鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

2014年01月

百田尚樹氏が「大方言」欄で〝大正論〟 首相の靖国参拝批判は、日本マスコミが騒ぐので中韓が外交カードに使うのだ。ベトナム人はアーリントン墓地に行く米大統領を批判しない。英霊の慰霊は国際的に認知。他国の抗議は許されない。 14日

東京都知事選は舛添か細川だと言われている。もう絶句するしかない。 どちらが知事になっても、ひどい…… 私は関西在住だが、舛添にも細川にも、東京都の知事にはなってほしくないと思っている。 もし私が東京都民だったなら、田母神俊雄氏に投票する。 17、18日

私は政治家に品格を求めない。金に汚なくても許す、女にだらしなくても許す。しかし、日本を愛していない政治家だけは許せない。ましてや中国と韓国の顔色を見ながら発言する政治家は論外! 23日

何も問題になんかなってない!あんたら共産党が問題にしたいだけやろうが。  26日

毎日新聞では、籾井氏の発言に対し、「経営委員側からは『外交問題に発展しかねない。選んだ側の責任も問われる』と失望の声がもれた」とあるが、少なくとも経営委員である私は何も言っていないぞ。誰が失望したんや!名前書けや。  26日

前にNHKの経営会議で決まった極秘事項が毎日新聞に書かれたことがあった。かなり細かいことまで一致していたので、憶測記事とは思えない。誰かが漏らしたとしか考えられない。NHKの事務方か経営委員に毎日新聞のスパイがいるのだろうか…。  26日

非難されたから言い返しただけ。それとも、黙って一方的に非難されとけってか→ 一瞬、目を疑いましたよ。特定の政党の名前を出して非難とは……。 27日

明日はしんどくてもNHKの経営会議に出席する!籾井会長を非難する経営委員が誰なのかを、この目でたしかめないとあかん。 27日

インフルエンザのお陰でほとんと食欲がない(涙) せめて、きれいなオネエチャンを食べたい! 27日

では、私のどの発言が次世代次次世代に責任を持たないものなのか、例に出してください。その理由も挙げてください。→ 百田さん 何で悪意を持たれてしまうのかを考えた方がいいです。次世代次々世代に責任をもった発言だとは思えない。 27日

また朝日新聞の記者か。今度は編集委員らしい。朝日の記者は「きれいなオネエチャンを食べたい!」という言葉に異様に反応するなあ。どんな軽口さえも攻撃の糸口にしようという執念はすごいとも言えるが。朝日新聞の編集委員なんかよりも、きれいなオネエチャンを釣り上げたい! 29日


開いた口が塞がらないというのはこういうことを言うのだろう。日本はここまで落ちぶれたかと慨嘆する他ない。

基本的にはヤクザだ。下品さが売りである。何をしてもよいが、NHKはお門違いだ。経営委員やるなら、最低限の公私はわきまえなさい。

問題はこの人物が安倍首相の強力なプッシュにより、NHK経営委員に就任したということだ。

日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ

こんな連中が「咲き誇る」ような世の中を見たいとは思わない。


「今の不況は円高が原因だから、円安に振れば輸出企業を先頭に景気は改善する」というのが円安誘導政策の目的だった。

円安にしても輸出が伸びないなら、これはえらいことだ。輸入額(円換算)は間違いなく増えるから、貿易赤字がますます拡大することははっきりしている。

今回の「実験」ではっきりしたのは、我々の直面する不況が「円高不況」ではないということである。それは「海外進出・空洞化不況」なのである。つまり事態はもっと構造的で深刻なのである。

それではどうするかという話だが、

だから円安誘導をやめろという話にはならない。事態はそれほど単純ではない。海外進出をむやみに制限せよという話にもならない。

もし政策を貫徹しようとするなら、

海外志向の強い大企業にこれ以上投資することは意味が無い。大企業中心の産業育成・優遇政策をやめて、中小のイノベイティブな輸出産業を育てる政策に集中せよということだ。

大企業への配慮にしても海外部門と国内部門を選別し、選択的に行うべきだ。そして海外からの収益に対して適切に課税すべきだ。

これに早急に着手しないと、円高で何とかしのいできた庶民の懐が一気にやせ細り、生活がめちゃめちゃになってしまう。そして恐るべきスタグフレーション(不景気+インフレ)の波が押し寄せてくることになる。


トヨタ自動車にダイハツ工業と日野自動車を加えたトヨタグループの2013年の世界生産が1011万7千台に達した。
年間生産台数が1千万台を超えるのは、世界の自動車メーカーで初めてだそうだ。
ご同慶の至りである。

しかし中身を見ると素直には喜べない。
国内生産は430万台で前年比3%の減少。これに対し海外生産は6%増の580万台。
そして輸出台数は前年比2.4%減少の200万台だ。

円安政策の効果はまったく及んでいないことになる。
日本の経済・貿易政策が根底から揺るがされる結果だ。



ビジネス・ジャーナル 2014.01.23

昨年12月23日。この日、天皇陛下は80歳の傘寿を迎え、天皇の「お言葉」がマスコミに配布された。「お言葉」は同日各メディアによっていっせいに報じられたが、重要部分を“意図的に”カットしたメディアがあった。それが“公共”放送局のNHKだ。

 「重要部分とは、ずばり天皇陛下が語った護憲とも取れる部分です。朝日新聞や毎日新聞はこの部分をしっかりと掲載しましたが、読売新聞はかなり意図的に端折って要約していた。問題はNHKが、この部分の一切を削除していたことです」(大手紙宮内庁記者)

