鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

13年4月、ぷらら・Broachより移行しました。 中身が雑多なので、カテゴリー(サイドバー)から入ることをおすめします。 過去記事の一覧表はhttp://www10.plala.or.jp/shosuzki/blogtable001.htm ホームページは http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」です。

2013年03月

カール・ポラニーの話から話がズレてしまった。「あんみつ姫」の毒気に当てられたたのか。

つまり、ポラニーもハイエクも赤いウィーンの時代に行われた「経済計算論争」を勉強しないと、理解できないということだ。

しかし、この論争を理解するためには、その時代背景を知って、論者が論争に臨む心情を知って置かなければならない。

その一つとして「赤いウィーン」という状況がある。ハイエクもポラニーも赤いウィーンの中に生き、その空気を吸いながら生きていたのだ。

1920年という時点で、ヨーロッパ、とくに中央ヨーロッパはどうなっていたのか。

1. 第一次大戦の直後であり、多くが戦争の犠牲となり、経済は疲弊し、人々は急進化していた。民族国家が乱立し、伝統的な支配システムが危機に瀕していた。

2. かくも多大な犠牲を出した「帝国主義の戦争」への懐疑が広がり、それを生み出した資本主義(独占資本主義)への否定的見解が広がっていた。

3.戦争経済という特殊な統制経済体制が終わった後、どのような経済システムに移行するかが問われていた。

左右のいかんを問わず、とにかく何かを選択しなければならない、という認識では一致している。だから何の実務経験もないシュンペーターが、わずか36歳で大蔵大臣になるというとんでもない状況が生まれるわけだ。

一方政策的なカウンターパートたるべき社会民主党も、明確な代替案を持っているわけではなかった。ただ市場任せの無政府的な経済システムは、過剰生産と恐慌を招き、ひいては大戦争の再発に結びつかざるをえないという認識は持っていたから、政府による計画的な経済運営を導入すべきだと考えていた。

こうして、市場原理主義か計画経済かという、やや形而上学的な論争が始まることになる。

ただ、これがまったく議論のための議論でしかなかったか、というと、そうばかりでもない。ドイツやハンガリーでの蜂起、革命は失敗したが、ロシアでは1917年に成立した革命が依然として継続しており、白衛軍を相手に勝利しつつある、という状況があったからだ。

この革命ロシア政府は、本家の社会民主党よりはるかに過激で、生産手段をすべて国有化し、計画経済でやっている。(もっともこれは戦時経済においては当然の話しで、戦争中は程度の差こそあれどこの国でもやっていた)

問題は、絶対的・相対的過剰生産を生み出さざるをえない生産の仕組みにあるのであり、市場の混乱はその結果であるに過ぎないのだが、本線とは関係のない所で起きたこの論争が、あたかも資本主義と社会主義の分水嶺であるかのように扱われてきたところに、一つの不幸がある。

なかなか本論に入りませんね。

 「赤いウィーン」とはなんとも魅力的なネーミングだ。

ウィキペディアによれば、「オーストリア社会民主党がウィーン市議会で初めて与党となり、民主的に統治を行った、1918年から1934年までの同市のニックネーム」だそうだ。きっと最初は右翼が当てこすりでつけた名前だろう。

そこはウィーン学派の活躍の舞台だった。今や世界に名を轟かせている巨星たちが、実物大で活動し議論し、理論を構築していった舞台だ。

哲学と経済学と心理学が奇妙に混じり合い、互いに刺激しあっていた。しかし容れ物としてはあまりに小さかったから、やがてそこから世界に飛び出していった。


1914年 第一次世界大戦が始まる。社会民主党が事実所の分裂。レンナー、V.アドラーら主流派は戦争政策を支持。「城内平和」路線と呼ばれる。少数派(F・アドラーら)は「カール・マルクス協会」を結成。無賠償・無併合の即時停戦を主張する。

1817年 ロシア革命。

1918年

11.12 第一次世界大戦が終了。オーストリア=ハンガリー帝国が崩壊し、第一共和国が成立する。

ロシア占領地域からの難民が大量に流入。中産階級は没落し貧困層に転落した。食糧不足、住宅不足が深刻化し、伝染病が蔓延する。

12月 社会民主党とキリスト教社会党の連合を中心とするカール・レンナー政権が政権を担当する。社会民主党は左右両派が合同。

12月 「労働評議会」と呼ばれる労働者による公的な合議機関が発足、8時間労働制や雇用保険制度が導入される。

1918年 オーストリアにもボリシェビキ型の共産党が結成される。その後弱小政党にとどまる。

1919年

2月 総選挙が施行される。社会民主党は全投票数の40.8%を獲得して69議席を占め、この年の党員数は332,000人に達する。

5.04 ウィーンの市議会議員選挙が行われ、社会民主党が絶対多数を獲得する。社会民主党党首のヤーコプ・ロイマンが市長に就任。

1920年

保守のキリスト教社会党の右傾化が進む。連合政権は崩壊し、社会民主党は野党に転落。ウィーンだけが残された牙城となる。

1920年 バウアー、『ボリシェヴィズムか社会民主主義か』を発表。レーニンとボリシェヴィキを「専制的社会主義」として批判する。

バウアーは応召しロシア戦線で捕虜となった。この間にロシア革命の実態を目撃した。批判を加えられたレーニンはバウアーを「博識なばか者」と酷評した。
しかし、大テロル後の1937年にもなお、バウアーはこう語った。「われわれは、ソ連邦における社会主義を信ずる。現にあるソ連邦ではなく、未来のソ連邦を 信ずる」

1921年

オーストリア社会民主党を中心にウィーン・インターナショナル(いわゆる「第二半インターナショナル」)が設立される。第二インターとコミンテルンの分裂を調停し、社会主義者の国際組織の再統一をめざす。レーニンはこれを激しく批判。

1923年

保守派が「護国団」(Heimwehr)と呼ばれる準軍事組織を組織。社会民主党はこれに対抗して「祖国防衛同盟」(Schutzbund)を発足させた。

1924年

ウィーンに住む画学生ヒトラー、「我が闘争」を発表。多民族都市ウィーンに憎悪心をいだき、ドイツ民族至上主義と反ユダヤ主義を煽る。

1925年

ウィーン市庁、カール・マルクス・ホーフなど6万以上もの大規模な近代的アパート群の建設に乗り出す。公共住宅の建設費は、独自の州法で定められた住宅税や奢侈税により賄われ、賃貸料は勤労者世帯の収入の4%程度に抑えられる。

市議会有力者は、「我々が若者向けの施設に投資することで、刑務所に金を使わなくて済むだろう。妊婦や新生児のケアに投資することで、精神病院に金を使わなくて済むだろう」と発言している。

1926年

クーデンホーフ=カレルギーの提唱で、ウィーンで第1回パン・ヨーロッパ会議がひらかれる。共通通貨、均等関税、水路の共用、軍事と外交政策の統一を基礎とするヨーロッパの連帯をうたう。

