鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

2015年03月

土曜の赤旗の4面、いつもは流していくところだが、「平成の大合併失敗」という記事がふと目に止まった。

参議院で「国と地方の関係(これからの地方自治)」という参考人質疑が行われた。

ここに出席した東大名誉教授の西尾勝さんという人が注目すべき発言を行っている。記者は、この発言に相当感心したらしく、長文の引用を行っている。

当時は平成の大合併を推進する立場だったが、結果を見ると大失敗だったと言わざるをえない。それぞれの地域の自治を守る方策を考えるべきであった。

さらに発言は続く。

自分自身は道州制について慎重論者であり、現在国会で議論されている道州制議論には反対だ。

何でも自治体に権限を下ろせばいいというものではない。国に残す権限と地方自治体に下ろす権限の分け方をしっかり考えるべきだ。

「自治体数が多すぎるのでさらなる合併を進めよう」という議論があるが、それは非現実的だ。それは平成の大合併の失敗を繰り返すことになる。地方自治体からの反発は避けられない。

というのが、記事に載せられた西尾発言の大要だ。

正直なところ良く分からない。

ただ推進論者だった人が、自ら「大失敗」と総括するのは相当深刻なことだろうと察しはつく。

ウィキペディアで調べると、この西尾さんという人、かなりの大物のようだ。

私より8つほど年上、1974年東京大学法学部教授。退官後、地方分権改革推進委員会委員。第27次地方制度調査会副会長。第30次地方制度調査会会長。2007年日本学士院会員。

この経歴から考えると、地方分権推進派であり、その流れの上で「平成の大合併」も支持したが、結果的には間違いだったと反省していることになる。


発言をチェックしたところ、なんと内閣府のホームページに長大なインタビュー記事が掲載されている。それも平成25年9月30日という最近の記事だ。

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中身は稿を改めて…

記紀の3つの系統

古事記と日本書紀を作成する根拠は、まず大和王朝としての国史を作ることである。それは国家としての成立宣言でもある。

我々の常識から言うと、ずいぶん遅い。法隆寺や飛鳥寺が建ってからすでに1世紀を経過している。倭王武の上表文からはすでに2世紀である。当時弱小国の新羅でさえ550年ころには最初の国史を編纂している。

国史を編纂する力がなかったとは思えない。

むしろ歴史的事実がありすぎて、それをどう取捨選択していくか、それをどのようなイデオロギーのもとに方向付けていくのかが面倒で遅れたのではないだろうか。

おそらくそこで稗田の阿礼が登場したのであろう。おそらくは祝詞なのだろうが、それを朗唱させた上で文字に起こしていく。

これで天皇家の血筋が分かった。それじゃこれを骨格にしながら、イロイロ肉付けしていこうじゃないか、という作業過程なのではないだろうか。

古事記の中核は神武の東征だ。これで天皇系の由来が分かった。その後の歴代の天皇名も明らかになった。

これが第一の系統だ。

これで建国の経緯までは遡れた。しかし神武は大和にとってはたんなるよそ者の侵入者にすぎない。それでは王権としての正統性は語れない。

そこで神武の正統性を語るべく、神代から説き起こしていくことになる。それは天孫族共通の神話だ。

その中核となるのが天照大御神だ。それが北方系の神話、少なくとも朝鮮半島より北の神話(おそらく扶余系)であることは間違いなかろう。

こうして天皇家が大和を中心に広範な地域を統べる倫理的根拠が確立された。ただし一介の海賊上がりにすぎない神武王朝には語るべき神話もあまりなかったから、同じ天孫系のよしみで出雲神話から借用している。

これだけだったら話は、それなりに簡単だったのだ。神武以来の歴代天皇の説話はいろいろあるわけだから、それを粛々と記載していけばよい。これなら蘇我馬子とともに焼けた資料で足りたかもしれない。

これが第二の系統だ。

ところが、大和王朝が知らなかった日本をめぐる歴史的事実が次々と明らかになっていく。中国の史書、百済などの文書が取り上げられてくると、それをいちいち整序統合していかなければならない。

一つ一つを何某天皇に比定していくわけだ。こういうわけで奇態な歴史書か造られるわけだが、それは我々が読むときに切断すればよい。厄介なことには、至る所に接着剤(創作)がくっつけられているから、そこの判断がなかなか難しい。

