鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

2015年02月

溝口優司「アフリカで誕生した人類が日本人になるまで」(SB新書 2011)

猿人の部分の抜き書き

1.バラントロプス

バラントロプスはアウストラロピクテスの後期と重なって生存していた。草食に適応した骨格を獲得し、160万年間にわたり生息した。

しかし彼らの生活はほとんど食べることに費やされた。栄養価の低い“粗食”に完璧なまでに適応しまったがゆえに、環境の変化に対応できなくなって絶滅した。

本にはこれだけしか書いてない。もう少し調べておく

ウィキペディアの記載

パラントロプス (Paranthropus) は、東アフリカと南アフリカに生息していた化石人類の属である。パラントロプスとは、「人のそばに」という意味。

200~120万年前にかけて生息した。かなり長期間、後期アウストラロピテクスから初期のホモ属と同時期に生息していたが、100万年ほど前に絶滅したと考えられている。

後期アウストラロピテクスとは頑丈型として区別される。発達した顎と側頭筋を持ち、堅い食物を摂取する方向に進化したと思われる。

同種ではないにしてもアウストラロピクテスの親戚筋であるのは間違いないようだ。

2.ホモ・ルドルフェンシスが最初のホモ属?

パラントロプスで検索しているうちに美しい図を見つけたので転載する。

a.jpg

この種の系統図は、書く人ごとに違うので大体の流れという感じで…

パラントロプスがさらに三種に分けられているなど、けっこう細かい。

この絵で見るとA.アファレンシスがA.ガルヒに、そしてホモ・ルドルフェンシス→ホモ・ハビリスという流れになっている。ルドルフェンシスとハビリスの関係は、リーキーの逸話のとおりだ。そうすると問題はガルヒだ。

3.アウストラロピクテス・ガルヒ

ウィキペディアによると

1996年にエチオピアで発見された。脚が長く、石器を使った形跡がある。

当初は現存する人類の直接の祖先であると考えられ、アウストラロピテクス属とヒト属の間の最後のミッシングリンクであると思われた。

しかし現在では、他のアウストラロピテクスよりは進化していたとしても、ホモ属の競争相手の一つに過ぎなかったと考えられている。

ついでにもう一つ、2008年南アフリカで発見されたアウストラロピテクス・セディバ。こちらは180万年前とされ、発見者はこれがホモ属の直接の祖先だと主張している。

これを紹介した記事には以下の脚注がある。

(発見者は)古人類学にかける情熱は人一倍だが,スタンドプレーを好む研究者でもあり…(彼の)提唱した学説は,多くの研究者からは支持されていない,という現状もあるようです。

けっこう、そういう世界なのだ。

4.アウストラロピクテス

ウィキペディアのアウストラロピクテスの項目を読むと、また微妙に違っている。(この項はかなり異端チックだ)

以前は最も古い人類の祖先とされていたがアルディピテクス属の発見により、その次に続く属となった。(この記述そのものが古いのかサヘラントロプスには触れられていない)

約440万 - 約390万年前にA・アナメンシスが、約390万 - 約300万年前にアファレンシスが現れ、約330万 - 約240万年前にA・アフリカヌスに進化した。

この属からパラントロプスと、ホモ(ヒト属)最初の種ホモ・ハビリスが進化したと考えられている。

ほぼ古いものから新しいものへ。
    アウストラロピテクス・アナメンシス †Australopithecus anamensis
    アウストラロピテクス・バーレルガザリ †Australopithecus bahrelghazali
    アウストラロピテクス・アファレンシス †Australopithecus afarensis
    アウストラロピテクス・アフリカヌス †Australopithecus africanus 模式種
    アウストラロピテクス・ガルヒ †Australopithecus garhi
    アウストラロピテクス・セディバ †Australopithecus sediba

ふーむ、ガルヒの次もあるんだ。しかしアフリカヌスからホモ・ハビリスに行っちゃうんじゃ、ガルヒとセディバは立つ瀬がないな。それにアフリカヌスからパラントロプスが分岐したというのも、時期的には遅すぎるのではないか。そもそもアフリカヌスという種は認められているの。

5.アウストラロピテクス・アフリカヌス

ということで、アウストラロピテクス・アフリカヌス。

南アフリカの4箇所で、1924年から92年にかけて見つかっている。アウストラロピテクスと名付けられた元祖である。

2-3百万年前の鮮新世に生きていたと見られ、アファレンシスよりは新しい。

新しいからといって、こちらがホモ属につながった根拠はない。(そもそもホモ・ハビリスがホモ属の祖先かどうかも確証はない)

6.アナメンシスとバーレルガザリ

こうなればついでだ。アナメンシスとバーレルガザリもチェックしておこう。

アウストラロピテクス・アナメンシス

1995年、ミーヴ・リーキーがケニアで発見。400万年前に生息していたとされ、アルディピテクスからアウストラロピテクスへ移行した形跡が伺える。

アウストラロピテクス・バーレルガザリ

チャドで見つかったということが話題。頑丈型猿人に似るという。

7.アルティピクス

リーキーと並ぶもう一方の旗頭ティム・ホワイトらは、92年にアルティピクス・ラミダスを見つけている。発見者が日本人(諏訪元)だったため、日本ではわりによく知られている。

アルティピクスの仲間は他にも見つかっていて、現在ではアウストラロピクテスに先行する猿人の集団に定位されている。

その諏訪さんの言葉

人間の進化というテーマは、ある意味で誰でも物語を作れてしまうところがあります。みんな自分のことなので、けっこう好きで詳しいですから。研究者も、うっかり安易な物語を作ってしまうこともある。


8.サンブルピテクス

というのもある。京都大学チームがケニアで1982年に発見したもの。950万年前と言うから、チャドのサヘラントロプスより古い。もう猿人ではなく、類人猿とヒト科の分岐部に位置するとされる。

82年といえば猿人発掘史では古いほうだし、日本人の発見ならばもう少し有名でもいいと思うのだが。何か事情があるのだろうか。

調べたところ、類人猿の起源については非アフリカ説が有力なようだ。非アフリカ派はサンブルピテクスは共通祖先の系統にはつながらないとしている。


9.ケニアントロプス・プラティオプス

もう終わりかと思ったら、変なものが出てきた。

あのリーキーのチームが1998年にケニアで見つけた。

年代は約330万年前。顔面を含む頭骨、歯などが残っている。顔が非常に平らで、「顔の平らなケニア人」と名付けられた。

リーキーは、プラティオプスの顔面の特徴は、他の猿人とは異なりホモ・ルドルフェンシスと似ているので、他の猿人とは独立してヒト属に続く系統であると主張している。

ようするにアウストラロピクテスとは別系統だ。


構造主義年表を書いていて気づいたのだが、これは結局フランス共産党の没落の歴史なのではないか。
アルチュセールの項目を記述していてそう思った。
44年10月にパリが解放されたとき、フランス共産党の栄光はその頂点に達した。
フランスを代表する指揮者デゾルミエールは、共産党に指導されたレジスタンスの中心人物でもあった。彼が集会で誇らしげにインターナショナルの指揮をとっている映像がYouTubeで見ることが出来る。
ナチとビシー政権についたものはことごとくパージされた。シャネルのように汚い経歴を隠して生き延びた連中もいたが…
知識人のほとんどは共産党員かそのシンパだった。
共産党の指導者はスターリン主義者でソ連盲従主義だった。彼らはハンガリー事件もフルシチョフのスターリン批判も頬っかぶりして生き延びようとした。
ロシア人はフランスに対して強烈な文化的コンプレックスを持っているから、少々のことは大目に見た。
こうしてフランス共産党は「ソ連共産党の長女」としての地位を享受しつづけた。
共産党のシンパたちも個々の課題では多少違いがあっても、同伴者の位置を保ち続けた。
そこには公認の「弁証法的唯物論と史的唯物論」があり、足らざるところは独特に変形されたヘーゲル弁証法が補完した。ただ党の中核は労働者部隊であり、知識人には多少の“わがまま”は許されていたが。
レヴィ・ストロースの親族論は現代数学で華々しく縁取られているとはいえ、文化人類学の一論文にしか過ぎない。それが、というより彼が脚光を浴びたのは、むしろサルトル批判のためだったのではないか。
その批判は客観的に見て相当筋違いで、難癖をつけているに等しい。にも関わらずサルトルがグダグダと腰砕けになるのは、それが近代ヨーロッパ批判という衣をまとったスターリン批判だったからではないか。
ご本尊は耐えられても、同伴者にとってこの批判は致命的だ。しかもサルトルは第二のスターリンを求めて毛沢東に接近することになるわけだから、ほとんどサルトル側の自滅だ。
これが第一ラウンド。
第二ラウンドになって、本家アルチュセールが登場する。サルトルなら素人のレヴィ・ストロースでも奇襲できたが、共産党とマルクス主義を相手にするには荷が重い。
アルチュセールは構造主義の擁護者として登場し、スターリン批判をさらに徹底しようとする。そのために相当激烈な議論を展開するが、この「客観的唯物論」は弁証法の否定という重大な問題をはらんでおり、思想的な「自爆テロ」となる。
そこに持ってきてカルチェラタンが勃発する。構造主義はその無能ぶりをさらけ出す。フォイエルバッハのテーゼ、「世の中を解釈するのではなく、肝腎なことはそれを変革することだ」という議論こそ、構造主義の最も忌み嫌うところだからだ。(岡本雄一郎さんの「フランス現代思想史」の帯には「いま世界を考えるために」と書いてあるが、我々にとっては「いま世界をどうするか考えるために」であろう)
共産党はソ連の意も受けて、ドゴール体制を支持し秩序回復に動き出す。ただし、このへんの動きは日本のトロツキストへの対応と重ねあわせては困る。日本共産党はソ連や中国の共産党、要するにスターリニズムと闘いながらトロと対峙したのだ。
アルチュセールはこの時期スターリニストに回帰する。「プロレタリア独裁」も丸ごと飲み込む。ソ連のチェコ侵入も黙認する。ある意味では無残である。
結局、69年にフランスで起きたことは戦後進歩思想の崩壊である。フランス共産党は道徳的権威を失い、構造主義は現状変革への無効性を暴露され、後に思想的混沌だけが残った。
若者は仕方なしに構造主義の残滓をかき集めポストモダンを創りだした。そこには何の緊張感もなくただ言葉だけが踊った。フォークソングがニューミュージックに変わっていくようなものだ。歌には世界各国の洒落た和音やコードが付けられ、洗練されていくが、曲の意味はますます失われていく。
そして最後にはその無内容さが暴露され一巻の終わりとなる。
こんな感じかな。

