鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

2013年03月

カール・ポラニーの話から話がズレてしまった。「あんみつ姫」の毒気に当てられたたのか。

つまり、ポラニーもハイエクも赤いウィーンの時代に行われた「経済計算論争」を勉強しないと、理解できないということだ。

しかし、この論争を理解するためには、その時代背景を知って、論者が論争に臨む心情を知って置かなければならない。

その一つとして「赤いウィーン」という状況がある。ハイエクもポラニーも赤いウィーンの中に生き、その空気を吸いながら生きていたのだ。

1920年という時点で、ヨーロッパ、とくに中央ヨーロッパはどうなっていたのか。

1. 第一次大戦の直後であり、多くが戦争の犠牲となり、経済は疲弊し、人々は急進化していた。民族国家が乱立し、伝統的な支配システムが危機に瀕していた。

2. かくも多大な犠牲を出した「帝国主義の戦争」への懐疑が広がり、それを生み出した資本主義(独占資本主義)への否定的見解が広がっていた。

3.戦争経済という特殊な統制経済体制が終わった後、どのような経済システムに移行するかが問われていた。

左右のいかんを問わず、とにかく何かを選択しなければならない、という認識では一致している。だから何の実務経験もないシュンペーターが、わずか36歳で大蔵大臣になるというとんでもない状況が生まれるわけだ。

一方政策的なカウンターパートたるべき社会民主党も、明確な代替案を持っているわけではなかった。ただ市場任せの無政府的な経済システムは、過剰生産と恐慌を招き、ひいては大戦争の再発に結びつかざるをえないという認識は持っていたから、政府による計画的な経済運営を導入すべきだと考えていた。

こうして、市場原理主義か計画経済かという、やや形而上学的な論争が始まることになる。

ただ、これがまったく議論のための議論でしかなかったか、というと、そうばかりでもない。ドイツやハンガリーでの蜂起、革命は失敗したが、ロシアでは1917年に成立した革命が依然として継続しており、白衛軍を相手に勝利しつつある、という状況があったからだ。

この革命ロシア政府は、本家の社会民主党よりはるかに過激で、生産手段をすべて国有化し、計画経済でやっている。(もっともこれは戦時経済においては当然の話しで、戦争中は程度の差こそあれどこの国でもやっていた)

問題は、絶対的・相対的過剰生産を生み出さざるをえない生産の仕組みにあるのであり、市場の混乱はその結果であるに過ぎないのだが、本線とは関係のない所で起きたこの論争が、あたかも資本主義と社会主義の分水嶺であるかのように扱われてきたところに、一つの不幸がある。

なかなか本論に入りませんね。

 「赤いウィーン」とはなんとも魅力的なネーミングだ。

ウィキペディアによれば、「オーストリア社会民主党がウィーン市議会で初めて与党となり、民主的に統治を行った、1918年から1934年までの同市のニックネーム」だそうだ。きっと最初は右翼が当てこすりでつけた名前だろう。

そこはウィーン学派の活躍の舞台だった。今や世界に名を轟かせている巨星たちが、実物大で活動し議論し、理論を構築していった舞台だ。

哲学と経済学と心理学が奇妙に混じり合い、互いに刺激しあっていた。しかし容れ物としてはあまりに小さかったから、やがてそこから世界に飛び出していった。


1914年 第一次世界大戦が始まる。社会民主党が事実上の分裂。レンナー、V.アドラーら主流派は戦争政策を支持。「城内平和」路線と呼ばれる。少数派(F・アドラーら)は「カール・マルクス協会」を結成。無賠償・無併合の即時停戦を主張する。

1817年 ロシア革命。ここまでの経過は2016年11月27日 を参照のこと。

1918年

11.12 第一次世界大戦が終了。オーストリア=ハンガリー帝国が崩壊し、第一共和国が成立する。


 ロシア占領地域からの難民が大量に流入。中産階級は没落し貧困層に転落した。食糧不足、住宅不足が深刻化し、伝染病が蔓延する。


12月 社会民主党とキリスト教社会党による連合政権が登場。社会民主党のカール・レンナーが首相となる。社会民主党は左右両派が合同。社会化論を唱えるシュンペーターが財務大臣に就任。

12月 「労働評議会」と呼ばれる労働者による公的な合議機関が発足、8時間労働制や雇用保険制度が導入される。

1918年 オーストリアにもボリシェビキ型の共産党が結成される。その後弱小政党にとどまる。

1919年

2月 総選挙が施行される。社会民主党は全投票数の40.8%を獲得して69議席を占め、この年の党員数は332,000人に達する。

5.04 ウィーンの市議会議員選挙が行われ、社会民主党が絶対多数を獲得する。社会民主党党首のヤーコプ・ロイマンが市長に就任。
19年 社会民主党左派のバウアー、『社会主義への道―社会化の実践』を発表。ボリシェビキ型の政治革命ではなく、産業の社会化=社会革命が未来への道だとする。

バウアーは1900年前後にウィーン大学でマルクス主義グループに参加。若手理論グループの中核となる。第一次大戦に応召しロシア戦線で捕虜となり、シベリアで3年間の捕虜生活を送り、ロシア革命の実態を目撃した。
批判を加えられたレーニンはバウアーを「博識なばか者」と酷評した。しかし、大テロル後の1937年にもなおバウアーは語った。「われわれは、ソ連邦における社会主義を信ずる。現にあるソ連邦ではなく、未来のソ連邦を 信ずる」 

1920年

保守のキリスト教社会党の右傾化が進む。連合政権は崩壊し、社会民主党は野党に転落。ウィーンだけが残された牙城となる。

20年 バウアー、『ボリシェヴィズムか社会民主主義か』を発表。レーニンとボリシェヴィキを「専制的社会主義」として批判する。これに代わるものとして、全人民の経済的自治を基盤とする民主的な社会主義を訴える。
1921年

オーストリア社会民主党を中心にウィーン・インターナショナル(いわゆる「第二半インターナショナル」)が設立される。第二インターとコミンテルンの分裂を調停し、社会主義者の国際組織の再統一をめざす。レーニンはこれを激しく批判。2年後には第2インターに吸収され消滅。

1923年

保守派が「護国団」(Heimwehr)と呼ばれる準軍事組織を組織。社会民主党はこれに対抗して「祖国防衛同盟」(Schutzbund)を発足させた。

1924年

ウィーンに住む画学生ヒトラー、「我が闘争」を発表。多民族都市ウィーンに憎悪心をいだき、ドイツ民族至上主義と反ユダヤ主義を煽る。

1925年

ウィーン市庁、カール・マルクス・ホーフなど6万以上もの大規模な近代的アパート群の建設に乗り出す。公共住宅の建設費は、独自の州法で定められた住宅税や奢侈税により賄われ、賃貸料は勤労者世帯の収入の4%程度に抑えられる。


市議会有力者は、「我々が若者向けの施設に投資することで、刑務所に金を使わなくて済むだろう。妊婦や新生児のケアに投資することで、精神病院に金を使わなくて済むだろう」と発言している。


1926年

クーデンホーフ=カレルギーの提唱で、ウィーンで第1回パン・ヨーロッパ会議がひらかれる。共通通貨、均等関税、水路の共用、軍事と外交政策の統一を基礎とするヨーロッパの連帯をうたう。

26年 社会民主党、リンツ綱領を採択。「改良主義とボリシェヴィズムの間の第三の道」を定式化。


 破局的なカタストローフの結果としてではなく、目標を意識した労働者の収穫としての社会主義の実現を目指す。
「赤いウィーン」での実践をもとに、議会主義戦略を定式化。民主制に依拠して則法的に政権を獲得する。
ただしブルジョワジーが反革命を起こした場合、国内戦により国家権力を掌握することも確認される。



1926年 バウアー、『社会民主主義的農業政策』を発表。ボリシェヴィキの農業政策を酷評、「農民の収奪を考えるのは愚か者だけだ」と主張する。

1927年

初頭 右翼メンバーが、対抗デモのに参加した退役軍人と8歳の少年とを射殺。

7月 射殺犯3人に無罪判決。これに抗議するデモが各地に波及。

7月 「7月15日事件」が発生。ウィーンで労働者デモ隊が警察を襲撃。89人が死亡。その後の弾圧により社会民主党の勢力は後退を余儀なくされる。

1930年

世界大恐慌がウィーンにも波及。

1933年

1月 ドイツでナチスが政権を握る。間もなく共産党に対する大弾圧が始まる。
3月 ドルフース首相(キリスト教社会党)、議会の混乱を理由に議会の機能を停止。戒厳令の公布、共産党の禁止など独裁権力をふるうようになる。


 ルフースはファシストというよりオプス・デイ(キリスト教原理派)に近い。しかしナチスのオーストリア併合に抵抗しなかった、という点ではファシストと同列である。


9月 社会民主党、党が禁止されるなら武力蜂起すると決議。

1934年

2月 ドルフス政権と「護国団」による挑発が引き金となり、「2月12日内乱」が発生。社会民主党および「共和国防衛同盟」が、リンツ、ウィーン、グラーツなどで蜂起する。4日後に敗北。

2月 ドルフース政権と「祖国戦線」の独裁に移行。社会民主党は解散処分を受け、ウィーンの社会民主党市政も終焉した。バウアーら指導部の一部は国外に亡命して活動を続ける。


あまりインターネットに情報がなく、とりあえずはウィキペディアに若干を付け加えた程度の表になってしまった。

たかだか10年の経験であり、美濃部都政みたいなものだが、両大戦間の出来事であったということ、ナチスの成立と勝利に密接に関わっていたという点では、歴史的意義ははるかに大きい。

この経過を見ると、反動的支配層が革新自治体や労働運動を潰すのにナチスを手先として利用しようとする狙いが、かなり透けて見えてくる。

革新都政を倒すのに、創価学会・公明党が利用されたのとかなり類似した光景だ。ナチスのほうがはるかに凶暴ではあるが。

もう一つは、マルクスの名が生きている運動だということ。社会民主党左派がイニシアチブを握っていたという意味では、レーニン・スターリン的な“共産主義”ではなく、ある意味“正統マルクス主義”の実験だったということにある。

率直にいえば、その経験はロシア革命的な道筋よりははるかに貴重だと思う。

社会主義計算論争も、当初はソ連型社会主義を念頭に置いていたわけではなく、オーストリア型社会主義の方向性を問う論争であったと思われる。(この頃のハイエクは、紋切り型でなく相当丁寧に議論を展開している)

ただ、大恐慌後はソ連経済をターゲットにした、よりイデオロギッシュな論争に変わっていく。それとともに、対立も形而上学的な、無内容なものになっていく。 

 


ハンガリーの知識人について調べた。圧倒的に音楽家が多いので、非音楽家と二つに類別した。

1890年から1900年辺りに集中していることがよく分かる。彼らが青春期を送った1910年から20年あたりが、おそらくはハンガリーの激変期であり、20年のハンガリー革命を機に祖国から叩きだされたという事情が読める。

もう一つはハンガリーで親ナチ勢力が過激化するあたりに、ユダヤ系ハンガリー人が追い出されている。さらにハンガリー動乱の時期にも幾らかの人が祖国を後にしているようだ。

非音楽家系

ロバート・キャパ

1913年、ブダペスト生まれのユダヤ系。1931年に共産党活動容疑で逮捕され、その後ベルリンへ渡る。1933年にはベルリンを脱出しブダペストに戻る。1939年にアメリカ合衆国に移り、翌年に永住権を得る。

アーサー・ケストラー

ブダペスト1905年生まれ。ユダヤ系ハンガリー人の父とオーストリア人の母を持つ。ケストラーの生涯は、それ自身がロマンであり要約はできない。

ジョン・ケメニー(BASICを開発した数学者)

1926年生まれ。1940年にナチを逃れアメリカに移住。祖父は祖国を捨てることを拒み、ホロコーストで叔父や叔母と共に亡くなった。

ジョージ・ソロス

1930年、ブダペスト生まれ、ユダヤ系(旧姓はシュヴァルツ)。ブダペストでの熾烈な市街戦とソ連軍による虐殺を生き延びた。1947年、単身イギリスに渡る。1956年9月、ニューヨークのウォール街に赴きクォンタム・ファンドを創設する。

ジョン・フォン・ノイマン(科学者)

1903年ブダペストにてうまれる。家族はハンガリーに移住したユダヤ系ドイツ人父親は貴族の称号をお金で購入した。1930年代はナチス政権を嫌いアメリカ合衆国に移住する。タカ派科学者として原爆製造に関わる。

テオドール・ヘルツル

1860年、ブダペストの生まれ。ドレフュス事件(1894年)を機にシオニズム運動を起こす。

カール・マンハイム

1893年ブダペストに生まれたユダヤ人社会学者マルクス主義のイデオロギーを前面に出さず、マルクス・レーニン主義的な社会改造の革命を推進する新しいドグマを構築。
1929年にフランクフルト大学社会学科正教授に就任。1933年にアドルフ・ヒトラーが政権をとったためイギリスに亡命。

ゲオルク・ルカーチ

1885年生まれ。父親は大銀行家、母はユダヤ人大富豪の娘。1918年 ハンガリー共産党に入党、ハンガリー革命政権崩壊後、ウィーンに亡命。戦後はハンガリーに帰国し、ナジ・イムレ政権で人民教育相。政権崩壊後、一時ルーマニアに抑留される。その後、著作に専念。

ラカトシュ・イムレ(数理哲学)

1922年11月ユダヤ人の家庭に生まれる。イムレの母も祖母もアウシュヴィッツで亡くなった。彼は第二次世界大戦中に共産主義者になった。ソ連がハンガリーを侵略したのち、ラカトシュはウィーンに逃げ、イギリスに定住した。

研究の中身は、ほぼ理解不能。

音楽家系

アンダ・ゲーザ - ピアニスト

1921年ブダペスト生まれ。1943年にスイスに亡命。フルトヴェングラーは「ピアノの吟遊詩人」と讃えた。

ヴァーシャーリ・タマーシュ

1933年生まれ。1956年にハンガリーを出国してスイスに落ち着く。

ジェルジ・シャーンドル

1912年うまれ。バルトークとともにアメリカに渡り、帰化。

ハンス・スワロフスキー

1899年9 ブダペストうまれ。ユダヤ系の指揮者。なぜか戦時中も現役。

ジョルジュ・シフラ

この人はロマの出自。1956年ハンガリー動乱の時に西側に亡命した。

エルンスト・フォン・ドホナーニ

1877年生まれ。彼については、その家族もふくめ、一口で語れないほどの経歴があり、ウィキペディアを参照されたい。

フェレンツ・フリッチャイ

1914年、ブダペストに生まれる。経歴中、政治的葛藤をうかがわせるものはない

モーシェ・アツモン

1931年7月30日うまれ。44年に13歳でテルアヴィヴに移住。イスラエルの指揮者

ユージン・オーマンディ

1899年ブタペスト生まれ(ユダヤ系)。21年、アメリカ演奏旅行。そのままアメリカにとどまる。

リリー・クラウス

1903年、ブダペスト出身のユダヤ系ピアニスト。第二次大戦中にジャワで日本軍により軟禁される。戦後はイギリスに帰化。

イストバン・ケルテス

1929年、ブダペストで生まれる。1956年ハンガリー動乱の時に西側にジョルジュ・シフラと共に亡命した。

ヨーゼフ・シゲティ

1892年、ブダペストでユダヤ系の家庭に生まれた。1940年にはアメリカ合衆国に移住。

シュタルケル・ヤーノシュ

1924年ブダペストに生まれる。1946年には祖国を去り、ヨーロッパ各地で演奏。1949年にはフリッツ・ライナーの招きを受けて、メトロポリタン歌劇場管弦楽団の首席チェリストに就任。

ゲオルク・ショルティ

1912年生まれ、ユダヤ系。生まれた時の姓名はシュテルン・ジェルジュ。父親はハンガリーで民族主義が高まるのを感じて、ハンガリー風のショルティに改姓した。ナチス下では演奏の機会を奪われ、スイスに亡命した。以後、父をはじめ家族とは再会していない。

ジョージ・セル

1897年ブダペストに生まれた改宗ユダヤ人。ドイツを中心に活動したが、ナチの台頭に脅威を感じてイギリスに移動。その後39年にアメリカに定住。

アンタル・ドラティ

1906年ブダペストに生まれる。これといった葛藤なく経過。

アニー・フィッシャー

1914年ブダペスト出身。第二次世界大戦中はスウェーデンに避難していたが、第二次大戦後の1947年に再びブダペストを拠点に演奏活動を展開。

フリッツ・ライナー

1888年ハンガリー出身(ユダヤ系)。1922年ドレスデン国立歌劇場の指揮者を務めたあと渡米。一旗組。

カール・フレッシュ

1873年生まれのユダヤ系バイオリニスト。1934年に第三帝国を去ってロンドンに行き、その後アムステルダムとルツェルンに移った。

ベーラ・バルトーク

1881年ハンガリー(現ルーマニア)領トランシルヴァニアで生まれる。1940年にアメリカへ移住。ナチとそりがあわなかったという。ナチスドイツや共産主義ソ連の名前が残っている内は祖国に埋葬しないよう遺言。

