鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

2014年08月

2014.08.02 しんぶん赤旗 【ワシントン=島田峰隆】


この記事は赤旗の特ダネのようで、いろいろなサイトがこの記事を引用している。


アルゼンチンの債務返済問題をめぐり、債務再編に応じず全額返済を求める米投資ファンドの訴えを認めた6月の米 最高裁判決について、世界の100人以上の経済学者が7月31日、判決は「モラル・ハザード」(倫理の崩壊)を招くと批判し、米議会に対し、国際金融 市場への悪影 響を緩和する法的措置を取るよう求める連名書簡を送りました。

ノーベル経済学賞受賞のロバート・ソロー氏(マサチューセッツ工科大学名誉教授)やプリンストン高等研究所のダニ・ロドリック教授らが呼 び掛けたもので、米シンクタンク経済政策研究所(CEPR)が発表しました。

書簡は、債権者の9割以上が再編に応じているなかで、投機を目的とする一部の米ファンドの主張を認めることは「交渉する道を選択した他の 債権者の既存の合意まで破壊する」と強調。こうした事態を許せば「国際金融市場の機能に甚大な悪影響を与えうる」と懸念を示しました。

また米ファンドは、再編に応じなかった債権者から二束三文で債権を買い集め、債務全額の支払いを受けて大もうけしようとしていると批判。 こうした手法は「金融の不安定化」を招くと指摘しました。

CEPRは「アルゼンチンを債務不履行に陥れた米最高裁の判決は誤りであり、金融に打撃を与えるものだという見解が経済学者の間で広く共 有されている」と強調しています。


元ネタはこれのようだ

Economists Call on Congress to Mitigate Fallout from Ruling on Argentine Debt

冒頭に速報が掲げられており、記事はこれを要約したもののようだ。

以下が本文(拙い訳ですみません)

July 31, 2014

親愛なる国会議員の皆さん、

私たちは、アルゼンチン対NMLキャピタルの裁判の最近の展開に対し懸念を抱いています。

連邦地裁の判決は不必要な経済的ダメージを引き起こす可能性があります。とくに、外国人債券保有者の93%に対するアルゼンチンの債務支払を禁止する命令は危険なものです。

この判決は国際的な金融システムに関して、米国、アルゼンチン双方の不利益となる可能性があります。この問題に関して15年にわたり米国が積み上げてきた債務救済交渉についても同様です。

私たちは、議員の皆さんが今すぐ行動に移り、判決の有害な衝撃を軽減するために立法上の措置をとるようもとめます。

政府は時にさまざまな理由で困難に陥ることがあります。国債の償還を続けることができなくなることもあります。

これは2001年末のアルゼンチンの状況にも当てはまります。何年にもわたる交渉のあと、アルゼンチンは債務再編協定を結びました。債権がデフォルトとなった債券保有者は、その93%が協定に合意しました。そしてアルゼンチンは協定にもとづく債務支払いを続けてきたのです。

判決はこう言っています。「原告への支払いを優先すべきだ。それが実行されないのなら、アルゼンチンは再構成された債権の保有者への支払いをしてはならない」

それはどんな意味を持つのでしょうか。

それは、どんな「持ち越し」(Hold-out)債権者でも、交渉に応じた債権者とのあいだの協定をぶちこわす(torpedo)ことができるということです。

個人と会社は破産法の保護を与えられているのに、そのようなメカニズムは独立国の政府のためには存在しないのでしょうか。

裁判所の判決は、債権者と債務者の和解意欲を著しく低下させます。そして秩序だった再建を妨害し、債務危機の激化をもたらすことになります。

それは、国際的金融市場のはたらきに重大な否定的影響をあたえることになります。国際通貨基金(IMF)がくりかえし警告したとおりです。

 

そもそもアルゼンチンの債権に投資した人々は、デフォルトの危険性を承知のうえで高い金利に惹かれたのです。これは取引です。

国債に投資するときには国債特有のリスクがあります。もし判決がリスクを無視するのなら、それは一種のモラル・ハザードとなります。投資家がどんな危険な投資であってもフル償還を獲得するのを認めることになるからです。

この裁判における原告は、2001年のデフォルトの後、「第二の市場」(ジャンク市場?)でアルゼンチンの債券を買い集めました。買値はしばしば20セント以下だったといいます。

この役者たちは、もし再建案を受け入れたとしても巨額の利益を受けることは可能でした。しかし彼らはそうする代わりに、10年もの長きにわたる法廷戦争を闘いました。

そして、その報酬として1,000パーセントを超える過剰利益を求めたのです。その結果、国家財政が不安定化することも厭わなかったのです。

最近の変化は、アメリカの世界経済の財政センターとしてのステータスにも、直接的な影響を与えています。

発展途上国の国債の多くはニューヨークで取引されています。それらはニューヨーク州法により統制され、ニューヨークに拠点を置く金融機関の運営のもとで行われています。

今回の判決は、途上国政府が債務問題の解決の場所を他所の国に移す可能性を強めることになるでしょう。例えばイギリスとベルギーはすでに、「ホールドアウト」債権者の行動を認めない法律を可決しています。

法廷はそれに加えて、ニューヨークに籍を置く銀行にも規制をかけました。彼らはスケジュールに従って、リストラに賛成した債権者に通常の利子支払いを行おうとしましたが、それは妨げられました。

