鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

2014年06月

三谷先生の「敗者の戦争観」というのはかなりずっしり来る言葉だ。

敗戦直後、「戦争の性質は根本的に変更された。いまや戦争は一般に違法なものとされ、しかも犯罪とされるに至った」という主張が一般的だった。戦争を放棄した9条は素直に受け入れられた。

『敗者の戦争観』はこういうものだった。

それがいま、『勝者の戦争観』に近づいてきた。与野党を問わず、戦争観が大きく変わった。それは武力の行使を政策手段としてみるということだ。

ずっしり来るというのは、今まであまり考えたことのない切り口を提示されて、「そういえばそうだよなぁ。ウム、たしかにそう言えるなぁ」ということだ。

心の奥底には、ちょっと引っかかるものがある。それを「勝者の戦争観」と対比して世の中の移り変わりを説明されてしまうと、「まぁそうも言えるなぁ」ということになる。

大負けに負けて、日本中焼け野原になって、いっそスッキリした気分のところに、「もう戦争はしません。軍隊も持ちません。貧しくともカタギに生きていきます」という憲法が提示された時、それがどれだけ晴れ晴れと響いたことか!

日清戦争以来半世紀にわたって、一方では勝った勝ったと言いながら、絶えず戦争ばかりで、お国のためとは言いながら、向こう三軒両隣で若者の誰かは戦地に行ったまま帰って来なかった。最後は雨あられと焼夷弾を落とされて、一切合財丸焼けだ。これではかなわない。

それが、もう戦わなくてもいい、殺しあわなくてもいいということになったのだから、これ以上の喜びはない。

三谷先生はこういう気分のことを言っているのだろう。

もし安部首相が67年タイムスリップして、新憲法制定の場で熱弁を振るえばたちまち袋叩きにあっていただろう。

ただ「敗者の戦争観」はもうひとつの側面を持っているだろうと思う。それは敗戦国の民衆は敗戦の理由をすべて知りうるということである。そして軍部と支配層の悪行をすべて知りうるということである。

その基本となるのが東京裁判だ。東京裁判と憲法は直結している。だから彼らは懸命に東京裁判を否定しようと図るのだ。

「敗者の戦争観」は、敗戦によって炙りだされた、それらすべてのことを知ることによっても形成されるのである。敗戦前は何も知らされなかった、敗戦後にはすべてを知った。この落差が「敗者の戦争観」の中核だ。

焼け野原の上のぽっかり青空に戦後民主主義の出発点を置くのも、気分としては非常に分かるのであるが、それからは「平和への祈り」しか湧いてこない。闘いのエネルギーにはならない。

敗戦により知り得た政府や軍部の愚行への怒りが、二度と戦争は繰り返すまい、繰り返さすまい、二度と騙されまいという決意につながっていたのではないか。

それこそ「徴兵は命かけても阻むべし 母・祖母・おみな 牢に満つるとも」という裂帛の気合だ。



日清戦争(中国側では甲午戦争、または第一次中日戦争と呼ばれる)

ウィキペディアを根っこに、各種資料から補強。

1894年(明治27年)

3月29日 東学党、朝鮮全羅道で蜂起。その後農民の反乱と合体し朝鮮半島南部に拡大。甲午農民戦争と呼ばれる。

5月31日 朝鮮政府、東学党反乱を抑えきれず、清への援兵を決議。

5月31日 硬六派が伊藤内閣に対し弾劾上奏決議案を提出。衆院で可決される。

94年6月

6月01日 東学党軍が全羅道の中心地前州を占領。

6月1日 杉村大使、「袁世凱いわく朝鮮政府は清の援兵を請いたり」と打電

6月02日 伊藤内閣が閣議を開催。衆議院を解散。さらに、陸奥外相が日本軍の派遣を提起。これを受けた閣議は、清が朝鮮に出兵すれば公使館・居留民保護のため出兵すると閣議決定。

6月4日 清の北洋通商大臣李鴻章、朝鮮政府の要請を受け出兵を指令。

6月5日 参謀本部内に大本営を設置(形式上戦時に移行)。広島の第五師団を元にして8,000人規模の混成部隊が編制される。

6月6日 天津条約にもとづき、清が日本に朝鮮出兵を通告

6月7日 日本も同条約にもとづき、清に朝鮮出兵を通告。1個大隊800人が宇品港を出て朝鮮半島に向かう。

6月8日 駐韓公使袁世凱の兵1500人(2100人説あり)がソウル南方60キロの忠清道牙山湾に上陸

6月09日 清国は日本軍出兵に警告を発す。

6月10日 朝鮮政府、甲午戦争指導者の全琫準との間に「全州和約」を結ぶ。

農民軍は,両国に武力介入の口実を与えないよう,悪質官吏の処罰や身分の平等などを要求する弊政改革案を条件として全州和約を結び,政府軍と休戦した(世界大百科事典)
しかし成立したという「一次資料」の根拠はなく、そういう動きがあったと推定されるにとどまる(Wikipdia)と、向こうもなかなかしぶとい。ただ、改革案が紙で残っており、全琫準の証言も残っており、和平に向けた具体的な動きも確認されているのだから、紙がないことをもってこれらを否定するのは、「真っ黒でなければ白」という論理に至る。学問的にはリアルとはいえない。

6月11日 朝鮮政府軍が全州に入り、権力を掌握。東学党軍はこれに抵抗せず。

6月12日 駐韓公使大鳥圭介の率いる陸戦隊400人が仁川に上陸。

6月14日 朝鮮公使、陸奥外相に日本軍の撤退を要求。

6月16日 陸奥外相、清国公使と会談。東学党反乱の共同討伐を提案。清国はこの提案を拒否。

6月22日 日清国交の急迫にともない御前会議が開かれる。

94年7月

7月03日 大鳥公使、御前会議の決定を受け朝鮮政府に内政改革を要求。

7月03日 衆議院、内閣弾劾上奏案を可決する。

7月09日 イギリスが日清調停案を提出。清はこれを拒絶する

7月10日 駐露公使西徳二郎より、これ以上ロシアが干渉しない、との情報が外務省にとどく。

7月11日 伊藤内閣、清との国交断絶を表明する「第二次絶交書」を閣議決定

7月16日 日英通商航海条約が調印される。領事裁判権などの不平等条項の撤廃を達成する。

7月16日 清、軍機処などの合同会議を開き、開戦自重を唱える。

7月20日 駐朝公使大鳥圭介、朝鮮政府に対して最後通牒。

7月23日 大鳥の手勢が朝鮮王宮に乱入。国王高宗を手中にする。閔氏を放逐し反閔派の興宣大院君(高宗の父)を国政総裁にすえる。

7月25日 大院君、清との宗藩関係の解消を宣言する。大鳥に牙山の清軍掃討を依頼。龍山に集結した日本軍の混成第9旅団が牙山に向かう。

7月25日 豊島沖海戦(高陞号事件)。仁川南西方の豊島沖で日本海軍が清国艦隊を砲撃。済遠を撃沈し、広乙を座礁させる。さらに英国汽船「高陞号」を臨検し、敵性船舶として撃沈。高陞号は清国陸兵千百人、大砲十四門を積み牙山に向かっていたが、ほとんどが見殺しにされる。

7月29日 日本軍混成第9旅団が清軍と交戦し撃破する。このとき「成歓の戦い」でラッパ手木口小平が戦死したとされる。

94年8月

8月01日 日清両国、互いに宣戦布告。イギリス、ロシアは両国に対して中立を宣言

8月05日 大本営、参謀本部内から宮中に移動

8月20日 広島・宇治間の山陽鉄道が竣工開通する。宇品港が出撃基地となる。

8月26日 日韓攻守同盟条約が調印される。

94年9月

9月01日 第4回総選挙が行われる。

9月01日 第1軍(広島の第五師団を中核とする。司令官は山県有朋)が、清の拠点となっていた平壌へ向け、攻勢を開始する。平壌の清軍は牙山から撤退した葉志超軍と満州から南下した左宝貴軍の混成。

9月06日 日本軍迎撃にでた清軍、平壌への立てこもり作戦に変更。

9月13日 大本営、戦争指導のために広島移転。明治天皇が広島に入り、軍機・軍事予算の親裁を行う。

9月15日 平壌包囲戦の開始。日本軍1万7千人、清軍1万2千人の対決となる。

9月16日 葉志超は撤退を決断。清軍が夜間に平壌を脱出。日本軍が無血占領する。左宝貴は手勢をもって抵抗するが戦死。

9月17日 黄海海戦。日本艦隊が清の北洋艦隊に勝利。5艦を撃沈した日本が制海権をほぼ掌握。

9月19日 李鴻章、持久戦(西洋列強の介入を期待)を上奏

94年10月

10月15日 大鳥に代わり、井上馨が特命全権公使に就任。大院君に対し強圧策で臨む。「征清の軍は次々と戦勝して進攻しているが、朝鮮は改革の実が挙がっていない」との明治天皇の意を受けての人事。

10月24日 山県有朋を司令官とする第一軍(第3,第5師団)、鴨緑江渡河を渡り清国軍を追撃。

10月 大山巌を司令官とする第二軍(第1,第2師団)が編成される。遼東半島攻略に向かう。

10月 東学党と農民軍、「除去暴力救民、逐滅倭夷」を唱え、忠清道公州など各地でふたたび蜂起。日本軍および政府軍の前に鎮圧される。

蜂起は「倭寇が王宮を犯した」との報(おそらくは大院君筋)を得て準備された。工作が本格化したのは8月下旬頃であり、兵糧確保のため10月の収穫時期を待って蜂起に至ったという。

94年11月

11月06日 日本軍第二軍が大連を攻略。

11月21日 第二軍、聯合艦隊の支援を得て旅順口を占領。その後、旅順虐殺事件が発生

有賀長雄(第二軍付国際法顧問)の報告: 市街に在りし死体の総数は無慮二千にして其の中の五百は非戦闘者なり。湾を渉りて西に逃れんとしたる者は陸より射撃せられたり、是れ水中にも多く死体を存せし所以なり

11月22日 虐殺行為がさらに拡大。「実ニ惨亦惨、旅順港内恰(あたか)モ血河ノ感」となる。

従軍兵士の手紙: 敗兵及負傷者毎戸二三人つつ在らさるなし、皆な刀を以て首を切り、或は銃剣を以て突き殺したり、予等の踏所の土地は皆赤くなりて流るる河は血にあらざるなし。

山地第一師団長の側近は、「此ノ如キ非人道ヲ敢テ行フ国民ハ、婦女老幼ヲ除ク外全部剪徐セヨ」との命が発せられたと記録している。

11月22日 清国政府、アメリカ公使を経て講和の議を提唱する

94年12月

12月17日 アメリカの各新聞に、政府の弁明書が掲載される。ウィキペディアによれば大略以下のごとし。(南京虐殺が容易に想起される)

  1. 清兵は軍服を脱ぎ捨て逃亡
  2. 旅順において殺害された者は、大部分上記の軍服を脱いだ兵士であった
  3. 住民は交戦前に逃亡していた。
  4. 逃亡しなかった者は、清から交戦するよう命令されていた。
  5. 日本軍兵士は捕虜となった後、残虐な仕打ちを受け、それを見知った者が激高した。
  6. 日本側は軍紀を守っていた。
  7. クリールマン以外の外国人記者達は、彼の報道内容に驚いている。
  8. 旅順が陥落した際捕らえた清兵の捕虜355名は丁重に扱われ、二三日のうちに東京へ連れてこられることになっている。

1895年(明治28年)

95年1月

1月08日 衆議院において戦時の挙国一致を議決する。

1月20日 第一軍が山東半島へ上陸。威海衛への攻撃を開始する。

95年2月

2月01日 広島で清との第一次講和会議が開かれる。日本は委任状の不備を理由に交渉を拒絶する。

2月02日 連合艦隊、北洋艦隊の威海衛基地への総攻撃を開始。

2月05日 旅順虐殺事件による影響が心配されていた日米新条約が、米国上院にて批准される。

2月12日 清の北洋艦隊が日本軍に降伏。提督丁汝昌は服毒自殺。

2月17日 連合艦隊が威海衛に入港。陸海軍共同の山東作戦完了。日本が制海権を完全に掌握

95年3月

3月上旬 第一軍、遼河平原作戦完了。日本が遼東半島全域を占領

3月16日 直隷決戦に備え、参謀総長小松宮彰仁親王陸軍大将が征清大総督に任じられる。

3月19日 清国側講和全権代表の李鴻章が門司に到着。

3月20日 下関の料亭「春帆楼」で講和会議が始まる。日本側代表は伊藤博文。

3月23日 日本軍、澎湖諸島を攻撃、占領する。

3月24日 李鴻章交渉の帰途、暴漢に狙撃され顔面を負傷する。日本はこのあと条件を緩和して、講和を急ぐ。

3月30日 日清休戦条約の調印。日本側、李鴻章の負傷を受け講和条件を引き下げ、早期の妥協を図る。

95年4月

4月17日 日清講和条約の調印。1.朝鮮の独立、2.遼東半島、台湾、澎湖諸島の割譲、3.賠償金2億両の支払い、列国と同等の通商特権付与などを承認。

4月23日 ロシア・フランス・ドイツが三国干渉。日本に対し清への遼東半島返還を「勧告」する。

4月29日 広島の大本営において御前会議。三国干渉の受け入れを決定。

4月 東学党指導者の全琫準、密告により捕らえられ、処刑される。

95年5月

5月04日 伊藤内閣、遼東半島返還を閣議決定。三国に遼東半島返還を伝える。

5月25日 台湾で反乱が発生。台湾民主国の成立を宣言する。

5月29日 日本軍、割譲された台湾北部に上陸を開始

5月30日 明治天皇、広島から東京に還幸

95年6月

6月07日 日本軍が台北を占領。

7月06日 朝鮮の閔妃(明成王后)、大院君政権を倒し、ロシア公使支援のもとに親露派政権を建てる。

8月06日 台湾総督府条例が公布される。台湾で軍政をしく。

10月08日 朝鮮で乙未事変発生。日本公使三浦梧郎(梧楼)が王宮を襲撃して閔妃を殺害。大院君を擁立する。以後、武断路線への転換が推し進められる。

10月21日 日本軍、台南、安平を占領、台湾民主国滅ぶ。

10月21日 興中会の孫文、広州蜂起に失敗。広州より香港に脱出。その後横浜で興中会を組織。

11月8日 清と遼東還付条約を締結

11月18日 台湾総督、大本営に全島平定を報告

95年 清国賠償金を原資として、八幡製鉄所を建設するため製鉄事業調査会が設置される。

1896年(明治29年)

2月09日 朝鮮政府内の親露派が朝鮮皇帝の高宗を確保し、ロシア公使館に移す(露館播遷)。

2月11日 親露派のクーデターが成功。王室内の親日派が全滅し、日本は政治的に大きく後退。

3月 造船奨励法、航海奨励法公布。各種増税法公布。

3月31日 台湾総督府条例公布により、軍政から再び民政に移行

4月1日 大本営の解散

4月20日 日本勧業銀行法・農工銀行法など公布

5月01日 小村外相がソウルでロシア公使と第一次日ロ議定書を交換。日ロ両軍が“居留民保護のため”ソウル、釜山、元山に閉院を配置することで合意。

6月03日 李鴻章、ロシアと対日共同防衛の密約を結ぶ。ロシアは東清鉄道の敷設権を獲得。

6月09日 ニコライ二世の戴冠式に出席した山県特派大使、露外相ロバノフと朝鮮問題第二次議定書に調印。朝鮮への対等な権益、朝鮮警察・軍への不干渉で合意。

7月21日 日清通商航海条約(不平等条約)締結。

7月 李氏朝鮮でも英米露仏などに鉱山採掘権、鉄道敷設権などが供与される。

10月12日 李氏朝鮮、高宗、ロシア公使館から王宮に帰り、皇帝として即位(大韓)。ロシアの要求により、イギリス人海関税務司を解任し、ロシア人アレクセーエフを登用。

11.14  ドイツ軍艦、膠州湾を占領

12月15日 ロシア軍艦、旅順入港

三谷さんの話はきわめて説得力豊かで、示唆に富むものだ。
おそらく保守派の人々を暗黙の聴衆として設定しているのだろう。「敗者の論理」と「勝者の論理」との組み合わせで戦後日本を描き分ける視点は秀逸だと思う。

「非戦能力」とか「戦後築き上げたものに対する誇り」とかいろいろな言葉で語られているが、私は憲法前文の「国際社会において名誉ある地位を占めたいと思う」という一節に集約されるのではないかと思う。
正確に書いておくと下記の通りだ。
われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。
そう思い、努力し、いささかながらではあるが、その地位を獲得した。
その過程で強化されたのが「非戦能力」ということになる。
その事実をリアルに見よ。というのが論者の主題だと思われる。
それは改憲論者たちの「世界をリアルに見よ。世界は恐怖にあふれている」というリアリズムと、対極にあるリアリズムである。

赤旗の論壇時評に注目すべき言葉があった。

三谷太一郎(東大名誉教授)の「非戦能力」という言葉である。

これは、以前とりあげた北大の遠藤乾先生の

我々世代は、平和の歩みに誇りを持つべきだ」という表現とも似ている。

この「力」が実体としてどのようなもので、どの程度のものか、少し検討する必要があるだろう。

朝日新聞は全文を読ませてくれないので、転載したブログを探す。ujikenorio さんが全文を載せてくれている。ありがとうございます。

下記に要約を紹介する

同盟の歴史に学ぶ 東大名誉教授・三谷太一郎さん

2014年6月10日

1.歴史の文脈の中で集団的自衛権を考える

日本人の戦争観は敗戦直後とは大きく変化した。憲法9条の前提となっていた日本人の戦争観が変わった。

敗戦直後、「戦争の性質は根本的に変更された。いまや戦争は一般に違法なものとされ、しかも犯罪とされるに至った」という主張が一般的だった。戦争を放棄した9条は素直に受け入れられた。

『敗者の戦争観』はこういうものだった。

それがいま、『勝者の戦争観』に近づいてきた。与野党を問わず、戦争観が大きく変わった。それは武力の行使を政策手段としてみるということだ。

2.「日米同盟」観について

国民の「同盟」観も様変わりした。

1979年に大平首相が『日米同盟』という言葉を初めて公式に明言した。それまでは、安保を『同盟』と呼ぶことにはためらいがあった。

なぜなら1960年の安保改定反対運動があったからだ。それは安保を軍事同盟にしてはならないという主張だった。

運動は、その後の日本政治に大きな影響を与えた。

3.集団的自衛権は同盟の論理

過去に日本は二つの同盟を経験した。日英同盟と日独伊三国同盟である。

二つの軍事同盟に共通する要件: 共通の仮想敵国の存在と、互いの勢力圏の承認である。第三国が参戦した場合の参戦義務も規定されている。

日英同盟の場合、共通の仮想敵国はロシアだった。勢力圏は、英国が清国、日本は朝鮮だった。

日英同盟のもとで、日本は、第1次世界大戦でドイツに対して参戦した。日英同盟は防衛同盟よりも攻守同盟の性格が強くなった。

日英同盟は、日本の中国に対する侵食を加速する役割を果たした。

4.三国同盟と米国

三国同盟を結成するとき最も深刻だったのは、米国を仮想敵国とみなすべきかどうかであった。

松岡洋右外相はこのままでは対米戦争は避けられないと考えた。そして三国同盟により日本が『毅然(きぜん)たる態度』をとることのみが、戦争を回避する可能性を持つと考えた。

結果は破局であった。

軍事同盟は仮想敵国を想定しないと成り立たないが、それは『現実の敵国』に転化するかもしれない、という非常に大きなリスクを負うことになる。これが三国同盟からの歴史の教訓だ。

5.抑止力はリスクを伴う

軍事同盟の論理は抑止力だが、抑止力はリスクを伴う。

中国を『仮想敵国』のようにみなし、それに対する抑止力として、集団的自衛権の行使を考えるならば、相当のリスクを伴う。抑止力を高めることが相手国との緊張を高める。

これは「安全保障のジレンマ」と呼ばれる。

6.安定的な国際秩序は未完の課題

冷戦後の世界は多極化した。米国が空白を埋めて、絶対的なリーダーになるかと思われたが、現実は予想に反した。覇権構造が解体してしまった。

安定的な国際秩序は未完の課題である。

ナショナリズムを超える理念が存在しないことが最大の障害である。国益に固執した短絡的なリアリズムが世界を支配している。

外交の基軸を『日米同盟』の強化に求めるのは冷戦体制の延長である。それは多極化した国際政治の現実に適合したものとはいえない。

7.国際政治体制のありかたを示唆するワシントン体制

参考になるのは、第1次世界大戦後の多極化した国際政治である。

それは英国の覇権が解体し、米国主導の国際政治秩序がまだ確立しない過渡期であった。

そのなかで多国間条約のネットワークを基本枠組みとするワシントン体制という国際政治体制ができあった。

その特徴は、多国間協調、軍縮、経済的・金融的な提携という関係だった。この歴史的経験から学ぶべきだ。

これを崩壊させたのは当時の日本だった。

8.日本の安全保障は非戦能力を増強すること

はっきり言うと、戦争によって国益は守られない。

戦争に訴えること自体が、国益を甚だしく害することになる。

日本の安全保障環境は、戦争能力の増強ではなく、非戦能力を増強することによってしか改善しないであろう。

非戦能力とは国際社会における独自の非戦の立場とその信用力だ。これが日本が最も依拠すべきものだ。

日本の非戦能力は決して幻想ではない。それは戦後68年にわたって敗戦の経験から学んだ日本国民が営々と築いてきた現実だ。この現実を無視することは、リアリズムに反する。

9.理想に従うこと

必ずこれで日本の安全保障が確立するという選択肢はない。うまくいくかいかないかは少しの差しかない。

そういうとき、理想に従うことが人間としてあるべき姿ではないでしょうか。国家本位ではなく、人間本位の考え方とは、そういうものではありませんか

経済学101 というサイトに

失敗してるピケティ批判 by ポール・クルーグマン

という文章が掲載された(June 6, 2014)

一見読みやすそうで、くだけた文章がかえって分かりにくいが、要約紹介する。

『フィナンシャル・タイムズ』の経済編集者クリス・ジルスがトマ・ピケティを批判した。その批判についてのクルーグマンの論評だ。

1.富の分布に関する2種類のデータ

所得と富の分布に関するデータは2種類ある:いくら稼いでどれくらい財産があるのかを人々に尋ねた聞き取り調査と,税金のデータだ.

ピケティ氏は,主に税金データで研究してる.
ジルスは聞き取り調査のデータを持ちだして、ピケティの論拠を批判する。そして富が少数に集中する明瞭な傾向はないと主張してる.

2.格差否定論の特徴

この否定論は、首尾一貫せず、とにかくいろんな論証を投げつける.

*「格差は開いていない」

*「格差は開いてるけど社会的な流動性で相殺されている」

*「貧困層への援助が大きくなったことで格差拡大は帳消しになってる」

*「ともあれ,格差はいいことだ」

証拠を目の前にしても,どれも放棄されず、繰り返し復活する。

【バックストーリー】ここではクルーグマンのコラムが書かれた背景をショーン・トレイナー記者が説明する

データの擁護 by ショーン・トレイナー

トマ・ピケティの『21世紀の資本論』英語版は驚異の売れ行きを見せている.

ピケティ氏が同書で主張しているのは,

1.資本主義には,格差を自然と生じさせる傾向がある.

2.これは資本の利益率は全体的な経済成長率よりもずっと高いからだ。

3.戦後に広く経済の繁栄が分かち合われたのは歴史上の異例である。

4.これは戦争で巨額の富が消し去られたためにもたらされた異例である。

5.その後は政治構造によって格差が抑制されてきた。

ピケティに対してクリス・ジルスが、ピケティ氏のデータを批判することでピケティを批判した。

1.ピケティが示した数字は,…「根拠薄弱なでっちあげ」だ。

2.ピケティは遺産税データを使っていて、調査データを使っていない。

3.調査データが示す格差は、それほど目立たつものではない。

ピケティは直ちに反論した。

1.調査データは、すべてオンラインで利用可能な「補論」で説明済みである。

2.データを比較するために行った調整については、この補論で詳しく解説してある.


