鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

AALA関連記事は「aala_newsの編集日記」http://blog.livedoor.jp/aala_news/ に移りました(6Nov.2023) 中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 「ラテンアメリカの政治」(http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ )がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

2014年12月

YouTubeを高音質で聴く方法

1.まずは良い音源を探すこと
HDというクオリティのものが増えていて、これはAACファイルで195kbpsのクオリティとなっている。
YouTubeの音源は年ごとに飛躍的に音が良くなっているから、3年以上前のものは避けたほうが良い。
2.ダウンロードソフトを選ぶこと
YouTubeはダンロードを禁止する方向で動いている。皮肉なことに音質があまり良くなりすぎたためだ。以前なら「これはサンプルで、いい音で聞きたかったらCD買ってください」だったが、最近はそうも行かなくなった。
そこで有名なダウンロードソフトに圧力をかけて、高音質でダウンロード出来ないようにしてしまった。しかし未だに高音質でダウンロードできるソフトも存在するようだ。
3.エンコーダを使わないこと
動画ごと落としてから、「えこでこツール」というソフトの「映像から音声のみ抽出」という機能を使うと、無劣化でAACファイルを作成してくれる。
必要であればMP3にも変換してくれるが、いまではFFMPEGというDLLがあるので、MP3に転換する必要は薄れている。
4.再生ソフトはfoobarだけで十分
いろいろ試したが、いつも結論はfoobar。foobarのダウンロードサイトで、Download... の下の段に Free Encoder Pack というのがあって、そこも一緒にダウンロードすると、ffmpeg,FLAC、LAME などをすべて組み込んでくれるので楽ちんだ。WASAPI はデフォールトで装備されている。ASIOもDLLを引っ張ってくれば使えるが、すでに過去の遺物だ。
Preference は Output で、WASAPI(event)経由でDACにつなげればよい。Buffer length は長ければ長いほど良いが、その分メモリーを食い、音飛びの原因になる。いまは1万にしている。
DSPマネージャーはResampler(PPHS) だけ入れている。Sox は味付けが少々濃すぎる。
5.音飛びの抑制
これもfoobarの設定のうち、Advanced の部分。これはメモリが十分ならば不必要なのかもしれないがそのままにしてある。少なくともこの設定にしてからは、音飛びはまったく発生していない。
6.RAMディスクの設定
これは間違いなく音質を改善する。
理由はよく分からない。RAMディスクそのものがまだ試運転中だ。Buffalo のソフトが動かなくなってしまったので、SoftPerfect RAM Disk というソフトで始めたが、なかなか奥行きが深そうで戸惑っている。
ただしメモリが少ない時にやると、ますますメモリが減ってしまい、クラッシュの原因になる。私のパソコンは増設は8ギガが限界なのだそうで、ファイルまでRAMに入れるのは不可能のようだ。
7.そして最後がメモリ増設
つまり本格的なDACを動かそうとすれば、メモリーは4ギガでは足りないということだ。8ギガなくてはDACは動かない。このことはどんな説明書にも、どんなインターネット上の文章にも書かれていない。
逆に言えば、これまでの苦労は、最初からメモリを増設しておけばまったく不要だったかもしれない。
次にパソコンを買うときは最低でも16ギガのメモリが装着可能なものにすべきだと思う。

とりあえず以上。それでは良いお年を。

多分、今年最後のブログになると思います。
現在はハイティンク指揮コンセルトヘボウのマーラー5番を聞いております。
つまり、DACの抑えこみに成功したということです。終わりよければすべてよしということで、今年は良い年だったということにしておきましょう。
バッファローの4GBx2というメモリーに取り替えました。目下のところ、と言ってもまだ1時間位ですが、クラッシュは発生しておりません。
実はばかみたいな話がありまして、昨日これを買ってきて差し替えました。そのとき特典で「PCを高速化する」という触れ込みのBaffalo Tools というソフトがついてくるのですが、それを導入しようとしたらシリアルナンバーが必要で、それはメモリー本体でしかわからないということになって、蓋を開けなおして数を控えて再挿入しました。
それで「ダブっては困るだろう」と、既存のRAMディスク作成ソフトを消去してから立ち上げたのですが、お陰でそのソフトが出なくなってしまったのです。それで他のソフトもたいしたことはなく、煩わしいだけのものなので、消そうとしたらバックアップソフトがどうしても消えない。だいたいこのソフトはバッファロー社の外付けハードにバックアップするためのもので、いまはTOSHIBA製なので無用の長物です。
バックアップソフトには未練がましい物が多く、他にも使わないソフトがバックアップを作成しようとしゃしゃり出てきて困っています。
それで仕方なしにSoftPerfect というRAM作成ソフトを新たにダウンロードして、RAMフィールドを確保しました。foobar を突っ込んで再生をはじめました。
するとみごとにクラッシュしたのです。
一瞬目の前が真っ暗になって、「ああ、最初からやり直しか」と思ったのですが、コンピュータのプロパティを見ると、メモリーが4ギガのままです。「これはパソコンがメモリを認識していないな」と思って、いろいろ試してみたのですが、どうにも埒が明かない。最後にBIOS画面を見てみるとやはり4ギガ。「さては」と思ってまたも裏ぶたを開けました。
すると上側のメモリがなんの抵抗もなくするりと抜けるのです。いろいろやっているうちに、はめてから押し込むとみごと「カチッ」という手応えとともにメモリがあるべき場所に収まりました。
蓋を閉じて、電源を入れてF2を押したまま、じっと待ちます。するとBIOS画面がしっかり「メモリ8G」と表記しています。
そうして、マーラーを聞き始めて1時間、いまのところクラッシュなしに来ているという次第です。
どうやらこれで音質改善の旅は、いったん完了ということになりそうです。
次の記事で旅の経過をたどってみたいと思います。

「卵が先か、鶏が先か」ということになるが、言語中枢としてはブローカとウェルニッケのどちらが先かが問題だ。

臨床医としてはウェルニッケのほうがプロファウンドな感じがするが、案外ブローカのほうが発生史的には先行していたかもしれない。

まずはウィキペディアの「ブローカ野」から調べる。内容は薄い。

テキストは、「ごく単純に言えば、ノド、唇、舌などを動かして言語を発する役目を負っている」と、大変わかり易い説明をしてくれている。

ブローカ領域: 優位大脳半球の下前頭回後部(ブロードマンの脳地図では44野)にあり。前側は三角部、後ろ側は弁蓋部と呼ばれる。

三角部は様々な刺激を受け、言語行為の計画を担う。弁蓋部は音声言語産出のための発声器官の調整を担う。

サルにおける相同部位は口腔顔面域活動の高次の調節を行っている。発生的には発話の獲得は口の動かし方の模倣から始まったといえる。

次が山鳥さんという人の見解。彼はブローカだけでしゃべりをすべて管理しているわけではないとし、その前段階を提示している。

1.中心前回の下方領域

ブローカ野の後方に接するこのエリアは、音韻を実際の構音運動に変換するために必要な運動神経情報を作り出す。

これはちょっと難しいが、心的イメージを表出するためにこういう音のシリーズを出したいと企画する機能のようだ。ピアノで言うとドレミというイメージがあって、それを親指、人差し指、中指の三連打に割り当てる過程とも言える。

ここまで前処理してから、ブローカに送られているのだということになる。

2.頭頂葉の縁状回

さらにその後方に、これはもう中心溝をまたいだ頭頂葉になるが、「配列」を司る領域がある。ここは音韻群を系列化するのに重要な領域である。

思いを伝えるのに、ミレドではなくドレミでなくてはならないと判断するところのようだ。「この領域がうまく機能しないと、語やセンテンスの安定した音韻心像は想起できない」のだそうだ。

 

どうやらfoobarのクラッシュの原因がわかってきた。
メモリーのパンクである。
再起動してしばらくは機嫌良く動く。しかし2,3時間で最初のクラッシュが来る。これに対してDACのUSBをいったん抜いて挿し直すと、また動くようになる。しかし今度は1時間くらいで次のクラッシュが来る。そうやってだんだん感覚が短くなって、最後は「時間切れです」というクレジットが出て、どうにも動かなくなる。
これはメモリーの消耗としか考えられない。
思い出して、むかし使った「メモリー・クリーナー」というソフトを入れてみたが、歯がたたない。そういうレベルではないのである。
私の買ったのはLenovoのideapad Y560 というモデルで、発売間もない頃である。core i7 を積んだ最初のノートパソコンだった。当時としてはかなりのものだと思う。
しばらくしてメモリーも増設した。出荷時に2ギガ、それに2ギガを足したから4ギガ、これで十分対応できたはずだ。
それが、今回DACの導入を機に、ついに限界を暴露したのだ。
多分メモリーの劣化もあるのだろうと思う。メモリーは消耗品と思わなくてはいけない。しかし、4ギガという容量がそもそも不足なのだろうと思う。
うすうすは感づいていたが、はっきり悟ったのはBuffalo のソフトで仮想DRAMを立ち上げた時だ。音は素晴らしくなったが、クラッシュは減るどころかむしろ頻回になった。ソフトのデフォールト設定を変えて、容量が700メガだったのを200まで絞った。それでクラッシュの出現を遅らせることはできたが、クラッシュそのものを防ぐことはできなかった。
30日にはヨドバシカメラに行って、メモリーを交換しようと思う。これが成功すれば、NuForceの購入に端を発した音質改善への苦闘は一応完了ということになる。そうなればよいが…






11月のOPEC総会は、やや古いせいかもはやニュースの項目からは消えている。

いろいろな思惑が乱れ飛んでの結論だっただけに、事情通の解説がほしいところだが、それもあまりない。

キャッシュで拾えそうなものもふくめて、少し情報を物色した。

とりあえず、ロイターの報道(11月28日付)から。

ウィーンでOPEC総会が開かれた。生産枠をめぐる議論は5時間に及び、相当紛糾した。

最終的に現行の生産枠を維持することで合意した。過剰な生産についてのコメントもなかった。再検討の可能性についても触れられなかった。要するに結論には何のふくみも与えられなかった。

というのが主文。

ついで、会議の具体的な進行経過。

まずベネズエラとアルジェリアが、最大で日量200万バレルの減産をもとめた。これにイランも同調した。

これに対しサウジアラビアのヌアイミ石油鉱物資源相が「減産の必要なし」と主張した。これに湾岸諸国が同調した。

最終的にはベネズエラなど生産調整を主張したグループも、これを受け入れた。


以下は各派幹部の意見表明。ただし会議終了後のインタビューによるもの。

「減産」派

ベネズエラのラミレス外相: 今回の決定を加盟国の総意として受け入れる。原油価格が低水準にとどまることで、コスト高の米国産シェールオイルの市場シェアが低下することを望む。

「維持」派

クウェートのオメール石油相: 原油価格がいかなる水準になっても受け入れなければならない。

石油メジャーのOPEC決定への評価

PIRAエネルギー・グループのギャリー・ロスCEO: サウジアラビアがイランやロシアのほか、米国のシェールガス生産者を支援することになる減産を望む理由はない。

市場に原油価格を決定させ、市場で新たな均衡点が見出されれば、価格は上昇に向かうだろう。

ただし、OPECはもはや市場を操ることはできなくなり、今後は原油価格は市場で決定され、価格は明らかに下落するだろう。

ペトロマトリックス・コンサルタンシーのオリビエ・ジェイコブ: 数年後に80ドル以上の水準まで回復させるには、短期的に下値を60ドルとして価格が一段安となる必要がある。

米国のシェールガス開発プロジェクトに歯止めをかけるには、しばらくの間は低価格に甘んじることがOPECの利益にかなう。


ということで、サウジの論旨はきわめて単純にして明快、だから生産調整を主張する国をも説得し得たのだろう。

ロシアがどうであろうと、イランがどうであろうと関係ない、要するにOPEC全体が丸っこくなって頑張ろうということだ。

つまり、これは資源ナショナリズムを下敷きにした「闘争宣言」なのだ。だからベネズエラやアルジェリア、イランも同調したのだ。

それにはOPECの地位低下、市場弱者への転落という事態を冷徹に直視し、アウトサイダーとは市場で闘うという路線の転換がある。

そういう意味では画期的な決定なのだろうと思う。

ただ、そうやって価格競争を展開した末に、アメリカのシェールオイルが苦境に立ったとき、アメリカはどうするだろうか、という時限爆弾が、そこにはある。


朝比奈隆のNHK交響楽団とのブルックナー交響曲第8番が聞ける。
おそらくFMのエアチェックなのだろう。音質的にはイマイチ迫力がない。
しかし迫力がないのは演奏そのものだろう。
多分、名演なのだろうが、ブルックナーという作曲家の凡庸さを抉りだす「名演」でもある。
何度も言うようだが、ブルックナーというのはパソコンで作業をしている時に、丁度良い曲をかく人である。トゥッティとトゥッティのあいだは聞いていなくて良い。なんとなれば居眠りしていても良いのだ。あの長さはそのためのものなんだ。
とくに8番ときたらオペラ並みのぶよぶよさだ。トスカをベートーヴェンの第5のように耳を澄まして聞く人なんているもんじゃない。第一そんな風に聞いたって面白くもなんともない。
ところが日本にはそのようにしてブルックナーを聴く、一部の熱狂的なフアンがいるのだ。
まぁやってちょうだいよ。