すでに、銀行は投資家から訴訟を受けています。それはアメリカを拠点とする金融機関にとって大きな不確実性をもたらしました。

アルゼンチンは交渉の意思があることを表明しています。彼らは最近パリ・クラブ(民間債権者グループ)との交渉で合意に達しました。さらに他の国際的な投資家との交渉についても前向きに取り組もうとしています。

議員の皆さん、私たちはこの判決や類似した判決が不必要な害を引き起こすことを望みません。その代わりに、あなた方が適切な立法的解決を打ち出すことを望みます。

Sincerely,

Robert Solow, Nobel laureate in Economics, 1987, MIT Professor of Economics, emeritus

他100名以上



2001年のアルゼンチン債務危機については、アルゼンチン年表をご参照ください。

アルゼンチンに襲いかかるハイエナファンドについては下記をご覧ください。



長崎の女子高校生殺害事件はあまりにも忌まわしいが、
報道やコメントが、関係者へのバッシングをふくめ、あまりにも社会関係論的すぎるのが気になる。
もちろん事件を事件としないための対応は社会的に行われるべきものだ。
この点に絞れば社会的側面からのコメントは当然だ。尾木さんはきわめて正しい。(それが児童相談所だろうか? 精神病院の閉鎖病棟ではないか? という思いは日頃からあるのだが…)

対応の遅れは、それ以前の問題として、関係者のあいだでこの手のケースのステージ分類(重症度・緊急度の分類)が認識として共有されていないためだろう。
やはり評価と判断は医学的に行われるべきで、精神医学はもっと積極的に発言すべきではないかと思う。心理学・社会学・教育学的評価はその後に行われるのが筋ではないか。

臨床的に見れば
1.人間的良識の欠落と離人状態(未発達によるものか、二次的な脱落かは不明)
2.著しい攻撃性(被害念慮のない攻撃性)
3.手段の巧緻性(殺害プランの入念さ) むしろ巧緻能力が落ちていないことが特徴
を特徴としており、
前頭・側頭葉の機能の失調を示す。このケースの症状は小児期の毒物混入エピソードを除外すれば、ここ数カ月間に起きており、急性ないし亜急性の経過をとっている。
これら特徴を持つ症候群と考えれば、まず実行力を抑えるために隔離が必要だ。
ついで、攻撃性を抑えるための鎮静(薬物)が必要だ。
ここまでは、社会的考慮や慈悲ごころは有害無益だ。

3.と2.が片付いて、初めて1.へのアプローチが可能となる。
良識欠落を伴う認知障害が後天的なものなら(そのほとんどは統合失調だが)、病気として医学的に対処する。
先天的なもの(いわゆるサイコパス)であれば、訓練・教育が主要なアプローチとなる。(この可能性は世間で言われるほど高いものではないと思うが)
おそらく心理学的カウンセリングの出番は、ひいきめにみても非常に限られたものとなるだろう。


「わたしが一番きれいだったとき」という詩がある。

茨木 のり子の詩で国語の教科書にも載っているそうだ。

短い詩で、tossインターネットランドで全文が読める。

とりあえず、気に入ったフレーズだけ紹介する。


わたしが一番きれいだったとき

…わたしはおしゃれのきっかけを落としてしまった

わたしが一番きれいだったとき
だれもやさしい贈り物を捧げてはくれなかった
男たちは挙手の礼しか知らなくて
きれいな眼差しだけを残し皆発っていった

わたしが一番きれいだったとき
わたしの国は戦争で負けた
そんな馬鹿なことってあるものか
ブラウスの腕をまくり
卑屈な町をのし歩いた


当時の日本には、柳原白蓮の嘆きとは違う感性があり、もぎたてのアスパラガスのような、あざやかな怒りがあったのだ。

多分それは「わたしが一番、まぶしいほどにきれいだったとき」だったろう。


茨木のり子については下記もご参照ください


漫画家の森田拳次さんが赤旗に登場している。ご存知「丸出だめ夫」の作家だ。「8月15日会」を主催し、戦争体験を描く展覧会を続けてきて、日本漫画家協会文化大臣賞を受賞したという。

私と同じ奉天にいた赤塚不二夫とちばてつやが、小学校も同じだったと分かったりして驚きました。

と言っても、漫画家になる前の生活はでんでバラバラだった。しかしいのちの危険にさらされ、苦労したのは同じだった。

最終的には戦争反対だけど、プラカードみたいな漫画ではつまらないから笑えるのをね。
アウシュビッツのようなところにいても、死ぬ前に「タバコはどうだ」と勧められ、「いや禁煙中なんで」なんて漫画を描けたらすごいと思うね。描いた本人も死ぬかもしれないけど。
harukanaru-akai-yuuhi.jpg
そういえば、赤旗日曜版に連載されたちばてつやの漫画は名作だったなぁ。あれは単行本になっているんだろうか。

マーラーの交響曲を最後まで聴き通した記憶が無い。ブルックナーというのは黙って聞いていればいつかは終りが来るのだが、マーラーというのはいつまでたっても終わりが来ない。
いっそのこと、全10曲をひとつのファイルにして、葉巻のように気が向いたら吸って、あとは自然に火が消えたら、またマッチで火をつけて、という風にだらだらと聞くのが良いのかもしれない。
とくに2番から4番までは、全15楽章・4時間の曲と覚悟して聞いたほうが良いのかもしれない。

