鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

13年4月、ぷらら・Broachより移行しました。 中身が雑多なので、カテゴリー(サイドバー)から入ることをおすめします。 過去記事の一覧表はhttp://www10.plala.or.jp/shosuzki/blogtable001.htm ホームページは http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」です。

2015年09月

早くも飛び出した応用問題 小沢発言の評価

「国民連合政府構想」の基本線はどこにあるか

沖縄とも大阪とも異なる独自の局面

第一には、野党共闘の積み上げの上に考えることである。保守が明確な分裂をしていない以上、沖縄・大阪型の一点共闘型は現実的ではない。

出発点を正確にしておこう。それは野党「共闘」自体ではなく、この間の運動の中で野党共闘が積み上げた確認点、国民運動が押し付けた合意点である。それが国民連合政府の出発点となる。

多分それは暴挙、独裁、非常事態、大義、正論、責務、本気、決意などの言葉をつなげ合わせた“ヒモ”のような論理構造だ。これでもって選挙協力をする。これがなければ協力しても勝てない。買っても世の中は変わらない。

もう一つは、民主主義とか立憲主義・法治主義というのがある意味で手続きの集大成であることから、手続き問題がかなり大きく浮かび上がってくる。

どのような手続きを取りながら、立憲主義を回復していくのか、法学者、政治学者の意見も聞きながら一つ一つ詰めていく必要がある。

それが自ずから「国民連合政府」のゴールを決めていくことにもなるから、その過程はかならず同時進行させる必要があるだろう。


小沢一郎はきわめて強力な政治家である。深部の力を引き出して民主党を政権党に押し上げた、史上稀に見る政治家である。

彼の政治には二つの側面がある。基本的には古い世代に属する政治手法をとる。清濁併せ呑み、マキャベリズムを厭わない。金と権力を利用することを当然のことと考えている。

そしてきわめてタフである。

同時に、一定の範囲で合理主義をとる。政策的力量もあるし、それによって人々の支持をかちとる説得力もある。

それは志位委員長との会談での発言からも見て取れる。

共産党の提示した3点は私たちも理解を同じくします。特に、その目的を達成するために選挙協力を行うことは従来の方針の大転換であり、その決断を高く評価します。

『安倍自公政権ではいけない』『この政権はあぶない』と、それを変えようとする勢力が大義のもとに大同について参院選、衆院選をたたかえば、必ず国民の支持は集まると思う。話を聞いて、いっそうその感を深くしています。みんなが手を携えて選挙をたたかい、勝ち、政権を打ちたてようという目的に向かって自分も努力していきたい。

今回の国民連合政府への賛同も、生活の党を立て直すための一つの賭けとも見て取れる。

しかし、彼なりの民主主義への思いが投影している可能性もある。その側面は彼が自党を上げて民主党に流入した時にも現れている。だから経団連と連合、その背後の権力は彼を排除するために全精力をつぎ込んだ。


暫くの間は共産党と小沢の蜜月関係がメディアを賑わせるかもしれない。それは大いに取り上げられるべきだし、政界内においてはこれを駆動力として事態を切り開いていくことも考えるべきだろう。

しかし、保守とはいえ、ある意味では共産党以上に小沢アレルギーには強烈なものがあるから、共産党=小沢枢軸は長期的な政権構想の軸にはならないと思う。

一番警戒すべきは、運動内部に民主党抜きの小連合志向が生まれてくることである。そうなってしまえば、小泉神話に代わる小沢神話が生まれるだけであり、東京都知事選の二の舞を踏むことになる。


東洋経済オンライン(09月29日)の論評記事「共産党が提唱する「国民連合政府」の現実味  高いハードルを乗り越えられるか」 安積 明子

28日の生活の党小沢代表との会談。「小沢代表から『共闘は従来の方針の大転換で、高く評価する』と言われた。全面的に合意に至った」と志位委員長が語った。

社民党との党首会談では、「大胆な踏み込んだ提案だ。様々な困難があるかもしれないが、連立政権の方向性には賛同する」との意見があった。

一方で、25日の民主党との党首会談で岡田克也代表は、「共産党と政府をともにするのはハードルが高い」と尻込みした。

維新の党は、共産党からの呼びかけに答えようとしていない。24日の記者会見で「共産党は再編の仲間ではない」と語っている。

志位氏は偶然に国会内で会った松野頼久同党代表に、「清水の舞台から飛び降りるつもりで覚悟しました」とアピールし、側にいた穀田氏が「一緒に飛び降りましょう」と誘った。


記事の感想

記者が注目しているのは、閣内閣外の条件を付けないことや首班指名に他党の党首の名前を書くこともいとわないという点だ。また政党差のある政策について「ひとまず横に置く」としている点だ。

これらは、我々にとってはそれほど奇異なことには見えない。それらは国民運動をさらに高揚させることと引き換えの条件だ。

記者は比較的リベラルな立場に立っている人のようだが、国民連合政府構想を戦術として考えているフシがある。だからすぐ算盤を弾く。ただそういう政治記者でも、「これはたんなる戦術として考えてはいけないな」と思い始めているのが感じられる。

この構想の隠された最終目標は、国民の怒りの怒涛の中に民主党を飲み込むことにある。全部が困難なら、民主党を割り、隠れ自民党を剥がし取ることにある。連合を割り、隠れ経団連を放逐することにある。労働者を財界・富裕層の思想的支配から独立させることにある。

そして、かつての選挙で民主党を押し上げた日本国民のうねりを再現し、「深部の力」をサルベージし、平和と立憲・民主主義の方向に掬いとることにある。

それは決して容易なことではない。記者が「高いハードル」と評したのも、志位委員長が中央委員会に「強い覚悟と決意」を求めた理由もそこにある。

権力の側はそれを恐れている。民主党の中では連合(そしてその背後の経団連)が、いかなる条件の妥協も拒否するよう働きかけている。ただしそれが民主党を最終的な死亡に追い込むことも恐れている。そこに深刻なジレンマがある。

「この道しかない」はどんな道?

「国民連合政府」のアイデアが提示されて以来、赤旗は連日、各界の反応や有名人の感想を大量掲載している。

これらの報道を少し整理してみた。

「呼びかけ」の内容

まず構想の骨組みから

政府の正式呼称は「戦争法(安保法制)廃止の国民連合政府」となっている。

9月20日、志位委員長名の「呼びかけ」だ。

「呼びかけ」は3つの柱からなる。ひとつは安倍政権打倒の闘いを進めること、二つ目に国民連合政府の樹立、3つめが、そのために共産党は候補をおろしますよということだ。

つまり二つ目の柱が「呼びかけ」の主要内容になる。具体的内容はただ一つ、

昨年7月1日の安倍政権による集団的自衛権行使容認の「閣議決定」を撤回する

そしてその後は、もう一度解散し総選挙を行うことになっている。つまりこの政権は、選挙管理内閣(暫定内閣)としての性格を基本としていることになる。

中央委員会での「呼びかけ」の性格付け

これは志位委員長の個人的呼びかけではなく、そのために開かれた中央委員会(緊急)で確認されたものであり、党の公式決定だ。

したがって「呼びかけ」の性格付けについての知識が必要だ。

志位委員長はこう説明している。

この「国民連合政府」は綱領で言う「さしあたって一致できる目標の範囲」での政府に相当する。

この提案に対して17人が討論した。志位委員長は結語で、討論で出された質問に答えた。そのなかで中央委員の「強い覚悟と決意」を求めた。

「絶対あきらめない」を「選挙での勝利」へ

この日の国会前抗議運動から赤旗が参加者の声を拾っている。

腕を突き上げ、コールが次々に変わっていきます。「選挙に行こうよ」「デモに行こうよ」「安倍はやめろ」

成立を受け、参加者が思いを語ります。「悲壮感なんて全然ない。言うことはひとつ、賛成議員は落選させよう」

ということで闘争の最先端の若者の間には、すでに選挙へ心の準備ができつつある。ここが米国のオキュパイ運動との一番の違いだ。

野党共闘でも選挙協力でもなく「連合政府」だ

記者会見での質疑応答は、「呼びかけ」とメディアの考えをすり合わせる場となった。その意味で非常に重要な記録である。

直接ネットで読めるので、そちらにあたって欲しいが、とりあえず要点を上げておく。

1.「呼びかけ」は、国民の闘いに支えられて、5党1会派で積み上げてきた野党共闘の上に構想されている。(したがって野党共闘の確認点が出発点である)

2.閣議決定を撤回し、憲法解釈を戻すためには政府が必要だ。(戦争法の廃案だけなら政府樹立は不要だが、立憲制の破壊は回復できない)

3.「国民連合政府」は「国民的大義」である。安倍自公政権を打倒するためには、そこまで腹を固める必要がある。(そこの合意があって、はじめて選挙協力が可能となる)

4.「暫定的な性格」というのは、政府の課題が「戦争法の廃止・立憲主義の回復」のみで、限定的であるゆえである。(しかしそれは国政の根幹に係る課題であるために、「暫定」の幅については予測できない)

5.最大の“カギ”は国民の世論と運動だ。(挫折しない、挫折させない。人々の期待を裏切らない)


*()内にコメントしたのだが、国民連合政府の樹立の目的が、「閣議決定を撤回する」だけの目的のようにも取れる。うまく展開できないが、政府樹立の大目的は安倍内閣が戦争法成立のためにとったさまざまな違憲的手法(そのひとつが違憲法案の閣議決定)を撤回することであろう。それにより立憲制の回復が担保されることになる。

ここから先は、例によって酒飲み話だ。

1.大脳の出自は末梢神経だ

フロント脳というが、この脳の構造は明らかに左右感覚をそのままに残している。脳といっても脳葉だ。あえて言えば末梢神経(神経叢)ではないか。

中枢神経系というのは原索であれ脊索であれ動物の背中を一直線に貫く単一の神経集団だ。そこに体節神経や感覚器からの神経が左右一対となって接合していく、これがオーソドックスな構造だ。それは支配するために生まれてきた構造であり、抹消神経叢など草莽の輩とはそもそもの出来が違う。

由緒・素性に形式主義的にこだわれば、大脳も小脳も脳幹ではないという意味において中枢神経ではないのである。

それらは脳幹に対して1ランク下の存在でしかないのである。しかしそれはあまりに有能であるがために、脳幹を意のままに操る官僚機構のように肥大していくのである。(前脳の背側からは松果体などいくつかの“ツノ”が飛び出している。その中の一つが嗅脳の中に入りこんだ可能性もある。いわばハイブリッド型脳だ。その場合は、中央から送り込まれた官僚が嗅脳に中枢神経的な構造を与えるとともに、自ら在家化したことになる)

2.フロント脳は情報を修飾して送ってくる

体感情報にせよ視覚・聴覚情報にせよ、一般に感覚情報は生の形で中枢神経まで送られ、中枢神経がそれを読み解き判断する。しかし嗅覚の場合は好悪の判断の付箋つきで入力する。

中枢神経はそのようにして価値判断の処理が成された情報を受け取ることになるので、その判断が適切か否かを評価することになるのだが、実際にはそれは不可能に近い。

3.フロント脳のクーデター

思いつきだが、最初のフロント脳は線条体あたりの大脳基底核だ。それだけでも脳幹に匹敵するほどに大きいのだが、やがてそれは大脳皮質という膨大な記憶装置や演算装置を備えるようになる。