情報はすべてウィキペディアのみ。

ポラニーの年表に1900年ころのブタペストの写真を貼り付けたが、
それは、ハンガリーについての認識を新たにさせるものだった。
オーストリアの圧制のもとに苦しんでいる国と思っていたが、
むしろオーストリアとタイを張るくらいの勢いで栄えていたことがわかる。
オーストリア・ハンガリー両帝国の名はダテではなかった。
第一次大戦のきっかけが、セルビア人によるオーストリア皇太子襲撃事件だというのを世界史の授業で習った。
セルビア人はオーストリアの収奪の対象だったのだろう。
それとハンガリーを混同していたのかもしれない。
そこがハンガリーの頂点だった。
第一次大戦で敗れてからはいいことなしだ。
ロシア軍に国土を蹂躙され、その国土の半分を周辺国に割譲させられた。
国王の追放、労働者コミューン成立のあと、右派との間で内戦状態に陥った。
そして最後にルーマニア軍に首都を制圧されるという屈辱を味わった。
ハンガリーの隆盛を担った多くの知識人が亡命を余儀なくされた。

今日我々は多くのハンガリー出身者の名を知っている。その大部分がこの時代の人達だ。
これまで、ハンガリーは出稼ぎ者の多い貧しい国だと思っていたが、
見方を変える必要があるようだ。


シュンペーターは一言でいえば俗物である。マルクスの「産業資本家」論を剽窃し、「平均利潤率の逓減の法則」から片言隻句を引いて、それを“奴隷の言葉”に置き換えただけの人だと思う。

彼についても、まず年譜から始めよう。

1883年2月8日 オーストリア・ハンガリー帝国・モラヴィア(現チェコ)のトリーシュに生まれる。本名はヨーゼフ・アロイス・シュンペーター。

1901年 ウィーン大学法学部進学

1906年 ウィーン大学から博士号(法学)を取得

1908年 教職につくための処女論文『理論経済学の本質と主要内容』を発表。この時25歳。

ドイツ語圏の読者を対象に、ワルラスの一般均衡理論の意義をほとんど数学を用いることなく解説したうえで、その過ちを指摘したもの。
競争を徹底的に行なわせると、もうこれ以上変化しない一般均衡状態が成立する。それは変化のない静態である。利潤はゼロになり、投資は行なわれず、したがって貯蓄もゼロ、利子率ゼロの静態が生ずる。収入は費用(賃金と地代)に等しくなる。
これでは資本主義の運動を解明することはできないので、経済システムの内部に均衡を打ち破る動因があるはずだと主張する。

1909年 オーストリア辺境の町ツェルノヴィッツ大学の准教授に就任。『経済発展の理論』の執筆を開始

1911年 ベーム=バヴェルクの推挙によりグラーツ大学教授に就任。「生意気だ」との批判を受ける。

1912年 『経済発展の理論』発表。

ノベーション: 均衡状態はイノベーション(新結合)によって不断にシフトしており、イノベーションが加わらないと市場経済は均衡状態に陥ってゆく。均衡では企業者利潤は消滅し利子もまたゼロになるという。したがって企業者(アントレプレナー)は、つねに創造的な破壊をし続けなければ生き残れない。(第二章 経済発展の根本現象)
信用創造: 起業者が
銀行から信用貸出を受け、それに伴い銀行システムで通貨が創造される。銀行家は単に購買力という商品の生産者である。
景気循環: イノベーションを実行すると経済は撹乱されるが、その不均衡の拡大こそが
好況の過程である。これに対し、後続企業が追従して経済全体が信用収縮(銀行への返済)により徐々に均衡化していく過程が不況である。不況は「通常の過程」であり、放置する。恐慌は信用供与により解決すべきである。

1913年 コロンビア大学から客員教授として招聘され名誉博士号を受ける

1919年 オーストリア共和国の大蔵大臣に就任、同年辞職

1921年 ビーダーマン銀行の頭取に就任

1924年 同銀行が経営危機に陥ったため、頭取を解任され、巨額の借金を負う

1925年 ボン大学の教授に就任

1926年 『経済発展の理論』改訂版を発表。

1927年~ ハーバード大学の客員教授を引き受ける

1931年 初めて来日し各地で講演

1932年 ハーバード大学の教授に就任(52歳)

1936年 ケインズが『雇用、利子および貨幣の一般理論』を発表。シュンペーターは批判的立場をとる。サミュエルソン、ガルブレイズ、トービン、ソローらハーバードの弟子たちの多くがケインズ派に走る。スウィージーはマルクス主義に向かう。

1937年 『経済発展の理論』日本語版が出版される。

マルクスが資本主義発展は資本主義社会の基礎を破壊するということを主張するにとどまるかぎり、なおその結論は真理たるを失わない。
私ははじめ気づかなかったが、自分の考えや目的は
マルクスの経済学を基礎にしてあるものだ。

1939年 『景気循環の理論』発表。内容は『経済発展の理論』とほぼ同じだが、「新結合」が「イノヴェイション」と改められる。

1940年 計量経済学会会長に就任

1942年 『資本主義・社会主義・民主主義』発表。「創造的破壊」が流行語となり、ベストセラーとなる。

①資本主義は、成功ゆえに巨大企業を生み出し、それが官僚的になって活力を失い、社会主義へ移行していく。
②停滞した社会においては、独創的なエリートは、官僚的企業よりは社会福祉や公共経済の分野に革新の機会を求める。

1947年 アメリカ経済学会会長に選出

1949年 国際経済学会会長に選出

1950年1月8日 アメリカ・コネチカット州にて動脈硬化症で急死

1954年 遺稿を元に『経済分析の歴史』出版

 

国際面にかなり大きなスペースでルクセンブルグ外相の談話が報じられている。

これはドイツ野党の社会民主党の幹部が議会で、「ルクセンブルグ、マルタ、アイルランドのような国では、金融制度の改革が必要だ」と語ったことに対する反応。

談話の内容としては、「ドイツがユーロ圏での覇権を目ざしている」との過激な批判。

ドイツにEUの他国のビジネスモデルに決定する権利はない。
ドイツなどの大国が金融センターでなければならないという態度をとることは、間違った反欧州的な覇権を目指すものだ。


ということで、一見もっともらしいのだが、ルクセンブルグが投機資本の拠点になってきたことは紛れもない事実。

ドイツやフランスは、これまでもルクセンブルグのビジネスモデルについて、公言はしないものの疑問符をつけてきた。

それが、アイルランドが危機に陥り支援、今度は同じく金融立国のキプロスが危機に陥るという中で、“泥棒に隠れ家を提供してテラ銭で暮らす”ようなやり方に対して一気に不満が強まったということであろう。


2013.3.28 

カール・ポラニー年表

ポラニーという人が有名らしい。基本的には経済学者だが、いろいろな側面があって社会哲学者というレッテルが一番合っているらしい。

世界中にかなりの信者がいるようで、ポラニー学会という国際学会もあるようだ。

いまさらこの歳で原著に当たる気もせず、とりあえずネットで当たれる解説を読んでおくことにする。

ルソーと同じで、この手の人物は年表形式で整理していくのが一番良い。

ウィキペディアであたったら、ポラーニ・カーロイ年譜というものがあったので、そこから出発することにする。(なおこの年譜は一日一冊さんという方の作成されたものである。記して感謝する)

1ポイント小さな字は、私が付け加えたものである。

 http://livedoor.blogimg.jp/shosuzki/imgs/4/5/45c34336.jpg

1900年ころのブダペスト市街

1886年 ウィーンでポラチェク家の6人中3番目の子供として生まれる。父ポラチェク・ミハーイはユダヤ系ハンガリー人で鉄道建設技師であった。母親はリトアニア出身の宝石細工の見習い職人であった。

1891年 ポラニー一家がブダベストに移住。

1867年にハンガリー王国の自治権が拡大され、オーストリア=ハンガリー帝国が成立した。ハンガリーでは資本主義が勃興し、民族主義が高揚した。首都ブダペストは地下鉄が整備されるなどヨーロッパ有数の近代都市としての装いを調え、繁栄した。(ウィキペディアより)

1899年 父の経営する鉄道建設会社が倒産。以後、奨学金で学業を続ける。

1900年 兄のアドルフが組織した「社会主義者学生機構」に加わる。母の知人のロシア革命家サミュエル・クラチュコに大きな影響を受ける。

1904年 ユダヤ人のマジャール化に従い、名前をハンガリー風のポラニー(Polányi)に改める。

1904年 ブダペスト大学の国家学-法学部に入学。

大学では法哲学者ピクレル・ジュラの薫陶を受けた。ジュラはウィーンのエルンスト・マッハと親交があり、マッハをハンガリーに紹介した。進歩的教授として極右学生団体の攻撃の的となっていた。

1905年 父の死去。これを機にうつ状態となる。

1907年 後学期をウィーン大学法学部で過ごす。

1908年 心理学と哲学のセミナーを開き、エルンスト・マッハの『感覚の分析』を分析・精読する。

セミナーといっても学生の自主的な勉強会であろう。取り上げた話題としてはアヴェナリウス、オストヴァルト、ポアンカレ、W・ジェイムズ、マルクス、ゾンバルト、フロイトなどの名が並んでいる。

1908年 進歩派のビクレル教授を右翼組織から守るため、マッハの学習会メンバーにより学生を組織、闘争に立ち上がる。

1908年 闘争の中で中核組織となるガリレイ・サークルを結成。みずから議長に収まる。

1908年 ポラニー、ブダペスト大学を放校処分となる。トランシルバニアのコロスヴァール大学に転籍し学位を取得。

1909年 ポラニー、社会科学協会の機関紙に「我々のイデオロギーの危機」を発表。

1910年 ガリレイ・サークルの議長を辞任。その後、労働者教育委員会の指導にあたる。約2千人のメンバーが、数万人の労働者を相手に講義やセミナーを開催。機関紙「自由思想」ではアインシュタイン、マッハ、フロイト、マルクスなどの理論を普及させる。

1910年 ルカーチの評論集「魂と形式」が発表される。ルカーチは青年知識人の先頭に立つ。

1911年 さまざまな青年知識人サークルで講演を行なうようになる。

1912年 ヘーゲル、マルクス、ピクレルの歴史哲学についてのセミナーを主催する。

1913年 雑誌「自由思想」を発刊、編集に携わる。

1913年 フリーメイソンへ入会。フリーメイソンは労働者教育を財政的に支援した。

1914年 ハンガリー市民急進党の結成に参加する。結成大会で書記の一人となる。この党はフェビアン主義を基調とし、普選の実現、土地の再分配、自由貿易、教育改革などを掲げていた。

1914年 第一次世界大戦が始まる。

1915年 ルカーチ、「日曜サークル」を組織。カール・マンハイムらが参加。

1915年 ハンガリー軍に志願し、騎兵将校として前線におもむく。

1917年 前線で負傷し帰還後に除隊となる。

1917年 イロナ・ドゥチンスカ、反戦活動を行い逮捕される。

1918年 ブダペスト人民委員会の法務委員会の委員に選出される。

1918年 「我々の世代の使命」を発表。戦争の原因と責任を問う。

1918年 第一次世界大戦に敗北。ハンガリー民主共和国が二重帝国から独立。

1919年 大学で講演。プロレタリアート独裁の時代錯誤を批判する。

1919年3月 ハンガリー共産党が革命を起こし、ハンガリー・ソビエト共和国が成立。8月には崩壊する。

1919年5月 ポラーニ、オーストリアへ密入国。戦傷の外科手術を受ける。このあとウィーンでの療養所生活が始まる。療養中に社会科学の研究に没頭。

1919年 イロナ、ハンガリー共産党からウィーンに派遣され、保養所の看護師として病人や負傷者の看護に当たる。一方で、ウィーン工科大学で機械学の講義を受けていた。

1920年 ハンガリー王国の成立。国王候補が定まらなかったため、ホルティが摂政として支配する。

1920年 フォン・ミーゼスの「社会主義共同体における経済計算」が発表される。社会主義経済では「市場」がないため、需要と供給の均衡が定まることがない。したがって、資源配分が恣意的になり破綻する、というもの。これを機に「社会主義経済計算論争」が始まる。

1921年 ウィーン・ハンガリー新聞の編集に携わる。

1922年 ポラニー、「社会主義経済計算」を発表。フォン・ミーゼスの「社会主義共同体における経済計算」(1920)に反論。ワルラスの提唱した一般均衡理論に基づき、非市場的な経済は可能と主張。

1922年 イロナ・ドゥチンスカ、ハンガリー共産党を除名される。

1923年 ポラニーとイロナ・ドゥチンスカが結婚。

1924年 週刊誌「オーストリア国民経済」に、国際関係と外交問題の専門家として迎えられる。

1933年 ヒットラーがドイツ首相に就任。ハンガリーはナチと結びつく。

1933年 「オーストリア国民経済」の職を失い、イギリスへ移住する。王立国際情勢研究所で非常勤の研究者となる。娘のカリを呼び寄せる。

1934年 ウィーンに残ったイロナ、労働者蜂起に参加。その後、現地で非合法のラジオ放送を組織。

1934年 英国各地で精力的に講演する一方、「オーストリア国民経済」の海外編集長として時事評論を寄稿。ファシズムに警鐘を鳴らす。

1935年 ジョン・ルイス(イギリス共産党指導者)およびドナルド・K・キッチンとともに研究論集『キリスト教と社会革命』が出版される。

1936年 ウィーンで反ナチの地下活動に携わっていたイロナが、病に倒れ戦線を離脱。イギリスにわたりポラニー、娘と同居。

1936年 アメリカ講演旅行を行なう。

1937年 ロンドン大学とオックスフォード大学の支援で労働者教育協会が発足。ポラニーも労働者教育運動に参加する。

1939年 第二次世界大戦が始まる。

1940年 イギリスの市民権を得る。カーロイ・ポラーニをカール・ポラーニと改める。

1940年 ロックフェラー財団の奨学金を得て、2年間にわたり渡米。ベニントン・カレッジ(ヴァーモント州)で「客員講師」として働く。

1941年 ロックフェラー財団奨学金を得て、『大転換』の執筆に着手。

1943年 2年の任期を終え、妻とともにイギリスに戻る。

1944年 カーロイ・ミハーイの率いる英国ハンガリー評議会に独立メンバーとして参加する。

1944年 単独講和に乗り出したハンガリーのホルティ政権が、親ナチ派のクーデターで倒される。

1944年 ニューヨークで『大転換』の初版が出版される。

市場社会: 市場経済は、市場価格によってのみ統制される自己調節機能に基づいて社会を作り替えようとする。それはユートピア的な擬制である。
社会統合: 市場経済は、本来は商品ではない労働(人間)、土地(自然)、貨幣を商品化し、人間の生活を破壊する。
市場経済の歴史: 市場を規制する政策や運動は市場経済の自己調整システムに対する社会の自己防衛である。
市場経済の崩壊: ファシズム、社会主義、ニュー・ディールは、すべて市場経済から社会を防衛するための活動である。そして市場社会の崩壊後には複合社会が到来する。
複合社会の具体的な経済体制については詳細に述べられていない(ウィキペディアより)

1945年 ブダペストが、ソ連軍の手により陥落。

1946年 ブダペスト大学での連続講義を試みるが、入国許可がおりず水泡に帰した。

1947年 トルーマン、一般教書演説でトルーマンドクトリンを宣言。冷戦時代が開始する。

1947年 コロンビア大学の教職を得る。アメリカ政府は、妻イロナの共産主義者としての過去を理由にビザの発給を拒否。カナダのピッカーリングに居を構えた。

1948年 コロンビア大学の社会科学調査委員会、「経済的諸制度の起源」についての研究計画を受け入れる。

1957年 アレンスバーグ、ピアソンとの共同編集による研究論集『古代帝国における交易と市場』が出版される。

1957年 「人間の経済(Liblihood)」執筆中に癌となる。原稿は未完成のまま残され、死後ピアソンの編集により出版される。

1960年 ハンガリーを訪れる。

1963年 妻との共同編集による詩文集『鋤とペン』が出版される。

1964年 永眠。


若森みどりさんの解説書「カール・ポランニー: 市場社会・民主主義・人間の自由」がグーグル・ブックスで読める。しかしもう少し読みやすい画面にんらないものでしょうかね。これでもハンガリー革命中の行動はよく分からない。

要領よくまとめてくれているのが「(読書ノート)ポラニー『大転換』をどう読み取るか」というPDFファイルである。筆者の高田太久吉さんのページには勉強になるファイルが満載である。

 

国会では、共産党と安倍内閣との掛け合い漫才が続いている。
参院では大門議員が質問している。

大門議員「実体経済が良くならなければ、バブルに終わる。賃金が上がらないまま物価だけが上昇する最悪の事態にもなりかねない」
麻生財務相「まったくその通り」

ついで大門議員は企業減税だけでは、賃上げは実現できないと指摘。さいちんの引き上げを求めた。

大門議員「雇用者数を増やした企業への減税が打ち出されたが、実績は15%にとどまっている。政府が関与しやすいのは減税より、最賃の引き上げだ。内閣主導で省庁の枠を超えて賃上げ策を研究してほしい」

麻生財務相「まとめて政府として一体としてやれという指摘は正しい」

ということで、共産党と政府の間でここまでの認識は一致している。

ついで大門議員は、配当・譲渡益非課税などの話題に移っていくが、とりあえず省略する。

わたしは、この課題は富裕層課税の文脈としてより、政府の課税・徴税能力の衰弱という観点からの追及のほうが、より実態に即したものになるのではないかと感じている。


小池副委員長が我々の「三つの矢」を提示している。

今放つべき第一の矢は、非正規もふくめた働く人の賃上げ
第二の矢は、社会保障の充実
第三の矢は、消費税を止めさせることです。

これは大いに宣伝すべきだ。

多分、財源問題と、財政規律問題が反論として出てくるだろう。まだまだ「国際競争力神話」にとらわれている人も多い。

ただ、世論が「負担増も仕方ない」という諦め気分から抜け出してきていることは間違いない。この変化は大きい。たしかにそれはアベノミクスの効果であると言って良いだろう。