本日の赤旗から
七飯町核兵器をなくす会は、町内のスーパー前で中宮安一町長を先頭に町内会や老人クラブの役員、ななえ9条の会の会代表ら20人が参加し、アピール署名行動に取り組みました。
町長らが「核兵器をなくす署名にご協力ください」と呼びかけると、107人が次々と署名に応じました。
同町では町長をはじめ連町会長、社協会長、老人クラブ連合会長、9条の会共同代表の5人が代表世話人になり、「七飯町核兵器をなくす会」を結成。町民の過半数署名を目指しています。

ということだ。
七飯町は函館郊外の農村地帯。労働者の街でもないし、決して革新的な街でもないが、こうやって草の根運動を展開することは可能なのだと納得させる実例だろう。

七飯町は駒ヶ岳と大沼を中心とする大沼国定公園を擁する町で、函館のベッドタウンでもある。人口2万8千人。

1988年に「核兵器をなくする平和宣言の町」を宣言している。

それ以来、平和教育等に取り組んできている。

毎年8月には町内中学生6名を広島市へ派遣している。次代を担う子供たちに「核兵器の廃絶と世界 の恒久平和を祈念し、また、原爆資料館等での研修を通じて、平和の尊さ、大切さを体験してもらう」のが狙いである。

2011年10月にはさらに進めて「七飯町核兵器なくす会」が結成されました。これは中宮安一町長はじめ、5人のよびかけによるものです。

中宮町長の発言要旨: 

日本は世界で唯一の被爆国です。しかし日本政府はきわめて静かです。私はそれをストレスに感じていました。

原子爆弾を落とした当事国アメリカの大統領が核兵器の廃絶をよびかけているときに何もしなくていいのか、何とかならないのかと考えていました。

そのとき(原水協の訪問団に)ご訪問いただき、署名にとりくむことを決意しました。

署名のとりくみはとてもすばらしいことだと思います。この七飯町で人口の半分、1万5千をやるとなると、なかなかの大仕事だ。目標達成のためには私自身が先頭を切ってとりくまないといけないと思いました。…今後、1万5千突破をめざしてがんばっていきたいと思います。

原水協通信より抜粋。以下同じ

その後の署名集めの形態は驚くようなもの。

七飯町核兵器をなくす会は12月15日、七飯町社会福祉協議会が主催する恒例の第6回赤い羽根チャリティカラオケ歌合戦で初めて署名を訴えました。中学生 も含めて168人から署名が寄せられました。

七飯原水協代表理事の舟見洋三さんは、「ビラを200枚ほど持って行きましたが、あっという間になくなり 300枚必要だったと思います。署名はテーブルに4カ所置きましたが、ピーク時には行列ができるほど。幹事の人は署名で行列ができるのを見るのは初めてだ と驚いていました」と話します。

この町のえらいのは、勉強しながら、署名の意味、署名運動の意義を押さえながらやっていることで、しかも町長が率先して勉強していることだ。

核兵器NO! あなたの署名が世界を変える 2012年 核兵器のない世界へ扉を開こう
をテーマに学習講演会が、1月20日七飯町文化センターで行われ私も参加してきました。

主催は七飯町核兵器をなくす会です。

講師は原水爆禁止日本協議会(原水協)事務局次長で国際部長の土田弥生氏。

学習講演会には、地元七飯町の中宮安一町長はじめ、社会福祉協議会会長、町内会長、老人クラブ会長などが参加していました。

本間かつみさん(函館市議)のブログ

下の写真は12年4月の街頭宣伝と署名活動。北海道新聞の報道だ。ikarruseijin さん

nanaeshomei

町長の署名活動はなくす会の結成前から行われている。署名活動には奥さんも参加し一緒に訴えたそうだ。これは本物だ。

中宮町長は函館高専を昭和50年に卒業、その後のほぼすべてのキャリアを七飯町役場で過ごしている。元町職労委員長。建設課長を経て、平成18年に民主・連合の支持を得て町長初当選。今年の4月から第3期目に入っている。

3回の選挙はみな大接戦だった。

初当選の時は反対派から「あいさつ一つ取っても中身がないし、途中で話が途切れたりしてひどい」「政策はないし、施策を全然話せないのでないか」「政策は後でなどと真顔でやっている」など糞味噌にやられたようだ。

2期目は同じ町役場の会計課長と対決し、264票差で勝利している。3期目は企画財政課長と対決しさらに薄氷を踏む勝利。

いずれにしても、反核運動は選挙に有利に働くとは思えない。中宮さんの信念だろうと思う。


安倍首相の動向を見ると、2つのことが気になる。

1.潰瘍性大腸炎の患者の生活態度ではない

一つは潰瘍性大腸炎を長年患った人の食事内容とはかけ離れているからだ。首相になってからの連日の高級料理はつとに有名だが、これらの食事のほとんどは潰瘍性大腸炎には禁忌とされているものだ。

特効薬が出たから大丈夫と本人は曰わっているが、私が主治医なら「バカヤロウ!」と怒鳴るだろう。アサコールは特効薬ではなく誰にでも効くわけでもない。あくまで寛解導入薬の選択肢、平たく言えばサラゾピリンの腸溶錠だ。

「完治した」と言っているようだが、もし本気でそう思っているなら、そう思わせた主治医の顔が見てみたい。

食生活が寛解維持のためには一番大事なポイントだ。ましてアルコールはタブーだ。

わたしは潰瘍性大腸炎は、偽とは言わないが「とってつけた病名」ではないかと疑っている。

ネットに以下の記事がある。野に下り一議員として生活していた頃の逸話だ。

安倍晋三、なじみの韓国家庭料理店で山盛りキムチをほおばる

安倍さん、食に関しては嫌韓ではないようだ。

安倍さんと待ち合わせたのは、東京都渋谷区の炭火焼肉店。松本人志や宮沢りえ、劇作家の野田秀樹らが通う隠れた名店だ。

「僕は特に内蔵系が好きでね。…自宅にも近いから」

安倍さんは早速「お姉さん、ビール!」と注文。「お酒は大丈夫なのか」と驚く水内を横目に、手はサッとメニューに伸びる。

 「まず特選ネギタンを2人前。ハラミ3人前。カルビは3人前。あとホルモンだよね。特上ホルモン2人前。ミノも2人前。ハツもいっちゃうか。丸腸もね。サンチュ2人前。野菜サラダをどれくらい頼みましょうかね。トマトも2つ欲しい。キムチの盛り合わせはたくさんがいいな

「僕はグルメじゃないが、アラカルトが好き。居酒屋形式だよね。昔はコース型の宴席に出る機会も多かったが、今はほとんどなくなった。コースがあふれる料亭政治も、僕らの一世代前が最後じゃないかな」

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なお、「やはり安倍は在日だった!」(我愛日本)というコメントが、今となっては愛らしい。

2.安倍首相の臨床経過はうつ病と合致する

2007年11月1日の朝日新聞朝刊の寄稿欄に、精神科医の和田秀樹氏による

「中高年のうつ病 もはや隠す必要ない病だ」

という記事が掲載されたのだ。見出しから安倍氏との関係を読み取るのは困難だが、ここで指す「中高年」とは、安倍氏のことだ。寄稿によると、

安倍氏について報道された報道をアメリカ精神医学会による診断基準をあてはめると、安倍氏はうつ病にあてあまる

と断じている。その根拠は、以下のようなものなのだという。

興味や喜びの減退、疲労感、体重減少、不眠、気力や判断力の低下、精神運動性の制止(頭の働きが悪くなることで、私はこれが原 因で代表質問直前に辞意を表明したと考えている)など、これが2週間続けばうつ病と診断される同学会の9つの基準のうち6、7個は満たしているからだ

この基準を読むと、少なくとも「うつ状態」にあったのは間違いないようだ。

次は阿修羅から

立花隆の「メディア ソシオ-ポリティクス」
第116回 
政界を大混乱に巻き込んだ安倍首相電撃辞任の真相
2007年9月13日

結局、本当の理由は、身近の自民党首脳(麻生太郎幹事長)にもらしたという

「私は人心を掌握しきれない」
「政治的エネルギーもなくなってしまった」
の二つの言葉につきると思う。

政治家がこのようなセリフを吐くときは、普通の人でいえばほとんどウツ病状態といってよいほど、神経がブレイク・ダウンした状態(ナーバス ブレイク・ダウン)といってよいだろう。

特に最近のTVインタビューや国会の演説等において、安倍首相のしゃべる言葉の調子に妙な違和感を持っていた。舌の滑り具合が前ほどなめらかでなくなって おり、言葉に詰まって話が途切れるようなことがあったし、くちびるをピクピクうごかしているのに、声がでてこない一時的な失語症状態もあった。

とりあえずネットで見つかったのはこんなところ。

辞任の時はかなりのうつ状態であったことは間違いないようだ。しかしうつ病は自然寛解する。当時とは見違えるように朗らかになって、活気を取り戻すこともあると思う。

もしうつを最初の兆候とする双極性障害であったとすれば、多少行き過ぎた快活さが出現するかもしれない。

しかし、普通は、さすがにもう総理大臣など懲り懲りだと思うだろう。通常感じる不安感とか躊躇というものが完全に欠如している。それだけで、これは正常な精神反応ではないと感じる。

躁状態への移行なのか、SSRIによる賦活症候群なのか、見分けはつきにくい。薬を止めてみれば、そのへんはすっきりするのだろうか、誰が猫の首に鈴をつけるかが問題だ。

セロトニン受容体が賦活されるとどうなるのか


1.SSRIの薬理作用

ウィキペディアから

Selective Serotonin Reuptake Inhibitors、SSRI

というきわめて七面倒くさい名前が付いているが、要はセロトニン賦活薬である。

うつ病は神経伝達物質セロトニンが不足する病気だという考えから、じゃあ増やしましょうという発想である。

セロトニンが不足する原因は二つ考えられる。一つは一次ニューロンでのセロトニン産生の低下、もうひとつは二次ニューロンの受容体の感受性低下だ。

どちらにしても、セロトニンを全身投与してもどうにもならない。神経末端で効いてもらわなければならない。

そこで注目したのが一次ニューロンの末端にあるセロトニン・トランスポーターという装置だ。

220px-SSRIの作用

上は神経末端の模式図で、赤丸のセロトニンが遊出し、接続するニューロンの受容体に結合する過程を示している。

セロトニンは無制限に作られるわけではなく、生産スピードにも限りがあるから、再利用したい、そこで神経末端には回収装置が付いている。これが「セロトニン・トランスポーター」と名付けられている。(あまりいい命名ではない。リサイクラーとでもしてくれれば分かりやすいのだが)

本来はそういうことだが、うつ病ではそれが悪い方向に左右してしまう。分泌したセロトニンがレセプターと結合する前にそれを吸い取ってしまうのである。

だからこのリサイクル装置を一時停止すれば、シナプス間隙のセロトニン濃度を上げてやることができるだろうということだ。

そこでSSRIが登場する。彼はリサイクル工場の入り口のところに行って、そこを閉鎖してしまう。

ただ、言っては何だが、この手の絵はたいてい薬屋さんが描いていて、医者向けの宣伝に利用するので、本当にそうなのか?、それだけなのか?は疑っておいたほうが良い。

 

セロトニン受容体が賦活されるとどうなるのか

ということで、つまりは二次ニューロンのセロトニン受容体が賦活されるとどうなるのか、ということになる。

これは副作用とかいう以前の問題だ。またホルモン物質としてのセロトニンが増多するセロトニン症候群とも違う。

ところが、ここに的を絞った文章があまり見当たらないのだ。

仕方ないので副作用のページをめくりながら、それらしき記載を探していくことにする。

1.躁病の出現

SSRI服用中に躁状態になる人は実際にいる。理由については、薬が誘発したのだという説と元々躁うつ病だったから、自然経過で躁状態に移行したのだという説がある。

これは薬を止めてみれば分かる話なので、たいていは薬をやめても躁状態が続くようだ。

実際にはうつ病でない人にSSRIが投与されている場合がある。背景が多彩であれば症状も多彩となるだろう。

2.賦活症候群

副作用というより、これが薬理作用の本態かもしれない。

SSRIの投与初期や増量期に起こりやすく、セロトニンが一時的に急激に活性化され、刺激を受けることで起こると言われている。

ウィキペディアによれば、これは基本的には中枢神経刺激症状であり、不安焦燥感、衝動性、不眠、ムズムズ脚、敵意、衝動性、易刺激性、パニック発作、軽躁、躁状態を主徴とする。

悪化すると自傷、自殺企図に至ることがある。

これはセロトニンによる精神的薬理効果を、ネガティブな側面から評価すればそうなるということであろう。

しかし仲人口と同じで、ものはいいようだ。反応が素早く、頭の回転が早く、感受性が鋭く、決断力と行動力にとみ、いささかの逡巡もない。会議でも居眠りせず、問題があればゆるがせにせず、戦闘的で、しかも、朗らかだということになる。言うことなしだ。

「一般に賦活は副作用として見られているが、効果が過剰に出過ぎたという観点からもとらえられる」(青山メンタルクリニックのHP

最近、プラシーボを用いた「ランダム化比較」の臨床試験が行われるようになり、原病の徴候か、薬の投与によるものかの鑑別ができるようになった。

18歳以下の若年者では、SSRIによる自殺念慮、自殺企図、凶暴化が確認されている。18~24歳でも同様の傾向が確認された。

(ただしクスリ=悪者論を展開する論者には、とくに小児科領域では、しばしば極論を主張する傾向がある。我々もしばしば振り回された記憶がある)

これを受け米国FDAは18歳未満への使用を警告したが、それ以降に若年者の自殺死者数が増加している。


賦活症候群をめぐる社会問題

うつ病の薬を販売するために製薬会社のキャンペーンが行われ、SSRIの導入後、6年間でうつ病の患者が2倍に増えている。

日本においては、服用後に突然他人に暴力を振るうなど攻撃性を増したり激高するなどの症例が42件報告されている(2008年現在)

うつ病も賦活症候群も、社会的に見れば「困った人たち」だが、SSRIで賦活症候群となったうつ病の人は、「困ったX困った人たち」ということになる。

境界性人格など人格障害傾向を合併する一群で賦活が起き易いという報告もある。

賦活された状態になると衝動性のコントロールが不良となり、対人関係や社会生活上の様々な問題が生じて、病状も不安定になるため、あたかも人格障害のよう な行動異常が目立つようになる。

これは元来の性格傾向が賦活効果で修飾され、性格特徴の一部が強調されているのではないかと考えられる。(青山メンタルクリニックのHP

1999年のコロンバイン高校銃乱射事件では、犯行少年2人が大量のSSRIを服用していた。

(統合失調の初期像はうつ病と紛らわしい。統合失調の患者が経過中にうつを併発することもある。こういうケースにSSRIを投与するとどうなるか)


さて安倍晋三氏はいかがであろうか


まずはうつ病の本態。

病態生理学的には、意欲や気分を調整する「セロトニン」や「ノルアドレナリン」といった神経伝達物質が十分に機能しなくなると、感情をうまくコントロールできなくなった状態。 

ただしセロトニンについては薬屋の誇大宣伝で過大評価されている可能性有り。医者が作った病気という側面もある。

病理学的変化。本態に関わる変化については不明。したがって病因も確定はできない。

遺伝子レベルでの病変にもとづく脳の海馬領域での神経損傷とする有力な仮説があるが、実証されたとはいえない。

ストレス→コルチゾール過剰分泌→海馬の神経損傷は俗説に近いと思う。

細胞レベル、組織レベルで病気の座が目視できることが必要だ。

したがって、その多くは抑うつ症候群、「いわゆるうつ病」と見ておいたほうが良い。むかし言っていたノイローゼとか神経衰弱は、現在は全てうつ病にふくまれる。双極性障害(ヤバいうつ病)は特殊な病態であり別途考える。

診断基準についてはドイツとアメリカで考えの差があり、混乱のもととなっている。私としてはできるだけドイツ風に一つの病気としてみていくほうが良いと思う。

病気そのものよりは、周辺症状による社会的不適応が問題となるために、重症度のほうが重要な意味を持つ。

特に重症度が意味を持つのは、軽症に対し薬を使うか使わないかの判断である。イギリスでは使うなと言われるが、実際少量投与で劇的効果をもたらすことはしばしば経験する(逆に少量でも激しい副作用が出ることがあり、要注意だ)

ついで抗うつ薬の種類

ヨーロッパではMAO阻害薬が頻用されるが日本では使われていないため省略。

最初に主流となったのは三環系抗うつ薬で、1957年発売という相当古い薬だが、現在もなお頻用されている。代表的なのがトフラニール(イミプラミン)とトリプタノール(アミトリプチリン)である。

次に登場したのがセロトニンとり込み阻害薬(SSRI)で、1983年にルボックスが発売された。ついで92年にはパキシルが発売になっている。現在主流となっているのはセルトラリンという薬である。マイルドなのが売りだが、セブンスターかマイルドセブンかという違いでタバコには違いない。

適応症にうつ病・うつ状態のほか、パニック障害、摂食障害、過食嘔吐、月経前不快気分障害、強迫性障害、社会不安障害、外傷後ストレス障害なども入っている。

セブンスターかマイルドセブンかという違いでタバコには違いない。

ほかにもSNRIとか四環系とかあるが、薬理学的にはさほどの差異はない。

厳密な抗うつ薬ではないが、ドグマチール(スルピリド)やリチウム(抗うつ薬との併用)も用いられることがある。

現在ではほとんどの患者がSSRIを投与されている(日本国内で100万人以上が使用しているとされる)と思うので、この作用機序について述べる。











組織という観点から見て、最大の教訓はトップが代案を出せないなら、現場が判断しろということである。そして現場が決断できないのなら大衆が自ら決断せよということである。

当面の目標は、現場から一刻も早く脱出することであった。だから運転指令は列車を再発進せよとの指示を出した。しかし列車は動かなかった。それではどうするか、ここで運転指令は思考停止に陥った。

そもそも列車を動かすということは、乗客をいち早く避難させるということである。その目標にそって考えるなら、列車が動かないなら、一刻も早く乗客を避難させる別の手段を考えなくてはならない。

問題は「火炎が上がっているかどうか」ではなく、状況がクリティカルか否かだ。そして列車がトンネル内で停止し、走行が不可能となり、煙の勢いが増しているという状況はそれだけで十分にクリティカルである。状況の判断にはそれ以上なんの情報も必要ない。必要なのはその先の支援情報である。

ところが、運輸指令は「煙の原因を特定し、それを運転指令に伝えよ、しかるのちにこちらで判断し指示を与える」という思考回路にはまってしまった。「情報を集める」ことが自己目的化し、目標が間違った方向にシフトしてしまったのである。

運輸指令の指示はつまるところ「待機せよ、現場を死守せよ」、ということになる。あえて厳しい言葉を使えば「玉砕」命令だ。

これを受けた運転士と車掌の行動は、持ち場を離れるという点においては類似しているが、目的は正反対だ。運転士は運輸指令の意を受け、出火場所の確認に行っている。指令した側もそれを受けた側も、事態の深刻さに比べ深刻感は薄いと言わざるをえない。だから結果的にそれは全く無意味な行動となった。
それに対し車掌は下車・避難の方向で行動している。これはあきらかに運輸指令の指示を無視した判断であり行動である。
偵察隊は出口まで到達し、「行ける」との判断を持ち帰った。下車しトンネル内を歩き始めた乗客は途中で偵察隊と出会ったはずだ。彼らにとって、出口から戻ってきた偵察隊との出会いはいかに心強かったことか(ただしこの対面シーンは記録には残されていない)
かたや60歳のベテラン車掌、かたや運転歴10ヶ月の新米運転士という差はあるが、それ以上に現場との距離が認識の差を生んでいたものと思う。

東北大震災の津波の時に、「てんでんばらばら」の教訓が大きく取り上げられた。最大のポイントは、「生きる」という目標を絶対にゆるがせにするなということだ。そのために最高のオプションが「てんでんばらばら」であるなら、躊躇なく採用せよということだ。
もう一つは、代案がないのなら現場の判断を尊重せよ、組織は支援(情報提供)に徹しろということだ。運輸指令は、結果的には、代案を打ち出せず、現場の判断を無視し、脱出にあたって有効な支援は何一つしなかったといえる。
ただ、そこまで言い切るほどこちらに情報はない。おそらく運輸指令も必死の思いで頑張ったのだろうが、そこのところを伝える情報は少ない。

ただ、その上級となると話は別である。一條昌幸鉄道事業本部長の記者会見をもう一度思い出してほしい。
車両から煙が出ることはあるが、すなわち火災ということではない。したがって煙が火災であることを確認しなければならない。しかし火災であることの確認手順が手間取った。もう少し早い判断ができれば、短時間で避難ができたと思う。…車掌も乗務員も最後まで火災という認識はなく、判断が狂ってきていた。
ここまでの論証の上に立ってこの発言を見ると、この人物がA級戦犯である可能性が高い。かたやマニュアルをタテに、他方では乗務員を悪者にすることで、乗客を見殺しにしようとしたことの逃げを図っている。これではJR北海道の不祥事は止まりそうにない。
このような記事があった。
札建工業(株)(札幌)は2012年5月31日開催の定時株主総会及び取締役会において、北海道旅客鉄道(株)の前専務取締役・一條昌幸氏の代表取締役社長就任を決めた。小林徳宏社長は相談役に就いた。
それでも「引責人事」なのだそうだ。一将成りて万骨枯る、大日本帝国バンザイだ。

補遺
今回はこれまであまり取り上げられなかった乗務員の行動を中心に書いているので、乗客の判断と行動についてはあまり触れていない。
乗客の判断は正しかった。唯一正確な状況判断をしたのが乗客であった。
インタビューの記録を読むと、乗客の中に相当数の役職者・エリートがいたことが分かる。この列車は「ビジネス特急」だった。子どもや年寄りは少なく、青壮年男性の比率が高かった。
組織を知り、組織を統率し、組織的判断の出来る人がいる集団は、たとえ即製集団であろうと、ものすごい力を発揮しうる。そのことがきわめて象徴的な形で示されたと思う。
彼らは恐怖、煙、混雑、暗黒、密閉空間が半ば人為的に創りだされ、情報が皆無となるなかで、自らの持つ想像力に頼りながら、もっとも適切な判断を行った。情報にあふれる運輸指令が「もっと情報を」と指示しながら、前頭葉の思考回路を遮断し判断停止に陥ったのとは対照的だ。



石勝線トンネル火災事件の実相

このニュースの大事なことは、事故の重大性やJR北海道のひどさを告発することにあるのではない。

これだけ重大な事故であったにもかかわらず、乗客・乗員が大した怪我もなく無事助かることが出来たのはなぜかということだ。

そこで決定的なことは、乗員がひどかったにもかかわらず乗客の機転で助かることが出来たというマスコミ報道が本当に正しいのかどうなのかということだ。

それは乗客のヒロイズムをくすぐる論調ではあるが、「ヒーローたち」が乗客全員を救ったという場面は実のところ根拠はない。結果としてはっきりしているのは、どこかで乗員も避難し乗客全員も避難しているという事実だ。

しかもそれがJRの作成した事故対応マニュアルとは異なっているということだ。それにもかかわらず、JRは乗員に「判断ミス」を押し付けようとしていることだ。

どうもTV報道の作った筋書きとは違う事実がありそうだ。

ネットで集められる情報を集め、もう一度時系列で整理してみた。もちろん全部を集めきったとはいえないが、最初持っていた印象とは全く異なる実相が浮かび上がってきた。

あたったおもな資料

最初に読んだのは、ということはグーグルで最初にヒットするのは、「日経 ものづくり」の「事故は語る JR北海道のトンネル内で脱線・火災事故、車輪の異常を放置したずさんな保守」(2013/10/25)という記事だ(ただし前半分しか読めない)。事故から2年半を経過してから書かれた記事であり、実相に近いものと受け止めた。

