鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

AALA関連記事は「aala_newsの編集日記」http://blog.livedoor.jp/aala_news/ に移りました(6Nov.2023) 中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 「ラテンアメリカの政治」(http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ )がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

2014年03月

インド・トヨタのロックアウト

産経のニュースを見る。経過は以下のようだ。

労働組合との賃金交渉が難航していた。

一部の従業員が監督者を脅迫するなど、生産妨害を行った。

トヨタは16日にロックアウトに踏み切った。

18日には非組合員の契約労働者が一部ラインで生産を再開した。

24日には生産ラインを全面再開した。労組との賃金交渉は継続中である。

「わが方の損害軽微」という大本営発表だが、WSJの報道はだいぶ様相を異にしている。

28日付WSJ

大半のインド人労働者は今週、職場復帰を拒否している。

労組員4200人が依然としてストを実施中で、停職となった労働者30人の復帰を求めている。この会社の従業員数は約6400人である。

トヨタは、どの従業員も良い行動に努めるとの誓約書に署名しなければならないと述べた。

TKMの大半の労組員はこの文書に署名していない。このため、会社側は労組員なしに操業しなければならなくなっている。労組員は従業員全体の約65%を占めている。

インドでは産業労働者と会社側とは不安定な関係にある。スズキの争議ばかりでなく現代自動車や日本のホンダ、インドの自動車大手も被害を受けている。

インド・トヨタでは労働争議以前、1日当たり570台が生産されていたが、現在何台製造しているかは明らかにされていない。

NewSphere というサイトが外信を拾って背景を探っている。

トヨタ、“死者も出る”インド労働紛争を乗り切れるか? 工場一時閉鎖に現地メディア注目

17日、トヨタ自動車のインド法人が組立工場の一時閉鎖を発表した。これら工場はすでに25日間、実質的な操業停止状態にあった。

ヒンドゥー紙によると、会社側は月平均4000ルピー増の組合要求に合意していた。しかしインド経済が減速し、ルピー暴落や販売不振の結果、2工場では生産能力の3分の1ほどしか使われない状態となっていた。この結果、約束が反故にされた。

会社側は、労働当局の勧告に従って3050ルピーを提示したが、組合側は納得しなかった。

エコノミック紙によると、組合側は、「ヒュンダイや他の自動車メーカーより、はるかに少ない支払いしか受けていない」と主張している。会社側は他の自動車メーカーと同等だと主張している。

タイムズ・オブ・インディア紙によると、閉鎖布告(ロックアウト宣言)は「当社では販売の欠如や過剰在庫により、プラント1で19日、プラント2で27日の非生産日数がありました」と書かれている。

となると、ロックアウトが過剰在庫の整理に利用された可能性もある。

WSJによると、トヨタのインド市場売上高は全世界のうち1.6%で、将来の重要市場と考えて基盤を築いてきたが、先行きの困難を示唆しているのかもしれない。

と撤退もほのめかす。

案外、誓約書の強要のウラにはそういう事情もあるのかもしれない。

「トヨタ自動車のインド子会社が労組員を対象とするロックアウトを行った」というニュースが聞こえたのが半月ほど前のこと。
今度は、職場復帰の条件として「誓約書」への署名をもとめ、拒んだ場合は鯛入りを認めないと通告したという。

インドの労働運動をめぐる環境は良く分からない。労使慣行のなかでよく用いられる手段の可能性もある。しかしインドの労働センターの幹部は次のように語っている。

労働争議はインドの企業でも頻発しているが、近年は日本企業が労組に対し強硬な態度に出るケースが目立つ。

ということで、その強硬路線はインドの中でも突出しているようだ。

一般的には、日本人はこういう労使紛争に慣れていないし、基本的には労使協調路線をとることが多いと思うが、なにせ神秘の国インドだから、現地のスタッフに委ねるケースも多いと思う。

ただ、ロックアウトといい、誓約書の強制といい、どうも大人げない対応だと思う。

誓約書は、「ロックアウト通知書」を読み、理解した上で、服務規程の順守を誓約する、となっている。

服務規程の順守は当然だが、会社側の闘争戦術であるロックアウトを受け入れる誓約書は、「ごめんなさい、もう二度としません」という踏み絵にも受け取れる。

労働者の神経を逆なでするし、第一、「労働者のはたらく権利」という思想を侵害し、労働契約をめぐる諸法に違反している可能性も低くない。

立場が逆になったとして、会社が労働者の「ストライキ通知書」を理解せよと要求されて、「ごもっとも」と誓約するだろうか。

インド国民全体への挑戦とも受け止められかねない、危うい内容をふくんでいるように思える。

 

 国共合作期の動きをもっとも詳しく適確に展開した論文が下記のものである。

柴田誠一 「モスクワと中国革命の指導

北大スラブ研の「スラヴ研究」(Slavic Studies)に掲載されたもので、なんと1961年の発表だ。

その後、戦前の中国の革命運動については京都大学から共著で浩瀚な論文集が発表されているが、それと比べても出色だ。

ソ連が初めて極東に進出するのはロシア革命から1年余立った1920年の初め頃で、イルクーツクに拠点を構えた。

イルクーツクにはコミンテルンの極東支局が設けられ、日本・朝鮮・中国の解放闘争を指導するようになる。

このなかでは朝鮮への影響が圧倒的に強く、このあたりの経過は「朝鮮戦後史年表-0」に記載している。

中国への影響は限定的で、比較的早期からモスクワが直接乗り出して指導している。

しかし最初に中国に乗り込んだ共産党員ヴォイチンスキーはイルクーツクから上海に派遣された活動家である。

このコミンテルン極東支局というのは、ソ連政府、とくに外務部(外務省)の影響が強く、コミンテルンの名はむしろ隠れ蓑的な意味が強い。

当時はシベリアに侵入した日本軍を始め、ありとあらゆる帝国主義の敵意に囲まれていたから、世界革命の推進というよりはソ連の防衛に役立つか否かが評価の基準となっていた。

その後、孫文と会見したミーチンはモスクワから直接送り込まれた外務部の人物である。そして国共合作で連ソ・容共路線が打ち出されたとき、国民党政府の軍事顧問として送り込まれたボロディンも外務部のラインを通じて動いている。

厄介なのは、彼らがソ連政府外務部の方針に基づいて活動していたにもかかわらず、中国共産党にはコミンテルンの代表のごとくに接して、あれこれと指導したことである。

たしかに初期のコミンテルンには、各国の運動を指導する能力はなかったし、革命の初期においてはそれほど厳密な区別をする必要はなかったのかもしれない。しかし中国で北伐作戦が始まり、それに呼応して各地で農民や労働者の闘争が盛んになると、この矛盾は次第に深刻なものとなっていった。

ソ連政府にとっては、ソ連の隣に国民党が支配する友好的な国家ができればそれで十分であり、高望みする必要はなかった。いずれ熟したりんごが落ちるようにこちらに近づいてくると踏んだのだろうと思う。

しかし中国の人民、中国共産党、それに各国の階級闘争を指導するコミンテルンにすれば、それでは話は済まないのである。この矛盾が27年の蒋介石の反共クーデターを引き金として爆発した。だから中国人民の解放闘争は蒋介石にやられたというより、自らの抱える矛盾によって自爆したのである。

こういう経過が大変良くわかり、その後の路線のジグザグの背景を見るうえでも大変役に立った。

それにしても、これだけの論文が61年に書かれていたということには驚いた。なにせ50年以上も前の執筆なので、その後の研究で相当変更もあると思うが、随時フォローしていきたいと思う。

移ろうままに

というブログに、遠藤三郎中将の『日中十五年戦争と私―国賊・赤の将軍と人はいう』の一部が掲載されているのを発見。

ブログに直接あたってもらえばよいのだが、なにか調子が悪いようなので、抄出・転載させていただく。

関東大震災の際は江東方面の警備に当てられ、孤立した数万の罹災者に独断深川の糧秣倉庫の米を分け、鮮人騒ぎの最中数千の鮮支人を習志野廠舎に護送して現 地司令官に叱られ、

二・二六事件には武力鎮圧に反対して単身反乱将校を訪ねて自首を勧め、自決した野中大尉を弔問して当局ににらまれ、

聯隊長の時部下一等兵の所罰問題で軍法会議と争い師団長から「現代の法規を無視し新たに法を作ろうとする悪思想の持主」と烙印を捺され、

関東軍副長の時中央の対ソ攻勢作戦に 反対して消極退嬰恐ソ病者として職を追われ、飛行団長として中支および東南亜の戦場に出されましたが皮肉にも四回も感状を授けられたことは面映いことでありました。

航空兵器総局長官の際は軍需産業を民間の営利事業に委するのを誤りとして国営に移し赤の将軍と呼ばれ、

本土決戦に反対して徹底抗戦組から狙われました。

終戦の詔勅を拝して冷静に帰った時の私の頭に浮かんで来たものは、「戦争は最大の罪悪」であり「軍隊は危険な存在」であり

「真の武は形になく心にあり、威武に屈せず富貴に淫しない心があれば軍隊の必要はないこと」、

そして「徳を以って勝つ者は栄え、力を以って勝つ者は滅ぶ」との古訓であり

「真の勝利は相手を暴力を以って打ちのめすことではなく、徳を以って相手を友にするにあり、正より強いものはない」という私の四十年に近い軍人生活の結論でありました。

敗戦直後軍備の全廃を日本の黎明と新聞に発表して軍人の激怒を買い、

巣鴨戦犯拘置所に入れられてはマッカーサー司令官に報復的野蛮の裁判と抗議し、

朝鮮動乱の際は「日本の再軍備反対と国際警察部隊設置の提唱」を公にして特審局から箝口令を敷かれ、

一九五五年に新中国を視察し速かに中国と国交を結ぶべきを訴 えて国賊と罵られました。

幸いにして日本の非武装は憲法に明示され、時の流れは日中の国交を正常化し、札幌裁判も自衛隊違憲の判決を下しました。

先のベトナム戦争も今回の中近東戦争も共に軍隊の価値の限界を示し、日本国憲法の正しさを証明しました。

私も恥なく祖先の許に行けると思います。

  長島さんの文章を読んでいて感じたのだが、時間には幅があるのではないかということだ。「揺らぎ」を使う際にしばしば物質が現れては消えるような揺らぎを問題にしている。しかし問題なのは物質の揺らぎではなく、容れ物としての時空の揺らぎではないのか。

だからヴィレンケンの言う「無から物質が生じる」なんていうのは間違いだとおもう。あえて言えばアウトフォーカスで見えなくなるか、カメラを持つ手がブレて物体を見失うことなのではないか。

相対性理論に量子力学を組み込む時から、事物の不確定性理論は宿命的につきまとうのだが、その本質は時間軸の曖昧さにあるのだと思う。不確定性というのは時間軸に幅があるということだ。少なくとも我々の経験する時間軸には幅があり揺れがあり、濃淡がある。

それを均一な一直線として捉えるから問題が出てくるのだと思う。この問題はもうひとつの時間軸、揺れない時間軸を想定することによって解決されるのだろうと思う。第5次元だ。


この文章はウィキペディアの「キチガイ」の項目からのものであるが、泉佐野市長が、左翼の使う「差別」を逆利用してはだしのゲン回収の目的としたこと、しかしその左翼には二種類あって、キチガイなる用例を「差別」と徹底糾弾する人々と、言論の自由を守る立場から、(キチガイという言葉を使えと奨励しているわけではないが)「言葉狩り」に反対する人々の2種類があることが分かる。

ウィキペディアによれば、前者は1974年以降一時期、統合失調症、気分障害などの精神障害者の家族らで構成される精神障害者家族会の 会の一部から、家族は萎縮し、回復治療期に、テレビ・ラジオでこの語を聞いた精神障害者がショックを受けることにより、治癒を妨げる等の医学的根拠を理由に大阪の各放送局が激しい抗議を受けたことが発端となり、以降使用自粛につながった。テレビ・ラジオを一日中モニターする体制を整え、NHK、民放を問わず、時には団体幹部の独断でも抗議するという激しさであった。

当時、大阪の放送局に対し激しい抗議をした精神障害者家族会の一部の団体の実態は、大阪府や大阪市など行政機関に絶大な影響を持っていた。団体幹部には精神科病院内で激しい闘争を行なっていた経験があり、若い頃から部落解放同盟での活動を行なっている

とされている

一方後者は

<日本新聞労働組合連合、日本出版労働組合連合会、日本民間放送労働組合連合会、映画演劇関連産業労組共闘会、日本放送作家組合、日本俳優連合、放送芸能者協会、全日本視覚障害者協議会の8団体である。

1975年に8団体が主催した「用語と差別を考えるシンポジウム」の内容を柱として「続・差別用語」、「新・差別用語」という本が出版されている。

これらの団体は、差別という名目での放送禁止用語の乱発に反対しており、ウィキペディアの著者はこの本から多くを引用している。

前者の団体を“左翼”と考えるなら、泉佐野市長と通ずるものがあるが、後者はそのような立場とは逆である。

私は前者を左翼とは考えていない。

差別について

大変微妙な話なので、ここだけにして欲しいのだが、

差別用語とされる言葉の中には、1.言葉そのものが対象を侮蔑したものと、2.もともと差別用語ではなかったものが、社会関係の変遷するなかで侮蔑的なニュアンスをふくむようになったもの、3.直截な表現を嫌う世間の風潮のなかで遠回しな言い方に変わったものがある。4.さらに科学的に不正確であることから意識的に変更された言葉もある。

言葉そのものが相手を侮辱しているのに差別用語と受け取られていない言葉もたくさんある。バカ、アホ、ブス、ケチ、スケベ、etc

盲、聾、唖はどう考えても差別用語ではなかった。今でも盲学校は盲学校だし、聾学校も聾学校だ。ただ面と向かって言うのに、遠回しに表現するという意味ではなかったのか。便所を手洗い、月経を生理というが如くである(一時はアンネといった)

医学用語はずいぶん変わった。とくに精神科領域で変化が著しい。一応正確になったとされるが、本当に正確かは疑問が残らないでもない。

最近では痴呆症が認知症になった。せめて認知障害と言って欲しかった。分裂病が統合失調に、躁うつ病が双極性障害に、ヒステリーが解離性障害になった。どういうわけか、てんかんだけは変えようという動きはない。

これに伴い古い用語がただ単にゴミ箱に捨てられるだけなら良いが、それが差別用語の箱に入ってしまうから困ったものだ。

キチガイ、狂人は今や立派な差別用語だ。しかし以前はそうではなくて、一般に使われていた。

だから、発狂するとか、キチガイじみたなどという派生語まで使えなくなってしまう。鉄道キチガイは鉄道オタクに変わった。しかし「オタク」も考えてみれば、宮崎勤以来、差別用語ではないか。

ところでトラキチはいいのかな? それとも泉大津では差別用語なのかな?


差別用語が多い書籍をすべて回収するのか?

おそらく明治大正の文学には差別用語が多いものがたくさんあると思う。これらをリストアップして、すべて回収すべきものとしないと、著しく法的公正を欠く恐れがあり、恣意的との誹りを免れ得まい。


また「はだしのゲン」が回収された。
今回はより露骨でたちが悪い。
松江の場合は右翼に脅されて、めげてしまったのが事の顛末だが、
今回は市長がみずから乗り込んで回収を命令したというのだから、話はいっそう深刻だ。
とにかくそこかしこで、右翼のやることが激越になってきている。
もう戸口までファシズムがやって来ているような恐怖感を覚える。

ところで今度意表を突かれたのは、市長が「差別表現が目に余る」ことを以って回収の理由としていることである。

これまで「差別反対」を叫んできたのはもっぱら左翼系であったし、いわゆる「言葉狩り」も左翼の一部の行動と見られていた。

ところがどこを以って「差別表現」としているのかが新聞記事には掲載されていない。

ネットで探すと、保守速報という右翼系サイトにその内容が載せられていた。

中藤辰洋教育長によると、千代松市長や市教委は昨年から、
漫画に「きちがい」「こじき」などの表現が使われていることを「差別を助長する」と問題視。

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いわば変化球ということで、ネトウヨ諸君にも若干戸惑いがあるようだ。

コメントでは、

昔は差別語じゃなかったんだろ
何でもかんでも差別差別言ってりゃいいんじゃないよ


当時使われてた言葉が出てくるのは当たり前だろ。

いいね
この主張で攻めればブサヨも文句言い難いだろうし


なんでもかんでも言葉狩りしてんじゃねーよ

それは言葉狩り大好きなブサヨ団体に言うべき言葉だなw

これが許されるなら今まで言葉狩りされた漫画たちは全てオリジナルで復刻するべき

はだしのゲン “だけ” 許そうとする不自然さは目にあまる

など、戸惑っている様子だ。


私も、差別主義者と言われても仕方ないくらい差別用語を使っている。当然「言葉狩り」する人々への一定の反感もある。しかし、大勢には従わざるをえない。

しかし、当時の状況のなかでキチガイとかコジキを使ったと言って、「差別に満ち溢れている」という感覚には、「オマエ、気が狂ったんじゃねぇか」と疑わざるをえない。しかもそれを理由に市長の権限で閲覧を禁止するのはXXそのものだ。

市議会ではこのところをしっかり追及してほしいと思う。



赤旗文化面に「詩壇」という囲み記事があった。
そこで詩人会議の主催する坪井繁晴賞の受賞作品が紹介されている。
熊井三郎詩集「誰か いますか」という。
その中の「海だけの海 」という詩…

「自分の領有権を争って戦争が起きてしまうことを悲しんだ小さな島が、海の底に沈んでしまう物語」だそうだ。

紹介者によると、
に似た文字だが、それと同じように飛び去れなかったのだ
としている。

それ以上のことは、この記事からは分からない。

そこでだ

大変無粋な話になってしまうが、いっそ尖閣を海に沈めてしまったらどうだろう。詩的に言えば「海の神様にお返し」するのだ。

そうすれば沖縄と中国本土の海上境界は中間線を引けばよいだけの話となる。まさにもめごとは水に流され、海は「海だけの海」となる。

日本にとっては若干割の悪い話だ。しかしそれで喉に刺さった骨がとれるなら、最終そろばんは合う。何よりも強欲で頭に血が上った中国にとって、なにか大事なことを考えるための良い教訓になる。

実は中国は韓国ともの領有権を巡って争っている。以前記事にしているが、名前は忘れた。こちらは干潮時のみ海面に顔を出すだけの、とも言えない岩礁だ。
韓国は日本相手には併合・植民地化の歴史を盾に竹島領有を主張するが、こちらは歴史問題など関係ないエゴだけの話だ。

親のわずかばかりの遺産の相続を巡って、兄弟が血を血で洗うような争いをしているのを見ると、「いっそお上に返納したら」と言いたくなる。カネは一時、縁は一生である。まして日中は永遠に一衣帯水なのだ。


シリーズ「日本の物理学100 年とこれから」

素粒子の物理—-先駆と展開の鳥瞰

長島順清

平成17 年6 月4 日

という文章を見つけた。「素粒子物理学の100 年を日本の著名な科学者の業績と思考に重点を置いて述べた」もので、素人にもそれなりに“分かりやすい”。年表にしてみる。

1897年 トムソン(J.J.Thomson) が最初の素粒子である電子を発見

1919年 ラザフォードが最初のハドロン族素粒子の陽子を発見

1929年 ハイゼンベルグとパウリが、素粒子記述の数学的枠組みである「場の量子論」を提唱。粒子と波動の2面性解明の努力。

1932年 チャドウィック(J.Chadwick) が中性子を発見。ハイゼンベルグは原子核が陽子と中性子でできており、電気的性質以外は同じ性質を持つと提唱する。

1934年 フェルミが「弱い相互作用」の理論を発表。素粒子を生成消滅する実体として捕らえた最初の試み。

1935年 湯川が、核子間に働く新種の力として「核力の場」を提唱。核力の場に伴う粒子としてパイメソン(中間子)の存在を予言。(著者はこれを近代素粒子論の幕明けと位置づけている)

1937年 アンダーソン(C.D.Anderson) ら、宇宙線の中に中間子を発見。(これはミューオンだったため、しばらく混乱が続く)

1947年 パイメソンが発見される。坂田らの2中間子論により決着がつく。

1947年 最初のストレンジ粒子が発見される。新世代加速器の開発により新ストレンジ粒子や新共鳴粒子が続々と発見される。

1949年 朝永らが繰り込み理論を確立。ハイゼンベルクの「場の量子論」の難点を克服。

1949年 コロンビアグループ、量子力学からのずれと見られる異常現象が、真空偏極という場の量子論効果を取り入れれば正確に再現できると発表。

この二つの発見により量子電気力学(QED) が確立する。

1954年 ヤン・ミルズ(C.N.Yang and R.L.Mills) の「一般ゲージ理論」が発表される。、力の場(ゲージ場) を電磁場と類似したものと捉えるいっぽう、重力と同じく、一般相対性理論にも適応。

1964年 ゲルマンがクオークモデルを提唱。(前概念として1956年の坂田モデル)

1964年 南部陽一郎が「自発的対称性の破れ」を提唱。ある温度を境に、ある種の整列化が一斉に生じ、それまで見えていた対称性が隠れてしまう現象で、物性では相転移という名で知られる。

1964年 ヒッグス、真空が無の状態ではなくて、相転移を起こす媒質(ヒッグス場) で充満しているならば、ゲージ対称性を保ったままゲージ場が質量を獲得できることをしめす。

1965年 南部、クォークは3色の色荷を持ち、色荷が強い力の場(グルーオン場) を作るとし、量子色力学(QCD)を提案。

1967年 ワインバーグらにより電弱相互作用の統一理論が提唱される。質量を、環境変化により発生する後天的な性質と見立てることによって、電磁力と弱い力をまとめて一般ゲージ理論の枠組みに収める。

1969年 新加速器による電子・陽子大角度散乱が可能となる。これにより、ハドロンの中に点状の粒子が実在することが明らかになる。

1970年代 電子とニュートリノ反応の比較により、この点状粒子が、半端電荷をもつクオークであることが証明される。

1973年 漸近自由性が発見される。電気力とは逆に至近距離では有効色荷が小さくなり、遠距離で強くなる(反遮蔽効果) 現象をさす。クォークがハドロンの中でほぼ光速で自由に飛び回っているにもかかわらず、あたかも袋の中に閉じ込められたように外に飛び出さない矛盾を解く鍵となる。

