鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

AALA関連記事は「aala_newsの編集日記」http://blog.livedoor.jp/aala_news/ に移りました(6Nov.2023) 中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 「ラテンアメリカの政治」(http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ )がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

2014年10月

 内語(Inner Speach)と内言語

「内語と自己知」という宮園健吾さんの考察を読んだ。

大変難しい文章なので、パラパラと抜書きしていく。

1.思考とは脳の中でしゃべっている言葉だ

プラトンは(ソクラテスの口を借りて)「思考とは沈黙の中に自己自身を相手として述べられた言論のことである」と述べた。

…そうだ。

要するに自分が喋りかける自分と喋りかけられる自分に分かれて、それが議論を交わすということだ。沈黙してなくても、ブツブツ独り言を言いながらでもいいだろう。

世間には腹黒い人がいて、「あいつは腹の中で何を考えているかわからない」というが、もし考えるということが頭のなかでしゃべっているということなら、その信号は口に出す寸前の所まで来ているはずだから、線をつないでやれば引き出せる可能性がある。

…ということになる。

とすれば、「どこに線をつなげれば脳の中の言葉が引き出せるのか」ということが問題になる。もう一つは、そこまで来ているのに口にまで出てこないのには、なにか仕掛けがあるはずだが、それがどうなっているのか。

もう一つは思考というのは、本当にすべて表出志向なのかということだ。むしろそれは一部であって、多くの思考というのは分析的で内に向かっているものなのではないか。ただそのツールとして、元来自己表出の手段である言葉を用いなければならないことに矛盾があるのではないか。

…とも思う。

2.「…である」思考と「…と思う」思考

宮園さんは、まず思考を二つに分ける。一つが命題的思考であり、もう一つが生起的思考である。

宮園さんによれば、大部分の思考は命題的(Propositional)思考なのだそうだ。「…である」は、厳格に言えば「…であると確信する」である。

しかし時々ある考えが思い浮かぶことがある。思いつきだから確信はない。だから「…と思う」ことになる。

これが「…である」思考に固まっていくためには、その過程を整理してみなくてはならない。

…というのが、宮園さんの提起のようである。

ただし「…である」思考と「…と思う」思考という言葉は私の勝手な造語である。「そういうことを言いたいのかな?」という考えが「生起」したにすぎない。

私はこのアプローチはちょっと雑駁にすぎるのではないかと思う。

ようするに感想、印象、思いつきがだんだん固まって確信に至る、ということだが、事実はさほど単純なものではないような気がする。

3.思考は Thoughts なのか

思考に形容詞を付ける前に、思考という言葉のターミノロジーをやって置かなければならないと思う。

宮園さんの本線からは外れるが、宮園さんが西洋哲学を基盤にして考えている以上、この問題は無視できない。

じつはこの問題は、「技術」とか「健康」とかをめぐって、私が散々やってきたことでもある。

西洋の術語を日本に移植する場合、元来中国語である漢字を当てて、それから日本語化するという二重の手続きを踏んでいる。

その過程で多くの術語が「名詞」化されるのだが、そのさいそれが普通名詞か動名詞なのか、そのニュアンスがわからなくなってしまう。

そこで、後に続く宮西さんの論理展開を見ると、「思考」は“考えること”ではなくて、“考えられたこと”というふうに用いられているようである。しかもそれは数えられる“粒々”であるようだ。

普通の日本語では、これは「思考の諸過程」である。さらにその結果としての“思考されしことども”である。少なくとも「思考すること」という動名詞ではない。

こういうものは規定だから、最初に紛れの無いようにきちっと規定しておけばよいのである。私なら「諸思考」と書く。

…とりあえずはそういうことにして進んでいこう。

4.内観―内なる諸思考を把握する

諸思考は内なる対話として語られているわけだから、それを聞くことができれば理解できる。それは“沈黙の内に”語られているから、本人のみに可能である。

そしてこの観察を元に「自己知」という体系が形成されていく。

これを「内観」というのだそうだ。宮西さんはこれを前提に話を進めていくが、私はまだ納得はしていない。これだけでは「座禅」のCMだ。

前頭葉でさまざまな「思考」の過程が生起し、湯気を伴って沸々と湧いてくるさまは、イマジナティブな光景ではある。

しかし、それは精神現象を説明するにあたっての仮説モデルのひとつに過ぎず、かつ大脳生理学的理解との親近感は持てない。

…というわけで、このあと、るる話は展開されるが、省略。

5.内語は生起的思考にのみ存在する

やめようと思った時に、ちょっと目についた箇所があったので、ついでに引用しておく。

「…である」思考と「…と思う」思考の大きな違いは、前者には内語は伴わないということである。「…と思う」思考でもすべて内語が伴うわけではないが。

「である」思考へのアクセスは内語を経由しない別の種類のアクセスと考えるべきであろう。

…ということで、はからずも内語と内言語の重層性を証明してくれた感がある。内語はしゃべり言葉で、内言語は基本的には書き言葉なのだろう。

この後、宮園さんは迷路に迷い込んで行くようにみえる。さようなら。

こういうシューベルトの肖像画があったのだ。
schubert
中学の音楽室に掲げてあった肖像画とはずいぶん趣が違う。
ひとことでいえば、「くら~!」
たしかに若いが、年齢不詳。18歳にも見えるし30歳にも見える。
小太りで その上強度の近視
と書かれているが、そのような印象はない。
ウィーン少年合唱団の後ろの方に、声変わりした大きな連中が数人いるが、それがさらに大きくなって団を離れるとこんな顔になるのかなとも思う。
精一杯すましているだけかもしれない。笑ったら案外可愛い顔なのかもしれない。
ああいう甘く悲しいメロディーは、不幸せな人間には作れないだろう。
レントラー大好き人間で、レントラーのリズムにコードを載せて、ボサノバのようにコードを次々に変えながらメロディーを作っていく…
それが名曲量産の秘密ではないだろうか。
この写真を見ながら、ふと、シューベルトの聞き方を変えてみようかと思う。


松岡完「地域介入の論理 ケネディ政権と東南アジア」(97年)という論文がある。

「誰がどういった」という事実が書き連ねられている論文で、やや散漫なのだが、いくつかの発言を引用しておく。

1.はじめに

米国は共産中国封じ込めの必要から、東南アジアを一つの地域としてつくりあげる必要を痛感するにいたった。それが1954年、東南アジア条約機構(SEATO)が設立されたときである。

そこには同時に、地域の諸国が経済面の集団化によって繁栄を達成すること、人種的・文化的な共通点を軸に緊密な関係を樹立することも期待された。

こうした多面的な地域統合の発展は遠い将来、東南アジアに日本・韓国・台湾・インドなども加え、「米国の影響力と力に結びついた一つの地域」を生みだすはずであった。

2.東南アジア中立化構想

ケネディ政権の幹部の一人ガルブレイズ(当時インド駐在大使)らは、「急速に悪化する東南アジアでの力の均衡を食い止めるためには、ラオス・ベトナムにとどまらず、東南アジア全域で中立の帯を実現するしかないと主張した。

ケネディ自身は、中立の東南アジアという壮大な構想が「我々の探求すべき究極の目標」であることは認めながらも、「未だその時期ではない」と結論していたという。

3.地域一体化を目指す戦略

この時期の米政府の現場幹部は以下の認識で一致していた。この地域は歴史も文化も置かれた立場もまったく異なる諸国の集まりにすぎない。ベトナム人、タイ人、カンボジア人の間にはまったく共通の感情がない。

東南アジアの人々をひとつにまとめ上げ、自分たちが運命共同体だという感覚をもたせるのは至難のことであった。

3.SEATOと英仏 

SEATOの軍事行動についてオーストラリア・ニュージーランドの態度はせいぜい懐疑的、イギリスは「いかなる軍事介入への参加にもまったく消極的」であった。フランスは「きっぱりと介入を拒否」していた。

アジアの加盟国は英仏両国への不信感を強め、英仏の除外もしくは全会一致制の破棄をもとめた。

SEATO戦略はジョンソン大統領の時代に最終的に放棄された。


というような流れで、個人の発言を拾っていくと歴史はどうにでも塗り替えられていくので、例えばJ.F.ダレスを善意の塊であるかのように描き出すこともできるのである。

SEATOは反共軍事同盟そのものであり、その本質を糊塗しても仕方ないのではあるが、SEATOが認めざるを得なかったいくつかの事実は、ASEANを考える上で念頭に置いておいて良いのかもしれない。

すなわち

1.この地域は歴史も文化も置かれた立場もまったく異なる諸国の集まりである。

2.東南アジアを一つの地域としてつくりあげることは、東南アジアにとってだけでなく周辺諸国の平和のためにも決定的に重要である。

3.中立の東南アジアという壮大な構想が「我々の探求すべき究極の目標」である。

4.この統合は地域の諸国が経済面の集団化によって繁栄を達成すること、共通点を軸に多面的な信頼・協力関係を築くことで実現される。

       

言語は技術
言葉・言語は知的生産のための最大の技術です。
言葉というのは聞いてしゃべることで発達してきました。
動物が叫び声や鳴き声でもって情報伝達するのと同じです。
しかし人間は母音と子音の組み合わせを用いて多くの種類の音を作りました。日本語で言えば五十音がそれに相当します。
これによってさまざまの事物が名称を持つようになりました。これにより人間の知識は飛躍的に発展するのです。
それに対応して脳も大きく進化しました。音声の弁別能力と発声・発音の運動能力です。
言葉と脳
ここまでなら、それでめでたしめでたしです。
聴神経を経由して入力された信号が、頭頂葉のウェルニッケと呼ばれる区域で言葉として認識され、それが海馬に蓄えられた記憶と突き合わせながら整理され、前頭葉で判断され、最後には側頭葉のブローカというところで言語に変換され、口や喉の関係する筋肉に伝えられます。
古事記やユーカラやポポル・ブフなどの口承文学はこのようにして作られてきました。
文字は言葉から言語への飛躍
ところが文字が発明されると、話は俄然難しくなります。
文字(これには数字や記号もふくまれますが)は言葉というより言語というべきでしょう。
そこには飛躍があります。量から質への転換です。
まず入力と出力の経路がまったく異なります。言語情報は眼から入ってきて、後頭葉で視覚化されたあと、おそらく頭頂葉の何処かで情報として処理されます。そしてどこかで耳からの情報と合流し、一体化し前頭葉に送られます。
もう一つは情報の素材的形態がまったく異なることです。むかしは音源を収録するのには音を流しながら録音するしかりませんでした。いまはデジタルですから、演奏時間60分の音源を4,5分でダウンロードできてしまいます。その代わりDAコンバータが必須です。
“内言語”の発展とデジタル化
文字情報を受け入れる際に、情報は脳の中で“内言語”化されています。
文字情報はデジタル情報であるために、内言語化されないとアナログ情報である聴覚情報と統合できないからです。
おそらく前頭葉の中でも、直接に話し言葉を判断・操作する区域と、デジタル化された内言語を操作する区域は異なるものと思われます。
そして判断を受けた思考が命令となって頭頂葉に戻ってきた時、ふたたびしゃべり言葉への転換・伝達系と書字系(キーボード入力を含む)の転換・伝達系にそれが分配されることになります。
書字障害は失語症とはまったく別だ
その際、書字系への出力は外言語(しゃべり言葉)にいったん変えられてから手指へと伝達されていることは、経験上明らかです。ゲルストマン症候群で書字障害が出てくるのは、まさにこの転換の障害であろうと思われます。
以上のような作業仮説に基づいて、最新の脳科学の成果をあたってみたいと思います。

つまらないことだが、勉強にはなった。
ねずみ講の上の方にいた人は、結構儲けているはずだ。ねずみ講が破産した場合、主催者には当然返還義務が生じるが、一会員として加入してうまいこと儲けた場合は、返す必要はないだろうと思っていた。それなりのリスクは背負ったからだ。
ところがそうではない、「返還せぇ」ということになった。しかも全額だ。最高裁判決だから確定だ。法律を作らない限りはひっくり返せない。
どういう裁判かというと、ねずみ講の会社が破産した。会社は破産管財人を立てた。管財人は儲けた奴に対して「不当に得た利益」を返還するようもとめた。その額2100万円。ちょっとした家が建つ。
そいつは当然のことながら返還を拒否した。
その際の事由は、民法上の規定である。民法にはこうあるそうだ。
公序良俗に反する行為によって支払われたものについては返還を請求できない。
裁判が始まり、一審、二審では儲けた奴が勝った。管財人は諦めずに最高裁まで上告した。
そして最高裁でどんでん返しが起きたのである。
最高裁判決のミソは“信義則”を民法の規定に優先させたことである。
(管財人の背後にいる)債権者の多くは、会社の破綻によって損失を受けているのだから、管財人が利益の返還を求めて、それを債権者への配当に充てるのは相当である。
とした上で、
男性が民法の規定を理由に返還を拒むのは信義則から許されない。
と断じたのである。
おそらく会社の形態や出資の形態に個別的特徴があると思われ、またこの男性の会社との関係も個別に論じられなければならないのであろうが、「原則返還」という判断は重い。

この判決は、ねずみ講の根絶に役立つだろうと思う。「絶対に得することはありえない」ことが示されたからである。

川内原発をめぐる記事から拾ったもの。“要確認”の記述である。
住民からは、「ヨーロッパではメルトダウンに備えてコアキャッチャーが装備されている。なぜコアキャッチャーを装備しないのか?」との質問が出ました。
規制庁は下記の設備が「コアキャッチャーと同等の安全性を確保している」と答えています。
その設備とは、
緊急時には、圧力容器の上から水をスプレーし、それが格納容器の下部に溜まって、水深1.5メートルのプールができ、溶け落ちた核燃料を受け止めて冷やす
というものらしい。
これに対し元燃焼炉設計技術者の中西雅之氏が下記のごとく指摘している。
溶融した核燃料に限らず、鉄や銅などの高温の溶融物が大量の水と接触すると、水蒸気爆発の危険があり、その対策は高温溶融炉設計の常識です。水を張って溶け落ちた核燃料を受け止めるなどとんでもない
水蒸気爆発といえば、御嶽山の噴火でおなじみだ。あれはマグマと地下水の接触だったようだが、今度は核物質だから、放射性物質があの噴火の煙のように世界中に撒き散らされることになる。
素人で分からないが、中西氏が正しいなら規制委員会が間違っているかウソをついているかということになる。
「世界最高水準の規制基準」という看板をめぐるガチンコ勝負だ。

風邪がますますひどい。本日はついに午後からダウン。

ただ昨日書いたブーニンの記事が気になって、YouTubeでまとめ聞きした。

STANISLAV BUNIN plays CHOPIN Polonaise-Fantaisie Op.61 (1987)

BUNIN Nocturnes 4,5,8,17(1995)

Chopin Concerto No.2 in F minor, Op.21, Bunin, LPO, Wesler-Möst - Live

STANISLAV BUNIN plays CHOPIN 4 Mazurkas Op.33 (2005 LIVE)

BUNIN plays RACHMANINOV Prélude Op.32_12 (LIVE 1992)

という曲が聞ける。


昨日の感想は全面的に取り消す。

すごい演奏家だ。いままで食わず嫌いで来たが、とんでもない人だ。野球で言えば大谷投手だ。

ノクターンの8番(作品27の2)、オクターブの和音が聞こえた途端、ぼろっと涙が出てくるほどの演奏だ。

「えっ?」と思ってルビンステインとポリーニを聞き直したが、こんな音は出していない。

幻想ポロネーズは見事だが、「そうかね?」という感じ。あとはライブ録音ばかりでホントの勝負ではない。現役バリバリだから、YouTubeに音源が出てこないのは仕方ない。

ということで、YouTubeで聞けるのは4つのスケルツォと4つのノクターンのみだ。

その範囲で言えば、まさに絶品だ。

一言で言えば、音の一つ一つに説得力があること、音楽全体に気品があることだ。

これだけで十分だろう。この人の音作りから言えば、スタジオ録音を聞かないと良さはわからないと思う。そこがポリーニと違うところだ。

ブーニンのスケルツォを聞いた。
2番を聞いていると「やらされている」感じがしてかわいそうな気もした。
しかしキラリと光るいいものがある。これは雑技団ユンディ・リーにはない。
キーシンより上ではないだろうか。
キワモノではないと思う。

タチアナ・シェバノヴァのマズルカ作品17の4曲が聞ける。
聞いたことのない音色と、聞いたことのないリズム感覚だ。
「これぞマズルカ」ということなんだろうけど、そして「確かにそうかもしれない」というほどの説得力はあるけど、「だから何さ」という感じもする。
1曲めは無骨そのもので、さすがに引いてしまう。2曲めはなかなかいい。グリンカとかアレンスキーを聞いている感じ。4曲目になるとうーむとうなってしまう。たしかにマズルカってそうかもしれないけど、ショパンがパリのサロンで弾くスタイルではない。ペショペショのロシア風打鍵もやはり違うと思う。これはショパンの中でも名曲だ。土のついた大根ではない。もっとクリスタルでなくてはいけないと思ってしまう。
これは節くれだった指でぬっと突出されたショパンだ。たしかに味はある。

ということで、私の土日は叔父の葬儀に費やされた。
この間に風邪がぶり返し、線香で喉をやられた。
月曜は忙しい日で、そう簡単に休む訳にはいかない。
なんとか我慢して、明日は午前で早退させてもらうことにしよう。
記事作成面の上の空欄にこう書いてあった。
雨の週末の過ごし方は?
寝て過ごそう。これが私の答え。

