長生きしている人には二通りある。元気で矍鑠として長生きしている人と、病気がちで頭がもうろうとして生きている人だ。
これは対立しているわけではなく、前者が徐々に後者に移行して、最後にあの世へと旅立っていくわけだ。後者のケースは前者に比べて少ない。高齢者が増えればその数も増えるが、比率としては変わらない。平均寿命が20歳も伸びたが、それによって増えたのは元気で矍鑠として長生きしている人だ。
後者のケースはさらに2つに分けられる。お金に余裕のある人とない人だ。残念ながら後者の比率が圧倒的に高い。そうなると貧しくて病気がちで頭がもうろうとしている人たちは、世間から持て余されることになる。なぜなら貧しい老人を支えている家族は大抵が同じように貧しいからだ。
老々介護が問題になっているが、問題はそうではない。大きな困難は貧々介護にあるのだ。
お願いしたいのは、こういう老人にできれば月20万円、せめて15万円は払って欲しいということだ(医療費は別で)。当節、元気な若者でもそのくらいはかかる。それに介護の人件費は上乗せして欲しい。こちらも「それでなんとかやってくれ」といわれれば、なんとかしてみようと思う。“安楽死”だとか、治療はしないで欲しいとか、そんな話はそれだけでなくなる。
私はときどき、お年寄りが“死んだふり”しているのではないかと思うことがある。誰しも、だんだんと笑わなくなって、怒らなくなって、喋らなくなって、そして食べなくなってという経過を取るのだが、本当にそれが自然経過なのだろうか。それは強いられた経過なのではないか。
以前、熊の冬眠の話を書いたことがある。地球温暖化で彼らの生息場所も徐々に暖かくなってきた。そうすると冬眠せずに冬を過ごしてしまう熊が増えてきたという。生物の本には「彼らが自然に適応して冬眠という手段を身につけることでみごとに自然の脅威を克服した」みたいなことが書いてあるが、彼らは決して好き好んでそうしているわけではない。冬眠したあと目が覚めてくれるか、そのまま死んでしまうかは運任せだ。生き残る可能性がかなり高いからこそ「冬眠」なのであって、そうでなければ自殺行為だ。
お年寄りの「喋らなくなって、そして食べなくなって」という経過も、同じように強いられた経過である可能性がある。だから我々はぎりぎりその変化を見極めなければならない。本当に我々はするべきことをしたのか? し残したことはないのか。もっと早めに手は打てなかったのか。