現在はバルビローリ指揮ハレ管弦楽団の演奏で聞いている。とにかくわかりやすい演奏だ。私にはマーラーの良い演奏などというものは分からない。
とにかく居眠りせずに聞かせてくれる演奏が良い演奏だ。とくに年取ってくると眠気は応える。バルビローリの演奏は外道と言われているようだが、外道だろうとなんだろうと眠らずに聞けるのは助かる。
バルビローリ・BPOの9番を聞いた時に、やっと眠らずに聞けるマーラーに出会えたと感激したものである。9番についで良い音質の良い演奏だ。とにかく音が良い。これはうp主の努力も預かっていると思う。





どうということはないベタ記事だが、中国ネタ。
複数の中国政府高官の腐敗をインターネットで実名で告発した広東省の新聞「新快報」記者が、釈放されたというもの。
面白いなと思ったのは、釈放の理由が検察当局の指示によるものだということだ。
この記者は「誹謗」罪の容疑で北京市の公安局により拘束されていた。
たいていはそれでおしまいなのだろうが、今回は検察当局が公安局の起訴要求を退け、釈放を命じた。
どういうことなのかは想像するしかないが、周永康が仕切っていた公安当局の威勢が墜ちてきた兆候かもしれない。
検察官というのは元来が司法の畑だから、多少は違うのかもしれない。違うとしても五十歩百歩だろうが。
もっと深読みすると、問題の性格上、この決定が党最高幹部の判断なしに行われたとは思えない。したがって公安への強い牽制のサインと読むべきかもしれない。これを李克強の「人治から法治への長い道のり」の一歩と見るのは穿ち過ぎだろうか。


マクドナルドは大丈夫か

8月5日の最新発表で、恐ろしい数字が並んだ(赤旗)。

7月度の売上高が前年同月比17.4%の減。これは2002年以来の数字だそうだ。(2002年に何があったかな?)

しかもこれは中国肉の問題だけではない。その前6ヶ月間にわたり前年同期割れが続いている。

客数は9.6%の減。これも15ヶ月連続の減少だ。

客単価は15ヶ月ぶりにマイナスとなった。その額も8.6%減という大幅なものだ。

つまり三大指標のうち売上、客数は中国肉以前からの持ち越しで、かろうじて客単価のアップ経営を支えてきたのが、今回は客単価の大幅ダウンとして影響が出ているということだ。要するに三方ふさがりだ。

客単価の激減は、具体的にはこういうことらしい。ハンバーガーだけでは売上・利益が維持できなくなったマクドナルドの打開策は、ハンバーガーを食べに来た客に「サイドメニューとして「チキン・ナゲット」を提供することだった。

ここにモロに中国肉の影響が来たから、客は来店してもハンバーガーだけ食べて帰ってしまうということだ。

以下が日経(7月29日)のまとめ。

日本マクドナルドの経営環境は厳しい。直近12カ月で既存店売上高が前年実績を上回ったのは今年1月だけ。来店客は14カ月連続のマイナスを記録している。他の外食店やコンビニエンスストアなどに顧客が流れているとみられ、長いトンネルを抜け出せずにいる。

(今度の事件で)が顧客離れや減収が「いつまで続くのか読めない」(今村執行役員)という状況に陥った。

マックといえば米国におけるブラック企業の代表だ。つまり人件費コストはどうやっても削りようがない。

「泥沼がいつまで続くかわからない」のではなく、「会社がいつまで続くかわからない」状況に入ったといえるだろう。

kasanoba

日本マクドナルドホールディングスのカサノバ社長兼CEO

中国肉の不正発覚に際してマクドナルドのカサノバCEOは「悪意を持った数人の従業員によるものだ。だまされたと思うし大変な憤りを感じる」と語ったが、どうせやばいのを承知で使ったに違いない。憤るのなら自らに憤るべきだ。


ところであの勝ち続ける経営 日本マクドナルド原田泳幸の経営改革論 でお馴染みの原田社長はどこへ行ったのか。

この人、巷間では

「60秒ルール」(60秒で商品を提供できなかったら、次回は無料)で現場を混乱の渦に突き落とし、「名ばかり管理職」という流行語を生みだし、マクドナルドの売り上げをどんどん低落させ続けてるにもかかわららず、1億円以上の報酬をぼったくる社長

として有名なようだ。

ウィキペディアで調べると、3月に更迭されたようだ。そして、今度は6月に、今をときめくベネッセホールディングスの代表取締役会長兼社長に就任している。

マクドナルドをやめた理由

行きすぎたFC化が弊害も生み、訴訟に発展した。
幹部級の人材の流出も相次いだ。同社が強みとしていた現場力も低下した。
2013年1-9月累計の利益は前年同期比39.1%減の108億円に落ち込んだ。

