鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

13年4月、ぷらら・Broachより移行しました。 中身が雑多なので、カテゴリー(サイドバー)から入ることをおすめします。 過去記事の一覧表はhttp://www10.plala.or.jp/shosuzki/blogtable001.htm ホームページは http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」です。

2014年06月

三谷先生の「敗者の戦争観」というのはかなりずっしり来る言葉だ。

敗戦直後、「戦争の性質は根本的に変更された。いまや戦争は一般に違法なものとされ、しかも犯罪とされるに至った」という主張が一般的だった。戦争を放棄した9条は素直に受け入れられた。

『敗者の戦争観』はこういうものだった。

それがいま、『勝者の戦争観』に近づいてきた。与野党を問わず、戦争観が大きく変わった。それは武力の行使を政策手段としてみるということだ。

ずっしり来るというのは、今まであまり考えたことのない切り口を提示されて、「そういえばそうだよなぁ。ウム、たしかにそう言えるなぁ」ということだ。

心の奥底には、ちょっと引っかかるものがある。それを「勝者の戦争観」と対比して世の中の移り変わりを説明されてしまうと、「まぁそうも言えるなぁ」ということになる。

大負けに負けて、日本中焼け野原になって、いっそスッキリした気分のところに、「もう戦争はしません。軍隊も持ちません。貧しくともカタギに生きていきます」という憲法が提示された時、それがどれだけ晴れ晴れと響いたことか!

日清戦争以来半世紀にわたって、一方では勝った勝ったと言いながら、絶えず戦争ばかりで、お国のためとは言いながら、向こう三軒両隣で若者の誰かは戦地に行ったまま帰って来なかった。最後は雨あられと焼夷弾を落とされて、一切合財丸焼けだ。これではかなわない。

それが、もう戦わなくてもいい、殺しあわなくてもいいということになったのだから、これ以上の喜びはない。

三谷先生はこういう気分のことを言っているのだろう。

もし安部首相が67年タイムスリップして、新憲法制定の場で熱弁を振るえばたちまち袋叩きにあっていただろう。

ただ「敗者の戦争観」はもうひとつの側面を持っているだろうと思う。それは敗戦国の民衆は敗戦の理由をすべて知りうるということである。そして軍部と支配層の悪行をすべて知りうるということである。

その基本となるのが東京裁判だ。東京裁判と憲法は直結している。だから彼らは懸命に東京裁判を否定しようと図るのだ。

「敗者の戦争観」は、敗戦によって炙りだされた、それらすべてのことを知ることによっても形成されるのである。敗戦前は何も知らされなかった、敗戦後にはすべてを知った。この落差が「敗者の戦争観」の中核だ。

焼け野原の上のぽっかり青空に戦後民主主義の出発点を置くのも、気分としては非常に分かるのであるが、それからは「平和への祈り」しか湧いてこない。闘いのエネルギーにはならない。

敗戦により知り得た政府や軍部の愚行への怒りが、二度と戦争は繰り返すまい、繰り返さすまい、二度と騙されまいという決意につながっていたのではないか。

それこそ「徴兵は命かけても阻むべし 母・祖母・おみな 牢に満つるとも」という裂帛の気合だ。



日清戦争(中国側では甲午戦争、または第一次中日戦争と呼ばれる)

ウィキペディアを根っこに、各種資料から補強。

1894年(明治27年)

3月29日 東学党、朝鮮全羅道で蜂起。その後農民の反乱と合体し朝鮮半島南部に拡大。甲午農民戦争と呼ばれる。

5月31日 朝鮮政府、東学党反乱を抑えきれず、清への援兵を決議。

5月31日 硬六派が伊藤内閣に対し弾劾上奏決議案を提出。衆院で可決される。

94年6月

6月01日 東学党軍が全羅道の中心地前州を占領。

6月1日 杉村大使、「袁世凱いわく朝鮮政府は清の援兵を請いたり」と打電

6月02日 伊藤内閣が閣議を開催。衆議院を解散。さらに、陸奥外相が日本軍の派遣を提起。これを受けた閣議は、清が朝鮮に出兵すれば公使館・居留民保護のため出兵すると閣議決定。

6月4日 清の北洋通商大臣李鴻章、朝鮮政府の要請を受け出兵を指令。

6月5日 参謀本部内に大本営を設置(形式上戦時に移行)。広島の第五師団を元にして8,000人規模の混成部隊が編制される。

6月6日 天津条約にもとづき、清が日本に朝鮮出兵を通告

6月7日 日本も同条約にもとづき、清に朝鮮出兵を通告。1個大隊800人が宇品港を出て朝鮮半島に向かう。

6月8日 駐韓公使袁世凱の兵1500人(2100人説あり)がソウル南方60キロの忠清道牙山湾に上陸

6月09日 清国は日本軍出兵に警告を発す。

6月10日 朝鮮政府、甲午戦争指導者の全琫準との間に「全州和約」を結ぶ。

農民軍は,両国に武力介入の口実を与えないよう,悪質官吏の処罰や身分の平等などを要求する弊政改革案を条件として全州和約を結び,政府軍と休戦した(世界大百科事典)
しかし成立したという「一次資料」の根拠はなく、そういう動きがあったと推定されるにとどまる(Wikipdia)と、向こうもなかなかしぶとい。ただ、改革案が紙で残っており、全琫準の証言も残っており、和平に向けた具体的な動きも確認されているのだから、紙がないことをもってこれらを否定するのは、「真っ黒でなければ白」という論理に至る。学問的にはリアルとはいえない。

6月11日 朝鮮政府軍が全州に入り、権力を掌握。東学党軍はこれに抵抗せず。

6月12日 駐韓公使大鳥圭介の率いる陸戦隊400人が仁川に上陸。

6月14日 朝鮮公使、陸奥外相に日本軍の撤退を要求。

6月16日 陸奥外相、清国公使と会談。東学党反乱の共同討伐を提案。清国はこの提案を拒否。

6月22日 日清国交の急迫にともない御前会議が開かれる。

94年7月

7月03日 大鳥公使、御前会議の決定を受け朝鮮政府に内政改革を要求。

7月03日 衆議院、内閣弾劾上奏案を可決する。

7月09日 イギリスが日清調停案を提出。清はこれを拒絶する

7月10日 駐露公使西徳二郎より、これ以上ロシアが干渉しない、との情報が外務省にとどく。

7月11日 伊藤内閣、清との国交断絶を表明する「第二次絶交書」を閣議決定

7月16日 日英通商航海条約が調印される。領事裁判権などの不平等条項の撤廃を達成する。

7月16日 清、軍機処などの合同会議を開き、開戦自重を唱える。

7月20日 駐朝公使大鳥圭介、朝鮮政府に対して最後通牒。

7月23日 大鳥の手勢が朝鮮王宮に乱入。国王高宗を手中にする。閔氏を放逐し反閔派の興宣大院君(高宗の父)を国政総裁にすえる。

7月25日 大院君、清との宗藩関係の解消を宣言する。大鳥に牙山の清軍掃討を依頼。龍山に集結した日本軍の混成第9旅団が牙山に向かう。

7月25日 豊島沖海戦(高陞号事件)。仁川南西方の豊島沖で日本海軍が清国艦隊を砲撃。済遠を撃沈し、広乙を座礁させる。さらに英国汽船「高陞号」を臨検し、敵性船舶として撃沈。高陞号は清国陸兵千百人、大砲十四門を積み牙山に向かっていたが、ほとんどが見殺しにされる。

7月29日 日本軍混成第9旅団が清軍と交戦し撃破する。このとき「成歓の戦い」でラッパ手木口小平が戦死したとされる。

94年8月

8月01日 日清両国、互いに宣戦布告。イギリス、ロシアは両国に対して中立を宣言

8月05日 大本営、参謀本部内から宮中に移動

8月20日 広島・宇治間の山陽鉄道が竣工開通する。宇品港が出撃基地となる。

8月26日 日韓攻守同盟条約が調印される。

94年9月

9月01日 第4回総選挙が行われる。

9月01日 第1軍(広島の第五師団を中核とする。司令官は山県有朋)が、清の拠点となっていた平壌へ向け、攻勢を開始する。平壌の清軍は牙山から撤退した葉志超軍と満州から南下した左宝貴軍の混成。

9月06日 日本軍迎撃にでた清軍、平壌への立てこもり作戦に変更。

9月13日 大本営、戦争指導のために広島移転。明治天皇が広島に入り、軍機・軍事予算の親裁を行う。

9月15日 平壌包囲戦の開始。日本軍1万7千人、清軍1万2千人の対決となる。

9月16日 葉志超は撤退を決断。清軍が夜間に平壌を脱出。日本軍が無血占領する。左宝貴は手勢をもって抵抗するが戦死。

9月17日 黄海海戦。日本艦隊が清の北洋艦隊に勝利。5艦を撃沈した日本が制海権をほぼ掌握。

9月19日 李鴻章、持久戦(西洋列強の介入を期待)を上奏

94年10月

10月15日 大鳥に代わり、井上馨が特命全権公使に就任。大院君に対し強圧策で臨む。「征清の軍は次々と戦勝して進攻しているが、朝鮮は改革の実が挙がっていない」との明治天皇の意を受けての人事。

10月24日 山県有朋を司令官とする第一軍(第3,第5師団)、鴨緑江渡河を渡り清国軍を追撃。

10月 大山巌を司令官とする第二軍(第1,第2師団)が編成される。遼東半島攻略に向かう。

10月 東学党と農民軍、「除去暴力救民、逐滅倭夷」を唱え、忠清道公州など各地でふたたび蜂起。日本軍および政府軍の前に鎮圧される。

蜂起は「倭寇が王宮を犯した」との報(おそらくは大院君筋)を得て準備された。工作が本格化したのは8月下旬頃であり、兵糧確保のため10月の収穫時期を待って蜂起に至ったという。

94年11月

11月06日 日本軍第二軍が大連を攻略。

11月21日 第二軍、聯合艦隊の支援を得て旅順口を占領。その後、旅順虐殺事件が発生

有賀長雄(第二軍付国際法顧問)の報告: 市街に在りし死体の総数は無慮二千にして其の中の五百は非戦闘者なり。湾を渉りて西に逃れんとしたる者は陸より射撃せられたり、是れ水中にも多く死体を存せし所以なり

