鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

AALA関連記事は「aala_newsの編集日記」http://blog.livedoor.jp/aala_news/ に移りました(6Nov.2023) 中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 「ラテンアメリカの政治」(http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ )がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

2015年02月

世の奥様方は、毎日、今夜のおかずは何にしようかと悩んでいるらしい。
幸か不幸か、我が家の嫁さんはそういう悩みから解放されている。
その代わり、その悩みは私に降りかかり、「今夜はどの弁当を買うか」と悩むことになった。
嫌いなものなら「今夜はおなかがいっぱい」と蹴飛ばされる。それを私が食べる。
マリー・アントワネットではないが、ご飯がダメならお菓子があるのだ。
最初は老健で入居者向けの夕食を弁当に詰めてもらっていた。残食率は5割を超えていた。野菜の煮付けはほぼ100%、煮魚・焼き魚も手を付けない。
保健所で保健婦として栄養指導していた、あれはみんな嘘だったのか。女は率直だ。何のてらいもなく平気で嘘をつく。ウソをついているという意識がないからだ。
安部首相もそうだ。「女の腐ったようなやつだ」という形容詞がこれ程似合う人間もいない。

本日「玉藤のトンカツ」を買ってきて食わせた。食わせておいて私が飲みに行くためである。帰ってきたら顔を輝かせていかにうまかったかをしゃべり始める。
「筋がなくて、噛み切れる」のがまず気に入ったらしい。そしてとっておきの褒め言葉「ジューシー!」だ。さらにパン粉がサクサクで柔らかくて、ソースがコクがあって、キャベツまでカットがいいと褒めまくりだ。
諸君、これははじまりだ。予感がするだろう。今までスーパーで買ってきたカツがいかにひどいかをくさす一大シリーズのはじまりだ。
幸いなことに、構音障害のせいでほとんど言っていることはわからないから、適当に相槌を打ちながら、むかしのことを思い出し始める。

むかし、食堂のショーウィンドウには丼の見本がならんでいた。
天丼、カツ丼、うな丼、親子丼が定番だった。
親に連れられて食堂に入っても、それらを注文するのはタブーだった。それらは展示ダナの一番上にあって、その下にカレーライスやラーメンやオムライスがならんでいた。私が口にしたのは二段目だが、それでも十分うれしかった。

多分、肉というより、パン粉を油で揚げること自体が、目のくらむようなごちそうだったのだろうと思う。中学に入ってから、はんぺんや魚肉ソーセージやイカゲソやとにかく中身は何でも、フライになったら何でも食べた、美味しかった。

大学に入ってからトンカツと称するものは食べたが、トンカツの名に値するものだったかどうかは大いに疑問が残る。
トンカツというからには厚みがなくてはならない。しかし学生の頃食べたトンカツは、断面を見れば下のコロモ1/3,肉1/3,上の衣1/3という構成だった。あえて言えば、それは「豚肉フライ」ではなかったのか。
このコロモに十分行き渡るほど“とんかつソース”をかけて食った。それでもうまかった。トンカツが美味かったというより、“とんかつソース”が美味かったのかもしれない。
いまだにウスターソースには馴染めない。“貧乏”の味がする。

実は、いつ初めて正真正銘のトンカツを食ったのか記憶に無い。卒業してからだろうが、トンカツとしてではなくサテメシでカツカレーとして食ったのが最初ではないかと思う。
高度成長の波に乗って、いつの間にかカツカレーにトッピングされたカツが厚くなってきたように思われる。それは茨木のり子が「自分のけじめくらい自分でつけろ、このバカモノ」と叫んだ頃かもしれない。そう思うとなにか慙愧の念に耐えない。

嫁さんは玉藤のトンカツを食って感激した。それはだいじなことだ。玉藤のトンカツを食って感激する気分は残していかなければならないのだろうと思う。

もっとお金持ちは、トンカツでなくてなんとか牛のステーキを平気で食っている。金のあるなしではなく生まれた年の刻印を背負った人間として、なにかステーキには手が出ない。そこまで行っちゃったんじゃ、親に申し訳が立たない。

嫁さんは、トンカツに厚さだけではなく柔らかさとジューシーさを求めるが、それは私より一世代下っているからだろう。私には分厚いトンカツだけでも恐れ多いのである。

ライノウィルスの勉強

ウィキペディアは至極あっさりとしたもの。

ライノウイルス(Rhinovirus)は、ピコルナウイルス科エンテロウイルス属 に属するライノウイルス系のウイルスの総称。一般的にはヒトライノウイルス(human Rhinovirus)を指す。 RNAウイルスであり、風邪(普通感冒)の代表的な原因ウイルスとして知られている。

これが全文。

さすがにこれでは身も蓋もないので、別のページを探す。

横浜市衛生研究所:ライノウイルスについて

流行は?

 大人のカゼの2分の1から3分の1は、ライノウイルスが原因だとされています。このため欧米では、ライノウイルスのことを(鼻)カゼウイルス( common cold virus )と一般では呼ぶ場合もあります。ライノウイルスによるカゼは、一年中見られますが、特に春と秋に多く見られます。RSウイルスやインフルエンザウイルスが暴れまわる冬には比較的少ない です。

どんな病気?

 ライノウイルスは、鼻、のどといった上気道の炎症をおこします。ライノウイルスは33度でしか増殖しない とされ、そのため通常ライノウイルスによる炎症は上気道に限局されます。潜伏期は短く 1-3日です。

 頭痛・のどの痛み、鼻詰まり、くしゃみが起こります。水のような鼻水が出始めますが、次第にそれは濃いねばっこい黄色あるいは緑色のものへと変化し、量も少なくなります。通常、発熱はありません。軽い咳が少し遅れて出始め 2週間近く続くこともあります。通常、1-2週間以内に軽快します。

 獲得される免疫は、感染したライノウイルスの血清型に特異的なもので、他のライノウイ ルスの血清型による感染防止にはあまり役立ちません。…ワクチンを作ることは絶望的です。

 ライノウイルスを特異的にやっつけるような治療薬(特効薬)はありません。治療としては、症状を和らげる薬を症状に応じ て使います。

病原体は?

 ライノウイルスは、ピコルナウイルス科に属します。picoは小さいの意、ルナはRNAを指します。ヒトに感染症を起こすのはライノウイルス属。

 酸に弱く、上気道 から感染する。

予防のためには・・・

 鼻カゼ症状の最初の二日間 に他の人を感染させる可能性が強いです。患者の咳によって生じた飛沫を吸い込んで感染したり、患者の鼻水中のウイルスが付着したものに触れた手で自分の鼻の中、口の中、眼に触れて感染します。

 手をよく洗うこと が予防のために有効です。

次がなぜかあの県営住宅追い出し死の千葉県のサイト。

ライノウィルスと喘息発作に関係について参考になる情報

喘息のある人では、ライノウイルスは、喘息発作の誘引となる、最も重要なウイルスと考えられます。

この感染症にかかった時に、喘息の人では症状に違いがあることが、1970年代から注目されていました。喘息児は、有熱期間も長く、気道症状も重くなりました。

別の論文では、喘息増悪化における一番の原因因子(60-70%)とされる。

ということで、当施設でも喘息に進展したケースがあった。この方はそれまで喘息と診断されていなかった(見逃していた?)。

風邪 サプリメント マニュアル

というサイトでも手洗いが推奨されている。しかしこれは今回のような集団発生時にはほぼ不可能だ。むしろマスクのほうが有効ではないか。

あとは喘息やCOPD患者には特別の注意を払うことになるだろう。これらの患者の保護をまず優先して考えるべきかと思う。

最近、「エンテロ・ウィルス68」という新しいウィルスが発見され、ライノに近いがより毒性が強いということで問題になっているようだ。

Mouse models of rhinovirus-induced disease and exacerbation of allergic airway inflammation

という論文があったが、面倒なので読んではいない。

ただ“augmentation of allergic airway inflammation”が確認されているとのことなので抗アレルギー薬の治療は積極的に行うほうが良さそうだ。

ただし使用量は通常の1/2でも多いくらいで、PA錠の2錠 2X あるいは セレスタミン 1錠 1X vds でも十分効くようだ。何かありそうな人にはこれにクラリスロマイシンを載せている。小青竜湯は、私は使わない。基本的に“漢方”の発想は嫌いだ。


第3四半期の経済統計が出揃った。
景気はまったく戻る動きを見せず、金融の緩和にもかかわらず株価だけが好調を維持する傾向がますます顕著になった。
daisansihanki
赤旗で各シンクタンクの評価を紹介しているので、転載しておく。
第一生命経済研究所
GDPが大幅に落ち込んだあとにしては戻りが弱く、物足りなさは否めない。個人消費や設備投資といった内需の持ち直しが緩慢なものにとどまっている。
消費税増税による負担増の悪影響が未だに消費を大きく下押ししていることがうかがえる。
みずほ総合研究所
(増税後の)個人消費の持ち直しが依然として緩慢なペースである。
とくに耐久消費財で反動減の影響が長引いている。
(実質所得の低下は)所定内給与が伸び悩んでいることに加え、年末賞与の伸びが夏季賞与を下回ったためだ。
三菱UFJ R&C
実質雇用者報酬が伸び悩んでいることが、実質個人消費の伸びを抑制している。
企業が潤沢な手元キャッシュ・フローをどの程度、国内の設備投資に振り向けるかがポイントになるだろう。


これらのシンクタンクの評価を見ていると、まさに「四半期資本主義」の発想そのままである。
上の図を見てみれば、第1四半期の駆け込み、第2の暴落、第3~第4の鈍い回復と見て、トータルで消費税がどんな影響を与えたかに思いを致さなければならないはずだ。そして消費税増税など決してやってはならないと決意を新たにすべきなのだ。
ところで、私が考えるには、「キャッシュフローを設備投資に回せ」と主張する三菱UFJ R&C は間違っていると思う。第4四半期ではGDPの伸びが個人消費を上回っている。ということは、企業の個人消費回復に関する見込みが楽観的に過ぎたということだ。それは同時に、これから二番底が来る危険を示唆している。私が経営者なら、この時期、絶対に新規投資はしない。現有勢力で利益の極大化を計る。
要するに個別企業に取って選択はないのだ。これは蟻地獄だろう。資本主義の限界だ。ここから脱出するには政治の力が必要だ。大企業の懐から強引にカネを抜き取って、社会保障と最賃引き上げに回すしかない。労働法規の厳格な適用も必要だ。さらなる改悪などもっての外だ。
ただ、それだけでは行かないことも事実だ。一国で強引に改革を進めれば、産業空洞化、雇用危機、ソブリン危機を招きかねない。まずは多国籍企業の国境なき資金移動と租税回避を国際協調で防がなくてはならない。
両方必要なのだ。しかも遠くない将来にそれを実現しなくてはならない。そうしないと、思わぬ形での第3次世界大戦が来る。


植村さん励ます会に参加しました。その時に配られたタイムテーブルがあります。

A4裏表に、かなり細かく経過が記載されていますが、ちょっと読みにくいので、事実問題に絞って、端折って転載します。

と言いつつ、やはり書き足したくなるので、ネットから情報を拾って追加。

1.記事の掲載の経過

植村隆さんは1958年生まれ、1982年に朝日新聞に入社している。

1991年8月、当時朝日新聞の大阪本社勤務だった植村さんは、ソウル支局から慰安婦の一人(金学順さん)が体験を証言したという情報を得た。上村さんはソウルで取材の上、署名入り記事を掲載した。同じ記事は翌日全国版にも掲載された。この時は金さんは匿名であった。

記事によれば、「韓国挺身隊問題対策協議会」が、女性の話を録音したテープを朝日新聞記者に公開した、とされる。
植村さんは延世大留学の経験があり、韓国語も堪能だったことから、取材を担当することになったものと思われる(本人談)。
妻は韓国人だが、この時点では無関係。したがって義母とも無関係。

数日して、今度は金学順さんが名乗り出て記者会見を行った。そのあと北海道新聞が金学順さんとの単独インタビューを行い。報道した。金学順さんは日本政府の提訴に踏み切った。

これ以上の取材は無理だと思い、大阪へ帰ったのです。しかし数日後、金学順さんが名前を出すことを決意した。それを北海道新聞にスクープされてしまったんです(本人談)

2.その後の植村さんの足どり

その後、植村さんは大阪本社からテヘラン支局、ソウル特派員、外報部などを歴任し、2009年から北海道報道センターで勤務した。1992年以降、朝鮮人慰安婦に関する記事はまったく書いていない。

そして朝日新聞勤務を続けながら、2012年からは北星学園大学の非常勤講師に就任している。

13年12月には、神戸松蔭女子学院大学に公募採用された。この時専任教授として雇用契約を結び、引っ越しの準備に入った。朝日新聞は退社の予定であった。

3.週刊文春による攻撃開始

集中攻撃は14年の1月末に始まった。

1992年から、西岡力氏は記事の「事実誤認」を指摘(文藝春秋)していたが、98年ころから「事実誤認」ではなく「捏造」と呼ぶようになったという。呼び変えの根拠は目下不明。(提訴状による)
西岡氏は、「植村が強制連行と書いたから捏造だ」というが「連行」としか書いてない。“強制”は西岡氏の捏造だ。(本人談)

週刊文春の2月6日号に植村さんを攻撃する記事が掲載された。見出しは「“慰安婦捏造”朝日新聞記者がお嬢様女子大教授に」というもので、当初より“捏造”のレッテル貼りが行われていた。

報道の直後から松蔭には植村さんの解任をもとめるメールなどが殺到した。これを嫌った松蔭は植村さんに就任辞退を求め、話し合いの結果、3月に契約は解除された。メールに脅迫的内容があったどうかは不明。

その後、捏造攻撃には櫻井よしこ氏も加わった。彼女は各誌に論文を掲載し、さらに自らのホームページに転載。捏造との批判を繰り返した。

「櫻井よしこ植村隆と吉田清治にガチキレ!!朝日慰安婦問題でほえまくる!! 」というyoutubeがあったが、残念ながら現在は閲覧不能となっている。

4.北星への攻撃

5月初めころから、北星に植村さんの解雇をもとめるメール、電話などが本格化した。右翼は北星を次の標的とすることで意思統一したようだ。5月末には最初の脅迫文も届けられる。

週刊文春の8月14日号が植村追い出しキャンペーンの第二弾。見出しは「慰安婦火付け役、朝日新聞記者は、お嬢様大学クビで北の大地へ」とさらにえげつなさをアップした。ほぼ同時にyoutubeにも大学との問答を録音したファイルがアップされた。これは「はだしのゲン」問題で松江の教育委員会を脅した在特会のやり口(威力業務妨害)と瓜二つである。

これを機に、北星への電話やメールによる攻撃は一気にヒートアップした。

高校生の娘の顔写真がネットにさらされ、「反日活動で稼いだカネで贅沢三昧に育ったのだろう。自殺するまで追い込むしかない」と書かれた。長男と同じクラスの同姓の子まで顔写真がさらされた。週刊誌の記者が自宅に張り付いて盗撮したり、近所に聞き込みをかけた。(本人談)

そしてついに爆弾騒動が持ち上がるのである。

9月12日、北星へ電話があった。「まだ勤務しているのか。爆弾を仕掛けてやるからな」という内容で、どこからどう見ても立派に犯罪である。

ほぼ時を同じくして、帝塚山学院大学にも脅迫状が届いた。松蔭、北星に続く第三の標的である。この大学にも朝日新聞の記者だった人がいて教授を務めていた。「止めさせないと爆破する」との脅迫を受けた教授は、その日の内に辞職した。

10月には桜井氏が週刊新潮で植村叩きの挙句に、大学攻撃を焚きつけるかのような相当際どい表現に踏み込んでいる。

年配の人なら、およそ全員が両者は別物と知っていたはずだ(“はずだ”ではすまない。捏造というからには証明しなければならない)
女子挺身隊と慰安婦を結びつける虚偽の記事を書いた植村氏は…捏造報道の訂正も説明もせず頬被りを続ける…。
教壇に立たせ学生に教えさせることが、一体、大学教育のあるべき姿か…

とりあえず、上げておく。

議論のキーポイントは、年配の人なら、およそ全員が両者は別物と知っていたはずだ  というところにある。

韓国では年配の人は挺身隊イコール慰安婦と考えていたから、救援組織が「挺対協」と名乗ったのではないか?

