鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

2014年10月

 内語(Inner Speach)と内言語

「内語と自己知」という宮園健吾さんの考察を読んだ。

大変難しい文章なので、パラパラと抜書きしていく。

1.思考とは脳の中でしゃべっている言葉だ

プラトンは(ソクラテスの口を借りて)「思考とは沈黙の中に自己自身を相手として述べられた言論のことである」と述べた。

…そうだ。

要するに自分が喋りかける自分と喋りかけられる自分に分かれて、それが議論を交わすということだ。沈黙してなくても、ブツブツ独り言を言いながらでもいいだろう。

世間には腹黒い人がいて、「あいつは腹の中で何を考えているかわからない」というが、もし考えるということが頭のなかでしゃべっているということなら、その信号は口に出す寸前の所まで来ているはずだから、線をつないでやれば引き出せる可能性がある。

…ということになる。

とすれば、「どこに線をつなげれば脳の中の言葉が引き出せるのか」ということが問題になる。もう一つは、そこまで来ているのに口にまで出てこないのには、なにか仕掛けがあるはずだが、それがどうなっているのか。

もう一つは思考というのは、本当にすべて表出志向なのかということだ。むしろそれは一部であって、多くの思考というのは分析的で内に向かっているものなのではないか。ただそのツールとして、元来自己表出の手段である言葉を用いなければならないことに矛盾があるのではないか。

…とも思う。

2.「…である」思考と「…と思う」思考

宮園さんは、まず思考を二つに分ける。一つが命題的思考であり、もう一つが生起的思考である。

宮園さんによれば、大部分の思考は命題的(Propositional)思考なのだそうだ。「…である」は、厳格に言えば「…であると確信する」である。

しかし時々ある考えが思い浮かぶことがある。思いつきだから確信はない。だから「…と思う」ことになる。

これが「…である」思考に固まっていくためには、その過程を整理してみなくてはならない。

…というのが、宮園さんの提起のようである。

ただし「…である」思考と「…と思う」思考という言葉は私の勝手な造語である。「そういうことを言いたいのかな?」という考えが「生起」したにすぎない。

私はこのアプローチはちょっと雑駁にすぎるのではないかと思う。

ようするに感想、印象、思いつきがだんだん固まって確信に至る、ということだが、事実はさほど単純なものではないような気がする。

3.思考は Thoughts なのか

思考に形容詞を付ける前に、思考という言葉のターミノロジーをやって置かなければならないと思う。

宮園さんの本線からは外れるが、宮園さんが西洋哲学を基盤にして考えている以上、この問題は無視できない。

じつはこの問題は、「技術」とか「健康」とかをめぐって、私が散々やってきたことでもある。

西洋の術語を日本に移植する場合、元来中国語である漢字を当てて、それから日本語化するという二重の手続きを踏んでいる。

その過程で多くの術語が「名詞」化されるのだが、そのさいそれが普通名詞か動名詞なのか、そのニュアンスがわからなくなってしまう。

そこで、後に続く宮西さんの論理展開を見ると、「思考」は“考えること”ではなくて、“考えられたこと”というふうに用いられているようである。しかもそれは数えられる“粒々”であるようだ。

普通の日本語では、これは「思考の諸過程」である。さらにその結果としての“思考されしことども”である。少なくとも「思考すること」という動名詞ではない。

こういうものは規定だから、最初に紛れの無いようにきちっと規定しておけばよいのである。私なら「諸思考」と書く。

…とりあえずはそういうことにして進んでいこう。

4.内観―内なる諸思考を把握する

諸思考は内なる対話として語られているわけだから、それを聞くことができれば理解できる。それは“沈黙の内に”語られているから、本人のみに可能である。

そしてこの観察を元に「自己知」という体系が形成されていく。

これを「内観」というのだそうだ。宮西さんはこれを前提に話を進めていくが、私はまだ納得はしていない。これだけでは「座禅」のCMだ。

前頭葉でさまざまな「思考」の過程が生起し、湯気を伴って沸々と湧いてくるさまは、イマジナティブな光景ではある。

しかし、それは精神現象を説明するにあたっての仮説モデルのひとつに過ぎず、かつ大脳生理学的理解との親近感は持てない。

…というわけで、このあと、るる話は展開されるが、省略。

5.内語は生起的思考にのみ存在する

やめようと思った時に、ちょっと目についた箇所があったので、ついでに引用しておく。

「…である」思考と「…と思う」思考の大きな違いは、前者には内語は伴わないということである。「…と思う」思考でもすべて内語が伴うわけではないが。

「である」思考へのアクセスは内語を経由しない別の種類のアクセスと考えるべきであろう。

…ということで、はからずも内語と内言語の重層性を証明してくれた感がある。内語はしゃべり言葉で、内言語は基本的には書き言葉なのだろう。

この後、宮園さんは迷路に迷い込んで行くようにみえる。さようなら。

こういうシューベルトの肖像画があったのだ。
schubert
中学の音楽室に掲げてあった肖像画とはずいぶん趣が違う。
ひとことでいえば、「くら~!」
たしかに若いが、年齢不詳。18歳にも見えるし30歳にも見える。
小太りで その上強度の近視
と書かれているが、そのような印象はない。
ウィーン少年合唱団の後ろの方に、声変わりした大きな連中が数人いるが、それがさらに大きくなって団を離れるとこんな顔になるのかなとも思う。
精一杯すましているだけかもしれない。笑ったら案外可愛い顔なのかもしれない。
ああいう甘く悲しいメロディーは、不幸せな人間には作れないだろう。
レントラー大好き人間で、レントラーのリズムにコードを載せて、ボサノバのようにコードを次々に変えながらメロディーを作っていく…
それが名曲量産の秘密ではないだろうか。
この写真を見ながら、ふと、シューベルトの聞き方を変えてみようかと思う。


松岡完「地域介入の論理 ケネディ政権と東南アジア」(97年)という論文がある。

「誰がどういった」という事実が書き連ねられている論文で、やや散漫なのだが、いくつかの発言を引用しておく。

1.はじめに

米国は共産中国封じ込めの必要から、東南アジアを一つの地域としてつくりあげる必要を痛感するにいたった。それが1954年、東南アジア条約機構(SEATO)が設立されたときである。

そこには同時に、地域の諸国が経済面の集団化によって繁栄を達成すること、人種的・文化的な共通点を軸に緊密な関係を樹立することも期待された。

こうした多面的な地域統合の発展は遠い将来、東南アジアに日本・韓国・台湾・インドなども加え、「米国の影響力と力に結びついた一つの地域」を生みだすはずであった。

2.東南アジア中立化構想

ケネディ政権の幹部の一人ガルブレイズ(当時インド駐在大使)らは、「急速に悪化する東南アジアでの力の均衡を食い止めるためには、ラオス・ベトナムにとどまらず、東南アジア全域で中立の帯を実現するしかないと主張した。

ケネディ自身は、中立の東南アジアという壮大な構想が「我々の探求すべき究極の目標」であることは認めながらも、「未だその時期ではない」と結論していたという。

3.地域一体化を目指す戦略

この時期の米政府の現場幹部は以下の認識で一致していた。この地域は歴史も文化も置かれた立場もまったく異なる諸国の集まりにすぎない。ベトナム人、タイ人、カンボジア人の間にはまったく共通の感情がない。

東南アジアの人々をひとつにまとめ上げ、自分たちが運命共同体だという感覚をもたせるのは至難のことであった。

3.SEATOと英仏 

SEATOの軍事行動についてオーストラリア・ニュージーランドの態度はせいぜい懐疑的、イギリスは「いかなる軍事介入への参加にもまったく消極的」であった。フランスは「きっぱりと介入を拒否」していた。

アジアの加盟国は英仏両国への不信感を強め、英仏の除外もしくは全会一致制の破棄をもとめた。

SEATO戦略はジョンソン大統領の時代に最終的に放棄された。


というような流れで、個人の発言を拾っていくと歴史はどうにでも塗り替えられていくので、例えばJ.F.ダレスを善意の塊であるかのように描き出すこともできるのである。

SEATOは反共軍事同盟そのものであり、その本質を糊塗しても仕方ないのではあるが、SEATOが認めざるを得なかったいくつかの事実は、ASEANを考える上で念頭に置いておいて良いのかもしれない。

すなわち

1.この地域は歴史も文化も置かれた立場もまったく異なる諸国の集まりである。

2.東南アジアを一つの地域としてつくりあげることは、東南アジアにとってだけでなく周辺諸国の平和のためにも決定的に重要である。

3.中立の東南アジアという壮大な構想が「我々の探求すべき究極の目標」である。

4.この統合は地域の諸国が経済面の集団化によって繁栄を達成すること、共通点を軸に多面的な信頼・協力関係を築くことで実現される。

       

