鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

2014年10月



1.諸国間の平和と友好には三つのレベルがある

諸国間の平和と友好には三つのレベルがある。人民レベルのそれと、国家レベルでのそれだ。さらに東アジアには、たんなる政策レベルではない国家体制の違いが存在するので、ことなる体制間の共存と相互尊重という難しい課題も抱えている。

このなかでは、まずもって人民レベルの平和主義を全面に押し出さなければならない。それは揺るぎようのない非核と非戦の原則だろう。

2.東アジア諸国の憲法に9条を書き込もう

ここでは、東アジア全体が日本国憲法前文と憲法9条の精神を共有する必要がある。それは東アジア諸国の共同綱領としての意義を持っている。

ぜひ、他の国にもそこを確認してもらいたい。

もう一つは人権の尊重だ。友好というのはお互いの人権の尊重を前提にして初めて意味を持つ。とりわけ生存権、学習権、勤労権を尊重しなくてはならない。政治権力がこれを犯さないよう、相互に連帯し監視していく必要がある。

このためには、法治主義の原則を確認していく必要がある。

3.政府レベルでの共同も基本は同じだ

国家レベルでは話はちょっと複雑になる。しかし原則は人民レベルと同じだ。国家主権の尊重と国際協約の尊重は時により矛盾するが、未来志向の立場で実績を積み重ねる中で解決することだ。

人、モノ、カネの交流は原則として自由化の方向を目指すが、垂直型統合は認められない。とくに資本の身勝手な行動は認められるものではない。

体制レベルでは、さらに大きな違いが横たわっている。社会慣習や伝統などを尊重しつつ、幾世代かにわたり地道な相互理解の積み上げを行っていく覚悟が必要である。

総じて言えば平和の問題、人民の友好の課題では早急な共同行動が必要である。

人権の問題では相互の援助・支援から出発し、国際的な協定をそれぞれの国が内国化していくことが必要である。

4.経済的共同はグローバリズムと一線を画す

経済主権は国家主権の源である。経済主権を擁護する立場からは、ネオリベラリズムに基づく「開放」や「自由化」は受け入れられない。

各国の共通利害に基づく機関・基金の創設や各国人民にとってウィン・ウィンの関係になるような共同から推進していく必要がある。

共同市場化や共通通貨などについては、時期尚早であろう。

“明治維新 PDF”とグーグル検索をかけると、またしても北大だ。北大が図抜けて電子化が進んでいるのだろうか。

まぁ北大卒業生としてはご同慶の至りだが…

田中彰さんの「明治維新」というそのものズバリの論文。

最初は、明治維新の解釈をめぐる左翼陣営内部での論争が紹介されているが、今となってはかなり煩わしい。

結局マルクスの規定がどのように規定されるかという話で、本末転倒の感を免れない。補助線としては役に立つツールであることは間違いないが、無用な混乱を持ち込むツールでもある。

私としては、ラテンアメリカ諸国の革命史をたらふく食べてきたので、いったん革命が起きるとどういうパターンをたどるかについての、一定の経験は持ち合わせている。

やはり中心となる幾人かの人物を追いながら、行動パターンを随時類型化し、そのからみ合い構造にどのような背景が反映されているのかを、実証的に見ていくしかないのである。

「時代」のイメージはそこから、炙り絵のように浮かび上がってくるものなのである。全体を型にはめてレッテルを貼るのは、最も拙劣な歴史分析だ。

史的唯物論的分析は、ある程度これとは別個に、時代をおおづかみに把握するためのツールとしてやった上で、最終的に付き合わせるという作業として取り組まれるべきだろうと思う。

たとえば、

1.上方経済は徳川幕府を打ち倒すような性格のものではなく、その桎梏を打ち破って発展していくような可能性はなかった。

2.むしろ、幕末にはその力は衰退に向かい、地方、とくに江戸周辺に産業が拡散していく傾向にあった。

3.幕府は最後まで経済力においては絶対的な優位にあり、実力を失っていなかった。明治維新はあくまで軍事的・政治的・イデオロギー的なイシューである。

4.消去法で考えていくと、結論としては、ようするに日本人は300年の徳川の歴史に飽きたのである。こういう生活に我慢できなくなったのである。

5.日本には資力と発展のポテンシャルがあった。革命後に混乱が続きいったん後退を余儀なくされる国が沢山あるが、日本はわずか数年の混乱期のあと急成長に向かう。そうでなければ、清国を相手に自前の財源だけで戦争を戦えるほどの国力強化は不可能だ。