「なんとか景気を良くしなくては」という声に応えるようなスローガンに、こちらの側も切り替えていかなくてはならない。

そのためには、「まず景気回復、その後に財政再建」という道筋を定着させなければならない。そのために自民党との「パーシャル共闘」もありうる。

それは消費税増税派を追い詰める道にもつながる。

もう一つはただ景気を良くするだけではダメで、それが実需に結びつかなければならないことを明確にしなければならない。

日本の不景気の原因は、国民所得の大幅減少にある。したがって、国民所得の回復なしには「カラ景気」に終わる。残るのは莫大な国債残高のみという最悪の結果となる。

財政再建論者に「それみたことか」といわれるばかりか、原油高とあいまって一気に双子の赤字国に転落する危険も内包している。

我々は今重大な賭けをしているということを認識しなければならない。この賭けが成功するか否かは、一にかかって国民所得の回復と実需の拡大にある。

鍵は最低賃金の引き上げだろう。最賃が上がれば、生保バッシングや年金問題のかなりの部分は解決する。そのためには中小・零細企業への支援が不可欠だ。


何か論文が読めるかと思って中山さんのHPに行ってみた。かなりぶっ飛んでいる人で、赤旗に載った写真からは到底想像できないキャラだ。
掲載論文はゼロ、そのかわりブログがめっぽう面白い。
ほとんど強迫的な行動マニア、芳紀49歳の「あんみつ姫」だと思えば当たらずといえども遠からず。
西川潤の流れか、ポラニーとシュンペーターが一応メシのタネ。以前、だいぶお付き合いさせてもらった橋本努さん(北大教授)とは専攻領域が近接しているが、背中合わせの近しい関係みたいだ。

ウィーン学派は基本的に反マルクスであり、ベーム・パヴェルクを中核とする。
その過程でヒルファーディングみたいにマルクス主義に行ってしまう人や、シュンペーターみたいな修正主義者も出てくる。
エルンスト・マッハみたいな哲学畑のウィーン学派ともつながる。もちろんフロイドにつながる連中もいる。
共通しているのは、やたらと抽象的で、負け犬の遠吠えみたいな趣を漂わせているところだろう。

なんとも悲しくなるのは、この時期彼らが集中して攻撃していたのはスターリン主義なのだ。
当時、平和と民主主義のために懸命に闘っていた人々を、私は心から尊敬するが、彼らが擁護していたスターリニズムは、反対派のいう如く誤りの塊だったのだ。
なんともクソみたいな話だ。

赤旗に「経済ジェノサイド」(平凡社新書)を書いた中山智香子さんのインタビューが載っている。
ピノチェト時代のシカゴボーイズの政策が、いかにチリの人々の生活を破壊していったかをあとづけた本らしい。
中山さんは49歳、この世代としては貴重な進歩的経済学者のようだ。ウィーンに留学しハイエクの一派を批判的に研究したそうだ。
短い囲み記事だから、言っていることは多くない。

一つは、新自由主義が60年代後半の世界に広がった理由だ。
「日本の公害問題のように、市民の運動が国や企業を追い詰めた」ため、危機感を抱いた国や企業が「政治は終わった。経済だ」とすり替え、儲け中心の新自由主義を広めた、というもの。
その時代を当事者として生きた私達世代には、どうももうひとつしっくりこない。

もう一つは、新自由主義者がその政策の明らかな失敗にもかかわらずいけしゃあしゃあとしている理由だ。

彼らは現実に起こっていることを無視します。現実と理論が関係ないのは当然、現実と理論が合わないのは現実が間違っていると言います。
異様な倒錯です。


ここの部分はさすがに迫力がある。研究者でなければここまでは言えない。
竹中平蔵の顔が思い起こされる。

ただ新自由主義は多様な顔を持っているので、十把一絡げには行かないところがある。

ハイエクとフリードマン、サッチャリズムとレーガノミックス、IMF・世銀・米商務省の政策はそれなりに分けて論じなければならない。

とりわけチリの「成功」についてはまだまだ議論が不足している。



卒業式で教師の口パクを監視して、処分した校長が大阪市の教育長になったそうだ。世も末である。

口パクそのものがなにか“隠れキリシタン”風で哀れを催すが、それを探し出して摘発するのは、なにか人間性の中核が欠落していると考えざるをえない。

ガリレオは宗教裁判にかけられたとき、小声で「それでも地球は回っている」とつぶやいたそうだが、それを「ガリレオがこうつぶやいていました」とご注進するような輩である。

「どう育ってもいいが、こういう恥ずかしい人間にだけはなるな!」という人物を教育長にすえるのは、人をおちょくっているとしか思えない。


例えば、何かの式典でイギリス国歌が流れたとする。

私なら当然起立し、国歌に対し敬意は払う。

その歌詞が「神よ我らが女王を守り給え」であってもだ。


「君が代」には3つほど問題がある。

ひとつは、いまは「民が世」であることだ。終戦をもって「君が代」は終わった。憲法にそう規定されている。この歌詞は憲法の精神から見て間違っている。

ひとつは、戦前・戦中に皇国思想の象徴として用いられたことだ。そして「君が代」を守るために過去にあまりにも多くの血が流されていることだ。この曲に反感を感じる日本人は決して少なくはない。そしてその反感には正当な理由がある。

そしてもうひとつは、この曲が国歌として法的に位置づけられては来なかったことだ。99年に国旗及び国歌に関する法律で制定されるまでは、国歌ではなく、「国民歌」でしかなかった。


しかし、国歌となった以上は然るべき敬意を払うべき「義務」は生じる。それはあくまでも外形的なものである。

はじめに、右翼もふくめ全員で確認しておくべき、議論の前提がある。それは日本は自由な国家であるということだ。

良心の自由が最大限に保障され、表現の自由が尊重される国であるがゆえに、我々は日本という国に誇りを持っているのだ。

1.良心の自由との関連

「君が代」に反対する人が、内面的にそれを軽蔑したり、嫌悪感を持つことは、「良心の自由」として最大限に保障されなければならない。

組合など左翼系が反対の主力になっているために、「君が代反対=アカ」という図式が広がっているが、じつは君が代に対する拒否意識はむしろ信仰者に強い。

それを左翼が代弁していると見るべきであろう。

2.表現の自由との関連

ついで「表現の自由」との絡みが問題になる。

一般的には「良心の自由」は「表現の自由」無くしては表明できないわけだから、「君が代」に対する意見表明は、決して抑圧されてはならない。

ネット右翼が、「君が代に反対する人は非国民であり、日本人ではない」とか、「そういう連中には教員となる資格はない」というが、これは暴論である。

いまだに福島では15万もの人が家に帰れないでいるのに、「多少の放射能は体にいい」とか「直ちに健康に影響をあたえるものではない」などとノタもう人物(ネット右翼のお気に入り)がいるが、それも「言論の自由」なのである。

慎み深く、反対の意を表する限りにおいては、「君が代」に対してどのような行動を示そうとまったく自由である。口パクなどはまったく問題にならないし、問題にするほうが問題である。

おそらく問題になるのは式次第を妨害したり、国歌を冒涜するような振る舞いをとることであろう。歌わない、起立しないというのも、多少は目障りではあろうが、表現の自由の範囲内にとどまっているものと判断される。

3.職務との関連

最後に、「職務」との関連であるが、公務員である以上、国歌に対する礼儀は法令の順守に属する職務として義務付けられるであろう。

ただ外形的には、イギリス国歌に対する礼儀と同じレベルまでであろう。起立し、沈黙する。

これ以上は公務員といえども、「良心の自由」を越えて行動を強制される必要はない。憲法は公務員法にも「国歌に関する法律」にも優先する。

もし良心の自由を侵害する形で職務命令が発せられれば、今度は職務命令の方に違憲の疑いが濃厚となるだろう。

(教育現場では、学習指導要領という「告示」形式で定められており、法的拘束力はない。このため自治体条例で行政的に縛りをかけようとする動きが活発化しているようだ)

24日の赤旗に、中村梅之助「前進座80年」へのジェームス三木の批評が掲載されている。
見事な名文だ。絶対に赤旗でしか読めない宝物のような文章。これで新聞代1ヶ月分の価値はある。
どうしようか、いっそ全文コピーしようか。
最後の梅之助の歌が実に効果的に配されている。

苦闘終えて
父いま死せり
枕辺に
点滴三分の一
のこりてとまる

苦闘というのが、まず迫る。
私は余市でも歌志内でも前進座の話を聞かされた。
夜闇を忍んで街に入る。
要所には官憲が張り込んでいる。
それをすり抜けながら小屋に入ると、
「カン右衛門、ただ今参上」と口上が入る。
慌てた警官がおしよせる頃には、
役者はすでに次の興行先へ、
という具合に宣伝されていた。
本人たちにしてみれば、そんなにかっこいいものではなかったろうと思う。
実体としては、苦闘とは、
日々食うに事欠くような生活に耐えることを意味していた。
当然梅之助もそれを経験していたはずで、
「苦闘終えて」というのは
死をおくる梅之助にとっても実感だったはずだ。
そういう「同志的実感」の上に
点滴が残ってしまった、という“もったいなさ”が痛切である。
自ら選び取った道ではあるが、
点滴が三分の一も残ってしまったと惜しがる程に、
その生活は厳しいものであった

しかしほんとうに惜しいのは
点滴が三分の一も残ってしまったことにあるのではなく、
三分の一も残してとまってしまったことにある。
まだし残した仕事が三分の一も残っているのに
といううもったいなさである。

この歌には「苦闘終えて」という思いと、
「点滴三分のこりて」とまるという思いが重畳している。

いい歌である。
「心地良く我にはたらく仕事あれ、それをしとげて死なむと思う」という啄木の歌と、そこには響きあうものがある。
多分我々すべてに共通する歌となるだろう。




私は別に村上龍が好きではない。ましてや尊敬もしていない。たまたま趣味(キューバ)が合うときは「おぉ頑張っているなぁ」とは思うが、それ以上のものではない。
前園タイプの風貌は、どちらかといえば鬱陶しい。肉体派ジャーナリストが小説も書いてるんだと思っていた。
メルマガで一生懸命やっているうちに、投資ゼミナールの教祖になったんだと思っていた。縁なき衆生である。
それが知らないうちに、ひょっこりと小説の世界に戻ってきていたようだ。
赤旗にミニ書評が載った。
「55歳からのハローライフ」という本だ。幻冬舎から1500円。私は買わないだろうが、紹介はしておく。

リストラされ交通誘導員の職を得た男に、偶然中学の同級生と再会します。
病に蝕まれホームレス同然の同級生は男に助けを求めます。昔生き別れた母親に会いたいと。
男は異臭を放つ同級生をタクシー、高速バスを乗り継ぎ、母親の元へ怒りに駆られるように連れて行きます。
それは「無力感に押しつぶされてなにか大切なモノを放棄しないための、最後の手段としての“怒り”だと。


この紹介文も随分と感情がこもった文章ですが、とにかく村上龍が投資セミナーの塾長となって、一生を終わったわけではないことが読み取れます。

両切りタバコのように両方の端をざっくり切り落としてから始まるロード・ムーヴィ-。これが読者にどのくらい受け止められるが、なかなか難しい。それによっては両切りピースにもなるし新生にもなる。

まぁとりあえず良かった。向こうの人間になったわけでは無さそうだ。


習近平政権への「期待」はずっと肩透かしに終わってるが、プーチンとの会談でもこれといった新味は打ち出せなかった。
たださすがに勘所は抑えている。
第一は、北朝鮮を口実にしたMD戦力の強化にあらためてノーを突きつけたこと、ただし国際社会へのアピールは弱い。
第二は、6カ国協議体制の有効性を再確認し、政治的・外交手段を優先すると強調したこと。
第三には、「(領土など)核心的利益に関する問題で相互に強く支持する」とし覇権主義でタッグを組む意向を押し出したこと。
これについては、おそらく中国側の意向の現われであろうし、まったく共感する余地なし。
たぶん、両者の関心は北朝鮮などにはないのであろ。新疆・ウィグルから中央アジア圏にかけて対イスラム対策をどう進めるかが、両者の最大の関心事だろう。

それはそれでやってもらうほかないのだが、「中国は覇権主義を精算しない限り積極外交は進められない」ということが、改めて確認されたようである。

そして覇権主義の精算こそが習近平の最大の課題であることがあらためて痛感された。

首相の発言のなかで注目されるのは、⑤であり、ここではTPPがソロバン勘定ではなく、ひとつの理想として謳われている。
だが、TPPは人類社会の「理想」を内包しているのだろうか。
人、モノ、資本が自由に往き来するなかで生産が刺激され、経済が発展し人類が豊かになっていくのは大いに結構なことである。
それはただ自由化すれば実現されるのではなく、人類の共通の価値観を、これと並行しながら形成していくことで初めて実現するのである。
そういう意味では、たんなる自由化ではなく、それを通じて人類の理想を追求するという首相の構えは正しいと思う。
とすればTPP構想により具現化された来るべき世界の価値観とはどんなものだろうということを検討しなければならない。
我々は、それに近いものとしてブレトン・ウッズの構想を持っている。そしてそれが具体化されたものとしてのITO憲章(ハバナ宣言)を持っている。

それらについてはこれまでも触れてきたので、詳しくは繰り返さない。ただキーワードとして3つを挙げるならば、①ブロック化の拒否とルールある国際貿易の促進、②とりわけ発展途上局のキャッチ・アップによる経済的平等の実現、③人々の社会的権利の擁護、とりわけ働く権利の擁護、の三点に集約される。

今日それらはWTO、UNCTAD、ILOの各々の憲章に示されている。(実際にはWTOは独走し、その結果として破産しているが)

国際貿易と国際経済の正しいあり方について理想を追求するとするならば、途上国をふくめ多くの人々がさらに経済発展の成果を享受するような諸原則が必要である。

米国基準を世界基準として押し付けるTPPは、これらの原則を満たしているとはいえない。その基本発想は知財権の絶対化であり、基本的人権の相対化だからである。しかもこれは米国が国内で追究する政治思想とは切り離された二重基準でしかない。


ちょっと古い情報になるが、15日に安倍首相がTPP参加の意志を表明した記者会見は、これまでの「参加論」の集大成であり、非常に参考になる。

①TPPはモノ、サービス、投資の自由化を目指すものだ。
②環太平洋は世界経済の3分の1を占める大きな経済圏だ。TPPはその未来の繁栄を約束する枠組みだ
③TPP反対論は「内向き思考」であり、成長の可能性を放棄するものだ。
④TPPに参加しなければ、企業は日本に投資しなくなるだろう。
⑤TPPの意義は経済効果だけではない。日米同盟の価値観を拡大することになる。
⑥TPPは日本の安全保障に寄与し、日本の国益となる。
⑦TPPに参加しなければ、世界のルール作りから取り残される。
質問に答えて
⑧関税に聖域を残すことは確認された。5つの判断基準もしっかり守っていく。
⑨離脱の可能性については言わないほうがいい。キビシイが頑張る。

この内まともな議論は、①、②と⑤だけだ。③と④、⑦は脅しだ。⑥は本音ではあろうが、議論の本線とは関係ない。




龍山文化

ここまで調べてくると、どうもこの龍山文化というのがクセモノだということがわかる。

「河南龍山文化は黄河中流に存在した仰韶文化に続いて登場している」というふうに、仰韶文化との連続性が指摘されているがどうであろうか。

これまで読んだ印象としてはむしろ二里頭(夏)文明との連続性のほうが強調されるべきではないかと思う。


とりあえず、ウィキペディアから

場所は 華北の黄河中流から下流。この文化は中原龍山文化と山東龍山文化に分かれ、このうち中原龍山文化は、さらに河南龍山文化と陝西龍山文化に亜区分される。

時代は 元前3000年頃-紀元前2000年にわたる。これは紀元前3000年から紀元前2600年ごろの前期と、紀元前2600年ごろから紀元前2000年ごろの後期に分けられる。

龍山文化のいわれは山東省東部の龍山鎮に遺跡が出土したことによる。

龍山文化の特徴は、高温で焼いた灰陶・黒陶を中心にした陶器の技術の高さにある。これについては、長江付近の文化の影響を受けた可能性もあるとされる。

龍山文化の社会に現れた大きな変化は、柱や壁を建てた家屋からなる都市の出現である。また土を突き固めた城壁が出土している。

龍山文化の後期には青銅器も出現しており、夏の青銅器時代に入る過渡期であったと考えられる。

新石器時代の人口は、龍山文化で一つのピークに達したが龍山文化の末期には人口は激減した。


いにしえララバイのブログ

によると、

黄河中流の河南龍山文化は、仰韶文化(紀元前5,000年~紀元前3,000年)の延長線上にあった。

これに対して、黄河下流の山東龍山文化は、大汶口文化の延長線上にある。そして大汶口文化は、長江中流域文明の屈家嶺文化の影響を受けている。

このあとブログ主は

龍山文化の一番の特徴である「黒陶」は、長江文明の大汶口文化から山東龍山文化へ、そして、黄河を上流に上り、中原龍山文化に広がったと思われる。

逆に、龍山文化のもう一つの特徴である青銅器は、中原龍山文化から山東龍山文化に持たされたのではないでしょうか。

と書いている。

二つの道具がこの時期にクロスしていることになるが、どちらが重要かといえば、もちろん青銅器であろう。しかも青銅の製作法はメソポタミア由来と考えられているから、西域に近い国が強勢となるのはものの理であろう。

