鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

AALA関連記事は「aala_newsの編集日記」http://blog.livedoor.jp/aala_news/ に移りました(6Nov.2023) 中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 「ラテンアメリカの政治」(http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ )がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

2013年02月

決して、それを見るのが主目的ではないが、
赤旗の訃報欄は、何故か目が行ってしまう。
ひとつには、それが自分にとって最高の墓碑銘だからだ。
訃報欄で知った名前はたくさんある。
一つ一つ読むたびに、しばしの感慨に耽る。
そして、自分の順番が近づいてくるのを感じざるをえない。
親の代はあらかた死んだ。野坂・徳球の時代だ。
いまや戦後第二世代が続々と死につつある。
いろいろな意味で、もっとも倫理的な世代だ。
僕らは彼らにもっとも負うている。
僕らにとって、マルクス主義は、まず何よりも哲学だった。
だから訃報欄を読むのは時代の精神を読むことであり、それ自体が哲学の学習なのだ。ただし「時代」は周回遅れかもしれない。


かつて近畿・東海から中国地方にかけて「銅鐸人」と呼ばれる集団が住み、銅鐸文化を形成していた。
①彼らの宗教的シンボルは「銅鐸」であり、これは後ほど侵入する天孫信仰とは異なるものであった。しかし銅鐸そのものは九州北部から伝播したものが起源となっている。
②銅鐸人集団は九州北部の政治・軍事センターに従属しつつ、紀元前200年頃から相対的に自立した生産社会を営み、独自の文化を持つ社会を形成した。その過程で独特の銅鐸が生み出された。
③銅鐸文化は山陰に始まり瀬戸内、四国、近畿、東海へと波及していった。そして紀元100年から200年にかけて近畿を中心にピークを迎えた。稲作が一部導入されつつも、依然として採集生活の色彩を強く残していた。
④出雲の銅鐸人諸集団は紀元前後に、近畿・東海の集団は紀元200年前後に、天孫信仰を持つ人々により制圧された。銅鐸信仰は異端として禁止され、人々は天孫信仰への帰依を迫られた。
⑤銅鐸は銅鐸人により埋葬・廃棄された。その後、銅鐸信仰そのものも廃れ、人々の記憶から消し去られた。

井上議員が参議院での質問で、日米TPP共同声明の3つの問題を指摘している。

第一は、共同声明の文言をめぐる問題。
「一方的に、すべての関税を撤廃することを、あらかじめ約束することを、求められるものではない」
これは素直に読めば、「交渉の場で例外を主張することを妨げない」という程度のものしかないということになってしまう。
交渉の結果、関税撤廃の聖域が認められる保証とはなっていない。「あらかじめ約束はしなくても最終的には約束しなければなりませんよ」と、日本側に釘を刺す文言としか受け取れない。

第二は、米国だけで済む話ではないということだ。
TPPは日米FTAではなく多国間協議である。米国がそう言ったからといって承認された事にはならない。加盟予定国すべての承認が必要だ。
現にニュージーランドは一切の例外措置を認めていない。

第三は、自民党の掲げた6項目の判断基準がまったく触れられていないことだ。
具体的に食の安全を守る、国民皆保険を守るなどの問題がまったく触れられておらず、きわめて抽象的だということだ。自民党が公約に掲げた6項目基準が守られる保証がなければ、参加には反対するのが筋ではないか、というもの。

いずれも説得力があり、一発で内閣を轟沈させるだけの迫力がある。

かつてGATTウルグアイ・ラウンドでのメインテーマは「例外なき関税化」であった。これさえも途上国にとってはかなり辛い選択であったが、今度は関税そのものが敵視され、その全面撤廃が求められている。困難さのレベルが違う。
はたしてこれが正しいのか、少なくともそのための前提条件が満たされないままの見切り発車が適切なのか、まずそこから考える必要がありそうだ。
私としては、この貿易と開発の原理・原則をめぐる重大な選択は、国連を中心に議論すべきだと思う。関連諸機関としては、とくにUNCTADとILOの参加が不可欠だ。

「低価格競争は体を蝕む」という記事で、海外での低価格競争が賃金デフレの原因であったとし、「海外支店の営業マンはそれなりに頑張ったという自負を持っているのだろうが、それが結局日本の体力を弱めたのではないか」と書いた。

奥田碩会長以来、三代の経団連会長は海外志向が強い人物が続いている。
奥田氏はトヨタ自動車販売の経理部から豪亜部長に転出し、社長になる前は北米事業準備室副室長であった。
御手洗冨士夫氏は、まさに営業の鬼であった。23年にわたるアメリカ勤務のあいだに平社員からキヤノンUSA社長に上り詰め、本社に戻ってからは、強引な手法で1兆円近い債務を解消させた。やったことは徹底的なリストラとアウトソーシングである。
その功績が認められて経団連会長にまで進んだが、成り上がり者の悲しさで、労働コストの削減を国家的に進めるべきだと思い詰めてしまった。それを竹中平蔵のようなヨイショが持ち上げて、それが国策にまでなってしまった。

後の世からは、1997年以降の15年間は“狂気の時代”として記憶されるかもしれない。国際競争力が叫ばれながら、国際競争力の源となるものづくり技術は徹底して軽視された。バブル後の経営危機のなかで営業畑が技術畑を圧倒したのである。オリンパス然り、キャノン然り、ソニー然りだ。

海外経験が豊かな国際感覚に結びつくというのなら、それはそれで良いのだが、海外で身につけたのはシェア争いをめぐる“仁義無き戦い”の論理だったのではないか。
外国に行けば国際感覚が身につくというわけではない。例えば海兵隊というのは“海外活動”のための軍隊だ。しかしそこで身につくのは“殺さなければ殺される”という「野獣の論理」でしかない。すべての価値観は「生か死か」というレベルにまで単純化される。海兵隊員は戦場から教養を身につけて帰ってくるのではなく、「狂気」や心の病を負って帰ってくるのである。

サヴァリッシュが死んだという話だ。
写真を見ただけでも「良い人だ」という感じは分かる。しかし音楽的にはパとしない人だったと思う。
芸術家って、もっと自己中でアコギな人でないと務まらないのではないだろうか。
楽譜から、そのエスプリをざっくりと切り出して、血の滴るようなリアルさで供覧するというのが、指揮者の仕事なんだろうと思う。
そこを最初から妥協してしまってんじゃぁ話にならない。衛生無害、森永のウエハースみたいなものに食欲はわかない。
N響との相思相愛ぶりが話題になるが、N響はこういうさらさらお茶漬け系が好みだ。
テレビの出始めの頃、N響の演奏会は岩城と外山という二人の若手指揮者が振っていた。その後森正や若杉という人が振っていた。その合間にサバリッシュが出ていた。当時はザバリッシュだったと思う。

岩城を除けばサラサラ系ばかりだ。脱臭装置を通過した屁みたいなものだ。演奏そのものはまったく記憶に残っていない。「ええゾォ!」というのはコンスタンチン・シルベストリくらいだ。