というあたりについて、史的唯物論的分析を行うのなら適切だろう。

大久保利通の足跡

と書いたが、大久保個人をかなり越えてしまっている。なるべく新暦に統一したが、一部旧暦も混在している。気がつけば手直ししていくつもりである。維新後の各派の抗争については、事実関係が錯綜している。それぞれの著者の思い入れが反映されていて、それらを判別しきれていない。


1861年 

大老井伊直弼が倒れたあと、公武一体論が幕府の主流となる。薩長もそれぞれの思惑から公武合体論を主張。これに対し草葬層(下級武士、豪農商層)は天皇への一極集中を主張。

薩摩藩(島津久光)は一橋慶喜の将軍後見職、福井藩主松平慶永の政事総裁職就任などを主張。朝廷をトップとする諸藩の連合を説く。

下士の出身であったが、島津久光のもとで抜擢され藩政に参与するようになる。この時31歳。この頃先代斉彬についた西郷は流罪になっていた。

大久保は年末に京都に出て、久光の意向のもとに外交活動を行う。岩倉具視を押したて、公武合体路線を推進する。

なお各種記載において大久保が主語となっているが、大久保は基本的には薩摩藩、とくに久光の意向を受けて活動している。したがって公武合体路線の放棄に至るまでのあいだは、薩摩藩と置き換えておく。

1862年(文久3年)

4月 島津久光が兵を率い京に入る。半年にわたり在京。大久保のほか罪を許された西郷も京都入り。久光は天皇から京都の守護を命じられ、京都所司代は有名無実化した。

この上京は、朝廷主導の公武合体、現実的開国、将来的攘夷を唱えた長州藩に対抗する目的だったとされる。

このころ京都では、尊王攘夷運動がピークを迎える。各地で農民一揆や都市騒擾が多発。幕藩意識が急速に解体。

5月10日 「攘夷決行の日」を機に、長州藩がアメリカ商船を砲撃。欧米艦隊から報復攻撃を受ける。

8月18日 公武合体派の会津藩と薩摩藩が、朝廷における尊攘派を一掃。治安を乱す攘夷派と長州藩を京都より放逐。

8月21日 生麦事件が発生。薩摩藩士がイギリス人3名を斬殺。

1863年

1月 久光・慶永・豊信・松平容保・一橋慶喜・伊達宗城による参預会議が成立。

4月 大久保、久光について薩摩に戻る。京都には西郷が残り、藩の対応を任せられる。

7月8日 薩英戦争。生麦事件の補償をもとめる英艦隊が鹿児島を攻撃。

7月 蛤御門の変。会津藩との衝突で約3万戸が焼失。薩摩は御所を守るために長州藩と対決するが、長州征討に関しては中立を守る。

1865年

第二次征長論が幕府と朝廷のあいだで進む。大久保は「至当の筋を得、天下万民ごもっとも」の義を求める。「非義の勅命は勅命に非ず」とし、作戦に反対。

この頃、農民一揆が最大の高揚を示す。

1866年(慶応2年) 

4月 第二次長州征討に反対し、薩摩藩などは幕府の出兵命令を拒否した。

8月 長州軍、小倉の闘いに勝利。その後幕府と休戦協定を締結。

12月 孝明天皇が天然痘で急死。

1867年(慶応3年) 

京都派遣軍の長となった西郷とともに、公武合体路線をめざす四侯会議を推進する。会議は慶喜により頓挫し、以後、薩摩藩は武力倒幕を選択肢に加え、各方面に接触を開始する.