クロノ・ダイヴァーさんのページに載っている地図は、各種族の位置関係を知る上で参考になるので、転載させていただく。

http://livedoor.blogimg.jp/shosuzki/imgs/5/7/575b6523.jpg

少なくとも地理的関係からは、「仰韶文化はやがて、竜山文化とよばれる、より進んだ文化へと連なって行く」とは、そう簡単には言えないのではないかと思う。

北方系、南方系は生産様式の差を示しており、基本ではあるが、海岸部と内陸部という対立関係もあるのではないだろうか。軍事的に考えると、北方系と長江系が面で対決したとは考えにくい。

地図で見ると黄帝の支配する仰韶文化圏に侵入したのはおそらくはミャオ族であり、越は竜山文化圏に進出したのではないか。であるとすれば、ミャオ族が排除され越族が同化されたことは了解される。むしろ越と竜山文明が仰韶文化圏に迎え入れられた可能性もある。

黄帝の一族はミャオ族排除には成功したものの、その高い文化に触れ、「やっぱり、このままじゃいけないんじゃないの」とばかり、積極的に文化の導入を始めたのかもしれない。二里頭周辺で五穀の生産が確認された事情も、これで説明できる。

それにしても、紀元前2千年の時点ですでに水稲づくりが山東半島まで来ていたとすれば、これが遼東半島にわたり朝鮮半島全域に拡大するのに千年を要するというのが理解できない。日本での水稲栽培は、これまでのところ紀元前10世紀を遡ることはないとされているからである。

赤旗のCD評で、ペイエとカピュソン四重奏団の演奏するブラームスのクラリネット五重奏曲を褒めていた。
新譜のはずなのに、どういうわけかYouTubeで全曲が聞ける。YouTubeの演奏は11年のものとなっているから、おそらく実演のエアチェックなのだろう。それが良かったのでレコーディングまで漕ぎ着けたということかもしれない。
いかにも今風の演奏で、チェロやビオラががバリバリ押し出してくるのが特徴だ。ペイエもどちらかといえば明るい音色で、クラリネット協奏曲を吹いている感じである。
まぁよく知られている曲で、みんな知っていることを前提にすればこれでよいのかもしれないが、結果としてメロディーラインがさっぱり浮かび上がってこないから、曲としての面白みがどっかに行ってしまう。
聞いていてイライラしてくる。

多分音のバランスがものすごく難しい曲だと思う。
クラリネットというのは、音域からいえばビオラと同じで、みんなで同じ大きさの音を出せば、その中に埋もれてしまう。かといってクラリネットばかりに気を使っていると、主旋律が聞こえなくなってしまって、「音は出ているが音楽は聞こえてこない」というざまになる。

だから第2楽章のクラリネットの泣かせどころでは、みんな弱音器をつけて息を潜めつつクラリネットに付き従うのである。

第一バイオリンも辛い。弦楽4重奏にビオラがくっついた五重奏みたいななかで旋律線を浮かび上がらせつつ、豊かで美しい、要するに金属的でない音を出さなければならないのである。

これが出来ているのは、ただひとつ、ライスターとアマデウスの演奏だけである。

この演奏はおそらくライスターが仕切っているのだろうと思う。ライスターは徹底的に息の量の多いくすんだ音色で貫いている。協奏曲でもないし独奏でもない。この曲のための音色だ。

そしてこの音色と音量に合わせろと主張している。第一バイオリンはこの音色に合わせて、ひたすら柔らかい音で、だが出すべき音量はしっかりと出している。
ほかの三人はとにかくこれに合わせて音色も音量も抑制する。

尾崎紀世彦の歌だ。
二人でドアを閉めて、二人で明かり消して、
そのとき心は何かを、探すだろう

曲の最後に、クラリネットが消え入った後、4人が思いっきり音を合わせる。その音の大きさに、「よく頑張ったな」という感じが出ている。

ペイエとエルサレム四重奏団の演奏では、クァルテットの方はそういう雰囲気でやっているが、ペイエの方にその気がない。シュミードルとウィーン・ムジークフェライン四重奏団は、みんながそれなりの音を出して、それに第一バイオリンが対抗するから、バイオリンの音が堅く浮いてしまう。

端的に言って、指は動いても耳の悪い連中がこの曲をやってもダメなのである。


以下は

中国古代文明の系譜

というページからの引用

黄河流域で発達したのは、紀元前5000年から紀元前2500年頃の仰韶文化である。キビ、アワなどを栽培した。仰韶文化はやがて、竜山文化とよばれる、より進んだ文化へと連なって行く。

一方長江流域で栄えたのは紀元前3000年から紀元前2000年頃の良渚文化である。こちらは稲作を行っている。

ということで、中国古代文明はデュアル・カルチャーとしてみなければならないという指摘だ。
それはそれで正しいと思うが、問題はそれがぶつかって一方が勝利したのか、それともその前に長江文明は衰退していたのか、ということだ。
もう一つはその上に夏王朝が成立したとすれば、それはどちらの系列のものなのかということだ。


これがその質問に対する、ひとつの答えだろう。
クロノ・ダイヴァー さんが、徐朝龍著「長江文明の発見」を紹介されている。
ブログ主の言う通り、 これは古神話と考古学を綜合した壮大な仮説であり、たいへん説得力があります。

あらすじ

1)BC2200頃の大洪水で、越族の良渚文化(長江下流)は崩壊し、苗族の石河家文化(長江中流)、夷族の龍山文化(山東)も衰退した。

2)上の大混乱により、越・苗・夷らは難民となって黄河中流へ殺到した。文化は低いが武勇にすぐれた黄河勢力(黄帝)は、彼らを撃ち破って服従させた。

3)だがやがて黄河勢力のうちから、すぐれた治水技術をもつ越系の禹が台頭した。彼は南北諸族を統合して【夏】を開いた。

ということで、

①長江文明といっても長江下流域の越と中流域のミャオ族は異なる。

②黄河流域に進出した長江文明種族を、黄河在来系種族が制圧した。制圧したのは夏ではなく、黄帝である。

③その際、越は同化し、ミャオ族は“浄化”・排除された。

④最後には越人が両者を統合する位置についた。それが夏である

ということになる。ただこれはあくまでも仮説である。


 NHKのホームページを見たら、番組の概要が載っていた。

http://www.nhk.or.jp/special/detail/2012/1014/

中国文明の謎 第1集  中華の源流 幻の王朝を追う

というのがそれだ。

第一集は最古の王朝「夏」。「中華」という言葉は、かつて「中夏」とも書かれた。「中華」の源流である「夏」王朝は、中国のいわば邪馬台国とも言える。

「史記」などの文献に登場するものの考古学の裏付けがないことから、多くの研究者は「幻」と考えてきたが、近年の発掘で、ついに実在が確認された。

とのこと

金を払うと番組を見られるらしいが、そういう趣味はない。


次に (三代) - Wikipedia

「従来、伝説とされてきたが、近年、考古学資料の発掘により実在可能性が見直されてきている」と、こちらは慎重だ。

文献史料のいう「夏」は二里頭文化に比定される。しかし二里頭文化が文献史料が示す「夏王朝」と同じである訳ではない。

そうですよね。

それでもって、まず二里頭遺跡というのがなんぼのものかです。

二里頭遺跡は新石器時代の遺跡で、掘り出された住居の跡から人口2万人以上と推定される。当時としては世界有数の大規模集落。

うーむ、たしかに王朝にふさわしい規模だ。

「宮殿区」の南門近くには「一号宮殿」がある。回廊に囲まれ、内部に広い空間「中庭」、正面に「正殿(せいでん)」を配する構造となっている。

うーむ、ますます王朝にふさわしい。

二里頭遺跡周辺では、(あわ)、キビ小麦大豆水稲、の5種類の穀物を栽培していた。気候によらず安定した食料供給が可能である。これが、それまでに衰退した他の中国の新石器時代に起こった各文化との違いである。

ということで、かなりの確率で夏王朝の遺構と考えてよさそうだ。

ではどのようにして夏王朝が成立したのか。

ウィキペディアでは『墨子』五巻という文書で「黄帝の三苗征服伝説」を紹介している。三苗というのはミャオ族のことを指すらしい。

夏が進出するまで、故地はミャオ族の住む世界だったらしい。

夜に太陽が現れ、血の雨が三日間降った。…雷が連続し、鳥をともなった者がミャオ族の指導者を射た。後、夏王国は建国した。

鳥を伴ったというくだりは、神武東征説話を思い起こさせます。

路史』によると

蚩尤(ミャオ族)は濃霧を起こして華夏軍を苦しめたが、(夏の)黄帝は指南車を使って方位を示し、蚩尤民族を破った。

夏は、どうも人種的には、殷ともつながる北方騎馬民族系のようです。

それで征服されたミャオ族はどうなったかというと、

ミャオ族は四散した。一部は代に華夏民族と同化し、一部の部族は春秋の強国であるの建国に関わった。

ということのようです。

つまり、紀元前3千年を遡る長江文明を武力によって押しつぶすことにより黄河文明が成立したことになる。かつて長江流域から黄河流域まで分布していた、ミャオ族は南へ流散していったことになる。

その一部が朝鮮半島、さらに日本まで至ったとしてもまったく不思議はない。

赤旗の書評欄に
「中夏文明の誕生--持続する中国の源を探る」という本の書評が載っている。
著者はNHK「中国文明の謎」取材班、評者は早稲田大学の岡内教授という方である。
中夏というのは別に誤植ではない。おそらく著者が中華と夏をかけて創りだした言葉であろう。
評としては「宮廷儀礼、漢字、中華思想をキーワードに中華世界の展開をあとづけた肩のこらない歴史読み物」となる。
まぁそれなら、別に買って読む気にもならないのだが、夏の記述がちょっと気になった。
夏王朝は紀元前2070年に誕生し、全1600年に滅びたとされているのである。
理屈としては河南省の二里頭で発見された遺跡が、放射性炭素による年代測定で前2070年というのが根拠になっているようだ。
殷(商)の遺跡が前1200年前後とされているから、それよりずいぶん古い、ということで、これは夏の遺跡だということになったようだ。
もう少し丁寧に言うと、二里頭の遺跡の第三期という層に、宮殿を思わせる遺構が発見されたということのようだ。
そして前1600年の層より上には文明の痕跡は窺えないということのようだ。


ということで夏の始まりと終り、そして殷の始まりまでもが、この事実に規定されていくことになる。こういう決め方(断定)をしていくと、「夏商周断代工程」プロジェクトというのも索漠としたものになる。

例えば吉野ヶ里遺跡が発見されると、これぞ邪馬台国と決めてしまうようなものではないだろうか。
歴史家というのは論争するのが商売みたいな存在で、こんなことで合意ができてしまうのも不思議なのだが。中国ならではの事情だろうか。

邪馬台国をめぐって、未だに論争喧しい我が国を振り返ると、その違いが痛感させられる。



をあらかじめお読みください。

酒井記者の書いた“判決のポイント”を読む。

みんな「ここがポイント」と言いながら、少しづつポイントを外しているから分かりにくいのだ、ということが分かってきた。

判決のポイントというのなら、「黙示の労働契約」に関して

①まず松下プラズマディスプレイ判決のポイントを明確にすること

②これを否定した最高裁判決のポイントを明確にすること

③最高裁の判決に対する、今回のマツダ判決のポイントを明確にすること

この記事も他の記事と同様に、前置きが長過ぎる。肝腎の部分に行き着く前に息切れがする。


文句を言っていても始まらないので、とにかく要点に入る。

酒井記者は「特段の事情」という言い回しが今判決のポイントだと指摘する。

①松下判決以前は、派遣労働の違法性は指摘されていたが、派遣先との雇用関係は認められなかった。

②松下の高裁判決は、派遣労働が違法であればその契約は無効であり、実態としての労働関係が成立していれば、派遣先とのあいだに雇用関係があるとみなすべきとした。これが「黙示の労働契約」だ。

③最高裁は、大阪高裁判決を破棄したが、その理由は派遣会社との雇用契約を無効にする「特段の事情」が必要で、この「特段の事情」が認められない限り、派遣先との雇用関係を承認することはできないという論理であった。

この理屈がよく分からないが、按ずるに、「派遣会社が責任持って面倒見ますと言っているのに、それを飛び越えて派遣先の責任を問うのは、やっぱおかしいんじゃないの?」ということなのではないか。

それはそれで話しとしては分かる。でも「派遣会社が面倒見るわけないじゃん」というのも率直な感想ではある。だからそういう判断した最高裁にも弱みはあるのだろう。

そうすると、現場の実態に合わせて「特段の事情」というのを規定してく作業が、下級審には課せられることになるだろう。

つまり「特段の事情」を勘案するべきクライテリアが整備されれば、最高裁の判決は諸刃の刃となって使用者側に突きつけられることになる。

そこで今回のマツダ判決は

④派遣会社との雇用契約を無効にする「特段の事情」があると認定した。したがって「黙示の労働契約」論に基づき、派遣先との雇用関係は承認される、と判断した。

ここに今回の判決の「画期的意義」があるという論建てである。


私が思うには、派遣労働に関わる一連の流れのなかで、画期的意義は「黙示の労働契約」を打ち出した大阪高裁の松下判決にあるのであって、今回は、それを「特段の事情」で跳ね返した最高裁に対して、新たな二の矢が放たれたところにある。

ただしそれは法理上の話であって、労使の力関係の反映としてみるのなら、また別の位置づけがなされるのかもしれない。

ただし「特段の事情」の内容は、この記事を読んでもよくわからない。判決文を並べてはあるが、その意味については説明されていない。


いづれにしても、赤旗記者は弁護団もふくめて、いちど集団討議して意思統一したほうが良い。

もしそれが「画期的」であるならなおさらのことだ。こんなに一生懸命読む読者はいないはずだから、「たたかう各地の原告を励ます」ためにも、真剣に受け止めてほしい。

知ったかぶりしてすみません。

田代記者がマツダ裁判を解説してくれている。

これもまた分かりにくいのだが、最後まで読んでようやく分かってきた。

問題は「黙示の労働契約」という法理にあるようだ。

3月19日に書いた

派遣労働が違法と判断されれば、正社員とみなされる

というのがそれで、

派遣契約が無効であるとすれば、実態としては正社員の代替としての暗黙の労働契約が成立していたものと考えるのが妥当である。

というやつである。

田代記者はこう書いている。

書面などでの明確な労働契約がなくても、日々の指揮命令や賃金の支払い方などで使用従属関係にある場合、労働契約の暗黙の了解を認めようということです。

そう言われても、まだあっさりとは飲み込めない。なんとなく消化不良である。


わたしは、これは二面に分けて考えたほうがいいと思う。

雇用関係においては、使用者ないし雇い主と労働者は、形式的には対等な関係で契約を結ぶ。

しかし一旦雇用関係が結ばれると、今度は生産の指揮者と生産労働の担当者という関係になる。

労働者と使用者ないし雇い主の関係は、このような二重の関係を形成している。そしてどちらが本質的かといえば、現場での生産・労働関係が本質的であるということだ。

だから労働契約は労働内容に即して、あまりかけ離れたものになってはいけないし、もしあまりかけ離れているなら、契約は破棄され、実態に即して裁定しなければならないということだろう。


実はこの「黙示の労働契約」という考えは今回の判決が初めてではなく、08年4月にすでに一度提示されている。

松下プラズマディスプレイ(当時)の「偽装請負」裁判で、大阪高裁が下した判決の中に、示されている(らしい)

結局これは最高裁まで行って覆された。

09年12月の最高裁判決では、偽装請負は認定されたが、派遣先企業の雇用責任は免罪された。

その後は、この最高裁判決に追随する判決が相次いでいたという。

要するに、企業はその違法性は指摘されるが、実害はないということになるから、ヤリ放題である。「赤信号みんなで渡れば怖くない」の世界だ。

その法理が、地裁レベルとはいえ復活したというところに、山口地裁の判決の意義があるようだ。

すみません。もし間違っていたら、訂正してください。

「イラク帰還自衛隊員の自殺」に関する資料を集めてみた。

まず最初は、07年11月、照屋寛徳議員による質問である。

 

質問は要旨以下のとおり

イラク、インド洋、クウェートなどに派遣された自衛官の自殺等による死者が多数に上っているらしい。以下、質問する。

①イラクに派遣された自衛隊員のうち、在職中に死亡した隊員の数、そのうち死因が自殺であった者の数。

②インド洋、イラク、クウェートなどに派遣された経験者で、帰還し、退職した後に、精神疾患になった者や、自殺した隊員の数。

これに対する答弁書

07年10月末現在の数(イラクにおける人道復興支援活動及び安全確保支援活動の実施に関する特別措置法に基づき派遣された自衛官を対象とする)

 

陸自

海自

空自

派遣隊員数

5600人

330人

2870人

在職中死亡者

14人

20人

1人

うち自殺者

7人

8人

1人

うち病死者

1人

6人

0人

うち事故・不明者

6人

6人

0人

 

防衛省として、お尋ねの「退職した後に、精神疾患になった者や、自殺した隊員の数」については、把握していない。


自衛隊員の自殺率は高い。別の答弁書では以下のようになっている。

自衛官(事務官を除く)の自殺者数は、平成16年度94人、平成17年度93人、平成18年度93人であり、平成18年度の自衛官の自殺による死亡率は十万人当たり38.6人である。