結構これで、オーケストラというものに対するイメージが刷り込まれたと思う。だから大きくなってからコテコテ系やネットリ系に慣れるのに時間がかかった気がする。

ショルティがロンドン交響楽団と静岡に来て、アンコールでブラームスのハンガリー舞曲第5番を演奏した時の興奮は忘れられない。トロンボーン3本で会場を押さえつけた。

コンサートというのはもっと肉体的なもので、エクスタシーなんだと初めて分かった。

それにしても、日本の音楽評論家というのは不思議な人たちで、フルトヴェングラーをもてはやしながらサヴァリッシュを褒め称える、この神経がよくわからない。

医療保険がいかにおいしい商売か

損保ジャパン総研クォータリーの2007年版に
米国における健康保険市場と保険会社のヘルスケア事業」というレポートがあって

その中に表があるのだが、ちょっと細かすぎてこのブログにそのまま載せられない。
興味のある人は、そちらに直接当たって欲しい。

アメリカの営利保険会社はメジャー12社がある。
その12社の合計額で示しておくと、

加入者総数は1億1600万人、保険料収入は2,227億ドルとなっている。

注目すべきなのは純利益が130億ドルに達してるということ、もう一つは損害率が81.6%にとどまるということである。掛け金の2割近くが会社の懐に入るというのは、日本ならパチンコ業界並みで、公取法違反の捜査対象だ。

メジャー12社と書いたが、実は上位4社の比重がきわめて高く、とくに純利益総額130億ドルのうち108億ドルを4社が占めている。
つまりこの業界は完全な寡占状態に入っており、自由主義経済の信奉者が説く“市場原理”は働く余地がない。自由競争とは正反対のものに変質してしまっている。

要するに、国民が医療費と考えて出した金の2割は保険会社の儲けになって消えてしまうのだ。シッコの世界は本当だった。「市場原理に基づく効率的な運営」というのは嘘だ。“独占企業の利益原理に基づく、やらずぼったくりの運営”が実態だ。



なるほどそう来たか 軽自動車優遇批判

TPPへの動きが本格化するなかでアメリカが最初のジャブを繰り出してきた。

叩かれてみて、自動車業界もそこがアキレス腱だったことがわかったと思う。

これまで自動車工業会はTPP参加の旗振り役だった。おそらく他の業界が打撃を受けても自分だけは大丈夫だと思っていたからだろう。

たとえば1年ほど前、自動車工業会の志賀俊之会長は、米国通商代表部が自動車と牛肉の市場開放、かんぽ生命保険の見直しを求めた事に対し、こう語っている
「日本への自動車の輸入関税はゼロで完全に解放されている。アメリカは2.5%の関税をとっている。どこを閉鎖的と言っているのか、具体的な中身を知りたい」
かなり挑戦的な発言で、アメリカ側の神経を逆なでした可能性はある。

この発言に刺激されたのか、アメリカ側は自動車工業会の分断に出たといえる。おそらく軽自動車を生産していないメーカーは心の底では賛成するだろうという腹だ。日本の一部にも、「本当にアメリカの口出しなのか、財務省やトヨタ・日産の工作もあるのではないか?」などという声があるそうだ。

背景には、世界的に見て高いといわれる自動車税(ただしこれは自動車工業会の資料)と、それに群がる運輸、警察官僚の利権構造への不満がある。アメリカの自動車を本気で売り込もうを考えているわけではあるまい。これを利用して「TPPも悪くはないな」という意識を作り出すためのキャンペーンだろうと思う。

これが通れば、スズキとダイハツは間違い無く潰れるだろうという。勝ち組とされた自動車産業でも選別が始まるわけだ。結局はトヨタ一社のために日本のすべての産業が犠牲になるというTPPの構造がますます浮き彫りになってきた。

私は軽自動車の規格は残すべきだと思う。日本の国土や道路事情に合っているし、エコノミーでエコロジーである。性能改善も進み、燃費も小型ハイブリッド車並みに改善されつつあるという。まさに高齢化社会、省エネ時代にはうってつけの車なのだ。

そのかわり快適感には欠ける。一般車と伍して走るには安全性が不安である。基本的には作りに無理があるだけに、耐久性にも問題がある。そのぶん安くてもいいと思う。
逆にいえば、それ以上の車に求められているのは、つまるところはラグジュアリーだから、税金が高いのはやむをえない。(それが官僚の利権の温床になっていることは、また別な話だ)

現行の自動車税は軽四なら7200円、排気量1リッターのいわゆるコンパクトカーなら29500円だ。これが2千を超えると4万円まで跳ね上がる。これなら多少の我慢はしても軽に乗る人が増えるはずだ。

軽自動車の比率はますます増大し、12年に36%に達した。近いうちに4割に達する可能性もあるという。
こうなれば、ひとつの文化だ。韓国は日本より貧しいはずなのに、街ではほとんど軽を見かけない。日本人に比べると、韓国人は見えっ張りなのだと思う。(かく言う私も見栄でトヨタ・ウィッシュに乗っているが)



今回の事態でもっとも重視しなければならないのは、口当たりの良い話で、非関税障壁の撤廃につなげようという狙いだ。非関税障壁と呼ばれるものには、文化とか公序良俗のすべてが含まれてくる。

額として一番大きかったのが郵政の簡易保険だったが、次には医療保険が狙われている。アメリカの医療保険会社にとっては、日本の医療保険制度そのものが“非関税障壁”なのだ。

それなりにボサノバにはまりつつある。
ボサノバの立ち位置はすごく揺らぐんですね。
基本的にはカルロス・リラの立っているところが真ん中なんだろうけど、彼はものすごいジャズ・コンプレックスなんですね。だからボサノバがブラジル的なものに行こうとすると感覚的にはすごく反発する。「それはボサノバではない」という感じでしょうね。
一方で、マルコス・バリーはジャズというよりアメリカンポップスに行こうとする。これはまったく白人のその辺の人の音楽なんです。
ふたりとも「ブラジル的なもの」が何なのか分からずに、とにかくアメリカ的なテイストを求めて曲を作っていく。
それを周りがムジカ・ノヴァだと囃し立てるから、もうやっている本人がわからなくなってくる。

これはレゲエと似ています。本人たちはまじめにロックやっていると思っているのに、周りはこのひなびた“ロック”に味がある、と注目したのです。沖縄の島唄が何故か変にブームになってしたったところと似ています。

このへんの響きあいは、コールマン・ホーキンスのジサフィナードが最高です。逆に彼らに教えられる形でカルロス・リラがボサノバのスタイルを作り上げていくことになります。



共産党の賃上げ政策は非常に正確だと思う。
現在働いている労働者の賃上げだけではなく、以下の4点を総合的に押し出しているからだ。
①非正規雇用への不当な差別や格差をなくし、雇用のルールを守らせ、均等待遇を図るとともに、非正規から正規雇用への流れを作る。
→このために労働者派遣法の抜本改正を行う。
②最低賃金を現在の全国平均749円から、1000円以上に引き上げる。
→そのため、抜本的な予算増により事業主負担の軽減を図る。
③非正規労働者の最大の受け皿となっている中小企業を保護し、大企業の横暴をやめさせる。
→このため、独占禁止法を強化するなどの対応を行う。
④公務員の賃金引き下げは1兆2千億円のマイナス効果を生む。生保の切り下げは最低賃金の抑制をもたらす。これらは中止すべきである。
(公務員が多いと言われてきたが、そのほとんどは郵政の現業労働者であった。それがいなくなったいま、日本公務員数は圧倒的に少ないことが明白である。現場の公務員を叩いてもこれ以上は鼻血くらいしか出てこない)


経団連は「実質的な賃金は上昇している」、物価が下がっているのだから「生活水準が低下しているとの主張は適切ではない」と言っているそうです。(2013年版 経営労働政策委員会報告)

