鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

2013年12月

1952年

奄美共産党は最も困難な、だが最もまっとうな路を選択した。奄美が琉球から切り離されて日本に復帰する可能性も残されてはいたが、それは僥倖である。国家間の条約で琉球政府として「独立」した以上は、かなりの長期戦を覚悟した上で、琉球の人民が一体となって復帰を目指す以外にないのである。
「果報は寝て待て」とばかりに、お上のお慈悲をお待ちしていても、血路を切り開くことはできない。ましてや民衆の解放につながるような復帰の実現は絶対期待できないのである。

1月 月間輸出総額840万円(大島紬240万円 牛90万円 黒糖512万円)

1月19日 奄美連青が中央委員会を開催。崎田団長代行が辞任し、代行の代行に実隆三が就任。

1月30日 社民党第6回大会、社民党を発展的に解消し、沖縄人民党と組織的合流。琉球人民党大島地方委員会として再出発。中村安太郎の入党を承認し、来たる立法院議員選挙の公認候補とすることを決定。

1月30日 名瀬市青年団員山本寿子(18歳)はパンフレット「全面講和」を友人に貸したことを理由に非公開の軍事裁判で懲役2ヶ月、罰金2500円を言い渡される。

52年1月 日本共産党琉球地方委員会、基本党の確立を主張。沖縄人民党の瀬長亀次郎書記長らはこれを受け入れなかったため、党は従来通り奄美出身者の党員を中心にグループ活動を強化した。

2月 復帰協、各種団体代表者会議(新方針を協議。①持久戦に備える組織の体制固め,②年間50数万円の必要経費の捻出,③緊急に第2次署名を展開する、などを決定。

琉球民政府との闘いの開始

3月10日 琉球立法院議員の選挙。奄美の笠利投票区では人民党から中村安太郎が立候補。不正投票のために80票の差で次点になる。(7月に全村大会で3千人を集めた村です)

3月10日 引続き行われた地方選挙で名瀬市から3人、ほか三方村(今は三方という地名そのものがなくなっています。名瀬の東隣の大熊、徳洲会病院あたりが三方村と呼ばれていたようです)、古仁屋町で人民党公認候補が勝利する。

3月10日 人民党、選挙無効の異議を郡選管に申し立て。

3月29日 奄美からの出稼ぎ者を対象とし奄美共産党の沖縄細胞が成立。第一回会議で細胞長に林義巳を選ぶ。

4月1日 米軍、琉球中央政府及び奄美地方庁を設立。中央政府の主席は任命制となる。奄美群島政府は閉鎖される。

4月28日 講和条約が発効。奄美沖縄小笠原は正式に日本から分離される。復帰協の泉会長はメッセージを発表。日本復帰のため「条約第3条の撤廃を求める」と述べる。この日を「郡民屈辱の日」と宣言。

4月28日 名瀬市議会、講和条約第3条の撤廃を柱とする復帰決議案を採択する。

4月29日 琉球立法院の本会議が開かれる。奄美を含めた琉球の日本復帰に関する決議案を27対2で可決する。具体的な道筋と関連して、第3条の問題が白熱化する。瀬長亀次郎議員の「条約第3条撤廃を盛り込むように」との動議は否決される。

5月1日 奄美で初のメーデーが決行される。「条約3条撤廃」「即時日本復帰」「労働保護法の制定」「人権擁護」などを決議。数日後、青年団代表が米軍情報官の取り調べを受ける。

5月3日 古仁屋で祖国独立祝賀並びに日本復帰促進郡民大会が開かれる。5千人が参加し提灯行列を行う。

5月21日 笠利の立法院選挙。不正投票があったとして無効判決が出される。人民党は「今後もなお闘わん」との声明を発表。

三条撤廃・復帰路線の再確立

6月5日 沖縄の日本道路会社で労働争議が発生。奄美からの出稼ぎ労働者が中心となって立ち上がる。奄美共産党メンバーが指導。立法院は瀬長議員発議の「日本道路社労働者の待遇改善について」を決議。

6月18日 復帰協代議員会、3条撤廃署名実施の具体化。笠利村の青年団では幹部会が開かれ、奄美連青からの脱退を決定。

6月20日 大阪府復帰対策委員会本部、総本部に対し「復帰運動を一部の政治勢力が利用することに反対する」との進言書を提出。

6月25日 日本道路のスト、完全勝利をかちとる。清水建設は解雇を撤回。スト期間中の賃金は支払うと約束。このストは沖縄を始め全琉球の労働者を目覚めさせ,団結させる歴史的意義。このあと松村組,清水組砕石工場,K.O.Tでの闘争が相次ぐ。

6月28日 「奄美大島の完全日本復帰をめざす郡民総決起大会」が開かれ1万人を動員。講和条約第三条の撤廃、日本の諸法規の全面的な実施を掲げる。さらに琉球立法院に「三条撤廃の請願決議を即時議決せよ」との要求を突きつける。

6月28日 民政府のミルス法務官、郡民大会で決議された「軍事占領法規の廃止・日本諸法規の全面実施」と「売国 吉田・比嘉政府打倒」が布告32号違反容疑であると判断。泉議長に対し出頭を命ずる。

7月 食糧事情深刻さを増す

8月15日 統合参謀本部はフォスター国防副長官に対し、「極東における政治的・軍事的状況が、アメリカにとって好ましい形で安定するまで琉球諸島・小笠原諸島の現状は変更すべきではない」と勧告。

米軍が直接反共攻撃・弾圧

8月19日 立法院本会議場において、ビートラーメッセージが発表される。「人民党は国際共産主義の政党であり、取り締まる方針」である。「笠利の再選挙では中村安太郎に投票してはならない」という内容。

8月24日 笠利選挙区で琉球立法院議員のやり直し選挙。人民党の中村安太郎候補が民主党候補を破り当選。

9月7日 市町村長・議員選挙が行われる。名瀬市長選挙では復帰協の泉芳郎が6613票を獲得し勝利。連教組と医師会などが支持した相手候補は4403票。泉は「市民大衆の知性と社会正義の勝利だ。さらに完全日本復帰への民族感情,ボス政治への反感,公明選挙への自覚が勝利をもたらした」とコメントする。

9月8日 復帰協中央委員会を開く。連教組と医師会から「信託統治反対・完全日本復帰・条約3条撤廃の基本スローガンを取り下げる」ように要求されたが不採択となる。

9月20日 米国民政府は人民党の機関誌発行許可申請を「人民党の目的は日本共産党と
一致している」として却下。この頃から「条約3条撤廃は共産党の扇動によるもの」「人民党の指導する復帰運動では目的は達成できない」とのデマが流される。

10月1日 臨時市議会において泉市長は「日本復帰達成を市政の最重点とする」ことを訴え
る。人民党から「条約第3条撤廃決議案」がだされ採択される。野党は「現在の復帰運動は行過ぎている」とし、反対に回る。

10月14日 コザ警察署が半年間の売春摘発の実態を発表。「検挙売春婦の5割強は大島出身者」とする。

12月2日 泉市長、国民大会で「大島はもぎとられた腕」と絶叫する。

12月18日 『平和』押収事件が発生。名瀬市議の大山光二(人民党)らが日本平和委員会の機関誌「平和」を市役所職員に配布したことが違法とされる。大山は逮捕された上、市議の資格を剥奪される。

1953年

連青の大衆化への模索

1月7日 連教組を主体とする革新同志会が、連青への批判を強める。復帰協を改組するようもとめ署名運動を展開。

1月10日 復帰協名瀬支部の代議員大会、政党色の排除(人民党の排除)を決定。当面の運動方針としては、「条約第三条撤廃」と「鹿児島県大島郡の即時復帰」の二本建てでいくことに決定。

1月17日 全郡青年団幹部と社会教育主事の合同懇談会、連青組織が共産党色を出しすぎて、大衆から遊離したと判断。「奄美連青」を解散し、全郡団長会議を最高の決定機関とする。

53年1月 民政府、「赤い読み物鉄則」を発表。共産系出版物の輸入を禁止する。

2月1日 亀津町で奄美連青団長会議が開催される。大衆化の方向を目指す新活動方針を決定。従来の連青の性格を反省、政府当局にも援助を依頼、公民館と提携した運動を強化するなどの新活動方針を決定。幹部役員も交代するが、その後4月頃まで活動が頓挫する。

アカの巣、奄美を切り離せ

53年3月 アリソン国務次官補のメモ。奄美は戦略的重要度が低いため、軍事目的に必要な権利を確保したうえで日本に変換する。

53年4月 伝統産業の大島紬が不振にあえぐ。製造工場は戦前の2割にとどまる。

53年7月 沖縄に於いて日本共産党琉球地方委員会総会を開催。人民党の瀬長亀次郎書記長と島袋嘉順組織部長がこれを機に入党。

総会は党中央に対し 1.琉球地方委員会を下部組織として承認すること、 2. 琉球地方委員会の地域綱領すなわち新綱領にもとずく行動綱領を決定すること、 3. 中央に琉球ビューローを設置すること、などをもとめる。その他、琉球人民党を党の外カク組織としてではなく合法舞台として確認し,綱領規約の改正をはかることももとめる。

53年8月 奄美地区党大会、即時無条件復帰,完全復興,沖縄小笠原返還の方針を確認。

53年8月8日 ダレス国務長官、朝鮮視察後に吉田首相と会見。奄美大島の日本返還を表明する。以後、復帰運動の主流は右翼勢力に握られ、人民党は取り残される。

53年夏 党中央,中級地方委員会を日本共産党の下部組織として統一指導することを確認する。

53年夏 奄美を旱害が襲う。農村部では早くもソテツ食が始まる。

53年10月 日本共産党の琉球地方委員会としての方針のもとに、アメリカ帝国主義の植民地化に対する闘争を強化。基地労働者を中心とする十万労働者の組織化に重点をおく。琉球地方委員会はほとんど奄美出身の党員によって構成され,沖縄細胞として活動した。

合法面では人民党を始め各種社会団体議会を通じて労働法規の制定,条約三条の撤廃,即時祖国復帰,アメリカ軍の土地取り上げ反対,人権ヨーゴを訴え議会においては決議案などを上程するなど植民地政策をバクロし,これに対する抵抗組織の確立をはかる。

11月10日 名瀬小学校校庭で第24回総決起郡民大会。7千人が参加する。奄美小学校の児童が12時間断食を決行。

11月20日 ニクソン副大統領、「共産主義の脅威があるかぎり、沖縄を保持する」と言明。

11月24日 山田耕筰作曲の復帰祝賀の歌「朝は明けたり」が完成する。

11月29日 衆参両院調査団歓迎の第25回軍民大会。1万人が結集する。

11月 奄美地区委員会、奄美地区の復帰実現後の情勢を分析。(1)琉球地方委員会から奄美地区機関をきり離すこと、(2)中央に急いで琉球ビューローを確立すること,(3)奄美地区機関を県党機関所属にするか琉球ビューロー所属にするかを決めることをもとめる。

11月 党中央、南方地域特別対策委員会を設置。琉球の党組織の指導にあたる。中央の「南方地域特別対策委員会」の国場幸太郎が来島し、琉球地方委員会との正式連絡。

12月4日 党琉球地方委員会が総会。党中央の方針を確認。奄美地区の党機関については琉球地方委員会から離れ,党中央に従って所属機関を決 定することとなる。中央への答申のため奄美地区委員会の崎田実芳代表を派遣することを決定。琉球地方委員会は日本共産党沖縄県委員会と改称。

12月13日 琉球人民党第二回大会。新たな状況に合わせ綱領・規約を改正。

12月17日 沖縄市町村長会、奄美が復帰するなら、奄美人は(奄美に)返してほしいとの要望を決議。

12月25日 奄美大島の返還協定が正式に調印される。「ダレスのクリスマス・プレゼント」と呼ばれる。

12月27日 奄美連合青年団の主催で演説会。7千人を結集する。

12月27日 人民党大島地方委員会第二回党大会、党の解散を決定。


1954年

54年年1月12日 「結成から現在まで琉球における党の歩いて来た道」(手書き20ページ)が発表される。

1月16日 奄美大島復帰協議会が解散、あらたに復興民主化同盟が結成される。

2月 共産党地区委員会が公然活動を開始する。奄美労働評議会が結成される。

2月 復帰に伴う総選挙が実施される。全国の共産党の応援隊や,労農党や,民主的諸党派,労働組合,大衆団体の支持を受けて,選挙戦を闘ったが、民主化同盟の立てた中村衆院議員候補、大山県議候補はいずれも落選。

1956年4月 「資料 戦後十年間における奄美の党の歩んだ道」(日本共産党奄美地区委員会,謄写版6ページ)が発表される。「結成から現在まで琉球における党の歩いて来た道」を一部修正したものとされる。

1958年7月12日 「沖縄・奄美大島における党建設とその活動」(日本共産党南西諸島特別対策委員会,手書き31ページ)が発表される。

59年 奄美のガンジーと呼ばれた泉芳朗が死去(54歳)。

1982年 『日本共産党の六十年』が発表される。公式党史に戦後奄美共産党の活動が記載される。

チャイコフスキーのピアノ小曲がふと聞きたくなり、作品10の夜想曲あたりから聴き始めた。その内、四季まで行った。

むかしソノシートでレフ・オボーリンの舟唄とトロイカは繰り返し聴いたものだ。やはりこの二曲、それに「1月」が頭抜けている。1月はブロンフマンの演奏が良い。アンコールで弾いたらしく、残念ながらこの曲だけだ。

昔から、舟唄と Lover come back to me が似ているのが気になっていた。ほとんどパクリだろうと思っていた。

本日、ヒマに任せて調べてみたら、下記のページがあった。

http://homepage2.nifty.com/jazzsong/essay01.html

より

クラシックのメロディーを下敷きにしたスタンダード

1.Good night sweet heart
  (1931 作詞・作曲レイ・ノーブル、ジミー・キャンベル、レジナルド・コネリイ)
  シューベルトの交響曲およびリストのプレリュード
2.You'd be so nice to come home to
  (1942 作詞・作曲 コール・ポーター)
  サラサーテのチゴイネルワイゼン
3.You are my lucky star
  (1935 作詞:アーサー・フリード、作曲:ネイシオ・ハーブ・ブラウン)
  リストのハンガリア狂詩曲にやや似ていると言われる
4.Lover come back to me
  (1928 作詞:オスカー・ハマスタイン二世、作曲:シグムンド・ロンバーグ)
  チャイコフスキーのJune Barcarolle(舟歌)

5.Lullaby of Broadway 
  (1935作詞:アル・デュビン、作曲:ハリー・ウォーレン)
  ブラームスのハンガリアンダンス及びオッフェンバックのホフマンの舟歌
6.Avalon 
  (1920 作詞・作曲:アル・ジョルスン、B.G.デシルバ、ビンセント・ローズ)
  プッチーニのオペラ トスカ のなかのアリアE Lucevan le stelle星は光りぬ
7.Stranger in Paradise
  (1954 作詞・作曲:ロバート・ライト、ジョージ・フォレスト)
  ボロディンのオペラ イーゴリ公 の中のProvetsian Dancesプロフツ人の踊り
8.The Anniversary song
  (1947 作詞・作曲:アル・ジョルスン、ソール・チャップリン)
  イワノヴィッチ ドナウ川のさざなみ
9.A Lover's concerto
  (1965 作詞・作曲:デニー・ランデル、サンデイ・リンザー)
  バッハのメヌエット
10.I'm always chasing rainbows
  (1918 作詞:ジョゼフ・マッカーシー、作曲:ハリー・キャロル)
  ショパンの幻想即興曲
(情報ソース The Great Song Thesaurus, ジャズ詩大全、他)


ちゃんと作曲家が自分で白状していることが分かった。とりあえず安心して年が越せる。

この曲は1928年の発表で、ブロードウェイの The New Moon というショーのために作曲された。純粋なアメリカ製である。

ついでにyoutubeからこの曲を拾ってみた。

並んでいる上の方から順に聞いていく。

LOVER COME BACK TO ME 訳詞付 / Dinah Shore

日本人の方がアップされたようで、訳詞付きというのが嬉しい。歌はまさに正調のジャズ、実にうまい。ほれぼれとする。きっと知らずに聴いていたのはこの演奏なのだなと思う。

Billie Holiday - Lover, Come Back To Me (Mercury Records 1952)

ダイナ・ショアの演奏へのコメントに「これを聞かなきゃ、この曲を聞いたことにならない」みたいなことが書いてあった。聞いてみたが、「あっ、そう」という感じだ。ただオスカー・ピーターソンのピアノはめちゃいい。

Ben Webster - Lover Come Back To Me (1957)

これはぜひ聞いてください。鳥肌が立ちます。

Lover Come Back To Me (New Moon)

極めつけがこれ。Featuring clips of the song from the duo's 1940 musical 'New Moon'.と書いてある。第二次大戦真っ最中である。ブロードウエイでの上演は1928年だから、この年に映画化されたということであろう。

歌手は

実にゆったりと美しく歌い上げている。

こんなコメントがあった。

I remember sitting in a movie Theatre in London during an Air Raid, could hear the guns blazing outside while they sang this song, Thanks for the memory.