太田順子さんの「告発文」を読むと、なんともやりきれない気持ちにさせられる。

前回の衆議院選挙の際、私は民主党東京第11区から衆議院選挙に出馬致しました。

私の選挙資金のほとんどは民主党からの寄付、税金を原資とする政党交付金でした。

私は民主党都連の指示に基づき、民主党板橋幹事長の区議に通帳、印、カードを預けましたがそれが誤りの元でした。

私の収支報告書には、板橋区議のパブ(一般的にキャバクラと言われる店)等での遊興費や、一般感覚ではありえない不適切な領収書が多々認められます。

しかし、私自身が正確な収支が把握不能の状態に置かれております。民主党本部の事務方責任者、民主党都連、海江田代表等に是正をお願い致しましたが叶いませんでした。
といったあたりが「事実」の骨子。
民主党都連が特別なのか、全国どこでもそうなのかはわからない。
しかし、過去において労組のダラ幹、政治ゴロの想像を絶する倫理観の欠如はかなり聞かされてきた。労働運動の衣をまとったゆすり、たかりのたぐいである。
言い方は悪いが、「自民党のほうがはるかにマシ」である。
ただ厄介なことに、思想的には彼らのほうが左翼に近く(もっとも昔の話だが)、議員になろうとして彼らに近づく人には、むしろ「自民党のほうがいいんじゃない?」と思われる輩が多いのだ。この太田さんもなかなか勇ましいことを言っている。
つまり、民主党(旧社会党もふくめ)という政党、右を向いても左を向いても真っ暗闇なのだ。
oota_policy
太田さんのホームページより転載

またもや中国で超大物の失脚が発生した。

今度は党中央統一戦線工作部長の令計画だ。令は胡錦濤が総書記を務めていた時代に党中央弁公庁主任として仕えていた人物。現存幹部の中では共青団グループのトップにおり、次期書記長を狙う地位にいた。

習近平の権力は、胡錦濤と連合することによって支えられいるとみられるため、今回の摘発は胡錦濤との関係を冷たくする可能性がある。

ただ、令計劃の場合はあまりにも派手なスキャンダルであるために、守り通すのは難しかった。周永康、徐才厚を切った返り血としてみておくべきかもしれない。

令の息子が北京市内でフェラーリを乗り回した末に事故死したのが2012年3月、それからすでに2年半が経過している。この間、令にお咎めがなかったほうが不思議だ。

事件発生直後、令はもみ消し工作を行ったらしい。これを知った胡錦濤は、弁公庁主任をおろし、統一戦線部長に転出させたという。しかしずいぶんと甘い処分だ。

やったのは息子だが、フェラーリを買う金はどこから出たのか、それが問題にならないわけはないのだ。一説では令計劃の預金総額は7100億円に達しているという。

ということで、令計劃の摘発は本線とは離れたケースと見ておくべきかもしれない。

なお事件に関して遠藤誉さんがコメントしていて、

1.令計画の背後には山西閥、あるいは電力閥が控えており、そこを狙った攻勢の可能性もある。

2.これらの閥の総帥は李鵬元首相である。

3.江沢民と石油閥への攻勢を終え、次は李鵬と電力閥がターゲットとなるかもしれない。

4.しかしこれは権力争いではなく、国有企業の大規模な構造改革への第一歩であると見るべきである。

と述べており、卓見であろう。


記事の後半は、OPECに価格決定力が亡くなっているという内容。
これはなにかネタ本があって、丸写ししたもののようで、かなり濃密に経過が列挙されている。
いわば圧縮ファイルで、解凍すれば数倍に膨らむであろう。
順に追っていこう。

1.オイルショック

オイルショックまでは、主要産油国のほぼすべてがOPECに加盟していた。石油価格はOPECが決定していたが、価格そのものはメジャーが左右していた。

中東戦争の時に湾岸諸国がOPECの主導権を握り、価格を大幅に引き上げた。引き上げ分は主として産油国(の特権階級)の取り分となった。これはオイルダラーとなり、投機資本の源流をなしている。

2.OPEC 非加盟の産油国の増大

国際石油価格の上昇は、これまでの産油国以外の国の油田開発を促した。世界生産に占めるOPECの比率は、70年代には53%だったが、2013年には41%まで低下している。

この結果OPEC価格に従わない産油国が増加し、OPECの価格決定力を減退させた。

3.ニューヨーク商業取引所のWTI上場

WTI が商品として先物市場に上場されたことから、この価格を中心に原油価格が決定されるようになった。

OPECに代わり消費国における市場が決定力を持つようになった。要するに市場原理が支配するようになったということだ。

4.原油価格の騰貴と暴落

原油価格はグローバルな需要と供給の関係を反映していない。

原油価格が市場で決定されるようになったということは、原油価格が市場の思惑で激しく動くようになったことも意味する.

しかし、生産コストが長期的に見て増大していることも間違いない。一つの油井は掘り尽くせば枯渇する。次々に新油田を開発していかなければならない。しかし当然ながら、採掘・輸送などの条件は悪化していく。

5.安値競争を仕掛けた可能性

今回のOPECの“非調整という決定”は、主要産油国とこれと結託した石油メジャーが安値競争を仕掛けた可能性もある。

生産調整となれば、主要産油国がそのかなりの割合を引き受けなければならない。ただでさえ原油安で苦しんでいる時に生産調整をかぶる一方、新興産油国が漁夫の利を占めるというのでは面白くない。

いっそ安値競争を仕掛ければ、新興産油国が潰れて、結果的に生産調整になるであろう。

新興産油国の経営基盤は多くは脆弱であり、投資に見合うだけの資金回収を行っていないであろう。

安値競争になれば、バタバタと連鎖的に倒産する可能性もある。結果として主要産油国の生産が安定すれば、そこを基盤とするメジャーにとってもご同慶の至である。

もうひとつ、シェールオイルとの争いもある。アメリカのシェールオイルの損益分岐点は60ないし80ドルと見られている。60ドル割れはまさしくわずかに、この分岐点を下回っている。

したがってOPECの決定は、OPECというより既成の石油メジャーと新興シェール勢力の激突と見るべきかもしれない。アメリカでは矛盾が激化するかもしれないが、ロシア懲罰という錦の御旗を掲げれば風当たりも多少は弱くなろうというもの。

そこまで考えているとすれば、なかなかの知恵ものだ。


赤旗の短い解説記事、「原油価格急落 市場に何が」が掲載された。

ニューヨーク市場(NYMEX)の原油価格の動向がグラフで示されている。

wti


WTI: West Texas Intermediate (西テキサス産出の中質油)の価格のこと。世界の石油価格の指標となっている。
NYMEX: New York Mercantile Exchange (ニューヨーク商業取引所) 商品先物専門の取引所だが、石油の取引における世界のセンターとなっている。

これは今年7月からのものだが、最高値はもっと前、リーマンショック直前の147ドルだ。そこから見ると実に1/3となっている。

たしかに石油産出国から見ればひどい話だ。暮らしを1/3に切り詰めろと言われても、それは無理な相談だ。

考えられる理由は三つある。

一つは世界不況だ。中国も減速していて、当面需要が膨らむ要素はない。

二番目が「シェール革命」だ。米国やカナダでは自国需要を満たして余りあるほどの採掘量となっている。最大の消費国・輸入国が「もういらないよ」ということになれば、値崩れを起こすのは当然であろう。

3つ目は11月27日のOPEC総会だ。明らかな供給過剰であり減産協定を結ばなければならないのに、各国の思惑が一致しなかった。結局減産協定は成立しなかった。

ただ3つ目は11月末の話であり、原因というよりも、これからどういう影響を与えるか、その可能性が問題となる。

赤旗では一番目と2番目の順序は逆になっているが、あえて並び替えた。枚の記事でも述べたように、結局投機資本がどういう動きを示すかに事の本質があると考えるからである。

「シェール革命」は今のところ一つの物語だ。だいぶ前になるが「北海油田」が開発されて、ノルウェイやイギリスは輸出国になるのではと言われた。

一時的には原油価格に影響したかもしれないが、結局大勢は変わらなかった。むしろ高コストの石油資源を持つばかりに、それが負担となるというデメリットもあったようである。

「物語」は楽しいから、尾ひれ羽ひれがついて膨らんでいく。これはまた別の機会にやるとするか。

いずれにしても世界経済にとって重要なのは、もし世界不況が原因であるとするのなら、リーマンショック以後6年も経っているのに、その間ずっと世界不況が続いているのに、どうして原油価格が下がらなかったのか、それがどうして今年になってから大暴落したのか、という問題であろう。

そしてその中から投機資本の本質的習性を探りだすことであろう。

ルーブル危機も元を正せば原油価格の急落だ。
巷間、原油安はロシアへの圧力を狙った米国とサウジの芝居だという話もあるが、石油市場はそんな一国の思惑で動くほどのやわなものではないと思う。第二次大戦の時だって「石油の一滴は血の一滴」と言って戦争に突っ込み、数千万人の人が殺し、殺されたのだ。
そもそも原油価格を釣り上げたのは投機資本であるから、ユーロダラーや投機資本の動向を分析しない限り答えは出てこないだろう。
原油安が経済にどういう影響を与えるか。これも多面的だ。グローバルに考えれば、どっこいどっこいなのだろう。一般的には原油安は経済発展を促す。とくに途上国の石油非産出国にとっては追い風になるだろう。しかし先立つものはカネである。
膨大なオイルマネーは当面リスク回避に回るだろうから、多くはタックスヘイブンに死蔵されるだろう。残りは米国の株式、債券市場に回るだろう。
産出国・非産出国を問わず、そこには経済の不安定性が残されるだろう。足の早い投機資本に世界中が振り回される状況がますます進展するだろう。これだけは間違いなさそうだ。

というわけで、バッファローのサイトに行ってRAMディスクユーティリティというソフトを拾ってきた。
ダウンロードして立ち上げようとするが、「すでに立ち上げ済みか再起動が必要」ということで、再起動したが同じクレジットが出てくる。
念のために探してみたら、なんのことはないすでに立ち上げ済みであった。外付けハードディスクか何か買った時におまけでついていたようだ。「かんたんセット」とか言うボタンを押して、それで終わりである。
マイ・コンピュータを開くと確かに「G:」というのができている。そこにFoobar のフォールダーをコピーした。EXE ファイルのショートカットを作ってデスクトップに置いた。
そこにAACファイルをドラッグ・アンド・ドロップすると、みごとに音が出てくる。
しかもこの音、ただものではない。えらくクリアーなのだ。聞き慣れたファイルの音が、とんでもない音で出てくる。音に“芯”ができている。時間分解能が格段に向上しているのだろう。
前から気になっていたムーティとバイエルンRSOのシューマン4番を聞いてみる。ささくれはみごとに消えている。荒々しいがあくまでも音色である。これぞ私がもとめていた音だ。厚化粧でごまかしたニセの美しさではない。
音飛びは解決していないかもしれないが、この音だけでも十分我慢できる。
皆さん、絶対お勧めです。
ただし自動バックアップと自動再立ち上げ機能が働かないと、面倒は面倒だが…

12月03日 に

という記事を書いたが、実はまだやっていない。

Foobar2000 のソフト自体をRamdiskにインストールしました。少し音質的な改善はできたものの相変わらず音飛びが発生します。

というところからもう分からない。そもそもRAMディスクってなんだ、ということが分からない。

高校時代の数学のことを思い出す。どこかで躓くと、それから先は積み重ねだから、いくらまじめに授業を聞いていても分からない。

そんなことはどうでもよいのだが、ネットでそれらしい記事を探していて、下記の文章に当たった。

BUFFALO RAMDISK ユーティリティー

これは要するに、メインメモリーの一部に“RAMディスクと呼ばれる仮想ドライブを構築する”ソフトなんだそうだ。

ただしRAMはOS終了時に全てクリアされるが、このソフトを使うと、“RAMディスクに保存されたデータを自動でバックアップし、再起動時に復元”してくれるから、消えないのと同じことになる、という仕掛けだ。

まずはダウンロードしてみる。結果は次の記事で…

で、何にAudacity を使ったかだが、
YouTube のM.Ippolitov-Ivanov,A.Archangelsky,Conductor Dmytro Bondarenko
という合唱曲である。
題名だけ見ても何のことかわからないだろう。このファイルは全部で9分だが、2曲入っている。1曲めがイッポリトフ・イワノフの "Bless The Lord, O My Soul" という曲で、2曲めがA.Archangelsky という作曲家の "I am Thinking About a Day of Horror" という曲。Dmytro Bondarenko という指揮者で合唱団の名前は不明。2010年にスエーデンで演奏されたものの録画らしい。
ロシアの合唱というと赤軍合唱団とかのロシア民謡が定番だが、実は近代作曲家も結構書いていて、キュイなんか悪くないのである。低音のグルーブ感はロシア民謡と同じで迫力がある。
この音源も、曲も演奏も良いのだが、録音がひどい。
そこで頭の拍手を切って、
じゃっかん刺抜きをして、エフェクトでノイズ除去して、Clip Fix で音割れを修復して、コンプレッサーで音量を調整した。定位が左に寄っていたので右のチャンネルの無音域をちょっとカットして中央に持ってきた。合わせて擬似ステ効果も出した。元の音源のビットレートは98くらいだが、AACの195Kbで保存した。
元の音源より音が良くなるわけではないが、確かに聴きやすくはなる。

しばらくぶりにAudacity を使うことになって、立ちあげたら、動かない。
というか、AACファイルを読み込めない。AACファイルをドラッグ・アンド・ドロップした瞬間に、「このファイルは以前は読めましたが、原罪では読めなくなりました」みたいな変なメッセージが出てきて、それから後はうんともすんとも言わない。
いろいろやってみたが分からない。
最後に英語版Wiki でやっと分かった。
ひとことで言うとこういうことだ。
Audacity が9月29日にヴァージョンアップした。2.0.6という名前だ。これにともなってffmpegも新しいヴァージョンavcodec-55.dllになった。
肝心なことは、両方ともアップデートしないと使えないということだ。2.0.5はavcodec-55.dllを読まないし、2.0.6は前のffmpegを読まない。両方共旧ヴァージョンなら良いはずだが、読まなかった。ここが不思議といえば不思議だ。ひょっとするとAUDACITYのほうが勝手にアップデートしていたのかもしれない。あるいはその逆も考えられる。
これが分かるのに半日かかった。
何故かと言うと、Audacity の解説サイトはすべて最新版ダウンロードのリンクが2.0.5のままだからだ。
今後お悩みの方も出てくると思うので、報告しておく。
なおLameの方はまったく変化なしである。ただついでにこちらもアップデートしておいたほうが良いとは思う。

