鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

AALA関連記事は「aala_newsの編集日記」http://blog.livedoor.jp/aala_news/ に移りました(6Nov.2023) 中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 「ラテンアメリカの政治」(http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ )がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

2014年11月

NU Force がダメだ。

突然停まる。しかもだんだん頻度が高くなってきた。昨日はついにWindowsそのものが止まった。再生をFoobar からBug head emperor に変えてみたが、事情は同じだ。AudioGate はそもそもこのDevice を受け付けない。

ということで、原因はドライバーにありそうだということがわかった。とにかくwindowsがクラッシュしてしまうのでは怖くてとても使えない。

ヨドバシに3回目の押しかけとなる。向こうで安物のパソコンで作動させるとどうということなく動くようだ。とにかく、とりあえず競合する再生ソフトをすべて削除してもう一度やって見ようということで持ち帰る。

それでやってみた。たしかにオーディオゲートは怪しいかもしれないということでアンインストールした。メモリーやテンポラリーもだいぶアカが溜まっていたのを洗い落とした。

やはりダメだ。クラッシュする。「修復不能ななんとか」というコメントが出て終わりである。

このUDH100という製品は1年ほど前にでて、まったく売れずに販売終了になったもので、ネットにもほとんどコメントはない。

一つだけ、かなりのヘビーユーザーがこれを発売と同時に買って1年近く使ったブログがあった。

結局この人は投げてしまったようだ。


a posteRioRi

さんのブログ。アポステリオリというのは「後悔王」ということだろう

13年10月のブログに下記の如き記載がある。

今まで記述していなかったが、UDH-100のドライバーの不安定さに嫌気が差している。

foobar2000 で再生できない上にデバイスが飛ぶ。これは再起動しないと治らない。

何だ、そもそもFoobarはダメなのか。

他にも恐ろしいことが書いてある。

再生ソフト(AIMP3やf4b24)で音声を流すと、バッファが詰まったまま音が出なくなってしまう。ASIO再生中、ブルースクリーンが発生することがある。

再起動すると回復するが、先日その再起動すら正常に復帰できずに真っ黒な画面のまま停止してしまった。
電源長押し強制終了→再度起動で復活したが、こんなことをやっていてはPCの寿命を縮めてしまう。

さらに恐ろしい記述が続く。

USBケーブルを接続してもDACの認識に失敗することがある。

USBケーブルの抜き差しを繰り返すとPCのファンが猛烈に周り通常シャットダウンが出来なくなる。そうなると、電源長押しで強制終了するしか手段がなくなる。

UDH-100のASIOドライバーが妙な設計になっていて、バッファサイズがオートアジャストの設定を解除して最大値に振っても2205BYTEで固定されてしまう。

ASIO出力時のCPU負荷corei7のこのPCですら10%に届くことがある。ちなみにASIO出力の方が再生中の負荷は少し高い。(WASAPIが平均5%、ASIOは8%程度)

世の中すでにwindows8に移行しつつあるが、なんとこのドライバー正式対応していない。

この人は熱心な人で直接会社の人に質問したのだが「その予定はない」ということだったという。つまりこの機械はどう見てもあと数年の命だということだ。

最後にこう書いている。

音質には満足していたが、以上の理由により使用を中止することにした。いくら音が良くても安定性に欠けるドライバーと付き合っていかなければならない、しかも入力はそれを前提としたUSBのみというのはやはり問題である。

なおこういうパネルがあるらしいのだが、どこにあるのかは不明である。

nuforce panel


*特別な事情がない限りバッファサイズは最大にしておくべきである。
 バッファを詰め過ぎると最悪の場合OSがブルーバックする。(一度体験済み
 スペクトラムアナライザー系の描画の追従が遅くなるが、OFFにすれば良いだけのこと。
 ちなみにバッファサイズと音質については何の関係性も存在しない。


とにかくドライバーソフトの問題だということはほぼ特定できたので、Foobar より相性の良いソフトが有れば、それを試すというのが最後の手段としてありそうだ。

 

リスト編曲のバッハ前奏曲とフーガ BWV543を聴き比べた。

取り溜めて聞いていなかった曲を聞いているうちに、「おや」と思う佳曲であると感じたのがきっかけである。

きっかけになった演奏がウラディミル・ヴィアルド(Vladimir Viardo)という人の演奏。この人はグルジアの出身、クライバーン・コンクールで優勝して名を上げたようだ。ロシア風のぺたぺたしたタッチで、そのかわりよく回る。強奏になると指力で押してくる。

悪い演奏ではないが、アップの音質が悪いためか音がこもる。

ミシェル・ブロックという人の演奏。こちらはリスト編曲のバッハを全曲録音したアルバムの一つ。

この人はフランス人でペルギー生まれ、メキシコ育ち。ジュリアードを出たあとアメリカで活躍した人のようだ。10年ほど前になくなっている。

この人はいかにもリスト風の演奏だ。テンポも相当動かしながら、フーガの盛り上がりに集中している。こういう演奏、嫌いではない。これも音質は悪い。

とりあえず一番のおすすめはエフゲニ・コロリオフ(Evgeni Koroliov)だろう。リストの曲でありながらもできるだけバッハの雰囲気に近づこうとしている。他の人には悪いが、品性がある。何よりも音が良い。

この人はモスクワ生まれの音楽エリートで、ノイハウスやオボーリンの指導を受けている。18歳で平均律の全曲演奏をしたというから、ちょっと変わり者かもしれない。76年に事実上の亡命。ドイツに逃れ、現在はハンブルクを中心に活動しているらしい。

リゲティが無人島に持っていく1枚として、この人のバッハを推薦しているようで、向こうではなかなかの人らしいが日本ではさっぱりだ。

ついでながら、奥さんとのデュエットのこの曲もいい。

パッサカリアとフーガ ハ短調 BWV582


おまけみたいなものだが、ヨウラ・グラー(Youra Guller)という女流の演奏がある。

BWV 542 Youra Guller- Fantaisia and Fugue in g minor

BWV 543 Youra Guller Prelude And Fugue In A Minor

1895年の生まれというが、70年代にこの録音を残している。アルゲリッチのたっての勧めで録音したという。

若い時は美貌のピアニストとして鳴らしたようで、グレタ・ガルボばりのポートレートが残されている。

変わった名前だがロシアとルーマニアの血を引くユダヤ人でマルセイユ生まれ。元の名はRose-Georgette Guller 経歴もまことに波瀾万丈で、パリでデビューしたあと、30年代には8年にわたり中国に滞在。第二次大戦の勃発でフランスに戻るが、ドイツ軍の侵攻に伴い、隠棲を余儀なくされる。さらにその後は病気になり、演奏活動は金のないときだけ行ったという。

それがどういうわけか76歳になってからニューヨーク・デビューし喝采を博したらしい。最後は80年、ミュンヘンで亡くなっている。(Wikipedia)

一応写真は載せておく。演奏はどうというほどのものではない。ヘミング某みたいなものだろう。

guller


guller-FOTO-cd-tahra

残念ながら、ソコロフの演奏はない。

オルガンではマリ・クレール・アラン、ドン・コープマンとひと通り揃っているが、音質的にはパワー・ビッグスが良い。しかしまるっきし面白く無い。巻紙演奏並みだ。



foobarが突然切れる。DACを取り替えてからだ。入れ替えた翌日に発生した。その後2日間、連続再生中に1時間に一回の割で起こる。
予告もなく特定箇所でもなく、完全偶発で発生。突然切れるのでビックリする。
まずは、NU FORCEのドライバーを再導入する。これでしばらく持つかと思ったら、また起き始めた。しゃっくりと同じで、起き始めるとだんだんアクセラレートする。
ついでfoobarのエディションをチェックする。現在使用中のものはV1.3.1となっている。websiteに行くと最新ヴァージョンがv1.3.5 となっているので、とりあえずヴァージョン・アップする。文字通り、「あっ」という間に完了する。
いま動かし始めたが、まだ分からない。とにかくいつ来るか分からない。気長に行くしかなさそうだ。
再生中にスリープモードに入るのを拒否する機能がついたと書いてある。一応チェックを入れてみた。しかし多分これとは違う現象だろうと思う。
しかしなんだろう、ヴァージョンアップしたら音が良くなったみたいだ。WASAPIが改良されたんだろうか。

この1ヶ月で、DALIのスピーカーで音が良くなり、NU Force のDACで音が良くなり、foobar のヴァージョンアップで音が良くなった。リフォームのテレビ番組ではないが、わずか7万円で劇的な変化、いま思えば1ヶ月前は何だったんだろう。

フレイも暗殺されたのだ

このニュースには驚愕した。最初は「まさか」と思い、ついで「そこまでやったのか」という衝撃に襲われた。

ニュースはこうだ。

チリ法廷は、エドゥアルド・フレイ元大統領(任期1964~70)はピノチェー軍政に暗殺された、との最終判断を確認した。

フレイは1982年1月22日、サンティアゴ市内のサンタマリーア病院で毒物を注入され、死亡した。

この事件で医師5人と元軍政秘密警察要員の計6人が起訴された。医師3人が実行、2人が証拠を隠滅した。同要員は共犯だった。

とりあえず他資料をあたってみる。

「フレイはヘルニアのため手術を受けたが、術後の腹膜炎によりショック死した」とされる。

遺族や民主勢力の調査活動の結果、毒殺された疑いが濃いことが分かり、2009年に軍関係者が逮捕された。

逮捕されたのは、軍の医療部の指導者で手術を担当したパトリシオ・シルバ、軍の民間要員であるラウル・リジョ、運転手であったルイス・ベセラは、秘密警察に雇用され、元大統領の情報を提供していた。警察部隊に所属する医師のペドロ・バル ディビアは、共犯者であった。エルマル・ロンセンベルグとセルヒオ・ゴンサレスは、医師であったが、フレイ大統領の検死をおこない、証拠隠滅の罪に問われることになった。(ラテンアメリカの政治経済より)

一旦は証拠不十分で釈放されたが、今年1月に、これらの被告が別に複数の囚人を毒殺していたことが明らかになり、再逮捕された。


チリ人民連帯運動に携わった者にとって、フレイはまごうことなき“敵”であった。

64年、フレイはキリ民党から大統領選に立候補し、保守政党の支援も受けて勝利した。彼はケネディを信奉するほどの「進歩派」ではあったが、彼が当選したのはそのためではない。

その前で人民連合のアジェンデ候補が善戦し、このままでは選挙は勝てないと見た保守派が、候補をおろしてフレイに票を集めたのだ。

つまりフレイ政権は顔はリベラル、首から下は保守派の政権だったのである。

しかし70年の選挙では保守派は独自候補を立てた。その結果三つ巴の戦いとなった。いわば漁夫の利を占めたアジェンデが4割にも満たない得票で大統領に当選してしまったのである。

フレイの率いるキリ民党はアジェンデ政権に是々非々で臨むことになった。そのうちに徐々に反アジェンデの旗幟を明白にし、クーデターを支持するにまで至っていくのであるが、それを推し進めたのがフレイであった。

ところがクーデターが行われ、人民連合派が徹底的に弾圧されると、今度はキリ民党が標的となった。キリ民党も政治の場から排除され、弾圧の対象となっていく。

最後には保守派の代表すら失脚され、ピノチェト独裁が完成していくことになる。

ここまでは私にも分かっていた。しかしまさか暗殺までしていたとは…

詳しくはチリ歴史年表 その3をご参照ください。


PRD、存続の危機に

ゲレーロの学生拉致・失踪事件の経過を見る中で、かなりはっきりしていたのだが、直接の表現がなかったので、とりあえず控えていた。

11月末になって創設者クアウテモク・カルデナスが離党したことで、やっと確認された。

事実はこうだ。イグアラの市長はPRDの党員だった。ゲレロ州の知事もPRDだった。

PRDは88年にPRIを飛び出したカルデナスが作った政党が母体となっている。この党はPRIの反主流派が主体となった。彼らは必ずしも左翼とは呼べず、PRI的な風習を色濃く残していた。

その後、この党と統一左翼が合併してPRDが作られた。以来、対外的には左翼政党として活動してきたが、党内右派の地域ボス的な傾向が改められることはなかった。

いろいろな矛盾を抱えたまま、前回と前々回の選挙では元メキシコ市長のアムロを押し立てて、それなりに健闘し、地方のいくつかの知事ポストを獲得した。その一つがゲレロ州である。

現在、党の執行部を握っているのはこういう右派党員であり、それが今回の事件を通じて暴露されたことになる。

カルデナスは、メキシコ革命の英雄ラサロ・カルデナスの息子で、現在も高い人気を誇り、PRDの「顔」だった。今回の事件で執行部の引責辞任をもとめたが、容れられなかった。

すでにアムロは離党している(その理由は色々ある)。今度カルデナスが離党することでPRDは決定的な分裂を迎えることになるだろう。

ボリビアでエボ・モラレスが圧勝

まさに圧勝というほかない。10月の総選挙で、エボ・モラレスは61%という驚異的な得票率で大統領に三選された。

与党のMAS(社会主義運動党)は上下両院でいずれも2/3以上の議席を獲得した。法律は全てフリーパスとなる。

この驚くべき支持率は、経済の好調さとともに、貧困層への対策の成功にある。数年前までサンタ・クルス州を中心とする平原部では、ボリビアからの分離をふくむかなり強力な反モラレスの動きがあったが、すっかり影を潜めた。

少し分析してみる必要がありそうだ。

ブラジルのジルマ・ルセウは辛勝

ブラジルの選挙はメディアの影響が大きく、浮動票の行方が大きく左右する。去年のワールドカップ反対運動で、それまで盤石と言われたジルマの基盤は大きく揺らいだ。

だいたい大規模な公共事業が増えれば、その筋の人々には相当の恩恵がもたらされる。労働党とてもその例外ではない。一方で物価は騰貴するから、多くの貧困者にはしわ寄せが行くことになる。

ところがワールドカップでブラジルが連勝していくと、ジルマ人気も挙がる。してやったりとほくそ笑んでいると、「世紀の惨敗」があってジルマ人気もふたたび地に落ちる。

とは言うものの、まさか選挙に負けるとは思っていなかったが、ペトロブラスを舞台にした大規模な疑獄事件が明らかになると、野党との差はみるみる縮まり、一時は世論調査で逆転された。

大企業はここぞとばかりメディアを動員して、おそましいほどのジルマ攻撃を展開した。それでも最終盤になって跳ね返した労働党の地力も大したものだと思う。

決選投票(10月)ではジルマが51.5%、対立候補が48.5%という際どいものだった。

ところで、ブラジルの対立の構図だが、必ずしも保守対革新とは言いがたい。ルーラ以降の労働党の基本路線は「新自由主義」そのものである。労働党の掲げる経済政策は「改良型新自由主義」であり、新自由主義を基本に据えながら、それによって生じる社会の歪みを各種社会政策によって取り繕っていこうとするものだ。

これに対する野党の主張は、社会政策などという面倒なものは止めてしまい、本来の弱肉強食の世界に戻せということになる。

危機感を募らせた知識人、大学教授、芸術家、社会運動家ら2000人が共同声明を発表した。

ルセフ政権継続を阻もうとする一種のクーデターが進行しつつある。大企業、銀行家、マスメディア、右翼、在外勢力(米国など)が結託してルセフ再選を阻止しようとしている。

彼らは<腐敗>、<経済停滞>、<超インフレ>などを誇張し、労働党政権に不利な世論づくりの運動を展開している。

今回の決選は、ルセフの「ポスト新自由主義」(社会政策を大幅に加えた改良型新自由主義)と、ネヴェスの「野蛮な新自由主義」との戦いだ。

ルセフ打倒運動の中心にいるマリーナ・シルヴァや、元大統領フェルナンド=エンリケ・カルドーゾらは、1982年に結成された新自由主義者の組織「米州対話」の会員だ。

90年代のカルドーゾPSDB政権期のように、ブラジルを金融資本と米国の意思に支配させてはならない。米国の介入からブラジルとラ米を守るにはルセフ政権を継続させねばならない。(伊高浩昭氏の紹介)

そして、勝利した。ブラジルの民衆は辛くも、地獄の口の一歩手前で立ち止まったことになるのだろう。


エボラもやはりキューバ医師団

このあいだ、エボラ関連ニュースでキューバ人医師がスイスに送られ隔離収容されたと報じられていた。「おっ、相変わらず頑張っていますね」と感じた。

「国境なき医師団」は宣伝がうまいから、自分たちが医療の代表みたいな顔しているが、現地で一番頑張っているのはキューバ医師団と相場が決まってい る。キューバがシエラレオネ、リベリア、ギニアの西アフリカ3国に送った医師数は256人に達している。「国境なき医師団」をはるかに凌駕している。

さらにキューバでは、2万3000人の医師、看護師、医療技術者がエボラ対策の訓練を受けて待機している。

キューバの医師数は50万人。そのうち5万人の医師、看護師、医療技術者らを世界66カ国に送り込んでいる。これについては世界中どこでも高く評価 されている。例えばブラジルでは1万1800人が働いている。4800万人が診療を受け、その88%は満足している。ブラジルはこれに対し、年間85億ド ルを支払っている(貿易額は20億ドル)

キューバの貢献については、ニューヨーク・タイムズも賞賛を惜しまない。

「キューバはエボラとの戦いで最も際立っており、その姿勢は称賛され真似されるべきだ」と書いた。そして

ケリー国務長官が名こそ挙げないが、その勇気を讃えたことにも触れた。

それで一番頭に来ているのがアメリカの闇の権力だ。そこでアメリカは派遣された医師の亡命を手助けしている。この政策は06年にブッシュ前政権が始めた。この1年間に1278人のクーバ人医師が米国に亡命した。