叙述は我々が持っていた印象とあまり変わらないものであり、いささか感情的なところも同じだ。

トンネル内列車火災事故発生時の人間行動 の情報源は、2日後の北海道新聞に掲載された記事を編集したものであり、正確度には欠けている可能性。

その後、石勝線 第1 ニニウトンネル火災の検証 という論文を閲覧できた。相対的にはこれが一番確実な情報のようだ。

★阿修羅♪ >石勝線事故 という投稿がもっとも内容が濃い。6月2日の投稿だけに一般報道の後追いだが、記事を丹念に拾ってくれており貴重。

1.脱線から停車に至る経過

その事故は2011年5月27日の夜9時55分に起きた。占冠村のJR石勝線「第1ニニウトンネル」内でディーゼル特急「スーパーおおぞら14号」が脱線・停止・炎上した。

ニニウは占冠村の字名。アイヌ語そのままだが、以前は新入という漢字があてられていた。「ニニウ物語」というページがあって、いかにもという沿革が語られている。

北大にどんぐり会という農村セツルメントがあって、穂別町の福山を拠点とするB班はたしかニニウまで出張っていたはずだ。

第1ニニウトンネルは全長683メートル。長大トンネルが多い石勝線のなかでは珍しく短いトンネル。それが「奇跡の生還」に寄与した。

この「スーパーおおぞら14号」は1998年製で、「振り子式」と呼ばれる特殊な台車を使用している。石勝線は山の中のトンネルとカーブの続く路線だが、札幌と道東をつなぐショートカットとして比較的最近に建設されたため、近代工法が駆使され、制限時速は125キロまで認められていた。

その夜、列車は札幌に向け時速約110キロ(直後報道では時速120キロ)で走っていた。

乗客定員291に対し乗客は248名で、乗車率83%。時間を考えるとかなりの混みようだ。金曜の夜と言うことで、車内はサラリーマンや札幌に遊びに行く若者の客が多かった。

6両編成の列車を、突き上げるような衝撃が襲った。直後に「ドン、ドン」と異音がしたため、異常を感じた車掌(60歳)が運転士に停車を要請した。緊急停車した列車の4,5両目からは間もなく煙が上がった。

…というのが新聞記事っぽい表現。

2.事故調査報告の概要

事故の経過は後の検証では以下のごとく確認されている。

まず列車の先頭から4両目で、車両下部の金属部品「吊りピン」が脱落した。これは車輪の回転力をエンジンから伝える「推進軸」の部品である。脱落した部品は未だに発見されていない(その後脱線箇所から800メートル手前で発見)。

推進軸といえば自動車のシャフトにあたる。人間の体なら大動脈だ。その「落下など今の時代ではあり得るはずがない。完全な整備ミス」という意見も寄せられている。

列車は脱落した推進軸を引きずりながら、そのまま1キロ余り走った。そして清風山信号場付近で5両目の後台車の第1軸が脱線した。ちぎれ落ちた推進軸に乗り上げたためである。「ドン、ドン」という異音は、この脱線の際に発生したものと考えられる。

5、6両目のディーゼルエンジンは下面に打痕や擦過痕が多数あり、燃料タンクの下面に穴が開いて中は空になっていた。 6両目の前方の1機だけが焼けており、ここが火元とみられる。

列車はさらに脱線したままトンネルに突入。850メートル走ったあとトンネル内で停止した。この時の先頭車両の位置はトンネル入口から200メートル。したがって出口までの距離は480メートルということになる。

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停止から火災発生まで: 

まず6両目(最後尾)から発煙が始まった。停車時点で既に、6両目の台車付近から火の手が上がっていたのを乗客が確認している。

車両の下で「バチバチと部品を引きずるような音がして、物に乗り上げるような感触があった。直後に窓の外で火柱が一瞬上がった」(公務員45)

(北海道新聞では発煙源は4,5両目となっている)

3.初期対応

以下の数行はどの時点での状況の記載なのか不明のまま、事実だけが生のまま突き出されている。

①動かなくなった列車

トンネル内でトラブルがあった場合はトンネル外まで移動するのが原則である。運転手(26 運転歴10ヶ月)は煙を認めて列車の前進を試みたが、「ギアの切り替えができず」、列車は動かなかった。

なぜ動かなくなったのかが分からない。ある論者は動かなくなるはずがないとして、暗に運転士のパニックを示唆している。

気動列車は各車両に二台づつエンジンがあり、独立性が高い。12機のエンジンのうち一つや二つやられてもそれで動かなくなるはずはないというのである。

これについての納得行く説明は、検索した範囲では見当たらなかった。

②エンジン停止と照明の切断

その時点で既に、後方の車両からの発煙が確認されていたことから、運転士は無線で指令部に連絡し、指示に従ってエンジンを停止した。このため客室内は真っ暗となった。

これは良く分からないが、本当に真っ暗になったのだろうか。非常電源で非常灯はつくのではないか。運転士は非常灯もふくめオフにしたのだろうか。

③「火災」ランプの問題

一部の報道は、翌日の聴取に答えた運転手の発言をことさらに取り上げる。

運転台のパネルに「火災」のランプが点灯していた。しかし運転士は火災と認識せず、運輸指令に報告もしていない。

この行動は、それだけ聞けば極めて深刻なミスと受け止められる。しかし別報によれば必ずしも決定的なミスとは言えない。

第一に、この装置は事故の直後は作動せず、22時20分ころから、表示灯が点滅したり、ブザーが鳴ったりしていたという。

第二に、装置が作動した22時20分の時点では、車掌が車外避難を前提にトンネル内の安全を確認していた。運転士はその報告を待つ状況だった。

これらの事実が時系列に乗らないまま報道されると、運転士にすべての責任がかぶさるような印象を与える。勘ぐればそれを狙ったリークかもしれない。

4.火災の発生と拡大

時系列に戻ろう。

22時ちょうど、4,5両目で白煙が立ち上がり、焦げ臭い匂いが漂う。車掌は運輸指令に「後方3両の床下から煙が入ってきている。4両目の煙がひどい」と事態を報告。

以下、石勝線事故には他の報道にふくまれていない重要な記述がある。現在は元データは見ることが出来ないが、サンスポの記事(31日)である。

火災発生を懸念した指令は〔1〕運転士にただちに運転を再開し列車をトンネル外に出す〔2〕車掌に乗客を前方の車両に誘導する-との指示をした。車掌は「運転士が発車できないと言っている」と報告した。

これに対し指令は「大至急車内放送をかけて前方の車両に誘導し、後方の車両に乗客がいないか確認」と指示した。

このとき、車掌は「前から降りてトンネルを(歩いて)避難したほうがいい」と返答した。

この発言が、交信記録に基づいた事実であるとすれば、運輸指令は二つのミスを犯していることになる。指令〔1〕が実行不可能であるにもかかわらず、それに替わる代替案を示していないこと。緊急時であるにもかかわらず、現場の意見を尊重し、それを支援するのではなく、それを事実上無視したことである。

「お前に任す。俺達がカバーする。幸運を祈る」と、どうして言えなかったのか?

ただしこの経緯は他の文献で確認できない。

22時10分、車掌は発煙があった車両の乗客に指示し、前方車両に避難させた。同時に乗客には外に出ないで、車内で待機するよう指示。

5.差し迫る危機

「日経 ものづくり」の記載: 事故発生から20分過ぎても、乗務員は状況確認や運輸指令との連絡が不十分なままに経過した。この間、「調べるのでこのままお待ちください」「車外には出ないでください」との放送を繰り返し、乗客の車外への避難を制止し続けた。

煙が車内に充満し始めたが、車外への避難を促すアナウンスは最後まで流されなかった。車掌も乗務員も火災という認識はなかった。

この記述は状況を一面的に切り取ったものと思う。それは下記の経過を見ればわかる。

22時10分、運転士は指令に「モニターが消え、状況が把握できない」と報告。指令は全エンジン停止を指示。車掌からは「かなりすごい煙で息ができない」との報告があった。

石勝線事故では、指令は「煙が入ってくるのでドアを開けるのを待つように」と指示したとある。ただしこの指令がいつどのような状況で出されたのかは不明。

22時14分、運転士が車外に出てトラブル箇所を確認に向かう。このため指令からの連絡に対し一時応答が途絶える。前後して、車掌もトンネル内点検のため車外に出る。

別の記事では、「車掌と乗務員はトンネルの出口がどこなのか確認のため車両から降りて行った。戻るまで20分もあった」と記載されている。

運転士の行動は軽率であると思う。責任者が自分で動いてはいけない。車掌の行動も二人の乗務員にやらせるべきものであった。

この時点における車掌の取るべき行動は乗客のパニックを抑え、掌握することであった。暗く息苦しい空間にすし詰めにされた乗客に「車掌が逃げた」と思われたら大変なことになる。

ただ、そのうえで、車掌の行動は明らかに指令を無視して、乗客を下車・避難させるための準備と考えられる。

異常時マニュアルでは、運輸指令の指示がないと乗客を外へ避難させることが出来なかったのである。ここはしっかり踏まえておく必要がある。

6.火災か火災でないかという対立ではない

「車掌も乗務員も火災という認識はなかった」と書かれているが、それは炎を視認するということが火災の基準になっているためで、現場には「避難するべきシビア・アクシデント」という認識はあったのだろうと思う。

22時25分、無線交信記録によれば、列車からの連絡が復活。運転手が戻ったためで、車掌はまだ戻っていない。

運転手は運輸指令に「火災発生はない」と報告。ただし石勝線事故では、「前も後ろも煙が充満している。火災は発生していない」となっている。「前も後ろも煙が充満している」というところを省いてはいけない。

問題は「火災でなければOK」という運輸指令のマニュアル主義にあった可能性がある。

7.そしてパニック行動が始まった

大量脱出は結果オーライで、英雄的行動ともてはやされるが、社会心理学的に見れば集団パニック行動と考えても全く矛盾はない。

ただその行動は偽りの公的な合理性に対して真の合理性を突き出している。サルトル風に言えば、まさにみずからの実存をかけた投企である。

22時30分、前方の3両にも煙が入り始める。このとき、乗客の多く(約240人)は自らの判断で乗務員の制止を振り切り、非常ドアコックを使用して外へ避難。徒歩でトンネル外に脱出をはかった。

「前の方で車外に出ているのが分かった。乗客の男性から『外に歩いて逃げよう』との声が上がった」(医師29)

乗客の話では、「避難した乗客に対して職員が激怒した」といわれる。 頭数の計算から言うと、車掌と乗務員の1人がスカウティングに出たとすると、留守番はただ一人だ。必死に制止するのは当然だろう。彼の責任ではない。

22時34分、偵察から戻った車掌は運転指令に「乗客が車両から降り始めた」と連絡している。

乗客248人は、煙の立ちこめる暗闇のトンネルの中を500m近く歩いて出口へ向かった。時間にして10~15分の行程と考えられる。

乗客のあいだには不思議な連帯感が芽生えていた。

「パニックではなく、整然と励ましあって黙々と歩いた。煙がすごく30 センチ先も見えないほどだった。…乗客はみんな死ぬかもと感じたと思う。私もそう思った」(医師29)の証言。

8.乗務員の後始末

車掌と乗務員は3両目車両の後ろ側から列車に入り、乗客に避難を指示し車外に誘導した。

23時30分、乗客全員が列車から降車したことを確認。運転士と車掌、客室乗務員の計4人が下車した。さらに1時間にわたり煙の中に留まったことになる。

28日0時、乗務員と乗客の全員がトンネルから札幌側出口に脱出を完了した。方法・過程においてさまざまな問題があったにせよ、4人の乗務員は最後まで現場にとどまり任務を完遂したのである。

彼らを何処かの船長と同列においてはならない。このことは強調しておきたい。列車には人数不明の車内販売員がいたはずだが、彼らの情報はない。乗客数にふくまれているのかもしれない。

9.その後の若干の経過

避難した乗客が全員真っ黒けだった。本当に間一髪だった。

乗員1人を含む79人が煙に巻かれ、咽頭炎や喉頭炎など呼吸器系の症状を来たした。うち39人が病院に搬送された。

避難後、火災は車両全体に延焼し、全6両が焼損した。

28日午前7時、列車が燃え尽き鎮火。

午後1時、特急列車がトンネル外に搬出された。窓は焼け落ち、車体は熱で大きくゆがんでいた。

5月28日午後2時から、札幌のJR北海道本社で記者会見が行われた。出席者のトップは一條昌幸鉄道事業本部長だった。

声明の要旨: 最初に列車に異音があった。次いで煙が出た。車両から煙が出ることはあるが、すなわち火災ということではない。したがって煙が火災であることを確認しなければならない。しかし火災であることの確認手順が手間取った。JR北海道の火災発生の認知は2時間以上も遅れた。

「もう少し早い判断ができれば、短時間で避難ができたと思う。車掌も乗務員も最後まで 火災という認識はなく、判断が狂ってきていた」とし、車掌に責任を押し付けるとも取れる発言。

2011年9月には、JR北海道の中島社長が安全意識の向上を社員に促す遺書を残して自殺。

2013年5月31日、運輸安全委員会は、車輪の剥離やへこみにより生じた異常な振動により部品が脱落したことが、事故の原因になったとする調査報告書を発表。

4両目の車輪の表面が長さ40センチメートルにわたって剥離し、4.5ミリメートルのへこみが生じた。これにより異常な振動が発生し、減速機を固定していた吊りピンが脱落。減速機が垂れ下がって路面に衝突し、その衝撃で周辺の部品が脱落した。

10.感想的結論

マニュアルに火災時はトンネル内で停止させないという規定があったというが、火災という認識がなければ規定は無意味である。

以前のマニュアルでは火災は「炎が認められた時」と定めている。今回は乗務員が炎を見ていなかったため、火災と認識しなかったということになっている。

(現行マニュアルを見ることができる。「トンネル内における列車火災時の処置手順 北海道旅客鉄道株式会社」というもので平成23年9月の発行)

しかし問題はそこにはない。

もちろん、オイルタンクの炎上などあってはならないことで、ハード面でのフェールセーフ機構に決定的な問題があることは論をまたない。

しかし事故分析はどうして事故が起きたかの分析のみであり、どうして辛うじてではあるが全員を大事に至らしむる事なく避難させえたのかの分析はない。

乗客の一部が勝手にドアを開けて逃げ出したから、というだけでは感情的にはわかりやすいが、疑問は残る。乗務員がどこかで判断を変えたからこそ助かったのであろうか? その事実確認がここまでのところの情報では判断できない。

石勝線事故に学ぶ 「ルール破り」の大切さ

安倍内閣が暴走列車だとすれば、NHKをはじめとするマスコミは、車内に留まれと促し続けた車内放送だ。

しかし乗客はこの車内放送の指示を拒否し、ドアを開け車外に出て助かった。この事故は大変教訓的だと思う。

もちろん走行中に乗客が勝手に行動しては困る。ルールに従わなければならない。しかしルールはいのちと安全を守るためのものだ。ぎりぎりのところで乗客は自分たちの命を守るために判断しなければならない。

たとえ判断してはいけない、判断するなと呼びかけられても、判断しなければならないのだ。

それがどういう時にやってくるのかを、我々は石勝線事故を通じて考えなければいけないのだろう。


ちょっと待ってください。

かなり今まで知らなかった事実がある。

ことはそう簡単なものではない。

少し調べた上で書きます。

「日本の常識は世界の非常識」と言われるが、その非常識が防衛副大臣にまでおよぶとは、世も末だ。

本日の赤旗第一面。

パリの武器国際展示会(ユーロサトリ)に出席した武田良太防衛副大臣(自民・衆院福岡11区)

「持っている国力を発揮できる環境を安倍内閣がつくったわけだから、それを生かしてどんどん成長していっていただきたい」と発言。

これは世界最大の武器見本市で、日本企業12社が参加している。

問題の行動は、その会場で起きた。

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と、嬉々として銃を扱っていたが、

突然銃口を人に向けた。しかも引き金に指がかかったままだ。

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銃口を向けられた人は、とっさに手で払った。しかしその後も子供がオモチャを手にした時と同じように、また構え直す。動画見ると二回銃口を払われて、それでも笑ってる。

この場面がTBSのニュースで流された。

ツィッター上では多くのコメントが寄せられている。

トリガーに指をかけて人に銃口を向けるのは、向かられた相手から防衛のためとして射撃されても文句は言えない。

ゴム弾の模擬銃だと弁護する意見もあるが、その人さえも「だからといって認められるものではない」と言っている。

そのうえで、武田副大臣の発言をもう一度読み返してほしい。

持っている国力を発揮できる環境を安倍内閣がつくったわけだから、それを生かしてどんどん成長していっていただきたい

兵器というのは殺人の道具だから、「どんどん売りまくれ」ということは、買い手に「どんどん殺しまくれ」というのと同じことだ。兵器を売るというのはそういうことだ。そのことが分からない。銃口の先に何があるのかが想像できない。

良いか悪いかを言う前に、もう「安全ピン」が飛んでいるというしかない。おそらく彼らとは議論にならないだろう。1968年の生まれ40歳代半ばというのはこういう世代なのか。

ホームページには「信条」として「正気堂々」と書いてある。堂々たる正気なのだ。

それにしても、TBSがんばるなぁ 支援する会でも作りたいくらいだ。


やばい話をもう一つ。
これはうわさ話だが、
安倍晋三は浴びるほど抗うつ剤を飲んでいるという。
薬が効きすぎて躁状態になっている。
だから国会の質問に対してもまともに答えない。
何年か前、イタリアの何処かの美術館で小便を垂れた奴もいた。
これはうわさ話だが、
彼も抗うつ剤を大量に服用していて、
ちょっとでも酒が入ると、もうまともでなくなってしまうのだそうだ。
もう仏様だから、名前は出さないが。
さてそこで問題だ。
うつ病は本人の責任ではないし、
それに対して抗うつ剤を処方するのも、正しい行いだ。
世の中にはうつ病で、抗うつ剤を飲みながら
しっかり仕事をこなしている人はたくさんいる。
だからそのことを個人の秘密にしても全く問題はない。
抗うつ剤を飲みながら総理大臣をやっても、それを悪いとはいえない。
ただそれは抗うつ剤であって、うつ病(大うつ病)の人に使う薬だ。うつの徴候を示す普通の人に使う薬ではない。その場合どのような副作用が出るかはよく分かっていない。
これも噂だが、雅子さまはだいぶひどい副作用が出現したようだ。

抗てんかん薬を飲みながら自動車を運転しても、悪いとはいえない。
統合失調で人を殺した人が、その後薬でコントロールされて市民生活を送っても、本人に責任はないのだから、ダメとはいえない。勝手に服薬を中止した場合、本人にその責任を問えるのかという問題は残るが。
だが抗うつ剤の効きすぎで憲法9条を変えて、集団的自衛権を認めるようなことが許されるだろうか。

衆目の一致するところ、今の安部首相には明らかにおかしなところがたくさんある。
平気で嘘をつく。対話が成立しない、眼が泳いでいる、など明らかに躁病の特徴を示している。
人権問題が絡むとはいえ、やはりこれは大いに困る。
どこかのタレントが酔っ払って下半身を露出したという話があったが、そういうレベルではない。
ただ、むしろ問題は別のところにあるのかもしれない。
日本の政治にはフェール・セーフの機構が働いていない。明らかに政治は暴走している。ブレーキが効かなくなっている。なのに、それにガソリンを注ぐ奴はたくさんいても消火器を持ちだす奴は一人もいない。列車の放送は「安全です。動かないでください」と連呼している
日本の権力の中枢には、自分の目の前の利益だけで動く人間しかいなくなった。民衆はそれに盲従している。
暴走列車にたまたま乗り合わせて、「大変だ!」と叫んでも、周りの乗客はまったく動じない、無表情のままだ。彼らは従容として死に赴くのかもしれない。

どうするんだ!
(もし、噂が本当だとしたらの話ですが)

なお、抗うつ剤と反社会的行動の関係については一度レビューしたい。
今週はアレイダ・ゲバラの来札に絡む作業で手いっぱいなので、来週から着手しようかと思う。

こんな記事があった。

 韓国は何かにつけて日本に対し自国の優越さを主張する。では実際の数字はどうのか。スポーツの分野で比較してみる。

【項目:日本/韓国】
●夏季オリンピックメダル獲得数:金130銀126銅142/金81銀82銅80
●冬季オリンピックメダル獲得数:金9銀13銅15/金23銀14銅8
●サッカー代表戦績(日韓戦):14勝21分38敗/38勝21分14敗
●サッカーFIFAランキング:47位/54位
●サッカー欧州組選手数:28人/14人
●サッカー移籍金最高額:33億円(中田英寿 ローマ→パルマ)/14億円(ソン・フンミン ハンブルガーSV→レバークーゼン)
●WBC歴代戦績(優勝回数):4勝4敗(2回)/4勝4敗(0回)
●野球五輪代表戦績:10勝5敗/5勝10敗
●歴代メジャーリーガー数:56人/14人
●テニス世界ランキング最高順位:男子11位(錦織圭)、女子4位(伊達公子)/男子36位(イ・ヒョンテク)、女子34位(イ・ドッキ)

※週刊ポスト2014年1月17日号

ということで、これは日本のほうが本当は強いぞというデータを並べるつもりで作ったのに、はからずも韓国の強さを裏書する結果になっている。


1.まずは並列に並べる前に、条件の違いを指摘しなければならない。人口は圧倒的に日本のほうが多いのである。

2.オリンピックだが、戦前の戦績を加えるのは明らかに間違いだ。第一、孫基禎をどちらにカウントしているのか。

3.カネのかけ方が違う。日本は種のところから大事に育てている。向こうはみんな雑草育ちだ。自力で這い上がってきている。

4.ガチンコ勝負ではほとんどすべて韓国が上回っている。WBCをいうなら日韓対決の結果を示すべきだ。

5.商業スポーツの御三家は野球、サッカー、ゴルフだ。スポーツ新聞を見ればわかる。どうしてゴルフを無視するのか。

6.韓国のプロの目標はカネだ。金にならないことはやらない。バレーボールも卓球もボクシングも金にならないからやめた。最大の市場は日本だから日本に押し寄せる。外国人枠がなければ、野球もゴルフもすべて韓国人になる。


子供の頃、朝鮮人は何をやっても強かった。もともと血の気が多い上に、体を張っていた。怖かったね、朝鮮人は。兄弟には必ずヤクザがいたし、みんなトッぽかった。いま考えるとその兄弟の中にはアカもいただろうね。

そういう人たちが現場で体を張って、日本の平和と民主主義が守られたのかもしれない。

最後はなんだか分からなくなってきた。これ以上はやばくなるのでひとまずおしまい。



Is it pitiful for the handicapped to live?

- A Practice of Dr. Takaya

 

Dr. Takaya is ex-director of the Biwako school for heavily handicapped children.

Recetly he published the book titled "What is to live the serious illness?"

Only to hear the title, I had to have a certain feeling of heaviness or seriosness.

His central theme of concern is laid ultimately in the question "Is it miserable for the handicapped to live?"

This is a considerably multimeaning expression in itself.

I think this question contains three sub-questions according to its logics.

Are the handicapped people the miserable being?

Is it a pitiful matter for the handicapped to live?

Should we grasp figures of the living of the handicapped as a pitiful matter?

These three questions would be concetrated to one question that is "Is it miserable for the handicapped to live?"

 

Dr Takaya starts to answer to his own question from the following words.

I was aware on examination. Their bodies were stiff, they showed  expressions of un-easiness. So I thought at once "Is it even better to live through these pains and disgusts?"

I know that anyone to visit our school would lose the words without exception. Because they have never experienced to see, or never imagined such extraordinary figures.

These are natural reflexes, I know, those are just impressions for the normals.

It is a feeling of stagger or hesitation, a kind of naive reflex of human, when to be stuck by the extraordinary living. It is also a certain model of recognaizing the heterogeneity.

We must recognaize the existence of people who cannot be looked indstantly as the same human as us.