これは、きわめて単純に給与総額の低下を物価指数で割れば答えが出ます。

1361890638

1997年(平成9年)の民間給与は467万円、このグラフでは2011年までしかないので11年の給与が409万円、差し引き58万円の低下、これを467万で割ると、マイナス12.4%です。
消費者物価指数は97年に比べ年平均値で約3%の低下ですから、とても引き合うもんではありません。

ただし、これをドル換算にすると俄然話は違ってきます。どういうわけか1997年の円相場の平均が120円ちょうど、12年の平均が80円ちょうどですから、円の価値は1.5倍となっています。給料が1.5倍になれば、5%や10%程度の差はぶっ飛んでしまいます。
しかし円高差益はほとんど消費者物価に反映されていません。これは一体なぜでしょうか?

https://livedoor.blogimg.jp/shosuzki/imgs/5/a/5a3dbbed.jpg

日本総研リサーチアイのレポートから転載したものです。

国際商品のドル建て価格は7年間で2.1倍になっていますが、円換算にすると1.4倍となります。これが円高差益が消えた部分と相殺されるかどうかはわかりませんが、ひとつの要素ではあるようです。

「輸入物価の上昇が続くなかで、円高効果は輸入インフレの緩和にとどまり、輸入品の値下げを通じた需要喚起には至らな」かったというのがこのレポートの趣旨です。

しかしこのことを全面的にソロバンを入れて分析したレポートはまだ見つけていません。



内部留保については前にもだいぶ調べた。
「内部留保は工場や機械になっているから取り崩せない」
という主張は、ほとんどデマ宣伝であることが既にはっきりしている。
未だにそういう人がいたら、その人の言うことは信用しないほうが良い。平気で嘘をつく人間なのだから。

とりあえず、2011.7.25の記事「内部留保の意味も知らずに…」の一部を再掲しておく。

たとえばこんな記事がある。「内部留保の意味も知らずに内部留保を切り崩せと言わないでほしい」という題で、赤旗の記事に対して、「後ろ盾となっている理屈がめちゃくちゃ。嘘つきなのか無学なのか」と切りつけている。

この人はソニーではなくトヨタの人のようだ。どういう人かと見たら別に会計や経理の専門家でもないSE系の人のようだ。「嘘つき」はありうるが、共産党が「無学」なんてありえないでしょう。

で、赤旗のどこが滅茶苦茶かというと、

①「内部留保は隠し利益ではない」

こ れはたしかにあたっています。赤旗の記事は「内部留保(隠し利益)を…1.5倍も増やしています」と書いていますが、これは不正確です。ふつう「隠し利 益」というのは各種引当金の過大評価で税金逃れをしようとすることを指して言います。
ただしウィキペディアによると、日銀統計ではこれも内部留保にカウントしているようです。

②「内部留保は実は現金ではない」

内部留保の総額は大幅に増え、現金・預金資産は逓減し、設備投資は抑えられている。その代わりに「投資有価証券」は倍増している。これらの事実は誰の目にも明らかです。(図表略)

赤旗の記事はこれをもって「隠し利益」だといっているのではないでしょうか。赤旗はそれほど無学ではないと思います。

③「有形固定資産(土地・建物・装置など)が内部留保にふくまれている」

この文章は「トヨタの20年度の有形固定資産は8兆円弱ほどあります。これは実際にはお金を使っていますが、コストには換算されないので、利益を押し上げています」と続く。要するに内部留保とされているものは、実際には固定資産だと言いたいようだ。

このことをもって共産党は滅茶苦茶といっているのなら、言っている本人が滅茶苦茶です。内部留保は貸借対照表の右側に明記されますが、その運用は左を見てもわからないのです。他の諸表に当たるか、バランスシートの経年変化から追っていくしかないものです。

この20年間のあいだに内部留保が1.5倍に増えて、それに対応して左側項目の数字がどう動いているかが問題です。固定資産に行っていないことは一目瞭然です。(図表略)

内部留保は必ずしも現金や預金として保有されている わけではない」というくだりは、実は経団連の受け売りです。2011.2.28 の更進記録にも書いたのですが、経団連は今やこの主張を取り下げています。そのくだりを再掲します。

経団連の経労委報告が大きく書き換えられていたことが発覚しました。「内部留保は必ずしも現金や預金として保有されている わけではない」、現金や預金も「仕入れ代金や給与などの運転資金として確保する必要がある」
という記述が削除されたのです。

日銀が昨年12月に発表した資金循環統計によれば、民間法人が保有する金融資産のうち「現金・預金」は206兆円で過去最高となっています。今回の措置は、もはやこの種の詭弁が事実と食い違うことを取り繕えなくなったための変更でしょう。

④選挙前ということで確信犯でウソをばらまいているならまだかわいいのですが、本当に会計を理解せずに、間違った判断をばらまいているのなら問題は深刻です。

 これは慢罵です。言っていることはこれだけです。①だけにとどめておけばよかったものを…

内部留保が企業活力の源であることは疑いありません。それはかのバフェットも強調するところです。
問題は、トヨタマン氏が信じているのとは逆に、内部留保が有形固定資産(土地・建物・装置など)をふくむ生産的投資に回っていないところにあるのです。回らずにひたすら膨らみ続けることが問題なのです。


もう一回グーグルで検索してみた。たしかにこのファイルは出てくるが、1年以内というフィルターをかけると消える。

甘利さんのサイトで見ると、この人は以前の自民党政権時代にも通産大臣をやっているようだ。
したがって、これは3.11前の出来事かもしれない。

たしかに今こんなことを言ったら大問題ですね。しかし3.11前には平気でこんなことを合意していたんだということが分かりました。

いまでも本心はこんなトコロじゃないんでしょうか。

ウィキペディアで調べてみました。

Samuel Wright Bodman III
11th United States Secretary of Energy
In office
January 31, 2005 – January 20, 2009

ということでブッシュ政権の終了とともに職を辞しています。
Forbesによると、その後は
Director of AES since April 2009, and serves on the Compensation Committee of the Board.
ですが、現在は公職からはリタイアしているものと思われます。

これってなんだろう
http://www.enecho.meti.go.jp/policy/nuclear/pptfiles/080610_1.pdf
ていうファイルだ。親元を辿って行くと

資源エネルギー庁 Agency for Natural Resources and Energy

のサイトに突き当たる。

7日というのが何月の7日なのかもわからないが、グーグルで 原発、日米共同声明、1ヶ月以内、とやって検索したらこれがヒットした。
今度は「日米原子力共同声明」と入れて検索をかけてみたが、それらしきものは引っかかってこない。
甘利さんが経済産業大臣だから2月でなくても1月だろう。

日米原子力共同声明の発表について
~ 日米のエネルギー担当大臣、原子力協力の更なる強化に合意 ~
~ 米国での新規建設支援に国際協力銀行等を活用へ ~

甘利経済産業大臣とボドマンエネルギー省長官は、7日、我が国の主要原子力施設が立地する青森で会談し、原子力協力についての共同声明を発表。
日米間では、昨年4月に策定した日米原子力エネルギー共同計画に基づき協力が進展。本年7月から協力の第2フェーズに入る。両大臣は、これまでの成果を確認するとともに、研究開発及び米国での新規原子力発電所建設などの各分野での協力を一層強化することで合意した。

以下が要約

◯昨年4月に日米原子力エネルギー共同計画が策定された。これに沿って、高速炉技術やサイクル技術等の研究開発や新規原子力発電所の建設など着実に協力が進展している。

◯高速炉の実証炉や燃料サイクル技術の研究開発について協力する。もんじゅの活用も検討する。また、発展途上国で要望の強い中小型炉の設計についても協力を進める。

◯米国での新規原発建設のために、日本貿易保険(NEXI)や国際協力銀行(JBIC)の活用を検討する。これを米国エネルギー省の債務保証制度と組み合わせて、プロジェクトを支援する。