 削除された天皇の「お言葉」の該当部分は以下のようなくだりだ。

戦後、連合国軍の占領下にあった日本は、平和と民主主義を、守るべき大切なものとして、日本国憲法を作り、様々な改革を行って、今日の日本を築きました。

戦争で荒廃した国土を立て直し、かつ、改善していくために当時の我が国の人々の払った努力に対し、深い感謝の気持ちを抱いています。

また、当時の知日派の米国人の協力も忘れてはならないことと思います


おぉ、まさにそのとおりだ!
ではなぜNHKがこの部分を無視したか。
平和と民主主義を、守るべき大切なものとして、日本国憲法を作り 」 の一節が気に食わなかったからに相違ない。それが共産党の主張と似ているからなのだろう。
とすれば、「共産党の言うことは取り上げない」という編集方針に則って削除したのだろう。「坊主憎けりゃ、天皇まで憎し。平和・民主主義・憲法は思案の外」の心意気だ。

籾井会長は多分アウトだろう。あまりにもひどい。最初から最後まですべて暴投だ。死球や危険球もたくさんある。一発退場だ。

赤旗でも大々的に報道しているが、その割には片言隻句ばかりだ。

朝日新聞でかなり詳しく報道しているが、例によってカネを払わないと読めない。

とりあえず、ネットで拾えるだけ拾う。


 NHKの籾井勝人新会長の25日の記者会見での主なやり取りは次の通り。

 私の任務はボルトやナットを締め直すこと。放送法を順守しながらいろいろな課題に取り組んでいく。

 ――尖閣諸島などの領土問題について、国内番組で日本の立場を伝えたほうがいいという考えか。

 日本の明確な領土ですから、これを国民にきちっと理解してもらう必要がある。今までの放送で十分かどうかは検証したい。

 ――国際放送では日本の立場を政府見解そのままに伝えるつもりか。

 国際放送は(不偏不党の)国内(放送)とは違う。領土問題については、明確に日本の立場を主張するのは当然のこと。政府が右と言うことを左と言うわけにはいかない。

 ――靖国神社の参拝と合祀(ごうし)についての考えは。

 総理が信念で行かれたということで、それはそれでよろしい。いいの悪いのという立場にない。行かれたという事実だけ。

 ――NHKの報道姿勢としてはどうか。

 ただ、淡々と総理は靖国に参拝しましたでピリオドだろう。

 ――正月の番組で印象に残ったものは。

 どの局も一緒。NHKをできるだけ見た。他社の番組も見た。それほど、これがよかったというのは用意していない。

 ――慰安婦を巡る問題については。

 戦時中だからいいとか悪いとかいうつもりは毛頭無いが、この問題はどこの国にもあったこと。

 ――戦争していた国すべてに、慰安婦がいたということか。

 韓国だけにあったと思っているのか。戦争地域にはどこでもあったと思っている。ドイツやフランスにはなかったと言えるのか。ヨーロッパはどこでもあった。なぜオランダには今も飾り窓がある のか。

 ――証拠があっての発言か。

 慰安婦そのものは、今のモラルでは悪い。だが、従軍慰安婦はそのときの現実としてあったこと。会長の職はさておき、韓国は日本だけが強制連行をしたみたいなことを言うからややこしい。お金をよこせ、補償しろと言っているわけだが、日韓条約ですべて解決していることをなぜ蒸し返すのか。おかしい。

 ――会長の職はさておきというが、公式の会見だ。
では全部取り消します。

 ――取り消せない。

会長としては答えられないが、それだとノーコメントばかりになるから「さておき」と言って答えた。

ここから先は有料だそうだ。
特定秘密保護法に関する報道を問われ、

「通ったので、言ってもしょうがないんじゃないか。必要があれば(番組を)やる。世間が心配しているようなことが政府の目的であれば大変だが、そういうこともないのでは」

という話もあったようだ。

慰安婦問題が一番の問題であることは言うまでもない。

しかし、NHKのあり方を考える上では
国際放送は(不偏不党の)国内(放送)とは違う。領土問題については、明確に日本の立場を主張するのは当然のこと。政府が右と言うことを左と言うわけにはいかない。
というクダリの方が、はるかに重大であるように思える。

「国際放送は違う」と、放送法の適用外にし、日本政府の広報機関とすることは完全な違法行為である。しかも、この論理は果てしなく拡大解釈されるおそれがある。

籾井会長は後日「陳謝」したというが、この点についても撤回したのだろうか。



本日の赤旗に山家悠紀夫さんのインタビューが掲載されている。聞き手は山田記者だ。

ところがこの話がよく分からない。

貿易赤字が過去最大になった。これは円安にもかかわらず輸出が増えないことが原因だ、となっている。

ここまではいい。その後の話が続かない。

輸出が増えない原因はパスして、輸入が減らない話になってしまう。

まあいいかと気を取り直して読み続けるが、日本が輸入品に依存する構造になってしまったから輸入が減らないという話になる。

そこから先はまったく論理がつながっていかない。

最終的には内需が長期にわたって冷え込んだため、貿易赤字が出る構造になったということだが、ほとんど意味が通じない。

解決策もほとんど支離滅裂。

「円安ではダメです」と書いてあるが円高なら良いのか。

「国内で物が売れる状況」が必要だ。「景気回復」政策が必要だ。それには「賃上げ」が基本だ。

ということで記事は終わってしまう。

山家さんが悪いのか、山田記者が悪いのか、とにかくひどい記事だ。


この貿易収支の問題は、少なくとも二つのフェーズに分けて考えなければならない。

まず第一の区切りは2011年3月11日だ。ここで原油・LNGの輸入が激増し、日本は一気に貿易赤字となる。赤字の原因はきわめてはっきりしている。

第二の区切りは2013年1月からの円安だ。(あえてアベノミクスとは呼ばない)