そして統帥権を盾に、政治に容喙しやがてそれを従えるようになる。それが視覚情報の二次処理だ。

視覚情報の最終処理は中脳から大脳に移され、中心溝の後半に帯状に集約されるようになる。

中脳は見る陰もなく退縮し、たんなる情報の中継点に過ぎなくなる。

最後まで脳幹に忠誠を誓っていた小脳も、ついには大脳の指示のもとに置かれるようになる。

4.間脳の二重構造について

いわゆる「間脳」という言葉には抵抗を感じる。そこには終脳や大脳が上位であり、「間脳」が中間点でしかないという価値観がふくまれている。

しかしそこは、元々は脳の最高の中枢であり、神経内分泌系と結びつくことにより、「何故生きるのか、何故動くのか」を動機づける「魂の源」だ。

前脳は万世一系の国体の始原なのだ。ただし前脳は本来あくまでも脳幹の一部であり、他の中脳、後脳と同じ役割を担っている。すなわち体節情報の集中点としての役割である。

前脳はおそらくはその背側でフロント脳からの情報を受ける。そしてその腹側で神経内分泌系との連携を行う。

しかし大脳は脳全体を支配するために、前脳の背側を唯一のアクセスとすることに我慢できなかった。独自に神経線維束を伸ばし、中脳、小脳と直接接合するようになった。

視床は大脳から伸びた神経線維の一つの中継駅にしか過ぎなくなった。

こういうストーリーで見ていくと、いまは「間脳」と軽んぜられている前脳の真の姿が見えてくるのではないか。

下の図を見ると、そのへんの感じが出てくる。(第 4 回 脊椎動物の視床下部より転載)

視床下部



あまりまとまった読み物が見つからないので、落ち穂拾い的に行く。

まずは魚は生態によって脳のパーツサイズが変化する! という記事。名大農学部の山本さんという人の書いたもの。

脳を見れば、その魚がどんな生活をしているのかがわかるほどです。その中でとりわけ面白いのが味覚です。

ヒト には舌に「味蕾」という食べ物の味を感じる器官があり、…コイにはその味蕾 がヒゲに多数あります。

味蕾でキャッチした情報は「顔面葉」という部分に到達するため、コイの顔面葉は大きくなっています。

ゴン ズイという魚には、この顔面葉にヒゲに対応した「地図」があります。そのため、ニオイのもとの位置がわかるようになっています。

さらにヒメジという魚は、ヒゲを自ら動かしておいしいものを探します。ヒメジの顔面葉はヒトの大脳皮質のように層状構造をしていて、しかもしわが入っています。

大量の感覚と運動系の情報を処理するために大きな面積が必要なためです。

以前は、魚の大脳は嗅覚処理だけにかかわるとされ、「嗅葉」と呼ばれてきました。しかし、実際にはいろいろな感覚が魚の大脳に送られることがわかってきました。

ということなので、むしろ大脳は脳より前にある体節感覚の集約点と考えたほうが良いのかもしれない。

その必要上、多くの感覚器は顔面に集中して配置されているから、当然、その面積も広くなると予想される。何かホムンクルスを連想させる話だ。

嗅脳、顔面葉などをひっくるめて「フロント脳」と表現しておく。

ナメクジウオの前脳・中脳・後脳を、とりあえず神経内分泌中枢(可能態としての情動中枢)、感覚器中枢、体感中枢と概念づけてみた。私流に名付ければ「三脳構造仮説」である。

MARKの部屋という文章は、ナメクジウオが魚になるにあたって、とくに感覚器中枢(中脳)がいかに発展したかが記載されている。

1.大きな中脳(従って視覚が鋭い)と大きな小脳を(運動機能に優れる)もつ魚は行動が機敏です。大きな中脳をもっても、小さい小脳をもつ魚は行動がおっとりとしています。前者の例としては、群れるイワシ、サンマや捕食者のカツオといった魚、後者の例としては、カレイ、キスなどの魚が属します。

2.幼時にプランクトンを食する生活をしている稚魚(ウナギ、タラ等)では視葉が脳の中で最も大きくなります。但し、成長して生活形態を変えるようになると脳の他の部分が発達し、視覚重視の生活から移行します。

3.終脳(従って嗅覚)が良く発達した魚の例としてはウナギやアナゴ、ウツボやマダイ、クロダイがいます。夜行性や暗い海で生活するタラはこの代表例です。魚では臭覚の役割が大きいようです。

4.小脳ではなく延髄(従って味覚や聴覚)が発達した魚にはコイ、フナ、タラなどがいます。延髄が発達している魚は終脳も発達している傾向があります。

5.小さい魚ではイワシのように群れるという特徴があります。動物が群れるためには仲間を認識する必要がありますが、この認識機能は終脳の扁桃体にあります。扁桃体は大脳の下に左右1つずつあるアーモンド形の神経細胞群です。

6.神経系とホルモンとの接点は視床下部と下垂体の部分にあります。下垂体には腺性下垂体(前葉)と神経性下垂体(後葉)があり、前葉は分泌細胞でできています。後葉は視床下部から伸びてきた神経軸索の集まりで、視床下部で作られた物質が後葉ホルモンとして貯蔵される場所です。これらホルモンは下垂体から血流にのって全身に流れます。

という簡潔な記載だが、きわめて示唆に富んでいる。

ニジマスの脳
  ニジマスの脳 (神経とホルモン より)


感想を列挙していこう。

1.ナメクジウオというグウタラな生物は、魚類に移行するに及んで一気に発達を遂げ、節足動物を追い越した。そこには節足動物とはまったく異なる進化の仕方があった。

2.その進化の秘密は視覚と小脳にある。順番から言うとまず優れた視力があり、それに対応して小脳が発達したということになるであろう。なぜなら視力の発達は一様であるが、小脳の発達は必ずしも必須ではないからだ。

3.中脳と後脳の境界であるが、最初に感覚器中枢・体感中枢と分けたのは間違いであった。視覚以外の味覚や聴覚は後脳に属するもので、中脳はまさに視覚のみに特化した中枢であった。したがって中脳を視覚中枢、後脳を視覚以外の感覚中枢とする。

4.視覚以外の感覚中枢が発達した魚の多くは二次的適応ではなかろうか。ナメクジウオの生活範囲は光が届く浅瀬で、そこでプランクトンを捕食していた。魚類の発達・分化により生活範囲が拡大し、それぞれの生活の場で必要に応じて視覚以外の感覚が発達していったと見るべきだろう。それでも昆虫に比べればその多様度ははるかに低い。魚は魚である。

5.嗅覚というのは、人間にとってはかなり理解し難い感覚であるが、もともとはレーダーのような知覚装置ではないだろうか。嗅神経の先端にある嗅球はもともとは露出し、突出していた可能性がある。我々の持つ5感というものを超越した、我々の失ってしまった知覚情報なのだろう。だから他の近くとはまったく別のシステムで脳につながっている。

6.我々にとって問題なのは嗅神経の中枢が終脳と呼ばれ、それが大脳の原基とされていることである。しかし魚で見る限り嗅脳は嗅脳であって、それが大脳に発達していくような進歩的存在ではない。それと、「三脳構造」から言えばかなり孤立した存在である。

7.その辺を追求していく足がかりとして二つある。一つは嗅覚にはもろに好悪があるということである。Smell であるか Flavor であるか、はたまた Odor であるか、とにかく嗅覚情報は必ず価値判断を伴って認識されるのである。聴覚にも多少はあるが、視覚にはまったくこういう要素はない。嗅覚中枢は価値判断を伴って対象を認識するのである。

8.嗅覚中枢としての終脳にはもう一つの特徴がある。それは終脳の中に扁桃体という、神経の機能としては説明しきれない脳機能が出現することである。「仲間を認識する機能」というのは、価値判断抜きには存在し得ない機能である。それは大脳機能の端緒と考えても差し支えないのかもしれない。

9.小脳はその脳付属物としての成立過程がかなり納得できる。視覚をふくむ知覚情報を受けた脳が、対応行動を組み立て椎体路系(運動神経)に指令を出す中枢である。とくに視覚情報の関与が大きいと考えられる。だから小脳の根っこは中脳と後脳の境界部に形成されるのであろう。人間ではかなり大脳の統制を受けるが、もともとはそれ自体が「評価し、判断し、行動に移す」中枢であったのである。

10.魚の脳の最大の特徴は、後ろ向きに捉えた場合、大脳の欠如というところにある。小脳のようにその生成の必然性をとらえることは出来ない。そこから大脳が発生する過程を捉えるためには、前脳→間脳+終脳、終脳→大脳という図式を一度ご破算にして見る必要があるのではないか。つまり終脳は前脳とは別の原基ではないかとの疑いである。

11.終脳が嗅神経の中枢付着部(視床)を中核として肥大したものであることは、肉眼的形状からも明らかである。前脳、中脳は基本的には一つであり、ペアーにはなっていない。もちろんその内部には左右対称性が維持されている。しかし一つなのだ。一つが割れてペアーになるのは進化の過程として考えづらい。もともと左右一対のものとして形成されたと見るのが自然だろう。

12.こうして考えてくると、人間の脳は三脳に嗅脳(広義の体節神経)が接合した4つのコンパートメントから形成されたと言える。三脳と嗅脳の接合の機序がさらに検討されるべきである。



前から心残りの課題がある。それは、脳機能を考える場合に前脳・中脳・後脳の三点セットを出発点とする思想だ。

教科書はあっさりと「前脳が間脳と終脳に分化する」と書いている。その時、なぜ間脳と終脳に分化するのか、それらは何故、前脳起源であるのかは一切触れられない。

そこを明らかにしないと、結局はマクリーンではないかと思う。

ということで、結局ナメクジウオから魚類への脳の進展を明らかにしなければならないと思っていた。

ところが魚類の脳についての記述はほとんどが感覚器の発達との関連ばかりだ。それはそれで大事なのだが、もっと本質的な問題があるだろうと思う。

それは前脳・中脳・後脳の三点セットと、感覚器の発展の合目的的な関連付けだ。

はっきりしているのは後脳の機能で、これは体節感覚の集中点だ。中脳はおそらくは感覚器の獲得した情報の集約点だろうと思う。体節感覚の特殊化したものとして理解できる。

それでは前脳の機能は何か。それは内分泌系情報との関連付けだ。ここで末梢神経からの情報と、体液性の情報が突き合わされる。これによって情動が形成され、それは神経系と体液性経路を通じて全身に伝達される。

これが脳の力動的構造だ。

ここに感覚器、とくに視覚の圧倒的な発達が加わって脳の構造が修飾されていく、こういう筋道を先ずは立てるべきではないか。

終脳という言い方も気に入らない。終脳という言葉は大脳皮質と基底核が出来上がっていく過程のたんなる媒辞としてしか現れない。

その言葉に何か意味があるのか、そのことについて諸文献は何も説明していない。

そもそも大脳基底核と大脳皮質には必然的な前後関係があるのか、発生学的な因果関係があるのか。

とにかくいろんな言葉が前後の脈絡もなく飛び出してくるのにはイライラする。とりあえず魚の脳のレビューから、その糸口を探ってみようと思う。

一応、最低限、追いつけたかなという感じだ。

アルツハイマーの研究はやっと足がかりがつかめたというレベルのようだ。

第21染色体にAPPの産生を司る遺伝子があって、それが傷つくと変なAPPができる。それがγセクレターゼという酵素で壊されてAβというカスが形成される。この中の一つが毒性を持っていて神経細胞を壊していく。あるいはグリア細胞が加担しているかもしれない。