これは誤用か否かの分かれ目だ。誤用であった言葉が慣用となり、辞書にも載るようになるというのは良くあることだ。韓国で慣用されていたのなら、誤用ではなくなる。

しかしそれは捏造か否かの分かれ目ではない。

1.挺身隊と慰安婦はそもそも別物である。

2.しかし当時の韓国では慰安婦を挺身隊と呼ぶのが一般的だった。これは世をはばかるための方便だったのかもしれない。

3.それを広義で「誤用」ととったとしても、そのことについて記者に責任はない。まして「捏造」という根拠にはならない。

4.吉田論文と結びつけるのは牽強付会であり、植村さんが吉田論文を批判していた事実と著しく背反する。

ということで、どうやら“誤認逮捕”に近い様相を呈している。右翼の諸君は相当逆ねじを食らわされることになりそうだ。

それにしても、一般市民を相手に、“誤認逮捕”であろうと“便乗攻撃”であろうと、やりたい放題のやり得で、やられる方はやられ放題の泣き寝入りというのは、法治国家としてあるまじきことだろう。

これでは文化大革命のときの紅衛兵と同じではないか。「守旧派だ!」と叫べば何でも許される状況が日本で再現されようとしている。立法・行政サイドの無作為が問われるきわめて深刻な事態だ。


キューバ革命を学び、今を知る旅

キューバ革命を学ぶために二つの企画を検討しています

1.ゲバラとサンタクララの闘い

エスカンブライの山を出てからサンタクララ周囲の基地を次々に陥落させ、市街戦を挑み、最後にハバナから来た軍用列車を奪取するまでの戦跡をたどります。

2.ハバナ市街の闘い

大統領宮殿への突撃、ゼネストなど困難な地下活動の跡を訪ねます。コシオ前大使はこの闘いの指導者でした。現在、コシオさんにガイドをお願いしようと交渉中です。

キューバの今を学ぶために二つの企画を検討しています

1.キューバ文化の多様性

キューバ文化が多様性を維持しているのは、困難な時期においても多様性を守る闘いを積み重ねてきたからです。

テレビ・ディレクターのリセッテ・ビラさんにTV局の見学とお話をしてもらえるよう交渉中です。

2.キューバの医療と国際連帯

日本では「国境なき医師団」が有名ですが、キューバの国際支援ははるかに大規模で、相手の立場に立って行われています。

厳しい状況の中でチェルノブイリの子供たちを受け入れたことも知られています。札幌にも来たアレイダ・ゲバラさんに折衝します。

お楽しみ企画

1.ネルソン・ドミンゲスとの出会い

北海道AALAに絵を寄贈してくれた著名画家ネルソン・ドミンゲスさんとお会いしたいと思います。一流の芸術をタップリと楽しみたいと思います。

若手の画家の絵も格安で手に入るかもしれません。

2.サルサを楽しもう

期間中に一度はトロピカーナに行くべきでしょう。夜の12時になると舞台が下がって劇場全体が一大ディスコになります。体力に自信がある人はどうぞ。

いい演物があれば、カール・マルクス劇場にはとびきりのメンバーが出演します。

3.バラデーロ海岸でビキニ見物

細長い半島の両側が白砂のビーチ、革命前はキューバ人立入禁止のプライベートビーチでした。

追加

私のホームページの「キューバ革命史」は是非目を通しておいてください。

http://www10.plala.or.jp/shosuzki/history/cuba/contents.htm

安部首相答弁のウソとまやかし

20日の衆院予算委員会での志井さんの基本質疑がまだまとめられないでいる。

衆議院議員が21人に増えて最大の問題は、質問時間が大幅に伸びたことだ。今までは赤旗の2面で読み切れたのだが、今回はなんと5面に達している。もうごめんなさいという感じだ。

まずは、安倍首相の最初の答弁が気に食わない。

質問は、「非正規が増えたことが労働者全体の賃金低下の主要な要因だ」という認識があるかというもの。これはなかなか「ハイ」とは答えにくい質問だ。そこで副次要因をるる説明をして「ハイ」とは言わない。それは分からないでもないが、その中にかなりウソとまやかしが入っている。

1.賃金の下がった理由

97年をピークとして賃金が下がった理由として、給与の抑制、デフレ経済、高金利下での投資の抑制の3つをあげている。

これらは局面、局面では賃金低下の要因をなしていた可能性はあるにしても、97年以降18年間の長期傾向を説明するものではない。給与の抑制だけは間違いないが、デフレを景気後退・生産過剰と捉えるなら、2001年からリーマン・ショックまで続いた好況局面は無視されることになる。デフレを円高と捉えても、それは200年前後とリーマン・ショック後の数年間に限られており、全局面を説明できるものではない。高金利時代はこの間まったく存在していない。「実質高金利」は円高の一面をとらえたものに過ぎず、枝葉末梢である。

18年間一貫した傾向を説明するにはもっと構造的な条件を検討しなければならない。すなわち賃金構造(労働分配率)と雇用構造である。景気の動向は18年のあいだに浮き沈みがあった。その中から都合の良い所だけを取り出して説明するのは真面目な議論とはいえない。

2.内部留保の増えた理由

安倍首相の言わんとしていることは、要するに景気が軟弱だったからということに尽きる。それらをすべて呑んだとしても、賃金が低下する一方で内部留保が激増した理由は説明がつかない。国民が並べて貧しくなったのなら、「分かち合え」という話も分からないではない。しかし大企業は空前の大儲けをしているのだ。「給与の抑制、デフレ経済、高金利下での投資の抑制」が賃金低下をもたらしたのなら、なぜそれが利益の巨大な溜め込みを可能にしたのか。それは説明できないだろう。

3.97年問題に関する認識は重大だ

「(97年のピークのあと)消費税が3%から5%に上がり、かつ社会保険料も上がり、その後アジアの経済危機があって、ここからずっと日本がデフレ下に入っていくわけです」と説明している。97年不況がこれらの複合危機であることを認めているわけだ。それではこの度の消費税引き上げと社会保障のさらなる切り捨ては何なのか。

97年初頭、諸指標は「バブル後不況」からの回復を示していた。安倍首相の言う「3つの過剰」とかデフレマインドはいったんは治まっていたのだ。当時の橋本首相は「バブル後不況は克服され、上げても大丈夫と思ってやったが、失敗した」と謝っている。

しかし今度は試され済みの結論で、さらなる不況を招くことが本人にもわかっていながら断行したということになる。この論理矛盾は深刻だ。


当老健施設は100床のうち、認知症フロアーが半分を占める。そこでライノ・ウィルスによるとみられる風邪が爆発的流行をきたした。

本日昼時点での鼻風邪罹患者は21名。2月初めからの通算罹患者は26名だ。

症状はいずれも大したことはない。37度台前半の微熱、鼻水、軽い咳という程度だ。1週間前後で大体は収まる。気道過敏や肺炎を起こすことはない。

こちらも甘く考えていた。一昨年のRSウィルスではひどい目にあったから、感染症には気をつけていた。

しかし今回は症状が軽いことから、葛根湯程度で様子を見ていた。結果的にはこれが災いしたようだ。


11日以前

13日

15日

17日

19日

21日

23日

24日

25日

11

29


ただし、発症者には3名の再発者がふくまれる。24日の発症者にはそれまでの“グレーゾーン”認定を繰り入れたものがふくまれる

要するに増えるときは常に一気なのだ。しかも休日明けに増える。外来者が持ち込んだ可能性もある。


施設の感染防止はインフルエンザとノロに焦点が当てられている。教育・訓練もなされており、かなり有効なようだ。なんでもスタンダード・プリコーションとかしゃれて言うらしい。

しかしライノに対してはほとんど無力であることが分かった。

とりあえずの方針

一般的には鼻炎症状には抗ヒスタミン剤、抗アレルギー薬が有効であるが、認知症の患者では意識障害を起こしやすい。

しかし葛根湯ではほとんど効果がなく、なにもしないのと同じである。小青竜湯もこれだけの感染力を持つウィルスに対してはあまり期待できない。

そこで一定のリスクを覚悟しつつ、PA錠(PL顆粒)を使うことにした。原則として成人使用量の半分、場合によっては1/3量とし、ふらつき等があればただしに中止するという条件で、開始した。

ライノは鼻汁を介しての感染であるから、鼻汁分泌を抑えることは対症療法であると同時に、感染対策としても有効ではないか。

そう考えての措置だが、はたして吉と出るか凶と出るか、固唾を呑んで見守っているところである。

ビキニ核実験 被爆年表を作ってみての感想

ビキニの水爆による被爆は「被曝」と書くべきではない。まさにそれは被爆そのものであった。

実体論的にそれは核爆弾の破裂による直接の被害であった。

もちろん殺意があったと言っているわけではない。「未必の故意」もなかったと信じたい。

兵器、とくに核兵器は「殺意」の塊であるが、そういう抽象論議にふけるつもりもない(そういう議論も大事だが)。

言いたいのは、「核実験は問題なく終わったが、その副産物としての死の灰が周辺の人々に被害を与えてしまった」というふうに問題を分けることはできないということである。

事実問題としてそうなのである。これはたんなる事故ではない。

それが発掘された調査によって明らかになった。第五福竜丸は偶発事件ではなかった。それはアメリカが隠しきれなかった露頭だったのだ。

ビキニで爆発した水爆は周囲数百キロに及んでその威力を発揮した。熱戦、爆風、そして放射能も含んで核爆弾の威力というものはあるのである。

周囲数百キロ以内にいた人々の中で第五福竜丸はとりわけ危険なゾーンにいたから高い発症率を示したに過ぎない。少なくとも結果論としては、米軍は水素爆弾により久保山さんを殺したことになる。

そしてそれからが悪い。第五福竜丸を切り離し、偶発的な事故のように見せかけつつ、その後さらに5発の水爆を爆発させたのである。

これはもう「未必の故意」もへったくれもない。悪意としか言いようがない話ではないか。

1946年 アメリカ軍太平洋の島での核実験を開始。58年までにビキニ環礁やエニウェトク環礁で計67回の核実験を行う。

1954年3月1日3時42分 アメリカ軍、ビキニ環礁で水爆実験をおこなう。この日を皮切りに、5月まで計6回、計48メガトンの核実験が行われた。作戦名は「キャッスル作戦・ブラボー」

アメリカ軍は水素爆弾の威力を4 - 8メガトンと見積もっていたが、実際の威力は15メガトンに達した。


3.01 マーシャル諸島近海において操業中のマグロ漁船「第五福竜丸」は放射性降下物に被曝。アメリカが設定した危険水域の外であった。

延縄の収容に時間がかかり、数時間に渡って放射性降下物の降灰を受ける。船員23名は全員被爆した。

3.01 第五福竜丸以外にも危険区域内で多くの漁船が操業していた。放射性降下物を浴びた漁船は数百隻、被爆者は2万人を越える。

3.01 漁船の乗組員の他に、ロンゲラップ島民86名、ウトリック島民157名が被爆。ロンゲリック島で実験を観測していたアメリカ兵28名も被曝した。

3月 各地で水揚げされた魚に放射能が発見される。検査は船体とマグロについて行われ、人体の検査記録は除外されていた。

3月当初、放射能に汚染されたマグロの部位は内臓やエラであったが、8月以降になると肉や骨からも放射能が検知されるようになり、特に半減期が30年と長いストロンチウム90などに汚染。「ビキニ事件の内部被ばくと福島原発被災のこれから」(山下生寿)より

4.22 米国家安全保障会議の「作戦調整委員会」 (OCB)、「水爆への日本人の好ましくない態度を相殺するための米政府の行動リスト」を起草。事件のもみ消しを図る。

1.日本人患者の発病の原因は、放射能よりもむしろサンゴの塵の化学的影響とする。
2.放射線の影響を受けた日本の漁師が死んだ場合、病理解剖や死因の発表については日米共同で行う。
3.(そのような事態への)準備も含め、非常事態対策案を練る

5月 日本政府の調査船・俊こつ丸が第1次調査。ビキニ環礁150キロのところに最大汚染水域を発見。

海水の放射線量は7000カウントをこえ、水しぶきを浴びるだけでも危険という状態で、プランクトン(10000カウント)も魚(かつおの肝臓48000 カウント)もすべて汚染されていた。汚染海水は、深さ100メートル、幅約10キロから100キロのベルト状になってゆっくり西方に流れていた。
ビキニ事件の内部被ばくと福島原発被災のこれから」(山下生寿)より

9月23日 久保山愛吉さん(無線長)が「原水爆による犠牲者は、私で最後にして欲しい」と言い遺して死亡。日本人医師団は死因を「放射能症」と発表。米政府は「放射線が直接の原因ではない」とし、謝罪せず(現在まで)。

直接死因は急性肝機能障害であった。これは注射や輸血などで医原性にウィルス感染したと考えられる。同様の肝障害は第五福竜丸の被災者17名にも発生しており、たしかに一般被爆者に比しべらぼうな発症率である。

12月 鳩山内閣が成立。年内いっぱいでマグロの放射能検査を打ち切る。アメリカ原子力委員会の主張を受け入れたものとされる。

1955年

1月 「日本政府はアメリカ政府の責任を追及しない」確約を与え、「好意による見舞金」として、200万ドル(当時約7億2000万円)が支払われた。

見舞金は第五福竜丸だけに支払われ、一人当たり200万円に達した。他の漁船からのやっかみがあり、乗組員は仕事を離れざるを得なくなった。

8月 広島で第1回原水禁世界大会が開かれる。

1956年 旧厚生省、延べ556隻の漁船の被ばく状況調査を元に、「(第五)福竜丸以外には、特に放射能症を認められる事実のないことが明らかとなった」と通知。

5月 俊こつ丸による第2次調査。海水汚染は北赤道海域の面まで拡散。魚体内には1954年の水爆実験時の放射能が残留していた。

1958年 アメリカ、マーシャル諸島での核実験を終了。

1985年 高知県の「幡多高校生ゼミナール」(山下正寿さん指導)、ビキニで被ばくした乗組員300人を聞き取り調査。

30年を経過して多くの人が死亡。第2幸成丸は20人中生存者7名、新生丸は新生丸は19人の乗組員が保険登録されており、死亡者は14人、生存者2人、不明者3人。第5海福丸は18人中9人が病死(ガン5人)。

1986年 「幡多高校生ゼミナール」の報告を受けて、高知県ビキニ被災調査団による自主的な健康診断がおこなわれる。

2004年 放医研の明石らが第五福竜丸被爆者の追跡調査の結果を発表。

同年までに12名が死亡。肝癌6名、肝硬変2名、肝線維症1名、大腸癌1名、心不全1名、交通事故1名。肝疾患が多くを占めるのが特徴。
生存者の多くも肝機能障害があり、肝炎ウィルス検査では、A, B, C型とも陽性率が異常に高かった。

2010年 ビキニ環礁が「負の世界遺産」に指定される。ミクロネシア連邦は憲法前文に「世界はひとつの島なのだ」を掲げる。

2013年

3月 外務省が資料の一部を開示。国内向けには「ない」としながら、米国に渡していたことが明らかになる。

2014年

9月 厚生労働省からビキニで被爆した他の船体や船員にかんする文書が見つかる。

第五福竜丸以外に473隻が検査を受けた。毎分100カウント以上(最高988カウント)の放射線が乗組員から検出された船は10隻あった。

kouroushou

厚労省開示文書


2015年

2月 水産庁、被爆漁船に関する文書を発見し提出。水産庁はこれまで日本漁船の被爆記録の存在を否定し続けてきた。

1954年にビキニ環礁で行われた米国の水爆実験は、第5福竜丸という痛ましい犠牲を出したことで知られる。
しかし、ほかには被災した漁船はなかったのか。
それが今回ようやく明らかになった。
水産庁の調査文書40点が共産党の紙智子議員に提出されたのである。
このなかで被害を受けた漁船の総数は実に1423隻に及んだ。実に恐ろしい数字である。
この内放射能汚染魚を廃棄した漁船は992隻だった。廃棄の基準は「毎分100カウント以上の放射能が検出された漁獲物」となっている。
船の名前はすべて押さえられているが、個人情報保護法に基づき明示されなかった。
ということで、これだけでは記事にもなんにもならないので、少し関連情報を集めることにする。

ポーランドについてのかんたんなお勉強

まずは地理から

面積は31万平方キロで、日本より少し狭い。ただほとんどが平野なので実際にははるかに広い。人口は4千万人弱だから日本に比べるとはるかにゆったりと暮らしている。

首都ワルシャワの人口は170万で札幌と同じ。南部の旧都クラクフが75万、旧ドイツ領ブレスラウ(現在はヴロツワフ)が63万、西部の町ポズナン(ドイツ名ポーゼン)が55万というところ。

GDPは約5千億ドル。一人あたり2万3千ドルとなっている。

略年表

10世紀 ミェシュコ1世が周辺部族を統合。ポーランド公国として認知される。現在のポーランド領とほぼ一致。首都はポズナニだった。ポーランドは英語圏の呼称で、自らはPolska と名乗る。

11世紀 ポーランド、王国となる。首都はクラクフに移る。

13世紀 ドイツ騎士団が異教徒征討を命じられバルト海沿岸に進出。ドイツ人の移住が進む。

13世紀 蒙古軍がポーランド南部に進出。ポーランド平原は略奪により無人の野と化す。ポーランドはいったん衰退。

14世紀 ポーランド=リトアニア連合王国が成立。ドイツ騎士団に対抗し、大学を設立しユダヤ人を積極的に受け入れるなど、発展を実現。

15世紀 連合王国がドイツ騎士団を壊滅に追い込む。版図は白ロシア、ウクライナ、ドナウ流域におよぶ。

16世紀 連合王国、オスマントルコとの闘いに敗北。ドナウ流域をトルコに割譲。

16世紀 ポーランド=リトアニア、「連合共和国」に移行。穀物輸出を背景に欧州最強最大の国家となる。立法権が議会(大地主)に与えられたため共和国と呼ぶ。

16世紀 クラクフ大学のコペルニクスが地動説を提唱。文化が隆盛を迎えポーランド・ルネッサンスと呼ばれる。

17世紀 スエーデンとの連合王国となり、首都がクラクフからワルシャワに移転。

17世紀 オスマントルコによる第二次ウィーン包囲。ポーランド軍がオスマントルコ軍を撃破する。

18世紀 国土が三度にわたり分割されたすえ、消滅(1795年)。

1807年 ナポレオンの支援を受けワルシャワ公国が創設されるが,ナポレオンの敗北により消滅。

1830年 ロシア帝国からの独立を求める蜂起。ショパンは、報せを聞いて革命のエチュードを書く。

1918年 第一次大戦後、国土が復活。名ピアニストのパデレフスキーが首相に就任(3年のみの半名誉職)。

1920年 ポーランド軍が成立直後のソ連に侵攻。逆にワルシャワ近くまで押し戻されるが、その後挽回し、停戦に持ち込む。

1939年 ドイツとソ連により侵略を受け、国家が消滅。

ソ連の占領下では、100万人以上がシベリアや中央アジアに強制移住。カティンの森では将兵2万人が虐殺される。

ドイツの占領下では、ユダヤ人300万のうち9割が殺害される。対独パルチザンの闘いでも数百万が死亡。

1940年 ロンドンでパデレフスキー(80歳)を首班とする国家評議会。

1944年 ロンドン亡命政府の呼びかけでワルシャワ蜂起。ソ連軍がこれを黙殺したため20万人が犠牲となる。

1945年 ポーランド人民共和国として「主権」を回復。その後ロンドンの評議会は排除される。

1980年 全国ストの中で自主管理労組「連帯」が結成される。

1981年 ヤルゼルスキ首相が戒厳令を布告。

1989年 民主化によりポーランド共和国となる。最初の選挙で統一労働者党は壊滅。

2009年 世界同時不況で、ヨーロッパでただ一国のみ経済拡大を続ける。

以上はウィキペディアより

勉強があっさりしたものだから、感想もあっさりとしたもの
1.ポーランドは妥協で成り立っている国
妥協と言っても「1+1/2」ではない。「ならぬ堪忍するが堪忍」ということになるが、その場合長期的視野が必ず必要だ。将来的にはこの妥協は無駄にはならないという見通しと、この妥協を無駄にはしないというしっかりした構えが必要になる。まぁ、それが活かされる場合もあるし、結局妥協に終わってしまう場合も少なからずあるとは思うが、シングル・イシューにならず総合的に見ていくことも必要だ。
それはたんなる弱者の知恵ではなく、発展期(例えば15~16世紀)においても妥協と寛容の精神が貫かれているところは見習わなければならないだろう。
2.中心国~周辺国関係の中の位置
ロンドンとパリがヨーロッパの中心であることは今も昔も変わりない。ただ経済的にはドイツに重心が移りつつあるのだが。
最初はドイツも周辺国であった。北ドイツはとくにそうであった。ポーランドはさらにその辺縁に位置づけられていた。そしてその奥に野蛮人の住む広大な土地があった。
ポーランド人はその野蛮人を征服するのではなく友好関係を結び、リトアニアと対等な同盟を結ぶことによって大きくなっていった。これはかなり商人的な発想である。そしてリトアニアはさらに東方に向けて旺盛な征服活動を続けた。
一方西方に対しては辺縁という位置をとり続けた。中心部の人口増に対応してヨーロッパの穀倉というスタンスをとり続けた。
その後モスクワに国家ができ、西方に進出してくると、「前門の虎、後門の狼」という関係になる。
このとき自分が中心から見てどれほど周辺的か、ロシアから見てどれほど中心的かの間合いを測る必要が出てくる。異なる相手との異なる形態での妥協が必要になる。
3.ポーランド王国没落の要因
これはとても難しいが、おそらく中世の没落と近代世界の出現に符丁を合わせているのであろう。プロイセンやハプスブルグの興隆と裏腹の関係にあるようだ。
基本的には農業国で、農産物の輸出で経済が成り立っていたと思われるから、欧州の農業をめぐる環境の激変があったのだろう。じゃがいもの新大陸からの導入あたりが原因なのか。
「民主主義の行き過ぎ」と書いてあるものもあるが、ナンセンスだ。
4.ポーランドがリーマン・ショックを免れた理由
これも政権の功績に帰す傾きがある(ウィキペディア)が、ナンセンスだ。
おそらくドイツの積極的投資がリセッションを上回ってもたらされたからだと思う。現に同じ時期、旧東ドイツは深刻な景気後退を経験している。ドイツの投資が旧東ドイツの頭上を通り越してポーランドへと向かったからだ。