これが第三の系統だ。

ここまでは推古以前の話。それは一応、562年の任那滅亡をもって一段落する。

2つのマイルストーン

ここまでは皇統譜と出雲神話のつぎはぎに、国外文書でパッチを当てていく手法で説明できる。

これからが一段と難しくなる。物部対蘇我の争いから大和王朝の自前の歴史が始まるからだ。(あるいは継体+物部・大伴連合の皇位獲得まで遡るかもしれない)

まず2つのマイルストーンがある。一つは飛鳥寺の建設であり、ひとつは遣隋使の派遣と裴世清の来訪である。

いずれも、大和王朝が主体となる歴史的行為だ。それらは考古学的にも美術史的にも確認できるし、中国側文書でも確認できる。

中国側の使者、裴世清が難波まで到達したことも間違いなさそうだ。それは625年のもう一人の中国からの使者によっても裏打ちされている。

裴世清の行程は、もうひとつの事実、九州王朝が消失していることも間接的に示している。裴世清は行きも帰りも九州を素通りしているのだ。

もちろん、九州の勢力が半島方面に影響力を保持していた可能性はあるが、対中国との関係で日本を代表する国家組織としては存在していなかったことになる。

対外関係はその後も眉唾状況が続く

国内問題は、この後の記述については基本的には信頼していいのではないかと思う。

ただ対外関係は依然として信用出来ないところがある。朝鮮半島に関してはすでに別項で指摘した。

隋との関係もおかしなところがある。「日出処の天子」は二度目の遣隋使の時の文書だが、初回の多利思比孤文書は奇怪で呪術的で、同じ人物の書いたものとは考えにくい。

しかも隋書には、多利思比孤後も日本書紀に書かれていない倭国からの使節が登場する。どうも倭国王がもう一人いるような気配を感じるのである。

6世紀末の三度の新羅侵攻作戦

私はすべてフィクションとして片付けたが、吉川さんは実在の事件として描いている。

一応、ウィキペディアなどに寄りながら、時系列で挙げておこう。

591年 新羅との任那をめぐる交渉が不調に終わり、大和王朝は2万の兵を北九州に送った。しかし戦争には至らなかった。

600年2月 新羅と任那(伽耶の残存勢力)の争いが始まる。

2月 大和(倭)王朝は境部摩理勢(蘇我馬子の弟)を征新羅大将軍、穂積祖足を副将軍とする遠征軍1万人余りを新羅に送った(摩理勢は名目のみ)。遠征軍が5つの城を攻め落としたところで、和平が成立した。

600年 遠征軍が撤収すると、新羅はすぐさま伽耶支配を回復した。

600年 倭王多利思北孤、隋に使節を派遣。これは隋書にのみ記載があり、日本書紀に記されていないという謎の遣隋使。メッセージも謎めいている。

601年3月 高句麗と百済に使者を派遣。任那救援の活動を行う。

601年9月 新羅のスパイが対馬に上陸したが捕らえられる。

602年2月 来目皇子(聖徳太子の弟)が「撃新羅将軍」に任じられる。

4月 来目皇子、2万5千の軍を筑紫国に結集し渡海準備を進める。

6月 来目皇子、病を得て新羅進軍を延期。

602年 百済が新羅を攻撃。

603年2月 来目皇子が筑紫で病死。

4月 来目皇子の後任として当摩皇子(異母兄)が任命される。彼も妻の死を理由に飛鳥に戻り、作戦は中止される。

603年 高句麗が新羅を攻撃。


見るからに荒唐無稽である。10年間の間に三度にわたり、1~3万の軍勢を動員し、一度は現地まで出陣し、一度は少なくとも数ヶ月間北九州に釘付けにした。それだけの国力があるとは思えないし、あったとしても国情不安を招くこと必定である。

司令官の嫁さんが死んだから戦争を止めるというのも、どう考えてもありえない。司令官は2万5千の命を預かっているわけだし、必要なら「死ね」と命令する立場にあるわけで、朝野球の監督ではない。