It is just that time when our existent sense of values  exposes it's limits.

Dr. Takaya state frankly that they are poor to be alive,.

There is no need to negate the spontaneous feeling of compassion with complicated logics.

He maybe says "You may think so. Don't mind"

It is rather essential that how we will depart off from there, and where we seek clue.

Thanks for God, medical doctors have their peculiar business for their clients.

It is just an important thing that these children grow to the state, where they are glad to be alive or to feel comfortable.

And It is our nice task to support those processes.

Though it is very difficult to think ethically, however we medical doctors understand how to do medically. It is like a conditional reflex

We do the work to be needed in a certain meaning. That is the impotant matter.

There are no times to think about "the death with dignity".

Our works are divided into three phases.

Ultimately, we should make the child feeling joyful to be alive.

For that, we should make the child to taste a pleasant and comfortable sensation .

Therefore we should make the environment of mind and body preparing for realizing those states.

Dr Takaya also says "Our main field of daily practice is that the heavily handicapped live their life with less complaint"

Generally the human body exists in order to support a human being.

On the contrally in the handicapped, especially in heavilly handicapped persons, the body does not support a human being but even make an maracle through pains and discomfort.

Therefore they become to feel to be comfortable if the pain is relieved, and .possibly to think "I live and am glad"

The handicapped really lves even his body is an obstacle for his living.

It means that the human beings have a strong power for living.

Of course problems of the human inside i.e. "dignity" are big. It is very difficult to cut in there.

However it is possible to make the condition for those purposes.

The work to make condition is the acceptable work ethically, and is at least the work which should not be rejected.

Handicapped children are relaxed, and their breathing becomes comfortable when they feel voices and warmth of mothers.

No matter how their obstacles are heavy, their expression clears up if they feel comfortable.

Dr. Takaya is careful with this moment.

He thinks that each moment to feel comfortable is so important in the all day activity, which would be piled up one by one and eventually form joy to live.

Recenly Dr. Takaya became to think that these practices are not only the medical practice but also the educational one to lead children to growing up.

This thought was iterpreted when he has received an educational prize although he was a medical doctor.

When he has wan an education prize, he thought about the meaning of the prize by himself.

These words will be a deep calling for the meaning of education.

以前、米韓が日本人を救出することなどありえないとの外務省元高官の発言を引用した。
「日本人を乗せて避難する米輸送艦」などありえない
今度は集団的自衛権の推進者である中谷元議員が、防衛庁長官当時の経験を語った国会証言が明らかにされた。
当初、ガイドラインにも米軍による邦人の救出を入れて、米国が実施する項目というようなことでお願いしておったんですが、最終的にはアメリカから断られまいた。
たくさんの国からそういうことを頼まれると困る。自分のことは自分でやりなさいというようなことで、当然のことと思います
。(1999年3月衆院ガイドライン特別委)
ということで赤旗はさらに追い打ちをかける。
防衛研究所紀要(02年2月)の文章である。
アメリカの自国民救出活動の特徴は、国籍による優先順位があることである。順位はアメリカ国籍保持者、アメリカ永住権保持者、イギリス国民、カナダ国民、その他の国民の順である
これでは明らかに片務だ。条約の形を成していない。
米艦救出の義務を負うのなら、米軍に邦人救出を義務付けるべきだ。
とにかく、この「ケース」は例示から取り下げるべきだ。

赤旗で、松本記者がシンガポールのアジア安全保障会議を取材した報告を載せている。
前者は安部首相やヘーゲル国防相も出席する大きな会議で、マレーシアの方は学者と政府高官のワークショップみたいなものだったようだ。
当然前者は意見の言い合いになるのだが、松本記者は米中以外の発言に注目している。
ほとんどの発言が中国の「挑発的行為」を問題視。マレーシア国防相も「2国間と地域的な関与を通じて中国に対処する」ことを強調し、「法の支配の実現」を呼びかけました。
というのを引用している。
もう一つは米日両国とASEANの論議で、「リバランス」をめぐるものだった。リバランス戦略は、結局軍事同盟の強化というところにつながっていくことが、議論を通じて見えてきた。
「リバランス」政策は国務省というより国防総省のラインから出てきたもので、そういう意味では90年代クリントン政権の「ナイ構想」につながっているところがある。
ただASEANがNATO型軍事同盟への懸念を表明したのに対し、ヘーゲル国防長官は次のように対応している。
「各国は自国の安全保障に責任をもつべきだ。しかし、もし集団安全保障や同盟に参加したいなら参加すべきだ」
ということで、今ひとつ真意がわからない。「本気度」が伺えないのだ。
これは結局、中国の第二列島線(伊豆・小笠原諸島からマリアナ諸島を経てニューギニアに至るライン)構想に対して明確な態度をとれていないことに起因するのだと思う。第2列島線というのは、かつて日本で叫ばれた「マラッカ海峡生命線」と同じような発想で、防衛という名の膨張路線である。絶対に認めることのできない思想だ。
「太平洋は広い」と言って勢力圏を分割する中国の提案に、アメリカは曖昧な態度を取り続けている。
はっきりしているのは、中国の南シナ海進出や尖閣での挑発(第一列島線)は、第二列島線の形成のための必須条件だということだ。海上の防衛線は原潜とイージス艦を抜きにしてありえない。それには南シナ海とバシー海峡が必須だ。
アメリカはこの中国の戦略に対して基本的なところで腰が座っていないから、南シナ海についても正確な態度が取れないのだ。そして結局は自国のエゴを追求するということになる。そうなると「リバランス」戦略に筋が通らなくなる。
これが今の状況ではないだろうか。


前の記事「コスタリカ大統領選は勝ったのではなく負けたのだ」は、自分で言うのもなんだが、非常に大事な記事だ。

日本語ではこれしかないと断言できる。自慢ではないが、私の記事のいくつかは日本語ではここでしか見ることが出来ない記事だ。

と言っても自分で書いたわけではなく、下手な訳をつけただけのものだが、文章を探してきたのはこの私だ。

文献探しは10年前より難しくなっている。理由は3つある。

ひとつは米国の連帯サイトや左翼サイトがかたっぱしから潰れていることだ。日本だけでなく、ラテンアメリカを除く世界中で左翼が下火になっている。

ふたつ目はスペイン語のサイトがやたら増えていることだ。それ自体は悪いことではないが、お陰で英語のサイトが埋もれてしまう。グーグルが役に立たない。

グーグルは英語とスペイン語の区別がつかないから、見出し語の最初には必ず英語の単語を入れなければならない。例えばコスタリカの拡大戦線を探すときは、最初にElectionと入れなくてはいけない。左翼関係の文章を探すにはLeftistと入れなければならない。

3つ目はこちらの肉体的衰えだ。視力が落ちた。集中力が落ちた。一番は英語を読む力が落ちた。日本語で読めるなら日本語で済ましたい。ところがけっこうなところまで日本語で読めてしまうと、英語を敬遠するようになる。

要するに易きにつくのである。エレベーターに慣れて、階段を上らなくなって、2階に上がるだけでもゼエゼエしてしまうようなものだ。

億劫になると、まずとっかかりが遅くなる。始めるまで30分ぐらいグダグダと無駄な時をすごす.はじめても30分もすると「疲れた!」と言って休む。その休み時間がどんどん長くなる。

おまけにキーボードの調子が良くない。「U」が空押しになる。いっそ外付けのキーボードを買うか、パソコンそのものを買い換えるか。


閑話休題

そういえば閑話休題ばかりだ。

そもそも俺は何を書いているんだっけ…

コスタリカは日本だ。ヒラメのように這いつくばって上ばかり見ている。中米の中でうまい汁を吸って、紳士然としている。

軍隊をなくしたとか平和憲法とか美しいことは言うが、アメリカの手代だ。アメリカの傘に頼って、一方では隣国を見下している。

ただ日本の場合はしっかりした民主勢力があって、平和憲法を守ってきた。コスタリカの場合はそういう民主勢力とか激しい闘いというものはなかった。

だから新たに進出した拡大戦線の青年たちは、階級闘争の激烈さに戸惑っているようだ。

そんな感じが、このインタビューにはよく出ている。

「めげるなよ、お嬢さん!」


4月8日(2014) Counterpunch

マライア・フローレス・エストラダとのインタビュー

コスタリカの選挙からの教訓

by LAURA CARLSEN

コスタリカでの2月2日の選挙の結果は、中米諸国の左翼に冷水を浴びせるものとなった。

少なくとも左翼は2位になると確信していた。そうすれば4月の決選投票に進めるのだ。しかし左翼「拡大戦線」のビジャルタは3位にとどまり、レースから脱落した。

(訳注: コスタリカの大統領選挙は二次投票制になっていて、1位が過半数に至らなければ1位と2位の間で決選投票が行われる。今回の選挙は中道右派の現与党、中道左派、左翼の三つ巴となった。世論調査では左派候補が優勢だった)


ファイナル集計によるとの得票率はわずか17.3%だった。与党候補のジョニー・アラヤが29.7%、そしてなんと市民行動政党(PAC)のソリスが 30.6%もとったのだ。

選挙日の何週間か前に、世論調査はリードしているビジャルタを示した。ソリスはかろうじて顔をのぞかせる程度だった。

ビジャルタ有利の情報は、コスタリカの政治に激震をもたらした。

(訳注: ここまで冒頭の記載は、事情に通じていないものには分かりにくいだろう。コスタリカの政権はここ20年間PLNという政党が握ってきた。今回の選挙も当初は与党楽勝と見られてきた。しかし失業と貧困化への怒りが国民の間に高まり、それに乗って36歳の左派候補が一気に首位に踊りでた。この世論調査に慌てた企業・マスコミは、与党候補では勝てないと見て、中道左派の弱小候補を支援する大キャンペーンを展開した。これにより、選挙本番では“予想外”の結果がもたらされた。つまり、二つの“予想外”が重なっているのである)


予想外のもう一つの動きが、3月5日におこなわれたアラヤの撤退宣言だった。そしてソリスに無競争での勝利を与えたことだった。

(訳注: この3つ目の“予想外”は前の二つほど衝撃的ではない。企業・マスコミはソリスを選んだ以上、ソリスとの不必要な摩擦を避けたのである)


編集部は、拡大戦線の法律顧問で、選挙コーディネーターを務めたマリア・フローレス・エストラーダにインタビューを行い、一体何が起こったのか、コスタリカの将来にとって、それがどんな意味を持つのかを質問した。

フローレス・エストラダは、長年の政治家であり、活動家でありフェミニストである。

彼女は率直かつ前向きな自己批判とともに、選挙プロセスの落し穴を強調した。


編集部  義務的質問から始めよう。2月2日の投票結果は驚きであった。これについての見解を知りたい。

我々は思う。もっとすべきことがたくさんあった。

 恐怖のキャンペーン: 拡大戦線に対する「恐怖のキャンペーン」、「拡大戦線は共産党だ」というキャンペーン、「外国の投資に反対し、企業活動や仕事を取り上げる」というキャンペーンだ。

 露骨な選挙違反: 多国籍企業、たとえばAvon、Subwayなどは、拡大戦線に投票しないよう従業員に圧力をかけた。選挙管理委員会ですら、それは法律違反であり犯罪だと判断している。若干のセクターでは、拡大戦線に反対する企業キャンペーンがあった。

 争点ずらしと集中攻撃: カトリック教会や伝道派協会の一部では「中絶推進」派の政党に投票しないようにとの呼びかけが行われた。拡大戦線はそんなことは言っていない。

しかし、たとえば綱領では、必要なケースにおいては中絶することを認めた現行法の維持を求めている。必要なケースとは母体の生命に危険が及ぶ場合であり、また強姦によって妊娠したケースについても議論を求めている。

いずれにしてもこの問題に集中してすさまじいキャンペーンがあり、少なからぬ影響を及ぼした。

 根拠のない楽観論: 我々の側にもいくつかのミスはあった。実際起きたように、世論調査では常に1位か2位を確保していた。どう転んでも決選投票には進出するだろうと見られていた。

しかしそれらの世論調査では常に多くの決めていない層が存在した。そして選挙の最終盤で、彼らは代わりの候補、見栄えのしない、ほとんど支持のない候補へとなだれ込んだ。なぜならメディアが拡大戦線の対抗馬としてスポットライトを浴びせ始めたからだ。

 偽りのオルタナティブ: 彼らにとって、PACは他の二つの悪玉に比べればより無害に見えた。我々からみればPACはある点では進歩的な政党であり、手を組みうる相手だと思う。しかし最終盤になって彼らは旧勢力と組み、我々を攻撃するキャンペーンに仲間入りした。

全てのこれらの要素は一緒に来た。そして有権者の重要な一部がどたんばでPACへ行くようにしむけた。

 歴史的な前進: にもかかわらず、拡大戦線の勝ち得た結果は歴史的なものである。左翼であろうと、進歩的であろうと、フェミニストであろうと、エコロジストであろうと、それらはすべて拡大戦線に含まれるのだが、そういう政党がこんなに票を取ることはなかったし、国会に9議席を確保することもなかった。


編集部  大統領選から国家解放党のアラヤ候補が撤回したが、その背後に何があるのか?

アラヤと国家解放党の公式見解は、4度の世論調査でソリスに打ち勝つのはきわめて困難だということが分かったからだというものである。それが彼の撤回の理由である。

しかし私の見るところ、この撤退宣言には二つの意味があると思う。

第一は、決選投票で本当にどうしようもない最悪の結果をきたすの避けるためだ。それは他の政党との関係が極端に弱体化することになるかもしれない。

第二は決選投票で棄権を増やすことで、PACの合法性を貶めようというものである。、

 ソリス政権への疑問符: すでにPACはPLNとの間で「秩序ある移行」に関する対話に入っているようだ。PLNは「議会において国民合意の推進のためPACと協力する用意がある」と発表している。

確かなことはPLNとPACの間には一連の深いつながりがあるということだ。PACの指導部はソリスや、党創立者のOttón SolísをふくめPLNの出身だ。

例を挙げるなら、2012年にはPACはPLNと議会内連合して税制改革法を成立させている。

 反ネオリベの流れは止められない: この国でますます明らかになっていることがある。それは反PLNの変化だ。そしてこの変化の担い役としてソリスが突然浮上した。これは拡大戦線への「恐怖キャンペーンがもたらしたものだ。

しかしおそらくPACの改革への熱意と能力は、4月6日以降急速に試されることになるだろう。


編集部: 放送・メディアへ行こう、これらは選挙へ大きい影響を与えた。そして、大陸を通じて選挙での主要プレーヤーになった。ここではメディアはどんな役割を演じたか?

反共ヒステリー: マスコミは非常に需要な役割を演じた。すべてのまともな論理を放棄し、ジャーナリステックな客観性のイメージを捨て去った。

たとえば、それ自体は何のニュース価値の無いものも、拡大戦線に都合の悪いニュースに見せかけてカバーした(訳注:電信柱が高いのも、郵便ポストが赤いのも、みんな拡大戦線のせい)。投稿記事では拡大戦線反対の意見ばかりが取り上げられた。イラストには「槌と鎌を持つ巨人」(訳注:旧ソ連の象徴)が繰り返し描かれた。

「ラ・ナシオン」紙(訳注:コスタリカ最大の民間紙で日本の朝日に相当)でのケースだが、多くの賞を獲得した花形の調査記者Giannina Segniniは、このキャンペーンに抗議して辞職した。

マスコミの一体化: 伝統的に、「ラ・ナシオン」紙はウニメール社の世論調査を発表している。この会社の調査がもっとも信頼性が高いと考えられているからだ。今回、「ラ・ナシオン」紙はウニメール社の最終調査結果の発表を拒否した。その調査では拡大戦線が決選投票に進むことを示していた。

これがまさに1月中旬に起こったことである。そしてそれから「ラ・ナシオン」紙は広範なメディアキャンペーン(訳注:読売、産経、日経)に参加した。PACは天まで持ち上げられ、拡大戦線の候補はゴミ扱いされた。そしてPACの支持率は上昇し始めた。

マスメディアは、変化に対する反動を強め、伝統的保守派の役割を演じた。

ネットの役割は大きい: いっぽう、ソーシャルネットワークは連絡と交流を強める上で重要な役割を果たし、選挙キャンペーンを発展させた。それは疑いなく拡大戦線の成長を助けた。もしソーシャルネットワークがなかったら、もし我々が単にマスメディアによって伝えられる情報だけに頼らなければならなかったら、おそらく我々はもっとひどい選挙結果を受け取ることになったろう。


編集部: ここ数年、コスタリカは世界でその役割を変えた。それはひとつはアメリカの麻薬戦争という名の軍事作戦に門戸を開放したことによるものであり、もうひとつはCAFTA(中米自由貿易協定)に加え、環太平洋条約(TPP)に署名したことだ。これらの地政学的論点は選挙において重要だったのか。そして、我々は将来この領域において何を予想することができるか?

現実性においては、それは大きい論点ではなかった。TPPはいま問題になり始めている。大統領が署名して、事態が動き始めてから、ビジネス・セクターから、とくに産業会議から反対論が出てきて、我々が気付き始めたということだ。

コスタリカでの外国の直接投資は多くの雇用を生じている。公的分野の雇用も促進されている。それは国内市場における雇用よりも高給だ。

私の個人的意見だが、自由貿易地域の人々の多くがPACに投票している。彼らは恐れているのだろうと思う。宗教的、文化的問題はさておいても、失業者があふれているこの国で仕事を失うことが怖いのだ。

それは敏感なものであると思う。外国の直接投資(基本的にアメリカ)が逃げるかもしれないと考えれば。

PAC政権もコスタリカの地政学的位置を変えるとは思わない。多分チョットした微調整ということになるだろうと思う。

たとえば、PACは新しい税を自由貿易地区に置こうと提案していた。しかし選挙になるとそれを引っ込めてしまった。


編集部: あなたは拡大戦線がフェミニスト政党であると述べた。そして女性の権利を掲げている。それは「恐怖キャンペーン」の攻撃対象の一つとなった。政治状況の変化は女性の権利に対してどのようなインパクトを持つのか?

実は、私はそれが非常に難しいと思っている。政権は変わったが、新しい議会の基本的政党構成はあまり変わっていない。

拡大戦線は8倍にその存在を増やした。しかし、問題は拡大戦線の中にさえ性と生殖、同性愛の権利について保守的な議員がいる。

前の議会よりもっと公然と保守的な議会を持つことになると、私は思う。この問題を論争ではっきりと取り上げたことで、宗教グループが動員され溝が深まった。

コスタリカの社会はこれらの問題について非常に保守的であり続けるであろう。あらゆる政党内で、保守的な考えが支配している。

拡大戦線では全ての代議士が綱領によって行動する。それは有権者に対する責任である。だから女性の権利と人権に賛成して一般に行動しなければならない。しかし我々は代議士の一部が実際問題としてふるまう方法を見ている。


編集部: 国が直面する主な問題は何であるか? 雇用に加えてだが

失業と不平等と貧困: 私は不平等と貧困の問題と考える。それはコスタリカで過去30年の間用いられた開発モデルによって発生・成長した問題だ。

以前、コスタリカはより平等主義の社会であった。それを理想化するつもりはないが。しかしペルーなどのラテンアメリカの他の国では、かつて著しい不平等の下にあったが、いまやそれは改善されつつある。その間、コスタリカは悪化を続けた。

機会均等のメカニズムの破壊: 人々のためにより多くの機会均等を許す社会動員メカニズムは壊れてしまった。貧困は増加する傾向にある。過程という重要なセクターが貧困の淵にある。このままインフレーションが増加するならば、それらは貧困者の資格を得る事になるだろう。

貧困と失業の経済の状況は、国が直面する主な問題である。

国内市場と中小企業の重視を: 国内の市場を支えて、外国の直接投資ではなく、国内市場の中小企業の仕事をつくる意志がないのなら、多くの矛盾と対立が生まれるだろう。


編集部: 次のステップはどんなものになるだろうか。拡大戦線は議会活動を展開するだろうが、それだけではなく、これからの選挙に向けどのように社会を動員するかという課題も含めて話してほしい。

一般に、私は難しいと思う。 我々は非常に微妙な経済環境にある。失業率は高止まりし、外国の直接投資は減少している。したがって人々は職を失うことに非常に恐怖を感じている。

私は、議会はより保守的になると思う。私の主な懸念はPACが公共雇用を減らそうとすることである。それはビジネス部門と国際組織の明確な要求である。

PACは未知の要因である。経済と文化的な問題では保守的で伝統的だ。しかし進歩的なセクターもある。しかし、進歩的な部分は少数派であると思う。

私は思う。今は運動にとってつらい時期である。私は想像する。微妙な経済的環境のもとで、より多くの闘いとより多くの対立がやってくると。



英語版Wikipediaでは簡単なBiographyのみ。

Jose' Mari'a Villalta Florez-Estrada

1977年サンホセ生まれ。弁護士。環境主義者。政治家。2010年に国会議員に当選。今度の選挙まで、「拡大戦線」選出の唯一の国会議員であった。

1998年に学生連合の執行委員となり政治経歴を開始。民主勢力党(Partido Fuerza Democrática)のホセ・メリノ議員、市民行動党(Partido Accion Ciudadana)のヘラルド・バルガス議員の秘書を歴任する。

2002年にホセ・メリノとともに「拡大戦線」を結成。2006年の選挙でサンホセ選挙区から立候補し当選する。


これで終わり。References もスペイン語ばかり。

とにかく情報が乏しい。左翼系のネット・ニュースは殆どなくなってしまった。

私の情報は80年代で途切れている。

元の共産党である人民前衛党は、社会党主流派、「人民革命運動」の合法活動派とともに「人民統一」を形成した。国会議員も送り出している。

それが消えたあと、おそらく民主勢力党へとつながっていくのだろうが、確たる証拠はない。

 

逆に、ホンジュラスのセラヤは保守派として大統領に就任したあと左旋回した人物だ。

一般にラテンアメリカでは「左翼」というのはポジティブ(プログレッシブ)なイメージを持たれている。選挙用のイメージとして用いられることも多い。

それにしてもチャベスの当選のあと一気に「左翼」政権が増えていることは間違いないであろう。

Elections of Left or Center-Left Presidents in Latin America, 1998-2014

大統領
1998
ウーゴ・チャベス
ベネズエラ
1999-2000
リカルド・ラゴス
チリ
2000
ウーゴ・チャベス (再)
ベネズエラ
2002
ルイス・イグナシオ・ルーラ
ブラジル
2003
ネストル・キルチネル
アルゼンチン
2004
タバレ・バスケス
ウルグアイ
2005
エボ・モラレス
ボリビア
2005
ホセ・マヌエル・セラヤ
ホンジュラス
2005-2006
ミシェル・バチェレ
チリ
2006
ラファエル・コレア
エクアドル
2006
ルイス・イグナシオ・ルーラ (再)
ブラジル
2006
ダニエル・オルテガ
ニカラグア
2006
ウーゴ・チャベス (再)
ベネズエラ
2007
アルバロ・コロン
グアテマラ
2007
クリスチーナ・フェルナンデス
アルゼンチン
2008
フェルナンド・ルーゴ
パラグアイ
2009
ホセ・ムヒカ
ウルグアイ
2009
マウリシオ・フネス
エルサルバドル
2009
エボ・モラレス
ボリビア
2010
ジルマ・ルセフ
ブラジル
2011
オジャンタ・ウマラ
ペルー
2011
ダニエル・オルテガ (再)
ニカラグア
2011
クリスチーナ・フェルナンデス (再)
アルゼンチン
2012
ウーゴ・チャベス (再
ベネズエラ
2013
ミシェル・バチェレ (再)
チリ
2013
ニコラス・マドゥロ
ベネズエラ
2014
サルバドル・サンチェス・セレン
エルサルバドル
2014
ルイス・ギジェルモ・ソリス
コスタリカ

 

 

