鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

2013年05月

思うに「アキレスと亀」のパラドックスは、人間の持つ時間感覚の不確かさを、とくに未来予測に関する時間感覚のゆらぎを巧妙に利用したお話だろうと思う。

普通に考えれば、時間軸が徐々に間隔を詰めて最後に止まってしまうようなグラフを見て、こんなものありうるわけがないと思うが、ちょっとトリビアルな具象を介在させるだけで、ころりとだまされてしまうのである。

我々の住む世界は4つの次元から構成されている。このうちで絶対的なものは時間軸しかない。時間軸を絶対軸としてとれば、他の縦・横・高さの三つの次元は相対的・確率的なものにならざるをえない。これは当たり前だ。

この関係を踏み外すとおかしなことが始まってしまうのだが、人間が簡単に踏み外してしまうのにはわけがある。人間には空間認知能力は備わっているのだが、時間認知能力はきわめて弱いのだ。

時間感覚というのは、瞬時的には運動神経として表現され、中期的には段取り能力として示され、長期的には構想能力として発揮されることになる。

これらの多くは学習と記憶能力の助けを借りて獲得していく能力であり、生得的なものとはいえない。

私は運動神経ゼロ、行き当たりバッタりで遅刻の常習犯、「備えなくして憂いなし」をモットーに70年近くを暮らしてきたから、時間感覚にはきわめて乏しい部類だろうと思う。

逆説になるが、それだからこそ時間感覚の大切さ、歪まない時間軸の中に身をおいて考えることの大切さをしみじみと感じることができるのではないかと思う。

煙草の害も、そして多少の益も、タバコのみにしか分からない。(…と、これは関係ないか)

「アキレスとカメ」という話があって、俊足のアキレスが1メートル先を歩く亀を追い越せるかという問題である。アキレスが1メートルを走って亀に追いつい たとき、亀は1センチ前に進んでいる。「されば」とてアキレスが1センチ進んだとき、亀は0.1ミリ先に進んでいるという具合で、何時まで経ってもアキレ スは亀を追い越すことはできないというパラドックスである。

私はこのパラドックスの解を随分もとめたものだ。ヘーゲルの解説本を読むと、 彼もけっこう悩んだらしい。学校の先生は横軸に時間軸、縦軸に累積走行距離をおいて図を描き、アキレスと亀の走行距離はこの通り交わるから、「追いつけな いという話は成立しない」と否定してみせたが、それでは論理的否定にはなっていない。考え方を変えただけだ。だから「ウム、そういう見方もあるね」と受け 流されるだけだ。

このパラドックスは片対数グラフの上に描かれている。横軸(t軸)が数直線ではない。ここにミソがある。そのグラフの上に反比例曲線が描かれているのだ。

おそらく、このグラフの最大の問題は、時間がいつか最終的に止まってしまうことにある。これは時間の流れは、それが一定かどうかは別にして、止まることはないという原理に違反しているので、成立し得ないということになるのではないか。

ヘーゲルはライプニッツの数学を使ったようだが、積分でもうまくいかないだろうと思う。こういう問題は、五目並べで言うと、相手を三々などの禁じ手に追い込むのが一番だ。理論経済学でよくやる手である。

ただ、この手は勝ち味がスッキリしないのが難点である。

「弁証法」という言葉は、弁証法の創始者であるヘーゲルが名付けたのだからしょうがないのだが、やはり適当ではないようだ。
元々ギリシャ哲学から引っ張ってきた言葉だが、どうせ古いものから探すなら、わたしは般若心経の「色即是空」のほうが当たっていると思う。
ただ、「色即是空」にはニヒルな価値観が内包されている。とくに日本では「世の無常」という鴨長明的なニュアンスが色濃くなっている。もとのインド哲学ではどうなっているのだろうか。

私は弁証法の極意は「存在は過程である」ということではないかと単純化している。

「存在は過程である」ということは、認識論的に見た場合と、実践論的に見た場合には意味合いが違ってくる。

認識論として考える場合は、弁証法は「4次元的な発想」が必要だという思考ツールとなる。
ハイゼンベルクの「存在は確率である」という量子力学的理解は、存在を時間の概念を排除して規定しようとすれば、そうなるほかはない。

「物質は消滅する」のではなく、見えなくなってしまうのである。誰が見ても、まごうことなく目の前に存在している物質が、量子力学という偏光レンズをかけると見えなくなってしまうのである。






「天皇陛下万歳」とは何事か

ニュースで式典の模様を眺めていた。天皇・皇后の終始こわばった顔が印象的であった。皇后は卒倒せんばかりの表情である。

今上天皇のこれまでの言動からして、この式典は明らかに本意ではない。

だから“お言葉”なしで座り続けることに意味があったのだろう。その表情を沖縄の人に見てもらいたかったのではないか。

あまつさえ、式典終了後に帰ろうとする二人に「天皇陛下万歳」の唱和が送られたという。これが「天皇の政治的利用」でなくて何なのか。

「何よりも陛下に対して失礼この上ない」とのコメントがあるが同感である。韓国日報は「天皇陛下万歳はハイル・ヒトラーと同じ」と論評した。同感である。

「そのうち式典では必ず「天皇陛下万歳」って三唱されるようになり、しなければ非国民扱いされるんだよな。学校でも強制されるようになるよ」というコメントがあった。同感である。

NHKはこれを放映しなかった。何故か赤旗も報道していない。

まず画像がここで見れる。

http://gyao.yahoo.co.jp/news/player/20130428-00000017-jnn-pol/

https://livedoor.blogimg.jp/shosuzki/imgs/4/7/474e241a.jpg

TBSのニュースはしっかりと写した。壇上左端で諸手を上げているのが安倍首相である。

沖縄県の高良副知事は「天皇陛下万歳」をしなかった。

総務省の労働力調査で、完全失業率が0.2%減ったと発表された。
こんな数字が参議院選挙で「アベノミックスの成果」と宣伝されないために、事実を明らかにしておく必要がある。

たしかに完全失業者数は前月に比べ17万人減少し267万人となった。完全失業率(就業可能者に占める割合)は4.1%となっている。

しかし
①就業者は1万人減っていいる。少なくとも増えてはいない。失業率が下がったのは失業者が就職できたからではない。

では17万人はどこへ行ったのか?
②就業も求職活動もしていない非労働力人口が17万人増えている。ぴったんこで符合する。

もうひとつ、就業者が1万人減ったが、その1万人はどこへ行ったか。
③新たに仕事を探し始めた人は12万人減った。つまりこの間に失業した人は、就職を諦めたことになる。

つまり、失業者の中でそれなりにもがく人の割合が減って、諦める人の割合が増えたから「完全失業率」が下がったのであって、むしろ事態は深刻化していると見るべきである。

就業者の中身も劣悪になってきている。
④非正規雇用率は引き続き上昇し、36.7%に達した。

いっぽう有効求人倍率は、1年前から0.1%上がり0.86倍に達したが、上昇しているのは、宮城、福島などの被災地であり、埼玉、千葉、神奈川など分母の大きい県では、求人状況は0.6倍程度にとどまっている。





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