そりゃそうでしょうね。男性がバルカロールのメロディを歌いながらシルエットで登場するところなど、涙ボロボロだったでしょう。

ついでに、それより一回り昔の音源が二つ。

Rudy Vallee - Lover, come back to me (1929)

Annette Hanshaw - Lover Come Back To Me (1929)

ということで、1940年に出来た歌だと思ったら、それより10年以上前の音源がアップされていた。

別のコメントには

"New Moon" was filmed twice, once in 1931 with Grace Moore and again in 1940 with Jeanette MacDonald and Nelson Eddy

とあった。

ギターの伴奏で、ところどころにジャズっぽい味付けはしてあるが、タンゴ歌手が歌ってもおかしくない雰囲気だ。

ものすごいリマスタリング技術で、音はきわめて鮮明、針音や雑音も全く聞こえない。

Donald Byrd - Lover Come Back To Me

ダンモなど無縁の私だが、それでもこの演奏には胸がすく思いがする。

Larry Adler - Lover Come Back To Me - Paris, 31.05.1938

このハーモニカはすごい。38年5月のパリというのが、なにかイメージをかき立てる。

ラリー・アドラーで検索したら下記のような一節があった。

スターとしての名声を手にいれたアドラーだったが、マッカーシーの「アカ狩り」の嵐のなか48 年に共産主義者として政府のブラックリストにのせられ、ヨーロッパに逃れることに。53年のイギリス映画『ジュヌビエーヴ(邦題「おかしなおかしな自動車競争」)』の音楽を担当し、アカデミー賞にノミネートされた時も、クレジットは匿名になっている。


ここまでがおすすめ。以下はヒマがあったら、という程度。

Erroll Garner: Lover Come Back To Me

Lover Come Back To Me - Ella Fitzgerald

スイング感がなんとも言えず心地よい。それだけ。

Anita O'Day - Lover Come Back To Me

すべてが中途半端で、何をしたいのかよくわからない演奏である。

Earl Hines - Lover come back to me

なんともコメントのしようがない。最後まで聞いてしまったが、後味はさほど良いとはいえない。手抜きしたわけではないのだろうが…

Art Tatum plays Lover Come Back to Me (1954)

ひらめきを感じない演奏。

Ray Conniff - Lover, Come Back To Me (with lyrics)

どうしてこんなに幸せいっぱいに歌うんだ。

LOVER COME BACK TO ME ~ Patti Page

これはポップス調、多少ジャズっぽいところもある。

Lover Come Back To Me / Dinah Jams

同じダイナでも、こちらはダイナ・ワシントン。クリフォード・ブラウンがバックを務める。だいぶ塩っ辛い。

Dizzy Gillespie Stan Getz Sonny Stitt 04 Lover come back to me

曲をツマにして即興演奏が延々と続く。所詮ディジーなど縁なき衆生だ。

Lover Come Back To Me - Nat King Cole

ラテン仕立てのお気楽な演奏。

Barbra Streisand Lover, come back to me (1965)

大劇場でのライブだ。そういう曲ではないような気がする。

Brenda Lee - ♂ Lover, Come Back to Me

懐かしの60年代ポップだ。

Dorothy Collins - Lover Come Back To Me (1954)

どうでもいいことだが、客席から立ち上る煙草の煙がものすごい。いまどきの嫌煙家が見れば卒倒するだろう。

原著 Man the Hunted に対する書評が見つかりました。

By Dr. Lee D. Carlson

正直言って、これが書評というものでしょう。

数学的・統計学的視点からみて、近代のもっとも不当な信念のうちの1つは、人間がキラー種族だということである。

残念なことに、この神話は世間的、科学的カルチャーに埋めこまれて、人間のおよび霊長類への完全にゆがめられた見方をもたらした。

これまでの歴史を通して、実際に他人を殺した人間の数はきわめて少ない、そして、人間の間の戦争は実際にはきわめて稀だ。

それでも、我々は何度も何度も聞かされる。「人間が生来的に殺人、暴力の傾向を持つ」と。

よい知らせは、最近、そのような視点が一部の人類学者と社会心理学者によって疑問符を投げかけられているとういうことだ。その内の2人がこの本の著者たちである。

彼らは化石上の証拠を提示して、人間と他の霊長類が本来、暴力的でないということを示した。それだけでなく、人間の本性についての建設的議論も提示した。すなわち、人間の行動パターンは襲撃者 (Predator) に身を晒し続けたことの結果もたらされたものだということである。

この本はファシネイティングな読み物である。"Man the Hunter" パラダイムを受け入れてきた読者は、その信仰体系への強烈な挑戦を見いだすだろう。

この本を読み終えたとき、リフレッシュされる思いである。それはこの本がまさに"Man the Hunter" パラダイムに全力で立ち向かっているからである。

この本で、著者らは一つの質問を投げかけた。「人類の進化は狩りの能力の向上によって形成されたのか、それとも食べられることを避けるために発達した生き残り術によって形成されたのか」ということだ。

著者らは、人間と霊長類への襲撃を示す化石上の記録、現代における知見を詳述することに、本の大部分を費やしている。

著者らは学問的に誠実である。定量的データがまだまばらでしかないことをはっきり認めている。そして、その代わりに現代における霊長類への襲撃例を積み上げて、大昔のヒト族への襲撃頻度を類推しようとしている。

捕食者と被食者との遭遇における敗者の化石は利用できる。しかしそれでは決定的な数字を引き出すには不十分だ。襲撃の頻度、襲撃者を裏をかく戦略が成功したのか否かに関する確かな情報が不足している。

著者らが分析の例として指摘するのは、チンパンジーの研究である。これまでのすべての観察をまとめると、チンパンジーによる殺害の発生は、8.5-17年ごとに1回という僅かなものだ。

「チンパンジーが天成の殺人者である」という断定は、その程度のものを根拠としているに過ぎない。

著者らはまた、以下の事実も指摘する。ただし、残念ながらリファレンスは与えられていない。

「異種間の攻撃についての神経生理学の現在の研究は、これらの攻撃形態が人間同士で巻き起こされる暴力とは非常に異なっていることを示している」

その重要性からして、またそれが著者らの主張を力づける可能性からして、著者らはこの点に関する研究報告を引用すれば非常に有用であっただろう。

この本の "The Other 50%" という章はもっとも示唆に富んだセクションだ。著者らは「女性」対「男性」という性差を無視しがちな現代科学の枠組みにとらわれず、“雌”の霊長類グループにおける行動を提示する。

なぜ、人類学的な研究において女性の行動は常に無視されるだろうか?

歴史の記録は明らかにする。女性はつねに男性より非暴力的だった。そして大部分の男性(事実、圧倒的な大多数)は暴力的でなかった。

この章はまた、一つの意見を持ち出す。それは自然人類学者 Adrienne Zihlman の研究である。Zihlman は早期のヒト科の社会において、女性が若者の社会参加のほとんどの場面を統括していたこと、彼女らが群れの知識の集約者であったこと、などを示している。

この研究で最も面白いことは、女性が性的なパートナーを選ぶにあたり、より攻撃的でない男性を好むことである。それはしばしば現代に於いて断定される事実とはまったく逆である。

他にこの本の面白い議論または事実は、以下を含む:

1.頭蓋容量の巨大な変化

最初の人属(H. habilis) からホモ・エレクトスまでの間に300ML 増加している。著者らは10万年ごとに20ML づつ脳組織が増加しているというリサーチを引用している。

2.踊り子としての人間(Man the Dancer)仮説

著者一流の皮肉である。それは "Man the Hunter" ドグマに対する面白い反例として用いられている。

例えば向かい合ってのセックス、協力、言葉と歌、二足歩行などの行動は、「踊りたい」という本能的傾向によって説明できる。狩りの願望などを持ち出す必要はない。そのことを著者らはユーモラスに強調してみせるのである。

このような“陽気な方法”で、彼らは "Man the Hunter" ドグマの不合理さを暴露していくのである。

3.2足歩行についての6つの異なる説明と詳細な議論:

carrying, vigilance, heat-dissipation, energy-efficiency, display, and foraging

著者は慎重である。これらの説明のいずれも二足歩行の理由の説明にはなっていないと指摘する。むしろ我々の先祖は二足歩行への『前適応だった』のではないか。

その上で、たとえば食べ物や道具を運ぶ、食べる間まっすぐに座るなどいくつかの要素が二足歩行を有利にしたのではないかと述べている。

4.知性の優位性は、捕食者に対処する上で発揮された

彼らの主張によれば、ヒト属の最も早い段階では、「襲撃場面」に直面して捕食者にどう対応するかというとき、もっとも知能が要求された。

そこで疑問だが、なぜ、大多数の科学者と「一般大衆」は、人間の先祖が血に飢えた殺人者であったという見方を認めるのだろうか。

著者らは3つの理由を上げる。現代の人間についての西洋流の`perverted' な見方、キリスト教的な「原罪」の観念、そして`sloppy science' である。

彼らはひとつの章をまるごと、これらの理由の仕上げに捧げている。彼らの議論は説得力がある。

彼らの考えが現在の hunter-killer paradigm に取り代わるのかどうか、それは時間が決めるだろう。

望むらくは、これらの考え、あるいはより良い考えが公式化されることを。そのためには、より多くの証拠が利用できるようになるまでの時が必要だ。

ドマニシ原人 獲物(食われるもの)としてのヒト

でこう書いた。

私としては一番衝撃的なことは、ドマニシ原人の「食われるものとしてのヒト」という性格だ。人は雑食で植物も採れば動物もとる。しかし食う側であって食われる側ではない。

もし食われる側から食う側に立場を変えたとすれば、それは人にあらゆる面での発想の逆転をもたらすであろう。

もうひとつは、彼らが肉食獣の捕食の対象となるほどに濃密に存在していたということである。つまり彼らは肉食獣に怯えつつも、それなりの繁栄を維持していたことになる。

「食われるものとしてのヒト」でグーグル検索をかけてみたら、「人は食べられて進化した」という本が出ていて、結構なベストセラーのようだ。

本そのものは読めないが、目次が紹介されている。感想文もいくつか読める。

目次を見るかぎり割と読み物的な文章のようだが、「訳文が硬くて読みづらい」という感想がある。相当の悪訳なのであろう。

私の経験で言うと、こういうブラックユーモア的なわさびを利かせた文章というのは、外国人には非常に読みづらいものだ。相当まで意訳してしまうしかない。http://livedoor.blogimg.jp/shosuzki/imgs/1/3/1312cb4f.jpg

原著は「Man the Hunted」、副題は「Primates, Predators, and Human Evolution」で、私の狙い通りの題名だが、「人は食べられて進化した」という邦題はだいぶ違う。

元々、人間は狩人として進化を遂げたのだという「Man the Hunter」というセオリーがあって、そのセオリーに背負い投げを食わすのが目的の文章のようだ。

「人は食べられて進化した」というのはつけたしだ。目次を見てもそのように見える。読者の感想が「難しい」というのも、ひとつはその辺りに理由があるのかもしれない。

人が元々食べられる存在だったということは、人間の心性や社会的性格に大きく影響しているだろう。そのことはよく分かる。

しかしそれがヒトの「進化」に影響しているかどうかは別の話だろう。インパラやガゼルはずっと昔からライオンやヒョウに食われ続けてきた。だからライオンやヒョウ以上に進化してきただろうか。

読みもしないで偉そうなことは言えないが(と言いつつ言うのだが)、翻訳者の最大のヘマであろう。

草食動物は、如何に高度に社会組織を発達させようが、生えている草を食べるだけの存在だ。自然の恵みに対して受動的でしかありえない。

様々な知恵や技術は、狩りをすることによってしか、すなわち自然に対して能動的になることによってしか獲得できないのではないか。

しかし、では肉食動物はより進化した存在なのかといわれると、さすがに躊躇せざるを得ない。ずるい言い方になるが、食われる側でありつつ食う側に回ることで、その相乗効果によって進化を遂げたのだろう。

そのきっかけは、草食だけで食っていけないような厳しい環境の到来だったのだろう。草木果実を食べ、食われることによる消耗を、それを上回る繁殖で補っていた人間たちが絶滅に瀕した時に、その一部がその環境に反逆したのである。

そして「禁断のリンゴ」は他者の肉であった。まさに「原罪」である。


1950年

1月 奄美共産党の機関誌「ジンミンセンセン」、食糧問題特集号を発行。

1.12 全官公労組の呼びかけで、青年団・連教組・婦人生活擁護会など14団体が参加する「食糧問題対策協議会」が結成される。軍政官に価格の引き下げを要望する。

1.24 軍政官バーロー大佐、食糧価格改正に関する指令を発表。放出食糧の値下げ、米3割 大豆5割値下げを実施する。

復帰闘争の表面化と共産党大弾圧

50年2月 吉田首相、奄美は日本に帰属すべきであり、この問題に対して意思表示の自由があると答弁。

3月24日 名瀬市連合青年団が臨時集会を開催。宮崎市の大島町青年団の呼びかけに応じ初めて復帰運動を大衆の前に提起。実質的には日本復帰をめざす総決起大会となる。

3月27日 占領軍、「ジンミンセンセン」誌の食糧問題特集号の記事を取り上げ「奄美共産党事件」のでっち上げ。米軍および警察が小宿部落に乗り込み、徳田豊巳ほか数名の家宅を捜索し、同党の機関誌「人民戦線」を押収。

3月27日 奄美共産党書記長の橋口護と党幹部の徳田豊巳は、3カ月ほど山に潜んだ後、ひそかに密航。本土で復帰運動を続けた。

3月28日 各社会団体内の指導的地位にある共産党員17名が、軍政府転覆の「暴動を計画した」との嫌疑で逮捕投獄される。このあと一時、人心は復帰運動を表面化することを避けるようになる。(こんな小さな島で指導部が17人も逮捕されたら終わりでしょうね)

