反しないかが問われた裁判で、集団的自衛権は争点になっていない。だから根拠になるはずがない。

3.「日本を取り巻く安全保障環境が厳しさを増している」というのも、具体的説明がない。本当に環境が厳しくなっているなら、米軍をお手伝いするのは愚の骨頂だ。

4.武力行使は限定されるというが、地球の反対側まで行って武力行使できるというのは、どう考えても限定されていない。

5.弾薬の提供や発進準備中の航空機への給油は、明らかに憲法上禁じられてきた他国との武力行使の一体化だ。これについて政府は説明できていない。

6.安倍政権は、内閣法制局長官の人事にまで手を突っ込んだ。政府の憲法解釈を、時の政権が変えられるようになった。立憲主義に対する正面からの挑戦としか言いようがない。

これからどう戦っていくか。最後は政権を変えるしかないと思う。今回の安保法制を廃止する法案を提出して成立させるだけでは駄目で、集団的自衛権行使を容認した閣議決定を「間違っていた」と、元に戻してもらわないといけない。

国会前などの抗議行動に出かけているが、何の組織・団体に動員されたわけでもなく、何万人もの人たちが自発的に集まっている。まだまだあきらめたものではないと思う。集会だけではなくて、次は選挙にも行って、おかしな政権を倒さないといけない。

閣議決定の問題と絡めて政権交代を提唱している。これは時期から見て共産党に先行しているかもしれない。後ろの2フレーズが大事なので、それだけにしようと思ったが、その前の6項目にも説得力があるので合わせて紹介しておく。

内橋克人さん(経済評論家)

さすがジャーナリストらしく鋭いところを付いている。

この経験をいま生かさなければ、野党は小党が乱立する永久野党になってしまいます。…すでに自民党から野党の分断工作が始まっています。それに乗ってはいけません。

つまり現在の政治的危機は、野党という存在にとっても危機なのだということを認識せよということだ。これは今までにない視点だ。その上で以下のように提起する。

政治の劣化に野党は共同の認識を持つべきです。国民連合政府をいかに成功させるかに議会制民主主義の未来がかかっています。

永山茂樹さん(法学者)

現場近くにいた人らしく、その感触を伝えている。

今回の法案審議の過程を見れば、(野党の)連携関係を作る客観的条件は整いつつあると思います。各党がこのような提案を積極的に受け入れることは、民主主義政治における政党のあるべき姿です。

浦田一郎さん(憲法学者)

安保法制廃止に向けては違憲訴訟などの動きも出ていますが、やはり政治部門での決着がなければ根本的な解決にはつながらない。(この道しかない)

さらに言えば、憲法問題をめぐるこれまでの論争も、政治部門での決着を図らないと解決しない。

反対勢力は当面、野党勢力にとどまらざるをえないが、保守層からも民主主義・立憲主義を大切にする流れが強まることを望む。新しい政治はそのようにして生まれるはずだ。

中東現代史の専門家の栗田禎子さん

この間の闘争は市民・若者の運動に励まされる形で諸野党の団結が実現しました。これが運動の流れとするなら、「それをどう引き継ぐのか」という問いかけがなされるし、「国民連合」という提起はそれに対するほとんど唯一の答えだろう。

いま起きているのは憲法と国民に対するクーデターであり、それによって引き起こされた非常事態だ。これに対抗するためには、憲法と民主主義を守るという一点で広範な国民を結集する共闘が必要です。

あちゃらかすようで申し訳ないが、この方は一昔前なら「千葉のローザ」と呼ばれてもおかしくない、ちょっと過激なアジテーターだ。たしかに「一点共闘」とも言えるが、「点」と言うには少々でかい。世界史的立場から言えば確かに「点」であるが、かなりの広がりも深さもある一つの構造を持っている。

