鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

13年4月、ぷらら・Broachより移行しました。 中身が雑多なので、カテゴリー(サイドバー)から入ることをおすめします。 過去記事の一覧表はhttp://www10.plala.or.jp/shosuzki/blogtable001.htm ホームページは http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」です。

2013年06月


頃は安政2年(1855年)、幕末のことである。
零細漁民が場所請負人の仕掛けたニシン漁の大網を切るという騒動があった。
背景はなかなかややこしいが、次のようなものである。
北海道を仕切っていたのは松前藩という大名。当時北海道は米が取れないので石高はゼロ、にしんや昆布の売上で藩財政をまかなっていた。
といっても武士は商売は苦手、商人に漁場を請け負わせて、そこからピンはねするという商売である。
この請負人は、最初は各地に運上屋という施設をたちあげて、現地のアイヌ人や和人の漁民から買い上げる商売だったが、これではウマミが少ない。直接企業を起こして現地の人を使役して、自ら漁業を営むようになった。

そこから3つの問題が発生してくる。
一つは乱獲だ。請負人には資本があるから大規模漁業をやる。大網を仕掛けて文字通りに真を一網打尽にする。当然資源は枯渇してくる。中小漁民の顎は干上がるという具合だ。
二つ目は、「場所」での階級関係が変化してくる。それまでは地元民は通商相手であり、「メノコ勘定」といっても基本的にはイーブンだ。しかし彼らを労働者として使役するようになると、状況は一変し、対立は先鋭化する。
3つ目は権力の変容だ。請負人が財力を持つようになれば、松前藩の政治を動かすようになる。藩は請負人の顔色をうかがうことなく政治を行うことはできなくなってくる。
別に汚職などやらなくてもよい。藩の財政は運上金で成り立っているわけだから、請負人が困れば藩も困るのである。
とは言っても、松前藩としては資源が枯渇しては困るわけで、そこがローカルな権力のローカルたる所以だ。
藩としてはこれまでは目をつぶってきたが、ここいらが限界ということで「大網禁令」を発することとなった。

ここからが一躍現代的な話となる。
「大網禁令」を受けた請負人たちは、「恐れながら」と箱館奉行所に駆け込んだ。

ここが話しの難しいところだが、実は当時の北海道は幕府と松前藩の二重支配構造になっていたのである。
安政といえば、時代劇のフアンにはお馴染み、幕末の「安政の大獄」という時代で、吉田松陰ら勤皇の志士が獄に繋がれ、最後に大老井伊直弼が桜田門城外で水戸藩浪士によって斬殺されるという時代である。
その背景にあったのはアメリカのペリー船長の黒船だが、本当のところ最大の脅威はアメリカではなくロシアだった。
そのロシアとの最大の接点となったのが北海道、千島、樺太だったのである。
それまで北海道を全面的に管轄していたのは松前藩だったが、19世紀の初めからは幕府が直接管理に乗り出すようになった。
その拠点が箱館奉行所だった。松前藩も箱館奉行所には頭が上がらなかったのである。

請負業者が「恐れながら」と申し出た内容は次のとおりである。
1.今はそういう時代か。もし北海道がロシアに奪われれば、資源も持続性もへったくれもないでしょう。
たしかにこれは説得力がある。
2.大網禁止は国家収入の減少をもたらし、経済的な国力の低下をもたらすのではないでしょうか。
これなんぞ、今の経団連の国際経済競争力の低下の論理と瓜二つ。
3.いったん事あれば軍事的にも請負業者の船舶、軍船の運転能力が必要になるでしょう。

これを聞いた箱館奉行所は、松前藩の頭越しに、大網の運営を許可することになる。

原発の論理が似たような軌跡をたどっているが、大企業の本質は変わらないということだ。


ペライア=ハイティンク・シカゴ交響楽団のモーツァルト23番が良い。
2008年9月9日(どうでも良いがリーマン・ショックの直前)、ロイアルアルバート・ホールでのライブだそうだ。シカゴ交響楽団にしてみれば海外公演、力は入っているだろうし、それなりの練習をして臨んだ演奏。ハイティンクを指揮者に選んだ理由も問われる。

ペライアっていくつなんだろう。
まぁモーツァルトなら歳は関係ないか。
この曲、ピアノの出にはかなり間がある。その間ハラハラさせられる。
ハイティンクはベートーヴェンの3番みたいな演奏をする。それが悪いわけではない。実に堂々たるものだ。それとシカゴ交響楽団との相性が良い。ハイティンクはこうしたかっちりしたオケとやるとグンと伸してくる。
長い序奏が終わってピアノが出てきた瞬間、思わずえっ?!と声が出てしまう。ほかならぬモーツァルトが出てくるのだ。
おそらく、録音のバランスは相当誇張されて捕られているのだろう。強音は少し濁る。
実際に会場で聞けば、もう少しピアノの音は引っ込んで聞こえたと思うが、中身では負けていない。
あのペライアの音が間違い無く聞こえてくる。粒立ちの良い、ダイアでなく真珠の輝きを持った音だ。
オケが目一杯頑張って、ピアノがそれに引きずられずにモーツァルトを弾ききるというのはすごい。
典雅なモーツァルトとは程遠いが、これもありだと思う。モーツァルトでこんなに緊張させられる経験は初めてだ。

すみません、知りませんでした。
二人は出来ていたんですね。
ペライア・ハイティンクのコンビでモーツァルトやベートーヴェンの協奏曲をあちこちでやりまくっているようです。
ペライアはモーツァルトの協奏曲全集を出した後、一時指の不調で引退したが、最近はバリバリ現役のようです。


ヒズボラの戦闘についての追補ということです。かなり途中が抜けていますが、機会があれば埋めて行きたいと思います。

1996年

96年 イスラエル国内で連続爆弾テロ。ヒズボラの犯行としたイスラエル軍はレバノン南部を空襲。怒りのブドウ作戦と名付けられる。レバノンで難民救援活動を行っていた国連レバノン暫定駐留軍フィジー軍部隊のキャンプが、イスラエルの集中砲撃を受ける。


2000年

5月 イスラエルのバラク政権、レバノンらのイスラエル軍の一方的撤退を発表。イスラエル軍は電撃的に南レバノンから撤退。南レバノン軍兵士の多くはヒズボラなどに投降。南レバノンのヒズボラの力は強化される。


2004年

9月 国連安保理、米仏の提案による「レバノンからの外国軍撤退」決議を採択。ラフィク・ハリリ首相は安保理決議の完全実施を主張し、ラフード大統領と対立、辞任する。

2005年

2月14日 ハリリ元首相が爆弾テロにより暗殺される。レバノン国内では各地で激しい反シリア・デモが起きる。米国はシリアの関与を疑い、完全撤退をもとめる。

4月 「杉の革命」、国連や欧米各国もシリア軍撤退を強く要求。シリア軍1万4千がレバノンから撤退する。


2006年

5月 ヒズボラ、イスラエル北部国境の町キリヤット・シュモネにロケット弾を撃ちこむ。また、射程100kmの新ミサイルを使用し、ハイファ近郊に着弾する。レバノン南部でヒズボラとイスラエル軍の緊張が高まる。

7月12日 ヒズボラがイスラエルの攻撃を開始。イスラエル軍兵士2名を捕虜にする。

午前9時にイスラエルに向け迫撃砲及びカチューシャ・ロケットを撃ち込む。この砲撃でイスラエル側に11名の犠牲者を出す。直後に突撃隊が国境を侵犯。偵察中の部隊に向かって対戦車ミサイルを撃ち込む。この攻撃でイスラエル軍兵士3名が死亡。さらに2名を捕虜にする。戦車で追撃したイスラエル軍は触雷し乗員4人が死亡。さらに脱出した1人が狙撃された

7月12日 イスラエル軍が南部の幹線道路・発電所などを報復空爆。さらに空爆はベイルート近郊のシーア派地域など全土に拡大される。

7月12日 ベイルートのラフィク・ハリリ国際空港、テレビ局、電話局など公共施設が破壊され、港湾は海上封鎖される。レバノンの国家機能は麻痺状態に陥る。

7月17日 イスラエル特殊部隊が越境攻撃を開始。

7月22日 メルカバ戦車を先頭に地上軍本隊が越境、2つの村を占領した。ヒズボラは地下トンネルのネットで対抗。対戦車ミサイルで大きな損害をあたえる。

7月27日 イスラエル軍、国連レバノン暫定軍の施設を砲撃。中国、フィンランド、オーストラリア、カナダの監視要員ら4人が死亡。中国政府は国連安保理に非難決議を提案するが、アメリカの反対で握りつぶされる。

7月29日 イスラエル地上軍、“任務を完了”し撤退。拉致された2人の行方は不明のまま。

7月30日 南部の町カナでイスラエル軍の「誤爆」により37人の子どもたちをふくむ56人が死亡、多数の負傷者が出る。

7月31日 イスラエル軍がレバノン南部での空爆を48時間“人道的”停止を発表(実際には継続)。

8月1日 イスラエル特殊部隊がベッカー高原のバールベックへの空爆。レバノン市民18人が死亡。

8月2日 イスラエル軍、国際世論を無視しレバノン全土に対する空爆を再開する。南部ではイスラエル軍とヒズボラの地上戦が再開。

8月3日 レバノンのシニオラ首相、イスラエル軍の攻撃でこれまでに900人以上が死亡、3000人が負傷し、人口の4分の1の約100万人が避難所生活を余儀なくされていると述べた。

英国の「セーブ・ザ・チルドレン」は、レバノン攻撃による死者数は615人で、子どもが33%を占めているという。ユニセフは、100万人近くのレバノン人が避難民となっており、その45%が子供だと発表。

8月4日 ベッカー高原のカアに空爆。農夫33人が死亡した。

8月6日 ヒズボラがイスラエル北部の都市キリヤトシモナにロケット弾攻撃を加え、12人のイスラエル軍兵士が死亡、6人が負傷。

8月7日 レバノン政府、イスラエル軍の攻撃による死者が1000人に達したと発表。イスラエルを批判する国際世論が沸騰。

8月11日 アメリカを含む国連安保理が停戦決議を採択。

8月13日 イスラエルが、国連安保理決議の受け入れを表明。小規模な空爆や戦闘は継続した。この間、イスラエル軍は1800発に及ぶクラスター爆弾を投下。

8月14日 停戦が発効する。イスラエル軍は国境沿いの数ヶ所を除き、レバノン領内から撤退。イスラエル軍は累計100人以上の戦死者を出しながら、ヒズボラの拠点建物や地下施設を完全に破壊することは出来ず、拉致兵士2名の解放も実現できなかった。

9月 イタリア軍を主体とする国連レバノン暫定軍が進駐。

10月1日 イスラエル軍、レバノン領内から撤退。

大変だ。
アップするときに、年表の真ん中が抜けてしまった。
アップする頃は大分出来上がっていたから、やっちまったのだが、まだ原稿残っているだろうか。
これだけのポカは久しぶりだ。

ありました!
残っていました。

昨日、その2 と書いたのが、その3 になります。
これが その2 で、年表のアンコの部分です。
1980年から90年までの11年分です。

その3 はこれを入れた後、あらためて入れ直しますので、この記事の上の上になります。

もう少し足した上で、そのうちホームページの方にまとめて入れます。



1980年

80年 LF、東ベイルートとベッカー高原を結ぶ軍事道路を建設・整備。これを支援するイスラエル軍とシリア軍が戦闘。イスラエル空軍の戦闘機がシリア空軍のヘリコプターを撃墜。シリアは、"レッドライン協定"を無視し、地対空ミサイルをベッカー高原に配備する。

9月22日 イラン・イラク戦争が始まる。シリアはイランを支持する姿勢を明確に示す。(敵の敵は味方という論理)

1981年

2月 シリア政府、国内のスンニ派勢力に厳しい弾圧。シリア・ムスリム同胞団の活動家を虐殺する。「ハマーの虐殺」と呼ばれる。

81年 レバノン・フォースとシリア軍とのあいだに戦闘が発生。イスラエル国防軍は、すぐさまレバノンとの国境を越え、シリア軍と交戦。ベイルートのPLO本部オフィスを含む拠点を爆撃する。

81年 イスラエル・シリア間の緊張は、米国の仲介によりいったん沈静化する。シリアは武装闘争派への統制を強化。

81年 PLOはレバノン国内からイスラエルへ向け、ロケット攻撃を激化させる。

81年末 イランでの非ホメイニ派粛清を機に、アマル運動とイランとの関係が断絶。アマル運動はイラン革命防衛隊の派遣を拒否。

1982年

3月 イランとシリア、通商協定および軍事協定を締結。シリア、イランと連携しイラクに対する側面攻撃を開始。

6月03日 ロンドン駐在のイスラエル大使シェロモ・アルゴブが、元PLO(アブ・ニダル)のテロリストに襲われる。PLOはすぐさま事件との関わりを否定。シャロン国防大臣は開戦を煽る。

6月06日 イスラエルがPLO殲滅を主目的とする「ガリラヤの平和」作戦を開始。レバノンのSLAとレバノン・フォース、さらに南部アマルの一部も加わる。

6月11日 イランの第27 旅団先遣隊と国軍第58 レンジャー部隊が空路ダマスカスへと到着した。シリアはレバノン入国を許可せず、そのままイランに戻った(とされる)。