11月22日 虐殺行為がさらに拡大。「実ニ惨亦惨、旅順港内恰(あたか)モ血河ノ感」となる。

従軍兵士の手紙: 敗兵及負傷者毎戸二三人つつ在らさるなし、皆な刀を以て首を切り、或は銃剣を以て突き殺したり、予等の踏所の土地は皆赤くなりて流るる河は血にあらざるなし。

山地第一師団長の側近は、「此ノ如キ非人道ヲ敢テ行フ国民ハ、婦女老幼ヲ除ク外全部剪徐セヨ」との命が発せられたと記録している。

11月22日 清国政府、アメリカ公使を経て講和の議を提唱する

94年12月

12月17日 アメリカの各新聞に、政府の弁明書が掲載される。ウィキペディアによれば大略以下のごとし。(南京虐殺が容易に想起される)

  1. 清兵は軍服を脱ぎ捨て逃亡
  2. 旅順において殺害された者は、大部分上記の軍服を脱いだ兵士であった
  3. 住民は交戦前に逃亡していた。
  4. 逃亡しなかった者は、清から交戦するよう命令されていた。
  5. 日本軍兵士は捕虜となった後、残虐な仕打ちを受け、それを見知った者が激高した。
  6. 日本側は軍紀を守っていた。
  7. クリールマン以外の外国人記者達は、彼の報道内容に驚いている。
  8. 旅順が陥落した際捕らえた清兵の捕虜355名は丁重に扱われ、二三日のうちに東京へ連れてこられることになっている。

1895年(明治28年)

95年1月

1月08日 衆議院において戦時の挙国一致を議決する。

1月20日 第一軍が山東半島へ上陸。威海衛への攻撃を開始する。

95年2月

2月01日 広島で清との第一次講和会議が開かれる。日本は委任状の不備を理由に交渉を拒絶する。

2月02日 連合艦隊、北洋艦隊の威海衛基地への総攻撃を開始。

2月05日 旅順虐殺事件による影響が心配されていた日米新条約が、米国上院にて批准される。

2月12日 清の北洋艦隊が日本軍に降伏。提督丁汝昌は服毒自殺。

2月17日 連合艦隊が威海衛に入港。陸海軍共同の山東作戦完了。日本が制海権を完全に掌握

95年3月

3月上旬 第一軍、遼河平原作戦完了。日本が遼東半島全域を占領

3月16日 直隷決戦に備え、参謀総長小松宮彰仁親王陸軍大将が征清大総督に任じられる。

3月19日 清国側講和全権代表の李鴻章が門司に到着。

3月20日 下関の料亭「春帆楼」で講和会議が始まる。日本側代表は伊藤博文。

3月23日 日本軍、澎湖諸島を攻撃、占領する。

3月24日 李鴻章交渉の帰途、暴漢に狙撃され顔面を負傷する。日本はこのあと条件を緩和して、講和を急ぐ。

3月30日 日清休戦条約の調印。日本側、李鴻章の負傷を受け講和条件を引き下げ、早期の妥協を図る。

95年4月

4月17日 日清講和条約の調印。1.朝鮮の独立、2.遼東半島、台湾、澎湖諸島の割譲、3.賠償金2億両の支払い、列国と同等の通商特権付与などを承認。

4月23日 ロシア・フランス・ドイツが三国干渉。日本に対し清への遼東半島返還を「勧告」する。

4月29日 広島の大本営において御前会議。三国干渉の受け入れを決定。

4月 東学党指導者の全琫準、密告により捕らえられ、処刑される。

95年5月

5月04日 伊藤内閣、遼東半島返還を閣議決定。三国に遼東半島返還を伝える。

5月25日 台湾で反乱が発生。台湾民主国の成立を宣言する。

5月29日 日本軍、割譲された台湾北部に上陸を開始

5月30日 明治天皇、広島から東京に還幸

95年6月

6月07日 日本軍が台北を占領。

7月06日 朝鮮の閔妃(明成王后)、大院君政権を倒し、ロシア公使支援のもとに親露派政権を建てる。

8月06日 台湾総督府条例が公布される。台湾で軍政をしく。

10月08日 朝鮮で乙未事変発生。日本公使三浦梧郎(梧楼)が王宮を襲撃して閔妃を殺害。大院君を擁立する。以後、武断路線への転換が推し進められる。

10月21日 日本軍、台南、安平を占領、台湾民主国滅ぶ。

10月21日 興中会の孫文、広州蜂起に失敗。広州より香港に脱出。その後横浜で興中会を組織。

11月8日 清と遼東還付条約を締結

11月18日 台湾総督、大本営に全島平定を報告

95年 清国賠償金を原資として、八幡製鉄所を建設するため製鉄事業調査会が設置される。

1896年(明治29年)

2月09日 朝鮮政府内の親露派が朝鮮皇帝の高宗を確保し、ロシア公使館に移す(露館播遷)。

2月11日 親露派のクーデターが成功。王室内の親日派が全滅し、日本は政治的に大きく後退。

3月 造船奨励法、航海奨励法公布。各種増税法公布。

3月31日 台湾総督府条例公布により、軍政から再び民政に移行

4月1日 大本営の解散

4月20日 日本勧業銀行法・農工銀行法など公布

5月01日 小村外相がソウルでロシア公使と第一次日ロ議定書を交換。日ロ両軍が“居留民保護のため”ソウル、釜山、元山に閉院を配置することで合意。

6月03日 李鴻章、ロシアと対日共同防衛の密約を結ぶ。ロシアは東清鉄道の敷設権を獲得。

6月09日 ニコライ二世の戴冠式に出席した山県特派大使、露外相ロバノフと朝鮮問題第二次議定書に調印。朝鮮への対等な権益、朝鮮警察・軍への不干渉で合意。

7月21日 日清通商航海条約(不平等条約)締結。

7月 李氏朝鮮でも英米露仏などに鉱山採掘権、鉄道敷設権などが供与される。

10月12日 李氏朝鮮、高宗、ロシア公使館から王宮に帰り、皇帝として即位(大韓)。ロシアの要求により、イギリス人海関税務司を解任し、ロシア人アレクセーエフを登用。

11.14  ドイツ軍艦、膠州湾を占領

12月15日 ロシア軍艦、旅順入港

三谷さんの話はきわめて説得力豊かで、示唆に富むものだ。
おそらく保守派の人々を暗黙の聴衆として設定しているのだろう。「敗者の論理」と「勝者の論理」との組み合わせで戦後日本を描き分ける視点は秀逸だと思う。

「非戦能力」とか「戦後築き上げたものに対する誇り」とかいろいろな言葉で語られているが、私は憲法前文の「国際社会において名誉ある地位を占めたいと思う」という一節に集約されるのではないかと思う。
正確に書いておくと下記の通りだ。
われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。
そう思い、努力し、いささかながらではあるが、その地位を獲得した。
その過程で強化されたのが「非戦能力」ということになる。
その事実をリアルに見よ。というのが論者の主題だと思われる。
それは改憲論者たちの「世界をリアルに見よ。世界は恐怖にあふれている」というリアリズムと、対極にあるリアリズムである。

赤旗の論壇時評に注目すべき言葉があった。

三谷太一郎(東大名誉教授)の「非戦能力」という言葉である。

これは、以前とりあげた北大の遠藤乾先生の

我々世代は、平和の歩みに誇りを持つべきだ」という表現とも似ている。

この「力」が実体としてどのようなもので、どの程度のものか、少し検討する必要があるだろう。

朝日新聞は全文を読ませてくれないので、転載したブログを探す。ujikenorio さんが全文を載せてくれている。ありがとうございます。

下記に要約を紹介する

同盟の歴史に学ぶ 東大名誉教授・三谷太一郎さん

2014年6月10日

1.歴史の文脈の中で集団的自衛権を考える

日本人の戦争観は敗戦直後とは大きく変化した。憲法9条の前提となっていた日本人の戦争観が変わった。

敗戦直後、「戦争の性質は根本的に変更された。いまや戦争は一般に違法なものとされ、しかも犯罪とされるに至った」という主張が一般的だった。戦争を放棄した9条は素直に受け入れられた。

『敗者の戦争観』はこういうものだった。

それがいま、『勝者の戦争観』に近づいてきた。与野党を問わず、戦争観が大きく変わった。それは武力の行使を政策手段としてみるということだ。

2.「日米同盟」観について

国民の「同盟」観も様変わりした。

1979年に大平首相が『日米同盟』という言葉を初めて公式に明言した。それまでは、安保を『同盟』と呼ぶことにはためらいがあった。

なぜなら1960年の安保改定反対運動があったからだ。それは安保を軍事同盟にしてはならないという主張だった。

運動は、その後の日本政治に大きな影響を与えた。

3.集団的自衛権は同盟の論理

過去に日本は二つの同盟を経験した。日英同盟と日独伊三国同盟である。

二つの軍事同盟に共通する要件: 共通の仮想敵国の存在と、互いの勢力圏の承認である。第三国が参戦した場合の参戦義務も規定されている。

日英同盟の場合、共通の仮想敵国はロシアだった。勢力圏は、英国が清国、日本は朝鮮だった。

日英同盟のもとで、日本は、第1次世界大戦でドイツに対して参戦した。日英同盟は防衛同盟よりも攻守同盟の性格が強くなった。

日英同盟は、日本の中国に対する侵食を加速する役割を果たした。

4.三国同盟と米国

三国同盟を結成するとき最も深刻だったのは、米国を仮想敵国とみなすべきかどうかであった。

松岡洋右外相はこのままでは対米戦争は避けられないと考えた。そして三国同盟により日本が『毅然(きぜん)たる態度』をとることのみが、戦争を回避する可能性を持つと考えた。

結果は破局であった。

軍事同盟は仮想敵国を想定しないと成り立たないが、それは『現実の敵国』に転化するかもしれない、という非常に大きなリスクを負うことになる。これが三国同盟からの歴史の教訓だ。

