鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

2015年08月

YouTubeに初めてアップロードした。
初めてとあって、なかなか面倒だ。
まずはウィンドウズのダウンロードから何やらかんやらというソフトのセットをダウンロードした。
その中にムービーメーカーというソフトがあってそれだけ欲しいのだが、そういうわけには行かなくて、余分なものまで全部揃いで落とした。これが結構時間がかかる。
それでムービーメーカーというソフトを立ち上げて、そこにまず適当な写真を入れる。
写真をはめ込むと、次に「音楽をつける」というボタンを押す。そこで何を入れるかという画面が出て、そこに音楽ファイルを入れる。ほとんど手持ちはYouTubeから落として剥ぎとったAACファイルだが、AACは面倒そうなのでMP3に変換していれた。
それだけでもアップできるのだが、デフォールトだと静止画面は30秒ほどで切れてしまう。そこで「音楽の長さに合わせる」を選択すると、音楽がなっているあいだ画面が流れ続ける。これで完成だ。
これを動画ファイルとして保存する。これが結構時間を食う。
つぎに、YouTubeのホームを開くと、右肩に「アップロードする」というボタンがあるのでそこを押すと画面が出てきて、後は指示されたとおりに操作していけば完了だ。
つまり動画ファイルを作るまでがなかなか難しくて、出来上がってしまいさえすれば、後はさほどの苦労はない。
ということで、出来上がったのが「Sibelius Trial」というファイル、URLは以下のとおり。
https://www.youtube.com/watch?v=ND1CiD_Ndmw
時間は14分41秒。何故かと言うと、15分を越すといろいろ面倒な手続きをしなければならないようなので、という簡単な理由。
なぜこれをアップしたかというと、Audacity という“音質改善ソフト”のデモンストレーションである。
以前の記事で、Bughead Emperor について書いた時に「お化粧ソフト」と表現した。たしかに音は綺麗になるが、それは高性能だからではなく、原音にお化粧するのではないかと考えたからである。
このSibelius Trial の原音は以下のものである。
Sibelius - Symphony n°7 - Cleveland / Szell live
Live recording, Helsinki 23.V.1965 とのコメントがある。
必要な音はすべて入っている。しかしモノーラルであり、最強音が飽和している。全体として音がくぐもっている。しかも全体の音量と近接マイクのバランスが何とも不細工だ。
原音がおそらくエアチェックで、時代から考えるとAM放送の音源の可能性もある(AMというのは帯域を広く取れば意外にいい音なのだ。むかしはそういうチューナーがあった)。しかもアップロードの際の音量が大きすぎる。
しかしそれを乗り越えるほどの演奏である。セルとクリーブランドの最盛期のものだ。しかも本場に乗り込んでのライブだから力が入っている。いわば「お宝」音源だ。
そこで、とりあえず聴きやすくしてみようと思い立った。
やったのは以下のことである。
1.ノイズの除去。これで音のくぐもりはとれる。しかし間接音のかなりが失われる。
2.Clip Fix。これで飽和して失われた音が擬似的に回復される。しかしこれで回復されるのはせいぜい半分くらいである。これをやると音が硬くなりキンキンする。
3.ノイズの除去をすると間接音が失われるので、どうしても音はデッドになる。そこでGverbで残響をつける。Gverb の調整についてはいろいろな人が書いているので、それを参考にした。なおAudacity の最新版ではGverb が外されているので、サイトから拾ってくる必要がある。
4.それから疑似ステレオ化を行う。これはステレオトラックを一旦左右に分離して、片方のチャンネルの出だしを少しだけ削って時差を作り出す方法である。人間の耳はいい加減なので、これをステレオと感じてしまう。この効果は抜群なので、これだけでもいいくらいだ。ただしこのファイルはやり過ぎである。(効果を強調するため)
5.最後に圧縮を行って、音量を適正化する。
以上の処理を行ったのが、わたしのアップした“動画”である。
両方を聴き比べてみると、聴きやすさはずいぶんアップしている。しかし、原音にふくまれていた“雰囲気”はずいぶん失われてしまっている。この辺りは素人の限界なのだが、おそらくノイズの除去をどの程度までやるか、どこで我慢するかで変わってくるのだろうと思う。
いずれにしても自分でAudacity をいじってみると、いわゆる「高音質音楽ソフト」は何かをやらかしているに違いないと思う。
むかし、中学時代の同級生の女の子が同窓会で会うと見違えるほどの美人になっていて、びっくりしたおぼえがある。今や眉を剃って墨で描いて、アイシャドウを入れてつけまつ毛をつけるだけで、変身できる時代なのだ。ましてや聴覚など、だますのはいとも簡単だ。
ダマされないように気をつけるか、ダマされる快感をだいじにするか、そこはあなたのお好みしだい…ということになる。ただ、それを「高音質」と呼ぶのは羊頭狗肉のたぐいであろう。高音質というのはブスはブスらしく忠実に再生することのはずである。

ウィキペディアに「帝国国防方針」という項目があって、日本軍の戦略の変遷が要領よく説明されている。

まず「帝国国防方針」とは何かという説明。

陸海軍の国防の基本戦略を記した文書で、軍事機密とされていた。

第1回めの策定は明治40年に天皇により裁可された。その後大正7年、大正12年、昭和11年の3回にわたり策定されている。

山県構想(明治38年 1905年)

策定のきっかけとなったのは1905年8月、日露戦争の直後に日英同盟の改訂が行われたことである。主要な問題意識は、イギリスとロシアが開戦した場合の日本軍の対処であった。

山県案では仮想敵国はロシア・アメリカ・ドイツ・フランスに設定されていた。

第一次国防方針(明治40年 1907年)

山県有朋の構想を元に田中義一(当時中佐)が陸軍草案を作成した。海軍側もこれに対抗して同様の計画を提出した。

国家目標: 開国進取の国是に則って国権の拡張を図り、国利民福の増進に勤める二点。

国家戦略: 満州及び大韓帝国に扶植した利権と、東南アジア・中国に拡張しつつある民力の発展の擁護と拡張。

国防方針: 東アジアにおいて日本の国家戦略を侵害しようとする国に対して攻勢を取る。満州や韓国の利権を扶植。専守防衛路線は明確に否定される。

仮想敵国は、最終的にはロシア・アメリカ・中国に変更された。

政府は統帥権の独立を盾に関与が拒まれた。政府は軍備増強を拒否することで対抗した。

第二次国防方針(大正7年 1918年)

第一次大戦の動向を取り込むための改正。総力戦思想が持ち込まれた。

欧州の疲弊により、仮想敵はアメリカ、中国、ソ連に改められた。ロシア革命後の混乱によりソ連の比重は下げられた。

統帥権は維持したまま、閣議に計画書を提出して同意を求める。

第三次国防方針(大正12年 1923年)

仮想敵はアメリカ、ソ連、イギリス、中国に改められた。総力戦思想に加え、短期決戦の考えが打ち出された。

これは「敵を海外において撃破して速やかに終結する」という戦法である。

第四次国防方針(昭和11年 1936年)

外交で国家の発展を確保し、有事においては先制主義と短期決戦を軍事ドクトリンとする。このため平時における軍事力の準備が強調される。

ということで、前の記事を全面的に変更しなければならない。

1.ソ連主敵論は、日露戦争以後一貫したものだったというのは間違い。1925年ころから、ソ連の国力増強に合わせて打ち出されたもの。

2.一貫した主潮は東アジアへの進出と、武力干渉であり、中国侵略は対ソ戦略の方便ではない。

3.総力戦と短期決戦思想は本来は整合的なものではないが、接ぎ木される形で打ち出されている。これは日露戦争を僥倖ととらえる冷静さが次第に失われていく経過ではないか。

4.軍は統帥権を振りかざして政治の容喙を拒絶する一方、国家目標・国家戦略にまで踏み込んでおり、当初より軍事独裁の傾向を内包していた。

この基本構造の上に、永田・東条の主戦論が乗っかっていくという経過を理解しておく必要がある。ただしこのウィキペディアの記載では第四次国防方針の記載がほとんどないので、確言はできない。


強いられた国家改変としての明治維新

1.明治維新の内包する二面性

明治維新から太平洋戦争へと進んでいく経過は、一面では明治維新の精神の継承でもあり、一面では明治維新の精神からの逸脱でもある。

つまり明治維新にはそういう二面性が内包されていたということになる。

2.明治維新は外圧による国家の進路変更

明治維新は、実体としては開国であった。国際化とその中での生き残りである。それはある意味で強いられたものであった。外圧(黒船)がなければ、それは明治維新という形態では実現しなかったろう。

「生産力と生産関係」論から明治維新の必然性を説く人もいるが、それは違うと思う。それだけではせいぜいが異なる統治形態の実現に導かれるだけであったろう。

3.国内勢力のみによる国家の権力改変

この闘争の稀有な特徴として、支配層がまっぷたつに割れて、正面から力相撲を行って、その片方が勝利したということがある。

相争う二つの勢力がいずれも国内を基盤とし、外国勢力や買弁資本家の関与なしに戦争を遂行した。

なぜそれが可能だったか?