6月12日 イスラエル軍がベイルート近郊に到達しシリア軍と戦車戦。国産戦車メルカバがソ連の最新鋭戦車T-72を多数撃破。

6月13日 イスラエル国防軍はPLOの本部がある西ベイルートへ突入。PLOに国外退去を迫り、砲撃で威圧する。その後、包囲は2ヶ月におよぶ。

レバノン国民抵抗戦線: PLOとともにベイルート市街戦を戦った武装組織として、「レバノン国民抵抗戦線」がある。これには進歩社会党、レバノン共産主義行動組織、アマル運動の左派(レバノン・ムスリム・ウラマー連合)が加わった。

6月20日 アマル運動の指導部、PLO の対イスラエル闘争を無謀な冒険主義であると批判。IDF に対する抵抗を続けていた一部のアマル運動のメンバーに対して,武器を置き,戦闘を停止するように命令。

6月 アマルの副書記長フセイン・ムサウィの率いるベイルート周辺のアマル部隊が、イスラエル軍と衝突。

6月 サルキス大統領、「救国委員会」を組織。米政権の仲介のもと,外交を通してイスラエルとの停戦交渉によって事態の解決を目指す。アマルも委員会への参加を決定。

7月 フセイン・ムサウィー、「イスラエルとの停戦は反イスラーム的行為である」と執行部を批判して追放される。手兵を率いイスラミック・アマルを設立する。

7月 ベカア高原のバアルベックで3つの親ホメイニ・グループが結集し「9名委員会」が創設される。のちに単一組織「ヒズボラ」に発展。

3つのグループとは,①「イ スラーム・アマル運動」(代表フサイン・ムーサウィー),②「レバノン・イスラーム・ダアワ党」および「ムスリム学生のためのレバノン連合」(代表スブ ヒー・トゥファイリー),③「レバノン・ムスリム・ウラマー連合」(代表アッバース・ムーサウィー)であった。

8月21日 最後まで抵抗を続けたPLOが停戦に応じる。アラファト議長はアメリカの仲介でベイルートを放棄を決定。アメリカはパレスチナ人難民の安全保障を目的とする平和維持軍の派遣に同意する。

8月30日 アラファト議長らPLO指導部および主力部隊1万2千人がチュニジアへ向かう。残留パレスチナ難民保護のため、アメリカ、イギリス、フランス、イタリアなどが多国籍軍の派遣を決定。

8月 大統領選挙。LFの若手指導者バシール・ジェマイエルが当選。イスラム教左派は選挙をボイコットする。

8月 フサイン・ムーサウィーら、ダマスカスで駐シリア・イラン大使と会見し、支援を取り付ける。イラン革命政府は革命防衛隊,少なくとも800 名をレバノンへ派遣。ムスリム・ウラマー連合への軍事訓練を開始する。

9月14日 バシール・ジェマイエル、LF本部に仕掛けられた爆弾で暗殺される。 シリア情報部の工作員の犯行といわれる。これに代わり兄のアミーン・ジェマイエルが大統領に就任。

9月 エリー・ホベイカ率いるLF部隊、ジェマイエル暗殺に対する報復のためパレスチナ難民キャンプを襲撃。サブラーおよびシャティーラのパレスチナ難民キャンプに侵入し大量虐殺を行う。シャロン国防相はこれを黙認。イスラエル国防軍は虐殺を止められなかった責任でシャロン国防大臣を解任。

82年秋 LFと再建された政府軍がレバノン中部のシューフ山地を攻撃。「山岳戦争」と呼ばれる。

山岳戦争: シューフ山地はもともとドルーズ派の本拠地であった。イスラムはドルーズ派にアマル派の一部も加わり激しく抵抗した。
政府軍は多国籍軍に空爆や艦砲射撃による援護を要請。ベイルートに駐留する多国籍軍は政府軍に軍事援助を行い、戦艦ニュージャージーからの150発にも上る艦砲射撃や、空母艦載機による空爆などを行った。
民間人もふくめた大量殺戮が横行、「捕虜の存在しない戦争」といわれた。

11月11日 9人委員会の軍事部門「イスラーム抵抗」が「殉教作戦」の開始。南部の都市スールのイスラエル軍兵営に突入し自爆。90名以上の死者を出した。うちイスラエル軍兵士は74名。

 

1983年

4月 第2回目の殉教作戦がIDF の車列に対して行われ,9 名が死亡。

4月18日 ベイルートのアメリカ大使館に自動車爆弾特攻攻撃。63人が死亡(米国人17名、うち8人がCIA職員)、120人が重軽傷を負う。「イスラム聖戦」名の犯行声明が出される。

10月23日午前6時30分 アメリカ海兵隊の兵舎に自動車が突入し自爆。死者241名、負傷者60名以上を出す。ついでフランス空挺師団の兵舎も攻撃され死者58名、負傷者15名を出す。

特攻隊員はメルセデスのバンで検問を突破し、空港に侵入。駐車場を二度ほど回り、ターゲットに狙いをつけたあと司令部のあるビルに突入した。

11月4日 スールのイスラエル軍兵営に自爆テロ。死者60名以上、負傷者30名以上 死者のうちIDF兵士は29名、ほかは捕虜となったレバノン・パレスチナ人。

12月3日 シリア軍がアメリカ軍機に発砲。 アメリカ軍は空母ジョン・F・ケネディ と空母インディペンデンスの艦載機F-14トムキャットでシリア軍に攻撃を加えるが、対空砲で2機の戦闘機が撃墜される。

1984年

2月26日 アメリカ海兵隊の撤退。つづいてフランス軍とイタリア軍も撤退。

アマルやドゥルーズ派はシューフ山地の奪還に成功。西ベイルートからも国軍を放逐する。シリアの経済的・軍事的支援を受けたアマル運動が国内の勢力を拡大。国軍のイスラム教徒はアマルに合流する。

3月 シリア、アマルを中心に民兵組織指導者の「国民和解会議」を開催する。レバノン政府の存在は完全に無視される。

5月 9人委員会の発行物のなかで、初めて「ヒズボラ」の名が用いられる。

6月6日 スール近郊でイスラエル軍の車列が地雷攻撃を受け、負傷者9名を出す。

6月18日 ヒズボラ、機関誌の準備号を発刊し無料配布。特集「レバノンにおけるイスラーム革命の声」が組まれ、「イスラエルの存在を根絶することは,我々すべて1 人1人の義務である」と宣言。

9月20日 「イスラム聖戦」がふたたび米大使館(別館)に自爆テロ。死者14名(米国人は2名)を出す。

 

1985年

2月16日 ヒズボラが公開書簡の発表を通して存在を明らかにする。イスラエルを敵としアマルとも敵対、パレスチナ人を支持すると発表。

1986年

86年 シリア軍とアマルによるパレスチナキャンプへの攻撃(キャンプ戦争)。

86年 イラクの支援を受けた国軍のミシェル・アウン将軍(マロン派)、シリア・PLOの排除と民兵組織解体による政府・軍の樹立を掲げ影響力を拡大。イラクはイラン・イラク戦争の終結で余剰となった武器弾薬や車両を提供する。

1987年

87年 アマルがヒズボラと交戦。シリアはアマル支援のためレバノンに再侵攻。イランと交渉し、ヒズボラの存続と引き換えにシリア軍の進駐を認めさせる。

1988年

1988年 アミン・ジェマイエル大統領の任期が終了。アミンはレバノン軍参謀総長のアウン将軍(キリス ト教)を首相に任命した後、亡命同然にアメリカへ移住。アウンは全国民に、レバノンの主権回復のためシリアに対し武装抵抗せよと呼びかける。

88年 シリアはベッカー高原のラヤク空軍基地に国会議員を召集しルネ・ムアワドを大統領に就任させる。この結果、反シリアのアウン軍事政権とシリア派のムアワド政権が併存する事態となる。

1989年

10月  レバノン内戦終結をめざし、サウジアラビアが乗り出す。サウジアラビアの仲介で、レバノンの国会議員団が、内戦を終結し国家再建を目指す和平案を提示。サウジのターイフで会議が開かれたことから、「ターイフ合意」と呼ばれる。

11月24日 アミン・ジェマイエル前大統領が暗殺される。これに代わる新大統領に親シリアのハラウィ海軍将校ハラウィが就任。ハラウィはアウン首相を解職。アウン将軍はこれを無視。

89年 シリアと多くの武装組織が「ターイフ合意」を承諾。ヒズボラも消極的賛成にまわる。アウン将軍派は受け入れを拒否、南レバノン軍は合意そのものを黙殺する。

1990年

90年 イラクのクウェート侵攻。第一次湾岸戦争が発生。シリアは多国籍軍側にたち、米国にレバノン駐留を認めさせる。

90年 アウン派とシリア軍が対決。シリア軍とレバノン・フォースが共同し、アウン将軍の部隊に総攻撃。戦車や長距離砲、ロケッ ト砲を用いた大規模な戦闘となるが、アメリカの黙認を受けたシリアの攻撃によりアウン派政府軍は崩壊。アウン将軍はフランス大使館に逃げ込み、亡命を要求。

90年 民兵組織指導者が閣僚に就任した挙国一致内閣を樹立。シリア軍3万人が東ベイルート、ジュニエなどのマロン派の本拠地に進駐。民兵組織を武装解除して内戦を終結させる。

90年 内戦が終結。15 年間に,13 万から25 万人もの死者と,100 万を超える負傷者を生んだ。パレスチナ難民は市民権をレバノン政府によって剥奪され、PLO系の軍事組織は武装除され、社会的な保障も無くなり、パレスチナ難民キャンプはスラム化する。

 

レバノン内戦年表

 

パレスチナ年表に一緒に入れていましたが、あまり事項が多すぎて、本来の流れが分からなくなるため、別表としました。基本としては1975年から90年までですが、若干前後に伸びています。
ちょっとヒズボラに比重が行き過ぎていてヒズボラ年表みたいですが、ご容赦の程を。
ヒズボラの輝ける伝統からすれば、アサドに肩入れしてシリアの民衆弾圧の側に回っているのはきわめて残念なことです。最近は国会議員先生になって、SUVなんか乗り回して堕落してしまったとの噂もチラホラと聞こえてきます。

 

1972年

11月 レバノン内でのPLOの存在と活動を保障するカイロ協定が結ばれる。PLOがレバノンの主権を尊重することを条件に、レバノンがPLOに難民キャンプ内でのPLOの行政権と,武装部隊の配置,また南レバノンへの移送ルートの確保を認めた

1972年

72年 レバノン、国内南部にPLO訓練基地を与える。

1974年

10月 アラブ首脳会議(ラバト会議)においてPLOは,パレスチナ人の唯一の合法的代表として認知される。

11月 パレスチナ、国連におけるオブザーバーの資格を獲得する。

1975年

1975年4月

4月13日 アイン・ルンマーネ事件が発生。銃撃戦により27名が死亡レバノン内戦の始まりとされている。

4.14 衝突はトリポリ、サイーダにも拡大。100名以上が死亡する。不毛の内戦の始まりとなる。

4.16 レバノン両派の衝突は、アラブ連盟事務総長とシリア外相の調停工作で一旦停戦。

1975年5月

5.13 ファランヘの党員4名が何者かに射殺される。ファランヘはPLO事務所を襲撃

5.19深夜 ベイルート東部デクタワー地区(マロン派支配区)で、パレスチナ・ゲリラとファランヘ党 武装グループとの戦闘。

5.23 内閣が衝突の責任を取って辞任。右派の軍人政権が成立する。これに対し、イスラム教徒・左派政党などが全土で激烈な反対運動を展開。ドゥルーズ派の指導者カマール・ジュンブラートは、親ソ親PLOの立場を取り、宗派の違いを越えた汎アラブ主義を唱える。

5.26 軍人政権も3日間で総辞職。左右双方の民兵組織が抗争を繰り広げる。各組織がベイルート市内のホテルを占拠・要塞化したためホテル戦争と呼ばれる。

ホテル戦争: 毎週末になると、イスラム教・キリスト教の民兵組織による激しい戦闘が繰り返され、月曜の朝には死体が散乱していた。このことから"ブラック・マンデー"と呼ぶ。ベイルートの街は、イスラム教徒やパレスチナ難民の多い西ベイルート地区と、キリスト教・マロン派が多く居住する東ベイルートに分裂。両者の境界は"グリーン・ライン"と呼ばれる。

7月 「剥奪された者たちの運動」が憲章を採択、「パレスチナは,運動の中心であり,その解放は我々の基本的義務である.またシオニズムは,レバノンの未来に対する脅威である」と宣言。シーア派の武装組織「レバノン抵抗大隊」(略称アマル)を創設。のちに運動そのものが「アマル運動」と呼ばれるようになる。

イマム・ムーサー・サドル: 60年、イランからシーア派の宗教指導者としてレバノンに入る。「剥奪された者たちの運動」を組織。シーア派は人口比では最大のセクトだが、政治的にはこれまで疎外されてきた。

 