5.抑止力はリスクを伴う

軍事同盟の論理は抑止力だが、抑止力はリスクを伴う。

中国を『仮想敵国』のようにみなし、それに対する抑止力として、集団的自衛権の行使を考えるならば、相当のリスクを伴う。抑止力を高めることが相手国との緊張を高める。

これは「安全保障のジレンマ」と呼ばれる。

6.安定的な国際秩序は未完の課題

冷戦後の世界は多極化した。米国が空白を埋めて、絶対的なリーダーになるかと思われたが、現実は予想に反した。覇権構造が解体してしまった。

安定的な国際秩序は未完の課題である。

ナショナリズムを超える理念が存在しないことが最大の障害である。国益に固執した短絡的なリアリズムが世界を支配している。

外交の基軸を『日米同盟』の強化に求めるのは冷戦体制の延長である。それは多極化した国際政治の現実に適合したものとはいえない。

7.国際政治体制のありかたを示唆するワシントン体制

参考になるのは、第1次世界大戦後の多極化した国際政治である。

それは英国の覇権が解体し、米国主導の国際政治秩序がまだ確立しない過渡期であった。

そのなかで多国間条約のネットワークを基本枠組みとするワシントン体制という国際政治体制ができあった。

その特徴は、多国間協調、軍縮、経済的・金融的な提携という関係だった。この歴史的経験から学ぶべきだ。

これを崩壊させたのは当時の日本だった。

8.日本の安全保障は非戦能力を増強すること

はっきり言うと、戦争によって国益は守られない。

戦争に訴えること自体が、国益を甚だしく害することになる。

日本の安全保障環境は、戦争能力の増強ではなく、非戦能力を増強することによってしか改善しないであろう。

非戦能力とは国際社会における独自の非戦の立場とその信用力だ。これが日本が最も依拠すべきものだ。

日本の非戦能力は決して幻想ではない。それは戦後68年にわたって敗戦の経験から学んだ日本国民が営々と築いてきた現実だ。この現実を無視することは、リアリズムに反する。

9.理想に従うこと

必ずこれで日本の安全保障が確立するという選択肢はない。うまくいくかいかないかは少しの差しかない。

そういうとき、理想に従うことが人間としてあるべき姿ではないでしょうか。国家本位ではなく、人間本位の考え方とは、そういうものではありませんか

経済学101 というサイトに

失敗してるピケティ批判 by ポール・クルーグマン

という文章が掲載された(June 6, 2014)

一見読みやすそうで、くだけた文章がかえって分かりにくいが、要約紹介する。

『フィナンシャル・タイムズ』の経済編集者クリス・ジルスがトマ・ピケティを批判した。その批判についてのクルーグマンの論評だ。

1.富の分布に関する2種類のデータ

所得と富の分布に関するデータは2種類ある:いくら稼いでどれくらい財産があるのかを人々に尋ねた聞き取り調査と,税金のデータだ.

ピケティ氏は,主に税金データで研究してる.
ジルスは聞き取り調査のデータを持ちだして、ピケティの論拠を批判する。そして富が少数に集中する明瞭な傾向はないと主張してる.

2.格差否定論の特徴

この否定論は、首尾一貫せず、とにかくいろんな論証を投げつける.

*「格差は開いていない」

*「格差は開いてるけど社会的な流動性で相殺されている」

*「貧困層への援助が大きくなったことで格差拡大は帳消しになってる」

*「ともあれ,格差はいいことだ」

証拠を目の前にしても,どれも放棄されず、繰り返し復活する。

【バックストーリー】ここではクルーグマンのコラムが書かれた背景をショーン・トレイナー記者が説明する

データの擁護 by ショーン・トレイナー

トマ・ピケティの『21世紀の資本論』英語版は驚異の売れ行きを見せている.

ピケティ氏が同書で主張しているのは,

1.資本主義には,格差を自然と生じさせる傾向がある.

2.これは資本の利益率は全体的な経済成長率よりもずっと高いからだ。

3.戦後に広く経済の繁栄が分かち合われたのは歴史上の異例である。

4.これは戦争で巨額の富が消し去られたためにもたらされた異例である。

5.その後は政治構造によって格差が抑制されてきた。

ピケティに対してクリス・ジルスが、ピケティ氏のデータを批判することでピケティを批判した。

1.ピケティが示した数字は,…「根拠薄弱なでっちあげ」だ。

2.ピケティは遺産税データを使っていて、調査データを使っていない。

3.調査データが示す格差は、それほど目立たつものではない。

ピケティは直ちに反論した。

1.調査データは、すべてオンラインで利用可能な「補論」で説明済みである。

2.データを比較するために行った調整については、この補論で詳しく解説してある.


本日の赤旗から
七飯町核兵器をなくす会は、町内のスーパー前で中宮安一町長を先頭に町内会や老人クラブの役員、ななえ9条の会の会代表ら20人が参加し、アピール署名行動に取り組みました。
町長らが「核兵器をなくす署名にご協力ください」と呼びかけると、107人が次々と署名に応じました。
同町では町長をはじめ連町会長、社協会長、老人クラブ連合会長、9条の会共同代表の5人が代表世話人になり、「七飯町核兵器をなくす会」を結成。町民の過半数署名を目指しています。

ということだ。
七飯町は函館郊外の農村地帯。労働者の街でもないし、決して革新的な街でもないが、こうやって草の根運動を展開することは可能なのだと納得させる実例だろう。

七飯町は駒ヶ岳と大沼を中心とする大沼国定公園を擁する町で、函館のベッドタウンでもある。人口2万8千人。

1988年に「核兵器をなくする平和宣言の町」を宣言している。

それ以来、平和教育等に取り組んできている。

毎年8月には町内中学生6名を広島市へ派遣している。次代を担う子供たちに「核兵器の廃絶と世界 の恒久平和を祈念し、また、原爆資料館等での研修を通じて、平和の尊さ、大切さを体験してもらう」のが狙いである。

2011年10月にはさらに進めて「七飯町核兵器なくす会」が結成されました。これは中宮安一町長はじめ、5人のよびかけによるものです。

中宮町長の発言要旨: 

日本は世界で唯一の被爆国です。しかし日本政府はきわめて静かです。私はそれをストレスに感じていました。

原子爆弾を落とした当事国アメリカの大統領が核兵器の廃絶をよびかけているときに何もしなくていいのか、何とかならないのかと考えていました。

そのとき(原水協の訪問団に)ご訪問いただき、署名にとりくむことを決意しました。

署名のとりくみはとてもすばらしいことだと思います。この七飯町で人口の半分、1万5千をやるとなると、なかなかの大仕事だ。目標達成のためには私自身が先頭を切ってとりくまないといけないと思いました。…今後、1万5千突破をめざしてがんばっていきたいと思います。

原水協通信より抜粋。以下同じ

その後の署名集めの形態は驚くようなもの。

七飯町核兵器をなくす会は12月15日、七飯町社会福祉協議会が主催する恒例の第6回赤い羽根チャリティカラオケ歌合戦で初めて署名を訴えました。中学生 も含めて168人から署名が寄せられました。

七飯原水協代表理事の舟見洋三さんは、「ビラを200枚ほど持って行きましたが、あっという間になくなり 300枚必要だったと思います。署名はテーブルに4カ所置きましたが、ピーク時には行列ができるほど。幹事の人は署名で行列ができるのを見るのは初めてだ と驚いていました」と話します。

この町のえらいのは、勉強しながら、署名の意味、署名運動の意義を押さえながらやっていることで、しかも町長が率先して勉強していることだ。

核兵器NO! あなたの署名が世界を変える 2012年 核兵器のない世界へ扉を開こう
をテーマに学習講演会が、1月20日七飯町文化センターで行われ私も参加してきました。

主催は七飯町核兵器をなくす会です。

講師は原水爆禁止日本協議会(原水協)事務局次長で国際部長の土田弥生氏。

学習講演会には、地元七飯町の中宮安一町長はじめ、社会福祉協議会会長、町内会長、老人クラブ会長などが参加していました。

本間かつみさん(函館市議)のブログ

下の写真は12年4月の街頭宣伝と署名活動。北海道新聞の報道だ。ikarruseijin さん

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町長の署名活動はなくす会の結成前から行われている。署名活動には奥さんも参加し一緒に訴えたそうだ。これは本物だ。

中宮町長は函館高専を昭和50年に卒業、その後のほぼすべてのキャリアを七飯町役場で過ごしている。元町職労委員長。建設課長を経て、平成18年に民主・連合の支持を得て町長初当選。今年の4月から第3期目に入っている。

3回の選挙はみな大接戦だった。

初当選の時は反対派から「あいさつ一つ取っても中身がないし、途中で話が途切れたりしてひどい」「政策はないし、施策を全然話せないのでないか」「政策は後でなどと真顔でやっている」など糞味噌にやられたようだ。

2期目は同じ町役場の会計課長と対決し、264票差で勝利している。3期目は企画財政課長と対決しさらに薄氷を踏む勝利。

いずれにしても、反核運動は選挙に有利に働くとは思えない。中宮さんの信念だろうと思う。


安倍首相の動向を見ると、2つのことが気になる。

1.潰瘍性大腸炎の患者の生活態度ではない

一つは潰瘍性大腸炎を長年患った人の食事内容とはかけ離れているからだ。首相になってからの連日の高級料理はつとに有名だが、これらの食事のほとんどは潰瘍性大腸炎には禁忌とされているものだ。

特効薬が出たから大丈夫と本人は曰わっているが、私が主治医なら「バカヤロウ!」と怒鳴るだろう。アサコールは特効薬ではなく誰にでも効くわけでもない。あくまで寛解導入薬の選択肢、平たく言えばサラゾピリンの腸溶錠だ。