5.22 ジンミンセンセン事件の判決。大山連青団長は6ヶ月の重労働・罰金5千円。それ以外の崎田実芳ら青年団幹部は証拠不十分で釈放。(これでいっそ吹っ切れたかもしれません)

社会民主党結成と復帰闘争への一本化

50年7月 奄美群島政府の発足。奄美共産党はこれを機に大衆合法政党「社会民主党」の結成を狙い、自由社に接近。

8月11日 自由社と名瀬連合青年団の講演会。事実上、社会民主党の旗揚げ集会となる。社会民主党は市連青と自由社を基盤とし、協和党と並ぶ2大政党のひとつとなる。

8月17日 社会民主党が発足。奄美共産党は労働組合,農民組合,小作人組合,借地借家人組合,青年団,婦人生活擁護会などを組織する。

8月23日 奄美大島社会民主党結党大会「奄美の日本復帰を党是として確立」する。初代委員長には元警察署長だった豊蔵朝秀が就任。書記長に自由社の泉芳朗。

9月30日 大山連青団長が刑期を終え出獄。

50年秋 四地区(奄美,沖縄,宮古,八重山)群島政府の設立に伴い、知事ならびに群議の公選が実施される。社会民主党は群議一,市議四名を勝ち取る。知事選でも日本復帰を公約に掲げた中江前知事が、笠井前副知事を破り勝利。

11月25日 臨時北部南西諸島政庁が奄美群島政府に改称。本土企業の支店や営業所は接収されて公営企業となり、大島中央銀行も誕生する。

12月10日 社会民主党が第3回党大会を開催。委員長に泉芳朗、書記長に佐野喜島(元全官公庁職員組合委員長)らを選出する。

50年12月 社会民主党、奄美の祖国復帰をもとめ東京に陳情団を派遣する計画を立てる。泉ら各団体代表30人の渡航許可を申請したが、那覇の米民政府により却下される。

 

1951年

日本復帰協議会と島ぐるみ運動

2月13日 社会民主党の呼びかけで「帰属問題対策協議会」を開催する。32団体70余人が参集する。請願運動を柱とし、「信託統治反対」「条約三条撤廃、即時完全復帰」の署名を開始する。実践組織として復帰協議会の結成が提案される。

2月14日 帰属問題対策協議会の議論を経て「日本復帰協議会」が結成される。議長に泉芳郎が就任。趣意書の発表と署名運動の展開を決定。

泉の説得にあたったのは共産党の中村だった。中村は「今の奄美にレーニンや毛沢東はいらない。民族解放のためにはガンジーが必要だ」と口説いたという。


2.17 奄美連合青年団が拡大団長会議を開催。復帰協議会に結集し復帰運動を推進するとの決議を採択する。

2.19 全郡の市町村職員組合連合の結成大会が開かれ、復帰運動推進を決定。

2月19日 復帰署名の運動が開始される。署名は最終的に14歳以上の住民の99.8%(13万9千人)に達する。集落単位または自治体単位ハンガーストライキを行い、小中学生も血判状を提出する。

3.26 群島議会、復帰決議案を満場一致で採択 すべての市町村で署名運動が進む。

4月 中江実孝奄美群島政府知事が渡米。ハワイ・カリフォルニア・オハイオ・ワシントンなど各地で復帰を訴える。

4月 復帰運動に手を焼いた米軍、新たに琉球臨時中央政府を設立し、群島政府は廃止する方針を決定。

5月29日 名瀬市議会の補欠選挙が施行される。社民党が協和党関係者を抑えて3名が当選。

6月 このころ名瀬市の人口は3万を超え終戦時より倍増する。失業者数は5千人に達する。食料は月に9千石不足。

7.13 復帰協は、第1回市民総決起大会を開催。名瀬小学校校庭に約2万人を集める。集会は「信託統治反対」「日本復帰貫徹」を決議。

7.13 軍政府、,名瀬市民総決起大会の中止を命令。バーロー民政官が乗り込み解散を要求。プラカードの撤去と小学生を退場させることで双方が折りあう。

7.19 同じく名瀬小学校校庭で第1回日本復帰郡民総決起大会が開かれ、1万数千人が参加する。奄連青が提出した動議、①首相へ抗議文を提出、②信託統治に絶対反対、③復帰陳情団の派遣、④ハンストの実施などを決議。

「日本復帰の歌」発表。大島税務署職員の久野氏が作詞、古仁屋中教員の静氏が作曲したもの。
発表各地から70余通の激電あり。中江群島知事のほか、鹿児島の自由党代議士からも激伝が寄せられる。


7.22 笠利村(大島東北端の漁港)で村民大会。3千余名が結集。信託統治絶対反対、日本復帰の実現を叫ぶ。屋仁校区では150戸全部で1万5千円を集め、活動資金として泉復帰協議長に寄付。

7.24 民政府は知事・議会議長・復帰協議長ら3名の請願旅行の申請を却下。市町村代表・各団体代表ら合計30名の渡航申請も却下。ただし民間人が個人として日本で意見を発表することは差し支えないとする。

7月26日 奄美大島日本復帰協議会、昭和天皇に長文の電報を打ち、祖国復帰を訴える。

奄美大島二十余万の人民は総て信託統治絶対反対なり。陛下より吉田総理に対し、なにとぞ旧日本領土、特に陛下の御足の跡いまだ住民の記憶に生々しい我が奄美大島の日本復帰を、講和会議参加国に強く強く主張するよう、せつにお勧めあらんことをお願いする。


復帰運動が最大の盛り上がり

7月下旬 共産党を排除する思想攻撃が内外で強まる。政庁文教部主催で「留学生を囲む座談会」が開かれ、「学生の思想問題は一部の学生の問題である」との留学生の発言。

7.31 インドが講和条約草案に対する覚書を発表。信託統治は賢明か疑問であると述べる。インドネシアは、「日本から取り上げる総ての地域で関係住民の意思確認の投票を行うべき」との要求を正式に提出。

7.31 民政府、「復帰運動は政治運動ではない」と認める指令を発する。

8月1日 復帰協の泉議長が名瀬市の高千穂神社で120時間の断食に入る。これに呼応して三方・古仁屋・住用・西方・宇検・早町など各町村が相次いで断食を決行。学童も断食に参加する。

8月1日 中江知事、組合との折衝において「職務に差し支えなければ職員の断食参加は
構わない」と発言。

8月4日 断食闘争1万人集会を決行。参加者は集会後「日本復帰の歌」を歌いながら泉に合流して高千穂の森でかがり火をたいて「民族分離反対」を祈願し断食に入る。午後10時から5日夕刻にかけて、映画館・料理屋・飲食店・商店などが一斉休業。

8月6日 日本復帰陳情員を全市町村から募り、密航陳情団が。極秘裏に編成される。市町村代表11人が高千穂神社境内で団を編成。2、3人ずつの班行動をとり、東京の指定場所で落ち合うこととする。

団員は小舟を乗り継ぎ枕崎に到着。その後列車を乗り継いで東京に達した。警察に逮捕されるものもいたが、復帰協の奔走で仮釈放され東京まで到達した。

8月16日 陳情団のひとりとして参加した松江謙志、神奈川県委員会を通して党本部に連絡。「奄美共産党の組織を正式に日本共産党琉球地方委員会の奄美地区委員会とする」ようもとめる。

方針は承認されたが、中央にはまだ正式機関としての指導連絡の責任者と機構はなく、奄美出身の党員を通じての連絡が続けられる。(このあとは、奄美共産党ではなく奄美地区委員会の名称を用いる)

講和条約成立にともなう戦略の変更

8月 奄美大島婦人連合会が結成される。婦人生活擁護会は参加を拒否される。

8月 東京の金井正夫氏から復帰協に来信。2,3年内に復帰実現もありうる。信託統治を問題にしない復帰運動をすすめるべきと「勧告」。
 

この後、金井正夫はしばしば登場する。奄美出身の元国会議員で、終戦後公職追放処分を受ける。1951年4月に奄美連合の復帰対策委員長に就任し、おそらく自由党筋のフィクサーとして活動している。親米反共路線に復帰運動を引き込む上で大きな役割を果たしたようだ。

9月2日 講和条約締結を前に吉田・アチソン・ダレス会談。ダレスは断食行動に対し、「ハンガーストライキは心外であり自制を望む」と語る。

9月9日 サンフランシスコ講和条約が締結される。沖縄・奄美・小笠原諸島は「本土」の独立と引き換えに米軍の恒久支配地域に入る。郡民は戸毎に弔旗を掲揚し抗議する。

9月9日 吉田首相、「奄美大島・琉球・小笠原は国際連合の統治下に置かれるが、その主権は日本国民の名において諒承する」と発言。

9月9日 龍郷連青第6回定期総会、復帰運動の方法論をめぐって8時間に及ぶ討議。「単独講和を受容し、その枠内で復帰運動を進める」とする主張が大勢を占め、「全面講和」をもとめる現連青幹部に対する不信任を決議する。

9.11 奄美連青、龍神決議を受け中央執行委員会を開催。信託統治反対、内地移住・進学・本土への送金の自由、食糧問題・税金問題・失業問題などを訴えていくことを決議。連青の三原則の内、全面講和はその意義について下部への浸透が不十分であるとして、降ろすことを決定。
 

復帰協・連青は復帰運動三原則を掲げてきた。①信託統治反対、②講和条約3条撤廃・全面講和、③完全日本復帰
この内②については条約締結により、事実上きわめて実現困難となった。

9.13 復帰協の臨時代議員会が開かれる。条約調印後の運動の進め方について討議。三原則路線に対して異議が出るも運動継続では一致。連教組は「信託統治絶対反対」のスローガンを降ろすことを要求。

その後の動きを見れば奄美も沖縄も国連の信託統治とはならなかったわけだから、信託統治絶対反対のスローガンに拘泥する必要はなかったことになる。むしろ奄美をふくむ琉球の恒久基地化に反対するスローガンを押し出すべきだったかもしれない。
ただ、当時から奄美人の本音が「抜け駆け」を狙っていたとすれば、このスローガンは打ち出しにくいだろう。奄美は沖縄民政府に隷属しており、アメリカへの反感は沖縄へのルサンチマンと重なっていた可能性がある。

9.22 復帰協、全郡町村支部長会議が開かれる。社会民主党・青年団は「条約3条撤廃による完全日本復帰」を堅持。連合教職員組合の現実論と対立するが押し切る。泉議長と盛副議長から辞任の申し出あり。

9月 奄美共産党、講和条約締結に伴い、奄美社会民主党を発展的に解消。沖縄人民党と合同する方針を決定。同時に沖縄にも共産党を建設する方向を確認。

10.13 社民党第3回大会が開かれる。「復帰運動三原則」の維持を再確認。委員長に佐野喜島、書記長に大山光二を選出。泉芳朗は復帰協議会に専念するため辞任。

10.15 奄美連青が緊急団長会議を招集。6か市町村から13名が結集。全面講和の要求を降ろし「信託統治反対」「完全日本復帰」の2本を当面のスローガンとする。大山光二団長は社民党の書記長に就任したため辞任し、崎田実芳が団長代行となる。

11月 「50年問題」で「国際派」に属した久留義蔵・橋口護・徳田豊巳らが自己批判し復党。党中央とのパイプが復活する。

琉球民政府の成立と新たな布陣

12月 琉球統一政府が発足。奄美,沖縄,宮古,八重山の四地区群島が管轄下に入る。

12月 共産党奄美地区委員会、日本共産党琉球地方委員会の強化のために,沖縄における細胞の確立と組織の拡大強化につとめる。沖縄に転住した党員が中心となる。

本土との流通を閉ざされ経済が疲弊した奄美群島の住民は、沖縄本島に職を求め移住した。6万余人に及ぶ奄美出身者は、「在沖奄美人」と称され差別された。

12月29日 沖縄人民党第5回大会が開催される。4地区を含む琉球に於ける唯一の階級的大衆的統一党として再発足する。琉球人民党と改称する。綱領の冒頭に「ポツダム宣言の厳正実施」をかかげ、アメリカ軍撤退、即時日本復帰の基本姿勢を確立。瀬長亀次郎を委員長に選出する。

12月29日 奄美社会民主党は人民党に合流。奄美には琉球人民党大島地方委員会が発足する。崎田が奄美代表として那覇に常駐することとなる。



奄美共産党 年表 その4


1952年

奄美共産党は最も困難な、だが最もまっとうな路を選択した。奄美が琉球から切り離されて日 本に復帰する可能性も残されてはいたが、それは僥倖である。国家間の条約で琉球政府として「独立」した以上は、かなりの長期戦を覚悟した上で、琉球の人民 が一体となって復帰を目指す以外にないのである。
「果報は寝て待て」とばかりに、お上のお慈悲をお待ちしていても、血路を切り開くことはできない。ましてや民衆の解放につながるような復帰の実現は絶対期待できないのである。

1月 月間輸出総額840万円(大島紬240万円 牛90万円 黒糖512万円)

1月19日 奄美連青が中央委員会を開催。崎田団長代行が辞任し、代行の代行に実隆三が就任。

1月30日 社民党第6回大会、社民党を発展的に解消し、沖縄人民党と組織的合流。琉球人民党大島地方委員会として再出発。中村安太郎の入党を承認し、来たる立法院議員選挙の公認候補とすることを決定。

1月30日 名瀬市青年団員山本寿子(18歳)はパンフレット「全面講和」を友人に貸したことを理由に非公開の軍事裁判で懲役2ヶ月、罰金2500円を言い渡される。

52年1月 日本共産党琉球地方委員会、基本党の確立を主張。沖縄人民党の瀬長亀次郎書記長らはこれを受け入れなかったため、党は従来通り奄美出身者の党員を中心にグループ活動を強化した。

2月 復帰協、各種団体代表者会議(新方針を協議。①持久戦に備える組織の体制固め,②年間50数万円の必要経費の捻出,③緊急に第2次署名を展開する、などを決定。

琉球民政府との闘いの開始

3月10日 琉球立法院議員の選挙。奄美の笠利投票区では人民党から中村安太郎が立候補。不正投票のために80票の差で次点になる。(7月に全村大会で3千人を集めた村です)

3月10日 引続き行われた地方選挙で名瀬市から3人、ほか三方村(今は三方という地名そのものがなくなっています。名瀬の東隣の大熊、徳洲会病院あたりが三方村と呼ばれていたようです)、古仁屋町で人民党公認候補が勝利する。

3月10日 人民党、選挙無効の異議を郡選管に申し立て。

3月29日 奄美からの出稼ぎ者を対象とし奄美共産党の沖縄細胞が成立。第一回会議で細胞長に林義巳を選ぶ。

4月1日 米軍、琉球中央政府及び奄美地方庁を設立。中央政府の主席は任命制となる。奄美群島政府は閉鎖される。

4月28日 講和条約が発効。奄美沖縄小笠原は正式に日本から分離される。復帰協の泉会長はメッセージを発表。日本復帰のため「条約第3条の撤廃を求める」と述べる。この日を「郡民屈辱の日」と宣言。

4月28日 名瀬市議会、講和条約第3条の撤廃を柱とする復帰決議案を採択する。

4月29日 琉球立法院の本会議が開かれる。奄美を含めた琉球の日本復帰に関する決議案を27対2で可決する。具体的な道筋と関連して、第3条の問題が白熱化する。瀬長亀次郎議員の「条約第3条撤廃を盛り込むように」との動議は否決される。