私の叔父、故望月政司の論文をネットで探してみた。

「プラチナ電極による酸素測定法について」という論文が読める。

計算式についてはちんぷんかんぷんだが、生体内の酸素濃度を測定する方法だと分かる。

はじめに酸素濃度測定法の歴史について簡単に触れられている。

最初に考案された方法は水銀の滴下電極を用いるものだった。しかしこれは水銀そのものが流動的で毒性もあることから使いにくいものだった。

1939年ころから、水銀の代わりにプラチナを用いる方法が開発された。この研究は米国で行われていたものであり、戦時下の日本には伝えられなかった。

戦後48年になって開発者が訪日し、プラチナ電極法が紹介された。そして現在は広範に用いられるようになっている。

原理はえらく難しく書かれているが、大要は如何の如きものだ。

水溶液中に電極を入れると電子が金属表面に集まる(電流が流れる)。

しかしこれは一瞬の話で、電極の周りに“二重層”が出来上がってしまうと電流は流れなくなってしまう。

ここで溶液中に酸素があれば、酸素は“復極剤”となり、電極の電圧が高くなった時に電子を受け入れる。この状態が続けば、電極周囲には微弱電流が流れ続けることになる。

これは溶液中の酸素濃度により規定されるので、論理を逆立ちさせると、この持続的微弱電流が測定できれば、そこから溶液中の酸素濃度を計算できることになる。

ここまではなんとかわかるが、溶液、生体内で言えば血液ということになるが、この溶液がトータルでどのくらいあって、どのくらいのスピードで回ってきて、電極の周囲を通過していくのか、ということまで計算するとなれば、これはえらく複雑な話になる。

Fickの拡散式というのから、いくつもの仮定を入れながら計算しているのだが、省略する。(この式は我々も心拍出量の計算のために憶えさせられた記憶がある)

これで問題が解決したわけではない。もう一つ重大な障壁がある。それが「酸素の還元形式」というものである。

一言で言うと、電極上で酸素が還元されることで、電流が維持されるのだが、この還元が二段階の還元過程に分かれているということだ。

酸素はまず、電子二つを取り込んで過酸化水素(HO)になる。そして過酸化水素から水になる。過酸化水素から水になるについては水素二つと電子二つが加わる。

これでは安定した電流を得られるまでに時間がかかってしまい、他の環境因子からの影響も受けやすい。

ところが水銀の代わりに白金電極を使うと、この過程を一発でやってくれるらしいのである。この場合は電子4つを加えて水酸基4つを作ることになる。水酸基がたくさんできると、溶液にフェノールフタレインを垂らせば、「あれ、見よかし」と赤くなる。この過程を解明するにあたっては望月政司らが貢献しているようである。

あとは文字通り応用的な技術に関するもので、電極に流す電流を矩形波にしたり、交流にしてみたりすることで、電極の劣化を防ぐ方策、電極をビニールみたいなもので被覆するなどの方法が紹介されている。

何時頃の文章か分からないが、参考文献の最新のものが1963年になっているから、その頃のものだろう。

私が北大に入る頃、実験道具を手製で作成していた頃の文献だ。



これだけ見ても、この研究にどんな意味があるのかは良くわからない。

ところが、望月らを賞めた論文があった。そこだけ紹介する。

オキシグラフによる組織の酸素代謝に関する研究という論文で、1960年のものである。

Ⅰ 緒言

Heyrovsky が1924年に滴下水銀電極によって酸素を測定出来ることを発見して以来,電気化学的に,生体の酸素量を測定しようとする多数の研究がなされてきた。

ところが滴下水銀電極は,液体であること,生体に有毒であること等の欠点のため,そのまま生体の酸素消費に利用することは出来なかった。しかし1941年に Latininen および Kolthoff が微小白金電極を用いた際に定量的な酸素の還元波が得られることを見出し,更に Davies, Bronk 等の研究によってポーラレグラフの生理学への応用が始められたのである。

固定白金電極を滴下水銀電極と比較した場合,操作が簡単なこと,毒性のないこと,生体の限られた組織の酸素濃度の測定が可能であること等の利点を持っているが,不安定なこと,再現性に乏しいこと等の難点がある。

これに対し,簑島,望月は、この数年来白金電極法の実用化に対して多くの苦心を重ねた結果,これらの難点を解決して,生体酸素濃度記録装置(Oxigraph)の作製に成功した。
…現在オキシグラフによる生体組織の酸素消費測定の実験例はかなり多い。

望月,切替 は大脳内の酸素を,井上,後藤は皮下の酸素を,浅野は蛙の心臓の酸素消費と搏動について測定している。最近浜本は酸素以外の物質の定量分析についての実験を行っている。

以下略


次は北大応用電気研究所の歴史から


本研究所が設置された一九四三年(昭和一八)医学及び生理第一部門が専任部門として、医学及び生理部門生理第二部門が兼任部門として発足した。第一部門の教授には小溝協一ニが就任したが、一九四六年辞任した。

第二部門の兼任教授には初代所長箕島高が就任し、一九五七年(昭和三二)退官するまで、医学及び生理第一、第二両部門全体の研究を替励推進した。一九四四年寿原健吉が助教授になり、一九四五年岩瀬吉彦、一九四六年望月政司がともに助手になった。

岩瀬は一九四八年(昭和二三)助教授になり、一九五二年第一部門の教授に昇任したが、一九五八年(昭和三三)京都府立医科大学教授に転出するまで、生理学のうち主として動物性機能と呼ばれる分野の研究を展開し、生体組織の電気的特性、心電図、大脳生理の研究に成果をあげた。

望月は生理学のうち植物性機能の分野に研究を進め、一九五二年第二部門の助教授となり、一九五八年(昭和31年)岩瀬のあとをうけて第一部門の教授に就任した。

酸素分圧の測定、肺でのガス交換、赤血球の酸素化について詳細な研究を展開し、望月の考案になる多線白金・酸素電極、円形スパタ酸素電極はこの分野の多くの欧米の著書に引用されている。

肺でのガス拡散に関する理論、ミクロの光電比色による赤血球の酸素化測定法も、未解決であった呼吸生理学上の多くの問題を解く鍵となり、国際的に高く評価され、毎年のように国際学会の座長をつとめた。

当部門から内外の専門誌に発表された論文著書は200編に近い。

七三年(昭和四八)望月教授が、新設医学部の基礎作りに請われて山形大学医学部へ転出し、望月教授の薫陶をえていた小山助教授が一九七五年、(昭和50年) 生理部門の教授に昇任し、笹嶋唯博が助手になった。

(笹島くんは私と入学同期で、同じ「青雲荘」という下宿だった。しかしあまり口を利いたことはなかった)


時系列で見た

東アジア共同体とASEAN

雑誌「前衛」2004年9月号 特集「アジアの安定と平和への前進」などより作成しました.

2004年10月

増補 2014年10月

増補 2015年1月

 

54年5月にディエンビエンフーの歴史的戦闘、8月にはジュネーブ条約が締結された。

9月、インドシナ情勢に危機感を抱いた米国が、南アジア条約機構(SEATO)を結成。

加盟8カ国中、東南アジアからの参加国はフィリピン、タイのみ。他はオーストラリア、フランス、イギリス、ニュージーランド、パキスタン。

55年 インドネシアのバンドンで、アジア・アフリカ諸国首脳会議が開かれる。非同盟志向を反映した「平和十原則」を採択。

61年 マラヤ連邦のラーマン首相が提唱し,タイ、フィリピン、マラヤ連邦の親米3カ国をメンバーとして東南アジア連合(Association of Southeast Asia, ASA)が結成される.インドネシアのスカルノはこれに強い警戒感を抱く。

63年9月 マラヤと北ボルネオが統合しマレーシア連邦が成立。インドネシアとの関係が悪化する。

64年9月 トンキン湾事件。米国の東南アジア干渉が本格化する。

65年8月 経済的苦境の中、シンガポールがマレーシア連邦より離脱する。

65年9月 インドネシアでクーデター。スハルトが共産党員数十万を虐殺。強力な反共政策を実行。

66年 第1回南東アジア開発閣僚会議、アジア開発銀行の設立で合意。ほかにアジア太平洋協議会(ASPAC)などを通じて地域協力の動きが活発化.米国は親米・反共諸国による一連の地域主義イニシアチブを歓迎。

66年 ASAにインドネシア、シンガポールを加え、新たな機構設立の気運が高まる.

インドネシアは反共に転じたものの、武装闘争で独立を勝ち取った国として強いナショナリズムを保持していた。インドネシアとの窓口となったマレーシアは、インドネシアの主張を受け入れる形で(形だけ)、ASEAN結成にこぎつけたと言われる。


1967年

8.08 ASEANがバンコクで創設される.5カ国外相がバンコク宣言に署名。反共同盟としての色彩が濃厚だが地域の独自性と自決も掲げた.年1回の外相会議のみで、組織としての実体はなし.

バンコク宣言: “東南アジア諸国が地域としての独自性を確固なものとし、地域の問題を自らの手で解決 していくことが、地域の平和と安定に繋がる”
 ①域内における経済成長、社会・文化的発展の促進,②地域における政治・経済的安定の確保,③域内諸問題の自力解決,を柱に掲げる.

67年 ビルマ、セイロンなど非同盟諸国は加盟招待を辞退。社会主義諸国は「SEATOの補完物」と非難。

68年1月 南ベトナムでテト攻勢。ベトナム問題が重大化する。SEATOは機能せず、タイとフィリピンが個別に関与。

71年11月 クアラルンプールで第4回ASEAN特別外相会議を開催。インドネシアのイニシアチブのもとで、共通の外交路線たる「東南アジア平和・自由・中立地帯」(ZOPFAN)宣言に署名。主要目標は反共産主義ではなくなる。

ZOPFAN宣言第1項 東南アジアが域外大国からのいかなる形態や態様の干渉からも自由な平和・自由・中立地帯としての承認と尊重を確保するため当面必要なあらゆる努力を払う。このため,地域としての強靱性(RESILIENCE)を構築することを目指す。「平和と自由」はバンドン宣言を下敷きにしたもの。

73年 パリ条約調印。ベトナム戦争が終結する。

1974年

74年 ジャカルタにASEAN中央事務局が設置される.

74年 田中角栄首相がインドネシアを訪問。日本の経済進出に反対するデモが発生。

5月 マレーシアが中国との国交を樹立。「共産中国に対して東南アジアの中立化を保障するよう求めながら、他方で中国を承認しないとはいえない」とする。その後フィリピン、タイが相次いで中国承認。

1975年

75年4月 サイゴン陥落.これを機にドミノ理論と対米追随路線に対する深刻な反省が生まれる。

75年 「ZOPFAN宣言」の具体化を目指す事務折衝会議(CSO)が平和・自由・中立の定義に関する最終報告を作成。

平和: 域内諸国間に調和と秩序ある関係が普及している状態。国内状態には関わらない。
自由: 域内諸国の内政外交に他国から規制・支配・干渉を受けない状態。
中立: 国際法上の国家間紛争にいかなる形態でも加担しない(非党派性)

75年 CSO、域内外諸国の内外政の指針となるべき14項目の「行動基準」を作成。TACの原型となる。

1.独立・主権・領土的一体性、2.国家的アイデンティティの尊重、3.内政不干渉、4.紛争の平和的解決、5.外国の軍事基地の不在、6.核兵器の使用・貯蔵・実験・通過の禁止、7.対外貿易の自由、8.国家的強靱性強化のための援助受け取りの自由などを提示

1976年

2月 バリ島で第1回ASEAN首脳会談.政治、安全保障、経済協力のための6つの原則を盛り込んだ「ASEAN協和宣言」(DAC)を発表.

2月 「東南アジア友好協力条約」(TAC)が調印される.元々はインドシナ諸国への和解のジェスチャーとされる。現在は域外国の調印も得て,行動枠組みを規定した実質的な根拠法となっている.

東南アジア友好協力条約Treaty of Amity and Cooperation in Southeast Asia
国連憲章を土台に,
域内諸国間の平和的関係を維持する規範として定める.
①独立・主権・領土保全などの相互尊重,
②外部からの干渉なしに自国を運営する権利,
③相互の内部問題への不干渉,
④紛争の平和的手段による解決,
⑤武力行使と武力による威嚇の放棄,
⑥諸国間の効果的協力

1977年

6月 東南アジア条約機構(SEATO)が解散される。

8月 クアラルンプールで第2回首脳会議。引き続き、日本との首脳会議。

8月 ASEAN+日本首脳会議で福田首相が対ASEAN政策を説明.

福田ドクトリンの骨子: ASEAN が地域機構として確立していることを確認し連携する。
日本は①軍事大国とならず,東南アジアと世界の平和と繁栄に貢献.②心の触れあう信頼関係の構築.③ASEAN連帯強化に協力し,インドシナ諸国との相互理解を醸成する。

1979年

1月 ベトナム軍のカンボジア侵攻。ASEAN諸国はカンボジアの自決権を侵すものとして非難。

79年 ポルポトを支援する中国はベトナムに武力「懲罰」作戦を展開。

80年3月 インドネシアとマレーシア、タイの安全確保とベトナムの中ソとの関係整理を条件に、インドシナ地域におけるベトナムの主導権を容認。「クアンタン原則」と呼ばれる。

ベトナム軍侵入と中国のベトナム攻撃をめぐりASEANは二派にわかれた。シンガポール・タイはベトナムの軍事的脅威を重視し中国への傾斜を強めた。インドネシア・マレーシアは中国を真の長期的脅威とみなし、ベトナムを緩衝国家と位置づけた。

6月 カンボジア駐留ベトナム軍がタイ領内に越境攻撃。ASEAN外相会議でベトナムを名指しで非難。

81年 マハティール・ビン・モハマド,第4代マレーシア首相に就任.「ルック・イースト政策」を発表する.

84年 独立して間もないブルネイが加盟。6カ国となる。

85年 プラザ合意成立.急激な円高を背景に,日本の対ASEAN直接投資が拡大.各国は輸出指向の開放的経済政策を推進.

86年2月 フィリピンで「黄色い革命」。マルコス独裁政権が倒れ、アキノ政権が成立。スハルトは開放政策に舵を切る。

1987年

12月 10年ぶりとなる第3回ASEAN首脳会議がマニラで開催される.マニラ宣言を採択。

マニラ宣言(ASEAN行動計画): 1.東南アジア平和中立地帯構想(ZOPFAN)の早期達成と東南アジア非核兵器地帯(SEANWFZ)の早期創設。
2.東南アジア友好協力条約を修正し,域外諸国の加入も可能とする.
3.特恵貿易取り極め(PTA: Preferential Trading Arrangements)の推進。

12月 ASEAN首脳会議に引き続き、日本との首脳会談。竹下首相は、ASEANの民間経済部門の発展と、域内経済協力への支援を表明。

89年11月 オーストラリアのホーク首相がアジア太平洋経済協力閣僚会議(APEC)を提唱.べ-カー米国務長官が協賛する形で実質的な合意がなされた.第1回会合がオーストラリアで開催される.

90年末 マハティール首相が東アジア経済グループを提起.APEC に対抗する形で打ち出された。

東アジア経済協議体(EAEC): 翌年にマハティールはグループ構想をさらに展開。当面協議体(EAEC)として出発することでASEAN各国(とくにインドネシア)の了解を取り付ける.今日の東アジア共同体構想につながるものと位置づけられている.

91年 カンボジア和平協定が成立.

1992年

1月 シンガポールで第4回ASEAN首脳会議.AFTA(ASEAN自由貿易地域)の形成を目指す「シンガポール宣言」が採択される.

①CEPT 93年1月から15年以内に「共通効果特恵関税」制度を導入する,2010年までにはASEAN原加盟6カ国、18年までに他の4カ国の域内関税を完全撤廃
②AFTA 上記の積み上げの中からASEAN自由貿易地域の創設.
③TAC拡大 
東南アジア諸国の「東南アジア友好協力条約」への加盟を促進

6月 マハティール,東アジア経済協議体(EAEC)を改めて提唱.米国の妨害により、一旦挫折する。

米国はEAEC構想に対し,自らを排除する地域組織と敵視し、成立を妨害した.この結果,ASEAN外相会議は,「ASEAN経済閣僚会議がEAECに支援と方向を与える」と決議するに留まった.

7月 バンコクで第27回ASEAN外相会議,ベトナム、ラオス、カンボジア、ミャンマーの加盟に関する協議。ジャカルタにあるASEAN事務局を拡大・強化することで合意.

7月 ASEAN外相会議,「南シナ海におけるASEAN宣言」を発表.南沙諸島紛争の平和的解決の諸原則を提示.

7月 ASEAN外相会議に引き続き第1回ARF閣僚会合。アジア太平洋地域17か国とEUの外相を結集した歴史的会議となる。

9月 インドネシアで第10回非同盟諸国会議.南北の経済格差問題がクローズアップされる.

9月 第26回ASEAN経済閣僚会議。CEPTスキームに関する協議。引き下げ期間の短縮と対象品目の拡大で合意。

9月 マハティール,国連で演説。非同盟とASEANの立場を強調.

マハティール演説の骨子: 
1.ヨーロッパは保護主義的貿易ブロックを選択してきた。自分たちの高い生活レベルと生産コストを守 り通すために、東アジア諸国との競争を拒絶し、EAECを阻止しようとている。
2.欧米は今後も、民主主義、人権、労働条件、環境破壊、知的所有権などあらゆる問題であら捜しをして、それを口実に私たちへの差別政策を正当化しようとするだろう。それはアジア人に対する人種差別である.
3.米国が反対しても,東アジアはEEC,NAFTAとならぶ三つの主要地域グループのひとつになるだろう

92年 ベトナム,ラオスが東南アジア友好協力条約へ加盟.ミャンマー、カンボディアは95年に加盟.