1976年

2月 この頃、両派の抗争は左派有意に傾き、ファランヘ党などのマロン派民兵組織は東ベイルートやジュニエなどに閉じ込められる。

2月 レバノンのPLO化を恐れるシリア政府、「ダマスカス合意」と呼ばれる政治改革案を提示する。内戦以前のレバノンの力関係の維持・固定をめざすもので、ドゥルーズ派やPLOなど左派の反感を買う。

3月11日 国軍のアハダブ准将(イスラーム)がクーデターを起こす。

5月 シリアは、“レバノン政府の要請を受け”軍事介入を決定。米国の仲介で"レッドライン協定"を結んだ上、ベイルートに進駐。無政府状態の中で大統領選挙を進め、 シリアの傀儡政権を樹立させる。

レッドライン協定: シリアとイスラエル双方の直接対決を回避するため、シリア軍部隊の駐留場所や兵器の種類・数量などを詳細に取り決めたもの。ベイルート以南に旅団規模を上回るシリア軍主力部隊を駐留させず、レバノンにおいてイスラエルを射程圏内に 収める長距離砲・ミサイル・ロケット弾を配備せず、また、一切の戦闘機・爆撃機をレバノン国内に駐留させないという不文律の協定。またキリスト教徒側への攻撃を行わないとの合意もふくまれる。

5月 シリア、周辺諸国の反発を抑えるため、中東各国にレバノンへの軍の派遣を要請してアラブ平和維持軍を設置、自らのレバノン介入を正当化する。

5月08日 シリア軍の統制下に臨時内閣が組織される。閣議決定によってエリアル・サルキスが暫定大統領に選ばれる。アラブ平和維持軍(実体はシリア軍)が治安回復に乗り出す。ジュンブラートはシリアを裏切り者と非難。

8月30日 。レバノン正規軍東部軍管区司令官のサード・ハダット少佐の呼びかけで、マロン派民兵組織が組織統一。レバノンフォース(LF)が創設される。イスラム・左派に対抗するためイスラエルの支援と介入を求める。

レバノン・フォース: ファランヘ党を中心に・自由党・タンジーム党・レバノン防衛隊の武装部門が合併。反シリア・反パレスチナを標榜するファランへ若手のバシール・ジェマイエルが司令官となる。

9月26日 パレスチナゲリラ、シリアの首都ダマスカスのホテルを襲撃。シリア軍は24時間にわたるPLOへの攻撃を開始。PLOはダマスカス西方の山岳地帯からの撤収を余儀なくされる.

10.25 第8回アラブ首脳会議がカイロで開催。シリアのレバノン進駐を了承。PLOに「レバノン主権の尊重」を認めさせる。

1977年

3月 イスラム勢力の中心的役割をはたしてきた国民進歩戦線の指導者カマール・ジュンブラットが暗殺される。ジュンブラットは少数派のドルーズ派出身でありながら、社会進歩党党首としてPLOや左派勢力とも良好な関係を築いてきた。

1978年

2月 LF部隊がシリア軍に武力挑発。シリア軍は"レッドライン協定"を無視し東ベイルート市街まで追撃。イスラエルはこれをレッドライン協定の違反と判断。レバノン南部侵攻作戦を発動する。

3月15日 イスラエル、特殊部隊と空軍機を出動させ南部侵攻を開始。PLOをロケット砲の射程圏外まで追い出す。

リタニ作戦(Operation Litani): リタニはレバノン南部を流れる川の名前。7日間の戦闘でイスラエル軍死者は37 人。一方,パレスチナ人とレバノン人は1100 人以上が死亡し,その大半が一般市民であった。

3月 イスラエルは南レバノンを「安全保障地帯」と名づけ、そのまま居座りを図る。

安全保障地帯Security Zone): リタニ川以南のレバノン領がふくまれる。レバノンの総面積約11% におよぶ住民の大半を占めたシーア派は移住を余儀なくされた。

78年 イスラエル軍、国連の介入により撤退。国連は戦闘停止と住民保護のためUNIFIL(国連南レバノン暫定軍)が派遣されるが、実効支配はできず。

78年 イスラエル、「自由レバノン軍」をでっち上げ、リタニ川以南の間接支配を続行する。

自由レバノン軍: 反PLO・反シリア・親イスラエルを唱える結成された。レバノン正規軍東部軍管区司令官のサード・ハダット少佐が司令官に就任。のちに「南レバノン軍」に改称。

8月 アマルの指導者サドル、リビアを訪問中に失踪。弁護士のナビー・ベリリが後継者となり、シーア派の利益を追求する世俗的政策を推進。

10月 イランでシャー体制が崩壊し,イスラム革命が勝利する。アマル運動は戦闘員500名を革命前夜のイランへ派遣。非ホメイニ派と行動を共にする。

78年 アラブ平和維持軍は撤退したが、シリア軍だけはそのままレバノンに駐留

1979年

2月 イラン革命政府、レバノンのシーア派を支援するため、パスダラン(イラン革命防衛隊)を送り込む。アマルはパスダランの援助を断り、シリアに接近。

12月 ソビエトのアフガニスタン侵攻が開始。アラブ世界では民族主義に代わってイスラム主義が勢力を伸ばす。

79年 シリアとイラクとの統一協議が失敗に終わる。アサドはイランに軸足を移す。

今朝のニュースを聞いたら、参議院最終日の昨日、随分と荒れたようだ。
まったく青天の霹靂で、さっぱりわけがわからない。
ニュースで分かった範囲では、野党から安倍首相の問責決議案が提出されて可決。アオリを食らった電力事業法案と生活保護関連法案が廃案になったそうだ。
ニュースでは発送電分離が先送りになったこと、生活保護受給者の自活に向けての施策が実現しなかったことを非難していたが、果たしてそういう問題なのか。一国の首相が国会から問責されたことのほうがはるかに深刻な問題ではないのか。
早速赤旗を読む。
はるかに詳しく書かれていて、各党の動きもよく分かる。しかし今ひとつスッキリしない。
やはり事実経過がリアルに再現されないと、事の評価は困難だ。

最初は、半ば永遠に政権を去ることになるだろう民主党の最後っ屁と考えていた。しかし問責決議採択後の民主党幹事長の談話を見ると、どうもそうではない。民主党はむしろ最後まで問責決議をためらっていたようだ。
だとすると、誰が問責決議を推進したのか、そもそも何故問責決議なのかが分からない。前回野田首相に対する不信任では財界が相当動いた。今回はどうだったのだろうか。マスコミはどう動いたのだろうか。

そういうわけで、とりあえずネットで集められる範囲で情報を収集してみた。

NHKニュース 6月26日 13時8分

これが最終報。

ただし、この件では・ 首相問責決議案 参院本会議で可決へ (6月26日 12時14分)

首相問責決議案 参院で採決へ (6月26日 11時31分)

平田参院議長の不信任案 26日採決へ (6月25日 22時18分)

野党3党 首相への問責決議案を提出 (6月25日 20時47分)

と4件の経過報がある。それ以前のものはすでに消えている。

これらを総合すると、

24日 衆議院の小選挙区の区割りを見直す法律が衆議院で再可決。与党側は、参議院で法律の採決が行われなかったことを批判して、平田参議院議長に対する不信任決議案を提出。

24日 石井参議院予算委員長(民主党)、委員会の集中審議を開催することを職権で決定。

24,25日 安倍総理大臣と閣僚や与党側の委員が参議院予算委員会の集中審議を欠席。(報道では欠席の理由は不明。平田議長への不満の表明であることが示唆されている)

24日 民主党、不信任決議案や問責決議案への対応を協議。結論は出ず、海江田代表と細野幹事長に一任する。国対委員長が「不信任決議案などを提出すれば法案がすべて廃案になってしまう」と反対するなど大勢は否定的。

25日 参議院議院運営委員会の理事会が開かれる。2つのことが話し合われた。
①26日午前に参議院本会議を開いて、平田参議院議長に対する不信任決議案の採決を行う。これは決定した。
②議長の不信任決議案が採決されたあと、参議院の各委員会を開く。電気事業法などの改正案が可決されれば、午後に参議院本会議を再開して採決を行う。これは決定ではなく与党側と民主党の意向。

25日午後 民主党など野党8党が幹事長・書記局長会談。国会対応を協議する。会議の席上、生活の党(小沢派)が問責決議案を提出する意向を示す。
これに対し、民主党は電気事業法の改正案などの成立を優先させたいとする。

25日午後6時 野党三党(生活の党、社民党、みどりの風)が問責決議案を平田参議院議長に共同で提出した。提案理由は、「安倍総理大臣と閣僚が、国会の要請にもかかわらず、参議院予算委員会の集中審議を欠席したこと」であり、これが「憲法に違反する行為だ」とするもの

26日午前 参議院議院運営委員会の理事会で取り扱いが協議された。与党側は、参議院本会議で問責決議案の採決を行わないよう求めた。しかしみんなの党はこれを拒否し折り合いがつかなかった。

26日午前 民主党の海江田代表、「安倍総理大臣に対する問責決議案よりも、とにかく真っ先に平田参議院議長に対する不信任決議案の処理をし、国民の生活に影響のある法案をしっかり通さなければならない」と述べる。
この後「与党側に何度も言っている。順番はそういうことで決まっているはずだ」と意味不明のコメント。

26日午前 民主党は議運理事会の討議を踏まえ、幹部が国会内で対応を協議。
①電気事業法案などの採決を優先すべきだが、安倍首相の対応は見過ごせない。
②参議院本会議に問責決議案が上程されれば、賛成せざるをえない
という認識で一致

26日午前 引き続き参議院議院運営委員会が開かれ、採決が行われた。野党側(民主党、共産党をふくむ)の賛成多数で緊急上程が決まる。

26日午前11時 参院本会議が開かれる。平田参議院議長に対する不信任決議案が否決された後、安倍首相の問責決議案が採択された。賛成は3党に加えて、民主党、みんなの党、共産党、日本維新の会など。

26日昼 参議院はそのまますべての審議を中断。電気事業法の改正案などは、採決が行われないまま廃案になる。

これで経過のあらましが分かった。

出席拒否の理由であるが、ロイターによれば

与党は、24日、25日の予算委員会開催は石井一委員長が職権で決めたもので与野党の合意がないというのが理由のようだ。平田参議院議長の不信任案が提出されていることも理由にあげているようだが、これは説得力がない。

26日午前の民主党の大転換については読売が下記のごとく報道している。

当初、与党と民主党は問責決議を採決せずに4法案を優先する方向だった。だが議運理事会でみんなの党が問責決議の採決を強く主張したために、民主党は野党共闘を優先して一転、採決に応じることにした。

ということで、都議選の影響がモロに反映されていることが分かる。
民主党はトップからして動揺している。
1時間前に言ったことと逆の結論が出てくる。

前与党としての立ち位置にこだわりたいのと、完全野党として対決姿勢を強めるのと、思いが割れていることが分かる。

まぁいずれにしても参議院選挙が終わるまでの話だろうけど。

最終的な議論の落ち着きどころが見えてきた。
問題はこうなる。

人を大事にするか、それとも利益か

これは国の原則でもあるが、経営の原則でもある。
今の経団連主流は明らかに利益が第一である。第一であるというより、すべてだ。
彼らは基本的就業構造を、育成型から略奪型構造に変えようとしている。
彼らがほしいのは人材ではなく才能なのだ。
しかし才能というのは属人的なものだ。
使い捨てしていけばいずれは枯渇する。焼畑農業みたいなものだ。
おそらくその時は畑そのものを捨てて、別な所で焼き畑をするのだろう。それがグローバルというものである。

これでは持続型の発展は望めない。それどころか至る所で砂漠化をもたらすだけであろう。

才能というのは人間の花に当たる部分で、根があって、茎があって、葉があって初めて咲くものである。人を育てなければ花は咲かない。肥料ももちろんだが丹精を込めることが大事なのだ。

そのことは97年以来の経験で十分分かっているはずなのだが、経団連幹部の暴走に誰も異を唱えようとはしない。

アメリカが怖いからなのだろうか。


まぁ、“たかが都議選”だから大はしゃぎする必要はないが、「自公圧勝、民主・維新惨敗」というところしか見ないメディアの没思想性も困ったものである。

都議選における共産党の躍進は、全く新しい流れとして読み解く必要があるのではないか。

共産党にもかつてブイブイいわせた時代があった。しかしそれは過去の話だ.