社会民主党、リンツ綱領を採択。「改良主義とボリシェヴィズムの間の第三の道」を定式化。民主政に依拠して則法的に政権を獲得する路線を打ち出す。 

1926年 バウアー、『社会民主主義的農業政策』を発表。ボリシェヴィキの農業政策を酷評、「農民の収奪を考えるのは愚か者だけだ」と主張する。

1927年

初頭 右翼メンバーが、対抗デモのに参加した退役軍人と8歳の少年とを射殺。

7月 射殺犯3人に無罪判決。これに抗議するデモが各地に波及。

7月 「7月15日事件」が発生。ウィーンで労働者デモ隊が警察を襲撃。89人が死亡。その後の弾圧により社会民主党の勢力は後退を余儀なくされる。

1930年

世界大恐慌がウィーンにも波及。

1933年

3月 ドルフース首相(キリスト教社会党)、議会の混乱を理由に議会の機能を停止。戒厳令の公布、共産党の禁止など独裁権力をふるうようになる。

ドルフースはファシストというよりオプス・デイ(キリスト教原理派)に近い。しかしナチスのオーストリア併合に抵抗しなかった、という点ではファシストと同列である。

9月 社会民主党、党が禁止されるなら武力蜂起すると決議。

1934年

2月 「2月12日内乱」が発生。社会民主党および「共和国防衛同盟」が、リンツ、ウィーン、グラーツなどで蜂起する。4日後に敗北。

2月 ドルフース政権と「祖国戦線」の独裁に移行。社会民主党は解散処分を受け、ウィーンの社会民主党市政も終焉した。


あまりインターネットに情報がなく、とりあえずはウィキペディアに若干を付け加えた程度の表になってしまった。

たかだか10年の経験であり、美濃部都政みたいなものだが、両大戦間の出来事であったということ、ナチスの成立と勝利に密接に関わっていたという点では、歴史的意義ははるかに大きい。

この経過を見ると、反動的支配層が革新自治体や労働運動を潰すのにナチスを手先として利用しようとする狙いが、かなり透けて見えてくる。

革新都政を倒すのに、創価学会・公明党が利用されたのとかなり類似した光景だ。ナチスのほうがはるかに凶暴ではあるが。

もう一つは、マルクスの名が生きている運動だということ。社会民主党左派がイニシアチブを握っていたという意味では、レーニン・スターリン的な“共産主義”ではなく、ある意味“正統マルクス主義”の実験だったということにある。

率直にいえば、その経験はロシア革命的な道筋よりははるかに貴重だと思う。

社会主義計算論争も、当初はソ連型社会主義を念頭に置いていたわけではなく、オーストリア型社会主義の方向性を問う論争であったと思われる。(この頃のハイエクは、紋切り型でなく相当丁寧に議論を展開している)

ただ、大恐慌後はソ連経済をターゲットにした、よりイデオロギッシュな論争に変わっていく。それとともに、対立も形而上学的な、無内容なものになっていく。 

 


ハンガリーの知識人について調べた。圧倒的に音楽家が多いので、非音楽家と二つに類別した。

1890年から1900年辺りに集中していることがよく分かる。彼らが青春期を送った1910年から20年あたりが、おそらくはハンガリーの激変期であり、20年のハンガリー革命を機に祖国から叩きだされたという事情が読める。

もう一つはハンガリーで親ナチ勢力が過激化するあたりに、ユダヤ系ハンガリー人が追い出されている。さらにハンガリー動乱の時期にも幾らかの人が祖国を後にしているようだ。

非音楽家系

ロバート・キャパ

1913年、ブダペスト生まれのユダヤ系。1931年に共産党活動容疑で逮捕され、その後ベルリンへ渡る。1933年にはベルリンを脱出しブダペストに戻る。1939年にアメリカ合衆国に移り、翌年に永住権を得る。

アーサー・ケストラー

ブダペスト1905年生まれ。ユダヤ系ハンガリー人の父とオーストリア人の母を持つ。ケストラーの生涯は、それ自身がロマンであり要約はできない。

ジョン・ケメニー(BASICを開発した数学者)

1926年生まれ。1940年にナチを逃れアメリカに移住。祖父は祖国を捨てることを拒み、ホロコーストで叔父や叔母と共に亡くなった。

ジョージ・ソロス

1930年、ブダペスト生まれ、ユダヤ系(旧姓はシュヴァルツ)。ブダペストでの熾烈な市街戦とソ連軍による虐殺を生き延びた。1947年、単身イギリスに渡る。1956年9月、ニューヨークのウォール街に赴きクォンタム・ファンドを創設する。

ジョン・フォン・ノイマン(科学者)

1903年ブダペストにてうまれる。家族はハンガリーに移住したユダヤ系ドイツ人父親は貴族の称号をお金で購入した。1930年代はナチス政権を嫌いアメリカ合衆国に移住する。タカ派科学者として原爆製造に関わる。

テオドール・ヘルツル

1860年、ブダペストの生まれ。ドレフュス事件(1894年)を機にシオニズム運動を起こす。

カール・マンハイム

1893年ブダペストに生まれたユダヤ人社会学者マルクス主義のイデオロギーを前面に出さず、マルクス・レーニン主義的な社会改造の革命を推進する新しいドグマを構築。
1929年にフランクフルト大学社会学科正教授に就任。1933年にアドルフ・ヒトラーが政権をとったためイギリスに亡命。

ゲオルク・ルカーチ

1885年生まれ。父親は大銀行家、母はユダヤ人大富豪の娘。1918年 ハンガリー共産党に入党、ハンガリー革命政権崩壊後、ウィーンに亡命。戦後はハンガリーに帰国し、ナジ・イムレ政権で人民教育相。政権崩壊後、一時ルーマニアに抑留される。その後、著作に専念。

ラカトシュ・イムレ(数理哲学)

1922年11月ユダヤ人の家庭に生まれる。イムレの母も祖母もアウシュヴィッツで亡くなった。彼は第二次世界大戦中に共産主義者になった。ソ連がハンガリーを侵略したのち、ラカトシュはウィーンに逃げ、イギリスに定住した。

研究の中身は、ほぼ理解不能。

音楽家系

アンダ・ゲーザ - ピアニスト

1921年ブダペスト生まれ。1943年にスイスに亡命。フルトヴェングラーは「ピアノの吟遊詩人」と讃えた。

ヴァーシャーリ・タマーシュ

1933年生まれ。1956年にハンガリーを出国してスイスに落ち着く。

ジェルジ・シャーンドル

1912年うまれ。バルトークとともにアメリカに渡り、帰化。

ハンス・スワロフスキー

1899年9 ブダペストうまれ。ユダヤ系の指揮者。なぜか戦時中も現役。

ジョルジュ・シフラ

この人はロマの出自。1956年ハンガリー動乱の時に西側に亡命した。

エルンスト・フォン・ドホナーニ

1877年生まれ。彼については、その家族もふくめ、一口で語れないほどの経歴があり、ウィキペディアを参照されたい。

フェレンツ・フリッチャイ

1914年、ブダペストに生まれる。経歴中、政治的葛藤をうかがわせるものはない

モーシェ・アツモン

1931年7月30日うまれ。44年に13歳でテルアヴィヴに移住。イスラエルの指揮者

ユージン・オーマンディ

1899年ブタペスト生まれ(ユダヤ系)。21年、アメリカ演奏旅行。そのままアメリカにとどまる。

リリー・クラウス

1903年、ブダペスト出身のユダヤ系ピアニスト。第二次大戦中にジャワで日本軍により軟禁される。戦後はイギリスに帰化。

イストバン・ケルテス

1929年、ブダペストで生まれる。1956年ハンガリー動乱の時に西側にジョルジュ・シフラと共に亡命した。

ヨーゼフ・シゲティ

1892年、ブダペストでユダヤ系の家庭に生まれた。1940年にはアメリカ合衆国に移住。

シュタルケル・ヤーノシュ

1924年ブダペストに生まれる。1946年には祖国を去り、ヨーロッパ各地で演奏。1949年にはフリッツ・ライナーの招きを受けて、メトロポリタン歌劇場管弦楽団の首席チェリストに就任。