ただし、「当摩皇子」自身がスポンサーであったとすれば、話は別である。つまり来目、当摩の兄弟が天皇家とは関係なしに作戦を企画したのなら、それは大いに有り得ることだ。

もし数は別として、類似の事実があったとするならば、それは九州王朝の残党による仕業ではないか。それは百済滅亡時に日本に持ち込まれた文書に記載されていたのかもしれない。


飛鳥寺の6世紀末の建立を事実として承認するかどうかは、大和朝廷の成立史を考える上で決定的な鍵となっている。

金石文、ないしそれに匹敵するものとして、吉田「飛鳥の都」では以下の3つが上げられている。

1.塔露盤銘: 露盤銘というのがどんなものかしらないが、元は金石文だ。しかしそれはすでに喪失しており、「元興寺縁起」にその中身が書かれている。

二つ問題があって、ひとつは「元興寺縁起」が日本書紀よりも20年ほど後に書かれていて、日本書紀を参考にした可能性があることだ。そしてもうひとつは文を正確に写しとっているかどうかだ。飛鳥寺より100年以上後に立てられた起法寺の露盤名ではそこが問題となっている。

とはいえ、露盤銘の文章が「おおむね創時建に述作されたものである」ことについては確認されているようだ。つまり日本書紀は露盤銘を参照して書かれた可能性が強いということになる。

2.丈六釈迦仏光背銘: これは寺の建築より後、仏像が安置された時にそこに書かれたもののようだ。これも現物は存在せず、「元興寺縁起」にその中身が書かれている。

欽明天皇の時代に百済王が仏法を薦めた。天皇は蘇我稲目に命じ、法を修行させた。この後仏法が大倭に始建される。

用明天皇は魔眼を捐棄(エンキ)して、佛法を紹興した。推古天皇と聖徳太子、蘇我馬子がこれを推進した。

飛鳥寺の建設を知った高句麗の大興王は黄金を寄付した。大隨國使の裴世清がこれを持参し、来訪した。

これについては、露盤銘に比べると確実性は低い。しかし「縁起」が日本書紀の20年後とすれば、そこに引用された「光背銘」は日本書紀よりは古いと考えるのが順当と思える。

3.観勒の名が記された木簡

飛鳥寺遺跡から大量の木簡が発見され、その中に観勒の名が記された木簡があった。観勒は日本書紀に登場する人物で、百済から602年に来訪し、暦法・天文などを教えたという。


これらの資料から総合すると、600年前後に飛鳥寺が建てられたことは間違いない事実と思う。そしてこの件に関する日本書紀の叙述も間違いないものだと思う。

ここが、時空を過去に広げていくための揺るぎない支点となる。

我々は少なくとも欽明天皇までは大和王朝に実在した人物として遡っても良いのではないか。

彼らは任那滅亡と同時代を生きているはずだが、まったく無関係だ。彼らは文字を持たなかった。外国との接点も全くない(九州王朝との接点はあっただろうが)。そこに仏教をその一部とする外国文明が初めて飛び込んでくる。

それはなぜだろうか。九州王朝がなくなってしまったからだ。だから百済は大和王朝と接触せざるを得なくなったのだ。

かつて九州王朝があった場所に、今あるのは、大和王朝の出先機関だけ、ということになれば他に選択肢はないだろう。どうしてそんなことになってしまったのだろう。それは分からない。

7世紀の年表(3月5日 改訂)

まず年表を作ってみて、ネット情報で増補している内に、深刻な疑問にぶつかりました。

白村江の戦いは、本当に日本にとって決定的な戦争だったのか という疑問です。

たしかに朝鮮半島にとっては決定的な転機となっていますが、それはすでに661年の百済の滅亡によって基本的には済んでいる話ではないでしょうか。

その残党が散発的に抵抗を続けていたが、それも最終的に白村江で根絶やしにされたということではないでしょうか。

もちろん白村江の戦いに日本軍が参加したことは事実でしょうが、どれだけ本気だったかは疑問です。

一般的に考えて、すでに百済は滅亡しているわけで、そこに中国と正面対決をしてまで首を突っ込むのは、誰が考えても不適切です。

もう一つは日本軍の軍勢が誇大宣伝ではないでしょうか。日本書紀に書いてある通りの軍勢が上陸していれば、もう少し戦況に変化があってしかるべきです。三国史記や唐書を見る限り、そのような気配は感じられません。