ニューヨークタイムズはこのような「引き抜き」策を人道にもとるものとして厳しく非難している。現実に亡命した医師がアメリカ国内で医師として活動することは不可能である。「引き抜き」は文字通り引き抜いて捨てるだけの政策である。
ハイチでの医療貢献については下記参照のこと
ハイチで活動するキューバ医師団との連帯を  
メディアが報道しないハイチのキューバ医療団

以下のメールが来たので、ブログ上に公開しておきます。

北星大学への「植村隆元朝日新聞記者解雇要求」について NHKで報道されるとの情報が来ました。 「言論の自由」「ジャーナリズムの良心への圧殺」が問われる事態だと思い お伝えいたします。
 記者が書いた記事の内容が問われ、家族も含めネット上で攻撃され 高校生の娘さんの顔写真まで載せられ「自殺に追い込め」などの攻撃がされるなどの非道な攻撃は 決して許されるものではないと感じています。
 
 11月中旬 植村さんの講演会に参加しました。私自身よく知らなかったのですが、植村さんはいわゆる「吉田証言」には全く関与しておりません。
 また問題となった1990年代の植村氏の「従軍慰安婦」記事の内容に 「女子挺身隊」と書いてあったことを読売新聞などは攻撃材料として挙げて いますが、「従軍慰安婦」とされた最初の女性が名乗り出た当時は 読売新聞やその他の新聞も 当時韓国で使う「女子挺身隊」の言葉が「従軍慰安婦」と同義 の言葉として使われていたため新聞紙上でもそのまま使っていました。読売新聞自身 当時同義で使っていたことを 読売新聞紙上で小さな扱いで当時同義とし て使っていたことも お詫び訂正しています。

いろいろ知らなかったことがありますが、ことは無実かどうかではないと思います。
この際、慰安婦問題を「無かったことにはさせないぞ」という一点で、「朝日党」になるべきでしょう。


WSJに面白い記事があった。
メールにまじめに返事を出す人ほどウツになる、というのだ。
これを読んだ私は、絶対にウツにならないと確信した。
私のガラパゴス携帯には約90通の未読メールがある。
ときどき怒られる。
私は「そんな大事な要件なら電話して」と答える。そして携帯を見せる。
「ふーむ、確かに迷惑メールばかりだな」と大抵の人は納得してくれる。
なかには親切な人もいて迷惑メール撃退法を教えてくれる。
しかしそれで撃退された試しはない。敵もさるものである。
というよりも、それを撃退されたら、メールを読まない理由がなくなってしまうから、
あまりしてほしくないのである。
おそらく職場でメールが伝達手段であればそうは行かないであろう。
電話ならでなくても済むが、メールはいやでも受け取らざるをえないのだ。
そして返信を要求される。
返信しなければ、「シカト」したことにされてしまうのである。これは恐怖である。
それで人間関係が壊れてしまった話も、一度ならず聞いている。
それで壊れるような人間関係ならそれまでなのだが、職場関係だとそうは行かない。
内容証明付きの手紙をネグったみたいなものだからだ。世間では許されない。
だからケータイにはびこった迷惑メールはある意味で救い主なのかもしれない。
所詮いっときだろうが…
ところで私は、この40年年賀状を出したこともない。もちろん年賀状の返事も出さない。
もらって嬉しい相手なら、電話して「飲みに行こう」と誘うことにしている。誘われた方は怪訝な顔をしているが。

ブラジル、ボリビアに続きウルグアイでも革新勝利の勢い

投票日は11月30日なので、結果はまだ出ていないが、世論調査では拡大戦線が圧倒的優勢を示している。今度の勝利により、革新政権の支配がウルグアイでは定着するだろう。

バスケス

この国は伝統的にコロラド党とブランコ党が政権を握ってきた。それが70年代前半に社会党・共産党を中軸とする拡大戦線が登場して、政権を脅かすほどの勢いを示した。危機感を感じた支配層は軍事クーデターを敢行し、独裁政権が樹立された。

しかし軍事政権は長くは続かず、80年代の前半に民政に移行した。しかしこの間の弾圧で拡大戦線はボロボロにされた。

それから長い間の試練を経てタバレ・バスケスが勝利し拡大戦線が政権を握ったのは2004年のことであった。最初は少数与党として中道的政策を強いられたが、徐々に議会でも勢力を伸ばし、政権基盤は安定してきた。

かつては南米のスイスと呼ばれるほど手厚い社会保障と労働者保護を行ってきたが、現在はそれほどの経済的余裕はない。政策選択の幅は限られているが、その中で地道に精一杯やっている。

もっと注目されて良い政権であろう。

野党ブランコ党は農牧業を背景とする伝統政党である。かつて圧倒的勢力を誇ったコロラド党は、新自由主義政策が裏目に出て現在は第三党に転落、存在意義を失いつつある。

ベネズエラがガソリン値上げに

ベネズエラは世界で一番ガソリンが安い国である。もちろん石油が産出されるからでもあるが、何よりも大きいのは莫大な政府の補助金である。

年間なんと150億ドルの補助金が国庫から支出されている。日本円で言うと2兆円に近い金額だ。ベネズエラの国家予算が年間400億ドル強だから、これだけで1/3になる。誰が考えてもこれはやり過ぎだ。

ベネズエラでガソリンを入れると、40リットル満タンで50円だそうだ。リッターじゃないよ! サウジでもその7倍はとっているそうだ。

どうなるか、麻薬よりも金になる。密売が商売になる。1日の総消費量80万バレルのうち、10万バレルがコロンビア、ブラジルに密輸され、その損失額は年80億ドルにも及ぶ。それでガソリンが不足して米国から輸入している。

もっともこれはチャベスが始めたわけではなく、それ以前からの“悪しき風習”だ。ラテンアメリカは公共料金値上げには殊の外敏感で、バス代が10円上がるだけでも全国ゼネストが起きる。

私が大統領なら有無をいわさず10%にするところだ。強い政権の時にこそ断行すべきだし、原油価格の値下がりという外圧のもとで絶好のチャンスだと思う。

これでインフレに拍車がかかると危惧する向きもあるが、この国の基礎生活資料は圧倒的に輸入に頼っているので、直接物価に反映するとは考えにくい。もしやばいと考えれば公共運輸機関への選別補助を維持すればよい。

この国の社会保障費は上がったとはいえまだ低い。税金は所得の再分配に回すべきだろう。そういう意味では、今回の補助金を減らして社会保障に回そうというスローガンは正しい。

ベネズエラ経済が急速に悪化

ベネズエラ経済が急速に悪化している。①インフレは去年が56%、今年はさらに上回り100%超えが予想されている。②一方でGDPは4%後退する見込み。③この結果、財政赤字はGDPの20%に達する見込み。

要するにスタグフレーションと双子の赤字が膨れ上がるということだ。

ただ次の記載は要注意である。

一家四人の標準家庭の食費は今年、月790ドルだった。2012年には290ドルだった。

これだと2年間で2.7倍に跳ね上がっていることになり、物価上昇率をはるかに上回っている計算になる。

行けばずれにしても、主要な原因は国際原油価格の低下。米国の原油生産の増大、中国経済の伸び悩みによる需要減少の重なりで、これまでのバレル100ドル台から93~94ドルに低下した。

このまま行けば来年度は80ドル台に下落することも考えなければならない。

政府は、当然これは予想していて、そのための備えもしている。とはいうものの、やはり高い原油価格を当てにした政策もやってはいるわけで、それが今後3年間に100億ドルに達する債務の支払だ。とくに対中国の借款が厳しい状況を迎えている。

政府は、これにCITGOの売却金で対応しようとしていた。CITGOは国営石油会社(PDVSA)が所有しており、年間8億ドルの純益を上げている。これを80億で売ればとりあえずの債務支払は可能である。ところが買い手は現れなかった。

citgo
     ニューヨーク州ベルゲンのCITGOスタンド
以上のように状況は大変厳しいが、これを機にベネズエラ経済が奈落の底に沈むというのは、反政府勢力の宣伝のたぐいであろう。

むしろこれを機に、あまりにも政治的な意図で膨らませすぎた国庫財政を思い切り整理するチャンスが来たと見るべきではないか(例えばガソリン補助金)。

あの時のキューバを考えれば、できないことなどひとつもない。

FARCはタガが外れている

陸軍対ゲリラ戦特殊部隊の司令官アルサテ少将がFARCに捕らえられた。これまでFARCに拉致・誘拐された軍人の中で最高位だそうだ。捕まえた方も驚いたろう。

FARCの本体のほうは、とうに武装解除の方向を出しているのだが、話は一向に進まない。ある意味でFARCに対する攻撃が強まり指導者の多くが逮捕されたり死んでしまったことから、統制がきかなくなっている可能性が高い。

チョコ州の州都キブドは、麻薬カルテルの拠点メデジンからアンデスを越えた太平洋側。パンナム・ハイウエイを北上すればパナマにつながる麻薬密輸ルートとなり、海岸山脈を越えれば太平洋である。犯罪者が集まっている物騒なところである。

今度の誘拐犯も、FARCというよりFARCの一派を名乗る犯罪者集団と見たほうが良いだろう。

サントス大統領は、和平会談を中止することでFARCを通じて圧力をかけせせようとしているのだろうと思うが、FARCにそれだけの力があるだろうか。

キブド

またもペトロブラスの重大疑獄

再選を狙うヂウマ・ルセフ大統領が大いに苦しめられたのがペトロブラスの裏金疑惑だった。ルセウの前のルーラ大統領も、これで危うくクビが飛ぶところだった。

今回の疑惑は、計39億ドル(4千億円)にのぼる政治資金がペトロブラス(国営石油会社)から労働党に流れていたというもの。悪名高い日本の政党助成金は13年度で354億円。ラテンのやることは半端じゃない。

その仕掛けは、企業との契約金に「礼金」を上乗せし、それを闇資金として流したというもの。

ペトロブラスは国営で、儲けは国の金だ。何に使ってもいいというものではない。私企業ならなんでもいいというわけではないが。

これを踏まえてルセフ大統領は粛清を公約した。おそらくもともとルセフはやりたかったんじゃないか。11月14日にペトロブラスの重役18人を一斉逮捕した。

ブラジルの労組のだら幹が政府を食い物にしているのは、歯ぎしりするほど悔しかったろう。このあいだ来たブラジリア本願寺の佐藤和尚さんは、労働党政権の幹部も務めた人だが、ルーラ以下労組幹部の腐敗ぶりに頭にきてやめてしまった。

ルセフは学生時代に反軍政の闘いでゲリラに参加し、秘密警察に捕らえられて拷問された経歴を持つ。組合活動家の成り上がりとはレベルが違うのである。

こういうとき、やはり野党との緊張関係は必要だ。間違ったら容赦なく叩かれることも民主主義に必要な試練である。

ルセウ




国会議員は身を削れ、その代わりもっと増やせ

国会議員の年間収入は

1.歳費

年間約2,100万円(期末手当込み)

2.諸手当

文書・交通費 年間で1,200万円。

秘書給料 3人分で約2,000万円。

立法調査費 780万円(これは本人でなく所属政党に配布)

3.政党助成金

議員一人当たり4340万円相当(これも本人でなく所属政党に配布)

これで合計1億400万円。

どこを削るか、政党助成金しかないでしょう。

定数不均衡だって、各県最低一人という言い分はもっともだ。各県1人出しても不均衡にならないように、定数を増やせばいい。

政党助成金をやめれば、お釣りが来る。

giinsuu

エグモント序曲でギュンター・ヴァントが良いと書いた。youtubeで見ると、これは93年6月14日にベルリンのフィルハーモニーで行われた演奏会のライブ録音のようだ。

楽団は手兵北ドイツ放送ではなく、ベルリン・ドイツ交響楽団という新興オーケストラ。やはり、ちょっと落ちる。

彼の指揮は徹底してレガートを要求する。楽譜に書かれた音符を目一杯弾ききることによって、楽器は初めて良くなり、本当の響きが生まれる。ただし楽団員、とくに管楽器にとってはしんどいだろうが。

レガートはプレヴィンもお得意だが、ヴァントの場合、リズムへの要求が大変厳しい。こうしないと音が綺麗に積み上がらないからである。こういう生き方はセルと大変良く似ていると思う。セルの方が数倍エグいが…

アップロードされた曲を見ると、エグモントのほかにエロイカとシューベルトのハ長調。思わず目を疑う。ホントかいな? 

1912年の生まれというから、この年81歳だ。すげえ馬力だ。私がテレビで見たのは2003年ころで、もう死んでいたが、その3年前の、最後の日本公演のものだ。

その時が88歳かな。

70歳で北ドイツ放送の首席指揮者に就任し、79歳で退任した。本格的活動はそれからだ。超遅咲きの桜だったことになる。


謎の音楽ライター・ミナコヴィッチのブログ

によると、ヴァントのシューベルトは三種類のライブ盤が発売されているそうだ。

ヴァントが晩年に遺した3種類の『ザ・グレート』は、それぞれオーケストラが異なり、演奏時間にも違いがある。

北ドイツ放送交響楽団とのライヴ(1991年4月21~23日録音)
 第1楽章[13:53] 第2楽章[15:51] 第3楽章[10:42] 第4楽章[11:53]

ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団とのライヴ(1993年5月28日録音)
 第1楽章[14:16] 第2楽章[16:26] 第3楽章[10:54] 第4楽章[12:31]

ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団とのライヴ(1995年3月28~29日録音)
 第1楽章[13:56] 第2楽章[15:46] 第3楽章[10:46] 第4楽章[12:12]

録音時期は1991年、1993年、1995年と2年おきの短期間で行なわれているので、指揮者の解釈に根本的な違いはないはずだが、オーケストラという媒介を通すと、聴こえてくる音楽には、それぞれ微妙な特色が出てくるのが面白い。

と書かれている。

このyoutubeの演奏は、ミュンヘン・フィルとのコンサートの直後に行われていることになる。



その後調べたら、ほかにコリオラン序曲やブラームスの1番もある。2日間に分けた演奏会のようだ。

この人の活躍世代は60年代のケルン放送交響楽団からだ。ここで20年、北ドイツ放送に移って10年、それからフリーの10年となるから、多分これから先、放送テープは続々と出てくるのではないだろうか。

定期演奏会の半分は振っているとして、年に6本、30年の放送局づとめで180本は演奏会のテープが収録されているだろう。


原油安で厳しさ増したベネズエラ外交

原油価格が低下してきた。

直接的には投機資本が、世界経済を変調に貶めたことで、自分の首を絞めたのであるが、石油産出国はその煽りを食らって、深刻な危機に直面する破目になった。とくにラテンアメリカの左翼政権をけん引するベネズエラとそれに追随するALBA・ペトロカリベ(カリブ石油連帯機構)加盟国にとっては、その存在意義が問われかねない事態に至っている。

こうした状況の中、ペトロカリベの石油相会議が開かれた(11月 カラカス)。

ベネズエラは「従来通り機構との公約を守る」と言明したが、ベネズエラの国内事情を見れば、その言葉を信用して良いものか。

現在、ペトロカリベには中米・カリブ地域の18カ国が加盟している。ペトロカリベのもと、14の合弁製油所が建設され、432の事業が展開されてきた。これらの施設・事業がどうなるかはベネズエラ次第となっている。

ピノチェト軍事独裁への糾弾は終わっていない

二度目の大統領となったミチェル・バチェレ大統領は、ピノチェト政権に捕らえられ拷問を受けた人である。二度と軍事独裁を許してはならないという決意は人一倍堅い。そのために弾圧の思い出は決して忘れてはならないと思っている。なぜなら弾圧の張本人は相変わらずのさばっているし、機会あらばふたたび世に出ようと狙っているからである。

長い間の躊躇を経て司法界もようやくその意義を認めるようになってきた。その象徴がこの判決であろう。

11月、チリ最高裁がバチェレの父アルベルト・バチェレー空将の殺害犯に有罪の判決を下した。実に41年ぶりの判決である。父バチェレは空軍内において立憲主義者を代表していた。73年9月11日の軍事クーデターで彼はクーデターに同調しなかった。彼はクーデター派に捕らえられ、拷問され、それがもとで半年後に亡くなった。

今回の裁判で裁かれたのは拷問の当事者である空軍退役大佐二人で、それぞれ禁錮3年と2年の実刑が言い渡された。刑が軽いのは彼らが実行者に過ぎず、命令したのはピノチェト本人だったからである。命令を受けて実行しただけなのに実刑が下ったのは、彼らがそれを反省していないからである。

ハイチで相変わらずの暴力衝突

11月18日、ポルトープランスのスラムでマルテリ大統領辞任を求めるデモ行進が行われ、大統領支持派と衝突、1人が死亡、3人が負傷したそうだ。反政府派は「民主愛国運動」および「憲法順守愛国団」を名乗り、選挙の早期実施と政治囚解放を要求した。警官隊が出動し、催涙弾でデモ隊を解散させた。目撃者は、野党議員がライフル銃で大統領支持派側を撃っていた、と語っている。