今年4月に広瀬隆さんが鹿児島で行った講演の記録があって、そこにいくつかの図表が載っていたので、転載させていただく。

川薩
この記事は1997年3月26日の出来事だそうだ。キャプションによると、日本の原発が初めて地震の強い揺れに直接襲われた日なのだそうだ。直下型でマグニチュード6.2というのは相当のものだと思う。
川薩の川というのは川内のことのようだ。阿久根というのは地図で言うとこのへん。川内の隣町だ。

akune

そういえば、前にえびの地震というのもあったな。

それで、さっきの地震が3月だが、その2ヶ月後には川内を地震が直撃した。

川内

それ自体きわめてやばい話だ。次はまさに原発の直下だ。

だが、もっと恐ろしい話がる。見出しに「川内原発停止せず」と書いてある。二回目の地震のその時、九電は深度6弱でも原発を止めなかったのだそうだ。脇見出しには過去最大71ガルと書いてある。

止まったのは原発ではなく、原発を管理する人間の思考が止まったのだ。これが一番恐ろしいことなのだ。「止める」という発想がそもそもない。車にはアクセルとブレーキのペダルがあるが、ブレーキを踏むつもりがなければブレーキはブレーキではなく、たんなる飾り板でしかなくなる。


広瀬さんはこう語っている。

これは信じられない事です。
原子力発電所というのは危険ですから、普通の地震でも原子炉は止めるようになっているはずなんですが、
止めなかったんです。
「なぜ止めなかったのか?」
それは私は今もってですね、九州電力を信頼できない一番の根幹になっています。

それで今回の申請だが、なぜ通ったのかがわからない。断層なくして地震なしだ。10年ちょっと前には、あわやあと一歩という直下型地震があった。

とすればそこには断層があるのであり、それは定義上は紛れもない活断層ではないか。


これも社会面の記事。
「カジノ合法化“早く”  露骨な介入の意見書」と題されている。
内容は在日米国商工会議所がカジノ法案の早急な成立をもとめる意見書を出したというもの。
この在日米国商工会議所(ACCJ)は日米経済摩擦でお馴染みの組織。米企業・政府の尖兵として先鋭な要求を突きつけてくることで名を知られている。
まず骨子から。
* カジノの規模について制約を盛り込まない
* カジノ総収入に対する税率は10%を越えないものに
* カジノ・ギャンブルは消費税の対象から外す
* 入場料は課さない
* 24時間、年中無休の営業を認める
* カジノでのクレジットサービスを可能に
これだけでもじゅうぶん頭にくる。
さらに解説を読んでいくと、ますます血が登ってくる。
* (進出するカジノ企業のために)アジア各地のカジノ施設との比較でより利便性の高い法規制の枠組みを構築することが大変重要である
* カジノの規模に関して恣意的な制約を法規制に盛り込んではならない
* 東京、大阪など人口密度の高い地域では複数のカジノ施設の併設も認めるべきである。
* 日本国民は入場料のかからないパチンコ・競馬・競輪など多数の選択肢を有している。したがってカジノの入場料徴収は反対する。
* (ギャンブル依存に対する規制の)法的試みは、ギャンブル依存を撲滅するという政策目標を達成することはできない。無責任なギャンブルに興じる少数者を守るために全訪問者のギャンブルを制限することは、逆効果となりかねない。
中身の酷さもあるのだが、根本的には日本人を対等の人間としてみていない、その横柄で高飛車な態度が胸糞悪い。彼らは故国では、故郷では、このような言葉を絶対口にしないと思う。
思うのだが、彼ら米国人が日本でどんなことを言っているのかを、故国で宣伝してやれないものか。

多分全国版には載らないと思うので紹介しておく。
「取材メモ」というコラムに(善)さんという記者が書いた記事。
電源開発が原子力規制委員会に大間原発の新基準適合性審査を申請しました。ここには三つの「初」があります。
一つ目は、建設中の原発の審査申請は初めてということ。
二つ目は、世界初のフルMOX原発であること。フルモックスというのは危険性の高いMOX燃料のみを使うということです。
三つ目は、電源開発が初めて作る原発だということです。つまり原発を作ったこともない会社が初めて作る原発が、世界初のフルモックス型だということです。
この原発、東日本大震災と東電福島原発の事故のあと工事が止まりましたが、12年10月に民主党野田政権の容認のもとに工事を再開しています。(以下略)
これにもう一つ「初」を付け加えるならば、「化石化」することを前提に作られる初の原発だろうということだ。大間という町は今後半世紀のあいだ日本中に恥を晒すことになるだろう。



選挙直後の16日(火)から北海道AALA50周年の記念展が行われて、連日詰めていた。その間毎日パソコンを持ち込んで、会場でシコシコと作業をやっていたのだが、本日戻ったところ見事にその作業分が消えていた。
電気を入れたら、たしかに変な画面が出た。「バックアップしますか?」みたいな画面で、「します」とこらえたら火曜日の時点に戻っていた。
私の脳の生産可能年齢はあと10年となっているので、5日間の作業が消えるのは結構痛ましいが、仕方あるまい。それよりはるかに多くのメリットを受け取っているのだから、ここは受け入れるしかあるまい。願わくば、二度とこういう事態が起きないように。
ということで、途中までだがブログに乗せておく。
中身は大久保利通年表の増補版だ。一応1866年(慶応元年)までの年表である。どうせまだまだ補充しなければならないので、途中経過版だが…

1861年(文久元年) 

大老井伊直弼が倒れたあと、公武一体論が幕府の主流となる。薩長もそれぞれの思惑から公武合体論を主張。これに対し草葬層(下級武士、豪農商層)は天皇への一極集中を主張。

薩摩藩(島津久光)は朝廷をトップとする諸藩の連合として、公武一体論を説く。

久光、率兵上洛計画を進める。朝廷主導の公武合体と現実的開国を図り、あわせて攘夷を唱えた長州藩に対抗することが目的だったとされる。

以降の月数は陰暦のようである。前後関係が合わないところがあり、とりあえずそのまま書く。

11月 下士の出身であったが、島津久光のもとで抜擢され藩政に参与するようになる。この時31歳。この頃先代斉彬についた西郷は流罪になっていた。(このへんはややこしく、本線に関係ないので省略)

12月 大久保は年末に京都に出て、久光上洛の根回しを行う。実に「根回し」こそ大久保の真骨頂であった。(ただしこの時は不調に終わった模様)

1862年(文久2年)

2月 久光、大久保の仲介により西郷の流刑を解き要職につける。藩内の尊王攘夷派の抑え役が期待されたようである。

2月 朝廷に国事参政と国事寄人の二職が設けられる。三条実美と姉小路公知らの急進派がこのポストを確保。真木和泉、久坂玄瑞らが影響力を持つようになる。

このころ京都では、尊王攘夷運動がピークを迎える。各地で農民一揆や都市騒擾が多発。幕藩意識が急速に解体。

3月 久光、藩兵1千人余りを率いて京に向かう。西郷が先乗りし、大阪の攘夷派を鎮撫。しかしこれが独断による行動であったため、帰藩・謹慎を命じられる。

4月16日 島津久光が兵を率い京に入る。有馬新七を指導者とする藩内攘夷派は、伏見の寺田屋をアジトに、幕府派要人襲撃を画策。

4月23日 寺田屋事件が発生。薩摩藩兵が過激派を武力鎮圧。これを機に藩内過激派組織は壊滅する。

5月10日 「攘夷決行の日」を機に、長州藩がアメリカ商船を砲撃。欧米艦隊から報復攻撃を受ける。

5月 久光、孝明天皇の信任を受け、幕政改革の建白。一橋慶喜の将軍後見職、福井藩主松平慶永の政事総裁職就任などを主張。

5月 この間に、大久保は有力公卿の岩倉具視に接近。朝廷内の足がかりを築く。

5月21日 朝廷より久光の意向を受けた「三事策」と呼ばれる勅許がくだされる。

三事策: 1.幕府は速やかに将軍・徳川家茂を上洛させ、朝廷と攘夷について協議する。2.薩摩・長州・土佐・仙台・加賀の五大藩を五大老とし、国防・攘夷に当らせる。3.徳川慶喜を将軍後見職に、松平春嶽を大老とする。
三事策のうち、薩摩藩の要望は3のみであり、1は尊攘派とその背後にいる長州藩、2は岩倉具視による発案である。
1については、徳川家茂を京都に呼びつけて攘夷決行の勅命を下そうという尊攘派の、2は薩摩藩の独走を牽制する岩倉の思惑に基づいている。
 (ニコニコ大百科)

6月7日 久光、江戸に入る。大久保も随行。勅許をカサに幕閣と協議するが交渉は難航。大久保は要人テロの脅しで人事案を認めさせる。

8月21日(新暦では9月14日) 久光、江戸を発ちふたたび京に向かう。この帰路で生麦事件が発生。薩摩藩士がイギリス人3名を斬殺。

閏8月7日 久光らは再び入京。

閏8月20日 岩倉具視、朝廷を罷免され出家。尊攘派が朝廷の実権を握る。

閏8月23日 久光と大久保、京を離れ薩摩に向かう。

10.27 江戸幕府は朝廷による攘夷の督促を受け入れ、将軍家茂が上洛することを決定。

12月 大久保が京都と江戸を回り、松平春嶽と山内容堂を説得。幕府の方針を雄藩ですり合わせることで合意を得る。この辺りから大久保は久光の代理的存在として存在感を示すようになる。

1863年(文久3年)

3月 将軍家茂、久光が相次いで上京。尊攘派の抵抗にあった久光と大久保はわずか2週間で薩摩に戻る。

5月 薩摩藩の田中新兵衛が姉小路を暗殺。薩摩藩は御所への出入りを禁止される。

5月30日 孝明天皇が久光に対し尊攘派排除を要請する密勅。

7月8日 薩英戦争。生麦事件の補償をもとめる英艦隊が鹿児島を攻撃。沿岸部の民家500戸、工場、蒸気船数隻、砲台などが破壊される。

8月18日(新暦の9月30日) 公武合体派の会津藩と薩摩藩が、朝廷における尊攘派を一掃。七公卿と長州藩を京都より放逐。

8月18日政変: 京都守護職の会津藩が1500名、薩摩藩は150名。他に淀藩、徳島藩、岡山藩などが参加。

10.03 久光と大久保、1万5千の兵とともに上洛。慶喜・春嶽・容堂・伊達宗城ら公武合体派の諸侯が次々に入洛。

1864年(文久4年2月-元治元年3月)

1.13 国事に係る朝議機関として参預会議が成立。久光・慶永・豊信・松平容保・一橋慶喜・伊達宗城による合議制をとる。

2.15 参預会議、横浜鎖港をめぐり対立。幕閣の立場に立つ慶喜は参預会議を解体に追い込む。久光の「雄藩連合」構想は事実上の終焉を迎える。

3月 久光の許を得て政界に復帰した西郷、京都の薩摩屋敷を委ねられる。西郷は会津との関係を絶ち独自の情報収集に努める。

6月 池田屋事件が発生。長州藩はこれをきっかけに京都に出兵。

7月 蛤御門の変。会津藩との衝突で約3万戸が焼失。

7月 幕府は機に応じ長州藩主の召喚、長州藩追討の方向を打ち出す。徳川慶喜、松平容保の罷免や参勤交代の復活も提起したことから反発を呼ぶ。

7月 薩摩の大久保、御所を守るために長州藩と対決するが、長州征討に関しては中立を守るとの立場を明らかにする。

1865年(元治2年-慶応元年)

2月 大久保、京都に入り、幕府の暴走阻止の工作に乗り出す。

この年大久保は京都と薩摩のあいだを3往復している。①1月25日~、②5月21日~、③8月25日~ そのほとんどが第二次長州征伐阻止のために注がれている。

3月2日 朝廷、長州藩主親子・三条実美の江戸召喚を拒否、参勤交代の復活に反対する「御沙汰書」を発する。原案は大久保が作成したものと言われる。

3月29日 第二次征長論が幕府と朝廷のあいだで進む。幕府は長州再征のための将軍再上洛を布告、全国諸藩に従うよう命じる。

閏5月 大阪城に入った家茂、諸藩に長州征伐への参加を促す。殆どの諸藩は財政難や厭戦気分に陥っており、再征伐に消極的だった。

6月 大久保、朝廷と諸藩に対し西郷とともに長州征伐反対と諸侯会議での解決を主張。各方面に説得活動を展開。

9.21 一橋慶喜の圧力のもと、長州征伐の勅許がくだされる。

9.21 大久保は朝廷に対し、「至当の筋を得、天下万民ごもっとも」の義を求める。「非義の勅命は勅命に非ず」と訴える。

10.3 慶喜、諸藩の反対を押し切り、通商条約への勅許を獲得。薩摩は諸藩の連携だけでは幕府の暴走を抑えられないと見て、長州との連携に乗り出す。

この頃、農民一揆が最大の高揚を示す。




赤旗に「共産党の躍進をどう見るか」という記事がいろいろあって、その中のひとつがこれである。

米スタンフォード大学ショレンスタイン・アジア太平洋研究センター副所長

という肩書のダニエル・スナイダーという人だ。

この人はクリスチャン・サイエンス・モニター紙の東京特派員の経験がある知日派だそうだ。

この人の評価は非常に骨太で、政治の底流までふくめ、しっかりとトレンドを見ている。

彼の発言は5つの柱からなっている。

1.日本国民が右傾化していないことの表現

安倍首相の言動に見られるように、日本国民は「劇的に右傾化」していると見られている。

しかし共産党の躍進と、次世代の党(極右)の壊滅を合わせてみると、そうではないことが明確だ。

反対派を脅し、沈黙させる雰囲気の中での躍進の意義は大きい。

2.日本国民は「断固反対」路線を受け入れた

共産党はすべての争点において与党の自民党に強く反対した。にもかかわらず、だからこそ、自民党への抗議を表そうとした多くの人が共産党に投票した。

したがって共産党の躍進は、数字以上の意味を持つ。

3.野党の弱さの反映

有権者は3年間続いた民主党政権にいまも否定的印象を持ち続けている。

そのために自民党以外の選択肢が失われている。戦後最低の投票率は有権者の思いを表している。

有権者は安定志向で自民党に入れるか、自民党への抗議として共産党などに投じるか、棄権するかのいずれかの選択しかない。

4.独自の争点の押し出し

共産党はアベノミクスだけでなく、平和と民主主義の課題を押し出した。他の野党はこれらの争点の打ち出しを回避した。

そしてそれが多くの有権者にとって重要と考えられていることが確認された。

5.共産党が民主党やその他の野党を左に動かす可能性

私は共産党が将来、与党連合の一員としての役割を担う可能性を否定しません。


ということで、スナイダーさんは政治路線に焦点を合わせて分析している。

これは選挙分析の王道だろう。しかし日本ではほとんどおこなわれていない議論だ。

December 17, 2014

Learning the Art of Coexistence  The New Opening With the USA

共存の技法を学ぶこと

USAとの新たな始まり

ラウル・カストロ

国交回復への基本的立場

私が国家評議会と内閣の議長に選ばれて以来、私は事あるごとに、アメリカ合衆国との対話を繰り返し希望してきた。アメリカとの間には相互に関係する多種多様な課題があるからだ。