過去の流れの延長線上に捉えれば、たしかに「敵失によるたまたまの勝利」という見方が出てくるかもしれない。

しかしそれではこの変化を見誤るのではないだろうか。

もっと大づかみに70年代という時代と今の時代を比較して、経済構造の変化を把握した上で、考える必要がある。

そして政策的な分岐をクリアーに整理した上で、日本の進むべき道を考えなければならない。

「自共対決」という基軸は、その中で自ずから浮かび上がってくる。

この基軸を視座として踏まえれば、今回の選挙結果は決して“小さな、偶発的なもの”ではない、と言えるだろう。

小状況として捉えても、今回の躍進は全く新しい流れである。

共産党は70年代の共産党ではない。これはイメージとしてだ。

活動家にとては、主観的には首尾一貫した、戦前からの伝統を引き継ぐ政党であるが、周囲の見る目は相当変わっている。

この40年の間に、ソ連・東欧の崩壊があり、スターリニズムは過去のものとなった。

ソ連や中国、北朝鮮を指して、「だから日本共産党は駄目だ」という攻撃も過去のものとなりつつある。

その代わりに、「正しいが無力な党」というイメージが定着しつつある。

「正しい党」が「無力」でなくなればどうなるのか、俄然、民衆の興味を引き付けることになるであろう。

彼らにとって、共産党(をふくむ革新勢力)は全く新しい選択肢として登場することになるだろう。

歴史はつねにジグザグを繰り返す。しかしその中にはまったく偶発的なものと、本質的な傾向を内包したものがある。

そこを踏まえた分析と評論が望まれる。

都議選での躍進は20年ぶりの恋のように心ときめくものである。

この勝利の意義は何よりも、自民党型政治にかわる受け皿レースで一歩先に出たということにあるだろう。

とくに「共産党の言っていることはいいけど、力がないから」と言っていた人たちに、大きな刺激となるだろう。

コマーシャルではないけど、「どこに入れますか、共産党しかないでしょう」という言葉がスっと入る雰囲気だ。

この雰囲気というのが大事だというのは、アベノミクスが良い例だ。

テレビや新聞はあっけにとられている。主見出しに「共産党・躍進」は出てこない。

解説や分析の中でも、低得票率だとか、維新のズッコケでタナボタだとか、みんな最下位当選のギリギリだとか、投票数は下がっているだとかという分析ばかりだ。なんとか躍進を言葉でかき消そうとする意図が窺われる。それだけショックだったのだろう。

今回の勝利を「歴史的な勝利」と力むほど若くはなくなってしまったが、日本の政治の流れを変えていく上で、その意味を過小評価してはいけないと思う。

選挙屋の分析ではなく、しっかりした政治評論家の分析はこれから出てくるのだろう。

政策論戦の場ではすでに、自民党型政治に代わる受け皿としては共産党しかないことはかなりはっきりしてきている。民主党でもみんなの党でも維新でもない。

ただそれが実際の選挙戦の場面に反映されるにはかなり時間がかかるだろうし、権力メディアはそれを極力抑えようとするだろう。より共産党に近い中間政党が「つなぎ」として登場する可能性もある。

しかしそれはいつかは出てくる。東海大地震がかならず来るように。

怒涛のような民主党ブームを作り出した深部の力は、そうせずには居られないだろう。

それが「今でしょう!」とは、なかなか行かないだろうが。


以下はアルコールが入ってからの、半ば愚痴、半ば強がり

我が家のバカ息子は、いっぱしの政治談義はするくせに、いつも棄権だ。

いつかは、「今度は投票するぞ」といって出かけたが、「みんなの党」だった。

いじめられているやつほど、いじめられていることに気がつかない。

そのくせ、「団塊の世代が俺たちの給料を横取りする」と八つ当たりしてみせる。

きっと生活保護世帯にも同じ言葉を投げつけるのだろう。

「まったく、親の顔が見てみたい」という言葉が降り掛かってくるのが、我らが団塊の世代である。

出口調査で分かった。共産党の躍進を支えたのは60歳代、まさにその団塊の世代だった。

団塊の世代はまだ死んでないぞ! 安保の世代はまだ生きているぞ!


シリアの戦況を長引かせている最大の原因が見えて来ました。

イランです。

ヒズボラをシリアに動員したのはイランですが、今度はイラクのシーア派も動かそうとしています。これはきわめて危険な動きです。民族の大義よりも宗派の利害を上位に置き、中東の民衆を真っ二つに分断することを厭わない、最悪のセクト主義です。

イラク政府閣僚の一人が、ロイター通信に語ったもの。

シリア国内でアルカイダや自由シリア軍がシーア派教徒を襲撃した場合、イラク国内の数千人のシーア派教徒が武器をとる。
アサド政権とともに、アルカイダと闘うために出陣することになるだろう。

しかし、これは変だ。アサド自身はシーア派教徒ではない。彼の政党は非宗教的な世俗政党だ。民主化をもとめる人々は、シーア派をやっつけるために戦っているのではない。

もちろんスンニ派信者がたくさんいるだろうし、アルカイダもふくめ多くのテロリスト分子も紛れ込んでいるだろう。それはリビアの時も同じだ。

これを宗教戦争のように描き出すのは、不当な評価である。

この間の講演でパレスチナ人のお医者さんが言っていた。
私の息子も検問にかかり逮捕され、拷問を受けた。
ようするに逮捕・拷問は日常茶飯事のようだ。相手が誰であろうと構わない、気晴らしでやっている可能性もある。

国連子供の権利委員会の報告(本日の赤旗)では、以下のとおり。

この10年間でパレスチナ人の子供約7千人が逮捕・尋問・拘束された。
子どもたちの年齢は12歳から17歳、中には9歳の子供もいた。

パレスチナ人の子供の逮捕理由は投石用の石を持っていたというものである。これは禁錮20年の罪に相当する。

多くは足かせ、鎖をつけて軍事法廷に引き出された。
彼らは、長いものでは数ヶ月間、独房に拘束された


国連が報告しているのだから、間違いはないとは思うが、
イスラエルの刑法はよく知らないが、デモで投石したら禁錮20年というのがあるのだろうか。
そもそも罪刑法定主義という法理が存在しているのだろうか。
ちょっと常識では信じられないが…

レバノン内戦とシリア

パレスチナの記事が間に合わなかったもう一つ理由は、レバノン内戦に思わず時間をとられてしまったからです。

その背景には、今日的な状況、すなわちヒズボラのシリア内戦への加担という問題もあります。

レバノン内戦関連の事項は非常に多く、本題のPLOに関する流れが隠れてしまうほどです。

そこで、レバノン内戦関係を別途に年表化しました。まだ出来上がっていないので近日中にアップします。

レバノン内戦の一方の当事者は、レバノン政府ではなくシリア政府でした。

したがって、本来ならレバノン関連に限定せずに、シリアの内政にも関わってシリア年表として書くべきでしょうが、さすがにそこまでは食指が動きません。

とりあえず感想的に、書き留めておきたいと思います。

シリアは、中東地域の独立にあたって首都が置かれたところです。トルコ王朝に代わるダマスカス王朝がそこには成立するはずでした。

しかし、第一次大戦後の密約により、この王国は不成立に終わりました。中東を手に入れたイギリスは、この地域を三つにわけます。一つはパレスチナ、一つはイラク、そしてもうひとつのシリアはフランスに分け与えました。フランスはこの地域をさらにシリアとレバノンの二つに分割し統治します。

分けたのは宗教の違いによる互いの反目をうまく利用し、民衆が団結するのを防ぐ狙いでした。こうしてシリアにはスンニ派、レバノンにはキリスト教マロン派、イスラムのスンニ派とシーア派が1/3づつを占めるような構成にしたのです。

これとは別にイギリスはパレスチナにユダヤ人の入植を認め、混住地域のパレスチナとアラブ人のトランスヨルダンに分割しました。こうして単一のダマスカス王国たるべきであった中東地域は、イラクを含めると5つ、さらにイスラエルをふくめれば6つの国に細分化されることになったのです。しかもこの地域に住むクルド人やアルメニア人には国土は与えられませんでした。すべてはイギリスの勝手によるものでした。

これらの経過を見ると、シリアがこの地域の盟主を気取りたくなる雰囲気も分からないではありません。

話はずっと降って、1970年代。アラブは第三次、第4次の中東戦争を戦い、いずれも敗れます。エジプトはアラブの大義に背を向け、アメリカに擦り寄っていきます。勢いに乗ったイスラエルはさらに版図の拡大を狙います。PLOははじめヨルダンに拠って闘いますが、「黒い9月」事件によってヨルダンから追放されます。この時シリアはPLOを支援してヨルダンと闘うのですが、いざレバノンにPLOが移ってくると、風向きが変わってきます。

パレスチナは支援したいが、イスラエルとはとても太刀打ち出来ないし、エジプトがいなくなった下でPLOが事を荒立てて、その結果戦争に巻き込まれたのではかなわないということでしょう。

一方で、シリアはエジプトが去った後のソ連の中東拠点としての役割を担い、それなりにいい顔をしなければなりません。父アサド大統領の役者としての腕の見せ所です。彼は三つの筋書きを考えました。一つはPLOを統制下に置き、武装行動をコントロールすることです。二つ目はレバノンを統制下に置き、キリスト教徒がヘゲモニーを握る現在の体制を維持することです。三つ目はアメリカとひそかに結び、中東の現状維持という思いを共にすることで、間接的にイスラエルの行動を抑えこもうとすることです。

アメリカの側もとくにこれといった対案があるわけではなく、シリアの提案に乗りました。

しかしこれらの計画はことごとく失敗しました。PLOはもはやシリアの統制に服さず、ソ連・東欧諸国と直接つながる独自の補給ルートを開発していました。レバノンではイスラム・左派勢力が力をつけキリスト教勢力を圧倒していました。キリスト教勢力はイスラエルと結び、シリアに挑戦するようになりました。

こうしてイスラエル軍の82年侵攻が始まり、シリア軍はレバノンから叩きだされてしまったのです。おまけにベカア高原はイスラエルに奪い取られてしまいます。アサドの面目は丸つぶれです。

このとき、東のイラクが新たなアラブの盟主として名乗りを上げました。サダム・フセインです。フセインの手法はアサドと生き写しでした。ソ連からの援助を受けながら、ひそかにアメリカとも手を結び、中東地域をみずからのヘゲモニーのもとに掌握しようと目論んでいました。違うのは、フセインには大量のオイルマネーがあるということです。

イラクの圧力を受けたシリアはイランと手を結びました。思想的にはアラブ民族主義とイスラム原理主義で水と油の違いですが、敵の敵は味方というわけです。80年にイラン革命を成就したイスラム原理派は革命の輸出を望んでおり、シーア派が人口の最大部分を占めるレバノンは格好の浸透先でした。

そういうことで、基本的にはシリアと利害が一致したのですが、イランはその先も目指していました。当時のイランはアメリカと直接対決しており、イスラエルだけでなくその背後のアメリカにも標的を合わせていたのです。

ヒズボラ(の前身)がベイルートのアメリカ大使館や海兵隊宿舎に自動車爆弾で自爆攻撃をかけたとき、さぞかしシリア政府は冷や汗をかいたことでしょう。まかり間違えば、イスラエルの戦車隊がシリアに攻めこむ可能性もありました。しかしイスラエルの残虐行為にうんざりしていた国際世論はゲリラの側に回りました。多国籍軍も、イスラエル軍もとりあえずベイルートからの撤退を余儀なくされたのです。

シリアにはもうひとつの幸運が待ち構えていました。イランとイラクが戦争を始め、レバノンのことになど構っていられなくなったのです。レバノンは無政府状態に陥っていました。最大の軍事勢力であったPLOが力を失い、イスラエルもレバノン南部にまで下がりました。こういう中で唯一残ったシリアが漁夫の利を得ることになったわけです。


シリアは現在混乱に陥っていますが、その混乱を実は一番心配しているのがイスラエルだろうと思います。もし反政府派が勝利すれば、スンニ派のムスリム同胞団(ガザのハマスもムスリム同胞団の一派)が台頭してくるのは必然的です。エジプトに続いてシリアでも反イスラエルの過激派が政権を政権を握れば、ふたたびイスラエルは孤立する危険があります。



パレスチナのお医者さんが来て講演するというので、あわててパレスチナの歴史をまとめてみましたが、結局当日までは間に合いませんでした。

最大の理由は、ラマラ包囲戦とアラファトの死亡の後、どうやって書いたら良いのかわからなくなってしまったためです。

基本は、パレスチナ民族の最大の拠り所であるPLOを基軸に書いていくほかないのですが、これがなかなかきつい。表立った派手なパーフォーマンスがないのと、ひたすら隠忍自重の日々を記載するのが息苦しくなります。

パレスチナのお医者さんの話を聞いていてわかったのですが、「入植」という名の土地の簒奪はいよいよ激しさを増しています。このままではいずれ世界地図の上から消滅してしまうかもしれません。そういう切迫感があります。パレスチナの人々はまるで囚人のように扱われています。ガザや西岸地帯は、それ自体が一大ゲットーと化しつつあります。

しかし、現実にはパレスチナ人が消滅することはありえません。お医者さんの話を聞いてそのことも分かりました。理由はパレスチナ人には最低必要なお金はあるからです。知識もあります。おそらく国外からの仕送りが基礎となっているのでしょうが、イスラエルに頼らずとも生きているだけの地力は持っています。同じ難民でもサブサハラの難民とはレベルが違います。対外関係を取り仕切る自前の政府もあり、とかくの噂はあるものの、民衆の支持を集めています。

だからその生活に無理・無法は無いのです。いくら抑圧されていても、それなりの生活は成り立っており、これ以上悪くなることはないのです(たしかに今でも最悪ですが)。

無理・無法を重ねているのはイスラエルの側であり、それは無数のフィクションの上にかろうじて成り立っており、いったん事があればたちまち瓦解してしまうような脆さを内包しているのです。それが端的に示されたのが2006年のレバノン南部の闘いでした。

