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2014年04月

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「資本主義以前」(『資本論」第3部第36章)の草稿について

-『資本論』第3部第1稿の第5章から-大谷禎之介

わたしの学習ノート


はじめに

現行版資本論の第5篇第36章に利用された草稿は、「第5章利子と企業利得(産業利潤または商業利潤)への利潤の分裂。利子生み資本」の第6節「市民社会以前」である。


1. 第36章の草稿 エンゲルス版との相違


草稿とエンゲルス版との相違は,草稿訳文の該当箇所をまず掲げ,次にそれがエンゲルス版でどのようになっているかを記す。

(以下、草稿の全文が掲載されている。この部分では現行版との突き合わせは行われていない)


2.第36章の草稿=草稿 第5章第6節について


(1)草稿の状態


現行版資本論の第5篇第36章に利用された草稿は、「第5章利子と企業利得(産業利潤または商業利潤)への利潤の分裂。利子生み資本」の第6節である。

しっかりした構想にもとづいて仕上げられたものと見るのは困難である。


(2)以前のノートの利用


資本主義以前の時代の高利資本に関する記述については、「1861-1863年草稿』のうちの「利子生み資本」についての部分2)を活用している。

いっぽう,産業資本が高利資本と闘い,信用制度を創造してそれを自己に従属させていく過程にかかわる記述は、ほとんどが書き下ろしである。


(3)ノンブル変更から推定されるページの入れ替わり


ページの順は書き換え前のほうが適切である。

支払手段としての貨幣の機能が高利の本来の地盤であること―→高利資本そのものについての歴史的記述―→その高利にたいする反作用として信用制度が発展していく歴史的過程(12-18世紀)―→,チャイルドなどの高利にたいする激しい攻撃が近代的銀行制度の先駆であった―→17-18世紀における高利にたいする敵対。

マルクスが誤って全紙を反対に折り返したためにページの入れ替えが生じたとかんがえられる。


(4)草稿の第3部第5章のなかでの6節の位置


1~5節が利子生み資本の分析であるのに対し、第6節は歴史に関する叙述である。

1.利子生み資本の歴史的な成立過程

生成しつつある生産的資本が,どのようにして利子生み資本を自己のうちに包摂し,自己の形態(派生的形態)としていくのか。

2.資本主義の発展に利子生み資本が果たす意義

そのようにして生産的資本に包摂された利子生み資本の運動は,生産的資本そのもの止揚にとってどのような歴史的意義をもつことになるのか。

が述べられる。

これらの叙述は、『資本論』第1部の第24章(いわゆる本源的蓄積)、第3部の第20章(商人資本に関する歴史的なこと)、第3部第47章(資本主義的地代の生成)と重なるものがある。

 


この後、大谷による「理論的展開」と「歴史的考察」についての長い講釈が続く。それを読んでいて、ふと大塚久雄の語った言葉を思い出した。

たしか大塚は、形式論理学の行き詰まるところ、マルクスは叙述的理解によってその壁を乗り越えていった、というようなことを言っていた。

いわば、要所要所での歴史的考察を次の段階へと進むジャンピング・ボードと考えていたことになると思う。

それに対して、大谷は理論展開は途切れることなく進むのであって、そこには破綻はない。そこは歴史的考察による理論展開の総括にあたるのだ、と主張している。

たしかに大谷説のほうが説得力はありそうだ。

ノコギリは前後に往復運動を繰り返しながら木材を切り進めていく。
そのときに、前後の往復運動の繰り返しが、どうして木材を切るという動きにつながっていくかを示すのが理論展開とすれば、そうやって木材が切り分けられ材木となっていく経過を示すのが歴史的考察ということになる。

 

(5) 利子生み資本と高利資本


「1861-1863年草稿」の記載


利子生み資本は,歴史的形態としては産業資本以前に現われる。

産業資本が登場した後は、産業資本と並んでその古い形態のままで存続する。

そして産業資本によって、一つの特殊的形態として資本主義的生産のもとに包摂される。

それは産業資本自身の発展の過程ではじめて可能となる現象である。

高利そのものは,資本主義的生産様式のもとで存続するだけでなく,すべての古い立法がそれに課していた制限から解放される。

(まさにネオリベラリズムの本質を言い当てているようだ)