ゲオルク・ショルティ

1912年生まれ、ユダヤ系。生まれた時の姓名はシュテルン・ジェルジュ。父親はハンガリーで民族主義が高まるのを感じて、ハンガリー風のショルティに改姓した。ナチス下では演奏の機会を奪われ、スイスに亡命した。以後、父をはじめ家族とは再会していない。

ジョージ・セル

1897年ブダペストに生まれた改宗ユダヤ人。ドイツを中心に活動したが、ナチの台頭に脅威を感じてイギリスに移動。その後39年にアメリカに定住。

アンタル・ドラティ

1906年ブダペストに生まれる。これといった葛藤なく経過。

アニー・フィッシャー

1914年ブダペスト出身。第二次世界大戦中はスウェーデンに避難していたが、第二次大戦後の1947年に再びブダペストを拠点に演奏活動を展開。

フリッツ・ライナー

1888年ハンガリー出身(ユダヤ系)。1922年ドレスデン国立歌劇場の指揮者を務めたあと渡米。一旗組。

カール・フレッシュ

1873年生まれのユダヤ系バイオリニスト。1934年に第三帝国を去ってロンドンに行き、その後アムステルダムとルツェルンに移った。

ベーラ・バルトーク

1881年ハンガリー(現ルーマニア)領トランシルヴァニアで生まれる。1940年にアメリカへ移住。ナチとそりがあわなかったという。ナチスドイツや共産主義ソ連の名前が残っている内は祖国に埋葬しないよう遺言。

情報はすべてウィキペディアのみ。

ポラニーの年表に1900年ころのブタペストの写真を貼り付けたが、
それは、ハンガリーについての認識を新たにさせるものだった。
オーストリアの圧制のもとに苦しんでいる国と思っていたが、
むしろオーストリアとタイを張るくらいの勢いで栄えていたことがわかる。
オーストリア・ハンガリー両帝国の名はダテではなかった。
第一次大戦のきっかけが、セルビア人によるオーストリア皇太子襲撃事件だというのを世界史の授業で習った。
セルビア人はオーストリアの収奪の対象だったのだろう。
それとハンガリーを混同していたのかもしれない。
そこがハンガリーの頂点だった。
第一次大戦で敗れてからはいいことなしだ。
ロシア軍に国土を蹂躙され、その国土の半分を周辺国に割譲させられた。
国王の追放、労働者コミューン成立のあと、右派との間で内戦状態に陥った。
そして最後にルーマニア軍に首都を制圧されるという屈辱を味わった。
ハンガリーの隆盛を担った多くの知識人が亡命を余儀なくされた。

今日我々は多くのハンガリー出身者の名を知っている。その大部分がこの時代の人達だ。
これまで、ハンガリーは出稼ぎ者の多い貧しい国だと思っていたが、
見方を変える必要があるようだ。


シュンペーターは一言でいえば俗物である。マルクスの「産業資本家」論を剽窃し、「平均利潤率の逓減の法則」から片言隻句を引いて、それを“奴隷の言葉”に置き換えただけの人だと思う。

彼についても、まず年譜から始めよう。

1883年2月8日 オーストリア・ハンガリー帝国・モラヴィア(現チェコ)のトリーシュに生まれる。本名はヨーゼフ・アロイス・シュンペーター。

1901年 ウィーン大学法学部進学

1906年 ウィーン大学から博士号(法学)を取得

1908年 教職につくための処女論文『理論経済学の本質と主要内容』を発表。この時25歳。

ドイツ語圏の読者を対象に、ワルラスの一般均衡理論の意義をほとんど数学を用いることなく解説したうえで、その過ちを指摘したもの。
競争を徹底的に行なわせると、もうこれ以上変化しない一般均衡状態が成立する。それは変化のない静態である。利潤はゼロになり、投資は行なわれず、したがって貯蓄もゼロ、利子率ゼロの静態が生ずる。収入は費用(賃金と地代)に等しくなる。
これでは資本主義の運動を解明することはできないので、経済システムの内部に均衡を打ち破る動因があるはずだと主張する。

1909年 オーストリア辺境の町ツェルノヴィッツ大学の准教授に就任。『経済発展の理論』の執筆を開始

1911年 ベーム=バヴェルクの推挙によりグラーツ大学教授に就任。「生意気だ」との批判を受ける。

1912年 『経済発展の理論』発表。

ノベーション: 均衡状態はイノベーション(新結合)によって不断にシフトしており、イノベーションが加わらないと市場経済は均衡状態に陥ってゆく。均衡では企業者利潤は消滅し利子もまたゼロになるという。したがって企業者(アントレプレナー)は、つねに創造的な破壊をし続けなければ生き残れない。(第二章 経済発展の根本現象)
信用創造: 起業者が
銀行から信用貸出を受け、それに伴い銀行システムで通貨が創造される。銀行家は単に購買力という商品の生産者である。
景気循環: イノベーションを実行すると経済は撹乱されるが、その不均衡の拡大こそが
好況の過程である。これに対し、後続企業が追従して経済全体が信用収縮(銀行への返済)により徐々に均衡化していく過程が不況である。不況は「通常の過程」であり、放置する。恐慌は信用供与により解決すべきである。

1913年 コロンビア大学から客員教授として招聘され名誉博士号を受ける

1919年 オーストリア共和国の大蔵大臣に就任、同年辞職

1921年 ビーダーマン銀行の頭取に就任

1924年 同銀行が経営危機に陥ったため、頭取を解任され、巨額の借金を負う

1925年 ボン大学の教授に就任

1926年 『経済発展の理論』改訂版を発表。

1927年~ ハーバード大学の客員教授を引き受ける

1931年 初めて来日し各地で講演

1932年 ハーバード大学の教授に就任(52歳)

1936年 ケインズが『雇用、利子および貨幣の一般理論』を発表。シュンペーターは批判的立場をとる。サミュエルソン、ガルブレイズ、トービン、ソローらハーバードの弟子たちの多くがケインズ派に走る。スウィージーはマルクス主義に向かう。

1937年 『経済発展の理論』日本語版が出版される。

マルクスが資本主義発展は資本主義社会の基礎を破壊するということを主張するにとどまるかぎり、なおその結論は真理たるを失わない。
私ははじめ気づかなかったが、自分の考えや目的は
マルクスの経済学を基礎にしてあるものだ。