ヒズボラはレバノン南部に無数のトンネルを掘り、そこから射程距離の長いロケット砲を打ち込みました。遠いものではイスラエルの主要都市ハイファまで到達しました。恐慌をきたしたイスラエルは大規模で無差別の空爆を実行した後、戦車部隊をレバノンに送り込みますが、塹壕から飛び出したヒズボラ兵士のバズーカ砲の餌食となりました。地下に潜ったヒズボラ部隊に対し、大規模空爆は無効で、逆に無関係の民衆に多大な被害を及ぼしたことから、国際的に指弾されます。

こうして、イスラエルは何の成果も上げることなく撤退せざるを得なくなりました。「建国」以来の大敗北といえるでしょう。

イスラエルの力は制空権と強力な戦車部隊によるものです。この二つが無効化された瞬間、イスラエルの力は無となってしまうのです。これが力に頼るものの怖さです。

必ずしもヒズボラを支持するわけではありませんが、それはレバンなりの戦い方であり、PLOには別の戦い方があります。

ソ連崩壊後の中東の変化

1991年にソ連が崩壊しました。これは中東情勢に複雑な影響をもたらしました。アメリカは冷戦構造にもとづくこれまでの中東戦略に一定の修正を加えます。

ブッシュ政権はイラクのフセイン政権を第一次湾岸戦争で叩きましたが、その際イスラエルの軍事施設がフル活用されました。中東における不沈空母としてのイスラエルの重要性が強く認識される脳になります。

しかし軍事拠点としてのイスラエルには、周辺諸国とのあいだの政治的不安定という弱点があります。とりわけパレスチナ問題が情勢を不安定化させているとの認識に立ち、ブッシュは両者の和解をもとめるようになります。

一方ソ連の崩壊に伴い、大量のユダヤ人がイスラエル移住をもとめるようになりました。そのすべてを受け入れるには国土が圧倒的に不足しています。そこで彼らはヨルダンが統治を放棄した西岸地帯に目をつけるようになりました。当時住宅相だったシャロンは,「湾岸戦争終結後にヨルダン川西岸およびガザ占領地に1万戸以上を建設.ゴラン高原のユダヤ人を倍増させる」入植計画を打ち出しました.

「そこが元々パレスチナの国土だから、その後継者であるイスラエルの領土であるはずだ」という恐ろしく勝手な理屈です。

ゲリラ集団の中でもソ連の崩壊の影響は甚大でした。PFLPやDFLPは存亡の危機に立たされ、政治的発言権を失います。シリア派のゲリラもシリアの後ろ盾となっていたソ連がなくなり弱体化しました。これに代わって進出してきたのがイランです。シリアはイランとつながることで命脈を保つようになりました。

こういう状況のもとでイスラエルとパレスチナの交渉が始まったのです。

 

パレスチナ自治政府の発足

1991年、マドリードで中東和平国際会議が開催されました.続いてその年の暮れにはワシントンでイスラエルとパレスチナの二国間交渉が始まりました.交渉のあいだもイスラエルは西岸地帯への入植をやめようとはしませんでしたが、PLOはじっと我慢しました。交渉を流産させようとするイスラエルの極右派がさまざまな策動を行いましたが、それにも耐え続けました。

93年9月、難産のすえにオスロ合意が成立しました。イスラエル軍は93年末日を期限として,ヨルダン川西岸およびガザ両地区から撤退することを承認しました.パレスチナの独立は暫定自治というきわめて制限されたものでしたが、それでもついに自前の政府を持つことに成功したのです。

アラブ諸国はこの合意を歓迎しました。ヨルダンはイスラエルと平和条約を締結し、モロッコとチェニジアはテルアビブに利益代表部を設置しました.パレスチナの自治実現はたんにパレスチナにとってだけではなく、イスラエルとアラブ世界の関係にとっても好影響をもたらすと思われました。

アラブの側にも反対者はたくさんいました。イランは暫定自治合意を批判.イスラム原理主義組織を支援していくと言明しました.これを受け、ハマスやイスラミック・ジハードはPLOに対する武力攻撃を開始します.しかし民衆はこの脅しをはねのけました。

ガザにPLO本部が設置されました.チュニジアからガザに「帰国」したアラファト議長は,熱狂的な歓迎で迎えられました.95年にはジェリコ以外の西岸6地区にも自治区が拡大され、ベツレヘム,ラマラーなど6都市が自治区へ「昇格」しました。自治政府の総選挙が行われ,アラファト議長が大統領に当選しました.

しかしイスラエルの極右派は、この僅かな妥協さえ許さなかったのです。1995年11月、イスラエルのラビン首相は記念式典の席上、凶弾に倒れたのです。首相の死を受けて行われた総選挙ではいまも首相を務める最強硬派のネタニヤフが当選。オスロ合意の反故化へと乗り出します。

 

アラファト監禁事件

その後、いったんは交渉推進派のバラクが首相に就きますが、2001年には極右派のシャロンに敗れ、ふたたび対決の時代がやってきます。ただ政権交代の直前にパレスチナ自治政府とのあいだで合意された「タバ協議」の内容は、今後ふたたび議論が再開されるにあたっての出発点となるでしょう。

 

 

この協議において、イスラエルは,ヨルダン川西岸地域の94%を返還し,残りの6%についても代替地の提供を提案しました.さらに「難民キャンプの窮状の迅速な解決に向けた道義的な責務を有する」ことを認めています.PLOはこれと引き換えにパレスチナ難民370万人の故郷への帰還という要求を放棄することを認めます。

しかしシャロンはパレスチナのギリギリの選択すら認めようとしませんでした。彼はパレスチナ側にさまざまな挑発を仕掛け、パレスチナ側が報復に出ると、これを奇貨として西岸地帯に大規模な部隊を派遣します。

シャロンのパレスチナ攻撃は言語道断、あまりにも非道なものでした。

2002年4月、イスラエル軍はアラファトの執務するラマラの自治政府議長府を戦車50台で包囲.攻撃を加えました.1ヶ月の包囲の後アメリカが乗り出し、包囲を解かせます。CIA長官テネットが直接乗り出し,ラマラでアラファトと会談しました.エネットは自治政府のテロ抑制方針をもとめ、アラファトは治安組織の改革を約束します.

しかしテネットが帰ったあと、イスラエルはふたたび包囲作戦を開始しました。

これに抗議するパレスチナ人の決死隊200人が,ベツレヘムの聖誕教会に立てこもりました.イスラエル軍は教会を包囲し,立てこもった人々に対し兵糧攻めを行います.

その最中に行われたブッシュ・シャロン会談で、ブッシュ大統領は「イスラエルには自衛の権利がある」と述べ,自爆テロへの報復を支持しました.そして中東和平国際会議の提案を否定しシャロンの思いのままにする特許状を渡したのです.

さらにブッシュは6月24日に「中東和平構想」を発表しましたが。それは平和破壊構想としか言いようのないものでした。ブッシュは、パレスチナ指導部はテロを奨励しているとし、「パレスチナ指導部がテロと戦わないうちは国家の創設を支持しない.そしてテロに妥協しない新しい指導者の選出を求める」とのべました。これは事実上オスロ合意を水に流す方針です。

同じ日、イスラエル軍はジェニン、ナブルス、トゥルカルム、カルキリヤ、 ベツレヘム、ラマラの西岸主要6都市を「軍事閉鎖区域」に指定し、報道陣の立ち入りを禁じました.とても報道できないような残虐行為を働くためです。「外出禁止令」を発し約2000人のパレスチナ人を拘束、うち約1000人を留置しました.ジェニンの難民キャンプでは押し入った戦車隊により数百人が虐殺されました.あろうことかイスラエル軍は抗議する群衆に向け砲弾を放ったのです。

アラファト議長はこのとき臍を固めました。「自治政府や和平を破壊しようというイスラエルの真の意図が暴かれた.どんなに犠牲者が出ようと、パレスチナ人は屈しない」と述べ、対決姿勢を鮮明にします.


ここまでが、とりあえずの歴史です。この後はまだ書けていません。
なぜかというと、アラファトをクソミソにやっつける記事ばかり多くて、パレスチナ民衆の戦いの本流が描かれていないものばかりだからです。
私としてはアラファト個人を支持するわけではないが、ここまでの彼の取ってきた路線は支持せざるを得ません。
彼の行動は多少のブレはあるにせよ、パレスチナの民衆の声の反映だろうと思います。
外国勢力の支援を受け、ときに干渉も受けながら、根本的にはパレスチナ人民の願いを受け止める方向で運動は進んできました。
その最高の到達点が2001年の協定であり、そこに戻って歩みを再開することが一番もとめられているのだと思います。

門外漢の私がつたない文章を書き綴ったのも、その思いからです。

この続きは少し準備した上で、いずれ再開したいと思います。

レバノン内戦とパレスチナ人大虐殺

しかし、レバノンに逃れたパレスチナ人にとってはこの時期に空前の苦難が襲い掛かります。レバノン内戦です。

レバノン内戦というとパレスチナ人とは関係のない権力争いのように聞こえますが、実はイスラエルの支援を受けた民兵によるパレスチナ難民への攻撃が主たる戦闘だったのです。闘いを仕掛けたのはデール・ヤシンの虐殺者ベギンでした。首相に就任したベギンは「67年の国境線には戻らない,PLOは認めない,パレスチナ国家は許さない」という「三つのノー」を主張しました。パレスチナとの対応は暴力一本やりとなります.

レバノンにはマロン派キリスト教徒とイスラム教徒が共存しています。人口比からいうとイスラムのほうが圧倒的に多いのですが、キリスト教徒は首都ベイルートを中心に商工業を抑え強い影響力を持っていました。ある意味でイスラエル建国前のパレスチナと似たところがあります。

このマロン派が色々と難癖をつけてパレスチナ人への攻撃をはじめました。パレスチナ人を載せたバスを襲撃し女性や子供を含む乗客27人全員を虐殺しました.イスラエル軍は内戦に乗じレバノン南部を占領、パレスチナ難民キャンプを反復攻撃します.1976年10月にはタルザータルという難民キャンプが襲撃されました。詳細は未だに不明ですが、一説には500名が生き埋めにされ,400人が殺されたといわれます.

 

史上もっとも醜悪なノーベル賞

アメリカは中東におけるソ連との対抗関係の要石としてイスラエルを位置づけました。そしてエジプトを取り込むことによって、その支配を安定させようと図りました。パレスチナの人々とか、正義とか人道などというのは眼中にありません。

それが米国流の「平和」なのでしょう。エジプトのサダト大統領を取り込んだ米国はキャンプデービッド合意を実現します.これで中東に平和が訪れるというのです。ベギンと背信者サダトはノーベル平和賞を獲得しました.

ノーベル“平和”賞は、殺人鬼ベギンに勅許を与えたようなものです。ベギンは三つのノーをあらためて確認し、エルサレム全市の占領を宣言しました。イスラエル国会はエルサレムを恒久の首都と宣言し、占領地への入植を強化しました.そして1979年9月には南アとの共同で核爆弾を共同開発するに至ります.

そして1982年6月には、機甲部隊がレバノン国境を越え侵攻を開始しました。エジプトが動かないと見ての行動です。シリア軍が抵抗しますがミサイル基地19箇所を破壊され、空軍機82機を撃墜されあえなく降伏します.

イスラエル軍はそのままベイルートに進撃し,大統領府を占拠します.700台の戦車が40万人のレバノン人が住むベイルート市内に砲弾を撃ち込みました。クラスター爆弾,黄燐爆弾,バンカー・バスターなどの残虐兵器が使用され,この日一日だけで1500人が死亡したといわれます.フランス国営放送,UPI,AP通信社などの建物も破壊されました.国連などの援助物資は市内搬入を拒まれました.

イスラエル軍の目標はベイルート市内のPLO代表部の撤退にありました。PLOも随分頑張ったのですが、2ヶ月に渡る籠城の後、ついに撤退を余儀なくされます。ここまでの死者は2万人,負傷者は3万人を数えます.

PLOが撤退した後もイスラエルは追撃の手をゆるめませんでした。レバノン各地のパレスチナ人難民キャンプを襲撃しては虐殺行為を続けました。中でももっとも悪名高いのがサブラとシャティーラのパレスチナ難民キャンプ虐殺事件です。作戦は延べ48時間にわたり、パレスチナ難民3千人が虐殺されました。

これはイスラエルの手下となったレバノン人部隊をそそのかせてやらせた事件ですが、難民キャンプはイスラエル軍が包囲しており,キリスト教民兵を侵入させたのも,逃げ出そうとする民衆を押し返したのもイスラエル軍でした。

陣頭指揮に立ったシャロン国防相は作戦を督励したことが明らかになり、解任されています。

この作戦ほど大義名分のない戦争はないのではないでしょうか。国連安保理は停戦案を提示しますがイスラエルは拒否。イスラエル非難決議に対してはアメリカが拒否権を行使という具合です.