結局、長谷部、香川、大迫はもう使わないということでしょうかね。
しかし雨でスタミナ切れで負けたんだから、ご破算にするしかないんでしょうね。
悲しいかな、日本人は体格で劣っているのだから、こういうバトルでは勝てるわけ無いでしょう。
「勝負は時の運」でいいんじゃないですか。
メディアは「腹を切れ」と言わんばかりですが、
昨日までサッカーなんか見向きもしなかったような連中が、そんなこと言っちゃいけません。
そんなことより、好投のメンドサを見殺しにするファイターズ打線のほうがはるかに問題です。
とにかく内直筋とハムストリングを鍛えろよな。
上半身の筋肉なんぼ鍛えてもダメだというのは、鵜久森見ればわかるだろう。

コスタリカの大統領選挙がなかなか面白かったようだ。

コスタリカについては、日本の民主勢力の中に熱狂的なフアンがいるのでうかつなことは書けないが、基本的には親米右派が掌握してきた国である。

外交的には、白人優位であることを背景にしてイヤミな態度をとり続けてきた、いけ好かない国だ。


そのコスタリカで、女性大統領チンチジャが任期満了したことに伴い、2月に総選挙が行われた。

与党国民解放党(PLN)からは、首都サンホセの市長を長年勤めたジョニー・アラヤが立候補した。これに対して中道左派の最大野党市民行動党(PAC)からはルイス・ギジェルモ・ソリスが立った。

ソリスはPLNの元書記長である。PLNには民族主義的要素があり、PACは70年代のオドゥベル大統領の流れをくむPLN左派と考えればよいだろう。

当初はアラヤ楽勝と思われていた。

しかし直前の世論調査は驚くべき結果を出した。最大野党PACを飛び越えて紛れもない左派の「拡大戦線」(FA)候補ホセ・マリア・ビジャルタ(36歳)がトップとなったのだ。

メディアはしゃかりきとなった。ビジャルタをチャベスやニカラグアのダニエル・オルテガと結びつける反共キャンペーンが展開された。

あちらのメディアは遠慮がない。日本で言うと読売と産経と日経しかない。ダニエル・オドゥベル・キロスとの対話 を参照のこと。

2月の第1回投票ではソリスが30・64%を確保して、トップの座を維持した。アラヤ29・71%、ビジャルタ17%だった。

しかし実はこれはソリスが勝ったのも同然の結果だった。FAはソリス支持に回った。他の野党も勝ち馬に乗ろうとソリス陣営になだれ込んだ。

3月末、決選投票に向けた世論調査で、ソリスの支持率は約64%に達した。世論の地すべり現象が起きたわけだ。これに対しアラヤは第1回投票の得票率を大幅に下回る約21%に落っこちた。

これを見たアラヤは、決選投票前に早々と敗北宣言を出した。「国民の意思は政権交代にさらに傾いており、この傾向を逆転させる時間も資金もあまりに限られている」というのだ。

こうして、コスタリカで初めて、新自由主義モデルに異議を唱える大統領が生まれることになった。

なお、2月に同時施行された国会議員選挙(定数57)では、PLN 18、PAC 13、FA 9、PUSC 8議席となり、旧与党が引き続き最大議席数を確保した。新与党PACはFAと合わせても過半数には届かなかった。

FAは勢いを駆って1議席から8議席に躍進したが、これから厳しさを増す反響攻撃や市民的な組織基盤を考えると、今後かなりの困難が待ち受けていると覚悟しなければならないだろう。

背景

コスタリカは中米の中でも、比較的高い生活水準が保たれてきた。それは中米における安定した反共の防波堤としてアメリカが積極的に投資を行い、育成してきたからだ(中米のイスラエルとまではあえて言わないが)

しかし近年、新自由主義を積極的に導入した結果、貧富の差が拡大し社会政策が後退し、「コスタリカの中米化」ともいわれる問題が起きて来た(赤旗の評価)。

前政権下で、公共投資をめぐる汚職事件が続いたこともあり、PLNなど伝統的与党の評価は急下降している。

2002年総選挙ではPLNとPUSCの二大政党制がくずれ、PACが第三勢力として台頭した。PACは新自由主義政策が失業や貧困をもたらしたと批判し、自由貿易協定拡大方針の見直しとオルタナティブ・モデルの採用を唱えた。

2010年選挙では、この傾向がさらに進んだ。PACが11議席を獲得し第二党に躍進する一方、かつての二大政党の一つPUSCは6議席の弱小政党に転落した。

また04年にはホセ・メリノらが、左派勢力を糾合し「拡大戦線」(FA)を結成した。FAは07年の米国との自由貿易協定(TLC)反対闘争を担った青年が加入することで急成長した。


といったあたりが、日本語で読める情報。

後は英文で、ホセ・メリノ、拡大戦線、ホセ・マリア・ビジャルタ、ルイス・ギジェルモ・ソリスあたりを検索すれば良いということになるが…

まぁ、とりあえず与党崩れのPACに「雨宿り」というところか。それでもフィゲーレス以来60年の「リベラル保守」に決別したという意味では大きいが、拡大戦線がどれほどのものかというのが興味の焦点だろう。

*これは第一報で、評価はゴロッと変わります。



ソ連戦死者数をめぐる議論について

国防省と科学アカデミーの報告に対しては「少なすぎる」という意見が圧倒的である。せりのように人数が増えていって、最大のものは4千数百万までせり上がっている。

率直にいってまともな議論が行われているようには思えない。

この手の「逆大本営発表」は、歴史ではよく経験する。侵略者がいかに極悪非道かを宣伝するために、犠牲者数は水増しされる。逆にゲリラ闘争の成果を発表するときには戦果は何倍にも水増しされ、「わが方の損害軽微」と付け加えられる。

アジビラの文章ならそれでいいが、あたかもそれが歴史的事実であるかのように教科書にまで書き込まれるようになると、「ちょっと待てよ」ということになる。

例えばグアテマラ、エルサル、チリなどでは、軍事独裁政権が終わってから和解委員会とか真実委員会などが作られ、実証的な検討が行われている。

ここでの経験から言うと、だいたい犠牲者数の数は十倍に膨らまされている。仕方ないのだ。そういうものなのだ。死んだ人間の数なんてそもそも数えるべきものじゃないのかもしれない。人の命の価値なんてものは計り知れないのだから。

どのくらいの人が死んだのかを示す、もっともマクロで信頼できる資料は国勢調査だ。住民登録や戸籍による追跡は、それが正確であればより精細だが、情勢激変時には確実性が低くなる。

例えば広島の被害を知ろうと思っても、戸籍や住民登録台帳は綺麗に燃えてしまっている。原発で避難した福島の町だって、紙の上だけの町民はいずれ音信不明の幽霊人口になると思う。

ソ連の場合1941年6月の国勢調査と1946年1月の国勢調査が比較できる。それが戦死者2600万人の最大の根拠だ。

ただし1946年1月の国勢調査の信頼度が問題となる。おそらくかなり多数の人々が被占領地域から非占領地域に疎開していたと思う。それがどの程度46年初頭の段階で捕捉できていただろうかという問題だ。

つまり、常識的に見て、戦死者数は2600万人を下回ることはあっても上回ることはないはずだ。4千万人とか言われると、それだけで「その調査は信頼出来ないな」ということになる。

歴史的経験から見て、人間は従容として死を待つということはない。たいていは逃げる。アフガンでもイラクでもシリアでも必ず人々は逃げる。

そうやって逃げた人のうちのどの位が転居先で転居届を出して住民登録して、国勢調査を受けたかという歩留まりがそこには反映されると思う。その分は“死者”の数から割り引かなくてはならない。

私の推測としては、消えた人口の多くはどこかで生きていたのではないかと思う。半分としても十分多い。

南京大虐殺もそうだ。私は虐殺の存在自体は否定しないが、犠牲者の数は60万ではなく6万前後かと見ている。偕行社の編集者の言う如く、それでも立派な大虐殺だ。

切ったり刺したり、機銃掃射したりして殺せる人間の数には限りがあると思っている。とくに正規軍組織は爾後占領下の統治と治安の維持に当たらなければならないのだから、組織としての正統性が要求される。さすがにジェノサイド的行動までは出来ないと思う。(直接痛みを感じない砲撃や爆撃・雷撃は別だが)

ルワンダやカンボジアの大虐殺には、狂気のパラミリタリー組織や大衆参加という別のメカニズムが働いていると思う。


ソ連の戦死者数の異常な多さについて

ノモンハン事件のところで、ソ連側の戦死者が異常に少ないことが気になっていたが、その後ソ連崩壊後の資料で実は2万人の戦死者を出していたことが判明した。

ソ連が戦死者の数を意図的に操作していることがわかったので、今度は逆に、東部戦線での戦死者数の異常な多さについて気になり始めた。

とりあえずグーグルであたってみるが、Q&A の記事にはろくなものがない。

ウィキペディアにはいくつか参考になる資料が提示されている。

まずは本文から。

1.グラスノスチ以降出された史料によれば、2180万~4600万が死亡した。

2.ロシア科学アカデミーは1993年に2660万と発表、これがロシアの公式数値でもある

3.1993年にロシア国防省のG. I. Krivosheevの発表では、ソ連軍の死者数は8,668,400人であった。

4.S. N. Mikhalevはこの公式発表は不十分な計算で、ソ連軍死者数10,922,000人であると述べている

5.ロシア国防省中央資料館のS. A. Il'enkovは、ソ連軍死者数は1385万とした

しかたがないので英文で探す。

World War II casualties of the Soviet Union という項目があった。 いかに大要を紹介する。

はじめに

ソ連の第二次世界大戦犠牲者は軍・民間合わせ2千万人前後とされている。しかしこれらの数字は、現在論議の対象となっている。

ソビエト時代、犠牲者に関する情報は極秘扱いであった、グラズノスチの時代にいくつか情報が発表された。

1993年に、ロシア科学アカデミーはソ連の大戦による総死者を2660万と見積もった。またロシア国防省は軍の死者870万という数字を出している。

Total Soviet losses by demographic balance (1941–45)
Population in June 1941 196,700,000
Births during war 12,300,000
Death by natural causes during war (11,900,000)
War related deaths during war (265,600,000)
Total population Jan. 1, 1946 170,500,000

これらの数字はロシア以外の大部分の歴史家によって受け入れられた。しかしロシア国内では、これは中央国防省の公式のデータベースと矛盾すると異議が出されている。

国防省資料では、死亡および行方不明合わせおよそ1400万人の将兵の名があげられているというのだ。

ロシアの独立した研究者は、一般人と軍隊あわせ4000万以上という数字を出している。

本論文は、これらの数字について論じているソースを明らかにしていく。

軍の損失

Krivosheevの分析

1993年にロシア国防省のKrivosheev将軍らの提出した報告は、第二次世界大戦のソビエト軍の犠牲者を評価している。

彼らの分析の出典は、ソ連時代に秘密とされてきた the field and other archive documents であった。そこには1966-1968に作成された参謀本部報告がふくまれる。

この報告は死者・行方不明者数を870万としており、この数字は各所で引用されている。

Soviet World War II military casualties 1939-1945
Dead and missing Wounded and sick
World War II 1941-1945 8,668,400 22,326,905

しかし、Krivosheevの分析は、ロシア国内の独立した研究者によって議論の対象となっている。

Military dead and missing (1941–45)

KIA(Killed in action) or died of wounds

6,329,600
Noncombat deaths (sickness, accidents,etc.) 555,500
Subtotal KIA, died of wounds and Noncombat deaths 6,885,100

MIA(Missing in action) and POW (Prison of war)

4,559,000
Total operational losses during war 11,444,100
Less:Missing later Returned to Duty (939,700)
Less:POWs returned to USSR (1,836,000)
Total irrecoverable losses (from listed strength) 8,668,400

Casualties of Soviet Forces 1941-1945 According to Field Reports

Description Irrecoverable Losses Wounded & Sick Total Losses
1941 3rd Q 2,129,677 687,626 2,817,303
1941 4th Q 1,007,996 648,521 1,656,517
1942 1st Q 675,315 1,179,457 1,854,772
1942 2nd Q 842,898 706,647 1,549,545
1942 3rd Q 1,224,495 1,283,062 2,507,557
1942 4th Q 515,508 941,896 1,457,404
1943 1st Q 726,714 1,425,692 2,152,406
1943 2nd Q 191,904 490,637 682,541
1943 3rd Q 803,856 2,060,805 2,864,661
1943 4th Q 589,955 1,567,940 2,157,895
1944 1st Q 570,761 1,572,742 2,143,503
1944 2nd Q 344,258 965,208 1,309,466
1944 3rd Q 510,790 1,545,442 2,056,232
1944 4th Q 338,082 1,031,358 1,369,440
1945 1st Q 557,521 1,594,635 2,152,156
1945 2nd Q 243,296 618,055 861,351
Campaign in Far East 12,031 24,425 36,456
Subtotal Operational Losses:Army & Navy 11,285,057 18,344,148 29,629,205

この後Krivosheev報告の詳しい説明が続くが省略する。

民間人犠牲者についてはロシア科学アカデミーの報告が基準となっている。

Soviet civilian war dead estimated by Russian Academy of Science
Deaths caused by the result of direct, intentional actions of violence 7,420,379
Deaths of forced laborers in Germany 2,164,313
Deaths due to famine and disease in the occupied regions 4,100,000
Total 13,684,692

Krivosheev 報告への批判

1.捕虜となった死亡者

Krivosheevはソビエト軍のPOW570万人のうち死者を128万人としている。

しかし、西側の歴史家のほとんどは、300万と見積もっている。

ロシアの研究者Vadim Erlikmanはソビエト軍の死者を1060万としている。彼はソ連軍死者には徴兵された予備役兵150万、兵役年代であったために捕虜として扱われたもの、民兵15万、パルチザン25万が加えられるべきとする。

しかし、Krivosheevは、これらの数字を民間人犠牲者の枠に取り込んでいて、それが300万と128万の差だろうと考えられる。

2.被徴兵者数の再検討

2000年にMikhalev は公認のロシアの戦時犠牲者数に批判的な文章を発表した。彼は1989 から 1996年に国防省の戦史研究所に勤務していた。

彼は実際のソビエト軍の戦没者を1090万人以上と推定した。そして公認の数字が低すぎると主張した。

Mikhalevは2660万人の戦没者の公認の数字は確定的ではないという。

1995年にロシア科学アカデミーは戦争の前と後の人口から推定した戦死者の数字を発表した。全体の戦没者2356万8000人(中央値)とされた。

ロシアにおける非公式な研究

上記の批判はいずれも細部の計算式等の問題点を衝くもので、本質的な相違はないと考えられる。

これに対してより大胆な批判を展開するものもある。

ビクトル・ツェムコフ

ビクトルツェムコフは、公認の数字について論ずる、

彼は、戦争による人命の喪失は統計学的に見て2千万人だと主張する。その内訳は、直接死が1600万、戦時の生活状況の悪化のための死が400万だとする。

ツェムコフによると、科学アカデミーの2660万人という数字は、戦前の死亡率より高めのおよそ700万の自然死を含む。

さらにツェムコフは、Krivosheevによって出された870万人の軍の死者という数字が実際には間違っていたと主張する。

ツェムコフは、実際の軍のロスが400万人の捕虜を含めて約1150万人と考えている。

また、政府の非常事態委員会によって出された被占領地民間人死亡者数680万人という数字を誇大だと評価する。なぜならそこには後部地域に疎開した人の数がふくまれているからである。

彼は民間人犠牲者の正しい数は450万人だと考えている。その数はナチの犠牲者、あるいはドイツ占領地域で闘い殺された人の合計である。

ツェムコフはまた、ドイツでの強制的労働による民間人死者が210万人という政府の数字にも、ドイツの戦時記録に正確に依拠していないと疑問を投げかける。

 Igor Ivlev and Boris Kavalerchik

この二人はKrivosheevの数字の2~2.5倍の犠牲者があったと主張する。すなわち戦争による総ソビエト損失は3850万人、内訳は軍が2060万人、民間人が1800万人というもの。

昨日の戦死者ランキングは、不正確かもしれない。

例えばビルマ戦線での戦死者は日本軍だけで16万人だが、そのほとんどはインパール作戦によるものであろう。

フィリピンの攻防戦では、一つの戦闘としては括れないが、日本軍は50万人の戦死者を出している。連合軍と民間人を加えれば優に100万人を超えるだろう。

フィリピンの日本軍戦死者は、支那事変以来12年にわたる中国本土における戦死者45万人を上回っている。いかにすさまじい戦いであったかがわかる。

この他、ニューギニアで20万人、サイパン・テニアン・グアムなどで20万人が戦死しており、この4つで全戦死者の7割を占める。サイパンなど、島が日本兵の死体で出来ているといってもいいくらいの密度だろう。

県民10万を巻き添えにした沖縄の闘いでは戦死者9万人、硫黄島の戦いでは戦死者は2万人である。

どのくらいの期間までひとつの戦闘に含むかというのはなかなか難しい。ウォータールーの会戦のように1,2日で終了する古典的な会戦に絞ればまたランキングも変わってくるだろう。

ランキング作成者としては、あまりまじめに拾うと、すべて第二次大戦中の戦闘になってしまうので、意識的に落ちこぼしているのかもしれない。

それにしても、一発のピカドンで沖縄並みの20万人が死んでしまう原爆の威力というものはすさまじい。あまりにも想像を絶して理不尽だ。

長崎大学の高倉泰夫さんという人が、「資本蓄積と信用制度あるいは金融システム」という文章を書いている。宇野派の人らしい。

ちょっととりとめのない文章だが、問題提起としてはわりと面白い。

これまでの定説では

重商主義-自由主義-帝国主義という資本制経済の発展段階が想定されていた。そしてで帝国主義の基礎を形づくる金融資本についてドイツを「典型的なもの」としていた。

最近では、ドイツ・イギリス・アメリカでの生産諸力の発展と金融資本のあり方の違いとの関連を重視するようになっている。

それはとくに、1980年代から顕在化してきた「金融主導型蓄積体制」の諸特徴の理論化へ寄与するという問題意識と関連している。

ということで、すでに実質的に放棄しているレーニンの「帝国主義論」をしっかり総括しようというものだ。

たしかに、80年代に「全般的危機論」の破産を宣告したとき、我々はその理論的基礎である「帝国主義論」や、さらにその基礎であるヒルファーディングの「金融資本論」やホブソンを無意識の内に放棄したのであるが、それは意識的な作業ではなかった。

だから、資本主義が独占資本主義になり、その担い手が銀行を頂点とするコンツェルンであるという「テーゼ」の上に、それと国家が癒着した「国家独占資本主義」というカテゴリーが乗っかり、それが資本主義の最後の段階だ、革命の日は近いというふうな指導が一般的だった。そのような図式的理解はなし崩し的にチャラになったが、それが誤りだったとか不十分だとか、不適切だったとかして精算された記憶はない。

今日では、コンツェルン的な発展形態は、むしろ遅れて発達した国が、絶対主義的国家のもとでキャッチアップしようとするときの特殊な形態とする見方が一般的だろう。それは第一次大戦前のドイツで典型的であったが、やがて日本に受け継がれ、今では韓国が典型となっている。

国家独占資本主義という概念は、今ではこのような独占資本主義の特殊な形態と結びつけて考えらる。イギリスでの独占資本主義はそのような形態はとらなかった。国家独占資本主義は、独占資本主義のさらなる発展形態ではなく、その奇形的発展形態といっても間違いないだろう。

学生の頃「帝国主義論」の学習会をやると、独占資本の形態としてカルテル、トラスト、コンツェルンという3つがあげられた。それはいいのだが、その3つがまったく相互の相違や必然性や方向性が示されることなく並置されるのには著しく違和感を覚えた記憶がある。独占の結合の深度としては明らかにカルテル→トラスト→コンツェルンでなくてはならない。しかしそのような矢印はなかった。

レーニンという人はかなり強引な人だが、その彼にもさすがに矢印をつける度胸はなかったのであろう。もしつければ、それは英米両国が独占資本主義の発展において遅れており、ドイツこそが世界の先端を走っているのだというドグマに至ることになるからだ。

マルクスは「信用制度は社会主義への一歩前進だ」としている。それは間違いない。ただそれと金融資本・独占資本・国家独占資本という概念のあいだには埋めるべき隔たりが存在している。

戦死者ランキングを一口解説しておく。

ルジェフの戦い: モスクワ近くまで進行したドイツ軍に対してソ連軍が行った反撃。正式には第二次ルジェフ会戦と呼ばれる。ソ連軍はドイツ軍戦線を突破できず大敗北を喫した。ソ連は長きにわたってこの会戦の存在そのものを否定してきた。

ソンムの戦い: 連合国側(英・仏)のドイツ軍に対する大攻勢。フランス北部のソンム河畔で行われた。戦車や航空機も投入された。 いずれの側にも決定的な成果がないままにおわる。

スターリングラードの戦い: 史上最大の市街戦といわれる。60万を数えたスターリングラードの住民はわずか9796名に激減。ドイツ陸軍総兵力の4分の1にあたる150万人が戦闘不能となる。

上海の戦い: 第二次上海事変を指す。ドイツ軍の指導を受けた蒋介石軍が上海租界を砲撃。日本軍は各国の停戦案を無視し大軍を投入。その後の戦闘で蒋介石軍主力が壊滅するが蒋介石はさらに抵抗を継続し日中戦争につながる。

バルジの戦い: バルジは地名ではなく英語で「出っ張り」の意。アルデンヌ地方で闘われたためアルデンヌ攻勢とも呼ばれる。多くの戦記を見ても、連合軍側がどこで多大の犠牲を出したのかは良くわからない。

ワーテルローの戦い: 12万の兵力を率いて出陣したナポレオンがベルギーのブラッセル近郊で英(11万)・普(12万)連合軍と闘った。ナポレオン軍は英軍と正面戦を行う間にプロシア軍に側面を衝かれ壊滅した。

ノモンハンの戦い: 関東軍が、圧倒的なソ連軍に無謀な地上攻撃を繰り返し、そのたびに殲滅された。ただしソ連崩壊後、ソ連軍の損害も2万人にのぼっていたことが明らかになった。

ケーニヒグレーツの戦い: ボヘミア中部でプロイセン軍(32万)がオーストリア軍(40万)を撃破した。ウィキペディアでは、プロイセン軍の死傷者9千人、オーストリア軍の死傷者約2万4千人、捕虜2万人となっている。

ビックスバーグの戦い ゲティスバーグは有名だが、その前後40日にわたるミシシッピ河畔の砦の包囲戦。ビックスバーグはデービス南部大統領出身地。

戦死者ランキングという頁がある。

けっこう知らない戦闘がたくさんあるので紹介する。

1位 ルジェフの戦い(1942年) 

戦死者:189万149人(ドイツ軍:78万人|ソビエト軍:111万149人)

2位 ソンムの戦い(1916年)

戦死者:122万人(イギリス連邦軍:42万人|フランス軍:20万人|ドイツ軍:60万人)

3位 スターリングラードの戦い(1942年)

戦死者:72万741人(枢軸国:25万人|ソビエト軍:47万8741人)

4位 上海の戦い(1937年)

戦死者:22万人(中華民国軍:15万人|日本軍:7万人)

5位 関ヶ原の戦い(1600年)

戦死者:10万2000人 (東軍:3万人|西軍:7万2000人)

6位 バルジの戦い(1944年)

戦死者:8万5000人 (連合軍:4万2000人|ドイツ軍:4万3000人)

7位 ワーテルローの戦い(1815年)

戦死者:6万3000人 (フランス軍:4万人|プロイセン&英国連合軍:1万5000人)

8位 ノモンハンの戦い(1939年)

戦死者:5万9831人 (ソビエト軍:4831人|日本帝国軍:5万5000人)

9位 ケーニヒグレーツの戦い(1866年)

戦死者:4万5000人 (プロイセン軍:1万5000人|オーストリア軍:4万人)

10位 ビックスバーグの戦い(1862年)

戦死者:3万7000人 (北軍:4855人|南軍:3万2697人)

11位 ゲティスバーグの戦い(1863年)

戦死者:6655人 (北部連邦軍:3155人|南部同盟軍:3500人)

12位 ディエンビエンフーの戦い(1954年)