(共同声明の意義)


◯世界的な原子力発電の見直しの中で、米国では30年ぶりの原発の新規建設を計画している。原発建設では資金調達が課題であり、プロジェクトの規模が大きいことから、金融支援面での政策協調が課題。

◯米国への金融支援が進めば、日本の原子力産業の海外展開が大きく進み、国際競争力の強化が期待される。

◯JBICは先進国向けの金融支援は原則禁止となる予定だが、必要な場合は、政令を制定することにより、投資金融は可能だ。

◯高速炉の研究は、日米に加え、フランスとの3ヵ国間でも協力を積極的に推進しており、今回の合意で3カ国の協力にも弾みがつくことが期待される。

「こんなもの出しちゃっていいの」というくらい露骨な文書だ。しかも高官級ではなく、政府間の公式文書だ。
これが日米首脳会談の下敷きになっている。

消えてしまうかもしれないので、早めの閲覧をお勧めする。


書き方が不正確だった。日米共同声明が出されたのはTPPに関する項目だけで、他の点については「1時間半の会談のなかでこういうことが触れられました」という時事通信の報道であった。以下が時 事通信の伝える会談の「骨子」である。

日 米 首 脳 会 談 骨 子

 1、TPPで関税撤廃前提とせず
 2、日米同盟強化を確認
 3、対北朝鮮国連安保理決議採択へ連携
 4、日本は集団的自衛権の行使容認検討
 5、日本は中国に冷静対処
 6、米軍普天間飛行場を早期移設
 7、ハーグ条約の今国会承認を伝達
 8、日本は2030年代原発ゼロ見直し
 9、シェールガス対日輸出要請(ワシントン時事)

したがってこの6点は、いずれも文頭に「日米同盟強化のため」という枕詞が付けられなければならない。
そして4~9が両国関係におい て相互要請している内容となる。
そして9を除く5項目(さらにTPPも)はアメリカの要請に基づいており、それを日本が「同盟強化の立場から」受け入れるものとなっている。
シェールガスのみが 日本からの要請であるが、アメリカはここだけは「同盟強化」の立場を明らかにしなかった模様である。

これらのことは日米同盟が片務的なものであり、従属的な同盟関係であることを明らか にしている。



時事通信の報道では、共同記者会見のなかで、

「原発再稼働」
首相 2030年代に原発稼働ゼロを可能にするとの民主党政権の方針はゼロベースで見直す。
と書かれているのみだ。

赤旗の山崎特派員は、さらに安倍首相の発言を補足しています。

米国とは原子力協力のパートナーとして緊密に連携して行きたい

“原子力協力のパートナー”というのは、“核の傘”のことを指しているのでしょう。

だから安倍首相の発言はこう読めます。すなわち
日米核同盟に協力するために、原発は継続する。そのためには、たとえ国内世論の大半が原発ゼロを望んでいたとしても、断固原発は稼働し続ける。
ということです。

それが何を意味するのか、日本の原発は発電設備ではなく、核兵器の原料供給設備として位置づけられているということです。

そうでなければ、原発はたんなる国内問題です。日本国民が廃棄を選択すれば話はそれで終わりです。

原子力協力と原発が繋がらなければならないいわれはありません。日米原子力協力はもし必要なら別の形でやればいいだけの話です。

毎回首相が変わるたびに日米首脳会談が開かれ、共同声明が発表される。
しかし今回の日米共同声明はそういうレベルをはるかに超えて、日本の進路を決めるような重要な内容をふくんでいる。
衆議院選挙の時、重大な争点として以下の4つが示された。
①消費税と一体改革
②原発ゼロ政策
③TPP参加路線
④沖縄の基地撤去

この内①については、まず景気対策ということで、矛先をかわした自民党が圧勝し、消費税実施の問題は残るものの、とりあえず先送りされた形となった。
③と④については、アメリカの意向を伺うことなしに政策決定はなされないわけで、今回の共同声明をしっかりと読み込んで行かなければならない。これは私の宿題。

というわけで、②原発ゼロ政策 の問題で、日本側がこれほどまでに踏み込むとは、正直以外だった。

まずは、共同声明の原発関連部分の勉強から始めるか。

ボサノバの名曲百選を作ろうと思ったが、タンゴほどにはうまくいかない。
タンゴは基本的には過去のものである。例外はあるが基本的には1950年代に終わっているジャンルだ。しかしボサノバを広くとると、現在もまだジャンルとしての生命は終わっていない。
たとえば私の好きなマリア・クレウーザは70年代からだし、セルソ・フォンセカは90年代からの人だ。マリア・ベターニャはむしろMPBの人だ。
だからブラジルのすべての歌が関係してしまう。これでは到底まとめ切れない。
いろいろ考えてみたのだが、理由は2つあると思う。
一つはまだ名曲としての熟成が足りないということ。どんな名曲と言えども最初は誰かが作って、誰かが歌ってヒットしたものだということだ。
その作者と歌手がまだ生きていて、まだ現役で歌っていると、やはりそのオリジナルに惹かれてしまう。カヴァーするといっても、そこには遠慮がある。
まだ曲が属人性を脱却できず、曲として独り立ちしていないということだ。
もう一つはそれらを名曲として楽しむフアン層がまだ十分に形成されていないということだ。だからいろんなアレンジが出てきても、「やっぱりオリジナルだね」ということになってしまう。
タンゴは第二次大戦後の黄金時代に、同じ曲の競演の時代があった。だから「パリのカナロ」はどの楽団が良いとか、「淡き光」はどこが良いとかの比較ができる。そのなかで曲そのものの良さというものも浮かび上がってくる。
ボサノバがそういう時代になるにはもう十年くらいかかるのではないかと思う。
さてそれまでどうしましょうかねぇ…

自分でもいい加減さに呆れるが、先日セル・クリーブランド管弦楽団のイタリアが最高と書いたのに、こっちのほうがすごいと思えるような演奏を見つけてしまった。
ロリン・マゼール指揮のベルリン・フィルの演奏だ。
1960年4月 ベルリン、イエス・キリスト教会での録音というから随分昔のものだが、新カットで見事に蘇っている。“高精度なルビジウム・クロック・カッティングによって、よりマスターに忠実な音質を再現”したそうだ。
一体何だ。カットがすべてなのか?
確かに最新の音ではないが、必要な音は全部詰め込まれている。
とにかくベルリン・フィルがすごいのに圧倒される。こんなオーケストラがあったんだと感心してしまう。なにからなにまですごい。バイオリンがすごいし、チェロもすごい。木管がすごい、その上に乗ってくる金管がすごい。木管の色気と言ったら聞いていて身震いしてしまうようだ。フルートはゴールウェイだろうか。
マゼールだって、終盤の盛り上げのマゼール節など悪くないのだが、とにかくすごい。このオケならメトロノームでやってもいけちゃうんじゃないかと思う。

むかしマゼールはローリン・マーツェルと言った。新進の指揮者でユダヤ系アメリカ人ということだったと思う。
ベルリン・フィルのレコードはカラヤンが本命で、他の指揮者が振るのは安売りレコード用の録音だった。
学生にはカラヤン指揮ベルリン・フィルの正規版はとても手がでないから、ローリン・マーツェルやカイルベルトがカミだった。25センチ盤でマーツェルの「田園」、30センチ盤の片側に7番の全曲が入ったテレフンケンのカイルベルト盤を買った憶えがある。
「イタリア」と同じ頃の録音のはずだが、絶対こんなにいい音ではなかった。