この10年、まともにハイチ情勢を勉強していない。勉強しないと困るのはそもそも白黒が分からなくなることだ。03年のアリスティド排斥の時、多くのメディアは白黒を完全に間違えていた。ただ民衆もしばしば暴力的になるし、しばしば容易に腐敗するので、うかつに信用出来ないところがある。とにかくAPであろうとロイターであろうと鵜呑みにしないことだ。迷ったらまずルモンドへ。

エボラもやはりキューバ医師団

このあいだ、エボラ関連ニュースでキューバ人医師がスイスに送られ隔離収容されたと報じられていた。「おっ、相変わらず頑張っていますね」と感じた。

「国境なき医師団」は宣伝がうまいから、自分たちが医療の代表みたいな顔しているが、現地で一番頑張っているのはキューバ医師団と相場が決まっている。キューバがシエラレオネ、リベリア、ギニアの西アフリカ3国に送った医師数は256人に達している。「国境なき医師団」をはるかに凌駕している。

さらにキューバでは、2万3000人の医師、看護師、医療技術者がエボラ対策の訓練を受けて待機している。

キューバの医師数は50万人。そのうち5万人の医師、看護師、医療技術者らを世界66カ国に送り込んでいる。これについては世界中どこでも高く評価されている。例えばブラジルでは1万1800人が働いている。4800万人が診療を受け、その88%は満足している。ブラジルはこれに対し、年間85億ドルを支払っている(貿易額は20億ドル)

キューバの貢献については、ニューヨーク・タイムズも賞賛を惜しまない。

「キューバはエボラとの戦いで最も際立っており、その姿勢は称賛され真似されるべきだ」と書いた。そして

ケリー国務長官が名こそ挙げないが、その勇気を讃えたことにも触れた。

それで一番頭に来ているのがアメリカの闇の権力だ。そこでアメリカは派遣された医師の亡命を手助けしている。この政策は06年にブッシュ前政権が始めた。この1年間に1278人のクーバ人医師が米国に亡命した。

ニューヨークタイムズはこのような「引き抜き」策を人道にもとるものとして厳しく非難している。現実に亡命した医師がアメリカ国内で医師として活動することは不可能である。「引き抜き」は文字通り引き抜いて捨てるだけの政策である。

このあいだ


共産党に雨宿りしませんか。安倍晋三への絶対拒否の意思表示として。
別に、とって食おうなんて魂胆はありませんから、安心してお立ち寄りください。
こわいと言ったって、どうせやられるときには共産党だろうが無党派だろうがまとめてやられるんですから、そこは分かってもらいたいと思います。
むかし、と言っても30年くらい前までは、共産党もけっこう勢いがあったんです。8人に一人は共産党に投票していたんです。その頃は、共産党攻撃も強かったから、投票するときに「共産党はちょっと」と言って社会党に雨宿りする人が多かったんです。
その人達は、共産党が弱くなると、「小選挙区で死に票になってしまう」と言って民主党に投票したんです。
しかし今では雨宿りするところが無くなってしまった。大企業などの支配層が雨宿り先として作った民主党を自分で潰してしまったからです。何故潰したか? 国民をなめているからです。
首筋なめられている気持ち、分かるでしょう。
人間、かなり過酷な環境にも慣れるものです。毎日首筋をなめられても、いつかそういう生活に慣れてしまうかもしれません。
でも、なめられるのが気持ち良いと言って権力に擦り寄るのは、あさましくも滑稽な姿ですよね。そしてそれを嘲りながら選挙にも行かないというひとも、なめられているのは同じでしょう。

エグモント序曲の聴き比べ

ロリン・マゼールのエグモント序曲が良い。

最初の聴き比べのきっかけはこの演奏ではない。ティーレマン指揮ウィーン・フィルの演奏があまりにひどくて、「この曲は、本当はつまらない曲なんだよ」と言わんばかりの演奏で、「ほんとうにそんなにこけおどしのつまらない曲だったかなぁ」と思いながら、他の演奏を探しているうちに見つけたものだ。

マゼールがニューヨークフィルを振ったライブ録音で、元の音は良かったのだろうがアップ時に音が壊れてしまっている。音はひどいのだが迫力はすごい。

ニューヨーク・フィルは個々にはうまいのだろうが、オケとして合わせる気はさらさらない。ライブだからなおのことだ。

しかしマゼールの指揮はものすごい迫力だ。音の塊が襲いかかってくるような迫力がある。

かなり前にダウンロードしたものだから、音質がアップされているかもしれないと思って探したら、あった。

ソウルでのコンサートのテレビ放映をエアチェックしたものらしい。その日のコンサートの他の曲もないかと思って探したが、この曲だけだ。この演奏の印象がよほど強烈だったと見える。

我がジョージ・セルの演奏もある。しかしクリーブランドとのものはない。ウィーン・フィルと録音した全曲盤。69年12月というから最晩年のものだ。

ドレスデン・シュターツカペレとのライブ音源(Salzburg 1965)もアップされているが、音質は鑑賞に耐えない。演奏もセルらしくない。Czech Ph. / Szell Salzburg 1963 というのもあるが、さらにひどい。

……なことをやっているうちに、クレンペラー指揮フィラデルフィア管弦楽団という演奏を見つけた。フィルハーモニアの間違いではない。

調べてみると、63年ころ、フィラデルフィアに2週間ほど滞在してコンサートの傍らいくつかの録音を残しているそうだ。何でも録音がひどいためにお蔵入りになってしまったそうだが、最近色々細工して発売になったらしい。

このエグモントはすごい。物置小屋に楽団を詰め込んで演奏したみたいで、残響ゼロ。まじりっけなしの音が詰め込まれている。まるで指揮者の後ろでリハーサルを聞いているようだ。

全盛期のフィラデルフィアサウンドが純生で聞けるというのがすごい。

しかしさすがに塩っ辛い。口直しにアバドを聴く。こちらはシロップを掛けたエグモント。

小沢とボストンというのもある。出だしはおやっと思わせるが、終わってみると印象は薄い。

あったぞ、ヴァントのエグモント。細部まできっちり音を出しながら、低音はズシンと効かせる。やはりヴァントは決定盤だな。エグモントは駄作ではないな。

セルとウィーン・フィルの運命というのがあったので聞いてみた。

ウィーン・フィルというのは指揮者の棒の通り弾かない。忘れた頃に音が出てくる。だいたい、ろくに指揮者の棒など見ていない。セルにとってはたまらない苦痛だったと思う。

オーボエはセルの一番嫌いな音を出す。ホルンは盛大な音外しもなんのその、みずからの音色に酔いしれる。

セルは癇癪を起こした。あるいは計算していたかもしれない、第一楽章の終わり、コーダに入る手前、オーボエのソロで思い切りルバートをかけた。さすがにオーボエはひっくり返った。

セルの分厚いメガネの底でめんたまがぎらりと光ったろう。それからの演奏は俄然変わってくる。アメリカの楽団みたいだ。

ホロヴィッツのオケ伴をやってニューヨークフィルにムチを入れて、死闘を演じたチャイコフスキーが思い起こされる。

死ぬ1年前の演奏だが、血の気の多さは最後まで変わらなかったようだ。そういう眼から見ると、ウィーンフィルをブイブイ云わせたきわめて痛快な演奏である。

失書・失算はナビゲーション障害だ

ナビゲーション障害を勉強するうち、ふとこれは失書を説明できるということに気づいた。失書と言っても運動性の失書、書字障害だ。

まさに字を書くというのは筆先のナビゲーションだ。白いブランクの画面があって、漢字の場合はたいてい左上から始まる。字そのものは、書き取りブックのごとく、予め点線で書かれているのかもしれない。

筆先にCCDカメラを付けて、ストリートビューの綴りを持たせておく。筆先はそのナビゲーション画面に合わせて右や下に走って行って、どこかで止まって、方向を変えるか画面からいったん離れるかする。

これぞルート選択性ニューロンだ。

これだと、字は分かるのに書けないという状況がピッタリと説明できる。失算もほぼ同様の機序で説明できそうだ。

一方、失認・失行の方はV4からの情報を受ける「場所関係ニューロン」のトラブルのような気がする。すると同じ頭頂連合野でも少し範囲が違う可能性がある。どれがVIPでどれがAIPだとかいうことは良く分からない。

もう少し勉強しなければならないのだろうが、いまのところその辺りはアマチュアの手出しすることではなさそうだ。

泰羅さんの下記の記載、

サルにナビゲーションのトレーニングを行うと、頭頂葉内側面には課題遂行中に活動するニューロンが証明された。これらのニューロンは,場所関連ニューロン,運動関連ニューロン,ルート選択性ニューロンに分類された。

というあたりが、今後の課題だろう。

この点について、泰羅さんの原著では

場所関連ニューロン: あるルートに従ってナビゲーションするときに活動するというより、その場所にくればどのような状況でも活動し、その場所の情報を表していると考えられる。

運動関連ニューロン: 右回転という運動を行えば、どのルートのどの場所であっても活動する。海馬にはこのような機能はなく、頭頂葉の特徴の一つである。

ルート選択性ニューロン: 場所と運動の情報の関連づけが行われており、ある特定の場所である特定の運動を行うと活動する。

と書かれている。

ただこれはゲームによるバーチャルな刺激なので、自然界におけるスポンタンな反応と同一視できるかは分からない。

以下は泰羅さんの論文の最後の部分である。

5.“ナビゲーションの脳内メカニズム

目的を持った移動のことをナビゲーションという。

我々は普段から通い慣れた道を,特に意識することなく,目的地に到達することができる。このような移動を,ナビゲーションという。

(1)ナビゲーションの脳内プロセス

目的地に行こうとすると,まず,脳の中に認知地図が形成される。

しかし正確なナビゲーションのためにはこの認知地図だけでは不十分であり,その下の階層に,ルート地図(道順)がセットされる。この地図は具体的で,場所の情報とそこでの行動が関連づけられ,順番にリストとして記載された地図である。

このルート地図は視覚情報に基づく運動制御という点で,頭頂葉が関与している。

(2)道順の障害

高橋ら(Takahashi ら, 1997)は頭頂葉内側面,特に脳梁膨大後部が損傷された患者が道順障害を起こすこと報告した。

これらの患者は風景を見て,どこであるかはわかるが,どちらの方向に行ってよいのかわからず,道に迷ってしまっている。

この症例では,ルート地図が失われ,場所と行動の関連づけができなくなり,道に迷ってしまったと解釈できる。

(3)ナビゲーションニューロン

サルにナビゲーションのトレーニングを行うと、頭頂葉内側面には課題遂行中に活動するニューロンが証明された。これらのニューロンは,場所関連ニューロン,運動関連ニューロン,ルート選択性ニューロンに分類された。

この内のルート選択性ニューロンがルート地図に相当すると思われる。


これが話しのあらすじである。

注目すべきなのは、対象とする行動が「見る、捕まえる、逃げる」という即時的な行動ではなく、目的を持った行動であり、太古の昔からの、動物の動物たる根源的な所以にかかわる行動だということである。

この場合、目的地を示す脳内地図が認知され、その下位にルート地図が作成されるのだそうだ。このルート地図は二つの特徴がある。

ひとつは、「順番にリストとして記載された地図」だということである。この場合「地図」は1枚でなく数枚から数十枚のセット、すなわち動画のコマの集合だということだ。これは普通「地図」とは言わない。

もう一つは「視覚情報に基づく運動制御」ということで、地図のような俯瞰情報でなく、目の前に広がる「見たまんま」の情報だということだ。歩きならとった連続写真に吹き出しで注釈がついている、漫画みたいなものだ。

ルート地図というが、「見たまんま」の絵柄は地図ではない。むしろグーグルのストリートビューの方がピッタリだ。


正直のところ、まずもって目的地を示す「認知地図」が形成されるということには、実感が伴わない。だいたい私などは当てずっぽうで歩くことが多い。

それに、ナビゲーションというのはどこかに行く方法ではない。航海の最中にこういう状況になったらこうせよという経験と知識の積み重ね、航海術の体系だ。

車のナビは両者を折衷したようなもので、進行方向を真上にセットすることで人工的に前後感を出している。これはGPSという「磁石」があるから出来る芸当である。

方向音痴の女性に目的地に行かせようと思ったら、地図をもたせるよりはストリートビューの要所要所の写真を綴りにして持たせて、それをめくりながら歩かせるのが良いのかもしれない。


道順の障害、ナビゲーションニューロンについては、いまのところなんともコメントのしようがない。どちらかと言えば記憶力の問題が大きいように思う。大事なことは視覚情報がまずもって動画として記憶され、要所要所だけが選択的に記憶されているということではないだろうか。

 

アンクル・トム大森さんのブロク

今まで15年ほど(Windows 98の頃から)使用していたUSBオーディオデバイス ONKYO SE-U55をFOSTEX HP-A4に買い替えました。

という記事があった。

私と同じで出初めのSE-U55を何気なしに買ったのだ。確かあの頃の私はMDの音を再生して、それをデジタル化してパソコンに入れようという魂胆ではなかったか。

その話は、あとからMDウォークマンで直にパソコンに移植できる機械が出てきてそれを買ったのだが、結局題名の入力が面倒で、MDもウォークマンもホコリをかぶっている。


SE-U55も多分使っていなかったと思うが、いつの頃からかパソコンのMP3音源をライン・アウトで引くよりDACを通した方が良いと言われて使い始めた。DACってなんだと聞いたら「それ、そうじゃん」、「あっ、そうなん」という具合。

そのうちASIOだわさぴだとなってきたからずっと使っているが、「いいのかなぁ」と気にはなっていた。

最近ハイレゾだとか言っていて、「DACが決め手だ」と言われると、ますますそわそわしてくる。所詮付和雷同、主体性ゼロの人間だ。

ソニーのハイレゾ・ウォークマンが話題になっているらしい。もうウォークマンの世代ではないから、ふむふむと聞いてたが、DAC内臓のプリメーンが4,5万だという話だからムラムラしてくる。しかしよく話を聞いてみるとプリメーン・アンプはその値段の性能だというから、結局はそのDACだけあれば、いまのアンプのほうがはるかに高性能なはずだ。

要するに抱き合わせ販売だ。しかもソニーだ、かならず壊れるはずだ。

「うーむ」と唸っていたところにこの記事に出会った。

早速iTunesで音楽を聴いてみると、SE-U55よりも全体的に締まった音になりました。
たぶんこれがFOSTEXの得意とする音作りなのでしょう。
まあ、ここまででも後継機としては一応満足です。

とあり、ハイレゾ試聴についても触れている。

ハイレゾオーディオは、じつはかなり前からさまざまな形で製品や音源が販売されているのですが、今ひとつ普及しない理由が改めてわかったように思います。

ということで、どうも抱き合わせのアンプの「音作り」にみんな騙されているのではないか、という口ぶりである。


圧縮音源の音質については、私にも意見があるが(なにせYouTubeしか聞いていない人なので)、それはともかく、我が同類の士が買った機械を私も買ってみようかと思い始めた。しかし3万5千円とはいい値段だ。ソニーのDAC内蔵プリメインと変わらない。





頭頂葉 視覚と運動のインタラクション」  泰羅 雅登

という論文が見つかった。V5(MT野)まできて、頭頂連合野まであと一歩というところで、ミッシングリングを解き明かす鍵になってくれるのではないかと期待して読む。

1.視覚と認知

視覚によって外界の情報を取り込んでその情報をもとに外界に対する運動を組み立てるという意味で,頭頂葉は「視覚と運動のインタラクション」を演出する領域といってよい。

脳内の視覚情報処理経路は大きく2つに分けられる。

A 腹側視覚経路(Ventral pathway)

視覚前野を経て側頭連合野にいたる。

主として色や形の情報を処理し,形や色の二次元情報からその物体を同定する「物体視(What)」の経路である

B 背側視覚経路(Dorsal pathway)

視覚前野を経て頭頂連合野に至る。

物体の位置,奥行き,動きの情報などを処理する「空間視(Where)」の経路

頭頂連合野は静的な認知だけではなく、動的な認知を司っている。これは認知より行為と密接に結びついている。それは行動しながらの連続的な認知である。それはとくに手先の巧緻操作において決定的な役割を果たす。

C AIP野

1990年、サル頭頂連合野ニューロンの解析によって,AIP野操作運動関連ニューロンが見つかった(Taira ら)

その後、頭頂葉が「運動のための視覚情報処理(How)」を行っていることが知られるようになった。つまり,頭頂葉は,処理した視覚情報を運動の企画・実行のために運動関連領域に送る役割を果たしている。

2.背側経路の障害

まず背側視覚経路の障害での臨床症状を簡単にまとめておく。

①半側空間無視

②傾きの認知障害

③立体視の障害

④三次元構成失行

⑤手の運動障害

⑥オリエンテーション障害

これらは失書・失算のないゲルストマン症候群とも言える。

3.MT野から頭頂葉へ

parietal

頭頂間溝(intra parietal sulcus : IPS)領域はいくつかの小領域に区分されている。

LIP(lateral intra parietal):前頭眼野と強い線維連絡があり髄鞘染色で濃く染まる領域である。

CIP(caudal intra parietal):LIP後方の野。奥行き知覚に関連。

AIP(anterior intraparietal):LIP前方の野。操作運動の視覚的コントロールにかかわる。

4.頭頂葉の認知機能

a. 立体視の脳内メカニズム(CIP関連)

b. 操作運動の視覚的制御

AIP 野の操作運動関連ニューロンは運動前野腹側部(F5)との間に密な線維連絡がある。

これらの操作運動関連ニューロンは活動を視覚性の成分と運動性の成分に分離できる。

“視覚優位型”ニューロンは操作対象の形状の識別に関係し,“視覚・運動型”ニューロンは運動情報と視覚情報を統合している。



泰羅論文の感想

泰羅さんは東京医科歯科大学の先生でお医者さんのようである。根本のところの問題意識が共通しているから話がわかりやすい。

1.視覚と認知

What とかWhere とか使わずに腹側と背側とあっさりまとめているところもよい。

動的な認知という言葉もよい。私の言う「時間軸の導入」に近いと思う。

ただ前にも言ったのだが、たとえば指先の巧緻運動などは、動物が動くことの一部であり、のちになって発達してきたことである。「動く」ことの本質は移動することにあるのであり、そちらがより根源的である。