DAC、突落ちの回避法
DACが修理を終えて戻ってきた。
突落ちは相変わらずだ。
もはや打つ手はない。
いまは音源をいじることで、突落ちの回避を図っている。
音源(AAC)ファイルをAudacityに突っ込んで、“Clip Noise の除去” を実行する。出来上がったファイルをふたたびAACファイルとして保存する、という簡単な操作だ。
ただしAudacity では“m4a”という名前にしないと保存してくれない。しかし“m4a”でもFoobar は何の中途もなく受けてくれる。
今のところ、これで突落ちは防げている。
Audacityは音源を一度WAVファイルにして操作している。それをまたAACにして保存しているのだから、音質は当然低下しているだろう。しかし、心持ち角がとれて丸くなったようだが、聞いた感じではそれ以上は分からない。

2月19日、ウォルマート・ストアーズが、時間給の従業員約50万人に賃上げを約束した。しかもかなりの引き上げ幅である。

時給を年内に少なくとも9ドル(約1070円)、来年2月1日までに10ドルに引き上げると言うのだ。このために新たに10億ドルを投資するそうだ.

対象は、ウォルマートとサムズクラブ(会員制倉庫型店舗)の約50万人の従業員。米国で雇用する140万人の従業員の約3分の1に相当する。

波及効果は少なくないと予想される。最低賃金に近い水準で労働者を雇用している小売業や外食業などが対応を迫られるだろう。

とくに最賃が低い地方では一般企業との格差が広がる。

ウォルマートは業績好調

ウォルマートの米国内従業員は約130万人にのぼり、民間企業としては全米最大の雇用主だが、これまで従業員の賃金水準をめぐり長らく批判されてきていた。従業員の調査によれば、その多くが公的支援に頼らなければ生活できない状況だったという。

第4四半期ではガソリン価格安を追い風に消費が拡大し、利益が予算に対し12%上回った。

しかし賃上げを発表した日、年間配当を1株当たり4セント引き上げたにもかかわらず、ウォルマートの株価は約2.7%下落した。

浅野秀二のアメリカ寄稿」にはこう書かれている。
 ウォルマートの年間利益は1兆6000億円。そのほとんどは株主配当されている。創業者であるサム・ウォルトンの富は、アメリカの労働者すべての富を上回っている。赤旗報道では、創業者一族の総資産は18兆円に達しているという。利率2%として、利子だけで年間3600億円だ。どうやっても使い切れない。

米国の最賃事情

この1年間で小売業の労働者の平均時給はすでに3%上昇している。同じく低賃金セクターである介護・外食業では3.4%上昇した。

とは言うものの、民間セクターの労働者の平均時給が24.75ドルなのにたいし、小売業の労働者は17.29ドルにとどまっている。

背景にあるのは労働力不足だ。1月の失業率は5.7%で前年同月比マイナス0.9%となっている。このため企業間の労働者獲得競争は厳しさを増している。スターバックスは、全従業員の賃金が最低水準を上回ることを宣伝している。

アパレル大手ギャップは勤務開始時の時給を10ドルに引き上げた。一方で通常店舗を200店閉鎖するなど、人件費高騰に対応し戦線整理を図っている。

「アパレル大手ギャップ」の画像検索結果

政府・自治体の対応

連邦法の下での最低賃金は時給7.25ドル。これは2009年以降、変わっていない。

しかし半数を超える州政府が、独自に最賃水準を定めている。カリフォルニアやコネティカット、マサチューセッツを含む7州の最低賃金が時給9ドルを越えている。

オバマ米大統領はこの動きを歓迎しさらに加速せようと動いている.

マゼール指揮ニューヨーク・フィルのブラームス第一番が大変素晴らしい。
2007年のライブらしい。ひょっとすると平壌での演奏か。
マゼールの長い活動歴からすると晩年に相当する。ニューヨークでの活動は決して長くない。YouTubeで聞けるのはエグモント序曲とこのブラームスくらいだ。
しかし大変素晴らしい。端正で歌うところはしっかり歌っている。弦のバランスも良い。何よりもあのニューヨーク・フィルが一生懸命やっている。「やりゃぁ出来るじゃん」という感じだ。
多分指揮者としてのピークはもう20年位前だったと思うが、うまいけれどもけっこうアクが強かった。できればもう5,6年はニューヨーク・フィルとやって、本格的なレコーディングもやって欲しかったと思う。
ついでにセルのブラームス。のっけから「やはりそう来るか」という感じで迫ってくる。体操の9.95みたいな感じだ。何も言うことはございません。おっしゃるとおりです。ただひれ伏すのみです。
ただブラームスはもう少し女々しいところもあるんですね。

東北大学井上総長の不正研究疑惑の記事が書けない理由、というより言い訳

井上総長の研究不正疑惑の解消を要望する会(フォーラム)

のページがえらく読みにくいのである。

基本的には闘争日誌であって、関係者の覚書である。その中にファクトはすべて詰め込まれているのであるが、それを読み込もうとする人間にとってはえらく辛い作業を強いられることになる。

それと基本的には闘いの記録であるから、争点がうんと絞りこまれている。イロハから始めようとする人向きではない。

さらに言えば初期の文章には、ちょっと荒っぽい論理が含まれていて、対象とする論文の把握も十分ではないものがある。

例えば93年論文、94年論文、95年論文などの論及があるが、それらが一体どんなものであったのか、それらがすべて異なっていて、認識の過程がそれらによって発展しているものなのかどうかも定かではない。

図表の問題、質量の問題、装置の問題も後から小出しに出てくるから、元論文はどうなっているのか、そのたびに振り返らなければならない。

まぁ、当事者はそれだけ苦労したということだろうから、文句は言えないが、ちょっとつき合いきれない。

そこで日付の古いものから順に読んでいく作業は断念した。すっかり嫌になってしまって、それまでつけてきたノートもゴミ箱に放り込んでしまった。

というのが、言い訳。

とは言ってもこのままでも済ますわけにも行かず、今度は新しいものから順に読むことにした。

この読み方は楽ちんだが、書いている人の主観に左右されやすいので要注意だ。

ということで、仕事は明日から。

赤旗の記事(時事通信の配信)だけでは、なんとなく背景が曖昧だ。

少しネットであたってみよう。

まずはウィキペディアでHSBC ホールディングスの項目を読む。

HSBC.svg

イギリスに本社を置く世界最大級の金融グループで、商業銀行が主体となっている。

フルネームは“The Hongkong and Shanghai Banking Corporation Limited”でその名の通り香港を発祥の地としている(93年にロンドン移転)。

イギリス部門の収益源に占める比率は20%であり、最大の収益源は香港部門(22%)である。

08年にはフォーブスの世界有力企業番付でアメリカ勢をおさえ1位となったこともある。1位全世界の店舗数は2006年末で1万店舗を超えている。2兆米ドルを越える総資産を持つ。


ついでニューズウィークの記事(2月19日)

HSBC秘密口座で世界に激震

脱税幇助の実態を記した機密文書「スイスリークス」が明らかに

1.国際調査報道ジャーナリスト連盟(ICIJ)が、いわゆる「スイスリークス」に関する調査の結果を発表した。

2.不正が疑われる口座の残高は1200億ドル(約14兆円)。その大半は脱税がらみだった。

3.不正を行ったのは、スイスにあるHSBCのプライベートバンキング部門。国際税法の抜け穴をくぐり抜けるサービスを提供していた。HSBCが脱税指南を行ったのは203ヶ国で10万口座に上るとされる。

4.手口としては、個人の顧客を企業として登録する、オフショアに未申告の「ブラック口座」を開設するなど。顧客側も偽名使用を指示するなど、積極的に関与していた。

5.「スイスリークス」とは、2008年にHSBCの元従業員エルベ・ファルチアニが内部情報をリークした事件。通報を受けたフランス当局は、データを各国に提供し10カ国以上の税務当局が捜査に乗り出した。

6.HSBCは12年にも、メキシコの麻薬カルテルなどのマネーロンダリングに関与した。その額は約20億ドルに上る。この時は米司法省と和解が成立した。

7.顧客リスト上の有名人はティナ・ターナーやデビッド・ボウイ、ラシド元エジプト通産相など。


9日付のWSJは背景をかなり明らかにしている。

1.昨年、スイス検事総局はファルチアニを産業スパイや銀行秘密法違反で起訴した。国際手配に基づきスペインで逮捕されたが、スペインの裁判所は身柄送還を拒否している。

2. 2月7日に、ファルチアニは ICIJ に対し、HSBCによる秘密口座の秘匿法について詳細な報告書を提供した。

3. この報告書は、HSBCが税当局から資産を隠すための効率的な方法として積極的に口座を売り込み、さらに顧客に居住国で税金を払わずに済ます方法を指南したと指摘した。

4.また、HSBCが米国の制裁対象者や「アラブの春」で本国を追放された人々を顧客に抱えていたことも明らかにする。

5.2月9日、HSBCスイスのモッラCEOは、「2008年に大規模な変化に着手し、厳密な法令順守を徹底した。基準に合わない顧客の口座は閉鎖した」とし、過去の問題だと弁論。


その後のニュースを拾っていくと、

* スイスHSBCのオフィスにスイス検事局の数人が入り捜査を行った。検察当局は「HSBCが捜査対象になった。資金洗浄を行った個人に捜査が及ぶ可能性もある」と述べた(18日 ブルームバーグ)

* 昨年11月、フランス検察当局、脱税で得た利益のマネーロンダリングに加担した疑いでHSBCを捜査していることを明らかにする。米司法省も秘密口座を通じて脱税をほう助したとして捜査対象としている。(9日 WSJ)

* 13日、イングランド銀行(英中央銀行)、「HSBC 疑惑は同社の取引について深刻な問題を提起している」と指摘。中銀が調査する可能性を示す。

* HSCBホールディングスのフリント会長が英議会の喚問を受ける。不倫と会長は事件発覚時の財務担当取締役であり、責任が追求される可能性がある。S&Pは危機時に政府が支援する可能性が低下したとし、HSCBの格付けを引き下げる(20日 ブルームバーグ)

これはかなりの大ニュースだ。

イギリスの大手銀行HSBCが多くの富豪の脱税を幇助していたことが明らかになった。

まずはアカハタ報道から。

1.HSBCはイギリスの金融大手である。

2.2007年に流出した顧客名簿の内容が今回明らかにされた。

3.同時に、HSBCがスイスの子会社を通じてこれらの富豪に脱税や資産隠しを“指南”していたことも明らかになった。

4.HSBCは謝罪広告を出し、スイス子会社の口座数を7割削減したことを明らかにした。

5.HSBC会長は、07年当時イギリス政府の貿易投資相の座にあった。このためキャメロン首相の任命責任が問われている。

というのがFacts。

これに顧客の一部が紹介されている。

アサド・シリア大統領のいとこ、李鵬・中国元首相の娘、アフリカの“血のダイアモンド”の輸出業者、アルカイダへの資金提供者など
ほかにもスポーツ選手、俳優、王族といった世界各地のセレブから、テロ組織や紛争の関係者までふくまれている。

…ということである。

この中でもとびきりの衝撃は李鵬の娘だろう。中国はこの情報に感づいていた可能性がある。汚職摘発の手はいまや明確に李鵬を標的としており、その近辺に及んでいる。

李鵬が失脚すれば(畳の上で死なせたくはない)、それは天安門の再評価につながってくる。ということで、こちらも目が離せない状況になってくるようだ。

釧路の孫が血管腫の治療のため我が家に泊まっている。久しぶりの大所帯で、妻が何もできない障害者だから、てんてこ舞いしてる。

斗南病院の形成外科にかかっていて、インデラール治療を受けている。古い医者にとっては話はレーザーで止まっていたが、なんでも画期的な治療なのだそうだ。

そこで少し調べてみる。


話は2008年に遡る。

New England Journal of Medicine にこの治療法が掲載されたそうだ。

著者はフランス人で、Láeautáe-Labràeze らとなっている。

きっかけはまったくの偶然だった。著者はもともと小児循環器の専門らしい。閉塞性肥大型心筋症に対する治療としてインデラールを用いたのだそうだ。これはむかしからHOCMの標準的治療として確立されたものである。

これらケースの内、2例は重篤な乳児鼻腔血管腫を併発しており、ステロイド治療中であった。インデラール投与後に患児の血管腫は消退した。

その後10例の乳児血管腫に対してプロプラノロールを投与したところ、いずれにおいても良好な治療成績を収めた。

Leaute-Labreze C, de la Rque ED, Hubiche T, et al: Propranolol for severe hemangiomas of infancy. NEJM 358:(4) 2549-2651, 2008

NEJMのエディターもよくこんな論文を載せたと思うが(割とそういうところのある雑誌ではあるが)、これは大ヒットだった。その後多くの追跡で、即効性があること,経口投与可能で低侵襲であること,副作用が少ないことなどが次々と報告された。

2012年4月 American Academy of Dermatology の年次総会で、プロプラノロールが新たな標準治療となりうることが認められた。

報告者は、初期成績が素晴らしいこと、血管腫の安定だけでなく縮小も生じること、概して安全であることなどをあげている。主要な副作用として低血糖が報告され、他に睡眠障害、手足の冷え、傾眠、高カリウム血症、胃食道逆流などが報告されている。最大の潜在的副作用として懸念されるのが気管支けいれんだが、その報告はない。

それまでの標準治療であったステロイドとの対照試験が行われた(マイアミ研究)

110例の報告では、著効率がステロイド29%に対し、インデラール82%とケタ違いの成績。 副作用はステロイドの100%に対し、インデラールは低血糖1例のみだった。

その後の研究で、増殖後段階でも効果があるが、成人型に対する有効性は確かめられていない。部位特異的効果があるようだ。鼻の先端の病理には奏効性が低いようだが、眼周囲および耳下腺病変は非常によく奏効する。また浅在型には著効し,深部型には無効、混合型はその中間とされる。
プロトコールについて(私見もふくめて)

1 日 1~3 mg/kg を 1 日 2 回または 3 回。通常の目標投与量は 1 日 2 mg/kgとされる。

ただし、長年インデラールを使ってきた私としては、いくつかの留意点がある。まず第一にインデラールへの薬剤感受性は欧米人と日本人ではまったく違うことだ。おそらく5分の1くらいの用量で効くのではないだろうか。もう一つは脂溶性薬剤であるがゆえに、蓄積効果みたいなものがある。初期量をそのまま続けると過量になる危険があることだ。半年から1年位してから、患者さんから「実は…」と切りだされることがある。

治療開始前に心臓専門医が患者全員を診療し、患者全員に心エコー検査を行う病院もある。そして初回投与から目標投薬量となるまで初診で最低 2 時間のバイタルサインの測定が必要だとされる。

一番難しいのは「いつやめるか」ということらしい。いまだに「治療に必要な正確な期間は判明していない」とされている。リバウンドを避けるためには漸減していかなければならないが、そのやり方もまだ手探り状態だ。

積極的治療を 6 ヵ月経過前に中止した場合、再増殖したという報告がある。いっぽう、再発例に対してもインデラールが有効との報告もある。

私が考えるには、一番有効な方法は脈拍数ではないだろうか。インデラールはさまざまな効果があるが、もっとも顕著なのは脈拍への効果(陰性変時効果)である。同一年令の平均脈拍の90%を維持するように調整していけば話は簡単になる。要は自然消退する良性疾患だということを念頭に置いて、ムリしないことだ。