言語は技術
言葉・言語は知的生産のための最大の技術です。
言葉というのは聞いてしゃべることで発達してきました。
動物が叫び声や鳴き声でもって情報伝達するのと同じです。
しかし人間は母音と子音の組み合わせを用いて多くの種類の音を作りました。日本語で言えば五十音がそれに相当します。
これによってさまざまの事物が名称を持つようになりました。これにより人間の知識は飛躍的に発展するのです。
それに対応して脳も大きく進化しました。音声の弁別能力と発声・発音の運動能力です。
言葉と脳
ここまでなら、それでめでたしめでたしです。
聴神経を経由して入力された信号が、頭頂葉のウェルニッケと呼ばれる区域で言葉として認識され、それが海馬に蓄えられた記憶と突き合わせながら整理され、前頭葉で判断され、最後には側頭葉のブローカというところで言語に変換され、口や喉の関係する筋肉に伝えられます。
古事記やユーカラやポポル・ブフなどの口承文学はこのようにして作られてきました。
文字は言葉から言語への飛躍
ところが文字が発明されると、話は俄然難しくなります。
文字(これには数字や記号もふくまれますが)は言葉というより言語というべきでしょう。
そこには飛躍があります。量から質への転換です。
まず入力と出力の経路がまったく異なります。言語情報は眼から入ってきて、後頭葉で視覚化されたあと、おそらく頭頂葉の何処かで情報として処理されます。そしてどこかで耳からの情報と合流し、一体化し前頭葉に送られます。
もう一つは情報の素材的形態がまったく異なることです。むかしは音源を収録するのには音を流しながら録音するしかりませんでした。いまはデジタルですから、演奏時間60分の音源を4,5分でダウンロードできてしまいます。その代わりDAコンバータが必須です。
“内言語”の発展とデジタル化
文字情報を受け入れる際に、情報は脳の中で“内言語”化されています。
文字情報はデジタル情報であるために、内言語化されないとアナログ情報である聴覚情報と統合できないからです。
おそらく前頭葉の中でも、直接に話し言葉を判断・操作する区域と、デジタル化された内言語を操作する区域は異なるものと思われます。
そして判断を受けた思考が命令となって頭頂葉に戻ってきた時、ふたたびしゃべり言葉への転換・伝達系と書字系(キーボード入力を含む)の転換・伝達系にそれが分配されることになります。
書字障害は失語症とはまったく別だ
その際、書字系への出力は外言語(しゃべり言葉)にいったん変えられてから手指へと伝達されていることは、経験上明らかです。ゲルストマン症候群で書字障害が出てくるのは、まさにこの転換の障害であろうと思われます。
以上のような作業仮説に基づいて、最新の脳科学の成果をあたってみたいと思います。

つまらないことだが、勉強にはなった。
ねずみ講の上の方にいた人は、結構儲けているはずだ。ねずみ講が破産した場合、主催者には当然返還義務が生じるが、一会員として加入してうまいこと儲けた場合は、返す必要はないだろうと思っていた。それなりのリスクは背負ったからだ。
ところがそうではない、「返還せぇ」ということになった。しかも全額だ。最高裁判決だから確定だ。法律を作らない限りはひっくり返せない。
どういう裁判かというと、ねずみ講の会社が破産した。会社は破産管財人を立てた。管財人は儲けた奴に対して「不当に得た利益」を返還するようもとめた。その額2100万円。ちょっとした家が建つ。
そいつは当然のことながら返還を拒否した。
その際の事由は、民法上の規定である。民法にはこうあるそうだ。
公序良俗に反する行為によって支払われたものについては返還を請求できない。
裁判が始まり、一審、二審では儲けた奴が勝った。管財人は諦めずに最高裁まで上告した。
そして最高裁でどんでん返しが起きたのである。
最高裁判決のミソは“信義則”を民法の規定に優先させたことである。
(管財人の背後にいる)債権者の多くは、会社の破綻によって損失を受けているのだから、管財人が利益の返還を求めて、それを債権者への配当に充てるのは相当である。
とした上で、
男性が民法の規定を理由に返還を拒むのは信義則から許されない。
と断じたのである。
おそらく会社の形態や出資の形態に個別的特徴があると思われ、またこの男性の会社との関係も個別に論じられなければならないのであろうが、「原則返還」という判断は重い。

この判決は、ねずみ講の根絶に役立つだろうと思う。「絶対に得することはありえない」ことが示されたからである。

川内原発をめぐる記事から拾ったもの。“要確認”の記述である。
住民からは、「ヨーロッパではメルトダウンに備えてコアキャッチャーが装備されている。なぜコアキャッチャーを装備しないのか?」との質問が出ました。
規制庁は下記の設備が「コアキャッチャーと同等の安全性を確保している」と答えています。
その設備とは、
緊急時には、圧力容器の上から水をスプレーし、それが格納容器の下部に溜まって、水深1.5メートルのプールができ、溶け落ちた核燃料を受け止めて冷やす
というものらしい。
これに対し元燃焼炉設計技術者の中西雅之氏が下記のごとく指摘している。
溶融した核燃料に限らず、鉄や銅などの高温の溶融物が大量の水と接触すると、水蒸気爆発の危険があり、その対策は高温溶融炉設計の常識です。水を張って溶け落ちた核燃料を受け止めるなどとんでもない
水蒸気爆発といえば、御嶽山の噴火でおなじみだ。あれはマグマと地下水の接触だったようだが、今度は核物質だから、放射性物質があの噴火の煙のように世界中に撒き散らされることになる。
素人で分からないが、中西氏が正しいなら規制委員会が間違っているかウソをついているかということになる。
「世界最高水準の規制基準」という看板をめぐるガチンコ勝負だ。

風邪がますますひどい。本日はついに午後からダウン。

ただ昨日書いたブーニンの記事が気になって、YouTubeでまとめ聞きした。

STANISLAV BUNIN plays CHOPIN Polonaise-Fantaisie Op.61 (1987)

BUNIN Nocturnes 4,5,8,17(1995)

Chopin Concerto No.2 in F minor, Op.21, Bunin, LPO, Wesler-Möst - Live

STANISLAV BUNIN plays CHOPIN 4 Mazurkas Op.33 (2005 LIVE)

BUNIN plays RACHMANINOV Prélude Op.32_12 (LIVE 1992)

という曲が聞ける。


昨日の感想は全面的に取り消す。

すごい演奏家だ。いままで食わず嫌いで来たが、とんでもない人だ。野球で言えば大谷投手だ。

ノクターンの8番(作品27の2)、オクターブの和音が聞こえた途端、ぼろっと涙が出てくるほどの演奏だ。

「えっ?」と思ってルビンステインとポリーニを聞き直したが、こんな音は出していない。

幻想ポロネーズは見事だが、「そうかね?」という感じ。あとはライブ録音ばかりでホントの勝負ではない。現役バリバリだから、YouTubeに音源が出てこないのは仕方ない。

ということで、YouTubeで聞けるのは4つのスケルツォと4つのノクターンのみだ。

その範囲で言えば、まさに絶品だ。

一言で言えば、音の一つ一つに説得力があること、音楽全体に気品があることだ。

これだけで十分だろう。この人の音作りから言えば、スタジオ録音を聞かないと良さはわからないと思う。そこがポリーニと違うところだ。

ブーニンのスケルツォを聞いた。
2番を聞いていると「やらされている」感じがしてかわいそうな気もした。
しかしキラリと光るいいものがある。これは雑技団ユンディ・リーにはない。
キーシンより上ではないだろうか。
キワモノではないと思う。

タチアナ・シェバノヴァのマズルカ作品17の4曲が聞ける。
聞いたことのない音色と、聞いたことのないリズム感覚だ。
「これぞマズルカ」ということなんだろうけど、そして「確かにそうかもしれない」というほどの説得力はあるけど、「だから何さ」という感じもする。
1曲めは無骨そのもので、さすがに引いてしまう。2曲めはなかなかいい。グリンカとかアレンスキーを聞いている感じ。4曲目になるとうーむとうなってしまう。たしかにマズルカってそうかもしれないけど、ショパンがパリのサロンで弾くスタイルではない。ペショペショのロシア風打鍵もやはり違うと思う。これはショパンの中でも名曲だ。土のついた大根ではない。もっとクリスタルでなくてはいけないと思ってしまう。
これは節くれだった指でぬっと突出されたショパンだ。たしかに味はある。

ということで、私の土日は叔父の葬儀に費やされた。
この間に風邪がぶり返し、線香で喉をやられた。
月曜は忙しい日で、そう簡単に休む訳にはいかない。
なんとか我慢して、明日は午前で早退させてもらうことにしよう。
記事作成面の上の空欄にこう書いてあった。
雨の週末の過ごし方は?
寝て過ごそう。これが私の答え。

私の叔父、故望月政司の論文をネットで探してみた。

「プラチナ電極による酸素測定法について」という論文が読める。

計算式についてはちんぷんかんぷんだが、生体内の酸素濃度を測定する方法だと分かる。

はじめに酸素濃度測定法の歴史について簡単に触れられている。

最初に考案された方法は水銀の滴下電極を用いるものだった。しかしこれは水銀そのものが流動的で毒性もあることから使いにくいものだった。

1939年ころから、水銀の代わりにプラチナを用いる方法が開発された。この研究は米国で行われていたものであり、戦時下の日本には伝えられなかった。

戦後48年になって開発者が訪日し、プラチナ電極法が紹介された。そして現在は広範に用いられるようになっている。

原理はえらく難しく書かれているが、大要は如何の如きものだ。

水溶液中に電極を入れると電子が金属表面に集まる(電流が流れる)。

しかしこれは一瞬の話で、電極の周りに“二重層”が出来上がってしまうと電流は流れなくなってしまう。

ここで溶液中に酸素があれば、酸素は“復極剤”となり、電極の電圧が高くなった時に電子を受け入れる。この状態が続けば、電極周囲には微弱電流が流れ続けることになる。

これは溶液中の酸素濃度により規定されるので、論理を逆立ちさせると、この持続的微弱電流が測定できれば、そこから溶液中の酸素濃度を計算できることになる。

ここまではなんとかわかるが、溶液、生体内で言えば血液ということになるが、この溶液がトータルでどのくらいあって、どのくらいのスピードで回ってきて、電極の周囲を通過していくのか、ということまで計算するとなれば、これはえらく複雑な話になる。

