鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

2014年05月

とりあえず、これまでの南沙関連ファイルを列挙します。



中国内部の指導権を巡っては











アジアの平和協力については、下記を参照のこと






下記はホームページの南シナ海・南沙諸島関連ファイル

中国における「中核的利益」突出の時系列
南シナ海と南沙諸島をめぐる紛争年表  を、ホームページに転載しました。
ブログに分割掲載していたものを増補・一本化しました。




何かフランスづいて、本日はフランクのソナタの聴きまくり。
それで番付を付けたくなるのは人情。
トップはスークとパネンカ。とくにパネンカ。バイオリンを包み込むような伴奏で、懐かしく美しい。チェコ人のどこか寂しさを秘めた優しさというのはとても素敵だ。(ただしこれは手持ちのCD。YouTubeにはアップされていない)
これと双璧なのがオイストラフとリヒテルのライブ演奏。巨匠の激突が圧倒的な迫力を生んでいる。ただ大ホールでの演奏だから、バイオリンソナタのあり方に触れてくる。サロンで息遣いを聞きながら全身を浸すような音楽をもとめるときは、また別のものが欲しくなるだろう。
ピアノ伴奏付きでバイオリンの音を聞くというなら、オイストラフのヤンポルスキーとの演奏が良い。オイストラフの微妙なアゴーギグが見事にツボにはまっている。ヤンポルスキーのピアノもよく聴けば立派なものであるが、そういうマイクのセットになっているのだからしょうがない。1954年のスタジオ録音だそうだ。それがこれだけの音質で聴けるのだから、多少は我慢せねばなるまい。
アイザック・スターンの演奏も、これはこれで良い。ピアノはまったくの伴奏扱い、ひたすら美音で迫ってくる。

チェロの演奏ではデュプレが群を抜いている。バレンボイムのピアノも(好きではないが)立派なものだ。シャフランはあかん。マイスキーは品がない。これもアルゲリッチだ。

日本でのコンサートの録音がたくさんアップされている。竹澤さんの演奏が良かった。クレーメルの痩せて鋭い音は嫌いだから仕方ない。レーピンとルガンスキーという豪華な顔ぶれの演奏があるが、面白く無い。最近のロシア人はスカが多い。ピエル・アモワイヤルという人がなかなかノリの良い演奏を披露している。しかし現地調達の日本人ピアニストが乗ってこない。

ジョシュア・ベルの演奏がアップされているが、音が壊れている。わざと壊しているのかもしれない。
レオニード・コーガンはオケ伴付き、息子が指揮しているがぶち壊している。
イヴリ・ギトリスとアルゲリッチの演奏が2種類アップされてるが、ギトギトのジプシー節で、耐えられない。ルジェ-ロ・リッチも同断。どういうわけかこちらもアルゲリッチだ。アルゲリッチに男を見る目がないということだけはよく分かった。
フランス人の演奏がチボー=コルトーとヴィトーとあるが、いずれも聴くほどのものではない。フェラスはくせのある弾き方で、好きになれない。グリュミオーは例によって蒸留水。

もうやめたつもりで、眺めていてこんな演奏にあたってしまった。ちょっと前のめりで、ちょっと痩せぎすの、油ッケのないクッキリした、これぞフレンチ茶漬け。
エリカ・モリーニとフィルクスニーの演奏は大穴です。


フランスのレジスタンスに関する文献を探したが、重箱の隅をほじくるような文章ばかりで、「あんたの意見が聞きたいわけじゃない」と怒鳴りたくなるようなものばかりだ。

やっと見つけたのがこれ。おそらく何かの雑誌に掲載されたものだろうと思うが、山崎雅弘さんの文章「栄光のレジスタンス 祖国フランスを解放した不屈の地下組織」が、良くまとまっていて読みやすい。

これを柱にして、そのほかいくつかのファイルから、共産党系のFTPを中心に抜き出してみる。

1940年

5月10日、ドイツ軍が西部戦線で大規模な攻勢を開始。電撃作戦でマジノ線を突破。

6月14日、パリはドイツ軍に無血占領される。ソ連はフランス共産党に非抵抗を指示。各地で非共産党系のゲリラによる散発的な抵抗。

6月16日、徹底抗戦を主張したポール・レイノー内閣が総辞職。後継のペタン元帥がドイツに降伏。ドイツは北部を直轄下に置き、南部にヴィシー政府の設立を許す。

6月17日、ド・ゴール、イギリスにわたりフランス国民に抵抗を呼びかける。

7月10日、国民議会の選挙でペタンが圧倒的勝利。ドイツとのコラボラシオンを訴える。アメリカ、ソ連はヴィシー政権を承認。

10月3日、ヴィシー政権がユダヤ人迫害法を制定。

11月11日、ヴィシー政府、モントワール協定を受諾。ドイツへの物資支援を推進するもの。これに対しパリで学生5千人の抗議デモが展開される。

1941年

5月、ドイツ軍が反抗者を銃殺。これに抗議してド・カレ炭坑で10万人が参加するストライキ。

5月15日、地下のフランス共産党が、独立をめざす「国民戦線」の結成を呼びかける。

6月22日、ドイツがソ連への侵攻を開始。この後、共産党は「義勇兵パルチザン」(Francs Tireurs et Partisans francais: FTP)を組織。大衆的な武力闘争の展開を呼びかける。

FTPは山岳部ゲリラ(Maquis)とともに、ヴィシー政府の管轄地からドイツ軍の占領地域に潜入し破壊活動を開始する。

8月21日、パリの地下鉄駅でレジスタンスがドイツ兵を殺害。以後要人などへのテロが相次ぐ。

10月23日、ドイツ軍、FTPの破壊活動に対する報復として50人(うち共産党員44人)を銃殺。

12月15日、共産党幹部のガブリエル・ペリを含む100人が処刑される。国民の間に憤激が広がる。ペリは共産党中央委員で、「ユマニテ」紙の国際部長。セーヌ・エ・オワーズ県の議員でもあった。