「完治した」と言っているようだが、もし本気でそう思っているなら、そう思わせた主治医の顔が見てみたい。

食生活が寛解維持のためには一番大事なポイントだ。ましてアルコールはタブーだ。

わたしは潰瘍性大腸炎は、偽とは言わないが「とってつけた病名」ではないかと疑っている。

ネットに以下の記事がある。野に下り一議員として生活していた頃の逸話だ。

安倍晋三、なじみの韓国家庭料理店で山盛りキムチをほおばる

安倍さん、食に関しては嫌韓ではないようだ。

安倍さんと待ち合わせたのは、東京都渋谷区の炭火焼肉店。松本人志や宮沢りえ、劇作家の野田秀樹らが通う隠れた名店だ。

「僕は特に内蔵系が好きでね。…自宅にも近いから」

安倍さんは早速「お姉さん、ビール!」と注文。「お酒は大丈夫なのか」と驚く水内を横目に、手はサッとメニューに伸びる。

 「まず特選ネギタンを2人前。ハラミ3人前。カルビは3人前。あとホルモンだよね。特上ホルモン2人前。ミノも2人前。ハツもいっちゃうか。丸腸もね。サンチュ2人前。野菜サラダをどれくらい頼みましょうかね。トマトも2つ欲しい。キムチの盛り合わせはたくさんがいいな

「僕はグルメじゃないが、アラカルトが好き。居酒屋形式だよね。昔はコース型の宴席に出る機会も多かったが、今はほとんどなくなった。コースがあふれる料亭政治も、僕らの一世代前が最後じゃないかな」

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なお、「やはり安倍は在日だった!」(我愛日本)というコメントが、今となっては愛らしい。

2.安倍首相の臨床経過はうつ病と合致する

2007年11月1日の朝日新聞朝刊の寄稿欄に、精神科医の和田秀樹氏による

「中高年のうつ病 もはや隠す必要ない病だ」

という記事が掲載されたのだ。見出しから安倍氏との関係を読み取るのは困難だが、ここで指す「中高年」とは、安倍氏のことだ。寄稿によると、

安倍氏について報道された報道をアメリカ精神医学会による診断基準をあてはめると、安倍氏はうつ病にあてあまる

と断じている。その根拠は、以下のようなものなのだという。

興味や喜びの減退、疲労感、体重減少、不眠、気力や判断力の低下、精神運動性の制止(頭の働きが悪くなることで、私はこれが原 因で代表質問直前に辞意を表明したと考えている)など、これが2週間続けばうつ病と診断される同学会の9つの基準のうち6、7個は満たしているからだ

この基準を読むと、少なくとも「うつ状態」にあったのは間違いないようだ。

次は阿修羅から

立花隆の「メディア ソシオ-ポリティクス」
第116回 
政界を大混乱に巻き込んだ安倍首相電撃辞任の真相
2007年9月13日

結局、本当の理由は、身近の自民党首脳(麻生太郎幹事長)にもらしたという

「私は人心を掌握しきれない」
「政治的エネルギーもなくなってしまった」
の二つの言葉につきると思う。

政治家がこのようなセリフを吐くときは、普通の人でいえばほとんどウツ病状態といってよいほど、神経がブレイク・ダウンした状態(ナーバス ブレイク・ダウン)といってよいだろう。

特に最近のTVインタビューや国会の演説等において、安倍首相のしゃべる言葉の調子に妙な違和感を持っていた。舌の滑り具合が前ほどなめらかでなくなって おり、言葉に詰まって話が途切れるようなことがあったし、くちびるをピクピクうごかしているのに、声がでてこない一時的な失語症状態もあった。

とりあえずネットで見つかったのはこんなところ。

辞任の時はかなりのうつ状態であったことは間違いないようだ。しかしうつ病は自然寛解する。当時とは見違えるように朗らかになって、活気を取り戻すこともあると思う。

もしうつを最初の兆候とする双極性障害であったとすれば、多少行き過ぎた快活さが出現するかもしれない。

しかし、普通は、さすがにもう総理大臣など懲り懲りだと思うだろう。通常感じる不安感とか躊躇というものが完全に欠如している。それだけで、これは正常な精神反応ではないと感じる。

躁状態への移行なのか、SSRIによる賦活症候群なのか、見分けはつきにくい。薬を止めてみれば、そのへんはすっきりするのだろうか、誰が猫の首に鈴をつけるかが問題だ。

セロトニン受容体が賦活されるとどうなるのか


1.SSRIの薬理作用

ウィキペディアから

Selective Serotonin Reuptake Inhibitors、SSRI

というきわめて七面倒くさい名前が付いているが、要はセロトニン賦活薬である。

うつ病は神経伝達物質セロトニンが不足する病気だという考えから、じゃあ増やしましょうという発想である。

セロトニンが不足する原因は二つ考えられる。一つは一次ニューロンでのセロトニン産生の低下、もうひとつは二次ニューロンの受容体の感受性低下だ。

どちらにしても、セロトニンを全身投与してもどうにもならない。神経末端で効いてもらわなければならない。

そこで注目したのが一次ニューロンの末端にあるセロトニン・トランスポーターという装置だ。

220px-SSRIの作用

上は神経末端の模式図で、赤丸のセロトニンが遊出し、接続するニューロンの受容体に結合する過程を示している。

セロトニンは無制限に作られるわけではなく、生産スピードにも限りがあるから、再利用したい、そこで神経末端には回収装置が付いている。これが「セロトニン・トランスポーター」と名付けられている。(あまりいい命名ではない。リサイクラーとでもしてくれれば分かりやすいのだが)

本来はそういうことだが、うつ病ではそれが悪い方向に左右してしまう。分泌したセロトニンがレセプターと結合する前にそれを吸い取ってしまうのである。

だからこのリサイクル装置を一時停止すれば、シナプス間隙のセロトニン濃度を上げてやることができるだろうということだ。

そこでSSRIが登場する。彼はリサイクル工場の入り口のところに行って、そこを閉鎖してしまう。

ただ、言っては何だが、この手の絵はたいてい薬屋さんが描いていて、医者向けの宣伝に利用するので、本当にそうなのか?、それだけなのか?は疑っておいたほうが良い。

 

セロトニン受容体が賦活されるとどうなるのか

ということで、つまりは二次ニューロンのセロトニン受容体が賦活されるとどうなるのか、ということになる。

これは副作用とかいう以前の問題だ。またホルモン物質としてのセロトニンが増多するセロトニン症候群とも違う。

ところが、ここに的を絞った文章があまり見当たらないのだ。

仕方ないので副作用のページをめくりながら、それらしき記載を探していくことにする。

1.躁病の出現

SSRI服用中に躁状態になる人は実際にいる。理由については、薬が誘発したのだという説と元々躁うつ病だったから、自然経過で躁状態に移行したのだという説がある。

これは薬を止めてみれば分かる話なので、たいていは薬をやめても躁状態が続くようだ。

実際にはうつ病でない人にSSRIが投与されている場合がある。背景が多彩であれば症状も多彩となるだろう。

2.賦活症候群

副作用というより、これが薬理作用の本態かもしれない。

SSRIの投与初期や増量期に起こりやすく、セロトニンが一時的に急激に活性化され、刺激を受けることで起こると言われている。

ウィキペディアによれば、これは基本的には中枢神経刺激症状であり、不安焦燥感、衝動性、不眠、ムズムズ脚、敵意、衝動性、易刺激性、パニック発作、軽躁、躁状態を主徴とする。

悪化すると自傷、自殺企図に至ることがある。

これはセロトニンによる精神的薬理効果を、ネガティブな側面から評価すればそうなるということであろう。

しかし仲人口と同じで、ものはいいようだ。反応が素早く、頭の回転が早く、感受性が鋭く、決断力と行動力にとみ、いささかの逡巡もない。会議でも居眠りせず、問題があればゆるがせにせず、戦闘的で、しかも、朗らかだということになる。言うことなしだ。

「一般に賦活は副作用として見られているが、効果が過剰に出過ぎたという観点からもとらえられる」(青山メンタルクリニックのHP

最近、プラシーボを用いた「ランダム化比較」の臨床試験が行われるようになり、原病の徴候か、薬の投与によるものかの鑑別ができるようになった。

18歳以下の若年者では、SSRIによる自殺念慮、自殺企図、凶暴化が確認されている。18~24歳でも同様の傾向が確認された。

(ただしクスリ=悪者論を展開する論者には、とくに小児科領域では、しばしば極論を主張する傾向がある。我々もしばしば振り回された記憶がある)

これを受け米国FDAは18歳未満への使用を警告したが、それ以降に若年者の自殺死者数が増加している。


賦活症候群をめぐる社会問題

うつ病の薬を販売するために製薬会社のキャンペーンが行われ、SSRIの導入後、6年間でうつ病の患者が2倍に増えている。

日本においては、服用後に突然他人に暴力を振るうなど攻撃性を増したり激高するなどの症例が42件報告されている(2008年現在)

うつ病も賦活症候群も、社会的に見れば「困った人たち」だが、SSRIで賦活症候群となったうつ病の人は、「困ったX困った人たち」ということになる。

境界性人格など人格障害傾向を合併する一群で賦活が起き易いという報告もある。

賦活された状態になると衝動性のコントロールが不良となり、対人関係や社会生活上の様々な問題が生じて、病状も不安定になるため、あたかも人格障害のよう な行動異常が目立つようになる。

これは元来の性格傾向が賦活効果で修飾され、性格特徴の一部が強調されているのではないかと考えられる。(青山メンタルクリニックのHP

1999年のコロンバイン高校銃乱射事件では、犯行少年2人が大量のSSRIを服用していた。

(統合失調の初期像はうつ病と紛らわしい。統合失調の患者が経過中にうつを併発することもある。こういうケースにSSRIを投与するとどうなるか)


さて安倍晋三氏はいかがであろうか


まずはうつ病の本態。

病態生理学的には、意欲や気分を調整する「セロトニン」や「ノルアドレナリン」といった神経伝達物質が十分に機能しなくなると、感情をうまくコントロールできなくなった状態。 

ただしセロトニンについては薬屋の誇大宣伝で過大評価されている可能性有り。医者が作った病気という側面もある。

病理学的変化。本態に関わる変化については不明。したがって病因も確定はできない。

遺伝子レベルでの病変にもとづく脳の海馬領域での神経損傷とする有力な仮説があるが、実証されたとはいえない。

ストレス→コルチゾール過剰分泌→海馬の神経損傷は俗説に近いと思う。

細胞レベル、組織レベルで病気の座が目視できることが必要だ。

したがって、その多くは抑うつ症候群、「いわゆるうつ病」と見ておいたほうが良い。むかし言っていたノイローゼとか神経衰弱は、現在は全てうつ病にふくまれる。双極性障害(ヤバいうつ病)は特殊な病態であり別途考える。