Fickの拡散式というのから、いくつもの仮定を入れながら計算しているのだが、省略する。(この式は我々も心拍出量の計算のために憶えさせられた記憶がある)

これで問題が解決したわけではない。もう一つ重大な障壁がある。それが「酸素の還元形式」というものである。

一言で言うと、電極上で酸素が還元されることで、電流が維持されるのだが、この還元が二段階の還元過程に分かれているということだ。

酸素はまず、電子二つを取り込んで過酸化水素(HO)になる。そして過酸化水素から水になる。過酸化水素から水になるについては水素二つと電子二つが加わる。

これでは安定した電流を得られるまでに時間がかかってしまい、他の環境因子からの影響も受けやすい。

ところが水銀の代わりに白金電極を使うと、この過程を一発でやってくれるらしいのである。この場合は電子4つを加えて水酸基4つを作ることになる。水酸基がたくさんできると、溶液にフェノールフタレインを垂らせば、「あれ、見よかし」と赤くなる。この過程を解明するにあたっては望月政司らが貢献しているようである。

あとは文字通り応用的な技術に関するもので、電極に流す電流を矩形波にしたり、交流にしてみたりすることで、電極の劣化を防ぐ方策、電極をビニールみたいなもので被覆するなどの方法が紹介されている。

何時頃の文章か分からないが、参考文献の最新のものが1963年になっているから、その頃のものだろう。

私が北大に入る頃、実験道具を手製で作成していた頃の文献だ。



これだけ見ても、この研究にどんな意味があるのかは良くわからない。

ところが、望月らを賞めた論文があった。そこだけ紹介する。

オキシグラフによる組織の酸素代謝に関する研究という論文で、1960年のものである。

Ⅰ 緒言

Heyrovsky が1924年に滴下水銀電極によって酸素を測定出来ることを発見して以来,電気化学的に,生体の酸素量を測定しようとする多数の研究がなされてきた。

ところが滴下水銀電極は,液体であること,生体に有毒であること等の欠点のため,そのまま生体の酸素消費に利用することは出来なかった。しかし1941年に Latininen および Kolthoff が微小白金電極を用いた際に定量的な酸素の還元波が得られることを見出し,更に Davies, Bronk 等の研究によってポーラレグラフの生理学への応用が始められたのである。

固定白金電極を滴下水銀電極と比較した場合,操作が簡単なこと,毒性のないこと,生体の限られた組織の酸素濃度の測定が可能であること等の利点を持っているが,不安定なこと,再現性に乏しいこと等の難点がある。

これに対し,簑島,望月は、この数年来白金電極法の実用化に対して多くの苦心を重ねた結果,これらの難点を解決して,生体酸素濃度記録装置(Oxigraph)の作製に成功した。
…現在オキシグラフによる生体組織の酸素消費測定の実験例はかなり多い。

望月,切替 は大脳内の酸素を,井上,後藤は皮下の酸素を,浅野は蛙の心臓の酸素消費と搏動について測定している。最近浜本は酸素以外の物質の定量分析についての実験を行っている。

以下略


次は北大応用電気研究所の歴史から


本研究所が設置された一九四三年(昭和一八)医学及び生理第一部門が専任部門として、医学及び生理部門生理第二部門が兼任部門として発足した。第一部門の教授には小溝協一ニが就任したが、一九四六年辞任した。

第二部門の兼任教授には初代所長箕島高が就任し、一九五七年(昭和三二)退官するまで、医学及び生理第一、第二両部門全体の研究を替励推進した。一九四四年寿原健吉が助教授になり、一九四五年岩瀬吉彦、一九四六年望月政司がともに助手になった。

岩瀬は一九四八年(昭和二三)助教授になり、一九五二年第一部門の教授に昇任したが、一九五八年(昭和三三)京都府立医科大学教授に転出するまで、生理学のうち主として動物性機能と呼ばれる分野の研究を展開し、生体組織の電気的特性、心電図、大脳生理の研究に成果をあげた。

望月は生理学のうち植物性機能の分野に研究を進め、一九五二年第二部門の助教授となり、一九五八年(昭和31年)岩瀬のあとをうけて第一部門の教授に就任した。

酸素分圧の測定、肺でのガス交換、赤血球の酸素化について詳細な研究を展開し、望月の考案になる多線白金・酸素電極、円形スパタ酸素電極はこの分野の多くの欧米の著書に引用されている。

肺でのガス拡散に関する理論、ミクロの光電比色による赤血球の酸素化測定法も、未解決であった呼吸生理学上の多くの問題を解く鍵となり、国際的に高く評価され、毎年のように国際学会の座長をつとめた。

当部門から内外の専門誌に発表された論文著書は200編に近い。

七三年(昭和四八)望月教授が、新設医学部の基礎作りに請われて山形大学医学部へ転出し、望月教授の薫陶をえていた小山助教授が一九七五年、(昭和50年) 生理部門の教授に昇任し、笹嶋唯博が助手になった。

(笹島くんは私と入学同期で、同じ「青雲荘」という下宿だった。しかしあまり口を利いたことはなかった)


時系列で見た

東アジア共同体とASEAN

雑誌「前衛」2004年9月号 特集「アジアの安定と平和への前進」などより作成しました.

2004年10月

増補 2014年10月

増補 2015年1月

 

54年5月にディエンビエンフーの歴史的戦闘、8月にはジュネーブ条約が締結された。

9月、インドシナ情勢に危機感を抱いた米国が、南アジア条約機構(SEATO)を結成。

加盟8カ国中、東南アジアからの参加国はフィリピン、タイのみ。他はオーストラリア、フランス、イギリス、ニュージーランド、パキスタン。

55年 インドネシアのバンドンで、アジア・アフリカ諸国首脳会議が開かれる。非同盟志向を反映した「平和十原則」を採択。

61年 マラヤ連邦のラーマン首相が提唱し,タイ、フィリピン、マラヤ連邦の親米3カ国をメンバーとして東南アジア連合(Association of Southeast Asia, ASA)が結成される.インドネシアのスカルノはこれに強い警戒感を抱く。

63年9月 マラヤと北ボルネオが統合しマレーシア連邦が成立。インドネシアとの関係が悪化する。

64年9月 トンキン湾事件。米国の東南アジア干渉が本格化する。

65年8月 経済的苦境の中、シンガポールがマレーシア連邦より離脱する。

65年9月 インドネシアでクーデター。スハルトが共産党員数十万を虐殺。強力な反共政策を実行。

66年 第1回南東アジア開発閣僚会議、アジア開発銀行の設立で合意。ほかにアジア太平洋協議会(ASPAC)などを通じて地域協力の動きが活発化.米国は親米・反共諸国による一連の地域主義イニシアチブを歓迎。

66年 ASAにインドネシア、シンガポールを加え、新たな機構設立の気運が高まる.

インドネシアは反共に転じたものの、武装闘争で独立を勝ち取った国として強いナショナリズムを保持していた。インドネシアとの窓口となったマレーシアは、インドネシアの主張を受け入れる形で(形だけ)、ASEAN結成にこぎつけたと言われる。


1967年

8.08 ASEANがバンコクで創設される.5カ国外相がバンコク宣言に署名。反共同盟としての色彩が濃厚だが地域の独自性と自決も掲げた.年1回の外相会議のみで、組織としての実体はなし.

バンコク宣言: “東南アジア諸国が地域としての独自性を確固なものとし、地域の問題を自らの手で解決 していくことが、地域の平和と安定に繋がる”
 ①域内における経済成長、社会・文化的発展の促進,②地域における政治・経済的安定の確保,③域内諸問題の自力解決,を柱に掲げる.

67年 ビルマ、セイロンなど非同盟諸国は加盟招待を辞退。社会主義諸国は「SEATOの補完物」と非難。

68年1月 南ベトナムでテト攻勢。ベトナム問題が重大化する。SEATOは機能せず、タイとフィリピンが個別に関与。

71年11月 クアラルンプールで第4回ASEAN特別外相会議を開催。インドネシアのイニシアチブのもとで、共通の外交路線たる「東南アジア平和・自由・中立地帯」(ZOPFAN)宣言に署名。主要目標は反共産主義ではなくなる。

ZOPFAN宣言第1項 東南アジアが域外大国からのいかなる形態や態様の干渉からも自由な平和・自由・中立地帯としての承認と尊重を確保するため当面必要なあらゆる努力を払う。このため,地域としての強靱性(RESILIENCE)を構築することを目指す。「平和と自由」はバンドン宣言を下敷きにしたもの。

73年 パリ条約調印。ベトナム戦争が終結する。

1974年

74年 ジャカルタにASEAN中央事務局が設置される.