さらに進んでいくと、神経線維の中のタウという蛋白も変性して、状況は一気に悪くなる。

その機序をカンタンに言えばこういうことだ。

遺伝子の問題は確かにあるが、誰でもかかる病気だから、きわめて特殊な遺伝子病とは言いがたい。

同じように、遺伝子が攻撃されるスローウィルスみたいな病気も考えにくい。

そうすると、APPの異常増殖よりは、出来たAPPの分解・排泄能力の低下のほうがメインと考えたほうが良さそうだ。

とくにα、β、γの三つのセクレターゼの働きの不具合が一つの鍵と思われる。α、βの方で頑張ってくれれば出来の悪いγなど出番はないはずだ。ましてグリアが出てくれば、インターロイキンだらけになる。益より害のほうがひどい。

私なら、なんとなくクラリス1錠とロキソニン半錠くらい続けてみたい気がするが、抑肝散をダラダラ使うより良心の呵責は少なくて済む。


それにしても、ネットの世界は根拠のない「認知症は治せる」だらけだ。「治せません」から出発するのがまっとうなはずだが。学会まで「抑肝散は有効」とエビデンスつきで認定している。エライさんの小遣い稼ぎの論文を内輪ぼめするような学会は信用してはならない。

この10年以上にわたって新たな発見はないのだろうか。ネット上にめぼしい文献はほとんどない。一番知りたいのがAPPは腫瘍なのか、それは腫瘍性(自律的)に増殖しているのかどうかということだ。そうでなければカスケード・セオリーは重大な欠陥を抱えることになる。しかし神経細胞の膜受容体蛋白が二次的に変性してAPPになっている可能性は否定されていない。


アルツハイマー病 研究の歴史

1906年 Alois Alzheimerが、アルツハイマー病(AD)の最初の症例(女性、死亡時55歳)を報告

フィrstかせ

世界で最初にアルツハイマー病と確認された患者(ウィキペディアより)

1910年 クレペリン(アルツハイマーの師)、アルツハイマー病と命名。老人性痴呆とは異なる疾患とする。

1911年 アルツハイマー、鍍銀染色による検討結果を発表。

1.大脳の萎縮,皮質の神経細胞の減少,2.老人斑(シミのような異常構造)の多発,3.神経原線維変化(神経細胞中の繊維状の塊)を指摘する。

~1960年まで 高齢者(65歳以上)の認知障害もアルツハイマー病だという主張が有力となる。

1960年 この頃から電子顕微鏡の導入により病理所見が確定される。A)アミロイドの蓄積、B)神経原線維変化

1974年 神経原線維の変化がPHF(paired helical filament)蛋白の出現を伴うことが発見される。

神経原線維変化は、神経細胞の成分であるタウが過剰リン酸化により変性したもの。アミロイドと直接の関係はない。

1984年 アミロイドからAβ(Amyloid β protein)が抽出される。分子量4200ほどの蛋白で、正常脳には認められない。

Aβは脳で常に産生されているが,正常では分解あるいは除去される.何らかの異常でAβが老人斑として蓄積するのがアルツハイマー病である.東京都精神医学総合研究所 秋山治彦

1987年 Kang Jらの報告がブレイクスルーとなる。少し詳しく説明する。

1.Aβのアミノ酸配列をヒト胎児脳のライブラリーと対照した。
2.その結果、Aβは分子量約8千のAPP(amyloid precursor protein)の一部であることが判明した。APPは膜受容体を構成する蛋白の一つ。
3.APPをコードする遺伝子が第21染色体長腕上に存在することが分かった。
4.この遺伝子の量は、ダウンで5割増だったが、アルツハイマーでは増えていなかった。アルツハイマー病原因遺伝子APP 玉岡晃ら

諸文献でAPPについての記載が紛らわしい。APPそのものはタンパク質で、遺伝子ではない。APPの削りカスがAβになる。
第21染色体上に発見されたのはAPPの産生を誘導する遺伝子でAPPではないが、APPと言いならわされている。

1988年 アミロイド蓄積が神経原線維変化に先行することが確認される。

1992年 ハーディら、「アミロイドカスケード」仮説(Aβ仮説)が提唱。APP遺伝子の変異がアミロイド蓄積と神経原線維変化、神経細胞の脱落、認知機能の低下を引き起こすされる。(下図はアルツハイマー病研究の歴史とこれからの展望より転載)

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95年 早発性痴呆と関連する二つの遺伝子(プレセニリン1,プレセニリン2)が同定される。これらの遺伝子を組み込んだトランスジェニックマウスの作成が成功。

1999年 国内初のAD治療薬アリセプト(ドネペジル塩酸塩)が発売される。アルツハイマー病は脳内のアセチルコリンの著減を特徴としており、アセチルコリン分解酵素を阻害することで、アセチルコリン濃度の維持を図る。

bakanokusuri

脳科学辞典 アルツハイマー病より

AchE Inhibitor は薬剤開発の本流ではない。Aβを標的とする薬剤として、主なものとして、
1.γセクレターゼ阻害薬(副作用により開発中止)
2.Aβワクチン(Aβの抗体を作り、グリアの排除機能を促進)
3.NSAIDs(長期服薬のRA患者に痴呆が少ないことが注目された。最近では効かない、むしろ有害とされている)

2002年 日本神経学会が「痴呆疾患治療ガイドライン」を発表。画像解析と脳脊髄液による分析を取り込む。(例えばPETではアミロイド蓄積の状況を確認できる。脳脊髄液ではアミロイドβ42の低下がアミロイド蓄積を反映する)

PET

 

 

 

 

老人保健施設に居ながら、実はアルツハイマーという病気がよくわからない。恥ずかしながらよく分からずに施設長として医療にあたっている。

世間と老健施設の入所者の痴呆の度合いもよくわからない。(すみません。差別と言われても、この際事態の本質を表わすのには“痴呆”のほうがすっきりしているので、遠慮せずに使わせてもらいます)

老健で仕事していると、痴呆は当たり前で、きわめて生理的な変化のように思えてしまう。もちろん、痴呆にならずに歳を重ねていく人もいる。しかしそのほうがむしろ例外のようにさえ思える。

話は変わるが、痴呆を中核症状と周辺症状に分ける考えは、この疾病の管理における一大進歩だと思う。周辺症状はかなりコントロールできる。それだけでもありがたい話だ。肝心なことは、このことによって認知症が厄介な病気だという世間の誤解が随分解けたことだ。その後に残るのは生活障害だけなので、これはマンパワーによるアシストでなんとかなる。ただ向精神薬というのは諸刃の刃で、下手をすれば痴呆そのものを進展させる。この辺の見極めはなかなか難しい。

たんなるオーバー・ドーシスの可能性もある。逆に薬剤の投与量が不十分だったりすることもある。また向精神薬がベースとなっている内科疾患に影響を与えるということもある。医者は往々にしてやり過ぎの傾向があるが、現場のスタッフは逆に薬剤に対して抵抗する傾向がある。こちらにはそれを説得するほどの経験も知識もない。だからやることが中途半端になっている可能性がある。

なぜ、このような矛盾した状況が出現するのか。それはとくに家族の影響である。「なんとかしてくれ」と泣きついてくるが、「なんとかなる」と、「それ以上はしないでくれ」ということになる。

家族へのムンテラの際よく使うセリフだが、どんな人でも加齢の重みが全てに優るようになる。経験的にはその境目が90歳だろうと思う。

人間の半分は85歳まで生きている。85歳の人は昭和5年の生まれだ。死ぬ理由は随分あった。冷害もあったし、結核もあったし、戦争もあったし、戦後の食糧難や伝染病もあった。その人達まで入れての平均寿命だから、それを生き延びた人の平均寿命は90歳近いのだろう。

ところが、今日珍しくないとはいえ、100歳まで生きるのは相当厳しい。つまり昭和5年におぎゃあと生まれた人の半分は今まで生きている。しかしその半分の人達はこれから15年の間に死に絶えるのだ。それは紛れもない運命であり、すさまじい消耗率なのだ。

このすさまじい現実を前にして、痴呆かどうかなどはたいした問題ではない。それで死ぬわけではない。認知症専門のフロアーまである施設の長として、まことに不謹慎ではあるが、老人問題の主要なテーマは痴呆ではないと思う。私が考えるには老人問題の根っこは低栄養(特に低アルブミン)だ。その根っこは貧困とメディアの誤った宣伝にある。

社会が高齢化すると医療・介護費が上がっていくように宣伝されている。たしかに絶対値としては上がるだろう。しかし高齢化は元気で働ける世代の増加でもある。かつて社会の世話になって生活していた世代が、今や社会に貢献する世代となっているのだ。そういう人たちを増やしていくことが世の中の進歩である。

昭和40年代、医者になりたての頃、癌は即死亡宣告だった。脳卒中は半身不随、寝たきりの垂れ流しを意味していた。医学が進歩すれは疾病像は変わる。アルツハイマーも生活スタイルが変われば、いずれ減っていくはずだと思う。最大の課題は老人に見合った代謝・栄養学の改革にあると思う。

以上があまりまじめにアルツハイマー病の勉強をしてこなかった言い訳である。とはいえ、そろそろ、それなりに勉強しなくてはならないな。

1808年 松田伝十郎と間宮林蔵の探検

間宮の著した「東韃地方紀行」で足跡をフォローする。

http://www1.tmtv.ne.jp/~hsh/D82-mamiyarinzou.htm

間宮道程

1808年 フボストフの行動は皇帝の許可を得ておらず、ロシア皇帝は撤退を命令した。これに伴い、蝦夷地に配置された諸藩の警護藩士も撤収。

4月1日 最上徳内、幕府よりカラフト詰を命じられ、シラヌシ到着。(この項未確認)

4月13日 第四回目の幕府調査。宗谷会所で調役下役をつとめる松田伝十郎が、カラフト奥地、山丹見分の命を受ける。松前奉行所は松田の下役として間宮林蔵を派遣する。

松田と間宮、シラヌシ到着。松田は西海岸を、間宮は東海岸を北上することとなる。

5月 間宮、多来加(タライカ)湖畔に到着。

間宮、シャクコタン(柵丹)まで進み、アイヌに舟を引かせて五町(545メートル)ほどの砂原を横断、北知床半島の東海岸に出る。そこでこれ以上の北上は困難と判断。(理由不明)

間宮、シャクコタンから再び南下し、最狭部である真縫(マーヌイ)から樺太山脈を山越えして、西岸(久春内)に出た。

多来加

多来加湾地図 おそらく北船越というところで半島を横切ったのであろう。シャクコタンは可雁のことか? 柵丹は知取の近くの集落であり、だいぶ南のはずだが

6月20日 西海岸を北上し、ノテトで先行する松田と合流した。ノテトは、スメレンクルと呼ばれているギリヤーク(ニヴフ)人の村落。近くにはオロッコ人も住んでいた。

松田と共に北緯52度、樺太最西端のラッカ岬に至る(一説にナッコ岬)。この岬以北で海峡幅が広がっていくのを望見。樺太が島であるという推測を得た。ここに「大日本国国境」の国境標を建てる。

6月26日 松田と間宮、ノテトをはなれ帰途につく。

7月13日 松田と間宮、宗谷に帰着。奉行所に報告。松田は江戸に報告のため出発。間宮は「樺太と大陸の境をしかと見極めぬずに帰えりしは心残り」と述べ、さらに奥地への探索を願い出る。(一説に、宗谷滞在中の松前奉行河尻春之が、間宮林蔵の樺太東海岸調査は不十分として再調査を命じたとある)

