鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

2013年03月

12日に京都で起きた風力発電の倒壊は、その画像とともにかなりの衝撃を与えた。
以前にも書いたが、日本における風力発電の実績はあまり芳しいものではない。
いくつもの風力発電が作られたが、それと同じくらいのテンポで、作られた風力発電が運転休止に追い込まれている。
結局、もうけたのはヨーロッパの製造メーカーと日本の建設会社だけということだ。

日本に風がないわけではない。問題は強すぎるか変動が大きすぎるということだ。だから作りはさらに頑丈にし、蓄電設備の併設が不可欠となる。さらに人口が密集する平地では低周波の問題が避けて通れないから、どうしても人里離れた山の上ということになる。送電設備も含めると、とてもコスト的には引き合わないと思う。

だいたい風車といえばドン・キホーテのスペインか、チューリップのオランダかという具合で、例えば日本と同じ島国のイギリスではあまり見かけない。
代替エネルギーの主流として風力にこだわるか、それとも他の資源に行くかは、もうそろそろ結論を出さないといけない。

ドイツでは風力発電で電力需要の大半をまかなえるという見通しがあるから原発廃止に踏み切った。
日本では、そういうそろばんの前に、とにかくだめだという倫理的なところから議論が出発している。代替エネルギーとしてこれで行くんだという見通しが持てていないことが原発廃止論の弱点となっている。

私としては、風力には見切りをつけるべきかと思う。こんな事故で再生エネルギー推進の流れに水をさされてはかなわない。
ただ、原発跡地に風力発電というのなら、政治的な意義もふくめて有りうると思うが。

では、国民の電力需要をまかなえる可能性のある自然エネルギーは何なのか、あれこれのアイデアではなく、もう少ししっかりした計算の上に立った説得力のある計画が必要だろう。

住宅用ソーラーは発電と言うよりは節電の一環と考えたほうが良い。設置したパネルが耐用年数に達したとき、どのくらいの人が交換するだろうか、いささか不安ではある。

私としては、パタゴニアの風力発電を液体水素に転換して輸入するという案が魅力的なのだが、LNGの価格がさらに下がった時にペイできるかどうか不透明である。

アルゼンチン政府の意向次第では、高値をふっかけられる可能性もある。

老健に入所しているお年寄りのために、YouTubeからなつかしのメロディを集めてみた。

“歌のおばさん”が、毎週ボランティアで来て歌っているが、歌の種類がどうも合わない。
年寄りが本当に懐かしい歌なのかナ、と思ってしまう。

私のなつかしのメロディだから、年寄りにはちょっと新しいかもしれない。それとラジオで流れていた曲だから、学校で歌う歌とは違う。ちょっと下品で、学校で歌ったら叱られるような歌だ。


当時はNHKだけでなくて民放も始まっていたから、いわゆる流行歌はそちらから憶えたほうが多いのかもしれない。

「平凡」の新年号には本体からはみ出るほどの付録がついていたが、ヒット曲の歌詞が載っている手のひらサイズの歌集は、何回も折り目をつけるものだから、扇子みたいに膨らんでいたものだ。

もちろん家では「平凡」など買ってもらえないから、誰彼となく借りてきてはこっそり見ていたものだ。住み込みの見習い看護婦さんの部屋で教えてもらったこともある。

ヤマガの出なのに、えらくモダンな化粧をしていたが、やがていなくなった。なんでも男でしくじって、その後水商売に移ったらしい。(静岡では安倍川や藁科川の上流の方に住んでいる人を、ヤマガの衆と言ってバカにしていた。ヤマガというのは山家のことだと思う)

考えてみると、あの頃、看護婦というのはあまりカタギの商売とは思われていなかったような気がする。
第一、タバコのみが多い。女だてらに酒を飲んだりタバコを吸うような手合いは看護婦か水商売系と思われていた。

その反動なのか、学生時代には革命的医師は看護婦と結婚すべしみたいな風潮もあった。良家のお嬢様と結婚するのは階級的堕落だと、結構まじめに考えていたものである。

ずいぶん長い前置きになったが、その「なつかしのメロディ」の中に春日八郎の「別れの一本杉」がある。
この歌の一番の泣かせどころは、最後のフレースにある。

嫁にも行かずに この俺の
帰りひたすら 待っている
あの娘は幾つ
とうに二十はヨ 過ぎたろに

聞いている人は、結構このところでウルっと来たものなのだが、いま聞くとさすがにアナクロだ。とうに40歳過ぎた看護婦がゴロゴロいる。しかも未だにキャピキャピやっている。

私が高校を出たのが昭和40年。その頃はさすがに中学で終わりというのはなかったが、4年制大学に行くのも多くはなかった。

たいていは会社に“職場の花”として何年か腰を掛けて、その間に花嫁修業をしながら相手を探すという時代だった。

その頃は短大が憧れだった。短大でも結構資格がとれたから幼稚園の先生とか栄養士などがステータスだった。

短大を出て20歳、それから4,5年が勝負だ。25歳を過ぎると「お肌の曲がり角」といって、もうおばさんの仲間入りすることになる。30過ぎたら「ゆかず後家」と後ろ指さされる。

と、書いていたらキリがない。明日も仕事だ。このへんでおしまい。

相変わらず、電話のセールスが多い。
一度気が向いて、しゃべりを聞いたことがある。
儲かりますが第一、安全ですが第二、これで乗ってきたなと見ると、こちらの不安感を掻き立てる。
年金がいくら、貯金がいくら、これでは将来やっていけませんね、何とかしないといけませんね、とせまる。

考えてみると、この3点セットは原発推進論の理屈とまったく同じだ。

最後に、「うちはいいですから」と断るのだが、この「うちはいいです」というのがどういう理屈なのか、自分でもよく分からない。
これが対面販売だと、「考えておきますから」とか、「気が向いたらこちらからご連絡いたしますので」と言って、相手の顔も立てることになる。

何が、なぜ「いい」のか、これは押し売り撃退法の極意に属する問題だ。



「福島第一原発 廃炉への険しい道」と題して、神田康子記者がレポートしている。

1.使用済み燃料の取り出しが最重要課題

主要な課題として、次の3つがある。
①使用済み燃料の取り出し
②「燃料デブリ」の取り出し
③汚染水の処理

この内、戦略的にもっとも重要なのは、核燃料の処理である。なぜならそれは、ほとんど不発弾を野積みにしているようなものだからである。

今の状態で同じような地震があれば、再び大事故を起こす危険があるからだ。それどころか落雷、突風、豪雨などあらゆる災害に対して脆弱な状況にある。

ほかの二つは、影響の深刻さは別にして、どちらかと言えば後片付け的作業になる。

神田記者はこの3つをベタで扱っているが、現場の重点は明らかに燃料棒の取り出しにある。


2.収束宣言が出せるような状況ではない

おそらく、使用済み燃料のプールがそれなりに安定して、何かの事故が起きない限り、臨界には入らないと確認された時点で、国は収束宣言を出したのであろう。

それはそれとして、間違いであったとはいえない。しかしそれは仮の安全である。

棚から半分ずれ出して、今にも落ちそう担っていた爆弾をとりあえず棚の上に置き直したという状況であり、それが信管付きの不発弾であるという状況に変わりはない。

ここに事態の本質がある。汚染水が最大の問題と書いたが、事態はもっと切迫している。ただ幸運(ツキ)が今までの安静を担保していただけなのだ。

昨年9月、3号機の使用済燃料プールでは、地上のクレーンに吊り下げられた重さ500キロの鉄骨がプールに落下しました。
プール内の使用済み燃料を傷つけるだけでなく、プール自体に穴が開いてしまう危険もありました。そうすれば使用済み燃料を冷やしている水が抜けてしまいます。



3.ロボットは役に立たなかった

この処理過程が難航している最大の技術的問題は、抑えのエースとして登場したロボットが、次々と炎上、何の役にも立たなかったということだ。

階段で転んだり、通信が切れて制御不能になったり、帰還できなくなるロボットが続出。中には炉内の細かな部分まで調査するための子機を置き去りにしてきたロボットもいます。


と、記事は伝えている。

その理由として、神田記者は①安全神話によりかかり、ロボットの開発が遅れていたこと、②築40年の建造物で、修復・改造を重ねているために設計図が役に立たないことを上げている。(②の話は身につまされる思いがする)

そこで現在は、炉全体をカバーするようなレールとクレーンでアプローチする戦術に切り替えているようだ。

というわけで、結局最後は人力。テレビに出てくるようなクレーン車運転の名人が出番となるのではないだろうか。


4.使用済み核燃料の処理は国家的プロジェクト

使用済み核燃料の処理といっても、燃料棒を今にも壊れそうな建屋の内部から取り出して、敷地内に設けた仮置き場に入れるだけの話で、本当の処理には程遠い。

とりあえず、ご遺体を収容して死体置き場に納めるだけの話で、通夜も葬式もそれからだ。だいいちまだ死んでいない。死んだふりしているだけだ。

東電が責任をもってやるにせよ、事の本質は日本の未来がかかる国家的プロジェクトだ。人も金も出し惜しんではならない。いわんや収束宣言であとは知らんぷりというのはありえないと思う。


このところの国会での共産党と政府の、ヨイショのしあいはちょっと気持ち悪いものがある。

自民党政府の論調には明らかに米倉経団連への嫌悪感が漂っている。

しかし、小泉構造改革の反省までは踏み込んでいない。笠井議員の質問に田村厚労相がこう答えている。

欧米はかなり失業率が上がりましたが、日本は非常に景気が悪い時もそれほど失業率が上がらない。そういう意味では、この働き方というものはひとつのバッファ(緩衝材)だったことは確かであります。

これは非正規拡大への積極的な賛成ではなく、消極的な意義付け、しかも結果としてそうなったという認識だろうと思われる。

しかしこれは、97年不況への対応と、その後の非正規雇用の制度化を混同したものであり、嘘である。

これは小学生でもわかる話だ。
企業の収益が落ちて、賃金コストを削らなくてはならない。その中でいわばワーク・シェアとして厳しさをわかちあうという意味なら理屈は立つ。(あくまで理屈が立つというだけで、事の善悪とは別)
しかし2004年あたりから企業業績は回復した。であれば雇用形態は別として、労働分配率も回復しなければならないはずだ。
しかし労働者の取り分は増えるどころかますます減らされ、これに反比例する形で企業の内部留保は積み上がっていったのである。

これが内需を冷え込ませ、ひいては企業業績を悪化させた原因だ。

ではなぜそうなってしまったのか、なぜそんな無法なことが可能になったのか、不況だから、企業の存亡の危機だからといって導入した非正規雇用をそのまま継続したからである。

いわば、企業は恩を仇で返したことになる。

ここの肝心のところを言わないで、最初のところばかり強調するのは、黒を白と言いくるめていることになるのではないか。

スイスで国民投票が行われ、役員への高額報酬を憲法で禁止することが決まった。
ルールを破った場合は、最高3年の禁錮刑プラス報酬の6年分に相当する罰金が課される。
賛成票は68%に達したそうだ。

ここまで話が進んだのは、銀行幹部が危険な投資によって莫大な損失をもたらしたにもかかわらず、30億円近い報酬を受けていたのが分かったからだ。

ほかにもノバルティス(製薬会社)の会長の退職金が70億円の退職金をもらうというニュースも流れ、国民の気分をいたく傷つけた。

この間のEUでの高額報酬禁止決議といい、ヨーロッパには富裕層バッシングの嵐が吹き荒れているようだ。身から出た錆というべきか。



知らなかったね、伊藤左千夫にこんな歌があったなんて。
伊藤左千夫といえば、若かりし頃、「野菊の墓」を読んで不覚の涙を流したものだ。

赤旗文芸欄のコラム「朝の風」、「歌人 伊藤左千夫の社会批判」から

民を富ますことを
思わぬ人々が
国守るちう
さかしらを説く


そうでんなぁ! 米倉さん

ところで米倉さん、雲行きが怪しいようですな
たかが商売人が、あそこまで、賢しらに出しゃばっちゃぁいけませんよ

アメリカは日本の農産物が高いのを「非関税障壁」として攻撃するが、実は安いものも「非関税障壁」なのだ。
その典型が軽自動車制度に対する攻撃だ。これは以前書いた。
もう一つが知財権を盾にした攻撃だ。
これが医薬品での「非関税障壁」突破のやり口だ。このことは前に、「国境なき医師団」の声明で紹介した。
「医者は儲けている。医師会は自分勝手だ」という理由でTPPを合理化しようとする論調がある。これについて、少し系統的に反論しようとしたが、チャベスの方にすっかり行ってしまった。
医療の話は他の人が十分やってくれているが、チャベスの話が出来る人はそういないからである。