マゼールについてはもうひとつ思い出があって、セルが死んだ後マゼールがクリーブランドの指揮者になった。それで、この組み合わせで日本に来て演奏した。そのときにあのクリーブランド管弦楽団が信じられないような音を出していた。テレビで見た範囲なので偉そうには言えないが、とにかくベルリン・フィル並みの音がしていたような気がする。
「あぁ、こういうゴージャスな音も、出せば出せるんだ」と感心した憶えがある。

円高デフレというのはおかしい。
なぜならデフレ兆候は円高が進む前から出現していたからだ。
97年事態の後、企業は一斉に輸出拡大に狂奔した。新製品が出現しない限り商品の競争力は価格で決まる。
シェア獲得のために出血大サービスも厭わなかった。そして血を流したのは下請けであり、労働者であった。
労働人口は減少したにもかかわらず一人あたりのGDPは上昇した。しかもその間、労働者は血を抜かれ続けたのである。
どこかで路線を戻さなければならなかった。バランスを回復しなければならなかった。明らかに2000年代初頭には国民に疲れが見え始めていた。
ところが奥田・小泉はそれとは逆の路線をとった。空前の営業利益に目が眩んだのである。
彼らは出血路線を持続可能な戦略と考えるようになった。そして一方では輸出シェアーの確保、他方では国民の所得のさらなる低下、その結果としての莫大な利益の確保を永続的な戦略と考えるようになり、そのためのシステムづくりを推進した。

円高はたしかに国際投機資本が作り出したものである。しかし投機資本が乗り出す契機を準備したのは大企業にほかならない。

日本の輸出企業だけが甘い汁を吸うのは許せないとばかりに、円買攻勢を仕掛けた。せっかく海外に築きあげた販売市場は円高でまた壊される。それを取り戻すためにさらなる安売り攻勢をかける。

この悪循環がいつまで続くか…当然続かない。

だから円安に向かう。なぜならもはや日本の体力は尽きたと見られたからだ。これはきわめて深刻である。まず債務があっという間に膨らむだろう。

いまの円安局面が、こういう最終コーナーの表現かどうかは分からない。しかし、そろそろ経団連に日本を潰される日が近づいていることは間違いない。

「働くみなさんへのアピール」で、おやっと思った記載がある。

日本企業全体の経常利益は1.6倍に増えたが、働く人の所得(雇用者報酬)は9割以下に減少しました。

という“従来通りの”記述の後に、

輸出は1.25倍になりましたが、国内需要は約1割減少しました。
「国際競争力のため」といって乱暴なコスト削減で輸出は増やしたけれど、働く人の所得を大幅に引き下げたために、国内需要が減少し、デフレ不況の悪循環に陥っているのです。


これは必ずしも企業悪徳論ではありません。経済戦略としての「輸出依存による状況打開」路線を失敗だったと総括し、もはやその路線は通用しなくなったと非難しているのです。

これはこの間、私も書いた「低価格競争先行」論を念頭に置いたものでしょう。労働者を絞ってもっと利益を上げましょうと最初から狙っていたのではなく、結果的にそうなってしまったということになりますから、はるかに説得的な議論です。

海外市場での激しいシェア争いの現場についてはよくわかりませんが、超円高のなかで売上確保のため、相当なコストカットが求められたのでしょう。

「あそこで俺たちが頑張ってシェアを確保していなかったら、今頃日本は沈没していたかもしれないんだぞ」という自負が営業畑にはあるのかもしれません。たしか歴代の経団連会長はアメリカ支店上がりばかりではなかったかな。
しかしそういう営業畑でも、「これは短期のしのぎ話、こんなこと続けていたら死んでしまう」という感覚はあるはずです。
そしてまさしくいま、そうなってしまったのです。

「働くみなさんへのアピール」への補強資料
で非正規労働者の分析を行ったが、はっきりしているのは
①非正規労働者の圧倒的多数はパートタイム労働者である
②パートタイム労働者の圧倒的多数は女性労働者である
ということだ。
この二点から、国際的に見た日本のパートタイム労働者の特徴を見てみたい。

パートタイマー: OECDの定義では、主たる労働が週30時間未満の就業者を指す。

パートタイマーは最底辺労働者と考えられる。とくに男性の場合は、失業者との中間のルンペン・プロレタリアートとも考えられる。

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1,もともとパートタイマーの比率は外国に比べ高いが、この20年間も2%ほど増加し、高位置を持続している。
2.2005年から07年にかけて一時期減少傾向を示したが、リーマン・ショック後は再び増勢に転じ、最近では就労者の1割を超えている。

オランダと「オランダ病」については別途触れる。ここでは、96年に世界ではじめて労働時間による差別が禁止されて、パートタイム労働の積極的魅力が増したことを指摘しておく。

https://livedoor.blogimg.jp/shosuzki/imgs/a/c/acce74b5.jpg

女性就労者に占めるパートタイマーの割合も男性の3倍の割で並行して増加している。

女性の場合、正規労働からの締め出しという面だけでなく、専業主婦の不完全な社会進出という側面もあり、読み方に注意が必要だ。

しかし日本では女性の職場進出は80年代にほぼ完了していること、リーマンショック前の谷間もふくめ男性パートタイマーの増加曲線と完全に平行していることから、主要には正規労働からの締め出しとみられる。



非正規労働者の圧倒的多数をしめるパートタイム労働者の所得を改善することは、賃上げを通じて内需を拡大するという観点からは、もっともコストパーフォーマンスの高い手段といえる。

また生活保護からの脱却を促し、社会コストを低減させるためにも有効と考えられる。

とくに女性の働く環境をめぐりさまざまな困難が指摘されているが、その解決に向けてももっとも有効な手段である。

より根本的には、「同一労働・同一賃金」の理念に向けての第一歩としても位置づけられる。

したがって最低賃金をあげることが賃上げの主要な柱とならなければならない。

パートタイム労働者の受け皿は多くが中小・零細企業であり、政令一本で済むという性格の問題ではない。一定の政府による支援策が必要である。同時に大企業に実施への協力を申し入れ、不当な商慣行の横行が無いよう、監督する必要があるだろう。

正しいマクロ指標と言ったって、そんなものはない。
結局は恣意的なものになる。
一つは、境界域の数値のうちのどれをとりどれを捨てるかということであり、もうひとつはガチガチの主要指標のうち、どれに重きを置きどれを軽視するかという選択である。