戦死者:6313人 (ベトナム:軍4020人|フランス軍:2293人)

「韓国のネット掲示板に「戦死者数が最も多かった戦闘」というスレッドが立っていたのでご紹介」とあるのを転載した。(カイカイ反応通信

伝説の戦闘や眉唾ものについては割愛している。

とりあえず、グーグルで「戦死者ランキング」と入れて検索した時に最上位にきた記事。これからそれなりに検証していく。

日本の集団的自衛権受け入れは、米軍事筋の至上命題

集団的自衛権の容認と海外出兵は、憲法との関連で語られることが多い。当然それは正しいのだが、もうひとつの議論も必要なのではないか。

つまり、集団的自衛権を持つことは日本の安全保障に役立つのか、それで日本が守れるのか、少なくとも守りの役に立つのかという議論である。

1.中東情勢と日本への期待

日本に集団的自衛権を受け入れさせることは、米軍事筋の至上命題なのだろう。アーミテージも一連の発言も、常にここにターゲットがあてられている。

安部首相が96条改正に精力を注いだときは、「馬鹿なことをするな」と忠告している。集団的自衛権と憲法をリンクさせるな、解釈改憲で押し通せというのが「知日派」の意見であろう。

たしかに「自主憲法」などという時代錯誤の標語で、日本国内に護憲派の大きな運動を引き起こしてしまったために、集団的自衛権の導入は大きな困難を抱えてしまった。

アメリカが世界の憲兵であろうとする限り、最低でも1つ半の戦線を維持するだけの戦力を持たなければならない。ところがイラク侵略戦争後、軍は疲弊し、アフガンの維持さえ困難になっている。

シリアでは侵攻の構えさえとれずに終わった。現在のイラクの情勢には到底対応できそうにない。もしこの状況が続けば、戦火がイスラエルに飛び火する可能性はきわめて高い。

特にロジスティックと、間接的戦闘行為(掃海など)で日本のもつ装備・人員は喉から手が出るほどほしい。

これがアメリカの本音だろう。

2.対中姿勢は日本と隔たる

今回、公明党幹部との「極秘会談」に参加したのはキャンベルとグリーンである。キャンベルは民主党で、グリーンは共和党のネオコン。

二人が揃って会談に参加したことで、集団自衛権がアメリカ側の「コンセンサス」であることを強調したのであろう。

アメリカは軍事筋の「コンセンサス」を強調するために、筋目筋目で超党派外交を展開することがある。

その典型が一昨年10月末、尖閣騒ぎの只中での超党派訪中団であった。当時私は見逃していたが、振り返ってみるとこれは大変重要な会談である。

A 派遣の目的は「尖閣諸島を巡り緊張が高まる日中関係の仲介」である

アメリカのスタンスは基本的に中立である。米側はまず、「中立の姿勢を取る」との原則論を示すことから交渉を開始した。

政治用語で言えば「中道右派」である。もちろん情勢が激発すれば、米国は日本側に立たざるをえない。「だから、そういうことをしてくれるな」というのが基本である。

「そういうこと」の具体的内容として、「尖閣問題で武力を背景とした威嚇行為」をあげたのである。

B それは最高級の会談であった

アメリカ側のメンバーは、スタインバーグ前国務副長官(民主党)、ナイ元国防次官補(同)、ハドリー元大統領補佐官(共和党)、アーミテージ元国務副長官の4人。

提案内容はキャンベル国務次官補(東アジア・太平洋担当)が発案した。原案はクリントン国務長官、ドニロン大統領補佐官(国家安全保障問題担当)による検討を経て、オバマ大統領が承認した。

中国側は次期指導部で首相候補とされる李克強、戴秉国・国務委員、楊潔ち外相が対応した。

したがって、そこには尖閣問題だけではなく、米中関係の基本的あり方に対する広範な合意がふくまれている。

C アメリカは切り札を準備していなかった

もし中国が「そういうこと」をしたとしても、それに対する具体的な制裁手段は示していない。「日米安全保障条約に基づいて米国が日本に加担すると明確に伝えた」のみである。

むしろ説得の主眼は「そういうこと」をしなければ、両国間の良好な関係を維持するというところにある。

これがアメリカの「コンセンサス」である。

これに対し、中国側は尖閣国有化宣言に対し「中立化」をもとめたという。

結果として「米国はこれを退けた」とされるが、少なくとも中国側は一定の根拠をもって米国が中立の立場を取る可能性を期待していたことになる。

(尖閣をふくむ琉球諸島を、ポツダム宣言の「付属する島嶼」にふくむか否かの判断であろう。アメリカには“含まれない”と判断して琉球・奄美を「独立」させた過去がある)

3.日本は自らを守らなければならない

A アメリカのアジアでの軸足は日本にはない

この超党派訪問団の前から、米中間の関係強化は着々と進んでいた。包括的な戦略対話が積み上げられていた。

この関係を壊さないということが最大の狙いであった。その上で日米安保の存在を認めさせるということは、かなり難しい話である。おそらく、日本の行方については、現状を現状のままフリーズするということで、合意する他ないだろう。

もはやアメリカのアジアでの軸足は日本にはない。老大国日本は、このまま固まってくれているのが最善なのである。

ただし純軍事的要請として多国籍軍へのより深い関与はあるので、それを中国側に認めさせる必要はある。

この文脈から考えると、集団的自衛権と憲法改正を結びつけることは、アメリカにとって最悪のオプションである。

とにかく米国にとっては、米中関係維持が最大の戦略目標であることは間違いない。これは厳然たる事実である。まずこのことを認めることから出発するしかない。

B 集団的自衛権で日本は守れない

何か右翼めいた言い方になるが、尖閣を守るために集団的自衛権は何の役にも立たない。

誤解を恐れずに言えば、尖閣を守るためには個別自衛権を強化するしかないのである。

個別的自衛権の強化と言っても武力の強化ではない。平和的抑止力の強化である。それは世界を味方につけることだ。

米国が「現状凍結」を希望したとしても、それを中国が順守するとは限らない。むしろ順守しない可能性のほうが大きいだろう。

まずは中国の侵略的行為に対する国際的な世論による包囲を形成することだ。「戦う前に勝つ」ことが、万が一戦いになったとしても、決定的に重要だ。

アメリカとの関係も、よりシビアーに見直すべきだ。それ以外に日本が生き残る道はない。もはや日本は相対的にも絶対的にも大国ではない。アメリカにしゃぶり尽くされれば捨てられる年増芸者だ。


「9条の会」10周年講演会のメッセージが掲載されている。
なかでは韓国の金壇国大学教授の発言が光っている。

今の東北アジアは「敵対的相互依存」の悪循環の罠に陥っています。
中国という敵を作り、敵の威力を強調し、それで民族主義、保守的雰囲気を高め、それで政権の安定を目指す。
中国も、高まる民主主義、民主化の要求を抑えなければならない。
そのために日本という敵を作り、ナショナリズムを引き起こす。
そうすれば互いに敵でありながら、自ら敵に依存する「敵対的相互依存」の悪循環がエスカレートします。
相手への脅威が非常に高まれば、安全保障問題が問われ、そのために憲法を変えるべきだといえば支持率がどんどん高くなります。
韓国も含め「敵対的相互依存」の悪循環から抜け出すためには、市民の論理が、国家の論理・軍事の論理を圧倒すべきです。
そのためにアジアの市民社会が連帯し、アジア市民平和会議を開いてアジア全体の市民的平和憲法を作るべきだと思います。

もちろんこれは発言要旨なので、いくぶん筋道がギクシャクしているが、「敵対的相互依存」という考えは、なかなか斬新なアイデアだと思う。
私は、それぞれの国家と市民社会との敵対関係が、「敵対的相互依存」関係を余儀なくされているところにもっと注目すべきだろうと思う。
「敵対関係」の真の狙いは市民社会(という言葉が適当かどうかわからないが)との「真の敵対関係」をそれぞれの政府に都合よい方向に移すための、マヌーバーなのだろう。
だから連帯というのは、まずそれぞれの政府としっかり闘うこと抜きには存立し得ない。この点では、中国における市民社会の声というものがはっきりしない以上、安易な「連帯」は叫ぶことができないだろう。
さしあたり日韓の民主運動が、それぞれの闘いをもっと具体的に知り、手を携える必要があるのではないか。


根室市に行って泊まれるというのは、根室支店のある会社に勤めるものにしか味わえない喜びだ。
私は釧路勤務の4年間に7,8度はそれを経験した。

根室は北海道のなかではけっこう古い町で、明治のはじめには北海道とは別に根室県というのがあって、その県庁所在地だった。福沢諭吉もきたことがある、というのが町の自慢だ。
町のガタイは相当大きい。「市街地」の端から端までは歩くのがいささかしんどいくらいだ。根室の駅から1丁ほど広い通りを歩いて国道にぶつかる。そこから右に折れて2丁ほど歩くと根室市役所やら根室支庁やらがある。さらにそこから2,3丁歩くと繁華街があり、やがて港に出る。その間にいかにも由緒めいたお寺がいくつかあり、不似合いな洋風の歩道橋があり、立派な構えの造り酒屋がある。
街の至る所に日本語・ローマ字・ロシア語で書かれた標識があり、港には見事なまでに赤茶けたロシア船が停泊している。
高台に立つホテルの窓からは、天気が良ければ正面いっぱいに国後の島が浮かぶ。日頃の行いがよくないせいか、国後が見えたのはただ一度だけ、だからよけいに感激したものだ。
昔はこの街から国後、択捉、さらにその北方の島々にゆく連絡船が出た。カムチャッカでとれたカニを満載した船がつき、日魯漁業の缶詰工場では多くの女工さんが働いていた。
根室は終着駅ではなく海外への玄関口だったのだ。

根室の旨いもの?
あまりないよ。
というのも釧路にすんでいたら、ほとんど代わり映えしないからだ。
もし食べるとすればホッケの焼いたのか、クロガシラというカレイの煮つけかな。花咲ガニというカニが名物だが、かなりくせのある味だから好みは分かれるだろう。駅前に三軒すし屋があってどこもまずまずだが、駅に一番近い店が一番気に入っている。街の方のすし屋はどうも雰囲気が落ち着かない。
街場では居酒屋だが、焚き物を並べているところがあって、ホッケやクロガシラはそこで食べた。市立病院の医者や看護婦のたまりらしい。
だいたいこういう店が旨いのだが、中には一見の客に横柄なところもある。釧路や函館がそうだった。逆に余市や浦河はたいそう良かった。苫小牧でもいい店を見つけた。
考えると、民医連の医者は医者と言っても半分プロレタリアートだから、正真正銘の少ブルであるお医者さんとは趣味は合わない。端的に言えばセコい。それが田舎に行くとその境目が低くなるのだろうと思う。

これではいつまでたっても本題に入らない。
ある日、昼過ぎに仕事が終わった。本日はフリーだ。寝る前に釧路に着けば良い。駅弁を買ってゆっくり食べながら汽車で帰ろうと決めた。(汽車というのが古いですね)

根室の駅には今でも駅弁がある。定番は「エスカロップ」、平たく言えばカツライスだ。いわゆる「サテ飯」の一品だ。ライスはバターで炒めてある。率直に言えば、さほどのものではない。

これを買って、ターミナルの土産屋を見て回るが、ほとんどは道外観光客目当ての物ばかり。
と、店の片隅で一人の男が品物を並べている。
真ん中には大小10個ほどのマトリューシカとサモワール、めのうの首飾り、その脇にロシア民謡のCDが10枚ほどと紅茶の紙包み、香水瓶。壁には模造イコンとサラファンが数枚。

食いつきそうな男の視線から目をそらせながら、「まずはとにかく何かを買うべきだ」という衝動に突き動かされていくつかを買った覚えはあるが、何をどれだけ買ったかについての記憶はとんとない。
多分女性にはこういうことはないだろうが、男はこういう買物をすることが、たまにあるのである。

根室という、北海道民にすら忘れ去られたような街で、そこに外国につながる密かな通路があって、それがウラ寂れた鉄道駅の隣のターミナルの待合室にひょっこりと口をのぞかせていて、そこと買い物という手段を通じて連絡してしまった、そんな感じがするのである。
もし通りすぎてしまっていたら、それはもっとも自然な流れであったはずだが、大げさに言えばそれは一生涯悔いを残すのではないかと、ふとそんな気がしたのである。

多分それは正解だったろうと思う。買ったからこそ、買ったという、買った瞬間からデジャヴとなる、セピア色を帯びた、そういう記憶が今でも残っているのだ。

その男がどういう人だったかも思い出せない。若くはない、かといって私ほど老人でもない、背の低い、汚れてくすんだ黒の革靴を履いた人だったと思う。

それは寅さんではないが、私の影法師としての寅さんだったのかもしれない。

この10年は根室を訪れるロシア人の数はめっきり減ったという。ロシア領海に突っ込む特攻船も減ったらしい。つまり沖合で両者がカネとカニのやりとりをして、それが漁獲物として水揚げされているということだ。

だからロシア語の標識はもう増えることはないし、ターミナルの待合室に彼が立つこともなくなっていくだろう。
私は歴史の一瞬を切り取ったのかもしれない。




タイの情勢は相当厳しいようだ。
軍と反タクシン派、ひっくるめて反民主派と言っていいのだろうが、彼らがかなり狂気を帯びてきている。
多分そういう状況の反映なのだろう。

今年のミス・ユニバースのタイ代表に選ばれた女優ウェルリー・ディサヤブットさん(22)が、代表の座を辞退しました。
フェイスブックで、タクシン派を「反王室」と批判。「全員処刑されるべきだ」と書き込んでいたことが発覚しました。


妙齢の美女が「皆殺しだぁ!」と叫ぶ状況そのものがいかにもおぞましいが、二つの論理があって、それがともに独断と偏見だ。
一つは「タクシン派」=反王室派=非国民だとする独断であり、もうひとつは非国民であれば殺しても構わないというサロメ的発想である(日本の嫌韓右翼もそこまでは言わない)
ミス・タイという社会的影響力を考えれば、それは殺人教唆にも近い。
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タイはこれまで何回もクーデターを経験してきたが、ここまで理性や倫理を失ったクーデターは初めてだ。反民主派が相当追い詰められていることの証拠ではないだろうか。三つ指を掲げただけで逮捕とは常軌を逸している。私の持論だが、人間はなんにもなしに凶暴化することはない。必ず被害者意識(でっち上げられた被害者意識)、やらなければやられるという脅迫感が存在する。

二度にわたり総選挙で成立した合法政府を暴力的に倒し、国際的な非難も強まるなかで、彼らは孤立感を深めている。それが彼らを暴力思想に駆り立て、凶暴にしているのだろう。
このようなお嬢さんが自分の頭で考えて出した結論ではないだろう。誰かがそのような方向で扇動している。ルアンダで隣人殺しを煽ったラジオのキャスターのように…

こういうなかで総選挙実施のスローガンを前面に出すのは危険がともなう。もちろんそれは最終的には民主主義の証として必要だろうが、まず和解政府の樹立が先決だろう。

そして暴力思想の孤立化を目指すことだ。彼女が人間性を取り戻し、心から発言を恥じるようになるまでは粘り強い運動が必要だろう。

ネットではもう少し詳しく書かれている。

ウェルリーさんは西部カンジャナブリ県出身で、身長170センチ、体重54・5キロ。タイ国立カセサート大学人文学部で学ぶかたわら、女優、テレビ番組の司会者としても活動中だ。

 ウェルリーさんは5月の選考会でタイ代表の座を射止めた。しかし、地元メディアによると、昨年11月にフェイスブックで、タクシン元首相支持派を「反王室」と批判。「これら悪の活動家には大変憤慨している。全員処刑されるべきだ」などと書き込んでいたことが発覚した。
 ウェルリーさんは「不適切」だったと認め謝罪したが、タクシン派の反発は強く、代表の資格を問う声が上がっていた。地元メディアによれば、9日記者 会見したウェルリーさんは「私が栄冠に輝いた時、家族は喜んでくれたが、世間の批判が高まり、幸せではなくなった」と涙ながらに語った。

ミスタイ
こういうのをワニの涙というのあろう。「タクシン派」を殺すときも、そうやって随喜の涙を流すのだろうか。
「不適切」かどうか、ということはやりかたの問題だ。それは、「思いは間違いではない」というのと同じことだ。
何年か前に、自民党の女性議員がワイドショーで陰湿な生活保護いじめをやって、それが反撃されると自分が被害者であるかのように涙を流したことがあった。

「女のいやらしさ」を見せつけられたみたいで、ひどく気分が悪かった。思い出すだけでも吐き気がする。


時事通信の配信だが、「処刑」という言葉の真偽ははっきりしない。

驚いたことにもうWikipediaに Weluree Ditsayabut の項目がある。しかも9日の辞退のことまで記載されている。

ここで引用されているのはバンコク発ロイター電。

Thai beauty queen quits after calling for ousted PM's supporters to be executed

というのが見出し。

Miss Universe Thailand has renounced her title over remarks she made on social media including one that redshirt activists should all be executed.

…comments she made months earlier soon surfaced, … referring to the redshirts, which said: "I am so angry at all these evil activists. They should all be executed."

となっており、時事通信はこれを拝借したのではないだろうか。

Bangkok Post では以下のように書かれえいる。

According to a Khaosod report, Fai on Facebook in November accused pro-government red-shirt supporters of being anti-monarchist, and said that the country would be cleaner without them.

ここでの内容はいわゆる「民族浄化」である。ただタイは現在検閲下にあるから、タイの現地紙だから正確ということにはならないのも事実である。




米政府は大学卒業後の奨学金返済軽減策を打ち出した。
具体的には、月々の返済額の上限を収入の10%以下とするということで、これまではかなり制限されていた枠を拡大するということだ。これで500万人が対象になる。

話はそこではなく、署名後の演説でオバマが語った言葉だ。
中間層は身動きがとれない。貧困層は多くの困難に直面している。一部の大金持ちは“税の抜け穴”の恩恵に浴している。
なぜみなさんはもっと憤慨しないのか。


オーディエンスの多くが学生であったこともあるのだろうが、米国大統領としては信じられない激しい口調だ。ほとんどアジ演説だ。
あと人気の残りが2年半ということで、焦りもあるのだろうが、彼がますます旗幟を鮮明にしていることも間違いないようだ。

たしかルイス・ポサダ・カリーレスについては一文をモノした記憶があるのだが、現物は存在しない。

とりあえず年表から拾っておく。

最初に文献に名前が登場するのは1963年1月である。

前の年、10月中旬から11月初めにかけてキューバミサイル危機があった。それが一応沈静化して、12月にはピッグス湾侵攻作戦で捕虜になったキューバ亡命人2506部隊が釈放された。

これは殺人狂を野にはなったようなものだった。

CIAは隠密裏にカストロ暗殺計画を建て、彼らを実行役に仕立てる。本拠地はメキシコ支局内に立ち上げられた。ボスがフィリップスでハントが支局長代理となった。ゲリラ部隊が中米各地,ジャクソン基地,ベニング基地などで訓練に入った。この時のキューバ人幹部のリストの中にフェリックス・ロドリゲス,ニーニョ・ディアス,ボッシュらに加えてポサダの名があげられている。

ポサダはバチスタ独裁政権の時代に警察の幹部として人民弾圧にあたった。亡命後は米軍のレンジャー部隊大尉を勤め,破壊活動と爆発物の専門家として頭角を現していく.

彼らの名はそっくりそのまま、ケネディ暗殺事件の暗殺チームにふくまれる。

ケネディ暗殺後、一方ではベトナム戦争の激化により、他方ではラテンアメリカ各地でのゲリラ闘争の発生により、彼らは分散していく。フェリックス・ロドリゲスはゲバラの殺害に関わった。ポサダはベネズエラに入り、ペレス大統領(当時内相)の補佐官に就任し、「左翼組織抑圧のための傭兵部隊」を指導することとなった。

次にポサダの名が登場するのが、キューバ航空のジェット機爆発事件である。76年10月6日、キューバ航空のDC-8機が,バルバドス空港を離陸10分後に上空で爆発.乗客など73人全員が死亡した.この飛行機は,ガイアナの首都ジョージタウンからトリニダード,バルバドス経由でハバナに向かっていた.乗客のうちキューバ人は57人.うち半分はフェンシングのキューバ代表選手たちだった。

2人の犯人はトリニダードから乗り込み,トイレに爆弾をセットしたあとバルバドスで降り,米国大使館に駆け込んだ。このあとバルバドスからトリニダーに逃れるが,空港で現地警察により逮捕されてしまった.当時のトリニダードの首相エリック・ウィリアムズはCIAとの関係を示すノートの存在を明らかにした。

彼らはベネズエラ人で、ベネズエラ国内でオルランド・ボッシュとルイス・ポサダ・カリーレスの指示を受け,犯行へ参加したことを自白した。ベネズエラ官憲は二人を逮捕した。ボッシュは,獄中でNYタイムズと会見.50件以上の爆弾テロ作戦を行ったと喋った.

キッシンジャーは爆破事件へのCIAの関与を全面的に否定したが、現在ではチリのクーデター、その後亡命したアジェンデ政府の元内相レテリエルの暗殺にも関与したことが明らかになっている.ノーベル平和賞とは飛んだお笑い草だ。

これで話が終わったと思ったが、ニカラグアでのサンディニスタの勝利とアメリカの干渉により、ふたたび戦火が燃え上がった。テロや破壊作戦のベテランであるポサダは、CIAにとって必要な人物とされた。

85年8月、ベネズエラのフアン・デ・ロス・モロス重刑務所で大脱走作戦が展開され、ポサダ・カリレスが見事救出された。後にイラン・コントラ ゲート事件の調査では,オリバー・ノースはじめ米政府関係者が,脱獄とその後の活動に援助を送ったことが明らかになっている。カリレスは米国務省職員として採用され, エルサルバドルのニカラグア人道援助局の局長補佐に任じられる.

ポサダはエルサルバドルの米軍基地に籍を置き,NSCの直接指示の下,ニカラグアへの武器の配布に従事した。

それから1年余、86年の10月にハーゼンファス事件が起きるに及んで、ふたたびポサダの名はメディアに登場する。コントラへの物資支援のためエルサルバドルを飛び立ったC-130貨物輸送機が、ニカラグア領内で撃墜される。逮捕された機長ハ-ゼンファスは,補給作戦の指導者がフェリックス・ロドリゲスとルイス・ポサダであると自白する。さらにフェリックス・ロドリゲスがブッシュから直接指示を受けていたと供述したため、米議会は調査に乗り出した。これがイラン・コントラゲート発覚の緒となっていく。

97年11月、ハバナのホテルで連続爆弾事件が発生した。マイアミ・ヘラルド紙は,キューバ系米国人が参加していたことを明らかにする.報道によれば爆弾事件の背後には「バンビ」と呼ばれる亡命キューバ人が存在していたとされる.

キューバの新聞グランマはこれを追跡報道し、「バンビ」の本名はルイス・ポサダ・カリレスであると明らかにした.当時ポサダはCIA要員として中米各地で活動.エルサルバドルではラモン・メディーナ,グアテマラではフアン・リバスの偽名を用いる.紛争終結後は「バンビ」の偽名を用い,画家として売り出していたという.