5月1日 奄美で初のメーデーが決行される。「条約3条撤廃」「即時日本復帰」「労働保護法の制定」「人権擁護」などを決議。数日後、青年団代表が米軍情報官の取り調べを受ける。

5月3日 古仁屋で祖国独立祝賀並びに日本復帰促進郡民大会が開かれる。5千人が参加し提灯行列を行う。

5月21日 笠利の立法院選挙。不正投票があったとして無効判決が出される。人民党は「今後もなお闘わん」との声明を発表。

三条撤廃・復帰路線の再確立

6月5日 沖縄の日本道路会社で労働争議が発生。奄美からの出稼ぎ労働者が中心となって立ち上がる。奄美共産党メンバーが指導。立法院は瀬長議員発議の「日本道路社労働者の待遇改善について」を決議。

6月18日 復帰協代議員会、3条撤廃署名実施の具体化。笠利村の青年団では幹部会が開かれ、奄美連青からの脱退を決定。

6月20日 大阪府復帰対策委員会本部、総本部に対し「復帰運動を一部の政治勢力が利用することに反対する」との進言書を提出。

6月25日 日本道路のスト、完全勝利をかちとる。清水建設は解雇を撤回。スト期間中の賃金は支払うと約束。このストは沖縄を始め全琉球の労働者を目覚めさせ,団結させる歴史的意義。このあと松村組,清水組砕石工場,K.O.Tでの闘争が相次ぐ。

6月28日 「奄美大島の完全日本復帰をめざす郡民総決起大会」が開かれ1万人を動員。講和条約第三条の撤廃、日本の諸法規の全面的な実施を掲げる。さらに琉球立法院に「三条撤廃の請願決議を即時議決せよ」との要求を突きつける。

6月28日 民政府のミルス法務官、郡民大会で決議された「軍事占領法規の廃止・日本諸法規の全面実施」と「売国 吉田・比嘉政府打倒」が布告32号違反容疑であると判断。泉議長に対し出頭を命ずる。

7月 食糧事情深刻さを増す

8月15日 統合参謀本部はフォスター国防副長官に対し、「極東における政治的・軍事的状況が、アメリカにとって好ましい形で安定するまで琉球諸島・小笠原諸島の現状は変更すべきではない」と勧告。

米軍が直接反共攻撃・弾圧

8月19日 立法院本会議場において、ビートラーメッセージが発表される。「人民党は国際共産主義の政党であり、取り締まる方針」である。「笠利の再選挙では中村安太郎に投票してはならない」という内容。

8月24日 笠利選挙区で琉球立法院議員のやり直し選挙。人民党の中村安太郎候補が民主党候補を破り当選。

9月7日 市町村長・議員選挙が行われる。名瀬市長選挙では復帰協の泉芳郎が6613票を獲得し勝利。連教組と医師会などが支持した相手候補は 4403票。泉は「市民大衆の知性と社会正義の勝利だ。さらに完全日本復帰への民族感情,ボス政治への反感,公明選挙への自覚が勝利をもたらした」とコメ ントする。

9月8日 復帰協中央委員会を開く。連教組と医師会から「信託統治反対・完全日本復帰・条約3条撤廃の基本スローガンを取り下げる」ように要求されたが不採択となる。

9月20日 米国民政府は人民党の機関誌発行許可申請を「人民党の目的は日本共産党と
一致している」として却下。この頃から「条約3条撤廃は共産党の扇動によるもの」「人民党の指導する復帰運動では目的は達成できない」とのデマが流される。

10月1日 臨時市議会において泉市長は「日本復帰達成を市政の最重点とする」ことを訴え
る。人民党から「条約第3条撤廃決議案」がだされ採択される。野党は「現在の復帰運動は行過ぎている」とし、反対に回る。

10月14日 コザ警察署が半年間の売春摘発の実態を発表。「検挙売春婦の5割強は大島出身者」とする。

12月2日 泉市長、国民大会で「大島はもぎとられた腕」と絶叫する。

12月18日 『平和』押収事件が発生。名瀬市議の大山光二(人民党)らが日本平和委員会の機関誌「平和」を市役所職員に配布したことが違法とされる。大山は逮捕された上、市議の資格を剥奪される。

1953年

連青の大衆化への模索

1月7日 連教組を主体とする革新同志会が、連青への批判を強める。復帰協を改組するようもとめ署名運動を展開。

1月10日 復帰協名瀬支部の代議員大会、政党色の排除(人民党の排除)を決定。当面の運動方針としては、「条約第三条撤廃」と「鹿児島県大島郡の即時復帰」の二本建てでいくことに決定。

1月17日 全郡青年団幹部と社会教育主事の合同懇談会、連青組織が共産党色を出しすぎて、大衆から遊離したと判断。「奄美連青」を解散し、全郡団長会議を最高の決定機関とする。

53年1月 民政府、「赤い読み物鉄則」を発表。共産系出版物の輸入を禁止する。

2月1日 亀津町で奄美連青団長会議が開催される。大衆化の方向を目指す新活動方針を決定。従来の連青の性格を反省、政府当局にも援助を依頼、公民館と提携した運動を強化するなどの新活動方針を決定。幹部役員も交代するが、その後4月頃まで活動が頓挫する。

アカの巣、奄美を切り離せ

53年3月 アリソン国務次官補のメモ。奄美は戦略的重要度が低いため、軍事目的に必要な権利を確保したうえで日本に変換する。

53年4月 伝統産業の大島紬が不振にあえぐ。製造工場は戦前の2割にとどまる。

53年7月 沖縄に於いて日本共産党琉球地方委員会総会を開催。人民党の瀬長亀次郎書記長と島袋嘉順組織部長がこれを機に入党。

総会は党中央に対し 1.琉球地方委員会を下部組織として承認すること、 2. 琉球地方委員会の地域綱領すなわち新綱領にもとずく行動綱領を決定すること、 3. 中央に琉球ビューローを設置すること、などをもとめる。その他、琉球人民党を党の外カク組織としてではなく合法舞台として確認し,綱領規約の改正をはかることももとめる。

53年8月 奄美地区党大会、即時無条件復帰,完全復興,沖縄小笠原返還の方針を確認。

53年8月8日 ダレス国務長官、朝鮮視察後に吉田首相と会見。奄美大島の日本返還を表明する。以後、復帰運動の主流は右翼勢力に握られ、人民党は取り残される。

53年夏 党中央,中級地方委員会を日本共産党の下部組織として統一指導することを確認する。

53年夏 奄美を旱害が襲う。農村部では早くもソテツ食が始まる。

53年10月 日本共産党の琉球地方委員会としての方針のもとに、アメリカ帝国主義の植民地化に対する闘争を強化。基地労働者を中心とする十万労働者の組織化に重点をおく。琉球地方委員会はほとんど奄美出身の党員によって構成され,沖縄細胞として活動した。

合法面では人民党を始め各種社会団体議会を通じて労働法規の制定,条約三条の撤廃,即時祖国復帰,アメリカ軍の土地取り上げ反対,人権ヨーゴを訴え議会においては決議案などを上程するなど植民地政策をバクロし,これに対する抵抗組織の確立をはかる。

11月10日 名瀬小学校校庭で第24回総決起郡民大会。7千人が参加する。奄美小学校の児童が12時間断食を決行。

11月20日 ニクソン副大統領、「共産主義の脅威があるかぎり、沖縄を保持する」と言明。

11月24日 山田耕筰作曲の復帰祝賀の歌「朝は明けたり」が完成する。

11月29日 衆参両院調査団歓迎の第25回軍民大会。1万人が結集する。

11月 奄美地区委員会、奄美地区の復帰実現後の情勢を分析。(1)琉球地方委員会から奄美地区機関をきり離すこと、(2)中央に急いで琉球ビューローを確立すること,(3)奄美地区機関を県党機関所属にするか琉球ビューロー所属にするかを決めることをもとめる。

11月 党中央、南方地域特別対策委員会を設置。琉球の党組織の指導にあたる。中央の「南方地域特別対策委員会」の国場幸太郎が来島し、琉球地方委員会との正式連絡。

12月4日 党琉球地方委員会が総会。党中央の方針を確認。奄美地区の党機関については琉球地方委員会から離れ,党中央に従って所属機関を決 定することとなる。中央への答申のため奄美地区委員会の崎田実芳代表を派遣することを決定。琉球地方委員会は日本共産党沖縄県委員会と改称。

12月13日 琉球人民党第二回大会。新たな状況に合わせ綱領・規約を改正。

12月17日 沖縄市町村長会、奄美が復帰するなら、奄美人は(奄美に)返してほしいとの要望を決議。

12月25日 奄美大島の返還協定が正式に調印される。「ダレスのクリスマス・プレゼント」と呼ばれる。

12月27日 奄美連合青年団の主催で演説会。7千人を結集する。

12月27日 人民党大島地方委員会第二回党大会、党の解散を決定。

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1954年

54年年1月12日 「結成から現在まで琉球における党の歩いて来た道」(手書き20ページ)が発表される。

1月16日 奄美大島復帰協議会が解散、あらたに復興民主化同盟が結成される。

2月 共産党地区委員会が公然活動を開始する。奄美労働評議会が結成される。

2月 復帰に伴う総選挙が実施される。全国の共産党の応援隊や,労農党や,民主的諸党派,労働組合,大衆団体の支持を受けて,選挙戦を闘ったが、民主化同盟の立てた中村衆院議員候補、大山県議候補はいずれも落選。

1956年4月 「資料 戦後十年間における奄美の党の歩んだ道」(日本共産党奄美地区委員会,謄写版6ページ)が発表される。「結成から現在まで琉球における党の歩いて来た道」を一部修正したものとされる。

1958年7月12日 「沖縄・奄美大島における党建設とその活動」(日本共産党南西諸島特別対策委員会,手書き31ページ)が発表される。

59年 奄美のガンジーと呼ばれた泉芳朗が死去(54歳)。

1982年 『日本共産党の六十年』が発表される。公式党史に戦後奄美共産党の活動が記載される。

1948年

2月 非合法下に奄美青年共産主義青年同盟が結成される。東京から久留義蔵夫人の弟小西文雄がオルグとして派遣され、指導に当たる。

4月 日本共産党第6回大会が行動綱領を決定。第27項で「朝鮮および南方諸国の完全な独立」をうたう。

青年運動の興隆と弾圧強化

5月18日 崎田実芳らにより新四谷青年団が結成される。新青年団活動の牽引車となる。(「新」は沈滞した従来の青年団活動に代わる新たな性格の青年団という意味で、「新四谷」という地名ではない。四谷は名瀬の南郊の町で、病院や学校の集中する住宅街)

5.22 共産青年同盟の大衆化の方針に基づき奄美青年同盟への改組が進められる。結成準備委員会の主催で「青年弁論大会」が開かれる。

6月19日 教科書密航団が出発。新教育関係図書購入のため金十丸で本土へ向かう。

7月11日 奄美青年共産主義青年同盟を発展的に解消し、合法的な政治結社「奄美青年同盟」を結成。奄美共産党の青年党員を中心とし、大島中学の社研メンバーが参加。委員長に森田義治。

8月15日 奄美青年同盟の結成記念講演会が開かれる。聴衆1000余名。軍政府は講演会途中で解散を命令。

「独立」から「復帰」路線への転換

8月26日 日本共産党の中央委員会総会、これまでの「独立」路線を変更。沖縄・奄美大島の日本復帰を決議。これを受けて奄美共産党も本土復帰を打ち出す。

8月 「赤旗事件」が発生。中村安太郎らは占領政策に反する発言を行ったとして逮捕・投獄される。

9月 奄美官公庁職員組合が結成される。復帰運動の主要な柱の一つとなる。

10月末 奄美青年同盟の認可申請が却下される。奄美共産党は青年同盟の建設を断念し、既存の合法組織である「奄美大島連合青年団」の再健強化の方針を採択する。

11.28 中村安太郎に対し重労働1年、『奄美タイムス』主筆および北部南西諸島法制改訂委員会副委員長を解任する判決がくだされる。

1949年

49年 大量の復員者を受けて島内の生活苦が深刻となる。摂取量1800カロリーとして1年で9万トンの食料が必要なのに対し、1万トン以上が不足している状況。

49年 軍政府、窮乏した奄美の失業者を沖縄の基地建設に投入するため、沖縄への渡航許可制を廃止。

1.31 軍政府、食糧補給50%を35%に引き下げ、同時に値上げ実施。米価は約6倍となる。児童4874名中、病欠者が161名、欠食者が693名に上る。

1月 奄美共産党、「日本復帰を民族運動として取り上げる」と決定。「奄美人民政府樹立」の綱領では民族問題は解決できないとされる。

3月14日 奄美大島連合教育会が連合教職員組合(連教組)に改組される。以後、復帰運動内の右翼的潮流の代表として分裂策動を繰り返す。

「三倍値上げ」政策と生活擁護協議会

5月1日 アメリカ軍政府、低物価政策を廃止し、食糧,衣料,燃料,農器具,肥料等の「放出物資」価格を三倍に値上げすると発表。副知事笠井純一は軍政府に撤廃を申し入れ。奄美共産党は全郡的な大闘争の組織化に乗り出す。

5月3日 市町村長と経済復興委員会の合同会議が開かれる。「生か死か」「食糧値下げ一本槍で進め」「すべての妥協案に絶対反対」などの意見が飛び交う。15名の官民合同陳情団を沖縄に派遣することを決定。議会も当局も「陳情委員会」に参加し、官民一体のたたかいとなる。

5月25日 名瀬市連合青年団が結成される。①青年の社会的質的地位の向上 ②平和奄美の建設 などを綱領に掲げる。団長に大山三津司,副団長に崎田実芳。

7月6日 奄美共産党の呼びかけで全大島生活擁護協議会が結成される。①食料価格の引き下げ、②1日2400Cal の配給基準確保、③非常用食糧の確保を目標とする。

7月8日 生活擁護会の呼びかけで郡民大会が開催される。夜7時半から名瀬小学校校庭で行われた集会には約1万名が参加し、軍政府を震撼させる。

7月9日 中江知事と政庁の各部長とが辞職を表明。軍政府により却下される。経済復興委員会は総辞職を宣言。

8月5日 アメリカ軍政府、「メンバーの中に共産党員がいる」との理由で「奄美大島生活擁護協議会」に解散命令。三倍値上げは「一時延期」となる。

8月 解散した生活擁護会に代えて、婦人生活擁護会を結成。中村安太郎の妻光枝や松岡百代・松江朝子らが中心となる。

8月 宮崎県在住の奄美出身者が大島町青年団を結成。祖国復帰の呼びかけを発する。

9月5日 市官公庁職員組合・婦人生活擁護会・市連青の共催による市民大会。食糧3倍値上げの反対運動がさらに盛り上がる。

11月7日 市連青、市政汚職を告発。問題真相報告大会を開く。1000余名が参加。

11月7日 市青幹部が検察庁を訪問。市長に対しざらめ糖やHBT不正事件に関して質問を浴びせる。青年団と政治ボスとの対立が激化する。

12月7日 軍政府、青年団を反米的政治団体と非難。主席名で改組と役員の更迭を指令。10日後に抗議を受け撤回。



本日の赤旗「潮流」に奄美の復帰60週年を記念する記事が掲載されている。

そこでは日本共産党員として復帰運動に携わった崎田実芳さんの談話が載せられている。

もう少し詳しく知りたいと思い、「崎田実芳」で検索をかけてみたところ、下記の文献が出てきた。

大原社会問題研究所雑誌 No.509号(2001.4)の 

新たに発見された 「沖縄・奄美非合法共産党文書」について

という文章である。著者は加藤哲郎さん。なにやら懐かしい名前である。

最後の加藤さん自身のコメントには次のように書かれている。

この種の文書では,本稿における54年・56年・58年「党史」の比較からも明らかなように,「党史」そのものが時々の政治情勢にあわせて書かれた,政治性を帯びている。史実の確定のためには,これら史資料自体が,批判的に吟味されなければならない。