なお日本全体の自殺率は23.8%、男が33.5%を占めるが、自衛隊員と同年代でははるかに低い。


この問題がマスコミに取り上げられたのは、12年9月27日の「東京新聞」らしい。

イラク戦争に関連して、中東へ部隊派遣された自衛官のうち、先月までに25人が帰国後に自殺していたことが防衛省への取材で分かった。陸上自衛隊は19人、航空自衛隊は6人に上る。

自衛隊全体の2011年度の自殺者は78人で、自殺率を示す10万人あたり換算で34.2人。イラク特措法で派遣され、帰国後に自殺した隊員を10万人あたりに置き換えると陸自は345.5人で自衛隊全体の10倍、空自は166.7人で5倍になる。(編集委員・半田滋)


一方、自殺の原因としていじめを指摘する報道もある。

08年2月7日号週刊文春で

自衛隊員100人の自殺 横須賀海士長が遺した『内部告発』

という特集が組まれている。

不条理日記さんから転載させていただく

その中の1ケース

クウェートに選抜派遣されていた航空自衛隊の隊員が、幼い子供を残して自宅で首吊り自殺した。この隊員は帰国前に知人に、「やっと帰れる。でも帰りたいが、帰りたくない」というメールを送っていた。

日本で待ち受けていたのは先輩から暴行や陰湿な嫌がらせだったのである。上層部はいじめに気付きながら見て見ぬ振りをしていたという。

この手の話はよくわからないが、帰還隊員が自殺したからといって戦地でのストレスが原因とは限らないということだ。ただ帰還隊員が周囲から、「イラク帰りだからといって、粋がるんじゃねぇよ」などと、特別視されていた可能性はある。


自衛隊員の自殺率が高い原因として、いじめを指摘する声は高いが、ただしこれはイラク派遣者が非派遣者に比べ自殺率の高いことの説明にはならない。

下記は、先ほどの東京新聞からの引用である。たしかに一応の説明にはなっているが…

イラク派遣された陸自は宿営地で十三回、計二十二発のロケット弾攻撃を受け、うち四発が宿営地に落下した。車両で移動中、仕掛け爆弾による攻撃も受けた。

空自は武装した米兵をバグダッドへ空輸する際、たびたび携帯ミサイルに狙われたことを示す警報が鳴り、着弾を避けるため、急旋回などの飛行を余儀なくされた。

過酷な環境下で任務遂行したことになるが、前出の担当者は「心的外傷後ストレス障害(PTSD)で自殺した例は確認できていない」としている。 

ただ、自殺するほどのストレスかといわれると…

とりあえずは、複合的なものと考えるしかないだろうな。

 

経済学者の友寄さんは、円安を短期要因と中・長期要因に分けている。

短期の方はいわば仕掛けたバブルだから分かりやすいが、中・長期的要因もそこには関与していると見る。

そこには外的要因と内的要因がある。

外的要因としては、ヨーロッパの経済危機が峠を超えつつあるという予感(実際にはまだこれからだろうが)、アメリカ経済の回復の兆候、アメリカにおけるシェールガスの生産本格化があげられる。

内的要因としては、貿易赤字の定着と経常黒字の減少があり、日本の強さへの疑念が強まっていることである。

これらの要因のなかでもっとも基本となるトレンドは、言うまでもなく日本経済の弱体化への不安であり、むしろこれまでが変だったのだ。為替相場は相対的なものであり、こちらが下がっても向こうがそれ以上に下がれば、上がるという関係にある。

したがって円は基本的には下げ方向にあり、これからの円相場は、日本よりもヨーロッパ、アメリカの景気動向によるであろう。一気に20円も上げたんだから、しばらくは95円前後の小動きが続くのではないか。

アメリカの景気を悪くしていた最大の問題は、共和党による極端な金持ち優遇、貧困者切り捨ての政治にあった。オバマの再選はブッシュ以来の保守回帰に一定の歯止めをかけた。最大の原因はオバマが大衆と手を結び富裕層と対決する戦略をとっていることにある。

ブッシュの置き土産である金持ち減税の廃止と富裕者への課税強化は、不十分ながら実現した。ボルカー・ルールも発動した。オキュパイ運動の余韻は世論の雰囲気を少しづつ変えつつある。

ただそのことによる経済的成果は目に見える形では現れていない。それが現れ始めた時、世界は大きく変わっていくのではないか。

1995年 経済危機の底打ち

私は、この年の2月に三度目のキューバを訪れています。このときは息子と二人、まったく肩書きなしの個人的な旅行でした。

そのちょっと前、カルロス・ラヘが世界経済フォーラムで演説しています.ラヘは閣僚会議幹事長、首相に当たるポストです。また彼は国家評議会の経済担当副議長でもあり、経済政策のトップに位置しています。そこで94年度の成長率が5年ぶりにプラスに転じたと発表しました。そして経済収縮が底を打ったと宣言したのです。ラヘは、「もはや経済開放政策は後戻りできない」とし,各国の投資を呼びかけました.

もちろん、「観光事業や原油生産が上向くなど積極的な兆候が見られるが,まだ経済は回復期に入ったとはいえない」とするなど、基調は全体としては厳しいものでした。とくに砂糖生産が3年続きの不作となり、経済の基幹となる部門が立ち直れないままでは、到底楽観的な見方は出来ません。

経済が底を打って回復への兆しが見えたとすれば、まず必要なのが資金です。しかしこの時点でキューバの累積債務は91億ドルに達していますから、公的な援助はほとんど望めません.どうしても民間資本の導入が必要です。そのためには外国投資に関する法体系を整備しなければなりません。

9月の国会では、外国投資法改正案が可決されました。すでに昨年末には、ニッケルなどの工業分野では外国企業の全額出資による事業経営が認められていましたが、今回は教育・医療・軍事以外のすべての産業に参入することを認められました.合弁企業の所得税は30%に抑えられました.

いっぽうで、外国企業の活動に慎重な見方もあり、企業に必要な人材は,キューバ労働者派遣公団を通じて確保されることとなりました。従業員への給料は,いったん政府にドルで支払われ,政府が改めてペソで従業員に支払うこととなります.中途半端といえば中途半端ですが、富の不公平に対する警戒感が非常に強いことがうかがわれます。

ヘルムズ・バートン法

ラヘの底打ち宣言は、たんなるキューバの強がりとばかりはいえません。カストロ体制の崩壊は時間の問題と見ていた米政府内にも、まだまだキューバはしぶといぞという見方が広がります。

たとえばペンタゴンのシンクタンクのひとつは,「軍部のカストロに対する忠誠はあつく,キューバの経済改革が進めばカストロは長期にわたり政権を握り続ける可能性がある」と報告しています.

私も93年の末頃、訪問したときと比べてずいぶん人々に活気が出てきたと感じたものでした。カマグエイでネオンサインの点灯しているのを見たときは、「おお、ここまで来たか」と感慨にふけったことを憶えています。

ただ人々の気持ちは、2年前に比べてやや疲れた印象を持ちました。「みんなボートに乗って出て行ってしまった」と、ため息混じりに語ります。ホテルの前にたむろする少女たちの数もむしろ増えたようです。

米国は、キューバの崩壊を待ち望んでいたのにあてが外れて、頭に来ました。そこで出てきたのがヘルムズ・バートン法です。この法律は作成者の人品を疑う非常識な、まさにサディズムの極致ともいうべき法律です。

この法律は、ひとくちで言えば、「キューバ相手にビジネスを行う外国人を対象とする制裁」案です。米国が制裁しただけではほかの国との貿易を止められないので、ほかの国の企業にも制裁を強制しようということです。

ヘルムズは上院外交委員長、バートンは下院外交委員長で、あのトリセリも共同提案者に名を連ねています。

正式名称を「95年キューバの自由・民主主義連帯法」(S-381号法案)というこの法案は、3月に下院外交委員会を通過。その後、クリントン政権の抵抗を押し切って、9月には下院本会議で採択されます。


文章はここで止まっています。10年前にここまで書いて、ここで挫折しました。

いま書くと、もう5年くらい書き足せると思いますが、やっぱりそこで挫折するでしょう。無理して書いていくと座標軸が揺らいでくるのです。

ここまでは「歴史」の文章として書き進むことができましたが、これから書き継ごうとすると、数字や図表だらけになってしまいます。

おそらくキューバ人ですら、これを歴史的確信として書くことは困難ではないでしょうか。

とはいえ、同時者としての私たちはキューバの苦闘をフォローし語り継いでゆかなければなりません。

私をけしかけた M さんに感謝します。

1994年 難民の爆発的増加

民衆の苦しみはついに大量難民の発生というかたちで爆発します。難民はすでに93年から急速な増加を見せていました。米国沿岸警備隊の発表によれば、船でフロリダに到着したキューバ人亡命者は3,656人に達し,92年度の1.5倍となっていました。しかしその数は94年に入ってから異常な増加を見せ始めます。

話が変わりますが、ハバナも冬は結構寒いのです。寒いといっても昼は半袖なのですが、冷房を入れるほどではありません。夜になると戸外ではちょっと上着が欲しくなるくらいに涼しくなります。ハバナっ子は「フーリオ!」と叫んで毛皮を着込んだり、革ジャンの襟を立てたりします。

アメリカの平原からメキシコ湾をわたって来る北風で海はしけています。ハバナの沖合いもさんご礁がありますが、白波はそれを乗り越えて、マレコン通りの堤防にぶつかり、二階建てほどの豪勢な波しぶきとなって道路に振りまかれます。

そんな海が穏やかになるのは4月頃からです。昔は、この日和を待ち構えたスペイン艦隊が、インカやメキシコの財宝を積んでスペインへと帰っていたものでした。それがいまや難民の船出のときとなったのです。

6月末までにすでに5千人がボートに乗って脱出しました。一種のパニック状態が出現しました。年表を見るだけでも、その勢いのすさまじさが良く分かります。

7月13日にはハバナ港からタグボートが盗まれました.警備艇が出動し、フロリダへの脱出を阻止しようとしましたが、タグボートは警備艇と衝突、港の沖7マイルで沈没してしまいました。この事故で40人以上が溺死したといわれます.

8月4日には、ハバナ港内を横切る通勤フェリーが乗っ取られました。桟橋には「自由」を叫ぶ群集千人が集まり、投石や窓ガラスの破壊などで35名が負傷,300人が逮捕されました.この際防衛にあたった警官一人が死亡しています.

8月8日には、マリエル港で海軍艦艇が奪われ、当直将校が殺されました。船は24人を載せて米国に逃亡しましたが、逃亡犯はマイアミで英雄として歓迎されました.

14日には停泊中のタンカーに,5百人が乱入し亡命を求めました.このときはカストロがマリエルまでおもむき参加者を説得,翌日には全員が自主的に下船しました.

米沿岸警備隊は15日だけで272人のキューバ人漂流者を保護。さらに16日には339人,17日には537人、そしてピークとなった23日には2548人に達しました.まさにラッシュです。押し寄せる難民に対し,米海岸警備隊はついに「ピケ」を張り阻止するようになりました.

たいていの人は、もう少し平和的な手段を選びます。マレコン通りにタイヤのゴムチューブを抱えた若者たちがたむろしています。彼らは別に海水浴をするためにそこに集まっているのではなく、潮の流れの情報を聞いて、いつかは向こう岸まで行くぞと心の準備をしているのです。フロリダ半島の先端までは100キロあまり、先日は泳いでわたった人もいるくらいです。ただし人食いざめにはご注意、「老人と海」に出てくるようなすごいのがいるそうです。

このように難民が大爆発したのには、米国側の事情もあります。米政権はキューバ敵視政策の裏返しとして逃れてくるキューバ人を無条件に受け入れる姿勢をとり続けて来ました。それも正規の出国ルートをとる人に対しては厳しい制限を設け、非合法に出国してくる人は英雄として迎え入れ、ほぼ自動的に市民権を与えるという、法的にはまことに奇妙な態度をとってきたのです。

米国の傲慢な対応に、カストロはついに頭に来ました。8月24日、カストロは「ボート・ピープルを引き留めるつもりはない」と発言.難民の出国を黙認する態度を明らかにします.そして関係部署に対し、実力行使を控えること、必要とあれば援助を与えるよう指示します。

さあ困ったのはクリントンのほうです。結局、米国側が折れることで決着がつきました。両政府間の協議で、米国が年間2万人へのビザ発給を履行すること、キューバ政府が,合法的手段を執らずに個人的方法で米国に渡航することを禁止することで合意しました.

そもそも「つぶしてやる」といきまいて来た相手であるキューバ政府と交渉すること自体が、米国にしてみれば屈辱です。さらに交渉成立に当たっては文章には表現していなくとも、何らかの見返りが必要だったはずです。しかもその裏約束は、もしそれを破ればいつでもキューバが「難民送り出し」を再開できる状況の下では、恒久的なものとならざるを得ないわけです。

カストロもこの数年の憂さが多少なりとも晴れたと思います。

「開放」経済の進展

三つの解禁と公共料金の値上げ策は、94年の1年をかけて着実に実現していきました。生活の厳しさに耐えるだけでなく、貧富の差や社会の不公平にも耐えよというのです。いわば、3年間で国民の負った傷にさらに塩をすり込むような仕打ちをするのですから、痛くないわけがありません。

行政の徹底的なスリム化が実施されました。政府機関は50から32に削減されました.省庁の勤務員は1万2千から5千に,部局数も1000から600に削減されました.率先垂範、「まず隗より始めよ」です。止めさせられたほうにすれば辛い話ですが。

半年かけて積み上げられた「労働者国会」の討論にもとづいて、酒・タバコの十倍化,電話・電力など公共料金の引き上げ,ガソリンは4倍に値上げ。新税の創設,福利厚生補助金の削減などの財政改革案が承認されました.学校給食は有料化され、労働者への給食補助も打ち切られました.野球や音楽会などの入場券も有料化されました。(それまでは無料だった!)

この「労働者国会」には全国の職場で300万人以上が参加したといわれます。この国の人口が1千万人であることを考えると、ほとんどの国民が議論に参加したと考えてよいでしょう。それは「民主主義とは何か」、という問いに対するキューバの答えだったのかもしれません。

しかしいくら民主的に討議したといっても、煮え湯を飲まされることに違いはありません。むしろ真の事情と今後の見通しをを頭に叩き込まれる中で、絶望感が拡大したかもしれません。公共料金が値上げされるいっぽうで、闇ドルレートは1ドル=120ペソにまで高騰します.

いっぽうで、一人一人の問題として、「このままではいられない、お上任せではこのさき生きていけない」という、焦りにも似た感情が沸き起こってきます。このあとイカダ難民が激増したのもうなずけます.しかし大半の人は、国内で自らが食べて生き抜くための方途を真剣に模索するようになりました。そういう意味では、94年はネガティブな意味も含めて「国民の意識変革」の年だったとも言えるでしょう。

家の中の暗闇にじっと息を潜めて暮らしてきた人々が、腰を上げるようになりました。国会で個人営業の解禁が保留になったにもかかわらず、94年の二月には早くも14万人以上が開業したと報告されています。その十倍くらいはやみ商売を始めたことでしょう。

これに伴い,退蔵されていたペソが一気に市場に出回るようになります。これは激しいインフレとなって給与生活者や年金生活者を襲いますが、起業精神に富んだものにとってはまたとない僥倖です。

三つ目の解禁、農産物の販売自由化は、一番遅れました。ただでさえ不足している食料を自由市場に回してしまえば、ますます食料が不足してしまうという恐れが捨て切れなかったのです。しかし、緊迫した事情はそのような躊躇を許しては置けませんでした。

1994年9月、まずフィデルではなくラウル・カストロが口火を切ります。共産党機関誌『グランマ』は,ラウル・カストロの発言として「農民が作物の一部を自由市場で販売することを近く認める。国家への引き渡しノルマを達成したあとの余剰生産物は(必須食料を除く),新設の農業市場で政府の価格介入なしに自由に販売できることになる」と報道します.

ラウルは最後にこう付け加えます.「今日わが国の政治的,軍事的,思想的問題は,食糧を探すことである.農産物市場の開設は国民の一致した支持を受けており,カストロ議長も支援している」

こうやって観測気球を上げたあと、今度はあまり強硬な反対がないのを見計らいました。そして10月1日に政令191号が公布されます。この政令は、全国130の農・畜産物販売自由市場を開設するというものでした。国会に配慮し、自由市場の指導には議会の行政審議会商業管理部があたることとなります。

これと同時に、政府は国営農場への補助を削減.96年までに利益を出さなければ農場を閉鎖すると宣言します.

同じ10月の末には、政令第192号が発表され、工業製品や手工品についても自由市場を開設すると発表されました.


1993年 奈落の底へ

先の見えない経済危機

92年末に発表された貿易統計はすさまじいものでした。ロシアからの原油輸入は年間180万トンに減少.これは89年の実績1,300万トンのわずか13.5%にしか過ぎません.家畜用の飼料は160万トンから45万トンへ,肥料は130万トンから25万トンへ激減しました.ソ連・東欧など旧コメコン諸国との貿易額は89年実績に対し93%減少しました.キューバの貿易収入は45%も減少してしまいます.

緊縮政策はさらにきびしくなり、個人へのガソリン供給は原則的に停止されました.6月には、キューバ最大の発電所が,相次ぐ故障によりダウンしました。ハバナ市内の停電時間は8時間に延長されました。8時間といっても故障だらけの8時間ですから、実質的には止まっている時間のほうが長くなります。卵と砂糖の配給はほとんど停止状態となりました。主として輸送上の問題です.