時期的に見れば、中国肉購入の責任はモロに原田氏にあるといえるようだ。

大きな組織というのは何事もコストとして切り詰め、絞りに絞ればそれなりに「成果」は出るものだ。それが絞り尽くされた時、「最期の日」がやってくる。

原田氏の名が「A級戦犯」として関係者の記憶に留められることは間違いがなさそうだ。

「ボストン美術館 華麗なるジャポニズム展」の紹介記事。

1856年ころ、フランスの版画家、ブラックモンは日本から来た陶器の包み紙を見て驚嘆する。安い紙に刷られた北斎漫画だった。

森下泰輔さんの劇的な文体での書き出しだ。

ジャポニズムの始まりに関してはいろいろな説があるようだが、最初が漫画というのが150年後の現代における漫画受容を思い起こさせ、興味深い。



下記のページに、このへんの経緯が詳しく書いてある。

ジャポニスムの底流 ―ブラックモンから高島北海まで―」北川 正

1856年当時,サン=ミッシェル大通りにあった刷り師ドラートルの工房は,メリヨンやジャックマールのような版画師や画家,装丁を依頼に来る文士などの溜まり場になっていた。

フェリックス・ブラックモン(1833-1914)もここの常連だった。フランス美術史のなかで,ブラックモンに派手な役回りはないが,多芸多才な人であったらしい。

…どちらかというと,ブラックモンは商業ベースで仕事をする腕のいい職人であり,確実に挿絵・表紙絵・扉絵をこなしてくれる仕事仲間として信頼されていたようだ。

さて,このブラックモンが,1856年に刷り師ドラートルの工房で,あるものを発見する。有田かなにかの日本製の焼き物だった。ドラートルが1855年のパリ万国博の流失品をどこかで手に入れたのだ。

しかし,ブラックモンを釘付けにしたのは焼き物そのものではなかった。割れないように焼き物と焼き物のパッキングに使われていたあるものが気にかかったのだ。何と,それは『北斎漫画十三編』だった。譲ってもらえまいか,とブラックモンはドラートルに掛け合うが,ブラックモンの執着ぶりをみてドラートルは渋った。しかし,その後ブラックモンは同じものをどこかの骨董店で手に入れる。

ブラックモンが感激したのは技法もさることながら、その題材だったという。

…古典主義的縛りに抗してクールベの市民やマネの浮浪者が現れてきたわけだが,そもそも浮世絵の主題は浮世風呂・浮世床であり庶民生活そのものだった。

ブラックモンが,「自分が北斎の第一発見者であるとふれ回り」,クリーシー大通りにあった「カフェ・ゲルボア」でマネやドガなど気鋭の画家たちの注目を集めたのも,フランス近代芸術の内的必然性なのである。

その後,ブラックモンが北斎や広重をモチーフにして版刻した食器セットは,1867年のパリ万国博覧会で金賞を受賞することになる。これが<スティル・ジャポネ(日本様式)>の第1号である。


ということで、えらく長い引用になってしまった。

しかし、爆発的に話題となったのは、1862年5月1日からロンドンで開かれた万国博覧会であった。

幕末モノの時代劇でお馴染みのオルコック大使が、無類のコレクターで、彼が持ち帰った美術工芸品約1000点が一挙に展示されたのである。その作品は展覧会後にクリスティーズで競売にかけられたというから、オルコックが邪神なき愛好家だったかどうかには疑問が残る。

その5年後に明治維新となり、窮迫した名家がお宝を叩き売りした。廃仏毀釈で打撃を受けたお寺さんからも宝物が流出した。その結果、日本からの美術工芸品の輸入は一挙に拡大し、デパートなども日本の美術工芸品を扱うようになり、ロンドンでは日本美術・工芸ブームが起こった。

だからジャポニズムは日本の政治・社会体制の混乱の副産物という側面も持っているのである。


当時は写真がどんどん普及し、それまでの写実を事とする絵画は展望を失いつつあった。

言葉としては逆で、写真が写実であり、絵画は事実ではなく真実を写しとる術であるべきだろう。

では真とは何か。多くの者はそれを心象上の真実と解した。印象派がそれであろう。

それに対し日本の絵画なり、北斎漫画は思い切ったデフォルメと平面化で、真実を切り取っていた。少なくとも西欧の人々にはそう思えた。

興味深いのは、同じ時代に日本では司馬江漢が遠近法を取り入れ、「まるで写真のような」西洋風の写実が日本人を驚かせていたことだ。

激変期においては、個別認識の諸過程が前後に錯綜し、時に思わぬ顛末をたどることになる。武谷三男の記事で書いたとおりである。

森下さんに異を唱えるようで、申し訳ないのだが、あまりブラックモンには拘泥しないほうが良さそうだ。


日産自動車の見通しが暗い

「変貌する経済」という連載記事で、日産自動車の苦境が明らかにされている。

目下、日産は「日産パワー88」なる目標を掲げている。営業利益率8%、ターゲット市場占有率8%を達成するというものだが、実際には2期連続で中間決算を下方修正している。13年度決算はかろうじて増収増益は保ったものの、円安効果を除けば実質減益だった。

円安効果は一過性のものであり、このままではそのツケが14年度決算に持ち越されることになる。

理由ははっきりしていて「技術の日産」が技術を失ったからだ。ゴーン社長が技術スタッフまで大規模削減をおこない、大量の人材が流出した。

「テクニカル・センターのスタッフ1万人のうち3千人が派遣社員。開発部門の中枢に派遣を入れているのは日産だけ」という証言がある。

しかも09年、日産はその技術派遣3千人をいっせいに契約解除した。

もはや日産にヒット商品を生み出す力はない。日産の首脳は株価の維持しか念頭になく、そのつけを払わされる日は近いという。

先ほどの記事の付け足しだが、「…し続けている」という3つの繰り返しが気になっていた。
そこをアメリカの代表メンバーがうまく表現している。

とくに胸に深く感じたコールは「ノーモア・ヒロシマ! ノーモア・ナガサキ! ノーモア・ビキニ! ノーモア・フクシマ! ノーモア・ヒバクシャ!」です。
繰り返されるスローガンは、核による惨害が絶えず、長く、続いていることを示しています。しかも核技術が廃絶されない限り、悲劇のリストは長くなる一方だということが、胸に迫って感じられたのです。