構造主義を年表化しようとするのは、まさに反構造主義的な作業でしょう。


1906年 ソシュール、ジュネーヴでの講義を開始(講義録の発刊は16年)。ソシュールの言語学はすでに論じている。一言、シニフィアンsignifiant(聴覚イメージ)とシニフィエsignifie(概念)は、漢字のつくりと偏のことである。偏が意味で、作りが音である。たいしたものではない。

1935年 ブルバキ・グループ、「公理を満たす数多くのモデルの全体により、その公理が提示 する構造を把握する」ことを提起。3つの母構造(代数的構造、順序的構造、位相的により全数学モジュールを構造(システム)に従属させようとする。(…と書いては見たが、さっぱりわからない)

1949年 クロード・レヴィ=ストロース、「親族の基本構造」を発表。婚姻体系の「構造」を説明する。自覚的な意識や主体性に、いわば、無意識の秩序が先行していることを示す。ブルバキの方法論を応用したことから、方法論的特徴(かっこいい)が注目される。

ピアジェ、発達心理学に抽象代数学を持ち込む。構造主義者の一人とされる。

1955年頃 ラカン、精神分析の手法として脱人格的接触を主張。難解な言葉を吐く変わり者の精神分析医。

アルチュセールはラカンを評価していたが、精神分析については信じていなかったようだ。48年教え子のフーコーが自殺をはかった時、「精神分析によってではなく、仕事によって病気を乗り越えるように」とアドヴァイスしたそうだ。フーコーも後に精神分析を批判しているが、これは後出しジャンケンに近い。

1960年頃 構造主義経済学が登場。発展途上国の経済構造は先進国とは異なるものであり、それゆえに経済格差が発生するとし、先進国と発展途上国で経済理論の使い分けが必要と主張。

良く分からないが、プレヴィッシュやミュルダールの発展途上国に関する議論は戦後まもなくから開始されており、ラテンアメリカでは普通「従属経済論」と呼ばれている。誰かがこの潮流に対して構造主義の名を冠したのではないかと思われる。

1962年 レヴィ=ストロース、「野生の思考」を発表。未開人の「神話的思考」は,決して近代西欧の「科学的思考」に劣るものではなく,象徴性の強い「具体の科学」であると主張。その最終章で、先進国中心思考だとして、サルトル(実存主義哲学)の主観や意識重視を批判する。

私注: 主観や意識重視はそのとおりだが、だからサルトルが欧州中心主義だとはいえない。サルトルはアルジェリア解放闘争に深く関与した。“何もしなかった”レヴィ・ストロースのサルトル批判は、けたぐり的な言いがかりだろう。
サルトルの思想は良くも悪しくも同伴者思想であり、マルクス主義、正確に言えばその戯画としてのスターリン主義が廃れば、共に廃れるしかなかったのであろう。

1965年 アルチュセール、「資本論を読む」を発表。マルクスの思想をヘーゲル的弁証法や主観主義などから解放(認識論的切断)するとし、骨格標本化を試みる。

ただしこの際、“ヘーゲル的弁証法や主観主義”は忠誠を押し付けるスターリン主義を指している。
それにしても弁証法の放棄は間違いだ。アルチュセールは70年代に入って、これらの主張を事実上撤回している。

1966年 フーコー、「言葉と物」を発表。構造主義の代表作としてベストセラーとなる。

フーコーの本は叙述的で、随所に彼の思想が散りばめられる(日本で言えば司馬史観)。ただしその叙述は不正確だという。歴史家としてのフーコー」を参照のこと。
エピステーメー(ときどきの社会規範をあらわす造語)として言説(情報のことらしい)を取り上げ、社会のネットワークから端末を取り外し、網(言語)のみを哲学の対象とする。

レヴィ=ストロース、フーコー、ラカン、バルトの四人が構造主義者と呼ばれる。

67年 デリダ、レヴィ・ストロースを「他者を根源的な善良性のモデルに仕立て上げ、自らを弾劾・卑下するにすぎない」と批判。

デリダがどういうつもりで、どう言ったのかは知らないが、日本人としてはきわめてよく分かる。スペインが新大陸を征服した時、ラス・カサスらは先住民を擁護するために闘った。その時に称揚されたのが「高貴な野蛮人」という言葉だった。「王様と私」というミュージカルそのままである。
これは「野蛮人」たる日本人にとっては、悪気はなくても侮辱である。「ジャポニスム」は裏返しの民族中心主義そのものだ。これでサルトルを論破した気になったのなら、まさに噴飯物でしかない。

67年 ピアジェが文庫クセジュで「構造主義」を執筆。フーコーを糞味噌にやっつける。その後フーコーは構造主義から離れる。

フーコーは構造なき構造主義である。フーコーの構造は形象的な図式でしかない。彼は歴史と発生を蔑視し、機能を軽視し、「人間はやがて消滅する」というほどに主体を否定する。

68年5月 フランス5月革命。構造主義は、政治や社会への参画に対処する力を持てず衰退。

デリダ、構造主義の発想の延長線上に脱構築論を打ち出す。ポスト構造主義と呼ばれる。一つの構造が壊されて、新しい構造が作られていく過程を言語過程として捉える。唯物論の自然・社会というところを“一括置換”して「言語」と置き換えれば出来上がる。

1968年 バルト、テキスト論を展開。「文学テキストに唯一の目的、唯一の意味、または唯一の存在」はないとし、徹底した相対論を主張。(人をけむにまく変なおっさん、以上のものではない)

1972年 ドゥルーズとガタリが「アンチ・オイディプス」を発表。この辺りから、マルクス主義の世界と断絶し、実践と遊離し、思索はつぶやきとなり、何を言わんとしているのかが分からなくなる。(認知症の進行と似ている)

1980年 アルチュセール、妻を絞殺して精神病院に収容される。5月革命においてすでに思想的にパンクしている。

1984年 ポスト構造主義が「ポストモダン」と呼ばれるようになる(日本ではニュー・アカデミズム)。表現が一段と難解になり、衒学趣味(文系人間の劣等感を刺激する)に陥る。

1994年 ソーカル事件が発生。ポストモダンはあっけなく消滅する。

ニューヨーク大学物理学教授のアラン・ソーカルが、科学用語と数式をちりばめた無意味な内容の疑似哲学論文を作成し、これを著名な評論誌に送ったところ、雑誌の編集者のチェックを経て掲載された。直後にソーカルは、でたらめな疑似論文であったと声明。

1995年 ドゥルーズが自殺。

1997年 ソーカル、「知的詐欺」を発表。「われわれの目的は、まさしく、王様は裸だ(そして、女王様も)と指摘する事だ」とし、ジャック・ラカン、ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリらをなで斬りにする。

2001年 アントニオ・ネグリが「帝国」を発表。


以下の記事はルモンド・ディプロマティーク(英語版)の2月5日付の記事。フランス人特有の癖があって、ちょいとうざったい。

参考までにウィキペディアから支持率の推移図を転載しておく。



「5月15日」からポデモスへ

2011年5月15日、国際報道機関がlos indignadosとしてに紹介した何十万人ものデモ参加者は、プエルタ・デル・ソール広場(マドリード)にあつまり、銀行の完全な支配する経済と、民主主義のに対してノーを突きつけた。

彼らは組織や政党の旗、しるしとスピーチを拒否した。そして、スローガンを持った。

「連合した人々は政党を必要としない」

広場は、もはや占拠されていない。

変化に対する欲求は残るが、意外にも新しい政党「ポデモス」(我々には可能だ)のまわりでできた。

ヨーロッパ中の大部分の政党が不評であるのに、ポデモスは先例のない成功を持っている。

「それは、信じるのが難しい」と、ポデモス幹部のパブロ・エチェニクが最近話した。

直接民主主義から政党結成へ

「我々の政党は、2014年1月につくられた。5ヵ月のあと、我々はEU選挙で8%の投票を得た。今日、全ての投票は我々が国での最大の政治的な勢力であることをしめしている。

ポデモスのリーダーは、世論調査と選挙が同じものでないということを知っている。

1月の選挙は、社会主義労働者党と人民党より前にポデモスを置いた。

総選挙(それは、2015年12月20日までに持たれなければならない)でのポデモス勝利の可能性は依然として確かなことだ。

ポデモスの創設は 「5月15日」運動が政治の社会運動に基づく概念に閉じ込もっていたことに端を発する。と、社会学者ホルヘ・ラーゴ(ポデモス幹部)はいう。

「デモ参加者の強さの建設が必然的に政治的な結果をもたらすだろうという考えは、間違っていることがわかった。

入居者追い立てと闘う会と、医療セクターの切り捨てに対する抵抗ネットワークは確立された。しかし運動は蒸気が尽きて、ばらばらになっていった。

投票行動に対する失望もあった。

80%の人々は運動に同意すると言った。しかし、彼らは同じ古い方法で投票し続けた。そして保守党は2011年11月の総選挙で地すべりに勝った。

それは、ポデモス創設者に質問を投げかけた。

15-Mに同情した人は何を代弁して欲しかったのか。それは今でもそうなのか? そして、国家の装置を使うとしたら、それは社会変化のために必要な条件なのか?