プロプラノロールの作用機序

血管収縮、血管増生阻害、アポトーシス誘導の3つが想定されている。

1.血管収縮

血管腫の本体である毛細血管内皮細胞はアドレナリン受容体を持つ。アドレナリンはα1受容体やβ2受容体に作用し、血管を収縮、拡張させる。

インデラールはβブロッカーであり、アドレナリンによる血管拡張を阻害する。このため内皮細胞の血管収縮を起こす。

これが血管腫の縮小に結びつくのではないか。

2.血管増生阻害

血管増殖促進因子には血管内皮増殖因子(VEGF)などがあり、これらの活性は血管腫の成長期に高まる。

βブロッカーはVEGFの発現を阻害し血管増殖を抑えるとされている。

3.アポトーシス誘導

こちらはβと言ってもβ1の方で、β1の刺激でアポトーシスが抑制されるという成績があるらしい。この支え棒を外してやるということになるのか。

この辺は、気管支痙攣への配慮からしても、選択的β1阻害薬との比較がほしいところだ。


紙智子さんが全中問題について語っている。
2つのねらいがある。一つはTPPを巡って「お上に楯突く奴は許さない」という逆上的発想だ。これを見た業界団体は震え上がるだろう。産業報国会の復活への第一歩だ.
もう一つは、以前からの、とりわけアメリカ筋からの要求だろうが、岩盤規制の打破だ。ずるい奴は安倍の感情激発を見て「待ってました」とばかりに話を持ちだしたのだろう。
まぁ傍から見ていてもひでぇなと思う
農協といえば保守の岩盤だった。自民党にとっては糟糠の妻のようなもので、どんな苦境にあっても最後は救ってくれた恩ある組織だ。霞ヶ関の方針を農村に広げる装置としても機能してきた。
しかしいまは見る影もなくやせ細ってしまった。それでも操を尽くしている。安倍首相にこそ反感を抱いても、自民党への忠誠は微塵も揺らいでいない。
紙さんは、長いこと農政畑をやってきた人だから、農民への思いが農協への態度に出てくるのだろうが、正直、農協が自民党の集票マシーンとして政治の革新を妨げてきたことも間違いない。
そういう農協を切って捨てようというのだ。櫻井よしこは農協を「寄生虫」と罵倒している。しかもその後ろには、切って捨てた死体を切り刻んで食ってしまおうというハイエナまがいの連中がうごめいている。

独禁法の乱用ではないか
ただ、一歩退いたところから紙さんの意見を聞いていると、国民全体に関わらざるをえない最大の問題は、独占禁止法の恣意的適用にあるのではないかという気がする。
人を殺すのはいけないが、違法な手段で殺すのは、もっといけない。それは経済民主主義という国の制度の根幹にかかわる。
独占禁止法そのものの是非について言っているのではない。これまでさんざん政府が風穴を開けてきたことについて言っているのでもない。
いまある法律は法の目的を踏まえて厳密に運用しなければならないのである。
農協がいかなる組織なのかもここでは問わない。そもそも協同組合がどのような理念を持ち、どのような法的枠組みのなかで活動しているのかも、ここでは問わない。
ただ現在の農協と全中の活動が経営体的な側面を持っていることは間違いない。そこにしほって、一経営体として全中を見てみよう。
農協は経済強者なのか
はたしてそれは独占禁止法の対象となるのか。問題は資産の額とかシェアーとかではない。そこに独占禁止法で禁止されているような不正があるかどうかだ。
たしかに農協は政治的には時の権力となあなあの関係を保つなかで、政治的には影響力を発揮してきた。しかし独占大資本のような経済的な強者とはいえない。
そしてもうひとつは、現在すでに合法化されている持株会社の活動の規制枠に比べ、違法性が高いか(売買に強制が伴っているか、不当に利益率が高いか)どうかだ。ここが法に照らしあわして厳密に適用されないと、恣意的適用というしかなくなる。
ことは農協にとどまらない
当然生協もかかわってくる。独禁法適用が共同購入を狙い撃ちしているからだ
日刊ゲンダイには次のような意見が掲載されている。
独禁法は消費者保護の観点から、不当な取引制限や不公正な取引を禁じた法律ですが、相互扶助のための『組合』は 除外しています。農協も経済弱者の農家を守るために農協法で規定されている。仮に農協に独禁法が適用されれば、農薬や肥料、農機具など、共同購入している 資材について価格交渉権を失う。経済事業は成り立たなくなり、農協は壊滅的な影響を受けるでしょう
今のところ、独禁法の適用(適用除外の廃止)はそれ自体が目的ではなく、脅しの手段として使われている。ヤクザの脅しで「いうこと聞かないと、可愛い娘が泣きを見ることになるぜ」というセリフである。
こういう脅しがまかり通ることになれば、生協や民医連など共同購入を進める自主的組織は、すべて脅しの対象になる。


溝口優司「アフリカで誕生した人類が日本人になるまで」(SB新書 2011)

猿人の部分の抜き書き

1.バラントロプス

バラントロプスはアウストラロピクテスの後期と重なって生存していた。草食に適応した骨格を獲得し、160万年間にわたり生息した。

しかし彼らの生活はほとんど食べることに費やされた。栄養価の低い“粗食”に完璧なまでに適応しまったがゆえに、環境の変化に対応できなくなって絶滅した。

本にはこれだけしか書いてない。もう少し調べておく

ウィキペディアの記載

パラントロプス (Paranthropus) は、東アフリカと南アフリカに生息していた化石人類の属である。パラントロプスとは、「人のそばに」という意味。

200~120万年前にかけて生息した。かなり長期間、後期アウストラロピテクスから初期のホモ属と同時期に生息していたが、100万年ほど前に絶滅したと考えられている。

後期アウストラロピテクスとは頑丈型として区別される。発達した顎と側頭筋を持ち、堅い食物を摂取する方向に進化したと思われる。

同種ではないにしてもアウストラロピクテスの親戚筋であるのは間違いないようだ。

2.ホモ・ルドルフェンシスが最初のホモ属?

パラントロプスで検索しているうちに美しい図を見つけたので転載する。

a.jpg

この種の系統図は、書く人ごとに違うので大体の流れという感じで…

パラントロプスがさらに三種に分けられているなど、けっこう細かい。

この絵で見るとA.アファレンシスがA.ガルヒに、そしてホモ・ルドルフェンシス→ホモ・ハビリスという流れになっている。ルドルフェンシスとハビリスの関係は、リーキーの逸話のとおりだ。そうすると問題はガルヒだ。

3.アウストラロピクテス・ガルヒ

ウィキペディアによると

1996年にエチオピアで発見された。脚が長く、石器を使った形跡がある。

当初は現存する人類の直接の祖先であると考えられ、アウストラロピテクス属とヒト属の間の最後のミッシングリンクであると思われた。

しかし現在では、他のアウストラロピテクスよりは進化していたとしても、ホモ属の競争相手の一つに過ぎなかったと考えられている。

ついでにもう一つ、2008年南アフリカで発見されたアウストラロピテクス・セディバ。こちらは180万年前とされ、発見者はこれがホモ属の直接の祖先だと主張している。

これを紹介した記事には以下の脚注がある。

(発見者は)古人類学にかける情熱は人一倍だが,スタンドプレーを好む研究者でもあり…(彼の)提唱した学説は,多くの研究者からは支持されていない,という現状もあるようです。

けっこう、そういう世界なのだ。

4.アウストラロピクテス

ウィキペディアのアウストラロピクテスの項目を読むと、また微妙に違っている。(この項はかなり異端チックだ)

以前は最も古い人類の祖先とされていたがアルディピテクス属の発見により、その次に続く属となった。(この記述そのものが古いのかサヘラントロプスには触れられていない)

約440万 - 約390万年前にA・アナメンシスが、約390万 - 約300万年前にアファレンシスが現れ、約330万 - 約240万年前にA・アフリカヌスに進化した。

この属からパラントロプスと、ホモ(ヒト属)最初の種ホモ・ハビリスが進化したと考えられている。

ほぼ古いものから新しいものへ。
    アウストラロピテクス・アナメンシス †Australopithecus anamensis
    アウストラロピテクス・バーレルガザリ †Australopithecus bahrelghazali
    アウストラロピテクス・アファレンシス †Australopithecus afarensis
    アウストラロピテクス・アフリカヌス †Australopithecus africanus 模式種
    アウストラロピテクス・ガルヒ †Australopithecus garhi
    アウストラロピテクス・セディバ †Australopithecus sediba

ふーむ、ガルヒの次もあるんだ。しかしアフリカヌスからホモ・ハビリスに行っちゃうんじゃ、ガルヒとセディバは立つ瀬がないな。それにアフリカヌスからパラントロプスが分岐したというのも、時期的には遅すぎるのではないか。そもそもアフリカヌスという種は認められているの。

5.アウストラロピテクス・アフリカヌス

ということで、アウストラロピテクス・アフリカヌス。

南アフリカの4箇所で、1924年から92年にかけて見つかっている。アウストラロピテクスと名付けられた元祖である。

2-3百万年前の鮮新世に生きていたと見られ、アファレンシスよりは新しい。

新しいからといって、こちらがホモ属につながった根拠はない。(そもそもホモ・ハビリスがホモ属の祖先かどうかも確証はない)

6.アナメンシスとバーレルガザリ

こうなればついでだ。アナメンシスとバーレルガザリもチェックしておこう。

アウストラロピテクス・アナメンシス

1995年、ミーヴ・リーキーがケニアで発見。400万年前に生息していたとされ、アルディピテクスからアウストラロピテクスへ移行した形跡が伺える。

アウストラロピテクス・バーレルガザリ

チャドで見つかったということが話題。頑丈型猿人に似るという。

7.アルティピクス

リーキーと並ぶもう一方の旗頭ティム・ホワイトらは、92年にアルティピクス・ラミダスを見つけている。発見者が日本人(諏訪元)だったため、日本ではわりによく知られている。

アルティピクスの仲間は他にも見つかっていて、現在ではアウストラロピクテスに先行する猿人の集団に定位されている。

その諏訪さんの言葉

人間の進化というテーマは、ある意味で誰でも物語を作れてしまうところがあります。みんな自分のことなので、けっこう好きで詳しいですから。研究者も、うっかり安易な物語を作ってしまうこともある。


8.サンブルピテクス

というのもある。京都大学チームがケニアで1982年に発見したもの。950万年前と言うから、チャドのサヘラントロプスより古い。もう猿人ではなく、類人猿とヒト科の分岐部に位置するとされる。

82年といえば猿人発掘史では古いほうだし、日本人の発見ならばもう少し有名でもいいと思うのだが。何か事情があるのだろうか。

調べたところ、類人猿の起源については非アフリカ説が有力なようだ。非アフリカ派はサンブルピテクスは共通祖先の系統にはつながらないとしている。


9.ケニアントロプス・プラティオプス

もう終わりかと思ったら、変なものが出てきた。

あのリーキーのチームが1998年にケニアで見つけた。

年代は約330万年前。顔面を含む頭骨、歯などが残っている。顔が非常に平らで、「顔の平らなケニア人」と名付けられた。

リーキーは、プラティオプスの顔面の特徴は、他の猿人とは異なりホモ・ルドルフェンシスと似ているので、他の猿人とは独立してヒト属に続く系統であると主張している。

ようするにアウストラロピクテスとは別系統だ。


構造主義年表を書いていて気づいたのだが、これは結局フランス共産党の没落の歴史なのではないか。
アルチュセールの項目を記述していてそう思った。
44年10月にパリが解放されたとき、フランス共産党の栄光はその頂点に達した。
フランスを代表する指揮者デゾルミエールは、共産党に指導されたレジスタンスの中心人物でもあった。彼が集会で誇らしげにインターナショナルの指揮をとっている映像がYouTubeで見ることが出来る。
ナチとビシー政権についたものはことごとくパージされた。シャネルのように汚い経歴を隠して生き延びた連中もいたが…
知識人のほとんどは共産党員かそのシンパだった。
共産党の指導者はスターリン主義者でソ連盲従主義だった。彼らはハンガリー事件もフルシチョフのスターリン批判も頬っかぶりして生き延びようとした。
ロシア人はフランスに対して強烈な文化的コンプレックスを持っているから、少々のことは大目に見た。
こうしてフランス共産党は「ソ連共産党の長女」としての地位を享受しつづけた。
共産党のシンパたちも個々の課題では多少違いがあっても、同伴者の位置を保ち続けた。
そこには公認の「弁証法的唯物論と史的唯物論」があり、足らざるところは独特に変形されたヘーゲル弁証法が補完した。ただ党の中核は労働者部隊であり、知識人には多少の“わがまま”は許されていたが。
レヴィ・ストロースの親族論は現代数学で華々しく縁取られているとはいえ、文化人類学の一論文にしか過ぎない。それが、というより彼が脚光を浴びたのは、むしろサルトル批判のためだったのではないか。
その批判は客観的に見て相当筋違いで、難癖をつけているに等しい。にも関わらずサルトルがグダグダと腰砕けになるのは、それが近代ヨーロッパ批判という衣をまとったスターリン批判だったからではないか。
ご本尊は耐えられても、同伴者にとってこの批判は致命的だ。しかもサルトルは第二のスターリンを求めて毛沢東に接近することになるわけだから、ほとんどサルトル側の自滅だ。
これが第一ラウンド。
第二ラウンドになって、本家アルチュセールが登場する。サルトルなら素人のレヴィ・ストロースでも奇襲できたが、共産党とマルクス主義を相手にするには荷が重い。
アルチュセールは構造主義の擁護者として登場し、スターリン批判をさらに徹底しようとする。そのために相当激烈な議論を展開するが、この「客観的唯物論」は弁証法の否定という重大な問題をはらんでおり、思想的な「自爆テロ」となる。
そこに持ってきてカルチェラタンが勃発する。構造主義はその無能ぶりをさらけ出す。フォイエルバッハのテーゼ、「世の中を解釈するのではなく、肝腎なことはそれを変革することだ」という議論こそ、構造主義の最も忌み嫌うところだからだ。(岡本雄一郎さんの「フランス現代思想史」の帯には「いま世界を考えるために」と書いてあるが、我々にとっては「いま世界をどうするか考えるために」であろう)
共産党はソ連の意も受けて、ドゴール体制を支持し秩序回復に動き出す。ただし、このへんの動きは日本のトロツキストへの対応と重ねあわせては困る。日本共産党はソ連や中国の共産党、要するにスターリニズムと闘いながらトロと対峙したのだ。
アルチュセールはこの時期スターリニストに回帰する。「プロレタリア独裁」も丸ごと飲み込む。ソ連のチェコ侵入も黙認する。ある意味では無残である。
結局、69年にフランスで起きたことは戦後進歩思想の崩壊である。フランス共産党は道徳的権威を失い、構造主義は現状変革への無効性を暴露され、後に思想的混沌だけが残った。
若者は仕方なしに構造主義の残滓をかき集めポストモダンを創りだした。そこには何の緊張感もなくただ言葉だけが踊った。フォークソングがニューミュージックに変わっていくようなものだ。歌には世界各国の洒落た和音やコードが付けられ、洗練されていくが、曲の意味はますます失われていく。
そして最後にはその無内容さが暴露され一巻の終わりとなる。
こんな感じかな。

構造主義を年表化しようとするのは、まさに反構造主義的な作業でしょう。


1906年 ソシュール、ジュネーヴでの講義を開始(講義録の発刊は16年)。ソシュールの言語学はすでに論じている。一言、シニフィアンsignifiant(聴覚イメージ)とシニフィエsignifie(概念)は、漢字のつくりと偏のことである。偏が意味で、作りが音である。たいしたものではない。

1935年 ブルバキ・グループ、「公理を満たす数多くのモデルの全体により、その公理が提示 する構造を把握する」ことを提起。3つの母構造(代数的構造、順序的構造、位相的により全数学モジュールを構造(システム)に従属させようとする。(…と書いては見たが、さっぱりわからない)

1949年 クロード・レヴィ=ストロース、「親族の基本構造」を発表。婚姻体系の「構造」を説明する。自覚的な意識や主体性に、いわば、無意識の秩序が先行していることを示す。ブルバキの方法論を応用したことから、方法論的特徴(かっこいい)が注目される。

ピアジェ、発達心理学に抽象代数学を持ち込む。構造主義者の一人とされる。

1955年頃 ラカン、精神分析の手法として脱人格的接触を主張。難解な言葉を吐く変わり者の精神分析医。

アルチュセールはラカンを評価していたが、精神分析については信じていなかったようだ。48年教え子のフーコーが自殺をはかった時、「精神分析によってではなく、仕事によって病気を乗り越えるように」とアドヴァイスしたそうだ。フーコーも後に精神分析を批判しているが、これは後出しジャンケンに近い。

1960年頃 構造主義経済学が登場。発展途上国の経済構造は先進国とは異なるものであり、それゆえに経済格差が発生するとし、先進国と発展途上国で経済理論の使い分けが必要と主張。

良く分からないが、プレヴィッシュやミュルダールの発展途上国に関する議論は戦後まもなくから開始されており、ラテンアメリカでは普通「従属経済論」と呼ばれている。誰かがこの潮流に対して構造主義の名を冠したのではないかと思われる。

1962年 レヴィ=ストロース、「野生の思考」を発表。未開人の「神話的思考」は,決して近代西欧の「科学的思考」に劣るものではなく,象徴性の強い「具体の科学」であると主張。その最終章で、先進国中心思考だとして、サルトル(実存主義哲学)の主観や意識重視を批判する。

私注: 主観や意識重視はそのとおりだが、だからサルトルが欧州中心主義だとはいえない。サルトルはアルジェリア解放闘争に深く関与した。“何もしなかった”レヴィ・ストロースのサルトル批判は、けたぐり的な言いがかりだろう。
サルトルの思想は良くも悪しくも同伴者思想であり、マルクス主義、正確に言えばその戯画としてのスターリン主義が廃れば、共に廃れるしかなかったのであろう。

1965年 アルチュセール、「資本論を読む」を発表。マルクスの思想をヘーゲル的弁証法や主観主義などから解放(認識論的切断)するとし、骨格標本化を試みる。

ただしこの際、“ヘーゲル的弁証法や主観主義”は忠誠を押し付けるスターリン主義を指している。
それにしても弁証法の放棄は間違いだ。アルチュセールは70年代に入って、これらの主張を事実上撤回している。

1966年 フーコー、「言葉と物」を発表。構造主義の代表作としてベストセラーとなる。

フーコーの本は叙述的で、随所に彼の思想が散りばめられる(日本で言えば司馬史観)。ただしその叙述は不正確だという。歴史家としてのフーコー」を参照のこと。
エピステーメー(ときどきの社会規範をあらわす造語)として言説(情報のことらしい)を取り上げ、社会のネットワークから端末を取り外し、網(言語)のみを哲学の対象とする。