利子生み資本は,資本主義的生産スタイルでは借入れができないような,諸個人や諸階級にたいしては,高利資本として現われる。高利資本という形態しか取らない。

資本主義的生産様式のもとでも,まだ資本主義的生産に包摂されていない産業部門があるかぎり,そこでは,貸し出された資本は剰余価値を生産するように前貸しされず,高利資本と区別されることはない。

 

(6) 高利資本の発生とそれの特徴的な存在形態


高利資本の発展のためには,商品生産と貨幣での支払の必然性とがいくらか発展しているということのほかにはなにも必要としない。

初期においては、貨幣は,富の表現様式という本来の使用価値ではなく,一般的な富として現われる。このことに貨幣蓄蔵はもとづいている。

貨幣蓄蔵の衝動はその本性からいって無際限である。同時に,どの現実の貨幣も量的に制限されている。このような,貨幣の量的制限と質的な無制限との矛盾は,貨幣蓄蔵者をあくなき蓄積のシシュフォス労働へと追い返す。

貨幣蓄蔵'は、高利資本においてはじめて実在となり,その夢を実現する。彼が望むものは生産的資本ではなく,貨幣としての貨幣である。

貨幣が現われれば、必然的に貨幣蓄蔵も現われる。とはいえ,職業的な貨幣蓄蔵者は,高利賃に転化するときにはじめて有力になる。

致富衝動は,資本家にも貨幣蓄蔵者にも共通であるが,しかし,貨幣蓄蔵者は気の違った資本家でしかないのに,資本家は合理的な貨幣蓄蔵者なのである。

価値の無休の増殖を、りこうな資本家は,貨幣をたえず繰り返し流通に投げ込むことによって成し遂げる。貨幣蓄蔵者は,貨幣を流通から救い出すことで追求する。

利子生み資本が資本の支配的な形態であるときには,利子生み資本は、資本が生産そのものに参加することを妨げる。

資本主義とは別の生産諸様式では、利子生み資本は資本を生産そのものにはまったく参加させない。なぜなら利子生み資本は直接には流通過程で形成され増殖するものだからである。

 

(7) 前資本主義的生産様式の破壊者としての高利資本


高利資本は労働を直接には自己のもとに包摂せず,したがってまた産業資本として労働に相対しない。

高利資本は生産様式を窮乏させ,生産力を麻痒させ,悲'惨な状態を永久化する。

ローマの貴族が、平民や小農民をすっかり破滅させてしまったとき,この搾取形態は終りを告げた。純粋な奴隷経済が、小農民経済にとって代わった。

(この辺りはどうも歴史的事実として納得出来ないところがある)

 

(8)資本主義的生産様式の生成に高利資本が果たした役割


高利資本の作用が解体的な意味ではなく、歴史的な意味を持つとすれば、それは労働者から労働条件(労働手段、設備、土地、原料)を分離することである。


そして分離された労働条件を商品として売買するための貨幣財産を形成することである。

高利は,それ自身資本の成立過程として歴史的に重要である。なぜなら土地所有に依存せず、土地所有と相対する貨幣財産が形成されるからである。


(生産資本により包摂された高利資本というのはおかしい。高利資本が寄生する先を資本主義社会に変えただけではないか。そもそも寄生虫は包摂されることを出発点としているのであって、資本主義に負けたことにはならない)

(これまで議論してきた所有の問題、ないし所有の否定は、資本主義生産様式よりもむしろ高利資本の徹底した破壊にもとめるべきではないか)


旧来の労働諸条件の所持者を滅ぼすという点で、高利は産業資本のための諸前提を形成する。

高利と商業とによって形成された貨幣資本は,農村では封建制度によって,都市では同職組合制度によって,産業資本への転化を妨げられた。

このような制限は高利資本によって破壊された。

 