キューバ産業の命綱である砂糖の生産は,大凶作となりました。前年度700万トンだったのが一気に420万トンへ激減します.中国向け輸出用の砂糖も不足し、それを補うため砂糖をタイから買い付ける事態にまで至りました.砂糖ばかりではありません。89年に比べ輸出総額は4割以下に落ち込み,輸入は厳しい引き締めのためもあり1/4にまで低下しました.

キューバから船に乗って逃げ出す人々の数は急増します。フロリダの沿岸警備隊は,92年度に収容したキューバ難民が2,565名にのぼったと発表しました.しかしこれはまだまだ序の口です。

5月には、3万人の視神経炎患者が発生したと発表されます。米国を中心に多くの眼科専門医と栄養学者が調査に参加した結果、いわゆるトリメであることが明らかになりました.ビタミン不足が原因です。(NEJMという医学雑誌では、もうひとつタバコの煙と書いてあったが、これは私としては信じにくい)

これは野菜不足が原因です。率直に言ってキューバ人は野菜が嫌いです。果物を食べていれば野菜など不要と考えているのかもしれません。ただ「有機栽培」を取り上げた方の文章によると、だいぶ変わっては来ているようですが。
ホテルの朝食はバイキングですが、野菜など見たことがありません。私も日本にいると野菜ぎらいな方ですが、それでも野菜が恋しくなります。レタスの上に肉や魚が乗っているのを見つけて、肉を取っ払ってレタスをかき集めたことを思い出します。

ドル自由化: カストロの決断

外貨の自由化に一番抵抗していたのは、おそらくカストロ自身ではないかと思われます。外国資本に国の経済の根幹を握られてしまったら、これまで築き上げてきた公正と平等の国は消失してしまうということを、これまでの経験を通じて痛感してきたからです。しかし、ことここに至ってはもはやとるべき道はひとつしかありません。

1993年6月、カストロは国会に向け重大提案を行います。外貨の個人所持の合法化、すなわちドルを持つものと持たざるものとの差別の容認です。もちろんドルを持っていた明けでは何もならないので、これまで外人専用だったドル・ショップへのキューバ人の出入りを黙認、ドルによるヤミ経済を事実上放任することが提案の真意です。

カストロは訴えます。「社会主義そのものを守るのではなく,革命の成果を守ることが重要だ.すべての種類の問題は,大いなる英知を持って現実的に検討しなければならない.我々は賢明でなければならない義務がある.決意や勇気や英雄主義だけでは革命は救われない.我々の心が痛むことがあっても,権威が痛むことがあっても,いろいろな事柄の解決を新たな方法で見出していくならば,英雄主義はより大きくなる」

いま考えてみると、やや大げさな表現のようにも聞こえますが、これを決断したとき、カストロの胸にはその後の「格差社会」の進行が思い浮かばれていたのでしょう。

7月26日の恒例の演説では、「賢明でなければならない義務」の中身を明らかにします。「外貨の所持と使用を解禁することによって、特権が生じることは否定できない。しかし、いまや我々の外貨を獲得する能力は、4年前の81億から17億ドルまで低下している。こうした現状にあってはやむを得ないことだ。我々は自由化一本槍ではない。この措置は我々が経済を現実的に建て直していくために避けて通れない課題だ」

これと決めたら早いのがカストロのカストロたるゆえんです。というよりも外堀はほとんど埋まっていて、カストロが最後の決断をしたということかもしれません。

このあと四つの経済関係閣僚ポストが総入れ替えとなりました.外国資本の投資は全面自由化されました.ドルの流入は事実上放任されました。全国に250の外貨ショップが開設され、そこでの買い物は見て見ぬ振りをすることになりました。

奈落の底を見た経験: 私が二回目にキューバを訪れたのは93年の11月のことです。どうしても話しておきたいことがいくつかあります。ひとつはヒネテラス(jineteras)のことです。メキシコからキューバに行く飛行機の座席は若い男性でいっぱいでした。感心に、キューバに連帯に行くのだと思ったら、彼らは買春ツァーの客だったのです。無論、彼らの行くホテルは私とは違います。しかし私の泊まるホテルでさえも、前庭には灯火に群がる蛾のように若い女の子が鈴なりでした。ほとんどが中学生から高校生といった年頃で、グループサウンズのファンかと思いました。しかしそれは売春婦=ヒネテラスの群れでした。その中から客が指名した子だけが中に入れます。相場は一泊50ドルだそうです。その後だいぶ上がったようですが。
翌朝、ホテルの売店で、疲れきった顔の彼女たちがオイルサーディンの缶詰を買い求める姿を見て、相棒と顔を見合わせたものでした。家に帰れば、彼女たちの父親の1ヶ月の稼ぎはわずか20ドルに過ぎません。これがドル自由化の実態です。

あいつぐ「自由化」政策

9月には輪タク,花売り,宝石修理など117種に及ぶ職種の個人営業を許可すると発表されました.これらは資本主義の芽となる危険があるとして1969年に廃止されていたものです。

さらに農地の7割を占める387の国営農場を2,500の協同組合に分割。独立採算とし,余剰生産物の売却権を与えるなど自主管理を広範に認めました。また家庭菜園で作られた農作物について自由販売が認められるようになりました.

あいついで実施されたドル解禁、個人営業の解禁、農産物の自由販売という三つの措置こそは、社会主義の基礎を掘り崩すものとして、これまでキューバ政府が最も忌み嫌い、避けてきたものです。

とくに平均所得と実勢価格の差が20倍にも開いた今、これを容認することは、たちまちにして社会の中に底知れぬ格差を生み、政権を瓦解させかねない危険をはらんでいます。

しかし背に腹はかえられません。まさに苦渋の決断、賭けに近い判断だったと思います。しかし結果としては、この賭けが見事に成功したことになります。

案の定、12月の国会では激しい議論が戦わされました。

政府は先にあげた三つの解禁策のほか、公共料金の値上げや,各種無料サービスの廃止を提案しました。これは過剰通貨の回収を図るための施策だと説明されました。金はあっても買うものがなく、通貨がたんすの中に退蔵されている。これを引き出そうという狙いです(退蔵しているお金があればの話ですが)。

しかし個人営業の容認は、強い反対があったことから延期されてしまいました.また公共料金値上げに関しては,国会議員だけで決めるべきではないという声が強く、この問題について全国で「労働者国会」と呼ばれる大衆集会を開き、そこでの討議にかけることとなりました.これも一種の延期です。

91年10月 第4回共産党大会

ちょっと時期が前後しますが、10月にサンチアゴで開かれたキューバ共産党第4回大会は、「危機の時代」への基本的な対応方針を決めた大会として非常に重要な意味を持っています。

カストロは冒頭演説で、「キューバは世界の進歩と民主主義,革命の旗手となった。ソ連と東欧のうしろだてはなくなったが,困難の中でも独立と革命を進める」と述べます.さらに中央集権的な計画経済体制を維持すると表明します.

大会は、①イベロアメリカ諸国との関係を強化する.②一党制を維持しつつ、国会・地方議会議員の直接公選制を実施する、ことなどを決議しました。しかしもっとも大事なのは経済決議です。抜粋をホームページに掲載しているので、目を通していただければと思います。

①基礎食料の一日も早い自給体制、②バイオの分野に力を注ぎ世界市場進出を目指す、③治安の良さ,衛生的な環境などの優位点を生かし、観光を振興する、④従来型の輸出産業をひきつづき重視する、⑤スポーツ,芸術などに関連した製品や,サービスの開発、⑥外国からの投資を奨励する。投資受入れの形態は多様であってよい.

全ての企業は,外国との貿易を振興することなしに,みずからの成長はありえないと知るべきである.輸出できるものはないか,輸出競争力を高めるにはどうしたらよいかを常に念頭においていく構えがだいじである.

今日のように資源がきわめて限られている状況の下では,出来るだけこれを中央に一本化し,計画的に配分しなければならない。社会主義経済(統制経済)の建設は、生き残りのため決定的である.

怠業,稼働率低下,生産・販売のルール違反など各種のあやまった風潮が生まれることは避けがたい.厳正な対処がもとめられるが、労働への情熱を常に高め組織していく努力がまず必要である。この点でとくに労働者党員の役割に期待する.これは党のもっとも崇高な任務である.

インフレは労働生産性の向上を阻害し,投機や労働意欲の低下を生むのみである.消費を抑えると同時に,通貨発行量を抑え,経済を軟着陸させなければならない。

とくに最後の項はすごいものです。理屈ではたしかにそうですが、これはまさにハードランディング以外の何ものでもありません。普通はこんなオーセンティックなことをやる政府は、民衆の反乱によりつぶれるのが当たり前です。

もちろん相当強権も発動したのでしょうが、決定を忠実に守る党員が分厚く存在したからこそ、そしてそれら党員が民衆から信頼されていたからこそ、この政策が遂行できたのだろうと思います。

 

1990年 激動、その第一波

89年の末、「ベルリンの壁崩壊」が起こります。そして東欧最後の「社会主義国」ルーマニアではチャウシェスク議長夫妻が民衆の手で「処刑」され、激動を締めくくります。

得たりとばかりにブッシュはパナマに侵攻し、「ノリエガが隠れている」との口実でキューバ大使館やニカラグア大使館まで襲撃します。マイアミの亡命キューバ人は,車に「来年はハバナで」とのステッカーを貼り武力侵攻をあおりました.準軍事組織は半ば公然とフロリダ湿原での軍事訓練を再開します.

バチスタ独裁政権が崩壊した日から31年経った90年1月1日、カストロは次のように演説しました。「社会主義陣営の存在はキューバの達成した成果の土台であった.その崩壊により,経済面,特に物資調達の面で深刻な事態に直面している.今年の見通しでさえ定かでなく,ましてや来年からの見通しを立てることは困難な状況にある」

その一ヵ月後には、その「見通し」について「我々は”平和時における非常時体制”の計画を作成しなければならなくなった.最悪の事態を予測して,その対策を立てなければならない」と、さらに踏み込んだ発言をしています。この”平和時における非常時体制”(el Periodo especial en Tiempo de Paz)という言葉が、その後の経済・社会政策のキーワードとなって行きます。

ハーマン号事件

カストロの容易ならぬ決意を世界に示したのが、1月末のハーマン号事件でした。このときハーマン号は、メキシコ湾の公海を、パナマ国旗を掲げクローム鉱を積んでタンピコに向かっていました.

ハーマン号はパナマ船籍の貨物船で,キューバがチャーターしたものです。乗組員のほとんどはキューバ人で、キューバ西部の鉱山で採掘されたクローム鉱石を、海外に輸出する目的に使用されていました。

いっぽう、米国の沿岸警備隊のシンコティーグ号は、このときメキシコ湾で麻薬密輸船の取り締まりにあたっていました。シンコティーグ号は、航行中の貨物船ハーマン号を疑いがあるとして追尾しつつ、沿岸警備隊本部に指示をもとめました.沿岸警備隊はパナマ政府の乗船許可を受けたうえ,ハーマン号に停船を命じました。これを聞いたカストロは、ハーマン号に対し査察受入れを断固拒否するよう指令します.

沿岸警備隊はハーマン号に放水を浴びせ,さらに銃撃・砲撃を加える.ハーマン号は重大な損害を受けつつも,命令を拒否しメキシコへの航海を続行.ついにメキシコ領海内に到達します。これを見た沿岸警備隊は追尾を断念しました.

タンピコ入港後メキシコ官憲が臨検をおこないましたが、当然ながら麻薬などは発見されませんでした。2日後、ハバナに戻った乗組員たちは市民の熱狂的な歓迎を受けました。

経済非常事態の宣言

 8月29日、政府は、「キューバは疑いなく“平和時の特別期間”に入った」と宣言し、第一次緊縮政策を発表しました.この時点では石油輸入の減少への対応とエネルギー節減政策が柱となっています。

ソ連からの輸入量は2年前の80億ドルから40億に半減しました。原油も54%に減少しましたが、それ以外の部品等が激減したことが大きな痛手となりました。

政策の柱は、個人用ガソリンの3割削減,モアのニッケル工場の閉鎖,生産性の悪い工場や学校の閉鎖、家庭電力の1割自主削減などからなっていました

カストロが演説し、「社会主義の国々との通商は事実上消滅した.現実を直視しよう.いますべてがバラ色とは決していえない.しかしソ連が分裂し崩壊しても,われわれは社会主義を守りぬく」と述べ、国民に対し忍耐をよびかけます。

「すべてがバラ色とはいえない」とはずいぶん強気です。この年、キューバは60億ドル相当の経済援助,10億ドルの軍事援助,1千万トンの原油,60億ドル相当の商品を失いました.前途は真っ暗、というのが本音でしょう。

石油の制限は序の口でした。9月に入ると「チョウ」のつく厳しい方針が次々に打ち出されます。食料品のほとんど,その他の生活用品のすべてが配給制となりました.一人一日あたりパン一切れ,卵は週3個,魚か鳥の肉が月に一度,食用油は一人年1ビン,ミルクは8才以下の児童にのみ配給されることとなりました.

全国紙,地方紙は「グランマ」を除きすべて日刊からはずされました.雑誌も「ボエミア」以外はすべて休刊となりました。「ボエミア」もページ数が2/3に減少します.

国会は米作地の拡大,養豚場・養鶏場の建設,淡水魚漁獲の拡大などの緊急食糧増産計画を決定しました.しかし資材不足のため,計画はほとんど実施されずに終わってしまいます.

国民には自家菜園の奨励,ロウソクや石鹸の製造法などが指導されました。自動車に代わる交通手段として馬車が復活。また中国からは100万台の自転車が輸入されました。要するに日本の戦争末期の状態です。

この頃の中国はまことにビジネスライクでした。ブッシュが圧力をかけると、たちまち対キューバ援助を大幅に削減しました.ブッシュはこれを受け,議会に中国を「最恵国待遇」とするよう提案しています.73年にチリでクーデターが起こると、真っ先にピノチェト政権を承認し、人民連合政府の派遣した大使を国外追放したことも忘れられません。

ソ連の崩壊と未曾有の危機

しかしこれはほんの手始めにしか過ぎませんでした。ソ連も厳しい経済の中から、かなりの誠意を持って貿易の維持にあたっていました。

1990年末に締結された年次貿易協定では、ドル決済が導入され,砂糖価格も1トン800ドルから500ドルに切り下げられました。しかし国際価格は200ドル前後でしたから、なおかつ破格な価格でした.ソ連はこのほかにも約50億ドルの通商と、1千万トンの石油供給,10億ドルの経済援助の維持を約束したのです.

ほっとしたカストロは、このとき、「すべてのキューバ国民は生活の悪化に対する覚悟が出来ている.しかしさほど急激ではなく,深刻なものでもないだろう」と述べています。しかしその見通しはまったく甘いものでした。

91年5月、カストロはソ連からの原材料供給が激減したと発表しました.ソ連からの商品輸入は当初目標の1/4に過ぎず,豆の5割,ラードの7%,植物油の16%,コンデンス・ミルクの11%,バターの47%,缶詰肉の18%,粉末ミルクの22%,魚肉の11%しか入ってきていないことが明らかにされました。

それにしてもこれらのリストを見ると、キューバがいかにソ連に頼りきっていたかが分かります。

原油供給だけはかろうじて続けられましたが、89年の1300万トンから91年300万トンに激減してしまいます.そしてその原油も、12月に入ると完全にストップしてしまいました。昨年末の貿易協定は完全に反故にされてしまったことになります。

9月、ソ連のゴルバチョフ大統領は、キューバ駐留軍の撤退を発表します。キューバは「この決定は,米国が進攻計画を推進することにゴーサインを出すのに等しい」と非難しますが、それ以上にどうするというものではありません。結局、自らの国土は自らの力で守る以外にはないということでしょう。

キューバは米国の侵攻に備え民兵訓練を強化、地下壕づくりをすすめます.共産主義青年同盟大会もわざわざ地下壕内で開催するという念の入れようです.まさに本土決戦、燃えよ一億火の玉です。

こういう危機の中、ハバナで第11回米州競技大会が開催されました.米国を含む39ヶ国が参加.キューバは国威をかけて大会を成功させました.大会では米国をしのぎ最高の金メダルを獲得するという偉業を成し遂げました.
ただしこの大会は、巷では不評さくさくでした。みな大きな声では話しませんが、食糧の配給が一日パン一切れというご時世に、国威発揚もないものだというのが大方の感想だったようです。

そして12月8日、ゴルバチョフがソ連解体を宣言し大統領を辞任しました.ついにソビエト連邦が崩壊したのです.これにともない年間60億ドル相当の経済援助は消滅しました。砂糖価格も500ドルからさらに国際価格の200ドルまで下落しました.いよいよキューバは丸裸となったのです。

カストロはソ連消滅を「キューバとのあいだで維持してきた友好的関係から見て,痛ましく,悲しむべき事態である」と論評.あわせて「来年は非常時が最悪の事態となり,正念場となるだろう」と予告しました。

第二次緊縮政策が発表され、いよいよキューバは「闇の時代」に突入していくこととなります。バスの運行は1/3に削減され、表通りから車の姿が消えてなくなりました。電気は一時停電というより、一時通電という感じで、家々の窓は細々としたろうそくの明かりがゆらめいているだけ、ちょっと郊外に出れば頼りは月明かりのみです。

市場為替レートは20倍近くまで跳ね上がりました。ヤミルートの物資は2000%に高騰.キューバ国民の平均月収はドル換算で40ドルから2ドルまで低下します.もう無茶苦茶です。

 