たしかにそういうことですね。

原水爆禁止2014年世界大会・国際会議の「宣言」が発表された。

かなりの長文であり、きっと読む人などあまりいないと思うので、要約を紹介する。

なお、この大会はマスコミ用語で言えば代々木系の「原水協」の世界大会で、毎年、世界大会に先立って国際会議が開かれている。

核兵器以外の課題も盛り込まれているが、ここでは核兵器の問題に絞る。

まず核兵器の罪悪が3点にまとめられて列挙される。

1.被爆者は、病と心身の傷、健康不安など、はかり知れない苦しみをいまなお強いられつづけている。

2.核兵器は、人類の生存への脅威でありつづけている。

3.一握りの国が核兵器を独占しつづけている。

声明は、核廃絶のもっとも主要な道程として、「核兵器全面禁止・廃絶条約の交渉を開始」することをあげる。具体的には来年4月に予定される「核不拡散条約(NPT)再検討会議」に全精力を集中するようもとめる。

声明は、非核勢力が「核抑止力」論と対決するようもとめる。

「核抑止力」論は、先制攻撃も含め必要とあれば核兵器使用も辞さないとするものである。

それは1.恐怖による支配の論理であり、2.大国の「国益」のための横暴であり、3.他国の核兵器保有を誘発し、結果として安全への脅威を増大させている。

ことなどにより、「一片の道理も道義もない」論理となっている。そのことを徹底的に明らかにすることが大事である。

核抑止力論は通常兵器をふくめた「抑止力」論と結びついている。核兵器のない平和な世界を実現する上で、この問題は避けて通ることができない。

あらゆる紛争・対立を平和的・外交的に解決することは、ますます重要となっている。

後はスローガンが列挙されているが省略。


ということで、来年の「NPT再検討会議」に向け、「核抑止力」論、さらに一般的な「抑止力」論を串刺しにして論破するための理論武装が求められていることが分かる。

「宣言」を起草した冨田起草委員長の挨拶が同じ紙面で掲載されているが、こう語っている。

(日本政府は)「抑止力」だとうそぶいて、「戦争する国」への動きを強めています。そのことに、渾身の怒りを表明します。

ということで、「抑止力」論が我々の目前に迫られた課題でもあることを訴えている。

「勉強しなくっちゃ」とは思うが、とりあえずどう手を付けたのか分からないでいる。


どうも人のフンドシで相撲をとるというのは気持ちの悪いもので、尻のあたりがむず痒くなってくる。とりあえず、ネットで拾える範囲内で自分流の武谷三男関連年表を作成してみた。

1949年 日本学術会議の発足。最初の学術会議において、武谷は坂田昌一とともに、慎重に原子力研究を進めるべきだとして提案。急ぐべきだという茅誠司、伏見康治と衝突した。(これは武谷自身の文章で、しかも回顧談みたいな形での記述だから、真偽の程は定かではない)

1949年 ソ連が原爆実験に成功。米の核独占体制が崩れる。この後、米ソの核開発競争に入っていく。

1950年 朝鮮戦争が勃発。世界平和評議会は核兵器の禁止を訴えるストックホルム・アピールを発表。

50年 ストックホルム・アピールへの賛同署名、日本国内で650万筆を達成。

「安全性の考え方」より:
この頃の国民の原子力問題に対する関心の度合いを思い出してみよう。広島・長崎に対する原爆攻撃の非人道さに対して広く国民のふんがいは存在していたが、 敗戦の結果、それをあからさまに述べることははばかられていた。それは第一には占領軍の報道管制によって、原爆の詳細が伝えられなかったからであり、また 第二には日本民主化の主目標が日本帝国主義を批判することにあったからである。
原爆の非人道さに対してはじめて行なわれた抗議は、世界平和会議がストック ホルムに集まり、原子兵器の禁止を要求したストックホルム・アピールを作り発表した一九五〇年のことであった。このアピールへの署名が日本の中で六五〇万 も集まったのであるから、原子兵器に対する全国民的な憎しみ・反対は明らかであろう。

1952年 『科学』誌上にて原子物理学者の菊池正士氏が原子炉推進論を展開。日本学術会議の茅誠司氏と伏見康治氏が秘密裏に原子力計画を進める。

1952年4月 サンフランシスコ講和条約が発効。

1952年8月 武谷、「原子力を平和につかえば」という文章を『婦人画報』で発表。「原子力の平和利用」を主張。

広島、長崎の無残な記憶がますます心のいたみを強くしているのに、ふたたび日本をもっとすさまじい原子攻撃の標的にしようという計画がおしすすめられてい る。そのような計画は権力と正義の宣伝によって行われるので、国民の多数がこれはいけないと気がついたときには、手おくれになるかも知れない。
…今日研究が進められている水素爆弾1発で関東地方全域に被害をおよぼすことができる。一方で、原爆製造をしているアメリカの原子炉では、100万キロワットの電力に相当する熱を冷却水を通じて捨てている
  キュリー夫人、ジュリオ=キュリー夫人、マイトナー女史、このような平和主義的母性の名をもって象徴される原子力が、このような、人類の破滅をも考えさせ るものにどうしてなったのだろうか。原子力は悲惨を生むためにしか役立たないのだろうか。このような大きなエネルギーを、人類の破滅のためにではなく、人 類の幸福のために使えないのだろうか。
そうだ! 原子力はほんとは人類の幸福のために追求 され、また人類の将来の幸福を約束している。それを現実化するためには,戦争をほっする人々に権力を与えないだけで十分なのだ.