我々の希望するのは、対等の立場での礼儀正しい対話である。それは我らが民族の独立と自決権を損なうものであってはならない。

すなわち、我々の立場の違いを議論して、解決したいということである。しかし我々はそのために自らの原則を決して捨てないということだ。

このスタンスは、公的に、あるいは私的に同志フィデルによって幾度も米国政府へ伝えられてきた。

我々は長年にわたり闘い続けてきたが、その間、このスタンスが崩れることはなかった。

英雄的キューバ人民は深刻な危険、攻撃、逆境と多くの犠牲に直面してきた。その間も独立と社会正義の理想に忠実であった。我々は忠実であり続けてきたし、これからも忠実であり続けるだろう。

我々はこの間の56年の革命の年月を固く団結して過ごしてきた。

我々は、1868年の独立戦争開始以来、我々の原則を守るために亡くなった多くの人々に、変わることのない忠誠を保ち続けてきた。

両国協議の交渉経過

今日、さまざまな困難にもかかわらず、我々は、 我々の経済モデルをアップデートする作業に乗り出した。それは実りある豊かな、そして持続可能な社会主義を打ち立てるための作業だ。

最高レベルでの対話が行われた。そこには昨日オバマ大統領と私が行った電話会談もふくまれる。

その結果、我々は、両国の相互利益に関するいくつかの議論で前進をすることができた。

3人の「囚われ人」の帰還

フィデルが2001年6月に語ったとき、彼は約束した。

「彼らは戻ってくる!」

そして彼らは戻ってきた。ヘラルド、ラモンとアントニオは、今日、我らが故国に到着した。

彼らの家族と、我々すべてが巨大な喜びを感じている。飽くことなくこの目的のために戦った人々、連帯委員会と何百ものグループ、政府、議会、組織、機関、個人が喜びをわかち合っている。

それらすべてが、これまで16年の間、彼らの解放を求めて絶えず努力を続けてきたからだ。我々は、彼らすべてに心からの感謝の言葉を捧げる。

オバマへの敬意、バチカンとカナダへの感謝

オバマ大統領の決定は、尊敬に値するものであり、我ら人民の歓迎すべきものである。

私は、バチカン宮殿の支持に心からの感謝の意を表したい。とくにフランシスコ法王はキューバと米国との関係改善のため多くの努力を払われた。

私はまた、カナダの政府に感謝したい。カナダはキューバと米国がハイレベルで協議するためにさまざまな便宜を図ってくれた。

米国のスパイの送還について

交換に、我々は米国のスパイの解放と送還を決めた。彼らはキューバの生まれだが、米国のために働いていた。

一方で、人道主義の立場から、今日我々は、アメリカの市民アラン・グロスを送還した。

一方的に、それは我々がいつもやってきたやり方だが、そして、我々の法体系の規定に厳密に適合している方法なのだが、問題の囚人たちは、法的な特典を受け取ることとなった。

アメリカ合衆国の政府が彼らの関心を伝えてきた人物の解放を含めてだ。

外交関係の復活に関して

我々はまた、外交関係を復活させることに同意した。これは決して、物事の核心が解決されたことを意味するものではない。

経済・通商・金融面での封鎖は、我が国への莫大な人的・経済的損害を引き起こしている。まずそれを終わらせなければならない。

封鎖は法律によって体系化されているが、アメリカ大統領は執行権を持っている。そしてその実施法を修正することができる。

我々は、アメリカ合衆国の政府に相互ステップの採用を提案する。

それは相互交流の機運を興隆させ、両国の間のさまざまな関係の正常化に向けて前進するためのステップだ。

それは国際法と国連憲章の原理に基づくものでなくてはならない。

もう一度繰り返す。キューバは、多国間システムの中で協調していきたいという気持ちを持っている。それは例えば国際連合である。

交流の発展を、交流の障害除去を

我々の間には深刻な相違がある。特に民族の主権、民主主義、人権と外交政策に関連した問題に関して見解の相違がある。それは認めるが、

私は我々の気持ちを再確認しておきたい。これらの問題のすべてに関して、我々は対話する意志がある、ということである。

私は、交流の障害を取り除くようアメリカ合衆国政府に呼びかける。とくに旅行の制限、直接郵便の制限、電話の制限である。それらは両国の国民、家族、市民の間の関係をじゃましたり制限している、

我々の交流が発展すれば、多くの問題についてその解答を見いだすことが可能だろう。そのことが証明されるだろう。

我々は技法を学ばなければならない

私は繰り返す。

我々は、技法を学ばなければならない。文化的なあり方についての考えの違いがあっても、その違いをふくめて共存する技法を学ばなければならない。

This is the text of Cuban President Raul Castro’s address to the nation this Wednesday broadcast on radio and television on the recent developments in the Cuba-US relations.

 

米・キューバ関係の前進について

1.諸手を上げて歓迎すべき事態である

2.歴史的観点から見てキューバの完全勝利である。キューバは原則を一歩も譲らずに国交を実現させた。

3.「冷戦時代」の最終的終局であるとともに、多国間主義(Multilateralism)時代の重要な一歩である

3.巨大な落差はキューバにとって一定の痛みをもたらすだろう

4.キューバ共産党の真価が試される

というのが第一印象。

まずはニュースを拾ってみることにしよう。

念のため98年のルーブル危機についても調べてみました。

あまり資料はないのですが、調べた限りでの感想としては、たぶん98年危機のようなレベルに達することはないだろうと思います。

経済、財政、金融のインフラが当時とは比較にならないほど整備されています。当時のロシアはふっと息を吹きかけただけでも倒れるほどの脆弱さでした。エリツィン大統領はアル中で執務能力ゼロでした。その後、ルーブルは90%減価したところで、平衡を取り戻したのです。今回はそこまでは行かないのではないでしょうか。


1997年

7月 炭鉱労働者がシベリア鉄道を封鎖。エリツィン辞任をもとめる。

97年 石油価格は40%以上下落し、15ドル近辺までさがる。これによりロシアの政府債(GKO)の価格は暴落。

1998年

3月 エリツィン大統領、チェルノムイルジン首相を罷免し、セルゲイ・キリエンコを首相代行に指名。キリエンコは150%の超高金利政策により外貨の引き止めを図る。

7月13日 ルービン財務長官、200億ドルの緊急支援を承認。ロシア救済ではなくLTCM倒産の波及を恐れたためとされる。

7月20日 IMF、ロシアに対して226億ドルの緊急支援を発表。IMF拠出分の112億ドルが即時発動。多くは金持ち(オリガルヒ)のドル換金と海外送金に用いられたという。

8月17日 ロシア政府、「民間対外債務の限定的モラトリアム」を宣言(90日間支払停止)。これによりルーブル建て短期国債が債務不履行に陥る。同時に対ドルで最大24.7%の下落容認。実質的なルーブル切下げ。この後ルーブルが急落。

8月26日 ルーブル急落により対ドル取引の不成立が宣言される。

8月27日 為替取引を全面的に停止。

9月07日 対ドルの取引を再度停止。このあと1ドル5ルーブルから20ルーブル台へ下落した。

98年末 米国債売り・ロシア国債買いの裁定取引が破綻。LTCMなど大手ヘッジファンドが危機に追い込まれる。

98年 ロシアの貧困層が24%に達する。ソ連時代は2%。

1999年

1月 ロシア政府は利払い停止とルーブルの切り下げを発表。ルーブル相場は98年夏の水準から75%も下落する。外貨準備高は110億ドルに落ち込み、公的債務額はGDPにほぼ匹敵する水準に上った。ドル建てで資金調達していた銀行のほとんどが倒産。投資家の「質への逃避」により、深刻な外貨不足に陥る。


2008年 10年間の調整により、一般政府債務はGDP比8%まで減少する一方、外貨準備高は約6500億ドルと、世界第3位の規模に達する。


とりあえず日本語のニュースだけをさらってみました。いつものことですが、これだけでは背景が読めません。

原油安と経済制裁が挙げられており、それだけでも十分説明可能なのですが、やはりウクライナ問題でロシア政府の軍事支出が膨大になっていると思われ、それが経済を圧迫しているのではないかと思います。しかしそのへんの資料はありません。

原油安の元になっている、サウジの減産拒否についても解説が必要ですが、これはまた別の、それ自体重大な問題なので、稿を改めたほうが良さそうです。

そして一番の関心は、それが世界の経済金融危機に発展する可能性はないか?ということですが、この点について触れたものはほとんど見当たりません。


クリミア編入でプーチンの支持率は85%に達する。

7月 マレーシア機撃墜事件。制裁に消極的だったEU諸国が一気に硬化。

ウクライナ関連の経済制裁。返済期限が1カ月以上の債券の取引が禁止される。黒海海底を経由して欧州中心部につなげる天然ガスのパイプライン「サウスストリーム」の敷設中止。さらに北極海大陸棚の共同探査計画やシェールオイルの共同開発も停止される。

8月 ルーブルの下落が始まる。最初は35ルーブル前後からゆるやかに降下。

10月末 外貨準備高は4286億ドルに減少。経常収支は大幅黒字を維持し、政府債務はGDP日13%にとどまる。

10月末 1ドル40ルーブルまで低下。中銀は10月だけで300億ドルの市場介入を実施。

10月 ロシア石油大手代表、投資が不十分ならロシアの石油生産量は日量100万バレル程度減少するだろうと述べる。

11.05 中銀、市場介入額の上限を1日当たり3億5000万ドルに設定。これまでは無制限だった。

11.10 中銀、為替介入を取りやめると発表。為替レートの自由化を前倒し実施して変動相場制に移行。

11.07 ルーブルの安値が更新。1ドル=48ルーブル。年初から見て50%の低下。食料品禁輸の影響でインフレ率は10%近くに上昇。

11月 OPEC会合、サウジの主導により減産見送りを決定。サウジはアメリカのシェールガスとの安値合戦を念頭に置いているとされるが、背景にロシアやベネズエラの弱体化を狙う米国の圧力があったともされる。

12.02 1ドル52ルーブルとなる。

12.04 プーチンが年次教書演説。投機資本の動きを厳しく批判する。(のみ)

12.15 中銀、原油価格が1バレル60ドル前後で推移すれば、GDPは4.5%縮小するおそれがあると発表。

12.16 中銀、政策金利を10.5%から17%に引き上げ。2ヶ月間に3度めの引き上げ。

12.16 ルーブル相場、市場明けから売りが殺到。10%以上の下落で1ドル80ルーブル台に突入。年初来では50%以上も下落。中銀の外貨準備高は年初頭の5090億ドルから4160億ドルに減少。

12.16 債券・株式相場も急落し、株価指標は2008年以来最大の下げを記録する。

ロシア外貨準備

12.16 ロシア国債のCDS保証料率は550%に上昇。

12.16 ナビウリナ中銀総裁、「しっかりしたレートに戻るには時間が必要だ」と説明し、主要政策金利引き上げの効果を待つ考えを示す。いっぽうシベツォフ第1副総裁は、より厳しい見方を示す。

ルーブル暴落は危機的な状況だ。6.5%引き上げは、「極めて悪い」か「極めて、極めて悪い」かという2つの選択肢の中間の選択だった。1年前でさえ、最悪の悪夢の状況を想像できなかった。近日中に2008年金融危機に匹敵する状況が訪れると思う。

12.16 この日の時点では、ロシア国内に換金、買いだめなどのパニック行動は見られず。

ruble vs dollar

12.16 米経済諮問委員会(CEA)、ロシアの経済政策は深刻だが、米国のエクスポージャーは限定的と述べる。

12.16 欧州株式市場、ルーブルが対ドルで下げ幅を圧縮し、原油価格もやや持ち直したとし反発。ただしロシアとの取引が多い企業は大きく値を下げる。

12.17 ロシアの社債・国債比率が高いPIMCOの新興市場債券ファンド、1カ月のリターンがマイナス7.9%にまで落ち込む。

12.17 アップル、ロシア国内でのオンライン販売を停止。

12.17 モスクワで買いだめの動きが始まる。肉類、鶏卵、牛乳、野菜などは一週間で約20%値上がりした。

東京新聞(大森準記者)による解説(18日)

東京新聞

これは裏話的なことだが、ロシア人は過去の経験から自国通貨を信用しておらず、事実上ユーロとの二重通貨になっている。このため影響は見かけより小さい、との情報もある。

原油暴落とルーブル危機

二つの不気味な妖怪がうごめきはじめている。原油は50ドルという信じられない安さだ。ふつうならOPECはここまで行かない内に生産調整を始めるのだが、歯止めが効かなくなっている。おそらく投機資本がそれ以上の売り浴びせを行っているのだろう。