5月 西郷、土佐藩の板垣と会談。倒幕の盟約を結ぶ。

9月 土佐藩との同盟の後、長州藩との同盟にも成功。

10月15日 大政奉還。この後の辞官納地返上の命令などの経緯は省略。

この年、各地で「ええじゃないか」の大流行。

(以下の2項は新暦では68年1月)

12月 討幕の密勅を得て、王政復古のクーデターを敢行。

12月 参与制度が発足。公家・廷臣のほか薩摩藩9名、長州藩5名、福井藩5名、尾張藩4名、熊本藩6名、佐賀藩3名、広島藩3名、宇和島藩2名、岡山藩2名、鳥取藩2名など。

1868年(10月まで慶応4年、11月から明治元年)

1月 鳥羽伏見の戦い。戊辰戦争始まる。岩倉が海陸軍事務となり、戦闘の指揮には西郷があたる。

3月 五箇条の御誓文が発せられる。木戸が第四条「旧来の陋習を破り、天地の公道に基づくべし」を挿入するなどかなりの修文を加えたとされる.

9月 木戸、伊藤が大久保に版籍奉還を提起。大久保はこれに同意し久光の説得に当たる。

1869年(明治2年)

1月 薩長土肥の4藩主が版籍奉還の建白書を提出。

5月 箱館の榎本武揚が降伏。戊辰戦争終結。

6月 諸大名から天皇に版籍が奉還される。版籍とは領地(版図)と領民(戸籍)をさす。1.藩主(知藩事)を非世襲制とする、2.藩士は主君との臣従関係を解かれ、朝廷の家臣とされる。3.知行は安堵される。

6月 華族制度が発足。「大名」は全員東京へ召集され、華族の資格を与えられる。制度改変の意味が曖昧にされたため、大名の抵抗なくほとんど混乱なし。

6月 三条実美が右大臣(最高責任者)、岩倉は大納言(右大臣の補佐)に就任。内閣として参議が置かれる。行政組織として6つの省が置かれる。

大久保、新政府の参議に就任。大蔵卿も兼任。

地方の支配体制同様に乗じて、ふたたび農民一揆が多発するようになる。

1870年(明治3年) 

8月 山県有朋、西郷従道ら、欧州の軍事視察より帰国。兵制改革に着手する。

木戸が大隈重信(大蔵大輔)の参議昇格を推す。大久保は辞表をちらつかせ抵抗、参議辞任と引き換えに民部省の職務を獲得。大蔵大輔に井上馨(長州藩)を据える。

大久保は長州・肥前の改革派と久光・西郷ら国許の保守派との板挟みで、基本的には改革派の立場でありながら前後矛盾する言動を行っている。

維新の主要な推進力は薩摩にあるのであり、それは西郷・大久保の信頼関係無くしては機能しない。大久保にとって、改革派の木戸や大隈は目障りであったかもしれない。

「改革には賛成するがそのスピードについては俺に任せてくれよ」といったところではないか。それが次第にうとましくなれば、木戸との関係も冷却していくことになる。

1871年(明治4年) 

1月 大久保、西郷に依頼し薩長土三藩から選抜した「親兵」を創設。

1月 西郷隆盛が意見書を提出。大隈・伊藤・井上を中心とする近代化路線を批判。

2月 大隈重信、軍事・教育・司法・財政の一体化を理由に「全国一致之政体」の施行をもとめる。旧幕府直轄地はそれ以前から府県に移行していた。

その後、具体的な方法をめぐり木戸(急進派)と背後に西郷を抱える大久保(漸進派)が対立。

8月 大久保が政府人事を改造。木戸孝允と西郷のみを参議とすることで両派の和解を図る。西郷は新政府の分裂を避ける立場から廃藩置県に賛成。

8月 版籍奉還の実質化として、廃藩置県が実施される。親兵を用い、電光石火の早業で府県制への移行を強要した。

中央政府から県令が派遣され、知藩事(旧藩主)は失職。東京への移住を迫られる。藩札は同額の政府紙幣と交換される。

12月 岩倉使節団が出発。大久保と木戸、岩倉使節団の副使として外遊。伊藤博文も随行。使節46名、随員18名、留学生43名。1年10か月の滞在となる。このあと五卿が政治の実権を握る。

1872年(明治5年)

江藤新平司法卿らが大蔵省への権限集中を批判。井上馨大蔵大輔が辞任。各省に対し参議の権限が強化される。

1873年(明治6年)