それを遂行するだけの財政基盤が国内に存在したからである。しかしそれだけではない。攘夷の思想が蔓延し、外国人への襲撃や戦闘が相次いだ。

それらは欧米政府にとってカントリー・リスクとなり、干渉をためらわせた可能性がある。

4.明治維新の精神

以上のことから、明治維新の精神は攘夷を内に秘めた開国の思想と結論される。そこには改変を自力で成し遂げた強い誇りと、それを急がせた強い危機感がある。

それはやがて、きわめて軍事色の強い「富国強兵」策となる。しかも、アジア諸邦から抜け出し、列強の仲間入りし、他国を侵略する側に回るという、ひとりよがりな“成り上がり”思想となっていく。

草の根レベルでは、桎梏となっていた幕藩体制から解放されたことで自主的な運動も巻き起こるが、それらは日清・日露と続く戦争の熱狂の中で明治政府に押しつぶされていく。


永田鉄山を勉強するのにネットにあたってみたが、どうもピンぼけの説ばかりだ。
むかし読んだ「失敗の本質」に迫るような分析はない。
ただ「失敗の本質」は軍事戦略の分析だ。外交戦略の分析ではない。
ところが外交戦略となると、松岡洋右や広田弘毅の話に行ってしまう。
外交戦略の本質は、そういうたぐいの話ではない。
中国とどう付き合うか、東アジア全体とどう向き合うのか、そこにどのような世界を形成していくのかというビジョンが鍵を握っている。
その際に、念頭に置かなければならないのは日本の主権の及ぶのは対馬海峡までだということだ。それより以遠には別の民族があり主権がある。それを侵害することには大義がない。ましてや軍事行動などもってのほかだ。それはソ連も同じである。
このような発想は永田はもちろん、軍部の誰も持ち合わせていない。
しかしこのことは、さて置いていこう。
軍事戦略の基本は誰を敵とするかだ。この対抗関係において中間地点の陣取りを決めていくことになる。
どうも色々読んでいくと、陸軍がソ連なのは良いとして、海軍の仮想敵がアメリカと書かれている。ホントかいな。
もしそうだとすると、問題は二つある。ひとつはどうしてこれをすりあわせないのかということだ。これでは最悪の二正面作戦になる。
もう一つは、もし海軍がアメリカを仮想敵としていたなら、それだけでキチガイじみた戦略だということになる。もしそれが脅威であるならば、それを現実の敵にしないことが最大の戦略ではないか。
もっとも、アメリカを仮想敵としていたかどうかは目下のところ定かではないから、これ以上の言及は保留する。
それで、日本軍が全体としてはソ連を仮想敵としていたと仮定しよう。ここからが軍事戦略の本論だ。
中国東北部(旧満州、以下満州と記す)が最前線であることは疑いない。
1.外交もふくめた戦略としてまず挙げなければならないのは、ソ連の政治的包囲だ。ソ連が武力を用いて南下しないように国際環境を整備する必要がある。
それには中国、朝鮮をふくめて東アジアの国々を味方につける必要がある。より軍事的な観点からは戦略上の要衝に硬い楔を打ち込む必要がある。
2.率直にいって当時の現実的状況からは、朝鮮と中国の国境を隔てる鴨緑江、豆満江のラインは生命線と想定されるであろう。さらに攻勢的に戦略を想定するなら、関東州からハルビンに至る満鉄は守るべき権益であろう。ただし後者は「権益」であって領土であってはならない。
列強との協調体制を守るには、それは越えてはならない一線だったはずである。
3.当時のソ連は間違いなく国際的に包囲されていた。したがって、日本は日英同盟を守り、米国との親善を強化する限り、ソ連の脅威など問題にならなかったはずだ。
もちろんソ連はシベリア鉄道を通じての東方進出は国是に近いものがあった。またスターリン以降、東方戦略は飛躍的に強化された。したがって満州の権益をめぐり、さまざまな小競り合いが発生することは容易に予想される。
ただそれは、主要にはソ連対中国の問題として発生するだろうし(日本対中国の問題と同じように)、日本としては蒋介石なり東北軍閥なりを支援すれば良いだけの話である。
したがってソ連脅威論は、机上の空論とまでは行かないが、現実のものではなかったといえる。
であれば、軍のソ連脅威論はむしろためにするための議論ではなかったか、という感じがしてならない。






しかし面白い話だ。「女性自身」の4,5冊に目を通した。
「女性自身」では、平和・護憲が美智子さまの優しきイメージと完全にかぶっている。そして、おいたわしいまでのご心労ぶりが読者の涙をさそうのだ。
いっぽうで、これほどまでに美智子さまをいじめ抜く君側の奸、“さてもにっくき仁木弾正”役は、完全に安倍晋三に振りかぶされている。
たとえ読むのが一人でも、女性には倦まずにしゃべり続ける口がある。
この世界ではひとつの神話が生まれつつあるのだ。
これではお偉方のご夫人は、とてもじゃないが美容院などいけない。隣のチェアのご婦人が「女性自身」を開きながら、ときおり氷のような視線を浴びせる。「あれが仁木弾正の妻よ」と、その目は語っている。
まぁそのような安手の美容院に行くことなどないだろうが…

安倍談話と真逆の天皇談話出れば、国際的には上位の声明となる
これは女性セブンに予告された記事で、結局載らなかった記事の見出しだ。
相当刺激的だ。
安倍晋三は4月28日の「サンフランシスコ講和条約」記念祝典で、万座の中で天皇に恥をかかせた。
天皇が、サンフランシスコ条約で沖縄を売り渡したことにどれだけ苦痛を感じているかは、その後の度重なる沖縄行脚の中で明らかにされている。「もう一勝負」と沖縄決戦を推進したのは父親たる昭和天皇だった。その結果10万を超える無辜の市民が犠牲となった。そして、戦後沖縄を差し出せとアメリカの手に渡したのも昭和天皇だ。
その講和条約を「独立の回復」と手放しで奉祝する集会に出るだけでも苦痛だ。しかも最後に勝手に「天皇陛下、万歳」とやったのはあんただ! 俺は見たぞ!
その安部首相が、戦後70年の首相談話を出すと聞いた時、天皇は身悶えしたと思う。
その結果が「4つの言葉の付加」だ。たしかにこれは戦後70年における「天皇談話」としての意味を持っている。
その重みは首相談話よりはるかに重い。とくに海外ではそうだ。なぜなら天皇は国内ではたんなる象徴にすぎないが、海外では「元首」として扱われているからだ。なぜなら外務省が(憲法を無視して)元首として天皇を押し出しているからだ。
これは議院内閣制をとる共和国における「大統領」に相当する。ドイツで言えばかつてのワイツゼッカー大統領がそうだ。
しかもその発言は間違いなく日本国民の大多数の声を反映している。安部首相の談話が日本国民の声を反映していないのと同じくらいにだ。
臣 安倍晋三としては天皇挨拶との整合性を確保しなくてはならない。辛いだろうね。
だから大手メディアの殆どは、天皇挨拶の扱いに困って、結局無視した。女性週刊誌はしっかりフォローした。我々も見習わなければならないだろう。

女性週刊誌の動向が少し飲み込めてきた。
とにかく、皇室がらみと否とを問わず平和・護憲の立場から記事を連発しているのは「女性自身」だということだ。それに「週刊女性」が追随している。
それで焦った「女性セブン」が平和・護憲路線を後追いしようとしたところ、どこかの圧力でへこたれてしまったという筋書きのようだ。
我がクリニックの待合室には三種類の週刊誌が備えられている。日刊紙は二種類、北海道新聞と道新スポーツで、残念ながら「日刊赤旗」はお呼びでない。私が愛読しているのは道新スポーツの1,2面。ここが北海道日本ハムファイターズの指定席になっている。とくに勝った日の翌日は Must だが、しばしばそういう時ほど先客がいて読めずに終わる。
週刊誌は週刊文春と女性自身、それに事務局長が読み終わった「週刊ダイヤモンド」の3つ。週刊文春はせめて週刊現代くらいにして欲しいが、下品なので嫌われるのか。中身は週刊文春のほうがはるかに下品なのだが…
話を戻そう。
それで「女性自身」のバックナンバーを手にとってチェックしてみた。東京新聞も真っ青、まさに平和・護憲の連打である。しかも週刊誌という性格上、かなり踏み込んで(曖昧な根拠でも)書ける“強み”がある。
なぜ女性週刊誌(というより女性自身」)がこれほどまでに突っ込んで書けるのかということで調べてみた。