このような誇大宣伝、ないし虚偽の大軍の記載は、6世紀の半ば頃から何度となく日本書紀に現れてきます。しかしそれを裏付けるような朝鮮側文書の記載は認められません。

もう一つ、将軍連の中に上毛の君とか筑紫の君とかが出てきますが、このような位階が660年にまだ存在していたのでしょうか。

ということで、怪しげな記載は全部削除することにしました。使いを送ったことについては残し、使いを受け入れたことについては削除します。(向こう側に対応事実があれば残す)

本日の赤旗に掲載された、帯広での志位委員長の演説「TPP、農協つぶしストップ―この願いを日本共産党に」は、わざわざ一面を使って報道しただけあって、とても内容豊富である。
とくに注目されるのが、「農協つぶしの3点セット」という分析。
これは現在の全中つぶしが究極の目的ではなく、その次に3点セットが用意されているということだ。
3点セットとは、
1.全農つぶし(農業つぶし)
これまで農産物の共同販売を行ってきた全農を株式会社化する。これは例の “独禁法例外規定” 外しだ*。農業は仲買人の買い叩きにさらされることになる。
2.JAバンク・JA共済つぶし(農民つぶし)
現在単位農協が行っている金融事業と共済事業を分離する。農協から切り離されて生きていけるわけはないから、結局これらは潰れることになる。一般金融機関が農民に融資するわけはない。
3.准組合員外し(農村つぶし)
兼業農家を農協から排除し、農村での一般利用者を排除する。これで中小農協の息の根は止まり、辺縁部や高齢化農村は無人化する。
ということで、真の狙いは農協つぶしではなく、農業つぶし、農民つぶし、農村つぶしの3点セットだということだ。
ただこの辺はほとんどが初耳の話なので、少し知識の裏打ちが必要だ。

*2015年02月16日
中国の「三農問題」については,「農民は本当に貧しい、農村は本当に苦しい、農業は本当に危ない」(李昌平)との訴えを参照されたい。


九州王朝説の一番の弱点は歴史上何の跡形もなく消えてしまうことである。「そんなことはありえない」とすれば、九州王朝をめぐるいくつもの話は、その瞬間に空中楼閣と化してしまう。

絶滅させるほどの大虐殺があったとも思えない。ではその家臣たちはどこに行ったのか。

530年前後に物部・大伴連合が筑紫の君磐井をやっつけたことになっているが、日本書紀は明らかに矛盾している。継体天皇が都に入れず淀川ベリでウロウロしている時代だ。九州なんかに手を伸ばしている余裕などないはずだ。

大和王朝ではない誰かが筑紫の君に反旗を翻して、打倒してしまったと考えるのが自然だ。それは誰なのか?

日本書紀の記述は百済本紀からの盗作と改ざんに他ならない。この部分だけがいやに詳しく、異常に正確である。あたかも当事者のようですらある。

ひょっとして犯人は百済(あるいは任那)ではなかったか。

倭王武の上表文は、「日出処の天子」より100年以上も前なのに、はるかに上等だ。これだけの文章が書ける組織であれば、相当の文書類があったはずだ。それがまったく見つからない。

当時の大和王朝なら文書なんか分かるはずもないから、焼くか埋めるかするしかない。それなら相当の散逸文書が見つかるはずだ。それがない。

これだけの国家を支えた人材も雲散霧消している。これも百済が一切合切連れ去ったとするなら、説明がつく。

そんなことが百済に可能だったか。多分出来たと思う。北を高句麗に抑えられている百済は、海上を経由して中国と交流するしかなかったはずだ。であれば、対馬海峡と玄界灘を合わせたよりはるかに長い黄海をわたる技術は持ち合わせていたはずだ。問題は必要性とやる気とそろばんだ。


まぁ酒飲みの法螺話にすぎないが…

魏志倭人伝についてはすでに語り尽くされた感があり、それが九州王朝を指すこともほぼ確定された認識となりつつある。

しかしそれが倭の五王を最後にぷっつりと切れ、「日出処の天子」まで消息がわからない。その間にあったのがはっきりしているのは筑紫の君磐井の反乱 と任那の滅亡であるが、前者については日付が特定できないし、磐井が誰と闘ったのかも不明である。後者においては新羅に抵抗したのは誰だったのかが分から ない。