1973年 小林・益川が、3 世代6種のクォークによる世代混合によってCP 非保存を導くモデルを提案する。その後予言通りにチャーム、ボトム、トップのクォークが発見された。

1974年 チャームクォーク(c) が発見される。クォーク間にはクーロン型のほかに、距離とともに増加するポテンシャルも存在することが証明される。これによりクオークモデルが受け入れられるようになる。

1978年 電弱相互作用統一理論と強相互作用理論QCDが、一括して「素粒子の標準理論」と呼ばれるようになった。さらに強電弱3つの力の「大統一理論」が提唱される。

1978年 吉村ら、大統一理論にCP(粒子と反粒子の鏡映対称性) の破れを組み込み、ビッグバンから反物質消滅過程を経て、今日の物質宇宙形成へ至る道筋を示す。

1981年 佐藤勝彦ら、大統一の相転移時にインフレーション(宇宙初期の急激膨張) が起きると提唱。

1984年 グリーンとシュワルツ、「超紐の理論」を提唱。(湯川は、場の量子論の欠陥を克服するには、点ではなく広がりを考えなければならないと主張していた)

1990年 ウィッテンが「M理論」を発表。超紐理論の5つの要素がひとつの体系の異なる側面であると提唱。相対論と量子力学の整合性を共に要求すると、超紐理論は10次元時空でのみ成り立つ。したがって、我々の住む4次元時空は、10次元空間に浮かぶ4次元の膜宇宙であるとされる。


と、時系列で並べてみたが、相変わらず何のことやら分からない。

ところで著者、長島さんの最後のフレーズはなかなか印象的である。

 私は、重力に宇宙、電磁力に原子分子、強い力には原子核・ハドロン・クォークと、各種根元力には司る重要な階層があるのに、自然が弱い力だけ除外するはずはないと考え、新しい階層が再び現れると信じる者の一人である。

しかし、これは少数意見である。

現代物質観では、「我々は既に物質の究極に到達した。根元力は4 種で尽きており、次の階層は大統一もしくはプランク距離にあり、途中は何もない砂漠である。」という考えが主流である。

状況は、ある意味で19 世紀末に似ている。当時、すべての現象は古典物理学で説明でき、なすべきことは精密理解だけであると考えられていた。


王柯さんが行方不明になったという。

かなり心配なはなしである。王柯さんは神戸大学教授で中国人。

『東トルキスタン共和国研究 : 中国のイスラムと民族問題』という本を出していて、いかにも危なそうなところに片足突っ込んでいたからだ。

東トルキスタン共和国は1944年11月に誕生した国家で、新疆北部のイスラム国家である。

当時の中華民国の圧制への抵抗がソ連の支援を受けてイスラム共和国建設に至った。

しかし第二次世界大戦の終結とともに、中国との関係改善を図ったソ連が共和国への支援を中止した。この後、共和国政府は中華民国との交渉に入ったが、内部闘争を繰り返しながら、ついに消滅を余儀なくされた。(小松久男氏の紹介文より)

王柯さんはまさにこの東トルキスタン共和国の研究家で、ウィグル人居住地域を「中核的権益」とする中国政府にとっては、もっとも危険な人物の一人だったかもしれない。

ネットで探すと、以下の文章がゲットできた。

報告「中国における多様な民族主義を考える……中華民族の言説とジェディッディズムの成立過程を通じて」(小島祐輔氏報告に対するコメント)

「中華民族」はあくまで一種の言説であり、国民統合を実現させる万能薬にならない。

中国が「中華民族による国家であると強調すればするほど、虚構の「民族国家」であることが感じられ、近代国家としての正統性が問われることになる。

ジェディッディズムと呼ばれる運動の実態については未だに究明されていない部分がある。

しかし運動の主体は間違いなくウイグル人で、その舞台となったのはウイグル社会であった。そして、この運動において「東トルキスタン民族」と呼ばれる抽象的な民族共同体はなかった。

近代社会を研究対象とする際に、ナショナリズムまで分析の視野を広めるとしても、ナショナリズムを絶対視することはやはり避けるべきだろう。

と、やや論旨不明瞭ながらも、ウイグル問題を民族問題に局在化させないための、双方の努力を強調している。


東トルキスタン共和国については下記の論文が詳しい。

『理論研究誌 季刊中国』2001年春号
「イスラム教の動向と中国の民族問題」(下)
「東トルキスタン共和国の成立と崩壊」
野口 信彦

ウィキペディアの記載は、やや主観的な偏りを感じる。


おそらく中国指導部は、漢民族と少数民族の統合された国民国家として「中華民族」を使っているのだろうが、「中華」という枠に括られることを少数民族が任用するだろうか、という問題がある。

それと同時に、言葉としてでなく実体として多民族を統合した「中国国民」の枠づくりの営為そのものは、多民族の統合の手法として不可避であることも認めなければならない、という主張なのかと思う。

いずれにせよ、いまは王柯氏の無事を祈るばかりである。

佐藤さんの文章を読んで、次のように書いた。

ビレンケン(A.Vilenkin)は、宇宙は“無”の状態から生まれるのだと主張し、モデルを提出した。

ビレンケンのいう“無”とは単に物質が存在しないという意味ではなく、その入れ物である時間も空間も存在しない状態である。

このへんの言い方はどうも変で、納得がいかない。中身が無いというのではなく、それを入れる容器としての時空が“無”に近いほど小さいということではないのでしょうか。


実は、これを書いていて、「これはアキレスと亀ではないか」と思いついた。

高校のとき、数学の先生がこのパラドックスを否定するのに、時間・距離グラフを書いて「ほら、ちゃんと交わるではないか」と言って終わりにした。私にとっては、それからが悩みの始まりとなった。

この先生は、別な論理を持ちだして解を導き出したに過ぎない。「アキレスと亀」の論理は何も否定していないのだ。


両者の論理の違いはゼロ=交点の向こう側の世界に対する見方の違いにつながる。

「アキレスと亀」論者にとっては交点の向こうがもしあるとするれば、それは「虚」の世界になる。虚時間であり、虚空間である。

数学の先生にとっては、ただの負数の世界である。ゼロの次の駅はマイナス1であり、2,3と続いている普通の風景である。交点をゼロと決めたのは、たまたまそこをゼロと決めたからに過ぎない。

4次元の世界では絶対的なポイントであっても、5次元の世界から見ればたくさんのポイントの中の一つにすぎないのかもしれない。


前にも書いたが、「アキレスと亀」のパラドックスは分析的論理の範疇を超えていると思う。叙述的論理が必要な場面だ。みずからを主体化し、方向付けすることによってしか乗り越えられないのではないか。そしてもう少し時間的な幅をもって考えなければならないのではないか。

ということは、あるピンポイントの瞬間を交点と考えるのではなく、交点を超える作業の連続過程として、どういう方向に進んでいるのかを問わなければならないということになる。それはおそらくトンネル効果のトンネルの中に隠されているのだろうと思う。


これと似たような話は、実は20世紀のはじめにもあった。物理学の世界で「物質が消滅した」という説が飛び出して、それを元に不可知論が登場し、レーニンが悪戦苦闘した(成功したとはいえないが)経過がある。

これは、事物が物質であり運動であり、両者の関係としての「過程」だというヘーゲルの弁証法により克服された、と私は思っている。

そこにおける主体と客体の相互転換は、一見トリッキーではあるが、Ursinn を想定することで、上行可能だ。

これを、逆行的に示したのが「坂田モデル」の真髄だと思う。


相対性理論における時間と宇宙の誕生 - 東京大学総合研究博物館

もうやめようかと思っていたら上記の文章が見つかってしまった。佐藤先生の書いた一般向けの啓蒙文書(2006年)だが、題名からして怖気をふるう。

しかし、先ほどのウィキペディア氏にいささかムッと来ていることもあり、勢いで着手する。

 

はじめに

良く語られるように、「相対論」と「量子論」は現代物理学をささえる2本の柱である。

ここでは、宇宙の認識が、アインシュタインの相対論でいかに深まったかを見る。

かつて宇宙論といえば実証性のない数学的理論だけでほとんど哲学と考えられていた。

しかしビッグバン理論は、アインシュタインの相対論にしたがって提唱され、人工衛星からの宇宙の観測によって裏付けられている。

つまり、宇宙の起源は、相対論と量子論によって物理学の言葉で描き出されるようになってきたのである。

 

相対性理論 時間とは、空間とは?

「力学」は物理学のもっとも基本となっている。それは物質が時間的に空間をどのように移動するかを記述する物理法則である。当然時間や空間とは何かということを明確に定義 しておかねばならない。

ニュートンは時間を「外界とは何ら関係することなく一様に流れるもの」と定義し、空間を「外界とは何ら関係することなく、均質であり揺らがないもの」と定義した。すなわち、時間や空間を絶対的なもの(絶対時間、絶対空間)としたのである。

つまり、力学というのは物体と空間と時間が織りなす世界のことなんですね。ところがニュートンは空間と時間を固定したものと前提してしまって議論するから、議論が狭くなってしまう。「空間や時間も物体なんだ、動くんだ」と考えると世界が広がるということなんでしょうかね。

アインシュタインは時間や空間の概念を大きく変えた。特殊及び一般相対性理論(以下、相対論)は、一言でいえば「時空」の物理学である。

アインシュタインは時空は石舞台ではなく、トランポリンのように重みでへこむ舞台であることをしめした。

「空間や時間も物体なんだ」と考えると、物体が時空によって位置づけられるのと同じように、時空も物体によって位置づけられてもおかしくはないかもしれません。ただ「ゴルフボールと地球」くらいの「程度問題」はあるでしょうが。

特殊相対性理論では、等速度運動している座標系(慣性系と呼ぶ)の間の相対性を示した。特殊相対性理論の鍵となったのは「光の速さは、どんな速さで運動している人から測っても同じ速さだ」ということで、「光速度不変の原理」という。これは観測事実である。

「観測事実だ!」と言われればそうなんでしょうけど、どうしてでしょうかねぇ。

これはニュートン力学と矛盾する。電車の中で前方に向かって発射された光の速度は、地面からみると電車の速度だけ加算されているべきであり、光速度不変の原理は成立しない。

アインシュタインは「時間はみんな互いにちがっていい」と主張して、この矛盾を解決した。

10年後の一般相対性理論で、「すべての座標系」を平等にする理論が完成した。

一般相対性理論を構築する上でもっとも障害になったのが「重力」である。アインシュタインは、「重力は物質の質量エネルギーによる時空の歪みによって引き起こされる」と設定することで、この難問を切り抜けた。

物質が時空を押して、その結果、時空の側に応力というか斤力みたいなものが働いたのでしょうか?

一般相対性理論の中核であるアインシュタイン方程式、重力場の方程式

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物質の質量エネルギーによって時空がどのようにゆがむのかを与える方程式である。

左辺は時間や空間の歪みを表す時空の幾何学量である。

右辺は物質のエネルギー運動量(テンソル)である。cは光速度、πは円周率、Gは万有引力定数である。

つまり物質のエネルギーに万有引力定数Gをかけたものが時空の曲がり方を決めるということになる。

曲がった時空の中で物質は運動し、運動した物質がこの方程式にしたがって時空を決める。このように宇宙は物質と時空が一体となって発展・進化して行く。

 

相対論的宇宙論

アインシュタインは、翌1917年に、一般相対論を用いて静的宇宙モデルを作り上げた。

アインシュタインは重力場の方程式を変形し、宇宙定数と呼ばれる定数(Λ項)を導入した。この宇宙定数は空間が互いに退けあうような斥力を及ぼす効果がある。

そろそろ脳みそが豆腐状態になってきた。このへんで一時中断。

…再開

つまり万有引力に対して、新たに宇宙斥力を導入しこの2つをバランスさせようとしたことになる。しかし、このモデルは確かに力が釣り合うが、少しでも揺らぎが加わるとたちまち不安定になる。

その後、A.フリードマンやG.ルメートルが、相対論から素直に(宇宙定数など無視して)計算した。そして宇宙が膨張している可能性を発表した。これはルメートル宇宙モデルと呼ばれ、今日のビッグバンモデルの基礎となった

そしてハッブルより宇宙膨張の観測事実が示された。ハッブルは、より遠方にある銀河ほどより速いスピードで我々の銀河より遠ざかっていることを発見した。アインシュタインは素直に自らの誤りを認め、「人生最大の不覚だった」と語ったという。

 

ビッグバン宇宙モデルとインフレーション

「私たちの住むこの宇宙は、今から137億年の昔、熱い火の玉として生まれた。この火の玉が膨張冷却する中でガスがかたまり銀河が作られ、その中で星が作 られ豊かな構造を持った現在の宇宙が作られた」

これが今日の科学的な宇宙のモデル、ビッグバン宇宙モデルである。

ビッグバン理論は相対論に基づいた理論であり、現在の宇宙の構造・進化を大筋で説明できるモデルである。

しかしこの理論では、宇宙は無限のエネルギー密度をもった数学的特異点から生まれたことになっている。これはペンローズとホーキングの特異点定理と呼ばれる。

しかし時間に果てがあるということは、一般相対論を十分理解している研究者にとって も、あまり気持ちの良いものではない。

これに対し、1980年代になって、「力の統一理論」という素粒子論的宇宙論の研究が進んだ。そして宇宙の創生そのものについても物理学で語ることが可能となった。

 このような研究の中から描き出されてきた宇宙の創生・進化のパラダイムは以下のようなものである。

1) 宇宙は“無”の状態から量子重力的効果によって生まれた。

2) 生まれた直後のミクロな宇宙は、そこに存在する真空のエネルギーの効果によって加速的急激な膨張を始めた。まもなく真空の相転移が起こり、真空のエネルギー は潜熱として開放され、宇宙はマクロな火の玉宇宙になった。

3) インフレーション中に仕込まれた物質密度の揺らぎは、火玉宇宙の膨張と共に次第に成長した。そして現在の宇宙の構造へと成長した。

これが標準的パラダイムとなっているのは、宇宙創生のシナリオとして説得性があり、観測とも基本的によく一致しているからである。

 

素粒子論的宇宙論

宇宙の創生を研究するためには、素粒子の研究が必要である。その理由は、宇宙の創生期に遡るにつれ温度が極めて高くなり、全ての物質は素粒子にまで分解されてしまっているからである。

素粒子は当然量子論的に扱わねばならず、したがって宇宙の初期は量子論的な世界である。

1980年代、物質世界の基本的な力を一つに統一しようとする「統一理論」が大きな進歩を遂げた。その基本的概念から、「力もまた生命の進化と同じように進化した」という示唆が得られた。

「宇宙が始まった時、1つの種類の力しかなかった、しかし宇宙が膨張し冷却する過程で力も枝別れを起こした。その結果、現在の4つの力がうまれた」というシナリオが描きだされたのである。

この辺、前に勉強したはずだけどまったく覚えていません。「勉強したよなぁ」という思い出だけが残っています。

この力の枝別れは、“真空の相転移”によっておこる。

物理学者の描いている真空は決して何にも物が無いカラッポの状態ではない。量子論的に真空を考えるならば、それは必ず揺らいでいなければならない。「揺らぎ」とは、電子とその反物質である陽電子、又陽子と反陽子というように物質粒子とその反物質粒子がペアで生々消滅を繰り返している状態である。

現在の宇宙では真空のエネルギーは存在しないが、相転移前の真空は巨大な“真空”のエネルギ-を持っていた。それは空間に対して“斥力”(アインシュタインの宇宙定数)として働き、宇宙を急激に膨張させる効果を持つ。

宇宙斥力の強さは、アインシュタインの想定したものより何十桁も強力である。だから宇宙はこれまでのビッグバンモデルよりはるかに急激に膨張することになる。

“真空のエネルギー”密度は、宇宙の体積が大きくなっても常に一定である。なぜなら宇宙の全内部エネルギーも急速に増大するからである。

真空のエネルギーはアインシュタイン方程式を通じて急激な宇宙膨張をおこさせるが、その内部にエネルギーを創る(相転移)ことによって、自らの全エネルギーをも増大させているのである。これを「インフレーション宇宙モデル」(指数関数的膨張宇宙モデル)と呼ぶ。

しかしこの膨張は無限に続くわけではない。真空の相転移 の終了と共に、何百桁と増大した真空のエネルギーは「潜熱」として解放され、普通の熱エネルギーとなる。

宇宙は、今度はこの潜熱によって熱い火の玉となって膨張する(ビッグバン)。

 宇宙の創生という見地からみたとき、インフレーションは明かにビッグバン宇宙を作る重要なステップである。このインフレーションという急激な膨張によって、どんな小さな空間も宇宙スケールにすることができる。

同時にインフレー ションによって宇宙の物質エネルギーが何百桁と増加する。 エネルギー保存を満たすアインシュタイン方程式と統一理論の式を基礎とすれば、これらのことが可能なのである。宇宙の膨張は、真空のエネルギーに働く“宇宙斥力”によって引き起こされたのであり、“神の最初の一撃”は必要なくなる。

ところが、アインシュタイン方程式と統一理論の式の合体がうまく行かず、そこに超弦理論が登場するという経過があるらしいのですが、まったく分かりません。


宇宙はたくさんある(多重発生)

インフレーションモデルはまた、宇宙がインフレーションの過程でたくさん生まれることを示唆する。

宇宙でインフレーションが進む時、ある場所では早くある場所では遅くというように非一様に進む。宇宙は凸凹 となる。膨張が早く急激に起こった領域は元の宇宙から因果関係が切れた“子供”宇宙となる。そこから更に“孫”宇宙が作られる。

インフレーションモデルはいうまでもなく、完全な宇宙創生のシナリオではない。このシナリオでは「最初の宇宙」が不可欠である。しかしその様なミニ時空さえあれば、それは量子的には、ビッグバン宇宙に成長させることができるのである。

宇宙では遠くを見ることは過去を観測することである

宇宙では遠くを見ることは過去を観測することである。人類はどのくらい遠くまで見えるようになったのか。宇宙開闢から30万年しかたっていない頃の宇宙の姿まで見えるようになったのである。それが1992年にNASA の打ち上げたCOBE衛星である。(それより前の宇宙は高温のためガスが電離しており不透明担っていて観測できない)

インフレーション理論は、宇宙構造の種が「量子揺らぎ」だと予言しているが、COBE衛星の送った画像には予言通りの密度揺らぎが映っていた。これによりインフレーション理論は観測から強い支持が得られた。

NASAは2003年 2月に後継機のWMAP衛星を打ち上げ、COBEより30倍も精度の高い宇宙初期の地図を発表した。これにより宇宙の年齢は137億年であることが確定された。

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宇宙は“無”から生まれたのか?

ビレンケン(A.Vilenkin)は、宇宙は“無”の状態から生まれるのだと主張し、モデルを提出した。

ビレンケンのいう“無”とは単に物質が存在しないという意味ではなく、その入れ物である時間も空間も存在しない状態である。

このへんの言い方はどうも変で、納得がいかない。中身が無いというのではなく、それを入れる容器としての時空が“無”に近いほど小さいということではないのでしょうか。

この“無”の状態からミニ時空が誕生する。その時空は量子重力効果により極めて小さい。しかし真空のエネルギ-がきわめて高い状態にある。そういう時空が「トンネル効果」により作られる。

トンネル効果とは、物質が波の性質を持っているため、本来通過できない山の内部を通過してしまう量子論的効果である。それはあたかも自分でトンネルを掘るが如きモデルである。

と言われてもさっぱり分からないが、SFで言う「ワープ」のことか?