1939年 『景気循環の理論』発表。内容は『経済発展の理論』とほぼ同じだが、「新結合」が「イノヴェイション」と改められる。

1940年 計量経済学会会長に就任

1942年 『資本主義・社会主義・民主主義』発表。「創造的破壊」が流行語となり、ベストセラーとなる。

①資本主義は、成功ゆえに巨大企業を生み出し、それが官僚的になって活力を失い、社会主義へ移行していく。
②停滞した社会においては、独創的なエリートは、官僚的企業よりは社会福祉や公共経済の分野に革新の機会を求める。

1947年 アメリカ経済学会会長に選出

1949年 国際経済学会会長に選出

1950年1月8日 アメリカ・コネチカット州にて動脈硬化症で急死

1954年 遺稿を元に『経済分析の歴史』出版

 

国際面にかなり大きなスペースでルクセンブルグ外相の談話が報じられている。

これはドイツ野党の社会民主党の幹部が議会で、「ルクセンブルグ、マルタ、アイルランドのような国では、金融制度の改革が必要だ」と語ったことに対する反応。

談話の内容としては、「ドイツがユーロ圏での覇権を目ざしている」との過激な批判。

ドイツにEUの他国のビジネスモデルに決定する権利はない。
ドイツなどの大国が金融センターでなければならないという態度をとることは、間違った反欧州的な覇権を目指すものだ。


ということで、一見もっともらしいのだが、ルクセンブルグが投機資本の拠点になってきたことは紛れもない事実。

ドイツやフランスは、これまでもルクセンブルグのビジネスモデルについて、公言はしないものの疑問符をつけてきた。

それが、アイルランドが危機に陥り支援、今度は同じく金融立国のキプロスが危機に陥るという中で、“泥棒に隠れ家を提供してテラ銭で暮らす”ようなやり方に対して一気に不満が強まったということであろう。


2013.3.28 

カール・ポラニー年表

ポラニーという人が有名らしい。基本的には経済学者だが、いろいろな側面があって社会哲学者というレッテルが一番合っているらしい。

世界中にかなりの信者がいるようで、ポラニー学会という国際学会もあるようだ。

いまさらこの歳で原著に当たる気もせず、とりあえずネットで当たれる解説を読んでおくことにする。

ルソーと同じで、この手の人物は年表形式で整理していくのが一番良い。

ウィキペディアであたったら、ポラーニ・カーロイ年譜というものがあったので、そこから出発することにする。(なおこの年譜は一日一冊さんという方の作成されたものである。記して感謝する)

1ポイント小さな字は、私が付け加えたものである。

 http://livedoor.blogimg.jp/shosuzki/imgs/4/5/45c34336.jpg

1900年ころのブダペスト市街

1886年 ウィーンでポラチェク家の6人中3番目の子供として生まれる。父ポラチェク・ミハーイはユダヤ系ハンガリー人で鉄道建設技師であった。母親はリトアニア出身の宝石細工の見習い職人であった。

1891年 ポラニー一家がブダベストに移住。

1867年にハンガリー王国の自治権が拡大され、オーストリア=ハンガリー帝国が成立した。ハンガリーでは資本主義が勃興し、民族主義が高揚した。首都ブダペストは地下鉄が整備されるなどヨーロッパ有数の近代都市としての装いを調え、繁栄した。(ウィキペディアより)

1899年 父の経営する鉄道建設会社が倒産。以後、奨学金で学業を続ける。

1900年 兄のアドルフが組織した「社会主義者学生機構」に加わる。母の知人のロシア革命家サミュエル・クラチュコに大きな影響を受ける。

1904年 ユダヤ人のマジャール化に従い、名前をハンガリー風のポラニー(Polányi)に改める。

1904年 ブダペスト大学の国家学-法学部に入学。

大学では法哲学者ピクレル・ジュラの薫陶を受けた。ジュラはウィーンのエルンスト・マッハと親交があり、マッハをハンガリーに紹介した。進歩的教授として極右学生団体の攻撃の的となっていた。

1905年 父の死去。これを機にうつ状態となる。

1907年 後学期をウィーン大学法学部で過ごす。

1908年 心理学と哲学のセミナーを開き、エルンスト・マッハの『感覚の分析』を分析・精読する。

セミナーといっても学生の自主的な勉強会であろう。取り上げた話題としてはアヴェナリウス、オストヴァルト、ポアンカレ、W・ジェイムズ、マルクス、ゾンバルト、フロイトなどの名が並んでいる。

1908年 進歩派のビクレル教授を右翼組織から守るため、マッハの学習会メンバーにより学生を組織、闘争に立ち上がる。

1908年 闘争の中で中核組織となるガリレイ・サークルを結成。みずから議長に収まる。

1908年 ポラニー、ブダペスト大学を放校処分となる。トランシルバニアのコロスヴァール大学に転籍し学位を取得。

1909年 ポラニー、社会科学協会の機関紙に「我々のイデオロギーの危機」を発表。

1910年 ガリレイ・サークルの議長を辞任。その後、労働者教育委員会の指導にあたる。約2千人のメンバーが、数万人の労働者を相手に講義やセミナーを開催。機関紙「自由思想」ではアインシュタイン、マッハ、フロイト、マルクスなどの理論を普及させる。

1910年 ルカーチの評論集「魂と形式」が発表される。ルカーチは青年知識人の先頭に立つ。

1911年 さまざまな青年知識人サークルで講演を行なうようになる。

1912年 ヘーゲル、マルクス、ピクレルの歴史哲学についてのセミナーを主催する。

1913年 雑誌「自由思想」を発刊、編集に携わる。

1913年 フリーメイソンへ入会。フリーメイソンは労働者教育を財政的に支援した。

1914年 ハンガリー市民急進党の結成に参加する。結成大会で書記の一人となる。この党はフェビアン主義を基調とし、普選の実現、土地の再分配、自由貿易、教育改革などを掲げていた。

1914年 第一次世界大戦が始まる。

1915年 ルカーチ、「日曜サークル」を組織。カール・マンハイムらが参加。

1915年 ハンガリー軍に志願し、騎兵将校として前線におもむく。

1917年 前線で負傷し帰還後に除隊となる。

1917年 イロナ・ドゥチンスカ、反戦活動を行い逮捕される。

1918年 ブダペスト人民委員会の法務委員会の委員に選出される。

1918年 「我々の世代の使命」を発表。戦争の原因と責任を問う。

1918年 第一次世界大戦に敗北。ハンガリー民主共和国が二重帝国から独立。

1919年 大学で講演。プロレタリアート独裁の時代錯誤を批判する。

1919年3月 ハンガリー共産党が革命を起こし、ハンガリー・ソビエト共和国が成立。8月には崩壊する。

1919年5月 ポラーニ、オーストリアへ密入国。戦傷の外科手術を受ける。このあとウィーンでの療養所生活が始まる。療養中に社会科学の研究に没頭。

1919年 イロナ、ハンガリー共産党からウィーンに派遣され、保養所の看護師として病人や負傷者の看護に当たる。一方で、ウィーン工科大学で機械学の講義を受けていた。

1920年 ハンガリー王国の成立。国王候補が定まらなかったため、ホルティが摂政として支配する。

1920年 フォン・ミーゼスの「社会主義共同体における経済計算」が発表される。社会主義経済では「市場」がないため、需要と供給の均衡が定まることがない。したがって、資源配分が恣意的になり破綻する、というもの。これを機に「社会主義経済計算論争」が始まる。