円安は輸入品価格の引き上げをもたらすから、短期的には赤字の増大になる。それがやがて輸出の増大で相殺されるようになり、いずれかの時点で黒字化する、というのが円安政策の目的だった。

一般的には13年3~5月でオーバーシュートは終わったとされている。

ところが輸出がまったく伸びてこない。ここに問題のすべてがあるのだ。

輸入構造とかは、この際あまり関係ない。為替レートが20%以上下落しているのだから、同じ輸入品が20%高くなってもあたりまえだ。15%増ならむしろ抑制されていると見るべきかもしれない。

引き換えて外国では、日本商品が20%も下がったのに買おうとしない。なぜかということだ。

それは間違いなく中国の買い控えだ。安部首相が跳ね上がるたびに中国の日本製品買い入れ率はがくんと下がっている。

ここに問題のすべてがあるのだ。

貿易外収支のことも、触れておく必要がある。企業の海外進出が進んでいるにもかかわらず、貿易外黒字が増えてこない。

理由は海外での商売がうまく行っていないか、どこか海外で溜め込んでいるかである。今のところこれについて分析した文献は見当たらない。

内需云々は金融緩和との関連で論じられることになるが、一応貿易の話とは切り離して考えるべきだろう。

いかにして一部反原発派は細川支持に至ったのか。

「脱原発都知事を実現する会」という組織が細川候補の支持を発表した。「統一」を呼号しながら「分裂」をもたらす結果となってしまったが、そのことの是非はここでは問わない。

深刻なのは、もっと奥深いところでの精神の崩れだ。「なんとしても勝たなければならない」論から「勝ちゃぁいんだろ」論ヘの思想的ズルムケである。マラソンで勝つために、途中の人がいないところで自転車に乗るみたいなものだ。

控えめに見ても「発狂」したとしか言いようが無い。本人たちにもその自覚はあるようだ。

論点を明らかにしよう。

「都政は都政」ということではない。日本を代表する首都の首長はたんなる一自治体の長ではない。国政問題であっても堂々と主張しなければならない。

原発を争点にすることも当然だ。そのようなことを問題にしているのではない。

原則上の問題は、細川氏を支持するのかどうかということだ。ことは選挙だ。

細川氏は支持しない、しかし反原発だから応援するというのは、有権者への愚弄ではないか。支持もしない候補を応援するのはみずからへの欺瞞でもある。県外移設と唱えたら仲井真候補を「勝てそうだから」といって支持するのか。

現実の問題としては、「細川氏が当選すれば“勝ったことになるのか」、ということに尽きる。たしかに安倍政権には痛撃にはなる。したがって我々にとっては痛快だ。しかしそれだけであろう。

たんなる腹いせだ。その後に深い失望が襲うだろう。民主党が国民に深い失望を与え、政治離れを生み、それが安倍極右政権を招いたのと同じ轍を踏むことになる。

シングル・イシュー選挙は民主主義の退廃だということも言っておきたい。選挙は短期決戦である以上、争点を絞り明確にしていくことがだいじだ。しかし、それは全般的戦略があって有権者の要求を受け止めての話だ。


会の主なメンバーを見ると、次のような人たちがあげられる。

鎌田慧(ルポライター)
河合弘之(弁護士、脱原発弁護団全国連絡会)
瀬戸内寂聴(作家)
広瀬隆(作家)
湯川れい子(音楽評論家)

多くの人が原発プロパーであり、「脱原発イノチ」の立場と思う。何人かは会の雰囲気に押し流された可能性もある。

すくなくとも、この人達の意向で日本の民主運動の全体が引き回されてはならないと思う。

主観的にどう思おうと、彼らはみずからの掲げるイシューを絶対化し、これまで地道な平和運動、労働運動、生活擁護などの努力の結果として作り上げられてきた「統一戦線」を離脱し、分裂させたのである。

「脱原発都知事を実現する会」の河合弘之弁護士は、「細川氏は我々と一定の距離を保っているが、話に耳は傾けてくれる。我々の間にホットラインはちゃんとある」と話したという。(IWJ 20日号)

「我々」って誰のことだい。あんたらのことだろう。

そういうのを「選挙ブローカーの闇取引」というのではないか。しかも、抜け駆けたその先に確たる展望を示すこともできない近視眼的な戦術にすぎない。

それは日本国民にとってもっとも中核的な課題、「反ファシズム」での統一を傷つける可能性がある。

鎌田氏はいみじくも反ファシズム統一戦線の結成を呼びかけたディミトロフを引き合いに出して、「統一」を呼びかけた(東京新聞 28日号)
その言葉はそのままお返しする以外にない。