それをとりあえず察知能力としておく。ついでに腹側経路→V4の方は認識能力と名づけておこう。資格情報は片や認識能力の土台となり、他方において察知能力の土台となるのである。これについては稿を改めて考察したい。

2.背側経路の障害

これはゲルストマン症候群のうち、失行・失認に関する症状だ。

以前失書・失算のみを主徴とするゲルストマンの不全型があるのではないかと書いたが、逆に純粋に背側経路の障害のみを主徴とする病態もあるらしい。

①から⑥の徴候のうち①、③を除けばいずれも時間感覚がらみだ。これも背側経路が時間軸の導入という働きを持つことの証明となる。

4.頭頂葉の認知機能

三つのフィールドのうち、CIPはV4からの流れのようだ。LIPの機能は良く分からない。目下は知見を集積するのが先行しており、まだ概念づくりには手が回っていないような感じだ。

とりあえずわかっているなかでは、AIPが「運動のための視覚情報処理(How)」を行っているとされ、視覚と運動を結ぶ結節点になっているようだ。もちろん視覚と言っても動的視覚であろうし、それは基本的にはMT野由来のものであろう。

「AIP野操作運動関連ニューロンが見つかった」のが、1990年というのには驚いた。まだたかだか20年余である。それなら知らなくても恥ではない。発見したのが日本人らしいということも初めて知った。

 

ナビゲーションの話は非常に面白いので、別の話にしようと思う。


映画の秒24コマについてはネットで確認できたが、それに関連する文献がなかなか見つからない。

光を点滅させ、点滅の間隔を縮めていって見分けられなくなるときの値を調べるフリッカーテストという検査がある。

宮崎大学の御手洗氏によれば

<フリッカー測定値> 
               測定側 fp(Hz)
正常 正常値       40~50
下限            35
精査を要するもの    26~34
異常            25以下


これだと映画の秒24コマというのは若干ちらつくかも知れない。 電灯は東日本では50サイクルだ。1サイクルというのは行って帰って1回だから実際にはその倍の頻度でまたたいていることになる。結構ぎりぎりのところだ。

ところが「昆虫―驚異の微小脳」という本によるとハエは1秒150回でも見分けられるそうだ。(測定方法不明)

昆虫の目は作りが根本的に違うが、ただロドプシンの水解という視細胞の感光機序はさほど違わない。だから人間の網膜はハエと同じスピードで光景を写しとっている可能性もある。

とすれば、人間における視覚の時間分解能(temporal resolution)は、V5での動画画像の構成スピードが規定しているのかもしれない。

此処から先はやや乱暴だが、V5の画像生産スピードが1秒に40ないし50コマと仮定してもよいのかもしれない。

という記事で「朝の風」の大谷門主の発言を紹介した。とりあえず、全文再掲する。
西本願寺(真宗本願寺派)の大谷門主が、非公式な発言としたうえで、以下のように述べている。(29日付)

原発は人間の処理能力を超えたものである。
使用済み核燃料の処理方法がないものをどうして許したのか。
廃棄物だけ残していくのは、倫理的・宗教的に問題がある。

これだけで発言の真意を窺うのはいささか軽率かもしれないが、安全性でも、エネルギー論でもなく、使用済み核燃料というこの一点に「原発と人の道」の関係の本質をとらえる眼は確かだ。
大谷門主は、原発の核となる概念として廃棄物を取り出し、人間としての業も見据えながら、未来への視座を打ち出した。
きわめて説得力の高い主張だ。

経済、経済というが、要するにお金のことである。しかしそうやって手に入れるお金は、結局子孫にツケを回して得るお金である。お金回りが苦しいからといって、子孫のお金に手をつけていいのだろうか。娘を身売りする親と選ぶところはないのではないか。

この一点において、原発は没義道そのものであり、仏の道、人の道に反するのである。

「どうして許したのか」という問いかけは、自らへの責めもふくんで、厳しい。
それはいまなお「許そう」としてる人々にとっては、さらに厳しい。

その大谷門主の発言がふたたび本日の「朝の風」に登場した。

今度は公式の文書での発言である。

大谷門主、大谷光真師は6月に退任されているので、正確には前門主ということになる。門主在任中は発言を控えていたということのようだ。

主な内容は以下のとおり

現代の原子力発電所には、未解決の問題がいくつかある。

第一は、現代の科学技術では、放射性廃棄物の無害化ができないこと。

第二は、一度大きな事故があれば、対処できなくなる可能性があること、

第三は、原子力発電所を運転するためには、平常時でも一定数の労働者の被曝が避けられないこと、

したがって、原発は「検討するとき」だ。

ということで、指摘はより包括的になっている。

出処は著書「いまを生かされて」(文藝春秋)の「あとがき」

以下は視覚を勉強しての感想的意見である


1.“What”と“Where”という分類の曖昧さ

たしかに二つの経路はあるのだろう。それが二つなのかどうかは別として(三つの経路モデルを提示しているものもある)…

しかし“What”と“Where”という分け方(特徴付け)は、現在可能な手段による観察結果を帰納的に分類したものでしかない。それは本質的なものではなく“そのように見える”だけであろうと、強く思う。

しかも“Where”という特徴付けは的を外れているように思える。非常に“英語的”な表現でもあり、我々があえて使う必要はないと思う。

以後は、この用語を用いず、腹側経路と背側経路の名で表現していく。

2.視覚情報の腹側経路と背側経路への分離の意味

文献を読んでみての印象だが、

腹側経路は大づかみに言うと「パターン化」の機能を果たしているようだ。それはいわば、脳内画像を圧縮、整理する画像処理ソフトのような働きではないだろうか。

画像の関心領域にフォーカスをあわせ、他の情報を最低限まで絞ることに主たる目的がある。

最終的に出来上がった画像はさらに高位に送られ、それを用いて“作業”が行われる。その際には作業用メモリーが必要なので、メモリーに無理なく載せられる程度まで圧縮したほうが良いだろう。

立体視、色付け機能などがいろいろ研究されているが、それは枝葉末節だろう。肝心なことは人間にとって“役に立つ”画像を作成することだ。それを「パターン化」と呼んでおく。

これに対し、背側経路は画像の“動画化”の機能を持つ。これは連続した画像を流すことにより、画像情報に時間軸を与えることである。静止画と比べた動画の長所は色々ある。思いつくままにあげてみよう。

1.絵の中の目的とするものが動く。「どこ」だけをとってみても、どこから、どこまで、どんな速度でと色々だ。

2.時間経過が分かる。いつから、いつまで、

3.変化がわかる。何が何へ、どのように、

4.見ている本人の変化がわかる(客観的座標があれば)。眼球がどの位置で、どの傾きで、どこを向いているかなど

3.腹側経路へ行く情報と背側経路へ行く情報は、情報の質が違う

V1,V2で処理された画像はV3で振り分けられて高位に送られる。腹側経路へは保存用のデータ、背側経路へは動画作成用のデータである。背側経路へ送られるデータは、肝心の対象さえ分かればいいくらいの強圧縮をかけられているだろう。白黒画像の可能性もある。

ただV3→V5の経路は実ははっきりしていない。1対1の対応ではなく、V4からも行っている可能性がある。

4.元々の視覚は腹側経路のみではないか

外側膝状体のことを書いていて、ふと思ったのだが、でき始めの動物では、視覚は外側膝状体で終わりだったのではないか。網膜の視細胞というのは元々は脳細胞だったそうだ。これが視神経という束になって外側膝状体に入る。そこで視神経は終わって、次の走者にバトンタッチする。

しかし外側膝状体というのは視床(前脳)の一部であり、ここから錐体路系(末梢運動神経の総称)にはチョクで神経が行っているはずだ。「見る、動く」これだけでも眼は立派に役割を果たしている。「あとは司、司でやってくれ」ということになれば勝負は早い。

元々の動物が生きる上での掟は「捕食すること、捕食されないこと」だから、余分なことは考えないほうが良いに決まっている。

それが、それだけでは生きて行けず、頭を使わなければ生き延びられない状況になれば、眼を「見る」だけの機能だけではなく、他のことにも利用しようということになる。だから、話が複雑になる。

私はそれが対象のパターン化であり、そのための一次視覚野から側頭葉へのループ形成ではないかと思う。それは繰り返される経験の記憶化であり、一種の学習だと思う。

考えて見れば、網膜の視細胞で撮影した画像は、すでに基本的にはデジタル情報だ。数億の視細胞が集合して一つの画像を作るのだから、最近のデジカメなど足元にも及ばないほどの画素数になる。

それを視神経の束にして、あまつさえシナプス接合さえして、一次視覚野に送ってそれをそっくりそのまま視覚野に再生するのはバカバカしい限りである。霊長類では大脳の後ろ3分の1が視覚情報の処理のためのものだ。一体これは何なのだろう。

5.一次視覚野はデータ圧縮のための装置

おそらくはその「バカバカしさ」に理由が隠されているのだろう。それは究極的には記憶するための処理なのではないかと、私は考える。一次視覚野に作られた画像はあくまでも「脳内画像」であり、網膜が形成するプライマリー画像とは違うものなのだ。

各種研究によれば、V1,V2でフォーカシングなど下処理をして、腹側経路を通じてV4に脳内画像が送られるという。フォーカシングというのは、逆に言えば関心領域以外の情報のアウトフォーカシングだ。私はこれはデータの圧縮ではないかと思う。PCM録音されたWAVファイルをmp3にエンコーディングするようなものだ。

V4はこれらの脳内画像をおそらくはパターン化して、最終処理したあと後下側頭野へと入っていく。そこで短期記憶として“RAM”に突っ込まれ、メモリー上の作業に関わっていく。我々は日常パソコンを作業する上ではメモリーの上で行っている。メモリーなしにパソコンは動かないのだ。だからメモリーの上で快適操作できる大きさの「脳内イメージ」まで減量しないといけない。

さらにそこから選択されたものが長期記憶として海馬(ハードディスク)に送られるのではないだろうか。

脳内画像のパターン化にはある種の意味付けというかシンボル化が施される。一説ではここで文字が解読されるという。これについては別の機会に勉強してみよう。

6.背側経路は視覚の機能に付加された機能ではないか

MT野へとつながる背側経路の主要な機能は「動画化」だと書いた。これはじつはどの文献にも書いてないことだ。

MT野に関する多くの文献で、重要な機能として“スピード感覚”が指摘されているが、これに論理的違和感を感じたのである。「そんなもの視覚じゃねぇよ」という反論である。

ただ観察されている事実は事実である。「一体スピード感覚を生じさせるメカニズムは何なのだ」と考えて行く内に、脳内画像に動きを与える作業なしにそのような機能は作り得ないという結論に達した。つまり動画化が本質であり、スピード感はその結果として得られる感覚である。

スピード感はものを見て識別するという視覚本来の機能ではない。スピードとか傾き(重力に対する)というのは全て時間の関数だ。そもそも視覚情報には時間に関わる情報はない。

網膜に映るリアル画像はまさに動画である。しかしこの動画は、そのままでは何の処理もできないし貯蔵も効かない。そこでいったん脳内画像に落とすのだが、素材としての脳内画像は基本的には二次元情報だ。ただの平面である。厚みもないし動きもない。これに厚みを与えるのは両眼視の統合による偽立体視だ。一方音というのは一次元情報で時間軸の上のみに存在する。サラウンドステレオで音の渦に包まれようともプレーヤーの再生を止めればそこに残るのは無だけだ。

7.脳内画像から動画を再構築する

そこから動画を再構築(リコンストラクション)するにはどうしたらよいか。

次元は違うが、我々はCT画像の再構築で同じ方法を用いている。CT画像を積み重ねて、擬似的に高さ要素を加え、3D表示画像をつくり上げるのである。動画は時間軸に画像を積み重ねて、擬似的に時間を創りだすのだろう。

ただCTは時間をかけて美しい画像をつくり上げるのだが、我々にはそんな余裕はない。基本的にはリアルタイムでやっていかなければならないのである。

このような厳しい状況を克服するためには、大きな作業用メモリー、素早い演算回路も必要だが、最大の手段は情報量の徹底した節約である。端的に言えば白地に1点だけ黒丸があればよい。そのためには物を“ものA”としてではなく“点A”としてみるシンボル化の作業が不可欠だ。その上で、画像をトレーシングペーパーのように重ね、“点A”をプロットしていく。そして100枚目の画像の“点A”との距離を測って、100で割るという作業になる。

絵が必要ならV4あたりからフィードバックして貼り合わせればよい。

こうして見ていくと、スピード感覚などという視覚との関連不明な枝葉末節より、視覚対象の思い切った単純化と視覚記憶の100枚重ねという機能のほうがはるかに本質的ではないか。

この頭頂葉経由のルートは、外側膝状体に対する視覚野の腹側経路がそうだったように、最初は本線ではなく脇道だったのかも知れない。

8.脳内画像を動画化することは時間軸を創設すること

むかし子供の頃、映画のコマ数は1秒に24枚だと聞かされたことがある。なぜなら人間の脳には1/24秒間残像が残るのだそうで、その残像が消えるときに次の絵を送れば、動画はシームレスとなりぎこちなさがなくなるのだという話だった。

こんなうろ覚えのあやふやな話を出発点にして議論を進めるのははなはだ恐縮だが、とりあえずお許し下さい。後で確認します。

これが事実とすると人間の脳内画像は1/24=0.04秒位に1枚の割合で作成されていることになる。だとすれば、脳内動画はそれ自体が立派な体内時計となる。V5では次々に画像を重ねることで、「擬似的な時間軸」を創造しているのではないか。

頭頂連合野はその情報をAIPを通じて受け取り、それを脳内クロック代わりにしていろんな行動(とくに連続技)をセットしているのではないだろうか。

背側経路は“Where 経路”と呼ばれているが,むしろ“When 経路”ではないか。画像にはWhen はないが、V5はそれを付け加えるのである。When はHow への足がかりともなるし、ひいてはWhy の足がかりともなる。(ケネディ暗殺事件におけるサプルーダー・フィルムを想起せよ)
もう一つは連続的な認知の足がかりとしての意義である。「見る→捕まえる」あるいは「見る→逃げる」から「見ながら捕まえ、あるいは逃げる」ことへの発展である。これが頭頂葉を介在させる「認知→行動」反応である。

9.背側経路の障害とゲルストマン徴候

ところでゲルストマン症候群の失行・失認だが、症例報告()でも示されているように、下位中枢の障害による失行・失認とはあきらかに症状を異にしている。「取れるはずなのに取れない」のである。
これは厳密な意味では失行・失認ではなく、“失時間”ではないのだろうか。時間と行っても1時間、2時間という時間ではなく、長くても1秒未満くらいの長さで、時間感覚がなくなる、映画のフィルムで言うとコマが飛んでしまうのである。
眼 をつぶっていても出来ること(体性感覚に基づく行為)ならスラスラと出来るのに、目を開けて対象を見つめながらやると失敗してしまう。いわば逆ロンベルグ現象みたいな現 象が起きるのではないかと想像する。(ロンベルグ現象というのは脊髄に障害があって歩行失調がある人が、開眼時には立っていられるのに閉眼すると突然立て なくなってしまう現象。これは歩行失調が視覚によって補正されていることを示す)
ゲルストマンによる失書の人は、書字ができないがキーボード入力は何の支障もなく出来るそうだ。そういえば私も、あまり字を書かなくなったから、カルテを書くときに漢字のヘンだけ書いて次の字に行ってしまったりすることがある。これはやばいぞ。


補) ザプルーダー・フィルム(Zapruder film): エイブラハム・ザプルーダーは現場近くで婦人服製造会社を経営していた。当日は、ベル・ハウエルの高級8ミリ・カメラを持参し間近でパレードを撮影していた。

12:30 ザプルーダー・フィルムによれば、エルム通りへのコーナーを回って,陸橋方向へ41メートル進んだ地点で,丘からの第1発がケネディの首に命中.続いてダルテックス・ビルからの第二発目が右肩下に命中.同時に教科書会社から発射された弾丸はコナリー知事の右肩口を直撃.右胸に貫通し右手首,左股に傷を与える.4発目はダルテックス・ビ ルから発射されたが大きく外れる.5発目は丘から発射され,ケネディの右後頭部を撃ち抜く.ここまで6秒間.
ここまで明らかな動画像を認められない人は、ゲルストマン症候群だ。

「失書・失算」症候群 (ゲルストマン徴候の不全型)

をお読みください。



翁長雄志氏のプロフィールが面白い(琉球新報号外

身長174センチで75キロと大柄。尊敬する人物は野中広務とケネディだそうだ。カラオケ大好きで歌うのは裕次郎の「赤いハンカチ」、私より4つ下だから、リアルタイムで「赤いハンカチ」は見ていないはずだが…