(9) 利子率の強制的引き下げのための闘争


信用制度は信用・銀行制度とも表現される。銀行という独自の資本主義的組織を中核とする,利子生み資本の集中.媒介・配分のための機構である。


つまり利子生み資本を管理する社会的機構である。


信用制度の歴史的形成の前提は、貨幣取扱業の発展だが、貨幣取扱業の発展は商品取扱業の発展なしにはありえない。

そのかぎりでは,貨幣取扱業の発展は理論的には商品取扱資本のもとでの信用関係,すなわち商業信用の発展を前提とする。


しかし、高利のもとに形成された貨幣財産は,そのまま生産的資本に転化することができるわけではない。貨幣財産は生産過程から切り離されたところに自立的な形態で存在する


資本主義的生産は最初は,高利と闘わなければならない。この歴史的過程は、


第1に,産業資本が国家を利用して利子率の強力的な引き下げをはかる段階

第2に,十分強くなった産業資本が,信用制度を創造することによって,利子生み資本を自己に最終的に従属させていく段階


に分かれる。


古代の世界では利子は許されていなかった。キリスト教的中世には,利子付き貸付は「罪悪」であった。

宗教改革を経て、17世紀のイギリスでは、論難はもはや高利そのものにではなく,利子の大きさに,信用にたいする利子の圧倒的な割合に向けられる。


18世紀末になると、ベンサムが「高利擁護論」を発表。・自由な高利が資本主義的生産の要素として承認される。

 

(10) 利子生み資本の包摂のための信用制度の創造


第2の段階は、資本主義に特有な形態である信用制度がテコとなる。


信用制度の発展は高利にたいする反作用として実現される。信用制度は利子生み資本一般を追放するのではなく、反対にそれを公然と承認する。


信用制度では、貨幣資本が商品となって競争のもとに置かれるようになる。そうなれば貨幣資本を強制的に従属させる必要はなくなる。


信用システムは産業資本自身の創造物であり,それ自身産業資本の一形態である。
それはマニュファクチュアとともに始まり,大工業とともに仕上げられる。

(しかしこれだけではドグマにすぎない。マルクスは歴史の中から例証しようとする)


信用制度はどこでも,海外貿易および海外市場の発展に比例して発展した。

…信用制度の成立過程では公信用が重要な意味をもっていた

…貧窮を基盤とした古風な高利の独占は,おのずから覆えされていた。

…船が帰ってくるまでに、いっそう長く待たされるようになり、積み荷にはいっそう多額の前貸が必要となった。

 

(11) 信用制度の歴史的意義


資本論第三巻第35章(草稿第6節)では、信用制度が歴史のなかで果たした役割が論じられる。

それは資本主義的生産そのものが、信用制度を通じて歴史のなかで果たした役割でもある。

それは、資本主義的生産そのものの止揚の諸前提を生みだすのにどのような役割を果たすのかを示している(はずである)


銀行制度は,一方ではすべての死蔵されている貨幣準備を集中してそれを貨幣市場に投じることによって、高利資本からその独占を奪い取る。

他方では信用貨幣の創造によって貴金属そのものの(貨幣市場の)独占を制限するのである。…貴金属による市場独占から解放される

信用・銀行制度は、資本家に社会のあらゆる処分可能な資本を用立てる。資本の貸し手もその充用者もこの資本の「所有者」でもなければ生産者でもない。

このようにしてこの信用・銀行システムは資本の私的な性格を止揚する。したがって即自的に資本そのものの止揚を含んでいる。

 

大谷さんはこの後、持論のアソシエーション論を展開する。

私の関心域ではないので省略。


 

 

一応、本日を以ってこちらに移動することとします。

まだ使い勝手がわからず、いろいろ苦労します。
アクセス・カウンターも一から出直しということになりそうです。
というより、このカウンターほんとうに効くのか半信半疑です。
画面の横幅も伸縮しないので、半画面にすると右側が切れてしまいます。
カテゴリー分類もいったんパーになるので、
また折を見てやり直しになります。
しかしそんなことをいっていても始まらないので、とりあえずこれでスタートします。
アクセススピードが早くなったことだけは、良かったと思っています。
画像の挿入方法も分かりませんが、多分なんとかなるでしょう。

それまでのあいだ、何かとご不自由をおかけすることになると思いますが、今後ともご愛読の程よろしくお願い致します。

頼みの綱のダウンロード・ソフト“Download YouTube Videos as MP4”は依然快調で、YouTubeからはまったく弾かれません。
ただしダウンロード時のリネームが出来ないので、誰の演奏か分からなくなってしまうのが玉に瑕ですが、ここは我慢するしかありません。
本日はマーラーのピアノ四重奏曲断章。
エッシェンバッハのピアノとフィラデルフィア管弦楽団の首席奏者による合奏が楽しめます。
2006年のライブ録音だそうですが、レコーディングライブとのことで音質はまったく問題ありません。最後の拍手で「あぁライブだったのか」と気づいたほどです。
一言で言えばきわめてグラマラスな演奏で、各奏者とも楽器を思いっきり鳴らしています。そのせいかピアノ・トリオのように聞こえます。