ということで、なかなか資料の扱いが難しいが、とりあえず例によって年表形式で紹介する。(主観の混じるややこしいところは省略する)
これだけでは当時の状況がなかなかつかめないので、他の資料からの引用を付け加えてある。

その後、奄美復帰運動史年表というきわめて浩瀚な資料を発見しました。その一部も取り入れています。>

 1945年

奄美諸島、「解放」地域に指定される

9月2日 日本ポツダム宣言を受諾し降伏文書に調印。沖縄・奄美・小笠原諸島は,台湾・朝鮮・樺太・千島などと同様の「解放」地域に含まれ,日本列島と切り離される。

10月 中村安太郎ら、「奄美文化協会」を再建し活動開始。この会は中村らが戦時中に組織し、島内各地を回って活動していたもの。中村は治安維持法で逮捕された経験を持つ戦前からの活動家。復帰までの奄美共産党の指導的幹部。

10月 中村安太郎,島本忠雄らが奄美の党組織確立を目指し準備を始める。この時は党中央との連絡がつかず,結成に至らなかった。

10.30 米海軍のジャクソン少佐一行が来駐。6日間にわたって名瀬を調査する。

 

1946年

ミニ国家「北部南西諸島政府」の「成立」

1月1日 「船着場から眺める名瀬の街は周囲の山裾まで見渡せる焼け野原、そこここにはやはり門松が立ち、日の丸の国旗が鮮やかだ」(「奄美の烽火」より)

2月2日 アメリカ占領軍は,奄美大島,沖縄,小笠原諸島を日本の行政下から分離し,直接軍政下におく。

本土・奄美間の海上を封鎖。米国民政府の命令により本土出身者が公職から追放され、本土に強制送還となった。「本土への渡航者は永住者に限る」と通達。本土の奄美・沖縄出身者は非日本人となる。
本土から切り離されたことにより、奄美の島内産業は壊滅。人口20万人のうち3万人が仕事を求めて沖縄本島へ移っていった。

2.10 名瀬町連合青年団結成。6月に奄美連合青年団へ発展。

2.24 日本共産党が「沖縄民族の独立を祝う」とのメッセージを出す。

3月 旧鹿児島県大島支庁内に米軍政府が開設される。ロス・H・セントクレアが軍政府長官に就任。

10月3日 臨時北部南西諸島政庁が成立。役職者には地元出身者が就任する。

知事に大島支庁長の豊島至、副知事に中江実孝。アメリカ軍は当初、奄美群島を北部琉球と呼んだが、奄美側の強力な反対にあい琉球を外し北部南西諸島とした。

10月6日 警察部長兼大島警察署長の豊蔵朝秀が罷免される。理由は警察民主化に期待が持てないというもの。豊倉は後に社会民主党の初代委員長に就任する。

12月 党中央から奄美大島における党組織確立の任務を帯びて,久留義蔵が帰島。(久留は共産主義者の満州グループのメンバーだった)

奄美では党の綱領規約に準じて独自の活動が活発にできる独自の組織をつくる。軍政下では非合法組織にならざるを得ないので党の合法的な行動党を作る、などの指示を持ち込む。(この指導は党機関の決定によるものではなかったという)


12月 奄美文芸家協会が発足。雑誌「自由」を発行。泉芳朗が編集長となる。
 

雑誌「自由」は奄美で発行された文芸理論誌。元教師・詩人の泉芳朗が主催し、ロシア文学者の昇曙夢(在東京)らが寄稿。

1947年

奄美共産党の結成

1月 二代目軍政官ラブリー少佐、年頭の談話を発表。「デモクラシーは大小幾多の革命の所産」と述べる。軍政府は群島レベルの諮問機関として北部南西諸島法制改定委員会(後に奄美民政議会に改称)を設置する。副会長に中村安太郎が就任。

1月 伊仙(徳之島)で小作人組合が結成される。土地の強制取り上げ絶対反対、小作料の公定化 小作料の金納制をもとめる。

2月 久留、中村ら奄美の活動家が集まり党の結成を協議。日本共産党の綱領規約に準じて綱領規約をつくり、日本共産党の指導を受けることを決定。

1.奄美人民共和国の樹立 2.共和国憲法の制定 3.農地改革の実施 4.集会・結社・信仰の自由 5.労働組合法の制定 の5つの柱からなる

3月 雑誌『自由』に、久留義蔵の論文「大島民主化の為に」が発表される。

3月 奄美連合大阪本部が結成される。奄美の分離を拒否し復帰の早期実現をもとめる決議を採択。当時全国には20万人の奄美人が散在していた。

4月10日 奄美共産党が創立される。創設メンバーは久留(30)、中村(38)、島本(40)、栄枝(38)の4名。(公式党史『奄美の烽火』は,綱領を定めた4月10日を創立日としている)

奄美共産党は,久留を連絡者として中央に派遣。党中央に「沖縄,奄美に対する党の方針決定」を要望した。その中心的内容は,奄美大島の日本復帰に対する党の基本態度を明かにすることであり,日本共産党と奄美共産党との組織的な関係についてであった。


5.01 米軍政府、「メーデーは共産主義の行事」とし禁止通達を出す。

6月 久留義三は東京にもどり、「奄美青年同盟」を結成する。

軍政府、反共・反復帰の姿勢を明確に

7月 中村安太郎、「共産主義教育をすすめた」として大島中学専攻科の講師職を解任される。

8月 郡内21市町村長会が日本復帰の嘆願を決議。ラブリー軍政長官に口頭で申し入れる。

8月 ラブリー軍政長官、「占領軍は南西諸島を一つのグループにまとめ信託統治を行う。日本復帰はありえない。北部南西諸島が日本に帰るという意見はまったく迷惑である」と言明。

9.19 昭和天皇のメッセージが、GHQに伝えられる。「米国が沖縄その他の琉球諸島の軍事占領を続けるよう」希望するもの。

9月 全官公庁職員組合が結成される。組合員3千人を擁する島内最大の組織となる。

10月16日 市町村長会や学校長会議が「日本復帰嘆願決議」を採択。軍政府は集会・言論・出版の自由を規制し、弾圧に乗り出す。

10月 奄美共産党は、合法大衆政党として奄美人民党の結成を準備したがアメリカ占領軍によって拒否された。この時奄美地方の人口は20万あまり。

12月 日本共産党第六回党大会。奄美における党は独自の党とし,日本共産党は,奄美の党に対して援助する方向がとられた。在本土沖縄・奄美大島出身党員グループは,「沖縄,奄美,小笠原の日本返還」を党の方針とすることを提案するが否決。

47年 奄美共産党、日本共産党と別個の党として活動を開始。土建労働組合,木材労働組合,農民組合などの結成と指導にあたる。さらに「奄美人民政府樹立」を掲げ、青年団,婦人生活ヨウゴ会,官公庁職員組合などを影響下に置く。

47年 沖縄人民党が結成される。当初は非合法共産党組織への拒否反応をしめしたとされる。


アーレントのマルクス「誤読」に関する一考察――労働・政治・余暇
京都大学 人間・環境学研究科 博士後期課程 百木漠

という論文があった。

百木さんは優しい人である。
「誤読」にはそれなりの理由があった、と考え
その理由をるる説明している。

その優しさに私はイライラする。
「誤解でなく曲解だ。アーレントなんてアホでスカタンだ」
と言ったらいい。

まず、そういってから、
「しかし彼女にもそれなりの理由があったんだ」と書けばいい。
きっと胸がすっとするだろう。

オレは言ったぞ!

4.中世の医学についてのシッパーゲスの見解

医学は霊的釈義の学

医学もまた創造されて世界の,大宇宙と小宇宙の,またそのなかに含まれた健康な人間,病いに陥った人間,救済すべき人間の,霊的釈義の学である.

生理学はこの宇宙論的側面の下で,人間の健康な環境のあらゆる生態学的諸関係を,正統というよりはむしろ矯正生活学,すなわち理性的に生きる技術を,包括し ている.

病理学は生活史的危機と「病める人」のあらゆる実存的欠陥から宇宙的破局へと拡大される.

治療学はといえば,困窮に悩む人,悲惨なるものへの奉仕であり,結局は失われた世界を崇高なる創造へと連れ戻すことにある.

(現代の医学・医療の世界と積み重なるようにしてもう一つの「医療」の世界があることに注目)


現代医学が病気と社会を分けてしまった

現代医学では,死はずっと以前からすでに共同社会から締め出されているし,誕生は臨床的事例と化してしまった.

日々の労働において,また1年の過ぎ行くうちに,出生と死亡をもこめて,自然と要素的な交わりのうちにある社会,われわれが頭に思い描いてみなければならないのは,そのような社会なのである.誕生や死や愛への態度は日常のリズムに直接に結びつけられていたかのようである.

5.ヒルデガルトの人間学

ヒルデガルトのなかで,人間は肉体的組織として=あらゆる意味で肉体である人間として=三つの基本的人間学的範疇のもとに表象されている.

三つの基本的人間学的範疇

①神の御業であり,作られたもの,生成したもの,投げ出されたものであり,それゆえに依存的であって,自律的でも自給自足できるものでもない.(自然に対する依存性,被規定性)

②彼は「相互のための業」であって,「人間そのもの」として考えられるべきでなく,男もしくは女として,一人の人間は他者において,他者とともに実現されるところの関係のなかで考えられねばならぬ.(相互の被規定性=社会性)

③人間は「被造物についての業」,世界についての働きであって,彼自身のため,自己実現のため,あるいは自己の根底をきずくために働くのではなく, また「彼の魂の救済」のためにはたらくのでもない.彼の働きの場は自然と他者との創造的交わりの世界である.
この業によって人間は自然を変化せしめ、自己の諸要求を満たす。
それだけでなく,自己自身を人間として実現し,いわば人間を越えたものとなるかのごとくである.(生産的活動の規定性)

人間は三つの能力をもっている

人間は三つの能力をもっている.欲望,力能,および行為がそれである.欲望は最初に力能に火をつけ,かくて行為が熱烈な欲求のうちに進行しうる.

あなたは神の意志のもとに欲望を,神の威力のうちに力能を,意志と威力を結合する神の寛容のなかで,欲望と力能の両者を内にになう行為を,理解すべきである.

このようにして人間的活動を通じて自然から人類が産出されたのである.(どう考えても、アーレントよりヒルデガルトのほうが数段上でしょう)

6.人間の死とはなにか

生と死との連関

さて医師たちは「ボヘミアの農夫」とともに「人間は生まれ落ちるやいなや」もうすぐ「死するに十分なほど老いている」ことをつねに知っていた.(蝶は、サナギから羽化した途端に死が近づいて来たことを知っている)

生まれ落ち,死にさらされつつ生き,あらゆる有機的生は段階的に無機的存在に近づき,分解し,終末を迎えるのである.

生命から立ち去るということは,たんに疾病によって死の転帰にいたるという意味だけではない.「生命からの立ち去り」(エクシトゥス)は生命の目的をも意味するからである。(蝶が蝶になるのは、蝶の生きる目的を全うすることである)

死は すでに誕生とともに始まっている.かくて、死することもまた一種の「立ち去り」過程であり,さほど劇的なことでもない.なぜならここでは魂は理性の翼を徐々につぼめ,離別の準備をしているからである.

「生も死も,生命を超越する自然系の一つのありよう」(エンゲルス風に言えばタンパク質の存在のあり方)である。生命とは決して閉ざされた循環ではなく,自然に向かって開かれた系,自己を超越する実存である。死は,生命そのものとはことなったものが,生命に関連する系として用をなしているということの,確実な指標である.

人間の肉体的死は,「抵抗することによって実存である生命」が終了したことの帰結である。人間はそれ自体肉体的に人間であるが,それを形成したところの自然に対して反逆し抵抗することによって、実存する存在としての人間となる.

あらゆる事物はそれ自体で事物であると同時に,人間にとっての事物であり、それゆえに人間的事物である.人間すらがそうである.人間的事物はそれ自体として自然的素材で あり,自然に反逆するものとしての人間にとって歴史的素材である.

 

死すべき術

教皇ヨハネ21世によって,死は壮大なかたちで示されている.ここでは死は生命の真ん中に,生活の術の中心に立ち,死すべき術と直接に結びついている.

人間は自然の一部であると同時に、歴史的には、自然に対する意識的な脱落者であり反逆者である。なるほど人間はその生物学的基体を持つゆえに全自然を代表し,それによってあらゆる生物の規範となっている.しかし歴史の観点からすれば,人間は自然の秩序から脱落し,時間に身をさらし,それゆえ死にたいして投げ出されている.

病気となることは、決して病気自体の過程(プロセス)として理解されることはない.それはむしろ生命の中止ないし怠慢,すなわち「欠如態」として理解されなければならない。

だから死もまた存在を持たず,むしろつねに消極的に生命の「欠如」として,生命の解体と破砕として,破壊と消滅そして,生命的構成物の最後の退行として,釈義され るのである.

自己の肉体の死についてのこの理解こそが,人間を「病める人」となす。そして彼を不安定で苦悩する存在となし,きわめて意識的にその生命を終えるものとするのである.

 

臨終も死も,健全な共同体の中心に存在する

ここではすべてが,臨終も死もまた,健全な共同体の中心に存在するような閉じた関連系のなかに立っている.

全体としての人間は,生まれつき文化的存在,共同体的存在である.彼は結局は死にさらされることを知りながら,彼の生活を形成することができ,また形成しなければならない.

7.病と受苦

期限付の存在である人間

人間は生涯にわたって変わることなく、永遠なる生命への巡礼の途上にある「旅人としての人間」である。

こうして期限付の存在である人間の三つのフェイズがますます明瞭に地平線上に浮び上がってくる.

①最初の人間がその堕落以前に「素質」すなわち正常な基本状態として用いていたような健全な生命の基本的範疇.

②堕落した人間は、まず「放棄」として,ついで没落と変形として,さらに歪曲と衰弱として,必然的に体験し苦しむ。それが疾病の体験である.

③絶えず期待され、希望さるべきものとしての救済の最終状態は,「回復」であり快癒である.

人間が障害の途中で必ずあらたに体験するのは②「受苦」の範疇である.すなわち苦境と罪における悩みと痛みとして,裕福の絶えざる侵害,平衡の喪失として,援助の必要と援助の要求としての,衰弱と病弱の原体験がそれである.

健康とはそのとき人間全体の肉体的息災と解される.健康であるということはたんなる病気の欠如ではない.それは積極的に生活能力を維持しこれを享受する喜びの状態である.健康であること,健全であることは,結局のところ,生命に意味があること、それが調和されていることを意味する.

 

病める人間は範例的人間

病める人間は範例的人間として役立っている.危険にさらされたものとして,威嚇されたものとして,肉体の衰弱したものとして範例的なのである.