1942年

4月、ヴィシー政権、親ナチのピエール・ラヴァルが首相に就任。ペタンは事実上の引退。これに伴いレジスタンスへの参加者が急速に増加。

9月、ラヴァル政権、南部フランス人をドイツでの強制労働に駆り出す。多くの農民が山に逃げマキに参加。

11月 米英軍が北アフリカに上陸。スターリングラードでの戦闘が激化。

11月、ドイツ軍はヴィシー政権の支配区を占領し、フランス全土を支配下に置く。

1942年末、レジスタンスへの参加者は1年前の1千人から7万人に増加。非共産党系のコンバ、リベラシオン、フラン・ティルールなども勢力を増す。

(ただしこれら3つは南部を基盤とした“闘わない抵抗組織”であった)

1943年

1月、ド・ゴール派のジャン・ムーラン、3つの南部抵抗組織の統合に成功。統一レジスタンス運動(MUR)を結成する。

1月 共産党、ドゴールの「戦うフランス」に正式参加する。

1月、フランス人のナチスト民兵団「ミリス・フランセーズ」が創設。終戦までに3万人のレジスタンス活動家を殺害したと言われる。

1月、ヴィシー政府、新たな強制労働義務(STO)を課す。

2月、スターリングラードの戦い、ドイツ軍の敗北に終わる。フランス占領軍は東部戦線への動員により弱体化。

6月 ムーランがゲシュタポに捕らえられ虐殺される。拷問にあたったのがクラウス・バルビー。

12月 9月からの3ヶ月で、709人のヴィシー政府治安関係者が殺害され、9千件の爆弾事件、600の電車脱線事件が起こる。

1944年

2月、ソ連の指示を受けた共産党・FTPが全国レジスタンス評議会に参加。フランス国内軍(FFI)に編成される。レジスタンス活動家は20万人に達する。

6月6日、ノルマンディー上陸作戦。これに前後して国内で鉄道の破壊工作が600件におよび、ドイツ軍の補給路は寸断される。

(これを描いたのがルネ・クレマンの「鉄路の闘い」で、マキのような山岳ゲリラではなく、組織された鉄道労働者の闘いであったことがわかる。CIAはこの映画にヒントを得て松川、三鷹の事件をデッチあげたのではないか、とひそかに思っている)

6月10日 オラドゥール村の虐殺。

8月 連合軍がプロヴァンスにも上陸。

8月19日、パリで共産党の一斉蜂起が始まる。共産党によるパリ解放を恐れたアイゼンハワー最高司令官は、ドゴールのパリ進攻を許可。

8月25日、ドイツ軍の降伏によりパリが明け渡される。ド・ゴールが凱旋パレードを行う。

9月2日、フランス共和国臨時政府が成立。第一次ドゴール政権がスタートする。

10月28日、レジスタンスに対する武装解除が布告される。ソ連の指示を受けた共産党・FTPはこれに応じる。


ネットを見るとどうも変な文章ばかりが氾濫している。レジスタンスは大したことはなかった、国民はヴィシー政権に満足していた、ヴィシー政権は実は愛国者だった、共産党は国民ではなくソ連のことしか考えていなかった…

そのうちアウシュビッツはなかった、ヒトラーは善人だったと言い出しかねない勢いである。

もちろんさまざまな事実に目を背けず、きちっと相対する立場も必要だが、全体を見失ってはいけない。たとえばフランス共産党の対ソ盲従をもってその闘いを否定することなどだ。

これは我々人間の主体性に関わることである。とにかく三度世界大戦を起こしてはならないのであり、三度原爆を使ってはならないのであり、そのための教訓を我々は歴史から学び取らなければならない。

あれこれと批判する人に、一番欠けているのがその視点である。あなたはいま差し迫るファシズムの危機に抵抗しているだろうか。自分の立場を明確にしているだろうか。

もしそうでないのなら、口を閉じてこの場から立ち去ってくれ。

議論は2チャンなり別の場所ですればよい。

「中国網」という日本語サイトがあって、中国の外交上の見解を伺うことができる。その3月14日号に下記の記事がある。日本の核に対する中国側の懸念が示されていて面白い。

日本の核の企ての脅威性

放って於けばいずれ消えてしまう可能性が高いので要約を紹介しておく。


1.兵器級プルトニウム331キロの米国への返還を日本の高官が阻んだ。

これは、日本による兵器級プルトニウム保有の意図を示唆するものだ。

日本の保有するプルトニウムは核兵器40~50発を製造するに十分な量だ。これに加え、低レベルのプルトニウムも44トン保有している。

安倍政権は原発再稼働と再処理工場の再稼働を承認しており、これが実現すればさらに多くのプルトニウムが蓄積することになる。

2.安部首相は米国のアジア太平洋リバランス戦略を誤解している可能性がある

米国の戦略を支持するといえば、オバマ大統領も彼の挑発行為を黙認すると考えている。

その誤解に基づいて軍事費の増額、秘密保護法の強行採決、靖国参拝、歴史教科書の改訂、南京大虐殺や従軍慰安婦問題のもみ消し、NHK会長人事、憲法第9条の改正、集団自衛権の承認など強硬路線を突っ走っている。