1952年11月 オスロのオランダ・ノルウェー合同原子力研究所の天然ウラン重水型研究炉が完成。武谷は『改造』に「日本の原子力研究の方向」を掲載。「大国から独立に、独力のすぐれた原子炉を完成」したと評価し、「直ちに日本も原子炉の建設にのり出すことを提案」した。

提案に盛り込まれた諸原則: 
・日本では、人を殺す原子力研究は一切行わない
・日本には、平和的な原子力の研究を行う義務がある
・諸外国は、日本に対して、平和的な原子力の研究へのあらゆる援助をすべき義務がある
・諸外国は、日本に対して、ウラニウムを無条件に入手できる便宜をはかる義務がある
・日本で行う原子力研究の一切は公表すべきである
・日本で行う原子力研究には、外国の秘密の知識は一切教わらない
・外国と秘密の関係は一切結ばない
・日本の原子力研究所のいかなる人が、そこで研究することを申し込んでも、拒否しない
これらを「法的に確認してから、日本の原子力研究は出発すべきである」とした。この提言は、最終的に、「公開」「民主」「自主」からなる原子力三原則という形でまとめられる。

53年 武谷、原子力研究のはらむ3つの危険を指摘。1.原子力研究は桁ちがいの予算と多数の専門家を動員するので、政府の研究統制を助長する危険がある、2.自由な研究、他部門の研究を圧迫する危険、3.秘密の問題をひきおこし、自由な討論をはばむ危険。

54年2月24日 この日付の極秘報告書が明らかにされている。「米国務省解禁文書」で、タイトルは「日本に於ける原子核及び原子力研究の施設及び研究者について」

原子力問題が面倒な理由の一つは、左翼の反米運動の材料として使われているためである。
坂田昌一名古屋大学教授や 武谷三男氏など「素粒子論研究者の極左派」が、「最も強く、保守政府の下での原子力研究に反対している。
この「極秘」資料は、文部政務次官だった福井勇が吉田茂政府の下でまとめたもの

1954年3月1日 ビキニ環礁での米国による第一回目の水爆実験。近くで操業中の第五福竜丸が被曝する事件が発生。

3月3日 改進党(中曽根康弘党首)が原子炉予算案を提出。中曽根氏は「学者がぐずぐずしているから、札束で頬をひっぱたくのだ」といったと伝えられている。

3月14日 第五福竜丸が帰国。死の灰(放射性降下物)が脚光を浴びる。

4月3日 「原子炉予算」が国会で可決。

武谷の述懐: 物理学者が原子力に反対するといわれた。原子力をうみ出したものがそれに反対するわけはないんで、われわれのほこりである原子力が正しく発展することを祈っているんですよ。
「物 理学者は原子力は素人でしかないからもう何の役割もない。物理学者の意見は素人の一般論だ。原子力の主体は技術者である」と、宇田委員長や業界は主張し、 伏見康治氏なども同類だ。これほど危険な見解はないのである。原子力は決してまだ完成したものではないどころか、まだ実験研究 の段階にすぎない。原子核物理学者を中心にして様々の専門科学者、技術者が協力し て発展さすべきものである。

54年 米国の原子力委員会はリビー博士(ノーベル賞受賞者)らを派遣して“日本放射能会議”を東京で開く。米国側の出席者は「汚染マグロの放射能は、人体に対する“許容量”にははるかに及ばないほど少ないものだから“安全”である。」と主張した。これに対し武谷は、許容量の概念を否定。長期予後に関して被曝に閾値はないことを主張。

1954年5月28日 中野区議会において「原子兵器放棄並びに実験禁止その他要請の決議」が全会一致で可決される。

1954年4月 日本学術会議総会が原子力三原則をふくむ声明。

54年8月6日 岩波新書『死の灰』が発行される。死の灰の組成から、爆弾の構造を突き止める。

1955年 原子力基本法が制定される。原子力三原則を取り入れたものとなる。第2条において「原子力の研究、開発及び利用は、 平和の目的に限り、安全の確保を旨として、民主的な運営の下に、自主的にこれを行うものとし、その成果を公開し、進んで国際協力に資するものとする。」

1957年 武谷、岩波新書『原水爆実験』を発表。『許容量』理論を否定。放射線利用の利益・便益とそれに伴う被曝の有害さ・リスクを比較して決まる社会的な概念として”がまん量”を想定する。