ただ、長期に見ればバレル100ドル超というのがそもそもフィクションであり、だぶついたユーロダラーが回って高値を支えていたに過ぎない。

世界不況下のオイル高という状況がそもそも変なのだ。持ちこたえられなくなればこのバブルが一気に消滅する可能性はある。

まぁ、このへんは時の運だろう。大損する人間(例えば三菱商事)が出たとしても知ったことではない。ザマァミロだ。

ルーブル危機はそうは行かない。多分1997年の時ほどではないだろうが、欧米の投資家には相当な犠牲が生まれるだろう。

あの時はロシアの危機がプラジルに波及した。LTCMを始めとする投資家がブラジルの資金を引き出してロシアでの欠損補填に当てたからだ。

ところがロシア危機に比べればブラジル危機のほうがじつははるかに深刻だった。アメリカはあわててテコ入れに動いた。この辺りからIMFの動きは訳がわからなくなって、結局は政策的に崩壊してしまった。

これを機に、投機資本と一体化したIMF・世銀・米財務省のネオリベ政策は、ひとつの終焉を迎えたのである。

とは言うものの、アメリカの基本的スタイルは何ら変更されていない。したがってあの時の火種は依然として抱えたままである。

とくにあの時は比較的堅調だったEU圏の金融機関が、危機を脱したとはいえない状況にある下で、オイル安、ルーブル安がどう結びついていくか、それに市場がどう反応するかはまったく読めない。

最近の経済危機は大抵がソブリン危機の形をとって現れてくる。来年が2008年のリーマン・ショック、2010年のユーロ危機以来の激変の年にならないという保障はない。

苦しいのはウチだけではないのだ。厚労省による全国の調査(と言っても2年前だが)を見ると、老健が厳しい状況に置かれているのが分かる。

平成24年度介護老人保健施設の経営状況

利用者数の推移

介護老人保健施設の経営分析参考指標(H24)老健の集計対象1451施設の状況①平均入所定員数は97.9人。平均在所日数は100.6日。また平均要介護度は3.28だった。

平均通所定員数は41.3人、69.3%。平均介護度は2.08であった。

入所の利用率は95%で昨年より0.9%減っている。これに対し在院日数は1.8日増となっている。

収益の推移

入所定員1人あたりの年間収益は5596万円。入所者の一日あたり収益は、介護料収益が10576円、入所利用料が2151円であった。一人あたり収益は0.5~0.6%微増しているが、利用者の減によりトータルでは0.5%の減となっている。

従事者数

医師が1.2人、看護・介護職員が52.3人。利用者100人あたりで換算すると医師が1.0人、看護・介護職員が43.0人となる。

看護・介護職員数は0.6%減っているが、人件費は0.6%増加しており、経営を圧迫している。

収支の状況

事業収益に対する費用の割合では、人件費55.6%、医療材料費2.6%、給食材料費8.3%、経費が19.4%となった。

この中では人件費が0.6%増えているが、他は増減はない。

利益率は8.6%、経常収益に対する経常利益率は8.0%となっている。とくに後者は1.1%の激減(減少率は1.1÷9.1=12%)となっている。


つまり、利用者は減り、人件費は上がり、スタッフは減っている。収益は下がり、利益はもっと下がり、このままでは遠からずやって行けなくなる。

従来のやり方では行かなくなったとき、どうするか。「答えは現場に聞け」である。革新的な考えは現場からしか生まれない。

現場主義を貫くことだ。同時に現場に経営感覚を持ち込むことだ。経営感覚なしに幹部は育たない。



「国譲り」という言葉はそれだけで多くの含意がある。
1.おそらくは九州王朝と闘って敗れたということ
2.敗れたあと、その隷下には入らず、国を捨てたということ。
3.九州王朝も出雲王朝も、もともと日本に対しては外来勢力であり、日本(例えば九州、例えば出雲)をモノ(支配対象)として考えていること。
4.両者の間には“譲り、譲られる”という関係において共通性があること。
これは、状況は違うが、ゲルマン民族の大移動に似た関係である。
初めにバンダル人が、次いでゴート人、ゲルマン人、ノルマン人と、彼らは波のように押し寄せた。そして古い侵略者は追い払われ、新しい侵略者へと代わっていく。
この事情はおそらく朝鮮半島南部でも同じだったろう。まず縄文的な先住民がおり、そこに長江文明を持つ人が渡来した。そこにはいわゆる三韓地方が成立した。そこに北から漢が侵入し、山間の地を徐々に侵食していった。馬韓の地の多くは、満州由来の扶桑族が支配する百済となった。しかし後に百済も北からの新手に苦しめられることとなる。
日本でも最初に水稲耕作を行う弥生人が現れ、弥生式土器を持つ弥生人が現れ、最後に非常に武力的な天孫族が現れた。
天孫族の中でも非主流派の出雲族は九州王朝を離れ、東方に別の王朝を開いた。あるいは先行していた天孫族の一派が九州王朝に追いやられ、東へと移動したのかもしれない。
東への経路が日本海側が先行するのにはいくつか理由があるのだろうが、今日我々が考えるほど瀬戸内海というのは交通に適した経路ではなかったのかもしれない。


森浩一という先生がなんとなく気になって、他の文献も探してみた。

TOP>活動記録>講演会>第298回

というページがあって、第298回特別講演会「倭人伝と魏鏡」の記録が掲載されている。

そこで下記の講話が行われている。

魏鏡と倭人伝への認識をぼくが深めていった遍歴   森浩一先生

以下は抄録というよりつまみ食い。

1.「三角縁神獣鏡」に関して

「三角縁神獣鏡」は森さんのオハコらしく、詳しく述べられているが、省略。

ちょっと大事なポイントと思うのは以下の一節。

考古学で大事なのは、発掘の瞬間にどれだけ観察し記録を残すかである。発掘の状況をきちんと記録して、その状況から遺物に対する歴史的判断をすべきである。

これは京大アカデミズムとの論争を通じての教訓のようである。

事物を「過程の断面」と見る私から見れば、当然のこと思うが、考古学者の多くは、骨董屋さんの親類みたいなことをやっているようだ。

2.倭人は無文字社会だったのか

4世紀の倭人は無文字社会ではなかった。倭人は漢文を読めたのである。

私も同感である。倭人は漢文を読めたし、書けもしたと思う。ただし大和朝廷でもそうだったか、ここは疑問である。彼らにとって中国は九州王朝を介した伝聞であった。漢文を読めなくても暮らしていけたのである。

3.銅鐸が三角縁神獣鏡に

銅鏡は弥生時代に九州で大量生産されている。その技術が近畿に持ち込まれたのが三角縁神獣鏡だ。同じような技術は銅鐸生産にも共通しているが、分布はまったく異なる。

ところが三角縁神獣鏡の分布は銅鐸とほぼ一致する。しかも三角縁神獣鏡は銅鐸が社会から消失し古墳時代となるに及んで出現している。これは「ヤマトに移ってきた九州勢力が新たに作り出した」のではないのか。

これはつまり、銅鐸を鋳潰して三角縁神獣鏡を生産したということだ。あたかもスペインの征服者がインカの宝物を鋳潰してキリスト像を作ったのと同じことではないか。

話はこれで終わり、そのあとは安本美典さんとの対談に移行する。ひとこと、安本さんの神武東征4世紀初頭説は、私の古代史観のランドマークになっている。

対談での森さんの発言は相当過激で、テープ起こしした人も「(^^)」の絵文字を入れている。

* 纒向遺跡から日本各地の土器が出土していることで、纒向が都だといっているが、各地の土器が出るということは、纒向の特殊性を説明する材料としては通じない。それをまた持ち出しているから、これはあかん。

* 銅鐸の破壊に宗教的な意味は無い。熱く熱した銅鐸にバケツで水をかけるとばらばらに壊れることがわかっている。銅鐸の破片を材料にして何か作っていた可能性がある。


ということで、明示はされていないが、九州勢力の近畿銅鐸圏征服というストーリーについては安本さんとも共通しているようだ。

ただ私の言う出雲→九州の二段階征服説については論究がない。

といったら、ちゃんとそういう研究があった。

遺跡からみた大阪平野と人間の歴史 国府遺跡から古墳の終末まで」というレビューで、著者は同志社大学の森 浩一という先生。

以下は抜き書き

①はじめに 略

②旧石器の時代

ここではまず≪国府遺跡の研究史≫から始められている。

大正6年に発掘が始められた。幸運にもまたある意味では不幸にも縄文時代の大きな墓地にあたってしまった.そのため当初の目的であった旧石器時代の存在の証明は脇に追いやられてしまった。

戦後ふたたび発掘が行われ、縄文の墓地の層のすぐ下の洪積層の中から先土器時代のおびただしい数の石器が出土した.

見つかっている遺物が打製石器だけなので、それ以上の検討は難しい。しかし,その当時の人が狩猟に重点をおいていたことは,残されている石器群からも考えることができる.

この時代はウルム氷期にあり、海岸線はもっと沖合だったろう。

③繩文遺跡と土器の文化

おそらく大阪は,全国的にも最も縄文遺跡の少ない地帯の一つだろう.遺跡は圧倒的に東日本に偏在している。

つまり旧石器人と縄文人のあいだには断絶があるということだ。旧石器人も縄文人も樺太経由だとすれば、大阪でさえ旧石器人が絶滅したということは、日本中全滅ということだろう。縄文人は日本列島という無人の野に進出してきたことになる。

ただ大阪の縄文遺跡の多くは地中深く眠っている可能性がある。河内湖は大和川と淀川の氾濫原であり、湖岸の遺跡は沖積層の奥にしまわれているかもれない。

縄文は狩猟漁撈で,弥生は水稲栽培という方程式が先入観としてあるが,実は一般にいわれているほどにはわかっていない。

縄文文化は大量の土器を残している.これほど大量の土器が日常生活のなかで何に使われたかという問題は未解決である.

ふつう土器文化は,農耕社会の必要の中で生まれる。縄文時代は,本当に狩猟・漁撈の文化であったのかという問題と繋がる。

④弥生文化の諸相

本格的な弥生文化が北九州で始まるのは、紀元前3~2世紀頃である。北九州では弥生文化の最初の時期は,縄文土器の伝統を残した夜臼式土器と弥生的な板付式土器が共存している.

留意すべきはその時北九州には縄文文化が先住していたということである。

すなわち縄文文化は東北・北海道に始まって、数千年を経て日本全土に拡大していたということである。他に流入元がないとすれば、それは薩摩・沖縄にまで達していたと考えられる。

縄文人(夜臼式土器の使用者)は水田耕作を取り入れている。大阪の船橋遺跡、堺の四ツ池遺跡では低地の水田耕作を行っているが、縄文式土器を使用している。

ただ、これと並行して木のスキやクワ,石包丁などの弥生式生活のセットの受容も行われたのかどうかは不明である。

≪大集落の出現≫

弥生前期になると,大阪では縄文時代の遺跡とはちがってきわめて明確な遺跡が各地に出てくる.

西暦紀元前3~2世紀ごろになると,活動の活発さは,縄文時代とは比較にならないほど激しくなり,大集落がどんどん形成される.

おそらくこれが最大の問題であろう。「それを担ったのは縄文人なのか弥生人なのか」だ。後世との関係で言えば銅鐸人なのか天孫系なのかという問題でもある。

平面規模で南北・東西が300~400mにおよんでいるものもあり,室町時代に比べ遜色ない。発掘される土器の量もきわめて大量である.銅鐸をはじめ多くの銅製品も作られている。

我々は弥生の集落を過小評価していたかも知れない。

池上遺跡(泉大津)は弥生時代中期に属する環濠集落。東西・南北400mの集落で、幅8m程の堀がめぐらされている。

これは規模の大きさとともに、人間が争う社会に移行したことを示す。人は生産のためだけでなく防衛のためにも集合した可能性がある。

豊中市の勝部遺跡では,木棺の中に埋葬されていた人体の腰のあたりに石の槍がささったままであったが,これは戦闘の跡と考えられている。

果たして共同体同士の縄張り争いにこれほどの防衛が必要だろうか。私は、これは海賊に対する防衛だろうと考える。カリブの歴史を考えると、海岸都市の発達は結果として海賊がもたらしたといえる。彼らはめっぽう強く、残虐である。根こそぎに略奪し皆殺しもいとわない。

≪銅鐸をめぐって≫

銅鐸のほとんどは弥生時代の終る頃に地上から姿を消している.消滅ではなく破棄された可能性が高い。木っ端微塵に割られた銅鐸の破片も見つかっている。

⑤古墳前期の文化

≪前方後円墳の出現≫

高地性集落がなくなった(海賊の心配がなくなった。なぜなら海賊が今や支配者となったから)。銅鐸が木端微塵にされて消え去った(なぜなら旧支配層のシンボルだったから)。

そのころから大阪の各地に一人の人間のために大きな墓が造られてくる.それが古墳時代の始まりである。

大阪の前期古墳群は大和川の流入部と淀川の流入部に局在するので、建設費は通行料を当てにしていたことが分かる。

⑥古墳中期の文化

≪巨大古墳造築の背景≫

大阪に巨大古墳が作られた理由は、南朝鮮に軍事出兵をするために大阪の土地が重要になって,墓を大阪に造ったのだと言われてきたが、いまこの説を支持する人は誰も居ない。

河内湖の大規模灌漑事業が大規模政権を生んだことは間違いなさそうだが、それがどういう政権なのかは分からない。

河内湖と大阪湾を東西に結んだ上町堀江の開削は、大仙古墳を作るよりはるかに大規模な難工事であったと思われる。

古墳時代中期の大阪の巨大古墳が大和政権の墓地地帯であったというかつての考え方は,実体とはほど遠いものと思われる.

≪日本古代史と中期古墳群≫

古市・百舌鳥の古墳群は,普通,古市古墳群,百舌鳥古墳群の2つに分けられる。

東西が帯のように連らなっていて,その中央部には北限に謎の大古墳,河内大塚がある。東西が帯のように連らなっていて,その中央部には北限に謎の大古墳,河内大塚がある(古墳後期?)