1993年

1月 AFTAがスタート.域内貿易の関税を5%以下に下げることを目標とする.

1月 クリントンが大統領に就任.EAECの結成を妨げる立場から,APECの強化に乗り出す.

7月 クリントン大統領が早稲田大学で講演.「新太平洋共同体」構想を発表。

新太平洋共同体: ソ連崩壊後のアジアでの覇権確立を目指す構想。経済から軍事協力まで視野に入れ、APECの中核的重要性を強調する.

11月 シアトルでAPEC非公式首脳会議が開かれる.アジア・太平洋諸国の首脳を網羅。マハティールは,「身内の結婚式に参加するため」会議を欠席.

1994年

7月 東南アジア諸国連合地域フォーラム(ARF)の第1回閣僚会議が開かれる.「アジア太平洋地域の政治,安全保障協力強化の主要なフォーラム, 平和と安定構築の主軸」となることを目指す.

対話パートナー国: 米・日・韓国・露・中国・印・豪・カナダ・ニュージーランド・EUの10カ国ヴィエトナム、ラオス及びパプア・ニューギニアの5カ国も正式メンバーとし て加わる.その後さらにカンボディア、ミャンマー、モンゴル、北朝鮮が加わる.

11月 インドネシアのボゴールで,APEC首脳会議が開催される.「APEC加盟の18国・地域は2020年まで に域内貿易の自由化目標を達成する」とするボゴール宣言を発表.

ボゴール宣言: ①自由化のみが強調され,域内協力が進展しなかったこと,②APEC構成国 の中で,南北アメリカとアジアとの間に格差がつけられたことから,ASEAN諸国の失望を呼ぶ.

1995年

7月 ブルネイで第28回ASEAN外相会議。ベトナムがASEAN加盟、カンボジア・ラオスがオブザーバー地位取得、ミャンマーがTACに加入。

8月 ASEAN外相会議に引き続き第2回ARF閣僚会合。①信頼醸成の促進、②予防外交の進展、③紛争へのアプローチの充実という3段階に沿って漸進的に進めることで合意。

12月 バンコクで第五回ASEAN首脳会議.東南アジア10ヶ国が初めて勢揃いする。

バンコク宣言: 
1.東南アジア非核兵器地帯条約(SEANWFZ)に署名.97年に発効.
2.AFTA域内関税制度の前倒し実施
3.一般的紛争処理メカニズム(DSM)の設置、

12月 日本が東アジア首脳会議への不参加を表明したもとで,中国と韓国のみで地域協力機構の設立に動く.

うわさ話: 某外交官は日豪財界人会議で.「EAECは日本が参加しなければ成り立たない.日本は参加しないから,それは自然死する」と述べたとされる.

 

1996年

7月 ASEAN拡大外相会議.中国,インド,ロシアを対話パートナーとして承認.中国はこれに対応して銭基深外相を会議に派遣.

11月 ジャカルタで第1回ASEAN非公式首脳会議. カンボディア、ラオス、ミャンマーのASEAN同時加盟を決定。 東チモール問題に関しインドネシアへの支持を表明。

11月 バンコクで第1回ASEM 首脳会議(アジア・欧州)を開催.欧亜間の経済、政治、文化面での対話と協力推進を目的とする.以後隔年ごとに開催.

96年 ASEANの主催でメコン開発閣僚会議.ASEAN首脳会議の議論を経て,日本を招請せずにおこなわれたことから,日本政府に衝撃を与える.

1997年

1月 橋本首相がASEAN諸国を歴訪.関係修復を図る.対話緊密化と多角的な文化協力を謳うが,東アジア共同体構想への言及なし.

7月 後発国の追い上げで輸出停滞に陥ったタイ政府は、バーツ切り下げで打開を図る。これをきっかけにバーツの投機売りが始まる。

7月 タイが金融危機に陥る.投機資金が急激に逃避したことから,短期的なバーツの流動性危機を引き起こす.

8月 インドネシアでルピアの暴落が始まる.

8月末 日本が中心となりアジア通貨基金(AMF)構想.米財務省はIMFの権限を侵食するものとして猛反発.

9月 香港でIMF・世銀の年次総会.マハティール首相は,「実需を伴わない為替取引は不必要、不道徳で非生産的だ」と強く非難.ジョージ・ソロスは、「為替取引きの制限は破滅的な結果につながる」と脅迫.

9月 香港でIMF年次総会に引き続き先進七か国蔵相・中央銀行総裁会議(G7).AMF構想は中国が保留に回ったため流産.

11月 APEC非公式首脳会議.「市場参加者の役割についてIMFが行っている研究の結論を期待する」とし,通貨取引の在り方全般をIMFに丸投げ.

12月15日 クアラルンプールで第二回非公式ASEAN首脳会談.「2020年 ASEANビジョン」を発表.「2020年までにASEAN共同体となることを目指す」とする.

12月 ASEAN首脳会談、「思いやりある社会の共同体」の考えを打ち出す.

思いやりある社会の共同体: 社会的弱者を放置すれば,格差が広がり,社会が分裂して社 会の強靭さが損なわれるとし,
①思いやりある社会の建設,②経済統合の社会的影響の克服,③環境の持続性の促進,④ASEANとしてのアイデンティティーの創出などを掲げる.

12月16日 日・中・韓国の首脳が招待され,ASEAN首脳会談に引き続き東アジア首脳会議.ASEAN+3の始まりとなる.通貨の安定策、痛みを伴う構造調整、日本(など先進国)の支援強化で認識の一致。

ASEAN+3成立の裏側: 当初日本には参加の意思はなかった。ASEANが日本抜きで開催する方向を明らかにしたことから,動向を見て急遽日本政府も参加を決断したと言われる

12月16日 ASEAN9カ国首脳と江沢民主席の会談.共同声明を採択.

中国・ASEAN共同声明: 
1.21世紀に向けた親善相互信頼パートナーシップの形成。
2.中国はASEANの平和・自由・中立地帯構想を支持し東南アジア非核兵器地帯条約の発効を歓迎.
3.ASEANは「一つの中国」 政策を順守.南沙諸島問題では「武力に訴えることなく,平和的手段で意見の相違や紛争を解決する」ことを誓約.

12月 マハティール首相,国民経済行動評議会を組織.ダイム特別相、ノルディン・ソピー戦略国際問題研究所長らに通貨危機への総合的対応策の検討を命じる.

97年 インドネシアでスハルト独裁体制に対する政治危機が深刻化.米国は金融危機に対して一切の支援を拒否し,IMF基準の押し付けに終始した.米国とAPECへの失望が広がる.

1998年

5月 スハルト大統領が辞任.ハビビ副大統領が大統領に就任.

6月 米フィナンシャル・タイムズ紙,「日本株式会社は死にかかっている」と報道。金融市場が麻痺して円が対外責任能力を喪失した状況にあると評価。いっぽう元の防衛に成功した中国は,「世界の金融政策形成に対する影響力を持つものとして登場した」と述べる.

7月 中国,ASEAN拡大外相会議に参加.「東南アジア友好協力条約」への加入に前向きな姿勢を表明.

7月 マハティール,IMF路線で財政再建を図るアンワル副首相を更迭.短期資本を規制し,独自の為替管理で危機に対応.日本はマレーシア支持の姿勢を明確にする.この年マレーシアの成長率はマイナス7%.

10月 宮沢蔵相,先進7カ国蔵相・中央銀行総裁会議(G7)で新宮澤構想を発表.

新宮沢構想: ヘッジファンドなどによる短期的な資本取引の規制。アジア諸国に300億ドルの資金供与、を柱とする。

11月 米国防総省,東アジア戦略報告を発表.日米同盟を「21世紀においても米アジア安保政策のかなめ」と位置付ける.またARFの役割を積極的に評価.

12月15日 ハノイで第6回ASEAN首脳会議.経済回復を目指す特別対策「大胆な措置に関する声明」を発表.

大胆な措置声明: 
1.CEPT実施率の努力目標 を1年間前倒しする.
2.そのために6ヵ年行動計画(ハノイ行動計画)を実施する。
3.マクロ経済と金融に関する協力の強化を主柱とし,経済統合の強化,ASEANの機構とメカニズムの改善をはかる。

12月16日 ASEAN首脳会議に引き続いて第二回ASEAN+3首脳会議.並行して日中韓三国首脳会議も開催。以後,ASEAN首脳会議とASEAN+3首脳会議はセット となる.

各国の提案合戦: 金大中の提唱で,協力のための検討機構として,東アジア・ビジョン・グループ(EAVG)を設置.中国の胡錦濤副主席は,金融危機打開のため東アジア蔵相会議の開催を提案.小渕首相は新宮沢構想を発表する一方.蔵相会議への米国の参加をもとめ,顰蹙を買ったといわれる(外務省のホームページには記載なし)

98年 この年のASEAN経済成長率はマイナス7%,インドネシアでは13%の落ち込み.対米不信はロシア危機の際に米財務省がヘッジファンドの救済に乗り出したことからさらに増幅される.

 

1999年

8月 マハティール首相、中国を訪問.EAECを基礎に地域の安全保障問題などを協議する「東アジア共同体」を実現するよう呼び掛ける.

10月 インドネシア大統領にワヒドが選出され。本格的民政に移行する。

11月 マニラでASEAN首脳会議。通貨金融面の協力のため、ASEAN 監視システム(ASP)の設置で合意。南シナ海問題で地域的行動規範が必要との認識で一致。

11月 マニラで第三回ASEAN+3首脳会議.初の共同声明となる「東アジアにおける協力に関する共同声明」を発表.

共同声明の骨子: 金融安定のための「東アジアにおける自助・支援メカニズムの強化」で合意。他に経済・エネルギー・農業分野での協力をうたう。ASEAN側は安保問題も議論するよう提起.日本は安保条約を理由に安保問題の討議を拒否

99年 マレーシア,独自の経済再建に成功.成長率をプラス6%に戻す.

2000年

5月 チェンマイでASEAN+3蔵相会議,日本の提起した「チェンマイ・イニシアティブ」で合意.

チェンマイ・イニシアチブ: 通貨危機の再発に備え,ASEAN各国と日本、中国、韓国との間の二国間で総額 365 億ドルにのぼる通貨(外貨準備)のスワップ協定が調印される.IMFと連動するが、それ以前にも独自判断で総額の20%まで発動可能。

7月 バンコクでASEAN+3 外相会議。「東アジア協力に関する共同声明」の実施状況のレビュー。「インドネシアの主権、領土的一体性及び国家的統一を支持するASEAN+3 共同声明」を採択。

7月 外相会議に引き続き、ARF 閣僚会合。北朝鮮が初参加.

11月 シンガポールでASEAN首脳会議.ASEAN 統合イニシアティブ開始について合意。

ASEAN統合イニシアティブ(Initiative for ASEAN Integretion : IAI)
 先発6カ国が後発4カ国の発展を支援することで,域内の経済格差を縮小し、地域全体としてのASEANの競争力を強化することを目的とする.

11月 ASEAN首脳会議に続きASEAN+3首脳会議.東アジア研究グループの設置で一致。

東アジア研究グループ (EASG):金大中の提唱した東アジア共同体構想に基づき、これを具体化するための会議。

00年 中国とASEAN諸国,南沙諸島問題解決のための「南シナ海での関係諸国の行動に関する宣言」で合意.自由貿易地域(FTA)に関し意見交換するため中国・ASEAN合同協力委員会を立ち上げることで合意.

00年 ASEAN経済が復調する.この年の成長率は5.9%に達する.

2001年

2月 ASEAN 統合イニシアティブ(IAI)について検討するためのIAIタスクフォースが設置される.

7月 ハノイでASEAN外相会議.「より緊密なASEAN統合のための,発展格差縮小に関するハノイ宣言」を発表.後発諸国の引き上げに本腰を入れる姿勢を明らかにする.

11月 カタールのドーハでWTO閣僚会議が開催.新多角的通商交渉を開始することで合意.

11月 ブルネイでASEAN首脳会議.ASEAN+3協力をさらに促進するためASEAN+3事務局の設置を提案。 「テロリズムに対抗するための共同行動に関する2001ASEAN宣言」を採択.メコン地域の開発を優先課題とすることで合意。

11月 ASEAN+3首脳会議.

小泉首相の挨拶: 「福田ドクトリン」以降ASEAN 重視政策は一貫している。日本は軍事大国にはならない。自衛隊は戦闘行為に参加しない。
金大中の演説: 東アジア・ヴィジョン・グループ(EAVG)報告書を提出.「東アジア・サミット」・「東アジア自由貿易地域」の検討を進めるよう訴える.
朱鎔基首相の演説: 10年以内にASEAN諸国との自由貿易協定(FTA)を締結する。近隣諸国に市場機会を提供し、中国脅威感の軽減を図る。

12月 中国,世界貿易機関(WTO)に加盟.

01年 東アジアの貧困人口比率は84 年から2001年の間に38.9%から14.9%に低下し、絶対的な貧困人口も5億6,220万人から2億7,130万人に減少.

2002年

1月 小泉首相、シンガポールとのFTA成立に合わせ「東アジア拡大コミュニティ」の構築を提起。ASEAN+3にオーストラリア、ニュージーランドを含める。

4月 マハティール首相、小泉構想(と背後の米国)を厳しく批判。

マハティール批判: ヨーロッパやアメリカには排他的組織が認められ、アジアに独自のグループが形成できないのはおかしい.東アジアの国々が、ASEANプラス3などという名称で実態を隠さなければならないのは、恥じるべき措置だ。

7月 ASEAN外相会議。中国との協力関係の強化を掲げ、日本を牽制。

10年以内に中国・ASEAN 自由貿易地域を設置する。中国との経済協力の枠組み合意を目指す。来る首脳会議での署名を期待する。
…日本との緊密な経済連携が更に進展することを期待する

11月 小泉首相の私的懇談会「対外関係タスクフォース」が,「21世紀日本外交の基本戦略」と題した報告書を首相に提出.「米国追従一辺倒の路線の修正」を強調.

基本戦略の骨子:  アメリカは「反対意見や異なる価値への寛容の精神と道義性が弱まっている」との懸念を示し、日米関係について「安全保障関係を中心に総合的に再検討すべき 時期に来ている」と指摘.「日本は米国と同じ目的を持ちつつも、自らの座標軸を持って米国とは補完的な外交を行っていくべきだ」と主張.

11月 プノンペンでASEAN首脳会議.ASEAN 統合のロードマップ及び最終目標としてのASEAN 経済共同体のアイデアを検討。大メコン地域開発の推進で一致。

11月 プノンペンでASEAN+3首脳会議.東アジア研究グループが報告書を提出.東アジア共同体具体化のため,26項目の課題を提案.

26項目課題: 17項目が短期目標.①企業評議会の設置,②外資導入環境の整備,③投資情報ネットワークの設立,④技術移転と技術開発での協力,⑤シンクタンクの連絡網の確率,⑥東アジアフォーラムの設置,⑦貧困解消計画の作成など.
9項目が中長期目標.①東アジア自由貿易地帯(EAFTA)の設置,②東アジア投資地域の設定,③地域融資機関の確立,④地域為替管理機構の設立,⑤ASEAN+3首脳会議の東アジア首脳会議への発展など.

11月 朱鎔基首相は、日中韓3国がFTA締結に向けて協議を開始するよう提起.金大中大統領は、「東アジア・フォーラム」の開催を提案。小泉首相の発言は日・ASEAN 包括的経済連携の強化にとどまる。

 

2003年

1月 日本経団連,「活力と魅力溢れる日本をめざして」を発表.「東アジアの連携を強化」を提言.日本がリーダーシップを発揮し、2020 年までにアジア自由経済圏を完成させることを目指す.

3月 アメリカ,国連決議を無視してイラクに侵攻.

3月 アセアンでの対応は割れる。タイ,フィリピン,シンガポールなど非イスラム国がイラク「復興支援」に派兵.マハティール首相は 「国連は今すぐにアメリカに戦争をやめさせ、イラクからの撤退を求めるべき」と主張する.

03年6月

6月 ASEAN外相会議(引き続きASEAN+3外相会議、ARF閣僚会合)がプノンペンで開催。国際紛争について突っ込んだ見解を共有。

共通見解: 1.米国のユニラテラリズムを批判.「国連憲章をふくむ国際法の諸原則を厳密に遵守することの重要性を再確認」する.
2.南シナ海における関係国の行動に関する宣言。行動規範の策定を目指す。
3.北朝鮮にかかわる6カ国協議を支持。

8月 クアラルンプールで第一回東アジア会議開催.マハティール首相はアジア通貨基金(AMF)について強調.「理念や哲学を語り合う時期は終わった.これからは、どうやって作り上げるかを検討しよう」と述べる.

9月 北京で東アジア・シンクタンク・ネットワーク(NEAT)が設立される.「東アジア共同体」の現実化に向けロードマップ作りを開始.東アジア会議と内容的には重複.

03年10月

10月 バリ島で第9回ASEAN首脳会議.第二次ASEAN協和宣言(第二次バリ宣言)を発表.

バリ・コンコードⅡ: ASEAN共同体の2020年創設を確認。ASEANを「単一の市場,単一の生産拠点として確立」することを目指す.安保共同体行動計画の起草をイン ドネシアに,社会文化共同体計画をフィリピンに委託.
 第1回のASEAN首脳会議は76年に同じバリ島で開かれた.ここで協和宣言が発表され,東南アジア友好協力条約が締結された.第二次というのはこれを念頭に置いたもの.