医療の話は、国民皆保険の問題、混合診療の問題が大きく取り上げられているが、素人にはわかりにくいところがある。

しかし薬価の話は、軽自動車と同じで、だれにでも一目瞭然でわかりやすい話だ。しかも国民の懐にもろに響く、医療費が高騰というが、その主要部分を医薬品費が占めているわけで、これについては医師会に文句を言っても仕方ない。

前置きが長くなった。
本日の赤旗に保団連の寺尾さんが語っている。
これによると、

イギリスの薬価(患者薬価)を100とすると、フランス114,ドイツ168,日本222,アメリカ289で、3倍の開きがある。日本は高いほうだがアメリカはさらにその1.3倍だ。

この数字は保団連の独自調査によるもので、やや雑駁なものだ。もう少し基礎的な数字で抑えていかなければならないが、日本では薬代が高すぎることが医療費の高い原因となっていることはわかる。

しかもそれよりアメリカは高いのだから、そのままでは競争に勝てない。そこで臨床データの知財権保護を強硬に主張しているのだ。

ある意味では知財権は究極の非関税障壁でもあるのだが、アメリカはそういう矛盾には目もくれない。

TPPというのは、そういうアメリカの二重基準を丸呑みすることになるのであり、決して物価が安くなることにはつながらない。

アナ・カラムという歌手がいる。小味な歌手なのだが、うまい。ギターの腕前もすごい。
この人の一番よい演奏は「O Vento」という曲だ。トリバル・カイミの曲らしい。YouTubeでも聞ける。
これはブルー・ボッサというアルバムの一曲だ。このアルバム、聞いていて辛い。とにかくサンバがブルースに乗らないのだ。
これは無謀だ。ジョアン・ジルベルトが独特のシンコペーションとコード進行で何とかジャズにはつなげた。
しかしジャズには繋がっても、ブルースにはつながらない。むしろクラシックとの親和性のほうがはるかに高い。
これはアフロ・キューバン・ジャズでも同じだ。
ブルースの一拍目の重さは、誰にも受け止められない。
あきらめなさい。



また松島記者のおかしな連載が始まったようだ。
今度は「プロセソ」誌の国際部責任者にインタビューしている。

①中南米諸国は自分たちの問題を自力で平和に解決できるようになった。

言葉の綾としてはそれでいいのですが、現にホンジュラスやパラグアイで事実上のクーデターが続いており、それは未だ現在進行形の、闘いの課題でしょう。

②米国にとってこの地域で最も重要なのは、(覇権ではなく)安定である。米国の中南米政策は冷戦時代のように、気に入らない政権を転覆させようというものではない。
この記述は、どう考えても不適切だと思います。権力の真の中枢である軍産複合体とオバマ政権はある程度分けて考えるにしても、これではあまりにバラ色過ぎます。

③米国にとっては、中東やアジアがより優先的な地域となった。
これも賛成できません。中南米はアメリカにとって、美人であろうとなかろうと本妻であり、経済力の根源なのです。

④メキシコの役割は南北米州の中でバランスをとることにある。
百歩譲って、特殊な地政学的役割を認めるにしても、それは「我らのアメリカ」の一員となることによってしか発揮されないはずです。鵺的なスタンスではどちらからも馬鹿にされるだけです。

⑤メキシコ、コロンビア、チリ、ペルーの太平洋同盟には積極的な意義がある。
これはTPP賛美論にもろにつながっています。これらの国々は米州自由貿易構想の賛同国であり、アメリカとFTAを結んでいる国々でもあります。
何よりも反共政党が支配する国々です。(その後ペルーは変わったが)
これはあからさまな反共、反ALBA、反メルコスール、反UNASURの同盟です。
「いいところもある」といって澄ましているわけには行きません。


ブロゴスというサイトに広瀬隆雄さんという方の書いた記事がある。

ウゴ・チャベス大統領の死が世界の石油関係者や石油関連の投資家にとって重要な理由

2013年03月06日 21:27

ということで、重要な理由は、結論から言えば、「ベネズエラは石油の確認埋蔵量で世界最大」だからです。

一方、なるほど埋蔵量は増えているけど、毎年の生産高の推移を見ると、ベネズエラは逆に1998年あたりを境としてジリ貧になっています。1998年はチャベスが大統領に就任した年です。

ということで、チャベスが悪いから石油生産が減ったんだという筋書きになっています。

ここで広瀬さんは2つのグラフを提示しています。最初が各国比較の推移です。ついでベネズエラだけを取り出したグラフを提示します。

「上のグラフは見にくいので、ベネズエラだけを抽出する」というふうに並べるのが、ちょっとしたトリックです。本当はまず、ベネズエラ単独の推移を見て、それが世界の中ではどういう関係になっているのだろうと、考えなければなりません。

ここでは、まずベネズエラ単独の推移を見てみます。

https://livedoor.blogimg.jp/shosuzki/imgs/3/f/3f798b1c.jpg

この図から、広瀬さんは次のような結論を導き出しました。

チャベス大統領はベネズエラの国営石油会社、PDVSAから上がる石油売却代金をどんどんバラマキ政治のために使ってしまいました。このため本業への再投資がおろそかになり、生産が細ったというわけです。

この図は実はそうは読めないのです。

まず08年以降の漸減ですが、これはリーマン・ショック後の需要低迷と原油価格の下落に伴う生産調整です。(それが全てとは言いませんが)

なお、2011年の原油生産量は09年レベルまで復しているが、このグラフには反映されていません。

もうひとつ付け加えて置かなければならないのは、ベネズエラに投資している国際石油メジャーとの利益配分をめぐる闘いです。強硬な姿勢をつらぬくベネズエラ政府に嫌気が差して、いくつかのメジャーが撤退しました。これが生産量の落ち込みと関連している可能性があります。ただし、現在は裏付け資料を持っていませんので推測になりますが。

03年の落ち込みは、言うまでもなく石油公社のゼネストによる影響です。

問題は98年のピークですが、この年の末にチャベスが二大政党の候補を打ち破り大統領になったのです。この年に国民生活は最悪の状況を迎え、国民は金持ちにバラまく既成政治にノーを突きつけたのです。生産が拡大すれば景気が良くなるはずなのに、なぜそうなったのか、そこが問題です。

じつはこの時、膨大な対外債務に苦しんでいたベネズエラは、メジャーに大増産を迫られたのです。なぜか、当時OPEC諸国は原油安に悩み、生産調整によって価格の底支えを図りました。これに対しこの協定を破壊しようと考えたメジャーは、ベネズエラにスト破りの役割を押し付けたのです。

これが各国生産量の推移を示す図に現れています。

https://livedoor.blogimg.jp/shosuzki/imgs/d/a/da84335e.jpg

お分かりのように、中東諸国やナイジェリアとベネズエラの生産量はほぼ横並びです。ところが94年から01年にかけては突出しています。あとは元に戻っていますが、それ以上にドンドンと落ちていくわけではありません。

なお、ベネズエラはOPECの創設国の一つですが、ペレス政権時代にメジャーからOPEC離脱を迫られ、オイルショックに対する安全弁の役割を果たしてきました。しかしチャベス政権になってからOPECに復帰し、他産油国と共同歩調をとるようになっています。


もうひとつ付け加えて置かなければならないのは、日本のような輸入国にとっては生産高が主要な問題ですが、輸出国にとっては輸出高のほうが重要だということです。

これは前にも引用した図ですが、これを見れば生産量アップの必要などないことがわかるでしょう。

https://livedoor.blogimg.jp/shosuzki/imgs/e/0/e082dca0.jpg

広瀬さんの結論はこうなっています。

ベネズエラが欧米に フレンドリーな政治に戻ってゆくならば、オイルメジャーなどがベネズエラに食指を動かすでしょう。その半面、ニコラス・マドゥロがチェベス流の政治を継承 し、同じような政策を続けるのなら、ベネズエラは現状維持、そしてゆくゆくは中国からの強い影響下に置かれるでしょう。

欧米に フレンドリーな政治」とはどういう政治でしょう。メジャーに「食指を動かされる」のはどんな気分でしょう。私には生娘が金持ちのヒヒ爺に、“おとなしくしていれば悪いようにはしないから”と舌なめずりしながら、言い寄られている場面が想像されてなりません。


さすがWSJ、この期に及んでチャベスをクソミソ

チャベス氏が残した教訓―カリスマ扇動政治家には要注意

社説はこのような書き出しから始まる。

チャベス 時代がようやく終わる。

ベネズエラ国民の生活はこれまで悪くなる一方だった。

1998年時点で、ソビエト連邦はとっくに崩壊 し、メキシコからチリまでさまざまな南米諸国は自由市場政策の導入に成功し、フィデル・カストロ議長はすっかり時代遅れの人物となっていた。

チャベスは、莫大の石油収益を得るという幸運に恵まれた。その結果、歴史の流れに逆らって進むことが可能となった。その資金のおかげで典型的な産油国独裁者にもなれた。

以下は、いかにチャベスが非民主的な独裁者であったかが、るる語られる。しかし02年に、クーデターで政府を転覆するという反民主主義の極致については口を拭ったままだ。

ついで、チャベス政権の経済運営の失敗を暴き出す。「電信柱が高いのも、郵便ポストが赤いのも、みんなあなたが悪いのよ」のデンで、ほとんどヒステリックだ。

ベネズエラ国民、特に貧しい人々の生活は悪くなる一方だった。物価は1999年当時の20倍 以上になっている。

物価統制と資本統制のおかげで日常的に食料・医薬品不足が蔓延している。

資本は国外に逃避している。

首都カラカスの殺人発生率は世界有数となっている。橋や道路は修理が必要な状態にあり、停電も多く、未処理の下水が飲料水を汚染している。

その原因としてあげるのが石油公社の失敗である。

ベネズエラ国営石油公社(PdVSA)はほぼ解体されてしまった。(旧来の管理・支配機構という意味では確かに解体された)

日産量は100万バレル以上減少し、2012年末時点では250万バレルとなっている。(解体された石油公社が250万バレルも生産していることになる)

その後も悪口雑言、てんこ盛りの社説はこう結ばれる。

ベネズエラ国民がこのチャンスをつかみ、痛ましいチャベス革命の遺産を、その指導者の遺体と共に葬ることを願うばかりだ。

アメリカが「葬ることを願う」というとき、それは「葬るぞ」という宣言と同じだ。


ところで
ベネズエラ国民、特に貧しい人々の生活は悪くなる一方だった。物価は1999年当時の20倍 以上になっている。

という一節、以前にも反論済みだが、さすがにこれはひどい。

たしかに物価上昇率は褒められたものではない。年平均20%前後の物価上昇が続いている。ビッグマック価格は堂々たる世界一だ。しかし必ずしも物価上昇イコール貧困化ではない。日本も高度成長時代に物価は数十倍になったはずだ。

このへんはまず物価指数で補正した実質GDPで評価するのが基本だ。人口が爆発的に増えている国では国民一人あたりGDPでみなければならない。そうは言ってもやはりドル換算してみないと、というなら購買力平価換算のGDP(USドル)で判断すればよい。

いちいち挙げないが、ベネズエラの経済パーフォーマンスが悪化しているというデータは、探した限りない。

貧しい人々の生活は悪くなる一方というのはほとんどデマに近い。逆のデータならいくらでも挙げることが出来る。そのほとんどは国際機関の折り紙つきだ。だからファイナンシャル紙さえ渋々認めざるをえない。


英フィナンシャル・タイムズがチャベスの死で大はしゃぎしている。

3月7日には、社説で取り上げた。題して「チャベス亡き後の前進のチャンス」だ。正直でよろしい。

まずはイギリス人らしい皮肉と嫌味と当てこすりのオンパレードだ。ここは飛ばす。

次いで、「ベネズエラに緊張の芽」ということで3つの緊張要素をあげる。

派閥が支配する政権内で結束を維持すること

大統領選挙での現政権と野党との戦い

失政や汚職、インフレ、モノ不足、さらにはカラカスを世界で最も危険な都市の1つにした暴力の急増

だがフィナンシャル・タイムズは3つを列挙したあと、③以外はあまり問題にはならないと自白している。

ついでフィナンシャル・タイムズはベネズエラ革命の成果に難癖をつける。

ベネズエラは当然ながら、貧困率を2000年の52%から2010年の32%まで引き下げたことを誇りに思っている。

これに正面から反論できないので、迂回作戦をとる。これは“うまく行ったらひとのせい、悪く行ったらお前のせい”というおなじみの論理だ。

①「だがそれは“自国経済を略奪する”ことによって成し遂げられたのだ

要するに経済の実女を顧みないバラマキ政策の結果だというのが一つ。

多くの国は、チャベスがやったようにことなく、ベネズエラと同等ないしそれ以上の成果を上げた

成果の相対化である。きわめてありふれた難癖のハウツーである。

より実際主義的な選択肢を具現化し、もっと著しい成長を遂げる太平洋同盟諸国がベネズエラに取って代わるだろう

この辺りは思わず笑ってしまう。

格差を縮小することに関しては、ベネズエラは最も成績の悪い国の1つだ。

これは“中南米のシンクタンクSEDLAC”の統計だそうだ。得体のしれない数字を持ってくるのも、よくやる手口だ。

石油に基づくベネズエラの経済モデルは他国では繰り返せない。

チャベスのイデオロギー的な存在感と小切手帳がなければ、地域におけるベネズエラの影響力は衰えていく。(だが、小切手帳は当分無くなりそうにない。おそらくそこがフィナンシャル・タイムズが苛立つ最大の理由だろう)