1989年 苦悩の始まり

ソ連・東欧崩壊の引き金となったのは天安門事件でした。天安門前の広場には五月ごろから学生らが集まり始め、解放区のような様相を呈していましたが、これが軍により弾圧されたのが、6月4日のことでした。

しかしその前から崩壊への動きは着実に広がっていました。キューバにおいてその象徴となったのが、四月のゴルバチョフ訪問でした。米国を訪問したゴルバチョフは、米国政府との蜜月関係を強調したあと、その足でキューバに向かいました。

キューバ議会で演説したゴルバチョフは、お得意の「人類共通の価値優先」を基調とするペレストロイカ路線を強調します.しかしこれは話の伏線で、真の目的はニカラグアへの武器援助停止についてカストロの理解を求めることでした。さらにキューバ軍のアンゴラへの派兵についても、これ以上の援助は出来ないと迫ります。

ゴルバチョフはこれと引き換えに今後25年間の技術協力を取決めた友好協力条約を提示しました。貿易先の87%がコメコン諸国で占められていたキューバとしては、飲まざるを得ない条件でした。それは煮え湯を飲まされるような屈辱感を伴ったものでしたが、今にして思えば、それは当時のゴルバチョフ政権が提示できるぎりぎりのものでした。

カストロは「ペレストロイカを受け入れることは,我が家で他人の妻と住むようなもの」と、相当えげつない談話を発表し、憂さを晴らすことになります。それは援助を打ち切られ、野垂れ死にを余儀なくされたニカラグアのサンディニスタ政権へのエクスキューズでもありました。

ちょうどそのとき私はニカラグアの首都マナグアに滞在していましたが、このニュースを聞いても不思議と負ける気はしませんでした。レーガン・ブッシュ政権も相当にへたり込んでいたからです。エルサルバドルでは政府軍のヘリが地対空ミサイルでバンバンと打ち落とされ、ファラブンド・マルティ民族解放戦線(FMLN)は「解放の日は近い」として、「最終決戦」を煽り立てていました。

しかし、ゴルバチョフとの会談でカストロが受けた危機感は相当深刻だったと思います。彼は7月の革命記念式典で次のように演説しています。

「もしも,明日,或いはある日,ソ連で大きな内戦が勃発したというニュースで目を覚ますことがあっても,或いは,ソ連が解体したというニュース,それは決して起こらないようには望んでいるが,そういうニュースで目を覚ますことがあっても,そういう状況にあってもなお,キューバは存在し,キューバ革命は闘いつづけ,抵抗し続けるであろう」

いずれにしてもはっきりしていることは、いっぽうでアンゴラ支援、もう一方でニカラグア・エルサルバドル支援という二正面作戦を続けることは到底不可能だということです。そこでとりあえずアンゴラ作戦の終了と迅速な撤退を行うこととなりました。

6月にはオチョア事件が発覚します。アルナルド・オチョア中将はキューバ軍内でもっとも有名で人望のあった将軍でした.アンゴラ進駐軍の司令官,エチオピア,ニカラグアにおける最高軍事顧問を歴任し,逮捕当時はキューバ最精鋭といわれる西部軍の司令官を務めていました.オチョアは軍内強硬派としてアンゴラ撤退に反対していたといわれます.

そのオチョアを先頭とする軍最高幹部14名が麻薬コネクションに関する疑惑で摘発されました。さらに6月下旬には、コカイン密輸への関与の疑いで内務省の幹部グループが逮捕されます。このうちオチョアら首謀者4名が銃殺刑となります。

この「粛清事件」は、いくつかの意味をふくんでいます。彼らの言葉どおりにいえば「今日の世界で,威信も道徳感もない国は無防備だ.英雄的な人民から名誉を奪うことは力を奪うことに等しい」ということでしょう。

しかし軍や内務省内の武闘派が一掃され、カストロ兄弟にますます権力が集中したことも間違いありません。来るべき大変革に向けて国内の一本化が図られたことも間違いありません。

さらに「麻薬」に対する厳正な態度を示すことで、米国との関係修復の動きを水面下で進めようとしたことも間違いないでしょう。たとえば、米連邦議会下院のレインジェル麻薬対策委員長はこの事件も念頭に置きながら,「ブッシュ政権は反共政策をもてあそんでおり,キューバの麻薬対策への協力の意志を無視している」と発言しています.

10月にはソ連のシェワルナゼ外相がニカラグアとキューバを歴訪、カストロと会談しています。おそらくゴルバチョフよりはるかに厳しい提案をしたものと思われます。会談後カストロは、「われわれはすでに若干の影響を被りつつある.われわれは深刻な困難に直面することになろう」と述べています。

アベノミクスがもてはやされ、普通の庶民まで何かしら期待感が広がっている。
それは、大企業が儲かれば、景気が良くなる。景気が良くなればおすそわけが回ってくる、という期待感だ。
これは、昔ながらのトリクルダウンの理論の焼き直しだ。
しかしそれが幻想にすぎないことは、この15年間で痛いほど経験してきたではないか。
トリクルダウンの蛇口は97年以来閉められたままだ。リーマンショック前のいわゆる“好況期”に於いてさえそうだった。
それでは大企業は蛇口を緩めるだろうか。大企業はもっと締めると宣言しているではないか。
正社員にボーナスを多少多く払ったといって、それで何になるだろうか。
労働規制をさらに緩和して解雇も自由にする、派遣ももっと拡大する、ということになれば、労働者の生活はさらに悪化する。
これが蛇口を締めるということだ。

インフレというのはそもそも、貧乏人いじめのもっとも有効は方法だ。物価が2%上昇するということは給料が2%減少するということだ。
そうなればどうなる。貧乏人はますますモノを買わなくなるし、内需は冷え込む。これがスタグフレーションというやつで、不況と物価高のダブルパンチだ。

民衆はその時になってやっと、円高とデフレは関係ないということに気づくがもう遅い。アベノミクスは参議院選挙まで持てばいいという打ち上げ花火だ。参議院で多数を確保すれば、反動立法を次々に成立させ、国内の不満を抑えこみ、ファシズムにまっしぐらだ。

経団連が「産業競争力会議」を独立強化させ、競争力強化法(仮称)の制定を求めることを決めたそうだ。
中身は解雇自由化、残業代不要の労働時間規制の適用除外、労働者派遣制度の規制緩和などだそうだ。

そうやって日本の産業競争力を劣化させてきたのは誰なのか、いまやあなた方に国際競争力を語る資格はない。そのことは誰の目にも明らかになっている。

3月14日の記事で、「放射性物質は不発弾のまま残っている。脆弱性はそのままに残されているから、わずかの自然災害でも大事故に結びつく恐れはある」と書いたが、それがほとんどお笑いのような形で実現した。
「泰山鳴動して鼠一匹」というが、鼠一匹が泰山を鳴動させたのである。

事故の概要は以下のとおり
①停電事故が起きたのは3,4号機共用のプール冷却システム回路。工事の都合で1号機の回路にも電源を供給していたため、1号機にも影響が広がった。
②とくに大量の核燃料が貯蔵された4号機(震災時定期点検にて停止中)では,水温が6度上昇し、緊急に外部注水を行った。
③1,3号機では高放射線量のため、くわしい実態は把握されていない。

今日の赤旗では、間宮記者が背景を解説している。
これによると問題点は以下のようなものである。

①配電盤は建屋付近に止めたトラックの荷台に載せられていた。これは事故後2ヶ月目に設置されて以来、そのまま使用されていた。
②配電盤にはケーブルを引き込むための隙間があった。ネズミや鳥などの侵入予防はこの種設備では常識。
③ほぼ同時期に免震重要棟で瞬間停電があり、現場点検に入ったとき冷却停止が発見された。点検がなければ、発見は遅れていた可能性がある。
④冷却再開には29時間を要した。これは代替電源が用意されていなかったためである。
(なお「雑草で排水パイプに穴」というのは、これはこれで重大な問題ではあるが、“周辺的”事実である)

千年に一度の大津波なら“想定外”と言い抜けることも出来るが、鼠一匹を“想定外”とするようでは終わっている。笑って済ませる話ではない。

明らかになったのは、笹子トンネル並みのずさんな安全管理体制である。笹子トンネルでも多くの人命が失われているが、事故が起きたときの影響は比較にならないほど深刻である。

原発のようなトップリスク設備での安全設計は、教科書的に考えればより強力なものでなくてはいけないはずだ。そもそも安全設計が存在していない可能性すら想起させる。最低でも第三者のスーパーヴァイジングが必要ではないだろうか。

それにしても、関東大震災の避難訓練などではなく、福島の大量放射能流出を想定した首都避難訓練が必要だ。松代大本営でも再建するか。



雨宮処凛さん、いいですね。
37歳、身なりはイマ風にチャラチャラしていますが、どうして中身はしっかりしています。
赤旗の連載「日本国憲法 私の思い」に登場して、小気味いいセリフを連発しています。

反貧困の活動の中で、生活保護について正しい知識があるかどうかが生死を分ける、と痛感しています。
「恥じゃない、権利なんだ」と知らずに、多くの人が自殺したり餓死しています。
生活が立ちいかなくなったとき誰もが使える大切な制度なのに、学校でも教えられません。
知っていれば、自分の命も、誰かの命も救えます。
いま憲法をすごく実践的に使っています。
憲法が保障する生存権が、自分たちの状況を「何とかしろ」と要求する根拠であり、最大の武器です。
変えさせるわけには行きません。


その通りです。

子供の頃は人並みに野球少年だった。我が家から3戸おいてすじむかいの子は、静岡高校の三塁手で甲子園にも行ったから、ちょとした英雄だった。

突き指だらけで、右手の薬指は10度くらい反っている。逆に左手の薬指は10度ほど屈している。これではピアノは弾けない。
これほどまでに努力したのに、野球は下手くそだから、相手にされない。
だから一生懸命勉強して博学になった。記憶力だけは人並み以上に優れていた。

あの頃は野球中継はNHKラジオだけで、茶の間のラジオにかじりついていた。野球だったら、プロ野球ばかりではなく都市対抗、6大学リーグ、高校野球となんでも聞いた。早稲田の森の痛烈な打球を、立教のサード長嶋が鮮やかにキャッチして一塁アウト、という場面は今でも心に焼き付いている。

昼だったら「どっかに遊びに行け」と怒鳴られ、夜だったら、「早く寝ろ」と怒鳴られた。
ヘルシンキ大会でレスリングの笠原が優勝した時も、こっそり聞いていたような記憶がある。メルボルンの時はファンファーレが聞こえ始めると、「早く学校へ行け」と怒鳴られた。

競泳では「古川選手、潜ったまま出て来ません。50メートルのターンを終えてやっと顔を出しました」という中継を聞いていた。1500の山中とローズの競り合いも、ラジオを聞きながら、手に汗握っていたはずだ。映像の記憶もあるが、あれは後から映画館のニュースで見た記憶ではなかったかしら。

記憶を辿って行くと、以外に映画館で見たニュースとNHKで耳から手に入れた情報とが錯綜している。

いま考えると、どうしてラジオというのは一家に一台しかなかったのだろう。
親の目に触ると怒鳴られるから、怒鳴られないように隅っこに目立たないようにして、親と目を合わさないようにして、ラジオに聞き入っていた。
NHKはまんべんなくいろんな試合を中継するから、巨人一辺倒ではなかった。選手の名前はラジオで聞いて憶えた。メモしたような記憶はないから、聞きこんでは頭のなかに叩き込んだのだろう。実に脳に無駄な負荷をかけている。

西鉄黄金時代の選手もしっかり憶えている。
高倉、豊田、大下、中西、関口、仰木、玉造、和田と並ぶラインナップはいまでもスラスラと出てくる。そこへいくと南海は木塚、影山、飯田、杉山、野村までは行くがその後が出てこない。
毎日はダイナマイト打線という割には榎本、山内、衆樹く らいしか浮かんでこない。東映(日ハムの前身)に至っては一人も浮かんでこない。あの頃は駒沢球場ですね。
高橋ユニオンズはブロマイド(あの頃はプロマイ ドと言っていた)で滝投手と深見外野手というのを持っていた記憶があるが、実際に登場した場面は知らない。NHKでも実況中継したことはないのではないだ ろうか。

プロマイドの話だが、カステラの空き箱にいっぱいだったから、数百枚はあった思う。ほかに選手にファンレターを出して返事をもらうのも楽しみだった。国鉄スワローズの鵜飼選手からは丁寧な返事を頂いたことを憶えている。

叔父が静岡商業のピッチャーだったから静岡商業のフアンだった。田所というピッチャーが甲子園の春の大会で準優勝して、その後国鉄に入った。金田の裏に隠れてはいたがそれなりに勝ち星はあげていたと思う。しかしNHKが中継するような試合はすべて金田が投げたから、中継を聞いた憶えはない。

静岡商業出身で一番出世したのは南海の杉山光平選手だろう。

ベストナインにも何回か選ばれている。バットを寝かせて屈みこむようなスタンスで塁間を抜ける鋭い当たりを放つ。日米対抗でもドジャーズを相手にヒットを放ったような憶えがある。

全国各地で試合をやって、観光気分の大リーグに15試合中3,4ゲームしか勝てなかった。メジャー・リーガーが神様のように思えた。

そういえば、あの頃のドジャーズのメンバーも全部言えた、
ブルックリン・ドジャーズの黄金時代だ。今思い出すのはキャッチャーのルイ・カンパネラ、一塁のギル・ホッジス、三塁のジャッキー・ロビンソンくらいだが。いちどホテルのバーでアメリカ人とあの頃のドジャーズのメンバーを言いっこして意気投合したことがある。私の知識は雑誌に載った大和球士の大リーグ情報だったと思う。

ドジャーズについては稿を改めよう。


ONといえば、我々の世代にとっては王・長島だった。
「そんなことは言われなくてもわかっている」と言われそうだが、「それでは新ONってなんだか分かるかい?」

それは我らが日ハムの大谷・中田です。
大谷というのが、とにかくべらぼうだ。王やイチローを上回る天才選手だ。
ダルビッシュと言ったって、一年目のときには「大丈夫かいな」というもんだった。コントロールが定まらない。四球を連発しては面白いように打たれる。練習サボってパチンコに行って見つかり、とっちめられてのもあの頃のことだ。
確かに球は速かったが、それでも145,6というところだった。
それがどうだい、大谷は157キロを連発で出すんだぜ。
しかも打てば初安打がホームランだ。とにかく打席でのフォームがいい。どっしり構えられると、それだけで相手投手は投げる球がなくなってしまう感じだ。
体が柔らかい。クレバーだ。ここは中田と違うところだ。
ライトの守備もこなしているが、バックホームの球がすごい。150キロのレーザーショットだ。しかもコントロールは正確。
大谷が投げる日は、残念ながら指名打者なしだ。

今後しばらくは日本のプロ野球は日ハムを中心に動いていくことになるだろう。全盛時代の西鉄と同じだ。

日ハムは大谷に背番号1番、中田に3番を与えるべきだろう。全国の子どもたちが大谷と中田の背番号をつけることになるだろう。

ただし全国ネットのテレビ局がついてくれないと、日ハムの資力がどこまで持つかという問題があるが。

赤嶺議員の質問に対する答弁で、イラク帰還自衛官の自殺が26人に達したことが明らかになった。

とくに陸上自衛隊に自殺率が高い。自殺者数は陸自だけで19人に達している。
イラク戦争中の足掛け3年で陸自5600人が派遣されているので、自殺率は19/5600=0.34%となる。
日本全体の自殺者はH23年で約3万人、0.025%となる。したがってイラク帰還自衛官の自殺率は日本国民の平均と比べ34÷2.5=13.6倍に達する。

赤旗では陸自全体の自殺率も出しており、0.039%となっている。ただし、自衛官の大部分が男性であることを考慮に入れると、国民に比べ特段に多いとはいえない。

駐留そのもののストレスに加え、空自以上の環境ストレスが加わったものとみなさなければならない。

これは明らかに異常である。戦死者とまでは言わないが、戦争関連死である可能性は極めて高い。



自殺そのものは、精神的パワーが枯渇(精神運動抑制)した下で、能動性と抑制系のバランスが破綻し、気分、認知と思考の歪みをもたらすことから生じると考えられる。

抑制系のはたらきというのは自己の客観化であるが、そのためには他者との接触が不可欠である。ところが精神的パワーが落ちてくると他者との接触が困難になるのが厄介なところだ。

能動性と抑制系は同じ精神的パワーにより駆動されていると考えられるが、抑制系のほうがより高次脳機能に属していると考えられ、したがって能動性の回復との間に時間差が生じる。脳卒中患者の観察では、高次脳機能の回復には年余を要するというのが実感である。


当初は徹底した睡眠が必要だが、回復期に入ると、一般的な休養だけではなく、歪みが増強しないように抑制系を適度に強化・コントロールしつつ精神的パワーを引き上げて行くという、ちょっと複雑な操作がもとめられる。

これがある程度の精神的疲労であれば、自律神経系の働きによりホメオスターシスが働くのだが、強烈なストレスのあとでは、外部の目と言葉かけ、服薬などが必要になる。モルヒネ系が一番効くと思うが、禁止されているから仕方ない。素人が手を出せば麻薬中毒になるのが落ちだからやめたほうがいい。

したがって発症段階、初診段階での心的ストレスの度合いと、精神的パワーの消耗の程度、とりわけ認知の歪みを中核とする抑制系の評価が必要なのだが、これがうまく行っていない。