10月 ASEAN首脳会議に引き続き,ASEAN+3首脳会議.中国とインドが東南アジア友好協力条約(TAC)に署名.

王毅外務次官(中国): TACは内部問題への不干渉,紛争の平和的解決,主権や領土保全の相互尊重など,各国が従うべき原則そのものだ.
シクリ外務次官(インド): 
TACの原則は,平和共存の五原則と一致しており,地域の平和,安定,進歩の利益や誓約を反映している.
小泉首相: 
TACの有無に関わらず,独自の立場でASEANとの協力関係を強める」としてTACへの加入を拒否.

10月 ASEANと中国、「戦略的パートナーシップ共同宣言」を採択.2010年までにASEANとの間でFTAを実施.貿易の拡大を確認.

ストレーツ・タイムズ紙(マレーシア)の論評: 中国の魅力ある攻勢は明白で,中国は日本を完全に凌駕した.中国はまた,東南アジア非核兵器地帯条約への加入を積極的に検討している.日本の官僚主義は,その慎重さと伝統的な思考を捨てなければならない.なにより対米追随を脱却し,自分自身の独立を図る必要がある.

12月 日本政府,東京でASEAN諸国との特別首脳会談を開催.これまでの消極的態度を改め,TAC加入を決定.中国のTAC加入へのあせりの表現と見られる.

03年 APEC首脳会議.ブッシュ大統領は対テロ戦争路線への支持を取り付けようとするが,「政治課題はなじまない」と拒否される.APECの存在感は急速に薄れる.

03年 中国と香港、台湾を合わせた中国圏への輸出が約13兆7000億円に達し、アメリカ向け輸出(約13兆4000億円)を上回る.

2004年

5月 日本政府の肝いりで,東アジア共同体評議会が設立される.関係省庁、シンクタンク、企業代表が参加。「日米同盟との両立を如何に図るか」を検討.議長の中曽根元首相,東アジア共同体について「中国に先に出られている」と危機感を表明.

04年6月

6月 クアラルンプールで第二回東アジア会議.アブドラ首相が基調演説.

アブドラ首相の基調演説: 東アジアのいかなる国,いかなる国民も,いかなる装いの下であれ,「大東亜共栄圏」の再現を望んでいない。
いかなる国家エゴイズムも,帝国的野望も,不平等国際条約も強制も,脅しも,威圧も,侮辱も,覇権もあってはならないと強調。

6月29日 ジャカルタで第37回ASEAN外相会議.多国間協調主義を基調とするASEAN憲章の作成を決議.

04年7月

7月01日 引き続きASEAN+3外相会議.EASG提案の前進を確認.また「東アジア首脳会議」の開催で合意.

前進した課題: ①ASEAN10カ国による自由貿易協定(AFTA)の進行.②ASEANと中国とのFTA協議の進展.③アジア債権ファンド(ABF)の設立など

7月 日本外務省,ASEAN+3外相会議に対し,米国を東アジア共同体へ参加させるよう示唆.

7月 引き続きARF閣僚会合。中国が軍及び政府関係者による「ARF 安全保障政策会議」(ASPC)の設置を提案し承認される。

7月 米太平洋軍,マラッカ海峡軍事行動での共同作戦を提案.マレーシアとインドネシアは,マラッカ海峡の安全は両国が責任を持つとし,米軍の提案を拒否.

04年11月

11月 ビエンチャンで第10回ASEAN首脳会議.2020年のASEAN共同体創設を目指し,地域統合の深化と,加盟諸国間の格差縮小をテーマとする.

11月 ASEANと温家宝首相の会談.①イラク情勢を憂慮し,国連が重要な役割を果たすべきとの認識で一致.②中国は東南アジア非核地帯条約の付属議定書へ署名の意向.③「全面的経済協力に関する枠組み」で合意.

2005年

05年7月

ビエンチャンで外相会議、+3外相会議、ARF閣僚会合が開催される。

05年12月

クアラルンプールでASEAN首脳会議。ASEAN憲章の起草で合意。元首脳や有識者の賢人グループに委ねられる。

憲章の骨格: 民主主義の促進、核兵器の拒否、武力行使・威嚇の拒否、国際法の原則順守、内政不干渉などが含まれる。

このあと初のASEAN+ロシア首脳会議も行われ、プーチンが参加。

第1回「東アジアサミット」(EAS)が開催される。参加国はASEAN+3に豪州、インド、ニュージーランドを加えた16ヵ国。ASEAN+3の枠組みを嫌う日本が押し出したもの。「東アジア首脳会議に関するクアラルンプール宣言」は抽象的なものにとどまる。

05年 ASEANと米国、パートナーシップ協定で合意。

2006年

5月 第1回ASEAN国防相会議。2020年までにASEAN安全保障共同体 (ASEAN Security Community: ASC) を創設することを目指す。

7月 クアラルンプールでASEAN外相会議。これまでの過程を整理し、1.ASEAN が「driving force」であり続けること、2.ASEAN+3 が東アジア共同体形成の主要な手段であり続けること、3.EAS が東アジアの平和と経済的繁栄について対話するためのフォーラムであること、を確認する。

8月 経済閣僚会議、ASEANの経済発展を確認。5.5%の経済成長、輸出が前年比13.5%増、投資も前年比48%増の380 億ドルに達した。 

8月 引き続き第1回ASEAN+3+3 経済担当閣僚会議。日本が16カ国の自由貿易協定(FTA)を提案。

2007年

1月 ASEAN安全保障共同体 (ASC)、ASEAN経済共同体 (AEC)、ASEAN社会・文化共同体 (ASCC) の3つからなるASEAN共同体を2015年までに設立することで合意(当初目標より5年前倒し)

11月 シンガポールで首脳会議。ASEAN 憲章が採択、署名され、さらに「ASEAN 経済共同体のための青写真」(ロードマップ)が署名される。

2008年

11月 ASEAN憲章、各国の批准を受け発効。 

2009年

 4月 財務相会合。「ASEANインフラ基金」創設について確認。また「チェンマイ・イニシアティブ」への各国の拠出額で合意。

2月 AFTAが改定され、より強制力をもった 「ASEAN物品貿易協定 (ATIGA)」 に発展。

2010年

10年 中国とASEANの間で自由貿易協定(ACFTA)が締結される。

2011年

  11月 バリ島で一連の首脳会議。最後の東アジア首脳会議 (EAS) には米国とロシアがはじめて参加。ASEAN+3+3+2となる。18カ国の賛成で「バリ原則宣言」を採択。武力行使や武力による威嚇の放棄を明記する。

11年 ASEANと中国、南シナ海行動宣言(DOC)履行のためのガイドラインを承認。

 2014年

 8月 ASEAN外相会議、バリ原則宣言を踏まえ、東南アジア友好協力条約(TAC)を発展させた「インド・太平洋友好協力条約」を提唱。


 すみません。とりあえずドカンと載せてしまいました。元々はホームページに乗せていたものですが、もう10年も経つので、増補・改訂しました。

近日中にまたホームページに戻します。その際、ダイジェスト版は残しておこうと思っています。



年表を作ってみて思うのだが、大久保利通は一言で言って「戦略家」であると思う。

一つの目的を立てると、その目的にそって計画を立て、目標を定める。そしてそのための陣どりを着々とすすめるのである。

陣どりというのは、誰を味方とし誰を敵とするのかということである。味方は多いほどいいし、敵は少ないほど良い。しかし数を集めるために目標を引き下げてはならない。

彼は交渉の達人であり、落とし所をよくわきまえている。それだけではなく、自分の望む地点に少しでも近く落とすすべを心得ている。落とせないと踏めば脅してでも妥協を迫る。

ここが革命家たる所以であり、たんなるマキャベリアンではない。その妥協には筋が通っている。

大久保の行動の大目的は、途中で変わっている。薩摩のためという目的から日本という国家のためという変更である。

これが何時のことなのかははっきりしない。何を指標にするかでずいぶん異なってくる。

決別の系列で言えば、徳川との決別、島津久光との決別、西郷隆盛との決別という3つのポイントが有る。

一方で結合の系列としては岩倉具視との結合、長州藩との結合、とりわけ伊藤博文との結合が挙げられる。

大久保は思想家ではない。彼は維新に何かを期待したわけではない。西洋との力の差を知りつつ、日本という国を守ることにすべての価値観を集中したに過ぎない。

その限りにおいて、進歩的な考えが有用であればそれを採用した。日本を守るために保守反動が有益であれば、彼は躊躇なくそれを採用しただろう。

大久保が大量に採用したのが吉田松陰スクールの人材だった。なぜなら薩摩にはそれだけの人材がいなかったからである。

吉田松陰スクールの本来の指導者は木戸孝允だった。彼は進歩的思想家でもあり、土佐の板垣や肥前の大隈もその影響下にあった。

しかし大久保は思想を欲せず、能力だけをもとめた。なぜなら彼は薩摩だったからである。維新を遂行したのは薩摩である。彼には西郷をも島津久光をも説得出来るだけの能力があった。その能力は大久保にしかなかったのである。

彼にはカリスマ的魅力もなかったし、カリスマたらんとする気もなかった。調整役に徹しつつ、日本を守るという決意に忠実だったのである.だから岩倉、西郷、島津久光、木戸が大久保の判断を尊重せざるを得なかったのである。

まさに「書記長」である。

なんともやりきれないニュースだ。
シリア政府軍が反体制派に対する攻撃を強化、過去36時間で200回以上の空爆を行った。
これは「シリア人権監視団」が21日に発表したもの。
監視団によれば、政府軍の空爆はダマスカス近郊や第二の都市である北部アレッポを始め全土におよんでいる。ドラム缶など円筒形の容器に火薬や石油などを詰めた通称「たる爆弾」も盛大に用いられているようだ。
シリア政府軍はこれまで「自由シリア軍」など反体制派武装組織と「イスラム国」など過激派組織の双方に攻撃を行ってきた。しかし米軍がシリアの「イスラム軍」への爆撃を行うようになってからは、反体制派への対応に「専念」できる状況となった。
2011年3月以来のシリア内戦では、これまで19万人が死亡し、全人口の半分に当たる970万人が難民となっている。
アサド政権退陣を求め反体制派を支援してきた米政府は、深刻な矛盾に直面している。
というものだ。
私は、結局米国の中東戦略がイスラエルの国益に沿った形でしか展開されていないところに、究極の問題があると思う。
シリアがずたずたになりイラクの紛争が泥沼化することで、もっとも政治的な利益を得るのはイスラエルにほかならない。

共産党の女性政策

共産党が「女性への差別を解決し、男女がともに活躍できる社会を」という政策を発表した。

その特徴を一言で言えば、男女差別問題にとどまらず、女性問題の全体を見通した重厚な主張となっている。

大きな柱は三つある。

1.ひとつは職場における男女差別の是正

2.二番目は子育て支援

3.三番目が女性の貧困問題の解決だ

4.このほかに個別課題ではあるが重要な課題として

選択的夫婦別姓、自営業・農業女性の労働評価、女性への暴力の廃絶だ。

5.最後に政治分野での女性の進出支援のアジェンダが示される。

職場の男女差別は民主的労組の婦人部で積み上げてきたものだろう。子育て問題は新婦人などが長年手がけてきた問題だ。女性の貧困問題は福祉畑の活動家が心を痛めてきた問題でもあるし、女性地方議員の活動の大きな分野を占めてきたものだ。

それだけに、短いが要を得た論調となっている。


その上で、「すべての間接差別の禁止」については、割り切れないものがある。

転勤、とくに地方勤務がキャリアーとして認められないのはきわめて辛いことである。

根本的に、会社勤務がジョブであり、雇用契約に基づくものと割り切られているのであれば、そのような問題は起きないであろう。

つまり地方勤務の要請があっても、バンバン断っていけば良いのであって、その結果、地方勤務希望者がいなくなれば地方勤務手当は否応なしに上がっていくのであろう。それでどこかで釣り合いが取れればよろしいのである。

つまりそういう社会、企業のあり方へのモード変更が行われないと、この問題は尾を引くと思う。

いま医者の世界がそうなっている。医局の縛りがなくなったから誰も地方に行かない。技術研修という一点に絞れば、地方勤務は暗黒である。

これはおそらくまったく別の問題であって、「会社社会」、「企業社会」を打破していくための別の解決法を探さなければならないのだろう。それはよく分かるのだが…

とりあえず、妥協案として

1.地方勤務を行わないことをキャリア上のハンディとはしない

2.しかし、地方勤務の実績は、キャリアではない形態で上積み評価する

ということはできないのだろうか、隠された差別と言われればそれまでだが…

今朝のNHKニュース。

RSウイルス感染症 西日本中心に流行

国立感染症研究所によりますと、今月12日までの1週間に全国およそ3000の小児科の医療機関で、新たにRSウイルス感染症と診断された患者は2946人で、5週連続で3000人近い患者が報告されています。
都道府県別では、最も多いのが大阪府で285人、次いで福岡県が244人、東京都が236人、熊本県が197人などとなって…
ときたもんだ。風邪なんていうものは天気と同じで西から東に向かうに決まっている。東京で流行るかどうかが決め手だが、東京で流行れば2,3週後には北海道にも上陸する可能性が高い。

ただこのウィルス、インフルエンザと違って同心円上に波及するとは限らない。飛び石型というか、例えは悪いがエボラ型のパターンだ。

おそらく1メートル以内の濃厚接触で感染が成立すると思われる。したがって、爆発的な集団発生には職員が関与している可能性が否定出来ない。

減負荷療法
というのがむかしは流行りだった。いま考えるとあまり意味があったとは思えない。ただ心臓のポンプ機能を考える上では非常に有意義であった。
まず、心不全には後方不全と前方不全というのがあって、前方不全というのは心臓の拍出量が不足するためにあちこちに出てくる血流不足の症状。これはわかりやすい。もう一つが後方不全でこれは血液が進まないために肺や肝臓に血がたまってしまううっ血症状。まぁ、これもわかる。
肝心なのは、心筋の収縮パーフォーマンスはうっ血が強くなるほど強化されるが、ある程度以上になるとかえって落ちてくるのだという仮説。もう一つは拍出量が減ると末梢血管が閉まって、さらに拍出量が減るという悪循環を形成するという仮説。
そこで血管拡張剤を使って前負荷や後負荷を減らしてやると心筋パーフォーマンスが良くなり、心拍出量が増えるということなのだが、結果的にはカテコールアミンの効果を血行力学的に立証したにすぎないと思う。ていのいい人体実験だった。
いま減負荷ということを考えてみると、そもそも心臓に掛かる負荷とはなんなのかを整理する必要がある。
それは先ほど来述べている酸素の供給義務、栄養の補給義務、体温の維持義務の3つだろうと思う。酸素の供給義務は高濃度の酸素を吸わせれば解決できる。栄養の補給義務は今はよく知らないが、むかしはGIK療法と言って高濃度のブドウ糖を送りこみ、インシュリンで細胞内に押し込むという理屈だった。カリウムがなんだったかはよく覚えていない。Na-K-ATPase みたいな話だったかな。
体温は、深部体温計というのをつけて、「おぉ温まったぞ」などとやっていたが、いっぽうでは熱希釈法で心拍出量を測るのに凍らせた生食をガンガン突っ込んでいたから態にならない。

問題はトータルな持続可能なサルベーションだ。あの頃はどちらかと言えば冷やすのが主流だった。冬眠療法である。
いまは温める治療が主流のようだ。「押してもダメなら引いて見な」の世界である。経済で言えば内需拡大策だ。
私から言わせると、どちらもありると思う。問題は恒温性の維持というドグマからの脱却である。それは心臓をセントラルドグマとする呪縛からの脱却であり、哲学的治療の範疇に属する治療法である。

病は欠陥状態の象徴である
というのがヒルデガルトの思想の中心だ。今や医療はヒルデガルト・フォン・ビンゲンの時代に回帰しつつある。

心臓は動く中央集権主義

心臓というのはたんなるポンプにすぎない。しかし人間の体の中で動く時、それは思想として動いているのだ。
体の臓器の中でこれほど傲慢な臓器はない。「だまって俺について来い」というのが心臓の主張である。嫌なやつだ。
戦争を考えてみよう。実際に銃を持って闘うのは前線の兵士である。それが指であったり腕であったり足であったししても、その場に張り付いた筋肉の働きであり、それに「突撃!」とか「撃て!」と命令する脳神経の働きである。それに対し心臓はロジスティクスの中枢であるにすぎない。
しかし、動物というのは、プラナリアのように切った両方から命が再生することはありえない。最も下等な生命に至るまで、その不平等性を受け入れることによって、移動の自由を獲得した生命なのだ。

動物の生命というのは、論理的には、動物を構成する数億の細胞の生命の集合としての生命だ。だから本質的には民主主義者だ。しかし心臓はそうは考えない。たとえ移植された心臓であろうと、心臓は心臓なのだと主張する。
この関係は恒温動物では瞬時性によってさらに強調される。それは瞬時の死なのだ。
例えば心肺停止となった時、心臓マッサージを行えば10分以上の生命維持は可能だ。人工呼吸など要らない。逆に心臓マッサージしなければ1,2分でアウトになる。挿管ができなくて心臓マッサージをやめさせる研修医は患者を殺しているようなものだ。
他の臓器の死は暫次的であり代替可能な死である。心臓の死は瞬間的であり不可逆である。おそらくそれは体温の維持と関連しているだろう。
動物が心臓の不平等を受け入れることによって生のあり方を規定されたように、恒温動物は心臓のために全てを捧げるシステムを受け入れることによって、高等動物としての発展を約束されたのである。嫌な話だ。