診断基準についてはドイツとアメリカで考えの差があり、混乱のもととなっている。私としてはできるだけドイツ風に一つの病気としてみていくほうが良いと思う。

病気そのものよりは、周辺症状による社会的不適応が問題となるために、重症度のほうが重要な意味を持つ。

特に重症度が意味を持つのは、軽症に対し薬を使うか使わないかの判断である。イギリスでは使うなと言われるが、実際少量投与で劇的効果をもたらすことはしばしば経験する(逆に少量でも激しい副作用が出ることがあり、要注意だ)

ついで抗うつ薬の種類

ヨーロッパではMAO阻害薬が頻用されるが日本では使われていないため省略。

最初に主流となったのは三環系抗うつ薬で、1957年発売という相当古い薬だが、現在もなお頻用されている。代表的なのがトフラニール(イミプラミン)とトリプタノール(アミトリプチリン)である。

次に登場したのがセロトニンとり込み阻害薬(SSRI)で、1983年にルボックスが発売された。ついで92年にはパキシルが発売になっている。現在主流となっているのはセルトラリンという薬である。マイルドなのが売りだが、セブンスターかマイルドセブンかという違いでタバコには違いない。

適応症にうつ病・うつ状態のほか、パニック障害、摂食障害、過食嘔吐、月経前不快気分障害、強迫性障害、社会不安障害、外傷後ストレス障害なども入っている。

セブンスターかマイルドセブンかという違いでタバコには違いない。

ほかにもSNRIとか四環系とかあるが、薬理学的にはさほどの差異はない。

厳密な抗うつ薬ではないが、ドグマチール(スルピリド)やリチウム(抗うつ薬との併用)も用いられることがある。

現在ではほとんどの患者がSSRIを投与されている(日本国内で100万人以上が使用しているとされる)と思うので、この作用機序について述べる。











組織という観点から見て、最大の教訓はトップが代案を出せないなら、現場が判断しろということである。そして現場が決断できないのなら大衆が自ら決断せよということである。

当面の目標は、現場から一刻も早く脱出することであった。だから運転指令は列車を再発進せよとの指示を出した。しかし列車は動かなかった。それではどうするか、ここで運転指令は思考停止に陥った。

そもそも列車を動かすということは、乗客をいち早く避難させるということである。その目標にそって考えるなら、列車が動かないなら、一刻も早く乗客を避難させる別の手段を考えなくてはならない。

問題は「火炎が上がっているかどうか」ではなく、状況がクリティカルか否かだ。そして列車がトンネル内で停止し、走行が不可能となり、煙の勢いが増しているという状況はそれだけで十分にクリティカルである。状況の判断にはそれ以上なんの情報も必要ない。必要なのはその先の支援情報である。

ところが、運輸指令は「煙の原因を特定し、それを運転指令に伝えよ、しかるのちにこちらで判断し指示を与える」という思考回路にはまってしまった。「情報を集める」ことが自己目的化し、目標が間違った方向にシフトしてしまったのである。

運輸指令の指示はつまるところ「待機せよ、現場を死守せよ」、ということになる。あえて厳しい言葉を使えば「玉砕」命令だ。

これを受けた運転士と車掌の行動は、持ち場を離れるという点においては類似しているが、目的は正反対だ。運転士は運輸指令の意を受け、出火場所の確認に行っている。指令した側もそれを受けた側も、事態の深刻さに比べ深刻感は薄いと言わざるをえない。だから結果的にそれは全く無意味な行動となった。
それに対し車掌は下車・避難の方向で行動している。これはあきらかに運輸指令の指示を無視した判断であり行動である。
偵察隊は出口まで到達し、「行ける」との判断を持ち帰った。下車しトンネル内を歩き始めた乗客は途中で偵察隊と出会ったはずだ。彼らにとって、出口から戻ってきた偵察隊との出会いはいかに心強かったことか(ただしこの対面シーンは記録には残されていない)
かたや60歳のベテラン車掌、かたや運転歴10ヶ月の新米運転士という差はあるが、それ以上に現場との距離が認識の差を生んでいたものと思う。

東北大震災の津波の時に、「てんでんばらばら」の教訓が大きく取り上げられた。最大のポイントは、「生きる」という目標を絶対にゆるがせにするなということだ。そのために最高のオプションが「てんでんばらばら」であるなら、躊躇なく採用せよということだ。
もう一つは、代案がないのなら現場の判断を尊重せよ、組織は支援(情報提供)に徹しろということだ。運輸指令は、結果的には、代案を打ち出せず、現場の判断を無視し、脱出にあたって有効な支援は何一つしなかったといえる。
ただ、そこまで言い切るほどこちらに情報はない。おそらく運輸指令も必死の思いで頑張ったのだろうが、そこのところを伝える情報は少ない。

ただ、その上級となると話は別である。一條昌幸鉄道事業本部長の記者会見をもう一度思い出してほしい。
車両から煙が出ることはあるが、すなわち火災ということではない。したがって煙が火災であることを確認しなければならない。しかし火災であることの確認手順が手間取った。もう少し早い判断ができれば、短時間で避難ができたと思う。…車掌も乗務員も最後まで火災という認識はなく、判断が狂ってきていた。
ここまでの論証の上に立ってこの発言を見ると、この人物がA級戦犯である可能性が高い。かたやマニュアルをタテに、他方では乗務員を悪者にすることで、乗客を見殺しにしようとしたことの逃げを図っている。これではJR北海道の不祥事は止まりそうにない。
このような記事があった。
札建工業(株)(札幌)は2012年5月31日開催の定時株主総会及び取締役会において、北海道旅客鉄道(株)の前専務取締役・一條昌幸氏の代表取締役社長就任を決めた。小林徳宏社長は相談役に就いた。
それでも「引責人事」なのだそうだ。一将成りて万骨枯る、大日本帝国バンザイだ。

補遺
今回はこれまであまり取り上げられなかった乗務員の行動を中心に書いているので、乗客の判断と行動についてはあまり触れていない。
乗客の判断は正しかった。唯一正確な状況判断をしたのが乗客であった。
インタビューの記録を読むと、乗客の中に相当数の役職者・エリートがいたことが分かる。この列車は「ビジネス特急」だった。子どもや年寄りは少なく、青壮年男性の比率が高かった。
組織を知り、組織を統率し、組織的判断の出来る人がいる集団は、たとえ即製集団であろうと、ものすごい力を発揮しうる。そのことがきわめて象徴的な形で示されたと思う。
彼らは恐怖、煙、混雑、暗黒、密閉空間が半ば人為的に創りだされ、情報が皆無となるなかで、自らの持つ想像力に頼りながら、もっとも適切な判断を行った。情報にあふれる運輸指令が「もっと情報を」と指示しながら、前頭葉の思考回路を遮断し判断停止に陥ったのとは対照的だ。



石勝線トンネル火災事件の実相

このニュースの大事なことは、事故の重大性やJR北海道のひどさを告発することにあるのではない。

これだけ重大な事故であったにもかかわらず、乗客・乗員が大した怪我もなく無事助かることが出来たのはなぜかということだ。

そこで決定的なことは、乗員がひどかったにもかかわらず乗客の機転で助かることが出来たというマスコミ報道が本当に正しいのかどうなのかということだ。

それは乗客のヒロイズムをくすぐる論調ではあるが、「ヒーローたち」が乗客全員を救ったという場面は実のところ根拠はない。結果としてはっきりしているのは、どこかで乗員も避難し乗客全員も避難しているという事実だ。

しかもそれがJRの作成した事故対応マニュアルとは異なっているということだ。それにもかかわらず、JRは乗員に「判断ミス」を押し付けようとしていることだ。

どうもTV報道の作った筋書きとは違う事実がありそうだ。

ネットで集められる情報を集め、もう一度時系列で整理してみた。もちろん全部を集めきったとはいえないが、最初持っていた印象とは全く異なる実相が浮かび上がってきた。

あたったおもな資料

最初に読んだのは、ということはグーグルで最初にヒットするのは、「日経 ものづくり」の「事故は語る JR北海道のトンネル内で脱線・火災事故、車輪の異常を放置したずさんな保守」(2013/10/25)という記事だ(ただし前半分しか読めない)。事故から2年半を経過してから書かれた記事であり、実相に近いものと受け止めた。

叙述は我々が持っていた印象とあまり変わらないものであり、いささか感情的なところも同じだ。

トンネル内列車火災事故発生時の人間行動 の情報源は、2日後の北海道新聞に掲載された記事を編集したものであり、正確度には欠けている可能性。

その後、石勝線 第1 ニニウトンネル火災の検証 という論文を閲覧できた。相対的にはこれが一番確実な情報のようだ。

★阿修羅♪ >石勝線事故 という投稿がもっとも内容が濃い。6月2日の投稿だけに一般報道の後追いだが、記事を丹念に拾ってくれており貴重。

1.脱線から停車に至る経過

その事故は2011年5月27日の夜9時55分に起きた。占冠村のJR石勝線「第1ニニウトンネル」内でディーゼル特急「スーパーおおぞら14号」が脱線・停止・炎上した。

ニニウは占冠村の字名。アイヌ語そのままだが、以前は新入という漢字があてられていた。「ニニウ物語」というページがあって、いかにもという沿革が語られている。

北大にどんぐり会という農村セツルメントがあって、穂別町の福山を拠点とするB班はたしかニニウまで出張っていたはずだ。

第1ニニウトンネルは全長683メートル。長大トンネルが多い石勝線のなかでは珍しく短いトンネル。それが「奇跡の生還」に寄与した。

この「スーパーおおぞら14号」は1998年製で、「振り子式」と呼ばれる特殊な台車を使用している。石勝線は山の中のトンネルとカーブの続く路線だが、札幌と道東をつなぐショートカットとして比較的最近に建設されたため、近代工法が駆使され、制限時速は125キロまで認められていた。

その夜、列車は札幌に向け時速約110キロ(直後報道では時速120キロ)で走っていた。

乗客定員291に対し乗客は248名で、乗車率83%。時間を考えるとかなりの混みようだ。金曜の夜と言うことで、車内はサラリーマンや札幌に遊びに行く若者の客が多かった。