トンネル効果は、虚数の時間を前提としている。虚数の時間とは空虚な時間ではなく、時間軸が空間軸と区別がつかないものになった位相における時間という意味のようだ。「超時間」といったほうが分かりやすいかもしれない。多分そういうものがあるだろうということは素人にもおぼろげながら想像できる。

量子宇宙は大きさゼロの状態からトンネルをくぐって出てくるまで、虚数の時間で膨張してゆく。そして、トンネルからところで実時間となりインフレーション宇宙へとつながる。

佐藤さんはここを思いっきりスッ飛ばしているが、どうもこのトンネルというのが「インフレーション」理論の味噌のようだ。だからといって、もっと勉強しようとは、とりあえずは思わないが…

ブレーン宇宙論

最近の宇宙のモデルに「ブレーン宇宙モデル」がある。究極の統一理論となりうる超紐理論として考えられているM理論の示唆するところ では、高次元の空間の中に、三次元の膜が存在し、それが我々の住む宇宙である。

というが、ますますなにやらわからないので、今回はパスすることにする。

ダークエネルギー

これも省略

終わりに

宇宙論研究は今二つの方向で進んでいる。

第一は、最近しばしば言われる精密宇宙論である。すなわちインフレーションを含むビッグバン宇宙論を基に、宇宙進化の経過を描き出すことである。宇宙論は、今はっきりと、“論”から天文学となったのである。同時に期待したいことは、従来の理論に矛盾、もしくはそれまでの理論では説明することのできない観測が出てくることである。

第二の方向はダークマター、ダークエネルギーの問題である。ダークマターの候補としては超対称性理論が予言するニュートラリーノをはじめとして各種の素粒子が考えられている。一方ダークエネルギーの存在の“発見”はそれが正しいならば、宇宙論的意義以上に物理学の根幹に ふれる事になる。

科学は矛盾や謎を解くことによって進む。これらの謎は21世紀宇宙論への鍵である。


これは2006年の文章です。おそらく10年近くを経過する中で多くのすごい発見があったことでしょう。もう少し勉強しないとダメですね。


江田憲司さんの李立三路線の検証が非常に面白い。
李立三というのは1930年ころの中国共産党の指導者で、極左路線をとったとして批判されている人だ。
1930年といえば、世界大恐慌のまっただ中で蒋介石政権も大揺れに揺れていた。満州を日本に取られ、国内での人気も地に落ちていた。
そういうときに、政府の転覆を狙って総蜂起をかけるというのはありえない話ではない。
(もちろん内戦が20年も続いていた当時の中国で、ろくな武器も持たずにデモをやっても犠牲ばかりで勝つ見込みはないのだが)
ただ戦い方としては都市ゲリラ的なやり方もあるだろうし、ストライキやサボタージュで不安定化させることを主眼としてもよいのだから、形態はいろいろありうる。
問題は、それが極左かどうかということではなく、闘いの主舞台を都市と農村と、そのいずれに設定するかということなのではないか。

実はそれと似た状況が1959年5月のキューバにもあった。

最近の文献によると、民医連の組織には3つの特徴があるそうです。4つでも5つでも良いのですが、傍から見るかぎり、民医連は、まず何よりも旗印を掲げて闘う組織です。

闘うというと穏やかではないのですが、どこか“とんがって”いる、“とんがって”居続けるということでしょう。そして“とんがって”いることを自らの誇りとし、そこに人生の価値を見出そうとすることでしょう。

それは正義感の発露です。不正を憎み、許さない気持ちです。安倍首相みたいな人物を見ると、ムラムラと闘志が湧いてくるのがそれです。

もう一つの闘いは、ともすれば逃げたがる自分と闘うことです。民医連に入るということは、自ら旗印を掲げるということです。

自ら旗色を明らかにすることで、逃げ道を断ったはずだが、ついつい慣れ合って、いいかげんになる。そうすると、いざというとき闘えなくなります。

もう一つは見て見ぬふりをしないこと、思いを行動に移す腰の軽さです。そして人々に寄り添うことです。患者の痛みに寄り添い、老人の苦しみに寄り添い、就職難や奴隷労働、派遣切りの惨めさに寄り添うことです。

感性の豊かな人ならこんな作業は必要ないかもしれないが、私を含めて大抵の人はつい見て見ぬふりをしてしまう。


考えてみれば経営だって闘いです。組織を生きながらえさせるだけではない。闘う組織として研ぎ澄ますことも経営です。

私は日本航空の「再建」に乗り出した京セラの稲盛社長の言葉がずっと喉に引っかかっています。

「経営なくして安全なし」です。

正しいように見えるのだが、どこかにすり替えがある。

ずっと考えていてふと気づきました。稲盛社長はこう言うべきだったのです。「正しい経営なくして安全なし」と。

何が正しいかは分かりません。しかし正しさを求めて闘わなくてはいけないのす。闘えば敵が見える、己も見える、その中で誰に寄り添うべきかが見えてくるのではないでしょうか。

道東勤医協は創立40週年を迎えました。それは闘いの40年でした。それはほとんど物理的な闘いでもありました。闘いこそ民主主義の証であり、道東勤医協を特徴づける最大の旗印でした。

闘うことの3つの意義を考えるなら、よくぞ40年も闘ってきたといえます。それは40年も人々に寄り添い続けてきたことの証でもあるからです。

これからも突っ張れ、突っ張り続けろ、道東勤医協よ。


アメリカの外食企業も相当えげつない。
マクドナルドのミシガン州の店では、労働者が勤務時間になってもタイムカードを押させないそうだ。
客数が増えてくるまで待機だ。待機時間に賃金は支払われない。そうやって1~2時間ただで待機させる。
カリフォルニア州の店では、客が少ない時間は待機態勢に入らされる。その間は賃金ゼロだが、拘束はされる。

これはその店がアコギだというだけではなさそうで、本社が加盟店に従業員数と売り上げの比率を計算させ、客が少ない時は従業員数を減らすよう指示しているのです。

「賃金なしで待機させろ」とか「ただで拘束しろ」とは言ってないが、指示を守ればそういうことになります。

労働者は闘うしかないようです。

ついで、佐藤勝彦先生ご本人による分かりやすい説明。

これはこだわりアカデミーのホームページのもの。ただし2000年9月に掲載されたものだから相当古い。

ビッグバン理論は、初期の宇宙は超高温、超高密度の火の玉で、その火の玉が膨張して、今の宇宙ができたという理論です。

65年に、火の玉の余熱を電波という形で確認したことにより、ビッグバン理論が証明され認知されるようになった。

しかし火の玉がどうやってできたのかが謎として浮かび上がった。それを説明したのがインフレーション理論なのです。

インフレーションというのは、宇宙創成の直後の宇宙の異常膨張のことをいいます。

インフレーションの前に直径10のマイナス34乗cmの粒子が、直後には1センチに膨らんだ。

最初の宇宙は無から生れたと考えられています。物理学的には「ゆらぎ」のある状態のことをいいます。いい換えれば、無と有の間をゆらいでいる状態ということです。

その状態から「トンネル効果」で、突然パッと宇宙が生れた。

その「最初の宇宙」から火の玉になるまでの急膨張が、インフレーションなのです。

生れたての宇宙は、真空のエネルギーを持っており、このエネルギーは急膨張する性質があります。

急激に宇宙が大きくなるということは、それだけ密度が低く なり、温度が急冷することになります。いわゆる過冷却と同じ状態に陥ります。 その間、膨大なエネルギーが潜熱として蓄えられます。

水でしたら凍る時にその潜熱が吐き出されるわけですが、インフレーションでは真空の相転移によって莫大な熱エネルギーが解放され、ごくわずかだった宇宙が直径1cm以上もの火の玉宇宙になったのです。

この一節はさすがに難しい。何か循環論理のような、騙されたような気分。あとで復習。

宇宙の膨張とともに素粒子ができ、それが陽子や中性子に、さらに原子へと、物質生成が進んでいきました。

それが、しかるべきところに落ち着き、宇宙の見通しが良くなりました。「宇宙の晴れ上がり」といいます。だいたい宇宙創成後、30万年頃のことです。

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インフレーション理論は、単に理論だけで終ることなく、観測により実証されるようになった。

92年、NASAの探査衛星が宇宙背景放射を調べ、その電波にごくわずかなムラがあることを発見したのです。

インフレーション理論では、銀河や銀河団が誕生するには、宇宙の初期にその種となるような温度のムラが必要である。

ムラが証明されたということは、銀河や銀河団の誕生の種の存在を確認したということになる。

今後期待するのは重力波の観測です。

重力波というのは、巨大な星が爆発を起こした時などに周囲の空間がゆがみ、それが波となって宇宙を伝わってくるものです。

非常に透過率が良く、宇宙の晴れ上がり前の状態も観測できるのです。

日本の国立天文台でTAMA(タマ)という装置が、またアメリカでもLIGO(ライゴ)という装置ができつつあります。

より遠くの重力波を観測することで、インフレーションの瞬間、また宇宙開闢(かいびゃく)の瞬間さえも見ることができるようになるのです。

例によって、ウィキペディアから始める。多分絶対にわからないと思うので、次のページを見てください。

1.まずインフレーションの定義

現在我々から観測可能な宇宙全体は、「因果関係」で結び付いた小さな領域から、量子の揺らぎとして始まった。

宇宙は誕生直後の10-36秒後から10-34秒後までの間にエネルギーの高い真空(偽の真空)から低い真空(真の真空)に相転移する。

その間に、負の圧力を持つ偽の真空のエネルギー密度によって引き起こされた指数関数的な膨張の時期を経る。

この膨張のことを指してインフレーションという。

ということで、さっぱり分からない。読み進んでいくうちに分かるのだが、この項目の著者は余計なことを言い過ぎる。しかもそれが業界用語のオンパレードだ。

2.一次相転移モデル(古いインフレーション)

佐藤とグースは、独立して素粒子の大統一理論における一次相転移に基づいたインフレーションモデルを提唱した。

佐藤らは、「指数関数的宇宙膨張」説を唱え、大統一理論に磁気単極子が多量に現れる問題を解決しうることを示した。

このモデルでは、誕生直後の宇宙は偽の真空と呼ばれる状態にあったとされる。そしてインフレーションの終わった領域が真の真空の「泡」の核生成として宇宙の中に作られる一方、残りの領域ではインフレーションが続く。
このような泡同士が衝突すると、泡の壁が持つ莫大なエネルギーが粒子に変換され、これがビッグバン初期宇宙に存在する高温の放射や物質粒子となる。この過程は再加熱と呼ばれる。

インフレーションが続いている巨大な背景領域では我々の宇宙と同様の新しい宇宙が絶えず生成され続ける。

初期宇宙が冷却するにつれて、宇宙は高エネルギー密度の偽の真空の内に捉えられる。そして宇宙は準安定状態(過冷却されている)の内に補足される。
真の真空の泡は自発的に偽の真空の海の中で形成し、すぐさま光速で膨張を始める。

と、ここはかろうじて、日本語として読み解ける。中身がちんぷんかんぷんなのは同じだが

3.一次相転移モデルの弱点

標準ビッグバン理論の問題を解決するには、十分にインフレーションが進行しなければならない。そのためには真の真空の核生成率は非常に小さくなければならない。

しかし核生成率が小さいと泡同士の衝突が起こらず、再加熱過程が働かないことになる。
高温のビッグバンに必要なエネルギーが泡の衝突によって全く供給されず、いつまで経っても火の玉宇宙の時代に移行しないことになる。

4.スロー・ロール・モデル

この理論上の弱点を克服するために生み出されたのがスロー・ロール・モデルである。

一次相転移モデルでは、スカラー場があるポテンシャルの極小値に停留した状態からトンネル効果でポテンシャル障壁を越えて転がり落ちる過程が想定された。

これに対しスロー・ロール・モデルでは、ポテンシャルの形が極小を持たないほぼ平坦な形状として設定され、この上をスカラー場がゆっくりと転がり落ちると考えられた。

これなら「トンネル効果」の挿入は不要となるらしい。
このモデルは、完全に対称的な宇宙は作り出さないが、インフラトン内に僅かな量子ゆらぎが生成される。

これらの僅かなゆらぎは、後の宇宙において生成されるすべての構造にとっての根源的な種を形成する。
スカラー場はポテンシャルを転がり落ちるだけだが、量子ゆらぎによって時にはポテンシャルの高い位置に再び戻される場合もある。

したがって、インフレーションが起きている領域の方が常に宇宙の大部分を占めることになる。これを永久インフレーションと呼ぶ。

といったところだが、いまの私の能力では理解不能ということが分かった。少し他の文献で能力を上げていこうと思う。

しかしこういう人いるよね。わかんないから聞くんだけど、聞くと余計わからなくなる人。






何回も書くが、私がホームページを開設したのは1995年のこと。もう四半世紀を迎える。

いつの頃からか、「更新記録」を狙ってくるゲストが増えてきた。いわば日記なのだが、短くて1行、長くて数行というのが受けたのだろうと思う。

「それがまさにブログなんだよ」といわれて、ブログを開設したのが東北大震災のすぐ後。それから3年がたつ。

最初は、本家はホームページ、こちらは日々雑感みたいな感じで始めた。ところが徐々にこちらに力が入る。そうすると記事がどんどん長くなる。

いつの間にか読んでもらうページではなく、読ませるページになってしまった。長さではなく、中身があまりにも濃くなってしまった。さりとてその即興性はホームページとも異質である。

そうなるとツイッターということになる。つまり発信ツールの三段階化である。この辺りの心境を、おそらく私より一世代若い人が言い表している。


下記は星居Webブログ からの引用

ブログの時代は終わったのか? 

という超刺激的な題名

 【情報の鮮度】
  Webサイト < ブログ < Twitter(FaceBook)

この順番で鮮度が上がる。その人の感情により近くなってくる。ブログが出て来た頃、それまで自分のホームページで情報を発信してた人たちが、徐々にブログ の方の更新が多くなっていって、ホームページが廃れたのと同じように、今度はTwitterでブログが滞るようになる。・・・まったく同じ構図だと思いま す。

かといって、

Webサイトでしか出来ないこともあるし、ブログでしかできないこともある。まあ、使い分けなんでしょうけれど、その情報発信に必要なエネルギーは、

 【情報発信の為のエネルギー】
  Twitter(FaceBook) < ブログ < Webサイト

となる訳で、やっぱり今の時代、今の僕の生活では、Twitterが一番あってるということになるわけです。


とても説得力のある文章で、ただそのような賽の河原に意志を積むような作業が出来るだろうかと考えると、ウームと考えこんでしまいます。

とりあえずできることは、ブログの記事を気楽に読めるもの、そもそもホームページに論文として載せるべきものの二つに書き分けて行くことでしょう。

ライトとヘヴィーのメリハリをつけた文章にしていこうと思います。

しかし今回の事件の仕掛けが、「無限振り出し」にあったとすると、話はおかしくなる。
金が引き出されたのは、みずほ銀行の口座なのだ。
とすればセキュリティーが破られたのは、マウント社の金庫ではなくてみずほ銀行なのではないか。

みずほ銀行は、金を送り込んだ時に相手口座から受領確認を取らないのだろうか。

2日付の朝日新聞(via 阿修羅)には次のような記事がある。

安全性が高い銀行口座からハッカーが直接現金を盗み出すのは「技術的には考えづらい」と、顧客の一人でIT関連会社の峰松浩樹社長は指摘する。「『紛失』したコインの穴を埋めるために、顧客の現金で別のコインを買ったのではないか」と疑う。


たしかに、そうも考えられる。
と言うより、そう考えないと、みずほ銀行にとっては大変なことになる。

新聞がこの事件の報道に及び腰なのは、そのせいがあるかもしれない。

まぁいちおう、みずほの対応に瑕疵がなかったとして、仕掛けとしては次のような三角ベースが考えられる。

みずほは金を送る、犯罪者は受領確認を発行する。ところがこの受領確認がマウント社に転送されない。

おそらくマウント社のコンピュータはみずほからの受領確認転送を待って、ビットコイン残高を減らす仕掛けになっていると思われる。

したがってこのフィードバック回路がやられてしまうと、ビットコインの残高は減らない、ということになってしまう。

ただこのフィードバック回路を全面遮断すればたちまち、パンクしてしまう。

犯罪者のIDのみ、フィードバックを免れることができるように細工してあるのだろう。

だからといってみずほの責任が全くないとはいえない。端的に言えば、フィードバック情報が送りっぱなしになっていなかったか、情報を受け取ったという確認を取っていなかったのか?

これはセキュリティ・ホールというよりはシステム設計の問題になるだろう。

これも大変なことだ。責任はフィフティ・リフティになる可能性がある。

残る可能性は、マウント社のCEOに悪意があった場合だが、これについてはカナダの訴訟で明らかになっていくだろう。

ビットコイン問題が最初分からなかったのは、マスコミの報道がビットコイン側に踊らされていたためだったようだ。

典型的なのが、例えば3月1日の産経新聞。

消失したのは85万ビットコインで約114億円相当と説明したが、最新の取引価格で約480億円相当に上る。

これはマウント社の説明そのまんまだ。

記者は不勉強の誹りを免れ得ないだろう。ただ事件の背景を知るために、ビットコインの専門家のところにいってしまったのかもしれない。我が身に置き換えてみると、分からないでもない。本当はネット犯罪の専門家のところに行くべきだったのだ。

はっきり言えば、ビットコインが何枚消えてなくなろうと、それがなんぼに相当しようと、そんなことはどうでもいいのである。

問題はキャッシュが消えたことなのだ。そしてそれがセキュリティの穴をかいくぐって盗みだされたらしいということなのだ。

つまりビットコインそのものの安全性とか、その仕組に絡んで起きた事件ではなく、ごく単純な窃盗事件だ。

 

セキュリティー会社の社長は「「秘密鍵を管理できるビットコインの『財布』のパスワードを盗めば、大量の不正引き出しも可能だ」と語っているが、そんなことはサルでも分かる。

「盗んだ人のアドレスは分かるはずだ」と書いてあるが、入会時の審査が甘ければ、勝手なアドレスで契約することは可能だろう。

もう少し高級な手口を使っている。

ネットの記事を総合すると、こういうことだ。

手持ちのコインを提示して、現金への引き換えを要求する。市場はこれに応じて口座に現金を振り込む。口座からは受領のサインが送り返される。ところが受領のサインが送られないように細工する。

そうすると、受け取りがもらえないから、市場側のコイン残高は減らない。

ここでまた引き出し請求をすれば、市場側は同じようにまた送金する。しかし受け取りはもらえない。

ということで、預金者は無限に金を引き出せるという仕掛けになる。

ただどんどん現金が減っていけば、市場側のコンピューターに安全装置が作動するはずだが、そこをいじられている可能性が高い。

さらに、受領サインをもらっていない送金件数が増えれば、これも警告が出るはずだが、ここもやられていたことになる。

ここが分かれば、「ビットコインとはなんぞや」などという話を仰々しく持ち出す必要は全くない。

何人かのブログ主が、実に懇切丁寧に説明してくれているが、見事に勘所を外しているから、読むといっそうわからなくなる。

アメリカでマウントゴックスへの損害賠償の訴えが出された。
それはいいのだが、原告側は訴状を修正して、みずほ銀行も被告に加える事にした。
みずほ銀行がマウント社の金融サービスを一手に引き受けていたからだ。

告訴内容は以下のとおり

1.みずほ銀行はマウント社の資金と同社顧客の資金と区別せず、金融サービスを行ってきた。

2.みずほ銀行はマウント社の不正行為を把握しながら、金融サービスの提供を続けた。

3.上記の結果、顧客の損失を拡大させた。

4.みずほ銀行みずからが不正行為から利益を得た。

正直言って、言いがかりに近い、めちゃめちゃな論理だ。これなら刑事告発したほうが早いと思う。

カナダからも同様の訴訟が起こされているが、こちらはちょっと違ったニュアンス

1.マウント社のセキュリティー違反の結果、多額の顧客のビットコインが盗まれる事態を招いた

2.ビットコイン以外のすべての通貨(現金)はみずほ銀行の口座に預けられていた。

ということで、現金が盗まれたことに対する責任を問うものとなっている。

これは相当ずっしり響くはずだ。大量の現金が一気に引き出されるのを放置した銀行の責任はある。少なくとも有責だ。

この間も書いたように、事件の全貌が見えず、本質も不明のままだ。真相を明らかにする上でも、訴訟には意義があると思う。
ポジティブに考えれば、今後の代用通貨システムの可能性を探る上でも、明らかにして置かなければならないポイントだ。

にも関わらず、日本の経済・金融メディアは明らかに猿轡を噛まされている。
フォロー(とくにカナダの訴訟)を期待する。


安部首相が「面舵いっぱい」の路線を多少修正しだようだ。
安倍政治を彩ってきたのは、きわめて危険な右翼傾向であると同時に、見ていて恥ずかしくなるほどの幼稚さであった。
日本の伝統のなかでこれほど幼稚な首相を抱いたことがあっただろうか。
麻生といい、  といい目を覆うほどの政治の劣化がもたらされている。
短期的に見れば小選挙区制、テレビ時代という要素は無視できないが、日本から急速に物を考える人間がいなくなっているというトレンドを見過ごす訳にはいかないだろう。

ところで、このような政権を生んだのは、一種の「権力の空白」だった。
現在もこのような極右に対する有効な対抗勢力は存在していない。

なぜこのような空白が生まれたのか。
私は国民と財界の力勝負が一種の膠着状態に入ったためだと見ている。
民主党を押し上げた国民の深部の力は、みずからの希望を民主党政権に託した。
このとき財界とメディアの逆襲が始まった。自信喪失の自民党にとってかわり、民主党の換骨奪胎作戦を開始した。

まず伝家の宝刀、東京地検特捜部を使って鳩山、小沢の追い出しに成功した。いわばクーデターが行われたわけである。

ついで連合マシーンを使って菅を送り込んだ。一応民主党トリオの一角だから格好はつく。
菅が首相就任早々に財界よりの方針を打ち出した時は唖然としたが、スポンサー筋に言い含められていたのであろう。菅の方も首相になるためなら毒でも飲む気分だったろう。

二人三脚の政治がスタートしたとき、東北大震災が発生し、福島原発の事故が発生した。

菅は財界を無視し、反原発に舵を切ろうとした。この時財界はしゃにむに菅を引きずり下ろし、野田を新たな首相に据えたのである。

これが国民感情を逆なでし、民主党は見捨てられることになる。さらに消費税をめぐる顛末は、自民党以下の醜態をさらけ出した。

こうして国民の望んだ民主党は姿を消し、財界党に成り果てた。そのとき、消極的なオルタナティブとして自民党が登場し、さらに維新旋風が巻き起こった。

原子炉内部の国民の不満という巨大なエネルギーが行く先を求めて右翼になだれ込んだのである。

自民党の政権復帰後、時代を風靡した経団連は鳴りを潜め、ふたたび裏方に回った。この経過のなかで国民対財界という対立図式は消え去り、国民の不満は見事に吐出されてしまったのである。

そして残ったのが、やるせない不満と鬱屈した気分だ。

権力の空白は、こうした権力を巡る抗争の結果としてもたらされたものである。

これは一時的なものだ。我々は学んだ。日本の代表としての大企業や財界が我々の味方ではないこと、政治が混乱すれば前面に出てきて国民の分裂を行うことを。
だから政治には何よりも財界からの独立が求められることを知った。

これが、何よりも大切な教訓である。


韓国の進歩新党に期待したが、最近の情報を知るにつけ、がっくり来ている。

結局、洪世和(ホン・セファ)は逃げてしまった。「労働現場に戻る」といっているが、逃げたことに変わりはない。進歩新党から当選する可能性がないと見るや、気の利いた連中は一目散にいなくなった。

いまは
李鎕吉という人が出てきて、労働党と名を変えた。綱領を見るとまったく闘う党としてのイメージはない。ただの人畜無害な「緑の党」である。

結局「親北」の民主労働党への反感のみが、この集団の存在理由であって、それは反共意識と一体のものだったようだ。

多分、この記事は間違っていると思う。
どこかに革新統一への底流が渦巻いていると思う。
戦前の朝鮮共産党の時代から、朝鮮人は民主は得意だが集中は苦手だった。しかしそれはそれでいい。
日本風ではない、韓国風の革新運動が育つことを願っている。