「5月」の精神

プエルタ・デルソールの運動は直接民主主義に基づいていた。しかしポデモスは「5月の精神」の相続人でありたい。とくに大衆への依拠、透明度と集団的意思決定についてだ。

同時に、そのメンバーは全ての古い垂直政治的な構造を廃止するというところに、罠の一部を認めた。

昨年10月政党の最初の会議で、エチェニクは脱集権化と党の平らな構造、柔軟性を増すべきだとする動議を提出した。

パブロ・イグレシアス(ポデモス指導者)は、「運動の目的を達成することは、組織の内部議論にあまり熱中しないことを意味する」と答え、動議を拒否した。

彼は、地すべり的に勝った。

「M-15」の最も熱心な支持者にとって、これは自治の裏切りのように聞こえた

新党は、もはやシステムの自発的な手先でしかないだろう。

「ポデモスは、社会エネルギーを伝達する方法として、また大規模な実験のプロセスとして起こった」とバルセロナ活動家Nuria Alabaoは言う。

「イグレシアスの側近グループは、ポデモスが15Mの運動を包含するのではなく、闘いを進める新しい方法を提供したのだ」

腐敗は構造的である

ポデモスが敵対するのは「カースト」と言う国のエリートである。

スペインでの横領のレベルは、フランスをさえ高潔に見えさせる。

ほぼ2,000の横領事件が公式の調査のもとにある。少なくとも500人の高級公務員が横領に関係していると推定され、年間の被害総額は400億ユーロ(5兆円)に達する。

主な政党は与党の右翼の国民党(PP)とPSOE(社会主義労働党)である。彼らは「違法な献金を受けた個人の法的責任の制限」について同意を結んでいる。そして政党が法的限度を超えて利益を得ることを可能にしている

長い間不可触とされた王室さえ例外ではない。新しい王の妹(Infanta Cristina De Borbon)のスキャンダルがそれを示している。

35の最大の会社のうちの33が子会社を通してタックスヘイブンで税を避ける。これに対し失業者の半分は何の支援も与えられない。

ラホイ国民党政権になった2009年以降、50万人の子供たちは貧困に陥れられた。いっぽうスペインの超金持ちの富は67%増加した。

昨年12月、気難しい民衆の激怒を避けるために、「市民安全保障」法が制定された。この法律は2011年の動員を避けるためにあらゆるものを非合法化した。公共の場での集会が禁止され、リーフレットの配布すら禁止された。

ポデモスは、スペインの不動産泡がはじけたとき、それが1978の憲法から始まっているコンセンサスの基礎を破壊したと考えている。

経済危機が政治的な危機を引き起こす。どんな深い社会変化でも先人が必要だ。2011年5月の思い出とともに、いまや立憲過程の機が熟した。

それは国家のメカニズムによって国家を変えることだ。

ポデモスと既成左翼

しかし、スペインの状況は、ポデモスの最近の上昇を説明しない。

統一左翼(IU)は長く類似した政治的なプログラムを進めてきた。しかしこの国政治秩序を変えるには至っていない。

ポデモスのリーダーは、左翼は長く難解な分析、曖昧な論拠と不透明な言語の集団だったと考える。

人々はイデオロギー、文化または価値によって誰かに投票するわけではない。彼に賛成するから投票するのだ。候補が普通に、好い人で、ユーモアのセンスを持つならば。

経済民主主義

ポデモスの最初の作業は、左翼の従来の語法をできるだけ平明に翻訳することだった。最も幅広い支援を得るにはそれが必要と考えたからだ。

それが民主主義、主権と社会正義だ。「我々は、資本主義について話さない」と、ラーゴは言う。

我々は、経済民主主義の考えを守る。そして、左右の議論には乗らない。なぜなら分割は、いま我々のような民主主義を守る人と、エリート、銀行、市場の味方との間にあるからだ。それはトップとボトムとの間、一握りのエリートと大多数の間にあるからだ。

マルクス主義の正統性の保護者は、この未分化の社会評価を批判する。

昨年8月、ひとりの活動家が「プロレタリアート」の用語を決して使わない理由について尋ねた。

イグレシアスは、答えた。

「15Mの運動が開始したとき、マルクスとレーニンを読んだ非常に政治化された学生たちも参加した。彼らは最初は一般学生と肩を組んで行進した。

しかしすぐその後、彼らは変装を解いて、『かれらは、何も理解しない!』と叫び始めた。

ポデモスの指導者の一部は極左運動の出身だ。しかし、2014年のEU議会選挙では、右翼の支持者からも10%の得票を得た。

スペイン中で1000以上の「ポデモス集団」が創設された。それを通じてポデモスは支持を獲得するようになった。

都市の大学で教育を受けた若いメンバーは、その後ホワイトカラーやブルーカラーの労働者、地方住民の中に参加した。

このような階級同盟は、もっと良いものが出現すればばらばらになる。それが歴史的傾向だ。ポデモスはこのような運命を避ける事ができるのだろうか。

それはわからない。しかしいま勝利の可能性がある時にそこから逃げることはできない。それは辺縁化した左翼に代わり、将来に向けてのシェルターにはなるだろう。

スペインのエリートは憂慮する

12月、経団連のフアン・ロセルは、ポデモスに対抗してPPとOSOEがドイツ型大連合を組むよう提案した。

ポデモスのプログラムに過激な内容はまったくないのだが。それでもスペインのエリートたちは憂慮している。

憲法制定議会が成立すれば、エネルギー、税制改革、負債リストラ、定年引き上げ、35時間労働、君主制に関する国民投票、スペインの自決とブリュッセルに奪われた権限の回復などが議論の俎上に載せられる。

反共攻撃はすでに厳しさを増している。「エル・ムンド」の記者はイグレシアスをルーマニアのかつての独裁者チャウシェスクに例えている。

「彼は最貧困層の血を最後の一滴まで垂らし続けるだろう」

国民党の議員はもっと直截である。

「誰かが弾丸を彼の後頭部に打ち込まなければならない」

ポストモダンの衰退を社会主義の復権と結びつけて論じた文章が見つかった。

ちょいと難しいので、分かる範囲で書き出しておく。

ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2014年5月号の文章。

「文化的個別主義」に反対する 左翼の武器、普遍主義

著者はニューヨーク大学社会学部準教授ヴィヴェク・チーバーという人。去年4月の記事だ。

書き出しはこうだ。

果てしがないかと思われた冬の後、資本主義とその新自由主義ヴァージョンに対する世界的な抵抗運動が復活してきている。過去40年以上もの間で、この種の運動がこれほど精力的に全地球規模で生じたことはなかった。

これはまさしく実感。

運動がこのように再出現した結果、この間の運動の退潮によって起きた被害の大きさにも光があたることになった。労働者が保有する運動の手段 は、かつてないほど脆弱になっている。労働組合や政党などの左翼組織は実質を失い、財政緊縮の支配の共犯者とすらなった。

その典型がイタリア共産党のなれの果ての「民主党」だ。

さらに、左翼の弱体化は政治・組織面ばかりではない。理論面でも同様である。

敗北に次ぐ敗北は、空前の知的衰退をもたらした。社会の変革という観念が知の風景から撤退したというわけではない。だが政治的急進性の意味そのものが変わってしまった。

たしかにそうだ。

「資本主義は本質的に抑圧的だ」とか、「世の中は搾取する少数と搾取される多数からなっている」とか、「労働者が団結することが勝利の鍵である」というような命題はいまや時代遅れとされている。

さてこれから構造主義批判が始まる。まず用語の問題。私の言う「構造主義」はアルチュセール、プランツァスからアントニオ・ネグリに至る現状追認派の流れだ。もちろん哲学畑の連中も十把一絡げにしている。

著者はこれをポストコロニアル学派と呼ぶ。

ポストコロニアル学派の主張

彼らに共通するのは、社会階級、資本主義、搾取といった概念の否定だ、と著者は言う。

マルクス主義は、ヨーロッパという土壌に形成された杓子定規な枠組みのうちに各地の特殊性を押し込むに過ぎない。

普遍主義という公理は、植民者権力の中心的支柱のひとつである。なぜなら、人類は『普遍的』な特徴をもつとする考え方は事実上、支配者のものだからだ。

普遍主義の神話は、『西欧』こそは『普遍』であるという公理の基盤に立った帝国主義的戦略に属する…

こういう持って回った言い方によって、社会主義を敵視し、階級闘争やグローバルな連帯を結局は否定していくのだ。

そこで問題は社会主義、とりわけマルクス主義が“西欧中心主義にすぎない”のかどうかの検討が必要になる。

マルクス主義の2つの前提

1.資本主義は、地その網に落ちた誰に対してであろうと、制約を押しつけるという法則だ。

2.資本主義が強化されるにつれ、遅かれ早かれ労働者側がそれに反旗を翻すという法則だ。

それらはいずれも、宗教や文化的アイデンティティとは無縁のものだ。それらは過去のあらゆる経験が実証している。

抵抗に生命を吹き込むメカニズムは、個人の幸福への希求と同じく、普遍的なものである。

しかし彼らは、民衆の抵抗を普遍的なものとしてみることを拒否する。なぜなら

社会闘争を唯物論的観点に結びつけることは、ブルジョワ的合理性を割り当ることに帰する。

からだ。しかし多様な要求の根底には生きることへの共通した願いがあるのではないか。

剰余価値の高い部門では、労働者は日々の生存のために闘うよりも、生活水準の向上に専念するだけの余裕はもつ。

だが「南」と呼ばれる諸国や、先進工業国のどまんなかでで増大しつある一部の部門では、別の事態が起きている。

このように批判したあと、著者はポストコロニアリズムが果たした歴史的役割をシニカルな筆致で締めくくる。

彼らは夥しいインクを使って自分たちが建てた風車を相手に闘った。

ローカルな文化と引き替えに、普遍的な権利という観念の信用を失墜させるとは、民衆の権利を蹂躙する専制者に対する、なんと素晴らしいプレゼントだろうか。

ピケティ・ブームは15年前のネグリ「帝国」ブームと重なり合う。これはブームとはいえないほどのものだったが、読者を暗澹たる気持ちにさせるには十分だった。

それはグローバル化した資本主義への敗北宣言であり、そういう世界のなかでシコシコやっていこうよという呼びかけだった。

言葉の上では異質性を突き出し、移民の移動と先々での闘争で現状を変革しようみたいなものだった。

それは資本主義への降伏であると同時に、思想的には構造主義への屈服でもあった。

資本主義がますます世界を席巻し、これとの国際的な闘争が必要となっているにもかかわらず、そのような闘争は欧州中心思想だと横槍を入れて、水を指す役割を構造主義は果たしてきた。