1921年 ウィーン・ハンガリー新聞の編集に携わる。

1922年 ポラニー、「社会主義経済計算」を発表。フォン・ミーゼスの「社会主義共同体における経済計算」(1920)に反論。ワルラスの提唱した一般均衡理論に基づき、非市場的な経済は可能と主張。

1922年 イロナ・ドゥチンスカ、ハンガリー共産党を除名される。

1923年 ポラニーとイロナ・ドゥチンスカが結婚。

1924年 週刊誌「オーストリア国民経済」に、国際関係と外交問題の専門家として迎えられる。

1933年 ヒットラーがドイツ首相に就任。ハンガリーはナチと結びつく。

1933年 「オーストリア国民経済」の職を失い、イギリスへ移住する。王立国際情勢研究所で非常勤の研究者となる。娘のカリを呼び寄せる。

1934年 ウィーンに残ったイロナ、労働者蜂起に参加。その後、現地で非合法のラジオ放送を組織。

1934年 英国各地で精力的に講演する一方、「オーストリア国民経済」の海外編集長として時事評論を寄稿。ファシズムに警鐘を鳴らす。

1935年 ジョン・ルイス(イギリス共産党指導者)およびドナルド・K・キッチンとともに研究論集『キリスト教と社会革命』が出版される。

1936年 ウィーンで反ナチの地下活動に携わっていたイロナが、病に倒れ戦線を離脱。イギリスにわたりポラニー、娘と同居。

1936年 アメリカ講演旅行を行なう。

1937年 ロンドン大学とオックスフォード大学の支援で労働者教育協会が発足。ポラニーも労働者教育運動に参加する。

1939年 第二次世界大戦が始まる。

1940年 イギリスの市民権を得る。カーロイ・ポラーニをカール・ポラーニと改める。

1940年 ロックフェラー財団の奨学金を得て、2年間にわたり渡米。ベニントン・カレッジ(ヴァーモント州)で「客員講師」として働く。

1941年 ロックフェラー財団奨学金を得て、『大転換』の執筆に着手。

1943年 2年の任期を終え、妻とともにイギリスに戻る。

1944年 カーロイ・ミハーイの率いる英国ハンガリー評議会に独立メンバーとして参加する。

1944年 単独講和に乗り出したハンガリーのホルティ政権が、親ナチ派のクーデターで倒される。

1944年 ニューヨークで『大転換』の初版が出版される。

市場社会: 市場経済は、市場価格によってのみ統制される自己調節機能に基づいて社会を作り替えようとする。それはユートピア的な擬制である。
社会統合: 市場経済は、本来は商品ではない労働(人間)、土地(自然)、貨幣を商品化し、人間の生活を破壊する。
市場経済の歴史: 市場を規制する政策や運動は市場経済の自己調整システムに対する社会の自己防衛である。
市場経済の崩壊: ファシズム、社会主義、ニュー・ディールは、すべて市場経済から社会を防衛するための活動である。そして市場社会の崩壊後には複合社会が到来する。
複合社会の具体的な経済体制については詳細に述べられていない(ウィキペディアより)

1945年 ブダペストが、ソ連軍の手により陥落。

1946年 ブダペスト大学での連続講義を試みるが、入国許可がおりず水泡に帰した。

1947年 トルーマン、一般教書演説でトルーマンドクトリンを宣言。冷戦時代が開始する。

1947年 コロンビア大学の教職を得る。アメリカ政府は、妻イロナの共産主義者としての過去を理由にビザの発給を拒否。カナダのピッカーリングに居を構えた。

1948年 コロンビア大学の社会科学調査委員会、「経済的諸制度の起源」についての研究計画を受け入れる。

1957年 アレンスバーグ、ピアソンとの共同編集による研究論集『古代帝国における交易と市場』が出版される。

1957年 「人間の経済(Liblihood)」執筆中に癌となる。原稿は未完成のまま残され、死後ピアソンの編集により出版される。

1960年 ハンガリーを訪れる。

1963年 妻との共同編集による詩文集『鋤とペン』が出版される。

1964年 永眠。


若森みどりさんの解説書「カール・ポランニー: 市場社会・民主主義・人間の自由」がグーグル・ブックスで読める。しかしもう少し読みやすい画面にんらないものでしょうかね。これでもハンガリー革命中の行動はよく分からない。

要領よくまとめてくれているのが「(読書ノート)ポラニー『大転換』をどう読み取るか」というPDFファイルである。筆者の高田太久吉さんのページには勉強になるファイルが満載である。

 

国会では、共産党と安倍内閣との掛け合い漫才が続いている。
参院では大門議員が質問している。

大門議員「実体経済が良くならなければ、バブルに終わる。賃金が上がらないまま物価だけが上昇する最悪の事態にもなりかねない」
麻生財務相「まったくその通り」

ついで大門議員は企業減税だけでは、賃上げは実現できないと指摘。さいちんの引き上げを求めた。

大門議員「雇用者数を増やした企業への減税が打ち出されたが、実績は15%にとどまっている。政府が関与しやすいのは減税より、最賃の引き上げだ。内閣主導で省庁の枠を超えて賃上げ策を研究してほしい」

麻生財務相「まとめて政府として一体としてやれという指摘は正しい」

ということで、共産党と政府の間でここまでの認識は一致している。

ついで大門議員は、配当・譲渡益非課税などの話題に移っていくが、とりあえず省略する。

わたしは、この課題は富裕層課税の文脈としてより、政府の課税・徴税能力の衰弱という観点からの追及のほうが、より実態に即したものになるのではないかと感じている。


小池副委員長が我々の「三つの矢」を提示している。

今放つべき第一の矢は、非正規もふくめた働く人の賃上げ
第二の矢は、社会保障の充実
第三の矢は、消費税を止めさせることです。

これは大いに宣伝すべきだ。

多分、財源問題と、財政規律問題が反論として出てくるだろう。まだまだ「国際競争力神話」にとらわれている人も多い。

ただ、世論が「負担増も仕方ない」という諦め気分から抜け出してきていることは間違いない。この変化は大きい。たしかにそれはアベノミクスの効果であると言って良いだろう。