民主党の躍進と崩壊という時代を経て、我々が学んだことは、お上任せの他力本願ではなく主体的な政治参加なのだと思う。

二度も授業料を払う必要はない。自分の脚を信じて走ることだ。それは国民、とくに若者を民主政治の実現に向けて動員することなのではないか。

率直に言って、そう簡単なことではない。積み上げが必要だ。チリのアジェンデも、ブラジルのルーラも大統領になるまでは何度も落選を繰り返した。

だが、日本ではすでにかなり国民の力が積み上げられてきていると思う。そう馬鹿にしたものでもない。自民党を大敗させた経験は忘れ去るほど過去のものではない。

その深部の力に確信を持ち、真の統一戦線の実現に向けて一歩を踏み出すことが、なによりももとめられているのではないだろうか。


『 満洲旅行の栞 』 東亜旅行社

チャムスは松花江岸にあり、ハルビンと撫遠との中間に位置し、十四万六千平方キロに及ぶ沃野を控えた東満の一大都市である。

明治末期までは戸数僅かに百余戸に過ぎなかった。大正五年ごろ、鶴立崗金鉱の開鉱山に倣って人口の増加を見た。それでも未だ三百余戸という状態で微々たる一部落であった。

しかし松花江岸に位置しながらも水害を蒙ったこともなく、この点では依蘭、富錦よりも恵まれていた。このことが今日の隆盛をつくる大きな素因となったのである。
 
図佳線の開通は、従来の物資輸送経路に一新機軸を促した。チャムスは朝鮮東北部の諸港とも緊密な関係を生じ、水陸兼備の貿易市場となった。

こうして松花江岸随一の良港として北東満州に於ける物資の集散輸出入、また貨物の荷卸地として、さらには全満屈指の商業都市として条件を完備した。そして、都市計画着手以来、僅々三年にして、近世都市の発達史上類の無い高速度の発展を示し ている。

また対岸には鶴立崗炭坑を控え、良質の水を有することとあいまって、工業都市としても将来を渇望されている。

昭和15年、人口は11万4300(内地人は1万1千)人を数えるにいたり、明日への大飛躍が期待されている。

有名な彌榮・千振の開拓地は南方十数里にある。

旅館:
 ・チャムス駅ホテル
  駅舎楼上
  室料 3,00 - 4,50
 ・伊勢屋旅館
  南崗大街
  二食付き 7,00 -12,00
  ・三光ホテル
  新興街
  二食付き 6,00 -12,00
佳木斯(チャムス)は、肥沃な土地が広がっていたとされます。一方、松花江の水運が主な交通手段だったため、陸の孤島といわれた時期もありました(ハルピンから船で一晩程度の時間がかかった)。

その後、鉄道網の発展に伴い、街は発展しました。

昭和12年には図佳線(佳木斯と朝鮮半島の東側の付け根の図們を結ぶ)、昭和15年に綏佳線(綏化~佳木斯間)、対岸の蓮江口からは浜北線(ハルピン~北安)と便利になったことによります。

特に大連を回って佳木斯へ着くよりも日本海を横切るほうが交通費を安く出来ることとなりました。


http://livedoor.blogimg.jp/shosuzki/imgs/9/0/90e72c55.jpg

ここまでが 「みに・ミーの部屋」からの引用です

http://www.geocities.jp/ramopcommand/_geo_contents_/20131008/chamusu.html

満洲移民の最前線たる佳木斯を訪う

大阪毎日新聞 1933.8.1-1933.8.2(昭和8)

ハルピンから地広く人稀な見渡す限りの曠野をのたうって流れる大松花江に沿うて下ること約四日、地勢は次第に開けて山影も殆ど見らなくなって、一帯の低湿 地帯に移ろうとする松花江畔に佳木斯がある。

満洲全体から観れば東北隅の露国国境にほど近いところ、ここにわが国の満洲移民団の最前線が設定されている

一口に佳木斯というが、第一次移民団の永豊鎮(移民団ではこれを弥生村と命名している)は佳木斯から17邦里(64キロ)彼方にある。

佳木斯を出ると間 もなく丘陵重畳行手に横たわっている。なだらかな青い起伏、ボブラ、白樺などの並木。ここほど日本ら しい感じの濃いところは珍しい。

移民団が修築した「弥生街道」のところごろには「いやさか橋」「やまと橋」などの橋の名が目につく。

トラックに揺られつつ佳木斯を出てから五時間、私は遥かの山麓に日満両国旗がへんぼんとはためいている部落を発見した、目ざす永豊鎮だ

以下略

こんな学校があったことは知らなかった。

佳木斯と書いてジャムスと読む。濁らずにチャムスともいうようだ。旧満州に存在した医学専門学校である。

児玉健次さんの「15年戦争と佳木斯医科大学」という論文で、この学校のことが紹介されている。

 

1.チャムスの位置

まずは旧満州国の地図を広げてみよう。

 

http://livedoor.blogimg.jp/shosuzki/imgs/4/4/444727e1.jpg

ウィキペディアには以下のように記載されている。

満州国が建国されると新設された三江省の省都となり、周辺の穀倉地帯の拠点として、また沿海地方のソ連軍に対する将来の戦争の際の防衛・侵攻の拠点として重要な都市とみなされ、輸送・軍事用の鉄道などが整備された。

1937年には図佳線(図們-佳木斯)、1940年には綏佳線(綏化-佳木斯)が開通し、東満州一帯の農産物集積地となった。1937年には市に昇格している。

満州国時代には初期の武装移民団はジャムス南方の広大な沃野に入植し、弥栄村がその代表としてしばしば日本に紹介された。

 

2.前線に建てられた大学

満州には5つの医科大学があった。

新京医科大学(国立): 1929年吉林医学校として創設され、1935年吉林国立医院附属医学校(修業年限四年)と改称。さらに1937年新京医学校と改められ、ついで1938年1月新京医科大学として国立大学に昇格した。

