鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

13年4月、ぷらら・Broachより移行しました。 中身が雑多なので、カテゴリー(サイドバー)から入ることをおすめします。 過去記事の一覧表はhttp://www10.plala.or.jp/shosuzki/blogtable001.htm ホームページは http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」です。

2015年05月

今日、シンポジウムに参加した北海道の4人で感想会をやったのだが、議論している最中に、「どうもインドネシアのアルムタキさんの発言(とくに前半部分)は、インドネシアにおける“ASEAN神話”なのではないかという話になった。

一見きわめて理路整然としていて、もっともらしい「反省」も付け加えられていて、真実味を増しているが、どうも時系列的に見るとそのようには進んでこなかったのではないかと思えてくる。

具体的に言えば、ASEANがインドシナ諸国を迎え入れて、大きくその存在感を発揮し始めた時期と、インドネシアが東チモールを武力制圧していた時期は完全に一致するのである。

アルムタキさんの発言には、マレーシアとの歴史的紛争は出てくるが、そこにはスカルノの名前も、スハルトの名前も出てこない。なぜかオブラートに包まれているのである。

当然のことながら、9.30のクーデターも、共産党員100万人の大虐殺も出てこない。だからASEANをバンドン宣言と結びつけるのは難しいのである。

アルムタキさんはお見受けしたところ若い研究者である。おそらく9.30の時は生まれていないだろう。知っていて隠し立てしているのではなく、知らないのではないかと思う。

だからアルムタキさんのASEAN認識には、スカルノ時代のリアルな把握はふくまれていない、その代わりにスハルト時代に編み出された「神話」が刷り込まれているのではないかと想像する。

バンドン宣言も、スカルノも、その神話の中のフィギュアとして織り込まれているにすぎないのではないか。

そして100万のインドネシア共産党とアイジット議長の名は封印され、歴史の闇の中に閉じ込められているのではないだろうか。

ベトナムのグエン・バン・フィンさんは、控えめな態度に徹しつつも、そこのところの継承性を強調することで、間接的ながらアルムタキさんのASEAN神話を否定している。

つまり「スハルトというのは極悪非道の男だが、インドネシア解放闘争を闘ったものの一人として、曲がりなりにもバンドン精神だけは持ち続けた」という評価になるのではないだろうか。


残念ながら、「9.30事件」についてはまとめて語るべきほどのものを持ち合わせていない。

とりあえず、ウィキペディアを参照のこと。

2.インドネシアとASEANの教訓

もっとも注目の講演。

ASEANというよりも、インドネシアがスカルノ時代・スハルト時代・ポスト・スハルト時代という正反対みたいな動きの中で、どこが変わらずに引き継がれているのかということが、私の興味でした。

演者はイブラヒム・アルムタキという人で、肩書はハビビ・センターのASEAN研究プログラムという部門の責任者だそうです。ハビビというのはスハルトの後に大統領を務めた人だから、政府系のシンクタンクなのだろうと思います。

インドネシアの文献といえば、はるか昔にインドネシア共産党のアイジット議長の演説を読んで以来です。アイジットの論調とはかなり立場を異にしていることに留意しておく必要があります。

① アジア太平洋地域には信頼が欠如している。

ASEANが共同体に向けた最終段階に入っている一方で、東アジアとアジア太平洋地域は緊張と不安感の出現を目の当たりにしている。

のっけから挑発的な現状規定です。思わず身を乗り出すところです。

② 二つの事態が緊張を呼んでいる

ひとつは尖閣問題だ。中国は東シナ海のほぼ全域に防空識別圏を設定し、戦闘機によるパトロールを開始した。日本と米国は、この措置に公然と挑んだ。

これは、単純な判断ミスだけで大規模な衝突の口火が切られかねない、深刻な懸念を呼んでいる。

もう一つは、日本の新しい国家安全保障戦略(2013年)である。国防予算は10年ぶりに増加し、無人機、ステルス機、潜水艦、水陸両用車両の購入、上陸作戦部隊の創設を織り込んだ。

これに安部首相の好戦的・復古的姿勢が相乗し、深刻な懸念を呼んでいる。

この二つに加えて、北朝鮮の核問題、南シナ海での紛争も緊張を呼んでいる。

これらの事例は、私たちがアジア太平洋地域に平和の共同体を構築する上で、巨大な挑戦課題が待ち受けていることを示している。

実に良い表現ですね。

と、ここまでが前置き

③ かつてインドネシアは東南アジアの緊張の要因であった

まさかここから入って来るとは驚きでした。

東南アジアもかつて「信頼の欠如」に悩まされた。インドネシアはその主犯であった。

マレーシアとシンガポールに対して好戦的な軍事体制をとった。それに加え、軍事力を用いて西パプアと東チモールを併合した。インドネシアは拡張主義的傾向を持ち、地域のトラウマの主因であると見られていた。

しかし、こうした武力侵攻は国益追究の有効な手段にはならず、実際には国に害を及ぼした。

ここでアルムタキさんはインドネシアの歴史の教科書の一節を引用しています。

インドネシア(マレーシアではない)は、この事件で高い代償を払った。インドネシア経済は国際ボイコットの結果として瓦解し、侵略者と見られたインドネシアの国際的イメージは崩壊した。インドネシアはきわめて効果的に孤立させられ、後に国連を脱退した。

うーむ、ここまで厳しい反省をするのか。私のイメージとしてはマレーシアとインドネシアの覇権主義の衝突くらいに思っていましたが。

この厳正な事実は、次の結論に至らしめた。すなわち、ジャカルタと東南アジアの国々のお互いの国益を増進するには、平和的な共同体を構築することがより効果的な道であると。つまり、この地域の諸政府が外交上の懸念に気を取られないようにすれば、国内の平和と安定、発展の確保に集中できるということである。

④ スハルト政権における路線転換

この辺りの論理の筋道は若干眉唾なところもあります。その本音はその次の段落に述べられています。

東南アジアはソ連と中国による脅威だけではなく、国内の共産主義運動の脅威にも直面していた。総じて、冷戦体制の地政学的背景に牛耳られていた。

それを鑑みれば、互いの衝突をできるだけ控え、「国内の治安確保に集中する」ことが得策だという冷徹な判断でもあった。

それがSEATOとは一線を画す「スハルト」流のASEAN路線であったのでしょう。

本音はともかく、ASEAN路線は、国連を脱退するなど隘路に突き当たってしまったインドネシアが、国際関係へ復帰するための路線として受け止められているようです。

⑤ “First among Equals” 路線

これを訳者は「同輩中の首席」と訳しています。なかなかうまい訳ですが、その含みも押さえるとすれば、やはり英語をそのまま持ってきたほうがいいでしょう。

インドネシアは域内大国です。しかし現下の国際情勢のもとでそれを振りかざしても何の益もありません。全部足してもとるに足らないほどの力にしかなりません。まして兄貴風を吹かせて他の国との矛盾が拡大すれば、ますます強大国の思うままになってしまいます。

ここではグッと我慢して、Equals の一員として自らを位置づけなければなりません。ここが大東亜共栄圏の思想と全く違うところです。しかし誰かがイニシアチブをとらなければそもそも話が始まらないのですから、発起人とか世話役とか幹事とか音頭取りとか、いろんな言い方がありますが、相対的大国であるインドネシアが何らかの役割を発揮しなければなりません。

ではどんな役割なのか、それが“First among Equals”という形で示されているのです。ニュアンスとしては「兄貴分」というところでしょうか。

アルムタキさんは「兄貴分」というのがいかに辛い役回りであるかをるる説明していますが、これはとりあえず省略させてもらいます。

⑥ 多国間主義(マルティラテラリズム)と積み上げ主義

インドネシアの対ASEAN関係の基本形態は、ひとつは多国間主義であり、もうひとつは「規範に基づくアプローチ」である。これはASEAN全体にも受け入れられている。

これは、2つともこなれていない英語であり、専門家は平気で使うが素人にはさっぱりわからない言葉です。私の理解した範囲で説明すると、多国間主義はサシの会議をなるべく避け、平場の議論で合意を獲得していく志向です。だから「平場主義」というのがいいと思います。中国ではラウンドテーブル方式という言葉が良く使われ、6カ国協議がその典型です。