74年 田中角栄首相がインドネシアを訪問。日本の経済進出に反対するデモが発生。

5月 マレーシアが中国との国交を樹立。「共産中国に対して東南アジアの中立化を保障するよう求めながら、他方で中国を承認しないとはいえない」とする。その後フィリピン、タイが相次いで中国承認。

1975年

75年4月 サイゴン陥落.これを機にドミノ理論と対米追随路線に対する深刻な反省が生まれる。

75年 「ZOPFAN宣言」の具体化を目指す事務折衝会議(CSO)が平和・自由・中立の定義に関する最終報告を作成。

平和: 域内諸国間に調和と秩序ある関係が普及している状態。国内状態には関わらない。
自由: 域内諸国の内政外交に他国から規制・支配・干渉を受けない状態。
中立: 国際法上の国家間紛争にいかなる形態でも加担しない(非党派性)

75年 CSO、域内外諸国の内外政の指針となるべき14項目の「行動基準」を作成。TACの原型となる。

1.独立・主権・領土的一体性、2.国家的アイデンティティの尊重、3.内政不干渉、4.紛争の平和的解決、5.外国の軍事基地の不在、6.核兵器の使用・貯蔵・実験・通過の禁止、7.対外貿易の自由、8.国家的強靱性強化のための援助受け取りの自由などを提示

1976年

2月 バリ島で第1回ASEAN首脳会談.政治、安全保障、経済協力のための6つの原則を盛り込んだ「ASEAN協和宣言」(DAC)を発表.

2月 「東南アジア友好協力条約」(TAC)が調印される.元々はインドシナ諸国への和解のジェスチャーとされる。現在は域外国の調印も得て,行動枠組みを規定した実質的な根拠法となっている.

東南アジア友好協力条約Treaty of Amity and Cooperation in Southeast Asia
国連憲章を土台に,
域内諸国間の平和的関係を維持する規範として定める.
①独立・主権・領土保全などの相互尊重,
②外部からの干渉なしに自国を運営する権利,
③相互の内部問題への不干渉,
④紛争の平和的手段による解決,
⑤武力行使と武力による威嚇の放棄,
⑥諸国間の効果的協力

1977年

6月 東南アジア条約機構(SEATO)が解散される。

8月 クアラルンプールで第2回首脳会議。引き続き、日本との首脳会議。

8月 ASEAN+日本首脳会議で福田首相が対ASEAN政策を説明.

福田ドクトリンの骨子: ASEAN が地域機構として確立していることを確認し連携する。
日本は①軍事大国とならず,東南アジアと世界の平和と繁栄に貢献.②心の触れあう信頼関係の構築.③ASEAN連帯強化に協力し,インドシナ諸国との相互理解を醸成する。

1979年

1月 ベトナム軍のカンボジア侵攻。ASEAN諸国はカンボジアの自決権を侵すものとして非難。

79年 ポルポトを支援する中国はベトナムに武力「懲罰」作戦を展開。

80年3月 インドネシアとマレーシア、タイの安全確保とベトナムの中ソとの関係整理を条件に、インドシナ地域におけるベトナムの主導権を容認。「クアンタン原則」と呼ばれる。

ベトナム軍侵入と中国のベトナム攻撃をめぐりASEANは二派にわかれた。シンガポール・タイはベトナムの軍事的脅威を重視し中国への傾斜を強めた。インドネシア・マレーシアは中国を真の長期的脅威とみなし、ベトナムを緩衝国家と位置づけた。

6月 カンボジア駐留ベトナム軍がタイ領内に越境攻撃。ASEAN外相会議でベトナムを名指しで非難。

81年 マハティール・ビン・モハマド,第4代マレーシア首相に就任.「ルック・イースト政策」を発表する.

84年 独立して間もないブルネイが加盟。6カ国となる。

85年 プラザ合意成立.急激な円高を背景に,日本の対ASEAN直接投資が拡大.各国は輸出指向の開放的経済政策を推進.

86年2月 フィリピンで「黄色い革命」。マルコス独裁政権が倒れ、アキノ政権が成立。スハルトは開放政策に舵を切る。

1987年

12月 10年ぶりとなる第3回ASEAN首脳会議がマニラで開催される.マニラ宣言を採択。

マニラ宣言(ASEAN行動計画): 1.東南アジア平和中立地帯構想(ZOPFAN)の早期達成と東南アジア非核兵器地帯(SEANWFZ)の早期創設。
2.東南アジア友好協力条約を修正し,域外諸国の加入も可能とする.
3.特恵貿易取り極め(PTA: Preferential Trading Arrangements)の推進。

12月 ASEAN首脳会議に引き続き、日本との首脳会談。竹下首相は、ASEANの民間経済部門の発展と、域内経済協力への支援を表明。

89年11月 オーストラリアのホーク首相がアジア太平洋経済協力閣僚会議(APEC)を提唱.べ-カー米国務長官が協賛する形で実質的な合意がなされた.第1回会合がオーストラリアで開催される.

90年末 マハティール首相が東アジア経済グループを提起.APEC に対抗する形で打ち出された。

東アジア経済協議体(EAEC): 翌年にマハティールはグループ構想をさらに展開。当面協議体(EAEC)として出発することでASEAN各国(とくにインドネシア)の了解を取り付ける.今日の東アジア共同体構想につながるものと位置づけられている.

91年 カンボジア和平協定が成立.

1992年

1月 シンガポールで第4回ASEAN首脳会議.AFTA(ASEAN自由貿易地域)の形成を目指す「シンガポール宣言」が採択される.

①CEPT 93年1月から15年以内に「共通効果特恵関税」制度を導入する,2010年までにはASEAN原加盟6カ国、18年までに他の4カ国の域内関税を完全撤廃
②AFTA 上記の積み上げの中からASEAN自由貿易地域の創設.
③TAC拡大 
東南アジア諸国の「東南アジア友好協力条約」への加盟を促進

6月 マハティール,東アジア経済協議体(EAEC)を改めて提唱.米国の妨害により、一旦挫折する。

米国はEAEC構想に対し,自らを排除する地域組織と敵視し、成立を妨害した.この結果,ASEAN外相会議は,「ASEAN経済閣僚会議がEAECに支援と方向を与える」と決議するに留まった.

7月 バンコクで第27回ASEAN外相会議,ベトナム、ラオス、カンボジア、ミャンマーの加盟に関する協議。ジャカルタにあるASEAN事務局を拡大・強化することで合意.

7月 ASEAN外相会議,「南シナ海におけるASEAN宣言」を発表.南沙諸島紛争の平和的解決の諸原則を提示.

7月 ASEAN外相会議に引き続き第1回ARF閣僚会合。アジア太平洋地域17か国とEUの外相を結集した歴史的会議となる。

9月 インドネシアで第10回非同盟諸国会議.南北の経済格差問題がクローズアップされる.

9月 第26回ASEAN経済閣僚会議。CEPTスキームに関する協議。引き下げ期間の短縮と対象品目の拡大で合意。

9月 マハティール,国連で演説。非同盟とASEANの立場を強調.

マハティール演説の骨子: 
1.ヨーロッパは保護主義的貿易ブロックを選択してきた。自分たちの高い生活レベルと生産コストを守 り通すために、東アジア諸国との競争を拒絶し、EAECを阻止しようとている。
2.欧米は今後も、民主主義、人権、労働条件、環境破壊、知的所有権などあらゆる問題であら捜しをして、それを口実に私たちへの差別政策を正当化しようとするだろう。それはアジア人に対する人種差別である.
3.米国が反対しても,東アジアはEEC,NAFTAとならぶ三つの主要地域グループのひとつになるだろう

92年 ベトナム,ラオスが東南アジア友好協力条約へ加盟.ミャンマー、カンボディアは95年に加盟.

1993年

1月 AFTAがスタート.域内貿易の関税を5%以下に下げることを目標とする.

1月 クリントンが大統領に就任.EAECの結成を妨げる立場から,APECの強化に乗り出す.

7月 クリントン大統領が早稲田大学で講演.「新太平洋共同体」構想を発表。

新太平洋共同体: ソ連崩壊後のアジアでの覇権確立を目指す構想。経済から軍事協力まで視野に入れ、APECの中核的重要性を強調する.

11月 シアトルでAPEC非公式首脳会議が開かれる.アジア・太平洋諸国の首脳を網羅。マハティールは,「身内の結婚式に参加するため」会議を欠席.

1994年

7月 東南アジア諸国連合地域フォーラム(ARF)の第1回閣僚会議が開かれる.「アジア太平洋地域の政治,安全保障協力強化の主要なフォーラム, 平和と安定構築の主軸」となることを目指す.

対話パートナー国: 米・日・韓国・露・中国・印・豪・カナダ・ニュージーランド・EUの10カ国ヴィエトナム、ラオス及びパプア・ニューギニアの5カ国も正式メンバーとし て加わる.その後さらにカンボディア、ミャンマー、モンゴル、北朝鮮が加わる.

11月 インドネシアのボゴールで,APEC首脳会議が開催される.「APEC加盟の18国・地域は2020年まで に域内貿易の自由化目標を達成する」とするボゴール宣言を発表.

ボゴール宣言: ①自由化のみが強調され,域内協力が進展しなかったこと,②APEC構成国 の中で,南北アメリカとアジアとの間に格差がつけられたことから,ASEAN諸国の失望を呼ぶ.

1995年

7月 ブルネイで第28回ASEAN外相会議。ベトナムがASEAN加盟、カンボジア・ラオスがオブザーバー地位取得、ミャンマーがTACに加入。

8月 ASEAN外相会議に引き続き第2回ARF閣僚会合。①信頼醸成の促進、②予防外交の進展、③紛争へのアプローチの充実という3段階に沿って漸進的に進めることで合意。

12月 バンコクで第五回ASEAN首脳会議.東南アジア10ヶ国が初めて勢揃いする。

バンコク宣言: 
1.東南アジア非核兵器地帯条約(SEANWFZ)に署名.97年に発効.
2.AFTA域内関税制度の前倒し実施
3.一般的紛争処理メカニズム(DSM)の設置、

12月 日本が東アジア首脳会議への不参加を表明したもとで,中国と韓国のみで地域協力機構の設立に動く.