まずウィキペディアの「女性週刊誌」の項目。

女性週刊誌とは、女性を主な購買層と想定している週刊誌の総称である。「日本国外には例がない」そうだ。

代表的なのが以下の三誌。

『週刊女性』

主婦と生活社

26万部

『女性自身』

光文社

42万部

『女性セブン』

小学館

42万部

ということで、女性自身と女性セブンがしのぎを削っている状況が分かる。

ただ全体としては斜陽業界で、「ヤングレディ」や「微笑」などはすでに廃刊になっている。

おおむね女性客の多い店舗に置かれ、待合時間の閲覧に供される。

ということで、個人が家庭でとる雑誌ではない。

ついで「女性自身」の項目

1958年創刊。創刊時はアメリカの『Seventeen』と提携したファッション雑誌であった。しかし売り上げが伸びないため、皇室ネタを中心にした女性週刊誌として大幅に方針転換されていった。

しかし

皇室報道において虚偽内容の記事を掲載したとして、宮内庁から複数回に渡って抗議や記事の訂正を求められている

ということで、“週刊誌らしさ”は健在である。

しかし、ウィキペディアの記事を見ても「女性自身」が平和・護憲問題で突っ張る理由は良く分からない。


そこで注目されるのが朝日新聞デジタル の以下の記事

2015年8月10日 「安保法制、女性週刊誌も特集 韓流スター以上の反応」と題されている。

そろそろ消えてしまう可能性があるので、要点を紹介しておく。

女性週刊誌のテーマといえば、芸能ニュースと、健康や家計のやりくりといった生活関連型の話題が中心だろう。ところが、この夏、安保法制の特集記事が立て続けに掲載されている。読者の強い関心に後押しされた結果だという。

というのがリード。以下本文から

自民党の重鎮議員は、日頃読むことのなかった女性週刊誌に、頻繁に目を通すようになった。…党内で『女性週刊誌対策』をしようという声もある。

…安保法制への抗議行動を特集した「寂聴さん『このままでは戦争に…』」(女性自身 7月7・14日合併号)は、読者アンケートの人気ランキング1位に。

もともとは政権に批判的な立場ではなかった「週刊女性」も、読者の要望にこたえ安保特集を始めた。「『戦争法案』とニッポンの行方」と題し、10ページにわたって法案の中身を特集した。

この号は実売率が平均より3~4ポイント上がり、追加注文もあった。寺田文一編集長は「特集を支持する声が多くて驚いた。韓流スターや芸能人のニュース以上に反応が来た」と話す。

ティーン向けの「セブンティーン」、子育て世代の「VERY」も平和・護憲を取り上げるなど、女性誌が政治課題を扱うことは当たり前になりつつある。

この記事は自民とも親しい御厨貴・東大名誉教授のコメントで結ばれる。

政権中枢にいる人からも『安保法制に反対する妻を説得できない』と聞いた。「将来、徴兵制が導入されるのではないかという懸念が特に強く、女性や高齢者、若者の政治への関心は今後も高まる…

大阪の橋下市長に対する住民投票を見ても、「考える女たち、考えない男たち」という構図がはっきり見えてきた。「自助」の男、辛坊治郎というのが「考えない男」の代表だ。
アリストファネスの時代が始まった。シールズで女性の活躍が目立つのもそういうことなのかな。
野球のニュースで清宮と出てくると、“スガノミヤ”と読んでしまう私。

変な話だが、女性セブンを買いに行った本屋で、ついでに新書巡りをしていたら、川田稔「昭和軍閥の軌跡~永田鉄山の構想とその分岐」(中公新書)というのがあって、何気なしに読み始めたら、これがめっぽう面白い。
まだ30ページほどだが、未知の情報だらけで、ほとんど赤線だらけになってしまった。
とりあえず、ここまでの感想をメモしておく。
永田鉄山には二つの目標があった。まずひとつは対ソ戦を基本とする総力戦思想である。日露戦争はうまくやったが、いずれソ連(ロシアは)必ずもう一度仕掛けてくる。本気のソ連ともう一度戦って勝てる保障はない。とにかく満蒙を生命線として確保しなければならない。これがすべてだ。
もう一つは、陸軍を自らの手に集中するだけではなく、政治も軍に従属させなければならない。要するに総力を上げてソ連の南下を阻止するために、政治システムもふくめて日本が一丸となることだ。
しかし、この大戦略の是非については、また別の話になる。
永田はこのために軍の掌握を図った。この小戦略ははるかに具体的で、はるかに難しいのだが、天性の寝業師、永田はそれを成功させてしまう。ただしそのためにいくつかの重大な代償を払う。
永田らは密かに仲間を募り軍の重要中堅ポストを次々に獲得していく。これは比較的たやすく行われた。ただしその中にはオポチュニストも混じってくるので、どうしても思想は薄まる。もう一つは真崎、林、荒木の三将軍を反長州閥の代表として表に立てたことである。これは勝利のためには有効であったが、軍内を長州閥対反長州閥という矮小化された分裂に導いた。第三に、これらの結果として関東軍が独立権力のように振るまい、中国とことを荒立てるのを阻止できなくなってしまった。国内でも革新派の動きに対して有効な対抗措置をとれなくなってしまった。(ただし永田は懲支論者であった)
まぁこれらは軍内の権力移動には不可避の副産物であり、時間とともに整理されていく性格のものであったろうが、永田にはその時間がなかった。そして永田に代わった東条にはそれだけの器はなかった。ということになろうか。
ドイツの枢軸協定を結び、スターリンと不可侵条約を結ぶ頃には、日本の基本戦略はすっかりおかしくなってしまった。関東軍ばかりでなく、有象無象のオポチュニストが勝手にドンパチをやらかすようになって、陸軍そのものに歯止めがなくなってしまった。陸軍に対する歯止め役であるべき政府や議会はむしろそれを煽る役に回っていった。
それもこれも、結局は永田鉄山が蒔いた種ではある。

と、昨日は書いたが、一晩寝てから考えると、どうも違うと思うようになった。

永田の戦略観はかなり希薄である。結局当時の軍内右派の最大公約数的なものでしかないように思える。

しかもその対中国観は右往左往している。対ソ脅威論だけでは大義はない。中国とともに(あるいは“中国を従えて”でもいいのだが)、アジアをどういう世界にしていくのかというビジョンがなければ、そこに大義は生まれない。

もしそういう大義がないのだとしたら、それはタダの権力亡者でしかない。

たしかに彼はネゴの達人であったかもしれないが、それは本当のネゴシエーションではない。仲間を作って、徒党を組んでその力でしゃにむに頂点を目指すという趣である。

本当のネゴの達人というのは大久保利通の如き裂帛の気合を持つ交渉術に秀でた人物であろう。

おそらく日本は一番悪い時期に一番悪い人物に政治を委ねてしまったのだろうと思う。さしたる東アジアビジョンもなしに、何となく対ソ脅威とか対中国脅威論だけで動く今の政治状況を思い起こさせるはなしである。

ただ、結論を出すにはもう少し情報を仕入れてからにしたい。

女性セブンを買ったついでに女性自身も買ってきた。

こちらは美智子さまに焦点を当てているが、書き方は女性セブンよりきつい。

美智子様が狭心症に苦しむのは安倍晋三のせいと決めつけている。

話はこうだ。

美智子さまは最近狭心症に苦しまれているが、原因は高度狭窄のためではなくストレスにあるという。

そこで美智子様の古い友人なる人物が登場して、次のように語る。

今年の春に安部首相が米議会で演説してからです。…安保法案のニュースを聞くたびイヤな気持ちになる。私たちの世代は、ついあの戦争を思い出してしまうのです…

両陛下は東日本大震災による原発事故で被害に会われた人のことを心配されており、「そんな中での鹿児島県の川内原発再稼働。美智子さまもさぞ驚かれたことでしょう

話は「皇統の危機」問題に移る。こちらは皇室担当記者の話。

かつて小泉内閣や民主党政権で審議された女性宮家の創設を、すべて棚上げにしたのは安倍晋三首相。やることなすこと、両陛下のお気持ちとは逆方向です。美智子さまの心臓の痛みは“晋三ストレス”のせいではないか