歩みはのろいのですが、少数意見がよく反映されます。合意された中身は確実です。何よりもいいのは、積み上げを通じてそこに一種の思想が形成されることです。だから合意はマキャベリズム的合意ではなく、関係諸国の相互信頼と前向きの姿勢を基盤とする、一種の思想的合意となっていきます。

しかし「会議は踊る」状態になっても困るので、毎度毎度しっかり議定書を作成し積み上げていく必要があります。これが「規範にもどづくアプローチ」であり、「尺取り虫型」の積み上げ方式といえるでしょう。この方式の良い所は各分野への応用が効くことです。外交関係は政治ばかりではなく、経済、金融など多岐にわたり本質的に重層的ですから、議定書積み上げ方式は長い目で見てもっとも有効だといえるでしょう。

⑦ ASEANは平和の枠組みではなく、地域の主権擁護の枠組み

平和はそれ自体が目標でもあるが、地域主権擁護のための手段でもあります。地域主権擁護の試みとしてはSEATOがありましたが、これは軍事同盟による地域の防衛という発想と結びついていました。それに対してASEANは、平和的手段によって地域の主権を守ろうというところに特徴があります。

1976年に締結された東南アジア友好協力条約(TAC)は、「外部の干渉を受けず、地域が自ら管理する地域秩序」を打ち出し、その組織原則とした。


この後も発言は続きますが、若干政府の宣伝みたいな文言が並ぶため省略します。

赤旗にシンポジウムの要約が載った。

要約の要約を紹介しておく

緒方さん(共産党副委員長)の発言

東西、あるいは南北という国際関係が変わり、東アジアが経済の中心になろうとしている。

東アジア共同体を展望することまますます重要な政治的・理論的課題となっている。

“ASEAN+3”の枠組み形成から、東アジア首脳会議の「バリ宣言」(11年)の原則確認と流れは形成されつつある。

日本共産党の「北東アジア平和協力構想」: 日米・米韓の軍事同盟を廃棄することを条件としない。「バリ宣言」の内容は、軍事同盟の存在下でも確認・実行が可能だ。

アルムタキさん(インドネシア)の発言

かつて東南アジアは「信頼の欠如」に悩まされた。インドネシアは好戦的な姿勢を取り、地域の不安定の主要な原因となっていた。

しかし(スカルノ→スハルトの政権交代に伴い)、東南アジア諸国の国益増進のためには平和的共同のほうがより効果的であるとの認識に達した。

外交的な懸念に気を取られないで済めば、平和と安定と繁栄のために時間とエネルギーを注ぐことができる。

諸国間の関係を軍事同盟から平和の同盟に変えていく。そのために必要なのは「多国間主義」と「規範に基づくアプローチ」である。

これは平和の共同体への非平和的脅威に対し、対話や外交という平和的手段で対処することを意味する。

共同体的解決というのは、すべての当事者を排除しないということである。

南基正さん(韓国)の発言

1998年から2005年にかけて、東アジア共同体構想の議論は非常に盛り上がった。しかしその後失速してしまった。

東アジア共同体のためには、日本と南北朝鮮との3つの二国間関係が重要であり、日韓関係がその核心となっている。

日韓のあいだに歴史問題が浮上しているが、根本は朝鮮半島における冷戦システムの解体にある。

これを解決するためには、1965年の日韓条約では不十分である。

この条約は韓国が非民主的な体制であった時に、米国の要請に基づいて締結された。

現在、韓国は民主化されており、国民の要求は受け止められなければならないし、米国の強制ではなく自発的な関係が再構築されなければならない。

劉成さん(中国)の発言

中国人と日本人の違いは本質的なものではなく、置かれた歴史的状況に規定されている。相違はたんなる“時間差”だ。

国際問題解決のためには、①ラウンドテーブル方式で、②行政優位で進めていくことが重要だ。

かつて奴隷制がタブーとなり、植民地制がタブーとなったように、戦争をタブー視する日がいつかは来る。

どの国にもそれぞれの夢があるが、平和こそすべての人類の共通の夢なのだ。

大西広さんの発言

東アジアでは、ASEANにおけるインドネシアの役を中国が果たすことになるだろう。それを日本が受け入れられるかどうかが問題だ。

「どう対抗するか」という発想から抜け出せないままでは活路はない。

グエン・バン・フィンさん(ベトナム)の発言

バンドン会議の精神は平和、独立、連帯だ。この精神は非同盟運動に受け継がれてきた。その具体的成果がASEANだ。


さすがに赤旗のまとめは簡潔で要を得ている。私のように細部に拘泥することはない。

ASEANの歴史的位置づけを巡っては、インドネシアとベトナムのあいだに食い違いがある。

インドネシアの総括は非常に具体的で説得力のあるものであるが、やはりベトナムの視点が最初に来るべきだろう。

スカルノはバンドン宣言を発したにもかかわらず、それと矛盾するような行動をとった。それがあらためて原点に立ち返ったところからASEANがスタートしたと見るのが正しいように思う。ただおそらく9.30事件を経験していないアルムタキさんの中では、そのような歴史的認識は断絶している可能性がある。

劉さんの「時間差」論は面白い。私は韓国にも中国にも行っているので、感覚的によく分かる。

韓国は日本に20年位遅れて後を走っている。中国はおそらくそこからさらに20年位遅れているだろう。

富裕層の生活スタイルとか、街の風景とかはいまやほとんど違わなくなった。市民の生活レベルでも、その差は縮まっているかもしれない。

しかし、文化もふくめた「民度」の差はいまだに歴然としている。そういうところも見ながら判断していく必要があると思う。

レセプションの時にお会いした時にも言ったのだが、大西さんは、実にクリアカットな論理で迫るのだが、時に、ちょっとクリアに過ぎるのではないだろうか。そこが良いところでもあるのだが。

アジアインフラ投資銀行についても、とりあえず政治的アドバルーンのようにも思え、私は日経新聞ほどには評価できないでいる。

いまはちょっと“幼児帰り”しているが、やはり日本が政治・経済・文化のどの面をとってももっとも成熟した環境にあり、東アジアの共同を考える上では日本の積極的役割が不可欠だろうと思う。

その辺のダイナミクスは、韓国の南さんがみごとに解き明かしている。国際感覚を身につけるのに、韓国ほど格好のフィールドはあるまい。

8千円も払って授業を聞いたのに、そのまま放って置くのももったいない。基本的にはケチだからなんとか多少でも元はとっておきたい。

ということで、シンポジウムの発言のまとめ。

1.地域協力のアイデアとメカニズム

最初は南京大学の歴史学者の発言。正直、国連の連中がよくやる制度設計コンペティションみたいなものだ。

まずは国家関係を4つの類型に分ける。

① エゴの衝突 自己が最高で他は最低という自己中心の発想

② 多様性の尊重と共存 多極化論ないし構造主義的見解に属するものか

③ ユニバーサリズムの下での共存 いつまでも多様性にこだわったままでは進歩しないので、それを乗り越える普遍性をもとめる動き

具体的にはデジタル・コミュニケーションや環境問題

④ 地球連邦としての国家の連合 将来的にはこういうものが登場するのではないか

これを①から④へと進めていく上で必要な物を3つ挙げている。

一つはラウンドテーブル方式だ。これはおそらく多国間主義(マルチラテラリズム)のことを言っているのだろうと思う

2つ目はウェーバー風になるが、政治に対する行政の優越、皮肉をまじえると「官僚主義」(ビューロクラシー)ということになる。(私見だが、これは完全な間違いだ。行政の洗練化は必須であるが、それは行政に対する政治の優越があってこそ実現される。それが真の法治主義だ)