それはそれで仕方ないとして、例えば血圧130の人は動脈に穴を開けると130x13.5=175センチの高さに血が吹き上がる。それは1平方センチあたり175グラム、手のひらの広さに17.5kgの圧力がかかっていることを意味する。なぜそこまでの力が必要なのか、我々は心臓にあまりにも多くの力を与えすぎたのではないか、そんなことも考えるべきではないだろうか。

さすがに少々疲れてきた。明日のためにはそろそろやめるべきではないか。

心臓の仕事は半分で済む

もうちょっと医学的に考えてみよう。
例えば心臓。全身に酸素を送って栄養を送ってと習ったが、考えてみれば温度も送っているのだ。今まではそれを結果論として考えてきた。しかしそれは結果なのだろうか。
変温動物と同じレベルで考えればたしかにそれは副次的なものだ。末梢の細胞の中で酸素とATPを使ってエネルギーが作られ、それが一部は熱となり一部は力となることで人間は動いている。
し かしその熱を心臓に集中させ、全身に配分することで恒温動物は恒温性を維持しているわけだ。だから心臓は酸素と栄養の供給という一回部分でも仕事をしてい るが、恒温性の維持という二階部門では主役の役割を果たしている。だから、たんなるポンプにすぎない心臓が恒温動物では命の中核となっているのではない か。

この話はさらに発展する。アルコールが加わるからだ。風邪引いたら酒などのんではいけないと、誰が言ったのか。多分明日の朝になったら私が言うだろう。閑話休題。と言っても、そもそも閑話なんだけど…

末梢の体温を物理的に維持してあげれば、心臓の負担はそれだけ減るはずだ。例えば酸素の補給のためだけなら、1分間に5リットルもの血がいるのだろうか。栄養補給のためなら1日5リットルでも十分なのではないか。
とはいえそれだけスピードを下げると、多分血液は血管内凝固してしまうだろう。血液は1分間に5リットル流れるのにちょうど良いように作られているはずだからだ。

ということは、体温を36度に維持してやって、血液の濃さを半分に薄めて、ヘモグロビンの酸素飽和度を押し上げてやれば、心臓の仕事は半分で済むのではないかということである。

日中に3時間も寝たから(それは3時間も仕事をしなかったということでもあるが)、変に頭が冴えている。クスリの「アスピリン効果」もあるのかもしれない。
既存の医学体系は、この恒温動物の温度管理システムの破綻と、それへの対応の体系として、もう一回整序してもよいのではないかと思いついたのだ。

まず「炎症」という症状である。Dolor, Calor, Tumor という炎症の三主徴は、動物が恒温性を獲得したことによって、恒温性維持のシステムの破綻が生命を脅かす存在となったことの象徴的表れではないか。
だから人間の炎症を理解するには、まず変温動物における炎症のあり方を研究して、それと恒温動物との違いを理解する必要があるのではないか。
とはいえ、これはあまりにも大問題であるから、とりあえずはおいておく。
人間の命が、変温動物的な命Aと恒温動物的な命Bの2階建てで成り立っているとすれば、自然死においてはBの失調→Aの失調→死というコースがルーチンのパターンとして描かれるのではないか。
とはいえ、これもあまりにも大問題であるから、とりあえずはおいておく。

人類史を考えてみると、イブの子どもたちが10万年前にアフリカを出て世界に散らばっていったわけで、彼らは何回かの氷河期を生き延びて、一番寒さに強かった連中は極寒のベーリング海峡を越えてアメリカ大陸に散らばった。現在アジアに住む黄色人種もほとんどがシベリア育ちの先祖だ。みんな寒さには強い。それがDNAに閉じ込められている。
おそらく500万年前にもオーストラロピクテスの一団が北を目指したが、コーカサスあたりで死に絶えた。100万年前には北京原人やジャワ原人に相当するような連中が世界を目指したが、これも絶滅した。100万年前にはネアンデルタール人が頑張って、いいところまで行ったが、これも10万年前に息絶えた。
彼らの恒温動物としての体温維持装置が不十分だったためだろう。そんなもんなんだ。体温維持装置というのは。
ホモ・サピエンスの場合はたまたまうまく行ったにすぎないのであって、装置が優れているのか、たまたま強い氷河湖がなかったためにうまく行ったのか、まだ判断はできないのだ。ネアンデルタールだって50万年くらいは頑張ったのだ。我が人類はたかだか10万年だ。

人間の命を考える時、ホメオスターシス(恒常性)というが、その中心にあるのが体温の恒常性だ。しかしこの「恒常性」は、発生学的に見ればできたてで、きわめてもろく不安定なものだ。はたして命にとって有利なものなのか、それとも生活範囲を広げるために何かを犠牲にして獲得したものなのか。
この「恒常性」への強迫観念が人間の行動パターンや精神、さらには価値観・文明まで規定しているような気もする。「恒常」でなくたっていいんだよ、もっと流れに身を任せて生きていく方法もあるんだよ、という声が聞こえてくるような気もする。

プラン「ハワイ部屋」
実は小生、現在風邪のまっただ中である。
まさしく「患者の立場に立って」いる。
一番感じるのは温度感覚の違いである。
25度でも寒い。
多分正常時と3~5度位、至適温度が上がっているのではないかと思う。
本日は早退して、家でストーブをつけっぱなしでロキソニンを飲んで寝ていた。
3時間ほど寝て、眼が覚めたら汗ぐっしょりだった。
ストーブが真っ赤になっている。室温はなんと35度になっていた。
暑いが気分は爽快である。のどはカラカラだが、のどのイガイガは消えている。
ふつうは気温35度といえば熱中症になるほどの暑さだが、さほどの不快感はない。

そこで考えてみた。
蛋白が熱によって変性・凝固するのは40度を越えた時である。
しかし、その80%程度の温度というのは、本来生物にとって至適温度ではないだろうか。
それが高過ぎるのは、人間が恒温動物になっているからではないだろうか。
地球上で年中30~35度の高温が期待できるのは熱帯の限られた場所だけだ。人間は寒い所に適応することによって生存世界を広げてきた。
だとすると、人間が死ぬ最大の理由は寒いところへの適応の手段が破綻するからではないか。
発生学的には動物は変温動物だった。それが恒温動物に進化することによって住む世界を広げてきた。恒温性が破綻した時、人間は変温動物に里帰りする。
だったら、とりあえずは病気のあいだでも変温度物になりきればいいのではないか。

いいかい、車の暖房が壊れたからといって車が壊れたわけじゃないんだ。暖房が壊れたら、シベリアでは使えないかもしれないが、タイやインドネシアなら十分使えるんだ。
またシベリアに戻って活躍したいんなら、その間に暖房治せばいいだけの話じゃないか。

ということで、風邪の人を“プチ熱帯”に送り込んだらどうだろうと考えた。名づけてプラン「ハワイ部屋」だ。
いまは、風邪の人をアコーディオンカーテンで仕切って作った空間に隔離している。それは浮浪児の収容と同じで、ただの“隔離”だ。これはたんなる警察的対応であり、患者の人権は二の次だ。
しかし隔離部屋が隔離ではなく、治療部屋であればそれは一石二鳥となる。

むかし「トリスを飲んでハワイに行こう」という歌が流行った。風邪になったらハワイに行けるとなれば、まんざらではない。

ハワイに行ったら、みんな砂浜でワニになる。体温は人任せ、気持ちいい温度が至適温度だ。インターネットでハワイの気候を調べると、1月が24度、8月が29度というところ(ただし最高温度)。これは恒温動物にとっては至適かもしれないが、変温動物にはもう少し高いほうが良い。28~30度位でどうだろうか。
ここに24時間から48時間もいれば、ウィルスも駆逐され、大抵の人は生き返るのではないかと思う。

しかし、今の私にはハワイではちょっと物足りない。天井から露が滴り落ちるようなアマゾンの「マナウス部屋」のほうが良いかもしれない。気温が30度から32度。1ヶ月の降雨日数が9日~21日。ここでは人間以外のあらゆる生き物が元気そのものだ。

20-25方式の提案

職員の皆さん。

2012年の12月は老健「はるにれ」にとって忘れられない月です。

https://livedoor.blogimg.jp/shosuzki/imgs/e/0/e0eca5cc.jpg

江別にRSVの大流行がありました。11月中旬には全道平均の6倍にまで達しました。

子供がかかって親がうつされて、それがジジババのところにまできたのが12月の初旬でした。最初に三階がやられ、それがおさまるまもなく2階に広がりました。

症状は激烈で、38度台の熱が数日続き、その後気管支炎や肺炎となる人もあり、心不全が悪化した人もいました。

この大流行ははるにれにとっても大きな痛手でした。

延べ10名以上が病院に入院せざるを得なくなりました。そしてふたたび満床になるまで1年を要したのです。

この時の最大の教訓は温度の管理でした。暖房が不十分で、しかも場所的にムラがありました。

とくに現場からのフィードバックが不十分でした。現場で忙しく働く職員は、入所者の体感温度との違いがあることがわかりました。

そこで施設係が責任をもって温度管理に当たることになりました。加湿器も大幅に増やされました。

こうして去年は風邪の流行をかなり抑えることが出来ました。そうしてベッド稼働率も上がり、経営困難を乗り切ることができたのです。

しかし、「喉元過ぎれば熱さ忘れる」ということわざがあります。油断するとまた一昨年の二の舞いになるかもしれません。

一層の温度管理に気を配り、ハッピーな来年を迎えられるようにしたいものです。

そこで確認しておきたいことをいくつか上げておきます。

入所の管理者を責任者として、必ず毎日、各スポットの温度を測定し、20度より低ければすぐ手を打つこと。

入所者さんが寒いと感じていないかを必ずチェックすること。寒いと思っている人がいたら、すぐにスポット暖房などの手を打つこと。

風邪の人の最高の治療は保温であること。体感温度が最低でも25度以上になるように室温を調整すること。

早いもので、もう老健施設長となって4度目の冬を迎える。

この時分、一番神経を使うのが風邪の流行である。

一年目は大したことはなかったが、二年目がひどかった。おそらくRSVの大流行の煽りを食らってパンデミックと化した。

50%を超える入所者が風邪を引いて、二桁を超える人が肺炎となり医療機関に入院をお願いする羽目となった。

この流行は施設の経営にも甚大な被害をもたらした。直接の医療費増加もあるが、入所者数の減少がその後1年にわたり続いたのである。

私は経験的に施設の温度こそが流行の最大の原因と考え、スタッフに口を酸っぱくして訴えているのだが、悲しいかな雇われ施設長の指示はなかなか聞いてもらえない。

これは管理部の責任も大きいので、実は現場のスタッフには温度感覚がないのである。現場の仕事はほとんど肉体労働だから、多少の低温は気にならない。温度管理を現場感覚に任せておいてはダメなので、温度が下がった場合のマニュアルを決めて置かなければならない。

毎日いくつかのポイントで温度を測定し、何度以下になったらボイラーを入れ、部屋のスチームのメモリをMAXに変更し、特異的に低いところにはスポット暖房を投入する必要がある。

室温が高すぎれば下げる方法はいくらでもある。しかし低すぎる温度を上げる方法はないのだ

これを実施し始めて、去年はかなり改善できた。しかし喉元過ぎればということもある。

また一度ねじ巻きをしなければなるまい。

バットがボールにヒットする瞬間、腕とバットは真っ直ぐではない。必ず手首はバットより下、前にあるはずだ。手首はそった状態で、この固められた反りがボールを受け止める。そうでないと手首の返しは効いてこない。
この反りの程度は選手によってさまざまで、これがフォームを規定する。さらに内角球を払うときには外角を流し打ちにするよりもっと立てなければならない。その分は腕力と腰の回転でカバーするのである。
反りの強いのが「神主打法」と言って、昔は阪神の藤村富美男選手が有名だった。今なら稲葉の打ち方がまさに神主打法である。
この打ち方だと、バットはタマに対してこするようにヒットする。いわゆる大根切りである。したがってタマはラインドライブがかかって伸びていく。平凡なセンターフライと思ったのが意外に伸びていってスタンドまで届いてしまう。
陽岱鋼の2打席連続ホームランがまさにこれだった。
神主打法は内角に強い代わりに外角には手が届かない。だから届く限界が外角いっぱいになるように打席に立たなければならない。陽岱鋼は手首の反りの感覚が狂っているから、外角の感覚が崩れている。いわゆるドア・スイングだから、届かない球が届くように見えてしまうのだろう。


間違いがないかと思って、ウィキペディアをあたってみた。
間違っていた。神主打法の最初は藤村ではなく岩本義行だった。
神主打法という名称はバッターボックスでの構えの問題で、バットを逆傾斜に構えて投球を待つスタイルのことのようだ。
私の言っているのはインパクトの瞬間に、ボールに対して手首の位置が低くなるような打撃法のことなので、「拝み打ち」という方が正確なようだ。バットの生み出す遠心力は多少犠牲にしても、その分ボールに回転を与えることで飛距離を生み出す技術だ。
中田ならレフトスタンド上段に飛んで行くが、この打ち方ならセンターから左中間にライナーが飛んで行く。
ダウンスイングや、大根切りとは違う。ダウンスイングではボールをバットの短軸方向でこすってドライブをかけるが、拝み打ちでは長軸方向にこすることになる。




柴田義松さんという人の書いた「ヴィゴツキー入門」(寺子屋新書)を買ってきた。新書版で入門書とはいえ、出版事情厳しき今日このごろ、柴田さんの研究の集大成とも呼べるかもしれない。さらに「入門書」であるゆえに、柴田さんの思いも密かに織り込まれているだろう。
だからこの本は「ヴィゴツキー=柴田理論」の紹介として捉えておくべきと思う。

一言で言って感動的である。
ワロンを消化しきれずにモヤモヤとしていた気分がかなりスッキリした。ひょっとするとワロンは党派的心情からパブロフ・ミチューリン・ルイセンコに遠慮していたのかも知れない。
ヴィゴツキーはそこも遠慮なくやっているからきわめて論旨明快になっている。だからスターリンに粛清されてしまったのだろう。

以下、抜き書きをしていく。

1.模倣は発達の主要形式
子供は周囲の子どもたちの考え方ややり方を見て学び、模倣することで、できないこともできるようになります。子供は自分一人でもできることから、自分一人ではできないことへ、模倣を通して移行するのです。
つまり教育とはより効率よく模倣させるためのシステムだということになる。そのことにより発達が促される。
これはデューイへの痛烈な拒否だ。
2.精神発達の道具としての言語
人間は道具を使うことによって人間と自然の関係を直接的なものから間接的なものに変えました。それと同じように、人間は言語という道具を使うことによって自然的・直接的な心理過程を間接的な内面的な精神過程に転化します。
直感的にはきわめて正しい。あまりにも直截なアナロジーであるために、「予言」的な雰囲気を抱かせるが、多分それは正しいだろうと思う。おそらく脳科学的にそれは確認されていくだろうと思う。
3.精神発達の二段階説
子供の発達過程において精神機能は二段階に分かれて出現します。最初は集団的・社会的精神機能です。二回目はひとりひとりの子供の心のなかの精神機能です。最初のものが自分と他の人々との対話の中で生まれるのに対し、後者は精神内の機能です。
これは経験的には確かめられていることであり、アイデンティティー/パーソナリティー理論と総括できるだろう。ただ「何故二段階をたどるのか」についての説明は未だ仮説にとどまる。
4.「内言語」の成立が精神内活動の前提
言葉は、はじめは周りの人々とのコミュニケーションの手段として発生します。これは話し言葉です。それが7歳ころに「内言語」に転化します。そうすると言葉はコミュニケーションの手段ばかりではなく、思考の手段ともなり、やがて思考の基本的方法となります。
これは非常によく分かる。言葉はある程度「外言語」として使いこなさなければ、「内言語」化はしない。英語で辛うじて会話出来ても、英語で物を考える域には到底達しない自分を見ると、痛いほどよく分かる。
つまり内言語が形成されるためには外言語の習熟が必要なのだ。だからそこにタイムラグが生じ、二段階を経過せざるをえないのだ。しかも内言語は外言語の形成過程に規定されながら形成されざるをえないのだ。
ただしいったん内言語が成立すれば、それは独自の発展経過をたどるようになる。それが個性の析出だ。
5.「内言語」の成立は行動意志の形成と並行
言葉だけではありません。言葉と結びついて論理的思考も、また道徳的判断もそうやって形成されます。他人との関係で自分の行動を規則に従わせる能力がまず発生します。それが子ども自身の内部的機能として、行動の意志的調整へと発展していくのです。
これは非言語的表現というか、構えの形成のことを言っているのだろう。これについては必ずしも素直には首肯できない。本能として仕込まれた社会性という考えも否定出来ないからである。
 
一番、感心したのは、言語の外言語と内言語への分離、しかも外言語がまず発達することで内言語が発生するという時間的・因果的関係だ。
側頭葉の言語中枢で外言語が受け止められ、頭頂葉で内言語化され、それが前頭葉でさらに処理されるという構造と、それはよく一致する。
頭頂葉はさらに文字・数式という視覚的言語を統合するのだが、これはこの際は無視しておこう。