 

PLOの停滞とイスラム原理派の伸長

それからの約10年、パレスチナ人民とその代表であるPLOにとっては苦難の時代が続きます。平和・国際外交路線を打ち出したものの、イスラエルはそれを無視して大量虐殺を繰り返し、パレスチナ人をイスラエルのみならずヨルダンからもレバノンからも追い出したのです。

路線的にも模索の時期となりました。武力闘争への復帰を目指す動きも何度か現れました。とくに徹底的に弾圧されたPLOに代わり、イスラム原理派の動きが活発となりました。レバノンの難民の一部はシリアやイランの支持を受け非スンニ派の武装組織「ヒズボラ」を結成しました。

彼らの行動は、ソ連を最終的な敵とし、PLOに焦点を合わせていたイスラエルやアメリカにとって予想外のものでした。1983年4月、ベイルートのアメリカ大使館に自動車が突っ込み、自爆しました。この特攻攻撃で63人が死亡,120人が重軽傷を負いました。この後、連続的に自爆攻撃が繰り返されます。

イスラエル国内でもレバノン侵攻に対する不満が強まり、ベギン首相は辞任を余儀なくされます。

これを見たヒズボラはさらに攻撃を強化しました。最大の作戦が10月に行われた米海兵隊への攻撃です。23日朝、ベイルート空港に隣接する米海兵隊司令部ビルに車爆弾が突入.続いてアメリカ海兵隊の兵舎にも自動車が飛び込み自爆しました。この作戦で米海兵隊は史上空前の237人の犠牲者を出したのです。さらにフランス空挺師団の兵舎にも車爆弾が突入し72人が死亡.11月にはイスラエルの兵舎にも車爆弾が突っ込み60人以上が死亡しました.

こうした状況が1年半にわたり続いた後、85年1月、ついにイスラエルはベイルート撤退を余儀なくされます。イスラエル軍に対するテロは占領の終了までに800回近く行なわれ、その死者は400人を超えました.イスラエル国民の10分の1が反戦デモに参加するなど,占領はベトナム化の様相を呈してきました.

(レバノン内戦はあまりに複雑なので、詳細は略します)

 

市民の抵抗運動「インティファーダ」

 

情勢の停滞を突破する引き金となったのが、1987年に始まった「インティファーダ」です。きっかけはガザ地区で起きた一件の交通事故です。パレスチナ人労働者の乗った車にイスラエル軍のタンクローリーが衝突しました.この事故でパレスチナ人4人が死亡、7人が重傷を負いました.この事故に対する若者の抗議が自然発生的に起こりました。若者たちは徒手空拳、弾圧に抗しては戦車に石を投げるのが精一杯でした。

抗議行動にたいしイスラエル軍は銃火で答えました。抗議行動に参加した少女が撃ち殺されました。これをきっかけに,イスラエルへの抵抗運動がガザおよびヨルダン川西岸両地区に拡大します.

時の国防相ラビンは「石を投げる者の手足を折れ!」と命令しました.この人にもノーベル平和賞が与えられています。

インティファーダの闘いは三年にわたり続きました。死者は900人、銃撃による負傷4万9000人、打撲傷2万4000人、手足の骨折1万6000人、催涙ガスの負傷者3300人で、投獄されたパレスチナ人は総数2万5000人にのぼりました.

この闘争は二つの意味で画期的なものでした。ひとつは武装集団に願いを託すのではなく、民衆みずからが闘うことなしに情勢は切り開けないということが確認されたことです。もうひとつは、民衆の立場に立てば、10年前にPLOが提起した二国家路線以外に現実的解決の道はないということを明らかにしたことです。

88年11月にアルジェで第19回PNC総会が開催されました。会議はヨルダン川西岸地帯でのヨルダンの統治権放棄を受け,「パレスチナの地を領土とし、エルサレムを首都とする」独立国家を宣言しました.同時にイスラエルの生存権を承認します.

これを受けたアラファト議長は、12月に国連総会で演説.テロ作戦を放棄しイスラエルの生存権を承認すると宣言します.他のゲリラ組織はイスラエルへの屈服として猛反対しますが、これがパレスチナの民衆の世論であることは明らかでした.

1948年 第一次中東戦争

5月、ユダヤ人はテルアビブで独立国家「イスラエル」の建国を宣言しました.アラブ諸国はこれに猛反発しイスラエルとの戦争を宣言します。イスラエルはイギリス軍内のユダヤ人部隊を中核に部隊を組織します。さらに民兵隊がパレスチナ人の集落を襲撃してパレスチナ人の追い出し行動を開始します。

中でも有名なのが建国宣言の直前にベギンの部隊の行った「デール・ヤシンの虐殺」です。彼らはデール・ヤシンという村を襲い、住民250人全員を虐殺しました.さらに生き残った村民をエルサレムまで行進させ,さらしものにしました。

アラブ諸国はパレスチナに一斉に侵入しました。5月の末にはエルサレムが陥落、イスラエルの命運は風前の灯となりました。このとき国連が謎の介入を行います。そして両者に1ヶ月の休戦を命じます。

どう考えてもやらせとしか思えません。その1ヶ月の間にイスラエルは兵器を購入し、世界各国から義勇兵を募集し、戦いに備えました。そして休戦期間が終わると同時に総攻撃をかけたのです。その間わずか10日間です。イスラエル軍は一気に国境線を超えて進撃しました.そして武器・弾薬が切れるころ、ふたたび国連は休戦を命じたのです。

こんな喧嘩では勝てっこありません。翌年2月、アラブの盟主エジプトがイスラエルとの停戦に応じました。その後も戦闘を続けたシリアも7月には停戦に至ります。この戦争でイスラエルは旧パレスチナ地域のほとんどを確保するに至りました。

と、ここまでは歴史の教科書にも載っているのですが、実はここからがひどいのです。この戦争の過程でパレスチナ人の7割にあたる90万人以上が家と故郷を失い、国外に追放されました。戦争後、国連はこれら難民の帰還を促す決議を採択するのですが、イスラエルはこれを拒否するのです。戦争はアラブ諸国が起こしたのだから、パレスチナ難民はアラブ諸国が受け入れるべきだというのです。驚くべきへ理屈です。

さらにひどいのが「不在者財産没収法」です。「戦争中に一度でも自分の居住地を離れたものの家屋や財産は没収される」というものです.どこを押せばこのようなセリフが吐けるのでしょう。この法律により戦場となった370カ村のうち300カ村,3500平方キロが没収されました。つまり第一次中東戦争はイスラエルの独立を目指す戦争ではなく、パレスチナ住民を追い出すための戦争であったことが分かります。

このようなイスラエルを国連は正式加盟国として受け入れました。米英仏三国は共同宣言を発表し、中東の“現状維持”で合意しました。ようするに出来レースだったわけです。

 

1959年 アル・ファタハの結成

難民と化したパレスチナ人はヨルダンやレバノンの難民キャンプで暮らすようになります。難民キャンプの青年たちは職もなく、未来もない状態でした。その中から最初の武装抵抗組織が生まれます。それがアル・ファタハ(パレスチナ民族解放運動)です。

指導者のヤセル・アラファト(別名アブ・アンマール)は,エルサレムの名門フセイン家の出身でした.カイロ大学を卒業してエジプト軍の予備将校となっていました。他のメンバーも,多くが50年代末にエジプトに留学していたパレスチナ人学生の出身です.

こういう構成からも分かるように、アル・ファタハはエジプトのナセル政権の強い後押しを受けて生まれた組織です。ナセル政権そのものがイスラエルとの戦争によって生まれた政権と言えます。第一次中東戦争での敗北はエジプトの青年に強い危機感を呼び起こしました。彼らは腐敗した王政のもとではイスラエルに打ち勝つような強大なアラブ人国家を形成することはできないと考えるようになりました。

そこで1953年にクーデターを起こして王政を打倒し、封建制度を改革し、軍の強い統制下に富国強兵策をとることになりました。そして再度イスラエルに闘いを挑むのですが、これもあえなく敗れます。逆にエジプト本土に攻めこまれそうになったエジプトは、スエズ運河を占拠し国有化を宣言しました。そして国際世論の後押しにより、かろうじて本土防衛に成功します。

パレスチナ解放の目標が困難となったとき、エジプトはゲリラ戦争を仕掛けることで内部の混乱を目論んだのだろうと思います。

ここで、アル・ファタハとPLOの関係について説明しておきます。1964年にナセルとアラブ諸国の後押しで第一回パレスチナ国民会議(PNC)が開催されました.会議のメンバーは地方有力者の代表と武装組織の代表から構成されていました。会議は執行機関としてパレスチナ民族解放機構(PLO)を結成することで合意しました.執行部の主要メンバーは親エジプト派の人物が占めます。アラファトらアル・ファタハはこの時はPNCメンバーの一つでしかありませんが、相次ぐ作戦の成功により民衆の支持を獲得していきます。

この会議では同時に「パレスチナ民族憲章」が採択されました。前にも書いたように、40年前にパレスチナ人が掲げた5項目要求を踏襲し、多民族共存の国家づくりを目指しています。ただ異なるのは、5項目要求のあとに出来た「イスラエル」国家を認めず、その解体を求めていることです。

 

ゲリラ闘争の高揚

パレスチナ・ゲリラの闘争が高揚したのは、皮肉にもアラブの三度目の敗北のためでした。しかも三度目の敗北はわずか6日間でエジプトとアラブの連合軍が壊滅するという屈辱的なものでした。

67年6月はじめ、イスラエル軍は突如先制攻撃を仕掛けます。エジプトの空軍基地を狙いすまして攻撃。1日で戦闘機300機を破壊してしまいました。制空権を奪った後、今度は戦車が一斉に侵攻を開始します。瞬く間にシナイ半島のエジプト軍は壊滅し、イスラエル軍はスエズ運河の東岸にまで達しました。こうなると運河の封鎖はエジプトの切り札にはなりません。

エジプトは3日目で早くも降伏してしまいます。シリアはその後も何日か抵抗を続けますが、やがて降伏を強いられます。

絶望的な状況の中で、わずかにパレスチナ・ゲリラだけが「戦果」を上げ、民衆のウサを晴らすことになります。もっとも伝統的なアル・ファタハがPLOの主体を掌握するようになった他、シリアの支援を受けた「サイ カ」,イラクと結びついたアラブ解放戦線(ALF),社会主義諸国と結びついたパレスチナ解放人民戦線(PFLP),パレスチナ解放民主戦線 (PDFLP)などがあいついで名乗りを上げました.

ゲリラ闘争の中で「伝説」となっているのが1968年3月の「カラメの戦い」です。イスラエル国内で子供を乗せたバスが,アルファタハの仕掛けた地雷に触れ大破しました.イスラエル軍は報復のためヨルダン領内に侵入し、ヨルダン川東岸の町カラメのアルファタハ基地を襲撃しました.アルファタハのコマンド部隊は,ヨルダン正規軍と協力しイスラエル軍の攻撃を撃退したといいます.

ゲリラ側の発表によれば、イスラエル側は死者29人,負傷者90人を出し、戦車・装甲車両など8台が破壊されました.いっぽうパレスチナ・ゲリラは97名が死亡,ヨルダン軍も207名の死者を出したといいます.しかしこれらの数字は、「英雄」に飢えていたアラブ側で多分に誇張されている可能性があります.

ついでPFLPがハイジャック作戦を開始しました.最初はローマからテルアビブに向かうボーイング707型エルアル機がハイジャックされるという事件でした。PFLPはその後の半年間に外国航空機を13機乗っ取ることに成功しますが、徐々に警戒態勢が強化されるに連れ作戦の実行は困難となっていきます.

こうして打つ手のなくなったPFLPは、イスラエルのロッド(現ベングリオン)空港で,日本赤軍兵士三人を使った無差別銃撃事件を起こしました.このとき市民26人が殺害され、ゲリラに対する世界の目は俄然厳しくなりました.