チャベス主義がモデルだった時代はとうの昔に去った

これも変な話で、“チャベス主義がモデルだった時代”が、かつてはあったということを認めているようにも聞こえる。フィナンシャル・タイムズはそれを第二次大戦直後のペロンに擬している。

ただそれは、ペロン主義がわずか10年足らずで破産したのに、チャベスが大統領に就任して既に15年を経過し、ますます発展しようとしている現実が説明できないことの告白でしかない。

チャベスは結局、…大勢の人物の1人に過ぎなかった

これはある意味で、私も同意する。“中南米諸国に一体感のある自意識を与えた”人物は決してチャベス一人ではなかった。しかしもっとも影響力のある人物であったことは疑いない。

彼の生涯は、中南米の歴史-ポピュリストの軍事独裁者の歴史-の退行期の終焉を象徴している。

ここまで来ると、もうあかん。

締めはこうなる。

チャベスは貧しい人たちを大事にし、テレビ宣教師のような堂々たる態度でその愛を示した。感動的な話だ。それでも彼の死は、この地域にとって助けにしかならない。

実に感動的な話だ。


志位さんに言われて納得した。
汚染水がもっとも重大な問題だということ。
たしかにそうだ。
以前、本願寺の貫主に言われた時にも納得したのだが、原発は事故を起こそうが起こすまいが、放射性廃棄物を必ず発生する。
これをそのままためておいて、それが際限なく続くということはありえない。いつかは終りが来る
我々は未来を先食いしていることになる。

その放射性廃棄物は、いったん事故を起こすと、凄まじい速度で増え続ける。それが未だに止まっていないというのは恐ろしいことなのだ。核の暴走が止まっていないということだ。
このことは以前、不破さんも指摘していた。

問題はまさにここにある。
長期に見ても短期に見ても、放射性廃棄物が人類を滅ぼす危険は、ますます明らかになっている。


東京都民に避難勧告を出すべきだったか、否か

究極的にはこの問題が問われていると思う。みんなこの問い掛けを恐れている。

アメリカ政府は東京からの避難を指令した。多くのアメリカ人が西へ向かった。彼らの情勢判断はシビアーだった。

かつて朝鮮戦争が始まった時、ソウルを防衛する韓国軍は雪崩を打って潰走した。李承晩大統領は市民を置き去りにして漢江の橋を落とした。アメリカ大使館は取り残された。
これに懲りたアメリカは、94年に南北朝鮮が開戦の危機に直面した時、いち早くソウルを離脱した。


幸いなことに、原子炉のメルトダウン直後の風向きは海側に向かっていた。その後風は東北方面に向かい、いくつかの街が廃墟と化した。

まったく状況は風まかせだった。

私が首相であっても、とても東京都民への避難勧告を出す自信はない。おそらくとんでもないパニックになるだろう。

そうでなくても、都内の主要駅には帰宅難民が溢れかえっていた。

結局避難区域は半径10キロそこそこにとどまった。明らかに避難すべきだった県都福島にも避難命令も勧告も出なかった。

おそらく、政府首脳はどこかの時点で東京は避難しないという決断を行ったのだろう。

それから情報統制が始まっている。マスコミ情報に関する限り、完全な報道管制だ。


アメリカからの情報提供はあっただろうから、知らなかったのではなく無視したのだろう。

「どうせ東京がダメなら、日本は全滅だ」という判断が働いたのだろうと思う。

現に東京でも放射能は観測されたし、静岡まで放射能が到達したことも確認されている。

通常考えれば、半径100キロは避難区域とするのが科学的常識だろう。放射能の人体影響に閾値はないのである。

ただ放射能(I131)は急速に減衰するので、あとはセシウムで判断すれば良くなる。だいたい10ないし15キロまで避難区域は縮小できる。

放射能が現に観測されているのに、「直ちに人体に影響はない」などというセリフでごまかそうとするのは、ほとんどデマに近い。放射線は直ちに人体に影響するのであって、ただそれが病気として直ちに出現しないだけの話である。

しゃべっている人も、おそらく嘘と知りつつ喋っていたのではないか。

ただし、今でも原発推進を説く人たちは、この問い掛けを完全にスルーしているとしか思えない。

自民党の石破幹事長が、震災2周年にあたり、「緊急時には国民の権利を制限する非常事態法が必要」と語ったそうだが、あのとき国民の権利、とりわけ知る権利は大幅に制限されていたのである。


3.11の2周年にあたり、レオン・ヒエコの歌 “Solo le Pido a Dios”(私はそれだけ祈る)の歌詞をアップしておきます。

私はそれだけ祈る。痛みに対して無関心でいないようにと / 死よ、うつろで孤独な私を見つけないでくれ。私には未だし残したことがある。

私はそれだけ祈る。不正に対して無関心でいないようにと / 爪が私の運命をかきむしるとき、もうひとつの頬を差し出さないように

私はそれだけ祈る。戦争に対して無関心でいないようにと / 貧しく罪なきすべての人々を踏みにじる巨大な化け物に

私はそれだけ祈る。未来に対して無関心でいないようにと / 国を追われ、異国で暮らす力無き人々とその未来に。

(英語からの重訳のため不正確です)

Mercedes Soza- Sólo le pido a Dios (Con León Gieco)

音はYouTubeで聞けます。軍政終了直後の1984年に、Luna Park で行われたコンサートの録画です。

感動的な演奏です。メルセデス・ソーサは命懸けで帰ってきて、命懸けで歌っています。

「もう一回歌おう」とソーサが呼びかけると、観客が泣きながら応えています。


パソコンの書類を整理していたら、こんなものが出て来ました。
1995年にキューバを大名旅行した時のものです。
もったいないので、一応アップしておきます。

なお、プラヤ・ヒロンはハバナ南東の海岸の村です。この村から内陸部深く、入江が形成されています。これを地元ではコチノス湾と呼んでいます。小チノスは豚の意味です。アメリカではピッグス湾と呼んでいます。61年4月、ここにCIAに雇われた亡命キューバ人部隊が上陸し、キューバ軍との間で激しい戦闘を行いました。

前後の状況を知りたい方は、「キューバ革命史」をご覧ください。


プラヤ・ヒロン物語

https://livedoor.blogimg.jp/shosuzki/imgs/0/f/0f57406d.jpg 

ハバナを出て2時間近く,右手に大きな精糖工場の煙突が見えてきます.これがオーストラリア精糖工場です.プラヤ・ヒロンの物語はこの工場から始まります.

 61年4月14日,亡命キューバ人からなる侵攻軍2千名が五隻に分乗しニカラグアを出港しました。コードネームは「2506旅団」、彼らの行き先は,キューバの南海岸、プラヤ・ヒロンです.

 翌日,CIAの雇った9機の B26爆撃機が,サンチアゴ,ハバナなど三つのキューバ空軍基地を爆撃します.その飛行機にはキューバ空軍のマークが貼られていました.この大規模な爆撃で57人が犠牲となります.

 運命の4月17日がやってきました.夜も明けぬ3時,侵攻部隊がプラヤ・ヒロンとプラヤ・ラルガに上陸します.

 敵上陸後1時間,侵攻を知らされたフィデルはただちに全軍の指揮を掌握,全国に戒厳令を発し,全民兵が戦闘配置につくよう命じます.

 まず最寄りの オーストラリア工場駐屯隊が指令を受け南方に進出します.この339部隊はまもなくプラヤ・ラルガから進出してきた侵攻軍の先峯と接触することになりま す.

 これは上陸部隊にとって予定の行動です.かねてからの手配どおり空挺部隊が339部隊の背方に降下します.こうして339部隊は後方と分断されたうえ空からの攻撃を受け,容易ならざる事態に追い込まれます.なかなかみごとな作戦です.

 朝7時ようやく援軍が到着します.マタンサスの民兵幹部学校の部隊です.もっともかれらとてオットリ刀で駆けつけたようなもので装備は貧弱です.とにかく339部隊を救えというのでそのまま現地に向かいますが,降下部隊の迎撃にあい進攻をはばまれます.

 戦死者の多くは味方機を偽装したB26の機銃掃射によるものです.戦車は歩兵の護衛なしに遮蔽物なしの道路を進軍せざるを得ません.部隊に編入された炭焼労働者などの民兵は味方機と勘違いして手を振ったところをやられたそうです.

この辺りにはサパタ湿原と呼ばれる広大な沼沢地帯が広がっており、そこに生える灌木を切り出しては木炭を作るのを生業とする人々(カルボネーロ)が住んでいました。

 戦闘の命運を分けたのは制空権の逆転でした.このころ基地を飛び立ったキューバ空軍機が侵攻軍の輸送船を発見します.空軍は先日の空襲を免れた飛行機をありったけ出動させます.

侵攻軍のB26爆撃機はキューバ軍の標識で偽装して、キューバの主要空軍基地を爆撃しました。虎の子の戦闘機のほとんどが破壊されました。B26は、その足でマイアミに着陸し、キューバ軍内の反乱者だと宣言しますが、メディアに嘘を見抜かれてしまいます。

 朝9時「本当」のキューバ軍のB26爆撃機6機が上陸艦隊にロケット砲撃をかけます.まもなく2隻が撃沈され他の3隻は一 斉に逃亡してしまいます. これで上陸軍は補給を断たれたことになります.キューバ空軍機はさらに敵機5機を撃墜します.ほかの侵攻軍機ももう燃料ぎれで ニカラグアに戻らざるを得ません.

 正午,マタンサス部隊がついに空挺部隊の防御線を突破し339部隊と合流します.部隊はさらにラルガを目指します.このときフィデルがオーストラリア工場に到着し直接指揮をとることになります.

 プラヤ・ラルガ北方に降下した部隊とは別にもうひとつの空挺部隊がプラヤ・ヒロン東方に降下しました.かれらはサンブラスに拠点を構築したあとエ スカンブライとの接触をもとめシエンフエゴス方面に進出しようとします.

キューバの中部にはエスカンブライと呼ばれる山岳地帯があり、そこで反革命ゲリラが破壊活動を続けていました。

 その途中にあるもうひとつの精糖工場コバドンガで守備隊との激しい戦闘が始まりま した.戦闘は延々10時間に及びますが,夕刻6時侵攻軍はついに奪取をあきらめサンブラスに撤退していきます.この精糖工場を守ったのはわずか11人の民兵だったといいます.

 長い夜戦がはじまりました.決戦場はプラヤ・ラルガです.夜が明ければふたたび敵機が来襲し苦戦となるのは必至です.何度も突撃がくりかえされ, そのたびに敵の士気は落ちていきます.翌朝6時ラルガの侵攻軍はヒロンに向け撤退を開始します.ここに侵攻軍の苦戦があきらかとなってきました.

 CIAの総括指揮者ビッセルは,米人パイロットの爆撃機三機にナパーム弾と高性能爆弾による爆撃を指示しますが,結局これは実行されませんでした.

 この日国連安保理緊急会議が開催されます.キューバは,CIAによって雇われ訓練された傭兵部隊のしわざであると激しく非難します.米国は関与を 否定しつづけますが,つぎつぎに入ってくる情報はすべてキューバ側の正しさを証明するものばかりです.米政府がまったく信用できないことがだれの目にも明 らかになってきました.

 この時点で政治的には「勝負あった」という状況になります.それは,もう米軍の直接介入は出来なくなったことを意味します.

 午後2時,体制を整えた政府軍はラルガを出発,ヒロンに向け進軍を開始します.補給線をうしなった傭兵軍は体制を建てなおすこともできず,算を乱 して後退していきます.政府軍は米軍機の機銃掃射と敗残兵の狙撃により前日に劣らぬ多数の犠牲者を出しながらも,着実に前進を重ねます.