共産党が、「歴史の偽造は許されない――『河野談話』と日本軍『慰安婦』問題の真実」という論文を発表した。

ネットにもアップされると思うが、長いので要約紹介する。


はじめに

維新の会の議員が「河野談話」について事実を歪める国会質問を行った。

内容は (1)「慰安婦」を強制連行したことを示す証拠はない、(2)元「慰安婦」からの聞き取り調査はずさんで、裏付け調査もしていない。

というものだ。

安倍晋三首相は「質問に感謝する」とのべた。その後政府は、「河野談話」の検証チームを設置すると発表した。

「河野談話」見直し論は歴史を偽造し、戦争犯罪をおかした勢力を免罪しようというものだ。

 

Ⅰ. 「河野談話」が認めた事実、それへの攻撃の特徴は何か

A 「河野談話」が認めた五つの事実

 「河野談話」では、つぎの五つの事実が認定されている。

1.「慰安所」と「慰安婦」が存在したこと。

2.軍が「慰安所」の設置・管理に関与したこと。

3.「甘言、強圧」により「本人たちの意思に反して」就業を強制されたこと。

4.「慰安所」において、強制使役の下におかれたこと。

5.朝鮮出身者が多いのは、植民地支配の一環として行われたためだ。(この項は適切な要約ではないかもしれません)

その上で「河野談話」は二つの立場を表明している。

1.謝罪: 従軍慰安婦として数多の苦痛を経験されたすべての方々に「心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる」

2.決意: 歴史の真実を回避しない、歴史の教訓として直視する、永く記憶にとどめる、そして、「同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する」

 

B 「慰安所」における強制使役にこそ最大の問題がある

見直し勢力の主張は、第3の事実、「慰安婦」とされる過程が「本人たちの意思に反していた」との点に集中する。論点は次の二つである。

1.「慰安婦」を強制連行したことを示す証拠はない

2.元「慰安婦」の証言には 裏付けはない

これは、論点3を突き崩すことによって論点1~5のすべてが否定されたように見せかける「詭弁」です。主要な論点は 4.「監禁拘束」と「強制使役」にある、と論文は反論します。

この事実に対しては、「河野談話」見直し派は、口を閉ざし、語ろうとしません。しかし、この事実こそ、「軍性奴隷制」として 世界からきびしく批判されている、日本軍「慰安婦」制度の最大の問題です。

 

Ⅲ. 「河野談話」にいたる経過を無視した「談話」攻撃

“「慰安婦」とされる過程に強制性があったという事実認定には根拠がない”か? 「河野談話」にいたる経過を追いながら、“根拠”を探る。

A. 韓国側から「強制連行の事実を認めよ」との訴えが提起される

 日本軍「慰安婦」問題が、重大な政治・外交問題となったのは1990年からですが、それから1993年8月の「河野談話」にいたる経過をみると、つぎのような事実が確認できます。

まず、日本軍「慰安婦」問題で大きな被害をこうむった韓国から、「強制連行の事実を認めよ」という訴えが、さまざまな形で提起されます。元「慰安婦」が初めて実名で証言します。日本国内でも、市民団体や研究者による真相究明を求める運動が起こりました。

B 加藤談話、「慰安婦」に政府(軍)の関与認める

1.92年7月 加藤紘一官房長官が談話を発表

関係資料を調査した結果、「慰安所の設置、慰安婦の募集に当たる者の取締り、慰安施設の築造・増強、慰安所の経営・監督、慰安所・慰安婦の衛生管理、慰安所関係者の身分証明等」について政府の関与を認める。

「従軍慰安婦として筆舌に尽くし難い辛苦をなめられた全ての方々に対し、改めて衷心よりお詫びと反省の気持ちを申し上げたい」と表明する。

2.加藤談話は「強制連行を否定」したわけではない。

「朝鮮人女性の強制徴用を示す資料はなかったのか」との問いに、「募集のしかたについての資料は発見されていない」と答えたこ とが、「強制連行は否定」と報道され、談話への強い批判が寄せられます。

慰安婦の仕事が強制使役であったという“根幹的事実”が、この調査によって確認される。談話は強制連行について触れておらず、おそらく談話発表後の記者会見での質疑応答であろう。しかも強制連行を否定したわけではない。メディアが先走った感がある。ここは本論文の重要な指摘だと思う。

3.韓国政府の加藤談話への対応

日本政府の調査を「評価する」と発表。一方、「全貌を明かすところまでは至っていない」として、事実3(強制連行)の確認をもとめる。

C. “強制性を立証する日本側の公文書は見つからなかった”

日本政府は国外まで広げて「慰安婦」問題の調査をすすめた。しかし、「本人の意思に反して慰安婦とされた」という事実を立証する公文書は見つからなかった。

事務方の責任者だった石原元官房副長官が「通達とか指令とかいろんな資料を集めたんですけど、文書で強制性を立証するようなものは出てこなかったんです」と証言している。

D. 強制性を検証するために、元「慰安婦」への聞き取り調査をおこなう

日本政府は募集過程における強制性を確認するため、直接に元「慰安婦」16人から聞き取り調査をおこなった。石原氏は、「元慰安婦の話から状況判断、心証をえて、強制的に行かされたかど うかを最終的に判断しようということにした」としている。

結果、日本政府は、「慰安所」における強制使役とともに、「慰安婦」とされた過程にも強制性があったと判断。石原氏は、「その意に反して慰安婦とされた 人たちがいたことは間違いありません」と述べている。

E. 元「慰安婦」証言から強制性の認定をおこなった「河野談話」の判断は公正で正当なもの

「証言」は「証拠」に比べ、法的能力は一段低いものである。しかし強制連行の証拠がなくても、強制連行がなかった証拠もないのであるから、その限りで、「証言」は重みをもって受け止めなかればならない。「真っ黒でなければ白」という推定無罪の法廷論理では済まないと思う。

一般に、証言は判断する主体の「心証形成」のための手段である。もとめられるのは「確からしさ」と「真実性」である。それを担保する要件をどう規定するかが問われる。

元「慰安婦」の聞き取り調査は、訴え(の核心的事実)に真実性があるかどうかを判断するということを目的としたものです。「裏付け調査」など、もとより必要とされません。

 元「慰安婦」の証言の「裏付け調査」要求は筋違いです。

「裏付け調査をしていない」とか、証言に「間違いがある」、「信憑性に疑問がある」などの 批判は、いまに始まったことではありません。

核心的事実とは、「意思に反して慰安婦とされた」というポイントです。

「はっきりしていることは、慰安所があり、いわゆる慰安婦と言われる人たちがそこで働いていたという事実、これははっきりしています。それから慰安婦の輸送について軍が様々な形で関与したということも、これもまた資料の中で指摘をされていたと思います。

…軍が持っている非常に圧倒的な権力というものが存在し、そういう状況のもとで、被害者でなけれ ば到底説明することができないような証言がある…」

 これは当然の責任ある判断です。当時の政府が、「河野談話」において、こうした立場にたって認定をおこなったことは、公正で正当なものでした。

 

Ⅲ 日本の司法による事実認定―「河野談話」の真実性は歴史によって検証された

 

A. 加害国である日本の司法による事実認定

加害国である日本の司法による事実認定は、きわめて重い意味をもっています。

慰安婦裁判は10件あります。このうち8件の判決では、元「慰安婦」たちの被害を事実認定しています。それは、「河野談話」見直し派が声高に叫ぶ「強制連行はなかった」という主張を打ち砕くものとなっています。

B. 「河野談話」が認めた五つの事実のすべてが「事実と証拠」に基づいて認定された

東京高裁判決(2003年7月22日): 本件の背景事情のうち争いのない事実と証拠(……)によれば、次の事実が認められる。

イ、軍隊慰安婦の募集は、旧日本軍当局の要請を受けた経営者の依頼により、斡旋業者がこれに当たっていた。業者らは甘言を弄し、あるいは詐欺脅迫により、本人たちの意思に反して集めることが多く…さらに、官憲がこれに加担するなどの事例も見られた。

エ、軍隊慰安婦は、戦地では常時旧日本軍の管理下に置かれ、旧日本軍とともに行動させられた。

 

C. 被害者の一人ひとりについて詳細な事実認定がおこなわれた

 一連の判決は、「各自の事実経過」として、元「慰安婦」が被った被害について、一人ひとりについて詳細な事実認定をおこなっています。事実認定されている女性は35人にのぼります。内訳は韓国人10人、中国人24人、オランダ人1人です。

D. 国家的犯罪として断罪されるべき反人道的行為との告発が

 日本の司法による判決は、個々の被害事実を認定しているだけではありません。こうした強制が国家的犯罪として断罪されるべき反人道的行為であることをつぎのように告発しています。

 「極めて反人道的かつ醜悪な行為」、「ナチスの蛮行にも準ずべき重大な人権侵害」、「著しく常軌を逸した卑劣な蛮行」――日本の司法による判決でのこのような峻烈(しゅんれつ)な断罪は、きわめて重く受け止めるべきものです。

E. 「河野談話」の真実性は、いよいよ確かなものとなった

日本軍「慰安婦」に関する事実関係について、「日本の司法が認定」を下し、「司法の分野では決着」がついたのです。

司法の認定は、当時の日本政府の判断が「間違いなかったということを保証」するものともなりました。

Ⅳ 「軍や官憲による強制連行を直接示す記述はなかった」とする政府答弁書の撤回を

A. 「強制連行を直接示す記述はなかった」とする政府答弁書は、事実と違う

第1次安倍政権が閣議決定した2007年3月16日の政府答弁書には、次の記述が含まれています。

 「『河野談話』を発表した1993年8月4日までに政府が発見した資料の中には、軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような記述も見当たらなかった」

しかし、この時点でも、すでに強制的に「慰安婦」にされたことを示す外国側の公文書は存在していました。少なくとも、つぎの二つの公文書は、日本政府 は間違いなく知っていたはずです。

B. オランダ人女性を強制的に連行して「慰安婦」とした「スマラン事件」

2013年9月、原資料が開示されました。 そこには、判決文をはじめ、強制連行の事実を生々しく示す証拠資料が多数含まれています。判決文は次のように事実認定しています。

 「日本占領軍当局者は此の無援、不当なる従属関係を濫用し、暴力或は脅迫を以て、数名の婦女子を最も侮辱的なる選択の後、抑留所より連行せり」

 これらは、「軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような記述」そのものです。

 「河野談話」の発表に先立って、日本政府が、強制連行を直接の形で示すこれらの公文書を把握していたことは、疑いようがありません。

C. 東京裁判の判決に明記されている中国南部の桂林での強制連行

 東京裁判の裁判文書、とりわけ桂林については、判決そのものにつぎのような記述があります。

 「桂林を占領している間、日本軍は…工場を設立するという口実で女工を募集した。こうして募集された婦女子に、日本軍隊のために醜業を強制した」

 日本政府として、BC級戦犯裁判や東京裁判の公文書に明記されている強制連行を示す記述を知らなかったと言い張ることは、通用する話では決してありません。

E. 事実と異なり、有害きわまる役割を果たしている政府答弁書の撤回を求める

 さらに、「河野談話」発表以後、日本の司法の裁判での数々の事実認定を踏まえるならば、「軍や官憲による強制連行を 直接示すような記述が見当たらなかった」とする政府答弁書は、許されるものではありません。

 政府答弁書は、「軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような記述も見当たらなかった」であるのに、それが「強制連行を示す証拠はなかった」と読み替えられ、さらに「強制連行はなかった」と読み替えられ、利用されているのです。

 この政府答弁書を撤回することを、強く求めるものです。

Ⅴ 歴史に正面から向き合い、誠実かつ真摯に誤りを認め、未来への教訓とする態度を

A. 女性に対する国際的人権保障の発展と、日本軍「慰安婦」問題

日本政府には、国際的な批判にこたえる国際的な責務があります。

B. 「性奴隷制」を認め、強制性を否定する議論に反論を―これが世界の声

れまでに、米国下院、オランダ下院、カナダ下院、欧州議会、韓国国会、台湾立法院、フィリピン下院外交委員会と七つの国・地域の議会から日本政府にたいする抗議や勧告の決議があげられています。国連や国際機関からも、国連の二つの詳しい調査報告書のほか、国連人権理事会、自由権規約委員会、社会権規約委員会、女性差別撤廃委員会、拷問禁止委員会、国際労働機関(ILO)などから、日本政府にたいする是正勧告が繰り返し出されています。

「河野談話」の見直しを叫び、日本軍「慰安婦」制度の強制性を否定する主張は、日本のごく一部の極右的な集団のなかでは通用しても、世界ではおよそ通用しないものであり、最も厳しい批判の対象とされる主張といわなければなりません。

C. 歴史を改ざんする勢力に未来はない

日本政府が、「河野談話」が明らかにした日本軍「慰安婦」制度の真実を正面から認めるとともに、歴史を改ざんする主張にたいして きっぱりと反論することを強く求めます。

さらに、「河野談話」が表明した「痛切な反省」と「心からのお詫び」にふさわしい行動――事実の徹底した解明、被害者にたいする公式の謝罪、その誤りを償う補償、将来にわたって誤りを繰り返さないための歴史教育など――をとることを強く求めるものです。


長い! というのが正直な感想。

論争が多岐にわたるだけに、細部であっても疎かにできないという事情があるから、これでもずいぶんが頑張ったのだろうと思う。

とくに第Ⅰ節が説得力を持っている。

河野談話の骨組みを5点に整理し、核心的事実を第4点目に絞ったことは正しい主張だと思う。

そして河野談話に先立つ加藤談話の重要性を強調している。ここは非常に重要だし、教えられた。

ここで、すでに基本的な山は越しており、韓国側もそう理解していたと思われる。

「強制連行」については、確かにもう一つの山ではあるが、強制労働の事実が認定されれば、「同意なしの就労」はある意味で論理的に導き出されるのである。

そのうえで、紙に書かれた証拠がないということで作業が遅れ、河野談話にずれ込んだ形になる。

もう一つのポイントは、河野談話の「強制連行」の結論を出す過程、本人たちの証言を採用して事実認定するという方法論が、司法のレベルで追認され確定したという事実だ。司法の判断はある意味で法律以上の重みを持っていて、行政の枠をしっかり縛っている。

三権分立の下で、行政が司法の判断を覆すようなことはあってはならないのだ。

この大枠をつかむことが、慰安婦問題での議論ではだいじだ。

正直言って、韓国側の対応もこの問題を複雑にしている。

強制労働の事実を認めたら、今度は強制連行の事実を認めろ、さらに国家として補償せよと、問題点をずらしてくる。

しかもアジア基金の時には内輪もめで醜態を晒した。

ポピュリスト政権の悪いところが露呈した感じだ。

もちろん悪いのは日本の側で、安部首相が世界中のひんしゅくを買うのも当然である。

論文の最後にも書かれているように、「将来にわたって誤りを繰り返さないための歴史教育」と、そのための認識のすり合わせがもっとも大事なことである。

「金を出せ!」の要求は、政府レベルでは抑制されるべきだろうと思う。


「日本国は9条があるからこそ美しい」
これは金曜の志位会見に参加したフランスの記者の感想である。
美しいという言葉には価値観が含まれるから、三者三様であることは間違いない。
ただ諸外国は、とくに戦争で日本の侵略を受けた国々は、「日本国は9条があるからこそ美しい」と言うだろう。
私もそう考える。
そして、9条の精神を規定した憲法前文を「美しい」と考える。

そこには平和を愛するだけでなく、他国におもねらず、他国を侮らず、諸国の中の対等たる一員として伍していこうという決意が込められている。

安倍首相の言う「美しい国」には、この気高さはない。どこに向かうかも明らかではない。(隠しているとも言えるが)

国(State)のあり方を示す形容詞としての「美しさ」には、山紫水明とか気候・風土は含まれない。苛烈な自然状況のもとに暮らす民も、国土(Country)と国民(Nation)を愛すると同時に、「美しさ」を感じても何の不思議もない。

国家としての精神の気高さを示す「美しさ」は、それとは別のところにある。安部首相はその事自体が分かっていないのではないかと思う。


3月に引っ越しというのも、いかにもそれらしく、バタバタしています。
高齢者には何かと煩わしいのですが、何事も経験と受け止めるようにしています。

それでまず、Broach お勧めの goo ブログに登録して、行ってみたのですが、
正直言って、二等車から三等車に乗り換えたような気分です。
広告はあるし、必要な物はないし、まぁ言葉は悪いが仮設住宅ですな。

住めば都、人間いたるところに青山あり、とは言うが青山というよりは赤羽です。
(赤羽の皆さん、ごめんなさい)

これはさすがに何とかならないかと思って、ネットでおすすめブログを探してみました。
一番おすすめ度が高いのはライブドアのようでした。
「おいおい、ホリエモンかよ」と思いつつ、一応ただなので登録してみた。

まず驚いたのは、受付がえらく簡単な事、インポートが早いことです。
やはり電電公社系はお役所仕事の遺伝子を背負っているんだな、ホリエモンは新時代の人だなと感心しました。

インポートもgooなら、何日間かお待ちくださいだったのが、こちらはタバコ1本吸い終わらないうちに完成しちゃいました。ちゃんと画像も全部入っています。

それで、メインページに行ったのですが、きれいサッパリで、余分なサイドバーの表示もなくびっくりしました。
人生で二等車に乗ったのが1回、一等車には乗ることなく終わってしまったのです。

Broachは有料でしたから、無料でこんなところに入っていいのだろうかと戸惑っています。(そのうちいろいろ不満も出るでしょうが)
Broachが潰れるのも無理からぬ事と感じました。

まだ閉鎖までは少し余裕が有るようですから、当分はこちらに入れて閉鎖になったら本格的に移動しようかと考えています。








k-nakanishi さんからコメントをいただきまして、
Bug head emperor 
を聞き直しました。
たしかにASIOに変えて、音は見違えるほど良くなりました。
むかし初めてASIOを聞いた時の思い出が蘇りました。
色っぽいというか艶っぽいというか、音がなまめかしくなります。
音飛びも相変わらずで、かなりバッファーをあげています。
AudioGate とfoobar で聴き比べました。
AudioGate より音はいいと思いました。
AudioGate がクリアさを追求するのに対して、
Bug head emperor はASIOっぽさを強調するようです。
ただ、音量そのものが少し大きくなるみたいです。
音質改善効果はすごいです。
音質改悪ソフトとの非難は取り消します。
低音が伸びるので音はふくよかになり、高音もキンキンが減弱します。
さらに良いのは強音での音の荒れがマスクされることです。
これらの特徴はピアノ曲で生きてきます。
ゲイリー・グラフマンのプロコフィエフを聞いたのですが、
ささくれがとれて、元の音が生き返るようです。
もちろんバイオリンも良いので、ハイフェッツのグラズノフ協奏曲は、聞くほどに浸っていきます。

ここまでは褒め言葉。ここから先は文句たれ。

すごく良い録音の曲だと、これらが裏目になります。
コリン・デイヴィスとコンセルトヘボウのショスタコ5番だと、木琴の鋭さが角がとれて、聞こえなくなります。「火の鳥」冒頭のトレモロも聞こえません。
どれも同じなんですけど、鋭い音や弱音の粒立ちが犠牲になるのでしょう。

じつは私もfoobarのDSPマネージャーにresampler を入れていて、最近は標準のPPHS よりもっと濃いSoXを使っています。

慣れてしまうと、こっちのほうが甘くて良いのですが、せっかく良い録音なら外すべきだと思います。多少音は痩せますが、鋭さはそれを補って余りあるものがあります。

話が長くなりましたが、結論は相変わらずfoobar。ちょっと古い録音を気分良く聞きたいときは
、セカンドチョイスとして Bug head emperor ということになるでしょうか。

もうオーディオゲイトは不要となりました。

このところ1ヶ月ほどの間で、youtubeのダウンロードが格段に厳しくなっている。

定番のダウンロードヘルパーが効かなくなって、Craving Explorer もだめで、比較的最近のアドオンソフトであるEasy Video Downloader が使えたのでそれでしのいでいたが、このところこれも歯が立たなくなった。

探していたところ、下記のサイトを見つけた。事情もわかった上に、お助けソフトも紹介してくれている。

動画ダウンロードツール特集

最近は著作権法が厳しい影響なのか、Google Chrome+動画ゲッター、Firefox+Video DownloadHelper、Firefox+Freemake Video DownloaderでもダウンロードできないYouTube動画が多くあるようです。

 また、強力なダウンローダーだと思っていたVSO DownloaderやCraving Explorerもダウンロードできません。
 
 ソフトをインストールしないダウンロード支援サイト Vid-DL、みるみる動画もYouTube動画をダウンロードできませんでした。

 これはもうYouTubeダウンロードツールが総崩れ状態…

 恐らくYouTubeがダウンロード規制などの目的でYouTubeの仕様をダウンロードできないように変更しているのでは?と思われます。

 ダウンロードツールは数多くあるので色々と試した結果、YouTubeの規制にはかからず、ほぼ全ての動画をダウンロードできるのが存在しました。(但しこれもいつかは対策されると思われますが…)

 Download YouTube Videos as MP4 

YouTubeのダウンロードソフトは数多くあるが、このFirefox用アドオンのDownload YouTube Videos as MP4は、YouTube動画のほとんどをダウンロードできる数少ないダウンローダーだと思います。(ほぼ確実にダウンロードできます)

ダウンロード規制が厳しくなっている環境で、YouTubeも恐らく動画の環境や仕様を色々と変更されていると思います。現に以前活躍していた YouTubeダウンロードソフトでは半分くらいしかダウンロードできないと思うほどダウンロードが厳しくなっています。

このDownload YouTube Videos as MP4も、もしかすると短い命かもしれませんが、現時点ではYouTubeの動画をダウンロードするのに最適だと思います。
(同じFirefox用アドオンのダウンロードソフトVideo DownloadHelperでダウンロードできないYouTube動画をDownload YouTube Videos as MP4ではダウンロードできました)


それで試してみたが、ウソではなくちゃんとダウンロードできる。

ということは、このソフトもいずれ最後の日が来るということだ。

急がなくては…

このソフトはすでにエクスパイアしています。下記のソフト(Firefoxのアドオン)をお勧めします。

Easy Youtube Video Downloader Express
記事はこちらです

たまに「春の祭典」を聞きたくなる時もある。
YouTubeではブーレーズの演奏が三種類も聴ける。なかではクリーブランドO とのものがいちばんよい。しかし無機質で面白くないのはどれも同じだ。
たまたまフリッチャイとRIAS交響楽団の演奏を見つけた。1954年録音とある。54年といえばトスカニーニ、フルトヴェングラーの時代だ。とても聞けたものではないだろうと思いつつ聴き始めたが、仰天した。
見事なハイファイである。
ReSound Project というのだそうだが、ややくぐもってはいるものの本当に綺麗だ。
フリッチャイは音の流れをだいじにしながら演奏しているので、こんな曲なのに面白く聞こえてくる。