7月 間宮、当局の許可を得て単身樺太へ戻る。図合船に便乗して宗谷を出発。西海岸のトンナイに至る。

トンナイは後の真岡とされているが、眞岡はアイヌ人からはエンルンコマナイと呼ばれ、厳密にはトンナイとは異なる。

9月14日 間宮、トンナイからトッショカウまで進むが、時期的にこれ以上の北上は困難と判断しトンナイに戻る。

1808年 高橋景保、「北夷考証」を発表。松田伝十郎の報告をもとに、カラフトとサガリンを同一島とする。

1809年

1月29日 間宮、雇のアイヌたちとともにトンナイを出発。奥地へ向かう。ウショロで雪解けを待つ。

4月初め ウショロから陸路2日でリョナイに着き、船で北へ向かう。

4月9日 リョナイから255キロメートル北のノテトに到着。

5月12日 間宮林蔵、ノテトを出発。海路でラッカに達する。ノテトから北に98キロのユクタマーで、アムール河の河口を正面からながめる。さらに北進。

樺太北端に近いナニオー岬まで至り、北側に広大なオホーツク海が広がっていることから、樺太が半島ではなく島である事を確認した。(これをもって間宮海峡の発見とする見解がある)

6月 幕府、カラフトを「北蝦夷地」と唱えるべき旨を命じる。

6月26日 間宮林蔵、ノテトに戻る。ここで間宮海峡の対側の東韃靼に設けられた清国デレン仮府の存在を知る。

酋長のコーニは清国仮府からカーシンタ(郷長)という役人の資格をあたえられていた。このとき貢物や交易品などを山丹船に積み込みデレンに向かう予定だった。間宮は随行を頼み同行を許される。

6月26日 間宮、サンタン船でノテト崎を出発。6日をかけて対岸に到着。その後黒竜江を遡る。途中、言葉のわからぬ山丹人になぶり殺しにされかけたという。

razarehu

間宮海峡に面したラザレフの岩山からは、幅約7キロの海峡越しにサハリンが見えた(蝦夷錦の道「北のシルクロード」——間宮林蔵が見たものより転載)

7月11日 間宮林蔵、デレンに到着し清朝の現地責任者と会見。

清朝側の曰く、「我が国ロシアの少々の侵略は、そのままにしてとりあわず侵略やまざるにおよびて厳しく懲らしめけり。ロシアの堺は遠い北」と。

林蔵の記録によると、デレンは一辺25メートルほどの四角の敷地を二重の柵で囲い、中に清朝役人が毛皮を徴収する小屋があった。それを取り巻くように常時500人もの諸民族が集い、仮小屋に泊まりながら毛皮や食料などの物品を交換し、大いににぎわっていた。 とは言うものの、絵を見る限りかなり粗末な作りで、恒久的なものとは思えない。デレンは仮府を表わす一般名詞の可能性もある。

その後ノテトに戻る。(8月2日説もある)

デレン

間宮林蔵が記録したデレンの写生画(蝦夷錦の道「北のシルクロード」——間宮林蔵が見たものより転載)

9月15日 真宮、白主に戻る。さらに9月末には宗谷に入る。

11月 間宮、松前に帰投。松前奉行所に出頭し、以後報告書の作成にあたる。

1809年 松田伝十郎は白主にとどまり、アイヌを事実上日本人として扱い、樺太アイヌ保護の立場から山丹交易の改革を行った。

彼は1.幕府の出費でアイヌのサンタン商人に対する負債を帳消しにして、2.白主での交易規則を定め、3.アイヌとサンタン人との私的な交易だった山丹交易を幕府公認の取引に変えた。(佐々木史郎講演

1811年2月 江戸にて『北蝦夷島地図』、『北夷分界余話』(ウィルタ、ニヴヒをふくむ樺太の地誌・民俗誌)、『東韃地方紀行』(黒竜江下流地方の見分)の三部作を完成、幕府に提出した。

1811年4月 松前奉行支配調役下役格に昇進。あらためて伊能忠敬から緯度測定法を学んだうえ、蝦夷地に向かう。

1822 10年におよぶ蝦夷地の測量を終え江戸に帰る。この時43歳。

1849年 ロシヤ海軍のネヴェリスコイ少佐、アムール河口およびタタール海峡で海洋船航行が可能であると発表。アムール河口から約40キロ上流の入江にニコラエフスク哨所を設置。ロシアでは間宮海峡の最狭部をネヴェリスコイ水道と呼ぶ。沿海州北緯49度附近のインベラートル湾(インペラートルスカヤ湾か)にも哨所を建設する。

ロシアの攻勢が急迫していないと知ると、幕府は蝦夷地を松前藩に返還し、以後40年間まったく省みようとしなかった。

松前藩も場所請負人(正確にはその支配人や番人)の裁量にまかせて運上金上納に満足し, 樺太の行政は顧みるところがなかった。
藩は毎年少数の勤番の藩士を夏期にのみ樺太へ派遣したにすぎない。これとて支配のためというよりは、むしろ独占的な山丹交易を管理するためであった。即ち, アイヌから安値に買い上げた毛皮を,ギリヤーク人のもたらす満州渡来の蝦夷錦,虫巣玉,鷲羽などと交易し,その売却によって多額の収益をあげていたのである。

1852年 ネヴェリスコイ、海軍大尉ボシニャークを北樺太調査に派遣。ボシニャークは良質の豊富な石炭層を発見する。

1853年(嘉永六年) ロシア軍の久春古丹占拠

以下の一連の経過は、主として秋月俊幸「嘉永年間ロシヤの久春古丹占拠」による。

1853年4月 アメリカの日本遠征計画を知ったロシヤ政府は、「サハリンがロシア領であることを事実をもって示す」ため、年内の樺太全島占領を決定する。占領と管理は「露米会社」(ダミー)の自己責任とされる。

4月 東部西シベリア総督のムラビヨフ、勅許を得てネヴェリスコイ海軍大佐に樺太占領を命じる。

4月 ネヴェリスコイを司令官とするロシア軍は、北樺太北端クエグト岬に露国旗を掲げ、領有を宣言。

6月 ペリーのアメリカ艦隊が浦賀に来航。開国を迫る。

7月18日 プチャーチン提督の4隻よりなるロシヤ艦隊が長崎に入港。

8月26日(露暦) ネヴェリスコイ、露米会社の「ユコライ」号に90名の兵員を乗せベトロフスク(カムチャッカのペトロパブロフスク?)を出発。ムラビヨフの禁を破り久春古丹の直接占領に向かう。

ネヴェリスコイは,政府の命令を樺太全島の占領命令と受取り,これを楯にムラヴィ ヨフの指示に逆らった。この地が漁業や交易のため豊かな設備を有しながら何の防備もなく, しかも日本人が臆病であることを確信していた。

8月22日(露暦で9月21日) ロシア兵40人余が4隻のボートで久春古丹北隣のバッコトマに上陸。大砲8門のほか大量の物資,建築資材,食料等が揚陸される。

8月23日 久春古丹南側の小高いところに日本人の倉庫を接収してムラヴィヨフ哨所が建設される。国旗を掲揚し樺太全島の領有を宣言。和人はすべて久春古丹を脱出し、宗谷に逃げる。

ムラヴィヨフ哨所: 20間四方に兵舎、士官宿舎など5棟、風呂場、物見櫓(高さ6間、6角形、上の方で10畳)、穴蔵をつくり、柵をめぐらした。その堅固な作りは日本人を驚かせた。

9月03日 久春古丹の番人たちは相談の上、夜になって全員が久春古丹を退去。一部が宗谷へ、一部が樺太西岸に移動。

9月12日 松前藩が宗谷勤番から事件の報告を受ける。直ちに幕府に報告の上、1番手85人、二番手77人を樺太に向け発進。

9月12日 松前藩、脱走者よりロシヤ人の久春古丹占拠の報を受ける。

9月17日 一番手85人,翌日に二番手77人の軍勢を樺太へ向け発進させる。異例の迅速な措置 実際は幕府の手前, 藩の体面をとりつくろったものとされる。

 9月25日 ネヴェリスコイはロシアに戻り、陸軍少佐プッセ, 海軍中尉ルダノフスキーほか69人が久春古丹に残留。西岸に残留した番人は久春古丹に呼び戻され、軟禁状態に置かれる。

11月6日 樺太占領の報を受けた長崎のプチャーチン、老中宛に書簡。樺太分界の方針を変更し全島領者を主張する。

10月25日 松 前藩、年内の渡海を見送る。一番手は10月9日宗谷へ,二番手は10月10日益毛に到着したが,渡海はせずにそれぞれの場所で越冬する。「最早氷海に相 成,北蝦夷地へ渡海難相成 不得止事ソウヤ並マシケ南場所へ陣罷在,明春氷海明き次第渡海仕侯」と幕府に通知。

1854年

1月 幕府は樺太事情と境界調査のために海防掛・蝦夷地掛の村垣範正(通称 与三郎)と堀を松前並蝦夷地御用として派遣。

村垣は出発に際し「(樺太は)北方僻遠の離島にて,唐太の議は魯西亜え被遺侯ても可然哉」と樺太放棄を進言。
これに対し川路らは異論を提出。莫大な投資行なわれ, 制度も整い始め,余剰金さえ生じていた。その突然の松前藷への還付は,老中水野忠邦の独断により決定されたもので, これについては松前藩から多額の賄賂があったといわれている。

2月下旬 樺太から宗谷へ越年番人やアイヌたちの飛脚船が到来し久春古丹の状況を伝える。この頃ロシヤ守備隊に壊血病が猛威をふるい病人は40人に達する。

3月20日 松前藩の使者が藩兵に先立って樺太に渡る。漁場支配人清水平三部ほか60人の番人が同行。

4月11日 一番手85人が久春吉丹に到着。さらに3番手77人も久春古丹に上陸。

4月14日 日本役人4隻の日本船で久春古丹に入る。ムラヴィヨフ哨所を訪問し。ブッセと面会。亜庭湾上の両国境界について協議。

4月29日 インベラートル湾から軍艦オリヴツァが久春古丹に到着。シベリア司令官ムラヴィヨフは書簡を送り、ブッセを正式に樺太管理者に任じる。

ムラビヨフはトルコとの開戦を伝え,英仏との開戦が近いとし、日本人との衝突を避けるよう指示。クリミア戦争が始まれば久春古丹が攻撃され、イギリス艦隊の餌食となると恐れたとされる。
これに対し直属上司ネヴェリスコイ少佐は樺太撤退を認めず、敵の攻撃の際は内陸へ撤退しゲリラ戦を戦えと指示。ただ、いまや正式の管理者となったブッセにとっては絶対的命令ではない。

5月15日 プチャーチンの幕僚ポシェットを載せたメンシコフ号が長崎から久春古丹に入る。プチャーチンは、戦争が始まれば英仏艦船によるムラヴィヨフ哨所が攻撃される可能性があるとし、これを避けるためムラヴィヨフ哨所を撤収するよう提案。ブッセはこれを受諾。

プチャーチンは直接の上下関係にはなく、提案は「命令」ではなく、「条件付きの勧告」を行なったに過ぎない。しかし不利を痛感していた指揮官のプッセは、 士官会議にかけた上でこれを受諾した。