 3時にはミレトのひきいる戦車部隊と重砲隊がコバドンガ製糖工場に到着,東方からサンブラスを目指します.二回目の夜戦はサンブラス攻防が焦点となりますが,翌朝までに決着がつきます.

 19日早朝,サンブラスの侵攻軍はヒロンに撤退しはじめます.プラヤ・ラルガから南下するキューバ軍は,フィデルの陣頭指揮です.

 午後3時ミレト軍とフィデル軍はプラヤ・ヒロン北方で合流.5時半にヒロンに突入します.侵攻軍は雪崩をうって崩壊,あるものはあてもなく海に飛び込み他はサパタ湿原に逃げ込むといった具合です.

 その後夜半まで掃敵活動が続けられますが,20日未明,侵攻開始72時間の時点で侵入軍の完全撃滅が発表されます.

 この戦闘でキューバ側は156名の死者を出しました.いっぽう侵攻部隊は92名が戦死(うち米国人4名),B26爆撃機10機,輸送船2隻が撃 墜・破壊されるという惨敗です.生存者1122人は全員が捕虜となりました.

 米国は軍事的に敗北を喫しただけでなく,ウソの積み重ねがつぎつぎとバレるな かで外交上も大きな失点を重ねることになりました.


C.権力を握った政府が何を成すべきかを示した

せっかく権力を握っても、バラマキ政治や逆に借金の返済に四苦八苦していたのでは意味が無い。

まず一番大事なのは自主財源の確保であり、途上国にあっては地下資源の確保をおいてない。それがベネズエラにあっては石油公社の奪還であった。

第二には、一種の鎖国政策である。とりわけ資本取引の制限と、為替相場の管理である。

03年3月、ゼネストにより疲弊した経済を立て直すため、チャベス政権は外貨割当制を導入し、生活必需品以外の輸入を厳しい統制下においた。

おりからの原油高もあり、債務の返還は順調に進捗した。それまでの経済危機と、石油公社の高級職員を数万人ほど解雇したことにより、外貨需要は減退していたから、それでも矛盾は激化しなかった。

2004年以降、景気の回復が進行した。当然ながら、諸物価の値上がりにより、通貨の高値維持政策と実勢との極端な乖離が生じた。

通常は通貨の下落はインフレに伴い進行するのだが、流通ドルの不足がそれに拍車をかける形となった。しかし通貨の価値は本来は外貨準備高によって規定されるのであるから、膨大なオイルダラーを積み上げたベネズエラの固定為替相場が著しく不当とはいえない。

市中での闇相場がいくら跳ね上がろうと、政府が購入する際には関係ない。それが経済の撹乱要因にならない限りは、民衆にとって二重価格は別に問題ない。輸出企業や輸入業者が困るだけである。

国際資本の自由と民衆の自由は、しばしばトレード・オフの関係となる。新自由主義というのは国際資本にとっての“自由”であって、それは民衆への“不自由”の押し付けだ。

であれば、新自由主義の逆を行く新“不自由”主義で行こうというのが政策の基本だ。民衆の自由を確保するために、内外の資本家には多少の不自由を忍んでもらう他ない。

第三には、外貨の割り当てを通じた政府の経済統制である。どんな大企業も今や政府の意向を伺うことなしに経営を行うことは不可能になった。

これはかつての日本と同じである。経済企画庁や通産省が産業政策を決定し、大企業はその指導のもとに護送船団を組んで海外に進出していった。

もちろんこれは輸出志向の政策のもとに行われたわけだが、ベネズエラでは必ずしも輸出志向ではない。いわば民衆志向である。

これから先、どうなるのかという答えは政府自身も含め確たるものを持っているわけではない。ベネズエラのような石油輸出に特化した国にとって、バランスのとれた産業構造というものがどんなものなのか、答えが出ているわけではない。

それはある意味で、日本にも同様に突きつけられている問題ではある。文化をふくめた第4次産業みたいなものを考えていくことになるのかもしれない。

ただ、それを選択しうるレベルにまで、政治は歩を推し進めることができるという事実は示されたと思う。

 

B.非暴力的な権力獲得への道を指し示した

ベネズエラでの権力獲得への道のりは三段階からなっている。

すなわち大統領選挙での勝利、議会での多数獲得、反革命策動の粉砕である。今日このロードマップはラテンアメリカの多くの国で有効であることが示されている。

この道筋を上昇していくための唯一無二の駆動力は絶えざる民衆へのキャンペーンであり、民衆の直接民主主義的な組織化である(ベネズエラにおいてはボリーバル・サークル)。

軍を中立化させ、少なくともその一角を掌握することはきわめて重要であるが、軍は根本的には米国の支配のための道具であり、過大評価してはならない。

 

①選挙での多数獲得

二度にわたるクーデターは、実はクーデターではない。一斉蜂起計画の一部として実行されたものである。しかし左翼の分裂、労働運動主流の無関心により蜂起は起きず、結果として孤立したクーデターとなったのである。

このようなクーデターは、ベネズエラは過去において経験している。1956年、大衆蜂起と労組のゼネストで行政機関が麻痺するなかで、空軍の一部が出動し軍事独裁政権を打倒した。

しかし国際資本の介入がはるかに強力になっているいま、このような形での政府転覆は不可能であった。

チャベスは大統領選挙での勝利を目指す方向に切り替えた。かなり巧妙に正体を隠したと思う。ペルーのフジモリを支持するポーズを取ったかと思えば、キューバに行ってカストロと握手したりと、変幻自在のところを見せた。維新の会の橋下のようにさえ見えた。

そして既成政治を打倒するという口当たりの良いスローガンで、大統領の座を射止めることに成功したのである。

しかしこれは第一歩に過ぎなかった。ここからさきがチャベスの真骨頂である。

 

②制憲議会での多数派の掌握

チャベスは、「第五共和政」の旗印を掲げ、憲法改正を打ち出した。そしてこれを国民投票にかけ成立させた。そしてこれまでの議会の選挙制度とは異なるシステムにより制憲議会を樹立させた。

ここからが豪腕のふるいどころで、制憲議会に全権限を集中させ、司法制度や選挙制度の改革を打ち出した。

保守派が多数を握る議会は休眠に追い込まれ、改革に異を唱える裁判官や選挙管理委員は次々に更迭された。つまりフジモリが自主クーデター(アウトゴルペ)という暴力的方法によって成し遂げた議会と裁判所のクリーンアップを、チャベスは合法的に成し遂げたのである。

新憲法と新選挙制度のもとで議会選挙が行われ、チャベス与党が圧勝した。

この過程を通じて、チャベスは議会と司法の抵抗を打ち破ることに成功した。これこそチリでアジェンデが失敗した最大の要因であった。

 

③反革命策動との対決

普通ならこれで権力の掌握は完了するはずだが、ベネズエラという国は政府ではなく石油公社が支配する国であった。

この国の政治は事実上、二重構造になっていた。この国の石油は、建前上は国営ということになっていたが、実際には国際資本の手中にあった。国が運営するから国営なのでなく、会社が運営する国だから国営なのである。

満を持したチャベスは、01年12月に自派のメンバーを理事に送り込んだ。「国営」というたてまえを最大限に利用して石油公社の運営権を取り戻そうというのである。

この闘いの内容については、別稿を参照していただきたい。それは1年有余にわたる激戦であったし、その過程でチャベス自らが命を落としかけた。

しかし結局、チャベスは敵をねじ伏せた。

最大の理由は、こちらが権力を掌握しており、それは選挙で選ばれた合法政権であるという大義名分があったからである。これに対する反抗は、結局合法政権に対する反革命という形を取らざるを得なかったからである。


ちょっとつけたし

以下はあまり根拠のない独断である。

このようないわば“三段階革命”の道筋は、その後エクアドル、ボリビア、ペルーでも踏襲されている。このプロットがチャベス一人の頭脳から生み出されたとは考えにくい。控えめに見ても、それはフィデル・カストロとの合作であったと考えられる。

最近は、敵も対応手段を考えているようである。それは議会の早めの行動である。ホンジュラスでは親ALBAに動いた大統領を、議会が不信任し、軍との共同で放逐するという荒業をとった。パラグアイでもでっち上げ事件を口実に議会が大統領を弾劾し、臨時大統領を選出するという挙に出ている。

一方で、政府側もこのような反革命を抑えるために強力な連合を組むようになってきている。ホンジュラスでもパラグアイでも議会による反革命を抑えることには成功しなかったが、ボリビアとエクアドルでは成功している。

両者のせめぎあいは今後とも続くと思われる。それは、たとえ大統領制度のもとでも、権力掌握の鍵は、あくまでも議会での安定過半数にあることを示しているといえる。


前日の記事で「チャベスはラテンアメリカ自立の旗振り役」と書いたが、いささか説明が足りない。

大声をだすだけが旗振り役の役割ではない。砕氷船のように情勢を切り開き、民衆政府建設の水路を作り上げることによって、旗振り役となったのである。

彼の切り開いた水路をあとづけてみる。

A.まず民衆の覚醒を呼びかけたことである。

①おお友よ、このような音ではない!

80年代はラテンアメリカにとって「失われた10年」と呼ばれている。しかし前半と後半では“失われ方”が違う。

前半は軍事独裁の時代であり、軍事政権の失政により急速に経済が崩壊していく時期であった。人々は軍事独裁の打倒と民主化に燃えた。民主化すれば経済も良くなると信じたのである。

しかし民主化は実現したが、経済は一向に好転しなかった。軍人は姿を消したが、もうひとつの支配者である多国籍企業と国際投機資本はそのまま残った。

「民主化」は偽りの民主化であり、もう一つの敵であるネオリベラリズムとの対決なしに、民衆にとっての「民主化」は実現しない。

1990年に起きたカラカス暴動と、それに続くチャベスのクーデターは、それを民衆の前につきつけた。

私は、実はこれこそがチャベスの最大の業績ではないかと思っている。

ベートーベンの第9の歌い出しはこうなっている。

O Freunde, nicht diese Töne!
Sondern laßt uns angenehmere
anstimmen und freudenvollere.

おお友よ、このような音ではない!
我々はもっと心地よい
もっと歓喜に満ち溢れる歌を歌おうではないか


②闘う敵を明確にした

80年代の軍政民主化の運動は反軍政派の政治家を前面に押し出した。その多くは軍政時代以前からの政治家で、基本的政治スタンスは親米・反共であるにもかかわらず、民衆からは一定の幻想を持たれていた。

左翼勢力は、軍の徹底した弾圧で国内基盤を失い、有効なイニシアチブを発揮できなかった。

政府は、国際資本と闘うのも大いに結構だが、その前に、まずもって国民に飯を食わさなければならない。冷厳な論理ではあるが、それは決して「資本の論理」と同じものではない。

多分に同情すべき余地はあるのだが、民主政府を担った政治家たちは、結局対外債務を盾に迫る国際資本に対し屈服していった。それは「民主政府」が民衆の敵に転化したことを意味する。

1985年、対外債務の利払い拒否を宣言して大統領となったペルーの第一次ガルシア政権は、国際資本の集中砲火を浴びて炎上した。それはラテンアメリカ諸国に深い敗北感をもたらした。これを目の当たりにしたベネズエラの第二次ペレス政権は、IMF韓国を丸呑みする道を選択した。

このペレスという人物、かつてラテンアメリカでは、民主化の旗振り役としてきわめて評価の高かった人物である。数少ない非軍事政権の指導者として、ニカラグアのサンディニスタの闘いを支援し、地下資源の国有化を宣言し、キューバの国際政治への復活を図り、中米紛争の自主的解決のためのコンタドーラ・グループを組織した。

その人でさえIMF勧告を受け入れたのだからもう仕方ない、というのがおおかたの雰囲気だった。それにノーを突きつける形で、カラカスの民衆暴動が起きた。ペレスは戒厳令を発動し、軍を動員して鎮圧にあたった。

相当手ひどいやり方だったようで、チャベスらはこれに怒ったようだ。

軍隊というのは、そういうところがあって、「国と民衆を守るのは俺達だ、民衆に勝手なことしてもらっては困る」みたいな動きが必ず出てくる。

しかしこのナイーヴと見えた怒りは、じつは国内支配層や、それに付き従う中間層につきつけられていたのだ。

たとえ軍政よりましな民主政府と言えども、国際資本に従い民衆を抑圧する立場に立てば、それは打倒すべき敵だということを、チャベスはさまざまな勢力に先駆けて宣言した。そのことに大きな意義がある。