うわさ話: 某外交官は日豪財界人会議で.「EAECは日本が参加しなければ成り立たない.日本は参加しないから,それは自然死する」と述べたとされる.

 

1996年

7月 ASEAN拡大外相会議.中国,インド,ロシアを対話パートナーとして承認.中国はこれに対応して銭基深外相を会議に派遣.

11月 ジャカルタで第1回ASEAN非公式首脳会議. カンボディア、ラオス、ミャンマーのASEAN同時加盟を決定。 東チモール問題に関しインドネシアへの支持を表明。

11月 バンコクで第1回ASEM 首脳会議(アジア・欧州)を開催.欧亜間の経済、政治、文化面での対話と協力推進を目的とする.以後隔年ごとに開催.

96年 ASEANの主催でメコン開発閣僚会議.ASEAN首脳会議の議論を経て,日本を招請せずにおこなわれたことから,日本政府に衝撃を与える.

1997年

1月 橋本首相がASEAN諸国を歴訪.関係修復を図る.対話緊密化と多角的な文化協力を謳うが,東アジア共同体構想への言及なし.

7月 後発国の追い上げで輸出停滞に陥ったタイ政府は、バーツ切り下げで打開を図る。これをきっかけにバーツの投機売りが始まる。

7月 タイが金融危機に陥る.投機資金が急激に逃避したことから,短期的なバーツの流動性危機を引き起こす.

8月 インドネシアでルピアの暴落が始まる.

8月末 日本が中心となりアジア通貨基金(AMF)構想.米財務省はIMFの権限を侵食するものとして猛反発.

9月 香港でIMF・世銀の年次総会.マハティール首相は,「実需を伴わない為替取引は不必要、不道徳で非生産的だ」と強く非難.ジョージ・ソロスは、「為替取引きの制限は破滅的な結果につながる」と脅迫.

9月 香港でIMF年次総会に引き続き先進七か国蔵相・中央銀行総裁会議(G7).AMF構想は中国が保留に回ったため流産.

11月 APEC非公式首脳会議.「市場参加者の役割についてIMFが行っている研究の結論を期待する」とし,通貨取引の在り方全般をIMFに丸投げ.

12月15日 クアラルンプールで第二回非公式ASEAN首脳会談.「2020年 ASEANビジョン」を発表.「2020年までにASEAN共同体となることを目指す」とする.

12月 ASEAN首脳会談、「思いやりある社会の共同体」の考えを打ち出す.

思いやりある社会の共同体: 社会的弱者を放置すれば,格差が広がり,社会が分裂して社 会の強靭さが損なわれるとし,
①思いやりある社会の建設,②経済統合の社会的影響の克服,③環境の持続性の促進,④ASEANとしてのアイデンティティーの創出などを掲げる.

12月16日 日・中・韓国の首脳が招待され,ASEAN首脳会談に引き続き東アジア首脳会議.ASEAN+3の始まりとなる.通貨の安定策、痛みを伴う構造調整、日本(など先進国)の支援強化で認識の一致。

ASEAN+3成立の裏側: 当初日本には参加の意思はなかった。ASEANが日本抜きで開催する方向を明らかにしたことから,動向を見て急遽日本政府も参加を決断したと言われる

12月16日 ASEAN9カ国首脳と江沢民主席の会談.共同声明を採択.

中国・ASEAN共同声明: 
1.21世紀に向けた親善相互信頼パートナーシップの形成。
2.中国はASEANの平和・自由・中立地帯構想を支持し東南アジア非核兵器地帯条約の発効を歓迎.
3.ASEANは「一つの中国」 政策を順守.南沙諸島問題では「武力に訴えることなく,平和的手段で意見の相違や紛争を解決する」ことを誓約.

12月 マハティール首相,国民経済行動評議会を組織.ダイム特別相、ノルディン・ソピー戦略国際問題研究所長らに通貨危機への総合的対応策の検討を命じる.

97年 インドネシアでスハルト独裁体制に対する政治危機が深刻化.米国は金融危機に対して一切の支援を拒否し,IMF基準の押し付けに終始した.米国とAPECへの失望が広がる.

1998年

5月 スハルト大統領が辞任.ハビビ副大統領が大統領に就任.

6月 米フィナンシャル・タイムズ紙,「日本株式会社は死にかかっている」と報道。金融市場が麻痺して円が対外責任能力を喪失した状況にあると評価。いっぽう元の防衛に成功した中国は,「世界の金融政策形成に対する影響力を持つものとして登場した」と述べる.

7月 中国,ASEAN拡大外相会議に参加.「東南アジア友好協力条約」への加入に前向きな姿勢を表明.

7月 マハティール,IMF路線で財政再建を図るアンワル副首相を更迭.短期資本を規制し,独自の為替管理で危機に対応.日本はマレーシア支持の姿勢を明確にする.この年マレーシアの成長率はマイナス7%.

10月 宮沢蔵相,先進7カ国蔵相・中央銀行総裁会議(G7)で新宮澤構想を発表.

新宮沢構想: ヘッジファンドなどによる短期的な資本取引の規制。アジア諸国に300億ドルの資金供与、を柱とする。

11月 米国防総省,東アジア戦略報告を発表.日米同盟を「21世紀においても米アジア安保政策のかなめ」と位置付ける.またARFの役割を積極的に評価.

12月15日 ハノイで第6回ASEAN首脳会議.経済回復を目指す特別対策「大胆な措置に関する声明」を発表.

大胆な措置声明: 
1.CEPT実施率の努力目標 を1年間前倒しする.
2.そのために6ヵ年行動計画(ハノイ行動計画)を実施する。
3.マクロ経済と金融に関する協力の強化を主柱とし,経済統合の強化,ASEANの機構とメカニズムの改善をはかる。

12月16日 ASEAN首脳会議に引き続いて第二回ASEAN+3首脳会議.並行して日中韓三国首脳会議も開催。以後,ASEAN首脳会議とASEAN+3首脳会議はセット となる.

各国の提案合戦: 金大中の提唱で,協力のための検討機構として,東アジア・ビジョン・グループ(EAVG)を設置.中国の胡錦濤副主席は,金融危機打開のため東アジア蔵相会議の開催を提案.小渕首相は新宮沢構想を発表する一方.蔵相会議への米国の参加をもとめ,顰蹙を買ったといわれる(外務省のホームページには記載なし)

98年 この年のASEAN経済成長率はマイナス7%,インドネシアでは13%の落ち込み.対米不信はロシア危機の際に米財務省がヘッジファンドの救済に乗り出したことからさらに増幅される.

 

1999年

8月 マハティール首相、中国を訪問.EAECを基礎に地域の安全保障問題などを協議する「東アジア共同体」を実現するよう呼び掛ける.

10月 インドネシア大統領にワヒドが選出され。本格的民政に移行する。

11月 マニラでASEAN首脳会議。通貨金融面の協力のため、ASEAN 監視システム(ASP)の設置で合意。南シナ海問題で地域的行動規範が必要との認識で一致。

11月 マニラで第三回ASEAN+3首脳会議.初の共同声明となる「東アジアにおける協力に関する共同声明」を発表.

共同声明の骨子: 金融安定のための「東アジアにおける自助・支援メカニズムの強化」で合意。他に経済・エネルギー・農業分野での協力をうたう。ASEAN側は安保問題も議論するよう提起.日本は安保条約を理由に安保問題の討議を拒否

99年 マレーシア,独自の経済再建に成功.成長率をプラス6%に戻す.

2000年

5月 チェンマイでASEAN+3蔵相会議,日本の提起した「チェンマイ・イニシアティブ」で合意.

チェンマイ・イニシアチブ: 通貨危機の再発に備え,ASEAN各国と日本、中国、韓国との間の二国間で総額 365 億ドルにのぼる通貨(外貨準備)のスワップ協定が調印される.IMFと連動するが、それ以前にも独自判断で総額の20%まで発動可能。

7月 バンコクでASEAN+3 外相会議。「東アジア協力に関する共同声明」の実施状況のレビュー。「インドネシアの主権、領土的一体性及び国家的統一を支持するASEAN+3 共同声明」を採択。

7月 外相会議に引き続き、ARF 閣僚会合。北朝鮮が初参加.

11月 シンガポールでASEAN首脳会議.ASEAN 統合イニシアティブ開始について合意。

ASEAN統合イニシアティブ(Initiative for ASEAN Integretion : IAI)
 先発6カ国が後発4カ国の発展を支援することで,域内の経済格差を縮小し、地域全体としてのASEANの競争力を強化することを目的とする.

11月 ASEAN首脳会議に続きASEAN+3首脳会議.東アジア研究グループの設置で一致。

東アジア研究グループ (EASG):金大中の提唱した東アジア共同体構想に基づき、これを具体化するための会議。

00年 中国とASEAN諸国,南沙諸島問題解決のための「南シナ海での関係諸国の行動に関する宣言」で合意.自由貿易地域(FTA)に関し意見交換するため中国・ASEAN合同協力委員会を立ち上げることで合意.

00年 ASEAN経済が復調する.この年の成長率は5.9%に達する.

2001年

2月 ASEAN 統合イニシアティブ(IAI)について検討するためのIAIタスクフォースが設置される.

7月 ハノイでASEAN外相会議.「より緊密なASEAN統合のための,発展格差縮小に関するハノイ宣言」を発表.後発諸国の引き上げに本腰を入れる姿勢を明らかにする.