翻訳家の池田香代子さん

全国各地での市民の政治的覚醒を受け止めた、政治的なセンス抜群の提案です。

第三次安保闘争とも言われる今の動きの新しさは、無党派の若者を先頭に、市民が非暴力の抵抗権を行使し、運動の出口として選挙による議会制民主主義の回復を指し示したことにあります。

日本の政治土壌はここまで成熟した。民主主義に性根が入ったのです。

今回の「国民連合政府」の呼びかけは、この勢いに形を与えようとする快挙です。

政治的なセンス抜群の文章だ。これは談話ではなく直接の手書きだろう。しかも一度、二度推敲を加えていると思う。

他の人が触れていない点を独自に提起している。

第3次安保闘争という視点 この人は第一次も第二次も知らない世代と思うが、その精神をしっかり継承している。その上で、この闘争の新しさを出口まで含んだ闘争の展望という形で特徴づけている。そこには挫折も転向もない。そのことを以って「日本の政治土壌はここまで成熟した」と表現しているのであろう。

各界の意見で国民連合政府構想を補強してみると、かなりその外形がすっきりしてくる。

1.国民連合政府の性格

まずその目標としては、戦争法を破棄するだけでなく、戦争法を成立させる過程で行われたさまざまな立憲主義、議会制民主主義の破壊を修復し、近代政治の本来のあり方に戻すことである。

そのためには閣議決定の破棄にとどまらず、内閣法制局の再確立、防衛省への統制、機密範囲の制限、自衛隊出動基準の厳密化などさまざまな法的手立てが必要となる。

これらについては、専門家の合意を受けてその内容を確定していく必要がある。

国民連合政府=内閣はこれらの手続きを完了した後、選挙管理内閣に移行する。したがってこの政府は暫定的な性格を持つ。

国民連合政府が成立するためには選挙での勝利が必要であり、そのためには野党の協力が必要である。

2.野党協力の一致点

野党協力の到達点は9月18日の野党党首会談での合意である。すなわち「どういう事態になっても、今後とも憲法の立憲主義・平和主義・民主主義を守るために協力して行動する」という確認である。

この確認の重みは「どういう事態になっても、今後とも」という言葉にある。「立憲主義・平和主義・民主主義」が現に毀損された以上、これを元に復することは、確認の延長上にある。

もう一つは、この言葉が闘いの中で「大義、責務」などの言葉を内に含んで発せられていることである。

この確認を守ることは、野党共闘に加わったすべての政党にとって存在価値をかけた大義であり、国民から課せられた責務なのである。

3.野党は主人公にならなくてはならない

野党は議会の中では少数派である。しかし少数派であることによって立憲主義・民主主義の主人公となっている。

野党は今や国民の中では多数派である。野党は政府を握ることを恐れてはならない。多数派の声を代表し政府を握ることにより、立憲主義・民主主義を守らなければならない。

もしそれが出来なければ、野党は国民を裏切ることになり、立憲主義・民主主義は野党とともに死んでしまうことになる。

各界意見の紹介が始まっている。その中から国民連合政府に具体的に言及した部分を拾ってみた。

「立憲デモクラシーの会」の中野晃一さん

石川健二東大教授は「戦争法強行は法学的に見て“クーデター”だという。したがって国民連合政府の任務はこの事態を正すことにある。それは法を廃案にするだけで済む問題ではない。

野党共闘は最初は頼りなかったが、次第に腰が定まった。それにより抵抗運動が盛り上がった。それをさらに発展させることには大義がある。(この辺は現場感覚でしょうね)

野党共闘の積み上げについては25日の街頭演説で志位委員長が明らかにしている。
(戦争法案が審議入りして以降)衆議院段階で2回、参議院段階で4回、合計6回の野党党首会談をやった。「強引な採決に反対する」「法案の成立を阻止する」などで結束し、最後は、内閣不信任案や問責決議案を共同提出した。
18日の野党党首会談では、「どういう事態になっても、今後とも憲法の立憲主義・平和主義・民主主義を守るために協力して行動する」ということを確認した。
…戦後かつてない新しい国民運動の発展、それに背中を押していただいての私たち野党の共闘、その二つは大きな財産となるだろう。