3つ目が積極的非暴力主義(ガンジー風)である。安部首相の「積極平和主義」とは全く違うので注意。

というのが話のあらすじ。おそらく中国の現状を踏まえての話しだろう。


これだけでは面白くもなんともないので、自分に引きつけてこの4類型を考えてみたい。

国際政治の実際では、この類型よりもそれらのあいだの中間型が問題になる。

①の典型としてはイスラム原理主義が考えられるが、これは剥奪され極度の抑圧のもとにある人々の「余儀なくされた野獣性」であり、歴史の発展段階に位置づけられるものではない。

実際の①は、むしろウェストファリア体制として位置づけられるのであろう。ウェストファリアは弱肉強食体制の下での「どう食うか」というルール化に過ぎず、多極化論の萌芽としてとらえるべきではないと思う。

②は過ぐる二つの大戦、60年を挟んだ戦後数十年の民族解放の運動の中で端緒を踏み出したといえるだろう。しかしその動きは、アメリカの一極支配への野望、スターリン主義による民主運動の歪曲、新たに独立した国の新たな覇権主義などにより度々危機に瀕してきた。

現在も②の段階は完全に実現したとはいえない。大国主義の放棄はおそらく核兵器の全面禁止がそのメルクマールとなるであろう。

さりとて③、④の世界を構想することが無意味だというのではない。それらは並行するのであって、それらの運動なしには②の世界は実現しない。

小学校を卒業して中学を卒業して高校…という段階を踏むのではない。それらは並走するのである。国際機関プロパーの人たちには、どうもそういう下々の事情がわからないようだ。

「新銀行東京」(通称 石原銀行)がついに消滅するようだ。
東京TYフィナンシャル・グループ(Tは東京都民銀行、Yは八千代銀行)に吸収合併されるらしい。
ちょっと経過をおさらいしておこう。
「新銀行東京」は2004年に設立された。石原慎太郎の鶴の一声で決められた。即断で、既存の「BNP銀行」を公有化する手法で発足した。まさに「石原銀行」と呼ばれる所以である。
鶴の一声というと、鶴には失礼かもしれない。「今回出資する1千億円が、やがて数兆の値になる」と記者会見で豪語したのだが、これはほとんど詐欺師の口上に近い。全国銀行協会には非加盟で、ATMも接続していない。東京都の公金収納取扱金融機関にも指定されていない。
東京都が1千億円を拠出して、05年に営業を開始した。しかし中小企業向け融資が相次いで回収不能となり、わずか3年で累積損失が1260億円に達し(経常収益は260億円)破綻した。当たり前である。自治体が融資をやれば議員や有力者が群がる。これが無担保・無保証となれば、食い物にされるのは火を見るより明らかだ。

この時点で東京都の出資分のうち855億円が毀損された。1年あたり300億円である。金融庁は、元行員の不正融資事件を調査、審査管理体制に関する業務改善命令を行なった。

ここで第二の怪が起きた。「東京発の金融不安を封じ込める」「清算したら巨額の損失が発生する」と称して、都は400億を追加出資した。さらに日銀は独占禁止法を無視して、1千億の低利融資による支援をおこなった。

その後はこれらの資金をもっぱら国債・証券買いにあて、その配当金によりバランスシートの改善を計った。リストラが進められ、大手町の本店をふくむすべての店舗が閉鎖された。従前の新宿出張所のみが残され本店となった。ATMは廃止され、本店にはセブン銀行のATMが設置された。
「間口3間」の小商いに縮小して、ほぼ営業を停止したのだから、それなりにバランスは取れるようになった。しかし収益はたかだか年間60億円である。何もしていないのと同じだ。
Shinginko-tokyo
                まさに間口三間の「本店」
都の出資金(追加もふくめ)はそのまま残され、現在は470億円となっている。これがさらに焦げ付けば毀損総額は1千億をこすのではないだろうか。
都民一人あたり1万円だ。かつて美濃部都政の頃、自民党は「無駄遣いだ、バラマキだ」と攻撃したが、これほどの無駄遣いは許すのか。

不思議なのだが、世間一般の常識にあまりにも背馳していないか。弁済責任はないのか。現に東京都に対し、石原慎太郎と旧経営陣に都の出資金分を返還させるよう求める訴訟も起こされている。当然である。
どうして財界・金融界をふくめて石原指弾の声が上がらないのか。批判はしても結局は他人の金だからウヤムヤにするのだろうか。
メディアはなぜ沈黙を守るのか。私もあまりテレビ見ていないのでわからないのだが、石原慎太郎が「申し訳ございません」と言って頭を下げる場面を見たことがない。
ウィキペディアによると、石原は「設立理念は正しかったが、経営がまずかった」としゃあしゃあと言い抜けているそうだ。
経過については東洋経済オンライン08年4月号の「やはり、おかしい新銀行東京 都民は徹底追及を」が詳しい。


南青山の裏通りを彷徨っていた時に強烈に感じた「お金」の匂い、それはある意味で「敵意」をもって迫ってくる匂いだった。

別にそこに住んでいる人に恨みがあるわけではないし、そこに住んでいる人が悪い人たちだとも思わない。

ただ街全体がそういう匂いを発しているのである。そして私の如き貧乏人を胡散臭く見咎めるのである。

それは「発見」だった。

なんというか、落としたお金が見つかった。しかしそれはすでに人のものになっていた、という感じだ。

地方経済がやせ細り、文化も活気も消え失せた。お金に足が生えて飛んでいってしまったのだ。そのお金がここにある。

大声で叫びたい気がする。「みなさん、なくしたお金が見つかりましたよ。ここにありますよ!」

私は、そうやって地方の人達に呼びかけたいと思う。東京見物するなら、ディズニーランドみたいなところに行かずに、南青山や成城や奥沢や広尾あたりを歩く方がいい。

とくに地方議会のみなさん、こういう街を見てから、TPPとか道州制とかの議論をするべきだ。むかしは地方にも多少のおすそ分けはあったが、今は根こそぎすべて持っていく。今はグロスの時代ではなく、「利益率極大化」の時代なのだ。

TPPというのは、地方をしゃぶりつくし、吸い尽くして、地方が今やじゃまになったから切り捨てようという法律だ。それが、この街をさまよっているうちに骨身にしみて感じるであろう。

行くなら今のうちだ。そのうち「貧乏人、オフリミット」になるだろう。もし迷い込めば「テロリスト」扱いされることになるだろう。

最近はデモのシュプレヒコールも変わって来て、短いのがはやりのようだ。
たしかにそのほうがいいと思う。
昔も沖縄を返せとか安保反対とか短いのが良かった。
短いと、それだけに、結構モメることもある。
沖縄闘争では、返還協定反対なのか、返還協定粉砕なのか、でやりあった覚えもある。
しまいには、粉砕というと「新日和見主義」だということになった。
途中から変わったのもある。最初は安保破棄だったが、いつ頃からか「安保条約を廃棄せよ」と叫ぶようになった。こちらは手続き問題が出てきてからで、「破棄」も間違いではないとされていたようだ。今でも中実委は「安保破棄・諸要求貫徹」ではなかったかな。
ニヤッとしていたのが憲法スローガンで、社会党系は護憲だったが、共産党は憲法改悪阻止を掲げていた。つまり改悪は駄目だが改正は良いということだ。
その後、共産党も現憲法擁護に変わったが、「護憲」という言葉はあまり使わない。「憲法を守れ」だ。どっちでもいいようなものだが、専売特許でもあるのだろうか。
使わないといえば、「革新」という言葉も最初は使わなかった。それは理由があるので、戦前の軍内極右派が「革新」を名乗っていたからである。共産党は革新ではなく「民主」という用語を多用した。私は、これは今でも正しいと思っているが、その後統一の立場からか「革新三目標」など革新も用いるようになった。ただ「革新」という言葉そのものが、いまは摩耗しかけている。