いったい録音とは何なのか考えさせられてしまう。

いよいよ出ましたね。
- データ移行ツールへ

まぁやるしかないでしょう。
気がつくのが遅かったせいか、だいぶ順番待ちになりそうです。
今でも、このブログはアクセスに時間がかかるけど、
Goo はどうなんでしょうかねぇ。

国家情報院に関するその後の情報は、どうもあまりはかばかしいものではない。

10日に朴槿恵大統領の声明発表があり、同じ日にウル中央地検真相調査チームが国家情報院を家宅捜査するということで、歴史的な事件と見たが、政府としてはこれをもって手打ちにしたい様子だ。

まず家宅捜査がきわめて形式的なものであったということである。今回の事件の最終実務責任者だと言える対共捜査局長室には立ち入っていない。捜査終了後、対共捜査局長は「提出してほしいという書類だけ提出した」と話している。なめた話だ。

実は国情院の家宅捜査はこれが二度目で、一度目は2年前の大統領選挙での干渉事件のとき。そのときは捜査官25人を投入したが、今回は10名余りにすぎない。

そもそも検察の立場が矛盾したものだ。ある意味では共同被告である。外交関係もこれあり、しかたなしに行ったような様子を見せている。

正直のところ、野党の攻めも迫力を欠いているようだ。前回のような選挙干渉は最大の権力犯罪として国情院が指弾の対象となったが、今度はスパイ事件での「失策」であるため、怒りは分散する。

脱北者の中にスパイが紛れ込んでいる可能性は十分考えられるし、それに対する取り締まりが必要だということも世論としてある。そしてスパイというのは国家規模での作戦であるがゆえに、泥棒を捕まえるような訳にはいかないことも認識している。

となれば、問題は対中国関係だけとなるかもしれない。

ちょっとはしゃぎすぎたかな。

藤井裕久さんが、消費税引き上げについてどう言っているかなと思って探したが、ネットには見当たらない。

代わりに、オフィシャルサイトで下記の記事を見つけた。これがなかなか面白い。少し抜粋して紹介する。


『中央公論』2009年3月 掲載

特集●空気の研究

“自己中”でバラバラだが瞬時に引火する史上稀な危うさ

座談会

加藤紘一 自民党・衆議院議員

藤井裕久 民主党・衆議院議員

岩見隆夫 政治評論家


藤井  戦時中を知っているわたしなどは、「空気」といわれて真っ先に思うのは戦争ですよ。絶対圧政的な権威によって、「日本人はひとつにならなければならない」という「空気」は確かに存在しました。そして、偏狭なナショナリズムが生まれ、結果、日本は敗戦に追い込まれた。二度とあってはならない空気だったと思います。

加藤 昭和12 年に日中戦争が始まるわけですが、当時、関東軍の参謀たちは、「ここでさらなる戦線拡大方針を打ち出すべきか」「慎重路線をとるべきか」と議論しました。その議論の中で一人が、「そんな議論をしていてもしかたがない。東京の空気はもう拡大の方向に向かっている」といった趣旨の発言をして拡大の道を歩むことになるんです。

加藤  …(小泉首相は)見事に空気をつかむのがうまくて、そして作ってもいった。国民は催眠術にかかったように熱狂して。でも、就任していた5 年半を今振り返ればあの時、なぜ、郵便局をいじると日本が直る――なんて、国民は思ったのでしょうか。 それが、日本の空気の怖さです。

加藤  空気は使いようでは恐ろしい事態を引き起こします。先ほど申し上げた戦争が最悪のケースです。…一方で、現代の空気というものは、当時の空気よりも危なっかしい揮発性で引火性の空気のように思うんですよ。ちょっとマッチを擦ると、ボカーンと爆発するような。

こんなふうにバラバラになったとき、それでも自分でモノゴトを決められる人というのは、ほんの一握りなのではないでしょうか。大抵は、根無し草のような有り様に不安になって、何かにすがりたくなる。で、あるとき何かがあると、あっという間に熱狂し、さーっとそちらに流れていってしまう危うさを感じています。

ということで、ほとんどが加藤さんの言葉の引用になってしまった。

韓国がすごいことになっている。

韓国国家情報院といえばかつての国家保安院、KCIAとして悪名高い存在だ。

その国家情報院に対して、韓国検察庁の本格捜査に乗り出したのだ。

まず7日に国情院職員数人について出国禁止措置をとった。

10日にはついに国情院本丸の家宅捜索を断行した。一部情報ではすでに事情聴取も始まっているようだ。

この作戦は朴大統領が全面的にバックアップしている。

10日の演説で、「検察は一点の疑いも残さないよう徹底的に捜査し、国情院は積極的に協力しなければならない」と述べている。無論政治家の言うことだから、発言の背景をしっかり把握しないと正確な評価にはならないが。

国情院はこれまで、存在意義を問われると間髪をいれずに北朝鮮スパイ事件を演出し、もって延命を図ってきた。

今回もその伝でやろうとしたに違いないが、証拠として提出した中国側文書が偽造であることが発覚、その後も偽造関与を疑わせる情報がつい次と明らかになっている。

つまり放火犯が自分の服に火をつけてしまった格好である。

ほとんど前世紀の独裁時代の遺物なのだが、権力の壁に守られて今まで生き延びてきた。両金、盧大統領も手を付けられずに終わっている。

今度は、あの朴正熙の娘が、保守派の大統領として、KCIAに手を付けようとしている。この動きは本物だろうと思う。

しばらく目が離せない状況が続きそうだ。

“雇用のよしこ”の華麗な質問。

吉良よし子さんが参院予算委員会で「固定残業代制」を追及した。

「固定残業代制」はブラック企業が長時間労働を強いるもっとも強力な手口らしい。

これは図によると、本当の賃金(基本給)は最賃並みの12万円で、これに残業代8万円を載せて20万円なのに、募集広告では20万円が賃金として支払われるかのように見せかける手口だそうだ。

どうも良く分からないが、残業を固定するというのは実質的に長時間労働になるわけで、労基法に明らかに違反すると思うが、実際には抵触していないようである。

これが第一点目。

もうひとつは、この残業が一律強制となっていることだ。例えば固定残業時間を月80時間とすると、80時間未満の人は残業代がゼロになるということだ。

結果的に月79時間しか残業しなかった人は、その分ただばたらきしたことになる。(多少の救済はあるかもしれないが)

これは泥棒だ。

第三に、さらに問題なのはこの固定残業の時間だ。過労死基準というのがあって月80時間以上は危険レベルとされている。

しかし80時間というのはブラック企業にとっては当たり前の数字のようだ。中には100時間の残業を強制していた企業もある。

これについては「一見して不合理」との最高裁判断が下っている。不合理どころか人道的犯罪だろうと思うが。

第4は、「固定残業代制」は基本給と残業代が丸めになっていて、実は良く分からない。

残業手当というのは基本給の130%支払わなければならないことになっている。しかしどうも払っていない企業が多いようだ。

もちろん給与明細は会社の帳簿に記録されなければならないわけだから、証拠が残っているはずだが、実際にはあいまいにされているケースが多い。

東京都内だけで、昨年度割増しのサボが250件発覚している。労基署の是正勧告だから氷山の一角だろう。


そもそも、これらの問題は法律云々というより行政のレベルの話だと思う。場合によっては警察の出張るべき問題もありそうだ。

“雇用のよしこ”さんは

1.「固定残業代制」に関する全国的な調査をもとめた。

2.企業の募集案内で「固定残業制」を明示させる。基本給と残業代の内訳を明示させることをもとめた。

3.また、過労死基準である80時間を越させないようもとめた。(これには労基法改正が必要らしい)

厚労相は1,2については前向きの答弁を行った。3.は確かに厚労相一人では答えにくい、ただ立法以前にも最高裁判断の周知徹底などできることはありそうだが。

新人議員としてはよくやった、と思う。

「詭弁」について調べようと思ったが、あまりよいページがない。

ウィキペディアも取り留めがなく、例示されているだけである。

外国では詭弁というのは「価値中立的」な概念で、悪意の有無を問わないようだ。(厳密にはそうとも言い切れないようだが)

日本では、悪意を持った意図的な話し方ということになっている。

そういう意味では、日本語の「詭弁」については横罫に論理的特徴に基づく分類、縦罫に意図(悪意)の種類みたいな表にして示すのが良いのではないかと考えた。

そう思っていたら、サンスベリアさんのブログに、ちょうどピッタリの分類があるのを見つけた。

最初のコメントには

(詭弁の分類を)々と整理したところ、10項目になった。見出しはそれ自身も含む。
造語も甚だ多いが、各用語の解説は文末に記す。思考・対話の助けとなれば幸い。

とある。

そして10項目が【論理構造の不備】6項目と、【不適切な意図・態度】4項目に大別されている。

形式的分類と目的別分類とも言えるだろう。

ただサンスベリアさんには「何丁目何番地」的な意識はないので、そこをすこし詰めてみたい。

【論理構造の不備】の6項目は以下のとおりである。

1.演繹・帰納の誤謬
 …例外の撲滅、間違った類推、合成の誤謬、分割の誤謬(以上が演繹)、早まった一般化(帰納)
2.論理の断絶(「ゆえに」ではない)
 …選言肯定、4個概念の誤謬・媒概念不周延の誤謬、未知論証
3.包含関係に関する誤謬
 …後件肯定、前件否定、母・標の入れ替え
4.因果関係の錯誤
 …相関関係・先後関係との混同、クラスター錯覚
5.誤った根拠
 …権威論証、多数論証、無根拠(滑り坂論法、自然主義の誤謬)、イメージの先行(連言錯誤)
6.論点回避(結論を真とした論法)
 …論点先取(循環論証、充填された語、自分語法)

それぞれの内容については、とりあえず省略する。

【不適切な意図・態度】については、縦罫であることを強調するため、A B C D とする。

A.論点のすり替え
 …同情論証、対人論証(状況対人論証、人身攻撃、連座の誤謬)、相殺法、不当な要求、永遠の検証、証明責任の錯誤
B.不適格な話者
 …知性の欠落(知能障害をおこす)、居直り、過熱、不適切な主張、議論の放棄
C.無知・無力主義
 …思考停止、連続性の虚偽
D.恣意的な言語材料
 …間違ったジレンマ、偏りのある標本、曖昧語法・不断言、二枚舌、脅迫論証、多重尋問、比喩の濫用

まず見出しであるが、悪意の種類であることがはっきりするような見出しに変えるほうが良さそうだ。

そこで

A 論点のすり替え 

感傷論の持ち込み、相手の人となりへの批判、相手の帰属組織への批判、代案の要求、話の蒸し返し、、証明責任の突きつけ

B 議論の拒否

居直り、「知りません」、興奮、

C 議論のウヤムヤ化

未知論証(どちらとも言えない)、連続性の虚偽

D 言葉のマジック

選択肢の極端化、データの恣意的解釈、どちらともとれる主張、威嚇論調、枝葉末節論

と変えてみる。

この 6x4=24 のマス目は、全部埋まるわけではない。A~Dの悪意を持った場合、どんな手が使えるかを示す表となる。いわばディベート必勝法だ。

と、ここまでは考えたが、その後が面倒臭い。論理学独特の用語がズラズラと並ぶ。

とにかくA~Dのところをマスターするのが先決のようだ。とくに D については再吟味が必要なようだ。 B を「議論」と呼ぶかは疑問のあるところだが、実際にはよくあるシーンだ。

東大話法というのがあって、ウィキペディアにその特徴が箇条書されている。

多分に感情的な評価であり、この言葉をはやらせようという魂胆も透けて見えて、嫌な言葉である。

むしろ、現代における詭弁の技術とか、ディベート必勝法とか、もっと平ったく「口喧嘩に負けない方法」とか言って売り出せば、筋は通る。しかしそれでは売れまい。

とりあえず、引用しておく

  1. 自分の信念ではなく、自分の立場に合わせた思考を採用する。
  2. 自分の立場の都合のよいように相手の話を解釈する。
  3. 都合の悪いことは無視し、都合のよいことだけ返事をする。
  4. 都合のよいことがない場合には、関係のない話をしてお茶を濁す。
  5. どんなにいい加減でつじつまの合わないことでも自信満々で話す。
  6. 自分の問題を隠すために、同種の問題を持つ人を、力いっぱい批判する。
  7. その場で自分が立派な人だと思われることを言う。
  8. 自分を傍観者と見なし、発言者を分類してレッテル貼りし、実体化して属性を勝手に設定し、解説する。
  9. 「誤解を恐れずに言えば」と言って、嘘をつく。
  10. スケープゴートを侮蔑することで、読者・聞き手を恫喝し、迎合的な態度を取らせる。
  11. 相手の知識が自分より低いと見たら、なりふり構わず、自信満々で難しそうな概念を持ち出す。
  12. 自分の議論を「公平」だと無根拠に断言する。
  13. 自分の立場に沿って、都合のよい話を集める。
  14. 羊頭狗肉。
  15. わけのわからない見せかけの自己批判によって、誠実さを演出する。
  16. わけのわからない理屈を使って相手をケムに巻き、自分の主張を正当化する。
  17. ああでもない、こうでもない、と自分がいろいろ知っていることを並べて、賢いところを見せる。
  18. ああでもない、こうでもない、と引っ張っておいて、自分の言いたいところに突然落とす。
  19. 全体のバランスを常に考えて発言せよ。
  20. 「もし◯◯◯であるとしたら、お詫びします」と言って、謝罪したフリで切り抜ける。

私の判断

1.公人として話すときは、私情はさておいて、みずからの立場をわきまえて話す。これは当然のことである。私情をむき出しては言論やくざになってしまう。

2.これは相手の議論を歪曲、曲解することになり、議論としては拙劣だ。ただ議論したくない相手を振り払うには有効だ。それで相手が激昂すればしめたもの。

3.これは、詭弁の基本的スキームだ。議論を自分の土俵に持ってくることは戦いの必勝法だ。ただし冷静な相手には見破られるし、司会を挟んでの討論ではなかなか通用しない。

4.これはつけたし。あまり頻用すると馬鹿にされる。

5.自信満々で語ることは議論の前提、「結局、何を言いたいの」みたいな人とは議論にならない。「どんなに…」は主観の問題。

6.これは防御テクニックの基本。Aさんの主張を引き写しにしながら、「Aさんにの主張には重大な問題がある」とかいって攻撃を避ける方法だ。

7.これは非本質的だ。ただの「威張りたがり」だ。

8.多人数で議論するときのテクニックだが、かなり危険である。司会の役割を奪ってしまうことになり、万座の指弾を浴びる危険もある。

9.これも非本質的だ、どう前置きを置こうと嘘は嘘だ。

10.これは状況を一気に打開するために有効な手段であり、ヤクザ評論家によってしばしば用いられる。基本的には卑劣な手段だが、勝った時は卑劣と思われないで済む。ただやり過ぎると後ろから足払いをかけられて面目を失う。

11. これは議論を抽象化することで逃げ出すためにも用いられるが、それ自体は必ずしも詭弁とはいえない。議論が白熱する場合は、議論対象の正確な位置づけをしないと話がぶれるからだ。「その問題はこういう性格とこういう性格を持っている」と整理しながら議論をすることで内容が深まるのだが、それは一面では議論を抽象的なものにしかねない。

12.これは論外だ。下手をすれば炎上する。

13.これは実例を上げて自分の論理の傍証とするための手段の一つであり、至極まっとうなテクニックだ。

14.これも論外。

15.「至らない点も多々ありましょうが…」ということで、議論の枕詞としては日常的に使われるので、一種の礼儀である。

16.わけのわからないことを言っていては議論にならない。「訳の分からない人だな」と馬鹿にされるのが落ち。(むかしの竹下首相が使っていた)

17.7番におなじ

18.これはやってはいけないこと。相手を怒らせること請け合い。

19 そのとおり。

20.これはうまいテクニックだ。謝罪のテクニックとしては最低だが、議論の途中にうまく織り込むと、かなり効きそうだ。

ということで、東大とは何の関係もない詭弁のテクニックを思いつくままに並べただけのものだ。

ここに書いてない議論のテクニックを一つ2つ挙げておこう。

1.それはあなたの考えでしょう。あなたの考えにすぎないでしょう。(相対化)

2.それはたんなる事実でしょう。それがあなたにとって、あるいは私にとってどんな意味があるのですか。(価値論の混入)

3.それは確率の問題であって、断言する問題ではないでしょう。(この逆ばりが、「絶対にないとは言い切れないでしょう」という前振り)(不可知論)

4..なぜそうなのかをしっかり言わなければ、何も言ったことにはなりません。それで、なぜそう思うのですか。(子供の「なぜ?」攻め)

ビットコインについて書こうと思ったが、ネットの日本語記事にはまともな解説は一つもない。

それならいっその事、何が分からないかを箇条書きにしていったほうが良さそうだ。

その手の話しなら2チャンがいいだろう。

無くなったのはビットコイン?、それともキャッシュ?、それとも両方?

現金はどうやって引き出されたのか?

盗んだやつが換金してないなら、凍結できるのでは?

オバーフローすると、どうして引き出す隙が出来るのか?

大量のビットコインを本物のキャッシュや商品と交換したら確実に足がつくのでは?

取引不能になるんならまだしも、消失するのは変。

会社保有分のコインがどこに行ったのか調べられないのか。

客が送金した現金も数十億なくなってる。これは完璧に泥棒だろう。

繋いできたポートに強制的に大量データを送り返すシステムは作れるはず。

基本的には、誰がどれだけコイン持ってるか、把握されているはずではないか。

DDos(分散型サービス妨害)対策というがアクセス制限何もやってなかったのか。

などなど


不思議なのは、ビットコインが無くなったにせよキャッシュが無くなったにせよ、取引で失われたのではない(らしい)ということだ。

ハッカーはハッカーであって泥棒ではない。誰が盗んだのかにせよ、それは泥棒だ。

ビットコインの取引が博打の鉄火場であったにせよ、行われたことはいかさま賭博ではなく、賭場荒らしだ。テラ銭掠めだ。

「ビットコイン取引が危険か危険でないか」という話とは次元が違うのではないか。ここが分からない。

これらの疑問に答える記事が出るのを待つとしようか。


来月、地獄がやってくる。

13年第4四半期のGDPが発表された。

赤旗は「アベノミクスの失速」が確認されたと評価している。

グラフを見れば一目瞭然だ。サルでも分かる。

1394537742

第4四半期の内容を調べると、さらに深刻なことが分かる。

1.個人消費

個人消費は全体で0.4%増だ。内訳は自動車・家具などの耐久財が4%増となっている。これは消費税前の駆け込みと見てよい。

しかし半耐久財は0.2%減、非耐久財は0.6%減となり、これが耐久財の駆け込み効果を相殺している。

赤旗は「駆け込みたくても余裕が無い」と表現している。

2.設備投資

速報値ではプラス1.3%だったのが、改定値で0.8%に縮小された。企業は予定していた投資をやめたことになる。

設備投資をふくむ「総固定資本形成」は、自動車が9.7%、住宅4.0%だった。この二つは駆け込み需要の象徴だ。4月以降は激減するだろう。

97年の消費税ショックは上げ潮のなかで行われたが、日本経済を土台から揺るがす結果となった。

それを考えると、今回の引き上げは地獄への入口となるかもしれない。

消費税の効果は、直接には庶民ではなく中小・零細企業に集中する。金が回らなくなる。内部留保を抱えた大企業だけが生き残り、企業倒産が津波のように押し寄せるだろう。

藤井さん、どうなんですか?