6両編成の列車を、突き上げるような衝撃が襲った。直後に「ドン、ドン」と異音がしたため、異常を感じた車掌(60歳)が運転士に停車を要請した。緊急停車した列車の4,5両目からは間もなく煙が上がった。

…というのが新聞記事っぽい表現。

2.事故調査報告の概要

事故の経過は後の検証では以下のごとく確認されている。

まず列車の先頭から4両目で、車両下部の金属部品「吊りピン」が脱落した。これは車輪の回転力をエンジンから伝える「推進軸」の部品である。脱落した部品は未だに発見されていない(その後脱線箇所から800メートル手前で発見)。

推進軸といえば自動車のシャフトにあたる。人間の体なら大動脈だ。その「落下など今の時代ではあり得るはずがない。完全な整備ミス」という意見も寄せられている。

列車は脱落した推進軸を引きずりながら、そのまま1キロ余り走った。そして清風山信号場付近で5両目の後台車の第1軸が脱線した。ちぎれ落ちた推進軸に乗り上げたためである。「ドン、ドン」という異音は、この脱線の際に発生したものと考えられる。

5、6両目のディーゼルエンジンは下面に打痕や擦過痕が多数あり、燃料タンクの下面に穴が開いて中は空になっていた。 6両目の前方の1機だけが焼けており、ここが火元とみられる。

列車はさらに脱線したままトンネルに突入。850メートル走ったあとトンネル内で停止した。この時の先頭車両の位置はトンネル入口から200メートル。したがって出口までの距離は480メートルということになる。

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停止から火災発生まで: 

まず6両目(最後尾)から発煙が始まった。停車時点で既に、6両目の台車付近から火の手が上がっていたのを乗客が確認している。

車両の下で「バチバチと部品を引きずるような音がして、物に乗り上げるような感触があった。直後に窓の外で火柱が一瞬上がった」(公務員45)

(北海道新聞では発煙源は4,5両目となっている)

3.初期対応

以下の数行はどの時点での状況の記載なのか不明のまま、事実だけが生のまま突き出されている。

①動かなくなった列車

トンネル内でトラブルがあった場合はトンネル外まで移動するのが原則である。運転手(26 運転歴10ヶ月)は煙を認めて列車の前進を試みたが、「ギアの切り替えができず」、列車は動かなかった。

なぜ動かなくなったのかが分からない。ある論者は動かなくなるはずがないとして、暗に運転士のパニックを示唆している。

気動列車は各車両に二台づつエンジンがあり、独立性が高い。12機のエンジンのうち一つや二つやられてもそれで動かなくなるはずはないというのである。

これについての納得行く説明は、検索した範囲では見当たらなかった。

②エンジン停止と照明の切断

その時点で既に、後方の車両からの発煙が確認されていたことから、運転士は無線で指令部に連絡し、指示に従ってエンジンを停止した。このため客室内は真っ暗となった。

これは良く分からないが、本当に真っ暗になったのだろうか。非常電源で非常灯はつくのではないか。運転士は非常灯もふくめオフにしたのだろうか。

③「火災」ランプの問題

一部の報道は、翌日の聴取に答えた運転手の発言をことさらに取り上げる。

運転台のパネルに「火災」のランプが点灯していた。しかし運転士は火災と認識せず、運輸指令に報告もしていない。

この行動は、それだけ聞けば極めて深刻なミスと受け止められる。しかし別報によれば必ずしも決定的なミスとは言えない。

第一に、この装置は事故の直後は作動せず、22時20分ころから、表示灯が点滅したり、ブザーが鳴ったりしていたという。

第二に、装置が作動した22時20分の時点では、車掌が車外避難を前提にトンネル内の安全を確認していた。運転士はその報告を待つ状況だった。

これらの事実が時系列に乗らないまま報道されると、運転士にすべての責任がかぶさるような印象を与える。勘ぐればそれを狙ったリークかもしれない。

4.火災の発生と拡大

時系列に戻ろう。

22時ちょうど、4,5両目で白煙が立ち上がり、焦げ臭い匂いが漂う。車掌は運輸指令に「後方3両の床下から煙が入ってきている。4両目の煙がひどい」と事態を報告。

以下、石勝線事故には他の報道にふくまれていない重要な記述がある。現在は元データは見ることが出来ないが、サンスポの記事(31日)である。

火災発生を懸念した指令は〔1〕運転士にただちに運転を再開し列車をトンネル外に出す〔2〕車掌に乗客を前方の車両に誘導する-との指示をした。車掌は「運転士が発車できないと言っている」と報告した。

これに対し指令は「大至急車内放送をかけて前方の車両に誘導し、後方の車両に乗客がいないか確認」と指示した。

このとき、車掌は「前から降りてトンネルを(歩いて)避難したほうがいい」と返答した。

この発言が、交信記録に基づいた事実であるとすれば、運輸指令は二つのミスを犯していることになる。指令〔1〕が実行不可能であるにもかかわらず、それに替わる代替案を示していないこと。緊急時であるにもかかわらず、現場の意見を尊重し、それを支援するのではなく、それを事実上無視したことである。

「お前に任す。俺達がカバーする。幸運を祈る」と、どうして言えなかったのか?

ただしこの経緯は他の文献で確認できない。

22時10分、車掌は発煙があった車両の乗客に指示し、前方車両に避難させた。同時に乗客には外に出ないで、車内で待機するよう指示。

5.差し迫る危機

「日経 ものづくり」の記載: 事故発生から20分過ぎても、乗務員は状況確認や運輸指令との連絡が不十分なままに経過した。この間、「調べるのでこのままお待ちください」「車外には出ないでください」との放送を繰り返し、乗客の車外への避難を制止し続けた。

煙が車内に充満し始めたが、車外への避難を促すアナウンスは最後まで流されなかった。車掌も乗務員も火災という認識はなかった。

この記述は状況を一面的に切り取ったものと思う。それは下記の経過を見ればわかる。

22時10分、運転士は指令に「モニターが消え、状況が把握できない」と報告。指令は全エンジン停止を指示。車掌からは「かなりすごい煙で息ができない」との報告があった。

石勝線事故では、指令は「煙が入ってくるのでドアを開けるのを待つように」と指示したとある。ただしこの指令がいつどのような状況で出されたのかは不明。

22時14分、運転士が車外に出てトラブル箇所を確認に向かう。このため指令からの連絡に対し一時応答が途絶える。前後して、車掌もトンネル内点検のため車外に出る。

別の記事では、「車掌と乗務員はトンネルの出口がどこなのか確認のため車両から降りて行った。戻るまで20分もあった」と記載されている。

運転士の行動は軽率であると思う。責任者が自分で動いてはいけない。車掌の行動も二人の乗務員にやらせるべきものであった。

この時点における車掌の取るべき行動は乗客のパニックを抑え、掌握することであった。暗く息苦しい空間にすし詰めにされた乗客に「車掌が逃げた」と思われたら大変なことになる。

ただ、そのうえで、車掌の行動は明らかに指令を無視して、乗客を下車・避難させるための準備と考えられる。

異常時マニュアルでは、運輸指令の指示がないと乗客を外へ避難させることが出来なかったのである。ここはしっかり踏まえておく必要がある。

6.火災か火災でないかという対立ではない

「車掌も乗務員も火災という認識はなかった」と書かれているが、それは炎を視認するということが火災の基準になっているためで、現場には「避難するべきシビア・アクシデント」という認識はあったのだろうと思う。

22時25分、無線交信記録によれば、列車からの連絡が復活。運転手が戻ったためで、車掌はまだ戻っていない。

運転手は運輸指令に「火災発生はない」と報告。ただし石勝線事故では、「前も後ろも煙が充満している。火災は発生していない」となっている。「前も後ろも煙が充満している」というところを省いてはいけない。

問題は「火災でなければOK」という運輸指令のマニュアル主義にあった可能性がある。

7.そしてパニック行動が始まった

大量脱出は結果オーライで、英雄的行動ともてはやされるが、社会心理学的に見れば集団パニック行動と考えても全く矛盾はない。

ただその行動は偽りの公的な合理性に対して真の合理性を突き出している。サルトル風に言えば、まさにみずからの実存をかけた投企である。

22時30分、前方の3両にも煙が入り始める。このとき、乗客の多く(約240人)は自らの判断で乗務員の制止を振り切り、非常ドアコックを使用して外へ避難。徒歩でトンネル外に脱出をはかった。

「前の方で車外に出ているのが分かった。乗客の男性から『外に歩いて逃げよう』との声が上がった」(医師29)

乗客の話では、「避難した乗客に対して職員が激怒した」といわれる。 頭数の計算から言うと、車掌と乗務員の1人がスカウティングに出たとすると、留守番はただ一人だ。必死に制止するのは当然だろう。彼の責任ではない。

22時34分、偵察から戻った車掌は運転指令に「乗客が車両から降り始めた」と連絡している。

乗客248人は、煙の立ちこめる暗闇のトンネルの中を500m近く歩いて出口へ向かった。時間にして10~15分の行程と考えられる。

乗客のあいだには不思議な連帯感が芽生えていた。

「パニックではなく、整然と励ましあって黙々と歩いた。煙がすごく30 センチ先も見えないほどだった。…乗客はみんな死ぬかもと感じたと思う。私もそう思った」(医師29)の証言。

8.乗務員の後始末

車掌と乗務員は3両目車両の後ろ側から列車に入り、乗客に避難を指示し車外に誘導した。

23時30分、乗客全員が列車から降車したことを確認。運転士と車掌、客室乗務員の計4人が下車した。さらに1時間にわたり煙の中に留まったことになる。

28日0時、乗務員と乗客の全員がトンネルから札幌側出口に脱出を完了した。方法・過程においてさまざまな問題があったにせよ、4人の乗務員は最後まで現場にとどまり任務を完遂したのである。

彼らを何処かの船長と同列においてはならない。このことは強調しておきたい。列車には人数不明の車内販売員がいたはずだが、彼らの情報はない。乗客数にふくまれているのかもしれない。