ということで、現下のシュプレヒコールは何か、と考えると、“戦争反対”と“憲法守れ”の2つだろう。
戦争反対! には 戦争するな! がつく。
憲法守れ! には 平和を守れ! がつく
コール・アンド・リスポンス の関係になる。
これにより、“戦争反対”と“憲法守れ”のスローガンの内容がより鮮明になる。
「戦争にも色々ある」が、今だいじなのは「戦争させないこと」だ。
「憲法も完全無欠ではない」が、今だいじなのは「平和を守るために憲法を守る」ことだ。



ということで、

羽田に2時間も逗留。お陰で前から読みきれずにいた「ヴィゴツキー入門」を一気に読破しました。

といっても、正確に言うと、読んだのは全8章のうち第2章と第3章のみ。後は発達論とか教育論であまり興味はないので省略。新書版でちょうど50ページ、4分の1です。

1.ヴィゴツキーの経歴と業績

理論に入る前に、ヴィゴツキーという人がどういう人かわかっておいたほうがいいと思う。

①ユダヤ人、ベラルーシ出身。つまり田舎の秀才ということ。

②モスクワ大学法学部卒だから、超エリート候補生だ。なぜこのような「脇道」にそれたか。二つ理由がある。一つは1917年、ロシア革命の年の卒業だ。ということは学生時代のほとんどが第一次世界大戦の真っ最中ということだ。日本で言えば安保世代ということになる。

③もう一つは、大学に入った後、かなり道を踏み外したからだ。文学・演劇に興味を持ち、ハムレットの分析などから心理学に興味をもつようになった。良くあるパターンだ。当然左翼化する。ただ革命運動に飛び込むまでには至らなかったようだ。良く言えばバランス感覚の持ち主だ。

④経歴の中で、ここがよく分からないところだが、大学卒業後、田舎に戻って中学の教師をしている。しかも7年間もだ。世の中は、革命が成立して、第一次大戦が終わって、そのまま白軍との長い内戦に入っている。この間に彼は相当心理学を勉強したようだ。

⑤7年後に満を持して論文を発表する。当時ソ連の心理学界を席巻していたパブロフ流の生理学的心理学を批判したものだ。これがバカ受けして、一躍時代の寵児となる。

⑥モスクワの心理学研究所に招かれたヴィゴツキーは、ピアジェの発達心理学に依拠して認識の心理学を展開。一躍、ソ連心理学の主流を形成するようになる。

⑦彼はその後、ピアジェの限界を批判しつつ、唯物論的な発達心理学を展開する。

と、ここまでが大体の経歴だ。

こちらは後日談になるが、ピアジェはヴィゴツキーによる批判をほとんど受け入れた(と柴田さんは言っている)

したがって、ピアジェの特に後半の理論は、ヴィゴツキーとの合作とも言える(この点については検証が必要)

これから先は私の感想になるが、これにさらにワロンが神経線維の髄鞘化仮説と周辺意識論を付加して、ピアジェの中の最後のフロイト残滓を一掃している。

もうひとつ感想、心理学思想の上でのヴィゴツキーの最大の業績は意識を大脳の働きの延長に据えつつ、意識の独自の構造を、その発展過程においてとらえたことだろう。

三木清に関するノートの中でも「心理学」の操作主義的に歪められた構築については触れておいた。

この時点ではDNAは影も形もない。CTもMRも、ポジトロンもない。しかし研究の方向は正しかったと確信する。

こんな背景を念頭に置きながら、論争の方に移っていきたい。

とにかく泊まりがけの旅行が3年ぶり、東京は5年ぶり、ということで非常に疲れました。
こんなことでキューバまで行けるのだろうかと不安に感じています。
1.加齢変化ではなく廃用性萎縮
家と勤め先の往復でとにかく体を使っていない。ところが東京では二本の足が唯一の頼り。足が棒のようになりました。空港内の移動が意外と長い、品川駅での移動は大したことはなかったが、新宿駅をおりてからが大変。
西武新宿方面と思い込んでいたら、実は御苑前。新宿駅内の移動はそれだけでもタクシー乗りたいくらいの距離で、そこから御苑前までも相当なもの。さらに道を間違え、人に聞きながらの宿探し。カバンが肩に食い込み、夏の日差しが疲れを増幅します。
翌日はさらにひどく、渋谷駅から国連大学に行くのに変なバスに乗ってしまって、青山学院の隣だと思ったら同じ青学でも小学校だか幼稚園というのは首都高方面なんですね。そこから当てずっぽうに歩くうちに、なにか変だなと思い、掲示板を見て愕然。おまけにあのへんは道路が迷路状態。お日様の方角を頼りに北へ、北へとジグザグを繰り返しました。周囲の家からはお金の匂いがムンムンとしていました。
結局会場へは30分遅れ。シンポジウムの同時通訳が心地よい刺激となって、爆睡してしまいました。
とはいえ、昔なら河田町の女子医大から六本木くらいまで(最長は東京駅まで)は平気で歩いていましたから、体力が低下しているのですね。
2.けっこう浦島太郎
数年行かないとそれなりに変わっています。さすがは東京です。景色が変わるとなんとなく微妙に地理勘が狂います。
田舎は10年たってもあまり変わりません。新しい建物が立つことはありません。ただ、あったはずの店がなくなったり、「死後変化」というか、後ろ向きの変化ははるかにひどいです。
一方、人が多いのは変わりありません。この変わらないというのが違うところです。田舎は人がいなくなっています。むかしの繁華街も、いまはシャッター通り。人っ子一人いないことすら珍しくありません。
東京にはお金の臭がしますが、田舎からはお金の匂いは消え失せました。
3.外人だらけ
外人がやたらと増えたようです。私の泊まったアパホテルというのは新宿2丁目で、昔は結構やばいところと言われていました。いまは外人経営の食堂とか多いようです。表通りは高そうな店ですが、中に入って行くとチェーン店ではないちまちまとした店がたくさんあります。正直あまり食欲をそそるような店はありません。
ちょっとした居酒屋を見つけて入りましたが、マグロの刺身を除いて、味は論外・最悪・最低でした。
4.タバコのみには住みにくくなった
国連大学と聞いて嫌な予感がしたのですが、案の定全館禁煙でした。日曜日とあって近所の店も休みばかり。唯一の喫茶店がスターバックス(禁煙を売り物にする喫茶店)、結局昼休みの1時間を費やしてくたびれ儲け。
仕方なしに地下鉄に乗って渋谷に出ようとしたら、間違えて原宿に出てしまった。
こんなところに長居はできず(とんでもない人だかり)、こうなればと山手線で品川まで行ってしまいました。会議は当然ながらエスケープです。
ところが品川の駅近辺というのが何もないところで、パチンコ屋の角を曲がって100メートルも先にルノアールがあるだけです。
とにかく、街を歩くときは常にタバコが吸える場所を探してウロウロしなければならない。これだけでも、もう東京都はおさらばです。
付け足し。国内線ターミナルの到着フロアーにたばこを吸える喫茶店を発見。かなり混んでいましたが行列というほどのものではありません。

今年の「放送人グランプリ」がTBSの「サンデーモーニング」へ贈られることになった。
たしかにいまどきこの番組くらいだ。腹を立てずに見ていられるのは。
その表彰式での関口さんの挨拶。
番組をスタートした時には、“真ん中に”が合言葉でしたが、気が付くと“左”の方に誰もいなくなっちゃって。世の中少しおかしくなってきたのかなと感じています。
そういえば確かに“左”のコメンテーターがいなくなってしまった。毒にも薬にもならないようなコメントだけが生き残った。それでも札付きの右翼を入れないところは見識であろう。
一言言っておきたいのは、“左”の方に誰もいなくなっちゃったのはメディアの世界であって、世の中にはまともな人間がしっかり残っている。
大阪の市民投票は、そういうメディアと、そういう健全派の真っ向からのぶつかり合いであった。その故に勝利の意義は大きく、メディアの衝撃も深かったのである。