これらの闘争は耳目衝動的な効果はあるものの、実際の戦果はほとんどありません。それどころかイスラエル側の報復攻撃によりその数倍もの被害を受けることが多かったのです。今日考えれば、ゲリラ闘争は6日戦争の結果にうちひしがれたパレスチナ民衆に闘いを呼びかけたという意味においてのみ評価されるべきものでしょう。

 

ディアスポラの日々の始まり

ウィキペディアによれば、

ディアスポラとはギリシャ語に由来する言葉で、元の居住地を離れて暮らす民族の集団を指す。難民とディアスポラの違いは、前者が元の居住地に帰還する可能性を含んでいるのに対し、後者は離散先での永住と定着を示唆している点にある。

まさにこの時期、パレスチナ人は難民からディアスポラへと立ち位置を変えています。パレスチナの故地を追われた人々は東に逃げヨルダンに住み着きました。北へ逃げた人はレバノンにキャンプを設営しました。西に逃げた人の多くはエジプトまでたどり着きましたが、一部はやがて帰る日を夢見てガザの町にとどまりました。

そしてイスラエルの理不尽な追撃を受ける羽目になったのです。

ここがパレスチナ問題の一番の鍵となる部分ですから、少し詳しく述べたいと思います。

最初のきっかけとなったのは70年のヨルダン内戦です。まずPFLPがスイス航空,TWA,BOACの旅客機三機を乗っ取り,ヨルダンの空港に強制着陸させました.PFLPは逃げる間際に旅客機を爆破させました.国際社会は激高します。ヨルダンは批判の矢面に立つことになります。

フセイン国王はこれを機にパレスチナ・ゲリラの追放を決断しました.自国の安全を第一と考えるなら当然の判断です。アラブの盟主と目されたエジプトはテンで頼りにならず、他の国も口こそ出すが手は出さないという状況のなかで、パレスチナ・ゲリラに手を貸すことは自殺行為に近いからです。

ヨルダン正規軍がPLOへの攻撃を開始し、首都アンマンで市街戦が展開されました.ゲリラはこの背後からの攻撃に対し無力でした。11日間の戦闘で5千の死者を出し、アンマン周囲からの撤退をよぎなくされます。アラファトはかろうじてアンマンを脱出し、レバノンへと移動します。これが70年9月のヨルダン内戦であり、パレスチナ人のあいだでは「黒い9月」と呼ばれています。

つまり、70年9月までは故郷に帰る希望をもった難民だったのが、それからは避難先からも疎まれるディアスポラとなって彷徨うことになったのです。

このあと、PLOの中核アルファタハもテロ活動に手を染めることになります。これが72年9月のミュンヘン・オリンピック事件です。作戦はファタハとPFLPの合同チーム「黒い9月」により実行され、最後はミュンヘン空港の滑走路で西ドイツ特殊部隊と銃撃戦となり,ゲリラ5人,人質9人が犠牲となりました.

イスラエルは報復作戦として軍兵士3000人をレバノン南部に送り込み、パレスチナ難民キャンプを襲撃し数百人を殺害しました.国際世論がイスラエルに同情的なのを良いことにした大虐殺です。報復のための市民大量虐殺はまさにナチスの手口であり、戦争犯罪として断罪すべきものです。

この後、イスラエルは国境など無きが如く、傍若無人な越境攻撃を繰り返すようになります。パレスチナ人は祖国を追われただけでなく避難先でもイスラエルの攻撃に怯える日々を送るようになりました。

 

第4次中東戦争とアメリカの立場

第4次中東戦争(ラマダン戦争)はこれまでの闘いの中でも、もっとも凄惨を極めたものでした。エジプトのサダト政権とシリアのアサド(父)政権はひそかにソ連と手を結び、戦争の準備を着々と備えていました。そして1973年10月、突然戦闘の火ぶたを切ったのです。

両国は50万の兵力、4500台の戦車、重火器3400台、戦闘機1080機が動員されました。南部戦線では1000台の戦車と10万の兵力がスエズ運河を渡り、対岸に橋頭堡を形成しました。北部戦線では1400台の装甲車と600台の戦車、三個師団がゴラン高原に進出します。

しかしこれだけの規模での攻撃にもかかわらず、アラブ軍はわずか10日で惨めな敗北を遂げます。理由はいろいろありますが、最大の理由はアメリカのテコ入れでした。この戦争の本質をソ連の中東進出だと見たアメリカは、それまでの控えめなイスラエル寄りの態度を改め、全面支持の立場に切り替えました。

当時すでにソ連に圧倒的な技術力の差をつけていたアメリカは、最先鋭の兵器を惜しみなくつぎ込んだのです。エジプトのミグ19はファントム戦闘機の敵ではありませんでした。砂漠の闘いで制空権を失えば、どうなるかは目に見えています。スエズ運河を渡ったエジプト軍の戦車隊は退路を断たれました。

アラブ軍は戦車2000台を失い、1万人の死者を出しました。いっぽうイスラエル側も戦車550台が破壊され兵士2800名が死亡しています。エジプト軍部隊の地対空ミサイルはイスラエル機50機を撃墜しています.

しかし、これだけの犠牲を払ったイスラエルは並ぶものなき中東の覇者となりました。これ以降エジプトはアメリカよりの姿勢を強め、イスラエルと事を構えるのを回避するようになります。

 

苦渋の妥協と平和攻勢

残されたパレスチナ人にとっては、根本的な戦略の変更がもとめられました。一つは全土の奪還という方針の断念です。それは同時にイスラエルという国家の承認につながります。もう一つは武力での闘争という形態の放棄です。ゲリラ戦やハイジャックをこれ以上続けても益するものはなく、犠牲はあまりに大きいものがあります。さらにそれは国際的な支援の枠を大幅に狭めてしまいます。

この方針転換を決定する歴史的な会議となったのが、1974年6月に行われた第12回パレスチナ国民評議会(PNC)です。この会議では、ガザとヨルダン川西岸に「民族的権威を設立すること」をふくむ10項目の方針を採択しました.過激な戦術に固執するPFLPはこの方針に反対。一部は「アブ・ニダル派」を結成してPLO幹部を付け狙うようになります。

同年秋、ラバトでアラブ首脳会議が開かれ、PNCの方針を支持することで合意しました。そしてパレスチナ国家建設の権利を承認しPLOを唯一の代表としました.PLOは急速に影響力を拡大し,世界各地に100カ所を超す代表部や事務所を開設するに至ります.

これには、ラマダン戦争時産油国が一斉に石油戦略に出たことも大きな影響を与えています。いわゆる第一次石油ショックです。日本では狂乱物価となり、トイレットペーパー騒動まで持ち上がりました。

元々がイスラエルの横紙破りが原因でこうなったわけですから、パレスチナに同情的な国際世論はこの方針転換を大歓迎しました。国連総会は,シオニズムを人種差別主義と非難する決議を採択.そのいっぽうでパレスチナ人の民族自決権とパレスチナ国家の樹立の権利を認め、PLOをオブザーバーとして招請しました.アラファト議長がオリーブの枝をかざしながら行った総会演説は、いまでも語りぐさです.

アラファト演説のさわり
革命家とテロリストの違いは,何のために戦っているかという点にあります.正しい目的を持って,自分自身の土地を侵入者・入植者・植民地主義者から解放し,自由になろうとしているものを,決してテロリストと呼ぶことはできません.でなければ,イギリス植民地主義者からの解放のために戦ったアメリカ人は,テロ リストになります.ヨーロッパでのナチスに対するレジスタンスはテロリズムになります.そしてこの会議場におられる数多くの人々もテロリストということになるでしょう.

パレスチナ人、とりわけゲリラ闘争などと関係のない一般民衆にとっては、一条の明るい光が差し込んできたようでした。ガラリア地方では、土地取り上げに反対する「土地の日」統一行動が取り組まれ、「民族はひとつ,戦いはひとつ」のスローガンの下,パレスチナ人数十万人が行動に立ち上がりました.

76年にはヨルダン川西岸地区で総選挙が行われ、PLO支持派と共産党が大勝利を勝ち取りました.ナザレ市では初めてパレスチナ人の共産党員市長が誕生しました.

パレスチナ 苦難の歴史

2013年6月

 

1900年 シオニストの入植

20世紀のはじめ、パレスチナはオスマントルコ帝国の一部でした。当時の人口は63万人と言われます。

同じイスラムでも、オスマントルコはトルコ人、パレスチナはアラブ人ですから、異民族支配という状況には変わりありませんでした。しかしトルコ人は圧倒的少数で、パレスチナ人が土地を追い出されたりすることはありませんでした。

1901年はネガティブな意味で記念すべき年です。この年ユダヤ国民基金が創設されたのです。ヨーロッパに散在するユダヤ人は、パレスチナこそ我らの祖国だと主張し、金を出しあってパレスチナの土地を買い,入植を奨励したのです。

やがてユダヤ人はテルアビブを中心として「祖国」を建設し始めました。と言ってもまだこの頃は一種の宗教的色彩を帯びたボランタリーなものでした。

 

第一次世界大戦 パレスチナの「独立」とユダヤ人「準国家」の成立

第一次世界大戦でパレスチナの領土を占領したのはイギリスでした。とはいえ、アラブ人の力もなみなみならぬものがあり、イギリスはこの地域を大アラブ王国として独立させることにしました。首都はシリアのダマスカスに置かれ、パレスチナ地方もこれに含まれることになりました。

独立と言ってもイギリスの信託統治下における自治領なので不完全なものですが、正直、アラブ人にも統治・行政能力はなかったので、やむをえざるものがありました。

しかしこの時イギリスはせこい手を使ったのです。イギリスはユダヤ人の銀行家から多額の戦費を借りていたので、ユダヤ人の要求に応える必要がありました。そこでイギリス政府はパレスチナにユダヤの「民族的郷土」を建国することを承認したのです。

民族的郷土(National Home)とは,主権を持った国家ではないものの,その道程にある政治的存在なんだそうで、訳が分かりませんが、まぁ後は当事者同士でうまくやってくれというようなものでしょう。

まあそれでも良いか、とパレスチナ人をふくむアラブ人はたかをくくっていました。パレスチナの国土は地中海海岸とヨルダン川河谷に挟まれた高原地帯で、放牧民の暮らす半砂漠の荒れ野が広がっていましたから、そこにユダヤ人が入植して「ユダヤ共和国」を作っても大したことはあるまい、そのうち辛抱できずに退散するだろうと思っていたのでしょう。

シリアのアラブ国王はシオニストの代表ワイツマンと会見し、「パレスチナへのユダヤ人の大量移民を奨励する」ことで合意しています.少なくとも最初は、アラブは宥和的だったことが分かります。

ところが、第一次大戦が終わった後、イギリスはこれらの約束は裏切られます。イギリスはシリアとレバノンをフランスに与え、それ以外のイラク,パレスチナを国連委任統治という名目で自国の植民地としてしまいます。当初は現在のヨルダンもふくめてパレスチナでした。

いっぽうでユダヤ人との約束はそのまま守られました。こうしてパレスチナ人はイギリスの支配下にユダヤ人と強制的に併存させられるようになったのです。

 

準国家から国家への動き

パレスチナのアラブ人は、この状況に大いに不満でした。そこでイギリスに対し、5項目要求というものを提出します。その要求はきわめて穏和で、いま考えても説得力のあるものでした。

つまりイギリスは出て行ってください。残った者たちはユダヤもアラブも相和してパレスチナの国造りを目指しましょうというものです。それで国の形が決まるまでは、とりあえずユダヤ人の入植は止めましょうということですから、きわめて常識的な対応です。「善きサマリア人」そのものです。その大枠は今日のPLOにも継承されています。

高まるアラブ人の不満に対応を迫られたイギリスは、さらに次の手を考えだしました。それはパレスチナをヨルダン川を境に二つに分けるというものです。こうしてヨルダン川の東岸に「トランスヨルダン首長国」がつくられ、パレスチナ西部は「英領パレスチナ」として直接統治下に置かれることになりました。

うるさい連中を切り離して、ユダヤ人を直接の庇護のもとに置こうということですから、事実上イギリスがイスラエル建国の足がかりを作ったようなものです。当時の国際連盟もだらしなくて、この措置を承認するどころか、「この地に対するユダヤ人移民と開拓」の助成をイギリスに促したのです。

これが1922年のことですが、当時すでに6万人のユダヤ人が入植していました。これに対し先住のパレスチナ人は67万人とされています。人口でいうと1対10ですがユダヤ人には金があります。工場を立て、店を開き、機械化農業を展開しました。そうするとかなりのパレスチナ人が直接・間接を問わず雇われることになるので、影響力はすでにイーブンの状態にまで達していました。

そうすると、両民族の関係は階級的色彩を帯びるようになります。これらの労働運動を指導したのはパレスチナ共産党でした。

もう一つ、ユダヤ人は元からいるパレスチナ人から土地を買ったり借りたりして農業や工業を始めるのですが、とかくこの手の契約に揉め事はつきものです。とくにパレスチナの地には耕作可能な農地は限られていますからたちまち紛争が勃発します。

 

ユダヤ人武装組織の登場

最初の大規模な衝突が、1928年の「嘆きの壁」事件です。エルサレムにある「嘆きの壁」というのはユダヤ人にとってもアラブ人にとっても聖地でした。ここでの集会をめぐり双方の過激派が衝突。ユダヤ人100人以上が殺されます。イギリスはエジプト駐留部隊を派遣し鎮圧しますが、その過程で今度はアラブ人100人以上が殺されます。

これを契機にユダヤ人は武装組織の形成を急ぎました。「イルグン・ツヴァイ・レウミ」という部隊は後の首相ベギンが指揮していました。ユダヤ人社会はパレスチナ人を暴力的に排除しながら拡大し、名実ともに国家の様相を示すようになりました。

この傾向を一気に進めたのが33年のナチス政権の成立でした。欧州各国からの流入で,一気にユダヤ人人口が40万人に増加しました.パレスチナの土地の5.7%がユダヤ人の手に渡りました.

この怒涛のようなユダヤ人の流入に、アラブ人の反発が強まります。36年にはユダヤ人の移民停止を要求して「アラブ大反乱」と呼ばれる暴動が起きます。一部はイギリスの地区弁務官を暗殺するなどのテロ活動を展開するに至ります。

アラブ人の抗議はますますユダヤ人の危機感を強めます。ヨーロッパ各地でユダヤ人が漂泊の民となっている。これを一人でも多く救出しパレスチナの地に連れ出したいという気持ちの現れでしょう。しかし地元からは猛反発を喰らい、肝腎のイギリスもこれ以上のユダヤ人を送り込むことには及び腰です。

それを押しこむには力しかない、ということでしょうが、先住者の事情はお構いなしです。シオニストの指導者ジョセフ・ワイツは,「アラブ人のすべてを,この土地から隣接諸国に移住させる以外に方法はない.アラブ人の一村落,一部族たちとも残してはならない」と主張しました.