9.その後の若干の経過

避難した乗客が全員真っ黒けだった。本当に間一髪だった。

乗員1人を含む79人が煙に巻かれ、咽頭炎や喉頭炎など呼吸器系の症状を来たした。うち39人が病院に搬送された。

避難後、火災は車両全体に延焼し、全6両が焼損した。

28日午前7時、列車が燃え尽き鎮火。

午後1時、特急列車がトンネル外に搬出された。窓は焼け落ち、車体は熱で大きくゆがんでいた。

5月28日午後2時から、札幌のJR北海道本社で記者会見が行われた。出席者のトップは一條昌幸鉄道事業本部長だった。

声明の要旨: 最初に列車に異音があった。次いで煙が出た。車両から煙が出ることはあるが、すなわち火災ということではない。したがって煙が火災であることを確認しなければならない。しかし火災であることの確認手順が手間取った。JR北海道の火災発生の認知は2時間以上も遅れた。

「もう少し早い判断ができれば、短時間で避難ができたと思う。車掌も乗務員も最後まで 火災という認識はなく、判断が狂ってきていた」とし、車掌に責任を押し付けるとも取れる発言。

2011年9月には、JR北海道の中島社長が安全意識の向上を社員に促す遺書を残して自殺。

2013年5月31日、運輸安全委員会は、車輪の剥離やへこみにより生じた異常な振動により部品が脱落したことが、事故の原因になったとする調査報告書を発表。

4両目の車輪の表面が長さ40センチメートルにわたって剥離し、4.5ミリメートルのへこみが生じた。これにより異常な振動が発生し、減速機を固定していた吊りピンが脱落。減速機が垂れ下がって路面に衝突し、その衝撃で周辺の部品が脱落した。

10.感想的結論

マニュアルに火災時はトンネル内で停止させないという規定があったというが、火災という認識がなければ規定は無意味である。

以前のマニュアルでは火災は「炎が認められた時」と定めている。今回は乗務員が炎を見ていなかったため、火災と認識しなかったということになっている。

(現行マニュアルを見ることができる。「トンネル内における列車火災時の処置手順 北海道旅客鉄道株式会社」というもので平成23年9月の発行)

しかし問題はそこにはない。

もちろん、オイルタンクの炎上などあってはならないことで、ハード面でのフェールセーフ機構に決定的な問題があることは論をまたない。

しかし事故分析はどうして事故が起きたかの分析のみであり、どうして辛うじてではあるが全員を大事に至らしむる事なく避難させえたのかの分析はない。

乗客の一部が勝手にドアを開けて逃げ出したから、というだけでは感情的にはわかりやすいが、疑問は残る。乗務員がどこかで判断を変えたからこそ助かったのであろうか? その事実確認がここまでのところの情報では判断できない。

石勝線事故に学ぶ 「ルール破り」の大切さ

安倍内閣が暴走列車だとすれば、NHKをはじめとするマスコミは、車内に留まれと促し続けた車内放送だ。

しかし乗客はこの車内放送の指示を拒否し、ドアを開け車外に出て助かった。この事故は大変教訓的だと思う。

もちろん走行中に乗客が勝手に行動しては困る。ルールに従わなければならない。しかしルールはいのちと安全を守るためのものだ。ぎりぎりのところで乗客は自分たちの命を守るために判断しなければならない。

たとえ判断してはいけない、判断するなと呼びかけられても、判断しなければならないのだ。

それがどういう時にやってくるのかを、我々は石勝線事故を通じて考えなければいけないのだろう。


ちょっと待ってください。

かなり今まで知らなかった事実がある。

ことはそう簡単なものではない。

少し調べた上で書きます。

「日本の常識は世界の非常識」と言われるが、その非常識が防衛副大臣にまでおよぶとは、世も末だ。

本日の赤旗第一面。

パリの武器国際展示会(ユーロサトリ)に出席した武田良太防衛副大臣(自民・衆院福岡11区)

「持っている国力を発揮できる環境を安倍内閣がつくったわけだから、それを生かしてどんどん成長していっていただきたい」と発言。

これは世界最大の武器見本市で、日本企業12社が参加している。

問題の行動は、その会場で起きた。

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と、嬉々として銃を扱っていたが、

突然銃口を人に向けた。しかも引き金に指がかかったままだ。

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銃口を向けられた人は、とっさに手で払った。しかしその後も子供がオモチャを手にした時と同じように、また構え直す。動画見ると二回銃口を払われて、それでも笑ってる。

この場面がTBSのニュースで流された。

ツィッター上では多くのコメントが寄せられている。

トリガーに指をかけて人に銃口を向けるのは、向かられた相手から防衛のためとして射撃されても文句は言えない。

ゴム弾の模擬銃だと弁護する意見もあるが、その人さえも「だからといって認められるものではない」と言っている。

そのうえで、武田副大臣の発言をもう一度読み返してほしい。

持っている国力を発揮できる環境を安倍内閣がつくったわけだから、それを生かしてどんどん成長していっていただきたい

兵器というのは殺人の道具だから、「どんどん売りまくれ」ということは、買い手に「どんどん殺しまくれ」というのと同じことだ。兵器を売るというのはそういうことだ。そのことが分からない。銃口の先に何があるのかが想像できない。

良いか悪いかを言う前に、もう「安全ピン」が飛んでいるというしかない。おそらく彼らとは議論にならないだろう。1968年の生まれ40歳代半ばというのはこういう世代なのか。

ホームページには「信条」として「正気堂々」と書いてある。堂々たる正気なのだ。

それにしても、TBSがんばるなぁ 支援する会でも作りたいくらいだ。


やばい話をもう一つ。
これはうわさ話だが、
安倍晋三は浴びるほど抗うつ剤を飲んでいるという。
薬が効きすぎて躁状態になっている。
だから国会の質問に対してもまともに答えない。
何年か前、イタリアの何処かの美術館で小便を垂れた奴もいた。
これはうわさ話だが、
彼も抗うつ剤を大量に服用していて、
ちょっとでも酒が入ると、もうまともでなくなってしまうのだそうだ。
もう仏様だから、名前は出さないが。
さてそこで問題だ。
うつ病は本人の責任ではないし、
それに対して抗うつ剤を処方するのも、正しい行いだ。
世の中にはうつ病で、抗うつ剤を飲みながら
しっかり仕事をこなしている人はたくさんいる。
だからそのことを個人の秘密にしても全く問題はない。
抗うつ剤を飲みながら総理大臣をやっても、それを悪いとはいえない。
ただそれは抗うつ剤であって、うつ病(大うつ病)の人に使う薬だ。うつの徴候を示す普通の人に使う薬ではない。その場合どのような副作用が出るかはよく分かっていない。
これも噂だが、雅子さまはだいぶひどい副作用が出現したようだ。

抗てんかん薬を飲みながら自動車を運転しても、悪いとはいえない。
統合失調で人を殺した人が、その後薬でコントロールされて市民生活を送っても、本人に責任はないのだから、ダメとはいえない。勝手に服薬を中止した場合、本人にその責任を問えるのかという問題は残るが。
だが抗うつ剤の効きすぎで憲法9条を変えて、集団的自衛権を認めるようなことが許されるだろうか。

衆目の一致するところ、今の安部首相には明らかにおかしなところがたくさんある。
平気で嘘をつく。対話が成立しない、眼が泳いでいる、など明らかに躁病の特徴を示している。
人権問題が絡むとはいえ、やはりこれは大いに困る。
どこかのタレントが酔っ払って下半身を露出したという話があったが、そういうレベルではない。
ただ、むしろ問題は別のところにあるのかもしれない。
日本の政治にはフェール・セーフの機構が働いていない。明らかに政治は暴走している。ブレーキが効かなくなっている。なのに、それにガソリンを注ぐ奴はたくさんいても消火器を持ちだす奴は一人もいない。列車の放送は「安全です。動かないでください」と連呼している
日本の権力の中枢には、自分の目の前の利益だけで動く人間しかいなくなった。民衆はそれに盲従している。
暴走列車にたまたま乗り合わせて、「大変だ!」と叫んでも、周りの乗客はまったく動じない、無表情のままだ。彼らは従容として死に赴くのかもしれない。

どうするんだ!
(もし、噂が本当だとしたらの話ですが)

なお、抗うつ剤と反社会的行動の関係については一度レビューしたい。
今週はアレイダ・ゲバラの来札に絡む作業で手いっぱいなので、来週から着手しようかと思う。

こんな記事があった。

 韓国は何かにつけて日本に対し自国の優越さを主張する。では実際の数字はどうのか。スポーツの分野で比較してみる。

【項目:日本/韓国】
●夏季オリンピックメダル獲得数:金130銀126銅142/金81銀82銅80
●冬季オリンピックメダル獲得数:金9銀13銅15/金23銀14銅8
●サッカー代表戦績(日韓戦):14勝21分38敗/38勝21分14敗
●サッカーFIFAランキング:47位/54位
●サッカー欧州組選手数:28人/14人
●サッカー移籍金最高額:33億円(中田英寿 ローマ→パルマ)/14億円(ソン・フンミン ハンブルガーSV→レバークーゼン)
●WBC歴代戦績(優勝回数):4勝4敗(2回)/4勝4敗(0回)
●野球五輪代表戦績:10勝5敗/5勝10敗
●歴代メジャーリーガー数:56人/14人
●テニス世界ランキング最高順位:男子11位(錦織圭)、女子4位(伊達公子)/男子36位(イ・ヒョンテク)、女子34位(イ・ドッキ)

※週刊ポスト2014年1月17日号

ということで、これは日本のほうが本当は強いぞというデータを並べるつもりで作ったのに、はからずも韓国の強さを裏書する結果になっている。


1.まずは並列に並べる前に、条件の違いを指摘しなければならない。人口は圧倒的に日本のほうが多いのである。

2.オリンピックだが、戦前の戦績を加えるのは明らかに間違いだ。第一、孫基禎をどちらにカウントしているのか。

3.カネのかけ方が違う。日本は種のところから大事に育てている。向こうはみんな雑草育ちだ。自力で這い上がってきている。

4.ガチンコ勝負ではほとんどすべて韓国が上回っている。WBCをいうなら日韓対決の結果を示すべきだ。

5.商業スポーツの御三家は野球、サッカー、ゴルフだ。スポーツ新聞を見ればわかる。どうしてゴルフを無視するのか。

6.韓国のプロの目標はカネだ。金にならないことはやらない。バレーボールも卓球もボクシングも金にならないからやめた。最大の市場は日本だから日本に押し寄せる。外国人枠がなければ、野球もゴルフもすべて韓国人になる。


子供の頃、朝鮮人は何をやっても強かった。もともと血の気が多い上に、体を張っていた。怖かったね、朝鮮人は。兄弟には必ずヤクザがいたし、みんなトッぽかった。いま考えるとその兄弟の中にはアカもいただろうね。

そういう人たちが現場で体を張って、日本の平和と民主主義が守られたのかもしれない。

最後はなんだか分からなくなってきた。これ以上はやばくなるのでひとまずおしまい。



Is it pitiful for the handicapped to live?