5月18日 ロシア軍、約8ヶ月にわたる久春古丹占拠を終え撤退。

6月12日 堀,村垣一行が久春吉丹に到着。日露国境として好適な場所の調査に着手する。ムラヴィヨフ哨所の跡を視察したのち,シラヌシを経て西岸を北上。

6月末 一行は西岸のエンルモマコフまで到達。堀はさらにライチンカから東岸のマアヌイに移動し箱館に戻る。

堀,村垣より先に樺太に渡った幕臣の普請役鉄次郎ら、東岸を多来加まで調査。カシホ以北のアイヌは、これまでに日本人と接触していないと報告。支配勘定の上川田一郎らはアムール対岸まで足をのばし,ギワヤークの状況を調査。ヲッチシでロシヤ人が石炭を採掘していると報告

10月 村垣ら、江戸に帰府。「北蝦夷地御国彊見込之場所申上侯書付」を提出。

松前藩の支配が西岸はホロコタン,東岸はフヌプまで及んでいるとする。またこの地は「迚も警衛行届候筈無之」とし、樺太の国境問題や警備よりは,外国に開かれた箱館さえ何の備えもない北海道の防備の急務を説いた。
またアイヌの悲惨な状態と漁場の支配人や番人の非道さを口を極めて非難。このままではアイヌの帰趨は危ういと警告する。

12月 下田で日露通好条約の交渉。ロシアは当初、亜庭湾周辺部のみを日本領とする提案。
1855年(安政2)

2月 日露通好条約が締結。日本は英仏の支持を得て混住地の確認を維持。樺太は所属を決めない国境未画定地、日露の雑居地域となる。

4月 イギリス、樺太の支配を狙い、艦隊を久春古丹に送る。イギリス艦隊の陸戦隊が久春古丹河辺に上陸。

4月 秋田の佐竹藩が,樺太の防衛にあたる。万延元年以後は東北4藩が2藩づつ交代で警備にあたる。幕府はアイヌの慰撫に務める。

5月 松前藩、幕府の命により久春古丹のロシア軍基地を焼却。

55年 堀,村垣の報告にもとづき,幕府は北海道と樺太を再び直轄し,彼らはともに箱館奉行としてこれらの地方の行政にあたる。

1856年

5月 松浦武四郎、新道建設予定路の調査を命じられ白主着、その後、東海岸の敷香(シスカ)に至る。

56年 幕府、樺太東岸の中知床岬以北および西岸のノタサン以北を樺太直捌場所とする。

1857年(安政4年)

6月 ムラヴィヨフ哨所の元副隊長ルダノブスキーが率いるロシア兵、ロシア船「アメリカ」号で進出。日本勢力の北限となっていた西海岸のナヨロ、久春内に上陸。兵士16人で日本側官吏および住民を拘束する。アイヌの支持が得られず、まもなく帰国する。

57年 越後の豪農で、蝦夷地御用方をつとめる松川弁之助が、カラフト奥地漁場開発を出願。東岸のオチョポカ(落帆)の漁場差配人を命じられる。

1858年

5月 ロシアは黒龍江一帯に侵攻し、清国との間に「愛琿条約」を結ぶ。

58年 江戸に赴いたロシアのムラビョフ代表、清国から割譲された黒龍江流域に付属するものとして、樺太全土の領有を主張。

58年 幕府は越前大野藩に北蝦夷地警備と開拓を命じる。久春内周辺はこれとは別に箱館奉行石狩役所の直捌場所となる。

1859年 ロシアは艦隊を率いて品川に現れ、 樺太全島をロシア領とする境界策定を請求。幕府はこれを拒否する。

1860年 ロシア、清国の内乱に乗じて圧力をかけ、「沿海州専用に関する条約」(北京条約という)を結び、山靼地方・沿海州の全てを領有する。以後、樺太は沿海州(プリモルスキー)の付属地であるとの立場から、警備兵や囚人を送り込むなど攻勢を強める。

1861年 ロシア艦ポサドニック号が対馬芋崎浦を占拠。箱館奉行となった村垣範正がロシア側との対応にあたる。

1866年 ロシア、クシュンナイ哨所とマアヌイ哨所を強化し、東海岸のナイブチにも新しい哨所を建設。

1867年(慶應3) 

3月  函館奉行小出大和守がロシアに派遣され、領土交渉。北緯50度線を国境とする提案を行うが、ロシアは久春内での分界を主張。結局これまで通り雑居地とする「樺太島仮規則」を調印。

1868年 明治新政府、岡本監輔ら十数名の官吏と箱館で募集した農工民二百余名ををクシュンコタンに送り、公儀所を設置する。それまで旧幕府・松前藩は樺太を漁業基地としか見ていなかった。

1869年 明治新政府、北蝦夷地を樺太と改称する。北海道開拓使が管理する。

1869年 ロシア、明治政府の出方を見て樺太の軍備を増強。コルサコフ哨所、チフメンスキ-哨所などが設営される。

1870年2月 樺太開拓使が開拓使から分離して、久春古丹に開設される。黒田清隆を開拓次官とする。 トンナイ、シララカ、白主に出張所が置かれる。

久春古丹の北方にハツコトマリ(小港)、南方にポロアントマリ(大港)が発展。ポロアントマリが大泊の名の元になる。久春古丹は楠渓町、ポロアントマリは栄町となる。

1871年 樺太開拓使が閉鎖され、北海道と合併。久春古丹に公議所をおき開拓使樺太支庁とした。

1873年(明治6年) 副島種臣がロシアと樺太買収の会談をするも不調に終わる。

1874年 黒田清隆、樺太は無価値である旨政府に報告する。

1875年(明治8年)5月 「千島・樺太交換条約」を締結。樺太全島がロシア領となる。久春古丹の開拓使樺太支庁はコルサコフ日本領事館に業務を引き継ぐ。

1875年 千島樺太交換条約の締結後、日本人は日本国籍のまま樺太に住み続けることが許されたが、先住民族はロシア国籍の取得を義務付けられた。

10月 樺太アイヌ854名、北海道への移住のためクシュンコタンを出発。以下の経過は主としてrutke アイヌの歴史・文化など より 樺太アイヌの強制移住による。

樺太南部に住んでいたアイヌ(推定約2200人)のうち、841名が北海道に移り住むことになる。いったん宗谷(稚内市)に移り住む。

榎本武揚、「ロシアは、流刑者を石炭採掘に従事させている。日本でも移住した樺太アイヌにそれをやらせればいい」と提案。

開拓使、宗谷に移住した樺太アイヌを江別に強制移住させる。

黒田閣下の特権を以って石狩河上に移す。而して其移すや閣下六等出仕鈴木大亮に命じ、玄武丸に 乗らしめ小樽に航して、札幌の巡査三十人を率い、皆銃を携へしめ、小樽港より宗谷沖に迂回して艀船若干隻を海岸に繋ぐ、樺太移民皆愕然として狼狽し山林に 遁れんと欲すれば、三十人の巡査銃砲を向けて土人を恐迫 す。然して玄武丸大砲の空砲を沖に放つ、囂々然として炮声山河に響く。樺太の移民、匍匐合掌して震慄せざる者無 し。
…樺太移住土人を脅迫し船に乗らしめ、小樽に上陸せしめたるに、此時酋長此兵衛は小樽にて血を吐きて死す。是に於て判官辞職の決意す。

1905年(明治38年)7月7日 日本軍北遣艦隊および独立第13師団の攻撃により大泊が陥落。


2015年09月16日

2015年09月15日

蒙古vs骨嵬(クガイ)戦争(詳細はアイヌ年表へ)

樺太南部には樺太アイヌ、中部にウィルタ、間宮海峡から北部にかけてニブフ(ギリヤーク)などの北方先住民族が狩猟、漁労、交易を営んでいた。

1264年 黒竜江河口に住む吉里迷(ギレミ)人、クビライに対し骨嵬(クガイ)が毎年のように侵入してくると訴える。吉里迷はギリヤーク(ニヴフ)族、骨嵬(苦夷とも)はアイヌ族を指しているとされる。

1264年 蒙古帝国(のちの元)が3000人の軍勢を樺太(古桂)に派兵し、住民を制圧。朝貢を命じる。アイヌ人の侵略に対する対応措置とされる。

1273年 塔匣剌(タヒラ)が征東招討司に任命され、アイヌ攻撃を計画したが、賽哥小海(間宮海峡)の結氷がなく、実施されずに終わる。

1274年 文永の役。元の日本襲来。

1281年 弘安の役。元の日本襲来。

1284年 樺太の武装集団「骨嵬」(くがい)が元に反乱を起こす。元は聶古帯(ニクタイ)を征東招討司に任じ、骨嵬征伐が20年ぶりに実行される。

1285年 征東招討司塔塔児帯(タタルタイ)・楊兀魯帯(ウロタイ)が骨嵬を攻撃。

1286年 元が三度目の骨嵬攻撃。「兵万人・船千艘」を動員したという。

この結果、骨嵬の軍勢は四散。元朝は、樺太南端に前進基地として「果夥(クオフオ)」城を設ける。
西能登呂岬に遺跡が残る白主土城は、アイヌ伝統のチャシとはかなり構造の違う方形土城で中国長城伝統の版築の技法が使われており、ここで言う「果夥」であった可能性がある。(中村和之=ウィキペディア)

1297年 ニヴフ人、元朝に対し、アイヌが海を渡ってニヴフの打鷹人を捕虜にしようとしているとの訴え。

中村はこれについて「日本では鷲羽は、アイヌ交易の代表品として捉えられており、アイヌは鷹羽・鷲羽流通の掌握を狙っていた」と説明している。

1297年5月 骨嵬が黒龍江流域に侵攻。キジ湖付近で元と交戦する。

ある文献では次の記載。樺太アイヌで骨蘶の屋英(わいん)、ギリヤーク人の作った船に乗り、沿海州に渡って乱を起こす。また骨蘶の酋長フレンクは北樺太西海岸の果移(カター)から海を渡って攻め込む。いずれも元軍に破られた。
海保嶺夫=ウィキペディアでは、蝦夷沙汰職・蝦夷代官安藤氏が蝦夷(樺太アイヌ)を率いて闘ったとある。これらの記載は?