美智子さまの御歌

平和 ただに祈りきませり 東京の 焦土の中に 立ちまししより

記事の締めはこうなっている

安保法案が9月にも成立しようとしている中、美智子さまのお心が休まることはない。


調べたら、実は頑張っているのは「女性自身」で、「女性セブン」は「女性自身」が売れ行き好調なんを見て便乗しようとしただけのようだ。

光文社は昔懐かしいカッパブックスの発行元。三光作戦や細菌作戦の本を出したりしている骨のある会社だ。こういう雑誌に伸びてもらいたいものである。


天皇陛下のお言葉が静かな反響を呼んでいる。27年間で最も長いおことばだそうだ。以下は朝日新聞から全文。

「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に当たり、全国戦没者追悼式に臨み、さきの大戦において、かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします。
 終戦以来既に70年、戦争による荒廃からの復興、発展に向け払われた国民のたゆみない努力と、平和の存続を切望する国民の意識に支えられ、我が国は今日の平和と繁栄を築いてきました。戦後という、この長い期間における国民の尊い歩みに思いを致すとき、感慨は誠に尽きることがありません。
 ここに過去を顧み、さきの大戦に対する深い反省と共に、今後、戦争の惨禍が再び繰り返されぬことを切に願い、全国民と共に、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、心からなる追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。
報道では、首相談話との関係で「深い反省」が注目されたが、私の目には戦後論、とりわけ「平和の存続を切望する国民の意識に支えられ」がとても強烈であった。また「戦後というこの長い期間における国民の尊い歩み」も戦後民主主義の無上の価値を強調したものとして、ずっしりくる。

ネットをあたる。東京新聞が踏み込んで解説している。さすがだ。
昨年のお言葉と比べ、「平和の存続を切望する国民の意識」が強調された。
と解説している。戦争法案と憲法骨抜きを睨んだ、ぎりぎりの表現と捉えるべきだろう。
逆に安倍首相は、歴代首相が盛り込んできたアジアへの加害と反省には触れなかった。戦没者追悼式において前向きな人と後ろ向きな人との対照が鮮やかに示されたといえる。
インタビューに応じた半藤一利さんはこう語っている。
戦後七十年間平和を守るため、必死に努力してきたすべての日本人へ向けた言葉と読むべきだろう。今なら、安全保障法案に反対して声を上げるなど、草の根の人たちも含むと考えられる。
女性セブン2015年9月3日号 「安部首相が気にした「戦後70年天皇談話」に関し浮上した説」は、すごいツッコミを見せている。たいしたものだ。
戦後50年だった1995年以降、おことばは、ほぼ同一のものだった。しかし今年は、初めて「深い反省」に言及するなど、例年より踏み込んだ内容に大きく 変えられていた。今年のおことばには大きく4か所の文言が追加された。「戦争による荒廃からの復興、発展」、「平和の存続を切望する国民の意識」、「戦後 という、この長い期間における国民の尊い歩み」、「先の大戦に対する深い反省」
安倍首相はもともと、安倍談話によって戦後日本の歴史認識を転換させるつもりだったが、結果的には腰砕け談話になった。
方針転換の一因には、最近の両陛下のご動向を安倍首相がしきりに気にしていたことがあります。陛下が戦後70年に際しての“天皇談話”を発表されるという噂が、官邸周辺でまことしやかに流れました。その内容は、戦争の反省と平和を強く訴えるものだと囁かれました。安倍首相はその内容を非常に気にしていました。(官邸関係者)。
と、その背景をあげている。(ほんとかな?)
その他、本号には
    ■ 安倍談話 会見3時間前の「官邸vs宮内庁」緊迫攻防の真相
    ■ SAPIO人気連載・業田良家氏4コマ「例え話国会」
    ■ 安倍談話と真逆の天皇談話出れば国際的には上位の声明となる
    ■ 天皇の終戦記念日のお言葉 首相に対し厳しいものにとご学友
    ■ SAPIO人気連載・業田良家4コママンガ 「70年談話」
と読みどころ満載。まだ売っているかな。
Colorless Green Histories
8月15日の全国戦没者追悼式における天皇陛下のおことばの構造と変遷
も、ご一読をおすすめする。


その前のルイ・ボナパルトの治世ですが、これもボナパルティズムという規定が先走っています。今日の我々としては、初期ブルジョア支配の一亜型、ポピュリスト独裁制の亜型として見るべきでしょう。ラテンアメリカの政治史を見ると、この型の独裁制がずいぶんと出てきます。

私の注目するのは、このようなオポチュニスト政権のもとに資本主義政治における基本潮流が出揃って、横一線で張り合うという稀有の状況が出現した時代だというところにあります。なぜならフランスは当時世界で1,2を争う産業大国であるにもかかわらず、欧州最大の農業国でもあったからです。
そして、さすがにフランス大革命の第一世代は消えたとはいえ、いまだに40年前の7月革命、22年前の2月革命を闘った人々がバリバリの現役だということです。いまの日本を考えて見れば、60年安保はすでに55年前、70年安保・沖縄もすでに45年前です。プルードン、ブランキが未だ健在のところにマルクスとバクーニンが割り込んでくるのですから熾烈なレギュラー争いとなるのも当然でしょう。


宮内さんの論文を私なりにまとめてみます。


1.おおまかな布陣

第二帝政の初期の反政府運動は、少数の反動的な「ブルボン王朝派 」のほか、立憲王政主義の「オルレアン派 」、それより左寄りだが保守的なブルジョア「自由派 」、急進的なブルジョア「共和派 」に区別されていた。自由派は第二帝政を承認し、せいぜい議会の権限強化で満足していた。これにたいして共和派はジャコバン主義の継承者を自認し、「民主主義的で社会的な共和国」の基盤の拡大を志向していた。しかしその運動目標は所有関係の根本的改革をめざすものではなく、運動の進め方も議会中心主義となる。これらの政党は第二共和制下の主要政党であったが、ナポレオン三世のクーデタ前後に国外追放になっていた。これらの人々が恩赦で次々帰国しはじめていた。

2.共和派の分裂

1860年代に入ると、ブルジョア「共和派 」は分裂した。「急進派 」、「ネオ・ジャコバン派 」、「ブランキ派 」が並立状態になる。このうち、「急進派 」は1848年の2月革命で主要な役割を演じたが、第二帝政下においては自由派に接近していた。しかし帝政末期にいたると、急進主義の原点に戻ろうとする、より若い世代が登場してきた。「ネオ・ジャコバン派 」は、共和派のうち、より非妥協的で、大衆運動を重視する傾向のグループである。「政治改革は手段であり、社会改革が目的である」と主張する。メンバーの経歴、信条は多彩であった。裏を返せば、言論を主にする統一性のない人々の集合であった。のちにパリ・コミューン議会の多数派を占める。

3.ブランキ派の台頭

ブランキ派 」は社会主義者であり、革命家のオーギュスト・ブランキを中心にした秘密結社である。彼は1830年代から革命運動に加わっており、生涯の大半を牢獄でおくった。1865年にもはや60歳にもなるこの老人は、脱獄してベルギーへ亡命した。ブランキの周辺に、若い世代の心酔者が集まって、1867年にブランキストの秘密結社が再建された。組織の中核は、少数の学生、知識人で構成され、同調者は、1868年末に800人にのぼった。ブランキ派は、行動を重視する組織集団であり、規律と統制、大衆運動における献身的行動において、最もまとまった集団であった。ブランキ派とネオ・ジャコバン派は、のちに、パリ・コンミューンの議会多数派を構成する。

4.労働者の勢力拡大

これに加えて、1860年頃から労働者の意識が次第に変貌しつつあった。ジャコバンではなくサン・キュロットの伝統を引き継ぐ労働運動が高まってきた。…全国的に賃上げ闘争や労働時間短縮のためのストライキが頻発した。1863年の総選挙のときには、労働者の候補者リストが提出された。…その後もますます労働者による反政府運動の力が増してきた。そして、その政治代表として第一インターナショナル・フランス支部(1865年創立)が登場してきた。この中には純粋プルードン主義者と革命的集産主義者派があり、後者が主導権を握りつつあった。