11月 カタールのドーハでWTO閣僚会議が開催.新多角的通商交渉を開始することで合意.

11月 ブルネイでASEAN首脳会議.ASEAN+3協力をさらに促進するためASEAN+3事務局の設置を提案。 「テロリズムに対抗するための共同行動に関する2001ASEAN宣言」を採択.メコン地域の開発を優先課題とすることで合意。

11月 ASEAN+3首脳会議.

小泉首相の挨拶: 「福田ドクトリン」以降ASEAN 重視政策は一貫している。日本は軍事大国にはならない。自衛隊は戦闘行為に参加しない。
金大中の演説: 東アジア・ヴィジョン・グループ(EAVG)報告書を提出.「東アジア・サミット」・「東アジア自由貿易地域」の検討を進めるよう訴える.
朱鎔基首相の演説: 10年以内にASEAN諸国との自由貿易協定(FTA)を締結する。近隣諸国に市場機会を提供し、中国脅威感の軽減を図る。

12月 中国,世界貿易機関(WTO)に加盟.

01年 東アジアの貧困人口比率は84 年から2001年の間に38.9%から14.9%に低下し、絶対的な貧困人口も5億6,220万人から2億7,130万人に減少.

2002年

1月 小泉首相、シンガポールとのFTA成立に合わせ「東アジア拡大コミュニティ」の構築を提起。ASEAN+3にオーストラリア、ニュージーランドを含める。

4月 マハティール首相、小泉構想(と背後の米国)を厳しく批判。

マハティール批判: ヨーロッパやアメリカには排他的組織が認められ、アジアに独自のグループが形成できないのはおかしい.東アジアの国々が、ASEANプラス3などという名称で実態を隠さなければならないのは、恥じるべき措置だ。

7月 ASEAN外相会議。中国との協力関係の強化を掲げ、日本を牽制。

10年以内に中国・ASEAN 自由貿易地域を設置する。中国との経済協力の枠組み合意を目指す。来る首脳会議での署名を期待する。
…日本との緊密な経済連携が更に進展することを期待する

11月 小泉首相の私的懇談会「対外関係タスクフォース」が,「21世紀日本外交の基本戦略」と題した報告書を首相に提出.「米国追従一辺倒の路線の修正」を強調.

基本戦略の骨子:  アメリカは「反対意見や異なる価値への寛容の精神と道義性が弱まっている」との懸念を示し、日米関係について「安全保障関係を中心に総合的に再検討すべき 時期に来ている」と指摘.「日本は米国と同じ目的を持ちつつも、自らの座標軸を持って米国とは補完的な外交を行っていくべきだ」と主張.

11月 プノンペンでASEAN首脳会議.ASEAN 統合のロードマップ及び最終目標としてのASEAN 経済共同体のアイデアを検討。大メコン地域開発の推進で一致。

11月 プノンペンでASEAN+3首脳会議.東アジア研究グループが報告書を提出.東アジア共同体具体化のため,26項目の課題を提案.

26項目課題: 17項目が短期目標.①企業評議会の設置,②外資導入環境の整備,③投資情報ネットワークの設立,④技術移転と技術開発での協力,⑤シンクタンクの連絡網の確率,⑥東アジアフォーラムの設置,⑦貧困解消計画の作成など.
9項目が中長期目標.①東アジア自由貿易地帯(EAFTA)の設置,②東アジア投資地域の設定,③地域融資機関の確立,④地域為替管理機構の設立,⑤ASEAN+3首脳会議の東アジア首脳会議への発展など.

11月 朱鎔基首相は、日中韓3国がFTA締結に向けて協議を開始するよう提起.金大中大統領は、「東アジア・フォーラム」の開催を提案。小泉首相の発言は日・ASEAN 包括的経済連携の強化にとどまる。

 

2003年

1月 日本経団連,「活力と魅力溢れる日本をめざして」を発表.「東アジアの連携を強化」を提言.日本がリーダーシップを発揮し、2020 年までにアジア自由経済圏を完成させることを目指す.

3月 アメリカ,国連決議を無視してイラクに侵攻.

3月 アセアンでの対応は割れる。タイ,フィリピン,シンガポールなど非イスラム国がイラク「復興支援」に派兵.マハティール首相は 「国連は今すぐにアメリカに戦争をやめさせ、イラクからの撤退を求めるべき」と主張する.

03年6月

6月 ASEAN外相会議(引き続きASEAN+3外相会議、ARF閣僚会合)がプノンペンで開催。国際紛争について突っ込んだ見解を共有。

共通見解: 1.米国のユニラテラリズムを批判.「国連憲章をふくむ国際法の諸原則を厳密に遵守することの重要性を再確認」する.
2.南シナ海における関係国の行動に関する宣言。行動規範の策定を目指す。
3.北朝鮮にかかわる6カ国協議を支持。

8月 クアラルンプールで第一回東アジア会議開催.マハティール首相はアジア通貨基金(AMF)について強調.「理念や哲学を語り合う時期は終わった.これからは、どうやって作り上げるかを検討しよう」と述べる.

9月 北京で東アジア・シンクタンク・ネットワーク(NEAT)が設立される.「東アジア共同体」の現実化に向けロードマップ作りを開始.東アジア会議と内容的には重複.

03年10月

10月 バリ島で第9回ASEAN首脳会議.第二次ASEAN協和宣言(第二次バリ宣言)を発表.

バリ・コンコードⅡ: ASEAN共同体の2020年創設を確認。ASEANを「単一の市場,単一の生産拠点として確立」することを目指す.安保共同体行動計画の起草をイン ドネシアに,社会文化共同体計画をフィリピンに委託.
 第1回のASEAN首脳会議は76年に同じバリ島で開かれた.ここで協和宣言が発表され,東南アジア友好協力条約が締結された.第二次というのはこれを念頭に置いたもの.

10月 ASEAN首脳会議に引き続き,ASEAN+3首脳会議.中国とインドが東南アジア友好協力条約(TAC)に署名.

王毅外務次官(中国): TACは内部問題への不干渉,紛争の平和的解決,主権や領土保全の相互尊重など,各国が従うべき原則そのものだ.
シクリ外務次官(インド): 
TACの原則は,平和共存の五原則と一致しており,地域の平和,安定,進歩の利益や誓約を反映している.
小泉首相: 
TACの有無に関わらず,独自の立場でASEANとの協力関係を強める」としてTACへの加入を拒否.

10月 ASEANと中国、「戦略的パートナーシップ共同宣言」を採択.2010年までにASEANとの間でFTAを実施.貿易の拡大を確認.

ストレーツ・タイムズ紙(マレーシア)の論評: 中国の魅力ある攻勢は明白で,中国は日本を完全に凌駕した.中国はまた,東南アジア非核兵器地帯条約への加入を積極的に検討している.日本の官僚主義は,その慎重さと伝統的な思考を捨てなければならない.なにより対米追随を脱却し,自分自身の独立を図る必要がある.

12月 日本政府,東京でASEAN諸国との特別首脳会談を開催.これまでの消極的態度を改め,TAC加入を決定.中国のTAC加入へのあせりの表現と見られる.

03年 APEC首脳会議.ブッシュ大統領は対テロ戦争路線への支持を取り付けようとするが,「政治課題はなじまない」と拒否される.APECの存在感は急速に薄れる.

03年 中国と香港、台湾を合わせた中国圏への輸出が約13兆7000億円に達し、アメリカ向け輸出(約13兆4000億円)を上回る.

2004年

5月 日本政府の肝いりで,東アジア共同体評議会が設立される.関係省庁、シンクタンク、企業代表が参加。「日米同盟との両立を如何に図るか」を検討.議長の中曽根元首相,東アジア共同体について「中国に先に出られている」と危機感を表明.

04年6月

6月 クアラルンプールで第二回東アジア会議.アブドラ首相が基調演説.

アブドラ首相の基調演説: 東アジアのいかなる国,いかなる国民も,いかなる装いの下であれ,「大東亜共栄圏」の再現を望んでいない。
いかなる国家エゴイズムも,帝国的野望も,不平等国際条約も強制も,脅しも,威圧も,侮辱も,覇権もあってはならないと強調。

6月29日 ジャカルタで第37回ASEAN外相会議.多国間協調主義を基調とするASEAN憲章の作成を決議.

04年7月

7月01日 引き続きASEAN+3外相会議.EASG提案の前進を確認.また「東アジア首脳会議」の開催で合意.

前進した課題: ①ASEAN10カ国による自由貿易協定(AFTA)の進行.②ASEANと中国とのFTA協議の進展.③アジア債権ファンド(ABF)の設立など

7月 日本外務省,ASEAN+3外相会議に対し,米国を東アジア共同体へ参加させるよう示唆.

7月 引き続きARF閣僚会合。中国が軍及び政府関係者による「ARF 安全保障政策会議」(ASPC)の設置を提案し承認される。

7月 米太平洋軍,マラッカ海峡軍事行動での共同作戦を提案.マレーシアとインドネシアは,マラッカ海峡の安全は両国が責任を持つとし,米軍の提案を拒否.

04年11月

11月 ビエンチャンで第10回ASEAN首脳会議.2020年のASEAN共同体創設を目指し,地域統合の深化と,加盟諸国間の格差縮小をテーマとする.

11月 ASEANと温家宝首相の会談.①イラク情勢を憂慮し,国連が重要な役割を果たすべきとの認識で一致.②中国は東南アジア非核地帯条約の付属議定書へ署名の意向.③「全面的経済協力に関する枠組み」で合意.