九州と朝鮮半島南部の動乱とは別に、近畿では大和王朝が着実に力をつけていった。そして「日出処」が堂々と名乗りを上げるまでに、九州王朝は滅亡している。

そして大和王朝の求めに応じて裴世清が来訪した。このとき大和王朝はくっきりとその姿を表すのである。

と、ここまでが私の認識だった。

しかし、その後の勉強で、実は裴世清来訪から日本書紀作成までの100年も、決して確定されていないことがわかった。

そこで吉川貴司「飛鳥の都」(岩波新書)に沿って、勉強してみることとする。当然日本書紀の記述が中心となるのだろうが、できるだけ日本書紀には眼をつぶりながら、中国・朝鮮側の記述を追ってみたい。

いわば日本書紀を無視した日本史年表である。(なおウィキペディアとは相当の異同がある)

中国側文書で確認される「大和王朝の世界史への登場」は裴世清の紀行文であるが、それ以前に対外関係として確認され、事物の裏付けのある事実がある。それが飛鳥寺の建立である。

したがって、ここを起点にある程度遡行することは可能である。物部政権から蘇我政権への移行をもって、日本を対外的に代表する権力としての大和王朝の確立と見て良いのではないか。

時代区分としては、むしろアジアの動きをメルクマールにしたほうが良いと思う。

おおまかに言えばプレ随・唐時代、高句麗vs隋時代、高句麗・百済vs唐・新羅時代、新羅vs唐時代である。これを一言で言えば“朝鮮をめぐる世界戦争の時代”といえよう。この戦争に、新参者の大和王朝は半ば当事者として関わり、翻弄された。

それと並行して、もっと長いスパンで中国文明の積極的受容が一貫した流れとしてあった。結果として2つのことが確認されたのではないか。一つは外国の紛争にはかかわるな、ということであり、もうひとつは中国の文化を取り入れつつ、国力を強化することだ。場合によっては中国と一戦を交えるほどに…

7世紀の年表(3月5日 改訂)

まず年表を作ってみて、ネット情報で増補している内に、深刻な疑問にぶつかりました。

白村江の戦いは、本当に日本にとって決定的な戦争だったのか という疑問です。

たしかに朝鮮半島にとっては決定的な転機となっていますが、それはすでに661年の百済の滅亡によって基本的には済んでいる話ではないでしょうか。

その残党が散発的に抵抗を続けていたが、それも最終的に白村江で根絶やしにされたということではないでしょうか。

もちろん白村江の戦いに日本軍が参加したことは事実でしょうが、どれだけ本気だったかは疑問です。

一般的に考えて、すでに百済は滅亡しているわけで、そこに中国と正面対決をしてまで首を突っ込むのは、誰が考えても不適切です。

もう一つは日本軍の軍勢が誇大宣伝ではないでしょうか。日本書紀に書いてある通りの軍勢が上陸していれば、もう少し戦況に変化があってしかるべきです。三国史記や唐書を見る限り、そのような気配は感じられません。

このような誇大宣伝、ないし虚偽の大軍の記載は、6世紀の半ば頃から何度となく日本書紀に現れてきます。しかしそれを裏付けるような朝鮮側文書の記載は認められません。

もう一つ、将軍連の中に上毛の君とか筑紫の君とかが出てきますが、このような位階が660年にまだ存在していたのでしょうか。

ということで、怪しげな記載は全部削除することにしました。使いを送ったことについては残し、使いを受け入れたことについては削除します。(向こう側に対応事実があれば残す)



Wはウィキペディアからの引用


プレ随・唐時代

538年 百済、泗沘へ遷都。百済は475年に高句麗の攻撃を受け熊津へ遷都。これが二度目の遷都となる。

562年 新羅、大伽耶を滅ぼし、伽耶全域を支配下に収める。また漢江流域にも進出し、中国大陸と直接の外交関係を持つ。

570年 新羅の進出を警戒した高句麗、背後勢力の倭に使者を送る。Wでは、「北陸に漂流した高句麗人が国書を持参していた。これにより国交が開かれた」とある。

581年 楊堅、隋を建国。文帝を名乗る。

587年 蘇我馬子、河内の物部守屋を滅ぼす。継体天皇(530年前後)以来の物部政権が終わり、蘇我政権に移行。翌年に飛鳥寺の建設に着手(完成は596年)