「なんとか景気を良くしなくては」という声に応えるようなスローガンに、こちらの側も切り替えていかなくてはならない。

そのためには、「まず景気回復、その後に財政再建」という道筋を定着させなければならない。そのために自民党との「パーシャル共闘」もありうる。

それは消費税増税派を追い詰める道にもつながる。

もう一つはただ景気を良くするだけではダメで、それが実需に結びつかなければならないことを明確にしなければならない。

日本の不景気の原因は、国民所得の大幅減少にある。したがって、国民所得の回復なしには「カラ景気」に終わる。残るのは莫大な国債残高のみという最悪の結果となる。

財政再建論者に「それみたことか」といわれるばかりか、原油高とあいまって一気に双子の赤字国に転落する危険も内包している。

我々は今重大な賭けをしているということを認識しなければならない。この賭けが成功するか否かは、一にかかって国民所得の回復と実需の拡大にある。

鍵は最低賃金の引き上げだろう。最賃が上がれば、生保バッシングや年金問題のかなりの部分は解決する。そのためには中小・零細企業への支援が不可欠だ。


何か論文が読めるかと思って中山さんのHPに行ってみた。かなりぶっ飛んでいる人で、赤旗に載った写真からは到底想像できないキャラだ。
掲載論文はゼロ、そのかわりブログがめっぽう面白い。
ほとんど強迫的な行動マニア、芳紀49歳の「あんみつ姫」だと思えば当たらずといえども遠からず。
西川潤の流れか、ポラニーとシュンペーターが一応メシのタネ。以前、だいぶお付き合いさせてもらった橋本努さん(北大教授)とは専攻領域が近接しているが、背中合わせの近しい関係みたいだ。

ウィーン学派は基本的に反マルクスであり、ベーム・パヴェルクを中核とする。
その過程でヒルファーディングみたいにマルクス主義に行ってしまう人や、シュンペーターみたいな修正主義者も出てくる。
エルンスト・マッハみたいな哲学畑のウィーン学派ともつながる。もちろんフロイドにつながる連中もいる。
共通しているのは、やたらと抽象的で、負け犬の遠吠えみたいな趣を漂わせているところだろう。

なんとも悲しくなるのは、この時期彼らが集中して攻撃していたのはスターリン主義なのだ。
当時、平和と民主主義のために懸命に闘っていた人々を、私は心から尊敬するが、彼らが擁護していたスターリニズムは、反対派のいう如く誤りの塊だったのだ。
なんともクソみたいな話だ。

赤旗に「経済ジェノサイド」(平凡社新書)を書いた中山智香子さんのインタビューが載っている。
ピノチェト時代のシカゴボーイズの政策が、いかにチリの人々の生活を破壊していったかをあとづけた本らしい。
中山さんは49歳、この世代としては貴重な進歩的経済学者のようだ。ウィーンに留学しハイエクの一派を批判的に研究したそうだ。
短い囲み記事だから、言っていることは多くない。

一つは、新自由主義が60年代後半の世界に広がった理由だ。
「日本の公害問題のように、市民の運動が国や企業を追い詰めた」ため、危機感を抱いた国や企業が「政治は終わった。経済だ」とすり替え、儲け中心の新自由主義を広めた、というもの。
その時代を当事者として生きた私達世代には、どうももうひとつしっくりこない。

もう一つは、新自由主義者がその政策の明らかな失敗にもかかわらずいけしゃあしゃあとしている理由だ。

彼らは現実に起こっていることを無視します。現実と理論が関係ないのは当然、現実と理論が合わないのは現実が間違っていると言います。
異様な倒錯です。


ここの部分はさすがに迫力がある。研究者でなければここまでは言えない。
竹中平蔵の顔が思い起こされる。

ただ新自由主義は多様な顔を持っているので、十把一絡げには行かないところがある。

ハイエクとフリードマン、サッチャリズムとレーガノミックス、IMF・世銀・米商務省の政策はそれなりに分けて論じなければならない。

とりわけチリの「成功」についてはまだまだ議論が不足している。



卒業式で教師の口パクを監視して、処分した校長が大阪市の教育長になったそうだ。世も末である。

口パクそのものがなにか隠れキリシタン風で哀れを催すが、それを探し出して摘発するのは、なにか人間性の中核が欠落していると考えざるをえない。

ガリレオは宗教裁判にかけられたとき、小声で「それでも地球は回っている」とつぶやいたそうだが、それを「ガリレオがこうつぶやいていました」とご注進するような輩である。

「どう育ってもいいが、こういう恥ずかしい人間にだけはなるな!」という人物を教育長にすえるのは、人をおちょくっているとしか思えない。


例えば、何かの式典でイギリス国歌が流れたとする。

私なら当然起立し、国歌に対し敬意は払う。

その歌詞が「神よ我らが女王を守り給え」であってもだ。


「君が代」には3つほど問題がある。

ひとつは、いまは「民が世」であることだ。終戦をもって「君が代」は終わった。憲法にそう規定されている。この歌詞は憲法の精神から見て間違っている。

ひとつは、戦前・戦中に皇国思想の象徴として用いられたことだ。そして「君が代」を守るために過去にあまりにも多くの血が流されていることだ。この曲に反感を感じる日本人は決して少なくはない。そしてその反感には正当な理由がある。

そしてもうひとつは、この曲が国歌として法的に位置づけられては来なかったことだ。99年に国旗及び国歌に関する法律で制定されるまでは、国歌ではなく、「国民歌」でしかなかった。


しかし、国家となった以上は然るべき敬意を払うべき「義務」は生じる。それはあくまでも外形的なものである。

はじめに、右翼もふくめ全員で確認しておくべき、議論の前提がある。それは日本は自由な国家であるということだ。

良心の自由が最大限に保障され、表現の自由が尊重される国であるがゆえに、我々は日本という国に誇りを持っているのだ。

1.良心の自由との関連

「君が代」に反対する人が、内面的にそれを軽蔑したり、嫌悪感を持つことは、「良心の自由」として最大限に保障されなければならない。

組合など左翼系が反対の主力になっているために、「君が代反対=アカ」という図式が広がっているが、じつは君が代に対する拒否意識はむしろ信仰者に強い。

それを左翼が代弁していると見るべきであろう。

2.表現の自由との関連

ついで「表現の自由」との絡みが問題になる。

一般的には「良心の自由」は「表現の自由」無くしては表明できないわけだから、「君が代」に対する意見表明は、決して抑圧されてはならない。

ネット右翼が、「君が代に反対する人は非国民であり、日本人ではない」とか、「そういう連中には教員となる資格はない」というが、これは暴論である。

いまだに福島では15万もの人が家に帰れないでいるのに、「多少の放射能は体にいい」とか「直ちに健康に影響をあたえるものではない」などとノタもう人物(ネット右翼のお気に入り)がいるが、それも「言論の自由」なのである。

慎み深く、反対の意を表する限りにおいては、「君が代」に対してどのような行動を示そうとまったく自由である。口パクなどはまったく問題にならないし、問題にするほうが問題である。

おそらく問題になるのは式次第を妨害したり、国歌を冒涜するような振る舞いをとることであろう。歌わない、起立しないというのも、多少は目障りではあろうが、表現の自由の範囲内にとどまっているものと判断される。

3.職務との関連

最後に、「職務」との関連であるが、公務員である以上、国歌に対する礼儀は法令の順守に属する職務として義務付けられるであろう。

ただ外形的には、イギリス国歌に対する礼儀と同じレベルまでであろう。起立し、沈黙する。

これ以上は公務員といえども、「良心の自由」を越えて行動を強制される必要はない。憲法は公務員法にも「国歌に関する法律」にも優先する。

もし良心の自由を侵害する形で職務命令が発せられれば、今度は職務命令の方に違憲の疑いが濃厚となるだろう。

(教育現場では、学習指導要領という「告示」形式で定められており、法的拘束力はない。このため自治体条例で行政的に縛りをかけようとする動きが活発化しているようだ)