③闘う左翼の再構築を

当時、ソ連・東欧の崩壊を受けてラテンアメリカの左翼陣営は意気消沈していた。いくつかの国では共産党が事実上消滅していた。

アメリカとIMFは、ワシントン・コンセンサスなる構造改革と自由化を財政支援の踏み絵として押し付けた。少なくない社会主義者が、“革命でなく改革を”と称して、事実上ネオリベを受け入れていった。

中米戦争はニカラグアのサンディニスタ政権の敗北という形で終わりを遂げ、ラテンアメリカの民族解放闘争の路線も挫折を余儀なくされた。

全体に沈滞ムードが高まる一方で、民衆の困難は一段と強まり、闘いが求められていた。

クーデターという方式は決して誉められたものではないにせよ、国際資本主義やそれに追随する既成政治と決別し対決せよという呼びかけは、きわめて異色のものであった。


また同じことが起こりつつある。
民衆の支持が全くない現政権が権力にしがみつき、反抗する民衆を武力で押さえつけようとする構図は前回と同じだ。
ケニアの経済規模は東アフリカで最大だが、その多くは海外から東アフリカへの国際援助を前提にして成り立っている。援助漬け国家でもある。
だからこの国の最大の産業は汚職である。
西をコンゴ、西北にはルアンダ、北には南北スーダン、東にソマリアと紛争国に取り囲まれているこの国は、東アフリカ最大の武器供給地帯であり、それに軍自らが絡んでいることは想像に難くない。
政治家と軍が悪事でつるんでいて、それを養うだけの経済基盤があれば、その権力が揺らぐことはないだろう。
悲観的な見方になるが、国内経済がもう少し発展しない限り、武器を売る代わりに石鹸を売り、中国製品よりさらに低価格のタオルを売れるようにならない限り、当分この状況は変わらないだろう。

もし西側諸国にやることがあるとすれば、アフリカへの援助はAUに窓口一本化することだろう。
旧宗主国が個別に対応するのは、試され済みの悪手だ。


面白いものがあった。60年代ブラジルのヒット曲ベスト100というのである。
ネタはここ。
Top 100 Brasil década 1960 (Músicas mais tocadas 1960 a 1969)



All the rights reserved to the Records! Todos os direitos às Gravadoras!
* Top com as 100 Músicas mais tocadas no Brasil na década de 1960(1960 a 1969) em rádios e vendas.
- Lista em texto das posições:

101- É Proibido Fumar - Roberto Carlos
100-A Volta - Os Vips e Ronnie Von
99-Filme Triste - Trio Esperança
98-F... Comme Femme - Adamo
97-Cabeleira do Zezé - Jorge Goulart
96-Tenho Um Amor Melhor Que o Seu - Antonio Marcos
95-Disparada - Jair Rodrigues
94-Vendedor de Bananas - Os Incríveis
93-What a Wonderful World - Louis Armstrong
92-Splish Splash - Roberto Carlos
91-Arrastão - Elis Regina
90-Somethin' Stupid - Nancy Sinatra & Frank Sinatra
89-Vem Quente Que Eu Estou Fervendo - Erasmo Carlos(ロックのリズムでなかなかノリが良い) 
88-All You Need is Love - Beatles
87- Pata Pata - Miriam Makeba
86-I Got You (I Feel Good) - James Brown
85-Shame And Scandal In The Family - Shaw Elliott
84-Satisfaction - The Rolling Stones
83-I Started A Joke - Bee Gees
82-Quando - Roberto Carlos
81-Oh, Pretty Woman - Roy Orbison
80-Multiplication - Bobby Darin
79-The Girl From Ipanema - Stan Getz & Astrud Gilberto
78-O Neguinho e a Senhorita - Noite Ilustrada
77-Put Your Head On My Shoulder - Paul Anka
76-Balanço Zona Sul - Tito Madi
75-MacArthur Park - Richard Harris
74-Twist and Shout - Bleatles
73-Parei na Contramão - Roberto Carlos
72-Meu Bem - Ronnie Von
71-Sugar, Sugar - The Archies
70-Mulher de Trinta - Miltinho
69-Marina - Cauby Peixoto
68-Mustang Cor de Sangue - Marcos Valle
67-Bus Stop - Hollies
66-Hava Nagila - Chubby Checker
65-Suave é a Noite - Moacyr Franco
64-Michelle - Beatles
63-Dominique - Giane
62-Surrender - Elvis Presley
61-Se Você Pensa - Roberto Carlos
60-Get Back - Beatles
59-Menina Moça - Tito Madi
58-Leva Eu Sodade - Nilo Amaro & Os Cantores de Ébano
57-Tudo de Mim - Altemar Dutra
56-She Loves You - Beatles
55-Light My Fire - Jose Feliciano
54-O Bom Rapaz - Wanderley Cardoso
53-Io Che Non Vivo Senza Te - Pino Donaggio
52-A Hard Day's Night - Beatles
51-It's Now Or Never - Elvis Presley
50-Sá Marina - Wilson Simonal
49-Estão Voltando As Flores - Helena de Lima
48-Love Is Blue - Paul Mauriat
47-A Praça - Ronnie Von
46-Ma Vie - Alain Barrière
45-Please Please Me - Beatles
44-Chove Chuva - Jorge Ben
43-Biquini de Bolinha Amarelinha - Ronnie Cord
42-Esqueça - Roberto Carlos
41-País Tropical - Wilson Simonal
40-Aquarius/Let The Sunshine In - 5th Dimension
39-Esmeralda - Carlos José
38-Faz Me Rir - Edith Veiga
37-Fica Comigo Esta Noite - Nelson Gonçalves(タンゴみたい)
36-Hoje - Taiguara
35-Garota de Ipanema - Pery Ribeiro
34-Capri C'est Fini - Hervé Villard
33-Sentimental Demais - Altemar Dutra
32-O Ritmo da Chuva - Demetrius
31-I Can't Stop Loving You - Ray Charles
30-Bat Masterson - Carlos Gonzaga
29-A Noite do Meu Bem - Dolores Duran
28-Let's Twist Again - Chubby Checker
27-Volta Por Cima - Noite Ilustrada
26-Rua Augusta - Ronnie Cord
25-A Banda - Nara Leão
24-Amore Scusami - John Foster
23-Love Me, Please Love Me - Michel Polnareff
22-Baby - Gal Costa
21-Prelúdio Para Ninar Gente Grande (Menino Passarinho) - Luiz Vieira
20- Namoradinha de Um Amigo Meu - Roberto Carlos
19-Blue Moon - The Marcels
18-Sonhar Contigo - Adilson Ramos
17-Viola Enluarada - Marcos Valle & Milton Nascimento(名曲です)
16-Coração de Papel - Sergio Reis
15-Palhaçada - Doris Monteiro
14-Yesterday - Beatles
13-Aquele Abraço - Gilberto Gil
12-I Want To Hold Your Hand - Beatles
11-Theme From "A Summer Place" - Percy Faith
10-Banho de Lua - Celly Campello
09-O Calhambeque - Roberto Carlos
08-O Trovador de Toledo - Gilda Lopes
07-Gina - Wayne Fontana
06-As Curvas da Estrada de Santos - Roberto Carlos
05- Datemi Un Martello - Rita Pavone
04-Trem das Onze - Demônios da Garoa
03-Mas Que Nada - Jorge Ben
02-Hey Jude - Beatles
01- Quero Que Vá Tudo Pro Inferno - Roberto Carlos

日本だと洋楽系と邦楽系は截然と分かたれるが、ブラジルは結構ごった煮であるところが面白い。当然ビートルズもたくさん入ってくるが、やはりUSA系のものが多い。
この頃からロベカルが圧倒的な人気だ。スペイン語圏と違って絶叫型やムイデュルセのボレロは少ない。
ジョルジ・ベン、ジルベルト・ジル、ガル・コスタ、ナラ・レオンなどの名がちらほら出てくるが、基本的にはあまりお呼びではない、ボサノバの全盛期と言われた時代でもこんなもんだ。
「イパネマの娘」はペリー・リベイロの持ち歌になっている。
「バット・マステルソン」は笑ってしまう。
「あの人が来る夜」 A Noite Do Meu Bem は29位。マリア・クレウーザの歌で親しんできたが、元祖のドロレス・デュランという歌手が美人。早速探してみたら、http://www.youtube.com/watch?v=crwoEqWaY8I に元絵があった。ところが他の絵は似ても似つかぬ健康優良児。相当派手に手を入れたようだ。それはそれとして歌はうまい。島津亜矢なみだ。

「ア・バンダ・パサ」はシコ・ブアルキの曲だがこれをヒットさせたのはナラ・レオンだったんだ。この絵は良家の子女が熱狂していて、その付き添いの母親も一緒に歌っているという、信じられない場面が取られている。
それ以上に異様に思ったのは、この同じ会場でただ一人のネグロ、ジャイル・ロドリゲスが歌っていることだ。95位の曲がそれだ。
この絵を見て初めて分かったのだが、60年代、ブラジルにおいて黒人はオフィシャルなシーンからはまったく隔絶されているということだ。ポルトガル人の差別意識はスペイン系よりはるかに強烈なようだ。黒人は白人にとって“良き下僕”以上の何者でもない。

サンバ・カンサオンも音楽的は出自は別として、あからさまな階層社会の上に作られた文化であることを、我々は念頭に置いとかなければならないのだろう。

「血の色のムスタング」はマルコス・ヴァーリ69年の作だ。無残としか言いようが無い。ナシメントとの共演によるViola Enluaradarがその前の年の作品だとすると、その差はさらに際立つ。
これも意外に良いのだが、89位のエラスモ・カルロス。67年にロックにこれだけの情感を込める実力はなかなかのものだ。
91位のエリス・レジーナ「Arrastao」はすごい。この人の歌力は頭ひとつ抜けている。

チャベスに関する私の発言

もっとも包括的なのは、ベネズエラ年表です。と言うよりファクトを雑然と時系列に突っ込んだものです。

#1 ~2001, 312kb  

#2 2002~ , 209kb 

#2 2004~ , 250kb 

2002年のクーデター、ゼネストとの闘いについては下記にまとめています。

ベネズエラ…何が起きたのか?

2002年 ベネズエラ・ゼネストに学ぶ

2つの闘争に勝利したチャベスの政策については下記をご参照ください。

ボリーバル運動の展開: チャベスの挑戦

ベネズエラにおける憲法改正

最近では、チャベス政権を正面から批判できなくなったため、経済運営に対する非難という変化球で攻めてきています。これに対する反論は、ブログの中で随時触れています。

アメリカとベネズエラ 国民が感じる「幸福感」

ベネズエラ経済を、ふと考える

ベネズエラ経済: 立ち止まって考えた

ベネズエラ もう少し考えた

赤旗の「ベネズエラ特集」について

エコノミストはベネズエラを評価している

赤旗「ベネズエラはいま」を読む

チャベスの対抗馬ラドンスキー

ラテンアメリカ全体の最近の動きは下記にまとめました。(あまりまとまってはいません)

「これが世界だ」2012年版 その6

 


200年前、ボリーバルはアンデス北部を解放した。サンマルチンはアルゼンチンを出発しチリとペルーを解放した。しかし両者の新政府のイメージは食い違い、北部と南部が真の同盟に達することはないままに終わった。

地政学的に見れば、ブラジルは軍事的にも政治的にも域内最大の国家ではある。しかし外様である。スペイン語圏が本家である。

チャベスとキルチネルの同盟は、はじめて南米の北部と南部が本音で同盟したことを意味する。だからUNASURの意義はすごいのである。

UNASURが初めてその力を発揮したのは、04年にアルゼンチンで行われたOAS首脳会議だった。当時アメリカはNAFTAを南北アメリカに拡大する自由貿易協定を押し通そうとしゃかりきになっていた。
キルチネルは米州FTAに断固反対の構えを崩さなかった。チャベスはアルゼンチンまで出かけてきて、反対集会に出席し「FTA粉砕!」の旗を振った。
こういう雰囲気の中で、ブラジルのルーラは結局アメリカへの追随を拒否した。

この時の役割分担が、その後も引き続き引き継がれていくのである。

ペルーで革新政権が成立した時、私は「これはオジャンタ・ウマラの勝利ではなくUNASURの勝利だ」と書いた。
コロンビア軍がエクアドルに侵入した時にこれを阻止し、コロンビアに謝罪させたのもUNASURだった。
ボリビアでCIAの指示のもとにサンタ・クルス州が反乱を起こした時も、これを内乱に至ることなく鎮圧したのはUNASURだった。
エクアドルでクーデター未遂事件が起きた時も、これを押さえ込んだのはUNASURだった。
パラグアイで国会が大統領を罷免するという、事実方のクーデターが発生した時、UNASURはこれを厳しく非難し、両手両足を縛り付けてしまった。