哈爾濱医科大学(国立): 1926年9月に浜江医科専門学校として設立され、「満州事変」後も認可され存続。1938年、「満洲国」政府の大学令によって国立哈爾濱医科大学に改編された。

佳木斯医科大学(国立): 日本の移民政策に伴い、1940年、佳木斯医科大学が新設された。教職員及び学生は全部日本人であり、他の民族の者はいなかった。(若干の非日本人学生がいたことは後述のとおり)

満州医科大学: 南満医学堂(医専)が1922年に、日本の大学令による満州医科大学として再編され、満鉄によって経営された。東北地方で規模が最も大きい学府であった。

盛京医科大学: 1911年私立奉天医科専門学校として創立され、1939年2月に盛京医科大学と改称。

こうして並べてみると、チャムス医科大学の特異性がよく分かるだろう。まさに前線の大学であり、医学を学ぶこと自体が、直接軍事目標の中に据えられていたと考えてよい。

ここに卒業生の談話があるので紹介させてもらう。

…北海道・東京・福岡で入学試験があって、合格した人が満州に行くのです。満州は遠かったですね。飛行機なんかありませんから、長野から列車で名古屋経由でまず門司港に行き、船で釜山をめざします。そこからまた列車でソウルに入り、大学のある佳木斯(じゃむす)まで延々5かかりました。

私はそこの3期生でしたが、3期生全80人のうち70人は日本人、残り5人ずつが韓国と中国の方でしたね。

 

3.佳木斯医大、なにが問題か

当然バリバリの軍国主義者が幅を利かせていたようだ。初代の学長は相当の大物で、陸軍軍医学校長、軍医総監を歴任した寺師という軍医中将である。

教務主任を務めたのが正路倫之助という生理学の教授で、この人物が731部隊と浅からぬ関係にあったとされる。

児玉さんの研究によると、京大生理学教授を兼任する正路は、京大の若手医学者を731部隊に送り込んだらしい。

これが悪役の一人。

もう一人が、こちらのほうが大物だが、北野政次という人物である。

この人は佳木斯医大ではなく満州医大の細菌学の教授だが、現役の軍医大佐でもあり、後に731部隊の隊長を勤めることになる。

この人が前線の佳木斯で“研究”を推進しようと考えた。そこで派遣されたのが岩田茂という人である。この人が41年4月に佳木斯医大に着任し、新設された細菌学教室の教授に就任した。

そこでどのような研究が行われたかは想像に難くないが、細菌戦の研究が行われたであろう状況証拠として、児玉さんは次の事実をあげている。

すなわち、関東軍司令部で731部隊の業務を担当した竹田宮参謀が繰り返し佳木斯医大を「査閲」していることである。

*「15年戦争と日本の医学医療研究会会誌」第8巻第1号(2007年10月)



滋賀医大の西山先生の論文が閲覧できる。題名は

「15年戦争」への日本の医学医療の荷担の解明について

というものである。(15年戦争 - 「戦争と医の倫理」の検証を進める会

このなかで、石井四郎の京大への影響力、正路教授の果たした役割が明らかにされている。

 もご参照ください。

 

ふじ子さんの記事を載せた落合道人さんのブログに、面白い記事があったので紹介する。

里中哲彦『黙つて働き笑つて納税―戦時国策スローガン傑作100選―』という本の紹介だ。

 黙って働き 笑って納税 1937年
 護る軍機は 妻子も他人 1938年
 日の丸持つ手に 金を持つな 1939年
 小さいお手々が 亜細亜を握る 1939年
 国のためなら 愛児も金も 1939年
 金は政府へ 身は大君(おおきみ)へ 1939年
 支那の子供も 日本の言葉 1939年
 笑顔で受取る 召集令 1939年
 飾る体に 汚れる心 1939年
 聖戦へ 贅沢抜きの 衣食住 1940年
 家庭は 小さな翼賛会 1940年
 男の操(みさお)だ 変るな職場 1940年
 美食装飾 銃後の恥辱 1940年
 りつぱな戦死とゑがほ(笑顔)の老母 1940年
 屑(くず)も俺等も七生報国 1940年
 翼賛は 戸毎に下る 動員令 1941年
 強く育てよ 召される子ども 1941年
 働いて 耐えて笑つて 御奉公 1941年

http://livedoor.blogimg.jp/shosuzki/imgs/b/a/ba329310.jpg

 屠れ米英 われらの敵だ 1941年
 節米は 毎日できる 御奉公 1941年
 飾らぬわたし 飲まないあなた 1941年
 戦場より危ない酒場 1941年
 酒呑みは 瑞穂の国の 寄生虫 1941年
 子も馬も 捧げて次は 鉄と銅 1941年
 遊山ではないぞ 練磨のハイキング 1941年
 まだまだ足りない 辛抱努力 1941年
 国策に 理屈は抜きだ 実践だ 1941年
 国が第一 私は第二 1941年
 任務は重く 命は軽く 1941年
 一億が みな砲台と なる覚悟 1942年
 無職はお国の寄生虫 1942年
 科学戦にも 神を出せ 1942年
 デマはつきもの みな聞きながせ 1942年
 縁起担いで 国担げるか 1942年
 余暇も捧げて 銃後の務(つとめ)  1942年
 迷信は 一等国の 恥曝(さら)し 1942年
 米英を消して 明るい世界地図 1942年
 買溜(かいだめ)に 行くな行かすな 隣組 1942年