24日の赤旗に、中村梅之助「前進座80年」へのジェームス三木の批評が掲載されている。
見事な名文だ。絶対に赤旗でしか読めない宝物のような文章。これで新聞代1ヶ月分の価値はある。
どうしようか、いっそ全文コピーしようか。
最後の梅之助の歌が実に効果的に配されている。

苦闘終えて
父いま死せり
枕辺に
点滴三分の一
のこりてとまる

苦闘というのが、まず迫る。
私は余市でも歌志内でも前進座の話を聞かされた。
夜闇を忍んで街に入る。
要所には官憲が張り込んでいる。
それをすり抜けながら小屋に入ると、
「カン右衛門、ただ今参上」と口上が入る。
慌てた警官がおしよせる頃には、
役者はすでに次の興行先へ、
という具合に宣伝されていた。
本人たちにしてみれば、そんなにかっこいいものではなかったろうと思う。
実体としては、苦闘とは、
日々食うに事欠くような生活に耐えることを意味していた。
当然梅之助もそれを経験していたはずで、
「苦闘終えて」というのは
死をおくる梅之助にとっても実感だったはずだ。
そういう「同志的実感」の上に
点滴が残ってしまった、という“もったいなさ”が痛切である。
自ら選び取った道ではあるが、
点滴が三分の一も残ってしまったと惜しがる程に、
その生活は厳しいものであった

しかしほんとうに惜しいのは
点滴が三分の一も残ってしまったことにあるのではなく、
三分の一も残してとまってしまったことにある。
まだし残した仕事が三分の一も残っているのに
といううもったいなさである。

この歌には「苦闘終えて」という思いと、
「点滴三分のこりて」とまるという思いが重畳している。

いい歌である。
「心地良く我にはたらく仕事あれ、それをしとげて死なむと思う」という啄木の歌と、そこには響きあうものがある。
多分我々すべてに共通する歌となるだろう。




私は別に村上龍が好きではない。ましてや尊敬もしていない。たまたま趣味(キューバ)が合うときは「おぉ頑張っているなぁ」とは思うが、それ以上のものではない。
前園タイプの風貌は、どちらかといえば鬱陶しい。肉体派ジャーナリストが小説も書いてるんだと思っていた。
メルマガで一生懸命やっているうちに、投資ゼミナールの教祖になったんだと思っていた。縁なき衆生である。
それが知らないうちに、ひょっこりと小説の世界に戻ってきていたようだ。
赤旗にミニ書評が載った。
「55歳からのハローライフ」という本だ。幻冬舎から1500円。私は買わないだろうが、紹介はしておく。

リストラされ交通誘導員の職を得た男に、偶然中学の同級生と再会します。
病に蝕まれホームレス同然の同級生は男に助けを求めます。昔生き別れた母親に会いたいと。
男は異臭を放つ同級生をタクシー、高速バスを乗り継ぎ、母親の元へ怒りに駆られるように連れて行きます。
それは「無力感に押しつぶされてなにか大切なモノを放棄しないための、最後の手段としての“怒り”だと。


この紹介文も随分と感情がこもった文章ですが、とにかく村上龍が投資セミナーの塾長となって、一生を終わったわけではないことが読み取れます。

両切りタバコのように両方の端をざっくり切り落としてから始まるロード・ムーヴィ-。これが読者にどのくらい受け止められるが、なかなか難しい。それによっては両切りピースにもなるし新生にもなる。

まぁとりあえず良かった。向こうの人間になったわけでは無さそうだ。


習近平政権への「期待」はずっと肩透かしに終わってるが、プーチンとの会談でもこれといった新味は打ち出せなかった。
たださすがに勘所は抑えている。
第一は、北朝鮮を口実にしたMD戦力の強化にあらためてノーを突きつけたこと、ただし国際社会へのアピールは弱い。
第二は、6カ国協議体制の有効性を再確認し、政治的・外交手段を優先すると強調したこと。
第三には、「(領土など)核心的利益に関する問題で相互に強く支持する」とし覇権主義でタッグを組む意向を押し出したこと。
これについては、おそらく中国側の意向の現われであろうし、まったく共感する余地なし。
たぶん、両者の関心は北朝鮮などにはないのであろ。新疆・ウィグルから中央アジア圏にかけて対イスラム対策をどう進めるかが、両者の最大の関心事だろう。

それはそれでやってもらうほかないのだが、「中国は覇権主義を精算しない限り積極外交は進められない」ということが、改めて確認されたようである。

そして覇権主義の精算こそが習近平の最大の課題であることがあらためて痛感された。

首相の発言のなかで注目されるのは、⑤であり、ここではTPPがソロバン勘定ではなく、ひとつの理想として謳われている。
だが、TPPは人類社会の「理想」を内包しているのだろうか。
人、モノ、資本が自由に往き来するなかで生産が刺激され、経済が発展し人類が豊かになっていくのは大いに結構なことである。
それはただ自由化すれば実現されるのではなく、人類の共通の価値観を、これと並行しながら形成していくことで初めて実現するのである。
そういう意味では、たんなる自由化ではなく、それを通じて人類の理想を追求するという首相の構えは正しいと思う。
とすればTPP構想により具現化された来るべき世界の価値観とはどんなものだろうということを検討しなければならない。
我々は、それに近いものとしてブレトン・ウッズの構想を持っている。そしてそれが具体化されたものとしてのITO憲章(ハバナ宣言)を持っている。

それらについてはこれまでも触れてきたので、詳しくは繰り返さない。ただキーワードとして3つを挙げるならば、①ブロック化の拒否とルールある国際貿易の促進、②とりわけ発展途上局のキャッチ・アップによる経済的平等の実現、③人々の社会的権利の擁護、とりわけ働く権利の擁護、の三点に集約される。

今日それらはWTO、UNCTAD、ILOの各々の憲章に示されている。(実際にはWTOは独走し、その結果として破産しているが)

国際貿易と国際経済の正しいあり方について理想を追求するとするならば、途上国をふくめ多くの人々がさらに経済発展の成果を享受するような諸原則が必要である。

米国基準を世界基準として押し付けるTPPは、これらの原則を満たしているとはいえない。その基本発想は知財権の絶対化であり、基本的人権の相対化だからである。しかもこれは米国が国内で追究する政治思想とは切り離された二重基準でしかない。


ちょっと古い情報になるが、15日に安倍首相がTPP参加の意志を表明した記者会見は、これまでの「参加論」の集大成であり、非常に参考になる。

①TPPはモノ、サービス、投資の自由化を目指すものだ。
②環太平洋は世界経済の3分の1を占める大きな経済圏だ。TPPはその未来の繁栄を約束する枠組みだ
③TPP反対論は「内向き思考」であり、成長の可能性を放棄するものだ。
④TPPに参加しなければ、企業は日本に投資しなくなるだろう。
⑤TPPの意義は経済効果だけではない。日米同盟の価値観を拡大することになる。
⑥TPPは日本の安全保障に寄与し、日本の国益となる。
⑦TPPに参加しなければ、世界のルール作りから取り残される。
質問に答えて
⑧関税に聖域を残すことは確認された。5つの判断基準もしっかり守っていく。
⑨離脱の可能性については言わないほうがいい。キビシイが頑張る。

