1952年
奄美共産党は最も困難な、だが最もまっとうな路を選択した。奄美が琉球から切り離されて日本に復帰する可能性も残されてはいたが、それは僥倖である。国家間の条約で琉球政府として「独立」した以上は、かなりの長期戦を覚悟した上で、琉球の人民が一体となって復帰を目指す以外にないのである。 |
1月 月間輸出総額840万円(大島紬240万円 牛90万円 黒糖512万円)
1月19日 奄美連青が中央委員会を開催。崎田団長代行が辞任し、代行の代行に実隆三が就任。
1月30日 社民党第6回大会、社民党を発展的に解消し、沖縄人民党と組織的合流。琉球人民党大島地方委員会として再出発。中村安太郎の入党を承認し、来たる立法院議員選挙の公認候補とすることを決定。
1月30日 名瀬市青年団員山本寿子(18歳)はパンフレット「全面講和」を友人に貸したことを理由に非公開の軍事裁判で懲役2ヶ月、罰金2500円を言い渡される。52年1月 日本共産党琉球地方委員会、基本党の確立を主張。沖縄人民党の瀬長亀次郎書記長らはこれを受け入れなかったため、党は従来通り奄美出身者の党員を中心にグループ活動を強化した。
2月 復帰協、各種団体代表者会議(新方針を協議。①持久戦に備える組織の体制固め,②年間50数万円の必要経費の捻出,③緊急に第2次署名を展開する、などを決定。琉球民政府との闘いの開始
3月10日 琉球立法院議員の選挙。奄美の笠利投票区では人民党から中村安太郎が立候補。不正投票のために80票の差で次点になる。(7月に全村大会で3千人を集めた村です)
3月10日 引続き行われた地方選挙で名瀬市から3人、ほか三方村(今は三方という地名そのものがなくなっています。名瀬の東隣の大熊、徳洲会病院あたりが三方村と呼ばれていたようです)、古仁屋町で人民党公認候補が勝利する。
3月10日 人民党、選挙無効の異議を郡選管に申し立て。
3月29日 奄美からの出稼ぎ者を対象とし奄美共産党の沖縄細胞が成立。第一回会議で細胞長に林義巳を選ぶ。
4月1日 米軍、琉球中央政府及び奄美地方庁を設立。中央政府の主席は任命制となる。奄美群島政府は閉鎖される。
4月28日 講和条約が発効。奄美沖縄小笠原は正式に日本から分離される。復帰協の泉会長はメッセージを発表。日本復帰のため「条約第3条の撤廃を求める」と述べる。この日を「郡民屈辱の日」と宣言。
4月28日 名瀬市議会、講和条約第3条の撤廃を柱とする復帰決議案を採択する。
4月29日 琉球立法院の本会議が開かれる。奄美を含めた琉球の日本復帰に関する決議案を27対2で可決する。具体的な道筋と関連して、第3条の問題が白熱化する。瀬長亀次郎議員の「条約第3条撤廃を盛り込むように」との動議は否決される。
5月1日 奄美で初のメーデーが決行される。「条約3条撤廃」「即時日本復帰」「労働保護法の制定」「人権擁護」などを決議。数日後、青年団代表が米軍情報官の取り調べを受ける。
5月3日 古仁屋で祖国独立祝賀並びに日本復帰促進郡民大会が開かれる。5千人が参加し提灯行列を行う。
5月21日 笠利の立法院選挙。不正投票があったとして無効判決が出される。人民党は「今後もなお闘わん」との声明を発表。
三条撤廃・復帰路線の再確立
6月5日 沖縄の日本道路会社で労働争議が発生。奄美からの出稼ぎ労働者が中心となって立ち上がる。奄美共産党メンバーが指導。立法院は瀬長議員発議の「日本道路社労働者の待遇改善について」を決議。
6月18日 復帰協代議員会、3条撤廃署名実施の具体化。笠利村の青年団では幹部会が開かれ、奄美連青からの脱退を決定。
6月20日 大阪府復帰対策委員会本部、総本部に対し「復帰運動を一部の政治勢力が利用することに反対する」との進言書を提出。
6月25日 日本道路のスト、完全勝利をかちとる。清水建設は解雇を撤回。スト期間中の賃金は支払うと約束。このストは沖縄を始め全琉球の労働者を目覚めさせ,団結させる歴史的意義。このあと松村組,清水組砕石工場,K.O.Tでの闘争が相次ぐ。