レヴィ=ストロース、フーコー、ラカン、バルトの四人が構造主義者と呼ばれる。

67年 デリダ、レヴィ・ストロースを「他者を根源的な善良性のモデルに仕立て上げ、自らを弾劾・卑下するにすぎない」と批判。

デリダがどういうつもりで、どう言ったのかは知らないが、日本人としてはきわめてよく分かる。スペインが新大陸を征服した時、ラス・カサスらは先住民を擁護するために闘った。その時に称揚されたのが「高貴な野蛮人」という言葉だった。「王様と私」というミュージカルそのままである。
これは「野蛮人」たる日本人にとっては、悪気はなくても侮辱である。「ジャポニスム」は裏返しの民族中心主義そのものだ。これでサルトルを論破した気になったのなら、まさに噴飯物でしかない。

67年 ピアジェが文庫クセジュで「構造主義」を執筆。フーコーを糞味噌にやっつける。その後フーコーは構造主義から離れる。

フーコーは構造なき構造主義である。フーコーの構造は形象的な図式でしかない。彼は歴史と発生を蔑視し、機能を軽視し、「人間はやがて消滅する」というほどに主体を否定する。

68年5月 フランス5月革命。構造主義は、政治や社会への参画に対処する力を持てず衰退。

デリダ、構造主義の発想の延長線上に脱構築論を打ち出す。ポスト構造主義と呼ばれる。一つの構造が壊されて、新しい構造が作られていく過程を言語過程として捉える。唯物論の自然・社会というところを“一括置換”して「言語」と置き換えれば出来上がる。

1968年 バルト、テキスト論を展開。「文学テキストに唯一の目的、唯一の意味、または唯一の存在」はないとし、徹底した相対論を主張。(人をけむにまく変なおっさん、以上のものではない)

1972年 ドゥルーズとガタリが「アンチ・オイディプス」を発表。この辺りから、マルクス主義の世界と断絶し、実践と遊離し、思索はつぶやきとなり、何を言わんとしているのかが分からなくなる。(認知症の進行と似ている)

1980年 アルチュセール、妻を絞殺して精神病院に収容される。5月革命においてすでに思想的にパンクしている。

1984年 ポスト構造主義が「ポストモダン」と呼ばれるようになる(日本ではニュー・アカデミズム)。表現が一段と難解になり、衒学趣味(文系人間の劣等感を刺激する)に陥る。

1994年 ソーカル事件が発生。ポストモダンはあっけなく消滅する。

ニューヨーク大学物理学教授のアラン・ソーカルが、科学用語と数式をちりばめた無意味な内容の疑似哲学論文を作成し、これを著名な評論誌に送ったところ、雑誌の編集者のチェックを経て掲載された。直後にソーカルは、でたらめな疑似論文であったと声明。

1995年 ドゥルーズが自殺。

1997年 ソーカル、「知的詐欺」を発表。「われわれの目的は、まさしく、王様は裸だ(そして、女王様も)と指摘する事だ」とし、ジャック・ラカン、ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリらをなで斬りにする。

2001年 アントニオ・ネグリが「帝国」を発表。


以下の記事はルモンド・ディプロマティーク(英語版)の2月5日付の記事。フランス人特有の癖があって、ちょいとうざったい。

参考までにウィキペディアから支持率の推移図を転載しておく。



「5月15日」からポデモスへ

2011年5月15日、国際報道機関がlos indignadosとしてに紹介した何十万人ものデモ参加者は、プエルタ・デル・ソール広場(マドリード)にあつまり、銀行の完全な支配する経済と、民主主義のに対してノーを突きつけた。

彼らは組織や政党の旗、しるしとスピーチを拒否した。そして、スローガンを持った。

「連合した人々は政党を必要としない」

広場は、もはや占拠されていない。

変化に対する欲求は残るが、意外にも新しい政党「ポデモス」(我々には可能だ)のまわりでできた。

ヨーロッパ中の大部分の政党が不評であるのに、ポデモスは先例のない成功を持っている。

「それは、信じるのが難しい」と、ポデモス幹部のパブロ・エチェニクが最近話した。

直接民主主義から政党結成へ

「我々の政党は、2014年1月につくられた。5ヵ月のあと、我々はEU選挙で8%の投票を得た。今日、全ての投票は我々が国での最大の政治的な勢力であることをしめしている。

ポデモスのリーダーは、世論調査と選挙が同じものでないということを知っている。

1月の選挙は、社会主義労働者党と人民党より前にポデモスを置いた。

総選挙(それは、2015年12月20日までに持たれなければならない)でのポデモス勝利の可能性は依然として確かなことだ。

ポデモスの創設は 「5月15日」運動が政治の社会運動に基づく概念に閉じ込もっていたことに端を発する。と、社会学者ホルヘ・ラーゴ(ポデモス幹部)はいう。

「デモ参加者の強さの建設が必然的に政治的な結果をもたらすだろうという考えは、間違っていることがわかった。

入居者追い立てと闘う会と、医療セクターの切り捨てに対する抵抗ネットワークは確立された。しかし運動は蒸気が尽きて、ばらばらになっていった。

投票行動に対する失望もあった。

80%の人々は運動に同意すると言った。しかし、彼らは同じ古い方法で投票し続けた。そして保守党は2011年11月の総選挙で地すべりに勝った。

それは、ポデモス創設者に質問を投げかけた。

15-Mに同情した人は何を代弁して欲しかったのか。それは今でもそうなのか? そして、国家の装置を使うとしたら、それは社会変化のために必要な条件なのか?

「5月」の精神

プエルタ・デルソールの運動は直接民主主義に基づいていた。しかしポデモスは「5月の精神」の相続人でありたい。とくに大衆への依拠、透明度と集団的意思決定についてだ。

同時に、そのメンバーは全ての古い垂直政治的な構造を廃止するというところに、罠の一部を認めた。

昨年10月政党の最初の会議で、エチェニクは脱集権化と党の平らな構造、柔軟性を増すべきだとする動議を提出した。

パブロ・イグレシアス(ポデモス指導者)は、「運動の目的を達成することは、組織の内部議論にあまり熱中しないことを意味する」と答え、動議を拒否した。

彼は、地すべり的に勝った。

「M-15」の最も熱心な支持者にとって、これは自治の裏切りのように聞こえた

新党は、もはやシステムの自発的な手先でしかないだろう。

「ポデモスは、社会エネルギーを伝達する方法として、また大規模な実験のプロセスとして起こった」とバルセロナ活動家Nuria Alabaoは言う。

「イグレシアスの側近グループは、ポデモスが15Mの運動を包含するのではなく、闘いを進める新しい方法を提供したのだ」

腐敗は構造的である

ポデモスが敵対するのは「カースト」と言う国のエリートである。

スペインでの横領のレベルは、フランスをさえ高潔に見えさせる。

ほぼ2,000の横領事件が公式の調査のもとにある。少なくとも500人の高級公務員が横領に関係していると推定され、年間の被害総額は400億ユーロ(5兆円)に達する。

主な政党は与党の右翼の国民党(PP)とPSOE(社会主義労働党)である。彼らは「違法な献金を受けた個人の法的責任の制限」について同意を結んでいる。そして政党が法的限度を超えて利益を得ることを可能にしている

長い間不可触とされた王室さえ例外ではない。新しい王の妹(Infanta Cristina De Borbon)のスキャンダルがそれを示している。

35の最大の会社のうちの33が子会社を通してタックスヘイブンで税を避ける。これに対し失業者の半分は何の支援も与えられない。

ラホイ国民党政権になった2009年以降、50万人の子供たちは貧困に陥れられた。いっぽうスペインの超金持ちの富は67%増加した。

昨年12月、気難しい民衆の激怒を避けるために、「市民安全保障」法が制定された。この法律は2011年の動員を避けるためにあらゆるものを非合法化した。公共の場での集会が禁止され、リーフレットの配布すら禁止された。

ポデモスは、スペインの不動産泡がはじけたとき、それが1978の憲法から始まっているコンセンサスの基礎を破壊したと考えている。

経済危機が政治的な危機を引き起こす。どんな深い社会変化でも先人が必要だ。2011年5月の思い出とともに、いまや立憲過程の機が熟した。

それは国家のメカニズムによって国家を変えることだ。

ポデモスと既成左翼

しかし、スペインの状況は、ポデモスの最近の上昇を説明しない。

統一左翼(IU)は長く類似した政治的なプログラムを進めてきた。しかしこの国政治秩序を変えるには至っていない。

ポデモスのリーダーは、左翼は長く難解な分析、曖昧な論拠と不透明な言語の集団だったと考える。

人々はイデオロギー、文化または価値によって誰かに投票するわけではない。彼に賛成するから投票するのだ。候補が普通に、好い人で、ユーモアのセンスを持つならば。

経済民主主義

ポデモスの最初の作業は、左翼の従来の語法をできるだけ平明に翻訳することだった。最も幅広い支援を得るにはそれが必要と考えたからだ。

それが民主主義、主権と社会正義だ。「我々は、資本主義について話さない」と、ラーゴは言う。

我々は、経済民主主義の考えを守る。そして、左右の議論には乗らない。なぜなら分割は、いま我々のような民主主義を守る人と、エリート、銀行、市場の味方との間にあるからだ。それはトップとボトムとの間、一握りのエリートと大多数の間にあるからだ。

マルクス主義の正統性の保護者は、この未分化の社会評価を批判する。

昨年8月、ひとりの活動家が「プロレタリアート」の用語を決して使わない理由について尋ねた。

イグレシアスは、答えた。

「15Mの運動が開始したとき、マルクスとレーニンを読んだ非常に政治化された学生たちも参加した。彼らは最初は一般学生と肩を組んで行進した。

しかしすぐその後、彼らは変装を解いて、『かれらは、何も理解しない!』と叫び始めた。

ポデモスの指導者の一部は極左運動の出身だ。しかし、2014年のEU議会選挙では、右翼の支持者からも10%の得票を得た。

スペイン中で1000以上の「ポデモス集団」が創設された。それを通じてポデモスは支持を獲得するようになった。

都市の大学で教育を受けた若いメンバーは、その後ホワイトカラーやブルーカラーの労働者、地方住民の中に参加した。

このような階級同盟は、もっと良いものが出現すればばらばらになる。それが歴史的傾向だ。ポデモスはこのような運命を避ける事ができるのだろうか。

それはわからない。しかしいま勝利の可能性がある時にそこから逃げることはできない。それは辺縁化した左翼に代わり、将来に向けてのシェルターにはなるだろう。

スペインのエリートは憂慮する

12月、経団連のフアン・ロセルは、ポデモスに対抗してPPとOSOEがドイツ型大連合を組むよう提案した。

ポデモスのプログラムに過激な内容はまったくないのだが。それでもスペインのエリートたちは憂慮している。

憲法制定議会が成立すれば、エネルギー、税制改革、負債リストラ、定年引き上げ、35時間労働、君主制に関する国民投票、スペインの自決とブリュッセルに奪われた権限の回復などが議論の俎上に載せられる。

反共攻撃はすでに厳しさを増している。「エル・ムンド」の記者はイグレシアスをルーマニアのかつての独裁者チャウシェスクに例えている。

「彼は最貧困層の血を最後の一滴まで垂らし続けるだろう」

国民党の議員はもっと直截である。

「誰かが弾丸を彼の後頭部に打ち込まなければならない」

ポストモダンの衰退を社会主義の復権と結びつけて論じた文章が見つかった。

ちょいと難しいので、分かる範囲で書き出しておく。

ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2014年5月号の文章。

「文化的個別主義」に反対する 左翼の武器、普遍主義

著者はニューヨーク大学社会学部準教授ヴィヴェク・チーバーという人。去年4月の記事だ。

書き出しはこうだ。

果てしがないかと思われた冬の後、資本主義とその新自由主義ヴァージョンに対する世界的な抵抗運動が復活してきている。過去40年以上もの間で、この種の運動がこれほど精力的に全地球規模で生じたことはなかった。

これはまさしく実感。

運動がこのように再出現した結果、この間の運動の退潮によって起きた被害の大きさにも光があたることになった。労働者が保有する運動の手段 は、かつてないほど脆弱になっている。労働組合や政党などの左翼組織は実質を失い、財政緊縮の支配の共犯者とすらなった。

その典型がイタリア共産党のなれの果ての「民主党」だ。

さらに、左翼の弱体化は政治・組織面ばかりではない。理論面でも同様である。

敗北に次ぐ敗北は、空前の知的衰退をもたらした。社会の変革という観念が知の風景から撤退したというわけではない。だが政治的急進性の意味そのものが変わってしまった。

たしかにそうだ。

「資本主義は本質的に抑圧的だ」とか、「世の中は搾取する少数と搾取される多数からなっている」とか、「労働者が団結することが勝利の鍵である」というような命題はいまや時代遅れとされている。

さてこれから構造主義批判が始まる。まず用語の問題。私の言う「構造主義」はアルチュセール、プランツァスからアントニオ・ネグリに至る現状追認派の流れだ。もちろん哲学畑の連中も十把一絡げにしている。

著者はこれをポストコロニアル学派と呼ぶ。

ポストコロニアル学派の主張

彼らに共通するのは、社会階級、資本主義、搾取といった概念の否定だ、と著者は言う。

マルクス主義は、ヨーロッパという土壌に形成された杓子定規な枠組みのうちに各地の特殊性を押し込むに過ぎない。

普遍主義という公理は、植民者権力の中心的支柱のひとつである。なぜなら、人類は『普遍的』な特徴をもつとする考え方は事実上、支配者のものだからだ。

普遍主義の神話は、『西欧』こそは『普遍』であるという公理の基盤に立った帝国主義的戦略に属する…

こういう持って回った言い方によって、社会主義を敵視し、階級闘争やグローバルな連帯を結局は否定していくのだ。

そこで問題は社会主義、とりわけマルクス主義が“西欧中心主義にすぎない”のかどうかの検討が必要になる。

マルクス主義の2つの前提

1.資本主義は、地その網に落ちた誰に対してであろうと、制約を押しつけるという法則だ。

2.資本主義が強化されるにつれ、遅かれ早かれ労働者側がそれに反旗を翻すという法則だ。

それらはいずれも、宗教や文化的アイデンティティとは無縁のものだ。それらは過去のあらゆる経験が実証している。

抵抗に生命を吹き込むメカニズムは、個人の幸福への希求と同じく、普遍的なものである。

しかし彼らは、民衆の抵抗を普遍的なものとしてみることを拒否する。なぜなら

社会闘争を唯物論的観点に結びつけることは、ブルジョワ的合理性を割り当ることに帰する。

からだ。しかし多様な要求の根底には生きることへの共通した願いがあるのではないか。

剰余価値の高い部門では、労働者は日々の生存のために闘うよりも、生活水準の向上に専念するだけの余裕はもつ。

だが「南」と呼ばれる諸国や、先進工業国のどまんなかでで増大しつある一部の部門では、別の事態が起きている。

このように批判したあと、著者はポストコロニアリズムが果たした歴史的役割をシニカルな筆致で締めくくる。

彼らは夥しいインクを使って自分たちが建てた風車を相手に闘った。

ローカルな文化と引き替えに、普遍的な権利という観念の信用を失墜させるとは、民衆の権利を蹂躙する専制者に対する、なんと素晴らしいプレゼントだろうか。

ピケティ・ブームは15年前のネグリ「帝国」ブームと重なり合う。これはブームとはいえないほどのものだったが、読者を暗澹たる気持ちにさせるには十分だった。

それはグローバル化した資本主義への敗北宣言であり、そういう世界のなかでシコシコやっていこうよという呼びかけだった。

言葉の上では異質性を突き出し、移民の移動と先々での闘争で現状を変革しようみたいなものだった。

それは資本主義への降伏であると同時に、思想的には構造主義への屈服でもあった。

資本主義がますます世界を席巻し、これとの国際的な闘争が必要となっているにもかかわらず、そのような闘争は欧州中心思想だと横槍を入れて、水を指す役割を構造主義は果たしてきた。

同じ時期、私は多様性の問題を統一性の枠組みのなかで捉えるべきだと主張していた。多様性は、人類社会の価値観としては最上位に置かれるべき観念だと思うが、それは統一があって初めて可能になるし、世界を支配する資本家階級との闘いがあって初めて実現するのである。

イスラム原理主義の暴発を見るとつくづく痛感するのである。

構造主義はこのような国際闘争に住み着いた寄生虫のようなもので、宿主が弱れば繁殖し、宿主が死ねば死に絶えてしまうのである。

構造主義(ポストモダン)は死んだ。しかし闘いは生き返った。世界の99%が1%に闘いを挑まなければならない状況が現出した。

2011年にオキュパイ運動として噴出した怒りは4年を経て明確に資本家階級の専横を許さず、社会の仕組みを変える運動として再登場してきた。

世界の青年たちは怒りを変革のプログラムに変え、その一歩を踏みだそうとしている。「ラテンアメリカのように闘おう」という動きが世界で強まっている。

ピケティ人気がすごい。街の本屋でも平積みになっている。15年前の「帝国」ブームとは比較にならない。

本日の北海道新聞を見たら、なんと見開き二面でピケティ特集。

私もミーハーになって、記事を後追いしてみよう。

一昨年9月に仏語の原本が出版されると大きな話題を呼び、昨年4月に英訳版が米国で大ヒットした。ニューヨークの講演会では「ロックスター経済学者」ともてはやされた。

日本でも邦訳版が出ると関連本が次々と出版された。今年1月の来日時、各地で開かれた講演会はいずれも満員だった。

93年、22歳にしてマサチューセッツ工科大学の准教授に就任。しかし経済学の研究手法に違和感を感じた。「わざわざ複雑な数式を使って、いかにも難しい学問をやっている、とアピールしているようだった。“経済学は複雑”というのは正しくない」

2年後にはフランスに戻って研究を続けた。200年以上にわたる各国の税務情報を分析して、「21世紀の資本」をまとめた。

「経済学者としては歴史学的すぎる」試みだった。「経済学者は数式の世界に閉じこもらずに、もっと現実世界を見るべきだ」と語る。

1月にはフランス政府が「レジオン・ドヌール」を授与しようとしたが「政府に評価されなくてけっこう」と拒否した。

以下はインタビューのさわり

大昔から長期的には格差が拡大してきた。近年の例外として第一次大戦から70年までは格差が縮小した。これは二度の大戦で富裕層の資産が破壊されたためだ。

ほかに戦費調達のため富裕層への課税が強まったこと、土地改革で大地主が減ったことがあげられる。

しかし80年代のレーガノミクスからは富裕層への課税が弱まるなどして格差がふたたび拡大している。

今後世界各国の経済成長がますます鈍化すれば、それに対応するための金融緩和と相まって、資産を運用する富裕層とそうでない階層との格差は拡大するだろう。世襲財産で運命が決まる19世紀のような社会に戻るかもしれない。