日本学術会議前会長の広瀬清吾さん

「安全保障関連法に反対する学者の会」の発起人代表を務める人。この人は会の発足式での挨拶で、これからの運動を「歴史上はじめての市民革命的大改革」と呼んでいる。その内容は以下のとおり。

反対運動を豊かに発展させ、国民多数の意思を国会の多数にし、そこに立つ政権を誕生させ、安保法を廃止し、閣議決定を撤回させる。

この流れを全体として“市民革命”的大改革と表現している。かなり本質をついた発言だろうと思う。安保法が「クーデター」ならば、これを廃止することは「革命」だということになる。

小林節さん

この人は色々なところで喋っているが、27日の赤旗のインタビュ-から拾っておく。

私は初めて、日本で民主革命が起きるのではないかという実感を持っています。…「国民連合政府」ができれば、閣議決定を白紙に戻したうえで、戦争法を廃止し、しばらく政権を担当し、いろんな分野、課題で自民党政治を完全に終わらせて欲しい。自民党政治に一緒にとどめを刺していきましょう。

ということで、「呼びかけ」の範囲を超えてもう少し先まで見ている。ただここは「自制」が必要なところでもある。それにしても無党派の人は威勢が良い。我々はなかなか「革命」という言葉は使えない。

4面には徳島での講演が紹介されていて、さらに威勢がいい。「(次は)政権交代だ! それ(国民連合政府)以外に方法はない!」 思わず一人で拍手。

石川裕一郎さん(憲法学者)

今回の運動のなかで、日本の民主主義は、“ひとつ上のステージ”に上った。それは専門家、一般人がさまざまな情報を交換し、議論したためだ。

そのひとつ上のステージで「呼びかけ」が出されたのだから、それについてもひとつ上のステージで議論しよう。それは各野党が妥協可能な点をそれぞれの専門領域において検討し、具体的な提言を行うことである。

政党を上から目線で批判したり、どうせ野党はまとまらないと切り捨ててはいけない。

ということで、1.この間の野党共闘の前進(積み上げ)の意義をしっかり整理して捉え、その先に新たな共闘のあり方を模索すること。2.国民連合政府を踏み絵にして迫るのではなく、野党共闘のさらなるステップアップを最大の獲得目標とすること、3.そのためのひとつの叩き台として「国民連合政府」構想を最大限活用すること、を骨子としている。ややまどろっこしいようだが、たしかに正論である。

「あすわか」会共同代表の黒澤いつきさん

この闘いは「近代国家」を守る闘いであり、「近代の価値」を守る闘いだ。これからは立憲主義を取り戻す闘いになる。

私たちの悔しさには二つある。ひとつは戦争法の成立を許してしまったことだが、もうひとつは選挙で与党の当選を許してしまったことだ。いまや選挙で勝つことが安倍自公政権を引きずり下ろすことになるという状況かはっきり見えてきた。

各野党には、まず、この国民の闘いに応じること、国民のための政治をする覚悟を示すことを求めたい。

志位さんの言葉にも黒澤さんの言葉にも、しばしば「覚悟」という言葉が飛び出す。たしかに「国民連合政府」という構想のキーワードは「覚悟」なのかもしれない。

中川律さん(憲法学者)

「成立」の後も多くの国民が行動し続けていることは、日本の民主主義にとって非常に画期的だ。継続的な活動が必要だ。

国民の声を国政に反映させるためには有権者への選択肢の提示が必要だ。小選挙区制のもとでは、野党が協力して選択肢を国民に提示するのが有効な手段である。

元共同通信社の丸山重威さん

安倍政権の行動は「壊憲クーデター」である。憲法、国民の声、国会手続きが無視されたからだ。(国民連合政府への具体的言及なし)

原水協事務局長の安井さん

まあ、時期遅れの暑中見舞いの葉書みたいなものなので省略。

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