この年、大久保不在の政府のもとで、地租改正・徴兵令・学制などが一斉に実施される。

各地に庶民階級の徴兵令反対運動。布告で応召義務を「血税」と称したため、血税騒動と呼ばれる。士族も軍務独占を主張し反対運動。

9月 岩倉使節団が帰国。征韓論をめぐり情勢の容易ならざるを識り、岩倉・大久保・伊藤で善後策の検討に入る。

経過はこうである。西郷の息がかかった参議の閣議で朝鮮使節派遣が採決された。これに反対する大久保、木戸、大隈が岩倉あてに辞表を提出した。

事態は紛糾し、三条は立ち往生、岩倉が太政大臣代理として、征韓論を破棄した。

これを見た西郷、板垣、江藤、後藤、副島が参議を辞任した。岩倉は新たに伊藤博文、勝海舟、寺島宗則を参議に加えた。木戸は形だけ残留はしたが、その強引さに不快感を露わにした。

事態打開を図る大久保は内務省を創設。みずから内務卿におさまり、全権を集中。下野派が民撰議院設立建白書を提出。自由民権運動の口火を切る。まもなく下野派は民権派と士族反乱派に再分裂。

1874年(明治7年)

2月 江藤新平、佐賀の乱を起こす。大久保はみずから福岡に入り鎮圧作戦を指示。

4月 台湾征討作戦。西郷従道が台湾事務都督として遠征。

8月 大久保は中国に渡り、3ヶ月に及ぶ清国政府との直接交渉。賠償金50万両を獲得する。

板垣ら、愛国公党を結成。民撰議院設立建白書を提出。各地で地租改正に反対する農民の騒擾。

1975年(明治8年)

2月 井上馨(前大蔵大輔)がフィクサーとなり大阪会議。大久保の要請を受け、木戸と板垣が参議に復帰するが、参議と各省の分離を強く要求。

4月 三条実美や木戸孝允・板垣退助が奏上した「立憲政体の詔書」が裁可される。これに反対する岩倉は辞職するが、大久保の慰留を受け復帰。

結局、木戸・板垣との連合体制は崩壊。大久保・岩倉による独裁体制に移行。

江華島事件発生。朝鮮衛兵が日本軍艦船に発砲。日本は報復の脅迫で修好条約を締結させる。

1976年(明治9年)

10月 熊本神風連の乱、秋月の乱、萩の乱が相次いで起こる

1877年(明治10年)

2月 西南戦争が始まる。三条実美 大久保利通、木戸孝允、山県有朋、伊藤博文が善後策を協議。大久保は「天下は瓦解してしまう恐れあり」と記す。

9月 西南戦争が終結。西郷は自決。

1878年 

5月 大久保が暗殺される。 

1881年(明治14年)

政府内部の薩長参議(絶対主義専制)と大隈一派(近代主義的立憲君主制)の対立。背景に在野民権陣営。前者が勝利し、絶対主義的本質を維持しながら、立憲的修正を試みる。

 

今のところなんの根拠もない感想にすぎないが、明治六年西郷追放後の大久保政権の評価をしてみたい。

明治維新の受け皿となったのは薩長連合だ。しかしこの薩長連合は3つの位相がある。

ひとつは藩と藩の連合である以上、島津と毛利という藩主の関係がある。殿様の同意がなければそもそも成立し得ないからである。しかしそれがどのくらい強いものかといえば、かなり疑問符がつく。むしろ殿様の側から言えば、いやいや結ばされた同盟という印象だ。

実際に同盟の推進役となったのは、多分、西郷と木戸孝允ではなかったろうか。しかし若い衆の立場から見ると、西郷は問題無いとして、木戸が果たして長州藩を代表していたかといえばかなり疑問の余地はある。

若い衆は薩長同盟という戦略は支持したにしても、木戸を支持するが故に薩長同盟を支持するという思想ではなかった。彼は若い衆と毛利の殿様を結ぶフィクサーに過ぎなかったのではないか。

世間的には維新戦争は鳥羽伏見の戦いに始まり戊辰戦争、東北戦争、箱館の闘いと続く格好になっている。

しかし、私の個人的感想としては維新戦争は第一次長州戦争、第二次長州戦争とつづき、鳥羽伏見の戦いで終わった戦争ではないかと思う。

そして闘いの潮目となったのが第二次長州戦争、なかんづく小倉戦争ではなかったかと思う。これは前にも述べたキューバの解放戦争からの教訓である。

キューバでは、シエラ・マエストラ山地に立てこもった数百のゲリラに1万の正規軍が掃討作戦をかけた。闘いは1ヶ月以上に及んだが、結局政府軍はシエラ・マエストラを制圧することができず、多くの犠牲を出して撤退する。