1308年 「骨嵬」が元に降伏。アイヌの玉善奴・瓦英らが、ニヴフの多伸奴・亦吉奴らを仲介として、毛皮の朝貢を条件に元朝への服属を申し入れる。

以上の経過については、かなり怪しいものも混在している可能性がある。取り扱いに注意が必要。

1411年 元に代わり明が成立。黒竜江下流域まで進出。樺太をふくむ3箇所に衛(役所)を設置し、アイヌ民族と交易する。

松前藩の進出

1485年 樺太アイヌの首長、武田信広に銅雀台の瓦硯を献じ配下となる。(武田信広はこの時点で蝦夷管領・安東氏の代官にすぎなかったが、すでに実権を握っていたようである)

1590年 信広五代の孫の蠣崎慶広、太閤秀吉に会い親藩に加えられ、樺太を含む蝦夷地主として待遇された。

1593年 蠣崎慶広、秀吉から蝦夷地の支配権を許される。

1599年 蠣崎慶広、家康から蝦 夷地の統治に関する誓書を受ける。以後姓を松前と改める。 (この辺りはアイヌ年表参照のこと)

1602年 イエズス会宣教師マテオ・リッチが北京で作った世界図。日本でこれを基にマテオ・リッチ系世界図が作られた。図柄的には北海道だが、書かれている地名は誤っている。樺太は存在しない。

マテオリッチ

1603年 松前藩(松前公広)、宗谷に役宅を設置。利尻・礼文・樺太を司さどる。

1635年(寛永12) 松前藩、村上掃部左衛門を樺太巡察(島巡り)に派遣。(サハリン・歴史関連年表

この探検については文献により多少の異同がある。「村上掃部左衛門」については「佐藤嘉茂左衛門」との表記がある。ただし 佐藤説では「蠣崎蔵人」(蠣崎家の始祖)が同行したとなっており、これは誤情報であろう。最初の上陸地は西能登呂岬ウッシャムである。西能登呂岬から亜庭 湾沿いに10キロほど北上したあたりに内砂浜という集落がある。まぁその辺りであろう。
ここで越年し、翌年に探検をこなったのは甲道庄左衛門であり、藩幹部の「村上掃部左衛門」は小便だけして帰ったのだろう。

1636年 甲道がウッシャムで越年。翌年多来加湖に至る。原文では“足香”とあてられているようである。

この後50,79,89年の数次にわたり調査隊が送られる。松前藩は江戸幕府に自藩の領土として樺太を報告。

1643年 オランダの航海者メルテン・ド・フリースが樺太を探検。クシュンコタンに上陸し敷香、北知床岬まで到達。宗谷海峡は発見できず、北海道と陸続きと報告する。

久春古丹は後の大泊であり、その一部をなす。1875年よりコルサコフと改称した。1908年、日本領となり樺太府が置かれた後、大泊と改称された。ただしそれと同時に樺太府は豊原に移された。したがってこの年表で大泊の名を使用する意味はない。

1644年 清が中国を統一。アムール川流域とサハリンの北部を支配下におく。 現地に毛皮貢納を義務付ける。

清朝は住民を戸(ボー)、村(ガシャン)、氏族(ハラ)という単位で組織し、1戸当たり毎年1枚のクロテンの毛皮を貢納さ せるとともに、貢納者には綿織物の衣類や反物などを恩賞として与えました。また、集落や氏族には首長を任じ、彼らには特別に毎年絹製の満洲官吏の制服を1 式と綿織物などを恩賞として与えました。そのような支配体制がアムールやサハリンの住民の交易活動を大いに活性化させたのです。(佐々木史郎講演

1644年 江戸幕府が「正保御国絵図」を作成。樺太が北海道の北の大きな島として記載されている。東には千島列島が描かれる。

正保地図

1658年 ロシア黒龍江総督パシコフ、ネルチンスクを建設。武力により版図を拡大。

1669年 松前船、サハリン島に至り、エブリコ(薬用きのこ)を積む。

1679年(延宝7年) 松前藩の漁場としての樺太開拓が始まる。松前藩の厚谷重政が大泊の久春古丹勤番所(その後南渓と改称)で越冬する。穴を掘って寒さをしのいだため穴陣屋と呼ばれる。ただしこの陣屋は5年ほどで閉鎖される。

1683年 清朝軍、黒龍江沿岸のロシアの要塞を襲撃。

1685年 松前藩、家臣の知行地として宗谷に商場(宗谷場所)を設置。樺太の仕切りが委ねられる。宗谷場所は来航する樺太アイヌと交易を行う。

1689年 清がロシアを撃退。ネルチンスク条約締結。この後、黒竜江下流に進出した清軍は、樺太の住民にも朝貢をもとめる。

1689年 松前藩士、蠣崎伝右衛門が樺太の地図を作成。

1700年 松前藩、樺太を含む蝦夷地の地名を記した松前島郷帳を作成し、幕府に提出。

1709年 清国、イエズス会修道士に命じて清国版図を作成。修道士は黒竜江河口対岸に島があると聞き、現地民の通称であるサハリン・ウラ・アンガ・ハタと記した。

1715年 幕府に対し、松前藩主は「十州島、樺太、千島列島、勘察加」は松前藩領と報告。

1715年 医師寺島良安、「和漢三才図会」で、カラフトを大陸の一部として描く。

つまり、黒竜江河口付近に、間宮海峡を隔ててサハリン島があり、北海道の北に大陸と繋がる樺太(半島)があるという二つの認識が併存していたことになる。この誤解はかなり後まで続いていく。したがって明治の領有権放棄までについては「樺太」との記載がふさわしい。

1732年 清国、樺太を6つのハラ(氏族)に編成し、毛皮貢納民とする。

1739年 坂倉源次郎が『北海随筆』を著す。この中に「山丹」が初めて登場。この頃から山丹交易が盛んとなる。山丹は山靼、山旦とも表現され、間宮海峡を挟む樺太および黒竜江下流地域を指す。

サハリン・アイヌの人々は中国製の絹織物(いわゆる蝦夷錦)やガラス玉、ワシやタカの尾羽を持ち込んだ。それらは大陸からやってくる「サンタン人」と呼ばれる人々から手に入れたものだった。
松前藩は密貿易の嫌疑を避けるため,山丹人との直接交易は行わなかった。(佐々木史郎講演

1742年 清の役人、樺太アイヌが清商人から略奪をはたらいたとし、樺太アイヌを取り締まったとの記録。

1745年 ロシア帝国全図が作成される。(これでは樺太・千島がロシアのものと言われても仕方ない)

ロシア帝国地図

1751年 宗谷場所詰の松前藩士加藤嘉兵衛、藩主の命を受け、海鼠(ナマコ)漁場調査と交易のため白主に出向く。翌年、久春古丹など3カ所に漁場を開く。(森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

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北海道・樺太アイヌ語地名サイト カムイミンタラ」から部分拡大。もともとは「樺太庁発行樺太要覧」(昭和2年発行)より転載したもののようである。

明治38年の地図。左図より約30年前。日本領となってまもなくの頃なので、漢字もあてられていない。

1752年 ソウヤ場所から樺太場所が分立。(これは目下のところ疑問)

1772年 松前藩、城下の商人で宗谷場所請負人村山伝兵衛に命じて、交易と漁法の指導のため、二隻の船を樺太に派遣。

1777年 松前藩、藩士新井田隆助を派遣、樺太南部の検分、測量に当たらせる。

1785年7月 幕府、蝦夷地調査隊を派遣。普請役の庵原弥六は、宗谷よりシラヌシに渡海。西はタラントマリ(多蘭泊)、東はシレトコに至る。


白主はロシア領となってからはさびれてしまった。日露戦争後は南白主と呼ばれる一集落に過ぎなかった。白主をふくむ好仁村の役場は南名好(アイヌ名ナヤシ)に置かれた。

9月 林子平、「三国通覧図説」で、欧州の地図を元に、樺太を東韃靼の地つづきである半島と断定。これとは別に「サカリン」を島に描く。

1786年

4月 幕府蝦夷地巡検使の東班(山口、青島、最上)と西班(庵原、佐藤)が松前を出発。

6月 西班、宗谷に至る。庵原は樺太に渡り、最初の本格的な樺太調査。白主を起点に東岸は約三十里、西岸は約六十里ほど検分。

1787年

3月 樺太から戻り宗谷で越年中の庵原が病死。

5月 庵原の後継となった大石逸平が樺太に入る。

一隊は、ノトロに着岸し、同日シラヌシに至る。
タラントマリで、山丹人からサハリン奥地の様子を聴取。彼らはアムール下流キジ湖畔から交易のため来島していた。さらにナヨロに至り、現地人から地境・行程を聴取する。さらに久春内に至る。
大石は、西はナツコ、東はタライカに至るまでの多数の地名と土地の特徴を記録した。

1787年 フランス人ドウ・ラ・ペルーズ、中国から樺太探検に入る。黄海から日本海と北上し、樺太西岸に達する。その後海岸沿いに北進。海が浅くなり座礁の心配で船を反転させて引き返す。さらに宗谷海峡をぬけてカムチャツカへ向かう。 (ロシアでは宗谷海峡をラ・ベルーズ海峡と呼ぶ)1790年(寛政2年)

5月 松前藩、幹部の松前平角らを白主に派遣。

西地コタントル、東地シレトコ(中知床岬)まで調査。ナヨロ、トンナイで山丹人、ロシア人から山丹のみならず、吉林、北京の状況を聴取する。

白主に商場(会所)を設置。藩士が駐在するカラフト場所が開始される。幕府も勤番所を置く。またシラヌシ、ツンナイに番屋、トンナイ、クシュンコタンに荷物番屋を設置。春から秋までのあいだ、勤番を派遣した。久春古丹の荷物番屋は役人他100人が勤めたという。後に運上屋に発展。

村山伝兵衛がカラフト場所請負人となる。樺太アイヌとの交易を拡大。いっぽう山丹人との直接接触は避けられる。

6月 最上徳内、「蝦夷国風俗人情之沙汰」を発表。(のち、改定して「蝦夷草紙」)カラフトを「樺太」とし1つの島に描く。

1792年 第二回目の幕府調査。最上徳内らが派遣される。白主を起点に、西はクシュンナイ、東はトウブツまで検分。山丹人、ロシア人から樺太北部、山丹、満州、ロシアの地理を尋問。

1797年 板垣豊四郎、カラフト場所の支配人となるが、経営は数年で失敗に終わる。

1797年 村上島之丞、「蝦夷見聞記」を著す。カラフトを半島とし、ほかに「サカレン島」を描く。

1798年 幕府、東蝦夷地(北海道太平洋岸および千島)を公議御料(幕府直轄領)とする。樺太は松前藩の手に残される。

1799年1月 幕府、松平忠明を蝦夷地取締御用掛に任命し、蝦夷地の開拓を命じた。

1799年 間宮林蔵、村上島之允の従者として初めて蝦夷地に渡る。函館において伊能忠敬と師弟の約を結ぶ。翌年、普請役の雇となり蝦夷各地の測量に従事。

1800年

1800年 松前藩、カラフト経営を藩士の手から取り上げ、領主手捌(直轄)とする。摂州兵庫津の商人柴屋長太夫が仕入れ方を担当。

この頃から樺太経営の中心は久春古丹に移動したようだ。久春古丹には勤番設所や運上屋のほか, 多数の倉庫や番屋があり, アイヌの住居、数十棟を数えた。
松前藷は毎春勤番の藩士を派遣して漁場や山丹交易の監督をおこない,秋には引揚げるのが通例であった。8月末には謹かに越冬番人37人を残すばかりであった。
アイヌは僅かばかりの米,酒,煙草,古着のほか日用品を代償として酷使され、とくに漁場周辺のアイヌの立場は物品の貸付により殆んど負漬奴隷と化しつつあった。

1801年

5月 第三回目の幕府調査。普請役を中村小市郎が務める。小市郎は東海岸をナイブツまで、隊員(小人目付)の高橋次太夫は西海岸をショウヤ崎まで検分。山丹交易事情などを報告。「樺太見分図」では、カラフトを大陸の半島、あるいは島と二通りを併記する。

探索は南部にとどまり、北部については交易にきた東韃靼の山丹人に砂の上に地図を描かせて地勢を聞く程度だったという。

1801年 近藤重蔵、「辺要分界図考」を発表。半島説と独立島説を併記。

これについては次の異説あり。1804年 近藤重蔵、「今所考定分界之図」で、カラフトを離島にし、さらに「サカリン」を離島に描く。森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

1803年 間宮、国後をふくむ東蝦夷地の測量に従事する。05年には天文地理御用掛として蝦夷地日高のシツナイに勤務。06年からはエトロフ島に渡り、沿岸実測や新道開発に当る。

1804年(文化1) ロシア使節のニコライ・レザーノフが長崎に来航し通商をもとめる。幕府は通商を拒絶しレザーノフは事実上の幽閉状態に置かれる。(交渉時、レザーノフは樺太南部が日本人のものであるとの認識を示した)