その後でプラザーク四重奏団の演奏を聞きました。ここではビオラもふくめた3つの弦が融け合っています。最初の数小節で、アンサンブルの醸しだす「懐かしさ」にジーンと来ちゃいます。悲しいわけでもないのに、何故か涙が出そうな気分にさせられます。
ピアノはあくまで控えめ、支え役に徹しています。ただ、これはマイクセッティングのせいもありそうです。ピアニストにはかなり不満の残る録音かもしれません。

フィラデルフィアとプルザークの違いは、例えるならマリリン・モンローとイングリット・バーグマンの違いでしょうか。
間違ってもマリリン・モンローが嫁さんになる可能性はありませんが、イングリット・バーグマンならまるっきり想像もつかないというほどではありません。



東京地区私立大学教職員組合連合が行った調査の結果、仕送りは平均937円しかないことが明らかになった。
これは過去最低で、過去最高だった2460円(1990年)の4割以下となっている。

<調査の内容と方法>
昨年の入学生の保護者を対象としたアンケート調査。東京を中心に1都5県の15の大学で施行されている。
過去26年間連続して行われており、回答数も5048人であり、かなり信頼の置ける数字だ。

<結果>

1.平均仕送り額
自宅外通学生への平均仕送り額は8万9千円。(ただし、立ち上げ経費のかかる4,5月は除いてある)
前年度より500円減り、調査開始以来の最低額となっている。

1396697384


















2.入学年の費用
自宅外通学制の初年度費用は294万円。
これは保護者の税込み収入の32.6%を占める。
この費用については9割以上の保護者が「重い」ないし「大変重い」と答えている。
https://livedoor.blogimg.jp/shosuzki/imgs/b/4/b476227f.jpg

3.学生の生活費
学生の生活費を (仕送り額)-(家賃)とし、これを30で割ったものを「学生の生活費」として計算した。
これが最初に述べた数字。

937円の生活というのが想像できないが、光熱水費でどう切り詰めても1万から2万は持っていかれる。交通費も1万円以下とは行かないだろう。いまどき携帯・パソコンも必需品だ。
入浴・洗濯・理髪・最低の衣類は絶対必要だ。多少の書籍や文具(学生だからね)・ゴミだって有料だ。
しかもこれが平均なのだ。恐ろしいことだと思う。

「海つばめ」という新左翼系サイトに『資本論』3巻28章の“怪”という文章がある。

大谷禎之介 「『流通手段と資本』の草稿について」に載せられた草稿と現行全集版を比較している。新左翼といえども悩みは同じとお見受けした。

1.28章冒頭について

<現行版>

通貨と資本との区別はトゥックやウィルソンなどによってなされており、そのさい貨幣、貨幣資本一般としての流通手段と利子生み資本としての流通手段との区別がごちゃまぜにされているのである

<草稿>

トゥック、ウィルソン等々がしている、通貨と資本との区別は、そしてこの区別をするにさいに、鋳貨としての流通手段と、貨幣と、貨幣資本と、利子生み資本とのあいだの区別が、乱雑に混同される

草稿では鋳貨、貨幣、貨幣資本、利子生み資本の4者が連鎖として語られている。(文法的には怪しいが…)

そしてトゥック、ウィルソンらは、この4者を混同していると批判している。

これに対して、エンゲルスは「貨幣資本一般としての流通手段と利子生み資本としての流通手段」に二大別してしまった。しかも「利子生み資本としての流通手段」という用語は二律背反である。

2.28章 フラートン批判

<現行版>

しかし、フラートンがやっているような対置は正しくない。

不況期を繁栄期から区別するものは、けっして彼の言うように貸付にたいする強い需要ではなく、こ の需要の充足が繁栄期には容易で、不況期に入ってからは困難だということである。

繁栄期に起きる信用組織の巨大な発展、したがってまた貸付資本にたいする 需要の激増、そしてまたこのような時期にはこの需要に供給が気前よく応ずるということ、実にこれこそは不況期の信用逼迫を招くものなのである。