これを仮にAセット、Bセットとしよう。
Aセットは先進国、つまり勝ち組パターンである。これはGDP至上主義である。そして貿易収支と財政均衡を健全性の指標に組み合わせる。
このAセットは途上国の多くも基本的に採用している。しかしこれは勝ち組がさらに勝ち続けるための情報であり、途上国評価には必ずしも適当ではなく、ときには有害ですらある。
先進国マクロに示されないところに耐え難い矛盾が蓄積し、最終的には政治不安へと結びついてしまうのである。
これに対しBセットは国民生活重視のセットである。GDPを重視することは同じだ。
しかしGDPは国民搾取の指標でもある。したがってGDP成長と照応した、勤労者所得の成長、ジニ係数の低下が必須である。
もちろんインフレを招くようなバラマキはいけないが、最低賃金のかさ上げと、失業対策により、下位5分の1層に力を集中することで、それはかなり可能だ。
財政マクロはたんなる指標ではなく、政治課題そのものだ。そもそもまともな徴税システムなどないのだから、「調整」で済むようなレベルではない。
彼らはかなり強力に手を打っている。なかでも、徴税システムの変革により外国資本の徴税逃れを阻止しようとの動きが共通している。
貿易・資本取引は途上国にとってもっとも厄介な問題だ。途上国には発展のための資金が必要だ。しかし途上国への投資を金儲けの手段と考える自由主義経済が足を引っ張っている。
UNASURなどが、途上国同士の相互支援策を打ち出しているが、本来はUNCTADとかがもっと力を発揮して、国際的にWIN-WINの関係を作って行かないと解決しない。途上国への支援はもっと政治的な配慮が必要だ。
ということで、ちょっと話がそれたが、経済マクロといっても先進国セットで途上国を評価するのは大きな間違いにつながるということだ。
さらにいうなら、先進国と言えども、もはやAセットのみで経済を評価するような思考を止めなければならない時期に来ていると思う。



去年は、南米にとって選挙の年だった。
選挙を前に、随分南米の民族主義政権に対する批判が集中した。
「赤旗」さえ、ベネズエラのチャベス政権が誤った経済政策により危機に瀕しているかのような報道をしたくらいだ。
その根っこには日本のエコノミストによる歪んだマクロの評価があったと思う。
「亀は自分の甲羅に似せて穴を掘る」ということわざがまさにぴったりだった。
このマクロ経済観の歪みが結局、今の日本経済に対する“とんでも対処法”に表れている気がしてならない。
戦後の高度成長期においては、GDP至上主義だった。ほかのマクロの諸指標などまったく考えなかった。GDPの成長がすべてを解決してくれると信じていた。
それがオイルショックとプラザ合意を経るなかで、安定成長と自己資本の増強とに軸足が移っていった。ここから企業の「利己主義」が肥大し始める。企業は「日の丸」をおろし、代わりに自社の社旗を掲げ始めた。
不動産バブルが終焉し、大量の不良資産を抱え会社の存亡の危機に立たされると、この傾向は一気に加速された。不思議なものでみんなが「利己主義」に陥ると、それが日本全体の意志であるかのように考えられ始めた。
一国の経済マクロは、大企業の経営マクロの総和であるかのように考えられ始めた。今ではかつての日の丸船団の司令官であった通産省→経産省さえ大企業保護策=日本の経済政策であるかのように考えるようになっている。

お馬鹿さんの外務省は、それをそっくりそのまま日本の国策であるかのように捉らえ、海外で企業の旗振り政策を推進している。
彼らはベネズエラのチャベス勝利も、エクアドルのコレア大統領の圧勝もまったく読めなかった。完全に経済マクロを読み違えていたのである。
ただの反共宣伝だけだったら、負けても良いのだ。デマをまき散らして後は知らんぷりというのならそれで良い。しかし本当は国策がかかっている分析なのだから「間違えました。ごめんなさい」で済む話ではないはずだ。
大使館は週刊文春ではない、国の税金を使って少しでも正確な情報を集めることが任務なのだ。それが私の如きスペイン語も読めないような素人に負けるなどとは、恥ずかしいとは思わないのか。給料返せよ。


全労連のシンクタンクにあたる労働総研の労働者状態統計分析研究部会というところが論文を掲載している。
去年1月のものなので、ちょっと古いがその中に面白いシェーマがあった。

大変わかり易く流れを書いてくれているので、紹介させていただく。

https://livedoor.blogimg.jp/shosuzki/imgs/e/6/e6d2a2d0.jpg

これは実体経済をめぐる「悪魔の循環」だが、金融や財政にも「悪魔の循環」が存在する。




雇用者報酬とGDPについて少し数字に異同があるようだ。
これは志位さんが国会での質問で用いた図表

https://livedoor.blogimg.jp/shosuzki/imgs/3/0/308a98ab.jpg

「働くみなさんへのアピール」に付けられた図表と少し数字が異なる。
GDPの方は名目GDPと実質GDPの違いなのだろうか。

私がネットで調べた数字は以下のようになっている。

 

GDP:97年との比較(単位: 10億 円)

 

1997年

2012年

2012/1997

実質GDP

474,802.70 519,211.59

1.09

名目GDP

523,198.30 474,558.64

0.91

 

 雇用者報酬については今のところ見つけられないでいる。

 








ブルームバーグのちょっと前(去年9月)の記事が面白いので紹介します。

全国の雇用者報酬(名目、季節調整後)は1991年以来の低水準となった…

東京電力 から輸出企業のパナソニックやシャープに至るまで、多くの日本企業が経費削減に取り組んでいる。

ということで、ブルームバーグ社の基本的な考えが述べられています。

日本経済にとってのリスクは、90年代の資産バブル崩壊以降、同国を悩ませてきたデフレが長期化することや、14年4月の消費税率引き上げで個人消費の低迷がさらに深まることだ

これが基本的な考えです。誰が見てもそうですよね。

ところが日本のエコノミストは、さらなる金融緩和しかないという考えです。

三井住友アセットマネジメントの武藤弘明シニアエコノミストは、「賃金デフレが続いている限り、引き続き緩和をしていかないといけないのは間違いない」と指摘する。

これではまるで見当違いの方向を持ち出しているとしか思えません。

日本経済に関しては、アメリカのエコノミストのほうが、よほど状況を素直に受け取っているようです。

米ゴールドマン・サックス・グループは、名目賃金の減少によってデフレからの脱却がさらに遠のくと指摘。JPモルガン証券は、個人消費が力強さを失っている一因は賃金抑制だ と説明する。

だんだん明らかになってきたのは、経団連や大手メディアの考えが世界中から呆れられ、馬鹿にされ始めたということです。

共産党がこのほど「働くみなさんへのアピール」を発表した。非常に説得力のある文章で、ぜひ広げていく必要があると思う。
そこで、当然発せられるであろう質問に対応すべく、データを補強しようと考えた。

補強になっているか、かえって足を引っ張っているか、分からないが…

まず第一節「世界でも異常な賃下げと雇用不安」というところから

1.世界でも異常な日本の現実

①賃金が長期にわたって、連続的に減り続けているのは日本だけ(OECDデータベース)

97年を100とした雇用者報酬はイギリス190、アメリカ178、フランス163、ドイツ129。これに対し日本は88

②最低賃金は最低水準である(2012年OECD購買力平価による比較)

時給円換算でイギリス928円、アメリカ753円、フランス1084円。これに対し日本は全国平均で749円。

③非正規雇用の比率が極めて高い(OECDデータベース)

イギリス5.7%、フランス13.5%、ドイツ14.5%。これに対し日本は35.5%。

(若者と女性では50%に広がった)

2.この異常は過去15年の間にもたらされた

①勤労者の平均賃金は97年のピーク時より年収で70万円、12%減少した。

②非正規雇用は15年前は労働者全体の1~2割程度だった。

③非正規雇用の増加が平均賃金の低下をもたらしている。

(労働者のうち1千万人以上が年収200万円以下)


というのが骨子。

Honkawa Data Tribune という奇特なサイトがあって、とても重宝しています。

とりあえずはそこから拾えるものをひろってみます。

非正規雇用の実態

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非正規比率が上昇したのは、非正規が増えたのと正規が減ったのがほぼ同じ数であることによる。総数が同じ中での上昇であるから、その影響は2倍になって効いてくる。