この後税制改革の話に移っていくが、ここについてはとくに新味はない。

次に、ピケティ理論の解説代わりにQ&A

ピケティ理論の新しいところは、世界各国の税務情報を200年以上さかのぼって調べ、資本収益率と賃金の伸び率を比較した。

資産からの利益は200年のあいだ、年率4~5%で推移してきた。一方経済成長率は年率1~2%だった。国民所得の伸び率もほぼ同率で推移してきた。

したがって資産家の利益と労働者の所得との格差は歴史的に拡大してきた。

これがピケティの主張の骨子である。

これに対するまともな批判は「過去はそうだったとしても、将来もそれが真実であると裏付ける理論がかけている」というもの。

もっとおバカさん(一橋大学の先生)は、「将来経済が成熟化すれば資産から得られる収益も下がる可能性がある。格差が開くとは限らない」と「反論」する。この本はそういう“言抜け”を許さないために書かれた本でしょう。


解説者も頓珍漢なところがあって、マルクスとどこが違うかと質問した上でこう答えている。

マルクス主義は、資産家は労働者を働かせて得た利益で工場や投資を拡大し、労働者は搾り取られる一方と見る。

資本家と投資家(金利生活者)の区別もなし、生産された富(コストとの差分)の価格への転化とその分配についての基礎的理解なし…

そもそも大学で何を習ってきたのか? ということだ。

マルクス主義は搾取(剰余価値の取得)も、その大本となる資本主義的生産システムも、すべて認めている。資本主義の否定ではなく、(根底的な)批判なのだ。

その上で、生産が大規模化し社会化されれば、その私的性格と利益優先主義は有害無益なものとなるだろうと指摘しているのである。

そのうえで、ピケティとの違いを上げるならば、税制改革にとどまらず、生産システムそのものを社会的に統制することを主張していることである。

それによって、格差を必然とする社会ではない「もうひとつの社会」、すなわち「次の社会」をつくることが可能だということである。ただし、これは本質的にグローバルな課題であることを念頭に置くべきであろう。

同じ文章を読み続けると、このあたりの力動に関してワロンの所説が述べられている。

ワロンといえば、むかし波多野訳と滝沢訳と苦闘しついに挫折したトラウマがある。

おそるおそる、読んでみる。といっても浜田さんの解説だが…

ワロンは、表象的な認識の系列を感覚運動ではなく、むしろ姿勢・情動に関わる系の方向に求めている。

感覚運動的活動というのは、直接知覚に与えられた場面の状況にあわせ、直接自己に与えられた欲求の動きに応じて、その場に適った行動を行っていく活動のことである。

要するに普通の活動のことだ。これとは別にワロンは別の活動系を想定する。

これを浜田さんは「姿勢・情動の系」と名づけている。

姿勢・情動がもともと他者への伝染・交通性と深く関わるものだけに、意識・表象は、最初から共同的なものとして措定され…

浜田さんは「ある場面に触れて予期的に身構える系」というが、これでは何のことやらさっぱりわからない。この人も結局、波多野・滝沢の同類か

私はこれは「辺縁系意識」と表現するのが一番いいと思っている。解剖学的にもいわゆる大脳辺縁系あたりに一致しているからだ。

「ヒトとしてのDNA」みたいな言い方がよくされるが、そこまでは還元されないにしても、遺伝的に備わった知能みたいなものがあり、それが大脳の基本骨格をなしている。哲学的に言えば人類の「類的本質」ということになる。

ワロンは言い出しっぺということもあり、また当時の脳科学の水準にも規定されて、「あれかこれか」の議論を展開せざるを得なかった。

今日ではこれは大脳の古皮質部分と新皮質部分の二層構造としてすんなり理解できるのである。

ただワロンの議論でもう一つの重要ポイントがある。それは生命意志の首座としての辺縁系である。

情動というのは曖昧な概念であるが、地球上に生命が誕生して以来の生きることへの欲望は、神経の集中点としての脳に集中的に表現されている。

自然の一部ではなく、自然と対峙し能動的に行動する意欲は、動物に共通のものとして、やはり脳に集中している。

そして群れて生活し、共同で生活を維持する人類の生活様式はDNAの内外に記憶として残され、大脳辺縁系に集中している。

このような重層構造として、ワロンの「姿勢・情動系」を捉えておく必要があるのではないだろうか。


下記は、「療養権の考察」(97年)のあとがきの一部である。多分誰にも見てもらえないと思うので再掲しておく。

彼(ワロン)は情動的自我を社会的自我に由来するものととらえ、これを自我の基層として措定する。この基層の上に、能動的実践を経て個性的自我が「析出」され るのである。このように自我を二重に構造化するというアイデアは、リビドー的本性の上に抑制的・社会的自我が構築されるというこれまでの「常識」を覆すも のだけに、極めて魅力的である。

 そこでは「能動性」はリアルで実践的な主体として把握される。ところで問題なのは「姿勢」と呼ばれる情動的な構えである。社会的動物として人類史的に形成された「人間性」というものは、ワロンにあっては、個性的主体の陰に隠れた辺緑的主体として把握される。

 この情動的自我は、それ自体が身体的・衝動的自我と、人類史的にインプリントされた「記憶としての自我」とのなんらかの統一体と思われる。そうしないとワロンの情動的自我は最終的に説明がつかないのである。

 ムィスリフチェンコの「人間概念」には、これと関連して輿味ある記述が多いが、これ以上はさすがに別の分野に入ることになるので省略する。ただ、いくつか紹介しておくと、

例えばグラムシは「社会関係のアンサンブル」というマルクスの規定を「現存する諸関係のみならず、その形成に到る歴史を含めての総体」と読み込んで いるようだが、「記憶としての自我」に近い考えだと思われる。

旧ソ連ではこれを「第二の遺伝系列」と想定する学者もいたようである。いずれにしても「人間 は社会的動物である」というような還元主義的規定では汲み尽くせない、リアルでダイナミックな人間観がそこから導き出されそうな気がする。


心理学のページをちょっと眺めると、こんな記述があった。

ピアジェは感覚的運動と表象とを同一の系列に並べた。なぜならこの2つはともに認識的な活動であり、その分析は認識論的な側面をもつからである。

さあ、最初からわからない。感覚的運動とはなんだろう。表象とはなんだろう。

感覚的運動
まず赤ちゃんは自分に使える感覚機能や運動機能を用い、「空間認知」の学習から始める…
と書いてあるから、おそらく誕生直後の学習活動のことなのだろう。これにより獲得された能力を、ピアジェが「感覚運動的知能」と名づけたようだ。感覚的運動という概念そのものがあるかどうかはわからない。

感覚運動的知能
「感覚運動的知能」という言葉だが、私が考えるにはこのような「知能」などないだろう。それは「知能の芽」でしかない。「芽」ではあるにせよそれは「知能の芽」ではなく「意志の芽」と呼ぶほうがふさわしいだろう。

あるのは感覚でのみ外界を知ろうという活動だけだ。いまの議論には関係ないが…
表象とはなにか

表象という言葉が難しいのは、普通の「表象」という言葉とは違う意味で使っているからだ。我々が「表象」という時は、「イメージ」とか「シンボル」という意味で使っているが、ここではそういう意味ではなく、「イメージすること」という動名詞らしい。英(仏)語の“Representation”の訳語らしい。だとすれば「表象」は誤訳で「想起」が正しいだろう。

ピアジェの言っていること
したがって、ピアジェの言わんとするのは、「五感を使って事物から印象を受け取る。その印象を一旦記憶にとどめ、ふたたび想起して反芻する」というのが、ひとつながりの認識論的過程であるということだろう。

私のコメント
一言で言って、それは相当飛躍した議論である。感覚的運動以外でも、認識内容を記憶にとどめ想起することは当たり前に行われる。赤ん坊の未熟な認識運動とのみ関連付ける必要はまったくない。

もう一つは、それらの行動にどの程度まで高次脳機能が関わっているかである。例えば視覚が運動に結びつく場合、下等生物では視神経から大脳基底核に行き、そのまま錐体路系へと指示が導かれる。

視覚が後頭の視覚野に投影されてイメージ化されるのは高等動物に属する機能であり、そのような動物においては視覚は二重性を持つのである。

乳児のいわゆる「感覚運動」はこれらの機能を十分に反映していない。むしろこれらの積み重ねが圧力となり、やがて高次視覚の“ゲートを開ける”ところに「感覚運動」の意義があるのではないか。

GHQの戦後改革を増補しました。1,2,3のリンクを各ページに付けたので読みやすくなったと思います。
岩波新書の「戦後政治史」から付け加えました。

ここからはっきりしてくるのは「憲法」は押し付けだということです。

しかし、押し付けられたのは憲法だけではありません。

政治犯・思想犯の釈放から始まって、政治・信仰の自由、集会・出版の自由、秘密警察・特高の解体、労働運動の保証、戦争を煽った軍国主義者の追放、軍国主義教育の禁止、農地解放、財閥の解体など数えきれないくらいの改革は、すべて押し付けだったのです。そのひとつが憲法だったのです。

なぜ押し付けたか、時の日本政府に改革の意思がなかったからです。

なぜ押し付けられたか、時の日本国民が大歓迎したからです。

「たとえ押し付けでも、良いものは良い」のです。占領軍が民主主義を押し付けてくれたからこそ、私達は今の生活・社会に住むことができるのです。


もし憲法が押し付けだから悪いと非難するのなら、ほかのすべての改革も押し付けだと非難しなければならないことになります。そうすると自由も民主主義もない世界にもどれということになりますが、改憲論者はそのことには口を閉ざします。



視覚の話で、頭頂葉まで来て、ひとつの結論として、頭頂葉の働きは視覚画像に時間軸を与えることだというところまで達した。そこから次の論理が出てこない。

なぜ時間軸を与えることがそれほどまでに重要なのかが、脳の研究そのものからは出てこないからだ。

それは研究そのものの責任ではない。自分が、ここまで見識を深めながら、それを進化の過程とダブらせてチェックして来なかったからではないか。

振り返ってみると、いくつかのポイントがあるように思う。

1.動物とは動く植物だ

ひとつは動物が動く生き物だということ。それは動く前にまず植物であったに違いないということだ。

生き物は生きるためには栄養を取らなければならない。何もなければ栄養を創りださなければならない。すなわち生合成である。

植物が十分に地球上に繁茂したとき、それに寄生する、あるいはその栄養に依存する植物の一種が出てきても不思議ではない。

そしてその植物が移動し始めたとしても不思議ではない。

植物の動物化の事象はまず海中で展開された。したがって、上記のような話ではなかったかもしれない。しかし本質的には海中を漂う生命体がどこかに固着して植物となり、繁茂して、しかるのちにそれに依存する生命体がでてくという過程は共通すると思う。

だから動物の生命の基礎には植物的なものが存在するはずだ。

2.動くことの本質は移動するところにある

植物が動物になるというのは、根無し草になるということだ。最初はたんなる根無し草だが、そのうち自走するようになる。

植物

動物

移動装置(捕食装置も)

生命維持装置

生命維持装置

栄養産生装置


漂流にせよ自走にせよ、食料を確保しなければならない。そのためには移動というきのが必須のものだ。

目指す食料のもとにたどり着いて、それをどのようにして胃袋に収めるかは多様であり、本質的ではない。動物が示すさまざまな行動と、移動という行動ははっきり分けて考えなければならない。

動物の「動」という字は「移動する」という意味なのだ。

3.動物の脳は移動するためにある

三段論法で行けば、脳は植物にはなく動物に固有である。したがって脳は移動するための装置である、ということになる。

移動は食料の確保という目的に規定されており、どんな未発達な動物においても“目的意識的”行動である。「一寸の虫にも五分の魂」である。

この「目的意識」は、あらゆる感覚を利用して進むべき道を知り、筋肉を動かして進んでいく。動物にあって、移動する意志は生きる意志と同義である。

脳はそのための感覚器と運動器の接合ジャンクションである。しかしそれだけではない。脳は移動する意志、すなわち動物にとって生きる意志の凝集点なのである。

脳研究で、意識や意志の局在を研究している人がいるが、それはそれでけっこうだが、根源的には脳そのものが生きる意志の“宿り”であることを抑えておくべきであろう。

鳥の解剖学はよくわからないので、先ほどの説明もわかったようなわからないようなところがある。
しかし本文を読むほどのガッツはないのでやめておく。
要するに血流途絶による虚血性壊死が本態で、おそらくボルタレンにより誘発されたプロスタグランディンの機能異常が絡んでいるのだろうということだ。
人の場合、妊娠後期にアスピリンを使うと胎児の動脈管が閉塞してしまうということが知られており、なにか類似の病態が働いているのだろう。「腎ポータルバルブ」などという変なものがないから、哺乳類は助かっているということになるのかもしれない
しかし鳥一般についてはどうなのか。ハゲワシに特有の事象なのか。
さらに探すと、下記の論文があった。今度はありがたいことに日本語だ。
鶏尿石病(腎臓痛風または内臓性痛風・尿酸沈着症) 平成 7 年 3 月 31 日の日付になっている。
という教科書的な解説本の一部のようだ。
内臓性痛風は、30年以上前から鶏に認められている疾病です。その病変が特異的であるので内臓性痛風には、(病変の状態によって)急性中毒性腎炎、腎臓痛風、腎臓結石、栄養性痛風、ネフローゼ、その他など様々な名前が使われています。
内臓性痛風は、腎機能の低下によって、尿酸が過多となる状態と、産卵開始により生理的に代謝が亢進し、代謝物が多くなった場合…があります。
その結果として、尿酸カルシウム・ナトリウムが腎臓など様々な箇所に沈着します。
ということで、代謝疾患として位置づけられている。
原因として栄養障害、伝染性疾患、中毒があげられている。
中毒のところを見ると、
サルファ剤、アミノグリコシドのような抗生物質は腎臓を経て体内から除去されるため、腎臓に対する毒性を有する可能性があります。
とだけあって、ボルタレンについては触れられていない。これはおそらく養鶏業界にボルタレンを使う習慣がないからであろう。
というわけで、あとは鶏にボルタレンを食わせてみればはっきりする。誰かやってくれ。

ということで、毎度のごとく日本語サイトにはこれ以上の情報はない。日本人は「なぜ」と考える人が少ないのだろうか。

まず、Wikipedia “Indian vulture crisis” の項

インドにはハゲワシ(vulture)の9つの種が生息している。今日、そのほとんどは絶滅の危険にさらされている、

それは前からそうだっというわけではない。1980年代には、インドに8千万羽「白尻ハゲワシ」(white-rumped vulture:正式名はGyps bengalensis)がいた

それは世界の猛禽のなかで最も多数の種であった。しかし今日その数は数千となっている。

中略

最初はウィルス感染が考えられた。

しかし多くの研究の後、2003年に、Dr. Lindsay Oaks らがボルタレンが原因であると突き止めた。

シミュレーション・モデルでは、死体の1%がdiclofenacによって汚染されれば、インドのハゲワシの1割が生命を奪われると想定された。死体の検討ではその10%が汚染されていた。

その後の研究で、メロキシカム(商品名モービック)なら牛にボルタレンと同等の効果を示すが、ハゲワシには毒性がないことが確認された。

その後は社会生態学的なConsequences が長々述べられているが、腎不全の病態/病理には触れられていない。


あっ、見つけた。

 Journal of Wildlife Diseases という雑誌の2005年の論文

PATHOLOGY AND PROPOSED PATHOPHYSIOLOGY OF DICLOFENAC POISONING IN FREE-LIVING AND EXPERIMENTALLY EXPOSED ORIENTAL WHITE-BACKED VULTURES

訳しにくいが、「白背ハゲワシのボルタレン中毒―病理像と予想される病態生理」みたいな感じか。

おそらく、日付から見てリンゼー・オークスらの原著であろう。

Absutract のみ訳出しておく。

白背ハゲワシがボルタレンを摂取した後、腎不全で死んだ。ボルタレンは家畜の組織内に沈着したものだった。

病理所見: 近位尿細管曲部の重篤な急性壊死が見られた。

糸球体、遠位尿細管、集合管は比較的早期変化の段階に保たれていた。

大部分のハゲワシで広範に尿酸結晶の凝塊があり、このため腎臓本来の構造が分かり難くなっていた。炎症はほとんど認められなかった。

腎表面及び臓器の実質内に広範に尿酸の沈着を認めた。これは「内臓痛風」の所見と一致する。これは腎不全のハゲワシで必ず認められた。

鳥類におけるNSAIDSの生理学的効果についてはほとんどまったくわかっていない。

哺乳類の研究では、ボルタレンがプロスタグランジンの合成を阻害することがわかっている。

我々はボルタレンがハゲワシに腎不全を起こすメカニズムについて次のように提案する。

ボルタレンは、プロスタグランジンがアンギオテンシンⅡを介してアドレナリン刺激を調整する効果を阻害するのではないか。

腎臓の portal valves はアドレナリン刺激に応じて開く。そして portal blood を caudal vena cava に向かわせることによって、腎臓をバイパスさせる。

もし、ボルタレンがプロスタグランディンの腎 portal valves の調整機能を取り去ってしまえば、これらの弁の度外れの活性化が生じ、それは本来の栄養をふくむ血流すらも止めてしまう。そして腎皮質は血流が遮断されてしまう。

近位尿細管曲部に近接した腎皮質の虚血性壊死は、我々が観察したハゲワシの組織学的検討結果と一致する。

ハゲワシ激減の原因はボルタレン


「世界こぼれ話」というコラムに載っていたが、こぼれ話で済む話ではなさそうだ。

話そのものは、インドの拝火教(ゾロアスター)の信者がハゲワシの激減を憂慮しているというもの。拝火教には鳥葬の風習がある。森のなかに鳥葬施設があり、遺体はそこでハゲワシの餌となる。

ところが、ハゲワシが激減してしまったため遺体処理が追いつかないそうだ。以前に比べて20分の1に減ってしまったそうだ。うなぎの比ではない。

原因は思わぬところにあった。ハゲワシはもともと肉食で、牛の死肉を食べる。ところが牛にはボルタレンというクスリが頻用されていた。これが悪さをしたらしいのである。

このクスリは、理由は分からないが、1990年代になって牛に大量使用されるようになったらしい。そしてその死肉を食べたハゲタカが急性腎不全になってバタバタと死んでいったのである。