588年 馬子は善信尼らを百済へ留学させる。

高句麗vs隋時代

589年 隋が中国を統一。高句麗と直接対決する。

592年 w馬子、反蘇我の動きを見せた崇峻天皇を暗殺。

595年 高句麗人の慧慈、飛鳥寺建設のため派遣される。20年にわたり聖徳太子のもとで働いたあと帰国。

598年 隋、高句麗に1回目の侵攻。以後4回にわたり侵攻作戦を展開するがすべて失敗。

600年 初の遣隋使を派遣。ただし送ったのは倭のアマノタリシホコであり、大和王朝側には記録なし。

604年 隋の第二代皇帝に煬帝が即位。

607年 第2回目の遣隋使。小野妹子が煬帝に国書を届ける。「日出ずる処の天子」がアマノタリシホコである根拠はない。

607年 煬帝、長城地帯を巡幸し、高句麗に圧力を加える。

608年 隋の裴世清が来航。

608年 第3回の遣隋使。裴世清とともに隋に向かう。

610年 高句麗人の曇徴が来航。

612年 隋の煬帝、最大規模の高句麗親征を行うも失敗。200万人はさすがに大げさだろう。

613年 煬帝、二度目の高句麗攻撃。隋国内での反乱発生により断念。

614年 第4回目の遣隋使が派遣される。

618年 中国全土に農民反乱が発生。煬帝が殺害され隋は滅亡。唐の高祖が即位。

623年 新羅の使節が訪問し、唐の成立を告げる。新羅使節とともに「大唐学問者僧」が帰国。おそらく614年派遣組であろうと言われる。

この後20年ほどのあいだに唐留学組が続々と帰国し、最新文化を広める。おそらく大和王朝は空前の中国ブームで沸き返ったことであろう。これらの留学生は多くが唐-新羅ルートで帰国している。彼らにとって新羅が敵であろうはずがない。

624年 唐の高祖、高句麗と和睦。高句麗王を遼東郡王、百済王を帯方郡王、新羅王を楽浪郡王に冊封する。

626年 唐の太宗が即位する。中国全土が統一される。

627年 W百済が新羅を攻撃。新羅は唐に援助を求める。この時は援助を得られず。

630年 第1回目の遣唐使が派遣される。太宗は高表仁を返使として派遣。新羅使も倭国まで随行させる。

630年 唐が東突厥を滅ぼす。東突厥と連携していた高句麗は、唐の侵攻に備え長城の建設を開始。

東西突厥帝国

7世紀初めの東西突厥可汗国(ウィキペディアより)

632年 唐使の高表仁、難波津に到着。大和王朝の無礼に怒り、天皇と会わないまま帰国。(旧唐書)