その後はゲリラは加速度的に勢力を拡大し、最後にはゲバラの部隊が政府軍の最強部隊に正面戦を挑んでこれを粉砕してしまう。いわば勢いである。

そのシエラ・マエストラの闘いに匹敵するのが第二次長州戦争だった。この時奇兵隊を率いて関門海峡をわたり、幕府軍の主力と対決し、これを打ち破ったのが高杉晋作だ。

だからカストロに匹敵するのは高杉であって木戸ではない。

大久保はここをとらえたのではないか。明治新政府が西郷・木戸ラインで動いている時、藩閥の枠を乗り越えて若い衆同盟を構築しない限り勝ち目はない。そうやって「革命」を一歩前に進めなければならないのである。

高杉や大村益次郎は死んでしまったが、その弟弟子たちで生きのいいのがいる。たとえば伊藤博文であり山縣有朋であり、井上である。

これが3つ目の薩長同盟であり、より急進的なジャコバン同盟である。それは藩主や維新の元勲による連合政権ではなく、下級武士出身の急進派による「書記局政治」であった。大久保はこの同盟を基軸にしながら出身を問わずテクノクラートを集めた。同時にイデオロギー的には藩の意向の集約ではなく、ユニバーサルな絶対主義的天皇制を押し出していった。それは藩の解体であり、四民平等であった。

大久保自身は大阪会議で木戸との和解を試みたりしているが、不調に終わっている。時間稼ぎにも見える。

このジャコバン同盟は西南戦争で薩摩の活動家の多くがいなくなり、大久保自身も暗殺されることで、長州藩主導の政府に姿を変えていく。いわば松下村塾派の政権になっていくのである。

それは戦後の高度成長時代を吉田茂スクールが担っていくのにも似ている。藩閥政府と言われるが、むしろ基本は藩閥制の否定の上に成り立っている政府なのではないか。

江戸幕府と諸藩の軍事力・経済力バランス

調べていくうちに、これは愚問だとわかった。

徳川幕府も諸藩も基本的骨格は軍事独裁国家であり、軍事力は石高に直接規定されているのである。

逆説的に言えば、兵員数や装備の水準は、軍としての強さをまったく反映していないのである。どちらが強いかは、実際にやってみるしかない。

そして実際にやってみせたのが第一次長州征討、第二次長州征討、そして鳥羽伏見の戦いである。

鳥羽伏見の戦いは、それだけ取り出すと実に奇妙な戦いである。兵員数、装備ともに圧倒的な優勢にあったはずの幕府軍がなすことなく敗退を重ね、最後には将軍が敵前逃亡して江戸に逃げ去るという結末になる。

しかし、その謎は第一次、第二次の長州征討を見れば氷解する。徳川幕府は、敵の攻撃を待つまでもなく、あっけなく自潰したのである。

平家の大軍が鳥の羽音に驚いて算を乱して逃走したという話はにわかには信じられないかもしれない。しかし、キューバの独裁者バチスタがカストロの率いるちっぽけなゲリラの前に壊滅してしまったという歴史を知っている私には、きわめて有り得る話だと納得させられてしまう。

1958年6月1日、シェラマエストラ山地にこもるゲリラ部隊はどう勘定しても数百名に過ぎなかった。そこに政府軍は1万の兵士を派遣して総攻撃を開始したのである。

しかし1ヶ月以上にわたる闘いにもかかわらず、政府軍はゲリラを殲滅することができなかった。それどころかゲリラは闘いの中で勢いをました。

政府軍が撤退したあとゲリラは山を出て、国内の至るところでゲリラ戦を拡大した。そして半年足らずの間に全土の解放に成功した。

だから鳥羽伏見の戦いは、それが始まった時点で、反乱軍側の勝利は明らかだったのである。

前の稿で、以下のように書いた。
明治維新を武家社会の壊滅という結果から見るなら、それは上方の江戸に対する勝利として位置づけることができるのかも知れない。
これはどうも正しくないようだ。
江戸時代後期になって、大阪の経済力は下降し始めていたようだ。
江戸100万に対し、京都40万、大阪40万を合わせても足りない。経済力のかなりの部分が最大マーケットである江戸に移動し、いわゆる産業空洞化が起きていたようだ。
結局、産業革命なしの「金貸し+マニュファクチュア」制は封建制度を打破する原動力にはならないということかも知れない。
下記は宮本又郎さんの講演からの引用。