南限に位置する古墳が黒姫山である.ここからは鉄製の甲冑が24組も出ている。

≪馬の文化≫

西暦500年を前後として、5~6世紀になると乗馬の風習が急激に普及してくる.これは須恵器の普及と軌を一にしているといわれ、北九州を介した朝鮮との交流が示唆される。

馬といえば騎馬民族を想像してしまう。巨大古墳の頃に,馬の文化をはじめ北方系の文化や武器類が出土する.それは江上波夫氏の「騎馬民族征服王朝説」の傍証ともなるかもしれない。


ということで、非常に示唆に富む文章であった。

もう眠いのでとりあえず終わり。

無知とは恐ろしいもの。この先生考古学の大御所らしい。大御所と言っても京大の某先生みたいなのいるが、この人の言うのはまともで、かつ柔軟だ。聞いたことなかったから左翼ではなさそうだ。

東アジアの人種は黄色人種とマレー系にわかれる。

渡来はマレー系のほうが早かった。おそらくタミル人と同根の人種が繰り返し渡来したものと思われる。アボリジニーやパプアの先住民はそれより先に渡来していたかもしれない。

黄色人種は全てイルクーツク経由である。旧石器時代(と言っても1万年ちょっと)に一斉に南下した。チベットからインドシナ半島北部でマレー系と接触し、いったん南下は止まる。

間宮海峡を渡った旧石器系人種は本州の少なくとも大阪まで進出する。(それより先については目下不明)

私はこの旧石器人と縄文人との間に連続性はあると思う。両者はともに北方系であり、国府遺跡で見ると、その生活場所は重畳している。

縄文人と同時期に長江まで南下した北方人は稲作を始め、長江文明を築きあげる。これが紀元前10世紀頃から、南朝鮮、九州経由で西日本に入り始める。

縄文人は一様には扱えない。例えば北海道のアイヌは明治まで基本的には狩猟・採集生活を送っていた。それは彼らが遅れていたからではなく、農耕ができなかったからである。

縄文時代には北海道でも農耕が営まれていたことを示す遺構が多くある。北方の縄文人が狩猟・採集生活を強いられていたのに対し、南方の縄文人は農耕が可能であり、農耕生活に入っていた。

考えるまでもなく、土器というのは保存用の容器であり、たいていは穀物のためのものである。農耕しなければ不要のものだ。同時に土器は壊れ物であり定住生活のためのものである。遊牧民には皮袋のほうが似合う。

だから縄文人を狩猟民族と考えるのがそもそも不合理なのである。

三内丸山を見て「縄文人の主食はクリ」と考えるのも不合理である。なるほど山にはクリがあるが、同じように湿原には粟やヒエが自生していたろうし、鳥はそれをついばんでいたろう。人間が食べない理由はない。栽培しない理由もない。

弥生人が持ち込んだのは農業ではなく、水田耕作という技術だったのだろうと思う。だから縄文人・弥生人というのではなく、畑作人、水田人と言ったほうが良いのではないか。

ことに西日本の縄文人は、農業そのものには精通していたから水田耕作も容易に受け入れ可能であったと思う。

稲作の拡大は弥生人が縄文人を駆逐しながら拡大していったのではなく、縄文人がそれを受け入れることによって拡大していったのではないか。

おそらく国府の遺跡を仔細に検討すれば、そのような過程が確認できるのではないかと思うがいかがであろうか。そしてそのような「同化縄文人」の痕跡がかなり後代に至るまで継続していたことも確認できるのではないだろうか。

そして最大の謎である天孫族の襲来と支配が、いつ頃、どのようにして起こったのかを解く鍵も見つけることが出来るのではないだろうか。

私は、それは倭国大乱より後、卑弥呼の時代より前であろうと思う。おそらくそれは銅鐸文面の消失する紀元200年前後ではないかと思う。

専門家の方にはぜひ、そのへんのことを念頭に置きながら資料の再検討をお願いしたいと思う。

国府遺跡と書いて“こういせき”と読む。河内・大和の成り立ちを知る鍵となる遺跡だ。(しかし保存状態は最悪のようだ)

大和川が生駒の南麓を抜けて大阪に出てきたところ。むかしはここから進路を北に変え河内湖に向かって注いでいた。背後は丘陵地帯で古市古墳群という古墳銀座。

この遺跡は約2万年前の旧石器時代から、縄文・弥生・古墳とまたがる重層遺跡である。これまでに各時代の人骨90体以上が出土している。
1916年(大正5年)、縄文時代より古い旧石器時代の可能性のある石器と人骨3体が発見された。
1958年の再調査で、「国府型ナイフ形石器」と呼ばれる特徴的な旧石器が確認された。これは付近の二上山という死火山の火成岩を材料としている。
また、縄文土器、鹿や猪の骨も発見されており、旧石器時代をになった集団と縄文人の連続性を示唆している。

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縄文人の人骨だそうだ。土葬されたのであろう、その完璧さに驚かされる。女性でしょうな、いいケツしている。

なお国府の名は、河内国府が置かれたことに由来する。大和朝廷の「国」となるまでは、志貴県主という独自勢力が存在していたが雄略に滅ぼされた。


突然、国府遺跡を持ちだしたが、どうも古墳時代という言葉に引っかかるのであって、もっと生活遺跡を分析したほうが生産的ではないかと思うのだ。

例えばこんな時完全な骨格があるならDNAでもRNAでもゲノムでもなんでも出来るのではないか。

法人税引き下げを主張する財界の最大の言い分は、「法人税を下げなければ、企業は国を去っていくだろう」という脅しだ。
この脅しのずるいところは、自分は去りますとは言わないところだ。じゃあ誰が去るんだろう。
ここはひとつはっきりさせようではないか。
大企業にアンケートをとろうではないか。
質問はたったひとつ、「もし法人税を下げなければ、あなたは国を去りますか?」というものだ。
「国を去る」と答えた企業には外国企業並みの扱いを与えよう。「たまたま今はいる」だけの企業と心得よう。
「日本に残る」と答えた企業には、国内企業としての認定をし、連結決算、研究開発減税などそれなりの保護を与えよう。
言葉を濁す企業には、今後「法人税を下げなければ、企業は国を去っていくだろう」などという発言をさせないようにしよう。
回答を拒否した企業には、拒否したなりの覚悟はしてもらおう。



選挙関連の報道のために圧迫されているが、下記のニュースが報じられている。

ユニクロの敗訴が確定 -「過酷労働本」訴訟-

要旨は以下のとおり

1.文藝春秋が「ユニクロの店長らは過酷な労働環境にある」とする本を出版した。

2.ユニクロは出版差し止めや損害賠償をもとめ訴訟を起こした。

3.裁判では一審、二審でともにユニクロ側の訴えは退けられてが、ユニクロは最高裁に上告していた。

4.最高裁は「(本の)重要部分は真実と認められる」と判断した。

5.最高裁は上記判断から、上告を受理しなかった。これにより判決が確定した。

これだけでは事件の背景がさっぱりわからないので、ネットにあたってみた。

1.本の内容

週刊文春「ユニクロ中国『秘密工場』に潜入した!」(2010年4月)と単行本「ユニクロ帝国の光と影」(11年3月出版)

執筆者はいずれもジャーナリストの横田増生氏。出版されたのはユニクロが「ブラック企業ではないか」と世間から疑いをかけられる以前の話である。

国内店舗や中国工場で、店長や従業員が過酷な労働をさせられている。長時間労働が常態化している

現役店長らの話では、月300時間を超えるサービス残業をさせられている。タイムカードを押していったん退社したように装い、その後サービス残業をしている。それを会社側が黙認している

2.訴訟の内容

ユニクロを展開するファーストリテイリングなどが、文芸春秋に書籍の発行差し止めと回収、謝罪広告及び約2億2000万円の損害賠償を求めた。

ユニクロは「真摯に時間外長時間労働の防止に努めている。中国の生産委託工場においても、労働条件を恒常的に監視してきた」と主張した。

3.下級審判決の要旨

東京地裁および高裁判決は「記者の取材内容や経緯からみて、記事は真実か、真実と信じた相当の理由がある」と判断した。そして賠償請求を棄却した。

「真実か、真実と信じた相当の理由」と紛らわしい書き方になっているが、これは国内については真実、国外については“真実相当”と書いてあるのを短縮したものだ。こういう短縮の仕方は良くない。

* 『月300時間以上、働いている』と本で証言した店長の話の信用性は高く、国内店に関する重要な部分は真実。

* 中国工場についても現地取材などから真実と判断した理由がある

というのが地裁の判決文。

最高裁はこの判決を支持した。

『週刊東洋経済』によるレビュー

この記事はさらに生々しい。

* 店長から顔面に頭突きされるなど暴行を受けた。本部の管理部長からも「ぶち殺そうか、おまえ」と言われた。(これは08年に名古屋高裁で争われ、1000万円近い損害額が認められた)

* 社内資料によれば、昨年2月と3月にも部下への「辞めれば、死ねば」「バカ、死ね、使えない奴」といった暴言による懲戒処分が複数下されている

* とにかく業務量が半端じゃないんです。すごいスピード感。仕事がどんどん降ってきて、どんどん動いて、改善を日々繰り返さないといけない。


まぁ上辺だけ見れば、一昔前のモーレツ社員ですね。しかし、むかしは愛社精神という精神的バックボーンがあって、それを基盤にした社員同士の助け合いがあったが、それなしで成果主義だけではキツイでしょう。助け合いの代わりに罵り合いじゃ身がもたない。

多分こけたら一発アウトでしょうね。堅気の商売じゃない。


赤旗に内橋克人さんの発言が掲載されている。
そのなかで、「なるほど」と思ったことがある。
GPIF(公的年金の資金を運用する独立行政法人)が、国債による運用を減らして株式による運用比率を50%に増やすと発表しました。
GPIFが売る国債を日銀が買う。見え透いたことです。
「なるほど、そういうこともあるのだな」と思った。
現在日銀は異次元緩和で日銀券を垂れ流しているが、それは何かの「金融商品」と引き換えでなければならない。
当面買うのは国債なのだが、もう全部買い占めてしまって、市場に国債はない。仕方がないから投資信託や不動産証券などヤバいものにも手を出さざるを得なくなっている。これはさすがに評判が悪い。すると、日銀としては次に緩和策をとろうとしても、手立てがなくなってしまう。
担保がなければ、貸したくても貸せないわけだ。
そこで年金運用機構が持っている国債に目をつけた。
年金運用機構が持っている莫大な国債を吐き出させれば、ほとんど無尽蔵だ。そのためには年金運用機構にリスクを負わせれば良い、という寸法だ。
うーむ、知恵者がいる。日銀の第二次緩和と運用機構の株式運用比率引き上げが同日に発表されたというのもそういう意味だったのか。
ひとつ利口になりました。

これは安倍首相の言葉だ。思わず目を疑う。
12月5日の英「エコノミスト」誌のインタビューでの発言。
* TPP交渉の参加国のなかで、私がもっとも強力に交渉を推進している。
*今年の日米首脳会談でも、交渉担当者に柔軟になるよう強く支持をした。だからこそ、早期の妥結は実現するだろう。これは強い決断だ。
*いまの交渉は全体として容易であり、最終段階に達しようとしている。
「TPP反対、自民党ウソつかない」と語ったあの舌はどこに行ったのだろう。これだけ誇らしげに、国民に嘘をついたことを自慢するような人物は、人間としての資質を疑わざるをえない。CTとったら前頭葉空っぽなのではないか。

という記事を以前書いた。

これは財政欠陥の内容とその原因を明らかにしたものだったが、

今回は赤旗が法人税にかかわる税収マクロの表を5つまとめて出している。

こちらの方は以前から明らかになっていたものの焼き直しだが、5つまとめるとやはりわかりやすく説得的である。

以下転載する

houjinzei


もう一つ谷垣幹事長の話。これは関西プレスクラブでの発言。
1.経済成長と財政再建の両立。景気回復はこの道しかない。
2.そのためにアベノミクス続行と消費税増税の先送りが必要。
最初からボタンを掛け違えている。現下の状況で、経済成長と財政再建は両立し得ない。まず経済成長、経済成長により財政再建という道か、まず財政再建、しかるのちに経済成長という道か、2つに1つだ。
ブレーキとアクセルを一緒に踏み込むのは愚の骨頂だ。エンジンが壊れる。
経済成長と財政再建はともに成し遂げなければならない。しかし、財政再建(増税と緊縮財政)を前面に立てれば必ず景気は後退する。少なくとも一時的には後退する。それは小学生でも分かる。
景気回復は「この道」以外の道でなければならない。
伺いたいが、この道以外にないのだとしたら、なぜ増税を先送りするのか。それは結局、「経済成長と財政再建」が両立し得ないからではないのか。それが4月以来の景気実績で証明されたからではないのか。

リーマン風邪という悪性の風邪にやられて、寝込んでいて、やっと床離れしたばかりの子に、乾布摩擦をやらせるようなものではないのか。

不破さんが京都で街頭演説して、そのなかでこう言っている。
自民党候補への一票は、日本の戦争を礼賛し、ふたたび日本を戦争する国に変える「ネオナチ政治」を助ける一票になる。
たしかにそういう危険はあるし、そういう点では警鐘を乱打しなければならないだろう。
おそらく、京都は朝鮮人学校を標的にしたハラスメントが行われた「本場」であり、これに対し京都地裁で画期的な判決がくだされ、それがつい最近最高裁で確定した、という経過を踏まえての発言でろうと思う。
ただ、自民党あるいは安倍政権を「ネオナチ」と規定することには、現時点ではためらいを抱かざるをえない。
少し正確に規定しておく必要があるだろう。
ネオナチを連想させる事実は三つある。
ひとつは在特会などのヘイトスピーチや自治体などへの不当な圧力、それに対する自治体側の屈服。
ひとつは権力側の極右団体(ネオナチと呼んでも良い)泳がせ政策。NHK人事に見られる右翼的人物の登用。
そして、安部首相自らによる数々のネオナチばりの発言や右翼的人物の登用。
である。
ただこれらは、改憲・機密防衛法、集団自衛権の動きと軌はいつにしていても、やはり分けて考えて置かなければならないと思う。
彼らを孤立させることは可能であり、現にある程度孤立させつつあると思う。しかし権力の側が本格的にテコ入れを計れば、情勢はまた大きく変わっていく。そういう危険性を秘めていると思う。
もうひとつ、欧州のネオナチを見ても分かるように彼らはある意味で社会の歪みの象徴としての側面を持ている。社会から疎外された若者が、歪められた方向性と暴力性を与えられて組織化されている、というのが事の本質である。ここを何とかせんと根本的な解決はなかなか難しい。


HSイッセルシュテットのハンガリー舞曲は幻のレコードのようだ。
日本語版ウィキペディアの「イッセルシュテット」の項目にこのレコードは記載されていない。53年の放送録音が残っているだけのようだ。
isserstedt
これがレコードのジャケット。
みごとなほどに、「演奏者などどうでもいい」という二流扱いだ。
だからCDのカタログなどに載ってこないのは当然だ。
このレコードをアップロードしたのはdavidhertzberg という人。説明書きは以下のごとし。
Brahms / Hans Schmidt-Isserstedt, 1961: Ungarische Tänze (Complete) - NDR Symphony Orch.