それは97年を境にして始まり、2005年まで継続して進行し、その後はそれが固定されている。

非正規の内容の劣悪化はこのグラフには示されない。09年にリーマン・ショックのあと大量の派遣切りがあったが、グラフ上の変化はない。

非正規雇用者の内訳

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圧倒的多数を占めるのは女性のパートタイマーである。女性パートタイマーが労働市場の最終的緩衝材となっていることが分かる。

男性の場合は契約社員・嘱託とアルバイトに二極分化している。


リーマン・ショック後の労働事情(08年と12年の比較)

①パート・アルバイトは男性が25万人増の268万人、女性が80万人増の969万人となった。

②派遣は男性が24万人減の35万人、女性が31万人減の54万人となった。


最低賃金の国際比較


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おなじみの絵である。最賃のみで低所得を説明することは難しい。ポルトガル、ギリシャ、アイルランドなどの国が高所得とはいえない。日本は以前から最賃の低さでは引けを取らなかったが、だからといって低所得であったわけではない。

最賃の低さが呼び水となって、非正規労働の増加をもたらしていることは間違いないから、両者の掛け算として低所得層の増加を見ておくべきであろう。

最賃をあげることは、勤労者の所得をあげるためのかなり有効な手段といえる。


加賀さんの本の中に“いじめ論”に関する物がありました。
一言でいえば
いじめは決してなくならない。いじめに負けない心の力を上げていくべき

というものです。
以下はその一部

いじめ絡みの悲劇が起こるたび、どうすればいじめをなくすことができるかという議論がしきりになされます。教師や親も子どもたちに注意する。しかし残念ながらいじめというのは人間性の本質に根ざしたものであり、決してなくならないものなのです。
何時の時代にも,どこの国に行ってもいじめはある。大人の世界にもいじめはあります。だから、いじめを悪として上から抑えこもうとしても、より陰湿さを増すだけで、何の解決にもなりません。


この加賀さんの見解は絶対に間違っています。陸軍幼年学校というスパルタ式のご本尊みたいなところを潜り抜けて来た人だけに、解釈としてはリアルで、とても良くわかります。けど、人間の態度としては、断固、「いじめを許してはいけない!」のです。これは「処世術」以前の「原則」の問題です。

いじめを無くすというのは、いじめが横行する世の中をなくすということであり、いじめっこが大手を振って歩くような社会をなくすことです。

論理をこうやってすり替えると、同じ手口で、体罰も強姦も殺人も戦争も核兵器も許される論理に繋がってしまいます。俗にいう「業の論理」です。

大津問題での委員会答申を見る、といじめを無くすための基本路線がかなり整理されて提示されています。

緊急性から言うと、①ハザード対策、②カウンセリング、③道徳・情操教育、④周辺環境の整備といったところでしょうか。そして何よりも教育にあたる者たちの民主主義が求められています。

ここから先は私見になりますが、いじめを無くすのは、基本としては「いじめをする子をなくす」ことです。それは教育そのものです。
もちろんその前に、差し迫る危険にたいする緊急対策としていくつかあり、さらにいじめを受けた側が自殺衝動に至らないようにするための「強靭化」対策がいくつかあります。

しかし核心はあくまでも、いじめをしないことの大事さを教えこむことです。なぜなら加賀さんが言う通り、誰でもいじめをする素質を持って生まれてくるのですから。

ここで大人が毅然とした構えを取らないと、他のすべての対策も及び腰になってしまいます。「悪いものは悪い」と態度で示すのが根本でしょう。


パソコンが壊れたついでに、溜まっていた本に手をつける。
加賀乙彦さんの集英社から出した新書本。
この人は未だにどういう人か分からない。昔「フランドルの冬」という小説を読んだが、かなりイラツイた。
知識は豊富、理路整然として、語り口はうまいのだが、本心が分からないところがある。

この本は、基本的には精神科医の書いた“幸せ本”である。医者目線が通底しているので、医者が読むにはつまらない。加賀さんも別に医者に読んでもらおうとは思っていないだろうが…

なかで面白かった所

①日本人の集団志向は事大主義に過ぎず、本質的には利己主義だ
社会心理学者の山岸俊男が、「心デッカチな日本人」という本で面白いデータを紹介しています。
日米の学生を対象に、集団の利益と個人の利益のどちらを優先するか、どちらが一匹狼的な行動を好むかを図る比較実験を行った所、アメリカの学生の方が集団の利益のため協力的に行動し、日本の学生の方が一匹狼的に行動する傾向が強いという結果が出ました。
つまり日本人本来の性向としては集団主義が好きでは決してないのに、日々の生活のなかでは無理をして集団主義的に振舞っているというのです。
ただ、ここで山岸氏がいう個人主義とは、「個人の利益を集団よりも重視する」という、個人主義の一側面に限っての話。ほかの側面ではアメリカ人のほうが日本人より個人主義的な傾向が強く出たそうです。

これを読み解けば、「日本人の集団志向は事大主義に過ぎず、本質的には利己主義だ」ということになりますが、加賀氏はそこまでは進みません。

②日本の自殺者統計には嘘がある。実態ははるかに深刻だ。
日本の自殺率はWHOがデータを収集している101カ国中ワースト8位。…主要先進国のなかでは突出しており、アメリカやカナダの倍、イギリスの3.5倍にものぼる。
さらに年間3万人どころか実際には10万人が自殺しているという説もある。…WHOは「変死者」のおよそ半数が自殺だと述べています。
そのため、変死者の半数を自殺者統計に加えている国が多いのですが、日本ではそうではありません。
日本の変死者数は急増しており、ここ数年は年間14~15万人で推移している。諸外国のようにその半分を自殺に含めれば、日本の自殺率は圧倒的に世界一位となる。

③財界・自民党は北欧批判の間違いを反省すべきだ

かつて日米の経済学者や政治家は、北欧型の高負担・高福祉国家は高い税金のために国際競争力が落ちて経済が停滞する、グローバル化する社会に取り残されると、しきりに言っていたものでした。
しかし日本は2003年の世界第三位をピークに、07年の23位まで下がり続けいます。一方、スエーデンはずっと8位をキープしています。
福祉も環境も犠牲にして経済成長を優先してきた国が、経済面でも遅れを取ってしまうとは、なんとも皮肉な話ではありませんか。

これはいい話です。使えます。
むかしから、民主勢力の一部には日本の現状と比較して北欧諸国が素晴らしいという無条件賛美論がありました。
それにに乗っかるつもりはありませんが、財界が「福祉が社会をダメにする」との北欧批判を展開してきたことも忘れてはなりません。
いま財界に対し、深刻な反省を求めてもおかしくはないと思います。


銅鐸文明ノート 余話

以下は酒飲み話になるが…


饒速日命の家系は、天孫族の異系である大国主の末裔で、出雲を追われて近畿に落ち延びてきた可能性がある。「倭国の大乱」が倭国と出雲王朝の対決をふくんでいるとすれば、時期は合う。
その後大和王朝の実権を握った物部氏は
、神武に寝返った饒速日命の末裔であった。その本拠地はかつての長脛彦の地盤だった生駒山西麓である。
日本書紀に出雲神話系の説話が異常に多いのもそれで説明がつく。
300年後の527年に物部麁鹿火が筑紫の君を討伐した時、出雲王朝は積年の恨みを果たしたことになる。「300年も?」と言われるが、それから200年後の古事記にも、国譲りの神話は語り伝えられていたのである。