STAP細胞 つまづきは成功の元

STAP細胞の雲行きがますます怪しくなってきた。ただ、小保内さんの研究は前の東大先端研の食わせ物とはまったく違う。十分検討に値するものだ。

今回のつまづきは研究の内容を整理して、本筋を明らかにするチャンスだと思う。

2月22日の記事で「STAPはエピジェネティクスの解除」と書いたが、そこに的を絞るべきである。

繰り返すが、今回の研究の革新的意義は、細胞のイニシエーションのもう一つのパスを発見したことにある。DNAの直接操作を介さない道だ。

発明でもなく、生物工学でもなく、まさに自然科学の王道を行く「発見」なのだ。

小保内さんはそこを把握していない。だから、前のめりになって次々と新たな技術を積み上げてしまったのだ。

22日の記事を再掲する。

STAPというのはエピジェネティクスの解除だということが分かった。
ただ、エピジェネティクスと振りかぶる必要はないように思う。CpG結合のメチル化の解除ということだ。
DNAをいじらなくても、メチル化(その他)を解除することで先祖返りできるということだ。

“最悪”でも、そういう可能性が開けたということは間違いない。振り返って山中の幹細胞でも、DNA改変のみならずそれに付随してメチル化の変容が起きている可能性が示唆される。

話の都合上、メチル化の解除に絞ったが、他にもいくつかのメカニズムが考えられている。

メチル化の解除にはむしろ培地の性状や至適温度などの条件が検討されるべきで、酸性刺激などは最後の一撃と考えられるべきであろう。

我々にとって大きな夢は、DNAの周囲を取り巻くネットワークの存在と、その遺伝への役割が明らかになることである。

22日の記事を再掲すると

DNAの周囲にはメチル化誘導酵素を介在する一定のネットワークがあって、その中に個体発生とか“生物学的個性の発現”に関する記憶が蓄積されている可能性がある。

ゲノムがようやく解析できたばかりだというのに、さらにDNA周囲のネットワークまで手を広げるのは大変な作業だが、それが必要になってきたぞというヘラルドとしての役割を、小保内さんは見事に果たしたのではないだろうか。

1931年

1月 中国共産党、上海で六届四中全会。瞿秋白は中央指導者の職務を解かれる。同時に李立三路線も厳しく批判され、王明(陳紹禹)と博古(秦邦憲)らによる武力対決路線が開始される。

31年3月

3月 第二次囲剿。動員兵力20万人。蒋介石の右腕といわれる何応欽軍政部長が総司令となる。

3月 汪精衛が広東に国民政府を樹立。蒋介石に反発する軍閥勢力が連合。

5月 関東軍の石原莞爾参謀、武力による「満蒙問題」の解決を主張。満州国建設の計画を主導する。

7月 第三次囲剿。動員兵力30万人。蒋介石みずからが総司令となる。この囲剿戦は満州事変の勃発により中断。

共産党軍は毛沢東の「深く敵を誘い込む」作戦により、政府軍に打撃を与える。「根拠地」は拡大し湖南省境から江西南部、福建西部が解放された。紅軍の勢力は4万人から30万人に拡大した。

 

31年9月

9月 柳条湖事件が発生。関東軍は「暴戻なる支那軍」を打ち破るため軍事行動を開始。

9月 満州事変勃発。満州軍閥の張学良は全軍に撤退・不抵抗を指示。蒋介石軍は第三次囲剿で軍を割く余裕はなく日本軍の行動を傍観。

9月 中国人民の抗日運動が発生。上海では学生10万人、港湾労働者4万人がストに入る。20万人の抗日救国大会が開催され、対日経済断交を決議する。北平(北京)では20万人の抗日救国大会が持たれ、市民による抗日義勇軍が結成された。

9月 満州を除く中国全土の日本商品輸入は前年対比1/3、12月には1/5にまで低下、 上海では対日輸入がほとんど途絶、日本商船を利用する中国人の積荷は皆無となった。

31年10月

10月 日本軍、張学良の本拠とする錦州を爆撃。

11月7日 江西省南部の瑞金で「中華ソビエト共和国臨時中央政府」が樹立。毛沢東が自ら主席となる。最盛期人口1000万人程度の小さな政府であったが、はじめて「人民権力」の創出を実現した点で歴史的である。

12月 蒋介石と汪精衛広東国民政府とのあいだに妥協成立。蒋介石は一時下野する。南京新政権の主席には林森。

 

1932年

1月 「上海事変」が勃発。上海の日本人僧侶への襲撃事件を口実にして、日本軍陸戦隊が上海付近を軍事占領する。関東軍高級参謀大佐板垣征四郎が上海日本公使館付き武官少佐田中隆吉に依頼して起こした謀略事件とされる。

2月 蒋介石が復帰し、最高軍事指導者となる。

2月 関東軍、ハルピン占領。満州全域を軍事占領下に置く。

3.01 「満州国」が建国される。清朝廃帝溥儀が執政に就任。

4月 瑞金の中華ソビエト共和国臨時政府(主席・毛沢東)対日戦争宣言。

5月 上海事変に関して上海停戦協定調印。

6月 蒋介石、第4次共産分子囲剿戦開始。動員兵力は過去最高の50万人に達する。

10月 共産軍は劣勢に立たされ、毛沢東は軍の指揮権を剥奪される。

32年 宋慶齢、魯迅、蔡元培らが中国民権保障同盟を設立。国民党の特務統治に反対し、愛国民主抗日活動を積極的に展開、国共合作を支持する姿勢を明らかにする。

 

1933年

1月 共産党、国内停戦と対日共同抵抗を呼びかける。

1月 中国共産党、本部を上海から瑞金に移す。王明らのコミンテルン派(ソ連留学生グループ)は瑞金政府の指導権を掌握。毛沢東、鄧小平らの毛沢東派を厳しく批判。

コミンテルン派は「都市労働者中心のソ連型革命」を主張、これに対し毛沢東派は、農村に根拠地を作って都市を包囲する路線を主張。統一戦線論においては、コミンテルン派がプロレタリアート独裁路線、毛沢東派はブルジュアジーを含む広汎な民族統一戦線を主張。

2月 日本軍熱河侵攻。蒋介石は第4次囲剿戦の中止を余儀なくされる。

5月 塘沽協定締結。関東軍と国民党政府との間に結ばれる。国民政府は満州国の国境を承認。

10月 蒋介石、兵力100万人、空軍200機を動員し第5次共産分子囲剿戦開始。コミテルンから派遣された軍事顧問リトロフ (オットー・ブラウン)は正規軍による正面対決路線をとった。紅軍の拠点は次々と陥落、ほとんど壊滅状態となる。

10月 19路軍を中心に、反蒋抗日を掲げて福建人民政府成立。王明主導の共産党中央は「第三勢力」として連帯せず。

 

1934年

1月 上海で魯迅らとともに文芸戦線運動を続けていた瞿秋白、当局の手を逃れ瑞金に入る。要職にはつかず。

5月 宋慶令ら2000人の著名人が「中国人民対日作戦基本綱領」発表。すべての中国人民が武装蜂起して、日本帝国主義と闘うことを訴える。

10.18 壊滅寸前の紅軍主力(第一方面軍)が包囲網を突破して瑞金を脱出。その後1年間にわたる1万2000キロの「長征」が開始される。8万6000人が長征に加わり、残り約3万人は陳毅・項英の指導の下山岳地帯のゲリラ戦に入る。

 

1935年

1月 長征の途上貴州省遵義で、共産党中央政治局拡大会議が開かれる。王明らのコミンテルン路線が批判され、独自派の指導部が確立する。総書記にはソ連留学生派の張聞天が就く。毛沢東は政治局常務委員(軍事担当)となる。

1月 張国壽らが「敗北主義と解党主義」を唱え、長征軍から離脱。

2.24 瞿秋白、病気のため長征に同行せず、香港ルートでの脱出を図ったが、政府軍に捕らえられる。6月18日に処刑される。(秋白は、自分のような半人前の文人が政治に関わり、あまつさえ党の指導者となったことは、完全なる「歴史的誤解」であったと述べている)

8.01 中国共産党と中国ソビエト政府が、「抗日救国のために全同胞に告げる書」(8・1宣言)を発表。「すべてのものが内戦を停止 し、全ての国力を集中して抗日救国の神聖なる事業に奮闘すべきである」とし、全中国を統一した国防政府と抗日連軍を組織するよう訴える。

8.19 長征軍内で指導権が移動。毛沢東が周恩来に代わり軍事上の最高指導者となる。

10月 長征軍(第一方面軍)、呉起鎮(陝西省)に到着。8万6000人で出発した長征軍は8000人に減少するが、第二方面軍、第四方面軍と合流し4万人に達する。

12月9日 北平(北京)の学生5000人が「日本帝国主義打倒」「華北自治反対」を叫んでデモ行進。宋哲元の軍隊がこれを弾圧する。

12月16日 さらに1万人がデモ行進。軍隊・警察と衝突。

1936年

36年 モスクワの王明、中国左翼作家連盟の解散と中国文芸家協会の結成を指示。これに対し上海の魯迅、胡風、茅盾らは「中国文芸工作者宣言」を発し、「民族革命戦争の大衆文学」のスローガンを提起。上海文化界は激しい論戦に巻き込まれる。

36年10.19 魯迅が死去。上海の文芸界は「団結と自由の宣言」を出し、統一を実現。

 

1928年

2月 コミンテル執行委員会、一連の武装蜂起作戦を総括。「ソビエト化された農民地域を形成し、土地革命を実践し紅軍を建設する」ことを革命の主要任務とすると決定。

28年4月

4月 蒋介石が第二次北伐を開始。「軍閥、帝国主義打倒」の目標は破棄される。北伐軍は4軍構成で、第1軍は蒋介石、第2軍は馮玉章(もと直隷派軍閥)、第3軍は閻錫山(山西軍閥)、第4軍は李宗仁(広西軍閥)となり、軍閥混成軍の様相を呈す。

4月 日本軍、居留民保護を名目に第二次山東出兵。

28年4月

5月 斉南事変。斉南に侵入した北伐軍と済南守備の日本軍が武力衝突。国民党軍2000、日本軍230の死者を出す。日本人居留民にも16人の死者。

5月 井崗山の毛沢東部隊に朱徳の軍隊と湖南南部の農民軍が合流。兵力1万の紅軍が誕生する。「労農紅軍第4軍」を称する。軍長に朱徳、党代表に毛沢東、政治部主任に陳毅が就く。

28年6月

6.04 張作霖、蒋介石の北伐軍に敗れ満州に退去。奉天駅付近で関東軍の謀略により爆殺される。

6月 北伐軍、北京無血入城。国民党は南京を首都としていたため、北京を北平と改称。

28年7月

7月 モスクワで共産党第6回党大会が開催される。コミンテルン決定に基づきブルジョア民主主義革命の達成を目指す。瞿秋白は「左傾妄動主義」と批判され、蜂起失敗の責任を問われ委員長の職を解かれる。国内での闘争指導には李立三と向忠発があたる。毛沢東は中央委員に選出される。(なお瞿秋白はモスクワにとどまり、中国代表団団長を務める)

10月 南京国民政府発足。蒋介石主席に就任。実際は新軍閥連合。軍閥の長は各省主席に就任。

12月 井岡山で土地法が公布される。すべての土地を地主から没収して、家族数に応じて再分配する。農地管理のため土地革命委員会が組織される。革命根拠地が湖南の他、江西、福建省にも広がる。

12月末 張作霖の後をついだ張学良、国民政府に帰服を宣言する。これにより北伐が完成し全国統一が達成される。

28年 モスクワの第6回党大会に参加した蔡和森、帰国後に香港で捕らえられ処刑される。

 

1929年

3月 桂蒋戦争。蒋介石が軍事指揮権を中央に集中しようとしたことから各軍閥が反発。広西派軍閥との間に戦争。

5月 西北軍の馮玉章が叛旗を掲げ、10月には同じく宋哲元が叛旗。12月唐生智が叛旗。

5月 紅軍、福建省に進出。

6月 日本政府、米英に追随する形で南京政府を承認。

10月 世界大恐慌始まる。

11月 陳独秀、トロツキズムに転向。党を除名される。上海でトロツキスト組織「無産者社」を結成。

 

1930年

4月 「中原大戦」が始まる。国民党同士の内戦となり、蒋介石軍と反蒋で結束した各軍閥が戦った。最終的には張学良(奉天軍)が南京政府側についたため、蒋介石軍(南京政府)が勝利。北方政府は瓦解し、蒋介石に軍事指揮権が集中する。

蒋介石の権力は強大な軍事力と浙江財閥を基盤とする。浙江とは江蘇・浙江省のことだが、実際には上海の両省出身者のグループ。一方で外国の買弁資本、他方で地主・高利貸資本とも一体化する。しかし孫文以来の中国国民党の政治的正統性を受け継いだ側面もあり、薩長による明治維新と類似した性格を持つ。

7月 瞿秋白、モスクワ代表を罷免され中国に戻る。

9月 共産党の第6期中央委員会第3回総会(六届三中全会)が開かれる。中央指導者の瞿秋白が李立三の「左翼的偏向」を批判。毛沢東派もこれに同調したといわれる。

12月 江西省南部の赤色根拠地に対し、第一次囲剿(いそう)が開始される。動員兵力10万人。江西省主席の魯滌平が総司令となる。

30年 魯迅、「中国左翼作家連盟」(左聯)に加盟。国民党政府の弾圧やその御用文人に非妥協的な論争を挑む。

 

1927年

27年1月

1.03 蒋介石、武昌に向かう譚延ガイ主席代理を引き止め、南昌で政治会議臨時会議を開催。中央党部と国民政府は暫時南昌に留めおくと決議する。(ガイは門構えに豈)

1月 漢口と九江のイギリス租界で、英兵と民衆との間で流血事件。民衆は実力で両租界を回収する。

1月 毛沢東、「湖南農民運動視察報告」を発表。初めて農村からの武装革命路線を主張する。

1月 魯迅、北京を去り広東の中山大学教授に就任するが、4月クーデターに抗議して辞任。その後は上海に定住。プロレタリア派と「革命文学論戦」を展開する。

27年2月

2.11 共産党、上海地区代表大会を開催。二回目の武装蜂起について議論。「ストだけではなく、暴動を準備」し、上海を奪取することを決議。

2.18 国民革命軍、杭州を占領。

2.21 上海総工会代表大会の呼びかけによりストライキを開始。参加者は35万人に上る。ブルジョアジーは罷市で呼応せず、国民党の幹部も協力を拒む。

2.22 共産党、第2次上海蜂起を指示。臨時革命委員会を立ち上げる。蜂起は失敗し、戦死者四十数名、逮捕者三百数十名を出す。

2.24 上海総工会は労働者に復職を指示。「復業して大衆的な暴動を準備せよ」と呼びかける。

2月 この後共産党は第三次蜂起を目指し、労働者糾察隊の編成強化と民衆政権の母体としての市民代表会議の結成を目指す。

2月 国民政府とイギリスが外交交渉。イギリスは漢口と九江の租界を中国に返還することで合意。

27年3月

3.07 譚延ガイ、南昌をでて武漢に到着。国民党二期三中全会を開催。蒋介石は中央執行委員会常務委員会主席と政治会議主席からの辞任を通告する。

3月 蒋介石、国民党右派と手を結び、各地で農民運動・労働運動を弾圧。

蒋介石は、軍事力で安徽省や浙江省をおさえ、南京や上海などの大都市を確保し、豊富な資金源を後盾に武漢に対抗しようとはかる。

3.12 上海で第一回臨時市民代表会議が開催される。労働者100,商人50,その他50の配分。

3.17 国民党二期三中全会、中山艦事件後の暫定的機構を廃止し、中央執行委員会を設置。汪精衛、蒋介石をふくむ九名の常務委員が選出される。国民革命軍総司令に与えられていた独裁的権限は否定され、軍事委員会が主権を掌握する。国共合作は、国共両党間の対等の同盟へ変更される。

3月 国民革命軍、浙江軍閥の孫伝芳が支配する南京を占領。攻防戦の中で、外国領事館・住宅・教会が襲われ英・仏・米人6名が殺害される。(南京事件)

3月 英・米両国軍による南京報復作戦。軍艦が南京を砲撃し、軍民2000名が死亡。(南京砲撃事件)

英・米・日・仏・伊は国民革命軍に武力干渉を突きつけた。若槻内閣の幣原外相は、1.武力干渉は事態を紛糾させるだけ、2.蒋介石のような人物を押し立てて時局を収拾させるべき、と主張。 幣原は蒋介石の派遣した戴季陶と接触し、すでにその意志を確認していた。

3.20 北伐東路軍が松江を占領、先頭部隊の第一師団が上海近郊の龍華に到着する。

3.21 上海市民代表会議常務委員会は蜂起とゼネストをよびかける緊急命令を発出、同時に上海総工会もゼネスト命令を出す。

0PM 正午を期して全市八〇万にものぼる労働者がストライキにたちあがる。

1PM 労働者の蜂起がはじまる。労働者部隊は警察署や電話局、兵器工場や鉄道駅の接収に成功。奉魯連軍の司令部がある閘北では、激戦となる。

3.22 9AM 第2回市民代表会議が開会され、上海市臨時政府の委員19名が選出される。

6PM 奉魯連軍の最後の拠点である上海北駅が陥落する。

3.23 第1軍の本隊が上海に入る。

3.26 第1軍に続き、蒋介石が上海に到着する。共産党が頼みとする薛岳の第一師団を郊外に分散移転させ、上海を事実上の軍政下におく。

3.29 蒋介石が市政府の職務開始を阻む。国民党やブルジョアジーの政府委員も着任を拒否。

3.31 コミンテルンが緊急指令を打電。「公然たる闘争は(諸勢力の相互関係がすでにきわめて不利になっていることにかんがみ)当面採用してはならない。武器は引き渡してはならない」とする。

江田によれば、スターリンやブハーリンは北伐の続行を優先し、そのため蒋介石を、国共合作と統一戦線の枠内にとどめようとした。これをうけたヴォイチンスキーはクーデターの直前まで蒋介石との妥協を主張していたとされる。

3月 北伐軍は長江一帯を制圧、広東、広西に加え、湖南、湖北、江西、福建、浙江、安徽、江蘇の9省を支配下に収める。

3月 北伐作戦の中で共産党員は5万8千人に達する。労働組合員は28万人、農民組合には1千万人が組織される。

27年4月

4.05 汪精衛が上海に帰着。陳独秀との共同声明で、国共合作継続を声明。さらに蒋介石攻撃を非とする電報を武漢に打電する。

4.06 共産党上海地区委員会が活動分子会議。「もし蒋介石が糾察隊の武装を解除しようとすれば、すべての労働者がストにたちあがり、蒋介石軍の武装を解除する」とし、武器隠匿を拒否。

4月 英日両軍が上海を砲撃。

4.06 7カ国外交団がソ連大使館への監督強化を要請。張作霖の軍隊が北京のソビエト大使館を強制捜査し。李大釗ら共産党員を逮捕。重要書類を押収する。

4.12 蒋介石が「上海クーデタ」を起こす。上海の軍と暴力組織(青幇・紅幇)が総工会委員長の汪寿華を暗殺。共産党組織、労働者組織を襲撃。デモに立ち上がった労働者を軍が銃撃。

4月 国民党武漢政府は、蒋介石の党籍を剥奪、逮捕令を出した。

4.18 蒋介石はこれに対抗して、南京に独自政府を樹立、共産分子の粛清を宣言。国民党は武漢と南京に分裂。

4.26 北京のソ連大使館から連れ去られた中国人20人中19人が処刑される。

4.27 漢口で第5回共産党大会が開催される。武漢政府との共闘を確認。

4.29 党大会で、瞿秋白(政治局員)が指導部の路線を公然と糾弾するパンフレットを配布。

パンフレットは『中国革命における争論問題―第三インターか第〇インターか 中国革命のメンシェヴィズム』と題され、上海クーデターを許した陳独秀指導部の責任を問うもの。

27年5月

5月 呉佩孚、政権を放棄し、四川省へ逃走する。

5.30 コミンテルン第八回執行委員会総会、共産党の武漢政府への集中的参加と左翼化を打ち出す。

5月 唐生智麾下の第8軍、長沙で省総工会、農民協会、共産党諸機関を襲撃。1週間にわたって処刑を繰り返す。(馬日事変)

5月 上海政変に乗じ、日本が第一次山東出兵を行う。

27年6月

6.17 武漢政府はコミンテルン指令を警戒し、共産党の排除に動く。ボロジンの顧問職を解き、二名の共産党員部長にたいしても辞職を迫る。

6.29 漢口駐屯の三五軍が反共宣言。労働組合を占拠し、総工会労働者糾察隊を解散に追い込む。

27年7月

7.03 共産党が中央拡大会議を開催。「国共両党関係決議」を採択。「中国国民党は国民革命を指導する立場にある。労働者・農民などの民衆団体は、すべて国民党党部の指導と監督をうける」など全面屈服の方針を提起。

7.12 陳独秀は国共合作に失敗した責任を問われ、総書記の職務を停止させられる。張国燾が代理として共産党中央の責任者となる。瞿秋白も責任を問われ臨時中央常務委員会から排除される。

7月 共産党、武漢政府と決別し退去。国共合作は最終的に解体。国民党は容共政策を破棄、第一次国共合作は崩壊した。

27年8月

8月1日 共産党の武装勢力(賀竜、葉挺、朱徳の部隊)、南昌で蜂起。中国人民解放軍の建軍記念日とされる。

8.07 漢口の日本租界で共産党中央緊急会議を開催(八七会議)。陳独秀を右翼日和見主義と批判し解任。瞿秋白が臨時中央政治局常務委員兼中央指導者に任命される。

会議は新たに配置されたコミンテルン代表ルミナス(Besso Lominadze)とHeinz Neumannの指導。湖北・湖南・江西・広東で収穫時期に合わせて武装蜂起することを決定。

27年9月

9月 共産党の武装蜂起が劣勢になる。主力は根拠地を国民党軍に制圧され広東に南下する。毛沢東は湖南省長沙で武装蜂起するが失敗し、井崗山に立てこもる。

9月 共産党内では李立三と王明の都市蜂起論が主流になる。

9.09 南京と武漢の国民党は、蒋介石のもとに統一。

27年10月

10月 井崗山の毛沢東は、「三湾改編」(軍と党の一体化、財政公開、軍隊内民主主義)を実施。

11月 瞿秋白、「間断なき革命」論を提起。さらに武装暴動路線を推進する。

11月 毛沢東、長沙蜂起の責任を問われ、政治局候補委員から解任される。

12月 共産党の都市武装蜂起がことごとく失敗に終わる。

12月 葉剣英の指揮する部隊は広州で蜂起、広州コミューンを樹立。その後国民党軍の包囲を受け数千の犠牲を出して全滅。残る拠点は毛沢東の井岡山だけとなった。コミンテルンは瞿秋白を公然と批判する。

 

1926年

1.04 広州で中国国民党第二次全国代表大会が開かれる。蒋介石は北伐の実行を力説。ソ連軍事顧問団のキサンガは北伐が時期尚早であると反対。

代表278名のうち左派と共産党員が168名をしめていた。しかしヴォイチンスキーの判断で右派にたいする譲歩・妥協が行われ、中央執行委員会には7名の共産党員にとどまる。
しかし9名の常執中では左派が3名、共産党が3名で優位を握る。また党内各部人事では、譚平山が組織部長、林祖涵が農民部長、毛沢東が宣伝部長代行となる。
軍における影響力も強く、第1~6軍の殆どで党代表・政治部主任を共産党員が占めた。

1月 親共派の汪精衛(汪兆銘)が全権を握る。国民政府主席、国民党政治委員会主席、国民政府軍事委員会主席、各軍総党代表を兼任し、政治と軍事の最高責任者となる。

1月 北京政府で政変。馮玉祥が失脚。

2月 北京で共産党が中央特別会議を開催。陳独秀は病気のため欠席し、李大釗、瞿秋白らが主導。北伐作戦への支持を明らかにする。

現在のもっとも主要な任務は、広州国民革命勢力の進攻を準備すること、農民工作を強化することである。
とりわけ北伐の過程ににおいて労農の革命的同盟の基礎をきづき、国民革命の全国規模での勝利を達成することである。