これらの事態はUNASURが、もはや国家を超え、CIA・米軍とガチンコで勝負できるような力を身につけたことを意味している。

この力に引きつけられる形で、チリもコロンビアもアメリカとのFTAからUNASURに軸足を移すようになった。もはや保守であろうと、UNASURの基本的立ち位置を受容するほかなくなったのである。

これこそが、チャベスの残した最大の置き土産であった。(ただコロンビアのFALC問題が解決できなかったのは心残りであろう)

チャベス大統領が亡くなった。
日本では、反米急進派の騒々しい奴くらいの扱いだが、ラテンアメリカにとっては、そんなものではない。
彼が偉大であったかどうかではなく、彼が切り開いた地平の広大さが問題なのだ。

忘れっぽい人のために、チャベスが政権についた20世紀末のことを思い出そう。
ラテンアメリカは、これでもかこれでもかという苦難を背負わされ続けた。70年代の10年には、ほんの一握りを除いて、すべての国が軍事独裁国家であった。
80年代は、「失われた10年」と呼ばれ、天文学的なインフレと膨大な対外債務に苦しめられた。
そして90年代は「絶望の10年」と呼ばれた。新自由主義経済の押し付けにより、犠牲はすべて民衆に押し付けられた。人々は職もなく、収入もなくスラムをさまよっていた。
つまり30年の苦しみの末の選択として、今日のラテンアメリカの政治・経済があるのだ。

1.ラテンアメリカ自立の旗振り役をつとめた
それが98年末にチャベスが大統領になって、文字通り命を賭けた闘いで石油会社の経営権を政府の手に取りもどした。
それ以来、チャベスは、ラテンアメリカの新自由主義からの脱却を唱える旗振り役となった。
旗振り役が声を張り上げないでどうするんだ。

2.21世紀型の成功モデルを実現した
彼は、石油の販売による利益を社会還元することで、経済を活性化させ、人々の暮らしを改善することに成功した。
医療を行き渡らせ、教育を充実させ、文盲を追放した。
反対派は金をばら撒いていると非難したが、実際にはばら撒いてはいない。経済マクロを見れば、相当堅実な運営を行なっている。
ラテンアメリカにとって、天文学的なインフレと財政破綻の恐怖は、未だに記憶に鮮やかだ。
そして、そのインフレと膨大な対外債務をもたらしたのは、まさしく、いま非難している連中であり、その放漫財政であった。そのことも、未だに民衆の記憶に鮮やかだ。
もちろん、何もかもうまくいくわけではない。しかし以前よりはるかにいいのだ。

3.ラテンアメリカの地域統合に貢献した。
彼は大声を上げるだけの政治をしていたわけではない。かなり寝技も使って、ラテンアメリカ諸国の統合への意欲を掻き立てた。
21世紀初頭のラテンアメリカ統合の動きは、チャベス=キルチネル枢軸を中心に展開された。
キルチネルは決して左翼政治家ではない。ただ軍事政権への憎しみと、IMFを先頭とするネオリベに対する嫌悪感は尋常では無い。
この二人が孤立して闘っていたら、おそらく共倒れになった可能性が強い。この二人が組むことで、UNASURの路線は左翼からも民族派からもプレステージを獲得することができた。(そのために、ベネズエラはアルゼンチンに相当の利益供与を行なっている)
そして大国ではあるが国内組織基盤が盤石ではないブラジルのルーラも、安んじて改革路線を歩むことができた。
UNASUR路線は、ブラジルがアルゼンチン、パラグアイ、ボリビアへ譲歩することなしには前進できなかっただろうと思う。その譲歩を可能にしたのはチャベスとキルチネルのスクラムだろうと思う。



医療問題を話すにさいして、医師会不信を突き出すのは、いったんやめませんか?

私が医者であるにもかかわらず、
医者を資格として持っているだけでなく、
医者として生きる道を選んで頑張ってきたにもかかわらず、
医者として生きる道を、
医療変革の闘いと結びつけて考えてきたにもかかわらず、
そして闘いの道を民医連に求めて闘ってきたにもかかわらす、
このブログで医療問題を避けてきたのには理由がある。

医者は儲かっているんでしょう、医療運動の連中は高邁なことを言っているけど、けっきょく偽善者で、上から目線でしょう、という陰口とにうんざりしたからである。

こちらがどんなにまじめに喋っても、その間は黙っていて、喋り終えたら、「そろそろ本音でやりましょうよ」といわれると、そうとう応える。全柔連会長なみの凶暴な気分に陥る。

ボサノヴァ年表をYouTubeでフォローする

1.Laurindo Almeida

ロリンド・アルメイダは基本的にはジャズの人であり、ウエストコースト・ジャズの一員である。しかしそのギター奏法はクラシックである。

ほとんどボサノヴァだというブラジリアンスが聞けるが、ほとんどヴィラ=ロボスで、ほとんどショーロだ。

アルメイダがMJQと共演したワン・ノート・サンバが聞ける。テレビの録画であるが、音質は悪くない。

MJQがサンバとかボサノヴァをまったく理解していないことが分かる。アルメイダはわかっているようだが、MJQに遠慮している。

次は、アメリカのギタリスト、チャーリー・バードとのデュオで、ピシンギーニャの "Naquele Tempo" (あの頃) 。ショーロの名曲を地味にしみじみと聴かせる。ショーロは白っぽい音楽で、黒人のサンバとFusion しながらブラジル音楽の屋台骨を形作っている。

これはビニール盤からイパネマの娘とカルナヴァルの朝をアップしたもの。この人はジャズ・サンバというよりジャズ・ショーロだろう。

いずれにしても、センス・テクニックもふくめ、過去の人だ。

 

2.Rapaz de Bem

オリジナルにどれくらい近いか分からないが、とにかく曲そのものはジョニー・アルフの歌で聞くことが出来る。ところどころにトム・ジョビン節が伺われるが、さほど印象に残るものではない。

意外な掘り出し物がドミンゲーニョスのアコーディオンとジンボ・トリオによる演奏。テレビのエアチェックで画質・音質ともひどいが、演奏はノリノリだ。前から思っているのだが、ジンボ・トリオというのは相当なものだ。

ナラ・レオンの歌は意外につまらない。演奏だけならワルター・サントスの歌がさっそうとしている。バックはワルター・ワンダレーで音も良い。

 

3.EU QUERO UM SAMBA

「ジョアン・ジルベルトのスタイルに似ているという」が、ジョアンが自分で歌ってしまってしまったら似ているもへったくれもない。

オリジナルを探したら、あった! オス・ナモラードスの歌で、まったくごきげんな曲だ。わるいけどジョアンの念仏節よりはるかに良い。

これはモロにサンバであって、ボサではない。上記2つの演奏を聴き比べると、ジョアンがサンバからボサノバをどう作り上げたかが分かるかもしれません。


4.PERDIDO DE AMOR

ルイス・ボンファの本人歌唱が聞ける。オリジナルの録音ではないので、当時の演奏スタイルはわからないが、おそらくこんなものだろう。「黒いオルフェ」を彷彿させる佳曲だ。

これはショーロではなくサンバ・カンサウンだ。サンバをゆったりと歌うスタイルを白人が受け入れたもので、当時の流行と同じ流れだと思う。ボサノバではない。

この曲をディック・ファーニーが歌うと、モロにボサノバだ。72年の録音というから、もう完全に“ボサノバ風ムード音楽”になっている。もともとボンファはディック・ファーニーの伴奏をしていた人なので、ピッタリと合うのだろう。

アメリカのマーケット狙いだろう。でも気持ち良い。

ついでながら、この音源をアップしたluiz alfredo motta fontana さんのチャンネルには上等のビニール盤音源がたくさんある。


5.Orfeu da Conceicao 黒いオルフェ

「リオ・デ・ジャネイロ交響曲」については音源を見つけることができなかった。

ということで、黒いオルフェになるのだが、我々は「黒いオルフェ」をボサノバの代表としてみるのだが、どうもなかなかそうはならないようだ。

ただ、そうやってらっきょうの皮むきをやって、ジョアン・ジルベルト以外はボサノバにあらずみたいな原理主義的決め付けをしていくと、きわめて干からびたものになってしまう。

リズムだとか、形式ではなく、ひとつの時代の一つのムーブメントとしてボサノバを捉えたほうが良いと思う。

それで黒いオルフェに戻るのだが、これは年表にもある通り、ヴィニシウスによる1956年の戯曲「オルフェウ・ダ・コンセイサゥン」を映画化したもので、マルセル・カミュ監督のフランス・ブラジル・イタリア合作映画である。2年後の59年に公開されている。

カエターノ・ヴェローゾは、「ブラジル人はあの映画は好きではなく、音楽はよくても映画自体は最悪だ」と酷評している(ウィキペディアによる)

それはともかく、映画化にあたって製作に関わったジャズ畑のジョビンが、サンバ・カンサウン系のルイス・ボンファに作曲を依頼した。そうして2つの超名曲が生まれたというわけだ。

お二人には悪いが、曲は真っ白だと思う。


6.CARICIA

年表の作者が組み込むからには、このアルバムもボサノバの源流の一つなのだろうか。

アルバムの中の一曲 Foi a Noite がオリジナルで聞ける。トム・ジョビンの作曲。基本的にはサンバ・カンサウン、アレンジはハリウッドっぽいジャズ・バラードである。こんな曲は白人しか書かないし、聞かないだろう。

彼女の1枚目の10インチLP「CARICIA」は、バレリーナ姿のジャケットが美しく、珍しいこともあって目から火が出そうな値段でした(大阪のk.m Web さん

下世話な話になるが、シルビアは一時、ジョアン・ジルベルトと出来ていたようだ。アストラッドの前である。30歳を前に交通事故で死んでしまった。

言えることは、モーロの歌い手の手を離れたサンバ・カンサウンが、ジョビンの手によって漂白されて磨きをかけられて、ほとんどジャズ・バラードの域にまで達していたということだ。


7.バチータ

当時、カルロス・リラとメネスカルはつるんでいたらしい。そこにリオに舞い戻ったジョアンが転がり込んできた。

そこでジョアンが編み出したバチータというギター奏法を披露し、二人はでんぐり返ったようだ。隕石が落ちてきて、なかから宇宙人が飛び出してきたような衝撃だ。(すみません。このバチータというのが、良くわかりません。どういうスペルなのかな?)

おそらく聖地ウェストコーストの味がしたのだろう。しかもサンバのリズムが隠し味になっている。

年表作者はジェリー・マリガンの影響だとしているが、マリガンてどんな人だろう。

ウィキペディアによると、1952年、カリフォルニアで、トランペットのチェット・ベイカーらとピアノレスカルテットを結成した。この動きがアメリカ西海岸におけるウエストコースト・ジャズの顕在化につながっていくことになる。

とある。

53年のマリガン・クァルテットの演奏がここで聞ける。後ろ1/3がマリガンのSoft Shoe という曲だ。いわゆる“ダンモ”の世界だから、私には良いも悪いも分からない。ここからジョアンがどのような啓示を受けたのかも分からない。


8.Chega de Saudade(エリゼッチ・カルドーゾ盤)

びっくりしたのはジョビンもビニシウスも同様だったと思う。早速レコード会社に売り込んで、制作されたのがこの曲。

最初は有名なサンバ歌手エリゼッチ・カルドーゾ、しかし出来栄えは思わしくなく、あらためてジョアン自身の歌唱で再吹き込みとなった。

これが最初のエリゼッチの吹き込み。Canção do amor demais (1958)というアルバムの一曲。ジョアンはギターを弾きながら、再三再四、ダメ出しをしたという。

ついでに

エリゼッチと言えばショーロ・ギタリスト、ジャコー・ド・バンドリンと組んだ「丘の上のあばら屋」が有名だが、私としては来日ライブ盤の「ジャコーを待ちながら」が忘れられない。

もうひとつついでに

YouTubeを探したらこんなゲテモノもありました。1972年に作ったアルバム「サンバ・ロック」というものです。その中のEu Bebo Simという曲が聞けます。

80年代に流行ったサンバ・ヘゲ(サンバ・レゲエ)と同じデンですが、さすがにぺけです。

これから分かることは、サンビスタたちはショーロであろうと、ジャズであろうと、ロックであろうと、レゲエであろうと、旺盛な食欲で食いついていきます。だからボサノバは、彼らにとってはサンバの一派にすぎないのです。


9.Chega de Saudade(ジョアン・ジルベルト盤)

おそらくオリジナル盤とおもわれる音源がアップされています。写真で見るとシングル盤のようです。

https://livedoor.blogimg.jp/shosuzki/imgs/8/7/8729f0c8.jpg

基本的にはつぶやきジョアン節ですが、後の録音ほどひとりよがりではなくナイーブな発声で、聴きやすいのが意外でした。

ギター1本で、伴奏は一切なし、実にシンプルです。歌だけでなくギターの方を聞かせたかったのでしょう。

ジョビンが演奏するジョアンの背中で、「どうだ、すげぇだろう」とほくそ笑んでいる姿が目に浮かびます。

ジョアン・ジルベルトは今や、“カミ”になっているようです。その割には情報が偏っていて、ほとんどが

Chega de Saudade, a História e as Histórias da Bossa Nova by Ruy Castro (Companhia das Letras, São Paulo, 1990).