5.労働運動の分岐

プルードン派 」は労働者を議会へおくりこむのではなく、既存の国家機関である議会から離れて、社会組織のなかの変革を、コンミューン連合として発展させようとした。そして「政治」を消滅させ、有機的な調和をもつ社会を思い描いた。

マロン、ヴァルランらマルクスの影響を受けた「革命的集産主義者派 」は、政治革命を通じて生産手段の共有制にもとづく平等社会の実現をめざした。一方で、プルードンの連合主義の影響を受け継いで、一切の革命独裁と政治権力には反対した。彼らはバクーニンの無政府主義にも強い影響を受けていた。


これが、パリ・コミューン直前の政治布陣です。なかなかに複雑でしょう。このほかにサン・シモン主義者やフーリエ主義者などの集団もありました。

エンゲルスは「空想から社会主義へ」の中で、ことさらにプルードンを無視していますが、根本的な思想は別として、社会主義のイメージの中にはかなりプルードン主義のアイデアが紛れ込んでいると見たほうが良いのではないでしょうか。

そしてマルクス主義の社会主義観はむしろパリ・コミューンの後のバクーニンらとの論争を通じて鍛えられていくと見るべきではないでしょうか。


年をとって、奥歯の根っこが、とくに虫歯というわけでもないのにグラグラし始める。要するに人体組織のいたるところが萎縮し始める。こっちは話が佳 境に入っているのに、まだラストオーダーも頼んでいないのに、店の奥のほうでは仕舞い支度を始めて、お皿のガチャガチャ言う音がイヤに耳につく年頃となり ました。

そういう年頃になって、不意にパリ・コミューンのことが気になって、調べてみると、それはそれで面白いのは面白いのだけど、ずいぶん買いかぶっていたのだなとわかってきました。レーニンはここからロシア革命のモデルを引き出したのだけれど、それはとんでもない間違いだと思い始めています。

事実は初老期に入ったマルクスが一過性に発狂して、若い気を出したということでしょう。パトスとしては良く分かりますが、それだけの話しです。ゲバラを革命のモデルにしてはいけません。むしろこうやってはいけないという見本として記憶に留めるべきでしょう。

赤旗文化面のトップに大々的にオーウェルの「1984年」の紹介が載せられた。
及び腰の賛辞が並べられていて、正直のところきわめて座り心地が悪い。
原因ははっきりしている。我が日本共産党がかつてスターリニズムを奉じていたことへの自己批判がないからである。
もちろん我々は当事者ではないから、オーウェルに向かって「心からのお詫び」を述べる必要はない。
スペイン人民戦争における政治的諸潮流には、そのそれぞれにそれなりの問題もあったし、そのなかで頑張りもした。いまはまず歴史として虚心坦懐に評価していくほかないことである。
「フランスにおける内乱」の諸規定と同じく、それを今日における闘いの指針とするのはナンセンスである。
爺さんがファシストだった、しかし孫は共産党になった、ということはありうるわけで、そのさいに孫が爺さんの悪行について「心からお詫びする」必要はない。
ただ国家・政府というのは否応なしに継続性を持つわけだから、爺さんの代にやったことでも責任は取らなければならない。
政党というのは国家や政府ではないから、なかなか微妙な位置にはある。
ただ創立90年とかいう伝統を誇りにしてそれを全面に打ち出すのなら、かつてスターリニズムを信奉していた事実は公然と認め、はっきりと自己批判すべきだろう。
そうすれば、奥歯に挟まったものがとれて、この文章ははるかに読みやすくなる。率直に言えばこの「1984年」という本にも色々問題点はあるのだ。
まぁ、とりあえず、次の党大会に向けての第一歩というところか。

日本人として弾劾すべき軍の犯罪

日本人として、軍と日本政府がアジアで行った数々の残虐行為、非人道的行為については我々は謝罪しなければならない。このことは言うまでもないことだ。

しかし平均的大衆のあいだには「なぜいつまでも謝らなければならないのだ」という声が根強くある。

それは軍部と天皇制政府への弾劾の姿勢が弱いからだ。アジアの人民が日本政府を批判すると、何か自分が非難されているような気分になってしまう。それは戦前の政府と我々の分離ができていないからだ。なぜなら我々が軍部と天皇制政府を批判し尽くしていないからだ。

我々にとっても戦前の政府と軍部は許せない存在なのだということを、もう少し具体的に整理して明らかにしておく必要がある。

それを、いくつか箇条書きにしておこう。

1.反戦・非戦論の弾圧(まず民主主義を否定した)

2.文民統制の否定(議会をないがしろにし、政府を脅しつけ、天皇すら欺いた)

3.統帥権の否定(誰の許可も得ず、勝手に戦争を始めた。しかも終わらせられなかった)

3.対米開戦の愚挙の責任(愚挙としか言いようがない。違うか?)

4.玉砕作戦を命令した責任(人の命を預かる指揮官としての究極の無責任)

5.沖縄決戦(民間人の生命に対する無責任。軍人の本懐への究極の背馳)

6.満州棄民(最悪の置き去り、逃亡)

7.本土決戦思想(究極の国民皆殺し路線)

これらを我々、日本人は弾劾したのか? 戦犯として裁いたのか?

日本人は自ら弾劾できなかった。東京裁判について云々する前に、まずこのことを恥じなければならない。

そして、戦争反対・憲法守れの運動の根本をなす歴史認識として、これらの事実を突きつけなければならない。


Fostex のHP_A8を買って聞いているうちに、たしかにそうだなと納得させられる。
DACというのはそうでなくちゃいけないと思うようになる。
前のNU_Force は、聞いた途端、「うん音が良くなった」と感じたが、そういう操作をしているから音が良くなるのだろう。つまりD_A変換するときに、ついでに音質もいじるんだろう。それをやり過ぎるとスピードが遅くなっちゃって、最後にハングアップしてしまうのだろう。
youtubeから落としたファイルを、MP3Direct Cutで切るときに波形を見ると、刺だらけだ。ごみがいっぱい付いている。
それをそのまま川下に流すぶんには何の問題もないが、そこにこだわってしまうと始末に負えなくなるだろう。
だから、ファイルをきれいにしてあげるのは再生ソフトの仕事になるだろうと思う。
その時にそれなりのお化粧しても悪くはないだろう。ただそこには趣味の問題が入ってくる。
それを音質改善というべきかどうかはかなり微妙な問題だ。
最近ではもっと露骨に「リライト」というようだが、“とげ抜き”以上のことをするとなると、これは波形編集ソフトの領域に入る。

実は以前、オーダシティーに凝って、古い粗悪な録音を少しでも気持よく聞けるようにと、色々といじったことがある。
一番有効なのは自己流ステレオ化だ。これは元が「ステレオ」であっても有効だ。
左右トラックを分離した上で、片方のトラックの出だしの無音部をほんのちょっとカットする。そしてもう一度くっつけるというえらく単純な手法で、音がすごく柔らかくなって、広がり感が生じる。
もうひとつが雑音の除去というので、バックグラウンドノイズを抑える。注意するのはサンプリングをファイル全体にかけることだ。これで音源はベンジンで洗った如く綺麗になる。なおクリップ・ノイズは取らないほうが良い。
音割れしているときは、非常手段的だがClip Fix で補正すると多少改善する。注意するのはやり過ぎるとメタリックな音になってしまうこと。
音が痩せているときは低音部の強調を軽くかけると聴きやすくなる。デッドな音ならリバーブをかけると反響が入る。
これらすべてが終わってから圧縮をかける。
これで情けない貧弱な音がそれらしく聞こえるようになる。

これは完全にファイルをいじるわけで、それを流せばDACはそれなりに反応してくれるわけだ。
しかしこれを称して高音質化というなら、それは羊頭を掲げて狗肉を売るに等しい。

それはそれとして、Foobar やFostexは、それは川下(かわしも)でやってくれという発想だが、そうとばかりは言えないと思う。川上での処理もありうると思う。肝心なのはそのストラテジーを明確にすることではないか。

「フランスにおける内乱」という文章は、マルクスにしては珍しくスラスラと読める。
なぜなら継起する事態と同時並行で描かれているからだ。彼には国際労働者協会(第一インター)を通じて山のような情報が集まってきていた。それを取捨選択して彼なりに料理して間髪をいれずに発表したわけだ。
しかもそれを「私の本です」というよりは、「第一インターの見解です」みたいな形で出しているわけだから、「資本論」のように考えぬかれた書物ではない。
彼の見解の中で唯一確実なのは、「革命は出来合いの国家機構をそのまま用いることはできない」というものだ。
ただそれも、「国家機構を粉砕せよ」とか「プロレタリアの独裁」というふうに先鋭化することではない。まだ、彼の中では未分化なまま提起しているだけなのだ。うんと一般化すると、「新しい酒には新しい皮袋が必要」ということになる。
人類の生産力が一段とアップする際においては、それに適合するもう一回り大きいガタイが必要なのだ。そのための「脱皮」の作業が革命の意義なのだろう。