6月28日 「奄美大島の完全日本復帰をめざす郡民総決起大会」が開かれ1万人を動員。講和条約第三条の撤廃、日本の諸法規の全面的な実施を掲げる。さらに琉球立法院に「三条撤廃の請願決議を即時議決せよ」との要求を突きつける。
6月28日 民政府のミルス法務官、郡民大会で決議された「軍事占領法規の廃止・日本諸法規の全面実施」と「売国 吉田・比嘉政府打倒」が布告32号違反容疑であると判断。泉議長に対し出頭を命ずる。
7月 食糧事情深刻さを増す
8月15日 統合参謀本部はフォスター国防副長官に対し、「極東における政治的・軍事的状況が、アメリカにとって好ましい形で安定するまで琉球諸島・小笠原諸島の現状は変更すべきではない」と勧告。
米軍が直接反共攻撃・弾圧
8月19日 立法院本会議場において、ビートラーメッセージが発表される。「人民党は国際共産主義の政党であり、取り締まる方針」である。「笠利の再選挙では中村安太郎に投票してはならない」という内容。
8月24日 笠利選挙区で琉球立法院議員のやり直し選挙。人民党の中村安太郎候補が民主党候補を破り当選。
9月7日 市町村長・議員選挙が行われる。名瀬市長選挙では復帰協の泉芳郎が6613票を獲得し勝利。連教組と医師会などが支持した相手候補は4403票。泉は「市民大衆の知性と社会正義の勝利だ。さらに完全日本復帰への民族感情,ボス政治への反感,公明選挙への自覚が勝利をもたらした」とコメントする。
9月8日 復帰協中央委員会を開く。連教組と医師会から「信託統治反対・完全日本復帰・条約3条撤廃の基本スローガンを取り下げる」ように要求されたが不採択となる。
9月20日 米国民政府は人民党の機関誌発行許可申請を「人民党の目的は日本共産党と
一致している」として却下。この頃から「条約3条撤廃は共産党の扇動によるもの」「人民党の指導する復帰運動では目的は達成できない」とのデマが流される。
10月1日 臨時市議会において泉市長は「日本復帰達成を市政の最重点とする」ことを訴え
る。人民党から「条約第3条撤廃決議案」がだされ採択される。野党は「現在の復帰運動は行過ぎている」とし、反対に回る。
10月14日 コザ警察署が半年間の売春摘発の実態を発表。「検挙売春婦の5割強は大島出身者」とする。
12月2日 泉市長、国民大会で「大島はもぎとられた腕」と絶叫する。
12月18日 『平和』押収事件が発生。名瀬市議の大山光二(人民党)らが日本平和委員会の機関誌「平和」を市役所職員に配布したことが違法とされる。大山は逮捕された上、市議の資格を剥奪される。
1953年
連青の大衆化への模索
1月7日 連教組を主体とする革新同志会が、連青への批判を強める。復帰協を改組するようもとめ署名運動を展開。
1月10日 復帰協名瀬支部の代議員大会、政党色の排除(人民党の排除)を決定。当面の運動方針としては、「条約第三条撤廃」と「鹿児島県大島郡の即時復帰」の二本建てでいくことに決定。
1月17日 全郡青年団幹部と社会教育主事の合同懇談会、連青組織が共産党色を出しすぎて、大衆から遊離したと判断。「奄美連青」を解散し、全郡団長会議を最高の決定機関とする。
53年1月 民政府、「赤い読み物鉄則」を発表。共産系出版物の輸入を禁止する。
2月1日 亀津町で奄美連青団長会議が開催される。大衆化の方向を目指す新活動方針を決定。従来の連青の性格を反省、政府当局にも援助を依頼、公民館と提携した運動を強化するなどの新活動方針を決定。幹部役員も交代するが、その後4月頃まで活動が頓挫する。
アカの巣、奄美を切り離せ
53年3月 アリソン国務次官補のメモ。奄美は戦略的重要度が低いため、軍事目的に必要な権利を確保したうえで日本に変換する。
53年4月 伝統産業の大島紬が不振にあえぐ。製造工場は戦前の2割にとどまる。
53年7月 沖縄に於いて日本共産党琉球地方委員会総会を開催。人民党の瀬長亀次郎書記長と島袋嘉順組織部長がこれを機に入党。