26年3月

3.13 コミンテルン第六回拡大執行委員会、「中国問題についての決議」を採択。「四民ブロック論」を提起する。

国民党を「労働者・農民・インテリゲンチャ・都市民主層の革命的ブロック」とし、国民革命軍を馮玉祥の国民軍とともに「革命的民主主義的な民族的軍隊」の基盤と位置づける。
それを前提に、共産党に民族ブルジョアジーとの統一戦線維持を命じる。

3.18 中山艦事件が発生国民党海軍局所轄の軍艦「中山」が、黄埔軍官学校の沖合に航される。蒋介石は「自らを拉致しようとする国民党左派・共産党のしわざ」と判断したという。

3.20 蒋介石、広州市内に戒厳令を敷き、中山艦艦長の李之竜(共産党員)をはじめ共産党・ソ連軍事顧問団関係者を逮捕。ソ連人顧問団の居住区と省港罷工委員会を閉鎖、労働者糾察隊の武器を没収する。

3.21 蒋介石、李之竜以外の共産党員を釈放し、ソ連軍事顧問団の住居とストライキ委員会の建物に対する包囲を解く。

3.22 ソ連領事館と蒋介石が接触。蒋介石は「今回の事件はソ連に反対するものではなく、個人的な問題から起こった」と弁明する。

江田によれば以下のとおり
 おりしも広州で事件に遭遇したソ連共産党派遣のブブノフ使節団は、蒋介石との折衝のすえ、北伐に反対していた軍事顧問団長キサンカの召喚などの蒋の要求を受け入れ、統一戦線の維持をはかった。
使節団から説明をうけた上海の党中央は、「中国革命勢力の統一」の名のもとに譲歩を表明せざるをえなかった。

3.23 汪精衛はすべての党職を離れる。5月には妻を伴いフランスへ逃れる。

3月 蒋介石が国民党内の実権を握る。「整理党務案」を発し国民党の要職から共産党員を排除、共産党員の服従を強いる。

3月 スターリンの意向を受けたソ連軍事顧問団は、国共合作を維持する立場から蒋介石の行動を是認。ソ連軍事顧問団の首席顧問キサンカ(Kisanka)とロガチョフ(Rogachev)を召還する。

3月 唐生智、長沙で軍閥の長としての覇権を確立。国民政府、呉佩孚の双方に覇権の承認を求める。

唐生智は当時37歳。保定陸軍軍官学校を卒業し、湖南省南部を地盤に覇権争いに加わった。長沙の省長の追放に成功し、軍閥として独り立ちした。

3月 毛沢東が「中国社会各階級の分析」を発表。陳独秀を批判する。

4.16 蒋介石の主導で国民党二期二中全会。「党務整理案」を決議。蒋介石は国民政府軍事委員会主席に就任。

5.08 呉佩孚、北京を制圧。その後奉天軍と和平を結び、国民党の北伐軍の進攻阻止に力を集中する。

5月 広州に帰着したボロジン、共産党の頭越しに蒋介石と協議をおこない、「党務整理案」を共産党に受け入れさせる。

5月 唐生智、呉佩孚軍に攻めこまれ湖南省南部に退く。反撃のため国民党軍への加入を決断。第八軍として国民革命軍に編入される。

26年6月

6.04 共産党、「中国共産党の中国国民党に致す書」を発表。「党内合作か党外合作かの合作方式は固定される必要はない」とのべて、国民党からの脱退を公然と主張する。

6.04 蒋介石の主導のもとに、国民党の中央執行委員会臨時全体会議が開かれる。「迅行出師北伐案」および「任蒋介石国民革命軍総司令案」を可決。「帝国主義と売国軍閥を打倒して人民の統一政府を建設する」ため、北伐作戦を決定。約10万の国民革命軍が組織される。

26年7月

7.01 蒋介石が全軍に動員令を発する。

7.07 国民政府が「国民革命軍総司令部組織大綱」を公布。蒋介石の独裁権力が明文化される。

7.12 共産党、ヴォイチンスキー参加のもと、上海で第四期二中全会をひらく。「軍事運動決議案」を採択。「武装闘争の工作に参加し、進歩的な軍事勢力を援助し、反動的な軍閥勢力を壊滅させ、しだいに労農大衆の武装勢力を発展させるべき」とする。

7.12 第四期二中全会では、蒋介石突出後の国民党の再評価も討議された。「国民党左派(汪精衛ら)と連合し反動派(孫科ら)を攻撃し、中間派の発展を防ぎ、彼らが右を離れて左に就くように迫る」との方針を採択。中間派には「新右派」(戴季陶や蒋介石)がふくまれている。

蒋介石を「反動」ではなく「中間派」としたのはヴォイチンスキーの指示とされる。彼は「社会の勢力の中で、現在はまだブルジョアジーを敵視できない。ときにはまだ中間派を援助しなければならない」と主張した。
決議には「ブルジョアジーが将来の敵であり、あるいは一年か三年後の敵であることはわかっているが、現在は友軍、しかも有力な友軍と見なさないわけにはいかない」との苦渋の表現。

7月 広東の国共合同「国民革命軍」が北伐戦争を開始する。 

北伐の基本戦略: 湖南・湖北の呉佩孚軍を基本打撃対象とし、江蘇の孫伝芳を第二次対象とする。西路軍(唐生智)が先鋒となり長沙から武昌を狙う。中央軍(蒋介石)は西路軍の右翼を守るとともに本拠地の広州を防衛する。東路軍(何応欽)は中央軍の右翼を防衛するとともに、福建方面で積極防衛を図る。
作戦の策定には新任のソ連軍事顧問ブリュッヘルがあたる。

7月 国民革命軍、長沙を占領。

26年8月

8.25 湖北省咸寧近郊の汀泗橋で3日間にわたる激戦。国民革命軍の第4軍が呉佩孚軍と対決。第七、第八軍が戰場左翼で吳軍を壓制する。

8月 陳独秀、党機関紙『嚮導』に、「北伐論」を発表。民衆を無視しかねないものとして批判的に取り扱う。

陳独秀は「国民革命軍の北伐を論ず」を発表。
1.北伐は一種の軍事行動であって、中国民族革命の全的な意義を代表するものではない。
2.投機的な軍人・政客の権勢欲のためのものとなりかねない
3.北伐の意義を「防禦戦争」に限定し、戦費を民衆から調達してはならない。

8月 上海のヴォイチンスキーと瞿秋白が広州に入る。現地のボロディンらと会談し蒋介石との妥協を説く。現地は左派の指導権を回復することを主張。

8.07 瞿秋白、「北伐の革命戦争としての意義」を書く。革命戦争たる北伐の過程でプロレタリアートがヘゲモニーをかちとる必要性を強調。「嚮導」はこの論文を掲載せず。

26年9月

9月 広州の共産党と国民党左派、汪精衛復帰のキャンペーン(迎汪運動)を開始する。

9.09 唐生智の率いる西路軍(国民革命第八軍)が漢口と漢陽を占領。長江を挟んで武昌の呉佩孚軍と対決。

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古い世界地図」より転載

9.09 蒋介石は張静江に打電。国民政府の常務委員が広州から武漢に移動し、政治権力を掌握するよう要請。

蒋介石は西路軍の総指揮をとる唐生智を警戒し、広州政府が武漢に移転することにより、唐生智が自らのライバルとなることを阻止しようと図った。

9.12 蒋介石、上海の陳独秀に対し汪精衛の帰国に賛成しないように要請する。これを受けた上海の共産党中央は、コミンテルン極東局と合同の会議を開催。「迎汪は倒蒋を目的とせず汪蒋合作を目的とする」と決定。

9.16 蒋介石と唐生智が直接協議。臨時政務会議を設置して湖北省の支配を委ねることで合意。

10.03 蒋介石、共産党の中立方針を受けた上で、汪精衛の復帰をもとめる態度を明らかにする。

10.15 広州で、中国国民党の中央委員・各省・各特別区市・海外総支部の聯席会議が開かれる。汪精衛に対する復帰要請が、党員全体の意志として決議される。

10月 唐生智の率いる西路軍が武昌を占領。湖南・湖北から、呉佩孚軍(直隷派)を駆逐する。

西路軍軍事顧問テルニーによれば、
1.唐生智は蒋介石にとってかわろうとしてしていた。 2.そのためにソ連や共産党に接近しようとしていた。 3.上海の孫伝芳と交渉し蒋介石の敗北を画策した。
以上の事実を踏まえ 4.テルニーは蒋介石を支持し唐生智の権力拡大に反対である。

10.22 蒋介石、国民政府を広州に残し国民党中央を武漢へ移転するよう主張。

10.23 共産党による上海蜂起。直前に中止となり、失敗に終わる。

10.28 連席会議が終了。国民党各派及び共産党は、奉天派への配慮から慎重な態度をとり、武漢への移転は見送られる。

唐生智に対する共産党は上海と広州とで分かれる。広東では唐生智を投機的で危険な人物と評価。上海の共産党中央は 1.唐生智は民衆運動を圧迫した事実が全く無い。 2.汪精衛復帰に賛成している ことを重視し、
 唐生智を左傾させ、蒋介石を牽制し、汪精衛復帰への道をひらく方針を出す。

26年11月

11.07 蒋介石の度重なる要請を受けた国民政府および国民党、武漢移転の方向を打ち出す。

11.08 蒋介石の率いる中央軍部隊が江西省の南昌(省都)、九江を占領。

11.16 国民政府の四人の部長(大臣に相当)、および宋慶齢ら国民党の要人が武昌に向かう。ボロディンもこれに随行する。国民党要人不在となった広州では共産党の李済深が省権力の実態を掌握。

11.22 モスクワでコミンテルン第七回中央執行委員会全体会議が開かれる。蒋介石は代表(邵力子)を送り、スターリンの支持取り付けを図る。

11.28 共産党代表の譚平山がコミンテルンで報告。「一定の条件下で民族ブルジョアジーとも連合する必要がある。国民党中間派が左へ歩みより、左派との提携の可能性が生まれている」と評価する。

11.30 スターリンが中国委員会で演説。きたるべき権力は、反帝・非資本主義の過渡的な権力だと規定。またブハーリンは、後進国革命は労働者階級の決定的な影響のもとにおかれ、ソ連と密接な連係をもつ小ブル国家が成立することになると演説。

11月 北伐軍が占領した湖南・湖北省で労働者・農民の運動が急拡大。湖南の農民協会員は140万人、湖北省総工会は30万人の労働者を結集する。

26年12月

12.07 江西省南昌近郊の廬山で「廬山会議」が開かれる。蒋介石と国民政府・国民党の代表が参加する。

廬山会議は蒋介石と共産党との関係にとり、一つの転換点となった。このあと蒋介石は態度を変化させ、武漢移転に公然と反対するようになる。

12.13 徐謙主席が招集した中国国民党中央執行委員会及国民政府委員の臨時聯席会議が武昌で開催される。国民政府と中央党部の武昌への移転が完了するまでは、臨時聯席会議が国民党の最高職権を行使すると決議。

12.16 コミンテルン中央執行委員会総会、「中国情勢の問題にかんする決議」を採択。中国共産党の任務として、「革命の一層の発展と帝国主義との妥協の間を動揺している中間派を、徹底的に批判すること」を掲げる。

これにより、共産党四期二中全会で決定された蒋介石との妥協路線は、公式に破棄される。ただしこのあとも水面下では、ヴォイチンスキーによる妥協の動きが存続する。

12月 国民革命軍、福州を占領。

1925年

1月 共産党第4回全国代表者大会。「民族革命運動についての決議」を採択。国民党は、運動の「重要な道具のひとつにすぎない」とし、労働運動を主軸とするヘゲモニー獲得に乗り出す。ソ連より帰国直後の彭述之が起草したといわれる。

2月 日本人の経営する上海の「内外綿紡績」で労働争議が発生。闘いは2ヶ月にわたる。

3.13 孫文、北京で死去。要を失った党内では左右の対立が激化する。

25年5月 五卅慘案

5月 広州で第2回全国労働大会。「中華全国総工会」の創立を宣言。

5.15 「内外綿紡績」で労働者の暴動が発生。日本人監督が指導者願正紅(共産党員)を射殺する。

5.18 国民党の三中全会。孫文の意志を継ぐとし、「宣言」の継承を決議。

5.24 願正紅を殉教者とする大規模な葬儀デモ。

5.28 中国国民党の上海委員会、30日に大規模なデモを決行するよう呼びかける。

5.29 青島の日本人紡績工場でストライキ。日本軍と北洋政府(実体は奉天軍閥の保安隊)の弾圧により8人の死者と数十名の負傷者、70数名の逮捕者を出す。

5.30 デモ当日朝に、学生運動指導者15人が租界警察に連行される。民衆が学生らの釈放と「租界回収」を求め、数千人規模のデモ。

「20万人が参加する上海市民大会。英日軍隊の永久撤退と領事裁判権の廃止を含む17項目の要求を、租界当局と北京政府に提出」という記事があったが他資料で確認できず。

5.30 租界当局は、英・日・米・伊の陸戦隊を投入。警察の発砲で学生・労働者に13人の死者と40人余りの負傷者が出る。(実際に発砲したのはイギリスのシーク教徒雇い兵だった)

25年6月

6.01 上海学生連合会はストライキ(罷課)を開始、上海総商会と上海各馬路商界連合総会に働きかけて公共租界の商店スト(罷市)を実現。

6.02 結成直後の上海総工会(委員長・李立三、総務主任・劉少奇)が全市に反帝ゼネスト(罷業)を指令。上海の22工場、青島の10工場(いずれも日本資本)でストライキが発生。

6.04 総工会と上海学連、全国学連、各馬路商界連合総会が、工商学連合会を結成。三罷運動の指導部を形成する。

ストライキ参加者は海員や港湾苦力を中心に15万人に達する。6月下旬には総商会の要求によって公共租界罷市は中止される。

6.19 省港大罷工(香港スト)が開始される。19日に香港、21日には広州の沙面租界の労働者が「上海5.30運動支援」を掲げストライキを開始。蘇兆徴(共産党)率いるストライキ委員会の下、広東と香が連携し港湾ストを15ヶ月にわたり続ける。

蘇兆徴: 古くからの船員活動家で、この年共産党に入党。27年の武漢国民政府では労工部長の要職についた。国共分裂後,八・七会議で臨時中央政治局に入り,ソ連に赴いたが,帰国後に病没。

6.23 広州市内の沙面島租界で、デモ行進に英仏両軍が機銃掃射を浴びせる。50人以上の中国人デモ隊が死亡し、120人以上が負傷。シャーキーの虐殺と呼ばれる。

7月末までに中国人25万人が広東省に去った。植民地はゴーストタウンと化した。
香港全体の貿易は、50%にまで落ち、海運は40%にまで減少した
。イギリス政府は経済を崩壊させないために300万ポンドの融資を行った。

7.01 広東で国民政府が成立する。汪兆銘(別名汪精衛)が主席に就任。広東国民党政権は一地方政権から全国革命運動の中心勢力へと成長。

8.12 ゼネスト体制の中核をなしていた日系紡績ストの復業交渉が妥結。碼頭苦力と海員のストも総商会の介入で妥結に向かう。上海の闘いは終焉に向かう。総工会指導部は闘争を英国系企業に絞り条件闘争に切り替える。

8月 国民党左派の指導者、廖仲愷が、右派に暗殺される。共産党から廖仲愷暗殺の首謀者とされた右派の胡漢民(大本営大元帥兼広東省長)は党中央から追放され、モスクワ送りとなる。

9.18 上海に進駐していた奉天軍閥の戒厳司令部が総工会本部を封鎖、指導者たちを逮捕する。5.30闘争は終焉を迎える。

25年10月

10月 北京政府内の軍閥抗争激化。華中まで南下した奉天軍閥の張作霖に対し、浙江軍閥の孫伝芳が反撃。反奉戦争と呼ばれる。

10月 武漢の呉佩孚が再起。武漢軍閥と組み、孫伝芳と連携し、馮玉祥率いる国民軍と対決する。(直隷連軍)

10月 共産党が拡大執行委員会を開催。「革命的民衆政権」とともに「工農商学兵代表の国民会議」と「国民革命軍の組織」などのスローガンを打ち出し、労働者の武装、労働者自衛軍の組織をすすめることを決議する

陳独秀は「革命戦争」の概念を提起。人民が武装してたちあがり、反奉戦争の指導的立場をかちとるよう訴える。瞿秋白も5.30闘争の敗北の反省から、人民の武装の問題を提起する。

25年11月

11月 郭松齢事件発生。張作霖麾下の最強部隊を率いる郭松齢が、張作霖に叛旗を翻す。関東軍が軍事介入し郭松齢軍を鎮圧。郭松齢は銃殺される。

12.02 西山会議(自称4中全会)。国民党左派の排除を狙う戴季陶らが北京郊外の西山碧雲寺で会議を開き、広東政府との対決姿勢を示す。広州の蒋介石は右派につながり、国民党左派・共産党ブロックと対立するようになる。

共産党員の譚平山、李大釗、于樹徳、毛沢東、瞿秋白、張国壽らを中央委員会から追放することを決議。ボロディンの顧問解任と汪精衛の党員権停止をもとめる。

12.23 上海のソ連領事館で、コミンテルン極東局のヴォイチンスキーと国民党中央派の孫科が会談。「連ソ・容共」の原則を確認した上で、共産党員の二重加盟問題解決の道を探る。

12.24 上記に陳独秀、瞿秋白、張国壽を加え会談。共産党員が基本的に国民党のポストから離れることについては同意。完全撤退及びボロディンの広州撤退については保留となる。

譚平山を中心とする共産党の広州グループは、「孫科らは西山グループと同断」として中央の方針に抵抗。汪精衛グループと連携し国民党支配を目論む。

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譚平山: 広東省の生まれ。教員を勤めた後北京大学に進学。5・4運動を通じて共産党に接近1920年、広東に共産主義グループ創設のため戻る。1921年の中国共産党成立以後、中共広東支部書記に任命される。1924年、中国国民党第一次全国代表大会で中央委員となり、国民党中央組織部長に就任。1927年8月、南昌蜂起に参加。蜂起失敗の責任を問われ党籍を剥奪された。

 

1923年

1月 孫文、「改進宣言」を発表。「連ソ容共」に転じる。ソ連代表のヨッフェと会談し「孫文=ヨッフェ共同宣言」を発する。「中国にとって最も緊急の課題は民国の統一と完全なる独立にあり、ソ連はこの大事業に対して熱烈なる共感をもって援助する」との内容。

1月 コミンテルンが「1月決議」を採択。「中国労働者階級は独立した社会勢力とはなっていない、国民党に党の独立性を保持したまま加入せよ」との指令を発する。

1.31 モスクワから帰国した瞿秋白が「政治運動と知識階級」を発表。ブルジョアジーに反革命勢力と革命勢力があると主張。

瞿(く)秋白: 苦学し北京のロシア語専修館に学費免除で合格。五四運動に参加し、李大釗らが主催したマルクス主義研究会に加入している。ソ連に特派員で派遣されている間に入党。23年に中国に戻り、新設された上海大学の教授となる。一方で「新青年」の編集を担当。国民党改変に伴い党から広州に派遣される。

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23年2月

2.01 中国最大の京漢鉄道(北京~漢口間)の労働者が総工会を結成。大会を鄭州で挙行する。直隷派の呉佩孚が干渉し、大会を武力で解散させる。

2.04 京漢鉄道総工会が京漢鉄道の全線で抗議ストライキに入る。

2.07 「ニ・七惨案」が発生。呉佩孚軍が出動。総工会本部のあった漢口の江岸鉄道工場で32人が殺された。ほか鄭州,長辛店などで死者40人以上,負傷者数百人,逮捕者40人以上を出す。被解雇者は1千人以上にのぼる。

2.21 第三次広東政府が成立。孫文は大元帥に就任する。

2月 民族資本家が主導する「旅順・大連回収運動」が展開される。日本に対し経済絶交を呼びかける。学生・労働者もこれに賛同し運動に参加する。

23年3月

3月 北京政府、「旅順・大連回収運動」の高揚を受け、日本に対し「21ヶ条条約」の廃棄を通告する。日本はこれを拒否。

4.25 陳独秀、瞿秋白論文を受け、「ブルジョア革命と革命的ブルジョアジー」を発表。国民党に革命的ブルジョアジーを指導して民主主義革命を遂行するようよびかける。

23年6月

6月 中国共産党の第3回全国代表大会。「広範な反帝国主義民族戦線の建設」の目標のもとに、「国共合作」の方針を確認する。

瞿秋白が階級分析に基づき国共合作の正統性を主張し、陳独秀・李大釗も同調する。
 蔡和森と張国壽ら「左派」は、「独立した労働者党を建設することは国民運動を破壊するのではなく、促進する。共産党を発展させる唯一の道は独立した行動だ」と主張。

6月 毛沢東、この大会で5人の中央執行委員会のひとりとして選出される。

7月 瞿秋白、「新青年」で「新青年の新宣言」を発表。「中国の真の革命は、労働階級だけが担うことになる。たとえブルジョア革命であっても、労働階級が指導しなければ成功できない」と強調。

7月 広州に派遣された瞿秋白、中央機関誌「前鋒」を発行。

23年9月

9月 毛沢東、湖南地区で岳北農工会を結成。10万余の農民が結集する。

23.9 蒋介石、3ヶ月にわたりソ連赤軍で研修。

10.06 コミンテルン代表ミハイル・ボロディンが広州に到着。孫文の軍事顧問として討議に加わる。

10.28 国民党臨時中央委員会が発足。共産党の譚平山、李大釗がメンバーに加わる。

10月 呉佩孚に代わり、直隷派の総帥曹錕が大総統に就任。選出にあたり多数の国会議員を買収する。

11月 軍閥を仕切る趙恒惕将軍、岳北農工会を弾圧。軍の攻撃により指導者67名が銃殺され、農工会は解散させられる。

12月 広州で国民党綱領の素案が作成され、上海執行部で討議が行われる。この討議には執行委員の他に蒋介石、瞿秋白(共産党員)も加わる。

23年 蒋介石、日本の陸軍士官学校を出た後、孫文の運動に加わる。ソ連を訪問し軍を視察。ソ連方式に強い反感を抱き帰国する。(となっているが、浙江財閥の代表として国民党に送り込まれた人物と見たほうが正確であろう)