という文章を書いた。正確には「マケルナ会」の呼びかけを転載した。

ネトウヨからコメントを頂いた。

普段なら削除して無視するのだが、「国の品格と国益を損なう団体と改称すべし」と書かれてムラムラと来た。

私が生まれた時、国の品格はゼロだった。

軍部と政府・資本家たちが「国の品格」どころか日本のすべてをぶち壊したすえにドロンしたのだ。

浮浪児の写真を見ながら、「そこに写っているのは自分ではなかったのか」と反問する時、私を写している誰かは確かにもう一つの「日本」だった。

そんな「日本」に品格があったろうか。わずかでも品格が残っていたら、国民を見殺しにしながら、恬として生き残ることなどできたであろうか。

世間の風あたりが弱くなったのを見計らって、「昔はよかった」などとしゃしゃり出る人間の品格とはなんだろうか。

恥ずかしながら、私はそういう人間の驥尾に付しながら大人となった。

そういう人間は太平洋の島々で兵士に玉砕を命じながら、みずからはいけしゃあしゃあと戦後を生き抜いた。満州に開拓民を置き去りにしながら財宝を懐にして逃げ帰った。

腹かっさばいてお詫びしなければならなかったのに、頬ッカぶりして逃げまわった人間に、品格など語る資格があるのだろうか。

もし今の日本に品格があるとすれば、それは、そんな情けない「日本」をはじき出し、暮らしを建て直し、今の平和日本を作り上げた私たち戦後日本の努力の結果だ。国家の品格は私たちが作り上げたものだ。

親兄弟を異国の土と成し、全土を焦土と成し、大量の浮浪児を生み出した連中を、何故持ち上げなければならないのか。そのような輩に「国家の品格」など云々されたくない。



パブロ・ミラネスの変わり種アルバムを紹介しておこう。

Pablo Milanés y Lilia Vera El pregón de las flores 1981

YouTubeで全曲が聞ける。ありがたいことに、コメント欄に各曲の頭の時間がリンクされていて、別個に聴くことができる。

ベネズエラ民謡を思わせる白っぽい曲が詰まっている。LILIA VERA で調べてみると、案の定CANTANTE VENEZOLANA DE MUSICA TRADICIONALと書いてある。

Lilia Vera

率直に言えばそれほど魅力的な歌手ではない。歌もみな素晴らしいというわけでもない。しかしいくつかの民謡風の曲は素直に心にしみてくる。まぁベネズエラ民謡なんだから、当然といえば当然なんだけど…

1.El pregón de las flores

アルバムのテーマ曲のようだが、さほどではない。パブロでなければもっとうまく歌えるのにと思ってしまう。

2.Pueblos tristes

リリア・ベラとパブロのデュエット。佳曲だ。

3.Mi nostalgia

例によって、ものすごい変拍子のリズムの取りにくい歌だが、パブロは見事に歌っている。

4.La muerte del animal

このアルバムの白眉だ。見事にベネズエラしている。

5.Mi tripón

弦合奏やフルートも入って、ぐっとムーディーなアレンジになっている。パブロの独唱だ。

6.Montilla

クアトロが激しくかき鳴らされ、モントゥーノが迫力を生む。これもパブロの独唱。

ベネズエラ民謡はここまで。このあと後半の6曲はパブロの持ち歌を一緒に歌っているが、なくもがなの感がある。

本日の赤旗に「多彩なポスターで呼びかけ」という記事があって、秘密保護法に反対するデモの呼びかけポスターが紹介されている。

主催団体の名前がSASPLとなっていて、日本語名は「特定秘密保護法に反対する学生有志の会」というもの。

今回はデモを成功させようと思う学生が自主的にデザインを考え、種類が豊富です。見る側は底から好きなモノを選んで、思い思いの方法で拡散します。

ということだそうだ。とりあえず独断で優秀作を選んでみた。


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これはかっこいい。パトカーがいなければ無国籍の雰囲気だ。


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これはポスターではないが、ポスターに使える絵柄だ

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何か訳が分からないが、キャッチーではある

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比較的オーソドックスなデザイン。さすがに横文字が鬱陶しい。

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「私ってどう見える?」と女の子が首を傾げる。セリフはとてもいい。絵柄もとても説得力がある。明度・彩度アップ、ぼかしで遠近感、中央女子の浮き出し感など、まだまだ工夫の余地はある

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これは別の集会のポスター。奇抜さはないが、額に入れたいくらいの出来だ。

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どこかで見たような絵柄だ。やや訴求力に乏しい。大看板だと映えるかも

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一瞬、香港の学生デモのポスターかと思った。モデルも“いかにも”の雰囲気を漂わせている。

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絵の具の垂れ方が、なんとなく決まっている。

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何回も使えないネタだが。

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背景画像が冴えないのが玉に瑕。

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これもどこかで見たような絵柄。舞い降りる天使をイメージしたのだろうが、コラージュのテクニックがいまいち。

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シャネルのパロディ。“絵”的には一番。扇情的だが、残念ながら扇動的ではない。これを見て「そうだ、デモに行こう」と動く心理機転は…

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これがグランプリだろう。早とちりの向きにも、会場が渋谷であることがイメージとして叩き込まれる。

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基本的には伝統的スタイルだが、写真が良い。雰囲気が伝わってくる。

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もう少し写真に手を加えて欲しかった。SASPLのロゴはもっと強調したい

東京新聞に掲載された、反原発の詩歌から。

俵万智さんの歌が良い。

「海辺のキャンプ」と題された連作から

雨の降る確率 0 %でも 降るときは降るものです、雨は

声あわせ「ぼくらはみんな生きている」 生きているから この国がある

「なかったことにできるのか」という若松丈太郎さんの詩の終連

無残としか言いようがない現実がある

あったことを終わったことにするつもりか

あったことをなかったことにするつもりか

おなじことをくりかえすために

いまあることをなかったことにできるのか

阿修羅より引用 

8月の鉱工業生産指数の確報値が出た。
速報値より0.3%の下方修正だ。
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グラフを見て一番怖いのは、鉱工業生産の低下がどこまで行くのか先が見えない事だ。7月に持ち直したから6月が底だったのかと思ったが、それは奇数月と偶数月の関係でしかなかった。
しかも生産の低下にもかかわらず在庫は112,これはリーマンショック以来の高水準だ。
もうひとつ怖いのは、外的要因がほとんど見当たらないことだ。外的要因の多くは一過性のものであり、いずれ終りが来る。
奈落の底があんぐりと口を開けて待ち構えている、という恐怖心に襲われないエコノミストはいないだろう。
それにもかかわらず財務省と経団連は、消費税の2%引き上げというアクセルを踏み込もうとしている。この狂気にはそれ以上の怖さを感じる。

本日の赤旗経済面 「変貌する経済」の②は「税逃れ」と題されている。
いくつかの数字が挙げられているのでメモしておく。
1.最初は今年1月に出されたオックスファムのレポート
この中での試算では、
人口の1%を占める富裕層の富は110兆ドル。円にすると1京円を超す天文学的数字だ。
その勢いは留まるところを知らず、日々記録は塗り替えられつつある。
2.次はアメリカの民間研究機関グローバル・フィナンシャル・インテグリティーのレポート
“途上国からの不法な資金流出”の額は年間9467億ドル(約100兆円)
これは2011年の数字であるが、流出額はこの10年間、毎年10%以上伸びている。
本レポートは以下のように総括している。
“途上国からの不法な資金流出”の要因は三つある。それは犯罪、汚職、課税逃れである。
これはもっとも衝撃的な経済問題である
3.記事はその金がタックスヘイブンに流れているとし、合田寛氏の言葉で締めくくっている。

タックスヘイブンは、グローバル経済の奥に潜み、世界の富を操り、投機マネーがうごめく場となっている。
そして誰も十分に規制することができないでいる。

窺うところ、この記事は合田さんの論文のなぞりではなかろうか。そのうち合田さんの文章を探してみよう。



東南アジア金融危機が経済マクロに与えた衝撃についてはかなり詳細な報告があるが、それが民衆の生活に及ぼした被害についてはあまり知られていない。

北沢洋子氏の報告は,金融危機の実相を良く伝えている.長くなるが引用する.
1)  失業の増大
 金融危機の発生と、その後のIMFの引き締め政策押し付けによって、企業倒産と失業が急増した。ILOによると1,000万人が新たに失業した。インドネシアでは,靴などの非繊維製品部門の失業率は50%,建設部門では75%に上っている(アジア開銀)。
 タイでは
200万人が失業した。建設部門での失業は34%増となった。さらに半失業者の数が増加しており、740万人に達した。タイの繊維、エレクトロニクス産業の労働者の90%は女性であり、危機は女性により多くの打撃を与えた。
 韓国では17,613社が破産した。失業者数は178万人に及んだ。労働者20人中1人が失業したことになる。失業は、女性に、若年層に、未熟練労働者に集中している。解雇されなかった労働者も収入が激減した。労働権は侵害され、労組の組織率は著しく低下した。
2) インフレ
 インフレの昴進は貧困層の家計に打撃を与えた。インドネシアにおいては年率77.6%のインフレを記録した。インフレが貧困化の最大の要因であった。これはIMFのコンディショナリティによって、燃料、電気、大豆、砂糖、小麦粉などへの政府補助金が撤廃されたためである。食料品の価格が250%から500%も値上がりした。インドネシアの全所帯の4分の1が、肉、卵、魚といった重要な蛋白源の食料品への支出を減らしたというデータがある。
 インドネシアにおいては、農村部の世帯の収入は5%上昇したという記録があるが、一方都市部の世帯は
40%も激減している。労働者の賃金は30%減少し、世帯平均の支出は24%減となっている。
3) 貧 困
 1998年、世銀はこの地域の絶対的貧困者の数は倍増し、9,000万人に達したと述べた。そのうちインドネシアでは 1,700万人に達した.インドネシアでは、学生の就学率は25%下落した。子供の予防ワクチンの接種も有料となり、貧困家庭には負担できなくなった。5歳以下の子供に対する検診回数は、50%も減ってしまった。幼児死亡率は、30%上昇すると見込まれている。医薬品の不足から、多くの診療所が閉鎖に追い込まれている。
 タイでは、人口の
15%~20%に上る800万人が,1日2ドル以下の貧困状態にある。タイの失業者数の64%が、農村部に集中している。タイでは、農民が人口の60%を占めているのにもかかわらず、その収入はGNPの11%にすぎない。
 農村では都市の労働者からの送金が途絶え、都市から失業者が帰村した。さらに肥料・農薬・農機具などの値上がりと高金利によって農民の貧困化が進んだ。負債を抱えている農民は、
500万人に達すると見られる。
 韓国の貧困層は
550万人に上った。人々の収入は20%も減少した。一方、食料品の価格は20%、燃料は25%も上昇した。韓国の自殺者の数は月平均900人に上っている。離婚、家庭内暴力、犯罪の件数も増えている。


ASEAN年表の中にアジア通貨危機関連の事項がかなり膨大にに紛れ込んでいた。97年―98年分を抜き出しておく。ただしASEANを考える上で通貨危機は避けて通れない課題ではあるので、興味のある方はご覧頂きたい。


1997年

1月 橋本首相がASEAN諸国を歴訪.関係修復を図る.対話緊密化と多角的な文化協力を謳うが,東アジア共同体構想への言及なし.

7月 タイで金融危機が始まる.米国の投機資金がタイから急激に逃避したことから,短期的なバーツの流動性危機を引き起こす.域内諸国と国際機関は,タイに対し総額 172 億ドルの金融支援を決定.

8月 インドネシアでルピアの暴落が始まる.

8月末 日本が中心となりアジア通貨基金(AMF)構想.大蔵省の榊原英資財務官が各国を回り根回し.

榊原のAMF構想 日 本の円を中心にアジア版基金を作り、通貨危機に見舞われた国には優先的に通貨準備を融通することを提唱.中国・香港・日本・韓国・オーストラリア・インド ネシア・タイ・シンガポール・マレーシア・フィリピンで1000億ドル規模の基金を作り、IMFを補完する役割を持たせることになっていた。

8月 米財務省はIMFの権限を侵食するものとして猛反発(サマーズ副長官とのやり取りなど緊迫した雰囲気は榊原氏の回想録参照のこと).

9月 香港でIMF・世銀の年次総会.マハティール首相は,「実需を伴わない為替取引は不必要、不道徳で非生産的だ」と強く非難.国際投資家のジョージ・ソロスは、為替取引きの制限は「破滅的な結果につながる」と反論.

9月 香港でIMF年次総会に引き続き先進七か国蔵相・中央銀行総裁会議(G7).三塚蔵相とルービン米財務省長官の個別会議.ルービンはAMF構想への強い反対を改めて表明する.説得を受けた中国が保留に回ったため流産.

10月 アジア為替・金融危機の第二波、台湾とシンガポールにも波及.台湾は経常収支黒字を継続してきたために為替相場が安定しており、シンガポールは東南アジアで最もファンダメンタルズが強固だったため,攻略は成功せず.第三波は香港へと向かう.

11月 韓国,香港株式市場暴落の影響を受けウォン相場が急落.短期融資の比率が高かった韓国は,債務借り換えに失敗し実質デフォ―ルト状態となる.IMFに緊急支援を要請.

11月 APEC非公式首脳会議.「市場参加者の役割についてIMFが行っている研究の結論を期待する」とし,通貨取引の在り方全般をIMFに丸投げ.

12月 アジア金融危機のただなか,クアラルンプールで,ASEAN30周年を記念する第二回非公式ASEAN首脳会談.「2020年 ASEANビジョン」を発表.「2020年までにASEAN共同体となることを目指す」とする.社会的弱者を放置すれば,格差が広がり,社会が分裂して社 会の強靭さが損なわれるとし,「思いやりある社会の共同体」の考えを打ち出す.

思いやりある社会の共同体: 当時の国際金融危機を背景に打ち出された.①思いやりある社会の建設,②経済統合の社会的影響の克服,③環境の持続性の促進,④ASEANとしてのアイデンティティーの創出などが掲げられている.

12月 日・中・韓国の首脳が招待され,ASEAN首脳会談に引き続き東アジア首脳会議.ASEAN+3の始まりとなる.当初ASEANは,日本抜きで開催する方向を明らかにし,この動向を見て急遽日本政府も参加を決断.

12月16日 ASEAN9カ国首脳が中国の江沢民国家主席と会談.21世紀に向けた親善相互信頼パートナーシップを謳う「中国・ ASEAN共同声明」を採択.中国はASEANの平和・自由・中立地帯構想を支持し東南アジア非核兵器地帯条約の発効を歓迎.ASEANは「一つの中国」 政策を順守.南沙諸島問題では「武力に訴えることなく,平和的手段で意見の相違や紛争を解決する」ことを誓約.

12月 マハティール首相,国民経済行動評議会を組織.ダイム特別相、ノルディン・ソピー戦略国際問題研究所長らに通貨危機への総合的対応策の検討を命じる.

97年 インドネシアでスハルト独裁体制に対する政治危機が深刻化.米国は金融危機に対して一切の支援を拒否し,IMF基準の押し付けに終始した.米国とAPECへの失望が広がる.

1998年

5月 スハルト大統領が辞任.ハビビ副大統領が大統領に就任.

6月 米フィナンシャル・タイムズ紙,日本の金融市場が麻痺して円が対外責任能力を喪失した状況にあるとし,「日本株式会社は死にかかっている」と表現する.いっぽう元の防衛に成功した中国は,「世界の金融政策形成に対する影響力を持つものとして登場した」と述べる.

7月 中国,ASEAN拡大外相会議に参加.「東南アジア友好協力条約」への加入に前向きな姿勢を表明.

7月 マハティール,IMF路線で財政再建を図るアンワル副首相を更迭.短期資本を規制し,独自の為替管理で危機に対応.この年マレーシアの成長率はマイナス7%.

9月 マハティール,IMF派のアンワル副首相を解任.日本はマレーシア支持の姿勢を明確にする.

10月 宮沢蔵相,先進7カ国蔵相・中央銀行総裁会議(G7)で発展途上国などの通貨危機対策として、ヘッジファンドなどによる短期的な資 本取引の規制案を提案.危機に陥ったアジア諸国を対象に 300 億ドルを資金供与する新宮澤構想を発表.東アジアにおける地域協力を先導する役割を果たしたと自称.

11月 米国防総省,東アジア戦略報告を発表.日米同盟を「21世紀においても米アジア安保政策のかなめ」と位置付ける.またARFの役割を積極的に評価.

12月15日 ハノイで第6回ASEAN首脳会議.経済回復を目指す特別対策「大胆な措置に関する声明」を発表.CEPT実施率の努力目標 を1年間前倒しする.2020年ビジョンを実現する行動計画として,2004年を期限とする6ヵ年行動計画(ハノイ行動計画99~04)を採択.マクロ経 済と金融に関する協力の強化を主柱とし,経済統合の強化,ASEANの機構とメカニズムの改善などに取り組む.

12月16日 ASEAN首脳会議に引き続いて第二回ASEAN+3首脳会議.並行して日中韓三国首脳会議も開催。以後,ASEAN首脳会議とASEAN+3首脳会議はセット となる.

各国の提案合戦: 金大中の提唱で,協力のための検討機構として,東アジア・ビジョン・グループ(EAVG)を設置.中国の胡錦濤副主席は,金融危機打開のため東ア ジア蔵相会議の開催を提案.小渕首相は新宮沢構想を発表する一方.蔵相会議への米国の参加をもとめ,顰蹙を買ったといわれる(外務省のホームページには記載なし)

98年 この年のASEAN経済成長率はマイナス7%,インドネシアでは13%の落ち込み.対米不信はロシア危機の際に米財務省がヘッジファンドの救済に乗り出したことからさらに増幅される.


増補版を掲載していますのでそちらもご覧ください。

国際会議や外交の場面にはやたらと略語が出てきます。とりあえず試験問題用のあんちょこ。ちょっと古いので近日中に改訂版を出します。

AFTA

ASEAN Free Trade Area

アセアン自由貿易地帯: 92年首脳会議で合意。08年までの創設をめざす

APEC

Asia-Pacific Economic Cooperation

アジア太平洋経済協力閣僚会議: 米主導で87年に発足。開店休業状態が続いたが、マハティール構想に対抗して再強化.