The complete LP shown above, issued in 1967 on the Vanguard label, catalogue number SRV 236-SD.

これに対して12のコメントが送られている。
 *why this recording is not still available?? arghhhhh!!!! Thanks for the upload
 *I had not heard this selection before and found myself swept away in the emotion of the music. Well done, Hamburg!

ということで、日本はおろか欧米でも幻のレコードとなっているらしい。

失礼しました。HMV オンラインによると、この音源は2006年にリマスターCD化され日本でも販売になっていました。ただし今では販売されていないようです。Accord Festival というフランスの会社の発売で米英メジャーのルートには載っていなかったようです。

ユーザー評価が5件あり、

*他の方と同じくLP時代にそれこそすり切れるまで聴きました。

*私もLP時代からのこの演奏のファン。聞けば聞くほど味わいのある演奏です。米国でLPから復刻したCDが出ていましたが、今ひとつ音が冴えなかったので、このCDの登場を喜んでいます。

という評価があったから、当時日本でも発売されていたことが分かる。

なお、イッセルシュテットのブラームス全集の付録についていた抜粋は別売されているようである。


クイズをひとつ
民主党は相当弱っている。野党は国民のために何をしようとしているのか、良くわかりません。
どの政党が国民のためにしっかりと、自分たちのやりたいことを示せるか。
ひとつ示せる党があります。それは共産党です。
さて誰の発言でしょう。
答えは自民党の谷垣幹事長。京都市左京区での演説です。
もちろん、彼はこう付け加えている。
しかし、私たちが共産党と一緒にやるわけにまいりません。
沖縄の自民党も、ずっとそう考えてきた。しかし国民の立場に立つ限り、いつか一緒にやらざるを得なくなる日が来るかもしれない。野中、古賀氏をあげるまでもなく、自民党の中にもそう考えている人が少なからずいる。
あまりそのような日がこないことを祈るが…

HSイッセルシュテットのハンガリー舞曲がおすすめ

イッセルシュテットはベルリンのお金持ちのボンボンで、戦後はいち早く北ドイツ放送放送SOの常任に滑り込み、オケ伴をコツコツやりながら、最後はウィーン・フィルとのベートーヴェン交響曲全集を残して死んだ人、というのが一般的印象。

ただ彼の本領はベートーヴェンよりもブラームスなので、歌うことが大好きで、事実うまい人だ。

二つ印象があって、ひとつはヌヴーのオケ版でブラームスの協奏曲。もちろんヌヴーもいいのだが、貧弱な音ながらオケの演奏がいいから引き立っているのだと思う。

もう一つは高校生時代に買ったドヴォルザークのセレナーデ。グラモフォンの安売りレーベル「ヘリオドール」の盤。けっこう擦り切れるほど聞いた。

その人にこういう演奏があったのだ。

これまでハンガリア舞曲というとフィッシャー指揮のハンガリアの楽団の演奏を聞いていたのだが、面白く無い。なにかないかと物色していた時に、ドラティ盤とイッセルシュテット盤の二つを見つけた。

ドラティーの盤はコダーイの「ハーリ・ヤーノシュ」を聞いているみたいで、これはこれで面白い。ロンドン交響楽団のブラスも圧倒的な迫力だ。

しかしイッセルシュテットを聴くと、まるでウィーンの場末のサーカス小屋のような雰囲気だ。なんという情緒だ。しかもすれすれのところ下品でない。ブラームスはこういうふうに演奏してもらいたかったのではないだろうか。

ルバートとポルタメントのシロップがたっぷりかかった夢見ているような気持ちにさせられる。こんな気持はクレンペラーの「真夏の夜の夢」以来だ。

61年の録音で、しかも手持ちのLPを再生してアップしたというお手軽ファイルだから、盛大なプチノイズだが、中身はそれを上回る。

誰かもう少し良い音質でアップしてくれないかな。

ついでに。

アバド指揮ウィーン・フィルの全曲盤もアップされているが、例によって蒸留水だ。ネーメ・ヤルヴィ(親父の方)の全曲盤もあるが、何故録音したのか、味は皆無である。


むかし、週刊ベースボールを買ってきて打撃30傑の所属球団とかやったことがある。今年のパ・リーグは打撃10傑の6人がソフトバンクで、日本ハムには一人もいなかった。

古墳のランク表(日本の大規模古墳一覧)を見ていて、そんなことをふと思い出した。3割バッター、つまり300メートル以上というのが7つある。30傑の一番下がちょうど2割、200メートルだ。

「大きさだけが能ではない、内部の構造とか石棺の位置とか副葬品とかも見て総合的に判断しなければならない」、という人がいるかもしれない。しかし古墳の政治的意義は大きさに尽きるのであって、他のことなど玄人の考えることであろう。

それで30傑の分類だが土地別、年代別という分け方ができる。ずべて前方後円墳である。

土地別だが、奈良は北部と南部に分けられるだろう。南部をさらに南東と南西に分けることも考えられる。大阪は河内が有名だが意外と淀川水系にもある。あとは近畿外だ。

年代別は単純に3,4,5,6世紀と分けるのが良さそうだ。ただどうも波がありそうなので、むしろ谷を見つけることがだいじかもしれない。

それで、横罫に土地、縦罫に年代という風にして表を作ってみた。

奈良盆地北部

奈良盆地南部

河内・摂津

3,4世紀

★★★★★

★★★★★★

★★

5世紀

★★★★★★★

★★★

★★★★★★★★

6世紀


表を作ってみて気づくのは、箸墓以降古墳の中心だった奈良盆地南部(桜井近辺)が、紀元400年を境に凋落していることである。5世紀の三つの古墳はいずれも葛城氏由来のものと見られ、天皇家ゆかりと思われるものは絶えてない。

これに代わるものとして河内が興隆する。墳墓の地をそう簡単には変えないという前提に建てば、纏向に続く盆地南部王朝は没落したと見る他ない。

一方で、盆地北部は河内には及ばないものの、対抗馬としての位置を確保し続けた。あるいは盆地南部の旧勢力を併合したのかもしれない。そして両者の中間に第三勢力として葛城が勃興した。

これが古墳から見た5世紀畿内地方の勢力地図である。

もう一つは、西暦500年を境にして巨大古墳の築造がピタッと止まることである。奈良盆地の南北、河内のすべてが全滅するのである。

このとき何が起きたのか。それは天変地異だったのか。それとも大イクサだったのか。記紀にそれを示唆するような記述はあるのか。

6世紀に入って作られた巨大古墳はわずかに2基のみである。河内松原の大塚山と奈良橿原の見瀬丸山である。

この二つはその大きさ、山を挟んで東西という対称性、造られたのが500年代後半という時期において瓜二つである。意識的に並行して築かれた可能性もある。とすれば奈良北部の古墳築造者はどうなったのか。

しかも他の古墳がすべて5世紀後半までに建てられたものだから、この二つだけが孤立して、巨大古墳ブームの終了後100年もしてから築かれている。しかもこの二つが巨大古墳のピリオドとなっている。そしてそれを境に河内の権力者も歴史から姿を消す。橿原・飛鳥の権力者のみが残り、文献史へとつながっていく。

「古墳マップ」というサイトによると、2010年に河内大塚山古墳の立ち入り調査が行われ、「前方部は未完成だった可能性が高いことが判明した」とある。どうもこの頃、河内王朝にはガッツがなくなっていたようだ。

人間の知恵がどう受け継がれるかを考えてみると、100年の空白はかなり長い。想像してみると、長い苦難の末に王朝を再興した人物が、「もうこれでやめようよ」という象徴として築いたのかもしれない。

本日初めてウラニア盤のエロイカというのを全曲通しで聞いた。
思い出すと、高校生の頃に「レコード芸術」でそういう海賊盤があって、すごいんだという記事は目にしたことがあった。あの頃からフルトベングラー・フリークというのはいたのだ。
この演奏の特徴は、フルトベングラーらしくないということだ。だからいいのだ、と私は思う。
「デモーニッシュ」と呼ばれる独特の雰囲気がない。あのドロドロティンパニーが聞こえてこない。弦楽器が団子になってぶつかってくる感じもないし、管楽器の咆哮もない。テンポも長いルバートなど、こまかく動かしているが曲全体としては比較的中庸だ。
1ヶ 月後のベルリン・フィルとのブラームス第一番(終楽章)と比べると別人の感がある。フルトベングラーはウィーンフィルにベルリンとは別のものを求めていた ようだ。第一バイオリンのパートが良く鳴ることがウィーンの音なのだろうと思うが、この演奏では見事にそれが実現されていると思う。
そういう点で、フルトベングラーらしくない。フルトベングラー・フリークが何故この演奏に熱狂するのかがよく分からない。


そういうことでグーグルで「エロイカ ウラニア」で検索してみる。

けっこう出てくる。海賊盤の出自らしく20種類くらいの「作品」が作られているようだ。

まず、この演奏がどのようにして世に出てきたかということだが、おおよそ以下のような経過だ。

1944年12月19日、戦争も末期の頃、フルトヴェングラーがウィーンに行ってムジークフェラインでこの曲を録音した。オーストリア放送協会の製作で、観客を入れない放送用の収録だった。

スタジオ録音ではない、一発撮りだということでは、ライブ録音だが、コンサート・ライブではないということだ。

そのテープが戦後に接収されたあと、どこからか漏出して、それを米国の海賊盤専門会社(?)のウラニアが発売した。フルトヴェングラーは販売禁止を訴え、認められた。

以来この演奏・録音は海賊盤としてのみ流通してきた。

それが、60年代に入ってソ連から音源が流出した。これはソ連政府が公式に認めたもので「メロディア」レーベルで発売されている。

これはオーストリア放送協会のテープの複製がベルリンにあって、それをソ連軍が接収したものらしい。

なれば、と、ウラニア盤の音源の方も公表され、もうフルトヴェングラーも亡くなっていることから60年代の後半に、各種のレコードが市販されるようになった。

こんな感じだが、間違っているかもしれないので、専門のページをあたってください。

話はここでは終わらない。

なにせ1944年の録音だから音質の方はかなり悪い。それは覚悟して聞いていたのだが、色々聞いてみると中にはけっこう音質がいいものもある。

そうなると人間もっと良い音質で聞きたいと思うようになる。

ここからが第二幕で、いかに雑音を取り除いて、いかに化粧をして、いかに「あったはずの音」を復元するかという勝負の世界が始まった。

ここからが第二幕である。それはいまも続いている。

むしろDSDの時代になってより加熱しているとさえ言える。

流れは三つあって、西側に流れたテープ音源、ソ連のメロディア音源、そして最近ではウラニアからの「盤起こし」といういささかマニアックな流れである。

音源のなかではBAYER社が制作した「作品」が一番評価が高いようで、これに各社が色々味付けをして、その味の良さを競っている。

ただしこれは私の感想であり、みな編集哲学と一家言を持っているから、うかつなことは言えない。


youtubeフアンに音源を紹介しておこう。

いま私が聞いたのは、

Furtwängler Beethoven Symphony No.3 "Eroica" URANIA ULP-7095, ULP-7095B - before correction

というもの。

Junpei Yakushiji さんがアップしたもので、ウラニア版からの「盤起こし」である。「修正」の前と後の二種がアップされている。音はMP4で360pだが、元の音が音だけにこれでも支障はない。

当然のことながら、良くも悪しくもLPの音である。しかも50年代に制作され、何回も通針された音源である。

furtwängler urania eroica 1944 with the highest resolution

というファイルもあって、こちらはonofrioscribaさんという人が3年前にアップしたものだが、同じくウラニアの盤起こしである。

ディスクの状態は前のものより悪く、また3年前のアップだから、youtube側の限界もある。Junpei Yakushiji さんのファイルがアップされた今ではすでに過去のものだろう。

Beethoven / Symphony No. 3 in E-flat major, Op. 55 "Eroica": 1st mvt (Furtwängler)

Beethoven / Symphony No. 3 in E-flat major, Op. 55 "Eroica": 2nd mvt (Furtwängler)

Beethoven / Symphony No. 3 in E-flat major, Op. 55 "Eroica": 3rd mvt (Furtwängler)

Beethoven / Symphony No. 3 in E-flat major, Op. 44 "Eroica": 4th mvt (Furtwängler)

は明らかに違う音源で、針音がまったくない。録音テープから作られたものであろう。コメントがなく詳細は不明であるが、素人が聞くには一番聞きやすいのかもしれない。

Wilhelm Furtwängler "Symphony No 3" Beethoven (2. Mov.) 1944

Wilhelm Furtwängler "Symphony No 3" Beethoven (4. Mov.) 1944

Wilhelm Furtwängler "Symphony No 3" Beethoven (3. Mov.) 1944

Wilhelm Furtwängler "Symphony No 3" Beethoven (1. Mov.) 1944

もある。Addiobelpassatoさんのサイトで、2013年のアップロード、MP4で720p規格だ。上とどちらが良いかはわからない、同じか違うかもわからない。