肉体の健康もまた,たんにもろもろの障害が存しないというのとはまったく異なっている.健康とはむしろ,あらゆる労苦にもかかわらず,意義深い人生を送る力のことである.

肉体は事実,われわれの世界的内在の媒体である.肉体はどこからどこまでも環境にはめ込まれており,われわれはこの環境を同化し,これをいわば肉体として形成し,われわれの精神的体験となすのである.

世界を具体的に同化することにより,世界は絶えずわれわれに親しいものとなる.他方,病気になること はこの親しさの失われることであり,われわれは世界に疎外されるのである.

そのとき肉体はわれわれに,われわれの存在の拘束性と薄弱性を教示してくれるのである。たとえば「心的」諸疾患や老年にあってはいうまでもない.

病気とは過程であるよりはむしろ「欠如態」であり,無秩序であり,人の行く手をさえぎる障害である.それは人がさらに前進するために修復すべき道路の穴といったほうがよい.

そして健康も状態とか所有物ではない.健康とは範疇ではなくて,むしろ態度と期待である.健康とは人がその上を歩くことによって形成される道のようなものである.

 

8.「治療」の意味

医師とその助手たちすべての行為は,最古の時代より「治療(テラピー)」と呼ばれてきた.これはギリシア語の「テラペウオー」に由来し,「奉仕」という意味に他ならない.

私たちの助けを必要とし、病苦のために私たちを呼んでいる人がいる。私たちは,そういう人に奉仕し,そのために医学的治療の必要な人のことに「心を砕 く」.昔の治療技術は,まず第一に,世話であり,介護であり,専門的な奉仕である.

この奉仕する看護と密着した世話という意味で最初のキリスト者たちはみずからを治療者と名乗った.キリスト自身が初期より「治療者」という称号を帯びていた.

非ポリス的なもの: ヨーロッパの源としての中世

ハンナ・アーレントの立論は、ギリシャの市民たちの理想社会、中世の暗黒社会(アウグスティヌスを例外とする)、そして殺伐たる近代社会とその帰結としてのボルシェビズムという対比で進んでいく。

ある意味でそれはヨーロッパの知的エリートに通底する文明観なのかもしれない。マルクスも唯物史観のもとに似たような図式を描いた。ただし末期には明らかにその変更を試みていたが…(ザスーリッチへの手紙参照)

そこには無知と停滞とに彩られた「暗黒の中世」というイメージが浮かび上がる。しかし私には、ヒルデガルト・フォン・ビンゲンを通じて浮かび上がる、「智恵」としての中世のナチュラリズムがズシンとあるから、そこには生きた弁証法 があると思うから、アーレントに同化できないのである。(智恵というのはアーレントの言うとおり無名性のものである)

いのち、人間、共同体、いとなみ…それらが無限の繰り返しの中から織り出す倫理システム。これこそがアーレントが非難してやまない「ボルシェビズム」の淵源なのではないか、ふとそういう気がする。

もう20年も前にトマス・シッパーゲスの「中世の医学」を夢中になって読んで、抜粋ノートを作成したのが残っていた。少し並べ替えをして読みやすくしてアップする。シッパーゲスからの引用はほとんどがヒルデガルトからのものだが、他の“医師たち”の発言も混じっている。シッパーゲスの見解も混じっている。

いまとなっては区別できない。「中世」という時代が語っているものとお考えいただきたい。

1.人間とはなにか

宿命と決断

全体としての人間はこの世界の網目のなかに組み込まれている.

何世代にもわたって,この緊密な構造のなかで遺伝されてきた素質と,彼の環境とのさまざまなかかわりから生じる宿命のなかで、彼はその生活を送らなければならぬ.

彼は広範囲にわたって宇宙的諸力に規定されているだけではなく,彼もまた自己の 力によって,世界を形成し,あらゆる自由をもってみずからを導き,完全な責任において決断せねばならぬ.

人は受肉したロゴスである

彼は人間という有機体の、あらゆる形成物において遭遇するところの,受肉したロゴス(具現化した摂理)の象徴である.このようにして肉体と魂の両者は,唯一の現実として実存する.

かくて人間は、そのはじめからかくのごとく形成されている.上も下も,外も内も,彼は肉体として存在する.彼は隅ずみまで肉体である.そしてこれこそが人間の本質である.人間はこのようなしかたで存在するのである.

肉体は限界であるが、単純な限界ではない。それは普遍的な媒介者である。それによって,われわれは全世界を肉体的にわれわれの内に獲得し所有するのである.

我々は世界をつかむことが出来る

かくてわれわれの胃は世界をつかむことがで きる.全世界空間は巨大な胃袋にほかならないのだから.世界の素材の兵器庫としてのこの胃は,われわれの実存的な世界との結合に役立つ.それゆえに胃は絶えず被造物の内なる諸力をもとめ,これを摂取してはふたたび放出し,かくてこの宇宙的通信が維持される.

われわれの飲食とはもともと,われわれの(天国的)実存においては,ただ諸要素の理論的交換,つまり宇宙的対話,世界との通信に資するもの(味わう とか賞味するとか)であったのに過ぎない.ところがいまや明らかに,あらゆるわれわれの食事は回復,日々の復活の試みに役立っている.

この二つの事実は,一生のあいだわれわれの生理学的体質を,われわれの根本的な健康を思い出させるものであり,またこの両者はわれわれの病理学的欠陥の,われわれの現在の緊急事態の症状でもある.

また この両者は回復への,期待される治癒の到来への示唆なのである.生理と考えているもの(例えば空腹)も天国的実存からすれば病理にほかならない。

人は五感から出発して全世界を知リ、支配する

このようにして神は人間を自然のあらゆる諸力によって強化された.神は人間を創造の武具でかためられた.人間はその五感から出発して全世界を知り, 区別し,世界から栄養を与えられ,世界を支配できるのである.かくして人間は,あらゆる被造物の創造主として存在される真の神の認識に達すべきである.

……

2.病とはなにか

人間は欠陥状態にいる

根本的に異なる創造を背景としてのみ,(堕落した)人間の現在的な状況をも把握することができる.なぜなら人間は明らかに不幸な状態に,誤った関係に,欠陥状態にいるからである.

彼は衰弱し,苦悩し,虚弱で助けを必要としており,真に「ホモ・パツィエンス」つまり「病める人間」であり,救済をもと め,苦悩の転回をもとめている.(失楽園)

人間は堕落し反逆者となった

いまや人間は堕落とともに宇宙の麗しき秩序を破壊し,あらゆる元素は混乱におちいった.

諸元素そのものが荒々しく叫んで訴える.「われらは,もはや 自己に定められたように自己の道を走ることも完成することもできない.なぜなら人間どもは彼らの悪行によってわれわれを粉砕機に入れたかのようにくるくる 回転させるからである.彼らはすでにペストのように異臭を放ち,飢餓のため正義の前から消え去るのだ」

諸元素は告発する.いかなる被造物もその創造者のみもとへ帰らんと努力しているのに,ただひとり人間のみが反逆者である.彼は創造に逆らって立ち,いわば全自然の被造物の多くを破壊している,と.(人間は自然の摂理にたいする反逆者である)

……

病は欠陥状態の象徴である

病んでいるということは欠如であり,過誤であり,存在の欠乏であり,変形かつ変質であり,過小であり逸脱であって,いずれにせよつねに消極的にのみ定義さるべき状態(欠如態)であって,現在の病理学が期待するような疾病過程ではない.

むしろ過程の正反対であって,中止,中断であり,錯誤であり失策行動である.

これに反して健康こそ過程として積極的に理解され,それは全世界を進行せしめ,保持し,あるいは回復せしめる秩序なのである.(病気が病理過程 としてではなく生活過程として理解されている)

それにもかかわらず,あらゆる病的状態は根源の状態,われわれの「健全な状態」の想起に役立つだけでなく,終末状態における最後の使命への示唆でもある.あらゆる疾病は治癒への,そして結局のところ救いへの示唆なのである.

……

人は巡礼へと旅立つ

堕落した状態においてもまた,人間は宇宙の中心にとどまり,救いへと出立する.人間は本性上,また世をあげてすべて途上にあり,巡礼者であり,求道 者であり,俗世の憂慮の十字路にあり,そしていまや彼は節度,中庸,目的,意味をもとめている.彼は恩寵の境遇にあることを欲し,救いの自由にあることを 欲する.彼は「健やか」でありたいのだ.

……

3.人間の生とはなにか

ホモ・オペランスとしての人

神の創造の御業として人間はその起源から最上の状態にあり,それによって世界における優先的な地位を持っている.形成する存在(ホモ・オペランス) として人間は招かれており,あらゆる被造物を代表すべきであり,宇宙の鏡として彼は世界との永続的な対話をかたり,それによって人間は世界の創造に,あるいはその救済の使命に責任を持たねばならぬ.


人間は反逆し欠陥ある存在となった

彼の拒絶によって人間は欠陥ある存在となり,脆弱で病み,死に克服されるものとなった.彼の自立への志向(傲慢)によって被造物への自然的関係は障害された.

人間は反逆者となり,彼の内なる矛盾を,いまや歴史を通して担っていかねばならぬ.

疾病はここでこの実存的欠陥と変形の意義ぶかい徴候となり, それが黒胆汁の鍵概念のもとに解釈されることになる.疾病のシンボルとしてのこのメランコリアはつねに自然的生命力としての活力に阻まれ,かくてわれわれ は危険要素とならんで,人間を救いへと導くところの回復要素をつねに考慮せねばならないのである.

……

ハンナ・アーレントがマルクスを如何に読み込んだか。

そこで 「ハンナ・アーレント マルクス PDF」でグーグル検索をかけると、ぞろぞろ出てくる。一覧表を見ただけでお腹いっぱいという感じだ。

ぼちぼちやっていきますか

まずは、橋本努さんの講義「経済思想」から

ハンナ・アレント『人間の条件』[1958=1973→1994]ちくま文庫

「人間の条件は、人間が条件づけられた存在であるという点にある。いいかえると、人間とは、自然のものであれ人工的なものであれ、すべてのものを自己の存続の条件にするように条件づけられた存在である。」(237)

うーむ、滑り出しはなかなかマルクス的だ。

第一章 人間の条件

◆活動的生活の三類型(19-20)

①労働(labour):人間の肉体の生物学的過程に対応する活動力

②仕事(work):人間存在の非自然性に対応する活動力。生命を超えて永続する「世界」を作り出す。

③活動(action):モノないし事柄の介入なしに直接人とのあいだで行われる唯一の活動力。

このへんも快調だ。仕事というのはヘーゲルの「仕事」(=陶冶)に相当する概念だろう。③は実践(Praxis)と我々が呼ぶ概念だ。

第二章 公的領域と私的領域

◆政治的動物の自由

「家族」という自然共同体は必要から生まれたものであり、その中で行われるすべての行動は必然によって支配される。

正確に言うと「群れ」(Herd)だろう。家族という形態はそこから析出してくる。

【自由について】

「生活の必要あるいは他人の命令に従属しないということに加えて、自分を命令する立場に置かないという二つのことを意味する。それは支配もしなければ支配されもしないということである」(53-54)

よく言う「~からの自由」と「~への自由」のことでしょうか?

「人間の自由とは、つねに、自分を必然から解放しようという、けっして成功することのない企ての中で獲得されるもの」である。

実存主義のしっぽを引きずってますね。

◆社会的なるものの勃興

社会が勃興し、『家族(oikia)』あるいは経済行動が公的領域に侵入してくるとともに、家計と、かつては家族の私的領域に関連していたすべての問題が『集団的』関心となった。

家族と経済活動を一緒くたにするのは、相当乱暴ですね。「公的領域」というのは旧権力による支配体制のことでしょうか。マルクスの「資本主義に先行する諸形態」は読んでいないようです。

◆私的領域の特徴

・私的領域とは、なにものかを奪われている(deprived)状態を意味している。(60)

・今日、他人によって保証されるリアリティが奪われているので、孤独(lonliness)の大衆現象が現れている。(88)

他人によって富が奪われ、リアリティが奪われることを、ふつうは「疎外」といいます。疎外という言い方を意識的に避けているのだろうか。

◆公的領域の特徴

公的領域は個性のために保持されていた。これに対して社会的領域は、卓越を匿名化し、それぞれの成果よりは人類の進歩を強調する。

アーレントがいう「公的領域」は古代ギリシャのアクロポリスの世界であり、「市民」という名の貴族の社会であり、端的に言えばおとぎ話の世界です。多分ヘーゲルも憧れていた、そしてマルクスの意識の片隅にもある。しかしアジアの東端に住む我々には縁なき世界でしょう。

◆善の無世界性

キリスト教は、公的領域に敵意をもっており、少なくとも、初期のキリスト教はできる限り公的領域から離れた生活を送ろうとする傾向をもっている。

キリスト教の最高価値である「善」は本質的に非人間的で超人間的な特質をもっている。善を愛する人が本質的に宗教的な人間となるのは、善行に固有のこの無世界性のためである。

そしてキリスト教的「善」の帰着がボルシェビズムというわけですか。ご高説ありがとうございました。「悪の極致がロスチャイルドだ」というご意見共々、大変説得力があります。

第三章 労働

◆労働の特徴

労働は目的と手段の関係を明確にもっていない。労働するために食べ、食べるために労働しなければならぬという、固有の「強制的反復」である。(232-33)

どう労働を定義しようとカラスの勝手ですが、これではあまりに還元主義で無内容です。

労働は生命過程を決して乗り越えることができない。このような生命過程の内部では、人間は、労働する力を得るために生き、消費するのか、それとも逆に、消費手段を得るために働くのかというような、目的と手段のカテゴリーを前提とする問いを発することは意味がない。

ニヒルですね。労働、生産活動を含めた人間的活動を、受苦→情熱関係に閉じ込めてしまえば、そうなるかも知れません。おそらくアーレントという数奇な人は、凡人の「営み」という概念を拒否しているのだろうと思います。

◆労働の生産性

近代においては、「労働」と「仕事」の区別ではなく、「生産的労働/非生産的労働」の区別がなされた。

スミスもマルクスも、非生産的労働は寄生的なものであり、世界を富ませないから、この非生産的労働という名称にはまったく価値がないとして軽蔑した。(139-40)

驚くべき謬論です。開いた口がふさがりません。生産と消費、労働と享受はつねに車の両輪です。生産は物質的富を産出し、消費はそれを取り込むことにより欲望を産出するのです。
資本主義においては二つの矛盾があります。生産は社会的に行われ、消費は私的に行われることがひとつです。従って社会的には生産が優先されることになります。
第二には陽の光や水のように、欲望も当然のこととして社会の前提となっていることです。しかし欲望というものはある程度までは必然ですが、それ以上は人間の活動が創りだすものです。
これらはマルクスがヘーゲルとともに強く主張したところです。しかし50年代~60年代のマルクス主義者がどの程度認識していたかは別の話です。

労働は生産性をもっている。その生産性は、労働の生産物にあるのではなく、人間の「力」のなかにある。この力は、自分自身の「再生産」に必要とされる以上の「余剰」を生産する能力をもっている。労働それ自体ではなく、人間の「労働力」の余剰が、労働の生産性を説明する。

熟練作業と未熟練作業の区別や、知的作業と肉体的作業の区別が、古典経済学においてもマルクスの著作においても、何の役割も果たしていない。

一体マルクスのどこを読んだんでしょうねぇ。

◆消費財、使用対象物、活動と言語の生産物(148-50)

活動と言語の“生産物”は、人間関係や人間事象の網の目を構成する。活動と言語と思考は、それ自体では何も「生産」せず、生まず、生命そのものと同じように空虚である。

それを見、聞き、記憶する他人、触知できるものに変形するための媒体があって、リアリティを獲得する。

ここにはアーレントの、物と運動とエネルギーについての形而上学的な立場が示されています。
科学的事実は逆であり、物体はつねに運動の過程にあり、それ自体がエネルギーの塊です。ただそれが可視化されるのはほんの一部であり一瞬なので、我々は確率論的に存在を説明する他ないのです。

◆生(bios)、「生命(soe)の幸福」、社会の生命

マルクスにとって労働とは、個体の生存を保証する「自分自身の生命の再生産」である。『労苦と困難』によって自分の務めを果たした者は、将来、子孫を残すことによって自分も自然の一部にとどまることができるという静かな確信を抱く。

あほか?