ASA

Assoclation of Southeast Asia 東南アジア連合: ASEANの前身.61年にマラヤ連邦が提唱し,タイ、フィリピン、マラヤ連邦の3カ国をメンバーとして発足.

ARF

ASEAN Regional Forum

東南アジア諸国連合地域フォーラム政治・安全保障分野を対象とする対話フォーラム.ASEAN+3+米・EU・加・露・印・豪.ニュージーランド・パプアニューギニア・モンゴル・北朝鮮・パキスタン.

ASEAN

Assoclation of Southeast Asian Nations

東南アジア諸国連合

ASEAN+3

ASEANに日本・中国・韓国を加えたもの

ASEAN・PMC

 

ASEAN拡大外相会議年1回、ASEAN外相会議に引き続いて開催。逐次域外国・機関(ダイアログ・パートナー)数を追加している。

CEPT

Common Effective Preferential Tariff

共通効果特恵関税制度: 92年首脳会議で合意.AFTAの創設に向けPTAを発展・包括化させたもの.最終目標は域内貿易の85%.

DSM

 

一般的紛争処理メカニズム: 95年首脳会談で合意.

EAC


東アジア共同体: 東アジア全体をカバーする共同体構想.ASEAN+3を基軸とする.

EAEG

East Asia Economic Group

東アジア経済グループ: 90年末にマハティールが提起した構想.今日の東アジア共同体構想につながる.

EAEC

East Asia Economic Caucus

東アジア経済会議: EAEG構想を協議体として妥協させたもの.EEC,NAFTAに相当する地域枠組み.

EAFTA


東アジア自由貿易地帯: EASGにより提起された26課題の一つ.

EAVG

East Asia Vision Group

東アジア・ビジョン・グループ: 98年のASEAN+3首脳会議で,東アジア協力を進めるための検討機構として設置された.

EASG

East Asia StudyGroup

東アジア研究グループ: 00年のASEAN+3首脳会議で,EAC構想を具体化するための検討機構として設置された.02年,EAC設立のための26の課題を提示.

FTA


自由貿易協定: 基本的には二国間の自由化取り決め。

IAI

Initiative for ASEAN Integretion

ASEAN統合イニシアティブ: 域内の経済格差の縮小、ASEANの競争力強化を目的とする.

ISIS


マレーシア戦略国際問題研究所: 東アジア共同体構想を推進するシンクタンク.理事長はノルディン・ソピー.

NEAT

Network of East Asian Thinktanks

東アジア・シンクタンク・ネットワーク: 03年9月北京の会議で設立が決まる.東アジア共同体へ向けたロードマップ作りを任務とする.

PTA

ASEAN Preferential Trading Arrangements 特恵貿易取り極め: 77年に導入されたASEAN諸国間の関税引き下げ合意.対象品目の関税率は最恵国待遇レートの半分となる.

SEANWFZ

Southeast Asia Nuclear Weapon Free Zone

東南アジア非核兵器地帯条約: 95年,ASEAN首脳会議で調印.97年に発効.

TAC

Treaty of Amity and Cooperation in Southeast Asia

東南アジア友好協力条約: 76年,第1回首脳会議で採択.

ZOPFAN

Zone of Peace, Freedom and Neutrality

平和・自由・中立地帯: 71年,ASEAN特別外相会議で宣言された.これをもとに東南アジア非核兵器地帯条約が締結.

 

 

 


キューバのヌエバ・トローバというと、日本ではシルビオ・ロドリゲスが人気だ。なぜならアメリカでの人気がすごいからだ。
多分、シルビオの詩が人気だからだろう。私から言うとシルビオは少しも面白くない。それは節を付けた詩でしかないし、詩の意味がわからないし、スペイン語が堪能で詩の意味が分かったとしても、高踏詩のように分からないことが分かっただけの話だろう。カエターノ・ヴェローソと同じだ。
トローバというのは門付けして歩く祭文語りのことだ。サロンで上流夫人を相手にして歌う歌ではない。野卑ではあるが、首都ハバナの流行歌を地方に伝えている。田舎の人にしてみれは街場の歌なのだ。
私の子供の頃、年寄りの好みと若者の好みは分裂していなかった。旅回りの「桃中軒某」とか「尾上某五郎」一座が街の外れに小屋を張ってのぼりを掲げる時、それは異界の出現であり、まがまがしき「東京」の出現であった。
たしかにトローバは田舎の世界ではあるが、その田舎にとっては「都会」という世界であった。そのエッセンスを汲み上げるのが、ヌエバ・トローバの仕事だ。
パブロの歌を聞く時それは田舎歌に聞こえる。ただそこにはコジャレた都会の香りがするのである。

東アジアの平和の実現に至る過程で、平和憲法の意義は非常に大きかったと思う。


一般に外交は軍事抜きには考えられない。

政治的選択肢、経済的選択肢とともに軍事的選択肢は必ず念頭に置かなければならない。

しかし東アジアにおいては、最大の強国である日本が戦争を放棄しているために、特異な展開を遂げてきた。

“平和大国”の日本に対して中国も東南アジアも軍事的圧力を感じることなく、国内外の政策を選択できた。反共・反中国の敵対国であったとしても、日本を仮想敵国として設定する必要はなかった。

対日ビジネスはつねに非軍事的に、ゆえに対等で行われてきた。したがって日本の進出はそのまま各国の発展につながってきた。あくまでも支配層間に限定しての話だが、そこにはウィン・ウィンの関係が築かれてきた。

このような海外進出のやり方をとった国家は、人類の歴史で初めてであり、しかもそれが成功しうることを証明したのも初めてである。

アジアにこのような垂直関係が強まる中で、過去の侵略の問題も実践的にはかなり解決されてきた。北朝鮮を除いて各国との間の賠償問題は解決済みであり、歴史認識の問題でも何回かの声明を通じて、謝罪の意志は示されている。

それらの反省はきわめて不十分であり、しかも逆流現象も見られるが、軍事的選択を伴わない進出が強化されれば、今後さらに否応なしに解決されざるをえなくなる問題だろうと思う。

ベトナムの再統一以来、アメリカによる東アジア干渉は著明に減退している。さらにソ連・東欧諸国の崩壊により、北からの脅威も消失した。北朝鮮をめぐる問題は、基本的には前世紀の遺物と考えられる。

東アジアにこのような平和がもたらされた背景には、日本のはたした役割が大きい。域内最大国であった日本が戦争を放棄し、すべての国(北朝鮮を除く)と友好関係を結び、内政に干渉せず、軍事的進出を図ろうとしなかったことがきわめて重要な意義を持っている。

このことを出発点として、議論を開始することが重要なのではないか。歴史認識の問題は重要ではあるが主要ではない。

東アジアの諸国民が平和の枠組みを模索するにあたっては、日本の平和憲法の意義を深く認識し、議論の重要な出発点として確認していくことが大事だろうと思う。

(ここまでの話はあまりにも楽観的だとか、日米安保を軽視していると批判を受けるかもしれない。しかし未来志向で考えると、東アジアが平和の世界として発展していけば、日米安保は博物館行きとならざるをえないのである)

ソニーの盛田元会長が1992年2月の『文芸春秋』に発表した「『日本型経営』が危い」という文章がある。当時はずいぶん話題になったものだ。

いまいちど、見なおしてみたい。


盛田提言は次のように要約できる。

日本の企業は、国内で横並び一線の蛾烈な競争(過当競争)を行っている。

そこではシェア拡大が至上命題となり、そのために先ず低販売価格が設定され、その価格でやっていけるように適正な利益や必要なコストが効率の犠牲となって削られている。

効率の犠牲となっているものには、長時間労働、低労働分配率、低配当性向、部品メーカーへのしわ寄せ、地域社会への貢献の消極性、環境保護・省資源対策の不十分さなどがある。

これに対し欧米の企業は、製品市場毎の棲み分けが比較的明確であり、競争もそれほど激しくなく、販売価格には適正な利益や必要なコストが含まれている。

欧米からみれば異質なやり方・経営理念をそのまま海外にも適用し、世界市場で競争を続ける日本企業に対する欧米企業の我慢はもはや限界に近づいている。

日本企業に求められているのは、欧米企業と整合性のあるルールの上でのフェアな競争であり、効率の犠牲となっている諸点を十分に考慮した価格設定である。

ただし、これは理想であり、現在の状況下で敢えでどこか一企業が抜本的改革をすれば、その企業はたちまち経営難に陥る。

当面は各企業が手を付けられることから始めるべきである。たとえば、従業員が自由に連続体暇がとれるフレックス・ホリデー、学歴不問の採用制度、頻繁なモデルチェンジの見直しなどである。

曲がり角に立つ日本的経営より


 その上で盛田氏は、企業人は最初のステップとして次のようなことを考えていくべきだとして6項目(要旨)をあげています。

(1)生活に豊かさとゆとりが得られるように、十分な休暇をとり、労働時間を短縮できるよう配慮すべきではないか?

(2)現在の給与は、企業の運営を担うすべての人達が真の豊かさを実感できるレベルにあるのか。貢献している人々がその働きに応じて十分に報われるシステムになっているか?

(3)欧米並みの配当性向を確保するべきではないか?

(4)資材・部品の購入価格、納期の面で、取引先に不満を持たせているようなことはないか?

(5)企業および個々人が社会やコミュニティーの一員であることを認識し、積極的な社会貢献に務めるべきではないか?

(6)環境保護および省資源対策に十分配慮しているか?

トヨタで生きるより


盛田氏は「そんなこと言ったって無理だよ!」という意見を否定しているわけではない。

もっと長期の視野で、「企業というのはこうあるべきではないか? そういうことを目指すべきでではないか?」と問いかけているのである。

今日から見ると、ある意味懐かしいところもある。会社立国というか、企業が日本を支えるのだという自負が感じられるからである。

現在の企業にそのような意志はまったく感じられない。「企業はグローバルなものであり、日本のために頑張る存在ではない」という風潮と、「企業は株主のためにあるのであり、社員のためにあるのではない」という風潮が押しとどめられることなく拡散しつつある。

「日本型経営」の“長所”は抜き取られ、“短所”のみがますます強められつつある。そんな気がしてならない。

緒方さんの講演会を前に一応簡単な紹介、と言ってもウィキペディアのコピペだが…

緒方 靖夫(おがた やすお)

1947年10月29日うまれ。

元参議院議員(2期)。現在は党中央委員会幹部会副委員長兼党国際局長。

略歴

新宿高等学校、東京外国語大学中国語学科卒業。

71年から2年間、ルーマニアのブカレスト大学に留学。

帰国後、党国際部に勤務。

1979年から5年間、『赤旗』パリ特派員を務める。

帰国後、党国際部長、赤旗外信部長などを歴任。

1985年に党幹部会委員に就任。

1986年に神奈川県警によって自宅が盗聴されていることが発覚した。

1995年、東京都選挙区から参議院議員に初当選。網膜症(加齢黄斑変性)

のため2007年選挙に出馬せず。

2006年に幹部会副委員長に選出された。

人物像

ルーマニア語・中国語・英語・フランス語・ドイツ語・ロシア語・スペイン語に通じ

ている。

柔道有段者(黒帯)である。

以上ウィキペディアより

著書は下記のごとくたくさん

緒方著書



ガザのビサン動物園がひどい状況だそうだ。

イスラエルとの戦闘で大きな被害が出たパレスチナ自治区ガザでは、動物園の動物たちも悲惨な状況に置かれていた。
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園内の建物や檻は壊れ、地面には爆弾による直径十メートルほどの穴も残る。飼育舎の間の焼け焦げた草の上には至る所にサルなどの死骸が散乱する。別の檻では飢えた2頭のライオンの前にクジャクの死骸が横たわる。

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獣医のアルヒシさんは、オスのマントヒヒを指さして言った。「傍らにあるのはメスと子どもの亡きがら。時々触りながら泣くような声を上げるのです」

メスと子は金属片が当たり死んだ。以来人間を寄せ付けず、遺骸を取り除こうとすると激高する

「ひどい状況だ。動物たちを檻から出して清掃することもできない。多くは汚れて弱っているが、ほかに移す場所もない」
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この動物園は2008年、サッカー競技場や遊園地と共に建設された。ライオンやワニなど約80頭がいた。エジプトとの境界に作られた密輸トンネルを通じて持ち込まれた。子供たちに人気となり、連日数百人が訪れていた。

しかしそうした施設のほとんどは、イスラエルの空爆で破壊された。

これまで2100人以上が死亡し、多数の住宅などが破壊される中で起きている事態なのだということを忘れてはならない。死者の大半が民間人で、中でも400人以上の子どもが含まれている。

人間は、サルやクジャク同様にガザという檻に閉じ込められ、なぶり殺しにされたのだ。

(毎日新聞、CNNニュースより)

若者に100万円持たせろ
若者が100万円持ったら、たちまち日本は変わるだろう。
日本人の工夫好きはたちまちにしてハイテク製品の革命的変化をもたらすだろう。
アップルなんて、革命的技術はなにもない。既存の技術を組み合わせて一つの商品に仕立てるだけだ。
それこそ日本のお家芸だ。
企業の開発部が売れ筋を一生懸命考えてもたかが知れている。その国の若者の文化そのものが開発力なのだ。
いまの日本は若者を貶めている。成長しようとする力を徹底して無視して、目前の利益に走っている。
若者に100万円を与えろ。彼らはアイフォンをいじくり返し、たちまち新機能を付与するだろう。
電話とカメラと音楽プレーヤーとパソコンを一本化するなど、ものぐさのすることで、ふたたび機能は専門分化するだろう。それぞれの機能にはそれぞれの文化がある。なぜなら文化というものは、刺激を頭頂葉、前頭葉の回路を通して、言語化し価値付けることで生まれてくるものなのだから。
彼らはyoutubeよりはるかに品質の高い動画配信ネットを作り上げるだろう。4畳半をコンサートホールにしてしまうようなオーディオシステムを開発するだろう。もっと簡単な命令で、痒いところに手の届くようなナビを開発するだろう。
何よりも、ものがなくても自由な生き方をしようとする若者が復活するだろう。
それを実現するのは若者の文化力と、ちょっとした小遣いだ。
時給が200円上がれば、200x6x300=36万円だ。これに超勤手当、住宅・交通費、家族手当、各種保険、年金をきちっとつければ、50万円などあっという間だ。あとは企業の業績次第だが、若者は50万円あれば綺麗さっぱり使うはずだから、絶大な波及効果を伴うに違いない。

雪崩を打つような海外進出が続いている。いまは自動車だけでなく一般製造業まで裾野が広がっている。さらに、これはうまくいくかどうか分からないが、第三次産業やサービス産業まで浮き足立っている。
最初は、ジャパン・バッシングの中アメリカへの輸出が厳しく規制されて、迂回輸出の形で始まった。それが安い人件費を求めての海外進出となり、さらに最近では市場を求めての海外進出となっている。
ただその先に何があるかというと、リスクは少なくない。かつて追い風となった円高は、いまや逆に吹いている。労働力の価格は高騰し、労働運動などの洗礼も始まっている。肝心の市場も、分野によっては、現地の新興産業に追いつき追い越されかねない。
海外進出一本槍で行った場合、本体もろとも転覆する可能性は格段に高くなっている。
その典型がソニーであろう。
かつては「さすがはソニー」、いまや「やっぱりソニー・タイマー」である。

海外比率
08年からのものでスパンは短いが、各産業別の特徴がよく現れている。自動車が典型で、リーマンショック、東北大震災、タイの水害などで上がり下がりはあるが、ものすごい勢いで海外生産化が進んでいる。ホンダ・日産は完全に海外志向、トヨタが大きく海外に軸足を移したのが大きい。
注目すべきは電気・電子の伸び悩みである。海外生産が行き着くところまで行くとどうなるか、その未来図を提示しているようだ。次の大波が来たら、産業全体が持たなくなるのではないかと危惧される。かつての繊維業界と同じコースをたどっているようだ。
そして自動車もそのコースに入りつつあるように見える。
長期的に見ると、国内拠点を貫くシャープ、マツダ、ダイハツあたりの業績がどういう方向に動くかが注目される。








「百済本紀」(日本書紀に引用された)は時間についての記載が必ずしも正確ではないかもしれない。

というのは、537年の記載で、大伴金村は子の大伴磐(いわ)と狭手彦とを派遣。磐は筑紫にあって国政をとり,狭手彦は渡海して任那を統治し,百済を救ったとされている。

筑紫にあって国政をとった「磐」が磐井である可能性は否定出来ない。

10年前に反乱の末に敗れた逆賊「磐井」に通じる名前を、筑紫にあって国政をとる人間が名乗るだろうか、という問題だ。

もしこれが磐井だとすれば、10年の時差を無視すれば、事態はかなり飲み込めてくる。狭手彦が毛野だ。

狭手彦が半島で命がけで戦っているのに、大伴磐は支援をさぼり、あまつさえ新羅と手を結ぼうとさえする。

ということでチャンチャンバラバラとなれば、話はけっこうわかりやすい。

狭手彦はどうも松浦の一らしい。筑前に王様がいて、筑後の磐井が総理大臣、狭手彦が倭軍の大将という構図だ。

10年の誤差は、日本書紀が同じ記事を何度もコピペしているということで説明可能かもしれない。

大和で、大伴金村が物部に敗れ退陣を迫られたという事件があり、大伴びいきの日本書紀はそれを任那話と結びつけたのかもしれない。

とすれば、日本書紀が「大伴金村」として比定した人物こそが倭国の王だった可能性がある。

山田記者が「経済アングル」で提起している。
残念ながら、着想は面白いが“実証不足”である。

私は基本は需要(実需)と供給のミスマッチだたと思う。
労働市場の構造が様変わりしていることが根っこだ.産業空洞化で製造業が大幅に縮小したが、労働市場がそれに対応していない。
短期的には、この間の景気回復により製造業も人で不足になっているが、これまでの激しい人減らしで年齢構造が中抜きになってしまっている。このため労働者はいても使いこなせない状況になっている。要するに企業が劣化してしまっているために人手不足に対応できないのである。
サービス産業ではこれまで労基法違反もなんのその、極悪非道で成り立ってきた商売が世の指弾に会いやっていけなくなった、それだけのはなしである。
超短期的には、消費税を当て込んだ公共事業が横並びでスタートして、建設・土木関係に仕事が集中しているためである。これは予算を使い切ったら終わりの世界だ。これは本来なら福祉目的に使われるべきであった金であり、そうすればより継続的に需要を生む可能性があった金である。