だから貸付にたいする需要の大きさの相違がこの二つの時期を特徴づけるのではないのである

<草稿>

しかし、フラートンの対置は正しくない。

 貸付にたいする需要―貸付にたいする需要の量―が、繁栄期を反動期から区別するのではなく、貸付にたいするこの需要の充足が容易だということである。

それどころか、繁栄期のあいだの信用制度の、だからまた貸付の需要供給のすさまじい発展、これこそが反転期のあいだの逼迫を招くものなのである。

だから、この二つの時期を特徴づけるものは、貸付にたいする需要の量的な規模の相違ではないのである


マルクスが言っているのはきわめて単純で、反動期には信用収縮、いわゆるデレバレッジが起きるということである。それが資金の逼迫をもたらすのだ。

これは金融市場内で起こることで、直接的に実体経済の需給問題ではない。

エンゲルスはここが分かっていない可能性がある。

3.28章 イングランド銀行 (フラートン批判の2ページあと)

<現行版>

周知のように、イングランド銀行はその前貸をすべて自行の銀行券で行っている。

ところで、それにもかかわらず、通例この銀行の銀行券流通高は、その手持ち の割引手形や貸付担保の増加、つまりこの銀行が行う前貸の増加に比例して減少するとすれば、

―流通に投ぜられた銀行券はどうなるのか? それはどのよう にして銀行に還流するのか?

<草稿>

イングランド銀行はすべての貸付と割引とを自行の銀行券で行うので、これらの銀行券がどうなるのか、ということが問題になる。

私営銀行業者の場合には事情が異なる。

なぜなら、彼らはそのような場合に、イングランド銀行券を自分自身の銀行券の代わりとすることができるからである


草稿の方は、私営銀行の場合は二刀流でやれるが、中央銀行は自行の銀行券のみを扱うので、“いろいろ問題”がある

ということだろう。その頃は民間銀行も銀行券を出していたらしい。

ところがエンゲルスは“いろいろ問題”を書き足し、私営銀行の話を省略してしまった。

これは改ざんに近いと著者は言っている。私もそう思う。

4.28章 有価証券と通貨 (フラートン批判の10ページあと)

<現行版>

こういうわけで、流通手段の総量は不変であるか、または減少するのに、どうして銀行が担保として保有する有価証券の量が増大することができるのか、つま り、銀行からの貨幣融通を求めて殺到する増加需要にどうして応ずることができるかということは、まったく簡単に説明がつくのである。しかも、この流通手段 の総量はこのような貨幣欠乏の時期には二重の仕方で制限されるのである

<草稿>

ところで、われわれは銀行の有価証券(あるいは貨幣融通を求める圧迫の増大)と、それと同時に生じる通貨の総量の減少ないし停滞とを、二重の仕方で説明した

マルクスがいうのは、信用が拡大するのに通貨がそれに見合って増大しない訳のことである。(ここでは書かれていないが、金融市場が信用、金融商品を創出するからだ)

エンゲルスの記述は逆になっている。しかも商品流通市場の話になっている。つまりエンゲルスは金融市場の独立性を理解していないことになる。

これも続報。
トヨタがロックアウト解除にあたり労働者に「誓約書」署名を強要したことが、社会問題になり始めている。
労働者は依然、“踏み絵”付きの職場復帰を拒否している。
労組幹部10人が工場前で断食を始めた。ガンジー以来、インドではお馴染みの抗議形態だ。

「踏み絵」の強制は、いかにも印象が悪い。しかも海外企業がみずからの倫理観を現地に押し付けるわけだから、民族意識をいたく刺激する可能性がある。

悪いことは言わないから、法的効力に疑問のある「誓約書」など、早く撤回したほうが身のためだ。

この間米国のマックの話が載っていたが、本日はそのフォロー記事が掲載されている。

これは元店長(複数)の告白記事で、「賃金窃盗」と非難している。

これによると、手口は以下のとおり。

1.勤務記録の改ざん
 実際には取っていない休憩時間を勤務時間に書き込む。コンピュータ操作によって可能なんだということで、そのやり方は上の人から店長に教えられるそうだ。

2.出勤前や退勤後だったとして、ただ働きにする。
 実際には勤務であるにもかかわらず、「自発的に行ったお手伝いだった」と解釈し、足切する手口。
 1時間以上に及ぶ場合もあったという。

元店長によると、マクドナルド社からフランチャイズ加盟店に対し、絶え間ない人件費抑制の圧力があり、それは労働法を守りながらでは不可能なレベルだそうだ。

シンクタンクの「経済政策研究所」の試算では、雇用主による「賃金窃盗」額は2億8千万ドル(取り返した分のみ)、低賃金労働者の3分の2以上が被害にあっているという。


tabtabさんのホームページに

『資本論』第3巻第4及び第5篇はなぜ分かりにくいか

という文章があって、大変面白かった。以下抜粋して紹介する。

①第3巻第4篇は不完全

この篇では「商品を取り扱う資本」(商業資本)と「貨幣を取り扱う資本」(金融資本)に論及する。それらの社会的機能についての分析、およびそれらが享受する利潤の根拠が論じられる。