 二人して 五人育てて 一人前 1942年
 産んで殖やして 育てて皇楯(みたて)  1942年
 日の丸で 埋めよ倫敦(ロンドン) 紐育(ニューヨーク)  1942年
 米英を 消して明るい 世界地図 1942年
 飾る心が すでに敵 1942年
 買溜めは 米英の手先 1943年
 分ける配給 不平を言ふな 1943年
 初湯から 御楯と願う 国の母 1943年
 看板から 米英色を抹殺しよう 1943年
 嬉しいな 僕の貯金が 弾になる 1943年
 百年の うらみを晴らせ 日本刀 1943年
 理屈ぬき 贅沢抜きで 勝抜かう 1943年
 アメリカ人をぶち殺せ! 1944年
 米鬼を一匹も生かすな! 1945年

 

 

落合道人さんのブログに「目白通りを往来した伊藤ふじ子」という記事があって、とても詳しい。

伊藤ふじ子は1911年(明治44)、山梨県北巨摩郡清哲村(現・韮崎市)に生まれ甲府第一高女を卒業している。

1928年(昭和3)5月に東京へやってきて、知人のつてで石川三四郎・望月百合子の家へ下宿している。

伊藤ふじ子は、絵の勉強をつづけるかたわら、さまざまな職業に就いている。1929年(昭和4)には上野松坂屋の美術課に勤務していたが、すぐにそこを辞 めて明治大学事務局に転職している。

彼女は明治大学で働きながら、長崎町にあった「造形美術研究所」へ通いはじめた。

造形美術研究所は、三科がプロ芸派と造形(型)派に分裂したあと、造形(型)派の拠点になったところで、1929年4月に同所へ設立されている。伊藤ふじ子が絵を学びに通いだした翌年、1930年(昭和5)6月から「プロレタリア美術研究所」と改名されている。

東京へきてからわずか1年ほどで、共産主義運動に惹かれたと思われる。

伊藤ふじ子は、日本橋にあった銀座図案社にも非常勤で勤務し、グラフィックデザイナーとして働きはじめた。彼女が担当したク ライアントは、東京芝浦電気(現・東芝)の宣伝部だった。

ふじ子は演劇にも興味をもちはじめ、労農芸術家聯盟の「文戦劇場」で女優としても舞台に立っている。

1931年(昭和6)の春、ふじ子は新宿の果物屋の2階に下宿していたが、そのころ刑務所を出たばかりで保釈中の小林多喜二と親しくなった。

ここに例の角筈の伝単貼りとすき焼き屋のエピソードが挟まるんですね。

そして、多喜二が地下潜行中の1932年(昭和7)の春にふたりは結婚している。

翌 1933年(昭和8)2月20日、多喜二はスパイの手びきで赤坂区福吉町の喫茶店におびきだされて逮捕された。そしてその日の内に築地署で虐殺されてしまった。

ふじ子にとっては、わずか1年たらずの結婚生活にすぎなかった。

伊藤ふじ子は多喜二の死後、下落合に下宿し、「クララ洋裁学院」へと通いはじめた。

多喜二の死後、「手に職」をつけてひとりで生きていく決心をしたからだと思われる。

しばらくすると、伊藤ふじ子は帝大セツルメントで、近所の女子工員たちを集めて編み物や和裁、洋裁などの教室を開いている。

伊藤ふじ子がプロレタリア漫画家・森熊猛と知り合ったのは、このころだった。森熊猛は、1909年(明治42)生まれで小林多喜二よりも6歳年下だった。札幌の北海中学校で左翼美術運動に触れ、その後上京した。

彼女が風邪を引いて寝こんでいるとき、森熊猛が薬をもって見舞いに訪れプロポーズしたといわれている。

1934年(昭和9)3月、伊藤ふじ子は日本赤色救援会(モップル)に参加していたという理由で特高に逮捕された。

留置所から釈放されたあと、彼女は帰るところがなくなり、森熊猛の下宿を訪ね、そのままふたりはいっしょに暮らしはじめて結婚している。

伊藤ふじ子は、小林多喜二の分骨を終生大切に保管していたという。

多喜二の葬儀に立ち合っていない彼女が、なぜ分骨をもっていたのかは明らかでないが、1981年(昭和56)4月にふじ子が死去すると、森熊猛はふたりの遺骨を合葬して同一の墓所に納めている。

1390868851

1935年(昭和10)ごろの撮影とみられる森熊猛・(伊藤)ふじ子夫妻。

多喜二の通夜の席にいきなり伊藤ふじ子が飛び込んで来て泣いたら、参列者はいぶかしがったかもしれない。

しかし地下生活の中では、知られないのが当然だったと思う。知らない側の人間が知ったふりしてとやかくいうのは、まことに馬鹿げた話だ。

それやこれやで「ハウスキーパー」説が風靡したのかもしれないが、多喜二が本当に惚れたのは田口タキさんではなく、やはりふじ子だったと思う。

甲府第一高女出で、フランス帰りの望月百合子の薫陶を受けたパキパキのモダンガールだ。西洋かぶれの多喜二なら、おそらく有頂天だったろう。

ひょっとしたら、口説き文句に「党のためだ」くらいは言ったかもしれない。


他記事とふじ子の関連記事

数年前にNHKの深夜で「サラリーマン・ネオ」というコント番組があった。
最初は面白くてけっこう見ていたのだが、途中からだんだん嫌になってきた。弱者に対する笑いとか、はみ出し者に対する笑いとか、それを笑う立場に共感できなくなってきた。最後には、「この連中は俺のことも陰で笑いにしているだろうな」と疑い始めると、むしろその陰湿さに吐き気をもよおすほどになってきた。