ボルタレンは一般名をジクロフェナックという。消炎鎮痛剤としてきわめてポピュラーなクスリである。実は我が老健施設でも熱冷ましの座薬として使用している。

ボルタレンは私が研修医の頃登場した。それまでは熱さましといえばスルピリン、アミノピリンだった。いわゆるピリン薬である。よく効くがアレルギーも多かった。

アスピリンは解熱鎮痛というよりは抗炎症剤としてよく用いられていた。「どこが違うか?」と言われるとよく分からない。薬理学的効果はおそらく同じなのだろうと思うが、抗炎症薬というのはもう少し亜急性ないし慢性の炎症に投与して、場合によっては24時間ずっと効いているように設計された薬だ。若年性関節リウマチの人に1日12グラムも飲ませた記憶がある。いまでは考えられない話だ。


ボルタレンはあの頃はシャキシャキの新薬で、劇的によく効いた。アレルギーもなかった。やがてピリンは消えていった。いまでは飲み薬や座薬のほかにシップや軟膏にもなっている。一般医薬品になっているので、マツモトキヨシに行けばズラッと並んでいる。

もちろん腎機能障害の危険があることは医者ならだれでも知っている。高齢者には要注意だ。わたしも高熱時の頓用としてしか使わない。しかし副作用でバッタバッタと死ぬようなクスリではない。どちらかと言えば割と安全なクスリに属するものだ。それはこのクスリが、世界中で多くの人に、長期にわたって使い続けられてきたことからも分かる。

現に牛だって、飲んでいて何かあったというわけではない。ではハゲタカに限って何故そんなにやばいのか、それは鳥類に共通するのかというのが疑問だ。

もうひとつはインドという国が限りなく油断ならない国だということ。ここの連中は何をするかわからない。90年代に入って増えたということは、ノバ社の特許が切れたからだ。変な作り方をしているかもしれないし、第一、どうして牛にそんなに飲まさなくちゃいけないのだ。



ボルタレンは薬理学的にはプロスタグランディン合成阻害薬に属する。プロスタグランディンはなかなか面倒な経路で、炎症を惹起する側にも抑える側にも回るが、ボルタレンの場合は炎症を惹起する側(シクロオキシゲナーゼ)に作用してそれを抑制する働きを持っている。

ただこれはボルタレンにかぎらず、アスピリンや非アスピリン系の消炎剤(NSAIDS)にも共通しており、ボルタレンがなぜ良く効くのかの説明にはなっていない。プロスタグランディン系の他の経路(リポキシゲナーゼ系、ホスホリパーゼ系)への影響が考えられているようだが、あまり詳しくは知らない。



まずはウィキペディアから。(ここではハゲタカではなくハゲワシとなっている)

動物へのジクロフェナクの使用により、インド亜大陸で10年間に数千万羽のハゲワシが死亡した。

ハゲワシは、ジクロフェナクが投与された家畜の死体を食べ、腎不全によって死亡したと見られる。

2005年3月、インド政府はハゲワシを絶滅危惧種に指定する一方、ジクロフェナクを段階的に排除すると発表した。パンジャーブ州ではジクロフェナクの使用が禁止されたため個体数が回復しつつあるという。

ということで、「なぜハゲタカが?」という疑問には答えていない。なにか遺伝子レベルの問題もありそうだが…


2015年11月30日

何故かこんなページがアクセス数トップになってしまい戸惑っています。

とりあえず、このシリーズの記事をリンクしておきます。


「原油安の構図 下」はだいぶ話が生臭くなってきて、数字よりも具体例が増えてくる。その分話は少し散漫だが、迫力はある。

おおまかに言って話は4つあるように思える。

1.OPEC諸国はこのまま突き進むのか

2.米国のシェールオイルはどうなるだろうか

3.高コスト国は持ちこたえられるだろうか

4.低価格はどういう形で終焉していくのだろうか

さすがの石油アナリストでもこれには答えきれないだろう。かなり競馬の「予想」みたいな側面もふくみつつ、話が展開される。

1.OPEC諸国はこのまま突き進むのか

OPEC、とくに中東諸国はこのまま突き進むだろう。やれるという可能性と、やらなければならないという必要性がある。

まず可能性。

中東の陸上油田は平均29ドル/バレル。したがって、現在の価格は「どんと来い」という余裕のレベル。もっと下げる覚悟もあるだろう。

必要性

84年の「逆オイルショック」のとき、サウジは1国のみで減産を行った。それまで1千万バレルだったのを250万バレルまで減らした。しかし価格の低下は食い止められず、逆に財政破綻寸前にまで陥った。

今回それは繰り返せない。サウジが減産しなければ、他のOPEC諸国が束になってもサウジにはかなわない。販売シェアーの減少をもたらすだけだ。

ということで、サウジと一蓮托生だ。

2.米国のシェールオイルはどうなるだろうか

シェールオイルが増えた分が生産過剰になっている。だからシェールが潰れれば需給は元に戻る。

では潰れる可能性はあるか。

石油アナリストの萩村さんは「ない」と答えている。

シェールオイルのコストは1バレル40ドル程度で、それを切るところもある。

これらは頑張れる。

新規参入のプロジェクトでは80ドル近いコストのところもある。ここは持たない可能性がある。しかしこれらがなくなっても、供給過剰のさらなる深刻化が止まるだけで、供給過剰はなくならない。

3.高コスト国は持ちこたえられるだろうか

ではババを引くのは誰か。

それは高コスト産油国だろう。

萩村さんが挙げるのはロシア、ベネズエラ、北海油田、アフリカ西海岸の新興産油国である。

4.低価格はどういう形で終焉していくのだろうか

まずこれらの国で深刻な経済危機が生じるであろう。この内、ロシアの危機が重要で、多面的な影響をもたらすであろう。

高コスト油田、新興油田、新規参入のシェールオイルが生き残り競争の犠牲者となる。

この時点で需給バランスは回復するが、市場の二重構造が問題となる。

米国がシェールオイル輸出を禁止したままであれば、米国での需給バランスは回復しても、米国以外の輸入国にとっては深刻な石油不足が出現するかもしれない。


と、まあ、こんなところか。

どうして微に入り際にわたり天北について触れたかというと、「選挙のページ」で天北地区の経験が全国報道されたからだ。

前の南光町長の山田兼三さんが、今は中央選対にいて、天北地区に応援に入ったのだそうで、その経験を語っている。


天北地区は稚内市など1市11町にまたがる広大な地域です。ところが地区委員会の専従は事実上地区委員長一人であり、候補者決定のための詰めが十分にできていませんでした。

このため私は二度にわたって地区に入らせていただきました。

中頓別町では現職の本多町議の立候補が困難だと分かり、中頓別支部の佐藤支部長の息子の妻の佐藤奈緒さんが良いのではないかということになりました。

奈緒さんはまだ入党していなかったが、山田さんが入党と町議選への立候補をお願いをした。

約1時間半の話し合いで入党と立候補を約束。すぐに緊急支部会議を開き承認されました。

遠別町では前町議の木村ひでおさんが再度立候補を表明しました。最初は75歳という年齢もあり、立候補は困難との思いが本人にも支部にもありました。

しかし懇談のなかで、4年間の空白はなんとしても克服しなければと、木村さんの決意を引き出したのです。

浜頓別町では71歳の宮崎美智子さんが適任だとの合意にいたり、本人に要請したものの、即座に同意は得られませんでした。

そこで山田さんも入って、あらためて立候補を要請した。

宮崎さんには71歳で新人として立候補することに躊躇もありましたが、「今の政治情勢の中、断ることのほうが難しかった」と言って、出馬の決意表明をしてくれました。


うむ、そうなのだ!

文章の面てには浮かんでこない、さまざまな葛藤があったのだろうと思う。それを見つめる山田さんの優しい目線が感じられる、良い文章だ。

いまは田舎では、選挙に勝つより選挙に出ることのほうが難しいご時世になったのだ。

天北地区

この言い方は北海道でもあまり馴染みがない。どちらかと言えば共産党の専売特許みたいな名称である。

共産党の天北地区委員会の管轄は、実際のところ宗谷支庁に限定されているので、そうや地区委員会と読んでもおかしくはないのだが、何らかの経緯があるのだろう。

各支庁の位置を示している北海道の地図

天北の天は天塩の意味である。北の方は北見の北である。しかし天北地区委員会の管轄には北見も天塩も入っていない。入っているのはそのどちらでもない宗谷である。

宗谷支庁は支庁所在地の稚内とその周辺、日本最北端の宗谷岬を回りこんでオホーツク海側に入って遠別、中頓別、浜頓別などの町村である。

そこから先は網走支庁となる。

天塩という支庁はない。日本第二の長さと、手付かずの自然を誇る天塩川の流域がそれに当たる。

私は親譲りの戦前の地図を持っていたが、それには「…支庁」ではなく「…国」という名があった。

これもまた変な話で、北海道が「…国」に分割されていたのは、明治の初期に限定される。正確に言うと明治2年9月20日に北海道11カ国が令制国に追加されたのである。

hokkaido11

ウィキペディアより

その際、分割の根拠になったのは江戸時代末期に各藩が管理した区域である。Xチガイボウ印伊達屋のホームページというサイトから転載させてもらう。(このページはめっぽう面白い。山好きにはたまらないだろう)

蝦夷地各藩分冶地図

新北海道史 第二巻 通説一より転写

そこには天塩国と北見国がしっかりある。しかし宗谷国はないのだ。宗谷は北見国の一部となっている。そもそも北見という名前は北に樺太が見えることからつけられたらしく。そもそもは宗谷地方を指している。いま北見市というのは野付牛という農村が市制を施行にするにあたって勝手につけた名前のようだ。

天塩国は現在の留萌支庁と上川支庁の北部(すなわち天塩川流域)を統括している。

廃藩置県や北海道庁の設立や何やらで、行政区画がイロイロ代わって、呼称も代わったのだが、結構後の世まで「…国」の区画は生きていたようだ。

北海道町のホームページに「支庁制度について」というページがあり、簡単に経過が述べられている。

とにかく、やる気の感じられない文章だが、一応まとめてみると、

明治5年 北海道開拓使が設置、その出先機関として5つの支庁が設けられた。その下(?)に19の郡役所が設けられた。

明治30年、支庁が郡役所所在地を元に編成されることになり、19支庁制度がスタートした。

明治43年、鉄道開通に伴い交通事情が改善したことから、19支庁が14支庁に再編された。

この区分は、その後、戦前・戦後を通して現在に至るまで変わっていないようだ。

それで話が戻って、天北のいわれだが、どうも国鉄の天北線が発祥のようだ。天北線というのは天塩と北見をつなぐ線路という意味だろう。

宗谷本線の位置

大日本ノスタルジィ鉄道 宗谷本線 より

なお、この地図がいつのものかは分からないが、ウィキペディアによると上音威子府の後、店舗くトンネルを抜けたあとに天北栄という仮駅があり、上頓別と敏音知(ピンネシリと読む、温泉がある)の間に恵野、敏音知と松音知の間に周磨、松音知と中頓別の間に上駒、中頓別と下頓別の間に寿と新弥生、下頓別と浜頓別の間に常磐、浜頓別の次に北頓別、山軽の次に安別と飛行場前、声問と南稚内との間に宇遠内野駅があったようである。

天北線というのは、地図を見れば本当にどうしようもない路線で、なんで作ったのかわからないみたいな線路だ。

これには理由があって、元々はこちらが宗谷本線だったのだそうだ。それが昭和5年に日本海に出る線路が造られてしまったから、ますます無意味な線路になってしまった。

天北線は天塩線に本線を奪われてからは北見線と呼ばれ、天北線と改称されるのは昭和36年のことである。それほど歴史に根付いた名前ではない。

ただ鉄道の全盛期には網走から稚内までオホーツク海岸を貫く路線が計画されていたようなので、その構想の一部としての戦略的意義はあった。それだけの路線だ。

音威子府は上川支庁管内(旧天塩国)だが、小頓別から先は宗谷管内に入る。つまりそのほとんどが宗谷支庁をベタで走る路線なのだ。北見国ではあるが網走支庁ではない。現在感覚でいう北見とは全く関係ないのだ。

野付牛が戦時中に北見市となった後は、紛らわしいと不評を呼び、名前も奪われてしまった。

天北線の沿線地帯を天北地方というのは、それなりの合理性はあった。いかにも行政区画とはちぐはぐな呼び名だが、それだけに住民は一種のアイデンティティーを感じたのかもしれない。

ただ肝心の天北線ははるか昔(平成元年)に廃線となっており、鉄道の記憶が薄れるとともに、いずれ消え去る呼び名かもしれない。

 

正直エロイカがこんなに面白いとは思わなかった。
メロディーが次々と流れてきて、それが次々とピタピタっとはまっていく。まさに快感だ。
だらだらと長い曲かと思ったら、まさにメロディーの万華鏡だ。
テトリスの落ち物がことごとくストンと落ちていく。
あまりにも用意周到にはまっていくためにすっかりセルにやられてしまったという感じもしてくる。
とにかくオケがうまい。どうしてここまでうまいんだろうと感心してしまう。
終楽章のコーダなど、もうこの世のものと思えないくらいのビタビタだ。
イッセルシュテットの狂ったようなコーダも忘れがたいが、この完璧さには到底かなわない。
セルの数ある名盤の中でも屈指の演奏の一つだろう。録音も良い。

「原油安の構図」という記事が引き締まっていて面白い。本日が上で明日が下だから、出揃ってから載せようかと思ったが、下が面白いとは限らないので、とりあえず載せておく。
1.リーマン・ショック後の原油安との違い
14年7月初めの原油価格は106ドル。これが直近では44ドルまで下がっている。(下落幅は58%)
08年のショック前の高値は147ドル、09年の底値は34ドルだった。(下落幅は77%)
これは需要の激減によるものだ。しかし今度は供給過剰が原因になっている。したがって価格低下は構造的なものであり、長期にわたると想定される。今後さらに30ドル水準まで低下する可能性も高い。
2.供給過剰の要因
まずは米国のシェールオイルだ。米国の産油量は05年に500万バレル/日だったのが、930万バレルに倍増している。
中東第二の産油国であるイラクの産油量は370万バレルであり、それを上回る増加だ。そのほとんどはシェールオイルだ。
もう一つはリビアの産出再開だ。14年6月に23万バレルまで落ち込んだが、わずか4ヶ月で100万バレルに回復している。これはイラクの内戦に伴う産油量減少を埋めてお釣りが来る計算だ。
3.需要は停滞している
経済の減速により、欧州では需要が減少している。中国とインドがこれをカバーしているが、伸び率は鈍化している。
米国は自国産原油の増加のために輸入量を減じた。
このためにトータルの需要が減少に転じた。
4.原油安の引き金は?
原油の市場価格はニューヨーク市場でのWTI(西テキサス中質原油)を指標としている。これが下落したことが引き金になっている。
原因は、米国が原油の輸出を禁止していることにある。このため国内在庫が積み上がり価格低下への圧力となった。
つまり米国の国内事情が国際価格に反映され、それが引き金になった。
5.なぜ14年夏だったのか
これらの傾向は長期に存在していたのに、なぜ14年夏になって一気に原油安に転じたのか。
それまでは中国、インドなどのアジア新興諸国が備蓄をふくめ積極的に買いを続けたために、市場が支えられていた。しかし14年夏を境に、供給量がそれを上回るようになった。
アジア諸国は原油価格が下がっても買いを増やさなかった。
6.投機資本の逃避
原油価格の低下は一直線ではない。9月末までは90ドル台が維持されたが、その後の2ヶ月で15ドル下がり、11月末のOPEC総会の後は1ヶ月で一気に25ドル下げている。
これは投機資本の逃避によるオーバーシュートとみられる。1月に入って底を探る動きも見られるが、なお5ドル程度の低下が続いている。
これらの資金は株式や国債に向かっていると見られ、株高、ドル高の要因をなしている。

とりあえずの感想だが、かなり政治要因が絡んでくると思う。

1.アメリカの原油輸出解禁の可能性

国内のシェールオイル業者は輸出解禁を熱望するだろう。米国政府としても、シェールオイル産業を潰すわけにはいくまい。

2.イラクの動向

中東第二の産油国であるイラク、その最大の油田であるキルクークがISISの手に握られており、産油量は激減していると思われる。

これがいつ回復されるのかが見通しが立たない。回復された場合、さらに供給過剰に拍車がかかる可能性がある。リビアも政情が改善すればさらに供給量を増大させる可能性がある。

3.LPGとの関連

現在はまだ原油とLPGはリンクされており、かなりの高値でLPGを買わざるをえないが、リンクが切れる可能性もある。

そうなれば原発のコストは引き合わないものになり、電力会社が原発に固執すれば、大企業の電力会社離れが進む可能性がある。


これは、1971年に書かれた「研究ノート ブハーリンの経済理論」(嶺野修)という論文の抄録である。例によって北大のリポジトリーから拾ったものである。他の学校も北大を見習ってほしいと思う。


はじめに ブハーリン学説の運命

1.わが国でも戦前はスターリンとならんでブハーリンの著書が多く読まれた。しかしそれはマルクス主義の入門書として読まれたのであって、ブハーリン学説の独自の位置づけがなされたわけではない。

2.コミンテルンにおける「ブハーリン批判」(1928年)以後は,むしろ敬遠されるか批判の対象と位置づけられた。

3.ブハーリン理論全体が「ブハーリン的誤謬」=右翼修正主義というレッテルをつけて,ほうむられてきた。

彼の経済理論の全貌を体系的に把握し,その中で,帝国主義論を位置づけ,そのブハーリン的特徴を引き出すことが重要だ。

*注によると、昭和3年から5年にかけて白楊社から「スターリン・ブハーリン著作集」というのが出版されたそうだ。なんと全16巻だ。訳した人も、出版した人も、それを読んだ人も偉い。


これは少々読みにくい論文だ。元々が外国の研究を紹介する形をとっているので、その流れに沿って議論が展開される。思想の形成過程を追いながら読めるともう少しわかりやすいものになったかもしれない。