23年 魯迅、「中国小説史略」を発表。


 

1924年

24年1月

1.20 中国国民党が広東高等師範学校の大講堂で第一回全国大会を開催。「新三民主義」を柱とする国民党宣言を採択する。

新三民主義: 民族主義、民権主義、民生主義からなる。1,帝国主義の侵略に対して民族解放と国内諸民族の平等、2,封建軍閥の専制に反対して民衆の自由と権利、3,土地集中と独占資本を制限して民衆の福利をまもる。この内判定・民生の問題で激論が交わされる。

1月24日 レーニンが死去。国民党大会は服喪のため2日間休会。

1.28 民主集中制にもとづき、党員の規律厳守を規定した「党章」が採択される。二重党籍の問題(跨党禁止)は、最終的には曖昧に処理される。

李大釗の発言: 共産党の組織を解体することはできないので、組織をのこしたまま共産党員一人ひとりが中国国民党に加入する。それは国民党の政綱を受け入れたからであって、本党に共産党の党綱を受け入れさせるためではない。加入したからには党の政綱を執行し紀律を遵守する。紀律を守らなければ懲戒すればよい。

1.30 国民党大会、役員を選出し閉幕。共産党員が中央執行委員24名中3名、17名の執行委員候補のうち7名を占める。大会後には譚平山と林祖涵がそれぞれ党中央組織部長と農民部長に任命された。ボロディンは国民党最高顧問となる。

2月 共産党が中央執行委員会を開催。「楽観しすぎてはならないが、国民党の宣言書には、国民精神が凝縮されている」と評価する。

5月 共産党が中央拡大執行委員会を開催。京漢鉄道スト敗北以来の労働運動の後退を克服し、鉄道・海員・鉱山など近代産業における組織を強化する。

5月 広州の長洲島にある黄埔に黄埔軍官学校(正式名称は中国国民党陸軍軍官学校)が設立される。ブリュヘルらソ連軍事顧問団10名余が教官に就任し、ソ連式の教育により将校を育成する。三民主義とマルクス主義が同時に教えられる。

蒋介石が校長に就任し、国民党幹部の廖仲愷・戴季陶はそれぞれ軍校駐在の国民党代表、政治部主任に就任する。教授部副主任、政治部副主任には共産党の葉剣英・周恩来がそれぞれ就任。1期生は350人。毛沢東も安源炭鉱の労働者や秋収蜂起の農民指導者を送り込む。

7.07 国民党右派から、共産党の分派活動を非難する「弾劾案」が提出されるが、胡漢民、汪精衛、廖仲愷らが「規律だけを基準とする」よう訴え、もみ消す。

7月 国民党の農民運動講習所が開設される。主任や教官はほとんど共産党員がしめ、のちには毛沢東が所長を務めるなど共産党の牙城となる。

24年9月

9月 第二次奉直戦争。直隷派に対して、奉天派(張作霖)が反攻。安徽派(段祺瑞)、広東政府(孫文)とも連合する。

9月 直隷派第3軍の馮玉祥が、張作霖の買収工作を受けて寝返る。曹を逮捕・拘禁して北京を掌握。これを機に直隷派は総崩れとなり、北京から一掃される。

張作霖の買収工作は日本陸軍の示唆によるとされる。旧清朝の一族は退位後も紫禁城に籠っていたが、馮玉祥により追放される。

9月 馮玉祥、孫文の北上を要請。

10月 孫文、北上作戦を宣言。全国統一を図る国民会議を呼びかける。

11月 段祺瑞が復活し、北京政府の臨時執政に就任。張作霖はその下で奉天・直隷・山東・安徽・江蘇をその勢力下におく。

11月 孫文が神戸で講演。大アジア主義を説く。

日本は功利と強権をほしいままとする『西洋覇道の番犬』となるのか、それとも公理にかなった『東洋王道の牙城』となるのか」が問われている。中国だけでなく全アジア被圧迫民族の解放に力を貸すことが、アジアで最初に独立と富強を達成した日本の進路である。

12月 彭述之がソ連より帰国。「誰是中国国民革命之領導者」で、「中国労働者階級は天然に国民革命の指導者である」と主張。また二段階革命が連続して進むか否かは、社会的な客観条件に規定されるとする。

 

1920年

1月 陳独秀、北京を離れ上海に移る。

3月 ロシア共産党極東支局のグリゴリー・ヴォイチンスキー(Vvedensky)、中国共産党創設の使命を帯びて訪中。北京大学でロシア語を教授していたポレヴォイ(Polevoy)を通じて李大釗と接触。

3月 北京大学で李大釗,鄧中夏らがマルクス学説研究会を秘密裏に設立。

4月 ヴォイチンスキー、上海で陳独秀と接触。これを受け、上海でもマルクス主義研究会共産主義小組が結成される。「労働界」を発行し、青年・学生の間に共産主義の影響力が広がる。

石川によれば、上海グループの中心は後に国民党右派の代表となる戴季陶だった。国民党内きっての理論家として上海で最もマルクス主義学説に通暁していたとされる。載季陶はその後孫文の反対を受けグループを離れた。
他に「共産党宣言」を翻訳した陳望道や李達、沈沢民、張聞天らがいる。 なおここで沈玄龍と書かれているのは沈玄廬のことか? 

7月 安直戦争が勃発。呉は曹錕と共に安徽派に対する事実上の宣戦布告。奉天派の張作霖と連合し北京を攻略。

7月 毛沢東らが湖南の長沙で、新文化普及のため「文化書社」を設立。

7月 段祺瑞が失脚。安徽派は直隷派に敗れ衰退する。

8月 陳独秀、李漢俊、沈玄龍、俞秀松、施存統(元アナーキスト)など上海小組グループが活動を強化。

上海小組をリードしたのは李漢俊(又名李人傑)。暁星中学・東京帝国大学で学び、18年に帰国。多くの翻訳書を通じて青年たちに影響を与えた。党の結成会議は李漢俊の自宅で行われている。武漢で工作活動に当たったが意見の違いから離党。26年には国民党に参加している。27年、軍閥により殺害される。

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 李 漢俊

9月 『新青年』編集部が北京から上海に戻る。党の刊行物として位置づけられる。

10月 李大釗、張国壽らが北京共産主義小組を結成。このほか長沙,武漢,済南,広州などで,国外では日本,フランスで相次いで共産主義小組が結成される。

11月 「新青年」とは別に秘密刊行物として「共産党」が発行される.

11月 上海小組、「中国共産党宣言」を制定。「共産主義者の目的は国際共産主義の理想に照らして,新たな社会を創る」ことと規定する。

12月 東京で「日本社会主義同盟」が発足。李大釗は創立時から会員に加わる。

 

1921年

4月 広州で国民党政府が成立。孫文が総統に就任する。「第一次国内革命戦争」が始まる。

広東は省の名前で、首都が広州である。ただ広州を指して広東と呼ぶこともある。広東省はむかし越と呼ばれたことから、越の別字である「粤」と表現されることもある。

7.23 上海で第1回中国共産党全国代表大会が開かれる。全国各地の共産主義グループから13名の代表が集まり結党が宣せられた。(成立記念日は7月1日と決定される)

石川によれば、6月に上海に到着したマーリンの督促を受けて、李達が各地の共産主義グループに参集の通知を送ったとされる。主な発言者は張国壽、劉仁静、李漢俊、利達らで、地方代表の毛沢東や董必武、陳潭秋らはほとんど聞くだけだった。北京代表の劉仁静はこの時19歳、「ラジカル」な言動で持て余されたという。

7.23 陳独秀が総書記に就任(ただし会議に出席はしていない)。李達、張国燾、毛沢東、董必武らが指導部を形成。 この時点で党員数は57名。

李達は湖南省出身で李漢俊と同じ東大卒。この大会で中央宣伝主任となるが、後に戦線離脱し北平大学法学院教授となる。張国燾については後述。董必武も日本留学組で、大会には武漢代表として参加している。文革を生き延び、国家副主席として生涯を終えている。

7.23 湖南省で農民運動を指導していた毛沢東は、湖南省代表としてこの大会に出席。その後湖南地区委員会書記となる。

12月 共産党代表大会に参加したレーニンの秘書マーリン(Marling) 、桂林で孫文と会談。このあと孫文は革命ロシアとの連合に踏み切る。

 

1922年

5月 共産党の指導下に、第一回全国労働大会が開かれる。全国のストライキは100 を超え,参加者は30 万人余りに達した。

4月 第1次奉直戦争。直隷派の呉佩孚が日本と結ぶ奉天派を打ち破る。張作霖はいったん満州まで撤退。

7月 中国共産党、第2回全国代表大会が開かれる。コミンテルンへの加盟に関する決議。行動綱領を確定する。

行動綱領: 当面の革命の性質は民主革命である。革命の対象は帝国主義と封建軍閥である。革命の原動力は労働者,農民,少ブルおよび民族ブルジョアの協力戦である。革命の目標は国の完全な独立、軍閥権力の打倒を勝ち取り真の民主共和国を打ち立てることである。そのためには国民党を含めた広範な「民主連合戦線」を結成しなければならない。

7月 雑誌『新青年』の最終号。この後内部対立により廃刊となる。(一説にその後季刊4冊,不定期刊5冊が出され,最終号は26年7月の〈世界革命号〉とあり)

8月 共産党が杭州西湖会議を開催。マーリンの提案にもとづき、国民党への二重加入の方針を決定。陳独秀は、階級未分化論と国民党=階級連合政党論を前提に国共合作の理論を構築する。

10月 直隷派の曹錕が「賄選」により大総統となる。呉は、洛陽を中心として独自の勢力圏確立を図る。

10月 華北最大の開欒炭坑(イギリス人経営)でスト。英国政府はイギリス資本の要請に応じインド兵を派遣、さらに北京の直隷派政権は保安隊を派遣して武力弾圧にあたる。

22年 アドルフ・ヨッフェ、ソ連の中国駐在代表として赴任。ヨッフェはソ連外交界の指導的人物で、革命期間中はトロツキーと行動を共にした。トロツキー追放直後に自殺。

 

年表  毛沢東以前の人々


先日、佐藤純彌監督の文章を紹介した時、あまりにも20年代の中国共産党についての知識が乏しいことに、我ながら唖然とした。

そこで、「とりあえず簡単な年表でも」と思って始めたのだが、これが意外と難物。1週間を過ぎても、とても終わるどころではない。読まなければならない資料が積み重なるばかりだ。

一廉のことを言うにはもう2,3週間必要だろうと思うが、いささか疲れても来たので、とりあえず上梓する。

なお、長大なので最初からホームページと同時掲載にする。この後の増補はホームページのほうで行うので、とりあえずの予告編と思ってご覧いただければと思う。

1912年

1.01 「中華民国南京臨時政府」が成立。アジア最初の民主共和国となる。アメリカから帰国した孫文が臨時大総統に就任。国内の実質的な指導者は宋教仁であった。

2月 北洋軍閥の総帥である袁世凱が寝返り、清朝が崩壊。最後の皇帝、宣統帝が退位。

3月 袁世凱が臨時大総統に就任。臨時約法を公布。孫文政権は事態を静観。

3月 袁世凱は共和国樹立を約束しつつ、実際は「中華民国」の実権を奪おうとする。

8月 中国革命同盟会が国民党に改組される。

12月 初の国政選挙が行われ、大総統選では国民党の宋教仁が圧勝、国会議員選でも国民党が第一党となる。

 

1913年

3月 袁世凱、宋教仁を暗殺し。政権居座りを図る。

6月 国民党急進派が「討袁蜂起」を起こす。第二革命と呼ばれる。

7月 第二革命が失敗に終わる。

9月 孫文ら、日本に亡命。第二革命に加わった陳独秀も日本に逃れる。

10月 袁世凱、正式に大総統を名乗る。国民党に解散命令を発し、国民党議員全員を追放する。

1914年

6月 孫文、中華革命党結成。

7月 第一次世界大戦勃発。中国は中立を宣言。日本がドイツに対し宣戦布告。

8月 日本軍、山東半島に上陸し青島を制圧。

 

1915年

1月 日本政府、北京の袁世凱政府に「対華21か条要求」を突きつける。(山東省のドイツ権益継承と南満州・東内蒙古の鉄道・鉱山利権の割譲をもとめる)

5月 袁世凱の屈服により「21ヶ条条約」が締結される。

9.15 日本から戻った陳独秀が、上海で近代思想を紹介する『新青年』(初号は「青年雑誌」)を刊行。「新文化運動」を提唱し、徹底した儒教批判を行う。

魯迅・胡適らの「白話文運動」(白話文とは口語文のこと)も合流。著名な作家や学者、政治家を多く生み出した。毛沢東も愛読者で投稿者の一人だった。

12月 四川省を中心に護国戦争(第三革命)が勃発。

 

1916年

1月 袁世凱、帝政を復活し自ら皇帝に即位。国号を「中華帝国」とする。

3月 袁世凱、日本政府や国内各派の批判を受け退位。

6月 袁世凱が病死する。段祺瑞が後継者となる。この後、北洋軍閥は、日本の支持を受けた安徽派(段祺瑞)と英米の支持を受けた直隷派(馮国璋)に分裂。北京政府の権威は失墜し。満州には日本と結びついた張作霖、山西には閻錫山など、各地に軍閥・革命派・独立派が割拠する。

 

1917年

1月 北京大学の学長に蔡元培が就任し、大学改革を開始。陳独秀、胡適、李大釗、周作人(魯迅の弟)などの人材を結集する。

1912年,北京大学と改称したが,当時はまだ官吏養成機関としての性格が強かった。改革によりアカデミックな性格を強めた。五・四運動の先頭に立ったのは北京大学の学生であった。

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       蔡元培

1月 陳独秀の北京移転に伴い、『新青年』編集部も北京に移転する。

1月 胡適が《新青年》に「文学改良芻議」を発表。形骸化した文語文にかわって俗語・俗字を使用し,〈今日の文学〉をつくろうと主張。

2月 「新青年」翌号に陳独秀が「文学革命論」を発表。陳腐で難解な貴族古典文学を排し,社会現象を反映する平易な国民写実文学を提言する。

8月 孫文らによる第一次護法運動。西南軍閥の支持を取り付け、広州で広東軍政府を組織。

10月 ロシア革命が成立。労・農・兵ソビエト政権が誕生。

 

1918年

4月 湖南省長沙の第一師範で、毛沢東、蔡和森らが新文化運動に共鳴し「新民学会」を結成。主要メンバーは共産党や社会主義青年団に加わる。

蔡和森はこの年にフランス留学。フランスで周恩来らと共産主義運動をはじめた。21年帰国して中共に入党,機関誌「嚮導」の責任者として活躍した。
レーニンの帝国主義論をより直截に導入して,「中国革命が帝国主義の世界支配と直接対峙する性質を有する」と主張。

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 婚礼的女主角是向警予,男主角是蔡和森

5月 北京の段祺瑞政権と日本との間に秘密軍事協定が結ばれる。「学生救国会」成立され、全国各地で抗議行動を展開する。

日華軍事防敵協定: 日本軍の中国国内における行動を無制限とし、また中国軍を日本軍の下位におくこととする。

7月 李大釗、陳独秀とともに「毎週評論」を発行。

李大釗: 早大政治学科に留学。16年に帰国し北京で『晨鐘報』を創刊。翌年に蔡元培のすすめで北京大学教授、図書館長となる。(陳独秀が紹介した)
初期中国共産党の理論的指導者である。「フランス革命とロシア革命の比較」,「ボルシェビズムの勝利」などをたて続けに発表。十月革命をたたえ、マルクス=レーニン主義を紹介することで、中国共産主義運動の先駆者となった。
「中国の今日は、世界経済のうえでは世界のプロレタリア階級にならんとする地位に立っている」という「プロレタリア民族論」が有名。

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8月 日本がソビエト・ロシアに干渉しシベリアに出兵。

18年 魯迅、『新青年』に『狂人日記』を発表、胡適の唱えた白話文学を実践。

 

1919年

2月 ソ連、世界革命の実現のためコミンテルンを設立。各国に共産党を組織する活動を開始する。

3.01 朝鮮で反日民族運動「三・一マンセー運動」が発生。日本の弾圧で死傷者2万3000人を出す。

4.30 ベルサイユの戦勝国会議、山東省のドイツ権益を日本に譲渡することで合意。

4.01 北京の「晨報副刊」、淵泉訳「近世社会主義鼻祖馬克思之奮闘生涯」を連載。河上肇「マルクスの『資本論』」ほかの抄訳。5月には「馬克思的唯物史観」を掲載。これも河上肇「マルクスの唯物史観」の抄訳。

5.03 首都の学生代表が北京大学に集合。ベルサイユ条約の拒否を決議する。

列強が「ウィルソンの14ヶ条原則」を裏切ったことから怒りが爆発。ヴェルサイユ条約反対や親日派要人の罷免などを要求する。

5.04 中国で反日「五・四運動」が発生。北京13校の学生3千人が、天安門広場からデモ行進。一部が親日派の襲撃や焼き討ちに及ぶ。北京の軍閥政権は学生を多数逮捕し弾圧。

鄧中夏: 北京學生聯合會總務幹事として学生デモを指導。その後李大釗とともにマルクス主義研究会を組織。北京の共産党組織を立ち上げる。北京長辛店の工人運動に携わった後上海に移り党活動に専念。33年9月南京にて刑死。

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5.04 陳独秀は街頭でビラ配りをしているところを逮捕され、3ヶ月間にわたり勾留される。これを機に急速にマルクス主義に接近。

5.05 北京市内の学生は、5月4日を国恥の日とし、ストライキやデモを敢行。逮捕された学生の釈放、売国賊の罷免、講和条約調印拒否を要求する。

5.19 北京の中等以上の学校でストライキ。代表を全国各地へ派遣し、社会各層が広範に参加する全人民運動へと発展させる。

5月 李大釗らは『毎週評論』で、「パリ講和会議は列強の盗みとったものを振り分ける会議」だと批判。学生運動の機関紙としての役割を担う。

6.01 北洋政府、学生の行動を取り締まる方針を打ち出す。

6.03 全国主要都市で学生のストライキとデモ行進が決行される。

6.05 上海で「罷課」(大学スト)。これに呼応して罷市(商店スト)、罷工(労働者スト)の三罷闘争が起こる。港湾労働者は日本船の荷揚げを拒否。交通・通信労働者のストにより上海全市が麻痺状態となる。日本製品ボイコットは1年続く。

6.10 北京政権、逮捕した学生を釈放。

6.28 パリの中国代表団、政府の意向を無視しヴェルサイユ条約への調印を拒否する。

6月 直隷派の曹錕と呉佩孚、公然と学生運動を支持し、ヴェルサイユ条約調印反対を主張。さらに北京政府による南北武力統一路線への反対を公然と表明する。

8月 李大釗が「我的馬克思主義観」(「私のマルクス主義観」)を発表。マルクス主義の概要を紹介。批判的視点を含めてマルクス主義に対する見解を明らかにする。

10.10 孫文、中華革命党を中国国民党に改組。

12月 直隷派のボス馮国璋が死去。実権は曹錕と呉佩孚の手に移る。

 

本日の文化面には東大名誉教授の島薗さんが登場する。

島薗さんは宗教学者で、生命倫理の問題が専門のようだ。

宗教者らしく、やや断定的な物言いが気になるが、二つの問題意識は共通するものがる。

一つは、我々がむかし「産学協同」といっていたものがさらに深刻化している問題。

もう一つが、科学者の「専門バカ」化が、大衆蔑視とない合わさってさらに進行していることだ。

「専門バカ」と大衆蔑視は「卵が先か鶏が先か」みたいなところがあるが、その先に見えてくる学者像が「ヒラメ型」人間だ。

ヒラメというのはヒラメには失礼かもしれない。ヒラメには背中と腹の間には美味しい身があるが、連中は紙のようにヒラヒラだ。守るべきものがない。骨が全部透き通って見える。


島薗さんは、場(フォーラム)の形成を呼びかけている。

狭い領域の専門家だけでなく、人文科学や社会科学もふくめて異なる専門領域の人達が議論して科学技術の方向を決めること、さらに科学技術によって影響を受ける人達が参加できる場を作ることが必要です。

それはそのとおりなんだけど、肝心なことは科学者に腹と背中の間に筋肉を付けさせることだろうと思う。養殖ハマチではなくコリコリのヒラメだ。

それは、市民の厳しい批判を通じて行われるほかない。そして科学者同士の相互検証を強めるしかない。「世の荒波」の洗礼だ。

原発事故とその後の反原発運動を通じて痛感したのは、「街の専門家」を先頭とする草の根レベルの専門的知識の高さである。

知識の高さというより、必要とあれば理解しようとし理解できる潜在能力の高さである。

市民の力を侮る「専門家」は何時の日か、こてんぱんにやっつけられる日が来る。

そのことを「専門家」は肝に銘ずるべきだろう。


必要なとき言葉は生まれる。

見事なものだ。

「他衛権」 ウム、まさにそうだ。

集団的自衛権の本質を見事に衝いている。

人には自衛権はあるが、他衛権などありはしない。


赤旗ではこう解説している。

人は自分の身を守る権利があるのと同様、国家もみずからを守る権利が考えられています。
戦争は違法だが、自国が攻撃を受けた場合の武力行使は違法ではない=これが「自衛権」です。個別的自衛権とも呼ばれます。

一方、他国への攻撃を「自国への攻撃」とみなして反撃する権利とみなして反撃する権利とされる「集団的自衛権」は、この「自衛権」とはまったく別物です。
日本政府は1981年5月29日の政府答弁書で、こう規定しています。

自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力を持って阻止する権利


つまり純粋な他衛権のことだ。純粋というのは“自衛”の要素が全くない攻撃権という意味だ。

ついで赤旗は集団自衛権が行使された過去の例を引いた上で、

集団的自衛権とは集団で弱いものいじめをする権利であると言えます。

これは、正確に書くと、「過去においてはそういうものでした」ということになる。必ずしも本質的な特徴付けではない。

「海外で戦争する権利」というのもあって、ずっとこれでやって来たが、「他衛権」にはかなわない。まさに一刀両断だ。


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