Beethoven - Symphony n°3 "Eroica" - Vienna / Furtwängler 1944

音源は上のものと多分同じだろう。上は720p で聞けるがこちらは360p止まり。


そういえば、今月はこの録音から、ちょうど70年目だ。何かの縁かもしれない。




日銀の追加緩和が5対4の際どい差で決定されていたことが明らかになった。
これは10月30日の金融政策決定会合の議事要旨が公表されたことで明らかになったもの。
安部首相と「異次元の金融緩和」政策がかなり追い詰められているということが、これからも分かる。
この事について、金子記者の署名入り解説記事。
まず、10月30日の日銀金融政策決定会合で決まったことのおさらい。
1.長期国債の年間買い入れ額を50兆円から80兆円に引き上げる。
2.株式投資信託(ETF)の購入を3倍に増やし、年間3兆円づつ増やす。
3.不動産投資信託(Jリート)の購入も3倍化し、年間900億円づつ増やす。
この方針に対して反対意見が出されたが、金子記者によればそれは二つにまとめられる。
1.金融緩和は円安をもたらし、内需型中小企業に悪影響を与える。
2.実質的な財政ファイナンス(政府予算への財政支援)となってしまう。(正確に言うと、“財政ファイナンスとみなされるリスクが高くなる”という表現)
金子記者はこのうち、2.に焦点をあてて解説している。
金子記者によれば「財政ファイナンス」の問題として下記をあげている。
1.財政ファイナンスは、二重の意味で財政法違反である。ひとつは赤字国債の発効が原則的に禁止されている(財政法第4条)からであり、もう一つは国債の日銀引き受けが原則的に禁止されている(財政法第6条)からである。
2.ただし財政法第4条には抜け穴があり、有名無実化されている。それはひとつは赤字国債発行法であり、条件を決めた上で例外が認められることになった。さらに2012年の公債特例法によって、事実上ザル法となった。
3.財政ファイナンスは、憲法にも違反している。憲法は国の財政処理に国会の議決をもとめている(憲法第83条)が、「異次元の金融緩和」と国債買い入れはこれに違反している。また公債特例法に定められた年度をまたぐ国債の発行は、予算の単年度主義を定めた憲法第86条に違反している。
ということで、今回の解説は「財政ファイナンス」の批判というより公債特例法批判になってしまっている。
この続きがあるかどうか分からないが、この記事だけでは「羊頭を掲げて狗肉を売る」の趣がある、と言わざるをえない。
日銀内部の批判派の趣旨は、「1.内需型中小企業への悪影響」の方にあるのだろうと思うので、そちらをもう少し敷衍してほしいと思う。
内需型中小企業は悪政により三重に痛めつけられている。
長期の不況の中で物が売れない、金融緩和による円安で原料コストが高騰、消費税で利益幅の圧縮だ。
さらにこれで消費税不況が上乗せされれば目も当てられない様となる。
ところで内需型中小企業というのは我が国産業の根幹だ。雇用の9割以上を生み出している。
ここが深刻な打撃を受けるということがどのような意味を持つのか、政府・大企業は考えたことがあるのだろうか。

前の東京都知事選挙の統一候補、宇都宮健児さんが共産党の応援演説に立った。
演説の要旨
富裕層と大企業への課税強化こそだいじだ。それを提案しているのは共産党だけだ。
消費税増税ストップとあわせ、実現できるかどうかは共産党の前進にかかっている。
格差を広げる安倍政権の暴走にブレーキをかける一番確かな担保は、共産党が前進することだ。
いうことはいちいちごもっともなんだけど、彼はもともと無党派革新層に厚い支持を持っている人物。
これでは次の都知事選の目がなくなるのではないかと、ちょっと心配だが…

東京で「戦後を戦前にしないために」という集会があったそうだ。いいスローガンだ。
我々の世代は日本を戦前にしないための手段を持っている。それは戦後の世代が我々に伝えてくれたものだ。
にも関わらず、それを行使せずに戦前に戻してしまったら、ご先祖様に申し訳が立たない。
ドイツがそうだった。第一次大戦に敗れたドイツは、その代わりにワイマール憲法を手に入れた。にもかかわらず民主主義の道をたどりながらファシズムへと突き進んだのだ。
だからいまのドイツ人は民主主義を守ることについては、殊の外厳しい。
日本は民主主義を守るためにはもう一度世界大戦の危機を経験しなければならないのか。外国に行って人殺しをしなければならないのか。
今度の選挙、それを問う選挙だと思う。

門脇禎二さんの「葛城と古代国家」はかなりシッチャカメッチャカで面白い。
読んでいて感じたのは葛城は出雲王朝の本流ではないということだ。
畿内に入った勢力には二通りあって、ひとつは若狭・越前から入って大和に纏向政権を樹立した勢力、もう一つが丹波・但馬から淀川西岸に入った勢力である。後者が葛城族というわけだ。
北九州の倭王朝と出雲王朝は本家・分家の関係にある。天孫降臨を高天原神話とを共にしている。本家を追われたスサノヲ一族が出雲に移り王朝を開いた。おそらく因幡・伯耆あたりまでを勢力範囲に含めたのだろうと思う。
ただこのように日本海岸沿いに東進していったのはスサノヲ一族がはじめではなかったはずで、先行して植民していた人々がいたはずだ。
彼らは倭王朝や出雲王朝と同じように天孫族であり、同じように縄文人や弥生人を支配し駆逐しながら進んでいったに違いない。最初の人々は吉備に入り、第二波は丹波に入った。
出雲王朝が倭王朝に滅ぼされた時、残党は東に逃れたが、丹後までは先住者がおリ植民できなかった。仕方なしに越前に上陸したあと敦賀から琵琶湖に出て、一部は尾張へ、一部は大津から乙訓を経て大和盆地に進出した。
おそらく両者の関係は微妙なものがあったに違いない。
そこに倭王朝の尖兵たる神武が入り込んできて纏向王朝を制圧してしまったから、関係は三者三様で複雑なものがあったろうと思う。これから先は分からない。もう少し門脇さんの本を読み込んでみようと思う。

 日本の古代史研究は、さながら古墳が全てという様相を呈しており、素人から見てきわめて異様である。

巨大古墳(前方後円墳)は大和地方を中心とする文化現象であり、歴史の全体に替わるものではない。

思うのだが、一物がデカイからといって、その持ち主がデカイかというと、そんなことは言えないのである。巨大古墳の時代、各種の鉄器は圧倒的に九州に多かった。

もう一つ、これだけの大規模な工事ができるというのは、それだけの人数を動員できるということであり、何よりも武威の表現だということだ。武力の誇示が必要なのは、その政権が武力制圧によって成立した政権=軍事政権だからだろう。纏向の時にも言ったのだが、前方後円墳を作ったのは出雲から流れてきた征服者であったと思う。彼らは故郷の地ですでに大規模墳墓を作っていた。それをさらに巨大化することで、地元民に威圧を与えていたのだろう。

もう一つ、最後には古墳時代には終りが来るのであるが、それがその権力の経済力の衰退を意味するのか、歴史的事実はむしろ逆であろう。そんなことでキラを張るのがバカバカしくなったからやめたのである。

とはいえ、とにかくこれだけ古墳研究が華やかである以上、一応の知識は持っておく必要があるだろう。

ところで、古墳年表を作ろうと思ったが、「古墳時代年表」というのはたくさんあっても、古墳そのものについてはほとんど触れていない。古墳がたくさん作られた時期が「古墳時代」として括れる根拠はほとんど示されていない。

古墳時代前期

3世紀後半 最初の大型方墳として島根県安来の大成古墳。

3世紀後半 奈良盆地に前方後円墳(200~300メートル)が出現。桜井の箸墓古墳、天理の西殿塚、行燈山、渋谷向山。

4世紀半ば 奈良盆地の北部に4基の大王墓クラスの前方後円墳が築かれる。

4世紀後半 河内平野に巨大古墳(300~400メートル)が作られる。堺の大仙、上石津ミサンザイ、羽曳野の誉田御廟山。

古墳時代中期

5世紀半ば 近畿以外の各地に巨大古墳が作られる。岡山、群馬にも200メートル級の古墳。

古墳時代後期

6世紀の前半 高槻の今城塚、松原の大塚山、橿原の見瀬丸山(300メートル規模)

6世紀 大王陵として最後の前方後円墳。100メートル未満。

6世紀後半 群集墳が登場する。古墳の99%までが6世紀以降のものとされる。(古墳の大衆化?)

古墳時代終末期

6世紀末 前方後円墳の建造が終わる。この後しばらくの間、方墳や円墳が造り続けられる。大王の墓は特別に八角墳として築造された。(ウィキペディア)

明日香の石舞台、ほかに高松塚、キトラなど。

6世紀末 仏教伝来によりトップの関心が墳墓から寺院に移行。

7世紀前半 近畿・西日本で古墳の築造が絶える。関東では8世紀の初め頃、東北地方では8世紀の末まで続く。


細かくやっていけばきりがないが、ざっとこんなものだ。

あくまでも印象論だが、前期としてくくる時期は明らかに二つの時期にわかれるだろう。ひとつは200年代後半のピークであり、それから100年おいてから、今度は奈良北部と河内に並行して巨大古墳が造営される。つまり奈良中部の「本拠地」はコケにされているわけだ。

そしてまた100年以上たってから(地方ではその間も造られているが)、近畿に巨大古墳のブームが再来する。これは継体天皇がらみかもしれない。しかしそれは短期で終わり、その後巨大古墳が建造されることはなくなった。


これで、卑弥呼以降推古までの時代を「古墳時代」と括るのは、やっぱり乱暴な時代区分だと思う。弥生時代には、水田耕作という生産様式の裏付けがあるが、古墳時代には何も裏付けとなる生産様式の変更がない。

あえて名付けるなら「倭王朝時代」というべきだろう。少なくとも好太王石碑から倭王武までは実在が確認されて入り、それは100年に及ぶのだから、立派に一つの時代だと思う。


「別の道」について下記のごとく書いたが、それだけでは不足だ。

A) 応能負担を貫く、富裕層への優遇廃止

B) 法人の実質税率を引き上げる

C) 大企業の内部留保の活用 (法活用で雇用と中小企業への再配分)

D) 浪費型の公共事業の見直し、軍事費削減、原発関連予算の整理など

そのための財源を示さなければならないというので、共産党は財源提案も行っている。

A) 応能負担を貫く、富裕層への優遇廃止

①そもそも消費税で財源はどう変わったか

消費税創設以来26年間で、消費税収入の総額は282兆円。これに対し法人3税は254兆円、所得税・住民税は248兆円減少した。

後者は景気に左右される財源だが、大企業と富裕層への減税も大きく影響している。

これを元に戻すことが根本的な解決策である。

②法人税引き下げの中止

すでに実施した分でなく、今後の予定額が財界の要求に従えば5兆円に達する。消費税2%でも足りない計算だ。

③行き過ぎた大企業優遇税制の是正

トヨタは5年間1円の法人税も払っていなかった。法人税率は実効していない。

優遇税制には次のようなものがある。

研究開発減税(4千億)、連結納税(6千億)、配当益不算入(1兆4千億)、海外子会社益不算入(6千億)、

これらを廃止する。

③所得税、住民税、相続税の最高税率を元に戻す

これで影響をうけるのは、所得税では課税所得3千万円、相続税では一人あたり20億円以上の人たち。

④証券優遇税制をさらに見直す

株式配当については総合課税とする(小額配当は除く)。株式譲渡益の高額部分には30%の税率を適用する。

⑤資産課税の創設

相続税の評価基準で5億円を超える資産の部分に1~3%の累進課税(いわゆる富裕税)。対象となるのは0.1%の大資産家で、8千億の税収となる。

⑥被用者保険の保険料上限の見直し

⑦為替投機課税の新設

東京外為市場の取引額は年間100兆ドル近くに達している。その主要な部分は投機マネーによる取引である。

これに0.01%の課税をすると1兆円の税収となる。

財源

B) 大企業の内部留保の活用 (法活用で雇用と中小企業への再配分)

疲れたので、今日はここまで

共産党の選挙政策はかなり長いので、関係者以外はあまり読まずに終わってしまうかもしれない。

かいつまんで紹介しておこう。

はじめに

今度の選挙の三つの特徴は

1.政治を変えるチャンス

2.主要な争点は憲法9条だ

3.対決、対案、共同がだいじなポイントだ

Ⅰ 消費税はきっぱり中止、「消費税に頼らない別の道」を

A) 応能負担を貫く、富裕層への優遇廃止

B) 法人の実質税率を引き上げる

C) 大企業の内部留保の活用 (法活用で雇用と中小企業への再配分)

D) 浪費型の公共事業の見直し、軍事費削減、原発関連予算の整理など

Ⅱ 大企業応援から暮らし第一に経済政策の軸足を移す

三つの改革(雇用のルール、社会保障、中小企業)で需要を喚起し、経済を底上げ。

震災の復興支援の継続

Ⅲ 憲法9条の精神に基づく外交戦略

1.集団自衛権と9条の実質廃棄は絶対認めない

2.北東アジア平和協力構想を提唱する

①「友好協力条約」で紛争の平和解決のルールづくり、

②6カ国協議で北朝鮮問題の解決

③「行動規範」で領土問題暴走の規制

④河野・村山談話の尊重で友好の土台作り

Ⅳ 原発ゼロの日本を

1.節電・省エネ

なぜ電力不足が起きないのか。最大の理由はこの間の節電・省エネである。それは原発13基分に相当する。

2.自然エネルギーのミックスの比率を増やす

火発から5年~10年で低エネルギー社会と再生可能エネルギー中心へ

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