同じ時期、私は多様性の問題を統一性の枠組みのなかで捉えるべきだと主張していた。多様性は、人類社会の価値観としては最上位に置かれるべき観念だと思うが、それは統一があって初めて可能になるし、世界を支配する資本家階級との闘いがあって初めて実現するのである。

イスラム原理主義の暴発を見るとつくづく痛感するのである。

構造主義はこのような国際闘争に住み着いた寄生虫のようなもので、宿主が弱れば繁殖し、宿主が死ねば死に絶えてしまうのである。

構造主義(ポストモダン)は死んだ。しかし闘いは生き返った。世界の99%が1%に闘いを挑まなければならない状況が現出した。

2011年にオキュパイ運動として噴出した怒りは4年を経て明確に資本家階級の専横を許さず、社会の仕組みを変える運動として再登場してきた。

世界の青年たちは怒りを変革のプログラムに変え、その一歩を踏みだそうとしている。「ラテンアメリカのように闘おう」という動きが世界で強まっている。

ピケティ人気がすごい。街の本屋でも平積みになっている。15年前の「帝国」ブームとは比較にならない。

本日の北海道新聞を見たら、なんと見開き二面でピケティ特集。

私もミーハーになって、記事を後追いしてみよう。

一昨年9月に仏語の原本が出版されると大きな話題を呼び、昨年4月に英訳版が米国で大ヒットした。ニューヨークの講演会では「ロックスター経済学者」ともてはやされた。

日本でも邦訳版が出ると関連本が次々と出版された。今年1月の来日時、各地で開かれた講演会はいずれも満員だった。

93年、22歳にしてマサチューセッツ工科大学の准教授に就任。しかし経済学の研究手法に違和感を感じた。「わざわざ複雑な数式を使って、いかにも難しい学問をやっている、とアピールしているようだった。“経済学は複雑”というのは正しくない」

2年後にはフランスに戻って研究を続けた。200年以上にわたる各国の税務情報を分析して、「21世紀の資本」をまとめた。

「経済学者としては歴史学的すぎる」試みだった。「経済学者は数式の世界に閉じこもらずに、もっと現実世界を見るべきだ」と語る。

1月にはフランス政府が「レジオン・ドヌール」を授与しようとしたが「政府に評価されなくてけっこう」と拒否した。

以下はインタビューのさわり

大昔から長期的には格差が拡大してきた。近年の例外として第一次大戦から70年までは格差が縮小した。これは二度の大戦で富裕層の資産が破壊されたためだ。

ほかに戦費調達のため富裕層への課税が強まったこと、土地改革で大地主が減ったことがあげられる。

しかし80年代のレーガノミクスからは富裕層への課税が弱まるなどして格差がふたたび拡大している。

今後世界各国の経済成長がますます鈍化すれば、それに対応するための金融緩和と相まって、資産を運用する富裕層とそうでない階層との格差は拡大するだろう。世襲財産で運命が決まる19世紀のような社会に戻るかもしれない。

この後税制改革の話に移っていくが、ここについてはとくに新味はない。

次に、ピケティ理論の解説代わりにQ&A

ピケティ理論の新しいところは、世界各国の税務情報を200年以上さかのぼって調べ、資本収益率と賃金の伸び率を比較した。

資産からの利益は200年のあいだ、年率4~5%で推移してきた。一方経済成長率は年率1~2%だった。国民所得の伸び率もほぼ同率で推移してきた。

したがって資産家の利益と労働者の所得との格差は歴史的に拡大してきた。

これがピケティの主張の骨子である。

これに対するまともな批判は「過去はそうだったとしても、将来もそれが真実であると裏付ける理論がかけている」というもの。

もっとおバカさん(一橋大学の先生)は、「将来経済が成熟化すれば資産から得られる収益も下がる可能性がある。格差が開くとは限らない」と「反論」する。この本はそういう“言抜け”を許さないために書かれた本でしょう。


解説者も頓珍漢なところがあって、マルクスとどこが違うかと質問した上でこう答えている。

マルクス主義は、資産家は労働者を働かせて得た利益で工場や投資を拡大し、労働者は搾り取られる一方と見る。

資本家と投資家(金利生活者)の区別もなし、生産された富(コストとの差分)の価格への転化とその分配についての基礎的理解なし…

そもそも大学で何を習ってきたのか? ということだ。

マルクス主義は搾取(剰余価値の取得)も、その大本となる資本主義的生産システムも、すべて認めている。資本主義の否定ではなく、(根底的な)批判なのだ。

その上で、生産が大規模化し社会化されれば、その私的性格と利益優先主義は有害無益なものとなるだろうと指摘しているのである。

そのうえで、ピケティとの違いを上げるならば、税制改革にとどまらず、生産システムそのものを社会的に統制することを主張していることである。

それによって、格差を必然とする社会ではない「もうひとつの社会」、すなわち「次の社会」をつくることが可能だということである。ただし、これは本質的にグローバルな課題であることを念頭に置くべきであろう。

同じ文章を読み続けると、このあたりの力動に関してワロンの所説が述べられている。

ワロンといえば、むかし波多野訳と滝沢訳と苦闘しついに挫折したトラウマがある。

おそるおそる、読んでみる。といっても浜田さんの解説だが…

ワロンは、表象的な認識の系列を感覚運動ではなく、むしろ姿勢・情動に関わる系の方向に求めている。

感覚運動的活動というのは、直接知覚に与えられた場面の状況にあわせ、直接自己に与えられた欲求の動きに応じて、その場に適った行動を行っていく活動のことである。

要するに普通の活動のことだ。これとは別にワロンは別の活動系を想定する。

これを浜田さんは「姿勢・情動の系」と名づけている。

姿勢・情動がもともと他者への伝染・交通性と深く関わるものだけに、意識・表象は、最初から共同的なものとして措定され…

浜田さんは「ある場面に触れて予期的に身構える系」というが、これでは何のことやらさっぱりわからない。この人も結局、波多野・滝沢の同類か

私はこれは「辺縁系意識」と表現するのが一番いいと思っている。解剖学的にもいわゆる大脳辺縁系あたりに一致しているからだ。

「ヒトとしてのDNA」みたいな言い方がよくされるが、そこまでは還元されないにしても、遺伝的に備わった知能みたいなものがあり、それが大脳の基本骨格をなしている。哲学的に言えば人類の「類的本質」ということになる。

ワロンは言い出しっぺということもあり、また当時の脳科学の水準にも規定されて、「あれかこれか」の議論を展開せざるを得なかった。

今日ではこれは大脳の古皮質部分と新皮質部分の二層構造としてすんなり理解できるのである。

ただワロンの議論でもう一つの重要ポイントがある。それは生命意志の首座としての辺縁系である。

情動というのは曖昧な概念であるが、地球上に生命が誕生して以来の生きることへの欲望は、神経の集中点としての脳に集中的に表現されている。

自然の一部ではなく、自然と対峙し能動的に行動する意欲は、動物に共通のものとして、やはり脳に集中している。

そして群れて生活し、共同で生活を維持する人類の生活様式はDNAの内外に記憶として残され、大脳辺縁系に集中している。

このような重層構造として、ワロンの「姿勢・情動系」を捉えておく必要があるのではないだろうか。


下記は、「療養権の考察」(97年)のあとがきの一部である。多分誰にも見てもらえないと思うので再掲しておく。

彼(ワロン)は情動的自我を社会的自我に由来するものととらえ、これを自我の基層として措定する。この基層の上に、能動的実践を経て個性的自我が「析出」され るのである。このように自我を二重に構造化するというアイデアは、リビドー的本性の上に抑制的・社会的自我が構築されるというこれまでの「常識」を覆すも のだけに、極めて魅力的である。

 そこでは「能動性」はリアルで実践的な主体として把握される。ところで問題なのは「姿勢」と呼ばれる情動的な構えである。社会的動物として人類史的に形成された「人間性」というものは、ワロンにあっては、個性的主体の陰に隠れた辺緑的主体として把握される。

 この情動的自我は、それ自体が身体的・衝動的自我と、人類史的にインプリントされた「記憶としての自我」とのなんらかの統一体と思われる。そうしないとワロンの情動的自我は最終的に説明がつかないのである。

 ムィスリフチェンコの「人間概念」には、これと関連して輿味ある記述が多いが、これ以上はさすがに別の分野に入ることになるので省略する。ただ、いくつか紹介しておくと、

例えばグラムシは「社会関係のアンサンブル」というマルクスの規定を「現存する諸関係のみならず、その形成に到る歴史を含めての総体」と読み込んで いるようだが、「記憶としての自我」に近い考えだと思われる。

旧ソ連ではこれを「第二の遺伝系列」と想定する学者もいたようである。いずれにしても「人間 は社会的動物である」というような還元主義的規定では汲み尽くせない、リアルでダイナミックな人間観がそこから導き出されそうな気がする。