反ナチ「抵抗」考  ――グラス・ルーツ的視点

という星乃治彦さんの文章があって、そこに下記のように記載されていた。


東西ドイツの研究に共通していた傾向は、その党派性が強い故に、グラス・ルーツとして「反ファシズム」をとらえるという発想が弱いことであった。

戦後西ドイツは戦後体制の「反ファシズム」の源流を、白バラ運動や四四年七月二〇日ヒトラー暗殺事件に求め、そこに、西ドイツという国のアイデンティティが確認していた。

(東西ドイツという)党派性が強いドイツの歴史叙述の中で、(左右の)全体主義(に反対という)理論の影響の下、西ドイツでは、保守派や社会民主党系の抵抗運動は高く評価されるのに対して、ファシズムと同列に論じられることが多かったコミュニズムの抵抗運動は冷遇された。

一方、旧東ドイツの「反ファシズム」言説は、戦後東ドイツの支配政党となったコミュニスト政党―ドイツ社会主義統一党の、それも指導者たちの支配の正当性と、指導性の根拠とされた。

グラス・ルーツの抵抗行為は日陰の存在であったし、民衆を主体と見なさない姿勢は、東ドイツで民衆レヴェルでの「過去の克服」をも表面的なものにした。

うまく「四つ目表」の形でまとめられている。

そのとおりで、何も付け加えることはない。


と言いつつ付け加えるのだが、基本は東ドイツの総括だろうと思う。

西ドイツの対象とするは、何もかもがすべて起きてしまってからの、終わってしまってからの運動だ。

ニーメラーの言葉に尽きるように、共産党、社会民主党、労働組合が非合法化されたとき、もう抵抗運動の母体は失われていたのである。

むしろ終戦間際の敗勢を背景とした厭戦運動に括られるべきものと言ってもいい。

基本的には的はずれだ。

第二に成功した抵抗闘争においては、フランス、イタリア、ユーゴ、ギリシャなど、どこでも共産党が主体をなしていた。それがドイツに限ってなぜ排除されなければならないのか、それは実態と乖離しているのではないか、という疑問だ。

第三に、上の疑問とも関連するのだが、抵抗運動に関わって犠牲となった人の名前を党派別に並べて見てはどうか、という疑問というか提起だ。多分圧倒的に共産党系の人々が多いのではないかと想像する。

ということで、東ドイツ側の総括を基本的に踏襲しつつ、

1.指導者の支配の正当性に収斂させる議論を打破すること

2.グラス・ルーツの抵抗行為にもっと光を当てること

3.ファシズムの災厄を世界にもたらした国の国民であるという事実を、もっと深刻に受け止めること

という3つの提起を受けて、さらに実証的研究を積み上げることが必要なのだろう。


ナチス関係の記事は下記の通り

投票の分析(という名の老人・弱者への腹いせ)

1.年齢別分布: 20〜60代は賛成が多く、反対票が多かったのは「70歳以上」だけ。

2.年齢別・性別分布: 反対票が多かったのは「70歳以上の女性」と「50代の女性」だけ。

ただしこれは投票の分析ではなく「出口調査の分析」であり、出口調査では賛成票が上回っている。

南北問題との指摘

nanbokumondai

都構想で恩恵を受けるであろう梅田などの北区は賛成が上回ったのに対し、高齢者が比較的多い南区が軒並み反対に回った。

これらの分析(?)から、「都構想」が強者の論理の押し付けであることが分かる。そこでは「既得権益」を強者に譲らない人々が糾弾されている。

 

上から目線の典型…辛坊治郎の言い草

1.生活保護受給者への罵倒 生活保護受けてて、いまの大阪市のゆるい生活保護基準だから生活保護受けられるけれども、きめ細かい行政で行政単位が小さくなって生活保護受けられなくなっちゃあ困る。

2.高齢者への罵倒 市のタダのバス…若干払ってますけど、タダのバスとか地下鉄の切符を取り上げられたらたまんねー

というのが、結果ですね~

辛坊の「内心の自由」については認めるが、あるいは居酒屋談義としては目をつぶるが、テレビという公共の電波を通しての発言としては、とうてい許されるものではない。

この人はブラウン管の向こう側を想像したことがあるのだろうか。この番組を見ていた高齢者や貧困者にとっては面前で「社会のウジ虫」と罵倒されたようなものだ。

ヘイトスピーチへの判決にも示された通り、弱者への侮辱は人権侵害であり違法行為を形成する。

ただ、具体的な法的責任は、これを放映したテレビ局に向けられるであろうが。

(あるブログでは自己責任を声高に主張する辛坊が、ヨットで遭難した時、どうして救助を要請したのだろうか? という辛辣な批評があった)

ドイツ国内における抵抗運動の評価は、旧東独において「ナチ時代において首尾一貫して断固たる抵抗運動を敢行したのは共産主義者のみだった」というドグマへの批判とも結びついている。

ということになっているが、日本では逆に非共産主義者の抵抗ばかりが拡散して、共産主義者の抵抗運動については殆ど触れられないという、逆状況にある。

自分でネットをあたって年表を作成してみたが、残念ながら、共産党・社民党の非合法化のあと、戦争末期に至るまでほとんど空白となっている。(日本語文献の範囲内で)

前項の研究は、その間隙を埋めるものとしての意義がある。

 

1933年

1月30日 ヒトラーが首相に指名され、ナチ政権が成立。共産党は反社民党、対ナチ協調の立場から事態を静観。テールマンは「ナチスに政権を取らせよ。ナチスには政権担当能力などなく、そうすれば明日には共産党が政権を取るだろう」と語る。

2月1日 ヒトラー、議会を解散し総選挙に打って出る。

2月3日 ヒトラー、プロイセンにおけるあらゆる共産主義活動を禁止。議会が解散中なのを利用して、大統領緊急命令を連発。

2月17日 ゲーリング無任所相、左翼勢力に対して「必要とあれば容赦なく武力を使用すること」を警察に命じる。内相ポストをナチスが握っていたため可能になる。

2月24日 警察が共産党本部を立ち入り捜査。メディアが共産主義革命の恐怖を伝えるプロパガンダを大々的に展開。

2月27日 ドイツ国会議事堂放火事件。政府は共産党の犯行であるとして、ただちに「民族と国家防衛のための緊急令」を公布。共産党の解散と一斉摘発に乗り出す。この日のうちに4千人の共産党活動家が逮捕される。

2月 ベルリン大学講師で神学者のディートリヒ・ボンヘッファー、ラジオ放送でナチ党の「指導者原理」を批判。放送は強制的に中断される。ボンヘッファーは、後にヒトラー暗殺計画に連座し絞首刑となる。

3月3日 総選挙実施。共産党は非合法化され、すべての宣伝手段を奪われたにもかかわらず81議席を獲得。

3月 共産党のテールマン議長が逮捕される。11年にわたる拘束の後、44年8月に処刑。3月末までにプロイセンだけで1万人以上が逮捕される。

4月 ゲーリング、航空省内に「調査局」を設置。電話盗聴を専門とする機関。後に「赤い楽団」の根城となる。

5月 ナチが労働組合の建物を接収。

6月 ナチ、ドイツ社会民主党の活動を禁止。指導部(Sopade)はプラハで運動を開始。(38年にパリへ、40年にロンドンへ移転)

7月 職業官吏再建法が制定される。ユダヤ人の公職からの追放を目的とする。教会にもいわゆる「アーリア条項」が適用される。この後、教会内部で親ナチ派の「ドイツ的キリスト者」が優勢となる。