高句麗・百済vs唐・新羅時代

642年 高句麗で政変。対唐主戦派の泉蓋蘇文が王位を簒奪する。百済と高句麗が攻守同盟を結ぶ。

642年 百済が新羅に侵攻、新羅の四十余城を攻略。旧伽耶地域を占領。新羅は高句麗に支援を求めるが拒否される。

642年 大和王朝が越の国の蝦夷を攻撃。数千人を支配下に置く。47年には新潟県北部までを支配。

643年 蘇我入鹿が斑鳩宮を急襲。上宮王家(聖徳太子一族)が滅亡。中大兄、中臣鎌足らはこれに深い危機感を抱く。

643年 百済、皇子扶余豊璋を廃太子し、倭へ人質として送る。

643年 唐依存派が中枢を握った新羅は、唐に援軍を乞う。
645年 乙巳の変。蘇我政権が崩壊。新政権は難波を王都とし、儒教的合理主義のもとに中央集権体制を強化。

645年 唐が高句麗に対して総攻撃を開始。Wによれば百済侵攻をも画策しており、このため百済背後の新羅への工作を開始。

648年 唐が新羅支援を約定する。新羅は官制を唐に合わせ変更、独自の年号を廃し、唐の属国となる。

649年 唐の太宗、高句麗制圧を果たせぬまま死去。
649年 新羅の金春秋、日本訪問を終え帰国。これに代わって金多遂が派遣される。

651年 西突厥が唐の支配を打ち破り再興される。

651年 高宗は、百済と高句麗の安堵と引き換えに新羅との和平を命令する。
651年 左大臣巨勢徳陀、中大兄皇子に新羅征討を進言するも、採用されなかった。
巨勢徳陀は元蘇我は重鎮だったが乙巳の変にあたりいち早く寝返り、論功行賞で左大臣にのぼり詰めた。いかにも居そうな政治家。新羅の使者の訪問を受け、新羅が唐に臣従して制度も唐制に改めたと知って追い返したという。
652年 高句麗と百済が新羅に侵攻。唐は新羅支援のため遼東郡に出兵

653年 第2回の遣唐使派遣。ここまで23年の空白あり、相当情勢ボケしていたと思われる。

653年 中大兄皇子、孝謙天皇を難波に残し、飛鳥に戻る。

654年 第3次遣唐使を派遣.「新羅の道を取り、萊州に泊まり、遂に京に着き、天子に拝謁」した。唐の高宗は遣唐使に対し「新羅危急の際には救援するよう」命じたとされる。(日本書紀)。

654年 W大旱魃による飢饉が朝鮮半島南部を襲う。百済義慈王は飢饉対策をとらず、国民の不満を呼んだとされる。
654年 新羅の金春秋、武烈王として即位する。

655年1月 高句麗・靺鞨・百済の連合軍(麗済同盟)が新羅北部に侵入。33城が奪われる。唐は盟約に基づき、営州都督の程名振と右衛中太将の蘇定方らに高句麗攻撃を司令。大和王朝は動かず。
656年3月 百済の義慈王が酒色に耽るのを諌めた佐平の成忠(浄忠)が投獄され獄死。

657年 唐が西突厥を破る。
657年 654年に続き大飢饉。草木はほぼなくなったと伝わる。

658年 唐が高句麗へ3回めの派兵。戦線が膠着したため、唐は百済への迂回攻撃に戦略を変更。

659年 第4次遣唐使を派遣。この遣唐使は「来年、海東を征伐する」計画を秘匿するため、唐で監禁される。
659年 百済が新羅領内に侵入。新羅は唐に出兵を求める。

660年 唐と新羅の攻守同盟が成立。

660年3月 唐が百済討伐の出兵を行なう。蘇定方を司令官とし、副司令官に武烈王の息子の金仁問がつく。唐軍は水陸合わせ13万、新羅も5万を動員。
7月 百済はいったん滅亡。義慈王らは唐に連行される。佐平の鬼室福信らが南部で抵抗を続ける。
大唐平百済国碑が残されている。「外には直臣を棄て、内には妖婦を信じ、刑罰の及ぶところただ忠良にあり」

9月 鬼室の使が大和朝廷に百済救援を要請。大和王朝に人質となっていた百済王子の扶余豊、百済軍の指揮をとるため帰国

660年10月 長安に幽閉されていた遣唐使が解放される。

661年3月 唐の蘇定方軍が平壤の包囲戦を開始。半年後に一旦撤退。新羅の武烈王も作戦に参加するが陣中にて病没。
9月 扶余豊と福信が率いる百済軍、唐軍留守部隊を包囲するが、唐の援軍の到着を見て後退。
661年 斉明天皇、自ら筑紫まで赴くが現地で崩御。中大兄は朴市秦造田来津(造船の責任者)を司令官に任命し軍勢を三半に分け朝鮮半島に派遣。

662年 戦闘は二正面で展開される。北部では唐の派遣軍が高句麗に大敗。南部では唐・新羅連合軍が百済を圧倒。大和王朝は大軍を送ったことになっているが、ほとんど戦況に変化をもたらしておらず、誇大表記の可能性が高い。

663年 百済王権内部にて内紛。大和軍を背景とする扶余豊が現地軍トップの鬼室福信を殺害。

663年8月 百済最後の拠点である周留城が包囲される。救援に向かった倭の水軍、唐の水軍に大敗を喫する(白村江の戦い)