2005年

05年7月

ビエンチャンで外相会議、+3外相会議、ARF閣僚会合が開催される。

05年12月

クアラルンプールでASEAN首脳会議。ASEAN憲章の起草で合意。元首脳や有識者の賢人グループに委ねられる。

憲章の骨格: 民主主義の促進、核兵器の拒否、武力行使・威嚇の拒否、国際法の原則順守、内政不干渉などが含まれる。

このあと初のASEAN+ロシア首脳会議も行われ、プーチンが参加。

第1回「東アジアサミット」(EAS)が開催される。参加国はASEAN+3に豪州、インド、ニュージーランドを加えた16ヵ国。ASEAN+3の枠組みを嫌う日本が押し出したもの。「東アジア首脳会議に関するクアラルンプール宣言」は抽象的なものにとどまる。

05年 ASEANと米国、パートナーシップ協定で合意。

2006年

5月 第1回ASEAN国防相会議。2020年までにASEAN安全保障共同体 (ASEAN Security Community: ASC) を創設することを目指す。

7月 クアラルンプールでASEAN外相会議。これまでの過程を整理し、1.ASEAN が「driving force」であり続けること、2.ASEAN+3 が東アジア共同体形成の主要な手段であり続けること、3.EAS が東アジアの平和と経済的繁栄について対話するためのフォーラムであること、を確認する。

8月 経済閣僚会議、ASEANの経済発展を確認。5.5%の経済成長、輸出が前年比13.5%増、投資も前年比48%増の380 億ドルに達した。 

8月 引き続き第1回ASEAN+3+3 経済担当閣僚会議。日本が16カ国の自由貿易協定(FTA)を提案。

2007年

1月 ASEAN安全保障共同体 (ASC)、ASEAN経済共同体 (AEC)、ASEAN社会・文化共同体 (ASCC) の3つからなるASEAN共同体を2015年までに設立することで合意(当初目標より5年前倒し)

11月 シンガポールで首脳会議。ASEAN 憲章が採択、署名され、さらに「ASEAN 経済共同体のための青写真」(ロードマップ)が署名される。

2008年

11月 ASEAN憲章、各国の批准を受け発効。 

2009年

 4月 財務相会合。「ASEANインフラ基金」創設について確認。また「チェンマイ・イニシアティブ」への各国の拠出額で合意。

2月 AFTAが改定され、より強制力をもった 「ASEAN物品貿易協定 (ATIGA)」 に発展。

2010年

10年 中国とASEANの間で自由貿易協定(ACFTA)が締結される。

2011年

  11月 バリ島で一連の首脳会議。最後の東アジア首脳会議 (EAS) には米国とロシアがはじめて参加。ASEAN+3+3+2となる。18カ国の賛成で「バリ原則宣言」を採択。武力行使や武力による威嚇の放棄を明記する。

11年 ASEANと中国、南シナ海行動宣言(DOC)履行のためのガイドラインを承認。

 2014年

 8月 ASEAN外相会議、バリ原則宣言を踏まえ、東南アジア友好協力条約(TAC)を発展させた「インド・太平洋友好協力条約」を提唱。


 すみません。とりあえずドカンと載せてしまいました。元々はホームページに乗せていたものですが、もう10年も経つので、増補・改訂しました。

近日中にまたホームページに戻します。その際、ダイジェスト版は残しておこうと思っています。



年表を作ってみて思うのだが、大久保利通は一言で言って「戦略家」であると思う。

一つの目的を立てると、その目的にそって計画を立て、目標を定める。そしてそのための陣どりを着々とすすめるのである。

陣どりというのは、誰を味方とし誰を敵とするのかということである。味方は多いほどいいし、敵は少ないほど良い。しかし数を集めるために目標を引き下げてはならない。

彼は交渉の達人であり、落とし所をよくわきまえている。それだけではなく、自分の望む地点に少しでも近く落とすすべを心得ている。落とせないと踏めば脅してでも妥協を迫る。

ここが革命家たる所以であり、たんなるマキャベリアンではない。その妥協には筋が通っている。

大久保の行動の大目的は、途中で変わっている。薩摩のためという目的から日本という国家のためという変更である。

これが何時のことなのかははっきりしない。何を指標にするかでずいぶん異なってくる。

決別の系列で言えば、徳川との決別、島津久光との決別、西郷隆盛との決別という3つのポイントが有る。

一方で結合の系列としては岩倉具視との結合、長州藩との結合、とりわけ伊藤博文との結合が挙げられる。

大久保は思想家ではない。彼は維新に何かを期待したわけではない。西洋との力の差を知りつつ、日本という国を守ることにすべての価値観を集中したに過ぎない。

その限りにおいて、進歩的な考えが有用であればそれを採用した。日本を守るために保守反動が有益であれば、彼は躊躇なくそれを採用しただろう。

大久保が大量に採用したのが吉田松陰スクールの人材だった。なぜなら薩摩にはそれだけの人材がいなかったからである。

吉田松陰スクールの本来の指導者は木戸孝允だった。彼は進歩的思想家でもあり、土佐の板垣や肥前の大隈もその影響下にあった。

しかし大久保は思想を欲せず、能力だけをもとめた。なぜなら彼は薩摩だったからである。維新を遂行したのは薩摩である。彼には西郷をも島津久光をも説得出来るだけの能力があった。その能力は大久保にしかなかったのである。

彼にはカリスマ的魅力もなかったし、カリスマたらんとする気もなかった。調整役に徹しつつ、日本を守るという決意に忠実だったのである.だから岩倉、西郷、島津久光、木戸が大久保の判断を尊重せざるを得なかったのである。

まさに「書記長」である。

なんともやりきれないニュースだ。
シリア政府軍が反体制派に対する攻撃を強化、過去36時間で200回以上の空爆を行った。
これは「シリア人権監視団」が21日に発表したもの。
監視団によれば、政府軍の空爆はダマスカス近郊や第二の都市である北部アレッポを始め全土におよんでいる。ドラム缶など円筒形の容器に火薬や石油などを詰めた通称「たる爆弾」も盛大に用いられているようだ。
シリア政府軍はこれまで「自由シリア軍」など反体制派武装組織と「イスラム国」など過激派組織の双方に攻撃を行ってきた。しかし米軍がシリアの「イスラム軍」への爆撃を行うようになってからは、反体制派への対応に「専念」できる状況となった。
2011年3月以来のシリア内戦では、これまで19万人が死亡し、全人口の半分に当たる970万人が難民となっている。
アサド政権退陣を求め反体制派を支援してきた米政府は、深刻な矛盾に直面している。
というものだ。
私は、結局米国の中東戦略がイスラエルの国益に沿った形でしか展開されていないところに、究極の問題があると思う。
シリアがずたずたになりイラクの紛争が泥沼化することで、もっとも政治的な利益を得るのはイスラエルにほかならない。

共産党の女性政策

共産党が「女性への差別を解決し、男女がともに活躍できる社会を」という政策を発表した。

その特徴を一言で言えば、男女差別問題にとどまらず、女性問題の全体を見通した重厚な主張となっている。

大きな柱は三つある。

1.ひとつは職場における男女差別の是正

2.二番目は子育て支援

3.三番目が女性の貧困問題の解決だ

4.このほかに個別課題ではあるが重要な課題として

選択的夫婦別姓、自営業・農業女性の労働評価、女性への暴力の廃絶だ。

5.最後に政治分野での女性の進出支援のアジェンダが示される。

職場の男女差別は民主的労組の婦人部で積み上げてきたものだろう。子育て問題は新婦人などが長年手がけてきた問題だ。女性の貧困問題は福祉畑の活動家が心を痛めてきた問題でもあるし、女性地方議員の活動の大きな分野を占めてきたものだ。

それだけに、短いが要を得た論調となっている。


その上で、「すべての間接差別の禁止」については、割り切れないものがある。

転勤、とくに地方勤務がキャリアーとして認められないのはきわめて辛いことである。

根本的に、会社勤務がジョブであり、雇用契約に基づくものと割り切られているのであれば、そのような問題は起きないであろう。

つまり地方勤務の要請があっても、バンバン断っていけば良いのであって、その結果、地方勤務希望者がいなくなれば地方勤務手当は否応なしに上がっていくのであろう。それでどこかで釣り合いが取れればよろしいのである。

つまりそういう社会、企業のあり方へのモード変更が行われないと、この問題は尾を引くと思う。

いま医者の世界がそうなっている。医局の縛りがなくなったから誰も地方に行かない。技術研修という一点に絞れば、地方勤務は暗黒である。

これはおそらくまったく別の問題であって、「会社社会」、「企業社会」を打破していくための別の解決法を探さなければならないのだろう。それはよく分かるのだが…

とりあえず、妥協案として

1.地方勤務を行わないことをキャリア上のハンディとはしない

2.しかし、地方勤務の実績は、キャリアではない形態で上積み評価する

ということはできないのだろうか、隠された差別と言われればそれまでだが…

今朝のNHKニュース。

RSウイルス感染症 西日本中心に流行

国立感染症研究所によりますと、今月12日までの1週間に全国およそ3000の小児科の医療機関で、新たにRSウイルス感染症と診断された患者は2946人で、5週連続で3000人近い患者が報告されています。
都道府県別では、最も多いのが大阪府で285人、次いで福岡県が244人、東京都が236人、熊本県が197人などとなって…
ときたもんだ。風邪なんていうものは天気と同じで西から東に向かうに決まっている。東京で流行るかどうかが決め手だが、東京で流行れば2,3週後には北海道にも上陸する可能性が高い。