本来、金融資本は商品市場とは異なる「貨幣市場」(金融市場)の存在を前提とする。金融市場とは銀行間で商業手形などを売買する市場である。

しかしマルクスは貨幣貸借市場を論ずることなく終わっている。これでは社会的機能は分析できない。

もう一つの不完全さは、貨幣貸借は”利子”を前提とするが、マルクスは利子の問題に触れていないことである。

②利子の本質は短期金利

利子は短期の利子と長期の利子に分けられる。短期金利は銀行間の貨幣市場の存在のもとで決定される。短期金利を基準とし、それにリスク・プレミアムを加えたものが貸出金利となる。

したがって、それらの要素を分析しなければ金融資本の定義はできない。

③金融取引の発展形としての手形交換

ただし現実の金融市場は貨幣貸借を介する取引だけではない。それをはるかに上回る手形交換、債権債務関係の相殺機構があって初めて機能している。貨幣市場は手形交換によって生じる貨幣の過不足を調整する働きをしているとも言える。

④手形交換を基盤とする商業信用の発生

銀行間の貨幣市場を背景とした銀行の貸付業務は、非金融個別諸資本(産業資本及び商品取り扱い資本)の間での商業信用の発展につながっていく。

第4篇では商業信用についはほとんど触れられず、商業信用と貨幣信用との関連についても触れられていない。

②5篇の“利子(利子生み資本)”は別の利子である

第5篇で述べられているのは、貨幣の貸借ではなく、明らかに資本の貸借である。したがってここでの利子は”長期の利子”の話であって、短期の利子ではない。

ここでは「利子と利子生み資本」は資本・労働力関係)の隠蔽という観点から説明されている。資本所有の成果としての利子、資本機能の成果としての利潤、労働の報酬としての労賃という関係が明らかにされる。

「そういう側面があるよ」という話としては理解できても、それは社会的機能としての金融資本の本質論ではない。

第25章から再び貨幣取り扱い資本=銀行業者の話が語られる。しかし雑然としたノートの感を免れない。第30~31章貨幣資本と現実資本のⅠ~Ⅲや第35章貴金属及び為替相場は金融資本を直接論じていない。

第5篇については、まともなマルクスの草稿はない、ということを念頭に置くべきである。

ブログで連載した後、ホームページのほうでだいぶ増補したが、一応形をなしてきたので紹介しておく。

目下の結論

1.毛沢東はライバルではなかった

はっきりしているのは、瑞金政府の成立までは毛沢東は一地方幹部に過ぎなかったということである。

中国革命成立後、毛沢東の活動についてはずいぶん潤色されている。それは根こそぎ剥ぎ取るのが困難なほど歴史に刻み込まれている。

毛沢東の活動を除けば、中国共産党の歴史は向忠発総書記の逮捕・処刑をもっていったん終結している。

その後は西安事件まで、苦難の歴史が続くが、階級闘争の方はその間完全に中断していると見て良いだろう。

2.コミンテルンに振り回された革命

ただその「苦難の期間」は、中国共産党がコミンテルンのいうがままの路線を卒業して独自の解放路線を掴み取るための貴重な期間でもあった。そのことは抑えておかなくてはならない。

中国革命にとって、コミンテルンの意義は功罪相半ばする。というより最初の数年間を除けばコミンテルンこそ害悪の源であったといえる。

この害悪を骨の髄まで感じていたはずの毛沢東だが、革命が成功するやいなや、自らがコミンテルンになったかのように他国(日本)の運動に干渉した。

トロツキーはコミンテルンに対抗して第4インターを作るという形で、同じ間違いを繰り返した。

それもこれも、煎じ詰めればコミンテルンの害悪である。

3.中国革命幹部の3つの世代

およそ10年の中国革命であるが、一応3つの世代に分かれる。

第一世代はマルクス主義を受け入れ、その延長線上にコミンテルンを受け入れたインテリ世代である。日本に留学し日本を通じてマルクス主義に接した人々である。

陳独秀、李大釗が双璧をなす。その他にも多くの人々がいたが、ほとんどはその後転向している。

第二世代は、第一世代を通じてマルクス主義に接し、国共合作期の活動を実質的にになった世代である。北京グループ、上海グループ、地方グループがある。中でも毛沢東の湖南グループが最強であった。これらの中からフランスに留学し、現地で活動に加わった人たちが育っている。