労働とは、苦痛の中に現れる「世界喪失」に対応する活動である。「人間の肉体は、…ただ自分が生きることにのみ専念し、自らの肉体が機能する循環運動を超えたり、そこから解放されたりすることなく自然との新陳代謝に閉じ込められたままである。

個人の生命ではなく社会全体の生命が、富の増大と蓄積の過程の主体として考えられるようになると、人間はもはや自分自身の生存にのみかかわるのではなく、「種の一員=類的存在」として、活動する。

そういうのを「疎外された労働」と言うんではないですか? 本当にマルクスを読んだんですか?

◆労働の生産社会から消費社会へ

すべての真面目な活動力は、それが生みだす成果にかかわりなく、労働と呼ばれ、必ずしも個人の生命や社会の生命過程のためではない活動力は、すべて遊びという言葉のもとに一括されている(189)

余暇時間は、消費以外には使用されず、時間があまればあまるほど、その食欲は貪欲となり、渇望的になる。

この辺は、私も前に勉強したことがあって、とくに「経済学批判要綱」の最初に出てくる労働力能という言葉に注目しました。たしかArbeits -Vermehrung だったと思います。消費過程は人間的活動の発展により労働力能を高める過程だというような記述がありました。その後この言葉は使われなくなります。おそらくは経済学批判という作業を進める上で、商品化される対象としての「労働力」という性格に単純化し、絞り込んだのだろうと思います。
余暇というのは、資本の側、社会の側、生産の側から見て余暇なのであって、人間的活動としてはむしろ本質的であるべきです。さらに言えばその中に労働も包摂されるべきです。この辺は中野徹三氏が声を大にして主張したところです。

第四章 仕事

◆工作人の特徴(Homo Faber のこと?)

工作人は地球全体の支配者、主人としてふるまう。その生産性は創造神のイメージで見られる。暴力の経験は、自己確証と満足を与えることができ、生命を貫く自信の源泉にさえなりうる。(228)

人間中心的功利主義の最大の表現は、「いかなる人間も目的のための手段であってはならず、すべての人間が目的自体である」というカントの定式である。

カントの言い方に従えば、人間は目的手段関係の外部に立つ唯一のものであり、一切のものを手段として用いることのできる唯一の目的自体であるということになる。

いやはや、恐れいりました。風車に突っかかるドン・キホーテさながらです。

◆製作(ポイエーシス)

製作の過程は、目的と手段の関係で完全に決定されている。目的が手段を正当化する。

目的(end)は、材料を得るために自然に加えられる暴力を正当化する。

第五章 活動

恐ろしく主観的で観念的で無内容です。取り付く島もありません。一言で言ってジコチュウです。


率直に言って駄文です。変革への意欲は毛ほども感じられません。ベースはエリート趣味です。

最初の期待は失望へと変わっていきました。最後はブーイングです。

彼女は反スターリン、反ボルシェビキの論客として売りだした人ですが、大戦中の態度や華々しい経歴、さらに共産主義者との浅からぬ交友から、左翼にも一定の幻想を持たれているようです。

しかしアイヒマンを許すという立場、さらにその理由が「雑魚だから」というに至っては、エリート主義も極まれりというところでしょう。

マルクスを10年間研究したと書いてあったので読みましたが、研究していません。せいぜいパンフレット一冊読んだくらいでしょう。

もっとも、そういう私も原著を読んだわけではないので、偉そうなことは言えませんが、格がそもそも違うんだから、これくらい勝手にほざいてもバチは当たらないでしょう。


これは20年前に書いた看護学校の講義録の一部。


人間の価値観の体系

生きがい=目的のある人生

ゆたかでしあわせな暮らし

健康な生活   充分な収入

健康な身体   まともな労働

 健康と「豊かさ」は幸せな生活のための条件となっている.金があって、ヒマがあって、体が丈夫なら申し分なく幸せではある。

 しかし、「ゆたかで幸せな生活」は,必ずしも一人一人にとっての人生の最終目的ではない。

 たしかに社会的な目標としては、「ゆたかで幸福な生活」がひとつの目安となるが,個人にとってはかならずしもそうではない.生きがいのある生活が豊かで幸福な生活とは限らない.

   人が生きていく目的は下の図のように積み上げられていると考えられる。しかも最高位の「生きがい」というのは、必ずしも下段の積み上げを必要とはしない。むしろ下段を打ち壊していくことさえしていく。

「生きがいのある仕事」に熱中すれば、時間は無尽蔵につぎ込まれる。「ヒマ」は完全になくなる。本来の仕事にまでそれが侵入してくれば、給料にも影響が及ぶ。まして立身出世は思いもよらなくなる。体だって壊しかねない。

これは極端な話だが、私たちが保健活動を行う場合、一つの論理として頭に置いておかなければならないことである。

保健活動は「ゆたかで幸せな生活」の土台作りの一環を担っている。それは土台の中でももっとも下段に位置する土台であるから、ことの良し悪しについての善悪が問われることはあまりない。 

しかし条件整備のみを念頭に置いていたのでは不足である。保健活動の活動内容が、対象とする個々人の人生の目的に、どのように、どのくらい適応して いるかが、ときに問い返されなければならない.せっかく助けた患者さんが病院の屋上から身投げした、などという話しはあまり聞きたくないものである。


私がハンナ・アーレントのマルクスとの格闘に興味をもつのは、私自身の体験と関連しているからである。

私が、入った頃(1967年)のマルクス主義哲学は本当にひどかった。当時「共産主義読本」という教科書が発行されて、「マルクス主義の3つの源泉」、それに綱領の説明という4部からなっているのだが、哲学の部分はスターリンの「弁証法的唯物論と史的唯物論」を丸写ししたものだった。

民青の地区委員会へ行くと、床の間に飾ってあったのはスターリン全集だった。当時すでにソ連との路線論争は一決着ついて、毛沢東路線との闘いの真っ最中だったが、初級教育の教科書は毛沢東の「矛盾論」と「実践論」だった。

戦前の厳しい弾圧の中での唯物論研究会の到達段階より二歩も三歩も後退していたのである。

わずかに坂田昌一の三段階理論が光を放っていたに過ぎない。相次ぐ路線闘争の中で、多くの理論家が党を離れていた。

私は講義の時に、共産主義読本と原光雄の“異端本”を並べて紹介しながら補っていた。

「経済学・哲学手稿」や「ドイツ・イデオロギー」を読んでいたのは、我々よりもむしろ実存主義者だった。ルカーチやグラムシを読んでいれば、むしろ「あいつは危ない」と思われた。

70年代に入って全共闘やトロツキストとの激しい理論闘争が始まると、もはやスターリンや毛沢東ではとても追いつかない。

そのころ青木書店から「講座マルクス主義哲学」全5巻が発行された。これが座右の書となった。「経済学批判要綱」の大工業の部分が大いに引用されたものだ。芝田進午の「人間性と哲学の理論」や「現代の精神的労働」も赤線を引きながら読んだものだ。

つまり「柔構造社会」の批判は、マルクス抜きに議論できなくなっていたのである。


哲学部門での遅れはその後の10年間で急速に回復した。「現代と思想」誌での論文は目をみはるほど「自由化」された。

「対立物の統一」などの非弁証法的な“テーゼ”は一掃された。自然の弁証法は物質・運動・エネルギーなどの連環の中に重層構造として理解されるようになり、社会や歴史の弁証法は目的・主体・関係などの織りなす歴史的構造として理解されるようになった。

これに比べると経済学の改革は道半ばの感が強い。とくに「労働とは何か」という倫理の根底概念が未だに腰が座っていないと思う。

労働というのは欲望の実現手段である。差し迫られた生活上のニーズであろうと、蓋かな生活への希望であろうと、自らを実現したいという渇望であろうと、とにかく欲望があっての労働なのだ。

例えばヘーゲルにあって「仕事」というのは、自らを陶冶するための刻苦勉励を指している。勉強もスポーツも、総意味では仕事なのだ。

外形的な側面から、労働対象があって労働手段があって…などと規定するのは非本質的だ。

もう一つ大事なことは、それは生産活動の一部であって、それ以上のものではないということだ。労働の範疇を野放図に拡大してはならない。物質的か否かはこの際置くとしても、生産(価値生み)活動でない労働はありえないのだ。

ケネーの経済表にすら大地の恵み・太陽の恵みがふくまれているのに、より包括的な生産活動の表式にこれらの要素が入らないわけがない。


話がアラぬ方向に行くのはアルコールのせい。

ハンナ・アーレントが1950年から60年にかけて読んだマルクスとは一体どんなものだったのか。

前に、ハンナ・アーレントについて一度調べなければ、と書いた。思っている内に忘れていたが、ふと見ると札幌で「ハンナ・アーレント」という映画が上映されているようだ。

結構かったるそうな映画なので、大雪だし、とりあえず文献をあたって見てからにしようと思って探した。

今井公雄のホームページ

アレント雑感

というかなり長い文章があったので抄出しておく。映画の方は、明日も休みだし、まぁ考えておこか。

■はじめに

 かつて80年代にもアレント・ブームがあり、その時点では主として英語圏を中心に、踵を接する形でドイツとフランスで主要著作の翻訳と膨大な数の研究書が刊行された。昨今のアレント研究は南米にまでその枠を広げている。

「全体主義の起源」が主著である。これについての議論を打ち止めにはできない。それだけの今日的状況があるからだ。

ナチズムは多く見積もっても10数年。それに比べてボリシェビズムのほうは権力奪取から崩壊まで76年の長きにわたって生きつづけてきた。ナチズムも「国家社会主義」を名乗っていた。

「全体主義の起源」に関わる世の議論を大別すると、つぎの3つに分けられる。

① スターリンをもって嚆矢とする説 (この説ではレーニンは免罪される。

② レーニンまで遡って「起源」とする説。

③ マルクスまでその起源を遡るべきだとする説。

いまや①の説を唱えるのは少数派であるが、意外と頑強なのである。

肝心のアレントは①ととれる叙述をしている箇所があり、②であると読める箇所も多い。マルクスに対する批判も鋭い。

全体主義として開花した20世紀の固有のイデオロギーを、マルクスとの関係で検証することが焦点なのである。

■アレントという思想家

アレントという思想家は難解だ。その思考に際だつ独創性があるわけではない。したがって、難解だといわれる理由がその独創性にあるわけではない。ただし、その発想には際だつものがある。

読者を悩ませるもう一つの問題が、叙述と説明の方法の多様性・雑多性である。アレントの思索は多義性の塊だといっても過言でない。そのそれぞれはきわめて興味深いものが多いとはいえ、全体として見たとき、いささか叙述の仕方に一貫性を欠くという感も否めない。

アレントという思想家は、本来、回答よりも問題を与える思想家である。だからこそ、その思想が与える「違和感」は、むしろ思想の本質的条件とさえ言える。

『全体主義の起源』は3部構成からなるが、ナチズムやスターリニズムそのものを扱っているのは、第3部の後半3分の2ほどだけである。初版(イギリス版)の標題は「我らの時代の重荷」であった。それを再販のおりに『全体主義の起源』に変えた。

もしアレントが当初の標題を変えなかったとすれば、『全体主義の起源』はいまほど「難解」とされなかったかもしれない。

 

□アレントとマルクス

 全体主義的な発想は古くからあったものであり、そのまま直線的に全体主義というイデオロギーにつながったわけではない。

マルクスの思想をマルクス主義がイデオロギー化したことからボリシェビズムが派生し、ボリシェビキが権力を把握することによって、ボリシェビズムが全体主義として結果した。

アレントにはマルクスとマルクス主義の研究に没頭していた時期がある。『起源』刊行後の51年ころから60年ころまでの間だ。研究の中身は2つに分かれている。1つは、「マルクス主義の全体主義的要素」という名の研究(51年から56年ころまで)だ。2つめは、『政治入門』という標題の下に出版されたもの。56年から60年にかけての研究である。はいずれも未完に終わっている。

『起源』初版の刊行は51年。彼女は「ボリシェビズムの〈起源〉がマルクスにある」と断言せず、マルクスの擁護にまわった。

《こちらの政治状況は、今のところ憂鬱になるものです。赤狩りが猛威を振るっています。アメリカの知識人、とりわけて、かつてラディカルな反スターリン主義者たちが、多かれ少なかれ、国務省と同じ政治的立場に陥ってしまっています。人びとは、マルクスの名前をいうことも恐れており、つまらないバカどもは、今やマルクスを見下す権利と義務を感じているのです。》(恩師ヤスパース宛の書簡)

また、つぎのようにも書く。

《マルクス主義は、疑いなく西欧政治思想の本流から生まれてきたものである。マルクスに全体主義の責めを負わせれば、西欧の伝統自体が必然的に全体主義に帰着すると非難することになる》 

ヒトラーの〈快進撃〉を目の前にしたアレントの危機感とまったく同じものである。1つの見解がイデオロギーの形をとって登場するとき、それは全体主義に直進することは避けられない。たとえそれが無限の自由を標榜する〈自由主義〉であったとしても、いったんイデオロギー化すれば全体主義に転化する。

■なぜアレントは時代を超えて甦るのか

アレントの思想は、歴史とも思想史とも(規範理論という意味での)政治哲学ともつかない奇妙なものである。皮肉にも、その思想内容は様々な意味で今日の学問や思想のメインストリームと符合することになった。


ということで、十分評価しつつも多少醒めた文章になっている。

この紹介文を見て、原著にあたろうという人はあまりいないだろう。

ゴシップ的に言うと、最初の師がハイデッカーで彼とは深い仲になっている。その後にブルトマン、フッサール、ヤスパースの講義を受け、ヤスパースが終生の師となっている。
そしてシオニスト運動に加わった後、1940年に共産主義者と結婚している。
綺羅星のごとく有名人が並ぶ。
おそらくは、深く考える人というよりは、行動の人なのではないか。
組織に関わるよりは、飛翔していたい人であろうと思う。

「全体主義の起源」は、反ユダヤ主義の淵源としてのヨーロッパ文明に迫ろうとしたもののようである。しかし、その自分なりの回答を誰に向けて訴えかけようとしているのかが今一つ不分明である。その理由は、書いている間に、訴えようとしていた対象(おそらくは良識あるアメリカ市民)が変わっていってしまったからではないだろうか。

戦後民主主義の高揚の中に書き始められた反ユダヤ主義へのラディカルな批判が、不寛容な世界の中で窒息させられる過程、反ユダヤ主義との闘いもまたシオニズムへと収斂する過程、自らの文章さえも反ボルシェビズムの枠にはめられていく過程。