という本の受け売りのようです。本の概要は下記で読むことができます。

Plain João The Man Who Invented Bossa Nova. Daniella Thompson

http://daniellathompson.com/Texts/Brazzil/Plain_Joao.htm

10.DANS MON ILE

黒いオルフェがヒットした後、フランスにもサンバブームが起きたのでしょうか。ちょうどその頃ヴィニシウスはフランス大使で、本業そっちのけでボサノヴァの普及に力を注いだようです。

これはアンリ・サルバドルがパリで録音した曲です。

Up主(スペイン系)は、「この曲はブラジル・ボサノヴァ音楽の先駆とみられる」と書いています。たしかに「男と女」の“ダバダバダ、ダバダバダ”を思わせるところがあります。


11.バーデン・パウエル

これでジョビン、ジ・モラエス、ジョアン・ジルベルト、ジョアン・ボスコ、シルビア・テリスにリラとメネスカルで駒はひと通り揃ったことになる。

あと大物で足りないのがバーデン・パウエルとセルジオ・メンデスだ。

バーデン・パウエルはエスコーラ・ジ・サンバのひとつマンゲイラ所属のサンバ・ギタリストとしてキャリアをスタートさせている。ボスコと違いあまり上品な階層出身ではない。

ビニシウスに引き立てられて「男と女」のサントラを担当した。その後は主流派とは少し離れた道を進み、アフロ・サンバの領域を開拓した。

ついでに、セルジオ・メンデス。アメリカ人かと思うほど、アメリカのマーケットに食い込んだ。かつて日本人はセルメンを通じてボサノヴァに触れた。

どっちかというと、走りだした列車に飛び乗って間に合った人で、何がしかボサノバの形成に貢献したというわけではない。しかしボサノヴァのエヴァンジェリスタとしての役割は巨大だ。


12.マルコス・ヴァーリとカルロス・リラ

走りだした列車に乗り遅れたのがマルコス・ヴァーリとカルロス・リラで、才能からすれば気の毒なくらいだ。

やはりボサノバの衰退は、軍事独裁政権を抜きには語れないだろう

二人にはボサノヴァの真髄とも言えるような曲があるが、時代には合わなかった。カエターノの絶叫ロック「プロイビード・プロイビール」が消えたあと、国内にはざらついた相互不信と、秘密警察への恐怖以外に何も残らなかった。

ボサノヴァは白人中産階級の音楽であった。白人中産階級の価値観が分裂し、共通の文化が失われた瞬間、ボサノヴァはバケツの底が抜けるように一気に消滅したと考えられる。

ぐり研ブログ というのがあって、

2013年3月 1日 (金)

TPP交渉進展で皆保険制度見直し? 絶対死守は単なる思考停止

という記事がありました。ブログ主はTPP賛成派のようですが、日医批判は結構あたっているような気もします。

 

ネッ トなどで見ていても日医の言うことは全く信用されていない気配が明らかなんですが、この団体がこうまで胡散臭く見えるのも、長年開業医の利権を強力に代弁してきた業界利益団体であるにも関わらず、何を反対するのにも、まるで「自分たちは困らないけれども、あなた達国民が困るでしょ?」といった上から目線を崩さないと ころにもありそうで、誰だってそんな綺麗事ばかり言われても信用できませんよね(笑)。 

彼らの主張の背後には必ず業界内(この場合は主に開業医)の損得勘定がある、それを隠したまま日医がいくら混合診療解禁や市場原理導入で国民が困ると宣伝したところで、(説得力はない) 

業界団体としてその主張を真っ当なものにするためには、まずTPPによって当の業界がどんな利益なり不利益なりを被るかということを明確にした上で、損得勘定を示さなければならないはずです。そうした基盤があってこそ、国民からも「なるほど、彼らはそういう視点で見ているのか」と納得され、判断材料になり得るのです。


この辺りは、かなり同感できます。思うに、この方は医師ではないが、かなり医療に造詣があって、現場もそれなりに把握されているようです。しかし以下の部分はいささか感情過多になっているようで、素直には首肯できません。

彼らが診療報酬引き上げを要求しているというのは、結果として医療の定価を高くしろと言っているわけですか ら、自己矛盾 と言うしかありませんよね。

要するに見かけの支払い単価を引き下げて、顧客をますます医療漬けにし た上で、公費からがっぽり儲けだけは確保しよう という算段に他ならず、このあたりが世間から「国民皆保険制度におんぶにだっこでぼろ儲け」と批判される所以でもあります。


二点だけ言っておくと、

①皆保険制度のもとで、診療報酬の引き上げは医療従事者の賃上げ闘争と同じだ。診療報酬の主要な原資が公費であるとしても、それが「結果として医療の定価を高く」することになったとしても、こちらにも生活がある。それはお互い様ではないか。

②「医療の定価」を高くしておきながら「国民医療を守れ」というのが、たとえ「自己矛盾」だとしても、医療従事者は「国民医療を守りたい」と思っている。それはひとつにはそれが医療従事者の責務と考えるからであり、一つには医療従事者も国民の一人であるからだ。

とはいえ、この話は本題ではありません。

「まずTPPによって当の業界がどんな利益なり不利益なりを被るかということを明確に」するという作業の重要さを確認することが主題です。

混合医療の導入がはたして真の対決点なのか、国民皆保険を守るというスローガンが、本当に国民医療を守る上での勘所なのか、もう少し具体的な事実を元に論証して行かなければならないのでしょう。

 

こちらは世界ニュースの裏というブログ

TPPに加盟すれば日本から ジェネリック 医薬品が消える? – アメリカGDUFA法の裏

今年7月、ジェネリック 医薬品に関する法案がアメリカの議会にて可決された。

この GDUFA 法(Generic Drugs User Fee Amendments)はジェネリック 医薬品の迅速な流通をうたった法律だが、実際には逆にジェネリックの抑制を狙ったものである。

この法律は、ジェネリック 医薬品の製造業者に対して製造に関するさまざまな情報の登録を義務化し、高額な登録・審査料を求めている。これにより、医薬品の認可に必要となる諸費用は最大6億ドル(約500億円)にも上ることになった。

政府によって課せられたこれだけの負担は最終的には末端ユーザー が払う薬代、または保険料に転嫁される。

TPP加盟で脅かされる日本のジェネリック医薬品

TPPにはもちろん、医薬品に関する項目も含まれている。そしそこには、この GDUFA 法とまったく同じ主旨が述べられている。

日本がTPPに参加した場合、日本のジェネリック医薬品市場もアメリカと同じ動きを強制される可能性が高い。そしてそのツケは国民に回されることになる。

武田製薬の長谷川社長(経済同友会会長)はさぞかしお喜びのことでしょう。

TPPで国民の反対の声がなかなか広がらないが、これならどうだろう。

国境なき医師団の記事から抄録する

2011年2月

TPP交渉は非公開のため、各国の要望を直接知ることはできない。しかしNGOが入手した内部文書で、アメリカ政府の考え方が浮かび上がってきた。

A.既存薬の形を変えただけでも特許

WTOの「知的所有権に関する協定」では、特許の対象となる「新薬」について、加盟国が国内事情も配慮しながら制定することになっている。

アメリカは各国の決定権を制限する新ルールを導入しようとしている。それが「エバーグリーニング」という方法だ。効果がアップしていなくても、形や使い方を変えれば"新薬"として保護される。既存薬の権利独占が狙いだ。TPPでこのルールが認められると、ジェネリック薬の参入は不可能になる。

インドでは、ノバルティス社が既存薬の化学構造を変えただけの抗がん剤「グリベック」の特許を申請した。インド政府がこれを却下したため、ノバルティス社はインド政府を提訴した。HIV/エイズ治療に使うネビラピンという薬がある。これをシロップ剤にしたものが、インドで新薬として特許申請された。インド特許庁は特許申請を却下した。

B.知的財産権の保有者を厚遇

WTOの「知的所有権に関する協定」では、模倣品や海賊版は、商業目的で故意に商標を侵害して作った製品を指している。

アメリカは「混同される恐れがある」というあいまいな基準を用いることを要求している。知的財産権が侵害された場合の損害評価についてにも問題がある。アメリカは、希望小売価格または権利者の価格評価を基準にするよう求めている。要するにアメリカはあいまいな基準でジェネリック薬の流通を阻害し、製造元に莫大な損害賠償を請求しようとしている。

C.独占権で臨床データを囲い込み

WTOの「知的所有権に関する協定」では、特許期間は最大20年となっているが、これを延長しようという動きが出ている。

特許と並んでジェネリック薬の製造に障壁となるのは、医薬品の安全性と効果に関する臨床試験データである。これがなければ医薬品は製造できない。

アメリカ国内法では5年のデータ独占期間が認められているが、米国研究製薬工業協会は12年を要求している。

臨床データの独占権が認められれば、既存薬の特許が切れていてもジェネリック薬を製造できない。独占期間の満了を待つか、臨床試験を再現するかの選択を迫られる。しかし、すでにわかっていることを改めて証明するための臨床試験の再現は馬鹿げている。

パリの浅田記者の通信です。

見出しが3本、写真入りの記事です。

EU 銀行員賞与に上限

最大で固定給と同額

報酬目当ての無謀投機を抑制 ■ 証券支給で抜け穴も

というもので、まずは経過

2月27日、欧州理事会と欧州議会の代表とが、ブリュッセルで長時間協議の末、銀行員の賞与に上限を設けることで合意した。

ということで、次はその内容。

①銀行員の賞与の上限を固定給と同額とする。(固定給というのは月額?、それとも年額?)

②株主総会の議決があれば、2倍までの支給も可能とする。

③株や債券での賞与はこの上限にふくまれない。

ということで、いままではどうなっていたかというと、

バークレイズ、ゴールドマンサックス、ドイツ銀行などでは固定給の数倍から10倍にも達する賞与を、少なくない行員に支払っているとのこと。

このため多くの幹部行員は、高額賞与を得ようと、危険を顧みず投機に走ってきたようです。そしてそれが金融危機をもたらしたということです。

ということで、抜け道はありつつも、基本方針としてはまことに結構な決定です。

それで、これからどうなるかというと、

3月5日にEU財務相理事会があり決定される。これは理事会の承認事項であり、覆されることはまずない。

そして来年(2014年)1月から実施に移される。

ということなので、金融取引税につぐ重要な政策決定だと思う。

ところがこの結構な判断に対してロンドン市長が噛み付いた。

ここは、ちょっと浅田記者のレポートではちょっと説明不足なので、ロイターに載った市長発言を紹介する。

ロンドン| 2013年2月28日木曜日11:12am GMT∥

(Reuters) -

ロンドン市長ボリス・ジョンソンは銀行家のボーナスに欧州連合が上限を設けたことで非難した。そして、銀行業務がロンドン・シティーを回避して、チューリッヒ、シンガポールとニューヨークの方へ向かうあらたな動きが出てくるだろうと警告した。

ヨーロッパの銀行家は早ければ来年にも、ボーナスの上限を迫られる。ブリュッセルで暫定的な合意が成立し、世界で最も厳しい給料抑制策が講じられることになったからだ。

「EUがこんなあからさまで自滅的な政策に固執するなら、なぜ我々はEUに留まらなければならないのだろう。

…ブリュッセルは銀行業務をこなす能力なしには世界的な市場を制御することはできない。ブリュッセルは世界中の銀行家への給与が支払えなくなる。

…この処置で成し遂げられる物があるとすれば、それは、チューリッヒとシンガポールのための後押しであり、ニューヨークである。それはEUのゴタゴタの代償だ。

…かつてローマ帝国のディクレアヌス皇帝は、帝国中で食料雑貨の価格を固定しようとした。これはその時以来、ヨーロッパにとってもっともバカバカしい政策だ。

どっかで聞いたセリフだ。「国際競争力」を口実に法人税の引き下げをもとめた米倉会長の発言と同じだ。

そんなに出て行きたいのなら、宇宙船を雇って、月にでも火星にでも行ってもらおうじゃないか。

ボサ・ノヴァ年表

「私達はブラジル音楽を、ボサノヴァより前とそれより後とに区切ることができる」ナラ・レオン

 