第三世代は、コミンテルンが確立した後モスクワに派遣されたレーニン・スターリン主義者のグループである。日本で言えば「クートベ帰り」に相当する。

4.フランス人脈の重要性

コミンテルンに振り回された中国革命ではあるが、フランス留学の経験を持つグループは、モスクワに対して一定のスタンスを持っていた。

フランス留学といってもお金があって留学したわけではない。勤・工・検といって「勉強もできる」という名目の低賃金労働に駆り出された連中である。

彼らは毛沢東のような土着の革命グループに対しても一定の理解を持ち、コミンテルンの指示を忠実に守りつつもそれに飲み込まれないだけの自主性を持っていた。

彼らが毛沢東と結びつくことにより、中国革命はからくも瓦解を逃れることが出来たと考えられる。

NASAS CLUB のホームページに宇宙誕生の不思議

というページがあって、以下のように記載されている。

”無”とは時間、空間、物質、エネルギーのない状態とソ連生まれの物理学者アレキサンダー・ビレンキンは定義した。

しかしこのような”無”から何か が生まれてくると言うのは常識的には考えられない。

ところが量子論では正反対なのである。非常に短い時間の中では時間や空間、エネルギーが一つの値をとり えず、たえずゆらいでいることを明らかにしている。

イギリスの物理学者ステファン・ホーキングは宇宙の方程式(波動関数)をとき、量子論的に最も確率が高い宇宙の進化の過程が、ビレンキンが考えた宇宙と一致していることを明らかにした。
私たちの宇宙は最初10-34センチ(量子論で許される最小の長さ)からはじまったまた時間は10-44秒から突然はじまった。この超ミニ宇宙は高い真空のエネルギーをもっていた。


このことは10-44秒の瞬間に正規の時間軸から我々の時間軸、いわば量子的時間軸が分岐したことを示しているのではないか。

量子的時間に幅があるということは、時間が空間を持っており、その中での運動が許されるということだ。運動が生まれれは空間が広がる。

時間というのは、それ自体がエネルギーだ。常に過去から未来へと進む。過去は時間の前に押し流されていく。

この巨大な時のエネルギーが、時の揺らぎのなかで空間として放出されたのが、我々の世界ではないか。

(ただ、時間というのは5次元の世界では実体を持つものだろうと思う。光子が存在する如く、時子というものがあるのではないか)

31日の参院決算委員会でこういうやりとりがあったようだ。
民主党議員が小松法制局長官の評価を問うた。

安倍首相の答弁
決算が初期の目標を果たしているかどうかに、委員の質問は関係があるのか。関わりあるなら証明していただきたい。
様々な事象を議論するのは予算委員会だ。
決算委員会では決算について具体的な議論が出されることが適切だ。


ということで、答弁拒否というより質問を受付けることを拒否した。いわば門前払いだ。

これには決算委員長も異議を唱えた。
金子委員長は「決算委員会としては全般的なものの質疑も、従来からずっと認めている」と反論した上で、答弁を求めた。

しかし、それにもかかわらず安部首相は答弁しなかった。
そしてこう述べた。

予算委員会があり、決算委員会があるという機能の区分はあるはずだ。

赤旗報道はここまでで、その後の経過は書かれていない。

国会は国権の最高機関である。法を制定し、その執行を行政に委ねているにすぎない。行政の責任者に国会の在りようをとやかく指図されるいわれはないはずだ。

もうひとつ、これは答弁拒否というより質問の拒否だが、質問の可否判断は委員長の権限であり、首相が行うことはできないはずだ。委員長に制止をもとめることはできるが、委員長の判断は拒否できないはずだ。

ついでだが、「関わりあるなら証明していただきたい」というセリフは、思いっきり下品だ。泥棒が捕まった時の啖呵であり、一国の首相が国会の場で吐くセリフとは到底思えない。それが下品であることが自覚できないなら、その人物が下品だということになる。

ことは以降の決算委員会のあり方に係わる重大な問題だ。このまま見過ごすことは、決算委員会にとっては自殺行為だ。決算委員長はみずからの首をかけて臨まなくてはいけない。


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