この内まともな議論は、①、②と⑤だけだ。③と④、⑦は脅しだ。⑥は本音ではあろうが、議論の本線とは関係ない。




龍山文化

ここまで調べてくると、どうもこの龍山文化というのがクセモノだということがわかる。

「河南龍山文化は黄河中流に存在した仰韶文化に続いて登場している」というふうに、仰韶文化との連続性が指摘されているがどうであろうか。

これまで読んだ印象としてはむしろ二里頭(夏)文明との連続性のほうが強調されるべきではないかと思う。


とりあえず、ウィキペディアから

場所は 華北の黄河中流から下流。この文化は中原龍山文化と山東龍山文化に分かれ、このうち中原龍山文化は、さらに河南龍山文化と陝西龍山文化に亜区分される。

時代は 元前3000年頃-紀元前2000年にわたる。これは紀元前3000年から紀元前2600年ごろの前期と、紀元前2600年ごろから紀元前2000年ごろの後期に分けられる。

龍山文化のいわれは山東省東部の龍山鎮に遺跡が出土したことによる。

龍山文化の特徴は、高温で焼いた灰陶・黒陶を中心にした陶器の技術の高さにある。これについては、長江付近の文化の影響を受けた可能性もあるとされる。

龍山文化の社会に現れた大きな変化は、柱や壁を建てた家屋からなる都市の出現である。また土を突き固めた城壁が出土している。

龍山文化の後期には青銅器も出現しており、夏の青銅器時代に入る過渡期であったと考えられる。

新石器時代の人口は、龍山文化で一つのピークに達したが龍山文化の末期には人口は激減した。


いにしえララバイのブログ

によると、

黄河中流の河南龍山文化は、仰韶文化(紀元前5,000年~紀元前3,000年)の延長線上にあった。

これに対して、黄河下流の山東龍山文化は、大汶口文化の延長線上にある。そして大汶口文化は、長江中流域文明の屈家嶺文化の影響を受けている。

このあとブログ主は

龍山文化の一番の特徴である「黒陶」は、長江文明の大汶口文化から山東龍山文化へ、そして、黄河を上流に上り、中原龍山文化に広がったと思われる。

逆に、龍山文化のもう一つの特徴である青銅器は、中原龍山文化から山東龍山文化に持たされたのではないでしょうか。

と書いている。

二つの道具がこの時期にクロスしていることになるが、どちらが重要かといえば、もちろん青銅器であろう。しかも青銅の製作法はメソポタミア由来と考えられているから、西域に近い国が強勢となるのはものの理であろう。

クロノ・ダイヴァーさんのページに載っている地図は、各種族の位置関係を知る上で参考になるので、転載させていただく。

http://livedoor.blogimg.jp/shosuzki/imgs/5/7/575b6523.jpg

少なくとも地理的関係からは、「仰韶文化はやがて、竜山文化とよばれる、より進んだ文化へと連なって行く」とは、そう簡単には言えないのではないかと思う。

北方系、南方系は生産様式の差を示しており、基本ではあるが、海岸部と内陸部という対立関係もあるのではないだろうか。軍事的に考えると、北方系と長江系が面で対決したとは考えにくい。

地図で見ると黄帝の支配する仰韶文化圏に侵入したのはおそらくはミャオ族であり、越は竜山文化圏に進出したのではないか。であるとすれば、ミャオ族が排除され越族が同化されたことは了解される。むしろ越と竜山文明が仰韶文化圏に迎え入れられた可能性もある。

黄帝の一族はミャオ族排除には成功したものの、その高い文化に触れ、「やっぱり、このままじゃいけないんじゃないの」とばかり、積極的に文化の導入を始めたのかもしれない。二里頭周辺で五穀の生産が確認された事情も、これで説明できる。

それにしても、紀元前2千年の時点ですでに水稲づくりが山東半島まで来ていたとすれば、これが遼東半島にわたり朝鮮半島全域に拡大するのに千年を要するというのが理解できない。日本での水稲栽培は、これまでのところ紀元前10世紀を遡ることはないとされているからである。

赤旗のCD評で、ペイエとカピュソン四重奏団の演奏するブラームスのクラリネット五重奏曲を褒めていた。
新譜のはずなのに、どういうわけかYouTubeで全曲が聞ける。YouTubeの演奏は11年のものとなっているから、おそらく実演のエアチェックなのだろう。それが良かったのでレコーディングまで漕ぎ着けたということかもしれない。
いかにも今風の演奏で、チェロやビオラががバリバリ押し出してくるのが特徴だ。ペイエもどちらかといえば明るい音色で、クラリネット協奏曲を吹いている感じである。
まぁよく知られている曲で、みんな知っていることを前提にすればこれでよいのかもしれないが、結果としてメロディーラインがさっぱり浮かび上がってこないから、曲としての面白みがどっかに行ってしまう。
聞いていてイライラしてくる。

多分音のバランスがものすごく難しい曲だと思う。
クラリネットというのは、音域からいえばビオラと同じで、みんなで同じ大きさの音を出せば、その中に埋もれてしまう。かといってクラリネットばかりに気を使っていると、主旋律が聞こえなくなってしまって、「音は出ているが音楽は聞こえてこない」というざまになる。

だから第2楽章のクラリネットの泣かせどころでは、みんな弱音器をつけて息を潜めつつクラリネットに付き従うのである。

第一バイオリンも辛い。弦楽4重奏にビオラがくっついた五重奏みたいななかで旋律線を浮かび上がらせつつ、豊かで美しい、要するに金属的でない音を出さなければならないのである。

これが出来ているのは、ただひとつ、ライスターとアマデウスの演奏だけである。

この演奏はおそらくライスターが仕切っているのだろうと思う。ライスターは徹底的に息の量の多いくすんだ音色で貫いている。協奏曲でもないし独奏でもない。この曲のための音色だ。

そしてこの音色と音量に合わせろと主張している。第一バイオリンはこの音色に合わせて、ひたすら柔らかい音で、だが出すべき音量はしっかりと出している。
ほかの三人はとにかくこれに合わせて音色も音量も抑制する。

尾崎紀世彦の歌だ。
二人でドアを閉めて、二人で明かり消して、
そのとき心は何かを、探すだろう

曲の最後に、クラリネットが消え入った後、4人が思いっきり音を合わせる。その音の大きさに、「よく頑張ったな」という感じが出ている。

ペイエとエルサレム四重奏団の演奏では、クァルテットの方はそういう雰囲気でやっているが、ペイエの方にその気がない。シュミードルとウィーン・ムジークフェライン四重奏団は、みんながそれなりの音を出して、それに第一バイオリンが対抗するから、バイオリンの音が堅く浮いてしまう。

端的に言って、指は動いても耳の悪い連中がこの曲をやってもダメなのである。


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