この二つを組み合わせると、米国の意向を無視してでも(潜在的)核武装への路を走っていく危険がかなり高まっていると思われる。


二つの可能性があると思う。

米国のアジア太平洋リバランス戦略との齟齬が顕著になり、日本側が重大な路線変更を迫られる可能性。

齟齬をものともせず、さらにファシズムと独自の軍事大国化を推進していく可能性。

後者の可能性は経済が見かけ上の好況を維持するという仮定、選挙で自民党の独占的勝利が続くという仮定の上に成り立つ。

つまりその可能性はきわめて低いのだが、皆無とはいえない。これが現状であろう。



デゾルミエールのナチ占領下の活動について伝える文章を見つけた。

Music and the Holocaust というサイトの

という文章である。
desormiere

指揮者 Desormiere はフランスの抵抗の目立たない英雄の1人であった。

彼は戦争の歴史においてしばしば忘れられている。彼が舞台裏で動いたためだ。しかし彼が果たした役割は重要なものであった。

ドイツの文化的な支配に直面したDesormiereは、フランス音楽の保存のために激しく闘った。

1941年に、彼はドビュッシーのPelleas et Me'lisandeの全曲を録音した。Opera-comique の上演活動を維持した。そして、フランス音楽のほとんどすべてのレパートリーのコンサートをプログラムした。

彼は占領期間のすべてを通じてたった2曲のドイツ音楽しか演奏しなかった。

彼はチャリティー・コンサートを企画した。フランスの音楽家の苦難に対してお金を集めるためである。

ダリウス・ミヨーがフランスからの亡命を強制されたあと、Desormiereは彼の全ての絵と個人の財産を守り、戦争が終わるまで彼の家賃を払い続けた。

(6人組のうちミヨーは弾圧され、プーランクは無視され、オネゲルは重用された。オネゲルは大戦開始前には明確に反ファシズムであったが、占領後の政治的立場には微妙なものがあった)


隠れることを強いられた音楽家、たとえばユダヤ人の映画音楽作曲家 Jean Wiener らのために、Desormiereは援助した。彼らの曲の多数にみずからの名を署名することで、世に送り出した。そのことで彼らは地下で作曲活動を続けることができた。

戦争の後、Desormiereはそのことを明らかにした。音楽家たちは実力にふさわしい評価を得た。

しかし、Desormiereのもっとも傑出した行為はそんなことではない。彼はレジスタンス組織 Front National des Musiciens (音楽家国民戦線)を組織した。

1941年、Desormiere は若き作曲家 Elsa Barraine とともに Front National des Musiciens を結成した。それは共産党の組織と連絡しながら、著明な作曲家、たとえば Francois Poulenc, Louis Durey, Georges Auric, Charles Munch、Claude Delvincourt を仲間に加えた。

グループの狙いは全てのフランスの作曲家と主要なオーケストラの全ての監督を組織することにあった。しかし最終的にはそれは控えめなものに留まった。

1944年までに、メンバーは30人だけに留まっていた。

それにもかかわらず、グループは音楽家のあいだにかなり重要な統制を実現した。そして占領下フランスでの作曲や演奏活動に影響を与えた。

1942年7月までに、グループはよく組織された委員会に編成された。そして地下の新聞(Les Musiciens d'Aujourd'hui)の第1号が発行された。

これは、音楽家に抵抗する方法について指示を与えようとするものだった。

1942年10月の特別版は 'Front de la Re'sistance Chez les Musiciens' と題されていた。そこには5つの重要ルールが提起されていた。

音楽家はフランスを救うためのコンサートをプログラムするべきだ。

ユダヤ人作曲家、たとえばダリウス・ミヨーらの曲を演奏する多くの秘密のコンサートが始められた。

パリではある公共コンサートが開かれた。その演目は 'Hamid-ul-Hasarid' の 'Mous-a-Rachac' であった。

コンサートは大成功であった。そして、ドイツ人はこの作品がミヨーの「スカラムッシュ」だと理解することができなかった。

音楽家はまた、お互いに連帯した。拘束された同志や隠れて生活するユダヤ人音楽家の家族に、彼らの給料の半分を与えた

デモンストレーションが奨励された。たとえばドイツの兵士の面前で何気なくフランス国家 La Marseillaise を演奏するようなこと。

作曲家はポピュラーソングと行進曲を提供するよう求められた。それはMaquis Resistance の兵士に届けられた。抵抗詩人が歌詞を提供した。

音楽家はドイツ人と協力することを禁止された。ラジオ・パリの仕事も、ドイツ人のコンサートやフェスティバルに参加することも、ドイツの新聞に寄稿することもだ。

新聞はまた、裏切り音楽家を暴露し指弾した。

Elsa Barraine は、いくつかの論文を発表している。たとえば「ナチの退化に奉仕するドイツ音楽」であり、「フランス音楽とヒューマニズムの伝統」である。それらはフランスの文化的信念を支持するよう書かれていた。

Desormiere もまた、ペタンの支持者、たとえばテナー歌手 Lucin Muratore らを「ナチ協力者」と非難した。

1943年9月、第二の秘密新聞 Le Musician Patriote が発刊された。

Front National des Musiciens はまた、いくつかのサブグループを育てた。

そのうちの1つが、ユダヤ人作曲家アレクシス・ローランド-マヌエルのチームだった。このチームは音楽家とラジオ技術者から編成されていた。

彼らはパリで、実験的なスタジオを始めた。それはエリュアールやアラゴンなど抵抗詩人の詩を放送して、Schoenberg やミヨーのような禁止された音楽家のレコードを放送した。

彼らは小さいハンドバッグの中に収まるラジオ・セットをつくった。人々は密かにそれを聞いた。

D・デイまで、チームはナチによって禁止された音楽を聞くため、外国のラジオ局に聞き耳を立てた。

モスクワ・ラジオが重要な曲(例えばロシアの国歌)を流した時、チームはそれを五線紙にできるだけ忠実に写しとった。そして曲を録音した。

連合国がパリを解放した日、その放送はすべての国の国歌を、首都の至るところに取り付けた拡声器で流し続けた。

言うことは簡単だ。これらの音楽家の行動は、政治的作戦に比べれば、あるいは他の抵抗組織のゲリラ闘争に比べれば、一段低いものにすぎないと。

しかし Front National des Musiciens はドイツの文化的な支配に直面して国民精神を育てるのを助けた。フランス音楽を振興することを通じて、フランス中の孤立した人々を結びつけた。希望を刺激する歌で人々の精神を高めた。