心理学のページをちょっと眺めると、こんな記述があった。

ピアジェは感覚的運動と表象とを同一の系列に並べた。なぜならこの2つはともに認識的な活動であり、その分析は認識論的な側面をもつからである。

さあ、最初からわからない。感覚的運動とはなんだろう。表象とはなんだろう。

感覚的運動
まず赤ちゃんは自分に使える感覚機能や運動機能を用い、「空間認知」の学習から始める…
と書いてあるから、おそらく誕生直後の学習活動のことなのだろう。これにより獲得された能力を、ピアジェが「感覚運動的知能」と名づけたようだ。感覚的運動という概念そのものがあるかどうかはわからない。

感覚運動的知能
「感覚運動的知能」という言葉だが、私が考えるにはこのような「知能」などないだろう。それは「知能の芽」でしかない。「芽」ではあるにせよそれは「知能の芽」ではなく「意志の芽」と呼ぶほうがふさわしいだろう。

あるのは感覚でのみ外界を知ろうという活動だけだ。いまの議論には関係ないが…
表象とはなにか

表象という言葉が難しいのは、普通の「表象」という言葉とは違う意味で使っているからだ。我々が「表象」という時は、「イメージ」とか「シンボル」という意味で使っているが、ここではそういう意味ではなく、「イメージすること」という動名詞らしい。英(仏)語の“Representation”の訳語らしい。だとすれば「表象」は誤訳で「想起」が正しいだろう。

ピアジェの言っていること
したがって、ピアジェの言わんとするのは、「五感を使って事物から印象を受け取る。その印象を一旦記憶にとどめ、ふたたび想起して反芻する」というのが、ひとつながりの認識論的過程であるということだろう。

私のコメント
一言で言って、それは相当飛躍した議論である。感覚的運動以外でも、認識内容を記憶にとどめ想起することは当たり前に行われる。赤ん坊の未熟な認識運動とのみ関連付ける必要はまったくない。

もう一つは、それらの行動にどの程度まで高次脳機能が関わっているかである。例えば視覚が運動に結びつく場合、下等生物では視神経から大脳基底核に行き、そのまま錐体路系へと指示が導かれる。

視覚が後頭の視覚野に投影されてイメージ化されるのは高等動物に属する機能であり、そのような動物においては視覚は二重性を持つのである。

乳児のいわゆる「感覚運動」はこれらの機能を十分に反映していない。むしろこれらの積み重ねが圧力となり、やがて高次視覚の“ゲートを開ける”ところに「感覚運動」の意義があるのではないか。

GHQの戦後改革を増補しました。1,2,3のリンクを各ページに付けたので読みやすくなったと思います。
岩波新書の「戦後政治史」から付け加えました。

ここからはっきりしてくるのは「憲法」は押し付けだということです。

しかし、押し付けられたのは憲法だけではありません。

政治犯・思想犯の釈放から始まって、政治・信仰の自由、集会・出版の自由、秘密警察・特高の解体、労働運動の保証、戦争を煽った軍国主義者の追放、軍国主義教育の禁止、農地解放、財閥の解体など数えきれないくらいの改革は、すべて押し付けだったのです。そのひとつが憲法だったのです。

なぜ押し付けたか、時の日本政府に改革の意思がなかったからです。

なぜ押し付けられたか、時の日本国民が大歓迎したからです。

「たとえ押し付けでも、良いものは良い」のです。占領軍が民主主義を押し付けてくれたからこそ、私達は今の生活・社会に住むことができるのです。


もし憲法が押し付けだから悪いと非難するのなら、ほかのすべての改革も押し付けだと非難しなければならないことになります。そうすると自由も民主主義もない世界にもどれということになりますが、改憲論者はそのことには口を閉ざします。



視覚の話で、頭頂葉まで来て、ひとつの結論として、頭頂葉の働きは視覚画像に時間軸を与えることだというところまで達した。そこから次の論理が出てこない。

なぜ時間軸を与えることがそれほどまでに重要なのかが、脳の研究そのものからは出てこないからだ。

それは研究そのものの責任ではない。自分が、ここまで見識を深めながら、それを進化の過程とダブらせてチェックして来なかったからではないか。

振り返ってみると、いくつかのポイントがあるように思う。

1.動物とは動く植物だ

ひとつは動物が動く生き物だということ。それは動く前にまず植物であったに違いないということだ。

生き物は生きるためには栄養を取らなければならない。何もなければ栄養を創りださなければならない。すなわち生合成である。

植物が十分に地球上に繁茂したとき、それに寄生する、あるいはその栄養に依存する植物の一種が出てきても不思議ではない。

そしてその植物が移動し始めたとしても不思議ではない。

植物の動物化の事象はまず海中で展開された。したがって、上記のような話ではなかったかもしれない。しかし本質的には海中を漂う生命体がどこかに固着して植物となり、繁茂して、しかるのちにそれに依存する生命体がでてくという過程は共通すると思う。

だから動物の生命の基礎には植物的なものが存在するはずだ。

2.動くことの本質は移動するところにある

植物が動物になるというのは、根無し草になるということだ。最初はたんなる根無し草だが、そのうち自走するようになる。

植物

動物

移動装置(捕食装置も)

生命維持装置

生命維持装置

栄養産生装置


漂流にせよ自走にせよ、食料を確保しなければならない。そのためには移動というきのが必須のものだ。

目指す食料のもとにたどり着いて、それをどのようにして胃袋に収めるかは多様であり、本質的ではない。動物が示すさまざまな行動と、移動という行動ははっきり分けて考えなければならない。

動物の「動」という字は「移動する」という意味なのだ。

3.動物の脳は移動するためにある

三段論法で行けば、脳は植物にはなく動物に固有である。したがって脳は移動するための装置である、ということになる。

移動は食料の確保という目的に規定されており、どんな未発達な動物においても“目的意識的”行動である。「一寸の虫にも五分の魂」である。

この「目的意識」は、あらゆる感覚を利用して進むべき道を知り、筋肉を動かして進んでいく。動物にあって、移動する意志は生きる意志と同義である。

脳はそのための感覚器と運動器の接合ジャンクションである。しかしそれだけではない。脳は移動する意志、すなわち動物にとって生きる意志の凝集点なのである。

脳研究で、意識や意志の局在を研究している人がいるが、それはそれでけっこうだが、根源的には脳そのものが生きる意志の“宿り”であることを抑えておくべきであろう。

鳥の解剖学はよくわからないので、先ほどの説明もわかったようなわからないようなところがある。
しかし本文を読むほどのガッツはないのでやめておく。
要するに血流途絶による虚血性壊死が本態で、おそらくボルタレンにより誘発されたプロスタグランディンの機能異常が絡んでいるのだろうということだ。
人の場合、妊娠後期にアスピリンを使うと胎児の動脈管が閉塞してしまうということが知られており、なにか類似の病態が働いているのだろう。「腎ポータルバルブ」などという変なものがないから、哺乳類は助かっているということになるのかもしれない
しかし鳥一般についてはどうなのか。ハゲワシに特有の事象なのか。
さらに探すと、下記の論文があった。今度はありがたいことに日本語だ。
鶏尿石病(腎臓痛風または内臓性痛風・尿酸沈着症) 平成 7 年 3 月 31 日の日付になっている。
という教科書的な解説本の一部のようだ。
内臓性痛風は、30年以上前から鶏に認められている疾病です。その病変が特異的であるので内臓性痛風には、(病変の状態によって)急性中毒性腎炎、腎臓痛風、腎臓結石、栄養性痛風、ネフローゼ、その他など様々な名前が使われています。
内臓性痛風は、腎機能の低下によって、尿酸が過多となる状態と、産卵開始により生理的に代謝が亢進し、代謝物が多くなった場合…があります。
その結果として、尿酸カルシウム・ナトリウムが腎臓など様々な箇所に沈着します。
ということで、代謝疾患として位置づけられている。
原因として栄養障害、伝染性疾患、中毒があげられている。
中毒のところを見ると、
サルファ剤、アミノグリコシドのような抗生物質は腎臓を経て体内から除去されるため、腎臓に対する毒性を有する可能性があります。
とだけあって、ボルタレンについては触れられていない。これはおそらく養鶏業界にボルタレンを使う習慣がないからであろう。
というわけで、あとは鶏にボルタレンを食わせてみればはっきりする。誰かやってくれ。

ということで、毎度のごとく日本語サイトにはこれ以上の情報はない。日本人は「なぜ」と考える人が少ないのだろうか。

まず、Wikipedia “Indian vulture crisis” の項

インドにはハゲワシ(vulture)の9つの種が生息している。今日、そのほとんどは絶滅の危険にさらされている、

それは前からそうだっというわけではない。1980年代には、インドに8千万羽「白尻ハゲワシ」(white-rumped vulture:正式名はGyps bengalensis)がいた

それは世界の猛禽のなかで最も多数の種であった。しかし今日その数は数千となっている。

中略

最初はウィルス感染が考えられた。

しかし多くの研究の後、2003年に、Dr. Lindsay Oaks らがボルタレンが原因であると突き止めた。

シミュレーション・モデルでは、死体の1%がdiclofenacによって汚染されれば、インドのハゲワシの1割が生命を奪われると想定された。死体の検討ではその10%が汚染されていた。

その後の研究で、メロキシカム(商品名モービック)なら牛にボルタレンと同等の効果を示すが、ハゲワシには毒性がないことが確認された。

その後は社会生態学的なConsequences が長々述べられているが、腎不全の病態/病理には触れられていない。


あっ、見つけた。

 Journal of Wildlife Diseases という雑誌の2005年の論文

PATHOLOGY AND PROPOSED PATHOPHYSIOLOGY OF DICLOFENAC POISONING IN FREE-LIVING AND EXPERIMENTALLY EXPOSED ORIENTAL WHITE-BACKED VULTURES