第二にこの本は、分析という点では、コミューンよりもむしろそれが打倒したボナパルティズムに精彩を発揮しているということである。資本主義は一方ではブルジョア民主主義を生むが、他方ではその奇形としてのボナパルティスムを生む。現在の政治情勢を見る上でもそれはきわめて有用なツールである。有用なだけに乱用は危険であるが…

もう一つ、コミューンにおいては労働者派が主体ではない。職人や手工業者を基盤とするプルードン主義や、小ブルの陰謀家なども動いたが、少なくとも最初にことを起こしたのは「本土決戦派」だ。ただそれらの威勢のいいだけの連中は、いざ決戦となると縮こまるか逃げ出すかしてしまったから、最後に残った労働者が割りを食ったというのが経過だろう。
3月末のコミューンと4月末のコミューンは明らかにその性格を変えているから、これらをひとっからげにして美化したりクサしたりするのは理屈に合わない。
ただ当事者たるマルクスにとっては、そんなことは言っていられない。とにかく一所懸命肩入れするほかなかったのである。
これらの一連の経過は、私には「光州事件」を思い起こさせる。その瞬間、参加者はみな聖人であったろう。戦い終わった後は、死者に鞭打つことはできないから、純粋な(マキャベリ的な、あるいはクラウゼビッツ的な)政治分析ではありえなかったと思う。
そのことを悪いと言っているのではない。だれだってそうしたろう。しかしだからといって、この文章をその後の世界革命の導きの書とすることはできないだろう。
それはたとえば、ロバート・リードの「世界を揺るがせた10日間」を読んで、革命の真髄を分かったつもりになるのとおなしではないか。
とりとめないが、とりあえず感想まで。

結局コミューンなどどこかに行ってしまった。
本日は、Fostex のHP_A8 を買ってそれでおしまい。
メーカー小売希望は10万円だが、実勢価格は7万円ちょっと。店頭では7万5千円の値がついていたが、インターネットでは7万円になっていたので聞いたところ、「あぁすいません。まだ値札変えてなかった」とのこと。
なかなか油断も隙もない。
早速電線をつないで聞いてみた。どうも冴えない音だ。低音は出るがぼんやりしている。NU_Force より数段落ちる。この値段でこんなもの? と気になる。
申し訳ないがAIMPにはお引取り願ってFoobar に戻した。パッとしないのは同じだ。
率直に言うとブスはブスなりにしっかりとブスになる。それがHigh Fidelity だ。
元の音が悪いと救いようがない。
多分それは正しいのだろう。
DACと再生ソフトの棲み分けというか機能分担がスッキリしてきたのかもしれない。
「お化粧」はソフトでやってくれ、こちらはそれを忠実に反映するから、ということだ。
そうなると再生ソフトの方も、これまでのモニター・ライクなスタイルではやっていけなくなる。再生ソフトのお化粧ソフト化が始まったのかもしれない。
そうするとこれまでのFoobar のコンセプトは、やっていけなくなるかもしれない。むしろバグヘッド・エンペラーとかKorg の厚化粧が好ましく思える時代がやってくるのか。

いま激しい脱力感に襲われている。

突如パソコンがクラッシュしたのである。

何故か

理由ははっきりしている。音楽を聞きながら仕事をしていたところで、DACが暴走したのである。

何故か

いまだにNU Forceを使い続けているからだ。

このDACは使い続けると2,3時間に1回は止まる。パソコンにはいった音楽ファイルを受け付けなくなるのだ。

その度にUSBを挿し直すとまた動く。

これを繰り返していると、1ヶ月に1回はパソコンがクラッシュするのだ。

文章を作成してブログに載せる作業は、WYSIWYGエディタ でやっている。もう10年以上も使い続けているものだ。

これは10分に一度は自動的に上書き保存するように設定してある。

しかし一度もファイル保存していなければ、さすがに消える。

こういう事情が重なると、本日のようなことが起きる。10時間かけてやった作業が一瞬で消え去るのである。

今回は、パリ・コミューンの年表だ。

面倒なのは、国民文庫「フランスにおける内乱」の巻末につけられた年表をタイプしているからだ。

コピペが出来るなら話はかんたんだが(それでも結構な作業だが)、今回は基本的には手打ちである。

いま、とりあえずアップしている年表の3倍にはなるだろう。

年表の編集というのは、増えれば増えるほど大変になる。

既出の記載との整合性、異同を点検しながら新たな事項を追加していかなければならないからである。

もし矛盾が生じれば、第三の資料を探してつけ合わせしなければならない。

第三の資料が見つからなければ、両論を併記しつつ、私の編者としての立場を明らかにしなければならない。

不幸中の幸いといえば、まだ明日もう一日あることである。

もうこの歳になったので、「備えなくして憂いなし」の行き当たりばったり主義は矯正不能である。

それと、同じ文献の二度読みというのは、なかなか味わい深いところもある。

“神のご指示”と達観して、明日の朝からやり直そう。その前に、電気屋に行ってDACを買ってこよう。

1866年 普墺戦争。プロイセンとオーストリアがドイツの主導権をかけて戦う。勝利したプロイセンはライン川流域まで勢力を伸ばし、北ドイツ連邦を主導する。

1868年 スペインの王位にホーエンツォレルン家のレオポルトが推挙される。ホーエンツォレルン家はプロイセン王の親戚に当たるため、フランスが強く反対。

1870年

7.12 インタナショナル・パリ支部、戦争反対の宣言を発表する。

7月14日 エムス偽電報事件 スペイン王位の継承問題についてのフランス大使とプロシア王ウィルヘルムが会談。会談後にエムス(保養地)滞在中の王からの電文を、ビスマルクが改ざんして報道発表した。フランス国民の怒りを誘発し戦争を仕向ける狙いだったとされる。

7月15日 フランス皇帝ナポレオン3世、世論の怒りを背景に動員令を発令。

7月19日 プロイセンに宣戦布告。ドイツ国境に侵攻。戦争は最後の軍事的賭けであった。北ドイツ連邦と南ドイツ諸国(バーデン大公国、ヴュルテンベルク王国、バイエルン王国)は直ちにプロイセン側に立つ。
フランス軍は約40万人の常備兵。バゼーヌ、マクマオン、トロシュらの元帥が率いる。プロイセン、およびその北ドイツ、南ドイツの同盟国は約120万人(ただし常備兵ではない)。モルトケ元帥とプロイセン参謀本部が指揮する。


7月23日 「独仏戦争に関するインタナショナル総評議会の第1の呼びかけ」が発表される。

この戦争は、正義の戦争でも、国民的なものでも、フランスの真の利益に合致するものでもない。それはただラインの両岸に専制主義の勝利をもたらすものにすぎない。君主のための戦争は、労働者の眼からみれば、一個の犯罪的愚劣事であるにすぎない。


8月02日 フランス軍が越境しザールブリュッケンに侵攻。

8月06日 ヴルトの闘い。最初の大規模な戦闘。両軍合わせて10万人を超える兵力が激突する。フランス軍2万人が戦死・戦傷・捕虜となる。

8.07 パリに戒厳令が布告される。

8.08 帝政反対のデモがパリで巻き起こる。

8.09 デモの拡大の中でオリヴィエ内閣が崩壊。バリカオ内閣に交代する。

8.14 ラ・ヴィレット大通でのブランキ派の蜂起作戦。警察署を遅い武器強奪を図るが失敗に終わる。

8.16 トロシェ将軍、ナポレオン三世からパリ総督(パリ軍管区司令官)に任命される。

8月16日 メス要塞で孤立したフランス軍13万人が脱出を図る。マルス・ラ・トゥールでプロイセン軍と激突するも包囲を破れず。

8月18日 メスの西方約10kmのグラヴロットで最大の戦い。モルトケの率いるプロイセン第1軍と第2軍(19万名)が、バゼーヌ元帥率いるライン軍(11万名)陣地を攻撃。フランス軍は甚大な損害を与えた後、メスに退却し立てこもる。