1957年9月11日 武谷が講演。「戦前は放射線・放射能はそれほど危ないものと思っていなかった」ことを明らかにする。

戦前は放射線・放射能はそれほど危ないものと思っていなかったが、戦後になりまして、人体に及ぼす影響が非常な微量なものまで危険がある。もちろんすぐ死んでしまうというようなそういう危険ではない。そういう危険でないからこそ大変心配なのであります。
戦後において原子力の平和利用を提唱したが…最近は少し薬がききすぎて、今度は、原子力なら何でもいいんだという風潮 が生まれた。文明の利器、とりわけ原子力は非常な危険を有しているから、非常に慎重に扱わなくてはならない。
 まず、軍 事利用というものには許容量というものは許されない。例えば、水爆実験の死の灰などでは、どんな微量の放射性物質でも許されず、「警告単位」という考えで なければならない。平和利用に限定して、許容量という考えが許される。しかし、この平和利用といえども何の意味もなくこの放射線や放射能を受けるというこ とは許してはならない。
 放射線・放射能は量に比例して有害であり、毒物のような致死量が存在しない。白血病やガンというものの発生も非常に微量に至るまで受けた線量と比例して現れる。本来は許容量以下でも無駄な放射線をあびることはさけなくてはならない。

1956年5月22日 武谷、衆議院社会労働委員会で、放射性物質に対する許容度の問題について参考人発言。

放射線を扱うときの根本的なフィロソフィーはできるだけ放射線に当らないということである。放射線に当るということは多かれ少なかれ有害なことなのですけれども、それと引きかえに 得をしている。これは許容量というこ とがある程度意味がある。ところが何の関係もない人に、そういう放射線をこの程度なら当ててもよろしいという理由はどこにもない。 

1976年 武谷、「原子力発電」(岩波新書)を発表。

 

以上は、中嶋さんのブログ 東京の「現在」から「歴史」=「過去」を読み解く からの引用。

この中嶋さんは、加藤さんの講演の場にも居合わせたようで、以下のように感想を述べている。

加藤氏は、とりあえず日本マルクス主義について、もっとも狭義に日本共産党に限定しつつ、日本共産党が社会主義における核開発を肯定していたと述べ た。特に、日本共産党が社会主義における核開発を肯定する上でキーマンー「伝道師」とすら表現されているーとなったのが武谷三男であると加藤氏は主張し た。


「原子力 戦いの歴史と哲学」 武谷三男現代論集1 (1974年) という本で武谷が戦後の経過を回顧していて、

この文章をまとめた 瀧本往人のブログ では、武谷に控えめな、だが本質的な批判を行っている。

武谷の問題点は、大きく分けると二つある。

一つは、原子力を平和的利用とはいえ推進したことによる、現状への加担である。今からみると、 「原子力」に関する研究内容も技術も、「平和利用」として制限されるたぐいのものではなく、テロ対策も含めて、これ自体が、他国および自国の政治的、軍事的な道具でもあると考えるだろう。残念ながら当時の武谷にはそこまでは思い至らなかったようである。

もう一点は、明らかに彼の頭のなかには、米=資本主義=悪、ソ連=社会主義=善、という二項対立があったことである。当時の知識人において(たと えばサルトル)このことは、ある程度やむを得ないところもあるとは思うが、ソ連や、その後の中国に対する知識人の対応は、基本的に肯定的で、マイナスが あったとしても、及び腰で、米国に対する非難と比べるとかなり違った態度をとっている。

彼の言葉で「人類のため」というのがある。原子力 も「人類のため」に平和的に利用できる可能性をさぐっていた。しかし、彼が許せなかったのは、「自分だけ利潤をあげる」ために利用するの か、ということであった。そして、ソ連は「人民のため」であり「人類のため」と結び付けて考えられていたのであった。


瀧本さんは、終戦からの10年の武谷の位置取りについて、適確な指摘をしているが、私にはもうひとつの視点が必要ではないかと思える。それは時代とのアクチュアルな対決である。

第二次大戦がファシズムと民主主義との戦いであったことは言うまでもない。彼はファシズムに及ばずとも抵抗し、二度もパクられている。終戦直後に彼が日本ファシズムとの闘いを主要課題としたのは当然の事である。

その後闘いは急速に日本を単独占領するアメリカとの課題に収斂していく。これも当然のことだ。原子力問題はそれらの主要課題との関連で語られなくてはならないから、それがソ連の支持につながらざるをえないのは当時としてはやむをえざる制約であった。

これらは「民衆の敵」に対してアクチュアルであるがゆえのブレであり、アクチュアルであり続けることによって克服されていったブレであった。

ソ連も水爆を作るということになって来て、たとえソ連といえども到底支持できないということになる。しかし武谷は、それを理由にして、「民衆の敵」の攻撃と闘うことをやめたりはしなかった。我々はそこに、時代が生んだ「苦闘する知識人」としての武谷を見出すことになる。そこが武谷論のミソではないだろうか。

ただひとつ、武谷の看過し得ない詭弁については一言言っておきたい。

原子力は悪いように使える代物ではない。必ずいいようにしか使えない代物である

なぜなら原子爆弾が無制限に使われれば人類は滅亡する他ないからである。

人間に滅亡を防ぐ叡智がなければ、人類は平気で滅亡するだろう。

 