9月21日 ボンヘッファーとマルティン・ニーメラー、牧師緊急同盟を結成。後の告白教会に繋がる。ニーメラーはヒトラーの支持者だったが、教会からのユダヤ人追放政策に反対し、反ナチに転じた。


1934年

1月30日 レーム蜂起が発生。これを体制内の危機と見た共産党は抵抗運動を強化する。


4月22日 牧師緊急同盟が主体となり告白教会を結成。ロンドン赴任中のボンヘンッファーも参加する。カール・バルト起草による「バルメン宣言」が発表される。

1935年

10月 ドイツ共産党がブリュッセルで党会議を開催。①ファシズムの過小評価(左翼の過大評価をふくむ)、②社会民主党への主要打撃論の2つの誤りを自己批判。“統一戦線ないし人民戦線政府”が提起される。

 

1936年

8月 ボンヘッファー、ナチスに対する反対により、ベルリン大学から解任される。

1937年

7月 ニーメラーが逮捕される。終戦までの8年間をダッハウなどの強制収容所で暮らす。下記の詩で有名。

ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった
私は共産主義者ではなかったから
社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった
私は社会民主主義ではなかったから
彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった
私は労働組合員ではなかったから
そして、彼らが私を攻撃したとき
私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった


10月 ブレーメン近郊デルメンホルストの共産党組織が摘発され、首謀者のヴィルヘルム・シュレールスが逮捕される。その後終戦までに49名が殺害された。

1938年

10月 ルートヴィヒ・ベック参謀本部総長が退役。反ヒトラー抵抗運動の中心人物となる。ヒトラー暗殺計画では、ベックが新政府の国家元首に就任する予定。

黒いオーケストラ: ドイツ国防軍内部の反ナチス派将校グループ。ルートヴィヒ・ベックやハンス・オスターを中心とする。その政治姿勢は決して民主主義的でも平和主義的でもなかった(ウィキペディア)。

クライザウ・グループ: 将校グループと連携する保守派グループ。モルトケ伯爵が所有するクラウザーの別荘を拠点とした。

1939年

ドイツ共産党がベルンで党会議を開催。ヒトラー後の国家を、資本主義制度を前提とする「新しい民主的共和国」と規定し,そのプログラムが作成される。

1940年

 

1941年

 

1942年

6月 ミュンヘンの「白いばら」グループ、最初の反戦ビラを配布。主要メンバーはハンス・ショルとその妹ゾフィー・ショル、クリストフ・プロープスト、ヴィリー・グラーフ、アレクサンダー・シュモレルの3人の学生、およびクルト・フーバー教授である。

12月 ハルナック夫妻など知識人グループ、ソ連に情報を流したとして逮捕され、軍法会議で無期判決。さらにヒトラーの指示で死刑判決。50数名が処刑される。共産党スパイ説は否定されている。

42年 ハインツ・カペレが処刑される。カペレは13年生まれ。青年共産主義組織に入り、反ナチの宣伝活動を続けた。

 

1943年

2月 「白いばら」グループが摘発され、6人が死刑判決を受ける。(多くの情報あり、ここでは省略)

 

1944年

7月20日、黒いオーケストラによるヒトラー暗殺計画は失敗に終わる。ベックは逮捕されピストル自殺。

7月 事件に連座した歴史学者アドルフ=ライヒヴァイン(社民党員)も処刑される。

10月 親衛隊全国指導者ハインリッヒ・ヒムラー、「青少年の徒党撲滅」を命令。エーデルヴァイス海賊団などの反ナチス青年グループを摘発。

海賊団の一部は地下組織に合流し、脱走兵や逃げ出した戦争捕虜、他国から連行されて強制労働に従事していた人々、強制収容所から逃げ出した囚人などの支援を行う。

1945年

4月9日 ボンヘッファー、ハンス・フォン・ドホナーニ、ハンス・オスター、カナリス提督らが処刑される。

 

 

ドイツにおける反ナチス抵抗運動について、ネットで少しあたってみたが、白バラとヒトラー暗殺未遂事件を除けば、正直のところ、さほどのものはない。
戦前の日本と比べて当時のドイツの共産党の勢いは大変なものであった。それだけの活動家がいたなら、多少の抵抗運動はむしろあって当然である。
あえて誤解を恐れずに言えば、それは共産党壊滅後の個別の抵抗運動を落ち穂拾いのように集めていく作業のようにも思われる。
それはそれとして、今後の教訓にもつながってくわけであるから、大変貴重な仕事ではある。我々も少ないとはいえ絶対主義天皇制と闘った人々を掘り起こし、顕彰し、闘いの糧としなければならない。

しかし、運動プロパーの視点からは、ヒトラーに対するドイツ共産党のあっけなくも無残な敗北に、そして、それをもたらした市民社会からの孤立ぶりにどうしても目が行ってしまう。
たしかに社会民主党政権に取って代わるべく、共産党はナチスと肩を並べていた。しかしナチスと肩を並べても仕方ないのであって、その背後にいる巨大な権力と比べればはるかに見劣りしていたのだ。その巨大な権力の、ナチスは手先に過ぎなかったのだ。そこが分からなかったのではないか。
そしてそれは大阪の橋下旋風とどうしてもイメージがかぶる。知事・市長当選前後の橋下・維新の動きは、ヒトラーのそれと酷似している。
しかし大阪は、堺市長選挙、4月の一斉地方選をもって、維新攻撃を跳ね返した。そして最後には住民投票をもって、完膚なきまでに小ヒトラーを粉砕した。
その総括はいろいろ出されているが、もう少し世界史的に振りかぶってみてもいいのではないか。そしてそれは明日からの安倍ファシスト政権との闘いにも貴重な教訓をもたらすのではないか。

ファシズムやナチズムの定義をしっかりやらずに、橋下や安倍をファシスト呼ばわりするのには問題がある。このことは重々承知の上で、あえてファシストという。

1933年のヒトラーと、独ソ協定締結時のヒトラーと、ポーランド→ソ連侵攻時のヒトラーとは明らかに違う、というか日和見主義とオポチュニズムがヒトラーの真骨頂であり、どれもナチズムなのだ。

そして1933年初頭におけるヒトラー・ゲーリングのやり口は、橋下・安倍のやり口と9割以上合致している。

ベルリンの片岡特派員が続けざまに、重要な歴史事実の掘り起こしを行っている。
今回はナチス下ドイツでのレジスタンスについて。
これはドイツのレジスタンス研究家ギュンター・ウェーナーさんへのインタビューである。
ウェーナーさんはゲシュタポの資料に基づいて「ナチ独裁に抵抗した人たちの思い」を引き出している。
2002年には共同執筆で「ベルリンのレジスタンス人名辞典」を刊行している。ベルリンの話は、その後の東西冷戦と、\の分厚い蓄積の下層に沈み込んでおり、これまであまり知ることができなかった。
初めて知る事実がたくさんある。
1.レジスタンスの全体像
当時のドイツの人口は8千万人くらいですが、その内2%がレジスタンスに加わっていたと言われます。大都市ではもっと多く、ベルリンでは名前が分かっているだけで約2万人が参加しました。多い時には1ヶ月で3千人が逮捕されました。その内7千人が処刑されました。
すごい数だ。参加者数もすごいし、それが決死の活動だったことも分かる。
2.ハインツ・カペレの活動
ハインツ・カペレは1913年生まれ、ナチが政権をとった時に20歳ということになる。彼は青年のレジスタンス組織を作り活動した。
ハインツ・カペレのグループは、ヒトラーの演説がいかにウソに満ちているか、戦争が近づく危険性を訴えたビラを1万2千枚作り、工場や電車で配布しました。それは手書きではなく印刷したビラでした。印刷工場に働く仲間の助けがあったのです。
3.「社会労働党」グループ
この党は、33年にヒトラーが権力を掌握したあと、偽の解散宣言をし、その後地下で30ヶ所以上の拠点を持ち、36年まで活動しました。その後は多くの活動家がスペイン内戦に参加しました。
この小さな政党グループは、これまで殆ど知られていなかったが、最近になってウェーナーさんがゲシュタポの資料の中から偶然見つけたものだそうだ。
4.「赤いオーケストラ」グループ
これはより直接的にソ連と接触していた半軍事的組織、スパイ組織のようだ。
「赤いオーケストラ」とナチスから名付けられたグループは、ドイツ軍の攻撃計画や輸送計画をソ連に伝えていた。
70あまりの企業に抵抗組織を持ち、2台の戦車まで準備していました。メンバーにはラジオ局で働く女性や空軍大佐もいました。
5.市民的抵抗
もちろんキリスト教徒や普通の市民のレジスタンスもたくさんあった。
軍需工場で働いていた人の中には、銃弾工場でわざとさんを多めに入れて使いものにならないようにしたり、42年に出るはずだった新しい機関銃の開発を遅らせて、44年まで引き伸ばしたりした人たちがいました。
安倍晋三が機密保護法などで国民をがんじがらめにし、戦争立法で国民を戦争へとかきたて、憲法改正でファシズムの支配する「美しい日本」の再現を推し進めようとしているいま、このような危機は明らかに迫りつつある。
ということでは、これらの活動をたんなる昔話として語ることができない時代に、我々は突入しつつあるのかもしれない。