こんなコントがあった。
ブラジルの奥地に駐在員として派遣される社員が、そのことを告げられるのだが、その社員は徹底したウスノロとして描かれ、転勤を告知する上司が汗だくになって説明するさまを、陰から見ていて笑い転げる社員たち。
これってコントだろうか。

非正規の職人と思しき夫婦が、サラリーマンになりたいと雨の中で懸命に正社員にすがりつくコントは、繰り返し放映された。製作者にとってよほど気に入ったモチーフらしい。

おそらくそれは今のNHKの社員の本音を象徴していたのだろう。
多分それは安倍晋三の心理と響きあっていたのではないだろうか。

与謝野晶子の詩ではないが、風の吹くままになびく草には、揺れているという意識がない。理由はいろいろあるが、根本的には草は人ではないからだ。

ところが草が自分を「人」だと思い始めると厄介だ。風の動きに従わないほんとうの人が、「人ではない」と思いこむようになる。


29位の A Noite Do Meu Bem はマリア・クレウーザで親しんできたと書いたが、どうも見当たらない。

代わりに出てきたのが、

A noite do meu bem - Nana Caymmi

Maysa A Noite Do Meu Bem

ELIS REGINA " A NOITE DO MEU BEM "

Lúcio Alves - A noite do meu bem

Nélson Gonçalves - A noite do meu bem

Maria Bethania e Quarteto em Cy - A noite do meu bem  どう考えてもこの組み合わせは合わない)

A Noite do Meu bem - Tom Zé (まさかトム・ゼーが歌うとは。予想に違わずひどいというか、すごいというか)

Maria Creuza - A noite do meu bem (やっと見つけました)

サムネイル

ZIZI POSSI canta A NOITE DO MEU BEM (私の好きなジジ・ポッシも歌っています。美声でもなく、声量があるわけでもなく、顔もバーブラ・ストレイザンド並みですが。コアジの聞かせ方がじつにうまい。ふっとイタリア風味が横切るところがよい)

Elizeth Cardoso - A Noite Do Meu Bem (エリゼッチの歌はないのだろうか、と思っていたら、見つかりました。残念ながらテレビのエアチェックで音の状態はかなり悪いですが。まるで祈りの歌のようで、立派なものでした)

結論としては、ドローリス・ドゥランのオリジナル歌唱をしのぐ演奏なしということ。


17-Viola Enluarada - Marcos Valle & Milton Nascimento(名曲です)

と書いたが、リンクが切れていた。 「この動画は再生できません。 申し訳ありません」と出てくる。

しかしグーグルからはしっかり行ける。さすがに名曲・名演だ。

Marcos Valle & Milton Nascimento - Viola Enluarada

このコンビではもう2曲聴ける。

Marcos Valle & Milton Nascimento - Diálogo

Marcos Valle & Milton Nascimento - Requiem

以前、「ブラジル 60年代ヒット曲100選」というリストを転載したことがあった。

その時、37位にリストアップされたのが、Fica Comigo Esta Noite - Nelson Gonçalves

という曲だった。「タンゴみたい」と思った。

ふと気になり、ネルソン・ゴンサルヴェスの曲をまとめて聞いてみた。といっても、youtubeで検索をかけると4万7千件もヒットする。

とりあえず上から順に聴けるだけ聴いてみることにする。

A Volta do Boêmio (ショーロ)

Naquela mesa (ご存知ジャコー・ド・バンドリンを偲ぶ歌である。エリゼッチ・カルドーゾの持ち歌と思っていたが)

Cara a Cara (バラード)

Quando eu me chamar saudade (サンバ・カンシオン)

A FLOR DO MEU BAIRRO (ショーロ)

DEUSA DO ASFALTO (ショーロ。心地よいサウダーヂ。Adelino Moreiraという人の曲らしい

FICA COMIGO ESTA NOITE (どう見てもタンゴ。しかし鋭い切り込みはない)

HOJE QUEM PAGA SOU EU (と思ったら、こちらはポルテーニョそのもの)

Doidivana (タンゴ)

Argumento (ショーロ。良い。この人は基本的にはショーロ歌いのようだ)

Vermelho 27 (タンゴ。アカの27番というのはルーレットの眼らしい。いかにもタンゴの題だ)

Meu dilema (ショーロ)

Queixas (ショーロだが、リズムは表でタンゴっぽい)

Revolta (ショーロ。良い。アルゼンチンのフォルクローレみたい)

A CAMISOLA DO DIA (ショーロ。良い)

少し疲れたのでこのくらいにする。

この人は最初はタンゴ歌いで、その後ショーロ歌手として売り出し、有名になってからはサンバとかバラード、ボレロにも手を広げたようだ。

50年代末から60年代はじめにかけてショーロを歌っていた頃がピークだと思う。年取ってからも歌っているが、ひどいから聞かないほうが良い。

サムネイル

アルバムとしてはNelson Gonçalves em Hi-Fi (1959) - Vitrola de Ouro ( LP COMPLETO ) が良いようだ。