8月末 劣勢を打開するため、ナポレオン三世自らが北東部のセダンに進出、メスとの連絡を目指す。プロシア軍はナポレオン三世軍の背方にまわり、パリ・セダン間の連絡を断つ。

8月30日 ボーモン(Beaumont)の闘い。プロイセン軍がフランス軍を攻撃。フランス軍はセダンに退却し立て篭もる。

9月01日 セダンのフランス軍が血路をもとめて攻撃開始。戦死傷者17,000名、捕虜21,000名を出し戦闘中止。

9月2日 ナポレオン3世が降伏。10万の将兵とともに捕虜となる。

9月4日 「皇帝降伏」の報告を受けたパリ民衆が蜂起。数千の住民が国民議会のある「ブルボン宮」に侵入し、現体制の解散を求める。

9月4日 市庁舎に結集したパリ選出の立法院議員(ブルジョア共和派)は、トロシュ将軍を首班とする共和国臨時政府(国防政府)の樹立を宣言。

9月4日 パリ20区の中央委員会代表はセーヌ県における選挙の実施、警察国家の廃止、全フランス人の武装を要求する。リヨンに公安委員会成立。

9月5日 ヴィクトル・ユゴー、19年の亡命生活を終えパリに戻る。国民的英雄として歓迎される。

9月8日 「臨時政府」が戦争継続を宣言(裏では終戦工作)。ビスマルクは講和に持ち込もうとするが、プロイセン軍と世論はパリ進撃をもとめる。

9月9日 「独仏戦争に関するインタナショナル総評議会の第2の呼びかけ」が発表される。マルクスは早すぎる蜂起への警告を行う。

マルクスは、臨時政府首脳陣の裏切り行為を非難しつつも、ことの緊急性に鑑み新政府を支持する。同時に共和制の自由があたえる便宜を利用して「自分自身の階級を組織する」よう訴える。


9.15 国防政府のジュール・ファーブルがフェリエールでビスマルクと秘密会談。停戦を模索するが、交渉は不調に終わる。

9月19日 モルトケの率いるプロイセン軍30万人がパリを取り囲み砲撃を開始。フランス臨時政府はボルドーに撤退する。
軍事マニアのエンゲルスは、ロンドンからパリに行こうとするが、マルクスにとめられたという。

9.22 パリ20区の代表と国民軍司令部がコミューンの選挙を要求する。

9.28 バクーニンとクリュズレらリヨンで蜂起するが失敗に終わる。

10.05 フルランスに率いられた国民軍諸大隊の武装デモ。武装、真剣な軍事行動、ボナパルト派の粛清を要求する。

10月27日 フランス軍の最後の拠点、メスのバゼーヌ元帥が18万人の将兵とともに降伏。フランス軍の組織的な反攻は終わる。

10.30 ティエール、欧州諸国への調停依頼の巡回を終え帰国。ファーブルと休戦条件をすりあわせ。

10.31 パリの民衆的地区の国民軍が市庁舎を占拠し閣僚を一時拘束。新政府の樹立に至らないまま敗走。

11.01 マルセイユでコミューン結成の動き。翌日には失敗に終わる。

11.03 包囲下のパリで区長、助役を選ぶ直接人民投票が行われる。56万対6万票の大差で国防政府が承認される。同時に行われた区長選挙では、政府派が12人、コミューン派が8人を確保。この結果フェリがパリ市長、クレマン・トマが国民軍司令官となる。

12.02 ロアール地方で抵抗を続けていたロアール軍が重大な敗北を喫する。


1871年

71年1月

1月01日 プロイセンを中核とするドイツ帝国成立

1.05 プロイセン軍、パリ砲撃を開始。

1.07 20区中央委員会、「人民に席を譲れ、コミューンに席を譲れ」の「赤いポスター」宣伝を開始。

1月10日 ルマンの闘い。南部で抵抗を続けていた第二ロアール軍が壊滅。

1月18日 ヴィルヘルム1世、占領中のヴェルサイユ宮殿でドイツ帝国皇帝に即位。

1月19日 サン・カンタンの戦い。北部軍が壊滅。東部のブルバキ軍もスイスに逃れ武装解除される。

1.21 闘いを敗北に導いたトロシュが罷免される。後任にヴィノア。

1.22 国民軍諸大隊の武装デモ。ヴィノアはこのデモを実力で粉砕する。

1.23 パリ市内の左派への弾圧が開始される。クラブが禁止され、17の新聞が停刊となる。

1月28日 ファーブル新首相がヴェルサイユで降伏文書に調印。暫定休戦に入る。開城と交換に食料補給が認められる。

71年2月


2.01 パリで休戦に抵抗する試み、失敗に終わる。

2.08 休戦協定に決められた「国民議会」の選挙。当選者の大多数は正統王朝派(地方地主)。パリからは43人が選出される。うちティエール、ファーブルらの極右派が6人を占める。

2.12 ボルドーで「国民議会」が開催される。王党派の主導で、ブルジョワ共和派のティエールをフランス共和国行政長官(首相)に指名。

2.15 議会、国民軍への給料支払を停止。

2.24 ヴォクセルで国民軍の代議員大会。2千人が結集する。

2.26 ヴェルサイユでティエール・ファーブルとビスマルクとのあいだに仮講和条約が調印される。50億フランの賠償金、アルザス・ロレーヌ地方のドイツへの割譲で合意。

2.26 パリ市民、ドイツ軍による捕獲を避けるため、大砲を東部・北東部地区に移動。
2月 ティエール政府は「国民軍の大砲は国家の財産である」として、「国民軍」の武装解除を目指す。

71年3月

3月1日 ドイツ軍がパリに入城。これは儀式的なもので、シャンゼリゼ通りを行進した後、東部の外部要塞に退去する。

3月1日 ティエール政府もパリに帰還。政府は「国民軍」の武装解除にとりかかる。

3.03 国民軍第200大隊、代議員会議を開き国民軍共和連盟の規約を採択。執行委員会を任命する。

3.10 ボルドーの国民議会、ヴェルサイユへの移転を決議。

3.10 国民議会、デュフォール法を採択。家賃および手形のモラトリアムが廃止される。

3.11 ヴィノア総司令官、共和派の新聞6紙を発行禁止処分。

3.11 フルランスとブランキに欠席裁判で死刑が宣告される。

3月18日 パリ蜂起


未明 フランス正規軍はモンマルトル丘に配置された「国民軍」の大砲を奪おうとするが、「国民軍」の抵抗にあう。

これに民衆も呼応。モンマルトルの砲台を奪取し、市内各地にバリケードを築く。

正規軍の兵士も民衆に味方したため、政府軍は壊走。民衆と兵士は指揮官の二人を捕らえ銃殺する。
夜 ティエール=ヴィノアの政府・議会・正規軍はベルサイユに逃亡。パリ市内はコミューン派=国民軍左派が制圧する。

3.19 国民軍共和連盟中央委員会、コミューン選挙を告示する。各区の区長は国民軍共和連盟を否認。中央委員会派と区長派の対立に移行。

3月20日 リープクネヒト宛書簡、「パリの連中は負けそうな様子だ。それは彼らの罪だが,実際あまりに入が好すぎることからきた罪だ」と述べ、敗北を予想する。

3月22日 リヨンとマルセイユにコミューン成立。リヨンは3日後に崩壊、マルセイユも4月6日に崩壊。ほかにナルボンヌ、トゥルーズ、サン・テティエンヌ、クルゾにもコミューンが一時成立する。

3.24 国際労働者評議会のパリ連合評議会、コミューン選挙に関する宣言を採択。

3月26日 パリ全区でコミューン選挙。総投票数23万。90名の評議員が選出される。中央委員会派が65名を獲得し区長派19名に圧勝。コミューンは執行と立法を同時に行う直接民主的行政機関となる。
長女のシャルル・ロンゲがパリの評議員となる。娘婿のラファルグがボルドー・コミューンの代表に就任。

3月29日 パリ・コミューンの成立と臨時政府からの自立を宣言。ヴェルサイユへの進軍をためらう国民軍中央委員との摩擦が表面化。
マルクスは「当時完全に無力であったヴェルサイユにただちに進撃し、ティエールとその田舎地主たちの陰謀の息の根をとめる」ようもとめる。