江戸後期になるとだんだん地位が低下してきます。金融と商業が中心となってきて、いわゆる産業の空洞化が起こり、技術を誇っていた工業都市の性格が薄れる ようになったのです。
…大坂を中心とする市場構造が 崩れ、技術伝播の結果、さまざまな製品が各地で造られるようになり、大坂を介さず地方同士がネットワークのように結びつくようになりました。江戸でも江戸 地周り経済圏が発達し、大坂への依存度が相対的には落ちてきたのです。
人口統計で見ると、大坂の人口の全国人口に対する比率は1721年で6%、幕末では 衰退して4%まで低下しています。

江戸と上方の経済力バランス とくに金・銀財貨バランス

江戸商人の経営と戦略 鈴木浩三
という文章を見つけた。問に対して直接答えたものではないが、非常に学ぶ点が多い。

はじめに

江戸時代は、日本という地理的範囲が一つの市場圏として成り立つために必
要なソフトとハード両面のインフラが整った時代だった

1.江戸時代は競争と市場の時代

全国的な流通網の成立、貨幣(金・銀・銭)相互の変動相場制とそこから差益を獲得していた両替、市場を通じた金利の決定、大坂堂島の米市場の先物取引など自由主義的な市場経済システムが広範に機能していた。

米などの農産物だけではなく、手工業製品を作って流通経路に乗せて最終消費者に販売するまでの一連の流れの中でも、商工業者たちは競争を繰り広げていた。

商家経営では、新製品の開発、新規市場の開拓、多角化などはもちろん、事業再編や新規事業の立ち上げをめぐるM&Aも日常の光景であった。

2.流通インフラの発展

17世紀初頭に年貢米などの物資を内陸から沖積地部に輸送する手段が確立し、17世紀後半になると日本全国が海運路で結ばれた。

これに伴い、大阪や江戸などの都市内部に船宿や問屋・倉庫といったインフラストラクチャーの整備が進んだ。

廻船


3.貨幣経済の発展
慶長6年(1601)徳川家康は貨幣制度を確立した。戦国大名が作った貨幣を廃して新たな貨幣を鋳造し、全国を統一通貨制度の下に置いた。
伊豆や佐渡の金山、石見の銀山などの主要な金銀山は幕府の直轄となり、国内産の金銀を徳川氏が独占する体制が確立した。
価値=価格を定める際の評価基準が、統一政権という信用をバックにした貨幣によって裏付けられた。幣経済の発達は徳川政権によって制度的に保障された。


江戸と大阪
1.江戸は天下普請のラッシュと参勤交代の確立により巨大な消費都市に成長した。これに対し、大坂は全国の物資を集めて江戸に供給する都市として発展した
2.参勤交代を含む江戸在府の経費は、大名の実収入の半分以上を占めていた。そのほとんどは貨幣決済であった。大名は領地からの年貢収入を大坂などで換銀して貨幣を得ていた。

経済構造
江戸幕府という表現は正確ではない
徳川幕府の本拠が江戸にあったからといって、江戸を幕府の絶対的中心と考えることは間違っている。大阪も京都も徳川幕府の直轄地であり、それらが役割分担をしていたに過ぎない。
産業が発展するに従って相対的地位が低下するのは江戸であり、徳川幕府ではない。
しかしこの役割分担が300年の間に変化し、それが徳川幕府の弱体化に関わっていたことは間違いない。
幕府以外の大名
江戸・大坂と大名領、大名領と大名領の間の商品流通や商品の売買代金決済の形は、現代の国際貿易や貿易決済の方法と本質は同じだった。為替差益の獲得なども、現在の国際通貨市場と同様であった。
有力な両替は大名貸を手広く営んだ。彼らの収入は両替手数料や利子だったが、上方と江戸の経済発展につれて為替取引の比重が増大した。
1600年代なかばまでは領主が農民の農業収入から生産維持に必要な部分を除くすべてを徴収した(七公三民)。治水工事を含む農地開発に力が注がれた。
その後、開発適地は底をつくようになり、量から質への転換が始まった。それは生産コストの上昇を意味する。このため年貢の率は急減するようになった(三公七民)。
七公三民の場合、大名の実収入は公称禄高の約7割にとどまる。大名の財政難が深刻になると、大名貸の焦げ付きが急増した。
以下略