ナチはその力を認識した。そして何度か Elsa Barraine を逮捕した。そして作曲家マヌエル・ローゼンタールを追い求めた。

幸いにも大部分のメンバーは生きて逃れた。

By Daisy Fancourt 

 
そうだったんだ。デゾルミエールのインターナショナルは伊達ではなかったのだ。マヌエル・ローゼンタールまで登場するのだ。
desormiere

Roger Désormière dirigeant l'Internationale en 1949

















私は静岡の街から駅ひとつ離れた海辺の村に住んでいたのですが、漁師町なのにポツンポツンとお金持ちが住んでいました。多分、松林とみかん山とそこから見える富士山があまりに綺麗だったからでしょう。
今考えると変ですが、私と同年代で半径100メートルの間に医学部に入ったのが2人います。
一人は東大でもう一人は慶応でした。当然私より頭はいいのですが、それよりも割り切りが良いのに感心しました。
一芸に秀でるとはこういうことを言うのでしょうが、集中力が素晴らしいのです。
余分なことに興味を持たないというのは一種の能力です。もちろん大事なのは必要なことに興味を持てる能力でしょうが。
多分、大学に入った後はそれだけでは目標を喪失してしまいますから、なにかもう一つの目標を建てることになるでしょう。それが学問研究であればノーベル賞ということになるかもしれません。名を挙げることであれば人事の達人となって教授や学会の理事長になるかもしれません。
でもこういう人たちは何をやっても成功していくでしょう。
私のように何にでもこだわる人間は、たちまちのうちについて行けなくなります。といっても、はたから見ればずいぶん割り切りの良い人間に見えるでしょうが。

ということで、ここ数年はブログを始めて、くよくよすることを人生の目標とするようになりました。やってみてわかったのですが、人生何が楽しといって、くよくよと余分なことを考えるほど楽しいことはありません。
「そんなこと、どうだっていいじゃん」というようなことを、つらつらと考えていくと「どうでもよいこと」ではなかったりすることがあって、それを発見すると「しめた」と思うのです。

むかしは「青年よ大志を抱け」とかいって、青年にばかり押し付けていましたが、最近は「老年よ、小志を抱け」と言いたい気分です。
老健で仕事をしていて年寄りを見ていると、昔は「老人よご苦労さん」と言いたくなりましたが、自分がその一員となった最近は、「年寄りなりに、認知症なりに、もう少し前向きに生きろよ」と叱咤激励したい気分です。





 本日の赤旗の一面トップがこの記事だ

「中央アジアに核使用禁止  核保有5カ国が議定書調印」

内容は大略以下のとおり

1.核兵器保有5カ国が、2009年3月に発効した中央アジア非核地帯条約に調印した。

2.この条約は核兵器の研究・開発・所有などを禁止するとともに、核兵器保有国が中央アジア諸国に対して核兵器の使用や核脅迫を行うことを禁じている。

3.国連本部で記念式典が開かれ、パン事務総長は核保有国の遅滞ない批准を呼びかけた。

これだけだ。一面トップにしてはえらく中身が薄い。

今回の「核保有国の議定書調印」の意義を探るためには、少し勉強しておく必要がある。

1.中央アジア非核地帯条約とはどんな条約か

2.非核条約にかかわる核保有国の議定書とはなにか

3.なぜ核保有国は調印を遅らせたのか、なぜ今回調印することになったのか

このへんがわからないと、意味が見えてこない。


1.中央アジア非核地帯条約とはどんな条約か

まず中央アジアという地域を知ることにする

中央アジアを構成するのはカザフ、キルギス、タジク、ウズベク、トルクメンの5カ国。キルギスのほかはすべてスタンがつく。スタンというのは「~人の国」という意味で、「State of ~」ということになる。

一口に中央アジアと言っても、内部には相当の力の差がある。
西側3カ国が石油資源を有するのに対し、タジクとキルギスは山の中の小国にすぎない。

カザフは中央アジアといっても半ばシベリアで、3割がロシア人だ。これはウクライナの倍になる。これに対し、南はアフガンやウイグルとの関係が濃厚だ。

5カ国の中ではカザフスタンが圧倒的な影響力を持っている。面積はほかの4カ国を合わせたより広い。GDPも桁違いだ。一人あたりGDPはロシアをさえ上回るほどだ。

だから中央アジア5カ国としてまとまるためには、カザフスタンのイニシアチブとフェアプレー精神の発揮が不可欠となる。

かつてカザフはソ連の一部であったがゆえに、その崩壊時に核保有国となった歴史を持つ。また、カザフはセミパラチンスクの核爆弾実験場(現在は廃止)をもち、多くの人が核汚染の後遺症に悩む被爆国の一つだ。

だから非核地帯構想は核の放棄の構想でもある。それはたんに核の問題にとどまらず、セミパラチンスクの記憶を頼りとして、この地域の独立と平和、連帯を祈念する象徴となっているように思える。

中央アジア非核地帯条約は2006年9月に締結され、09年3月に発効している。セミパラチンスクで調印されたことから、セミパラチンスク条約とも呼ばれた(現在ではセメイと地名が変更された)

内容は
1.核兵器若しくは核爆発装置の研究、開発、製造、貯蔵、取得、所有、管理の禁止
2.他国の放射性廃棄物の廃棄許可等を禁止
3.核兵器国の核兵器による威嚇を禁止
ということで、放射性廃棄物一般にまで踏み込んだかなり包括的なものだ。
ただ3番目の事項は、核保有国の合意がない限り意味を持たないものであるから、今回の5大保有国の調印で初めて本格的に発効したことになる。

条約の詳報は下記を参照されたい
中央アジア非核兵器地帯条約(抜粋訳)