しかし、当時の状況のもとではキューバ当局は切歯扼腕するほかなかった。

2000年11月、またしてもポサダの名が浮かび上がる。おりからパナマで第9回イベロアメリカ・サミットが開かれ、フィデル・カストロも出席を予定していた。

その直前になってパナマ当局は市内のサンフランシスコ・ホテルに滞留中の亡命キューバ人テロリスト4名を逮捕した.室内には数万ドルの現金があった.ついでトクメン国際空港の近くでC4プラスチック爆弾8キロを発見した。

彼らは、その自供によればカストロを,「肉体的に抹殺しようと」していた.これはキューバ情報機関からの情報にもとづくものであったという。

キューバ情報機関は情報源を危険に晒しかねない危ない橋を渡ったわけだ。それだけの価値はあった。4人の筆頭にはポサダ・カリーレスの名が挙げられていたのである。

暗殺計画には二つの説があり、一つはカストロを載せた飛行機を地対空ミサイルで撃ち落とすというもの。もう一つはパナマ大学で講演予定だったカストロを,車で移動中に襲撃する計画。

2004年4月、パナマ第五刑事裁判所は、被告らに「集団の安全に対する罪及び公文書偽造」で有罪判決を下した。すでに76歳となったポサダ・カリレスに禁錮8年の経が言い渡された。判決では「「発見されたプラスチック爆弾は、衝撃が200メートルに及ぶ高性能なものであり、カストロ議長及びその周囲の人々に重大な害を及ぼす明確な意図があった」と認定された。

キューバ政府は量刑の不十分さを指摘しながらも「多くの人々を殺害しようとしたテロリスト」という認定に満足した。

ところがアメリカの圧力を受けたパナマのモスコソ大統領は、犯人に恩赦を与え、48 時間以内に国外に退去するよう通告したのである。彼女は「キューバかベネズエラに犯人を引き渡せば,命が失われることになるため」と説明した.

マイアミ紙によれば、パウエル国務長官がモスコソにポサダらの釈放を要請したとされる。しかし釈放後には「アメリカはいっさい関わっていない」と釈明した.スパイ大作戦のセリフみたいだ。

ポサダの行方はそのまま不明となった。各国が非難声明を出した。エルサルバドルさえも入国を拒否した。

翌05年4月、ポサダ・カリレスがマイアミに出現。政治亡命を申請した。1ヶ月前にメキシコから不法入国していたという。顧問弁護士は、「ポサダは約40年にわたってCIAに協力してきており、保護されるだけの要件を備えている」と強調した。

ポサダはどうどうと記者会見を開いた。米政府は会見が終わったのを見計らって不法入国容疑で拘留した。

ブッシュ政権は亡命申請を却下するが、「送還すれば拷問が行われて公正な裁判が見込めない」として送還を拒否した。

 ハバナではポサダの引渡しを要求する120万人のデモが行われた。

07年4月、テキサスの連邦地裁はルイス・ポサダ・カリレスの保釈を認める。結局アメリカ政府は稀代の爆弾テロリストをかばい通したことになる。

私はここまでしかフォローできていない。この時点で77歳だから、もう生きていないかもしれない。しかしこの男が畳の上で死ねるとは奇跡である。

今回のキャンベル・山口会談。キャンベルはアーミテージと同じで現在は浪人の身。しゃしゃり出てくるような身分ではないのだが、おそらくはアメリカの軍産複合体の総意を担っているのだろう。

06/02(月) TBSテレビ 【Nスタ】
集団的自衛権”慎重”公明党代表・前米国務次官補が極秘会談

米国の知日派の代表格の1人であるキャンベル前国務次官補が来日。
集団的自衛権の行使容認に否定的な公明党・山口代表と極秘会談。
キャンベル前国務次官補らは日米防衛協力の指針=ガイドラインの年内見直しに向け「行使容認の方向性を含めた閣議決定は早い方が望ましい」との意向を伝えた。
しかし、議論は平行線をたどったとみられる。
安倍総理や菅官房長官に近く政権発足後6度の米国を訪問した自民党・河井克行前衆院外務委員長によると、米国側は日本が集団的自衛権の行使容認を決めればより強い同盟関係を築けると期待する一方で、ある懸念をいだいていたという。
米国の高官から与党協議の難航を予測しているとの意見が出された。
与党協議をめぐっては先月23日、安倍総理大臣が自民党・石破幹事長にひそかに会い今国会中に合意し閣議決定できるよう強く指示。
しかし、与党協議は難航。
公明党内には官邸の真意が分からないとの不信感が広がっている。
また、オバマ政権が本当に今国会中の閣議決定が望ましいと考えているのか疑問視する声が公明党内で強い。

これがTBSのスッパ抜き報道。本人たちは否定していない。しかし他社は追随しない。なにか変だ。

このあと、キャンベルは衆院議員会館で記者団と会見。

「個別的自衛権や 警察権だけで、新しい脅威への対応はできないというのが(米国内の)強いコンセンサスだ」と露骨に圧力をかけた。

キャンベルには超タカ派代表のマイケル・グリーン元国家安全保障会議(NSC)アジア上級部長も同行し、石破茂幹事長と面会している。

石破会談のあとふたたび記者会見。

中国の大国化や強硬な態度に対応するため、集団的自衛権の行使容認には国際社会からもかなり期待がある。日中関係は今、非常に緊張感が高いが、行使容認で日本の立場が強くなれば、中国との対話が実現する可能性も高くなる

と発言した。

この辺はアーミテージの最近の発言とはニュアンスが異なるようだ。

石破幹事長は、4月22日にアーミテージ元国務副長官と会談。その時には、アーミテージ氏は「議論を急がなくていい。政権が倒れないように、まずは経済政策を優先するべきだ」と発言。石破氏も「自公与党での慎重な議論が必要だ」という姿勢を示した。

と、とりあえずはこんなことか。

古田足日さんが亡くなったそうだ。大江と同世代の愛媛の田舎の出身(厳密に言うと古田は半分戦中派で大江は純粋戦後派)。大江と違って、文学少年で落ちこぼれ生徒で、戦後のドサクサの間に児童文学にハマり、嫁さんに食わせてもらいながら、評論と実作で名を挙げていった人のようだ。

『児童文学の思想』(古田足日 牧書店 1969)

内にある伝統とのたたかいを
ーーいわゆる未明否定についてーー


という文章がネットで読めるひこさんの「児童文学書評」というサイト)。抜粋して紹介する(えらく抜粋しづらい文章なのだが)

予備知識として: 古田らは54年に「少年文学宣言」を発し、“古い児童文学だ” と小川未明を否定した。これはその言い訳も兼ねた文章。


人がものを書こうとするとき、おとなでありながら子どもにむかってものを言いたい、または小説ではなくいままで童話といわれてきたものをえらぶということは、それ相応の理由がなければなりません。

大ざっぱにいえば、その理由の大部分はその人が自分の内に多分に未明的心性、広くいえば児童心性・原始心性を持っていたからです。


ぼくは単純に未明(小川未明)を否定しているのではありません。(単純な否定とは無視あるいは児童文学からの除外ということ 私注)

未明のしめる位置を小さくすると、このいびつな児童文学がどのようにして形成されてきたのかという、かんじんかなめのところがぬけおちます。

 事実の無視ということは、菅忠道がしばしば未明否定論者にむかって説くところのものですが…

…事実を無視させたものは、歴史の固定化であり、西欧児童文学史の法則をあてはめようとする図式化であり、もっとも根本的なものは、未明と対決する姿勢がなかったことです。


…資質の大小は問題ではありません。この「誠実さ」が足りず、したがって文学性が低くなっていく傾向が、いまの児童文学に見られることが、問題です。「子どもの文学はおもしろく、はっきりわかりやすく」という『子どもと文学』の主張は、日本の児童文学のさまざまな欠点と同時に、文学性もタライの水ごとすててしまいそうな方向を持っています。

「時代のためにこうなった」という、その「こうなった」の内容こそがぼくの問題です。つまり、未明童話にはなぜおとな的なものが多くのこったのか。なぜ暗さのほうが強く、あかるさのほうが弱いのかなどという問題、これを時代のためと言ってしまうのは、あまりにも簡単にすぎます。


 おばけを書くことのできる作家は数えるほどになってしまったばかりではなく、そのおばけも小さくなってしまいました。ゆうれいは絶滅してしまったように見えますが、まだ南海の底深くには、いやぼくたちの身辺にも、ぼくたち自身のなかにも、死んでも死にきれないゆうれいが存在しているということのほうが、はるかに現実的なのです。

こんなブログがありました。皆さんどう思いますか?

1. 日本の財政が危機的な状態になったら、IMFが入ってくる。IMFが入ってくれば、「日本は48兆円の歳入しかないのだから、48兆円し か使ってはいけない」というのが最初の指導だと思います。

2.収入に見合った、身の丈に合った生活しかできないのは、家庭では当たり前のことです。

3.年金や健康 保険などの社会保障費は、全部カットされてしまうかもしれません。そうなると国民は苦しい生活を強いられます。

格差是正を旗印にする分配システムが成り立っていたのは、48兆円の歳入に対して92兆円も使っていたからです。年金や国家公務員の 給料、子ども手当や健康保険、介護保険等々、手厚く政府が金をばら撒いていたからできたことなのです。

4.年金や健康保険等がすべてなくなった時、きっと国民 全体が「平等に貧乏になった」ことには耐えられないと気づくのだと思う。

5.そこで日本人は社会主義的国家では駄目だと気がつくと思います。

ここで初めて資本主義的国家の重要性に気づくと思う。IMFの手助けがあって、初 めて日本は「規制がなく、小さな政府、機会平等の税制」の資本主義国家に変わると思う。

6.その結果、競争も激しくなるでしょうし、終身雇用制も崩壊するで しょう。しかしながら、市場原理が働くようになり、日本は実体経済に合った為替レベルになる。

7.こうなると、企業は欧米並みの純利益をあげることができ、法人税収も増える。日本は財政破綻した結果、「創造的破壊」を経て、回復する。


結局トリクルダウン理論のネガティブ版なのですね。

高度成長の時は「もっと働け、そうすれば企業は儲かり、それがみんなにも滴り落ちてくるのだ」といって労働を煽ったわけです。それが「明るい未来」を提示できなくなったために、「働かないと恐ろしい地獄が待っているぞ」と脅かすわけです。

結局本音は最後の「企業は欧米並みの純利益をあげることができ」というあたりに集約するのですが、「法人税収も増える」というのは、言っている本人がかなり苦しいのではないでしょうか。

1~7は企業性善説と庶民性悪説を前提にしているわけですが、今や企業性善説を前提にすること自体、ほとんど漫画の世界でしょう。

いっぽう、庶民性悪説については今後とも繰り返し現れてくる可能性があり、これへの切り返し論理は絶えず研ぎ澄ましていかなければならないでしょう。

生活保護を悪人にしたり、朝鮮人をいじめたり、年寄りを年金泥棒と呼んだり、とにかく形を変えていろいろ出てきます。

「狼生きろ、豚は死ね」と叫ぶ「豚」がこれ以上増えないように祈るばかりです。


ところで「狼生きろ、豚は死ね」というのは石原慎太郎の書いた芝居です。この「豚」は一切を頬被りして青畳の上で往生するつもりのようです。


アバドの時にも書いたのだが、ポリーニとアバド、政治的姿勢はまことにけっこうで共感すべきものがあるのだが、音楽的にはどうもサラリとしすぎてているというか心酔わせるものがない。

ポリーニのショパンはきわめつけと言われるが、そんなものかねぇと思う。もっともYouTubeはどういうわけか低音質ばかりで、そういえばCDも皆スカばかりだ。というより、トスカニーニと同じで、こういう音が好きだったのかもしれない。

YouTubeは親切で、ポリーニがショパンコンクールで優勝した時の実況録音をアップしてくれている。この時のマズルカ(作品59の3)がいいんだね。

モノで低音は全然聞こえない。しかし演奏はそれを補って余りある。完全無欠という感じだ。


この後ポリーニは長い休みに入って、それから楽壇にデビューする。それからの音作りはまったく違う。

2千とか3千人の聴衆を相手に弾くショパンだ。そちらも完全無欠かもしれないが、私にはさっぱり響いてこない。

ポリーニのノクターン全曲というのが高音質で聞ける。さっきからずっと聞いているのだが、完全無欠だが少しも面白く無い。お経を聞いているようだ。いかにすればショパンを、完璧かつ面白くなく弾けるかというのが彼の目標ではないかという気すらしてくる。


しかしコンサートの残響たっぷりの会場で聞けば、印象は違ってくるのかもしれない。シンフォニー・オーケストラを聞くように、その響きに身を委ねていれば、自ずから一種の快感が湧いてくるのだろう。ポリーニに代表される現代の音作りは、バイオリン1丁、ピアノ1台で大ホールを埋めた数千の観客を感動させるように作られているのだろう。

良い演奏かどうかを決めるのは、そういうコンサートに足繁く通う熱心なフアンなのだろう。

当然そうであっていいのだと思う。そっちがほんものなのだから。しっかりカネもかけているし、苦労も厭わずに聴きこんでいるのだから。


私のようにYouTubeで低音質の音をただで聞いている連中の出る幕ではない。ただそういう連中が聴くときの評価は少し違ってくるということだ。

ふと思いついたのだが、YouTube大賞みたいなものがあってもいいんじゃないだろうか。もうちょっとひねれば「貧乏人大賞」とか、「ただ聞き屋大賞」とか…

演奏家にしてみればそんな賞もらってもひとつも嬉しくはないだろうが。

アレイダ・ゲバラさん講演録

2008年5月 東京講演会

 こんにちは。今日はたくさんお話したいことがあります。でも……いつも時間はありません(笑)。

キューバ、教育と医療の革命

まずは大急ぎでキューバの歴史をふり返りつつ、教育と医療について触れたいと思います。
 キューバにとって大きな社会的変化といえばキューバ革命です。キューバ革命が起きたのは1959年1月1日。この日以来、キューバは革命を続けています。
 革命以前、国内の医療はほとんど皆無でした。医師は人口500万人に対し6000人しかいませんでした。乳児死亡率は0・6%でした。識字率は33%でした。

 こうした現状は米国による支配のためです。20世紀初め、キューバはスペインから独立しましたが、その後米国に支配されることになります。米国はキューバの広大な土地を独占していました。製糖業、酪農、銀行などが米国企業によって事実上独占されていたのです。
1952年のクーデターと軍事独裁以後、支配政治はさらにひどくなり、もうキューバの人は生きていけないと思い始めました。そういう機運が高まって革命が起きたのです。

 革命後、政府が最初に着手したのは教育でした。キューバ革命の先駆者ホセ・マルティは「人々は教養があって、はじめて自由になれる」と言っています。教育は人間としての権利です。
つぎに政府が緊急課題としてとりくんだのが医療の無償化です。健康もまた人間の権利だからです。人の命は売買できるもではありません。命は聖なものです。

 こうして政府は教育と医療の無償化を進めたのですが、みなさんは途上国である我が国がどうやってこれを可能にしたと思われますか。それは農業や天然資源を国有化したからです。ただし、そこから米国政府との戦いが始まることになりました。

米国が最初にとった行動は経済封鎖です。
 キューバは世界屈指のニッケル資源国です。米国は「キューバのために」と言ってニッケル工場を建設しました。それは罠でした。国際市場で売れるニッケルの純度は98%前後。しかしキューバの工場では85%前後です。米国企業は誰も買わないニッケルを購入して合金することで利益を得ました。

 キューバにとって不利な貿易でしたが、それでもいくらかの外資獲得を果たしました。ところが米国による経済封鎖が始まると、米国はもちろんのこと、日本など諸外国の企業もキューバのニッケルを買えなくなりました。米国がそれを許さなかったからです。キューバと取引した企業は罰金、または没収です。

 強調したいのは、食品や薬品などの輸出入は人道的にみて禁止されるべきではないということです。キューバの薬品の8割は米国製でした。食品も多くを輸入に頼っています。経済封鎖をされたならば、子どもや病人、貧しい人たちが犠牲になるのです。

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経済封鎖をする理由は?

 いまキューバは、さまざまな国に「輸出」をしています。ベネズエラに3万4000人の医師を、米国の先住民が住む地域には教師を派遣しています。
こうした人道的な派遣をしているいっぽうで、米国中心の国際社会から「罰」を受けているのです。

 この大変、理不尽な状況を生んでいる理由はたった一つです。それはキューバが「ほかのやり方でも生きていける」ことを示している国だからです。米国に頼らず、喜びをもって自由に生きる実例を示している国だからです。

 もちろん、キューバは完璧な国ではありません。しかしキューバは私たち自身のものです。私たち自身がつくる国です。キューバの問題を解決できるのは キューバ人だけです。他国の干渉によってでは解決できません。

 米国は大きな国ですが、非常に偽善的な政府だということを、私たちは知っています。偽善者たちはけっして尊敬されません。みなさんは知っていると思います。長崎・広島に落とされた原爆が、私が言いたいことそのものです。ただ、私たちは長崎や広島 のような惨状をまだ許しています。

 数年前、米国大統領は「いたるところでテロと闘わなければいけない」と言いました。これがまずは偽善なのです。
 みなさんはルイス・ポサダ・カリレスという人をご存じでしょうか。彼はキューバ国籍ですが、1961年に米国に亡命し米国陸軍で訓練を受けた人です。 1976年、キューバの旅客機が爆破され73名が亡くなる事件が起きました。亡くなった73名は誰一人として前科がありません。
ポサダ自身、この事件の首謀者であることを発言しており、FBIやCIAの公文書でもその関連性が明らかになっています。このほか、ポサダはキューバでのホテル連続爆破事件の指名 手配者にもなっています。しかし、米国はこのテロ行為の罪を問わずにポサダを釈放してしまいました。
テロリズムはどこに行ってもテロです。よいテロ、悪い テロはありません。米国のテロだけは許されるのでしょうか。

 米国をはじめ多くの国はイラクに軍隊を派遣しました。キューバは必要に応じて教師・医師・技術者を派遣し、貧しい人々の命と生活を助けたいと思っています。

 世界には爆弾はいりません。必要なのは連帯です。世界は人々のあいだの連帯を求めています。金持ちも貧しい人もいます。しかし、私たちは等しく 人間です。そして人間は守られる義務があります。すべての人間が尊厳を持って生きられるよう、キューバは最後まで戦い続けるでしょう。

 不登校新聞より抄出。

 

キューバは被曝者治療の経験を持つ医師団を日本に派遣する用意がある--アレイダ・ゲバラ氏に聞く

2011年08月03日 「東洋経済」ONLINE

震災後に来日したゲバラ氏の長女で、小児科医で もあるアレイダ・ゲバラ氏に聞いた。

アレイダ・ゲバラ・マルチ: 1960年チェ・ゲバラと妻アレイダ・マルチとの娘として生まれる。小児科医。現在はキューバ親善大使を務めながら、ラテンアメリカやアフリカで子どもたちのための医療活動をおこなう。またジャーナリストとしてベネズエラのチャベス大統領にインタビューしたり、マイケル・ムーア監督作品『シッコ』にも出演している。またチェ・ゲバラ研究センターのコラボレーターでもあり、チェ・ゲバラの活動や著作の資料を調査し公表している。

--08年、10年に次いで3度目の来日となりますが、今回の目的は。

津 波と地震のニュースを聞いたとたん、すぐに日本のキューバ大使館に連絡をして、すべての日本人の知人に対して哀悼の意を伝えると同時に、自分で何かできる ことがあればすぐにやると伝えて欲しい、と告げました。その後、キューバ大使館を通じて、何人かの友人が日本全国での講演会などを企画してくれています。

--被災地も訪問されたそうですね。

東北の被災地は2カ所回りました。南相馬では、約半分が避難区域に指 定されています。しかし話によると放射線量は半径30キロ圏外でも風向などによって高いところがある。たとえば子どもにずっとマスクを着用させるべきか、外出させないようにするべきか、母親たちが大変心配しているそうです。

キューバではチェルノブイリの子どもたちを招いて治療した経験もある。私はその経験から、子どもたちに倦怠感などの兆候が見られた場合、すぐに血液検査をするべきだ、と助言しました。また必要であればキューバに来ていただくなり、キューバから経験を持つ医師団を派遣するなど、どんな形でも協力するとも伝えました。私たちはできるかぎりの協力をしたいと考えています。

もう1カ所は石巻市です。街の様子は言葉を失うほど酷いものでした。改めて津波のすさまじさを感じました。市長は、「復興は2年程度ではとてもできな い、被災した家屋が多すぎる」と言っていました。もっと多くの人や子供たちと話をしたかったのですが、滞在時間が短く、とても残念に思います。

石 巻市には、キューバ大使館などを通じて、また私個人からも寄付をしました。石巻は400年前、初めてキューバを訪れ た日本人、支倉常長ゆかりの地です。キューバと日本の友好のあかしとして寄付をしました。このほかにも、キューバ音楽のCDを2種類、1つは子供向けのCDをお渡ししました。本当はもっといろいろできればいいのですが。

aleida

--福島県を中心に放射線量が1時間1マイクロシーベルトを超える地域があり、子供を抱える母親などは大きな懸念を抱いています。こうした地域に住んでいる子供の健康への影響を、小児科医としてどのようにご覧になっていますか。

被曝線量だけでなく、子どもによっても差があるので一概には言えません。大切なのは倦怠感などの症状が出ていないかなどを定期的に見続けることです。同時に、土壌の除染を一刻も早く進める必要があります。多くの人は現在住んでいる場所を離れたくないという思いが強いでしょうから、土壌汚染を解決することが大切です。

--キューバでは今回の地震などはどのように伝えられたのでしょう。

地 震と津波のニュースは速報で伝えられました。カリブ海にあるキューバも、台風などの自然災害が多い国なので、人々は非常に親身になって事態を見守っていま した。キューバには「ヘンリー・リーブ」と呼ぶ1万人規模の医師団があるのですが、日本からの要請があればすぐにこの医師団を派遣する用意をしていまし た。

ヘンリー・リーヴ医療団については拙稿 ハイチで活動するキューバ医師団との連帯を   メディアが報道しないハイチのキューバ医療団 を参照されたい。

--今回の事故によって、原発は岐路を迎えています。今後、世界の原発政策はどのように変わるとお考えでしょうか。

原発以外にエネルギー源を探る方策はいくらでもあります。太陽光、地熱、波動など、再生可能エネルギーの利用をもっと進めるべきです。人間にとって害の少ないエネルギーを探すことは可能なはずで、すぐにでも新たな解決方法を探すべきです。

--キューバは過去に原発を建設しましたが、運転は断念した経緯があります。現在のキューバのエネルギー政策はどういったものでしょうか。

依然として化石燃料への依存度が高いのが現状です。水力なども利用していますが、キューバの河川は水量があまり豊富ではないという問題があります。そのほかにも、太陽光や風力など、安全かつ自然なエネルギーの活用を模索しているところです。

--今回は広島と長崎の平和記念式典にも初めて参加されるそうですが、この時期に式典に参加される意義は。

今回、私は反戦だの、反核だのを訴えに来たわけではありません。そういうことを伝えるのは私ではなくて、むしろ身を持って体験した日本人の役目ではないでしょうか。日本人は平和や反核ということについて、より強く訴えていくべきだと思います。

私の父が広島を訪れたとき、ハバナにいた母へ絵はがきを送りました。そこには「平和のためにさらに強く闘うには、こういう場所を訪れなければならない」と記してありました。

--カストロ前議長は長らく「反核」を掲げてきました。オバマ大統領が「反核」を訴えてノーベル平和賞を受賞しましたが、カストロ前議長にもチャンスはあるとお考えですか。

私たちにしてみれば、オバマよりずっとノーベル平和賞に値しますよ(笑)。フィデル(・カストロ)は長らく人々との団結、共生を説いてきました。また核戦争に対して異議を唱え続けてきましたが、残念ながら世界では報道されませんでした。

核兵器が人々に及ぼす危険は甚大です。だからこそ、このように広島や長崎を訪れ、キューバが反核国であることを訴えるのです。いかなる国も核兵器を持つことが許されてはなりません。

オバマ大統領については、日本記者クラブの会見で触れている。「初の黒人大統領として、オバマへの期待は大きかったが、そのようにはなっていない。…キューバ人に恐れを抱かず、隣人として尊重してほしい。自分たちの社会とは異なる社会モデルの国のひとつとして、キューバを受け入れてほしい」

--ラウル・カストロ議長のもと、キューバは経済改革を進めています。一部、市場経済を導入する動きもあるようですが、今後キューバ経済はどのような形を目指すのでしょうか。

経済改革でもなく、市場経済を取り入れているわけでもありません。現状ある問題を、経済的にどのように解決するかを探っているのです。キューバは社会主義のままです。そのなかで、どう内需を増やすか、という改革をやっています。