68年法政入学というから、4年間勉強らしい勉強はしていないはずだ。野球好きだというが法政大学で野球をやったわけではなさそう。

沖縄は基地を挟み「保守は革新に「お前たちみたいな理想論で飯が食えるか」、革新は保守に「あなたがたは命を金で売るのか」といがみ合ってきた。それを誰か上から見て笑ってはいないか。

ヤマトンチュにこれだけ操を尽くしている沖縄が、“日本に甘えている”のか。日本が沖縄に甘えているのではないか。

翁長さんたち保守層にとっては、「操」と「甘え」というのがキーワードになっているようだ。

妻樹子さんは「復帰運動のすさまじさを知る世代ができる、最後の戦いだと思う」と夫の心中を代弁する。

この「最後の戦い」という言葉に切迫感を感じる。

我々世代にとっても、今度の総選挙は「最後の戦い」になるかもしれないと思わなくてはいけないのだろう。

視覚野における視覚情報処理(ウィキペディアより)

「視覚」という言葉は、形態覚、運動覚、色覚、明暗覚などの総称として用いられている

視覚は光情報をもとに外界の構造を推定する過程 とみなせる

網膜において符号化された情報は、視神経を通じて外側膝状体(LGN) に投射され、シナプスを代えてさらに視覚野へ投射される。

視覚野には後頭葉の第一次視覚野と、そこからさらに投射される高次視覚野がある。

高次視覚野には次の2つがある。

1.物体の形状や色を処理する"What"経路→側頭葉

2.物体の空間における位置や運動を処理する"Where"経路→頭頂葉

問題はここから先で、いきなり分からない言葉が並ぶ。これはこの分野の研究が最近急速に発展してきたためらしい。現にこの二分法すら未だに議論の対象である。

地図の話と機能の話が入り混じるとますます混乱するので、まずは昨日の話、次いで地図の話(ブロードマンの脳地図)に進むのが良いと思う。

まずは、脳みその一番後ろから前方に向かって波及するというふうに理解しておけば良い。

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背側皮質視覚路が緑、腹側皮質視覚路が紫で示されている。両者は一次視覚野から出発している。(Wikipediaより)

一次視覚野 (V1)

最も単純で最も初期に活動する視覚野。すべての哺乳類において、一次視覚野は後頭極に位置している。(むかしは鳥距溝と習った)

外側膝状体で一度シナプスを代えているということは、そこで最低限の下処理はされているということだろう。下等脊椎動物ではそのまま脊髄に反射行動として降りていたかもしれない。しかしシナプス接合した神経はほぼすべてがV1まで来ているというから、いまでは丸投げするだけの中継点に成り下がっているようだ。

一次視覚野の基本的な機能は、網膜情報の再マッピングである。V1 へ入ってくる視覚情報は、空間的 (または光学的)な像としてというよりは、局所的なコントラストとしてコードされている。

高次視覚野(V2からV5まで)

V2は V1 と多くの共通な特性を持ち、視覚世界の完全なマップを形作る。多少の調節も行うようである。

V3は3次視覚皮質複合体と呼ばれ、画像情報から2種類の情報を取り出し高次野に送る起点となる。

背側 V3は物体の空間における位置や運動を処理するための情報を頭頂葉に送る。腹側 V3は、物体の形状や色を処理するための情報を側頭葉に送る。

V4はV3の腹側路に続く神経野で、後下側頭野へと情報を送る。今のところは大した働きはないと考えられているようだ。良く分からないがフォーカスを当てる効果(チューニング)があるようだ。

V5はかなり注目されているところのようで、MT野という別名が付いている。みっしりと高速神経(有髄線維)が立ち並んでいて、「むむっ、御主できるな!」という面構えではある。

ここがハブとなって多くの場所に神経がつながっている。しかし何故そうなっているかは、ウィキペディアの範囲ではよく分からない。V4がV3腹側路につながっているようにV3背側路に繋がるわけではないようだ。

主な機能は“スピード感覚”らしい。これも説明を読んでもよく分からない。おそらくV5の機能はもっと総合的なものだろう。


おっと、ウィキペディアの説明はこれで終わりだ。

ということは、視覚機能の終点はV5=MT野ということだ。

というより、そこまでは分かったが、そのあとは工事中ということだろうか。

MT野が当面、視覚機能の中心だということはわかったが、それはひとつの中枢なのか、ただの連絡駅なのか、それはこれからの研究次第のようだ。工事現場を覗いてみても、何の工事をしているものやらさっぱり分からない。ひょっとすると見当違いの方向に掘り進んでいる可能性もある。

むかし東海道線を西に行くと米原という駅があって、たいていの特急は停車した。静岡にさえ止まらないような特急が、市でもない米原に停まることに、子供心に妬みを感じたものだ。

まぁ北陸に行く線路が分かれるところだから停まるのは当然だが、なぜそんな重要な場所が町のまんまなのだろう、と感じたが、MT野はどうなんだろう。

入来さんの議論は前回のところまではうなずけるものであったが、このあとは必ずしも納得できるものではない。
入来さんは、霊長類の話に一足飛びに進んで、眼と手の連合が霊長類を進化させたという。そして手の発展には樹上生活が必須であったとする。
さらに、道具の使用が主体と客体の分離、そして「心」の発生を促したという。
ここまで進めてきた俯瞰的・積み上げ的な観点が、ここからさき剥落してしまうのだ。これでは霊長類の発達の説明に留まってしまう。普遍的な説得力がない。
ここから先は、入来さんと別れて、もう少し適応論を敷衍していきたい。
1.眼の発達と神経の発達の関係
2.音声シグナルから言語への転化
眼は水中の魚類から始まって、すべての動物にある。耳も動物が陸上で生活するようになった動物には備わっている。音声シグナルを発生する喉頭蓋は多分、爬虫類意向の動物には備わっていると思う。(確信はないが、例外はあるだろうが)
だから、音声シグナルで何らかの表象を形成したり、喋ったり、読んだりすることは原理的には多くの動物で可能なはずだ。(書くのは難しいだろうが)
にも拘らず、それが人間にしかできないとすれば、それはそれらの器官の使い方の問題なのだろう。そして使い方を開拓し、それを種の特有の能力として遺伝子に刻み込んだのは脳の働きなのだろう。
動物は、そして人間は眼の能力に何を付け加えたのか。

物質が生命となり、動物になるための神経の役割

人間の特異性は、言葉、文化、環境操作などである。これらは高度に知的な精神機能のなせる技である。

かといって、言葉、文化、環境操作の有り様を分析すれば精神機能が自ずから明らかになるというわけではない。人間は精神・身体複合体であって、その全身を通して外側の世界と相対している。

精神作用は、その結果として、身体を動かして外側の世界に働きかけることで発現する。この問題を解決するには、人間・ヒトの外界との関係、その成り立ちという原点に立ち返らないといけない。

1.人間はまず「物質的存在」である

人間は動物であり、生物である。しかしその前に、非生物もふくめた物質的存在である。個別の存在は偶然であるが、存在というのは万物の必然である。

必然というのは、物質を成り立たせている混沌の中の秩序である。秩序は混沌というベタなエネルギーから生まれ、最後はふたたび混沌へと消滅していく。

2.生命は物質的存在にとどまらない持続的な存在である

物質とは自然の流れの中の個別的定在であるが、それは一時の偶然がもたらした秩序であり、存在の消滅は必然である。

しかし生命は存在の特殊的継続であり、秩序の再生産である。それは物質代謝によりエネルギーを内実化し、生き延び、種の保存により個体の限界を超えて生き延びる。

3.ある種の生物は動物の道を選んだ

生物は2つの道を選んだ。動かずに環境に適応するか、動いて適応できる環境を選ぶかである。

「動く」とはどういうことか。我々は動くというと歩いたり走ったり空を飛んだり…というふうな形態を想像してしまうが、植物と比べて考えれば、「動く」ことの本質は「移動」であることが分かる。

植物は体の中に光合成装置を背負い込むことにより環境の中で自活できるようになった。しかしその装置を装備しつつ移動の可能性を確保することは不可能である。

植物は根を伸ばしたり枝を伸ばしたりして懸命に生活範囲を変えようとするが、現在位置を放棄して好きな場所を選択することはできない。環境への「適応」には限界がある。しかし環境の激変を生き延びるには移動するというオプションが有る。

4.動物の本質は「失楽園」だ

動物は自己栄養を放棄することでみずからの位置を変えることを可能にした。そして植物を捕食して生き延びる道を選んだ。すなわち光合成装置の放棄と、移動のための神経・筋系統、それを支える呼吸・循環系統の装備である。

擬人化して考えれば、移動とは現在地への拒絶をも辞さない強い欲望が現実化されたものなのである。動物はアダムとイブよりはるかに前に、エデンの園を放棄したのである。

動物という生物は、永遠の「移動」を自らに課している。動き始めたら停まることはできない。自転車ではないが「止まれば終わり」なのである。

ただこれは生物から植物、植物から動物という流れを仮定した話であり、単細胞生物が集合し発展するにあたり、光合成装置を選ぶか、移動装置を選ぶかという選択をした可能性もある。いずれにしてもそれは決断である。

5.諸動物によって作られる“コスモス

手を伸ばせば届く範囲に有り余る栄養があれば、動物は幸せである。しかし幸せな時代は長くは続かない。手の届く範囲の植物資源はますます減少し、ライバルはますます増加する。そしてお互いに死ぬか生きるかのギリギリでバランスが出来上がることになる。

さらにそこまで動物が繁殖すれば、その動物を狙う肉食動物も誕生する。こういうギリギリの食物連鎖の中で動物は生きていくしかない。

こうやって考えてくると、動物の運動は、環境の中に組み込まれた一連の自然現象の一部であると考えるしかないことが分かる。それは“移動”を選択したことがもたらした宿命であり、“原罪”である。

6.電線ではなく電話線を

生物が「行動」するためには必ずしも神経系が必要なわけではない。植物には神経はないが、芽が生え、根が張り、枝が伸び、花が咲き、実を結ぶという一連の「行動」は、きわめてシステム的に行われている。それどころかオジギソウなどのように、筋肉にもできないほどの素早い動きさえ行う。

これらは体液循環と細胞膜の電解質交換を通じて行われていると考えられる。つまり体液がメッセンジャーであり、血管のネットワークが神経のネットワークも兼ねていることになる。

これは人間にも神経・内分泌系として存在する。それどころか、神経そのものが内分泌装置を含んでいる。

神経と神経をつなぐシナプスではアセチルコリンやセロトニンの分泌が繰り返されている。これは人間が依然として植物であることの証とも考えられる。

ただ、「移動」にはそれをはるかに超えるスピードが要求される。そのためには独自の神経系の形成が絶対条件である。神経内分泌系を排除することなく、そのうえに、情報伝達に特化した大規模なシステム、すなわち電線でなく電話線が構築される。それが動物を植物から生理学的に区別している。

それは指令を実際の運動に変えるための筋骨格系とセットになっている。

神経内分泌がキロの世界とすれば、移動を行うためにはメガのレベルが必要となる。しかし動物が弱肉強食の世界を生き延びるためにはギガ、あるいはテラのスピードが要求されることになる。

7.補食し、かつ捕食されないための装置としての感覚器・神経系

動物は補食し、かつ捕食されないために筋肉と反射神経を極限まで発達させた。ハエや蚊の反射神経は人間の到底及ぶところではない。

さらに動物は、情報を捉えるための感覚器官も集中化し高度化している。触覚という一次信号系に加え、触覚の高級化した嗅覚、味覚、さらに純粋な二次信号である聴覚と視覚を特別に発達させた。それは眼と耳という特殊な感覚器を生み出した。

8.神経システムの三層構造

高度に発達し専門化した感覚器と、俊敏で力強い筋肉を手に入れたいま、求められるのはそれを統合する高次のシステム、すなわち中枢神経系である。

かくして

A.植物神経系、すなわち神経内分泌系と自律神経系に、

B.反射神経と深部知覚、圧受容体などの体性神経系、

C.さらに感覚器をフル活用し、情報を総合し、分析評価する

という3つの階層構造からなる中枢神経系が完成されていくのである。

いずれの場合にも神経系の在りようが革命的に変化することが、動物の進化において決定的な役割を演じている。そして人間の場合は、感覚器と神経の結合のあり方が、感覚情報のシンボル化(言語化)という形で高度化することに決定的な特徴がある。このへんは稿を改めて展開したいと思う。

講談社ブルーバックス「脳研究の最前線」の「知性の起源」(入来篤史)を参考とした。

シリア内戦は泥沼化している。と言うより反政府軍の一方的な負け戦になっている。
ことここに至っては、どのような屈辱的な内容であろうと和解を図るべきだ。
アメリカはそもそも、内戦など始めさせるべきではなかった。
アメリカというより、オバマの失敗だ。
米軍本体は完全にイスラエルの線で動いている。イスラエルにとって、シリアの反政府派は絶対に勝利させてはならない相手だ。それなのにオバマは反政府派を煽った。
煽った以上勝たせなければならないのに、途中から手を退いた。
イスラエルはヒズボラまで投入してシリアの反政府を叩いた。

私は、かつて「これで反政府派の勝利は決まり」と書いたことがある。
それはトルコ国境地帯でシリア政府軍の戦闘機が対空ミサイルでバンバン撃ち落とされた時のことだ。おそらくミサイルはトルコから回されたのだろうと思うが、それは米国の黙認のもとであったと思われる。
そのうち突然、ミサイルのミの字も消えてしまった。それと同時にトルコが俄然おとなしくなってしまった。
これらはすべてイスラエルの差金であろう。
当時トルコの鼻息は荒かった。オリンピック開催もほぼ確実にし、経済成長著しく、中東の問題にも積極的に首を突っ込んでいた。
それが、イスタンブールの公園の拡張をしようとしたら、突然学生の抗議行動が燃え上がり、あれよあれよという間に政府の首が飛びかねないような事態に至った。
トルコ・リラは売り浴びせられ、ギリシャの次はトルコかとささやかれるほどになった。
これらの一連の事態は、一つ一つ分析すればそれなりの事情はあるだろうが、全体としてみれば経済のパフォーマンスと著しく均衡を欠いたものと映る。
いずれにしてもトルコにとって強烈なダメージであったことは言うまでもない。

トルコの話が長くなってしまったが、ようするにシリアの事態はオバマの思惑とはまったく逆の方向に進んでいった。これに対してオバマには打つ手がなくなってしまった。
反政府軍は政府軍機の前にやられっぱなしになり、犠牲はどんどん拡大していった。
だから、オバマはミサイル供与が不可能となった時点で、直ちに強引にでも停戦に持っていくべきだったのだ。

というのが、今の私の感想。
をご参照ください。



赤旗で日本エネルギー経済研究所の保坂さんという理事の方にインタビューしている。
ある意味で、小泉大介記者を差し置いての記事だけに、相当の覚悟で載せたものと思われる。
この記事で一番注目されるのは以下の段落。
(これまでアルカイダが国際テロ作戦を展開してきたのに対し、「イスラム国」はイラクやシリアの非シーア派政権をジハードの対象としてきた。しかし8月初旬に有志連合が空爆を開始して以降、「イスラム国」自らが国際テロを加え二本柱の戦略をとるようになった)
空爆で「イスラム国」を根絶させることは不可能ですが、彼らの勢力範囲が今後も拡大していくことは考えづらく、戦線が膠着する可能性が高いと思われます。
要するに長期戦の覚悟をせよということだ。
その際に問題となるのは、「人、モノ、金」だろう。この三方から兵糧攻めする戦略が明確化されなければならない。モノ=兵器は、ひとつは旧フセイン政権の置き土産であり、もうひとつはシリア内戦においてスンニ派諸国からシリア反政府派に渡った武器であろう。これはいずれは尽きると思われる。
ヒトは基本的にはそれほど主要な問題ではないが、イラク(サマラ・ファルージャあたり)のスンニ派から相当数がリクルートされている可能性があるだろう。
カネは、湾岸諸国からそれほど回ったとは思えない。モスルの油田からの上がりが大きなウエイトを占めていると言われるが、どうも実証性に欠ける。
以上から考えられるのは、「イスラム国」にさしたる実体はないということだ。イラク国内に積もった“恨み”を解消し、政治戦線を整理することがもっとも重要だということだ。
イラク国内のスンニ派がシーア派主導の現イラク政権に対して反感を持つのは当然だし、ある意味で正当でもある。ここで挙国一致政権がどれだけ実績を挙げ、スンニ派国民の支持をかちとるか、最低でも中立化させられるかどうかが勝負の分かれ目だと思う。
イラクのスンニ派の人々は元々決して原理主義ではない。むしろイスラム国やアルカイダに対しては反感を持っていると考えられる。彼らを「イスラム国」の側に追いやったのはアメリカとシーア派だ。
クルド人も両派の対立を利用して抜け駆けを計ったから、反感を持たれても仕方ない。クルド民族の高度な自治の要求はそれとして、「イラクは一つ」の線でまとまるべきだ。
ただしそれだけではシリアの問題は解決しない。それはそれで別の面から作戦を立てるべきだ。
それにしてもブッシュのアメリカがいかにイラクを蹂躙したか、いかに国民同士の反目をもたらしたかが、いまさらながらに実感される。「ファルージャの恨み」はどこかで晴らされなければならないのである。