 

イスラエル建国へ

1942年、ユダヤ人幹部のベングリオンらは、イギリスに対しイスラエル国家の創設を要求する「ビルトモア綱領」を発表しました.この宣言はパレスチナのみならず全世界のユダヤ人の熱狂的支持を受けました。シオニスト武装組織は移民制限に抗議してイギリスへのゲリラ攻撃を開始します.ベギンの首には二千ポンドの賞金がかけられました.

1945年、終戦とともにアラブ諸国では独立の動きが相次ぎます。シリアがフランスから、ヨルダン、イラクがイギリスからそれぞれ独立を果たします。そのなかでパレスチナの動きが注目されるようになりました。

アラブの支援受けながらアフリカ戦線を戦ったイギリスは股裂き状態になり、パレスチナの統治を放棄します。イギリスに後始末を押し付けられた国際連合は、パレスチナ分割を決めます。分割は、アラブにとってはまことに理不尽ではありますがやむを得ない措置であったと思われます。なぜならパレスチナ人との共存をあくまで拒むユダヤ人が60万人に達していたからです。共存を主張していたパレスチナ共産党はこの時までに内部分裂し、事実上崩壊していました。

しかし分割の比率はきわめて不当なものでした。人口で3分の1,所有地で6%を持つに過ぎなかったユダヤ人が,パレスチナの56.5%の土地を獲得することになったのです.これはどういうことを意味するか。考えなくても分かります。パレスチナ人の土地からの追い出しを国際的に承認したということです。

ここからパレスチナ人の苦難の歴史が始まります。

パレスチナ 苦難の歴史

2013年6月

 

1900年 シオニストの入植

20世紀のはじめ、パレスチナはオスマントルコ帝国の一部でした。当時の人口は63万人と言われます。

同じイスラムでも、オスマントルコはトルコ人、パレスチナはアラブ人ですから、異民族支配という状況には変わりありませんでした。しかしトルコ人は圧倒的少数で、パレスチナ人が土地を追い出されたりすることはありませんでした。

1901年はネガティブな意味で記念すべき年です。この年ユダヤ国民基金が創設されたのです。ヨーロッパに散在するユダヤ人は、パレスチナこそ我らの祖国だと主張し、金を出しあってパレスチナの土地を買い,入植を奨励したのです。

やがてユダヤ人はテルアビブを中心として「祖国」を建設し始めました。と言ってもまだこの頃は一種の宗教的色彩を帯びたボランタリーなものでした。

 

第一次世界大戦 パレスチナの「独立」とユダヤ人「準国家」の成立

第一次世界大戦でパレスチナの領土を占領したのはイギリスでした。とはいえ、アラブ人の力もなみなみならぬものがあり、イギリスはこの地域を大アラブ王国として独立させることにしました。首都はシリアのダマスカスに置かれ、パレスチナ地方もこれに含まれることになりました。

独立と言ってもイギリスの信託統治下における自治領なので不完全なものですが、正直、アラブ人にも統治・行政能力はなかったので、やむをえざるものがありました。

しかしこの時イギリスはせこい手を使ったのです。イギリスはユダヤ人の銀行家から多額の戦費を借りていたので、ユダヤ人の要求に応える必要がありました。そこでイギリス政府はパレスチナにユダヤの「民族的郷土」を建国することを承認したのです。

民族的郷土(National Home)とは,主権を持った国家ではないものの,その道程にある政治的存在なんだそうで、訳が分かりませんが、まぁ後は当事者同士でうまくやってくれというようなものでしょう。

まあそれでも良いか、とパレスチナ人をふくむアラブ人はたかをくくっていました。パレスチナの国土は地中海海岸とヨルダン川河谷に挟まれた高原地帯で、放牧民の暮らす半砂漠の荒れ野が広がっていましたから、そこにユダヤ人が入植して「ユダヤ共和国」を作っても大したことはあるまい、そのうち辛抱できずに退散するだろうと思っていたのでしょう。

シリアのアラブ国王はシオニストの代表ワイツマンと会見し、「パレスチナへのユダヤ人の大量移民を奨励する」ことで合意しています.少なくとも最初は、アラブは宥和的だったことが分かります。

ところが、第一次大戦が終わった後、イギリスはこれらの約束は裏切られます。イギリスはシリアとレバノンをフランスに与え、それ以外のイラク,パレスチナを国連委任統治という名目で自国の植民地としてしまいます。当初は現在のヨルダンもふくめてパレスチナでした。

いっぽうでユダヤ人との約束はそのまま守られました。こうしてパレスチナ人はイギリスの支配下にユダヤ人と強制的に併存させられるようになったのです。

 

準国家から国家への動き

パレスチナのアラブ人は、この状況に大いに不満でした。そこでイギリスに対し、5項目要求というものを提出します。その要求はきわめて穏和で、いま考えても説得力のあるものでした。

つまりイギリスは出て行ってください。残った者たちはユダヤもアラブも相和してパレスチナの国造りを目指しましょうというものです。それで国の形が決まるまでは、とりあえずユダヤ人の入植は止めましょうということですから、きわめて常識的な対応です。「善きサマリア人」そのものです。その大枠は今日のPLOにも継承されています。

高まるアラブ人の不満に対応を迫られたイギリスは、さらに次の手を考えだしました。それはパレスチナをヨルダン川を境に二つに分けるというものです。こうしてヨルダン川の東岸に「トランスヨルダン首長国」がつくられ、パレスチナ西部は「英領パレスチナ」として直接統治下に置かれることになりました。

うるさい連中を切り離して、ユダヤ人を直接の庇護のもとに置こうということですから、事実上イギリスがイスラエル建国の足がかりを作ったようなものです。当時の国際連盟もだらしなくて、この措置を承認するどころか、「この地に対するユダヤ人移民と開拓」の助成をイギリスに促したのです。

これが1922年のことですが、当時すでに6万人のユダヤ人が入植していました。これに対し先住のパレスチナ人は67万人とされています。人口でいうと1対10ですがユダヤ人には金があります。工場を立て、店を開き、機械化農業を展開しました。そうするとかなりのパレスチナ人が直接・間接を問わず雇われることになるので、影響力はすでにイーブンの状態にまで達していました。

そうすると、両民族の関係は階級的色彩を帯びるようになります。これらの労働運動を指導したのはパレスチナ共産党でした。

もう一つ、ユダヤ人は元からいるパレスチナ人から土地を買ったり借りたりして農業や工業を始めるのですが、とかくこの手の契約に揉め事はつきものです。とくにパレスチナの地には耕作可能な農地は限られていますからたちまち紛争が勃発します。

 

ユダヤ人武装組織の登場

最初の大規模な衝突が、1928年の「嘆きの壁」事件です。エルサレムにある「嘆きの壁」というのはユダヤ人にとってもアラブ人にとっても聖地でした。ここでの集会をめぐり双方の過激派が衝突。ユダヤ人100人以上が殺されます。イギリスはエジプト駐留部隊を派遣し鎮圧しますが、その過程で今度はアラブ人100人以上が殺されます。

これを契機にユダヤ人は武装組織の形成を急ぎました。「イルグン・ツヴァイ・レウミ」という部隊は後の首相ベギンが指揮していました。ユダヤ人社会はパレスチナ人を暴力的に排除しながら拡大し、名実ともに国家の様相を示すようになりました。

この傾向を一気に進めたのが33年のナチス政権の成立でした。欧州各国からの流入で,一気にユダヤ人人口が40万人に増加しました.パレスチナの土地の5.7%がユダヤ人の手に渡りました.

この怒涛のようなユダヤ人の流入に、アラブ人の反発が強まります。36年にはユダヤ人の移民停止を要求して「アラブ大反乱」と呼ばれる暴動が起きます。一部はイギリスの地区弁務官を暗殺するなどのテロ活動を展開するに至ります。

アラブ人の抗議はますますユダヤ人の危機感を強めます。ヨーロッパ各地でユダヤ人が漂泊の民となっている。これを一人でも多く救出しパレスチナの地に連れ出したいという気持ちの現れでしょう。しかし地元からは猛反発を喰らい、肝腎のイギリスもこれ以上のユダヤ人を送り込むことには及び腰です。

それを押しこむには力しかない、ということでしょうが、先住者の事情はお構いなしです。シオニストの指導者ジョセフ・ワイツは,「アラブ人のすべてを,この土地から隣接諸国に移住させる以外に方法はない.アラブ人の一村落,一部族たちとも残してはならない」と主張しました.

 

イスラエル建国へ

1942年、ユダヤ人幹部のベングリオンらは、イギリスに対しイスラエル国家の創設を要求する「ビルトモア綱領」を発表しました.この宣言はパレスチナのみならず全世界のユダヤ人の熱狂的支持を受けました。シオニスト武装組織は移民制限に抗議してイギリスへのゲリラ攻撃を開始します.ベギンの首には二千ポンドの賞金がかけられました.

1945年、終戦とともにアラブ諸国では独立の動きが相次ぎます。シリアがフランスから、ヨルダン、イラクがイギリスからそれぞれ独立を果たします。そのなかでパレスチナの動きが注目されるようになりました。

アラブの支援受けながらアフリカ戦線を戦ったイギリスは股裂き状態になり、パレスチナの統治を放棄します。イギリスに後始末を押し付けられた国際連合は、パレスチナ分割を決めます。分割は、アラブにとってはまことに理不尽ではありますがやむを得ない措置であったと思われます。なぜならパレスチナ人との共存をあくまで拒むユダヤ人が60万人に達していたからです。共存を主張していたパレスチナ共産党はこの時までに内部分裂し、事実上崩壊していました。

しかし分割の比率はきわめて不当なものでした。人口で3分の1,所有地で6%を持つに過ぎなかったユダヤ人が,パレスチナの56.5%の土地を獲得することになったのです.これはどういうことを意味するか。考えなくても分かります。パレスチナ人の土地からの追い出しを国際的に承認したということです。

ここからパレスチナ人の苦難の歴史が始まります。

赤嶺議員の質問が大変鋭い。

安倍首相が繰り返し主張する「強制連行を示す証拠はなった」という根拠については、あまり知られていない。
その根拠となる文書は「いわゆる従軍慰安婦問題の調査結果について」というもの。
これは2007年に内閣官房内閣外政審議室というところで作成されたようだ。
その報告書の“既述概要が記載されている資料”というのが別途作成され、それが「答弁書」の骨子となり、安倍発言の根拠となっているらしい。

したがって、発言の根拠は4段重ねとなっている。
1.内閣外政審議室の調査報告書
2.報告書の記述概要を記載した資料
3.概要にもとづく政府答弁書
4.答弁書に基づいて安倍首相がまき散らしている発言

安倍発言とは、正確にいうと「政府が発見した資料の中には、軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような記述も見当たらなかった」というものである。

それで免罪されるわけではないことは、これまでもさんざん論じられてきたが、「記述が見当たらなかった」というのが嘘だったら、この論争はそもそも無意味だということになる。

ところが「直接示すような記述」があったのだ。

先ほどの「いわゆる従軍慰安婦問題の調査結果について」というレポートの中に、日本軍による強制連行を示す資料である「バタビア臨時軍法会議の記録」がふくまれていた。

バタビア軍法会議の詳細は省略するが、いまはその是非を問うているわけではない。その記録が調査報告書にふくまれていたという事実だ。

問題は二つある。一つは調査の段階では存在した記述が、記述概要にまとめるときに、なぜ反映されなかったのか、ということだ。

もう一つは、このバタビア文書が、“強制連行を直接示すような記述”とみなされなかったのかという、判断基準をめぐる問題だ。

もし「つい見落としてしまいました」というなら、坊主マル懺悔する他ない。腹は立つが「しょうがないなぁ」ということに落ち着く。

もし問題が後者だとすると、「いわゆる強制連行」の定義が再度問われることになる。団鬼六の緊縛シリーズみたいなサド・マゾの世界のみが唯一の“強制”ということになる。

赤嶺質問に対する答弁書は、「強制連行を示す証拠はなかった」という認識は「同じである」とされているそうだ。

どうも政府の認識は限りなく後者に近いようだ。これでは人権意識の究極的荒廃と言わざるを得ない。

たとえ百歩譲っても、問題は「直接の証拠」の存在ではない。「直接示すような記述」の存在である。

これでは、政府は答弁不能に陥るのではないか。

バタビア裁判については、さすがの右翼も争わない
彼らは軍の範疇を狭く捉えることで、この論争を逃げ出そうとする。
端的に言えば、「東条英機が命令したわけではない」ということだ。
「軍の一部の不心得者による違法行為であり、国家・政府機構による行為ではない」ということになる。

ただそれを押し通せば、「日本人は不誠実だ」とみられることは間違いない。

↑このページのトップヘ