訳しにくいが、「白背ハゲワシのボルタレン中毒―病理像と予想される病態生理」みたいな感じか。

おそらく、日付から見てリンゼー・オークスらの原著であろう。

Absutract のみ訳出しておく。

白背ハゲワシがボルタレンを摂取した後、腎不全で死んだ。ボルタレンは家畜の組織内に沈着したものだった。

病理所見: 近位尿細管曲部の重篤な急性壊死が見られた。

糸球体、遠位尿細管、集合管は比較的早期変化の段階に保たれていた。

大部分のハゲワシで広範に尿酸結晶の凝塊があり、このため腎臓本来の構造が分かり難くなっていた。炎症はほとんど認められなかった。

腎表面及び臓器の実質内に広範に尿酸の沈着を認めた。これは「内臓痛風」の所見と一致する。これは腎不全のハゲワシで必ず認められた。

鳥類におけるNSAIDSの生理学的効果についてはほとんどまったくわかっていない。

哺乳類の研究では、ボルタレンがプロスタグランジンの合成を阻害することがわかっている。

我々はボルタレンがハゲワシに腎不全を起こすメカニズムについて次のように提案する。

ボルタレンは、プロスタグランジンがアンギオテンシンⅡを介してアドレナリン刺激を調整する効果を阻害するのではないか。

腎臓の portal valves はアドレナリン刺激に応じて開く。そして portal blood を caudal vena cava に向かわせることによって、腎臓をバイパスさせる。

もし、ボルタレンがプロスタグランディンの腎 portal valves の調整機能を取り去ってしまえば、これらの弁の度外れの活性化が生じ、それは本来の栄養をふくむ血流すらも止めてしまう。そして腎皮質は血流が遮断されてしまう。

近位尿細管曲部に近接した腎皮質の虚血性壊死は、我々が観察したハゲワシの組織学的検討結果と一致する。

ハゲワシ激減の原因はボルタレン

「世界こぼれ話」というコラムに載っていたが、こぼれ話で済む話ではなさそうだ。

話そのものは、インドの拝火教(ゾロアスター)の信者がハゲワシの激減を憂慮しているというもの。拝火教には鳥葬の風習がある。森のなかに鳥葬施設があり、遺体はそこでハゲワシの餌となる。

ところが、ハゲワシが激減してしまったため遺体処理が追いつかないそうだ。以前に比べて20分の1に減ってしまったそうだ。うなぎの比ではない。

原因は思わぬところにあった。ハゲワシは肉食で、牛の死肉を食べる。ところが牛にはボルタレンというクスリが汎用されていた。これが悪さをしたらしいのである。

このクスリは、理由は分からないが、1990年代になって牛に大量使用されるようになったらしい。そしてその死肉を食べたハゲタカが急性腎不全になってバタバタと死んでいったのである。


ボルタレンは一般名をジクロフェナックという。消炎鎮痛剤としてきわめてポピュラーなクスリである。実は我が老健施設でも熱冷ましの座薬として使用している。

ボルタレンは私が研修医の頃登場した。それまでは熱さましといえばスルピリン、アミノピリンだった。よく効くがアレルギーも多かった。

アスピリンは解熱鎮痛というよりは抗炎症剤としてよく用いられていた。若年性関節リウマチの人に1日12グラムも飲ませた記憶がある。いまでは考えられない話だ。

ボルタレンは劇的によく効いた。アレルギーもなかった。やがてピリンは消えていった。

飲み薬や座薬のほかにシップや軟膏にもなっている。一般医薬品になっているので、マツモトキヨシに行けばズラッと並んでいる。

もちろん腎機能障害の危険があることは医者ならだれでも知っている。高齢者には要注意だ。わたしも高熱時の頓用としてしか使わない。

しかし副作用でバッタバッタと死ぬようなクスリではない。どちらかと言えばもっとも安全なクスリに属するものだ。それはこのクスリが、世界中で多くの人に、長期にわたって使い続けられてきたことからも分かる。

現に牛だって、飲んでいて何かあったというわけではない。ではハゲタカに限って何故そんなにやばいのか、それは鳥類に共通するのかというのが疑問だ。

もうひとつはインドという油断ならない国だということ。ここの連中は何をするかわからない。90年代に入って増えたということは、ノバ社の特許が切れたからだ。変な作り方をしているかもしれないし、第一、どうして牛にそんなに飲まさなくちゃいけないのだ。


ボルタレンは薬理学的にはプロスタグランディン合成阻害薬に属する。プロスタグランディンはなかなか面倒な経路で、炎症を惹起する側にも抑える側にも回るが、ボルタレンの場合は炎症を惹起する側(シクロオキシゲナーゼ)に作用してそれを抑制する働きを持っている。

ただこれはボルタレンにかぎらず、アスピリンや非アスピリン系の消炎剤(NSAIDS)にも共通しており、ボルタレンがなぜ良く効くのかの説明にはなっていない。

プロスタグランディン系の他の経路(リポキシゲナーゼ系、ホスホリパーゼ系)への影響が考えられているようだが、あまり詳しくは知らない。


まずはウィキペディアから。(ここではハゲタカではなくハゲワシとなっている)

動物へのジクロフェナクの使用により、インド亜大陸で10年間に数千万羽のハゲワシが死亡した。

ハゲワシは、ジクロフェナクが投与された家畜の死体を食べ、腎不全によって死亡したと見られる。

2005年3月、インド政府はハゲワシを絶滅危惧種に指定する一方、ジクロフェナクを段階的に排除すると発表した。パンジャーブ州ではジクロフェナクの使用が禁止されたため個体数が回復しつつあるという。

ということで、「なぜハゲタカが?」という疑問には答えていない。なにか遺伝子レベルの問題もありそうだが…


2015年11月30日

何故かこんなページがアクセス数トップになってしまい戸惑っています。

とりあえず、このシリーズの記事をリンクしておきます。


「原油安の構図 下」はだいぶ話が生臭くなってきて、数字よりも具体例が増えてくる。その分話は少し散漫だが、迫力はある。

おおまかに言って話は4つあるように思える。

1.OPEC諸国はこのまま突き進むのか

2.米国のシェールオイルはどうなるだろうか

3.高コスト国は持ちこたえられるだろうか

4.低価格はどういう形で終焉していくのだろうか

さすがの石油アナリストでもこれには答えきれないだろう。かなり競馬の「予想」みたいな側面もふくみつつ、話が展開される。

1.OPEC諸国はこのまま突き進むのか

OPEC、とくに中東諸国はこのまま突き進むだろう。やれるという可能性と、やらなければならないという必要性がある。

まず可能性。

中東の陸上油田は平均29ドル/バレル。したがって、現在の価格は「どんと来い」という余裕のレベル。もっと下げる覚悟もあるだろう。

必要性

84年の「逆オイルショック」のとき、サウジは1国のみで減産を行った。それまで1千万バレルだったのを250万バレルまで減らした。しかし価格の低下は食い止められず、逆に財政破綻寸前にまで陥った。

今回それは繰り返せない。サウジが減産しなければ、他のOPEC諸国が束になってもサウジにはかなわない。販売シェアーの減少をもたらすだけだ。

ということで、サウジと一蓮托生だ。

2.米国のシェールオイルはどうなるだろうか

シェールオイルが増えた分が生産過剰になっている。だからシェールが潰れれば需給は元に戻る。

では潰れる可能性はあるか。

石油アナリストの萩村さんは「ない」と答えている。

シェールオイルのコストは1バレル40ドル程度で、それを切るところもある。

これらは頑張れる。

新規参入のプロジェクトでは80ドル近いコストのところもある。ここは持たない可能性がある。しかしこれらがなくなっても、供給過剰のさらなる深刻化が止まるだけで、供給過剰はなくならない。

3.高コスト国は持ちこたえられるだろうか

ではババを引くのは誰か。

それは高コスト産油国だろう。

萩村さんが挙げるのはロシア、ベネズエラ、北海油田、アフリカ西海岸の新興産油国である。

4.低価格はどういう形で終焉していくのだろうか

まずこれらの国で深刻な経済危機が生じるであろう。この内、ロシアの危機が重要で、多面的な影響をもたらすであろう。

高コスト油田、新興油田、新規参入のシェールオイルが生き残り競争の犠牲者となる。

この時点で需給バランスは回復するが、市場の二重構造が問題となる。

米国がシェールオイル輸出を禁止したままであれば、米国での需給バランスは回復しても、米国以外の輸入国にとっては深刻な石油不足が出現するかもしれない。


と、まあ、こんなところか。

どうして微に入り際にわたり天北について触れたかというと、「選挙のページ」で天北地区の経験が全国報道されたからだ。

前の南光町長の山田兼三さんが、今は中央選対にいて、天北地区に応援に入ったのだそうで、その経験を語っている。


天北地区は稚内市など1市11町にまたがる広大な地域です。ところが地区委員会の専従は事実上地区委員長一人であり、候補者決定のための詰めが十分にできていませんでした。

このため私は二度にわたって地区に入らせていただきました。

中頓別町では現職の本多町議の立候補が困難だと分かり、中頓別支部の佐藤支部長の息子の妻の佐藤奈緒さんが良いのではないかということになりました。

奈緒さんはまだ入党していなかったが、山田さんが入党と町議選への立候補をお願いをした。

約1時間半の話し合いで入党と立候補を約束。すぐに緊急支部会議を開き承認されました。

遠別町では前町議の木村ひでおさんが再度立候補を表明しました。最初は75歳という年齢もあり、立候補は困難との思いが本人にも支部にもありました。

しかし懇談のなかで、4年間の空白はなんとしても克服しなければと、木村さんの決意を引き出したのです。

浜頓別町では71歳の宮崎美智子さんが適任だとの合意にいたり、本人に要請したものの、即座に同意は得られませんでした。

そこで山田さんも入って、あらためて立候補を要請した。

宮崎さんには71歳で新人として立候補することに躊躇もありましたが、「今の政治情勢の中、断ることのほうが難しかった」と言って、出馬の決意表明をしてくれました。


うむ、そうなのだ!