664年 百済駐留の唐軍、大和王朝に使節を送り、「将軍牒書」を示す。大和王朝は回答を拒否(内容不明)

664年 対馬・壱岐・北九州に防人を配備。大宰府に山城を造営。

665年 高宗の勅使が来訪し大和王朝と交渉。戦後処理に当たる。唐使を送るため送唐客使(実質遣唐使)が派遣される。

665年 新羅と百済残党が和親。
665年 唐の朝散大夫沂州司馬上柱国の劉徳高が戦後処理の使節として来日。3ヶ月間にわたり滞在し交渉を行う。帰国にあたり、倭国側は守大石らの送唐客使(実質遣唐使)を派遣した。
665年 高句麗軍の名将泉蓋蘇文が死亡、高句麗王朝内部で紛争が発生。

667年 中大兄皇子、近江大津宮に遷都する。
667年 唐の百済鎮将劉仁願、日本側の捕虜を筑紫都督府に送還。

667年 唐と新羅の連合軍が、高句麗に攻撃を加える。

668年10月 高句麗が滅亡。唐と新羅が全土を掌握。高句麗へ亡命していた百済の豊璋王も、捕らえられ幽閉された。旧百済勢力はその後も散発的な抵抗を続ける。

668年 中大兄皇子が天皇に即位。天智天皇を名乗る。
669年 天智天皇、河内鯨らを正式な遣唐使として派遣。唐との関係の正常化を図る。
新羅vs唐時代

669年 新羅の使節が来朝し、高句麗滅亡を伝える。

669年 唐が倭国を討伐するとの風聞が広まる(遠征水軍の整備が始まったと言われる)。
669年 天智天皇は唐との国交正常化を図り、第6次遣唐使を派遣する。「日本は使を遣わし、高麗を平定したことを賀した」(新唐書日本伝)

670年 高句麗の遺民が反乱。唐の全面支配を警戒する新羅はこれを支援、唐との関係が悪化。

670年 吐蕃が唐の西方に侵攻。唐の百済駐留軍は吐蕃に対抗するため西域に移動。

670年 新羅は唐軍不在の機を受け、百済各地の残党を一掃し、朝鮮半島南部を全面支配。唐は対応できず。

671年 唐水軍がふたたび旧百済領の支配を目指し侵攻。新羅軍はこれを撃退。これにより唐軍の日本侵攻の計画はなくなる。

671年 唐の百済鎮将が大和王朝に使節を送る。対新羅の共同作戦を提起したものと思われる。旧百済勢力、新羅もこれと競うように使節を送る。

671年12月 天智天皇が死去。大友皇子が後継者に指名される。天智天皇の弟の大海人皇子は出家し吉野に隠退。

672年初め 唐皇帝の使者、郭務棕が47隻2千人の従卒を伴い大和王朝を訪問。対新羅戦への参加を求める。

672年6月 大海人皇子が挙兵(壬申の乱)。近江朝廷軍は惨敗し崩壊。文武天皇は親新羅にシフトするが、戦闘へは参加せず。

672年 唐が新羅侵攻作戦を開始。遼東方面から侵攻する。新羅は当初苦戦を強いられる。

673年 大海人皇子が天武天皇として即位。在位中に遣唐使は一切行わなかった。これに代わり新羅との使節の往来が頻繁に行われる。

676年 新羅、唐軍を朝鮮半島から駆逐。唐は平壌を放棄。安東都護府を遼陽へ移す。

676年 唐は吐蕃との対応に追われ、新羅侵攻を断念する。新羅の一人勝ちの形で朝鮮半島をめぐる戦いが決着する。

679年 東突厥が復興。唐勢力を内蒙古から駆逐する。唐は吐蕃、突厥との対応に追われる。

684年 新羅が高句麗残党を掃討し「高句麗国」を吸収する。
686年 新羅、遣唐使を派遣し臣従関係を復活。

694年 W渤海が建国される。高句麗の残党によるものとされる。当初は唐と対立していたが、後に従う。
702年 文武天皇によって遣唐使が再開される。粟田真人らが派遣される。

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