 5.「利子生み資本論」のイントロ

前節で、第5章の粗々の筋を述べたが、もっとも肝心な部分は第5節にふくまれていて、それまでの4つの節は、第5節のためのイントロみたいになっている。

では金融市場はいかに成立し、いかに機能し、そこにどのように利子生み資本が投入されるか。

という部分が、それに当たるのだろうと思う。

この4つの節(エンゲルス版では第21章から第24章までの4章)について、大谷さんはさらりと流れを述べている。あくまでも本チャンは第5節にあるのだ。

ところがぎっちょん、本人はさらりのつもりがこちらには全然さらりではない。

もう一つ別の参考書を読まないと、とてもついていけないのである。

と言いつつ、とりあえず書き出してみる。かなり的を外しているかもしれないがご容赦を。いづれ修正を加えることを約束します。

 


A 利子生み資本の論理

貨幣市場では、貨幣が商品として売買されている。なぜならここでは貨幣が資本という性質を持つからである。

貨幣は、資本として機能すれば平均利潤をもたらす。つまり利潤をもたらすという使用価値を持つ商品なのである。

利子はその商品の価格として現れる。これは実は、貨幣が生産的資本として機能することによって生み出される平均利潤なのである。

ここまでが第1節、つまり第21章だ。本質論に沿った展開だから分かりにくいが、現代の金融市場、とくに債券市場に当てはめれば分かリやすくなる。

貨幣というのは債券の意味だ。貨幣市場というのは債券市場のことだ。マルクスの時代の主要な金融市場は債券の売買だった。今よりはるかに単純だったのだ。

債券は会社にとってはお金と同じだ。これを資本として工場を建て、労働者を雇い、材料を買い商品を生産する。その儲けの一部は債券の利子となって出資者に戻される。

出資者にしてみれば債券を購入することで利潤を得ることになる。この際、債券の価格は利子を上乗せした額となっている。(購入価格は割引されている)

すなわちそれは,本質的には産業資本が生産過程で取得する剰余価値の一部分にほかならない。しかしそれ(利子生み資本)は生産過程から自立している。

そこでは再生産過程における生産的資本の運動はすっかり消え失せている。

おそらく、産業資本と直接向き合う銀行家にはこれらは自明のことだが、一般投資家は銀行が作り出したさまざまな金融商品を利率やリスクなどを勘案しながら購入するので、彼らの眼にはこれらの本態は消え失せている。

ということなら、分かるだろう。


B 利子(利子率)を決めるのは貨幣市場

第2節、エンゲルス版の第22章がこれに当たる。

これは当たり前の話で、どんな高利の融資でも、他になければ借りるしかないのだ。商品の価値とは無関係だ。

この利子はたしかに利潤の一部分ではあるが、商品価値のうちの特定の部分ではない。利子率を決めるものは,貨幣市場での利子生み資本の需要供給関係でしかない。

この市場では、元本としての資本の増殖分として利子が生み出される。それは利子率という規定を受けとる。

債券市場を想定しながら読んでみるとよく分かる記述だ。

古典派経済学者が考えたような利子の「自然率」のようなものは存在しない。あくまで貨幣市場での競争関係が基礎となる。

「利子率の持つ量的諸法則」はややこしいので省略。


C 利潤から利子が引かれ、残りが企業利得となる

第三節、エンゲルス版の第23章となる。

利潤のうちから、貨幣資本家が利子をとり、残りの部分を生産的資本家(産業資本家および商業資本家)が自分のものにすることになる。

これも当たり前の話で、粗利益から利子その他を引いたものが純利益となるということだ。ただ利息は金融市場の方で決められるので、必然性はない。

しかし利子のほうは,資本を所有していることの果実となり,残りの部分は,資本を機能させたことの果実となる。後者は企業利得と呼ばれるようになる。

こうして,もともとは利潤をただ量的に分割した二つの部分であるのに,まったく別の根拠から生まれる,質的に異なったものとして現れるようになる。

まぁ、言われればたしかにそのとおりだが、だから何だというのが分からない。

(ここから先は本筋と外れるが、資本主義的生産の発展とともに,1.指揮・監督労働が,機能資本家が果たす機能として資本の所有から完全に分離すること、2.それがたんなる機能者としての賃労働者に委ねられること、3.それによって,資本家は生産過程からは不必要な人格として消えていくこと、が述べられています)


D 利子生み資本は「ひとりでに増えていく貨幣」という形態をとる

草稿の第4節。エンゲルス版の第24章。

ここでの大谷さんの表現はえらく晦渋である。一言で言えば1,2,3節を総括して、貨幣資本が利子を「生む」かの如き外観をとるに至る機序が、るる語られる。

利子生み資本および利子の形態では,資本という性質をもった貨幣という果樹が、自ずから剰余価値という果実を実らせるように見える。

ここでは,いままでの叙述のなかに含まれていた,「利潤にたいする利子の自立化 」の展開を総括している。

ここでは,ひとりでに増えていく貨幣,という資本の形態だけが,完成した姿で現われている。これは資本の物神的な姿である。

そこから資本物神の表象,観念とが生じる。マルクスはその過程を解明していく。

学生が講義を聞くだけで理解できるとは到底思えないセンテンスです。4つの文に解読・分割するだけで30分かかりました。

まぁ、言われればたしかにそのとおりかも知れないが、だから何だというのが分からない。

私の感じでは、マルクスは金融市場というのを、その完成した姿態で観察していなかったのではないかと思う。だから金融市場の商品流通市場からの自立化という段階を置かないで、直で利子生み資本と商品市場の関係に持って行ってしまう。そのために話が難しくなるのではないかと思う。

今の我々にとっては、ある意味当たり前の事象だ。

さてここからが、問題の第5節だ。一応項を改めよう。(第1節のところは一昨日上げたところで、重複しますが、きりを良くするために再掲します)


いやいや、大変な思いをしました。
ちょっと摘んでおこうと思ったら、腕ごとズブズブと引き込まれました。
本当は文章化しようと思ったのだけど、あとからあとから事実が出てきて、とりあえずは文章にまとめるのは不可能です。
とりあえず、評論を一つ見つけて、訳して載せて、お茶を濁すことにしました。

感想ですが、一言で言うと、麻薬戦争の時代は終わったのだなということです。
登場人物はずいぶん小ぶりです。
かつてのセタスやベルトラン・レイバ、シウダ・ファレスのカルテルは派手に殺し合いをやりましたが、基本的にはその世界の戦争です。
それがもう麻薬では稼げなくなってきたので、ヤクザぐらしに戻ったわけです。恐喝や誘拐で生活するというのは、堅気の世界に害をなすわけですから、英雄ではなく犯罪者です。

麻薬カルテルがこれほどまでに一世を風靡したのは、二つ理由があります。ひとつは麻薬・ビジネスがボロ儲けできたことです。
もう一つは社会の貧富の差がひどくなって、食っていけない若者が沢山いたからです。そちらの方は全然解決していません。
だから、暴力はもう少し違った表れ方をすることになるでしょう。もっと陰惨で、貧乏人同士が殺し合うような暴力です。
それにしても、この市長夫人、迫力ありますね。映画にしたいくらいの人物です。


Abarca arrest highlights reform risks in Mexico

The Oxford Analytica Daily Brief ® - Wednesday, November 5 2014

昨日、アバルカ市長夫妻が逮捕された。9月26日の学生失踪事件に関連してものである。経済成長予想は11月初めで2.7%を維持しているが、メキシコ銀行は「最近の社会的イベント」が経済にもネガティブな影響をあたえうると認めた。

政府はこの事件により、国内的にも国際的にも信用を失いかねない。暴力問題を軽視したことで、メキシコへの国際的関心は薄れる可能性がある。

Analysis

今回の事件は慢性的には貧困と不平等、短期的には社会・政治と暴力犯罪の問題を浮かび上がらせた。ゲレロ州はオアハカ州に次ぐ貧困、17%に達する高い文盲率、もっとも戦闘的な教員組合を持っている。

Epidemic of violence 

もともとゲレロ州で暴力は当たり前の話だが、この5年間、さらにそれが助長されている。

公務員を狙った政治的暗殺が後を絶たない。去年10月には、チルパンシンゴの連邦警察が襲われ、二人の警官が殺された。福祉や医療従事者も標的とされるようになった。

昔から麻薬業者と州警察とは抗争を繰り返してきたが、最近になって暴力犯罪のチェックは見逃されるようになった。それには二つの要因がある。

麻薬カルテルの戦術が小規模になったこと。これは取り締まりが厳しくなったためだ。そしてもう一つがミチョアカンへの集中取り締まり作戦により、構成員がゲレロに逃げ込んだためだ。

公式統計によれば、ゲレロ州は人口あたりの殺人事件がもっとも多い。63件 per 100,000人だ。 誘拐事件では6位、強盗は10位、つまり取締りによって食えなくなったカルテルが、麻薬取引から誘拐と強盗にシフトしているということだ。

ゲレロ州では教師、人権活動家、環境活動家の暗殺が多いのが特徴だ。これは70年代にこの州で起きたゲリラ闘争を弾圧したことが伝統になっている。

暗殺者が罰せられないのもこの州の特徴だ。2011年にはアヨツィナパの学生二人が殺された。これを機に学生や教師は行動を急進化した。

この2年で少なくとも3人の環境活動家が殺されている。去年は3人の社会運動家とすくなくとも3人の人権活動家が失踪している。これらのケースのいずれもが捜査もされず、解決もされていない。

資料によれば、全国で1,243の秘密の墓地が発見され、多数の遺体が回収されている。

Criminal organisations

ゲレロでは少なくとも4つの地元犯罪組織が地方警察と争っている。すなわちGU、ロス・ロホス、ラ・バレドーラ、アカプルコ独立カルテルである。

これらの組織はあるいは競争の結果として生まれ、あるいは大手カルテルの崩壊により生まれた。時にはミチョアカンのような他州の組織によってもたらされた。

彼らは警察部内に浸透し、あるいは選挙を通じて自治体のコントロールを獲得するようになった。

アバルカがGUの支援を得て市長に選ばれたのは、まさにそのような仕掛けによるものだった。

Political-criminal protection

今の主な懸念は、そうした政治と絡みついた暴力がどこまで成長するかということだ。

ミチョアカン州で示されたのは警察への侵入だけでなく、州政府への侵食を含めたものであった。

ある大学の調査では、300以上の自治体当局への脅迫、暗殺が行われている。メキシコ市長会は来年の中間選挙で暴力的な自治体ポストの簒奪が行われるだろうと警告している。

2012年5月、前回の市長選挙でアバルカと争ったPRDの候補Oscar Diaz Belloは、PRDの有力政治家オブラドールが犯罪組織と関わりを持っていると警告している。

2013年10月 PRDのなかの「民主左翼」は連邦政府に証言した。彼らはアバルカの手で活動家が複数暗殺されていると主張した。

2014年3月、ゲレロ州の裁判弁護オフィスは、連邦検察局に、市長の政治的殺害への関与と責任に関する詳細な事前調査を手渡した。

Resisting responsibility

現在の危機にいたるまでの間、国家と連邦当局は、犯罪についての司法権を認め責任をとることに抵抗してきた。

10月7日までに、連邦政府は責任をもって解決に当たり始めた。しかし州知事を解任し、無所属のRogelio Ortegaを知事代行に任命するまでにはさらに10日を要した。

2015年の選挙についての計算が、PRD指導部を躊躇させている。それが連邦政府の煮え切らない応答を説明している。しかし双方とも間違っているだろう。

そのような対応は高い代償をもたらすだろう。

Pena Nieto政府は危機が国家機関とメキシコの社会に対する大きな試練であることを公然と認めた。

両親との大統領の5時間の会談、その結果としての10項目合意危機を解決するのには十分である。しかし国家の信頼を取り戻すために十分とはいえない。

イグアラ 学生拉致・虐殺事件 タイムテーブル

9月26日に向かう流れ

9月26日以前 メキシコ・シティーでトラテロルコの学生虐殺に対する抗議集会が予定される。(トラテロルコの虐殺については稿を改めて説明。とりあえずメキシコ年表を参照のこと)

「メキシコ年表」より
1968年
10.02 トラテロルコ・アパート団地の「三文化広場」で,学生・住民1万人が参加する大規模な抗議集会.主催者は,混乱を避けるため,当初予定 していたカスコ・サント・トマス高校へのデモを中止.日没と同時に,300台の戦車,ジープ,装甲車,5千の軍と数百の警察部隊が集会参加者を包囲.

6:10pm 緑の照明弾を打ち上げると同時に,群集に紛れ込んだ挑発者が暴動を開始.上空を舞うヘリが銃撃を開始.
オリンピア大隊が,演説席となっていたチワワ・アパートのバルコニーに突入し,CNHの代表を拘束.一列に並べ銃殺したという.
さらにバルコニーの上から群衆に向け一斉射撃,群集に紛れ込んだ私服警察官も無差別発砲を開始.
この後,戦車がチワワ・ビルディングを砲撃.ボイラーや暖房用パイプが次々に爆発,建物の三階までが火の海となる.
軍部隊が両側から銃剣を突きつけ挟撃.機銃掃射を繰り返す.集中的な銃撃は約1時間続き,その後も早朝まで散発的な銃撃が繰り返される.
警察は現場を封鎖し,救急車の立ち入りを阻止.赤十字病院を閉鎖し,たどり着いた負傷者をそのまま逮捕.救急車の乗務員一人が殺され,負傷者を救出しようとした看護婦が負傷.
広場に面する教会には数百の市民が助けをもとめて押し寄せるが,大司教がデモ参加者の受け容れを禁止したため,門は閉じられたままとなった.
この事件で,推定4百名の死者,数千名の負傷者を出す.警察はこのうち32名についてのみ死亡を認める.検死によれば,大部分の死者は近距離で撃たれるか,銃剣で突かれて死亡.無差別発砲により,軍・警察内にも12人の負傷者と二人の死者.


9月26日以前 アヨツィナバ師範学校の学生がメキシコ・シティーでの抗議デモへの参加を計画。

アヨツィナパ(Ayotzinapa)師範学校: 1926年の創立。正式にはRaul Isidro Burgos の名が冠せられている。所在地はチルパンシンゴの東20キロのティシュトラ(Tixtla)。人口3万ほどの小さな町だが、独立戦争の英雄ビセンテ・ゲレーロを生んだ町で、ゲレーロ州都だったこともある。
師範学校は男子校で学生数520人。農村部の小学校の教師を養成する“限定付き免許”の取得を目的とする。学生のほとんどは貧しい農家の出身だ。
学生(そして教師も)は伝統的にきわめて反政府的であり、政府の資金提供が地方に不利であり、雇用システムが都会部に偏重していると考えていた。
ゲレロ州では1995年以来武装ゲリラ「人民革命軍」(EPR)が活動していた。その戦士の多くが師範学校の学生あるいは卒業生だった。学生はゲリラと直接の関係はないが、社会主義のイデオロギーを共にしている。

9月26日以前 学生の動きを知ったイグアラ市のホセ・ルイス・アバルカ 市長は、警察に対し市長は学生たちを市内に入れるなと命じた。

師範学校の学生は、市長が活動家アルトゥーロ・エルナンデス殺害に関与したと非難していた。昨年の6月には市庁舎を占拠する抗議活動をおこなっている。
市長は妻が代表を務める児童保護団体主催の年次総会(当日に予定)が邪魔されないよう、市警に「対処」を指示していた。


mayor

 アバルカ市長夫婦 嫁さんがカマキリとわかる

学生たちはなぜイグアラに行ったのか

9月26日 (おそらくは午前中)学生たちがアヨツィナバのキャンパスを出発する。今回の行動の参加者は100名以上。いずれも1年生だった。一学年の定員が130名ほどだから、ほぼ根こそぎ参加であり、一種の武者修業であろう。

9月26日 当初は、州都チルパンシンゴで抗議集会を開くつもりだったが、州当局が立ち入りを拒んだ。このため、イグアラ市で市長への抗議行動を行ったあと、メキシコ・シティーに乗り込む予定を立てた。(バスをイグアラで「調達」することまで計画に入っていたかどうかは不明)

igualamap

ゲレロ州はメキシコ・シティーの南方、太平洋に連なる州である。州人口は300万人余り。山ばかりの地勢で、貧しい州である。太平洋岸には有名な観光地ア カプルコがある。州都はチルパンシンゴ(正式名称はChilpancingo de los Bravo)。北部のイグアラ市(正式名称はIguala de la Independencia)はメキシコ・シティーから150キロ、アヨツィナパはイグアラからさらに南に130キロ。
ゲレーロ(戦士)という物騒な名前であるが、これはメキシコ独立戦争の英雄の名にちなんで名付けられたものである。
一時最強のカルテルと呼ばれたベルトラン・レイバの本拠地であり、2013年は全国最多となる2,087人が殺害されている。

9月26日 (おそらくは夕方)学生がイグアラの街に入る。

ここから先は推測だが、おそらく学生は乗合バスを利用してバス・ターミナルに入ったのだろうと思う。市長に対する抗議行動を行おうとして、そこから市内に向かおうとしたが、市警に阻止されたということではないか。

9月26日 夕方から市長夫人(Maria de los Angeles Pineda Villa)の主催する慈善団体の集会とパーティーが行われ、無事終了する。市長の妻は次の選挙で夫の後任になるため、出馬の準備を進めていた。学生らは集会の妨害を企図していたが不発に終わる。