53年 Rapaz de Bem(心優しい青年)が発表される。アントニオ・カルロス・ジョビン作曲、ヴィニシウス・ジ・モラエス作詞、ジョニー・アルフが歌った。 (ジョビンとモラエスは中村八大と永六輔みたいな関係と考えられる)

53年 「ブラジリアンス第一集」が録音される。ブラジル人ギタリストのローリンド・アルメイダがウエスト・コーストのサックス奏者、バド・シャンクと演奏。うち3曲はほとんどボサノヴァだという。

53年 EU QUERO UM SAMBA が発表される。ジョアン・ドナートのアコーディオンとオス・ナモラードスの演奏。ジョアン・ジルベルトのスタイルに似ているという。

53年 PERDIDO DE AMOR が発表される。ルイス・ボンファの作曲。

53年 サンパウロを中心に、労働者のゼネストとデモが盛り上がる。労働者に同調的な政府に対し、軍が介入の動き。

54年 リオ交響曲が発表される。トム・ジョビンとビリー・ブランコの共作で、ディック・ファーニー、エリゼッチ・カルドーゾらが演奏。

54年 軍に追い込まれたバルガス大統領がピストル自殺。リオの葬儀デモに50万人が参加。

56年 ジョビンとヴィニシウスが共同作業を開始する。Orfeu da Conceicao の上演がリオで開始される。ギタリストとしてルイス・ボンファが選ばれた。

57年 シルビア・テリスが最初のアルバムCARICIA を発表。

57年 ジョアン・ジルベルトが放浪の末リオに舞い戻る。彼の編み出したバチーダ奏法とシンコペーションは、リオの音楽家たちから注目を集める。(ジョアン・ジルベルトの歌い方はジェリー・マリガンに影響されたものだとされる)

58年 Chega de Saudade(想いあふれて)が発表される。ジョビン作曲、ヴィニシウス作詞、ジョアン・ジルベルトのギター伴奏でエリゼッチ・カルドーゾが歌う。

58年7.10 Chega de Saudade(想いあふれて)が再録音される。ジョアン・ジルベルト歌・ギターによる。ジョビンの熱心な売り込みにより実現したといわれる。

58年 「ボサノバの夕べ」と題されたショウが開かれる。ボサノバの最初の使用例とされる。

58年 DANS MON ILE がパリで録音される。ギタリスト/歌手アンリ・サルバドルの演奏。

59年 大学でのコンサート、全国音楽祭などでジョアン・ジルベルトとジョビンらの演奏が爆発的な人気を呼ぶ

59年 ジョアン・ジルベルトの最初のアルバムが発表される。Desafinado(調子っぱずれ)、BIM BOMはニュウトン・メンドンサが作詞し、ジョビンが作曲。初めて歌詞中に「ボサノヴァ」の単語が取り入れられた。

59年 ブラジル・フランス合作映画「黒いオルフェ」(マルセル・カミュ監督)が発表される。ジョビンとモライスが企画した劇を元にしており、二人の曲が多く用いられた。

59年 リオで「現代サンバ・フェスティバル」が開かれる。出演はTom Jobim, Sylvia Telles, Alaide Costa, Carlos Lyra, Ronaldo Boscoli, Baden Powell, Roberto Menescal, Nara Leao ら

60年 ブラジルの首都がリオからブラジリアに移転。この年の経済成長率は8%を超えるが、外資導入が高度のインフレ(40%)を招く.

61年 モラエスとバーデン・パウエル、映画「男と女」のサウンドトラックの製作などで共同。

61年 ギタリストのチャーリー・バードが、ケネディの親善使節としてブラジルツアー。ボサノバを体験し、スタン・ゲッツとともにジャズ-サンバのアルバムを製作する。

61年9月 進歩派のグラールが大統領に就任。アメリカの干渉が強まる。

62年11月 カーネギー・ホールでボサノヴァのコンサートが行われ、ジョアン・ジルベルト、カルロス・リラ、セルジオ・メンデス、ミルトン・バナナ、ルイス・ボンファ、ロベルト・メネスカルらが出演。(メネスカルがバルキーニョを歌っているが、カーネギーに出演した歌手のなかでもっとも下手くそな歌手としてギネスに残るだろう)

62年 アメリカで仕事をしていた、ロリンド・アルメイダとジョアン・ドナートが、アメリカ・レーベルからボサノバで売りだす。

63年 『ゲッツ/ジルベルト』が制作され、アメリカで大ヒットする。ジョアンの当時の妻アストラッド・ジルベルトが制作に参加。

63年 キャノンボール・アダレイやポール・ウィンターらが、ボサノヴァのアルバムを発表。アメリカでボサノヴァ・ブームが起こる。

63年 トム・ジョビンがニューヨークでアルバムを制作。GAROTA DE IPANEMA, AGUA DE BEBER などをふくむ。

63年 マルコス・バリーの最初の曲SONHA DE MARIA が発表される。演奏はタンバ・トリオ。ジョルジ・ベンのマシュケナダも発表される。

64年4月 ブラジルでクーデターが発生。軍事政権が樹立される。一週間で「民主主義の敵」とみなされる約9千人が逮捕.

64年 ヴィニシウス、「アルコール中毒」のためブラジル外務省を解雇される。実際は左翼的傾向が嫌われたとされる。

64年 アストラッド・ジルベルトが英語詞で歌った「イパネマの娘」がシングルカットされ、ビルボードに96週間チャートインという記録を打ち立てる。

64年 ビートルズがアメリカ公演。世界中を熱狂させる。ボサノバ終焉の年とされている。

64年 ナラ・レオンが最初のアルバムを発表。国内で最初にヒットしたボサノバのレコードとなる。

64年 サルバドールでカエターノ・ヴェローソ、ジルベルト・ジル、マリア・べターニャによるコンサートが大成功をおさめる。

65年 日曜午後のテレビのショウ番組「青年前衛」が始まる。ロベルト・カルロスらが登場。

66年 Mas Que Nada(マシュ・ケ・ナダ)がアメリカ市場に登場する。アメリカに移住したセルジオ・メンデスがブラジル66を結成し制作したもの。

66年 サマー・サンバ (Samba do Verão)が発表される。マルコス・ヴァーリ作曲、ワルター・ワンダレイの演奏。

66年 ボサノバの人気が徐々に低落。トロピカリア が台頭する。

66年 ヴィニシウスとバーデン・パウエルがノルジスチの黒人の民謡を元に"OS AFRO-SAMBAS"を制作。

66年9月 軍警察がリオ大学医学部に乱入し学生を殺害。全国軍事独裁反対のデモに18万の学生の半数が参加。

67年 Funeral de um lavrador(農夫の弔い)が発表される。オリジナルはシコ・ブアルキの曲をチリのフォルクローレ・グループが演奏したもの。

67年 ジョビン、アメリカでインストゥルメンタル・アルバム「Wave」を発表。“ボサノバを基調としたフュージョン”のジャンルに進む。

68年 カエターノ、サンパウロのカトリック大学で行われた国際歌謡フェスティヴァルで、「禁止することを禁止する」を歌い、当局に睨まれる

68.6 学生運動が急進化、10万人の反政府デモ。各地で校舎の占拠行動が続く。一部学生が国会に突入。

68年12月 軍首脳タカ派が自主クーデターを実施.軍政令5号を布告して国会を閉鎖.市民の大弾圧に乗り出す。カエターノ・ヴェローソ、ジルベルト・ジルらが一時拘禁される。

69年 エリス・レジーナ、「ブラジルはゴリラに支配されている」と発言。軍部の弾圧の対象となる。

69年 ジョアン、ブラジルを去り、メキシコに移住。

70年 ヴィニシウス、マリア・クレウーザ、トッキーニョがブエノスで公開録音したアルバム。

74年 エリス・レジーナとジョビンの共演で「3月の水」をふくむ Elis & Tom が発表される。その後エリス・レジーナはコカイン中毒となり死亡。

80年 ヴィニシウス・ヂ・モライスの死。

90年 ボサノバのリバイバル。Joyce, Eliane Elias, Celso Fonseca, Marisa Monte, Raphael Rabello, Rosa Passos, Leila Pinheiro, Ana Caram, Jane Duboc, Emilio Santiago,Paulo Bellinati, Luciano Souza, Yamandu Costa, Ithamara Koorax, らが登場。

94年 ジョビン、ニューヨークで心臓発作のため死亡。大統領令が発され、国民は3日間の喪に服した。

BossaNovaVideo より

home.earthlink.net/~williamdee/id13.html

 

 

 

軽自動車優遇の廃止要求について、鈴木自動車の会長は「見当違いだ」と抗議したというが、全然、見当違いではない。
まさにそこがTPPの目標であり、スズキ自動車は日本農業や医療と同様にはっきりと目標にすえられている。
こういうのを各個撃破政策という。当面は、強い相手との直接の対決を避け、弱いところを一つ一つ潰していくことで、いつの間にか外堀を埋めていくという戦法だ。
彼らの主戦場は製品競争でも価格競争でもない。最後はM&Aだ。敵はGMでもなくフォードでもなく、その背後に控えるモルガンでありロンドン市場だ。
アメ車のデキが悪いとか、でかすぎるとかいうのは、何の慰めにもならない。

現に韓国では米韓FTAの下で、自動車のCO規制法の導入が挫折した。排出量の多い米国車に不利な制度だとして、アメリカ側がクレームをつけたためとされる。

その口実が振るっている。
「CO2規制は米韓FTAが定めた“貿易技術障壁の禁止”という項目に該当する」というのだ。

そのためにアメリカ側が不利益を被れば、米国はFTAの「投資家対国家紛争条項」(ISD条項)に基づき制度の停止・変更、または損害賠償をもとめる訴えを起こす 可能性がある。悪名高い「毒素条項」だ。

鈴木会長よ、アメリカが「見当違いでした。すみません」とでも言うと思っているのか?
今からでも遅くない。「TPP賛成は見当違いでした。これからは反対に回ります」といいたまえ。

1月の自動車生産統計が発表された。

ビッグスリーはさらに海外化を加速させている。
トヨタは国内生産が28万台、海外生産が44万台ですでに主力は海外だ。しかも国内生産は前年同月比マイナス6%、海外がプラス5%で差は広がる一方だ。
日産、ホンダはさらにすごい。ホンダは国内生産が前年比マイナス40%だ。
三菱などはもう引越し気分だ。海外生産が前年比75%も増えている。おそらく社運をかけての大博打だろう。
これと対照的なのがマツダとスバル。ともに国内生産を7,8%増やし海外生産を減らしている。ただしこれは必ずしも愛国心の発露ではなく、海外市場での後退で余儀なくされたものだ。
ただはっきりしているのは、軽自動車枠の廃止と相まって、自動車業界は勝ち組(ビッグスリー)と負け組(それ以外)がはっきりしてきたということだ。

それにしても六重苦などと良くも言えたものだと思う。
とっくに日本から逃げ出しているのに、愛国者のふりして税金負けろ、労働環境を改善しろとか…

もうどうせ日本でやるつもりないんだから、思いっきり税金とったほうが良い。そうでないと日本の国際競争力は弱まるばかりだ。外資系企業と同じ扱いにせよ。きっちりとギブアンドテークだ。イヤなら外国に移転しろ。


貴志康一のヴァイオリン協奏曲が良い。以前にYouTubeにアップされていた演奏はかなり音が悪かったが、最近下記の演奏がアップされた。
数住岸子(ヴァイオリン) 小松一彦指揮東京都交響楽団
これは素晴らしい音質だ。

貴志さんという人は昭和12年に28歳で亡くなった。虫垂炎から腹膜炎を併発して死んだのだという。もったいない話だ。26歳のときにはベルリン・フィルを指揮して自作を録音したそうだ。このへんは才能のゆえか、お金持ちのゆえか判然としない所がある。

1929年(昭和4年)の大恐慌はドイツにとって大変厳しいものであった。しかし日本は実はあまり被害を受けていない(その前にすでに金融恐慌で落ち込んでいたせいもあるが)。東北地方の飢饉や身売りなどが話題になるが、経済の中心地である関西地方では微減に留まっているのである(ウィキペディアによる)。

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だから神戸のボンボンはベルリンではたいそう羽振りがよかったろうし、ドイツ人は金の前に拝跪していた可能性もある。なにせハタチそこそこの若造が、ポンとストラディバリウスを買ってしまうのだから。

そのためか、貴志康一の曲には屈託がない。民謡調のメロディーがスラスラと流れ、メンデルスゾーンの趣がある。


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