文章の面てには浮かんでこない、さまざまな葛藤があったのだろうと思う。それを見つめる山田さんの優しい目線が感じられる、良い文章だ。

いまは田舎では、選挙に勝つより選挙に出ることのほうが難しいご時世になったのだ。

天北地区

この言い方は北海道でもあまり馴染みがない。どちらかと言えば共産党の専売特許みたいな名称である。

共産党の天北地区委員会の管轄は、実際のところ宗谷支庁に限定されているので、そうや地区委員会と読んでもおかしくはないのだが、何らかの経緯があるのだろう。

各支庁の位置を示している北海道の地図

天北の天は天塩の意味である。北の方は北見の北である。しかし天北地区委員会の管轄には北見も天塩も入っていない。入っているのはそのどちらでもない宗谷である。

宗谷支庁は支庁所在地の稚内とその周辺、日本最北端の宗谷岬を回りこんでオホーツク海側に入って遠別、中頓別、浜頓別などの町村である。

そこから先は網走支庁となる。

天塩という支庁はない。日本第二の長さと、手付かずの自然を誇る天塩川の流域がそれに当たる。

私は親譲りの戦前の地図を持っていたが、それには「…支庁」ではなく「…国」という名があった。

これもまた変な話で、北海道が「…国」に分割されていたのは、明治の初期に限定される。正確に言うと明治2年9月20日に北海道11カ国が令制国に追加されたのである。

hokkaido11

ウィキペディアより

その際、分割の根拠になったのは江戸時代末期に各藩が管理した区域である。Xチガイボウ印伊達屋のホームページというサイトから転載させてもらう。(このページはめっぽう面白い。山好きにはたまらないだろう)

蝦夷地各藩分冶地図

新北海道史 第二巻 通説一より転写

そこには天塩国と北見国がしっかりある。しかし宗谷国はないのだ。宗谷は北見国の一部となっている。そもそも北見という名前は北に樺太が見えることからつけられたらしく。そもそもは宗谷地方を指している。いま北見市というのは野付牛という農村が市制を施行にするにあたって勝手につけた名前のようだ。

天塩国は現在の留萌支庁と上川支庁の北部(すなわち天塩川流域)を統括している。

廃藩置県や北海道庁の設立や何やらで、行政区画がイロイロ代わって、呼称も代わったのだが、結構後の世まで「…国」の区画は生きていたようだ。

北海道町のホームページに「支庁制度について」というページがあり、簡単に経過が述べられている。

とにかく、やる気の感じられない文章だが、一応まとめてみると、

明治5年 北海道開拓使が設置、その出先機関として5つの支庁が設けられた。その下(?)に19の郡役所が設けられた。

明治30年、支庁が郡役所所在地を元に編成されることになり、19支庁制度がスタートした。

明治43年、鉄道開通に伴い交通事情が改善したことから、19支庁が14支庁に再編された。

この区分は、その後、戦前・戦後を通して現在に至るまで変わっていないようだ。

それで話が戻って、天北のいわれだが、どうも国鉄の天北線が発祥のようだ。天北線というのは天塩と北見をつなぐ線路という意味だろう。

宗谷本線の位置

大日本ノスタルジィ鉄道 宗谷本線 より

なお、この地図がいつのものかは分からないが、ウィキペディアによると上音威子府の後、店舗くトンネルを抜けたあとに天北栄という仮駅があり、上頓別と敏音知(ピンネシリと読む、温泉がある)の間に恵野、敏音知と松音知の間に周磨、松音知と中頓別の間に上駒、中頓別と下頓別の間に寿と新弥生、下頓別と浜頓別の間に常磐、浜頓別の次に北頓別、山軽の次に安別と飛行場前、声問と南稚内との間に宇遠内野駅があったようである。

天北線というのは、地図を見れば本当にどうしようもない路線で、なんで作ったのかわからないみたいな線路だ。

これには理由があって、元々はこちらが宗谷本線だったのだそうだ。それが昭和5年に日本海に出る線路が造られてしまったから、ますます無意味な線路になってしまった。

天北線は天塩線に本線を奪われてからは北見線と呼ばれ、天北線と改称されるのは昭和36年のことである。それほど歴史に根付いた名前ではない。

ただ鉄道の全盛期には網走から稚内までオホーツク海岸を貫く路線が計画されていたようなので、その構想の一部としての戦略的意義はあった。それだけの路線だ。

音威子府は上川支庁管内(旧天塩国)だが、小頓別から先は宗谷管内に入る。つまりそのほとんどが宗谷支庁をベタで走る路線なのだ。北見国ではあるが網走支庁ではない。現在感覚でいう北見とは全く関係ないのだ。

野付牛が戦時中に北見市となった後は、紛らわしいと不評を呼び、名前も奪われてしまった。

天北線の沿線地帯を天北地方というのは、それなりの合理性はあった。いかにも行政区画とはちぐはぐな呼び名だが、それだけに住民は一種のアイデンティティーを感じたのかもしれない。

ただ肝心の天北線ははるか昔(平成元年)に廃線となっており、鉄道の記憶が薄れるとともに、いずれ消え去る呼び名かもしれない。

 

正直エロイカがこんなに面白いとは思わなかった。
メロディーが次々と流れてきて、それが次々とピタピタっとはまっていく。まさに快感だ。
だらだらと長い曲かと思ったら、まさにメロディーの万華鏡だ。
テトリスの落ち物がことごとくストンと落ちていく。
あまりにも用意周到にはまっていくためにすっかりセルにやられてしまったという感じもしてくる。
とにかくオケがうまい。どうしてここまでうまいんだろうと感心してしまう。
終楽章のコーダなど、もうこの世のものと思えないくらいのビタビタだ。
イッセルシュテットの狂ったようなコーダも忘れがたいが、この完璧さには到底かなわない。
セルの数ある名盤の中でも屈指の演奏の一つだろう。録音も良い。

「原油安の構図」という記事が引き締まっていて面白い。本日が上で明日が下だから、出揃ってから載せようかと思ったが、下が面白いとは限らないので、とりあえず載せておく。
1.リーマン・ショック後の原油安との違い
14年7月初めの原油価格は106ドル。これが直近では44ドルまで下がっている。(下落幅は58%)
08年のショック前の高値は147ドル、09年の底値は34ドルだった。(下落幅は77%)
これは需要の激減によるものだ。しかし今度は供給過剰が原因になっている。したがって価格低下は構造的なものであり、長期にわたると想定される。今後さらに30ドル水準まで低下する可能性も高い。
2.供給過剰の要因
まずは米国のシェールオイルだ。米国の産油量は05年に500万バレル/日だったのが、930万バレルに倍増している。
中東第二の産油国であるイラクの産油量は370万バレルであり、それを上回る増加だ。そのほとんどはシェールオイルだ。
もう一つはリビアの産出再開だ。14年6月に23万バレルまで落ち込んだが、わずか4ヶ月で100万バレルに回復している。これはイラクの内戦に伴う産油量減少を埋めてお釣りが来る計算だ。
3.需要は停滞している
経済の減速により、欧州では需要が減少している。中国とインドがこれをカバーしているが、伸び率は鈍化している。
米国は自国産原油の増加のために輸入量を減じた。
このためにトータルの需要が減少に転じた。
4.原油安の引き金は?
原油の市場価格はニューヨーク市場でのWTI(西テキサス中質原油)を指標としている。これが下落したことが引き金になっている。
原因は、米国が原油の輸出を禁止していることにある。このため国内在庫が積み上がり価格低下への圧力となった。
つまり米国の国内事情が国際価格に反映され、それが引き金になった。
5.なぜ14年夏だったのか
これらの傾向は長期に存在していたのに、なぜ14年夏になって一気に原油安に転じたのか。
それまでは中国、インドなどのアジア新興諸国が備蓄をふくめ積極的に買いを続けたために、市場が支えられていた。しかし14年夏を境に、供給量がそれを上回るようになった。
アジア諸国は原油価格が下がっても買いを増やさなかった。
6.投機資本の逃避
原油価格の低下は一直線ではない。9月末までは90ドル台が維持されたが、その後の2ヶ月で15ドル下がり、11月末のOPEC総会の後は1ヶ月で一気に25ドル下げている。
これは投機資本の逃避によるオーバーシュートとみられる。1月に入って底を探る動きも見られるが、なお5ドル程度の低下が続いている。
これらの資金は株式や国債に向かっていると見られ、株高、ドル高の要因をなしている。

とりあえずの感想だが、かなり政治要因が絡んでくると思う。

1.アメリカの原油輸出解禁の可能性

国内のシェールオイル業者は輸出解禁を熱望するだろう。米国政府としても、シェールオイル産業を潰すわけにはいくまい。

2.イラクの動向

中東第二の産油国であるイラク、その最大の油田であるキルクークがISISの手に握られており、産油量は激減していると思われる。

これがいつ回復されるのかが見通しが立たない。回復された場合、さらに供給過剰に拍車がかかる可能性がある。リビアも政情が改善すればさらに供給量を増大させる可能性がある。

3.LPGとの関連

現在はまだ原油とLPGはリンクされており、かなりの高値でLPGを買わざるをえないが、リンクが切れる可能性もある。

そうなれば原発のコストは引き合わないものになり、電力会社が原発に固執すれば、大企業の電力会社離れが進む可能性がある。


これは、1971年に書かれた「研究ノート ブハーリンの経済理論」(嶺野修)という論文の抄録である。例によって北大のリポジトリーから拾ったものである。他の学校も北大を見習ってほしいと思う。


はじめに ブハーリン学説の運命

1.わが国でも戦前はスターリンとならんでブハーリンの著書が多く読まれた。しかしそれはマルクス主義の入門書として読まれたのであって、ブハーリン学説の独自の位置づけがなされたわけではない。