- A Practice of Dr. Takaya

 

Dr. Takaya is ex-director of the Biwako school for heavily handicapped children.

Recetly he published the book titled "What is to live the serious illness?"

Only to hear the title, I had to have a certain feeling of heaviness or seriosness.

His central theme of concern is laid ultimately in the question "Is it miserable for the handicapped to live?"

This is a considerably multimeaning expression in itself.

I think this question contains three sub-questions according to its logics.

Are the handicapped people the miserable being?

Is it a pitiful matter for the handicapped to live?

Should we grasp figures of the living of the handicapped as a pitiful matter?

These three questions would be concetrated to one question that is "Is it miserable for the handicapped to live?"

 

Dr Takaya starts to answer to his own question from the following words.

I was aware on examination. Their bodies were stiff, they showed  expressions of un-easiness. So I thought at once "Is it even better to live through these pains and disgusts?"

I know that anyone to visit our school would lose the words without exception. Because they have never experienced to see, or never imagined such extraordinary figures.

These are natural reflexes, I know, those are just impressions for the normals.

It is a feeling of stagger or hesitation, a kind of naive reflex of human, when to be stuck by the extraordinary living. It is also a certain model of recognaizing the heterogeneity.

We must recognaize the existence of people who cannot be looked indstantly as the same human as us.

It is just that time when our existent sense of values  exposes it's limits.

Dr. Takaya state frankly that they are poor to be alive,.

There is no need to negate the spontaneous feeling of compassion with complicated logics.

He maybe says "You may think so. Don't mind"

It is rather essential that how we will depart off from there, and where we seek clue.

Thanks for God, medical doctors have their peculiar business for their clients.

It is just an important thing that these children grow to the state, where they are glad to be alive or to feel comfortable.

And It is our nice task to support those processes.

Though it is very difficult to think ethically, however we medical doctors understand how to do medically. It is like a conditional reflex

We do the work to be needed in a certain meaning. That is the impotant matter.

There are no times to think about "the death with dignity".

Our works are divided into three phases.

Ultimately, we should make the child feeling joyful to be alive.

For that, we should make the child to taste a pleasant and comfortable sensation .

Therefore we should make the environment of mind and body preparing for realizing those states.

Dr Takaya also says "Our main field of daily practice is that the heavily handicapped live their life with less complaint"

Generally the human body exists in order to support a human being.

On the contrally in the handicapped, especially in heavilly handicapped persons, the body does not support a human being but even make an maracle through pains and discomfort.

Therefore they become to feel to be comfortable if the pain is relieved, and .possibly to think "I live and am glad"

The handicapped really lves even his body is an obstacle for his living.

It means that the human beings have a strong power for living.

Of course problems of the human inside i.e. "dignity" are big. It is very difficult to cut in there.

However it is possible to make the condition for those purposes.

The work to make condition is the acceptable work ethically, and is at least the work which should not be rejected.

Handicapped children are relaxed, and their breathing becomes comfortable when they feel voices and warmth of mothers.

No matter how their obstacles are heavy, their expression clears up if they feel comfortable.

Dr. Takaya is careful with this moment.

He thinks that each moment to feel comfortable is so important in the all day activity, which would be piled up one by one and eventually form joy to live.

Recenly Dr. Takaya became to think that these practices are not only the medical practice but also the educational one to lead children to growing up.

This thought was iterpreted when he has received an educational prize although he was a medical doctor.

When he has wan an education prize, he thought about the meaning of the prize by himself.

These words will be a deep calling for the meaning of education.

以前、米韓が日本人を救出することなどありえないとの外務省元高官の発言を引用した。
「日本人を乗せて避難する米輸送艦」などありえない
今度は集団的自衛権の推進者である中谷元議員が、防衛庁長官当時の経験を語った国会証言が明らかにされた。
当初、ガイドラインにも米軍による邦人の救出を入れて、米国が実施する項目というようなことでお願いしておったんですが、最終的にはアメリカから断られまいた。
たくさんの国からそういうことを頼まれると困る。自分のことは自分でやりなさいというようなことで、当然のことと思います
。(1999年3月衆院ガイドライン特別委)
ということで赤旗はさらに追い打ちをかける。
防衛研究所紀要(02年2月)の文章である。
アメリカの自国民救出活動の特徴は、国籍による優先順位があることである。順位はアメリカ国籍保持者、アメリカ永住権保持者、イギリス国民、カナダ国民、その他の国民の順である
これでは明らかに片務だ。条約の形を成していない。
米艦救出の義務を負うのなら、米軍に邦人救出を義務付けるべきだ。
とにかく、この「ケース」は例示から取り下げるべきだ。

赤旗で、松本記者がシンガポールのアジア安全保障会議を取材した報告を載せている。
前者は安部首相やヘーゲル国防相も出席する大きな会議で、マレーシアの方は学者と政府高官のワークショップみたいなものだったようだ。
当然前者は意見の言い合いになるのだが、松本記者は米中以外の発言に注目している。
ほとんどの発言が中国の「挑発的行為」を問題視。マレーシア国防相も「2国間と地域的な関与を通じて中国に対処する」ことを強調し、「法の支配の実現」を呼びかけました。
というのを引用している。
もう一つは米日両国とASEANの論議で、「リバランス」をめぐるものだった。リバランス戦略は、結局軍事同盟の強化というところにつながっていくことが、議論を通じて見えてきた。
「リバランス」政策は国務省というより国防総省のラインから出てきたもので、そういう意味では90年代クリントン政権の「ナイ構想」につながっているところがある。
ただASEANがNATO型軍事同盟への懸念を表明したのに対し、ヘーゲル国防長官は次のように対応している。
「各国は自国の安全保障に責任をもつべきだ。しかし、もし集団安全保障や同盟に参加したいなら参加すべきだ」
ということで、今ひとつ真意がわからない。「本気度」が伺えないのだ。
これは結局、中国の第二列島線(伊豆・小笠原諸島からマリアナ諸島を経てニューギニアに至るライン)構想に対して明確な態度をとれていないことに起因するのだと思う。第2列島線というのは、かつて日本で叫ばれた「マラッカ海峡生命線」と同じような発想で、防衛という名の膨張路線である。絶対に認めることのできない思想だ。
「太平洋は広い」と言って勢力圏を分割する中国の提案に、アメリカは曖昧な態度を取り続けている。
はっきりしているのは、中国の南シナ海進出や尖閣での挑発(第一列島線)は、第二列島線の形成のための必須条件だということだ。海上の防衛線は原潜とイージス艦を抜きにしてありえない。それには南シナ海とバシー海峡が必須だ。
アメリカはこの中国の戦略に対して基本的なところで腰が座っていないから、南シナ海についても正確な態度が取れないのだ。そして結局は自国のエゴを追求するということになる。そうなると「リバランス」戦略に筋が通らなくなる。
これが今の状況ではないだろうか。


前の記事「コスタリカ大統領選は勝ったのではなく負けたのだ」は、自分で言うのもなんだが、非常に大事な記事だ。

日本語ではこれしかないと断言できる。自慢ではないが、私の記事のいくつかは日本語ではここでしか見ることが出来ない記事だ。

と言っても自分で書いたわけではなく、下手な訳をつけただけのものだが、文章を探してきたのはこの私だ。

文献探しは10年前より難しくなっている。理由は3つある。

ひとつは米国の連帯サイトや左翼サイトがかたっぱしから潰れていることだ。日本だけでなく、ラテンアメリカを除く世界中で左翼が下火になっている。

ふたつ目はスペイン語のサイトがやたら増えていることだ。それ自体は悪いことではないが、お陰で英語のサイトが埋もれてしまう。グーグルが役に立たない。

グーグルは英語とスペイン語の区別がつかないから、見出し語の最初には必ず英語の単語を入れなければならない。例えばコスタリカの拡大戦線を探すときは、最初にElectionと入れなくてはいけない。左翼関係の文章を探すにはLeftistと入れなければならない。

3つ目はこちらの肉体的衰えだ。視力が落ちた。集中力が落ちた。一番は英語を読む力が落ちた。日本語で読めるなら日本語で済ましたい。ところがけっこうなところまで日本語で読めてしまうと、英語を敬遠するようになる。

要するに易きにつくのである。エレベーターに慣れて、階段を上らなくなって、2階に上がるだけでもゼエゼエしてしまうようなものだ。

億劫になると、まずとっかかりが遅くなる。始めるまで30分ぐらいグダグダと無駄な時をすごす.はじめても30分もすると「疲れた!」と言って休む。その休み時間がどんどん長くなる。

おまけにキーボードの調子が良くない。「U」が空押しになる。いっそ外付けのキーボードを買うか、パソコンそのものを買い換えるか。


閑話休題

そういえば閑話休題ばかりだ。

そもそも俺は何を書いているんだっけ…

コスタリカは日本だ。ヒラメのように這いつくばって上ばかり見ている。中米の中でうまい汁を吸って、紳士然としている。

軍隊をなくしたとか平和憲法とか美しいことは言うが、アメリカの手代だ。アメリカの傘に頼って、一方では隣国を見下している。

ただ日本の場合はしっかりした民主勢力があって、平和憲法を守ってきた。コスタリカの場合はそういう民主勢力とか激しい闘いというものはなかった。

だから新たに進出した拡大戦線の青年たちは、階級闘争の激烈さに戸惑っているようだ。

そんな感じが、このインタビューにはよく出ている。

「めげるなよ、お嬢さん!」


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