突如、文学づいて、もう一編

今度は与謝野晶子


草と人

いかなれば 草よ、

風吹けば ひとかたに寄る。

人の身は 然らず、

己が心の 向き向きに寄る。

なにか善き、なにか悪しき、

知らず、唯だ人は 向き向き。

「草」というのは「世間」と読め、「人」というのは「われら」と読めというんでしょうね。晶子は「それで、あなたはどっちなの?」と問いかけている。


唯一の問い

唯だ ひとつ、あなたに

お尋ねします。

あなたは、今、

民衆の中に在るのか、

民衆の外に在るのか、

そのお答へ次第で、

あなたと私とは

永劫、天と地とに 別れてしまひます。


この人、どこかに狂気を隠し持っています。ラテンアメリカにはこういう人ゴロゴロいますが


緋目高(ひめだか)

鉢のなかの

活溌な緋目高よ、

赤く焼けた釘で

なぜ、そんなに無駄に

水に孔を開けるのか。

気の毒な先覚者よ、

革命は水の上に無い。


きついですね。水面を走り回る 赤い釘 ですか…


吉野弘さんがなくなったそうだ。まぁ亡くなっても良い年だ。

戦争に行かなくて済んだぎりぎりの人だ。

多くの死を背負って、がむしゃらに闘って、肺病病みになって、

仕方なしに詩人になった人だ。

あの頃、ありがちの人だった。

シャイで素直だから斜に構えて、

正味で生きる人に独特の優しさを醸しだす。


Taiwan Spa Lady WindyのBLOG

から転載させていただく。

話が飛んでしまった。

習近平の注意深いが鋭い毛沢東批判は、今日の赤旗国際面に載ったものだ。

この記事は

文革の「紅衛兵」 被害者へ相次ぎ謝罪

“同じこと起きないように”

という題名で、北京の小林卓也特派員が書いたものだ。

リード部分は

かつて中国を混乱に陥れた「文化大革命」(文革)で、毛沢東を崇拝し、知識人や教師に過激な攻撃を加えた「紅衛兵」が、50年近い時を経て被害者への謝罪を始めています。

というもの。明らかに一つのキャンペーンが始まったと見て良いだろう。

謝罪の中身そのものは、すでに我々にはおなじみのもの。しかし中国の若者にはあまり知られていないらしく、結構な衝撃を与えているようだ。

そしてそのキャンペーンの背景として、小林記者は先程の習近平演説をあげているわけだ。

一般紙が、「習近平は毛沢東路線を支持し、その復活を狙っている」と観測しているのとは、まったく逆の見方だ。

どちらが正しいか、それはもう少し経過を見ていく必要があるだろう。

どうでも良いニュースみたいだが、面白くなくもないので、紹介しておく。

ニューズウィークに去年10月に掲載された「中国 風見鶏だより」というコラムである。執筆者はふるまい よしこさんという方。

毛沢東生誕120周年の2ヶ月前に習仲勲生誕百年という記念式が行われたそうだ。

習近平の実父である。文革時代には迫害された。習近平自身も下放されている。後に復活し鄧小平に引き立てられて、深セン特区の発展に尽力したらしい。

ここでも習近平は演説を行っている。

毛沢東問題評価にはあまり触れなかったようだ。記事によると、

習近平ら兄弟も父が毛沢東一派の迫害を受けている最中に生まれたために子供の頃からつましい生活を迫られたこと、父に厳しく育てられ、「控えめに生きるよう」しつけられたと強調された。

そうである。

この式典に参加したメンバーが注目された。記事によると、

鄧小平、劉少奇、胡耀邦、彭真、王震、楊尚昆、陳雲、李維漢らの子女、つまり「太子党」が集まった。

そうだ。

習はこの新たな協力関係を築くことによって、鄧小平以降、つまり江沢民や胡錦濤らによる政治操作を離脱、「紅二代」と呼ばれる二代目共産党員による政治を確立しようとしているという。

問題は、もっと上ではないか。

劉少奇・彭真ら文革前の「良き時代」の復興ということではないか。とすれば、習政権成立以降の政策の骨格も見えてきそうな気がする。


中国通信 2013.12.27

中国共産党が毛沢東生誕120周年座談会 習近平氏が重要演説

26日午前、北京の人民大会堂で毛沢東生誕120周年記念座談会が開かれた。

党中央政治局常務委員が出席し、習近平党総書記・国家主席・中央軍事委主席が重要演説を行った。

習氏は次のように指摘した。

1.毛沢東同志ら先輩革命家はみな、近代以降の中国の歴史的発展の時勢の中で生まれた偉大な人物である。

2.毛沢東思想は独創的理論でマルクス主義を豊かにし、発展させた。われわれは永遠に毛沢東思想の旗印を掲げ 前進する。

3.歴史的人物の評価は、その時代と社会的歴史条件において分析すべきだ。今日の時代条件、発展水準、認識水準で前人をはかることはできない。

4.革命の指導者は神ではない。その偉大さから神のように崇めることはできない。ミスや誤りを指摘し、正すことも必要だ

5.われわれは平和的方法による国際紛争の解決を主張する。覇権主義、強権政治に反対し、永遠に覇権を求めず、永遠に拡張を行わない。

6.しかし、いかなる外国もわれわれが核心の利益を取引材料にすることを期待してはならない。


ということで、赤旗が引用したような踏み込んだ文言は出てこない。別な場所での演説かもしれない。

あるいは、中国通信が日本向けの配信で意図的にカットした可能性もある。


他にも時事通信、産経が演説内容を紹介しているが、同じ演説かと思うほど内容が異なる。

新華社通信で全文を配信しているということなので、その日本語訳を読みたいところだ。




↑このページのトップヘ