1688年の井原西鶴の『日本永代蔵』では、「銀500貫目以上を持っている者を分限、長者は銀千貫目以上の所有者」としている。
最少の1万石の大名の実収入は4千石(4公6民の場合)だ。これは銀換算で240貫目、つまり町人の分限の半分に満たなかった。
江戸時代の初期でこの状態であるから、幕末にはその格差はさらに拡大していただろうと思える。
この不自然さを武力のみで抑圧し続けることは不可能であり、どのような形をとろうとも、ご一新は避けられないものだった。
それが一方では黒船という外圧で、他方では幕府に対する薩長同盟の反乱という形で実現したのだが、しかしそこに留まる訳には行かなかった。
武家社会というフィクションを打破することなしに、ご一新が完成し得ないことは明白であろう。
明治維新を武家社会の壊滅という結果から見るなら、それは上方の江戸に対する勝利として位置づけることができるのかも知れない。


フランス革命がバスチーユ監獄の襲撃に始まって、ジャコバンとジロンドの抗争、そしてロベスピエールの独裁に達し、ナポレオンの登場で終止符を打つという経過であるならば、明治維新も戊辰戦争の終結を降り出しに西南戦争と大久保利通の暗殺、伊藤博文の政権掌握というところまでを区切りとして評価しなければならないと思う。

だから、フランス革命をロベスピエールを回転軸として評価しなければならいのと同様、明治維新の政治学は大久保利通を回転軸として見ていかなければならないであろう。

ところがこの常識的と思える観点での叙述が意外に少ないのである。

「ご一新」時点での群雄割拠の状態の中から何故大久保が抜きん出たのか、少し調べてみる必要がありそうだ。

調べなければならない事項の一覧

江戸と上方の経済力バランス とくに金・銀財貨バランス

江戸幕府と諸藩の軍事力・経済力バランス

江戸幕府は経済的・財政的に破綻していたのか

諸藩内での薩長の力の程度

薩長の力関係 薩長同盟の構造 

親藩が立ち位置を変えていく機序

薩摩が主導役を占めた理由

島津公と諸臣の力関係の変化

戊辰戦争における薩長の役割分担

上方の経済パワーの動き

薩長・雄藩連合から薩長土肥への移行 諸藩藩主の排除

政治委員会対書記局派の抗争 公家グループの役割

大阪会議とその破綻

西南戦争による書記局支配の完成 大久保人脈の構成

岩倉、西郷、大久保、木戸の死の意味

大久保利通を支えた官僚パワー 大久保路線を継ぐもの

日清戦争を支えた経済パワー

1997年度 北海道AALA定期総会議案から再掲します。

香港返還と台湾

香港の中国返還にともなって,台湾問題がさらに尖鋭化するのか,それとも安定していくのかは,にわかに論じることが出来ません.おそらくそのカギは,香港において民主主義が具体的にどのように尊重されていくのかにかかってくるでしょう.
新 執行部が定めた「香港基本法」は,これまでの条例中人権保護にかかわる部分にクレームを付けました.香港の民主派の組織「前線」や弁護士会などは,これに 対し一斉に反発しています.もし香港で「天安門事件」が再発するようなら,中国は世界中の反発を受け国家の存立そのものが危うくなります.
中国が台湾周辺で行った挑発的な軍事演習,南沙諸島への進出は,東アジア各国の警戒心を呼び起こしています.それは台湾が米国からF16戦闘機150機を購入するための絶好の口実ともなりました.ロッキード社はさぞかし大喜びしていることでしょう.
さっ らに中国はフリゲート艦3隻を南沙諸島に派遣.島に建造物を構築します.4月末にはさらにルソン島沖200キロのスカボロ島にも中国船が進出.フィリピン はこれに厳重抗議するとともにフリゲート艦2隻を急派,厳戒態勢を敷きます.一連の事態に,中国は「わが国の主権に対する挑戦であり,厳重な関心を表明す る」と非難します.
しかし中国の改革はもはや後戻りできないところまで来てしまっています.その生殺与奪の権利は事実上米国資本に握られつつあり ます.返還後の香港には,いま中国全土から巨額の資金が流入しつつあります.中国の金融市場とその構造にはまもなく激変が起こると予想されます.この激変 に耐えて中国政府が「一国二制度」の公約を守るならば,台湾問題は解消し,平和的統一が展望されることになるでしょう.
台湾問題の基本的視点は,中国という国の平和的,民主的統一にあります.中国は本来一つだし,一つであるべきです.台湾であろうと中国本土であろうと,民族統一は中国人すべての願いです.少なくともこの観点から議論を出発させないと,奇妙なことになります.