オーストリアでの研究はかなり後ろになってから出てくる。それまでにコチラは少々疲れ気味になっている。とにかくそこから始めよう。


ブハーリンのブルジョア経済学批判

ブハーリンは,「ブルジョア経済学批判はプロレタリア自身の経済科学の発展を促進すると考えて、ウィーンに行きオーストリー学派を,ローザンヌでローザンヌ学派の理論を学んだ。

うむ、ここが聞きたかったところだ。

彼は1912~13年にかけ、『価値なしの経済学』、『金利生活者の経済学』を執筆し、「合法マルクス主義者」と「限界効用学派」に対する批判をおこなった。

ということで、この後、この2つの著作の解説に移る。

1.経済学史への評価

彼は重商主義者を「交換の観点から経済理象を考察した」と特徴づけた。そして彼らを科学的実践と科学的理論の最初の統一的体現者と評価した。

重農主義者に対しては,資本主義生産様式を「社会の物質的形態」として受けとめ,客観的な考察方法をとったと評価した。しかしそれは「一定の歴史的社会段階の物質的法則」でしかないとした。

古典派経済学は,彼らの『世界主義』にもかかわらず,イギリス工業の必然的な理論的産物でしかなかった。

と、ここまでは教科書のなぞりだ。

次に「歴史学派」の評価に移る。

歴史学派は、古典派の「永遠主義」と「世界主義」に対する反動である。彼らはドイツブ、ルジョアジーのイデオロギーとして民族的特殊性を強調しなければならなかった。

ただし統計資料の重視については積極的評価を与えている。

そして批判の中心がベーム・パヴェルクとオーストリア学派だ。そのためにウィーンに行ったのだから。

2.寄生的資産家への批判

彼はオーストリア学派の生成を資本主義の発展段階の水準から解明しようとした。限界効用学派(オーストリア学派のこと)は、資本主義が没落する時期の理論的な現象形態である。

種々なる形態の信用の発展の結果,集積された剰余価値は,生産に全く無関係な人々のポケットに流れ込む。かかる人々の数は増加しつつあり,ひとつの完全な社会階級-すなわち金利生活者の階級を構成する。

株式会社と銀行との発展,有価証券の大量取引によって,この社会的集団は出現し,かつ確固たるものとなる。その経済的活動の領域は,流通とくに有価証券流通の領域、即ち株式取引所である。

その極端なタイプは、生産の外に立つのみならず,流通過程の外にすらも立っている。彼らは国債や各種債券の所有者であり、さらにその財産を不動産に投じ,それから永続的な収入をひきだしている。

彼らこそ,末期的資本主義の「寄生的ブルジョアジー」である。株主は取引所で、なお主体的に活動している。しかし証券収入を享有する集団は社会的経済的生活との紐帯が切断されている。彼らは流通の領域からさえ退いていく。

これだけか? あまりにもひどい。

信用制度を生産の社会化の端緒とするマルクスはおろか、金融資本を一面では「資本主義の最高の段階」と規定したレーニンよりもはるかに遅れている。

3.限界効用学派への理論的批判

ここが一番聞きたいところだ。

ブハーリンは“末期的資本主義”を弁護する限界効用学派を以下の点で批判する。

(1) 消費をもって全生活の土台となす観点, (2) 社会化の進展から目をそむけた個人主義イデオロギー, (3) さし迫る社会革命への脅威に立脚した非歴史的理論。

しかしこれだけでは無力なレッテル貼りだ。

嶺野さんは以下のように批判している。

ブハーリンは近代経済学を批判しようとしながら、ワルラス流の考え方を無抵抗に受け入れている。それは哲学においてボグダーノフ・マッハ的修正を受け入れたのと同じ根拠に根ざしている

それ以上にがっかりすることに、ソ連ではブハーリン批判が盛んだった時でも、彼のこのオーストリア学派批判だけはブハーリンの「業績」として認められているのである。以下がその賛辞である。

彼はオーストリア学派の理論における方法的基礎への批判に限定することなく,論敵の立場をわがものとなし,彼らの内的矛盾を指摘し批判した。そうすることにより,この理論の個々の結論が無意味であることを暴露した。

4.転形問題への言及

ここまで来て、ブハーリンの頭のなかはスポンジで詰まっていることが分かった。その彼が転形問題に言及したとしても、中身は到底期待できないだろうが、一応紹介はしておく。

商品市場の諸現象は資本主義的再生産の現象と関連している。

生産力の発展と客観的に形成された価格との聞にひとつの関係が与えられているならば,この関係の特殊性に関する問題が生ずる。

と、ここまではヒルファーディングの聞きかじりだ。

しかしこれは一種の“言い抜け”である。価値の価格への転化問題を議論するのに、生産力という概念を持ち込むのは、議論を歴史の中で相対化し、けむにまくための手練手管でしかない。

ブハーリンはそこが分かっていない。

だからこのような大言壮語で議論を締めくくるのである。

価値法則は商品生産のみに妥当する法則であり、無政府的商品制度(資本主義制度のことか?)における均衝法則である。

生産価格法則は変形した商品制度一資本主義制度の均衡法則である。市場価格法則(ワルラス均衡のことか?)はかかる体制の動揺の法則である。

競争の法則は撹乱した均衡の不断の回復であり、恐慌の法則は体制の必然的周期的な均衡喪失である。

価値法則は社会的な自然発生性の盲目的法則である。だからそれは不断の破壊を通じてのみ実現される。均衡破壊は生産諸力の浪費を意味するが,しかしそれは発展にとっての不可欠の条件である。

こうやって、転化問題には手を付けないまま、価値法則そのものの否定(しかも非理論的な否定)をもって回答とし、最後は無内容な革命万歳論へと収斂していくのである。これがブハーリンの動的均衡論の経済過程における意義なのである。


ロシア革命後のブハーリンの言動についてみれば、さらにひどい。ローザ・ルクセンブルクとの論争も、歴史的・客観的に見ればドイツ革命とスパルタクス団への干渉でしかない。

経済学の拒否

プハーりンは「理論経済学」概念を資本主義以外の時代に適用することを明確に拒否する。

われわれが組織された社会経済をもてば,経済学のあらゆる基本問題: 価値,価格,利潤などの諸問題が消失してしまうからである。

市場そのものが存在しないのだから、『盲目的市場法則』を研究対象とする科学が存夜する余地は全くない。

と驚くべき理論を展開する。もうこれだけで読む気が失せる。

このあと嶺野さんは次のようにフォローしている。

以上は初期プハーリンに見られた特徴的な考えで、後に彼みずから「過渡期」における経済論を展開し,資本主義が過渡期を経て社会主義に至る過程で,経済学的範鴎がどのように変化するかを研究している。

よかった。もう少し読むことにしよう。

嶺野さんがその背景を説明する。

それは戦時共産主義を経験しつつあった時期の大多数のボノレシェヴィキの見解でもあった。その後ネツプを経る中で「広義の経済学」の必要が提起され,プハーリンが批判されたのであった。

「機械論者」=プハーリンの主張は暗黙のうちに継承され,現実の社会主義諸国がブハーリンなきプハーリン路線を遂行していった。

やっぱり救われない。

ついで

ブハーリンの「均衡論」

均衡法則の発見は理論経済学の根本問題をなしている。

ある体制が均衡状態にあるというのは、その体制が外部のエネルギーなしにはこの状態を止めさすことができない場合である

なんじゃこれは?

ブハーリンはみずからの「唯物弁証法」からこの規定を引き写したようだ。

プハーリンの均衡論は,いかにつつましやかな試みであろうとも,とにかくマルクス主義をへーゲル弁証法の障害から救おうとする試みであったように思われる。

へーゲルの定立,反定立,総合に代うるに,安定的均衡、肯定的印をもっ不安定的均衡、否定的印をもっ不安定的均衡の状態をもってした,

議論はまだ続くが、とてもつき合いきれない。

この「とんでも弁証法」は、ボクダーノフの経験批判論の影響を受けているようだ。「彼は質的変化を検討せずに,単なる量的増減にすり代える」とするデボーリンの批判も当然であろう。

少なくとも、ブハーリンは哲学的にはまったくのペケであることが分かった。しかし専門であるはずの経済学ではどうであろう。

経済学方法論において,ブハーリンの均衡思想は「均衡の仮定」である。ある経済体制が存在しているとき、その体制を持続させている一定の均衡が存在する。

ある安定的均衡体制を、抽象的理論的モデルによって分析する。そうすると複雑な契機がもち込まれても,新たな基礎上で均衡が回復される過程が分かる。

これ自体は一種のサイバネティクスの変形として一応認めるとしても、次の文に行くとたちまち「救いようがない」ことが分かる。

彼はこういう「動態的」分析をマルクス主義経済学の方法の最も重要な構成要素だと特徴づけた。

最後に決定的な事実が提示される。

Lowy は、彼が哲学を,とくにへーゲルを実際に学んだことがなかったと指摘している。そのために彼は,フランス唯物論に対する偏愛とボグダーノフ哲学を基礎におかざるを得なかった。

この後、ブハーリンに関わって生産力論や技術論が展開されるが、嶺野さんのコメントもふくめある程度決着済み(私としては)の話なので省略する。


第1章 療養活動をとりまく今日的環境

 

 ここでいう「療養」とは,病者がさまざまな方法を用いて病気を癒しながら,自らの生活を維持・発展させていくことである.それは一つ一つの療養行動を指していう場合もあれば,生活と結びついた一連の活動を指す場合もある.ここでは後者を療養活動とよぶ.

 とくに慢性疾患の増加にともない,この考え方がおおきくクローズアップされている.それは日々の「いとなみ」とともに繰りかえされる活動である.

 たしかに疾病という破壊的状況からの身体的・社会的回復過程は,基本的には一回きりの出来事である。それは、「いとなみ」の概念では括りきれない実存的なものである.しかし急性期を乗り越えた後の長い回復過程は,生活の本質的再生産過程である.病者はそこで病気と闘うだけではなく、「いのちと暮らし」を紡ぎだす。

 ところで「療養活動」なる言葉は,そもそも私の造語である.なぜこの言葉を用いてなにをカテゴリー化しようとしているのか.以下にその背景となる今日的諸特徴をあげてみたい.

 

第一節 歴史的成果としての療養活動概念の成立

 療養活動が重要な社会的活動として認識されるようになったのはつい最近のことである.

 それまでの歴史のなかでは,個別の療養行動はあったが,その積み重ねとしての療養生活過程はほとんど存在しえなかった.療養行動そのものも,生き残るという明確かつ強烈な目的を持っていたにせよ,その手段はあまりにも貧弱であった.

 療養が人間的活動の一分野かどうかなどということはあまり議論にはならなかった.病を負ったり傷を負ったりした人間は,自然になおるか死ぬかのいずれかしかなかったからである.

 近代社会の発展の中で二つの事態が進行していく.一つは医療技術の進歩により療養活動に具体的な技術手段があたえられたことである.もう 一つは,社会を支えていた共同体が分解し,個人がバラバラに切り離されていったこと,その中で生産活動以外のいっさいの活動が私事とみなされるようになっ たことである.

 この結果療養活動は偶発的なものとなり,社会とのかかわりは希薄となり,個々人の私的生活過程のなかに封じ込められていった.

 しかしそれにもかかわらず,社会的関心はきわめて強かった.だれもが一生のうちにかならず経験する重大な問題であり,生命そのものにかかわる事象であるためである.

 いっぽう,医学技術の飛躍的進歩は,高血圧,糖尿病を代表として,疾病の治癒には至らないがコントロールを可能とした. それに伴い「健康とも不健康とも言いがたい」グレー・ゾーンに属する患者が爆発的に増加した.彼らは「慢性疾患」あるいは「成人病」などと呼ばれるようになった.

 慢性疾患の増加にともなって,「病を負いながら生きる」ということが真剣な生活問題になってきた.国民有病率が15%に達するなかで,療養活動は社会的活動の無視しえない一分野を形成するにいたった.

 多くの患者が生み出されるだけでなく,その多くが生き残ることが,療養活動をますます普遍的社会現象としつつある.さらにその多くが正常に近い社会生活を送るということから,病者自身の社会的影響力も大きくなっている.

 ここに「療養活動」という概念が必要となった最大の根拠がある.

 これらの変化は,社会的生産力が発展したからこそ実現した事実である.それは人類が自然に対して勝ちとった偉大な歴史的成果である.

 

第二節 療養活動とその疎外形態

 あらゆるものの商品化が現代の特徴的傾向である.それはたんなる商品化ではなく,大量生産・大量消費をともなう「欲望の商品化」時代であ る.それは一方において選択肢の多彩さ,便利さの発展であるが,他方欲望の一面的な肥大がマスコミの統制下に進み,貧富の差が生活の全場面におよぶことを 意味する.

 生活過程を構成するさまざまな活動と同様,療養活動もこのような資本主義的市場システムに包摂されていく.療養活動のためのさまざまな手段が,すべて商品となっていく.

 かくして療養活動の重要な部分である療養のための手段の獲得が,まず購買活動として開始されるようになる.療養活動が購買し消費する活動 として仮想されること,これは現実に起きている逆転である.この現実における逆転を基礎として,「療養活動とは健康を買うこと」という逆転した発想が現れ てくる.

 「健康」という言葉は,もともと諸個人のありようを形容する言葉として用いられてきた.それがいつのまにか名詞化され,独立した「モノ」のように扱われるようになっている.「安心」とか「快適」なども同様である.こういう風潮は健康とはいえない.

 

第三節 受療行動の一般化

 医療機関を受診し,診療を受けるという行為は療養活動上ますます不可欠な要素となっている.病気と闘うための手段やノウハウが、ますます医療機関に集中しつつあるからだ。

 こうした「受療行動」は療養活動を構成する諸行動の中でももっとも核心となるものであるために,ときに療養活動そのものと考えられることもある.

 そもそも療養活動なる概念は医学医療の技術的発展によってはじめて実現しえたといえる.療養活動は医療サービスから「自立」するのではなく,医療との結びつきを強めることによって,その内容を深くゆたかなものとしてきた.

 有病者の増加は受療機会の増大をもたらした.さらに長期通院患者の増大が病者と医療者との関係を変化させつつある.国民にとって医療との接触は特殊な非常事態ではなくなり,日常生活のひとこまとさえなりつつある.これに応じて患者と医療者のあいだにも,これまでと違った世間並みの人間関係がもとめられるようになっている.

 かつて絶対的にも見えた医療者の診療権限に対する,患者の「寛容」の限界線が揺らぎをみせている.これは民主的な方向に大いに推進されなければならない.

 

第四節 医療の「大衆化」と「商業化」

 受療行動の一般化は,また「医療の大衆化」という側面からも評価される.医療の大衆化は,その歴史的由来からすれば国民の広範な運動の成果として説明される.しかし現実の場面における「大衆化」は,むしろ商品経済やそのもとでの支配的な意識の浸透としてとらえられる.すなわち「民主化なき 大衆化 」である.

 医療は市場経済にたいする「聖域」であることをやめ,「誰もが買える商品」という幻想のもとで本来の姿をゆがめられていく.商品の多彩化 という衣をまとって金銭による差別が進行している.無差別医療の原則は崩壊しつつある.耳ざわりのよい横文字をもちいて「選択の自由」こそ医療の根本理念 でもあるかのようなキャンペーンが意識的に流されている.

 確認しておきたいことは,今日病気の治療を推進しているのは社会全体の力なのだということである.医療資源の供給にせよ療養のための給付にせよ,その圧倒的な部分は社会的な共同責務 として担われているのである.少なくとも日本においては,療養活動も医療活動も,例え個人的な色合いをどれほど強く持とうと,まずもって社会的な活動なのである.

 

第五節 受療意識の「変容」と歪み

 医療供給体制における市場経済の浸透と,療養活動をふくむ生活様式の資本主義的変容とが,あいともなって進行している.それは受療行動をめぐる意識構造に変化を与えつつある.

 受療行動はあたかも,あれこれの医療サービスを選択し購買する行動のように考えられるようになる.受療権は,生存権にもとづく人間本来の権利としてではなく,サービスを購買したことによって生じる私権=契約上の権利と見る風潮がひろがっている.

 医療労働はその具体的能動性を剥奪され,たんに支払われた代価にふさわしい量と質をもった無機質な労働,すなわち「良い医療 」としてのみ期待される.「善い医療 」はそこでは捨象される.

 日本でも一部でもてはやされている米国の消費者運動には,契約中心の価値観を天与のものと考え,「人は生まれながらにまず消費者である」かの ように主張する傾向がある.それらがまるごと受療行動の論理として持ち込まれると,「顧客としての権利」によって受療権や療養権を説明しようとする傾向が生じる.これによって社会的権利としての真の療養権のありようが歪められていく可能性がある.

 

第六節 人格的活動としての療養活動

 ところで,人間はその行動を科学的合理性にもとづいてのみおこなうわけではない.その人の作り上げてきた価値観とか人生観とか正義感とかに依拠して,ときには非合理な行動も含めて行動するのである.この点において療養活動は,一定の文化的背景のもとに、それ自身が文化を創造する人間的活動で もある.

 療養生活は灰色一色ではない.それどころか,きわめて高い人格水準のもとに営まれる可能性がある.それは戦争をはさむ数十年間,日本文学の最高傑作のいくつかが,療養生活のなかで書きあげられた事実を指摘するだけで充分であろう.

 民医連綱領には「患者の立場にたつ」という言葉がある.それが意味するのはたんなる社会的ポジションの問題だけではない.その言葉のうちには,病を負って,負いながら生きてきたこと,これから生きていくことの意味を理解しようとする姿勢がふくまれている.そこでは病者たちの生活と倫理に, 生活者として寄りそい,共鳴し,連帯していくことがうたわれているのである.

全日本民医連はその綱領の最初に「患者の立場に立つ親切で良い医療」を掲げている。そこには個別の患者ではなく、弱者の立場という「階級的」視点が内包されている。

 


いま考えてみると、この部分を本の冒頭に持って来るべきだったかもしれないと思う。

本を手にした人の殆どは、「権利」をめぐる七面倒臭い議論で挫折してしまって、ここまで辿りつけなかったかもしれない。

そういった人たちのために、ここの部分を再掲しておく。ただし「今日の状況」というのは20年前の現状である。


「年表 毛沢東以前の中国共産党」全8回分がなかなかまとめて探しにくくなっています。

下記一覧にリンクを張っておきます。

↑このページのトップヘ