2.非核条約にかかわる核保有国の議定書とはなにか

ということなのだが、今回大々的に取り上げられた肝心のポイントが見えない。

記事を読んだものはだれでも不思議に思うだろう。条約は2006年に調印され、09年に発効している。それを5大国が承認したことにどのようなニュース性があるのかと。

他のメディアもあたってみたが、どこもぱっとしたものはない。なかではNHKがちょっとコメントしているのが目につく。

世界の非核地帯条約のうち、5つの核兵器保有国がそろって核兵器を使った攻撃や威嚇を行わないと定めた議定書を批准したのは、南アメリカとカリブ海の非核地帯条約だけで、今回の5大国の署名が核軍縮を巡る動きにどのような影響をもたらすのか注目されます。
「なぜそうなったのか」をNHKは語らない。さすがにNHKだ。

そこを説明すると、
06年に調印された時、核保有国の一部に反対があってこの条約を尊重するという議定書に5大国が署名しなかったからであり、それがこのたび合意に達したということである。
それでは誰がどこに不合意だったのか、なぜそれが今頃になって合意に至ったのか、そのあたりの事情が明らかにされないと、ニュースの形を為さないのである。

3.なぜ核保有国は調印を遅らせたのか、なぜ今回調印することになったのか

ここでちょっと難しい話になるが、

核保有国が非核条約を尊重し、核を用いないことを約束することを「消極的安全保障」(negative security assurance)と呼ぶ。それは核拡散防止条約の精神から派生したものである。

(私見だが、negative security assurance はひどい用語だと思う。せめて Moderate とかAccordant とかすべきである。それに対して「積極的に関与する」政策はけっしてPositive ではなく、むしろAggressive というべきだろう)

核拡散防止の本来の目的は、その国が核兵器を保有しないようにすることであり、それが実現するのなら、見返りに核兵器の使用をしない約束を与えることにある。
したがって、非核地帯が実現するためには核保有国の心証が決定的な要素となる。
かなり核保有国にとって虫のいい論理だが、とりあえずそれは受忍しよう。それではどういうファクターが核保有国の心証を形成するのだろうか。

探していたら「原水禁」のページで以下の様な記述を見つけた。

2006年9月の非核条約締結時、条約の尊重を定めた議定書にロシア、中国は賛同したが、米・英・仏は条約に問題点を指摘し、署名しなかった。

その問題点とは、
1.既存の国際条約との整合性
2.核兵器の一時通過権の保留

の二つである。

1.はロシアをふくむ「タシケント集団安全保障条約」(92年設立)との優先度であり、集団安保が優先するならアメリカは核を含む交戦権を維持しなければならないという理屈だ。

たしかにソ連をふくむ地域集団安保など破棄するに越したことはないが、集団安保のほうが優先されてしまっては、そもそもこの条約に意味がなくなる。
それに、アメリカの方もまぁ言いがかりみたいなものだろう。アメリカを盟主とする集団安保体制下にあるラテンアメリカでは、トラテロルコ条約がすべての核保有国によって批准されているから、二重基準になってしまう。

2.は米英仏の本音であろう。トランジットの権利を維持しておけば、核を積んだ飛行機が離着陸できることになる。それに「一時が万時」という。これを認めれば、永遠で なければ一時になる。
その頃イラクやアフガンでの戦闘が続き、イランとも一触即発の危機にあったアメリカにしてみれば、譲れない線であったかもしれない。(ただし この2.項が本当に存在したかどうかは、この文章以外では確認していない)

09年6月の衆議院外務委員会では、東南アジア非核条約について次のような議論が行われている。

(条約は)核保有国に対して、核使用・核脅迫を行わないと定めた議定書第二条への参加を求めている。
これに対し米国は、①一方的に核使用を禁じていること、②経済専管水域まで含まれていることから議定書への署名を拒否した。中国も難色を示している。このため核保有国による署名の見通しは立っていない。
いっぽう、ラロトンガ条約(南太平洋非核地帯)は英仏は批准済み(その後中露も批准)、アメリカは署名(未批准)している。

中央アジア非核条約より10年以上も前に締結された東南アジア非核条約が、未だにこのような状態だ。
中央アジア非核条約では、そこらあたりが、どう調整されたのだろうか。今のところ不明だが、一面トップに据えた赤旗の続報に期待しよう。

ただ原則として強調しておきたいのは、非核地帯条約は核保有国の同意を必要とはするが、お願いしてお許しを頂くという性格のものではない。むしろ正義の名において核保有国に押し付け、認めさせるべき性質のものだ、ということだ。

 

ジャン・バウティスト・マリの音源はyoutubeにはなかった。
もともとバレーの指揮者のようで、道理でワルツのリズムが堂に入っている。
アマゾンでカタログを見ると、コッペリアとかシルビアを録音しているようだが、誰もアップはしていない。

徒然にyoutubeでコッペリアのラインナップを眺めていたら、デゾルミエール(Roger Desormiere)が出てきた。
昔ロンドン・レコードでおなじみの名前だ。
音はさすがにデッカの音で悪くない。
Desormiere で検索したら、アルルの女の組曲が出てきた。これが素晴らしい音質だ。1950年にチェコフィルを振ってスプラフォンに録音したものらしい。ほかにもフランクの交響曲などかなりの音源がアップされている。
desormiereprokofievfrontcover


デゾルミエールは1898年の生まれで、若い時からパリ楽団の寵児だったようである。ナチの占領下のパリでオペラ・コミックの音楽監督を勤めた。だからといって親ナチではなかったようだ。
デゾルミエールオタクのサイトがあって、そこにはインタナショナルを指揮する姿も記録されている。戦後は親ソ連派のポジションをとっていたようだ。