総会は党中央に対し 1.琉球地方委員会を下部組織として承認すること、 2. 琉球地方委員会の地域綱領すなわち新綱領にもとずく行動綱領を決定すること、 3. 中央に琉球ビューローを設置すること、などをもとめる。その他、琉球人民党を党の外カク組織としてではなく合法舞台として確認し,綱領規約の改正をはかることももとめる。 |
53年8月 奄美地区党大会、即時無条件復帰,完全復興,沖縄小笠原返還の方針を確認。
53年8月8日 ダレス国務長官、朝鮮視察後に吉田首相と会見。奄美大島の日本返還を表明する。以後、復帰運動の主流は右翼勢力に握られ、人民党は取り残される。
53年夏 党中央,中級地方委員会を日本共産党の下部組織として統一指導することを確認する。
53年夏 奄美を旱害が襲う。農村部では早くもソテツ食が始まる。
53年10月 日本共産党の琉球地方委員会としての方針のもとに、アメリカ帝国主義の植民地化に対する闘争を強化。基地労働者を中心とする十万労働者の組織化に重点をおく。琉球地方委員会はほとんど奄美出身の党員によって構成され,沖縄細胞として活動した。
合法面では人民党を始め各種社会団体議会を通じて労働法規の制定,条約三条の撤廃,即時祖国復帰,アメリカ軍の土地取り上げ反対,人権ヨーゴを訴え議会においては決議案などを上程するなど植民地政策をバクロし,これに対する抵抗組織の確立をはかる。 |
11月10日 名瀬小学校校庭で第24回総決起郡民大会。7千人が参加する。奄美小学校の児童が12時間断食を決行。
11月20日 ニクソン副大統領、「共産主義の脅威があるかぎり、沖縄を保持する」と言明。
11月24日 山田耕筰作曲の復帰祝賀の歌「朝は明けたり」が完成する。
11月29日 衆参両院調査団歓迎の第25回軍民大会。1万人が結集する。
11月 奄美地区委員会、奄美地区の復帰実現後の情勢を分析。(1)琉球地方委員会から奄美地区機関をきり離すこと、(2)中央に急いで琉球ビューローを確立すること,(3)奄美地区機関を県党機関所属にするか琉球ビューロー所属にするかを決めることをもとめる。
11月 党中央、南方地域特別対策委員会を設置。琉球の党組織の指導にあたる。中央の「南方地域特別対策委員会」の国場幸太郎が来島し、琉球地方委員会との正式連絡。
12月4日 党琉球地方委員会が総会。党中央の方針を確認。奄美地区の党機関については琉球地方委員会から離れ,党中央に従って所属機関を決 定することとなる。中央への答申のため奄美地区委員会の崎田実芳代表を派遣することを決定。琉球地方委員会は日本共産党沖縄県委員会と改称。
12月13日 琉球人民党第二回大会。新たな状況に合わせ綱領・規約を改正。
12月17日 沖縄市町村長会、奄美が復帰するなら、奄美人は(奄美に)返してほしいとの要望を決議。
12月25日 奄美大島の返還協定が正式に調印される。「ダレスのクリスマス・プレゼント」と呼ばれる。
12月27日 奄美連合青年団の主催で演説会。7千人を結集する。
12月27日 人民党大島地方委員会第二回党大会、党の解散を決定。
1954年
54年年1月12日 「結成から現在まで琉球における党の歩いて来た道」(手書き20ページ)が発表される。
1月16日 奄美大島復帰協議会が解散、あらたに復興民主化同盟が結成される。
2月 共産党地区委員会が公然活動を開始する。奄美労働評議会が結成される。
2月 復帰に伴う総選挙が実施される。全国の共産党の応援隊や,労農党や,民主的諸党派,労働組合,大衆団体の支持を受けて,選挙戦を闘ったが、民主化同盟の立てた中村衆院議員候補、大山県議候補はいずれも落選。
1956年4月 「資料 戦後十年間における奄美の党の歩んだ道」(日本共産党奄美地区委員会,謄写版6ページ)が発表される。「結成から現在まで琉球における党の歩いて来た道」を一部修正したものとされる。
1958年7月12日 「沖縄・奄美大島における党建設とその活動」(日本共産党南西諸島特別対策委員会,手書き31ページ)が発表される。
59年 奄美のガンジーと呼ばれた泉芳朗が死去(54歳)。
1982年 『日本共産党の六十年』が発表される。公式党史に戦後奄美共産党の活動が記載される。