面倒なので委細は省略するが、3倍という数が面白い。

3倍というのは、クロロフィルsを用いた光合成の話で、それまでの色素に比べて一つの過程から3つの電子を取り出すことができるということだ。

最初は硫化物を還元することで一つの電子を得ていた。それが水を原料に使い、太陽光のエネルギーを利用することで、一つの過程から3回にわたり電子を得ることができるようになった。

それまでの生命体がおっつかっつのエネルギーバランスで暮らしていたとすると、必要最低限のエネルギーの2倍の貯金ができることになる。

これが生物界発展の原資となったのだろう。

最低生活費が年間150万円として、収入が一気に450万円になったようなものだ。貯金するもよし、ちょっとした贅沢をするも良し、何かに投資するもよしということだ。

これが300万円だとすると、「ちょっとしたゆとり」を得るためにすべて消費されてしまうだろう。こういう生活はかえって危ない、財政ピンチに陥った時の抵抗力が失われてしまうからだ。

葉緑素は瞬く間に地球上に広がったのだろう。それは第一に硫化物と違い、地球上に普遍的に存在する水を原料とするからである。

第二に光は地球の表面に普遍的に降り注ぐからである。

この結果何が起こったか。

第一に生命の大爆発である。生命の大爆発というのはエネルギーの大集約である。これが貯金だとすれば年利200%の複利だ。そのエネルギーはこれまでは漫然と自然現象の中で消費されていたが、生命体の中に集約されるようになる。

第二に地表での酸素濃度の増加である。これは酸化エネルギーを起動力とする生命体の大発生をもたらす。

第三に、これは結果論であるが、生命体の葉緑素への依存をもたらしている。ほぼすべての生命体がその栄養源を葉緑素に頼り、代謝を酸素に頼り、葉緑素なしでは生きていけないような体系を形作ったのである。

第四に、葉緑素を中核とする代謝システムが確立したことで、生命体は自然に翻弄される生物物理的状態を脱し、自律的な生物学的発展(進化)の途を歩み始めたのである。

ただし、葉緑素の本態が分かれば分かるほど、葉緑素システムからの脱却、葉緑素よりもっと普遍的で、もっと良いエネルギーの捕捉・固定法、酸素の生成法がないかどうか、考えたくなるのも人情である。

とくに人類が地球にとどまらず、宇宙空間へ進出していく際には、この問題は避けて通れない。

核の開発はそれを予感させたが、結局、現在のところは断念せざるを得なくなった。あまりにも生まれ方が悪かった。

次の子供に、次の「3倍化」を期待しよう。その時人間は自らエホバとなるのである。


次は

日本藻類学会創立50 周年記念出版という本の中の「酸素発生型光合成の起源」という文章。三室守さんという方が書いたものだ。

主として酸素発生のメカニズムについてのレビューなので、当面の関心領域とは少し外れるが、面白い論文である。

* 地球上のほぼ全ての生命は、太陽からの光エネルギーに依存しており、光合成はその根幹を支えている。

* 酸素発生型光合成生物の誕生は、地球とそこに生息する生物にとって重大な事件であった。

* それは酸素発生型光合成をおこなうシアノバクテリアの誕生という事件に集約される。

* 酸素が地球の大気に蓄積することで、生物は酸素呼吸を始め、エネルギー収支が飛躍的に増加した。これにより細胞は大型化・多細胞化し、今日の生物の隆盛につながった。

ここらへんまでが序論で、以下本論に入っていく。

1.紅色光合成細菌

紅色光合成細菌は、発生史的にシアノバクテリアに先行していたとみられる。光合成を行っているのに酸素を発生しないのは、電子獲得の材料に水を使わないからである。

紅色光合成細菌とシアノバクテリアのPⅡ反応センターの蛋白は相同であるが、アミノ酸配列を比べるとシアノバクテリアの分子量が若干増えている。

2.何が増えたか

結果としてみれば、水を分解して電子を取り出すための酸化力、反応を安定して持続させるための保持力が獲得されている。

ではそれはなにか。酸化力はクロロフィルaによるものであり、安定性を担保するのがマンガン原子だとされる。

3.クロロフィルaとマンガンの役割

           光エネルギー
                   ↓
 H2O → チロシンz → P680 → Pheo a 

ここで、前項で尻切れトンボになっていたP680からフェオフィチンの過程が初めて説明されている。

A) 水分子は PSII RC に取り込まれ、そこで「マンガン・クラスター」と結合する。これは4つのマンガン分子で構成されている。(触媒のことか)

B) 水分子はマンガンの存在のもとで分解され電子を産生する。電子を発生した水は酸素となり離脱し、新たな水分子が結合する。

C) RC内にはあらかじめクロロフィルaが存在する。光エネルギーを受けるとクロロフィルa はP680 という「特殊な状態」に転化する。

D) P680 は一種の電子ポンプとなりチロシンzから電子を受け取りフェオフィチンaに電子を渡す。

ということだが、これらのプロセスが自動的に進むわけではない。右に行くほど電位(酸化電位)が高くなくてはならない。

そのために他の色素ではなく葉緑素(クロロフィルa)が必要であり、それもP680 という「特殊な状態」に置かれなければならないのだそうだ。

4.いくつかの仮説

光合成細菌からシアノバクテリアが誕生した時、すぐに完成品であったとは考えにくい。幾つもの不連続な変化が起こったであろう。

最初は水を分解するのではなく、二酸化炭素が水に溶けてできる重炭酸塩(HCO3-) を分解していた可能性がある。

シアノバクテリアというのは一種のベンチャー企業であり、生物界の壮大な発展をもたらすには、大企業とくっつかなければならない。それが藻類だったということかもしれない。

藻類はシアノバクテリアを取り込むことで植物となった。そして大爆発的に増加した。葉緑体のエネルギー供給量が有り余るほど潤沢になれば、単細胞生物は他細胞となり、インテグレートされていく。