51年に脳卒中で半身麻痺、失語症となり引退。10年ほどの療養の後死亡している。

むかし、「トムとジェリー」だったか「ミッキーマウス」だったか、この曲を使ってグランド・チェースを延々と展開する漫画があった。
これにはいささか自尊心を傷つけられた感じがした。
小学校の頃にこの曲を聞いて「あぁ名曲だなぁ」と感動した憶えがあるからである。
私の親父が買った数少ないLPレコードの一つがカラヤンとフィルハーモニア管弦楽団の「プロムナード・コンサート」という盤で、文字通り擦り切れるほど聞いた。
その中にもスッペの軽騎兵序曲があって、わたしは「スッペはベートーヴェンと並ぶほどの大作曲家」だと思っていた。
そんなことをふと思い出して、スッペの「詩人と農夫」序曲を聞いてみたのだ。
バレンボイムとBPO、ズビン・メータとLAフィル、ウェルザー・メストと聞いてきて、ジャン=バティスト・マリ指揮パリ音楽院管弦楽団の演奏も聞いてみた。
「ギョギョ!」である。
いきなりハープとチェロが飛び出してくる。それも徹底的に泣き節だ。
例えばベルリン・フィルは全奏になると遊んでいる。低音部のスコアーは何も音なんかないからだ。
それがジャン=バティスト・マリではしっかり低音部も仕事している。スコアーを書き足しているのだろうと思う。

ジャン=バティスト・マリという人はアルジェリア人でチェリスト上がりだそうだ。この録音は1960年のもの、まだレコード録音が「勝負!」の時代の録音だ。
バレンボイムやメータと違ってこの曲に人生かけている。その気迫だ。
ルネ・レイボウィッツの「禿山の一夜」と同じ所があって、彼の一生にとっては「詩人と農夫」はブルックナーやマーラーの交響曲を演奏すると同じなのだ。

私は、演奏というのはかくあるべきだと思う。
(どこからダンロードしたか分からない。多分ニコニコではないだろうか)




日商の早期景観調査がかなりやばい

消費税引き上げの影響がどう出てきたか、ひとつの結果が発表された。

日本商工会議所の4月早期景気観測調査というもので、3千あまりの企業にイエスかノーかの回答を求めるもの。調査機関は4月第三週の1週間。

ここで出てきた数字は「業況DI」というもので、「良くなった」企業と「悪くなった」企業の割合の差し引きである。

ということで結果を見ると、マイナス14%と出ている。

「そんなものかね」と思ったが、業種別に見ると小売業がマイナス38%だ。最終消費場面ががくんと下がったことになる。

中間消費は、これを見越して2月辺りから減らしているから、これで川下まで達したことになる。

それで、今度はこれが川上に遡って行くわけだが、最終消費の4割減が生産活動にどれだけの影響をあたえるのか、検討もつかない。

企業にとっては生産の落ち込みもさることながら、仕入れコストの上昇が響いてくるだろう。

ということで、5~7月見通しでは「業況DI」はマイナス28%と大幅な低下が予想されている。

そこで日商の評価だが、

1.負担増加分の価格転嫁が進んでいない

2.受注減少や消費意欲の低下は長期化する可能性がある

3.取引先からのコストダウン要請がさらに強まる

と、きわめてシビアーだ。

それにしても経団連ならともかく、中小企業団体である日商がどうして消費税に賛成したのかが良くわからない。

そもそも東芝の社長がどうして会長を勤めるのかもわからない。

中小企業こそ最大の被害者なのだが。

文化の多様性とその擁護

現代キューバ文化のキーワード

 

1.グローバリゼーションへの異議申し立て

キューバ文化にはひとつの軸があります。それは「グローバリゼーションとの対決」です.

文化や人々の価値観は,その人々の生活スタイルと切っても切れない関係にあります.そして,世界の人々の生活がまさに直面している事態はグローバリゼーションをおいて他にない,というのがキューバの立場です。

グローバリゼーションは単一文化の支配であり、「偽りの文化」であり,真の文化の対極にあるものです。

単一的な考え方の押しつけは,他の文化を汚し破壊する結果となるしかありません.キューバはその対抗軸として,人々の文化の違いを押し出すのです.

人間同士を比較する時、多様性はたんなる差異ではありません。お互いが人間であり、対等であることを前提としているからです。

 

2.キューバは多様性を主張し続けてきた

多様性の尊重は,アメリカから野蛮な攻撃を受け続けてきたキューバが,必死の闘いのなかで身につけた教訓です.

キューバはある意味でグローバル化の先進国です.百年以上前から,キューバは北の大国によって属領化されて来ました.それは政治ばかりではありません.アメリカ向けの砂糖を生産するために,国土のほとんどが砂糖キビのモノカルチャー(単一栽培)となりました.

国の基本的社会関係が砂糖の生産によって決まる以上、国民の社会生活のシステムも、砂糖の単一栽培に規定された単一なものとならざるを得ません。

また砂糖の消費市場、そして必要な資本の投下をアメリカが担う以上、その文化もアメリカに従属したものとならざるを得ません。

だから砂糖の単一栽培と,ハリウッドの単一支配とは同じ事実の両面です.

55年前に革命が成功したあと,キューバは文化の独自性=アメリカ文化との違いを押し出し、それを維持してきました.

アメリカの武力干渉と経済封鎖のなかで孤立したキューバ は、キューバ人自らの手で独自の生産・輸出のシステムを創造する以外に、生きる道はありません。

アメリカの影響に打ち勝つためにも、 キューバ人自らの手で独自の文化を作り出して、民族の誇りを押し出していくことが求められて来ました。

それがキューバに、否応なしにアメリカ文化との違いをもたらしたのです。

 

3.文化の独自性と多様性

多様性の尊重というのは、それぞれの文化の独自性を認め、違いがあってもその違いを尊重することです。

人間の文化同士には人の顔や肌の色が違うように「差異」があります。

先進国には、劣った人間の作り出す文化は劣ったものに違いないという偏見があります。「未開な土人」の作り出す文化は「野蛮な風習」に過ぎない、という見方です。

先進国の人は、文化の差異を「否定的で、啓蒙により回避、あるいは克服しうる差異」ととらえるのです。それは「文化的人種主義」であり、多様性の主張はそれらとの骨の折れる、ときには鋭い闘い抜きには実現できません。

 

4.文化の独自性は、異質性の突きつけでもある

先進国の側から見れば、文化の独自性は異質性の突きつけでもあります。ムスリム女性のスカーフ着用が問題になりましたが、同性愛や新興宗教など、身近にも異質の文化が突きつけられることはよくあります。

こういう問題を避けていては多様性問題は解決できません。それぞれの違いを独自性としてどう受容していくかが問われます。

では、私たち個人個人にとってはどうでしょうか。

日本ではテレビのチャンネルが10局も20局もあって,放送の「多様性」が保障されるように見えます。しかし、むしろ放送局の数が増えれば増えるほど,その中味は似通ったものになってしまいます.