一部では、個人が商店を開く動きもあります。こうした人たちは、自分たちの暮らし向きを基準にものを考えるようになります。そういう社会的傾向が強まることに懸念はあります。

一方で、キューバでは教育費も医療費も依然無料です。私たちは今後も社会主義を基本としていきます。個人レベルでは別の可能性も探っていきますが、それがどうなるかは将来の問題です。

--米国では「キューバは市場経済へ移行している」と報道していますが。

彼 らがそう思いたいだけでしょう(笑)。欧州で社会主義体制が崩壊した際、キューバは大きな経済的打撃を受けました。しかし「非常期間」から時間が経ち、キューバ経済は回復しました。現在は政府がきちんと人々を雇用して、 雇用されていない人にも給与を払っています。

04年には米州ボリバリアーナ同盟 (ALBA)が始まりました。キューバはラテンアメリカ諸国とより多くの貿易を行うようになりました。ALBAによって、たとえば建設資材や皮革、繊維といった新たな素材が必要になりました。

世界で経済不況が起きた結果、キューバでも働かない人を支援していくのが困難になりました。こうした人たちにも支援は必要です。そこで新たな方策として個人的な事業を興せるようにしました。個人が利益を上げるためではなく、尊厳を保つために事業をできるようにしたのです。

これが現在起こっている「経済改革」です。この改革はキューバ国民によってきちんと議論され、承認されたものです。

--被災地の方にメッセージはありますか。

 「皆さんのお気持ちがわかります」と言っていいのかわかリませんが、被災地の現状を目の当たりにして、皆さんがどれだけ大きな絶望感を抱いているのかは想像できます。

私に言えることは、強く、尊厳を持って生きてほしい、ということです。復興にはたくさんのことが必要だと思いますが、日本人は前を向いて進んでいけると信じています。

特に働く女性の小児科医として、被害に遭われた多くの女性を励ましたいし、何か力になれたらと考えています。

(聞き手:倉沢 美左 撮影:尾形文繁 =東洋経済オンライン)

チェルノブイリ・キューバ・プロジェクト
あまり知られていないことなので、ぜひこの機会にお知らせしたいと思います。
チェルノブイリ原発が事故を起こし膨大な死の灰が巻き起こされたのはもう20年以上も前のことになります。多くの人が犠牲になりました。今もなお、白血病や新たな癌が発症し、後遺症に悩む人がいます。しかし、もうおおかた忘れ去られた事件です。
キューバは国家を挙げて被災者の救援に取り組みました。特筆すべきは、このプロジェクトが90年3月、未曾有の経済危機の中で開始されたということです。ハバナ東方20キロのタララ保養地区で、年間約800人、16年間で延べ1万8546人の児童が、45日から1年滞在して治療を受けています。これまでの死者は15人で、16件の骨髄移植が行われています。このプロジェクトはキューバの資金負担によって行われ、経済危機の間も維持されました。国民が呑まず食わずの苦しい生活を送る中でも、ついにその構えは崩れませんでした。
そのタララでプロジェクト開始20年を記念する式典が施行されました。
式典に出席したウクライナ大使は、ユシェンコ大統領の感謝のメッセージを読み上げました。ユシェンコといえば親米国派の旗頭でロシアに毒を盛られたアバタ面です。
「キューバ国民はウクライナ国民の苦しみと痛みに初めて応えてくれました。そしてその助けを、最も感じやすく最も保護されていなかった人々、ウクライナの児童に向けてくました」
何かウルウルしてしまうようなメッセージです。これがキューバ革命なのだと、
http://www10.plala.or.jp/shosuzki/edit/la/cuba/recentcuba.htmより転載。


ディノラ・バルシのノクターン

しつこくてすみません。

ディノラ・バルシのショパンの音源をひと通り聞きました。

ご承知の通り、ショパンの演奏は綺羅星のごとく名演が揃っています。

ソナタを1,2,3番と通して聞きました。1番というのは初めて聞いたような気がします。

ながら聞きなので、本当のところはよくわかりませんが地味な演奏です。「さすがにトップランナーと肩を並べるレベルではないなぁ」と思いながら、ノクターンを聞き始めたのですが、びっくりしました。

「おっ、おっ、こりゃなんじゃ」という感じです。作品27の2曲、とにかく聞いてみてください。

息を詰めたような弱音の魅力、左手のゆたかなニュアンス、まるでソプラノの隣にアルトがいて、その奥にバリトンがいるような奥行き感がします。最後はまるで3声のコラールです。

こんな感じの演奏聞いたことがなくて、ルビンステインやポリーニを聞いてみましたが、これは正真正銘ディノラ・バルシの音作りです。

マズルカも同じ感じの音作りで、正直言って成功しているかどうかはわかりません。リズム感が失われ、重たくて、ちょっとかったるいです。

アルゼンチン・タンゴの聴き比べでも感じたのですが、ウルグアイの人って、地味~に良い仕事するんですね。本当にいいタンゴ聞きたいのなら、ウルグアイに行くべきでしょう。ふと、そんなことを思い出しました。

リーマン・ショックから5年

―世界の証券市場は量的にどう変化したか

平成25 年9 月10 日

杉田浩治

(日本証券経済研究所)

という報告が読める。

これで市場の反応がだいたい分かった。この間のMITIのレポートで実体経済の方も見ることが出来た。

後は中銀と金融機関の動き、財政の変動だが、もうひと頑張りかな。

欧州危機の時はニュースだけ追いかけてたが、それでは何が起きているのか分からない。サミットである対策が議題になったから、そこに問題があるのだなということはわかるが、それがどう問題なのか、なぜ問題なのかは分からない。

リーマン・ショックは終わっていない。形を変えて広がっているという予感がある。そこを情緒的にではなく、二次処理されていないマクロの数字で明らかにする必要があると思う。

そしてそれを貨幣資本、利子生み資本の論理のなかに定位させて、初めて作業が終わるのだろうと思う。


07 年末を起点として12 年末に至る5 年間について、世界証券市場の変化を量的側面から概観した。

1.株式縮小、債券・デリバティブ拡大―証券別の市場規模の変化

証券市場推移

1.株式の時価総額

株式の時価総額は08年のショックで46%縮小した。一時回復の兆しを示したが、欧州危機等により再び縮小。12年末時点でも07年比82%である。

株式市場の取引規模は債券市場との比較で82%から55%に低下した。

株式の売買金額は08年の108兆ドルから12年の50兆ドルに半減した。

株式市場では、発信地であった米国がシェアを拡大し、欧州の地位低下が目立った。新興国時価総額の長期的シェアは09年をピークとし、その後下がり続けている。

2.債券発行残高

債券発行残高は23%増大した。政府債のシェアが11ポイント上昇し、債券の半分を占めるようになった。逆に金融機関債は10%以上減少している。

債券発行が増えているのは新興国であり。先進国は17%増にとどまっている。ただし新興国は元々の発行高が少ない。先進国でありながら58%も増加した日本は特異である。

3.デリバティブ市場

デリバティブ市場はヘッジ需要の高まりから56%拡大し、時価評価額25兆ドルに達した。ただし、123%増となった08年末より伸び幅は縮小している。

(想定元本残高では633兆ドル=6京円に達しているというが、「想定元本」は説明を読んでも理解不能)

08年に急増したCDSの時価評価額は6分の1に急減したが、これに代わり金利関連の比率が高まり76%に達している。

(CDSはクレジット・デフォルト・スワップの略で、元は債務不履行リスクに対する“保険もどき”だが、証券化され売買されている。債務危機になれば価格は急上昇する)

4.投資信託

投資信託は証券への間接投資手段であり、個人投資家の投資意欲を反映する。その残高は08年に72%まで急減したが、その後回復し、リーマンショック以前の26兆ドル水準を取り戻している。

とりわけ債券ファンドが急増している。株式ファンドが48%から40%(11兆ドル)に縮小し、債券ファンドが16%から26%へ拡大した。

株式ファンドの減少1.7兆ドルの殆どは資産時価の変動によるものである。つまり投資家がすったことになる。

一方、債券ファンドは金利低下により債券価格(割引債)上昇の恩恵をこうむった。

5.実体経済に対するマネー資本の肥大化は一段落

世界の資本市場規模は260兆ドル。その世界GDP に対する比率は、07 年末の440%から11 年末に369%へ低下した。

(世界資本市場はIMFの提唱するカテゴリーで、株式時価総額・債券発行残高・商業銀行資産額を足したもの。商業銀行資産には商業銀行が保有する債券・株式も含まれるため、過大評価の可能性がある)

6.これらの傾向は13年に入ってから様変わりしている

株式市場の時価総額、取引金額はともに上昇している。投資信託も増加に向かっている。

Dinorah Varsi についての記載は皆無に等しい。ようやく見つけたのがWikipedia のサブミットされていない予稿

Dinorah Varsi(1939年11月15日 ― 2013年6月18日)は、ウルグアイのピアニスト

モンテビデオで生まれて、彼女は3才でピアノを演奏し始め、8才でソリストとしてオーケストラとともにデビューをした。その頃の教師Sarah Bourdillon はパリ音楽院でコルトーの指導を受けた人だった。

10代をウルグアイ、ブラジル、アルゼンチンで経歴を積み、1961年にソリストとしてパウル・クレツキーの招聘を受けダラス・シンフォニーで米国デビューをした。

その後ニューヨーク、パリをへて、スイスでゲザ・アンダの下で研鑽を積み、1967年のクララ・ハスキル国際コンクールで優勝し、ザルツブルグ、ベルリン、プラハとチューリッヒでのコンサートで国際的な経歴を開始した。

彼女はもっとも影響を受けたピアニストとしてゲザ・アンダの名を挙げている。

国際プレスで広く称賛された。「ホ短調のショパンのコンチェルトにおいて、彼女は数えきれない色のパレットを開発し魅力的な絵を描き上げた。…Dinorah Varsiは、ショパンのピアノ音楽の世界のエキスを理解する極めて少ないピアニストのひとりだ。…伝説のピアニストDinorah Varsiを聞かなかった人々は、本当にセンセーショナルなコンサートを見のがした」と書かれている。

彼女は、ヨーロッパの最も高名なフェスティバル(例えばザルツブルグ、ルツェルン、シュレスヴィヒホルシュタイン、ミュンヘン)にも出演している。また主要なシンフォニー・オーケストラ(Berlin Philarmonic under Semyon Bychkov, the Concertgebouw of Amsterdam under Bernard Haitink, the Royal Philharmonic in London, the Munich Philharmonic and the Rotterdam Philharmonic)と演奏した。1990年から1996年の間、カールスルーエ音楽院でマスタークラスを教えて、最も高名な国際競争の審査員となった。

彼女のレパートリーの中核は主としてロマンチックな作曲家であったが、Galina Ustvolskayaのような現代の作曲家も演奏し、モーツァルトも得意とした。「Dinorah Varsiのモーツァルトは、純粋な喜びである」と賞賛されている。

Dinorah Varsiは、2013年6月18日にBerlinで亡くなった。

recording career

Schumann (Kreisleriana and Kinderszenen)

Chopin (the three Piano Sonatas, complete Mazurkas, 24 Etudes, 24 Preludes, Fantasy in F minor, Impromptus and Complete Nocturnes)

Brahms ( both Concerti, Rhapsodies Op.79, Intermezzi Op.117, Piano Pieces, Op. 116, 118 and 119)

Franck (Prelude, Chorale and Fugue)

Debussy (Preludes, Book 1)

ということで病気のことは全く書かれていない。

経歴中断の理由にも触れられていない。

分かったのは、彼女の録音された演奏のほとんどがyoutubeで聞けるということだ。つまり私の作成したyoutubograaphyがほぼ全てということだ。

 

Dinorah Varsi

youtube で聞ける演奏一覧

dinorah
       モーツァルトの21番のアンダンテを弾いているところ

以前ディボラ・ヴァルシについて書いたが、リンクもせずに放置していた。

以下に一覧を掲げておく。低音質のものは除いてある。

クレジットを見ると去年の6月になくなったようだ。

80年代初めに引退したのは確からしいが、その後1985年に復活して、ヨーロッパを中心に次々に名演を重ねていたことが分かる。私にはアルゲリッチ以上と思えるが。

顔を見ると若い時は別人のようで、なにか大病をしたのではないかと思われる。

ここだけの話だが、顔が不細工になったぶん、音は格段に美しくなった。

Chopin - 24 Etudes, Op. 10 & 25 (Dinorah Varsi)

DINORAH VARSI plays CHOPIN 2 Nocturnes Op.32 (1986)

pianotreasuresさん pianotreasuresさんのチャンネルで、ほかにも作品27の2曲やマズルカが聞ける。

DINORAH VARSI plays CHOPIN Sonatas (1974)

AbraxasAgitato さんのチャンネルで、2番と3番が聞ける。これは若い時のアルゲリッチ風の演奏。これで終わっていたら、それなりの人で終わっていたのだろう

DINORAH VARSI plays CHOPIN 3 Mazurkas Op.50 (1985)

Dinorah Varsi "Piano Concertos" Brahms

バックはプラハSO。Ulrich Dünnebach のチャンネルで1番(93年)、2番(94年)がすべて聞ける。音の美しさは同じだが、オケの水準もふくめて際立った演奏かと言われると…


Brahms - 8 Klavierstücke, Op. 76 (Dinorah Varsi)

これが先日紹介したブラームス。これを含めた85年のディスクが素晴らしい。

Brahms Intermezzo No 1 in E flat Major, op 117

この演奏は1994年ベルリンでのもの。

Brahms - 2 Rhapsodies, Op. 79 (Dinorah Varsi)

Dinorah Varsi plays Schumann Sonata No. 2 in G minor Op. 22

これは1969年のもの。本当に別人だ。

DINORAH VARSI plays FRANCK Prélude, Choral & Fugue (1995)

Dinorah Varsi plays Rachmaninoff Rhapsody on a Theme by Paganini, OP 43 YouTube

バックはインバル指揮ベルリンSO。おそらくブラームスと同時期のものであろう。軽やかなタッチが印象的である。

Dinorah Varsi "Piano Concerto No 2" Rachmaninoff

こちらはロッテルダム・フィルとの共演。音が透き通っている。

Varsi, Dinorah - Scriabin étude opus 8 no 12 D sharp min

まさに絶品としか言いようが無い。

Debussy - Preludes, Book I (Dinorah Varsi)

Lekeu - Violin Sonata in G major (Arthur Grumiaux & Dinorah Varsi)

Vieuxtemps - Ballade et Polonaise, Op. 38 (Arthur Grumiaux & Dinorah Varsi)

グリュミオーとの共演がかなり残されている。当然若いころの演奏だろう。この演奏はとても良い。







コレステロール 300↑ とはなかなか大変な話です。
徐々に上がっているので、遺伝性というより食事性でしょう。
まずは卵(黄身)禁です。魚卵、マヨネーズもダメですね。
つまり野菜サラダをやめればよいのです。
これだけでたいていは下がります。
バターはマーガリンに変えれば済むでしょう。
コレステロールは食事内容だけではなく、
総カロリーに規定されます。
体重を1,2キロ程度落とさなければなりません。
一番簡単なのは、朝or昼飯を抜くか、減らすことです。

朝はやっぱしっかり食べなきゃ、というのが間違いで、
朝飯抜きでも、慣れればしっかり動けます。
不安なら一仕事終えてから、11時ころに朝昼兼用にすれば、
夕方まで持つはずです。

後は甘味を押さえることです。
とくに中性脂肪も高いんなら、こちらがメーンです。
缶コーヒー、ジュースは当然ダメですが、大事なことは
果物、乳酸菌飲料もダメだということです。
コーヒーかお茶を魔法瓶に入れて夕方までに飲むこと。
茶腹も一時です。
これでお腹の調子が良くなるはずです。

晩御飯は必ず肉を入れること。肉(魚も)ほど完全な栄養はありません。
野菜は必要ありませんが、肉を食べれば欲しくなるでしょう。
おかずは一品減らすこと、御飯の量よりおかずが多いのは許せません。
必ずホカホカご飯のこと、冷たいと味が濃くなります。
晩飯にパンや麺類は絶対にダメ。

後は寝る前に温かい牛乳を一杯。これで胃が収まるはずです。
お酒を飲みたければ牛乳に焼酎(蒸留酒)を混ぜてください。
お酒は油・コレステロール・塩を欲しがるので要注意です。
(やめろと言えないのが辛いところ)
ナッツは基本的にはやめておいた方が良いが、
食べたいなら枝豆か、殻付き落花生(皮も一緒に)。

完全栄養食品はおから(ひじき入り)です。しかし毎日は食べれませんね、
まずいし、どうやっても流石に飽きる。とりあえず大事なのはおからを切らさないことです。

買いだめはしないこと。保存食に良いものはありません。
どうしてもというなら、冷凍の焼きおにぎりかサトウのごはんでお茶漬け。

店で迷った時の選択基準は、「虫歯に沁みるものはダメ」ということ。

これで通じも快調になって体重も減るはずです。
そして3ヶ月後には…

 赤旗文化面で諸星さんという方が「民衆の心をうたうブラジリアンポップス」という文章を載せている。

たしかに面白いのだが、ボサノバ=中産階級、MPB=民衆の心の歌というのは、やはり乱暴だろう。

ボサノバもMPBもそれなりのムーブメントだった。多分に外国の影響を受けている。時期が違うだけだ。平ったく言えばビートルズの前か後かということだ。

歳のせいもあるが(そして中産階級に属しているからかもしれないが)、私は今でもボサノバのほうが好きだ。

「渚の恋」だから中産階級というのも頷けない。私のジュニア時代にはビーチボーイズに影響されて、グループサウンズが似たような歌を歌っていた。

彼らが中産階級を代表していたとは思えない。その辺の工員さんでも歌っていた。

だいたいあの頃はヒットチャートの半分がアメリカ音楽だった。

「ボサノバ」こそメイン

日本語にすると紛らわしいが、ブラジリアン・ポップスともいうべきジャンルがあって、メインストリームはあくまでもそこにあった。

大体はショーロかサンバ・カンソンを基調としていて、粋な「小泣き」の歌だ。ネルソン・ゴンサルヴェスあたりが代表で、白人も黒人も歌っていた。

有名歌手にはボサノバと積極的に関わる人も多くいた。

ボサノバは単純に言えばジャズ・サンバだから、独特のフアン層を持つやや特殊なジャンルだが、60年代なかばに次々と名曲が生まれたためにメジャーになってしまった。

とくにアメリカンポップスの影響を強く受けた。ホアン・ジルベルトのような塩っ辛いボサノバにかわって、セルジオ・メンデスとかカルロス・ジョビンのような分かりやすいボサノバが主流になった。

その代わりにサンバの要素は薄れたかもしれない。人々はそれをもうボサノバとは呼ばなくなった。

しかしポップスの一大分野であることに変わりはない。カルロス・ジョビンはいまだって神様だ。

私は今でもブラジルの歌をボサノバの延長として聞いている。「小洒落た」節回しや独特の複雑なコード進行はボサノバとしか言いようがないし、その音楽に浸っている間、私はボサノバ気分である。

MPB とブラックミュージックとの親和性

MPBは「トロピカリア運動」として、バイアからリオのミュージックシーンに土足で上がり込んできた。ブラジリアン・ロックともいうべきであろう。

カエターノ・ヴェローゾが捕まる直前に大学のコンサートで演奏している映像がyoutubeで見られるが、結構ぶっ飛んでいる。

トン・ゼーなどというのはとんでもない前衛音楽で、今でも狂っている。

バイアというのは黒人が多いところで、登場した歌手がみんな黒人ではないが、黒っぽい雰囲気を漂わせていた。

もちろんリオやサンパウロにもロッカーはいたわけで、イヴァン・リンスなんかが代表だろう。

トロピカリスモに限らず、60年代後半の風潮としてブラック・ミュージックは大きく舞台を広げた。ボサノバでも例外ではなかった。

ミルトン・ナシメントもこの頃ミナス州から出てきて活動を始めている。それにジャヴァンが続く。

だから私はMPBは青年の音楽と言ってくれれば納得するのだが。

反軍政運動と音楽

「民衆の心」というのを民主派という意味で言うなら、ボサノバとMPBを差別するのは全く間違っている。

むしろボサノバのミュージシャンこそ軍政に立ち向かい、その結果、国内での活動を絶たれ、ボサノバの衰退を招いたとも言える。(ちょっと言いすぎかな?)

ボサノバ界の代表ナラ・レオン(上流階級)やシコ・ブアルキはもっとも軍事政権と果敢に闘っている。ジョアン・ジルベルトやカルロス・リラはメキシコに逃れた。ジョアン・ボスコも抵抗の姿勢を貫いているのは諸星さんご指摘の通り。

ついでに

私もボサノヴァについていくつか文章を書いているのでご参照ください。

無題

電子情報通信学会誌(2007年第1号)に以下の論文が載っている。

 「史上空前の論文捏造」から考える科学の変容と倫理(<特別小特集>研究者・技術者の倫理観・人生観)

『論文捏造』の著者、村松秀さんの書いたものである。グーグルから普通に行くと辿りつけないが、kojitakenの日記 でLink を貼ってくれてある。こちらには全文が転載されており、コピペも可能である。

ちなみにKojitaken さんのブログの文章も筋の通った良い文章なので、そちらもご一読をおすすめする。

ということで、以下は村松論文の抄録。

ヤン・ヘンドリック・シェーンの超電導スキャンダル

という事件が2002年にあった。これが小保方スキャンダルと瓜二つだ。

ベル研究所でそれは起きた.ベル研究所はアメリカが世界に誇る科学の殿堂,ノーベル賞受賞者が11名もいる。日本の理研と同じ位置づけだ。

そのベル研究所の若き天才科学者,ヤン・ヘンドリック・シェーンが,有機物の超伝導を全く新しい仕組みで実現した。

科学界はこれを賞賛した。「ネイチャー」誌に7本,「サイエンス」誌には9本もの論文がわずか3年のうちに掲載された。彼はノーベル物理学賞の有力候補とされた。

ところが突然、ベル研究所調査委員会は、シェーンの論文は捏造と発表した。シェーンは科学の世界から追放された。

ドキュメンタリー「史上空前の論文捏造」

村松さんはNHKの番組ディレクターとしてこの事件を取材し、上記の番組を作成した。.そこから科学界が内包する構造的な問題点が浮かび上がってきた。

共同研究者,上司,研究所,ジャーナル,他の研究者,科学コミュニティ...は、捏造をきちんと見いだせなかった。

ベル研究所は親会社の不況の波をかぶって経済性を最優先するようになり,シェーンの論文を手放しで賞賛するのみで,しかも内部告発があったにもかかわらず真っ当な調査を行うことはなかった.

事件の本質は科学そのものの大きな「変容」にある

1.成果主義

ほかよりも少しでも早く見いだすことが重視される。そのため、成果の得やすい研究や失敗の少ない研究,一般受けしやすい研究をチョイスする。

2.科学と経済性との結び付き

科学的成果が商品開発や生産技術などにたちまち生かされ,金銭的な価値を生み出して経済発展に直結する時代。

3.特許による金銭的メリット

多くの企業が献金や委託研究も含めて様々な公的研究に関与している。こうした状況の中では,秘密主義やだましといったことが生じやすくもなる.

科学の根幹だったはずの「再現性」

科学の根幹である「再現性」は,先端科学では必ずしも十二分に保証されない。

国家プロジェクト級の大規模な装置や,多額の研究資金が必要なため、追試が不可能となる。科学が「深く細く」なりすぎた弊害もある。

研究者自身の「神の手」ともいうべき真似のできないテクニックが,実は現代科学を支えていたりする。その場合は極端にいうと「再現性がない」こと自体がステイタスになることもある。

学術審査のあり方と科学倫理観の形成

旧態依然とした発表制度では不正を防ぐことができない。発表の方法やスタイルを全く違ったものにしなければならない。

より根本的には、科学の変容の是非を問い,21世紀の科学は一体どうあるべきかの議論をもっともっと深め,コンセンサスを形成すべきだ。

 

 

 

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