インテグレートされた細胞の中には、もはや直接的生産過程にかかわらない特殊な細胞、組織、器官というものも登場するだろう。

「量が質を規定し、さらに量から質への転換が起きる」という歴史の弁証法が動き始めた。


三室守さんの他の文献を探そうとグーグル検索したら、お悔やみニュースにあたった。

2011年2月、盲腸がんのため京都市内で死去、61歳。私より3つ下ということになる。現職死だ。惜しい。

 1949年6月   福岡市に生まれる。
 1973年3月   東京大学理学部生物学科植物学課程卒業(まさにあの時代だ)
 1978年3月   東京大学大学院理学系研究科植物学専攻博士課程修了
           学位取得(理学博士)
 1978年4月   日本学術振興会奨励研究員 (東京大学海洋研究所)
 1980年4月   岡崎国立共同研究機構 基礎生物学研究所 助手
 1997年1月   山口大学理学部自然情報科学科 教授(20年助手でやっと山口大学と目立たない)
 2002年4月   京都大学大学院人間・環境学研究科、大学院地球環境学堂教授(やっと本領発揮)
三室さんのいいところは、歴史を意識し歴史に戻るところだ。「歴史の中に答えがある」との確信はロングスパンでは必ず力になると思う。それが色素とマンガンだ。

あとはクロロフィルa がP680 という「特殊な状態」になるということで、何がどう特殊なのか、それはどういう意味があるのか、どのようにしてそれが形成されたのか、というのがポイントになるのだろうと思う。

ちょっと一休みして、知識を反芻する。

これまで動物の定義をして、その後一気に脳の勉強に進んできた。

とくに視覚の動画化と処理の問題に重点を置いて学んできた。

その中で視覚は動物の中枢的・本質的機能であることを確認してきた。

ではどうやって動物は視覚という能力を獲得したのか?

ちょうどその時、赤旗に「視覚は視覚のある動物を取り込んだことで獲得された」という記事が載って、「それはないでしょう」という話になった。

細胞内小器官としてミトコンドリアというのがあって、これはリケッチア由来の器官であることが確かめられている。

しかしこれは生物が単細胞であった時代に形成されたものであって、多細胞生物になれば、自己対非自己の関係ははるかに厳密なものとなるので、ありえない話だろうと思う。

その時に葉緑体の話が出てきて、葉緑体も元々はバクテリアの一種であり、藍藻と共生することにより植物の起源になったということが分かった。

ここから話は脱線していく。

葉緑体は光をエネルギーに変換する装置を内蔵しており、これは視覚の起源ともなりうるのではないかと考えたのである。

まだあまり勉強していないのではっきりしたことは言えないが、視覚というのもある種の色素が光を受けてイオン変化に転換し、これを酵素系が信号として増幅するという過程を経て脳内刺激になるようだ。

この機序は葉緑体における光合成の過程(とくに初期過程)とそっくりではないか、というのが思いつきである。

ということで、目下光合成の初期過程を勉強中であるが、なかなか難しい。しかしこの思いつきは確信に変わりつつある。

http://www.iis.u-tokyo.ac.jp/Labs/wata_lab/photosynthesis.html

というページに「光合成の初期過程」の説明がある。

良く整理されているが、決して分かりやすいとはいえない。

光合成とは

1.光合成とは、「光エネルギーを利用して有機化合物を合成する生理作用」である。

2.光合成には酸素発生型と酸素非発生型がある。(後者は略)

3.酸素発生型光合成の過程は、初期の明反応と後半の暗反応の過程に分かれる。(後者はウィキではカルビン反応と言われたもの)

ということで、明反応の説明に入る。

明反応とは

明反応は初期過程ともいい、光エネルギー(物理エネルギー)を化学エネルギーに変換する。

この反応はチラコイド膜上で行われる。膜上にはPSⅠとⅡという二種類の光化学系(PS)があり、受けと出を担当している。

受けの担当はPSⅡであり、PSⅡを取り囲むようにアンテナ複合体(Light harvesting complex)が形成されている。これをLHCⅡという。

PSⅡで造られた電子エネルギーは、シトクロムb6/f 複合体という装置(電子伝達系)を経由して、出の装置であるPSⅠに転送される。

まぁ、空港のトランジットみたいなもので、入国して、動く歩道に乗って、出国ロビーに移動するようなものだ。

明反応を図示すると

そこで、全過程の肝はPSⅡ内部での電子の動きということになる。そこだけ切り取って図示したのが下の絵。

LHC2

左の黄色い稲妻型の矢印が光だろう。酸素発生複合体というのがチラコイド内腔にあって、ここで水が電気分解されているようだが、そこから赤い矢印で酸素か水素かのどちらかがPSⅡに送り込まれるようだ。

そしてこれが光と反応してP680という物質を作るらしい。

ただ絵を見ただけではこの程度しかわからない。

光化学系Ⅱの過程

本文に戻る。

光化学系は2つの部分から構成される。、

1,「反応中心」: 光励起反応と続く電子移動反応を進行させる部分

2,「アンテナ系」: 光捕集機能を担う集光性色素複合タンパク質(LHC)

この内、アンテナ系に多数のクロロフィルなど色素分子がふくまれる。基本的にはアンテナ系がなくてもコアだけでも反応は進行するのだそうだ。(ラジオと同じだね)

さぁここからが難しい。

反応中心コアでは一次電子供与体(PS IではP700PS IIではP680と呼ばれる)が光励起を担い、励起によりエネルギーが高められた電子が隣の色素分子(電子受容体)に送り込まれ(これを光電荷分離反応という)、さらに一連の電子伝達鎖を電子が伝っていくことで反応が進行する。

一次電子供与体とは何だ、光励起とはなんだ、電子受容体とは何だ、光電荷分離反応とは何だ、電子伝達鎖とは何だ???

とにかく読み進めることにしよう。

電子伝達は、酸化還元反応の連なりである。電子の放出が酸化、電子の受容が還元である。

物質間の電子のやりとりは連鎖を形成する。これが電子伝達鎖である。

電子伝達系を電子のやりとりで並べるとZ字を形成することから、ゼットスキームと呼ばれる。

以上で文章は終わりだ。何だこれは。

肝心なところが素通りされている。伝達はいいが、何が伝達されるのか、その伝達すべき物質はいつどこで作られたのかが最大の問題だ。

上の図で言えばP680がフェオフィチンになって、さらにQA→QBとなり、PⅡからシトクローム系へと引き渡される過程だ。

さらに、ズラズラと並べた専門用語についても説明はされないままだ。このままでは解説の体をなしていない。

「動物は植物から分離し進化した」というのは、これまでの私にとって一種のセントラル・ドグマであった。

これまでは、なんとなくうまくそれで説明できていた。

しかし単細胞生物の世界に入ると、この確信は大きく揺らいでいる。

単細胞の世界では、他の生物を“ミトコンドリア化”することは至極普通に行われている。

生物学的ユニットとしての生体という概念が揺らぎかねない。

もう一つは単細胞生物の多様性である。こんにち我々が見ている単細胞生物は生命の発展の根幹としての単細胞生物ではない。

そういう生物があったとして、それが気が遠くなるほどの歳月を経て、状況に適応した特殊系、いわば完成形としての単細胞生物である。そこには進化だけではなく、退化、奇形化というものもふくまれている。

少なくとも、ミドリムシを単細胞生物の代表として見るような「単細胞的」な見方を捨てなければならない。

例えば、細胞としての基本的要素を持たないリケッチア、さらにハダカのDNAあるいはRNAにまで身を削ぎ落したウィルス等は、生命の起源を考える上での撹乱要素である。

それは自家栄養装置を削ぎ落した「不完全な生命」としての動物にも共通する。

今はもう少し問題を具体的に考えなければならない。

現在の生物世界は、原始的な生命から種子植物に至る生命の発展過程を、根幹と捉えなければならないだろう。

その過程で、地球環境の変化に応じてさまざまな多様な生命のあり方が出現し、枝葉として、寄生的存在として多様性を形成している。

我々はこの生命の多様性を貫く幹を見つけ出さなければならない。そしてその幹に寄り添う形で発展したもの(寄生体)としての、動物の発展史を叙述しなければならない。

こういう観点を踏まえるならば、「(単細胞的発展レベルにおいて)動物(的なもの)は植物(的なもの)から分離し、進化した」というドグマは依然として有効だろうと思うし、むしろその確信は強化されたと考えたい。

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