もちろんストレスに対する耐容能力も個人差がある。これが脳内ドパミン濃度とか、セロトニン値とか、なんらかの数値として客観的に出ると良いのだが。


「大事な兵隊さん」をむざむざと自殺に追い込むのは、右翼反動勢力にとってもありがたいことではなかろう。まずは徹底的な帰還自衛官のフォローアップが大事だ。プライバシーに係る点もあるが、情報はできるだけ公開すべきだろう。

自衛隊にとっても未知の体験で、手探り状況なのはわかる。恥ずかしがったり隠し立てする必要は全くない。ただ戦争なんかはやらないほうがいいということは、はっきり言っておく。自衛隊は戦争屋ではないのだ。

なお米兵の自殺率ははるかに高い。

2012.6.25 米兵が毎日1人自殺

をご覧頂きたい。



ハンス・シュミット・イッセルシュテットがあまり、ベストテンにランクされて来ないようなので、ネットであたってみた。
日本人にはイッセルシュテット好きが意外に多いようだ。

質朴だとか端正だとか淡白だとか言われているが、違うような気がする。生い立ちからしてベルリン生まれのアーバン・ボーイであり、金持ちのボンボンである。基本的にはおしゃれなのである。田舎出の濃い味付けや、自己陶酔は野暮と心得ている。

誰かが書いていたが、おそらく耳の極端に良い人で、耳で指揮していく音響ミキサー・タイプの人なのだろう。その点ではサヴァリッシュと似ているのかもしれない。

そのうえで楽団員の長所を見ながら、音を引き出していく。そうすればそこから音楽は湧き出てくるはずだ。それを紡いで、積み重ねていく。テンポとリズムだけはきちっと守らせる。そういう匠の技を持っているのではないか。ベートーヴェンの第8番は、そうやって奇数番を上回る力作に作り上げられている。こんな第8、聞いたことがない。

イッセルシュテットは、「演奏からできるだけ主観的なものを取り除き、作品そのものによって音楽を語らせる」と言っていたようだが、これだけなら、誰でもそう思っているし、そう言う。ゲルギエフだってそう言うだろう。

“作品そのもの”というところを“楽団そのもの”、あるいは“楽器そのもの”と置き換えると、話が見えてくる気がする。

HSイッセルシュテット.html

というページは、イッセルシュテット讃が書き込まれている。面白いが、実に長大な論文である。

ハンス・シュミット・イッセルシュテット(1900~1973)

このページにはイッセルシュテットの経歴が詳しく書き込まれていて、彼の人柄が忍ばれる。その中で、大岡昇平のイッセルシュテット評が短く要を得ていると思った。
1989年に没した小説家・大岡昇平は、戦前、『ディスク』誌にしばしば音盤評を寄稿していたが(小説家としてデビューする前のことである)、
「この人の指揮には無理が無い、そしてしゃんと面白さというものを引き出す事を心得ている。豊富な音楽の国ドイツでなければ生まれない、音楽を楽しみ楽しませるという事を身につけた人である」
云々と評している。
交響曲全集、管弦楽曲集 シュミット=イッセルシュテット&北ドイツ放送交響楽団(4CD)

交響曲全集、管弦楽曲集 シュミット=イッセルシュテット&北ドイツ放送交響楽団(4CD)

HMVのホームページにこのCDが売りに出されていて、なんと 
だそうです。

なにか許せない感じがしてきます。



指揮者のベストテンというのが、色んな所でやられている。しかし指揮者によって得手・不得手というのがあるはずで、納得行かないところがある。

私としてはベートーベン、シューベルト、シューマン、メンデルスゾーン、ブラームス、ブルックナー、ドボルザークが聞ければいいので、そういう曲をやらせたらうまいベストテンというのを作って欲しい。

もう一つ、コンサートに行ったり、高いオーディオを揃える人ではなく、“ながらリスナー”だから、実物に接しての思い入れが強すぎても困るのです。

ということで、目下のお気に入り10人。

ジョージ・セル

カルロス・クライバー

オットー・クレンペラー

ヘルベルト・フォン・カラヤン

ギュンター・ヴァント

ヴィルヘルム・フルトヴェングラー

カール・ベーム

フリッツ・ライナー

ジョン・バルビローリ

ハンス・シュミット・イッセルシュテット


生きている人というなら

ロリン・マゼール

パアボ・ヤルヴィ

マリス・ヤンソンス

リカルド・ムーティ

ブロムシュテット

小沢征爾

ゲンナジー・ロジェストヴェンスキー

エリアフ・インバル

クラウス・テンシュテット

(ジュゼッペ・シノーポリ)

あたり

割と体育会系ですね。
シノーポリは故人だが、入れておきたい一人です。RAIを振ったブラームス4番は、今にも心筋梗塞を起こしそうな熱演です。

イッセルシュテットの評判は何故か高くないが、ベートーヴェンの交響曲全集はやはりすごいと思います。


これまでバッハのパルティータといえば、グールドの専売特許みたいなものだった。
デッドな環境でポクポクと鳴るピアノとグールドのうめき声、面白くもなんともなかった。
ところがソコロフのパルティータを聞くと、ピアノの筐体の音が聞ける。箱ごと鳴ってこそピアノというものだろう。
おそらくピアノを響かせるために遅いテンポをとっているのだろう。ペダルもタップリと使っている。
さすがにテンポを揺らすところまではやらないが、フェルマータはたっぷりとっている。
タッチはあくまでも柔らかで、強奏部分も指力だけで弾ききっている。腕力に自信がないとこういう音は出せないだろう。




「マツダ訴訟で画期的判決が出た」という見出しにつられて手を出した。

以前から、読まなければとは思いつつも、労働運動面の法律だらけの文章はとっつきづらく、ついつい敬遠している。

この文章も読みにくいこと。

山口地裁で行われていた「マツダ訴訟」で、派遣切りされた労働者が正社員としての地位を認められた。

判決は、

①派遣社員は実態として正社員の代替として使われていた。

②これは労働者派遣法の原則に違反する。

③もって、労働契約は無効である。

④派遣契約が無効であるとすれば、実態としては正社員の代替としての暗黙の労働契約が成立していたものと考えるのが妥当である。

という筋立てになっているようである。


これからは、個別に実態に合わせて判断するということになるようだ。

要するに、派遣契約が「労働者派遣法」の趣旨に照らし合わせて無効だと判断されれば、自動的に正社員と同様の扱いになるということのようだ。

当然会社側は控訴するだろうから、高裁・最高裁とまだまだ時間はかかるだろうし、その間に逆転される可能性もある。

しかしなおかつ、この判決の意義は高いとされている。

やっぱりよくわかんねぇな。

保育所関連状況取りまとめ(平成24年4月1日)

厚労省のサイトのこのページが、今のところ最新の資料と思われる。これは発表用のステートメントとと添付のPDF資料からなっている。発表用のステートメントと資料との間に、かなりの乖離が見られるのが特徴である。

まずは全国状況

保育所定員は224万人
これに対し利用児童数は2,176,802人


全国的にはほぼ満度に利用されていることになる。少なくとも保育所余りということはない。

ついで傾向だが

利用児童数は53,851人増加。平成6年の調査開始以降、最高の増加数となった。
これに対し定員数は3.6万人増にとどまっている。


需給バランスが明らかに悪化しているのは確かである。

ついで待機児童数

待機児童数は24,825人で2年連続の減少となった。


ということなので、需給バランスの悪化にもかかわらず減少した理由がよく分からない。多少の悪条件を忍んで入所するケースが増えているということか。

いずれにしても、過疎化地域をふくむ全国一律の数字では実態はよく分からない。

地域別に見るとどうなるか

待機児童のいる市区町村は、前年から20増加して357となった。

大阪市(268人増)、福岡市(166人増)、藤沢市(125人増)など7市町では100人以上増加した。


ということで結構多い。ただ待機児童数そのものを出さないのは、なにか意図を感じさせる。


このブリーフィングだけを読むと、定員数は利用者数を上回っている。定員数は着実に増加している。待機者数は減少している、という事実が印象づけられる。つまり多少の問題はあっても、保育行政はおおまかに言ってうまく行っているということだ。

ということで、プレスリリースのブリーフィングはなにか変だ。肝腎の数が出てこない。というより意図的に隠されているという印象だ。そこで添付されたPDF資料まで踏み込むこととした。


まず、「特定市区町村」という概念がある。これは50人以上の待機児童がいて、児童福祉法で保育事業の供給体制の確保に関する計画を策定するよう義務付けられる市区町村 を指す。

これこそ、我々の知りたかったものだ。

「特定市区町村」は前年から13市区町村増加し、107市区町村となった。

これが問題の核心でしょう。政府自身も「これは問題だ」と言わざるをえないような市町村が100もあって、しかもますます増えている。
しかも1年間で、107÷(107-13)=14%の増加だから、緊急事態と言わざるを得ない。

ここを記者会見で発表しないのは不届きと言われてもしようがない。

次に経年推移を見る。

利用児童数は
H17 1,993,796
H21 2,080,072
と4年間で1万人の増加なのに対し
H24 2,176,802
とその後の3年間で10万人も急増している。この事実もブリーフィングでは隠されている。

増えただけではなく、偏在が進んでいる

1080市区町村で約6万3千人増加した一方、583市町村で約9千人の減少。

つまり保育所に対する需要は、この4年間に、大都市圏において、急増 していることになる。行政対応は明らかに出遅れている。

最後に保育需要が増えた原因であるが

データから推定されるのは、貧困化である。

就学前児童の総数は6,364,000人である。前年が 6,414,094人であるから、5万人ほど減っている計算になる。

にもかかわらず保育所利用児童の数は、5万人増えて 2,176,802人に達している。
したがって、児童の保育所利用率は急速に上昇している。実に総児童数の34.2%に達しているのである。
とくに増加が目立つのが3歳未満児で、前年に比し1.3%の増加を示している。なにか大きな地殻変動が起きているといわざるをえない。

これを世帯所得の推移や、女性の就業形態の推移と合わせると、“パートにでも出ないと食っていけないから”、という押し出され型就業が容易に想像される。

我々の時代の共稼ぎとは明らかに性格をことにしており、ポジティブな意義付けはできない。

「良い保育を望むなら、民間で」などという余裕はない。保育対策は貧困対策でもあり、就労支援でもある。軽費で利便性の良い公的保育施設がもとめられている。(此処から先は、言ってはいけないことかもしれないが、緊急性に鑑みて、多少の設置・運営基準の軽減はありうると思う)

例えば生活保護の中で大きな比重を占める母子家庭に対しても、保育の確保により就労問題を解決しないと、生むことが貧困につながり、罪悪のようにみなされる時代になってしまう。

個人の尊厳に関わる深刻な切羽詰まった内容が、そこにはふくまれていると見なければならない。(現にネットの世界では、生保受給者いじめまがいの非難と同様な、ギスギスした論調がかなり見られる)


すみません、私の認識不足なんですが、保育所が足りないなんて考えても見ませんでした。
むしろ定員不足で経営は大変だろうなぁ、くらいに考えていました。
我々がパパ・ママ世代だった頃、とにかく保育所はありませんでした。
なにせ団塊の世代が一斉に結婚して子供を生み出したのですから、足りるわけがありません。
おまけに女性の社会進出が一気に進んだ時代でもありますから、お母さん方は血相変えていました。
こちらとしては「そんなに大変なら仕事辞めたら?」くらいに内心思ってはいましたが、とてもそんなことを言える雰囲気ではありませんでした。
とにかく彼女たちは、文字通り階級闘争と位置づけていましたから、一方では「ポストの数ほど保育所を」と訴えつつ、他方では無認可の手作り保育所の立ち上げと運営に関わって行きました。
やがてそれが学童保育に代わっていき、90年ころにやっと一段落を迎えたのでした。

その頃と比べれば、子供の数は減っているし、ジジババ(我々のこと)の数は増えているし、それなりの少子化対策も立てられているし、と思っていたのでした。

今日の赤旗主張によると、東京都内で待機児童が2万5千人に達しているとされています。これは4月からの入所を申し込みながら、受け入れが決まっていない児童の数だそうです。

主張には「なぜそうなったのか」があまり書き込まれていません。2万5千人という数が多いものなのか、こんなものなのかも分かりません。

少し調べてみなければなりません。




TPP集中審議での笠井議員の質問で、面白いパネルが使われた。
http://livedoor.blogimg.jp/shosuzki/imgs/2/1/2161d5f4.jpg

不参加決議を上げているのが、九州、四国、東北、北海道だ。慎重派が、それ以外の北九州、中国、近畿、東海、関東、北陸を占める。山口、群馬がちょっと毛色の変わった決議になっているのは自民党のお膝元だからか。
そしてまったく決議を上げていないのが東京、大阪、山梨の三県だ。
山梨はよく分からないが、要するに東京、大阪が他のすべての地方を押さえつけて強行しようというのが、TPPをめぐる政治地図だ。都会が地方を犠牲にして自分の利益を得ようというTPPの階級的本質が、実にみごとに浮き彫りになっている。



財政再建論者は、結局、金融恐慌という名の呪縛に陥っているのではないか。

端的に言えば、今の銀行は要らない。大企業にとっては内部留保で首まで浸かっている。

中小企業にとってはしょせん縁なき衆生である。

つまり金融恐慌などありえないのである。

いま、ボルカー・ルールを厳密に適用すれば、リテールを中心とする本来業務は2割にも満たないのではないか。

もし銀行が経営危機に陥れば、この部分だけ救済すればよいのである。

自己勘定部門(あるいは自己勘定もどき) はどうせ投機なのだから、実体経済とは関係ない社会である。

リーマン・ショックというが、本当の問題はそれ以前にあるのであり、しかもそれは未だに続いている。蛇口を閉めなければダメだ。

禁止的な金融取引税の合意が、どこかで結ばれなければならないと思う。


新笹子トンネルの事故原因が、ほぼ確定したようだ。

まずは引抜き試験。

2013/02/01 22:09   【共同通信】

 天井板崩落事故が起きた山梨県の中央自動車道笹子トンネル上り線で、崩落しなかった天井板のつり金具アンカーボルトを引き抜き試験した箇所の6割が、設計上の荷重耐久力を下回っていたことが1日、国土交通省の調査で分かった。

 一方、ボルト自体やトンネル本体天井部コンクリートの強度は、ほぼ問題なかったことが各種試験により判明。ボルトやコンクリートではなく、固定部の接着剤の不足や劣化が崩落の原因だった可能性があり、国交省は成分解析などを進める。

 引き抜き試験した183カ所のうち16カ所は、荷重が均一だった場合、計算上1本のボルトにかかる重量を支えられないほど弱かった。


これで分かったことは、ボルト自体やトンネル本体天井部コンクリートの強度は、ほぼ問題なかったこと。

しかし、接着剤犯人説に行っちゃう前に、強度設計上の問題と、そもそも打込みアンカーボルトという方式が正しかったかどうかという問題は残る。


次が1か月後の報道

2013/03/05 05:47   【共同通信】

 9人が死亡した天井板崩落事故が起きた山梨県の中央自動車道 笹子トンネル上り線で、天井板のつり金具アンカーボルト183本の引き抜き試験をした結果、構造上は13センチ差し込まれているはずなのに、半分以下の5 センチしか入っていないものがあったことが4日、捜査関係者への取材で分かった。差し込みが13センチ未満のボルトは数本あった。

 上り線はアンカーボルトが1万1613本あり、全体では差し込み不足はさらに多かった可能性が高い。


これで、話の辻褄は合うことになった。強度設計もアンカーボルト方式も接着剤も問題はなく、すべては施工の手抜きにあったということになる。

ただ調査委員会の最終結論はまだ出ているわけではない。

もし、施工主の手抜き工事に原因があるとすれば、業務上過失致死も問われる話になるが、施工会社名は明らかにされていない。(大成建設と大林組のジョイントとの情報もあります)

ちょっと気になるのは、後ろの記事の胡散臭さである。183本の中の4本が13センチ未満ということで、大した数ではない。5センチしか入っていないものがあったと、鬼の首でもとった言い方だが、6割が耐久強度を下回っていたわけで、その説明にはなっていない。

むしろ、設計上の荷重耐久力を下回っていた6割のうちのほとんどは、13センチ以上入っていたのにもかかわらず、支える力が足りなかったという事実のほうが重いのではないか。

しかも捜査関係者の「身内話」だから、その関係者がどちらの方面の“関係者”なのかも気になる。

写真を見る限り、ボルトのネヂ山は白い物質で埋まっている。おそらく接着剤であろう。とすれば、アンカーボルト屋さんが「絶対に抜けない」と言っていたのは間違いということになる。

手抜き工事も、点検の手抜きも明らかだ。しかし、それはそれとして、調査の核心は技術的な問題がなかったかどうかだ。いかにして落ちたのかを明らかにしないと、なぜ落ちたのかという理由は見えてこない

各地で吊り天井の撤去が始まっているところを見ると、どうも、「アンカーボルトによる吊り下げ工法は駄目だ」という結論が出ているのかもしれない。

公表はされないが、それはなにか別な理由があるのかもしれない。
誰も刑事責任を取らなくて済むための調査発表のあり方とか…




全量買取制度が発足して1年近く経った。資源エネルギー庁の発表によると、稼働済みの設備が120万KW、稼動予定が500万KWということだ。12月末での集計ということで、9ヶ月でここまで達したのがすごいとも言えるし、こんなものかとも言える。

しかし日本の総発電量は30億KWだ。再生可能エネルギー発電設備の9割強が住宅用ソーラーというから、「発電しました」というより「節電しました」という方が似合いそうだ

当分はLNGをどれだけ安く仕入れられるかが工夫のしどころだろうが、このままの輸入超過が続くと、いつまでも持つわけではない。

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