というサイトに、「第7章 原水爆への反応 唐木順三がらみで見ておくべき文献」

というページがあって、

「唐木順三が1980年の遺稿で武谷を手厳しく論難した」、という記載がある。

今次の敗戦は、原子爆弾の例を見てもわかるように世界の科学者が一致してこの世界から野蛮を追放したのだとも言える。そしてこの中には日本の科学者も、科 学を人類の富として人類の向上のために研究していた限りにおいて参加していたと言わねばならない。原子爆弾を特に非人道的なりとする日本人がいたならば、 それは己の非人道をごまかさんとする意図を示すものである。原子爆弾の完成には、ほとんどあらゆる反ファッショ科学者が熱心に協力した

という、加藤さんも引用した例の文章だ。

武谷三男は、『科学者の社会的責任』という本でこれに反論したそうだ。


Uchiiさんは、武谷さんの肩を持つ形で以下のように書いている。

世紀が変わった現在の人々には、この文章の文脈が無視されて、「ひどい文章だ!」と受け取られる可能性が高い。しかし、武谷が注意するとおり、この敗戦を 「解放」と受け取った武谷ら左翼知識人の文脈を忘れてはならない。「ヒロシマ・ナガサキの二重の意味」は、唐木には思考の範囲外なのだ。

さらに、アインシュタインの言葉の引用で唐木に追い打ちをかける。

マッカーシーイズムの吹き荒れた時代に書かれたアインシュタインの手紙(『リポーター』誌)を、原典も文脈も調べずに、単なる想像だけで意味を憶測し、勝手に思いこみを付け加える。

フランクやシラード、そのほかについても同じ。適当な引用文をつぎはぎ細工すれば、ほとんどどのような「印象」でも読者に与えることができる。こういった手口をできるだけ控え、恣意的でない記述を目指すのが「学術的」ということ。


私にはこの唐木・武谷論争の経緯はわからない。今のところそれれほど関わろうとも思わない。ただ、加藤さんの議論はこの話の蒸し返しではないかと感じたので、引用させていただく。







武谷三男の言動を調べていくうちに、面白い記事に出会った。
西谷勝さんのブログで、こう書かれている。

私が一度、何度目かの漫談の冒頭で「私たちの漫談を若者たちは《ジジイ漫談》と呼んでいますよ」と仕向けると、武谷さんはキツとして「若者が《ジジイ》ほどに頑張っていりや別ですがね」と応えたことがあった。

「ゆっちゃった!」という感じ。
「働き盛り」の現実派は、世の中良くしようとは、てんで考えていない。まして「世によって生かされている」なんてことはまるっきり考えちゃいない。人のアラばかりほじくって楽しんでいる。

どうも昨日のLivedoor Blog が調子悪かったような気がする。
文章が一つ消えている。
わたしも、ブログに載せたらどんどん元原稿を消してしまうので、もはや復元不能だ。
武谷三男の原子力認識の軌跡の文章は、その前に加藤哲郎「日本マルクス主義はなぜ原子力に憧れたのか」という論文の紹介と、自分なりの見解を提示していた。

いまさら書き直しもできないが、「日本マルクス主義はなぜ原子力に憧れたのか」という演題名は明らかに日本共産党への当てこすりである。

本題は共産党の原発政策が「原子力の平和利用」という呪縛を脱却できず、遅れを取ったのではないかという批判にあるようだが、それを終戦直後の原子力賛美の論調と結びつけようとするのがポイントのようだ。

加藤さんが作成した戦後の武谷三男(と共産党)の発言タイムテーブルを読みながら、我々の原子力認識の過程を後追いしてみたのが昨日の文章だ。

収集すべきデータの対象が増えてくると、どうしても取捨選択の必要が出てくる。そこにタイムテーブルの作成者の主観が入らざるをえない。
加藤さんのタイムテーブルは、終戦直後から約10年間の経過については、よく出来たものだと思う。
対象を武谷三男に絞り、悉皆調査的にデータベースをフル動員して出来ているから紛れが少ない。

そのうえで、終戦直後に形成されたプロトタイプ的な原子力観、そこで形成された原子力観が、いくつかの出来事を通じて変容していく過程が理解できる。

とは言うものの、「いくつかの出来事」はタイムテーブル内に明示されていないし、それがどう原子力観に影響したかも自明的に解き明かされているわけではない。

それらを列挙すると次のようになる。
1.“解放軍”としての占領軍からアメリカの支配への変化。
2.ソ連の原爆実験成功。
3.冷戦体制とレッド・パージ。
4.朝鮮戦争とストックホルム・アピール。
5.共産党の弾圧と分裂。ソ連・中国の干渉
6.米ソ両国の水素爆弾開発と核開発競争
7.ビキニの死の灰事件
そしてなによりも肝心なこと。それは原爆の恐ろしさが知られるようになったことである。当初は秘匿された広島・長崎の異次元の凄まじさが徐々に明らかにされ、国民に衝撃を与えた。
年表を見ると、戦後の一時期は広島に原発を作る話があったようだ。地元民にすら原爆の悲惨さは知られていなかったし、被爆者は世をはばかってひっそりと暮らしていたのである。
被爆の実相は、ナイーヴな原子力賛美者たちをして、慙愧の念をもたらしたに相違ない。そのタイムラグが、原子力観を根本的に転換させたに相違ない。
加藤氏は直接には「マルクス主義者の原子力へのあこがれ」を嘲笑するのであるが、それは日本国民への嘲笑のようにこだましてくるのである。

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