第一回目の銃乱射

9月26日 午後8時半、学生らがバス3台を「調達」する。このバスを市警の警官が待ちぶせ。

これも推測だが、バス3台を確保しようとすればバスターミナルに忍びこむしかない。通報を受けた市警が出動したということではないか。あるいは最初から張り込んでいた可能性もある。
学生指導者は、彼らがヒッチハイクしようとしていたと説明している。しかし夜中の9時半に血の気の多い若者100人がヒッチハイクしょうというのは、どう考えても無理がある。
乗り物の「調達」はゲレーロの学生にとって“ルーチン”の戦術である。彼らはしばしばバスやトラックを乗っ取るなどの「好戦的な」戦術をとる。この戦術は当局も大目に見ていた。

9月26日 9時半。バスが出発。警察車両が追跡。バスはスピードを上げ逃げようとした。警官の発砲により最後尾のバスに乗った学生2人が死亡。数十人がこの時捕らえられ、警察車両に載せられた。のこり学生はバスを捨て市街に逃げこむ。


第2回めの銃乱射

9月27日 12時半ころ、目出 し帽をかぶった複数の人物が出現。バスをめがけて乱射する。このとき現場では、警官隊とニュース記者が集まっていた。

当初、警察は「目出し帽の人物は警察と無関係と発表しているが、のちに私服の警官であることが判明。学生の大量逮捕が1回めの時か2回めかは不明。

9月27日深夜 事件の巻き添えとなり、サッカーチームのバスにも射撃。運転手と選手(15歳)の2人人が死亡した。他にタクシー数台も銃撃され、女性1人が死亡する。負傷者は25人にのぼる。

このチームは3部リーグ所属の「チルパンシンゴ・オルネツ」で、翌日の試合を控え、深夜にイグアラに到着。駐車場所を探していて事件に巻き込まれた。


学生は隣町の警察からカルテルの手に渡され殺された

9月27日 深夜。学生43人は警察車両に載せられ、いったん隣町のコクラ警察署に勾留された。これはイグアラ市警の公安部幹部のフランシスコ・サルガド・バジャダレスの指示によるとされる。

9月27日 コクラ警察署の副署長Cesar Nava Gonzalezは犯罪組織「ゲレーロス・ウニドス」に「後始末」を依頼する。この時点では学生たちはまだ生きていた。

戦士同盟(Guerreros Unidos): かつて最強を謳われた「ベルトラン・レイバ」カルテルの後継組織。本拠は隣のモレロス州にあり、ゲレロ州だからゲレロスというわけではないらしい。伝説のボス、ベルトラン・レイバについては「メキシコ麻薬戦争 列伝」を参照のこと。
ベルトラン・レイバが特殊部隊により射殺されてから分裂を繰り返したが、現在は戦士同盟と少数派の「ロス・ロホス」(赤)に整理されているようだ。シカゴのマリフアナ・ヘロイン市場を牛耳るほどの影響力をもつという話もあるが、恐喝と誘拐を主な資金源とするヤクザ組織にすぎないという話もある。
以下GUと略す。

9月27日 深夜。学生たちがカルテルの幹部「エル・カボ・ヒル」と称する人物に引き渡される。エル・ヒルはカルテルのボスであるカサルビアス(Sidronio Casarrubias Salgado 通称チーノ)に電話し判断をもとめた。

エル・ヒルはカサルビアスに「彼が捕まえている連中は、カルテルの統制に対する脅威を起こす」と訴えた。カサルビアスは学生がロス・ロホス(敵対ギャング)の浸透メンバーであると考え、殺害を許可した。

9月27日 深夜。学生らはエル・ヒル所有のトラックに載せられ連れ出される。彼らは数人が頭に銃弾を打ち込まれ、他のものは殴り殺されたり焼き殺された。

Ayotzipana students missing

9月27日 朝、現場付近で学生1人の遺体が発見される。目はえぐりだされ、顔の皮膚は剥がされ、カンナ屑のように丸まって、頭蓋骨がむき出しになっていた。これは敵対ギャングに対するカルテルの典型的な手口である。


州検察による捜査開始

9月27日 学生43人が失踪したことが明らかとなる。州検察当局は、当初より深刻な危機意識を持ち、ただちに独自捜査を開始する。(むしろ連邦検察が動かなかったことが不思議)

当初は57人の学生が行方不明であると報じられた。しかし、そのうちの14人は家族のもとに戻り、あるいは大学に撤退したことがわかった。

9月27日 州当局の聞き取り調査で市警察が護送車で連れ去ったことが明らかになる。また交通監視カメラには、市警の車両後部に市民が乗せられている映像が残っていた。

9月28日 州当局は、162人の警官から事情を聴取する。16人から硝煙反応が検出され、22人の銃から最近使用された形跡が認められた。この結果警官22人を拘束。

一説では280人。なお、その後の報道では警察官40人を逮捕、他にカルテル組員8名が逮捕されている。22人はアカプルコの刑務所に収監され、殺人容疑がかたまったあとは重警備の連邦刑務所に移送されている。

9月29日 州検察のブランコ検事正(Inaky Blanco Cabrera)、「過度で致命的な武力行使があったことは否定できない」と述べ、さらに「強制失踪」と呼ばれている治安部隊による拉致が起きたのかどうか、捜査中だと語った。


アバルカ市長夫妻、姿をくらます

9月29日 アバルカ市長、報道陣に対し「辞任の意志はない」と答える。

事件に対して責任はない。私は事前の知識を持たなかった、事件と同時刻にはパーティーに出席していた。私はずっと警察と連絡をとっていた。そして冒険に陥るなと指示を出した。捜査の要請があれば協力するが辞任の意志はない。

9月29日 アバルカ、PRDの前党首Jesus Zambrano Grijalvaと会見。サンブラーノは調査をすすめるために正式に辞任するよう勧める。

9月29日 妻マリア・デ・ロス・アンヘレス・ピニェーダ、アカプルコでアギレ州知事(Angel Aguirre Rivero)と個人的に面会しているところを目撃される。目撃者は、Pinedaが「悩んでい」て「急いだ」と証言。その後彼女は公の場所から姿を消した。

アバルカ夫妻はかねてからGUの重鎮として“皇帝夫婦”と呼ばれ、恐れられていた。夫妻は市内のショッピングセンターや宝石店、牧場など65の優良資産を所有していた。
妻マリア・デ・ロス・アンヘレスは次期市長選にアバルカ後継として立候補の予定であった。
検察庁によれば、アバルカ市長は麻薬組織に20万ドルを定期的に支払い、その一部が地元警察に賄賂として流れていたとされる。
逆の説もあり、これによると、組織は夫妻に毎月最大で23万ドルを払い、警察には別に月5万ドルを渡していたといわれる。

9月30日 アバルカ、イグアラ市議会に30日の休暇を求める。要請に際し「犯人を探し罰するためにあらゆる協力を惜しまない」と述べる。

9月30日 与党PRD幹部は、アバルカに対し“調査を容易にするため”に辞任するよう求める。

9月30日 連邦捜査官がアバルカの喚問状を持って市議会に入るが、アバルカはすでに逃亡。連邦捜査官は家宅捜査に入る。警察署長兼イグアラ市公安部長のフェリペ・フローレス(Felipe Flores Velasquez)も姿をくらました。

アバルカは妻と子供たちを連れてイグアラを去った。国外逃亡の噂も出たが、当局は、依然メキシコ国内に潜伏していると見ていた。

10月01日 アギーレ州知事、アバルカに当局に出頭するよう命令。しかし彼はどこにも見つからなかった。


大量の遺体の発見で一躍大問題に

10月02日 学生の失踪にカルテルが関係した可能性が浮上する。事情聴取を受けた二人のカルテル組員が17人の学生殺害に加わったと告白。

10月05日 イグアラ郊外プエブロ・ビエホで、地中に埋められた多数の遺体が見つかる。当初は28体と言われたが後に34体となった。遺体はガソリンをかけて焼かれた後に埋められたと見られ、焼け焦げたり、一部が切断されたりしていた。

殺害を告白した2人の組員は、学生らをバスから降ろし、プエブロ・ビエホの丘の上にある組織の秘密墓地で殺害したと供述。捜査官たちを森林の中の「墓」に案内したと述べる。現在考えると、これは組織の陽動作戦だった可能性がある。

10月05日 ゲレロ州のアンヘル・アギレ知事とブランコ検事正が共同で記者会見。1.遺体の身元は捜査中。2.GUが殺害と行方不明の両方に関与している。3.事件に関与したとみられる警察関係者や犯罪組織のメンバーら少なくとも30人を拘束、と発表。

10月05日 ブランコ州検事正は、警官隊がGUのボス、エル・チャッキーに学生らの拉致と殺害を指示したと説明。

10.05 学生らがアカプルコ高速道路の料金所を占拠。通行車両に道路料金所を無料で通過させている。


連邦政府の直接捜査

10.06 ペニャ・ニエト大統領、国家の危機とする演説。「メキシコ社会と犠牲者の家族は、真実の究明と正義の実行を求める権利がある」と述べる。

10.06 このあと連邦政府が直接捜査に乗り出す。軍がイグアラに進駐。憲兵隊400人が市警察を武装解除し治安維持に当たる。

10.06 国家公安委員会、約30人を拘束したと発表。市長夫妻と市警察署長フェリペ・フローレスは事情聴取に応じず行方不明とされる。

10.06 ゲレーロ州内の二つの左翼ゲリラグループ、メキシコ国家への「攻勢」を呼びかける。イグアラ市内には警察官22名の釈放を求めるGUの旗が掲げられる。

10.08 ゲレロ州の州都チルパンシンゴやメキシコ市などで、行方不明に対する抗議デモ。

10.10 国連人権高等弁務官事務所「ゲレロの事件はまったく容認出来ない。無法がまかり通るのを許すことになる。メキシコ政府の対応が問われている」と声明。事件は国際的注目を集めるようになる。

10.12 深夜、チルパンシンゴ市の国道95号線上で、ドイツ人、フランス人及びメキシコ人10人 の学生グループが市警に襲撃され、ドイツ人留学生1人が負傷する。隊員20人が逮捕され、取調べを受ける。師範学校生と誤認されたらしい。

10.13 チルパンシンゴ市内で昨夜の襲撃事件に対する抗議集会。教師や学生等の数百人がアギーレ知事の辞任を要求し州政府庁舎を襲撃。一時数百人の職員を人質に取り立てこもる。その後窓ガラスを割り、建物に放火する。


連邦警察がGUアジトを襲撃

10.14 4日に発見された遺体は別の事件の犠牲者と判明。代わりに4つの別な墓が発見された。メキシコにはこの手の“墓”がゴロゴロある。

10.14 連邦警察の部隊がモレロス州クエルナバカの近郊ヒウテペックのGUアジトを襲撃、銃撃戦となる。ボスのベンハミン・モンドラゴン・ペレダ(通称ベン・ハモン)は自殺。甥のサムエル、アントニオらカルテル幹部8人が逮捕される。

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             ベンハミン・モンドラゴン

9月27日の記事では、このカルテルのボスがカサルビアスだと書いているが、モンドラゴンは組織全体のボスで、カサルビアスはイグアラ地区を担当する幹部という関係のようだ。10月4日の記載ではエル・チャッキーの名が出てくる。その正体は不明だが、市警の署長の指示を受けて動く程度の小ボスと思われる。

10.14 メキシコ連邦検察庁のヘスース・ムリジョ検事総長、学生らの身柄を拘束して麻薬密売組織に引き渡した疑いで、コクラ市警察の14人を新たに逮捕したと発表。

ムリージョは「イグアラ市警は警察とも呼べないほどだ。彼らは制服に泥を塗った。麻薬カルテルで働く殺人者たちだ」と強調する


10.14 アバルカ市長、以前の活動家への拷問殺人への直接の関与で告訴される。当局はアバルカ夫妻と警察署長の3人を全国に指名手配。

この時、マリア夫人が「ファミリー」の一員であったことが明らかにされた。彼女の両親、兄弟はベルトラン・レイバの幹部であり、組織犯罪による逮捕歴がある。兄弟の2人は殺されている。

10.16 全国の大学で2日間の抗議・連帯ストを実施。


カサルビアス逮捕で思わぬ展開

10.17 連邦検察庁、死体隠匿を幇助したシドロニオ・カサルビアスらGU幹部2人を拘束。これまでの逮捕者は計56人となる。

Sidronio Casarrubias Salgado

10.17 彼は取り調べに対して重要証言。(Borderland からの引用

彼は取り調べに対して、「アギレ知事は選挙に際してGUから財政的支援を受けていた」と供述。“チーノ”が組織の司令塔と称するマリア・デ・ロス・アンヘレスは、ベルトラン・レイバ一家のメンバーとして知事の選挙に財政支援を行っている。また彼女は長期にわたりアギレと愛人関係にあった。

10.19 連邦当局、ゲレロ州の13の市で警察の公安業務を取り上げる。

10.20 覆面をした抗議者がチルパンシンゴの州社会援助プログラムの庁舎に放火。

10.21 200人の教師がチルパンシンゴのPRD地区委員会事務所に放火。

大きな声では言われていないが、PRDはゲレロ州の与党である。アバルカ市長もPRDである。PRDはメキシコにおける最大の革新政党で、旧メキシコ共産党もふくまれている。ゲレロのラジカルな地方活動家はPRDに対し以前から強い敵愾心を抱いている。

10.22 連邦政府、アバルカ市長が、市の公式行事への妨害を避けるために学生の逮捕を命じたとし、事件の主犯と断定。市警署長フェリペ・フロレスも共同正犯とされる。

すでにアバルカ夫妻は14日に指名手配されている。しかしこの時の容疑は、活動家アルトゥーロ・エルナンデス殺害に関与した別件である。

10.22 メキシコシティーで5万人の抗議デモ。イグアラでも教師や学生数千人による抗議デモ。一部が市庁舎に放火し市長関連のショッピングモールで略奪。

10.24 アンヘル・アギーレ知事が辞職を表明。カサルビアス証言との関連は不明。ゲレーロ州の観光地アカプルコの観光客は60%減少。日本の外務省もゲレロ州を危険地域と指定している。

アギレと市長

     アギレ知事夫妻とアバルカ夫妻

10.28 州検察、イグアラのとなり町コクラで多数の遺体が埋まっていた場所を新たに発見したと発表。


アバルカ夫婦の逮捕

11.04 午前4時。連邦警察の特殊部隊がメキシコ・シティーに潜伏中だったホセ・ルイス・アバルカ夫妻を逮捕する。妻はさすがファミリーの一員。連行しようとする隊員に噛み付いたという。

2人がいたのは労働者地区イスタパラパ(Iztapalapa)区テノリオスの小さな家だった(なんと動画がある!メキシコ学生失踪事件、前市長拘束の瞬間 Mexico's 'imperial couple' meets inglorious end FASTNEWSFAST 10.2014 消えないうちにお早めにどうぞ

11.05 学生たちの両親、親戚、友人らの一行が首都の憲法広場で抗議集会。2万人が連帯。


とりあえずの総括

11.07 検察庁長官が捜査の経過を発表。

アバルカ市長は警察に学生らのバスの走行を妨害するよう命じた。警察は学生らを2度に渡って攻撃。最初の攻撃で3人を殺害し、2度目の攻撃で学生らを強制的に警察署に連行した。
その後、警察は学生をカルテルに引き渡した。カルテルの組員は学生らを複数のトラックに載せ、ゴミ捨て場に連れて行った。殺害された学生らの遺体は、ごみ捨て場でディーゼル燃料をかけられ、タイヤやがれきとともに少なくとも14時間に渡って燃やされた。
 翌日、遺体はさらにバラバラにされ、黒いごみ袋に入れられ、サン・ファン川に投棄された。
 ダイバーたちが川を捜索し、複数のごみ袋と遺体を発見。1袋だけ完全な状態で発見され、中に人間の遺体が入っていたという。

 

Guerrero Violence Project

という、そのものズバリのサイトが有り、情報がてんこ盛りだ。さすがに読む気はしない。興味のある方はどうぞ。



 5.「利子生み資本論」のイントロ

前節で、第5章の粗々の筋を述べたが、もっとも肝心な部分は第5節にふくまれていて、それまでの4つの節は、第5節のためのイントロみたいになっている。

では金融市場はいかに成立し、いかに機能し、そこにどのように利子生み資本が投入されるか。

という部分が、それに当たるのだろうと思う。

この4つの節(エンゲルス版では第21章から第24章までの4章)について、大谷さんはさらりと流れを述べている。あくまでも本チャンは第5節にあるのだ。

ところがぎっちょん、本人はさらりのつもりが、こちらには全然さらりではない。

もう一つ別の参考書を読まないと、とてもついていけないのである。

と言いつつ、とりあえず書き出してみる。かなり的を外しているかもしれないがご容赦を。いづれ修正を加えることを約束します。

 

A 利子生み資本の理論的展開

貨幣市場では、貨幣が商品として売買されている。なぜならここでは貨幣が資本という性質を持つからである。

貨幣は、資本として機能すれば平均利潤をもたらす。つまり利潤をもたらすという使用価値を持つ商品なのである。

利子はその商品の価格として現れる。これは実は、貨幣が生産的資本として機能することによって生み出される平均利潤なのである。

ここまでが第1節、つまり第21章だ。本質論に沿った展開だから分かりにくいが、現代の金融市場、とくに債券市場に当てはまれば分かリやすくなる。

貨幣というのは債券の意味だ。貨幣市場というのは債券市場のことだ。マルクスの時代の主要な金融市場は債券の売買だった。今よりはるかに単純だったのだ。

債券は会社にとってはお金と同じだ。これを資本として工場を建て、労働者を雇い、材料を買い商品を生産する。その儲けの一部は債券の利子となって出資者に戻される。

出資者にしてみれば債券を購入することで利潤を得ることになる。この際、債券の価格は利子を上乗せした額となっている。(購入価格は割引されている)