実際のところ、現在も就職難は相変わらずである。

その後も各方面の数字が発表されている。
内閣府の景気動向指数(一般指数)は12年以降一本調子に登り基調を示していたが、ついに低下に向きを変えた。基調判断は「足踏み」から「下方への局面変化」に変わった。

これは速報だが、中小企業の9月業況判断指数(日商)はマイナス24%で、8月よりさらに4%低下している。とくにひどいのが中小小売で、マイナス42%まで達している。

国際的にも消費税反動減への警戒感が出ている。IMF は7日の最新世界経済見通しの中で、「消費税増税後の国内需要の落ち込みは予想以上に大きい。低成長が長期化すると思われ、下振れリスクは春に比べ高まっている」と警告した。

8月統計が出揃ったところで、赤旗がコラム「危険水域 日本経済」で論評した。
論評はまず個人消費に眼をあてる。
総務省家計調査で、消費支出が5ヶ月連続のマイナス、8月でなおマイナス4.7%というのは、97年の0.5%と比べ格段に深刻だ。
「反動減が収束していない」というのは政府も認めている。
赤旗は、消費税にとどまらない、中長期的要因があるとみる。それは第一に国民所得の長期減少傾向、第二に円安に伴う物価の上昇傾向だ。
8月実質賃金指数は14ヶ月連続の低下を示した(毎月勤労統計)。名目は若干上がったが、それを物価上昇率が上回ったためだ。消費者物価指数(総合指数)は前年同月比3.1%に達している。
この所得低下は平均値でみるだけではダメだ。貧困層の増加と一層の貧困化に特徴があるからだ。年収200万以下のワーキング・プアーは1100万人、全労働者の24%に達している。また非正規が増え正規が減っていることも変わらない。

生産・貿易面はこれまですでに触れているので省略する。


YouTubeをあさっていると、思わぬ掘り出し物にあたることがある。
ワルターのブルックナー7番はその最たるものだろう。
音源としては54年のニューヨーク・フィルとの演奏、そして61年のコロンビア交響楽団との演奏がある。
いずれも感動的だ。
まずニューヨーク・フィルとの演奏であるが、3つびっくりする。まずは素晴らしい音質だ。モノーラルだろうが音の分離がよくステレオを聞いているような気分になる。以前55年前後のジャズの録音を聞いてあまりの音質の素晴らしさにびっくりした記憶があるが、この演奏もそういう印象だ。我慢している感覚がなく素直に感動できる。
第二はニューヨーク・フィルの素晴らしさだ。昔はベルリン・フィル、ウィーン・フィルと並んで世界の三大オーケストラと呼ばれたが、むべなるかなという思いだ。今でこそニューヨーク・フィルというとそれだけで顔をしかめるくらいひどい。弦は硬く汚く艶がない。何よりやる気がないと三拍子も四拍子も揃っているが、昔はそうではなかった。
そして3つ目はワルターの柔らかさだ。ワルターの柔らかさがブルックナーの持つ柔らかさを引き出している。どんな強奏部でも(正確にはほとんど全てで)管と弦が分離することはなく、一塊になった響きを紡ぎだしている。音楽は歌うことをやめない。強弱のダイナミックではなく前に進もうとすつダイナミックが全体を支配している。
ティーレマンのような、激しさがとりえのブルックナーではない。ところどころに悲しげな頬笑みが顔を覗かせさえするのである。一言で言えば、ブルックナーをあの気弱なシューベルトの延長の上に捉えている。
ついで61年、死の直前の演奏。
こちらは録音の素晴らしさに、ただただ感激する。現在でも一流の録音ではないだろうか。こちらはFLAC音源で聞くことができる。
ただし弦と管のバランスは相当いじってある。ありえないバランスだ。弦は室内楽団のようだ。低音源は不自然なほどに強調されている。
演奏はニューヨーク・フィルとの録音で見られた傾向が一層強調されている。角がなく丸みを持った音が飛び出してくる。旋律の美しさがいやが上にも強調される。「こんなもの旋律カイな」と思っていたフレーズが哀愁さえ帯びて飛び出してくる。以前、ブルックナーの弦楽四重奏曲を聞いてその優しさに驚いた記憶があるが、ワルターはそこをブルックナーの襟首としてとらえたようだ。
ワルターは晩年になるまでブルックナーを演奏しなかったらしい。ブルックナーの襟首を捕まえられなかったのであろう。それだけにワルターのブルックナー像は納得できる。それだけの説得力を持っている。
とにかくワルターを聞いたら、“意志の男”にして“ワグナー崇拝者”というブルックナーのイメージが変わることだけはうけあいだ。
なお、ワルターのブルックナー9番もFLACで聞ける。こちらの音質も極上だ。

Walter NYP recorded in 1954

FLAC ファイルはこちら

Blue Sky Label

ブルックナー:交響曲第7番 ホ長調

ブルックナー:交響曲第9番 ニ短調

コミナーティのラヴェル・ピアノ曲がYouTubeで聞ける。
まだ全部聞いたわけではないが、ラ・ヴァルスはいける。
今まではユジャ・ワンを聞いていたが、やはり弾き込み具合が違う。
多分ユジャ・ワンも、いずれどこかで路線を変更するだろうから、それまでのお楽しみとしておく。ユンディ・リーと違って、速いだけではない“伸びしろ”を持っている。

 奨学金の返済状況に関するデータ

共産党が「奨学金返済への不安と負担を軽減するために」という政策を発表した。

そのなかで奨学金の返済状況がいくつか示されている。

一般に科学研究では95%というのが信頼限界とされる。つまり5%以下の不揃い分は無視しうるものとされている。

奨学金の返済焦げ付きも、5%以下であれば事務的ミスとか、不心得の範囲に留まるだろう。

これが現在は「8人に1人」が滞納や返済猶予になっているそうだ。率で言うと12、3%というところか。これは明らかに問題だ。

1.奨学金受給者は20年間で4倍に

奨学金の受給率はこの間に急速に増大している。1998年と2014年の比較で、3.7倍にまで達した。粗々で言えば20年で4倍となる。

これはすごい数字だ。知らなかった。

「いまや学生の2人に1人が奨学金を借りています」という時代になっているのだ。

二つの見方ができる。ひとつはそれだけ世の中厳しくなっているという見方。もう一つはそれだけ大学教育が大衆化して、昔行けなかった人まで行くようになったという見方だ。

どちらにしても、学生が全体に貧困化し、学生生活が全体としてみすぼらしくなっていることは間違いないようだ。

2.学生の貧困化の原因

同じ時期の比較で親からの月の仕送りが10万円から7万円に減ったというデータが有る(大学生協連による下宿生調査)

その一方で学費は上がっている(ここには比較した数字は載っていない)

学生の貧困化の原因はあまりにも単純明白だ。

そして学生の対応も単純だ。奨学金かアルバイトしか方法はない。どちらが良いかといえば奨学金に決まっている。だから学生は奨学金に雪崩れ込んでいるのだ。

3.奨学金という名の借金

いまや奨学金の主流は有利子だそうだ。卒業後は返済していかなければならない。これがいくらになるのか。

…平均的なケースで、卒業時300万円、大学院に進学すると1千万円だそうだ。

医者や看護師の場合は、何年かお礼奉公するとただになる場合が多いが、普通はそうは行かない。返していくしかないのである。

利率は不明だが、20年で倍返しとなると、年額30万の返済となる。

最近の大学卒賃金については以下のように記載されている。

…大学・短大卒で30歳から50歳の人の3分の1以上が年収300万以下(総務省就業構造基本調査)で働いています。

だとすると、この3分の1の人の平均年収は250万程度と想像される。この中で、返済が滞る人が8人に1人程度というのは、ある意味で驚異的だ。

4.滞納するとどうなるか

記事から引用すると

…期日から一日でも遅れると5%の延滞金利息が上乗せされ、滞納が3ヶ月以上続けば、金融の「ブラックリスト」に載せられます。

ということだ。

借りた金を踏み倒すのは世間的には許されないし、厳しくあってしかるべきだ。しかし現下の事情を鑑みるなら、制度自体に条件を守られるような柔軟性が求められる。そうでなければ、たんなる厳罰主義であって、事態の解決には役立たない。

借金は返さなければならないと、歯を食いしばって頑張っている人たちに、せめて温かい気配りが必要ではないか。

5.共産党の提案

ということで、そもそも論もさることながら、奨学金併催の滞納者となることによって「社会的失格者」の烙印を押すようなアコギなことはやめよう、というのが共産党の提案だ。

詳細は本文に譲るとして政策の柱を箇条書きにしておく。

①既卒者の奨学金返済の減免制度を作り、生活が困窮する場合の救済措置を講ずる

②延滞金、連帯保証人、保証料を廃止し、返済困難者への相談窓口を充実する

③すべての貸与奨学金を所得に応じた返済制度にする

もちろんこれは当座の措置であって、抜本的には奨学金を貸与制から給付制に戻すことが必要であり、さらには世界の物笑いとなっている低文教費政策を改めることが必要であろう。


1.島津久光ライン

封建時代はどこもそうだが、日本も連合王国であった。そして盟主たる徳川家も王国の一つでった。

薩摩はそれを雄藩の合議制に持って行こうとした。そのために連合王国の象徴的権威を朝廷にもとめた。

これには黒船以降の外圧も利用された。攘夷が共通の旗頭となった。

雄藩の合議制は徳川も認めた。その上で徳川が力に見合ってイニシアチブを取ることを狙った。これにより日本の代表としての権威の獲得を狙った。これに対し薩摩は雄藩の平等を唱えた。さらに力関係が変化するに連れて徳川の排除も狙うようになった。

この間に中間諸藩が存在した。

2.孝明天皇のライン

朝廷=孝明天皇は攘夷を徹底的に強調することにより、朝廷の権威を高めようとした。これが反徳川色の濃い「尊皇攘夷」運動と結合する。

62年5月10日の「攘夷の日」は朝廷が仕掛けた最大のキャンペーンであったが、呼応したのは長州藩のみで、しかも英国艦隊に惨敗した。

63年には薩摩も英国との戦争に敗れ、攘夷論を放棄する。

攘夷派の没落により、諸勢力の間に基本的な路線の違いはなくなる。残るのは雄藩のヘゲモニー争いのみである。

3.アウトサイダーとしての長州藩

膠着した状況を動かしたのは長州である。雄藩連合から排除された長州はひたすら勤王を唱え、ひそかに倒幕を狙う他ない。公武合体路線は打破すべきものとしてしか存在しない。

一方、薩摩も公武合体路線に行き詰まりを感じていた。禁門の変以降、徳川が勢いを盛り返し、孝明天皇と接近する中で、諸藩連合の中で少数派に追い詰められていた。

そんな中で、長州は薩摩に残された貴重なカードであり、手放すわけには行かなかった。66年1月、第二次征討の直前に薩摩は長州を庇護する密約を結ぶ。

1866年、第二次征討を長州が予想以上の健闘で跳ね返し、部分的ではあるが勝利を収めた。これは軍事的状況を根本的に変えた。徳川軍は張子の虎であり烏合の衆であることが暴露された。

長州一藩ですら徳川連合軍とタイを張れるのなら、薩摩が長州他数藩を擁して戦えば、勝利の可能性は高い。

このことから、公武合体路線が唯一ではない、場合によっては倒幕路線も可能だという結論が導き出される。

4.四侯会議の挫折

第二次征討の終了に前後して、家茂将軍、孝明天皇があいついで急死する。これで徳川家の主要な支柱のうち軍事力、天皇の支持という二つが一気に消失した。

薩摩はこれを機に巻き返しを狙う。それが67年5月の四侯会議だ。久光はこれを公武合体の新たな枠組みとして主導権奪還を計った。

しかし将軍となった慶喜と二条摂政の抵抗に会い目的を果たせず、以後倒幕路線に転換する。

以上から分かることは薩摩藩の動きはアクなき権力志向に基づくものであり、行動スタイルはきわめてオポチュニスティックだということである。そしてこれらの点において、島津久光、大久保、西郷の間には差異は見いだせないということである。

ただ大久保、西郷の内面では諸子と接する中で維新後の政治のイメージは固まりつつあったであろう。

以下のメールが送られてきた。及ばずながら、私も賛同人に登録した。読者の皆さんにも賛同を呼びかける。


北星学園大学を応援する「負けるな北星!の会」(略称マケルナ会)賛同人のお願い

                                 マケルナ会準備会一同                 
すでに新聞で報じられているとおり、北海道札幌市の私立北星学園大学に5月以降、
非常勤講師を務めている元朝日新聞記者、植村隆さんの解雇を求め、「辞めさせないと爆破する」との脅迫状が複数回届き、抗議の電話、メールも大量にきています。
これに対し、大学が脅しに屈しないよう、応援する意味を込めた「負けるな北星!の会」(略称マケルナ会)が10月6日、発足することになりました。
会では今後、大学への申し入れや署名活動などで、大学に応援メッセージを届けていく予定です。

呼びかけ人には、作家の池澤夏樹さん、思想家の内田樹さん、山口二郎北大名誉教授、小森陽一東大教授、姜尚中・聖学院大学学長、香山リカさん、小林節慶応大名誉教授らが名前を連ねています。賛同人には、元自民党幹事長の野中広務さん、上田文雄札幌市長らが加わっています。急速に増え、2日時点で、呼びかけ人、賛同人であわせて200人近くになっています。

植村さんは23年前、元日本軍慰安婦の韓国人女性の本格的な体験談を記事にした方です。慰安婦の問題で意見があるなら、匿名の脅しではなく、正々堂々と議論をすればいいことです。
植村さんの奥様は韓国人です。高校生の娘さんは、匿名のネットの書き込みで、実名と顔写真をさらされ、
人種差別的表現で「死ね」と脅されています。大学への脅迫や、こうした人権侵害は社会を萎縮させ、学問、言論の自由を脅かします。

その中で、勇気ある市民、学者や弁護士のみなさんが立ち上がり、会に実名で名前を連ねました。
会発足の記者会見は、6日午後2時から、東京と、札幌で同時に行います。

賛同人になっていただける方は、

    ①名前
    ②肩書き(現職、元職、主婦など)
    ③都道府県(道内なら市町村)
    ④名前公表の可否
    ⑥メールアドレス
    ⑦電話番号

を記し、会のメルアド 
makerunakai@yahoo.co.jp まで御連絡ください。

また、抗議メールに対抗し、北星学園大学を支援するため、大学ホームページ 
http://www.hokusei.ac.jp/ 
から、メールを送る呼び掛けも行っています。民主主義を守るため、どうかご協力ください。

大学は、植村さんの次年度の契約更新を躊躇し始めています。北星学園大学を孤立させないよう、
みなさまのお力をお貸しください。

前の稿で、東アジアの平和共存の原則について、うんとプリンシプルな論理構造を挙げておいたが、これは各方面からたくさんの構想が出されている状況の中で、それらを吟味する視点を整理しておきたかったからである。

もう少し実践的にこの問題を扱うとすれば、やはり歴史的な特殊性を避けては通れないだろう。

1.分裂国家群という特殊性

基本的にこの4.5カ国体制が成立したのは1949年の中国共産党軍による中国本土の解放、蒋介石軍の台湾確保と「中華民国」の創設、そして1953年、朝鮮戦争を挟んでの朝鮮半島の南北分裂の固定化という二つの歴史である。

いずれの国も相手国を仮想敵国としており、引き金から指を離してはいない。きわめて不安定な状態にある。

また現在の4.5カ国体制はいずれ将来的には3カ国体制に移行すると考えるべきである。そのためにも北朝鮮の国際政治への復帰、中台の平和的統一が織り込まれなければならない。

2.東西対立の集中点

この地域はもともと二つの体制の接点であり、冷戦終結後もいまだに冷戦体制を引きずっている。

政治・経済・社会のシステムが根本的に異なっており、共同は容易ではない。

3.侵略国対被占領国という歴史的関係

戦前・戦中において日本は占領国であり侵略国であった。他の国は被占領国であり被侵略国であった。

北朝鮮を除く国々との国交は正常化し、賠償問題も決着済みであるが、いくつかの戦争犯罪については未解決である。

そのこともあって、日本への警戒心は根強いものがあり、平和協力の障害となっている。

4.最大国である中国の特殊性

中国は「社会主義国」であるという特徴に加え、大国としての特徴を持っている。核保有国であり、安保理常任理事国であり、多民族国家であり、世界第二の経済大国であり、兵員数世界一の軍事大国である。

しかも現在急成長中であり、域内の力関係は大きく変わっていく可能性がある。

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