多分、中国は虎の尾を踏んだことになると思う。初動の決定的な遅れは明らかだ。
香港は天安門ではない。
しかし最近の指導部には、そのことが分からなくなっている。
南沙諸島、尖閣と流れを見ていくと、かつての日本軍部と同じように、アメリカの出方を見ながら、1つづつ各個撃破しようとしているようにみえる。
これを見ていると非常に危うい。各個撃破を連結してひとつの論理が形成されると、こんどはその論理に引きずられて根っこが見えなくなってしまう。
香港は依然として中国金融のもう一つの中心であるとともに、華僑資本の本拠地でありハブ都市だ。ここを根城にして、華僑のネットワークはシンガポール、マレーシア、インドネシア、タイなどに展開している。
彼らは国内政治への関与を慎重に避けている。経済利害が一致する限りはどのような政治勢力とでも組む。香港でもできる範囲内での妥協を行ってきた。企業活動の自由が根本的に損なわれる危険があれば、そうばかりも言っていられなくなる。それは国際商業・金融資本のコンセンサスともなる可能性がある。
なかでももっとも危険な事態は、香港への天安門型対応の可能性だ。
これだけ国際経済のしがらみの中に入り込んでいる中国にとって、華僑資本と国際商業・金融資本が同盟した場合の破壊的影響は計り知れないものがあるだろう。
97年のアジア通貨危機のとき、ヘッジファンドの最終ターゲットは香港だった。華僑資本がいっせいに逃避して投機資本が仕手戦を挑んだとき、中国ははたして耐えられるだろうか。香港マーケットは維持できるだろうか。

9月30日、8月の経済統計が各官庁から一斉発表された。
予想通りというか、悪い。
金融エコノミストが当てにしていた消費税の反動減からの回復は見られない。
まず経産省の鉱工業生産指数
前月よりさらに1.5%の低下だ。出荷が1.9%低下し、在庫が1.0%増加した。
これは駆け込み需要の反動の範囲を通り越している。とくに在庫の増加は、駆け込みで減った在庫率の復旧・積み増しの域を超えている。リーマン・ショック後の在庫率に迫っている。要するに売れないために在庫が増えている状況だ。
次に厚労省の毎月勤労統計
実質賃金指数は前年同月比で2.6%も低下した。名目賃金は下がっていないので、もろに円安・物価上昇の煽りを食らっていることになる。
しかしこれから本格的な物価値上げが始まるので、実質賃金の値下げには一層の拍車がかかることになりそうだ。
総務省の家計調査
こちらでは厚労省よりさらに深刻な数字が出ている。1世帯あたりの実収入は、実質で前年同月比5.4%の減少となっている。
1世帯あたりの消費支出は前年同月比で4.7%の減少。ということは収入の減少に見合って支出が減っていないということだ。これは1.これからさらに支出が減る可能性がある。2.支出の節約が限界に達している、という意味を持つ。いずれにしても深刻だ。
最後が総務省の労働力調査だ
失業率が0.3%減少したと宣伝しているが、増えた雇用は非正規で、正規の職員・従業員は減っている。しかも8月の求人倍率は、東日本震災直後以来の落ち込みを示している。

消費税引き上げ派が主張した論拠は、すべてこれらの統計によって打ち砕かれた。あとは「撃ちてし止まん」の玉砕論のみだ。

「もう10%を織り込んでしまったから、やらないと破産する」というのは、「商品相場」のセールスの手口と同じだ。もう、損を覚悟で手を引いたほうがいい。

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