それは視聴率という市場論理のもとでの,いつわりの「灰色の多様性」でしかありません。

このような「多様性」を拒否しようとすれば,あなたは異質な人物、異端として見られるかも知れません。文化の独自性や多様性を尊重するというのは、なかなかしんどいことなのです。

 

5.文化の多様性を擁護することは闘いである

キューバは「文化の強化」という考えを押し出しています。それはアメリカ的な文化の押し付けに反対し、キューバ文化独自性を守る闘いです。

それと同時に文化の差別化に反対し、文化の多様性を守る闘いでもあります。そして市場経済の論理が文化をモノカルチャー化することに対する闘いでもあります。

その闘いの本質は、資本主義的グローバリズムのシステムとの闘いにあります。

精神労働と肉体労働の分離,都市と農村,さらに言語や人種間の格差が、実は多様性を拒否する側の最大の論拠なのです。

分裂した社会の片方の側の文化を正統とし、一方を異端とすることで、階級支配を貫徹することがグローバル文化の本質です。

このような支配者の振りまく「選民思想」と対決することは、たとえ複雑で息の長い闘いではあっても、欠くことのできない戦略的課題です。

独自性の主張は画一化された先進国文明への異議申し立てです。そこには灰色の先進国文明を生み出した社会システムへの批判が含まれています。

 

6.多様性擁護の実践

はっきりしていることがひとつあります。力の結集なしに多様性は守れないということです。

そして主要な実践は、文化を担う人々の多様性を守る協同の取り組みにあります。いっぽうで、独自性を持つ各文化的集団が、自覚を持って主体的に行動することにあります。この2つがともに大切なのです。

そして独自性を持った一つ一つの文化が,同時に「多様性」を擁護する主体となることによって,たんなる烏合の衆ではなく,共同意志を持つ集団として形成されるのです.

このような共同主体による集団的実践を基礎として、初めて「独自性」が生きたものになり,真の多様性が生まれます。

 

7.文化的多極論と多様性

このような共同性を否定してしまうと、それは文化的多極論になってしまいます。それは個々の文化が相互に無関心でいること,あるいは無関心を装うことを前提とせざるをえません.

ただし文化行政のレベルでは,安易な「集団主義」の導入こそ断固として排除すべきであり,話は違ってきます.

それは1961年に,革命的文化人相互の激しい論戦を踏まえてカストロが下した結論でもあります.

 

8.真の多様性

多極論ではない真の多様性とは、さまざまな主体の集団的な実践を踏まえたものです。

それは、多様な集団の支えあいに基づいた「生き生きと輝く独自性の集合」です。

それは、それぞれの文化が発展していくことによって実現する多様性です。文化主体同志は相互に接触するなかで,変容を遂げていきます。

この共同性,自主性,実践性をふくんだ多様性こそ,キューバ文化の真髄ともいえるものです。

 

9.困難な時期における文化運動

以上が総論ですが、キューバ文化を語る上では、どうしても1989年からの「特別な時代」(経済の困難期)について触れなければなりません。

ソ連・東欧が崩壊した後の時期がいかに困難であったかは、別の文章を見てもらうしかありませんが、経済が困難な時に文化がどう扱われるかは、その国の文化度の真のバロメーターといえるでしょう。

2000年に札幌で講演したリセッテ・ビラは、当時を振り返って次のように語っています。

(文化・芸術の分野では)混乱した状態になりました.その展望はダンテ風なものでありました.未来という言葉の意味は失われました.これまでの社会プロジェクトの正しさ,長所についての確信も失われました.そして多くの人が降参していきました

しかし,私たちはホセ・マルティのように考えることを選びました.“空腹は過ぎ去る.しかし不名誉は過ぎ去ることがない”

私たちは人々の背中を押し,夢中で働きました.そして結果はご覧の通りです.革命の始まりから90年代の終わりまでに,わが国の状況は目覚しく改善しました.特に芸術の分野でそれは顕著です

キューバ芸術は世界的に知られるようになり,過去や現代の偉大なるクリエーターが賞賛され,スポットライトをあてられています

文化を創造的活動という側面から見た場合,そこには創造のための物質的手段が不可欠です.

経済収縮の結果,その物質的手段が失われました。文化は萎縮してしまいました.そのときキューバは「まず最初に守らなければならないものは文化である」と決めたのです.

なぜなら、文化と経済はキューバという体の2つの部分だからです。もし文化を失えば体は死んでしまいます。

もう一つ、いざというとき国の最も重要なたくわえとは豊富な文化だからです。

そしてもうひとつ、文化というのは私たちの「子供」なのだからです。そして子供は成長するのです。

10.最後の言葉

もう一度、ビラの言葉をあげておきます。

育ちつつある文化は、決してたんなる受け身の存在ではありません.

それは人類の人間的な発展を推進するために大きな役割を果たすのです。

それは,人間の持つ知的精神が盲目の実利主義に打ち勝つことです。

「帝国の哲学」は不平等,裏切り,命がけの競争を「自然の掟」と託宣しました.私たちはこの挑戦に対して積極的かつ人間的な発展の理論を対置しなければなりません.