1804年 イギリス人のブロートン、ドウ・ラ・ペルーズと同様のコースを探索。「北部太平洋探検航海記」で樺太が半島であると断定する。ラ・ペルー ズ、ブロートンの探検により、サハリンと樺太が同一の半島であるとの説が流布する。

1804年 ロシアのクルーゼンシュテルン、ナデシュダ号で樺太探査。調査結果を「世界周航記」 として発表した。 樺太は黒竜江河口の南で大陸と接続している半島と判断。

1806年 「文化露寇」

10月22日(旧暦では文化3年9月11日) レザノフ、日本との通商を拒否された報復のため、フボストフ(フォーストフ)に命じ久春古丹(大泊)を襲撃。

ロシア兵約30名がボートで上陸。運上屋で米六百俵と雑貨を略奪し11の家屋を焼き、弁天社を焼き払い、焼け残った鳥居にロシア語を彫った真鍮板2枚を掲げた。魚網及び船に も火を放ったあと海上に去る。その後択捉に回り幕府軍を攻撃。船を失った居留民は翌春まで藩との連絡が不能となった。

1807年

3月 幕府は西蝦夷地も公議御料とし、奉行所を箱館から松前に移す。

4月初め 久春古丹との連絡が取れ、松前藩および幕府はロシア軍襲撃の事実を知る。

4月16日 松前藩家老松前左膳と蝦夷地奉行新谷六左衛門、藩兵200人余を率いて福山を出発。5月12日に樺太上陸。

4月 フボストフ、択捉のナイホに上陸し沙那会所を襲撃・略奪。南部藩・津軽藩よりなる守備隊は敗走する。

間宮はこのとき択捉勤務中で事件に遭遇した。逃亡罪で江戸送りとなるが、徹底抗戦を主張した事実が認められ、お咎めなし。

5月 幕府、東北諸藩(津軽藩、南部藩、庄内藩、久保田藩)から3千の兵士を徴集(翌年には4千人に増強)。松前奉行の統括下で蝦夷地警備を命じる。クシュンコタンには南部藩が配置されることとなる。

5月22日 フボストフ、久春古丹の西隣の留多加に上陸。弁天社、運上屋、倉庫などを焼き払う。

6月 フボストフ、利尻島に上陸。島周囲の海域で日本船を襲撃。事件の後、会津藩士ら252名が利尻で警備にあたる。

12月 幕府、ロシア船打ち払い令を発す。

1808年(文化5年) 幕府は会津藩に久春古丹の守備を命じる。会津藩は5月から7月の間、久春古丹と留多加に駐屯。

各社世論調査で戦争法案の反対が圧倒的になっているが、NHKのみが反対45%であった。
朝日が68%、あの産経でさえ反対が59.9%である。
さらに安倍政権の支持率では支持が43%で、不支持の39%を上回った。産経でさえ不支持が上回っている。一体どうなっているのか。
さらにひどいのは、8月の調査に比べ支持が6%上昇、支持しないが7%低下しているのである。
一体8月の調査は何だったのかということになる。1ヶ月でこれだけの世論の変化は大変なものだ。なにかそんなことがあったのか。集計の間違いではないか。そう考えるのが当然だし、何か説明がつくまでの間は発表を保留するか、重要な留保を表明するかすべきだろう。
そうでないと調査そのものの信用度にもかかわってくるのだ。
それにしても、ここまで来ると、そろそろ本気でNHK総合テレビの受信を拒否すべき時期に差し掛かっているのかもしれない。(衛星の方は海外ドキュメンタリーがあるので見ざるをえない)
テレビにつけてNHKが見えないようにする装置を売りだしてもらえないだろうか。それがあれば正々堂々と受信料支払いを拒否できる。
とりあえず戸口に「我が家はNHK総合テレビを見ません」というステッカーでもはろうか。


小説的にはきわめて多白い題材だろう。
性格はきわめて対照的であり、しかも、そのどちらも尊敬に値する実績を持っている。
話として面白いのは最上徳内だろう。
この人は豪傑だ。つねに行動を欲し、しゃべりまくる。だから獄に繋がれたかと思えばどんどん出世していく。周りにどんどん友達の輪ができていく。
間宮は学者肌の人だ。堅忍不抜で、つねに目標を持って行動する。シーボルトを密告したという噂がついて回るので過小評価され気味だが、業績としてはすごいものがある。
間宮の最大の仕事は間宮海峡の発見ではない。彼は樺太探検の以前の10年、以後の10年を北海道地図の作成に当てた。それは伊能忠敬の日本地図に合体されている。しかしそこには出来合いのものは一切なかった。そういう点では伊能の功績に匹敵すると思う。
ただ四半世紀における蝦夷地での行動に際し、彼にはアイヌに心寄せる機微は見られない。彼はアイヌを他者として観察するだけであった。その善し悪しは別の話として、彼は豪傑ではなかった。
しかし豪傑は何人も必要ではない。本当に必要なのは数多くの間宮の如き人間であろう。
この二人を持ち上げたのも時代の波だったし、割とつまらない後半生にしてしまったのも時代の波だった。その「時代の波」の不合理性に、本格的に手入れしなければならなくなったのが明治維新であったのだろうと思う。

1799 村上島之允の従者として初めて蝦夷地に渡る

1800 普請役雇となる。函館において伊能忠敬と師弟の約を結ぶ

1803 東蝦夷地、南千島の測量に従事する

1805 天文地理御用掛として蝦夷地日高のシツナイに勤務する

1806 エトロフ島に渡り、沿岸実測、新道開発に当る

1807年4月 フヴォストフの船が択捉島の沙那会所を襲撃。会所を放棄して退去するが、徹底抗戦を主張した事実が認められ、お咎めなし。

1808年 松田伝十郎と間宮林蔵の探検

間宮の著した「東韃地方紀行」で足跡をフォローする。

http://www1.tmtv.ne.jp/~hsh/D82-mamiyarinzou.htm

間宮道程

4月13日 第四回目の幕府調査。宗谷会所で調役下役をつとめる松田伝十郎が、カラフト奥地、山丹見分の命を受ける。松前奉行所は松田の下役として間宮林蔵を派遣する。

松田と間宮、シラヌシ到着。松田は西海岸を、間宮は東海岸を北上することとなる。

5月 間宮、多来加(タライカ)湖畔に到着。

間宮、シャクコタン(柵丹)まで進み、アイヌに舟を引かせて五町(545メートル)ほどの砂原を横断、北知床半島の東海岸に出る。そこでこれ以上の北上は困難と判断。(理由不明)

間宮、シャクコタンから再び南下し、最狭部である真縫(マーヌイ)から樺太山脈を山越えして、西岸(久春内)に出た。

多来加

多来加湾地図 おそらく北船越というところで半島を横切ったのであろう。シャクコタンは可雁のことか? 柵丹は知取の近くの集落であり、だいぶ南のはずだが

6月20日 西海岸を北上し、ノテトで先行する松田と合流した。ノテトは、スメレンクルと呼ばれているギリヤーク(ニヴフ)人の村落。近くにはオロッコ人も住んでいた。

松田と共に北緯52度、樺太最西端のラッカ岬に至る(一説にナッコ岬)。この岬以北で海峡幅が広がっていくのを望見。樺太が島であるという推測を得た。ここに「大日本国国境」の国境標を建てる。

6月26日 松田と間宮、ノテトをはなれ帰途につく。

7月13日 松田と間宮、宗谷に帰着。奉行所に報告。松田は江戸に報告のため出発。間宮はさらに奥地への探索を願い出る。(一説に、宗谷滞在中の松前奉行河尻春之が、間宮林蔵の樺太東海岸調査は不十分として再調査を命じたとある)

7月 間宮、当局の許可を得て単身樺太へ戻る。図合船に便乗して宗谷を出発。西海岸のトンナイに至る。

トンナイは後の真岡とされているが、眞岡はアイヌ人からはエンルンコマナイと呼ばれ、厳密にはトンナイとは異なる。

9月14日 間宮、トンナイからトッショカウまで進むが、時期的にこれ以上の北上は困難と判断しトンナイに戻る。

1808年 高橋景保、「北夷考証」を発表。松田伝十郎の報告をもとに、カラフトとサガリンを同一島とする。

1809年

1月29日 間宮、雇のアイヌたちとともにトンナイを出発。奥地へ向かう。ウショロで雪解けを待つ。

4月初め ウショロから陸路2日でリョナイに着き、船で北へ向かう。

4月9日 リョナイから255キロメートル北のノテトに到着。

5月12日 間宮林蔵、ノテトを出発。海路でラッカに達する。ノテトから北に98キロのユクタマーで、アムール河の河口を正面からながめる。さらに北進。

樺太北端に近いナニオー岬まで至り、北側に広大なオホーツク海が広がっていることから、樺太が半島ではなく島である事を確認した。(これをもって間宮海峡の発見とする見解がある)

6月 幕府、カラフトを「北蝦夷地」と唱えるべき旨を命じる。

6月26日 間宮林蔵、ノテトに戻る。ここで間宮海峡の対側の東韃靼に設けられた清国デレン仮府の存在を知る。

酋長のコーニは清国仮府からカーシンタ(郷長)という役人の資格をあたえられていた。このとき貢物や交易品などを山丹船に積み込みデレンに向かう予定だった。間宮は随行を頼み同行を許される。

6月26日 間宮、サンタン船でノテト崎を出発。6日をかけて対岸に到着。その後黒竜江を遡る。

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間宮海峡に面したラザレフの岩山からは、幅約7キロの海峡越しにサハリンが見えた(蝦夷錦の道「北のシルクロード」——間宮林蔵が見たものより転載)

7月11日 間宮林蔵、デレンに到着し清朝の現地責任者と会見。その後ノテトに戻る。(8月2日説もある)

林蔵の記録によると、デレンは一辺25メートルほどの四角の敷地を二重の柵で囲い、中に清朝役人が毛皮を徴収する小屋があった。それを取り巻くように常時500人もの諸民族が集い、仮小屋に泊まりながら毛皮や食料などの物品を交換し、大いににぎわっていた。 とは言うものの、絵を見る限りかなり粗末な作りで、恒久的なものとは思えない。デレンは仮府を表わす一般名詞の可能性もある。

デレン

間宮林蔵が記録したデレンの写生画(蝦夷錦の道「北のシルクロード」——間宮林蔵が見たものより転載)

9月15日 真宮、白主に戻る。さらに9月末には宗谷に入る。

11月 間宮、松前に帰投。松前奉行所に出頭し、以後報告書の作成にあたる。

1811年2月 江戸にて『北蝦夷島地図』、『北夷分界余話』(ウィルタ、ニヴヒをふくむ樺太の地誌・民俗誌)、『東韃地方紀行』(黒竜江下流地方の見分)の三部作を完成、幕府に提出した。

1811年4月 松前奉行支配調役下役格に昇進。伊能忠敬から緯度測定法を学んだうえ、蝦夷地に向かう。

1822 10年におよぶ蝦夷地の測量を終え江戸に帰る。この時43歳。



インターネットの発展を恨みたくなる。樺太関連で芋づる式に資料が出て来て整理がつかなくなっている。
さしあたり、最上徳内と間宮林蔵については別年表を作らないとダメなようだ。

まずは最上徳内

最上徳内

1785年(天明5年) 1回目の蝦夷地探索。幕府の蝦夷地調査団の東蝦夷探検分隊に参加。

老中田沼意次がロシアの南下への対策として蝦夷地探検隊を組織。山口鉄五郎・庵原弥六・佐藤玄六郎・皆川沖右衛門・青島俊蔵の5人が普請役となる。農民上がりの最上は、竿取りという低い身分で参加する。