ただこのウィルス、インフルエンザと違って同心円上に波及するとは限らない。飛び石型というか、例えは悪いがエボラ型のパターンだ。

おそらく1メートル以内の濃厚接触で感染が成立すると思われる。したがって、爆発的な集団発生には職員が関与している可能性が否定出来ない。

減負荷療法
というのがむかしは流行りだった。いま考えるとあまり意味があったとは思えない。ただ心臓のポンプ機能を考える上では非常に有意義であった。
まず、心不全には後方不全と前方不全というのがあって、前方不全というのは心臓の拍出量が不足するためにあちこちに出てくる血流不足の症状。これはわかりやすい。もう一つが後方不全でこれは血液が進まないために肺や肝臓に血がたまってしまううっ血症状。まぁ、これもわかる。
肝心なのは、心筋の収縮パーフォーマンスはうっ血が強くなるほど強化されるが、ある程度以上になるとかえって落ちてくるのだという仮説。もう一つは拍出量が減ると末梢血管が閉まって、さらに拍出量が減るという悪循環を形成するという仮説。
そこで血管拡張剤を使って前負荷や後負荷を減らしてやると心筋パーフォーマンスが良くなり、心拍出量が増えるということなのだが、結果的にはカテコールアミンの効果を血行力学的に立証したにすぎないと思う。ていのいい人体実験だった。
いま減負荷ということを考えてみると、そもそも心臓に掛かる負荷とはなんなのかを整理する必要がある。
それは先ほど来述べている酸素の供給義務、栄養の補給義務、体温の維持義務の3つだろうと思う。酸素の供給義務は高濃度の酸素を吸わせれば解決できる。栄養の補給義務は今はよく知らないが、むかしはGIK療法と言って高濃度のブドウ糖を送りこみ、インシュリンで細胞内に押し込むという理屈だった。カリウムがなんだったかはよく覚えていない。Na-K-ATPase みたいな話だったかな。
体温は、深部体温計というのをつけて、「おぉ温まったぞ」などとやっていたが、いっぽうでは熱希釈法で心拍出量を測るのに凍らせた生食をガンガン突っ込んでいたから態にならない。

問題はトータルな持続可能なサルベーションだ。あの頃はどちらかと言えば冷やすのが主流だった。冬眠療法である。
いまは温める治療が主流のようだ。「押してもダメなら引いて見な」の世界である。経済で言えば内需拡大策だ。
私から言わせると、どちらもありると思う。問題は恒温性の維持というドグマからの脱却である。それは心臓をセントラルドグマとする呪縛からの脱却であり、哲学的治療の範疇に属する治療法である。

病は欠陥状態の象徴である
というのがヒルデガルトの思想の中心だ。今や医療はヒルデガルト・フォン・ビンゲンの時代に回帰しつつある。

心臓は動く中央集権主義

心臓というのはたんなるポンプにすぎない。しかし人間の体の中で動く時、それは思想として動いているのだ。
体の臓器の中でこれほど傲慢な臓器はない。「だまって俺について来い」というのが心臓の主張である。嫌なやつだ。
戦争を考えてみよう。実際に銃を持って闘うのは前線の兵士である。それが指であったり腕であったり足であったししても、その場に張り付いた筋肉の働きであり、それに「突撃!」とか「撃て!」と命令する脳神経の働きである。それに対し心臓はロジスティクスの中枢であるにすぎない。
しかし、動物というのは、プラナリアのように切った両方から命が再生することはありえない。最も下等な生命に至るまで、その不平等性を受け入れることによって、移動の自由を獲得した生命なのだ。

動物の生命というのは、論理的には、動物を構成する数億の細胞の生命の集合としての生命だ。だから本質的には民主主義者だ。しかし心臓はそうは考えない。たとえ移植された心臓であろうと、心臓は心臓なのだと主張する。
この関係は恒温動物では瞬時性によってさらに強調される。それは瞬時の死なのだ。
例えば心肺停止となった時、心臓マッサージを行えば10分以上の生命維持は可能だ。人工呼吸など要らない。逆に心臓マッサージしなければ1,2分でアウトになる。挿管ができなくて心臓マッサージをやめさせる研修医は患者を殺しているようなものだ。
他の臓器の死は暫次的であり代替可能な死である。心臓の死は瞬間的であり不可逆である。おそらくそれは体温の維持と関連しているだろう。
動物が心臓の不平等を受け入れることによって生のあり方を規定されたように、恒温動物は心臓のために全てを捧げるシステムを受け入れることによって、高等動物としての発展を約束されたのである。嫌な話だ。

それはそれで仕方ないとして、例えば血圧130の人は動脈に穴を開けると130x13.5=175センチの高さに血が吹き上がる。それは1平方センチあたり175グラム、手のひらの広さに17.5kgの圧力がかかっていることを意味する。なぜそこまでの力が必要なのか、我々は心臓にあまりにも多くの力を与えすぎたのではないか、そんなことも考えるべきではないだろうか。

さすがに少々疲れてきた。明日のためにはそろそろやめるべきではないか。

心臓の仕事は半分で済む

もうちょっと医学的に考えてみよう。
例えば心臓。全身に酸素を送って栄養を送ってと習ったが、考えてみれば温度も送っているのだ。今まではそれを結果論として考えてきた。しかしそれは結果なのだろうか。
変温動物と同じレベルで考えればたしかにそれは副次的なものだ。末梢の細胞の中で酸素とATPを使ってエネルギーが作られ、それが一部は熱となり一部は力となることで人間は動いている。
し かしその熱を心臓に集中させ、全身に配分することで恒温動物は恒温性を維持しているわけだ。だから心臓は酸素と栄養の供給という一回部分でも仕事をしてい るが、恒温性の維持という二階部門では主役の役割を果たしている。だから、たんなるポンプにすぎない心臓が恒温動物では命の中核となっているのではない か。

この話はさらに発展する。アルコールが加わるからだ。風邪引いたら酒などのんではいけないと、誰が言ったのか。多分明日の朝になったら私が言うだろう。閑話休題。と言っても、そもそも閑話なんだけど…

末梢の体温を物理的に維持してあげれば、心臓の負担はそれだけ減るはずだ。例えば酸素の補給のためだけなら、1分間に5リットルもの血がいるのだろうか。栄養補給のためなら1日5リットルでも十分なのではないか。
とはいえそれだけスピードを下げると、多分血液は血管内凝固してしまうだろう。血液は1分間に5リットル流れるのにちょうど良いように作られているはずだからだ。

ということは、体温を36度に維持してやって、血液の濃さを半分に薄めて、ヘモグロビンの酸素飽和度を押し上げてやれば、心臓の仕事は半分で済むのではないかということである。

日中に3時間も寝たから(それは3時間も仕事をしなかったということでもあるが)、変に頭が冴えている。クスリの「アスピリン効果」もあるのかもしれない。
既存の医学体系は、この恒温動物の温度管理システムの破綻と、それへの対応の体系として、もう一回整序してもよいのではないかと思いついたのだ。

まず「炎症」という症状である。Dolor, Calor, Tumor という炎症の三主徴は、動物が恒温性を獲得したことによって、恒温性維持のシステムの破綻が生命を脅かす存在となったことの象徴的表れではないか。
だから人間の炎症を理解するには、まず変温動物における炎症のあり方を研究して、それと恒温動物との違いを理解する必要があるのではないか。
とはいえ、これはあまりにも大問題であるから、とりあえずはおいておく。
人間の命が、変温動物的な命Aと恒温動物的な命Bの2階建てで成り立っているとすれば、自然死においてはBの失調→Aの失調→死というコースがルーチンのパターンとして描かれるのではないか。
とはいえ、これもあまりにも大問題であるから、とりあえずはおいておく。

人類史を考えてみると、イブの子どもたちが10万年前にアフリカを出て世界に散らばっていったわけで、彼らは何回かの氷河期を生き延びて、一番寒さに強かった連中は極寒のベーリング海峡を越えてアメリカ大陸に散らばった。現在アジアに住む黄色人種もほとんどがシベリア育ちの先祖だ。みんな寒さには強い。それがDNAに閉じ込められている。
おそらく500万年前にもオーストラロピクテスの一団が北を目指したが、コーカサスあたりで死に絶えた。100万年前には北京原人やジャワ原人に相当するような連中が世界を目指したが、これも絶滅した。100万年前にはネアンデルタール人が頑張って、いいところまで行ったが、これも10万年前に息絶えた。
彼らの恒温動物としての体温維持装置が不十分だったためだろう。そんなもんなんだ。体温維持装置というのは。
ホモ・サピエンスの場合はたまたまうまく行ったにすぎないのであって、装置が優れているのか、たまたま強い氷河湖がなかったためにうまく行ったのか、まだ判断はできないのだ。ネアンデルタールだって50万年くらいは頑張ったのだ。我が人類はたかだか10万年だ。

人間の命を考える時、ホメオスターシス(恒常性)というが、その中心にあるのが体温の恒常性だ。しかしこの「恒常性」は、発生学的に見ればできたてで、きわめてもろく不安定なものだ。はたして命にとって有利なものなのか、それとも生活範囲を広げるために何かを犠牲にして獲得したものなのか。
この「恒常性」への強迫観念が人間の行動パターンや精神、さらには価値観・文明まで規定しているような気もする。「恒常」でなくたっていいんだよ、もっと流れに身を任せて生きていく方法もあるんだよ、という声が聞こえてくるような気もする。

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