こういう状況の中では、展望のない、やせ細った、孤高の良心を掲げるほかなくなる。アーレントの一種のエリート主義は、時代によって余儀なくされたものとしてみておくべきかもしれない。

この後、アーレントは「暗い10年間」をマルクスに没入する。マルクス主義者の親のもとで育ち、実存主義に帰依し、レジスタンスのもとでマルクス主義にふたたび接近し、ソ連の社会主義の現実に失望し、アメリカのファナティックな反共主義のもとに身を置き、それらの解決をマルクスとの対話にもとめたアーレントが、最終的にどういう地平に達するのかは、興味が無いわけではない。

以下を参考にさせていただきました。

苫野一徳さんのブログ

ハンナ=アーレント


最後にドマニシ原人。

知恵蔵2013

近年、グルジア共和国のドマニシ(Dmanisi)遺跡では、約175万年前の原人(Hominid)の化石が相次いで発見されている。脳容積は600~770立方センチ、身長は140cmほどで、これまで東アジアで発見されていた原人よりも原始的である。オルドバイ型石器や動物化石も豊富に見つかり、狩猟活動が盛んだったと考えられる。

自費出版のリブパブリのブログより

ドマニシはグルジア共和国の首都トビリシから南西に80キロ。中世の城塞の下から、これまで4個体分のほぼ完全な頭蓋、それにこれまた完全に近い骨格を含めて多くのホモ属化石が見つかってきた。

発掘を率いたグルジア国立博物館のスタッフは、最小の脳容量(わずか546㏄)、長い顔、突出した上顎、大きな顎と歯から、より原始的なホモ・ハビリス、ホモ・ルドルフェンシスとの類似を指摘する。

5個の頭蓋は、地下の巣穴と思われる所から発掘されている。彼らは肉食獣に捕食され、その骨が1箇所に集められたのだろう。

同一時期に生きていた同一集団と想定されるが、それにもかかわらず、極めて形態の変異が大きいことが注目された。

ホモ・ハビリスとホモ・ルドルフェンシスとの変異幅とも大差ないというから驚きだ。

このことから、「ドマニシ猿人をふくめた初期ホモは、単一の進化系統のもとに進化した」、という推定が成り立つ。それから見ればネアンデルタール人とホモ・サピエンスの通婚などちょろいものだ。

ホモ・ハビリス、ホモ・ルドルフェンシスという細分は意味を失い、ホモ属の大きな単一種にまとめられる可能性があるということだ。早期ホモ属はすべてホモ・エレクトスに一括されることになる。

もう一つの可能性は、彼らが肉食獣の捕食の対象となるほどに濃密に存在していたということである。つまり彼らは肉食獣に怯えつつも、それなりの繁栄を維持していたことになる。

「ネイチャー」2007年9月におけるチューリヒ大学グループの発表

「ドマニシ原人」はアフリカ大陸から初めて移動したたもっとも初期のホモ・エレクトスである。

身長は1.4~1.6メートルと小さかったが、現代人と同じプロポーションで、脚は腕より長く、長距離を歩いたり走ったりすることができた。

ドマニシ原人を分類学的・系統学的に位置づけるのは難しい。身体的にはホモ・エレクトスよりもその前段階のホモ・ハビリスに似ている。

「人類の祖先は全てアフリカを起源としていると考えられます。問題は、いつアフリカを出たかです。ドマニシ原人は最初の拡散とも考えられます」

『サイエンス』 Science

ドマニシ遺跡の新たな頭蓋と初期ホモ属の進化 より一部引用

大きな顎前突の顔や小さな脳容量(546㎤)や大きな歯が特徴となっており、アフリカの最初期のホモ・ハビリス属と解剖学的に類似している。同時に、エレクトスと共通する派生的特徴も混在している。

ハビリスは少なくとも、エレクトスの出現から40万年以上共存しており、混住していた可能性もある。

200万年以上前に、ハビリス的な人類の一部からエレクトスの直系祖先が分岐し、徐々にエレクトス固有の派生的特徴を強めていったと思われる。

そして、ドマニシ人的な人類とエレクトスの系統が分岐する前に、ドマニシ人の直系祖先が他のホモ属に先駆けてユーラシア大陸に進出したのではないか。

この「サイエンス」論文にはいくつかの有力な反論が寄せられている。「それは言いすぎだよ」というものだ。

やはり外形的特徴による分析のみで、DNA解析の裏付けがないことが弱点だ。


外形的特徴からいろいろと議論されているようだが、私としては一番衝撃的なことは「食われるものとしてのヒト」という性格だ。

人は雑食で植物も採れば動物もとる。しかし食う側であって食われる側ではない。

もし食われる側から食う側に立場を変えたとすれば、それは人にあらゆる面での発想の逆転をもたらすであろう。

かつて狼は天敵であった。それが今では狼を駆逐し、絶滅に追い込むいっぽう、狼を犬として家畜化し、飼いならしている。

この劇的な立ち位置の変化を人類史の中で必ず位置づけなければならないだろう。


実はハイデルベルク人と呼んでいるのは一部の記事で、Nature 誌の論文ではとくに名付けられてはいない。「スペインの人骨」というそっけない呼称である。

そこでハイデルベルク人について調べてみた。

最初はウィキペディア。

Homo heidelbergensis

原人と旧人の中間に位置するとされる。時期は60万年前から40万年前。

1907年にドイツのハイデルベルク近郊のマウエル村から下顎骨が発見されたため、この名がある。

その後フランス、イギリス、ハンガリーなどヨーロッパ各地で発見されている。南アフリカや東アフリカでも同様の化石が発見された。これらも現在はホモ・ハイデルベルゲンシスと見なされる。

ネアンデルタール人と比べて眼窩上隆起が大きく、前脳部は小さい。このことからネアンデルタール人よりは原始的な種と見なされる。

ヒトの歴史の上での位置づけについては諸説ある。ネアンデルタール人と現代人の共通祖先という説もある。


後はつまらない記事ばかりだ(和文献の範囲だが)。

言えることは、原人(ホモ・エレクトス)の中で存在が確実であり、旧人、新人(ホモ・サピエンス)へとつながる流れが遺伝子的に確認しえた初めてのものだということだ。

今回の報告はまさに画期的な発見だということが改めて実感される。


ここで「デニソワ人」という名が気になる。

まずはウィキペディアから

Denisova hominin

アルタイ地方に約4万1千年前に住んでいたとされるヒト属。2008年にアルタイ地方のデニソワ(Denisova)洞窟で、5-7歳の少女の小指の骨の断片が発見された。

ネアンデルタール人と並んで、現生人類に最も近い化石人類である。

2010年、マックス・プランク進化人類学研究所のミトコンドリアDNA解析で、100万年ほど前に現生人類から分岐した未知の新系統の人類と判明した。

さらに細胞核DNAの解析の結果、デニソワ人はネアンデルタール人と近縁なグループであることが判明した。

80万4千年前に、現生人類であるホモ・サピエンスとの共通祖先からネアンデルタール人・デニソワ人の祖先が分岐した。

さらに、64万年前にネアンデルタール人からデニソワ人が分岐した、と推定された

また、メラネシア人のゲノムの4-6%がデニソワ人固有のものと一致することが分かった。現在のメラネシア人にデニソワ人の遺伝情報の一部が伝えられている可能性が高いと推定される。

現在の推定では、デニソワ人は40万-30万年前にアフリカを出、中東を経てヨーロッパに拡がった集団がネアンデルタール人に、中東を経てアジア内陸部に移動した集団がデニソワ人になった。

それに遅れて6万 - 5万年前にアフリカを出た我々現生人類の祖先は、中東やアジア内陸部で先住者のネアンデルタール人やデニソワ人と交雑しながら全世界に拡がったとされている。

ついでナショナルジオグラフィック ニュース

デニソワ人、現生人類と交雑の可能性という記事(2010年12月)

マックス・プランク進化人類学研究所の研究員は次のように語っている。、

デニソワ人がパプアニューギニアにやって来たわけではない。

ネアンデルタール人がユーラシア大陸西部に分布していたのに対し、デニソワ人はユーラシア大陸東部に広く分布していたと考えられる。

メラネシア人の祖先は、東南アジア付近でデニソワ人と出会い交雑した後、パプアニューギニアまで移動したというのがわれわれの説である。

このところ人類の祖先をめぐるニュースが相次いでいる。

グルジアのドマニシで発見された原人については以前紹介した。(もう一つの原人の宝庫 グルジア

その後、フランスでネアンデルタール人の人骨がDNA鑑定されたという報告もあった。スペインではハイデルベルク人のミトコンドリアCNAが解析された。

そしてシベリアでもネアンデルタール系の人骨が発見されたという報道があった。

どうもアダムとイブの神話が崩れる可能性も出てきた。

どこかに専門サイトがないかどうか探してみたいと思う。


19日付の英科学誌ネイチャー電子版

2010年にシベリア地方アルタイ山脈の洞窟で、長さ2・6センチの足の指の骨が見つかった。5万年前の骨とされた。

ドイツのマックスプランク進化人類学研究所などのチームがDNAのゲノムを解読。特徴からネアンデルタール人の女性と特定した。

当時の別のヒト属であるデニソワ人と関わりがあったことが示された。ネアンデルタール人とデニソワ人、ホモサピエンス(ヒト)のゲノム(全遺伝情報)が比較され、これら3グループ間での関係性が示された。

ネアンデルタール人の骨は約5万~6万年前の地層から、デニソワ人の骨は約4万年前の地層からそれぞれ発見されている。

現代人のゲノムの約2%に、ネアンデルタール人の配列が残っていることも判明した。グループ間での関わりから起きた遺伝子流動により、現代のヒトのゲノムのうち約1.5%~2.1%がネアンデルタール人に起因するものであることが分かった。ただこれはアフリカ人には見られないという。

一方、デニソワ人のゲノムでは、約0.5%がネアンデルタール人に起因するものであることが明らかになった。

小さな集団で生活をしていたと考えられるネアンデルタール人が、同系交配をしていたこともこの研究では示唆された。(AFP BB News より)


16日の「Proceedings of the National Academy of Sciences」誌オンライン版

フランス南西部の洞窟で、1908年に発掘されたネアンデルタール人の骨が解析された。

この骨は5万年前のもので、ネアンデルタール人はその後絶滅した。しかしアフリカ人以外の現生人類の遺伝子に、ほんのわずかな痕跡を残している。

また遺跡の再調査で、ネアンデルタール人が埋葬されていたことも確認された。


12月4日の「Nature」誌オンライン版

スペイン北部のシマ・デ・ロス・ウエソス(Sima de los Huesos)洞窟で人骨が発見された。調査の結果、この人骨は約40万年前のもので、原人と旧人の中間にあたる「ハイデルベルク人」のものとされた。

マックス・プランク進化人類学研究所がミトコンドリアDNAを抽出し、塩基配列の解読に成功。研究結果を「ネイチャー」誌に発表した。永久凍土層以外でこれまでに採取された中で、最も古いDNAだという。

ハイデルベルク人の遺伝的特徴は、ネアンデルタール人よりもシベリアのデニソワ人に近かった。デニソワ人の祖先とは70万年前に枝分かれしたと推定される。ネアンデルタール人とデニソワ人は、それぞれヨーロッパとシベリアに分布していたと考えられてきたが、今後は、両者の拡散ルートの見直しが迫られることになる。

研究員は、「デニソワ人とのつながりは意外だった。これが何を意味するのかは不明だ。細胞核のDNAを抽出できれば、デニソワ人の全ゲノムを解読でき、より詳しい結果が期待できる」と述べている。

http://livedoor.blogimg.jp/shosuzki/imgs/e/4/e4e94a3d.jpg


下衆の勘ぐりだが、これだけの知見が一挙に現れてきて、しかも発表元が同じというのが、ちょっと気になる。

一昔前に、日本で旧石器時代の化石が次々と見つかった頃と、どうも話が似ているような気がする。

誰かが追試すべきではないだろうか。


フランシスコ語録 つけたし

もうやめようと思っていたが、阿修羅の5月31日の投稿で、フランシスコ発言が載っており、今回の文書につながる過程を補強するものとなっているので、紹介しておく。

フランシスコ・ローマ法王が、。バチカン(ローマ法王庁)の外国大使の信認式で述べたもの。(毎日新聞記事)

見出しは「フランシスコ・ローマ法王が、現代社会の「拝金主義」を戒め、倫理に基づく金融市場改革を断行するよう、世界各国の指導者に呼びかけ」というもの。

カネは人間に奉仕するべきであり、人間を支配してはならない

現代社会で暴力や貧困が増えている理由の一は、「カネの力を受け入れる」人々の態度がある。「カネの崇拝、経済の独裁」は倫理の拒絶であり、神の拒絶だ。

市場の独立と金融投機の自由を絶対視する考えから貧富の格差拡大が生まれている。倫理にのっとり、すべての人々に利益をもたらす金融・経済改革を実施するよう政治指導者にもとめたい。

この記事で注目されるのは、

バチカンはこれまでもグローバル経済の弊害や、金融資本主義の行き過ぎに警鐘を鳴らしてきた。前法王ベネディクト16世も退位前の新年ミサで、世界に緊張をもたらす要因の一つとして「規制なき資本主義」を批判した。

というくだり。

これについて、ジョン・L・アレンという人が

「福音の喜び」は、フランシスコの前任者ベネディクト16世からの、とりわけ彼の2009年の社会回勅「真理における愛」(Caritas in Veritate) からの明らかな継続性という点に深い意味がある。

と書いている。

資本主義批判はフランシスコの専売特許ではない。もしフランシスコを共産主義者というなら、ローマ法王庁と歴代の法王を共産主義者と呼ばなくてはならなくなる。

ただ、歴代の法王に比べ、フランシスコがさらに一歩を踏み出しているのも事実であり、どこをどれだけ、どのように踏み出したのかを知る必要があるだろう。

目下のところ日本語ではそこまで分析したレビューはない。


オバマ大統領がフランシスコ法王をこう評価したそうだ。

彼はキリストの教えを説く者として驚くべき人間性と、社会の弱者、貧乏人にたいして思いやりを持っている。彼は、人々を避けるのではなく、抱きしめる、という事を一番に考える人だ。

フランシスコ法王の発言、日常の振る舞いはアッシジの聖フランチェスコを彷彿とさせるものである。

しかし、彼(グレゴリオ)が軍事独裁時代に大司教を勤めていたこと、2001年末に崩壊した国家の再建に邁進したキルチネルと対立を繰り返したことは、その言動に一片の疑いを差し挟む余地を与えている。

以下は新しいパパ様はサッカーがお好き


というページからの引用。

アルゼンチンでは、イエズス会は特に教育を中心に最も進歩的なカトリック教会の組織に属するとされている。しかし新法王自身は思想的にはむしろ主流派とみなされている。

このため左派寄りのアルゼンチン人の間での評価は分かれている。

弱冠36歳でイエズス会の長となったベルゴリオは、
「解放の神学」の運動にイエズス会が合流することを阻もうとした。

ベルゴリオの神学的立場は、「解放の神学」を抑えようとしたヨハネ・パウロ2世の見解に沿うものだった。

ベルゴリオはヨハネ・パウロ2世によってブエノスアイレスの補佐司教に指名され、法王への階段を上り始めた。

つまりスペイン系にありがちな肉食系ヒーローだ(日本人にはなかなか理解し難い)。いずれにしても今後に注目だ。

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