1785年 最上、国後訪問などの行動で頭角を現す。

1786年 2回目。幕府普請役・青島俊蔵の下で国後に駐在。(“青島俊藏は元松本伊豆守の家来にて平賀源内と云ふ儒者の弟子”だったそうだ)

蝦夷地巡検使の行動経過

4月 蝦夷地巡検使の東班(山口、青島、最上)と西班(庵原、佐藤)が松前を出発。

6月 西班、宗谷に至る。庵原は樺太に渡り、白主を起点に東岸は約三十里、西岸は約六十里ほど検分。

8月 西班の佐藤、宗谷からオホーツク海岸を進む。

8月 東班、国後に至る。択捉への前進はならず松前に戻る。

10月8日 西班の佐藤、山越えし厚岸に到着。その後松前に戻る。

1787年

3月 樺太から戻り宗谷で越年中の庵原が病死。

3月 東班先発の最上、厚岸に到着。イコトイの手船に乗つて国後島のイショヤに着く。

4月 最上、択捉(ヱトロフ)島にわたる。

5月 大石逸平、庵原の後任として樺太に入る。名寄(ナヨロ)まで到り、7月に宗谷に帰る。

5月 最上、択捉の内保村に到着。同島北端のシャルシャムに到る。ここで遭難・漂着したロシア人3名と知り合い、情報を交換。

滞在中のロシア人はイジョヨ(イジュヨゾフ)・サスノスコイ・ニケタの3人であった。他に日本人はいなかった。

5月 青島、山口も択捉に至る。(これは怪しい。国後の間違いではないか)

6月 最上、ロシア人を伴い国後に引返し、泊の運上屋に託す(ロシア人を青島俊蔵に紹介したとの記述あり)。その後択捉に戻り、さらに得撫(ウルップ)島モシリヤに渡り、島の北端までを極める。

その後松前藩に警戒され蝦夷地に入れず。公職も失い、青森野辺地で家庭を持つ。

其秘かに奥へ下りし仔細(しさい)を後に聞けば、是二度目の渡海にして、松前へ渡り、秘かに縁を求めてヲロシヤ国へ渉海せんとの心懸なり。
其訳いかんとなれば、先にヱトロフ島へ渡りし時、ヲロシヤの人シメヲン・トロヘイと云ふ者に秘かに彼国の御朱印と云ひつべきものを二枚もらひ請けたり。是を所持する時は、ヲロシヤ国の支配の国々へ到れば心の赴く方へ行くこと甚だ易しとなり。
故に徳内は秘かにヲロシヤの帝都に到り、彼国の地理を巡覧し、其後彼(かの)帝都の出張会所の紅毛人を頼み、又紅毛の人に交りてヱイロウハ洲を巡覧し、それよりリモア洲、アジア洲の国々島々を悉く巡覧して、後に長崎の港に帰帆(きはん)せんとの下心なりと云ふ。徳内が大胆豪傑なる気質は此等を以て考へ知るべし。

1789年 3回目。国後・メナシの反乱後、幕府の調査団(団長 青島俊蔵)に加わり蝦夷地入り。宗谷など西蝦夷方面から東蝦夷方面を回る。

1789年 江戸帰参後、アイヌとの交流などが問題視され投獄される。青島は獄死。

1790年 無罪放免となる。

1790年 『蝦夷風俗人情之沙汰付図』を著す。ロシア人とアイヌ人から得た千島情報を地図とともに文章化したもの。

1791年 4回目。幕府の普請役となり、アイヌの待遇改善状況を調査するため蝦夷地入り。クナシリ、エトロフからウルップ北端まで探索。その間、アイヌに対して作物の栽培法などを指導したという。

1792年 5回目。樺太調査を主に蝦夷地入り。カラフトの地理的調査や、和人やロシア人の居住状況を調査。松前藩の不正についても内偵したらしい。

1792年 そのまま松前で越冬し、ラクスマン訪問への対応に加わる。

1798年(寛政10年) 6回目。松前藩から東蝦夷地が召し上げられる。「異国船見届け」のため御書院番頭松平忠明らが渡海するに際し、その手先となる。

1798年 幕府が大規模な千島調査。幕臣近藤重蔵が団長となる。東蝦夷調査中の最上は、近藤の要請を受け、国後で探検隊に合流する。(近藤は最上に心酔していたという)

近藤とともに択捉まで探索。このとき、「大日本恵登呂府」の標柱を立てる。

1798年 7回目。道路掛に任じられ、日高山脈を切り開く新道を普請。間もなく上役と衝突し刺し違え、蝦夷探索の一線を退く。

徳内は生れつきて大丈夫の気性ゆゑ、御上の御為にならざる筋は堪へ兼ねし気質ゆゑか、信濃守(松平忠明)と大きに取りあひ、すでに帰府の後、存寄書を捧げたり。

1806年 8回目。普請役元締格となり幕府目付け遠山景晋の西蝦夷地見分を案内。5月には宗谷に至る。

1806年9月 ロシア船の連続襲撃事件。

1807年4月 9回目(最後)。箱館奉行の支配調役並となる。以下はすべて調べ役としての業務。

1807年秋 最上は斜里駐留の津軽藩兵を指揮する。

1808年 会津藩兵監察として樺太詰を命ぜられる。

4月 白主に渡り、次いで久春古丹に上陸。

6月 最上徳内、海岸沿いに船で西海岸を北上。トンナイに上陸。

7月 樺太警護のため駐留していた会津藩兵800名とともに樺太を離れる。

同年内に蝦夷を離れ、以後戻ることはなかった。

シーボルトとの因縁話は省略。とにかくスーパーマンであることは間違いない。


 

本日下記の如きメールを貰いました。

Dear Sir,

A - Kakizaki-Matsumae Nobuhiro and/or Nobuhiro

I recently happened to read your Chronological History of Ainu Nation, and it seemed to me that it is a most excellent summary of what have to be known for university students.

 

About one fact, however, I am puzzled.

Indeed, when you speak of the establishment of relations between the State (= Hideyoshi Toyotomi) and the will-be Matsumae clan was Kakizaki Nobuhiro.

This Nobuhiro puzzles me, because most of the time in books on the matter the name Yoshihiro appears.

Could you send me the kanjis used to write Nobuhiro and Yoshiro : in those times and nowadays ?

Nb : I read in [Hayashi Shiheï] a curious sentence. "Yoshihiro (whose name is written with an other kanji)".

Could it mean that Nobuhiro = Yoshihiro, according to kanji reading and prononciation ?

 

B - Sakhalin Miscellanea

I should like to speak of an other matter, i.e. Ainu in Sakhalin.

 

1° (明の駐屯地?)

It is said that Chinese Ming established guard-posts in villages called Uriga and Noharu (or Nohuaru) circa 1410 and 1413.

Do you know where these villages were ? And if they were Ghiliak or Ainu ?

It is also said that Shirushi became a market place circa 1435. Some authors say it was an island off Sakhalin.

Do you know where was this place ?

 

2° (満州の商人が蒙古語の木標を立てた?)

It is said that Manshu officials or merchants erected a wood column, with Mongol letters, somewhere on the coasts of Terpenia bay.

Have you heard of this ?

It is sais that this stele was seen by Japanese explorators.

Have you heard of this ?

 

3°  (最初の日本人は工藤庄左衛門?)

It is said that a Kodo Shozaemon spent 1635-1636 Winter in a village called Usshamu : he could have been the first Japanese to do so in Sakhalin.

Have you heard of this ?

Do you know where Usshamu is on a map ?

 

4°  (松前藩最初の漁業基地はTonnnai?)

When establishing fisheries village in Aniwa bay circa 1790, Matsumae merchants would have founded Tonnai.

Do you know where it was: on the seaside ? close or not to Kushunkotan ? West or east of Kushunkotan ?

 

5°  (日本語の樺太地図は?)

Do you know if Sakhalin maps (ancient or modern*) exist with Ainu/Japanese names (in kanjis ans katakanas) ?

* The best for me would be circa 1870-1875 and 1905-1945.

 

I hope I did not bother you.

Yours sincerely,

Alain LE NER./.

以上のメールを貰いました。A の答えは簡単ですが、B については、私にはほとんど応えることができません。どなたか分かる人がいたら教えて下さい。
元ネタはアイヌ歴史年表です。

アイヌ民族年表   アイヌ年表英語版

軍部独裁と太平洋戦争突入の関連

昭和の歴史は数多く語られているが、そのほとんどに主語がない。 

歴史を教訓としようとする時、これらの文章は何の意味も持たない。

我々が学ぶべきことは、いかにして日本の国民が無謀な戦争に巻きまれてしまったかであり、なぜそれに抵抗できなかったのかということである。

それは歴史から直接には学べない。なぜなら現在流布されている歴史の殆どは、「仕方がなかった」論で貫かれているからであり、加害者抜きの被害者論で貫かれているからである。

我々はこの歴史の中から、いかにして誰かが国民を無謀な戦争に巻き込んだかを学び取らなければならないし、いかにしてそれに抵抗する力と民主主義・立憲主義を抜き取ったかを知らなければならない。

東条はヒトラーではない。東条は小物である。では永田鉄山か、彼も能吏にすぎない。ではトップの戦犯は誰か。

多分それは山県有朋だろうと思う。彼の作ったシステムの中に太平洋戦争へと突き進む遺伝子のすべてが内包されている。

その四つの柱は1.好戦思想+排外思想、2.民主主義の敵視、3.システムの軽視、4.派閥政治である。ただし4.は思想的柱というよりその結果にすぎないのかもしれない。

永田・東条はその4.を有効に利用して3.を徹底的に押しすすめた。なぜそれが可能になったか。システムが自ら2.を実践し、システムの脆弱性を極度まで推し進めたからである。

はっきりさせておきたいのは、政治トップや官僚たちは単純な被害者ではないということである。彼らがファシズムへの道を掃き清め、最後には自ら墓穴を掘ったのである。

なんというか、想像を絶する指揮者というのがいるのだ。今日それを初めて見た。
なんというか、演奏のじゃまをするのだ。
ばれないように書くのがとてもつらいのだが、
たとえば野球の始球式にいろいろ有名だったり、そうでなかったりする人が登場する。一番バッターが打席に入って空振りするのが礼儀になっているが、この指揮者ときたら空振りをさせないのだ。
…どうも違うな、
音符や休止符の長さを変えてしまうので、たとえば弦楽器だと弓の長さが足りなくなってしまう。弦楽器というのは弦を弓でこすって音を出すから、擦らないと音は出ない。だから音が切れてしまう。
これが素人の“指揮者”だったりすると、楽団の方も承知しているから、遅めに弦を動かして余力を残す。あるいはコンマスが合図を送ってボウイングを切り返す。管楽器なら第二奏者にバトンタッチする。
しかし相手がプロだと思えば、まさかそんなことは考えない。プログラムを見ると、この指揮者はけっこうそれなりにキャリアがあるように書かれている。ただし国内での指揮の経歴は書かれていない。
おそらくは指揮力以外の力に優れているのだろう。それと、おのれの能力を信じる心にきわめて長けているのだろうと思う。

私が思うには、指揮者というのはエアー打楽器の奏者みたいなもので、リズムとテンポを司るのが第一の役割だ。後は第一バイオリンの音量バランスを調整していけば良い。他のセクションは適当にやってくれる。
とにかく余分なことはしないで、しっかりリズムを刻めよ。それができないなら、「名指揮者」気分にならずに指揮棒持ったら。



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