そしてそのために文化が果たすべき精神的・道徳的・理念的な役割を,しっかりと理解しなければなりません

いかなる階級に属そうと,すべての知的なキューバ人の最重要な関心事は,より高い精神性へ人類の発展をもたらすという「文化の持つ力」を地球上に広めることです. 

 

 

稲荷山鉄剣の意味

稲荷山鉄剣は昭和53年に文字が確認された。解読者の解釈が広く行き渡り、大和王朝の影響力の広さが強調されているが、それは違うと思う。

紀元471年に大和にそのような政権が存在していた根拠は薄弱だ。むしろ倭の五王時代の九州王朝の強大さが注目されるべきだろう。

主人公であるヲワケ臣が斯鬼宮のワカタケル(雄略)に仕える武将で、稲荷山に派遣され周辺を支配したというのが事実である。

とすれば、武王の上表文に「毛人を平らぐること」とあるのも素直に理解できる。ヲワケは越後あるいは信濃から山を越えて毛人の国(群馬)に入ったのである。ヤマトタケルがやったように東海道を下ったのではない。

ヤマトタケルが大和政権の武将とすれば、彼は関東で毛人と闘ったのではなく、九州王朝の残党と闘ったのかもしれない。


大和説の最大の弱点は、文字文化の断絶を説明出来ないことにある。

倭王武がワカタケルであり、雄略だったとしても、稲荷山鉄剣が470年だったとしてもその時点では、日本には明らかに文字文化があった。

しかし大和王朝には文字がないのである。「推古期遺文」とされる聖徳太子に関連する文書は偽書の疑いが強いと言われるが、それでさえ紀元600年ころの話である。

日本に文字がなかったのではなく、500年前後に消え去ったのである。

そして大和王朝は白村江の戦いまで文字を持たなかった、少なくとも文字文化を持たなかったのである。

ただ、隋書や唐書ではすでに大和王朝との直接接触はあったのだから、白村江まで文字文化がなかったとはいえない。大化の改新時に蘇我馬子とともに焼かれたのかもしれない。

も参照されたい。



世界の若者たちはいま


4月末に、新入学生を対象にした勉強会をやり、私が講師を務めた。残念ながら新入生の参加はゼロという結果に終わった。

その時に話した中身を文章にまとめてみた。


はじめに

札幌の若手歌人で山田航さんという人がいる。「さよなら バグ・チルドレン」という歌集を出している。

その中から幾つか紹介しよう。

いつだって こころと言葉を結ぶのが 下手だね どうしても固結び

世界ばかりが輝いてゐて この傷が痛いのかどうかすら わからない

たぶん 親の収入超せない僕たちが ペットボトルを補充していく

鳥を放つ。 ぼくらは星を知らざりし犬として 見るだろう 夜空を

打ち切りの漫画のやうに 前向きな言葉を交はし 終電に乗る

地下鉄に轟いたのち すぐ消えた叫びが ずっと気になってゐた

いつも遺書みたいな喋り方をする友人が 遺書を残さず死んだ

雑居ビル同士のすきま 身を潜め 影が溶け合う時刻を待った

若者の情念を見事に切り取っているようにも見える。

しかしそうあってはならないのだ。理由は二つある。

世界は決して貧しくはなっていない。貧富の差が広がっているだけなのだ。若者が苦しむのは理不尽なことなのだ。

もう一つ、若者は決して黙ってはいない。世界で若者たちが行動を起こし始めている。そして理不尽な世界を切り裂き始めている。

その辺りを明らかにしていきたい。

 


相当長くなってしまったので、まとめてホームページの方に移動しました。そちらをご覧ください。
http://www10.plala.or.jp/shosuzki/edit/global/worldyouthnow.htm


「農談」運動のまとめ


明治前半期の農業改良運動をまとめてみて分かったことをまとめておく。

明治の西南戦争を前後に、農業改良を柱とする一大運動があったことは間違いない。

多分それは日本という国の国民意識を根底から変える運動であったといえる。

それは官製キャンペーンとして始まったが、たちまちの内に全国の農民の心をとらえた。

それは幕藩体制と身分制度の中に捉えられていた農民が、藩から自立し自らの足で立つ経験であった。農民が全国規模で連帯し、手足ではなく頭を使って農業を興すことを憶えた。

そこでは藩主も武士も必要ではなかった。300年の幕藩体制の後のこの浮揚感は何者にも代えがたいものであったろう。

ただ、国内各地での生産技術の差と言ってもたかが知れているわけで、技術の拡大だけを目標とする初期の農談運動は10年ほどで下火となる。

その時に松方デフレの及ぼした影響については良く分からないが、秩父事件などの農村蜂起についてもこの浮揚感との関連を考えたほうが良いのかもしれない。

明治20年以降は農談運動は様相を変える。明らかに中農に特化した運動になっていく。おそらく貧農は没落し小作へと転化しているのであろう。逆に富農層は地主層へと転化し営農への興味を失っていくのであろう。

政府もこの頃になると、農業より工業へ興味を移し、工業を基幹とする富国強兵策へと転換する。

結果として、農談運動はきわめて自律的なものとなり、西洋農業技術の習得もふくめ学習意欲はますます燃え上がる。

この頃「老農」と称する農業の達人たちが全国各地を回っては指導を行った。その指導内容は単に技術的なものにとどまらず、農業に対する基本的な心構えを伝授した。

日本人の精神的バックボーンは武士道だと言われるが、そうではないと思う。武士道というのはもっとアナーキーで、他律的なものだ。

むしろこれら「老農」の教えこそが日本人の倫理の基本だろうと思う。それは松下幸之助やホンダ、トヨタ、ソニーなどの創業者の思想のバックボーンとなっている。

戦前の軍国主義は二宮尊徳の報徳思想だけをとりあげて民心を鼓舞したが、他にもあまたの篤農たちが全国津々浦々で、農民の立場に立つ勤倹勉学の教えを広げていたことを忘れてはなるまい。

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