3.29 コミューン内に10の委員会が設立される。戦時中の家賃を免除する政令、質流れ品の売却を禁止する政令などが成立する。

3.30 常備軍を廃止し、国民軍を唯一の武装力とする政令が成立する。

71年4月

4月2日 兵力を再び結集したヴェルサイユ軍が攻撃を開始し、クルブヴォアを奪取。内戦が始まる。

4.02 公務員の給料を大幅に引き下げる政令が成立。ほかに教会を国家から分離する政令などが成立する。

4.03 国民軍、ヴェルサイユに進撃するが撃退される。政府軍は捕虜となったコミューン兵士を殺戮。

4.04 国民軍、さらに敗退を重ねる。

4.04 パリ市民に徴兵令。17歳から31歳までの未婚の全市民が国民軍に編入される。

4.06 ドンブロフスキーがパリ要塞司令官となり戦線を立て直し。

4.08 ファーブル、政府軍建て直しのため捕虜となった兵士の早期送還をプロイセンに要請。

4.12 支払期限に関する政令。一切の債務訴訟が停止される。

4月12日 クーゲルマンあての手紙、「官僚=軍事機構を移すことではなく,それを打ち砕くことが必要だ。ルイ・ボナパルトの皇帝制は国家権力の最もけがれた形態であると同時に,その終局形態である。それに対しコミューンは共和制の積極的形態であり、階級支配の君主制形態ばかりでなく,階級支配そのものをも廃止する」と述べる。

4.16 放棄された作業場を労働者団体の手で再開する。

4月17日 クーゲルマンあての手紙。それまで蜂起に反対していたマルクスは態度を変更「資本家階級とその国家に対する労働者階級の闘争は,パリの闘争によって新しい局面に入った。どのような経過をたどろうとも世界史的に重要なひとつの新しい出発点だ」とする。

4.19 コミューン、フランス人民への宣言を発表。コミューンの綱領を示す。

4.21 コミューン執行権力、9委員会の代表者会議に移行。

4.23 革命的裁判所が設置される。

4.26 ヴェルサイユ軍、イシ・レ・ムリノを占領する。

4.30 地方自治体選挙で共和派が進出する。ルーブル広場で地方共和連合同盟のデモ。

71年5月


5.01 ヴェルサイユ軍、市内への砲撃を開始。

5.04 内通者によりムラン・サケの角面堡が陥落。ヴェルサイユ軍が市内に進出。

5.05 ブルジョア新聞7紙が発行禁止となる。

5.05 ヴェルサイユ軍、クラマールを占領。

5.08 ティエール、商工業代表共和連合の調停を退け、パリ市民に最後通牒を突きつける。

5.09 ヴェルサイユ軍、イシ堡を占領。

5.09 パンの価格がキロあたり50サンチームに固定される。

5月10日 フランス・ドイツ間でフランクフルト講和条約締結。これに基づき、捕虜となっていたフランス軍兵士が一斉解放される。その多くはパリ・コミューンの弾圧に投入された。

5.13 ヴェルサイユ軍、ヴァンヴ堡を占領。

5.15 コミューン少数派、公安委員会に反対する声明を発表。これにもとづき労働組合代表者会議、クラブ連合委員会の会議が開かれる。

5.16 ヴァンドームの円柱が引き倒される。

5.18 公安委員会、新聞6紙を禁止する。

5.19 教育の非宗教化に関する決定。

5.20 ヴェルサイユ軍、ポアン・デュ・ジュール門を突破。

5月21日 ドイツ軍の支持を取り付けた政府軍が、パリ城内への攻撃を開始。第15,16区を制圧する。「血の1週間」が始まる。

5.22 公安委員会はパリ市民に「武器をとれ」と呼びかける。

5.22 ヴェルサイユ軍13万人が市内に入る。シャンゼリゼを占領。

5.23 ヴェルサイユ軍がパティニョルとモンマルトルを占領。コミューン軍司令官ドンブロフスキーが戦死。

5.23 チュイルリー宮殿、パリ市庁舎などが放火され、廃墟となる。

5.24 ヴェルサイユ軍、パリ中心部とカルチェ・ラタンを占領する。捕虜の無差別殺戮を開始。

5.24 コミューンと公安委員会、第11区役所に移転。ダルボア大司教その他の人質を処刑。

5.25 セーヌ左岸を守っていたヴルブレフスキーの部隊が撤収。市の南部がヴェルサイユ軍の手に落ちる。

5.25 シャトー・ドー広場で最後の激戦が展開される。公安委員会のドレクリューズ委員長が戦死。

5.27 ベルヴィルに押し込められたコミューン兵、ペール・ラシェーズ墓地で最後の戦い。立てこもった市民147人は「連盟兵の壁」の前で次々に銃殺される。
パリ国民軍の死者は4000人以上、処刑されたパリ市民は1万7000人。さらに4万3500人以上が逮捕され、強制労働や流刑に処せられた。

5.28 第11,12区の最後のバリケードが破壊される。

5月30日 マルクス、インタナショナル総評議会で「フランスの内乱」を読み上げる。 文章は4月から5月にかけて英文で執筆されていた。

1872年 「共産党宣言」の再版にあたっての序文。マルクスは政治権力の獲得説に代え、国家の破壊説を主張する。


1881年

2月 ニウヴェンフィスあての手紙、①社会主義政府が政権をとるには,そのための前提条件が成熟していなければならない。②コミューンは,「例外的条件のもとでの一都市の反乱でしがなかった。③コミューンの多数の者は,社会主義派でなかった,④かつまた,コミューンが当時なしえたであろう唯一のものは,「有益な妥協」であった



インターネット上では、淡路憲治さんの「パリ・コミューンとマルクス」および、宮内広利さんの「地上の天国に一番近づいたとき~パリ・コミューン考」が参考になりました。



アルハンゲルスキー 略伝

アルハンゲルスキーの生涯を記した記事があまりに少ないので、とりあえず紹介しておく。元ネタは

というサイトの

Alexander Andreyevich Arkhangelsky

という記事。

生年: 1846年10月23日

没年: 1924年11月16日

合唱指揮者 作曲家

有名なアルハンゲルスキー・クワイアの創設者。37年の間、合唱団を率いた。19世紀末のロシア合唱音楽のルネッサンスの先頭に立った。

アルハンゲルスキーは、ロシアのペンザ(Penza)で生まれて、そこの少年歌手となった。そして、セントペテルスベルグで訓練を受けた。

彼は、16歳で指揮活動を始めた。ロシア民族主義の影響を受けた彼は、宗教音楽が過度に「西欧化され」ていると感じた。そして古いロシア音楽のレパートリーを復活させようとした。

教会の権威は彼の改革の試みを受け入れようとしなかった。そのため彼は1880年にアルハンゲルスキー・クワイアをつくって、シベリアからロンドンまで演奏旅行を重ねた。

それはロシアにおける最初のアンサンブルの試みであった。それまで典礼の場では少年合唱が担っていたパートを女声合唱に取り替えた。同様にコンサート会場でも代えられた。

彼の残した曲はすべて合唱のためのものである。レクイエムが1曲(1892)、Vespers(Evening Prayer)

が1曲、ミサ曲が二つ、50あまりの小曲が残されている。もっとも有名なのは「クレド」と「神聖な輝く光」である。

かれはまた、ロシア民謡といくつかの「ロマンス」の編曲も行なっている。

アルハンゲルスキーは、ロシア正教音楽を確立することでチャイコフスキー、グラズノーフ、ラフマニノフらに影響を与えた。しかしソビエト時代の偏狭な非宗教的合唱は、彼の民主的な作曲へのアプローチを不可能にした。

彼はボルシェビキのファンでなかった。1917のロシア革命の後、彼はプラハに移住した、そこで、彼は死んだ。

1990年代、ロシアの教会音楽は復活した。それは数十年にわたって無名状態にあったアルハンゲルスキーの音楽を掘り起こした。

アルハンゲルスキー合唱団の録音(1902年から1916年にかけて)は、すべてリマスターされてCD化されている。そこには彼の作った曲もいくつか収められている。

(bio by: Bobb Edwards)


私のおすすめは以下のとおり

Arkhangelsky - "Blessed are they whom Thou hast chosen"

Arkhangelsky - "I Cried Unto the Lord With My Voice"

Arkhangelsky - "I Ponder Upon the Fearful Day"

Arkhangelsky - "Give ear to my prayer, o God"

Arkhangelsky - "Let us come zealously to the Mother of God"

とりあえずこのくらいにしておく。このくらい聞くと、正直のところ飽きてくる。

ついでに同時代の作曲家キュイの曲も聞いてみてください。

Cui: My Soul magnifies the Lord Op.98 (Song to the Mother of God: for soprano and choir)

César Cui - Everywhere Snow - Op.77 n.2

RADIANT STARS, César Antonovich Cui - LATVIAN VOICES

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