2.コミンテルンにおける「ブハーリン批判」(1928年)以後は,むしろ敬遠されるか批判の対象と位置づけられた。

3.ブハーリン理論全体が「ブハーリン的誤謬」=右翼修正主義というレッテルをつけて,ほうむられてきた。

彼の経済理論の全貌を体系的に把握し,その中で,帝国主義論を位置づけ,そのブハーリン的特徴を引き出すことが重要だ。

*注によると、昭和3年から5年にかけて白楊社から「スターリン・ブハーリン著作集」というのが出版されたそうだ。なんと全16巻だ。訳した人も、出版した人も、それを読んだ人も偉い。


これは少々読みにくい論文だ。元々が外国の研究を紹介する形をとっているので、その流れに沿って議論が展開される。思想の形成過程を追いながら読めるともう少しわかりやすいものになったかもしれない。

オーストリアでの研究はかなり後ろになってから出てくる。それまでにコチラは少々疲れ気味になっている。とにかくそこから始めよう。


ブハーリンのブルジョア経済学批判

ブハーリンは,「ブルジョア経済学批判はプロレタリア自身の経済科学の発展を促進すると考えて、ウィーンに行きオーストリー学派を,ローザンヌでローザンヌ学派の理論を学んだ。

うむ、ここが聞きたかったところだ。

彼は1912~13年にかけ、『価値なしの経済学』、『金利生活者の経済学』を執筆し、「合法マルクス主義者」と「限界効用学派」に対する批判をおこなった。

ということで、この後、この2つの著作の解説に移る。

1.経済学史への評価

彼は重商主義者を「交換の観点から経済理象を考察した」と特徴づけた。そして彼らを科学的実践と科学的理論の最初の統一的体現者と評価した。

重農主義者に対しては,資本主義生産様式を「社会の物質的形態」として受けとめ,客観的な考察方法をとったと評価した。しかしそれは「一定の歴史的社会段階の物質的法則」でしかないとした。

古典派経済学は,彼らの『世界主義』にもかかわらず,イギリス工業の必然的な理論的産物でしかなかった。

と、ここまでは教科書のなぞりだ。

次に「歴史学派」の評価に移る。

歴史学派は、古典派の「永遠主義」と「世界主義」に対する反動である。彼らはドイツブ、ルジョアジーのイデオロギーとして民族的特殊性を強調しなければならなかった。

ただし統計資料の重視については積極的評価を与えている。

そして批判の中心がベーム・パヴェルクとオーストリア学派だ。そのためにウィーンに行ったのだから。

2.寄生的資産家への批判

彼はオーストリア学派の生成を資本主義の発展段階の水準から解明しようとした。限界効用学派(オーストリア学派のこと)は、資本主義が没落する時期の理論的な現象形態である。

種々なる形態の信用の発展の結果,集積された剰余価値は,生産に全く無関係な人々のポケットに流れ込む。かかる人々の数は増加しつつあり,ひとつの完全な社会階級-すなわち金利生活者の階級を構成する。

株式会社と銀行との発展,有価証券の大量取引によって,この社会的集団は出現し,かつ確固たるものとなる。その経済的活動の領域は,流通とくに有価証券流通の領域、即ち株式取引所である。

その極端なタイプは、生産の外に立つのみならず,流通過程の外にすらも立っている。彼らは国債や各種債券の所有者であり、さらにその財産を不動産に投じ,それから永続的な収入をひきだしている。

彼らこそ,末期的資本主義の「寄生的ブルジョアジー」である。株主は取引所で、なお主体的に活動している。しかし証券収入を享有する集団は社会的経済的生活との紐帯が切断されている。彼らは流通の領域からさえ退いていく。

これだけか? あまりにもひどい。

信用制度を生産の社会化の端緒とするマルクスはおろか、金融資本を一面では「資本主義の最高の段階」と規定したレーニンよりもはるかに遅れている。

3.限界効用学派への理論的批判

ここが一番聞きたいところだ。

ブハーリンは“末期的資本主義”を弁護する限界効用学派を以下の点で批判する。

(1) 消費をもって全生活の土台となす観点, (2) 社会化の進展から目をそむけた個人主義イデオロギー, (3) さし迫る社会革命への脅威に立脚した非歴史的理論。

しかしこれだけでは無力なレッテル貼りだ。

嶺野さんは以下のように批判している。

ブハーリンは近代経済学を批判しようとしながら、ワルラス流の考え方を無抵抗に受け入れている。それは哲学においてボグダーノフ・マッハ的修正を受け入れたのと同じ根拠に根ざしている

それ以上にがっかりすることに、ソ連ではブハーリン批判が盛んだった時でも、彼のこのオーストリア学派批判だけはブハーリンの「業績」として認められているのである。以下がその賛辞である。

彼はオーストリア学派の理論における方法的基礎への批判に限定することなく,論敵の立場をわがものとなし,彼らの内的矛盾を指摘し批判した。そうすることにより,この理論の個々の結論が無意味であることを暴露した。

4.転形問題への言及

ここまで来て、ブハーリンの頭のなかはスポンジで詰まっていることが分かった。その彼が転形問題に言及したとしても、中身は到底期待できないだろうが、一応紹介はしておく。

商品市場の諸現象は資本主義的再生産の現象と関連している。

生産力の発展と客観的に形成された価格との聞にひとつの関係が与えられているならば,この関係の特殊性に関する問題が生ずる。

と、ここまではヒルファーディングの聞きかじりだ。

しかしこれは一種の“言い抜け”である。価値の価格への転化問題を議論するのに、生産力という概念を持ち込むのは、議論を歴史の中で相対化し、けむにまくための手練手管でしかない。

ブハーリンはそこが分かっていない。

だからこのような大言壮語で議論を締めくくるのである。

価値法則は商品生産のみに妥当する法則であり、無政府的商品制度(資本主義制度のことか?)における均衝法則である。

生産価格法則は変形した商品制度一資本主義制度の均衡法則である。市場価格法則(ワルラス均衡のことか?)はかかる体制の動揺の法則である。

競争の法則は撹乱した均衡の不断の回復であり、恐慌の法則は体制の必然的周期的な均衡喪失である。

価値法則は社会的な自然発生性の盲目的法則である。だからそれは不断の破壊を通じてのみ実現される。均衡破壊は生産諸力の浪費を意味するが,しかしそれは発展にとっての不可欠の条件である。

こうやって、転化問題には手を付けないまま、価値法則そのものの否定(しかも非理論的な否定)をもって回答とし、最後は無内容な革命万歳論へと収斂していくのである。これがブハーリンの動的均衡論の経済過程における意義なのである。


ロシア革命後のブハーリンの言動についてみれば、さらにひどい。ローザ・ルクセンブルクとの論争も、歴史的・客観的に見ればドイツ革命とスパルタクス団への干渉でしかない。

経済学の拒否

プハーりンは「理論経済学」概念を資本主義以外の時代に適用することを明確に拒否する。

われわれが組織された社会経済をもてば,経済学のあらゆる基本問題: 価値,価格,利潤などの諸問題が消失してしまうからである。

市場そのものが存在しないのだから、『盲目的市場法則』を研究対象とする科学が存夜する余地は全くない。

と驚くべき理論を展開する。もうこれだけで読む気が失せる。

このあと嶺野さんは次のようにフォローしている。

以上は初期プハーリンに見られた特徴的な考えで、後に彼みずから「過渡期」における経済論を展開し,資本主義が過渡期を経て社会主義に至る過程で,経済学的範鴎がどのように変化するかを研究している。

よかった。もう少し読むことにしよう。

嶺野さんがその背景を説明する。

それは戦時共産主義を経験しつつあった時期の大多数のボノレシェヴィキの見解でもあった。その後ネツプを経る中で「広義の経済学」の必要が提起され,プハーリンが批判されたのであった。

「機械論者」=プハーリンの主張は暗黙のうちに継承され,現実の社会主義諸国がブハーリンなきプハーリン路線を遂行していった。

やっぱり救われない。

ついで

ブハーリンの「均衡論」

均衡法則の発見は理論経済学の根本問題をなしている。

ある体制が均衡状態にあるというのは、その体制が外部のエネルギーなしにはこの状態を止めさすことができない場合である

なんじゃこれは?

ブハーリンはみずからの「唯物弁証法」からこの規定を引き写したようだ。

プハーリンの均衡論は,いかにつつましやかな試みであろうとも,とにかくマルクス主義をへーゲル弁証法の障害から救おうとする試みであったように思われる。

へーゲルの定立,反定立,総合に代うるに,安定的均衡、肯定的印をもっ不安定的均衡、否定的印をもっ不安定的均衡の状態をもってした,

議論はまだ続くが、とてもつき合いきれない。

この「とんでも弁証法」は、ボクダーノフの経験批判論の影響を受けているようだ。「彼は質的変化を検討せずに,単なる量的増減にすり代える」とするデボーリンの批判も当然であろう。

少なくとも、ブハーリンは哲学的にはまったくのペケであることが分かった。しかし専門であるはずの経済学ではどうであろう。

経済学方法論において,ブハーリンの均衡思想は「均衡の仮定」である。ある経済体制が存在しているとき、その体制を持続させている一定の均衡が存在する。

ある安定的均衡体制を、抽象的理論的モデルによって分析する。そうすると複雑な契機がもち込まれても,新たな基礎上で均衡が回復される過程が分かる。

これ自体は一種のサイバネティクスの変形として一応認めるとしても、次の文に行くとたちまち「救いようがない」ことが分かる。

彼はこういう「動態的」分析をマルクス主義経済学の方法の最も重要な構成要素だと特徴づけた。

最後に決定的な事実が提示される。

Lowy は、彼が哲学を,とくにへーゲルを実際に学んだことがなかったと指摘している。そのために彼は,フランス唯物論に対する偏愛とボグダーノフ哲学を基礎におかざるを得なかった。

この後、ブハーリンに関わって生産力論や技術論が展開されるが、嶺野さんのコメントもふくめある程度決着済み(私としては)の話なので省略する。


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