すなわちそれは,本質的には産業資本が生産過程で取得する剰余価値の一部分にほかならない。しかしそれ(利子生み資本)は生産過程から自立している。

そこでは再生産過程における生産的資本の運動はすっかり消え失せている。

おそらく、産業資本と直接向き合う銀行家にはこれらは自明のことだが、一般投資家は銀行が作り出したさまざまな金融商品を利率やリスクなどを勘案しながら購入するので、彼らの眼にはこれらの本態は消え失せている。

ということなら、分かるだろう。


今日はあまり調子が上がらないので、ここでやめておく。明日は外で飲むので、またサボるかもしれない。

ケルン室内管弦楽団というのが良い。
バッハの二丁のバイオリン協奏曲とかバイオリンとオーボエの二重協奏曲とかを秋の夜長に聞こうと思ったが、まっさきに出てくるのがアイザック・スターン、続いてパールマンというからやや腰が引けた。おまけにオケの指揮者が片やズビン・メータ、もう一方がバレンボイムと来るから、チャイコフスキーかブルッフという感じ。
聞いてみたら案の定だった。
もう少し軽いのはないかと思って探してみたが、とにかくピリオドの花盛り。音のみすぼらしさが売り物みたいだ。
ブツブツ言いながら聞いていたら、こんなのに辿り着いた。
Bach Concertos For Oboe BWV1056 Cologne Chamber Orchestra
むかしフランスにコンセール・コロンヌという管弦楽団があった。たしかピエール・デルヴォーという人が指揮者で、ソノシート全盛の頃にはちょっとした馴染みだった。NHK交響楽団の指揮もして、テレビで見たおぼえがある。
その流れの楽団かと思ったら、なんとケルンの楽団だった。
そういえば、オーデコロンというのは「ケルンの水」という意味だったかな。
しかしなんでわざわざ紛らわしい楽団名にしたのだろう。
まぁそれはともかくとして、この演奏が水際立って良い。折り目がしゃっきり立って、スッキリ爽やか、しかも最近のピリオドより艶がある。Helmut Muller-Bruhl という指揮者が棒を振っている。
ながら聞きするにはうってつけの演奏だ。
初めて知ったのだが、オーボエ協奏曲というのはすべてチェンバロ協奏曲のオーボエ版なのだ。しかしオリジナルみたいで、不自然なところが少しもない。演奏もホリガー盤みたいな変な癖がなくて聴きやすい。
ヴィヴァルディの四季というと、いまではイ・ムジチの演奏が旧約聖書みたいになっているが、私にとっては四季といえばミュンヒンガー指揮シュツットガルト室内管弦楽団だ。
ロンドン・レーベルの耳のマークのちょっと厚めのディスクが指先の感触として残っている。あのレコードを初めて聞いた時の感じが蘇ってくる。
多分、ヤバい音源だから消えるかもしれない。お早めにダウンロードして、mp3directcutで小分けにして置くようおすすめする。コメント欄のかなり下の方に演奏時間が書かれている。


バッハのパルティータ 3つの演奏を続けて聞いた。
というのも、最初に聞いたゲザ・アンダの演奏が、「あれっ?」という感じだったからだ。
ゲザ・アンダの演奏は1972年のザルツブルグでのリサイタルの録音。
何か両手の10本の指で音どもを鷲掴みにして、そのあいだに音を閉じ込めるような弾き方に聞こえたからだ。それはすごい緊張感だ。
そこで、「そんな曲なんだっけ?」と思って、ソコロフの演奏を聞いてみた。こちらは2010年、ロッテルダムでのライブ録音。
まるっきり違うのだ。ソコロフは指を揃えてそこから音を押し出すような音の出し方をする。ウルトラマンのスペシウム光線みたいなシュワッチという音だ。これも相当迫力がある。
そこで、「ここは一応ご本尊にも伺ってみなくては」ということで、グールド大明神の演奏も聴く。
こちらは鍵盤の上に水柱が立つような、音の一つ一つが水の粒のようなクリアーな音作りだ。
「ウムウム」と唸りつつ、もう一度3つを連続で聴く。最初の印象は間違いないようだ。
しかもどれもが、それなりの説得力を持つ。
例によって申し訳ないが、イングリット・バーグマンとエリザベス・テーラーとオードリー・ヘップバーンの違いだろう。ロッサナ・ポデスタも加えておこうか。

2.草稿第5章は利子の源泉を説明したもの

大谷さんは、この草稿第5章が「銀行と信用の篇」ではないことを、プラン問題からも説明している。

ここは、講義の後相当膨らませたところだと思う。度外れに長くなっている。それはそれで面白いところなのだが、ここにハマりこんでしまうと全体が見えなくなる。

うんとかいつまんで言うと、資本論の第一部で生産過程を論じた。第二部では流通過程を論じた。第三部では、生産過程と流通過程のからみ合いの中から、利子と地代が発生することを証明しようとした。

剰余価値は利潤,利子,および,地代という形態で,労賃とともに,独立した収入として現われることが明らかにされます。

こうして,社会の表面に見えている経済活動の現象が,その深部にある本質,諸法則からすべて展開されることが明らかにされます。

というのが第三部のプランだ。

だから、草稿第5章は利子の源泉、利子生み資本について説明したものでなければならない、というのだ。

逆に言えば、ここでエンゲルスはブレちゃったのだ、ということになる。

エンゲルスの気持ちは分からないではない。彼が第三部の編集に携わっていた頃、世の中では金融資本が急成長していた。この金融資本についてどう評価するかは左翼陣営にも痛切にもとめられていたに相違ない。

その時にこの草稿を見つければ、「さすがはマルクス、ちゃんと信用論も書いていたんだ」と喜んで、そういう方向にまとめてしまったのだろう。

3.草稿第5章の構成

と、ここまでが序論。ここからいよいよ草稿第5章の中身に入っていく。

最初にだいじな指摘がある。

どの章でも分析の対象がつねに資本でした。この第5章も分析の対象は資本ですが,ここではそれが利子生み資本という形態の資本です。

だから「資本論」なのだ。

逆コースで理論をたどると、最終目標は利子が剰余価値の一部であることの証明だ。そのためには利子が資本の運動の結果実現するものであることを証明しなければならない。それが利子生み資本だ。

ついで利子生み資本がどこから生まれてくるかを説明しなければならない。それは剰余資本であり、利子を生むことを目的に金融市場に動員された資本である。

では金融市場はいかに成立し、いかに機能し、そこにどのように利子生み資本が投入されるか。

そこが流通過程・流通市場との接合点だ。そこが議論のもうひとつの出発点になる。マルクスの論理展開はここからふたたび川下に下って行くことになる。


貨幣資本とマネー資本

本筋とは少し外れた議論が二つある。ひとつは貨幣資本とマネー資本をめぐる議論であり、もうひとつは貨幣取扱資本と利子生み資本をめぐる議論だ。

流通市場に動員された資本も貨幣資本であり、金融市場に動員された資本も貨幣資本であるが、この資本は、基本的には、富の裏付けではなく信用の裏付けに基づく資本である。

両者を分けるためマルクスは後者をマネー資本と呼ぶ。(大谷さんによればエンゲルスはこの違いが分からなかった。そして編集にあたって、この違いを抹殺してしまった)

それではマネー資本はどこから生まれてくるのか。


貨幣取扱資本と利子生み資本 

大谷さんは、時々、訳の分からない難解な言葉を発します。大体、学生はこういったところで挫折するのです。次のような表現がその典型です。

第5章では,信用制度・銀行制度のもとで運動している資本の具体的な姿から,貨幣取扱資本の側面を度外視することによって、純粋な形態での利子生み資本を取り出します。

これは、要するに使用価値と価値の関係だ。

銀行の資本は具体的な“役立ち”としては貨幣取扱資本だが、一般的な価値(すなわち儲けの手段)としては“利子を生むという価値”で表現されるということだ。

ただし、貨幣取扱資本=利子生み資本ではない。ここがややこしい。

貨幣取扱資本は、もともとは、貨幣取扱業務を行なう業者の手持ち資本である。これは流通の仕事で利潤を手に入れる商業資本のうちの特殊な種類だ。

しかし利子生み資本は剰余資本であり、利子を生むことを目的に金融市場に動員された資本である。

ここの関係は、とりあえず良く分からない。後回しにしよう。



ということで、脳みそのスタミナ切れ。今回はここまでにしておこう。


大谷禎之介さんが2004年に行った最終講義の記録が読める。

マルクスの利子生み資本論―「資本論」の草稿によって―」

と題されている。「学生向けだから分かりやすい」と思ったら、なんのなんの、中身がぎっしり詰まっていて、とんでもない論文だ。

元々は最終講義のノートだったのに付け加えて付け加えて、一冊の本になるくらいに膨らませてしまったのではないか。

1.エンゲルスによる編集作業の問題点

ここは結構繰り返しになるが、自分の頭の整理をふくめてもう一度。

問題は二つある。

A) ひとつはエンゲルスがいじった結果、変になってしまったところがたくさんあって、それを草稿に忠実に再現しなければならないということだ。

B) もう一つは、草稿があくまで草稿であって、行きつ戻りつしたり、書いた時期や順番によってニュアンスが変わってきたりしていることだ。その流れも分かるように草稿を整理しなければならない。それこそエンゲルスが苦労し、中途半端に終ってしまったことであるが…

だから大谷さんの論文を読むときは、どちらの研究の流れについて語っているかを把握しなえればならない。なぜならこの問題は、常に錯綜しているからだ。

そのうえで、大谷さんの指摘するエンゲルスの誤りは以下のごとくに整理される。

まず、誤りの多い場所である。

エンゲルスによる編集作業の問題点は,最後まで手こずった,利子生み資本を取り扱っているに集中している。

それは草稿の第5章第5節,エンゲルス版資本論の第三部では第5篇の第25章から第35章にかけての部分である。

大谷さんは、エンゲルスの間違いの根本は、この第5章第5節を「銀行と信用の篇」なのだと思い込んでしまったことにあるという。しかしこの節にマルクスがつけたタイトルは「信用。架空資本」なのである。

ここからさきは大谷さんの主張になっていくのだが、

1.つまり「銀行」は、少なくとも論理の主筋ではないということだ。「銀行」ではなく「架空資本」こそが、この節の主人公である。

2.マルクスは信用が利子生み資本を生み出した経過を概観した上で、利子生み資本の考察に入っていく。その先に「架空資本」の概念が浮かび上がってくる。これが第5節の論理展開である。

3.エンゲルスはマルクスの文章を書き換えまでして、この節が「銀行と信用」を扱っているかのように持って行こうとする。しかしマルクス自身は、資本論では信用制度の分析はやらないと書いている。


ということで、今回はここまでにしておこう。


霊長類はたしかに生物の中で一番かしこい。
しかし鳥のかしこさは、人間のかしこさとは違う成り立ちのかしこさのようだ。
ミツバチやアリの集団としてのかしこさも、本能だけでは説明できない。
アリに脳みそがあるとしても、せいぜい1ミリ以下だろう。しかし人間にもできないような巨大な社会を作り構造物を作り、一人の女王のもとに生活している。
たしかに人間には一個体の脳みその中に精神的能力がぎっしり詰まっている。しかしその基礎となる神経細胞は直径0.01ミリほどのものだ。
人間の知力は一個体の力としては高い。しかし一個体の力として人間は、たとえば象ほどの力があるだろうか。
象から見れば、人間はアリのようなものだ。しかし集団としての力、ノウハウとしての知識力で、人間の力は象をはるかに上回っている。だからこそ、我々は象を支配できるのだ。
あたりを見渡せばアリにも劣るような人間(人はそれをネトウヨという)がゴロゴロしている。

要するに、言いたいことは、知性の優劣を云々する前に、知性のありようがそもそも異なっているということだ。
我々は鳥を見て知性の発生学的、構造学的な意味を知らなければならない。アリや蜂を見て、知性の社会的構築を知らなくてはならない。
そこで私が言いたいのは、世が世なれば、彼らの知性の構築法の方が世界で優勢を占めていたかもしれない可能性を踏まえておいたほうが良いということだ。
人類は生き物が発達・進化していく王道をたどって、必然の結果として世界に君臨しているわけではない。そのような神は存在しないのだということを肝に銘じておく必要がある。

風邪がまだ抜けない。10月20日からだからすでに2週間を経過している。

5日間はロキソニンのみで過ごした。3日目に少し良くなり、これで大丈夫と思ったが、それからぶり返した。飲みに行ったのがよくなかった。

グレースビットを5日間飲んだがまったく効かなかった。その間に叔父の通夜と葬式もあって、休みが取れなかったのも悪かったようだ。

先週の後半からメイアクトに切り替えて飲んでいるが、最初は効いたように思ったが、逆襲された。

基本は副鼻腔炎のようで、右の上顎洞が閉塞し鼻汁がたまっているようだ。頭をコンコンと叩くと右の頭頂部で共鳴音がする。

これが後鼻漏となって、左の気管支、おそらく舌区に炎症を続発していると思われる。以前からこの場所は炎症を繰り返し、CT上、部分的に拡張症をきたしている。

あとはクラリスロマイシンの抗インターロイキン作用と抗アレルギー薬の併用で気長にやるしかないのだろうか(禁煙以外には)。

日銀の追加緩和 NHK報道がひどい

NHKは本当にひどいことになっている。

きわめて穏健に考えたとしても、量的緩和は諸刃の刃だと分かる。第一、日銀券を大量に発行して何を買おうというのだ。

もう市中に国債や、優良債はない。ハイリスクの物件を買い込めば、日銀そのものの信用が落ちていく。

しかも日銀の経営論理からではなく、消費税再引き上げのための緩和だとすれば、あとはもう底なしである。

現に黒田総裁は「必要があればちゅうちょなく調整する」と言っているから、自分がクビになるまでは垂れ流すつもりだ。

前にも書いたが、今の日本は株高の含み益で成り立っている。1万4千円が生命線だ。もしこれを割るようなことがあれば、ヘッジファンドがなだれ込んで、たちまち相場は崩壊するだろう。9月には1万4千円台まで値を下げた。年金の投信運用を急かすサインだ。

黒田総裁は表向きの理由を「2%物価目標」を達成するためだと言っている。しかしなぜ2%が達成できなかったかの説明はない。

なぜか、

説明できないからである。円安で輸入価格が上昇し、電力各社が相次いで値上げを発表し、さらに消費税関連で物価が押し上げられたにも拘らず2%が達成できないのは、消費の落ち込み以外に説明しようがない。

消費の落ち込みは勤労者所得の低下以外に説明のしようがない。説明のしようがないから説明しないのである。


せめて報道は量的緩和に功罪二面があることを報道すべきだ。2%目標についても、過去の経過を踏まえて報道すべきだ。

これまでNHKニュースを見ていて、安倍首相の顔が出てきたら、その瞬間にチャンネルを切り替えていた。そのためにリモコンを握って離さなかった。

しかしこれからはNHKニュースが流れ始めたら、即チャンネルを切り替えなければならなくなりそうだ。


見出しとリードだけ紹介しておく

日銀 追加の金融緩和を決定

これまで着実に進んできたデフレマインドの転換が遅延するリスクがあるとして、追加の金融緩和に踏み切った。

…こうした効果をより強めてデフレからの脱却を進め、2%の物価目標の実現により万全を期す ねらいがあります。

アホか?

郊外のDIYの店に行くと、レジカウンターの脇に、千円メガネのコーナーと並んで廉価盤CDのコーナーがある。最近は落ち目だが、一昔前には歌謡曲のところに「本人歌唱」と銘打ったアルバムがあった。裕次郎とか美空ひばりのCDで、無名歌手のカヴァー盤よりちょっと高かった。
バッハのCDも一番高いのがグレン・グールドの本人歌入りヴァージョンで、これが長いこと定盤だった。
みんなが口を極めて褒めそやすから、バッハといえばこれしかないと思い込んでいた。しかしそのためにバッハが嫌いになった人が何人いたことか。
そこに敢然と立ち向かったのが、ほかならぬポリーニだった。
これはみごとにグールドのパロディーである。すなわち本人歌入りヴァージョンの麗しき伝統を守っている。
そのうえで、木魚ポクポクと念仏のグールドサウンドに見事に逆ネジを食らわせている。
ペダル踏みっぱなし、レガート&レガート、極端な急緩とデュナーミク、おまけに残響たっぷりサウンドだ。メンデルスゾーンを聴くようでもあり、所によってはベートヴェンを聴くようでもある。瞬間的にはショパンを聴くようですらある。
当然ながら短調作品がいい。第4曲の透き通る感じもさることながら、第8曲、第10曲の堂々たるフーガの押し出しはどうだろう。
万人におすすめするものではない。本人がそう思っている。こう演奏してどこが悪いんだという開き直りが見て取れる。その故に、そこには圧倒的な説得力がある。
それこそこれまでのポリーニになかったものだ。「ザ・スタンダード」の地位の放棄、完璧主義からの離脱である。
ペライアを愛聴してきたが、音質イマイチ。これからはポリーニだ。
(すみません。間違えましたペライアに平均律の音源はありませんでした)



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