と書いて、翌日に読み直しましたが、何のことやら分かりません。

ちょっと解説します。

饒速日命はニギハヤヒノミコトと読みます。この人物が登場するのは日本書紀の神武東征の物語です。

神武一族が大和を攻めた時、この地方は饒速日命が仕切っていました。この人は飛鳥のあたりに住んでいましたが、そこから大和川を下ると生駒山麓を向けて大阪湾岸に出ます。そこには長脛彦という豪族が住んでいて、この人が軍事全般を仕切っていたようです。

この関係は卑弥呼の時代に那の国(いまの博多)が半島からの玄関口として、政治・軍事を担っていたのに対し、そこから奥まったところに卑弥呼が住んで神事・祭事を担っていた関係と似たところがあります。

饒速日命は天孫族の大神を名乗っていました。これは九州王朝と同祖・同格の神です。神武は饒速日命を救い、支配体制の一角に組み込みました。饒速日命は長脛彦を殺し、神武に忠誠を誓いました。この一族がやがて物部氏となっていきます。

ところで饒速日命が住んでいた飛鳥のあたりでは三輪山伝説があり、大物主神が祀られています。大物主神は出雲伝説の大国主命と同一のルーツであると考えられています。

そうなると饒速日命の一族がどこからやってきたかということになります。そこで出雲の線が浮かび上がってきます。

同じ天孫民族であるにもかかわらず、神武は現地に来るまで饒速日命の存在を知らなかったというのも、饒速日命が九州王朝以外の天孫民族の出自であることを示唆します。

大国主命の一族は100年代の後半に九州王朝に攻撃され、“国を譲った”あと、東に向かい、生駒山麓に居を構えたのではないか、そういう可能性もあります。

これは神武東征が200年代末あたりに行われたということを前提とした話ですが…

もう一つ、彼らが出雲に王朝を開いたとすれば、そこでも銅鐸文明を破壊していたはずです。それは紀元前後のことでしょう。この頃にも一度、大量に銅鐸が破棄された時代がありました。ただそれが出雲地域に集中していたかどうかは、いまのところ確認できません。


勤務先で使っていたパソコンが壊れた。
原因ははっきりしている。しかし言えない。
言わずに修理に出したが、開ければすぐ分かるだろう。

これで久しぶりに読書だと張り切ったが、悲しいことに字が読めない。+2.0の老眼鏡では歯がたたない。+2.5を買ってきたが、このくらいになると安売りメガネでは歪みがきつくなってくる。レンズも悪いのだろうが、乱視もありそうで、しかも左右の度数が違うから、30分と持たない。
睡魔が襲ってくる。ほとんど「夢か現か幻か」という世界だ。

もっとも、読んでいる本もイポリットの「ヘーゲルの精神現象学」だから、視力が正常でも眠くなるだろう。

民医連は決して徳洲会のような崩れ方はしないだろう。
民医連は攻めには弱いが守りには強いのである。

民医連は中央集権制で独裁制で、テッペンがやられると瓦解するのではないかと思われている。
これは逆だ。なぜなら民医連は中央集権でも独裁でもないからだ。中央集権で独裁なのは、むしろ徳洲会の方だ。だから崩れるときにはあっという間に崩れる。

民医連は一人ひとりが民医連だ。誰かが「この指止まれ」と言われれば止まるが、それは一人ひとりの主体的な判断だ。
だから切り刻まれても死にはしない。iPS細胞ではないがトカゲの尻尾からでもトカゲになれるのだ。「尻尾と言えども民医連」なのだ。

しかし、一人ひとりが民医連というだけでは民医連ではない。それが集団となることによって民医連となる。
ヘーゲル風にいえば、「否定の否定」である。要は民医連は思想であり、鍛えに鍛えられて到達した結論ということだ。

昔はこれを民主集中制と言ってきた。これは不正確かつ不適切な表現である。とりあえずは主体的集団主義といっておこう。
そのベースになるのはフラタニティ(博愛)とソリダリティ(連帯)である。さらにその根っこには相互の生き方に対するオマァジュ(敬意)がある。

民医連の医者は、一人ひとりが訣別と回天の“物語”を背負って活動している。ダテに民医連をやっているわけではない。

ネットで漏れ伝わるところでは、
生え抜き派が主義・主張を貫こうとしたのに対して、経営現場が我が身大事と反旗を翻したところにあるようだ。
どちらが正しいかというのは難しい。

具体的・個別的には問題ははっきりしている。生え抜き派のかかげる「主義・主張」が間違っているからだ。「目的のためには手段を選ばず」で、やり口も相当やばい。とくにマスコミ関係が危ないだろう。

そこで徳田理事長と生え抜き派が突っ張る限り、勝ち目はない。
しかし歌を忘れたカナリアになった徳洲会に、今後なにか特別な存在意義があるのだろうか。ここは現場派にとってかなり重い課題だ。

太古の昔より、医療経営というのは医師確保と同義である。
事務長の最大の仕事は、大学病院の医局もうでをして、医師派遣をお願いすることだった。

院長の最大の仕事はバリバリ学会発表をして、病院の名声を上げることだった。

待遇で釣るか、研修の魅力で売るか、このへんが腕の見せ所である。

こういう状況に対して最初に反乱したのが民医連だった。出来上がった医者ではなくて医学生の中に飛び込み、医療の本質に関わって彼らの良心を呼び起こし、奮い立たせ、組織していったのである。

同時に医学生たちも自らを学生運動に組織し、主体的に生きる道を選択していった。この歯車が噛み合ったからこそ、民医連は大躍進を遂げたのである。

だがそれはイバラの道であり、世間に「アカ」と指弾され、孤立を余儀なくされる道でもあった。だから民医連の医師は集団として行動せざるを得なかったし、一人ひとりが主体として状況に関わらざるを得なかったのである。

これに対し徳田虎雄氏は「この指とまれ」方式を生み出した。擬似民医連的な路線を謳いつつ、医師に加入にあたっての決意を必要としないような巧妙な作戦をとったのである。

「キミらは良い医療をしてくれさえすればよい。あとは私に任せておきたまえ」ということだ。

当時私は率直にいって見込み違いをしていた。このような怪しげな路線がそんなにうまくいくわけ無いと思っていた。しかし今や徳洲会は全国各地に多くの病院を建て、それぞれ評判は悪くない。

かくいう私も、母を徳州会で看取ってもらった。

「言っていることと、やっていることは大違い」というのは徳洲会を批判するのによく使われる言葉だが、「言いもしないし、やりもしない」のよりははるかにいい、と思う。

問題はその矛盾がついに来るべき所まで来てしまったということだろう。

もし徳洲会が再生を試みるのであれば、まずは誤った社会変革の理論を再検討して、「本当に患者の立場にたった医療を実現するためにはどうしたら良いのだろう」ということを、ゼロベースで見直すことが必要だろう。

それと同時に重要なことは、残された医師たちが当面する困難に対して主体的かつ集団的に立ち向かっていく構えを形成することだろう。

もう一つ、これはちょっと生臭い話になるが、徳田一族から経営本体を取り上げることだ。そして全面的な集団所有に切り替えることだ。

出来れば徳田氏本人が生きているうちにやってしまえば、簡単なのだが…

もっとも、これが出来れば、徳洲会ではなく民医連になってしまう。


徳田毅って徳田虎雄の息子だったんだ
するってぇと、だいぶ風向きが変わってくる。
ちょっとネットを調べたら、徳洲会そのものが潰れるか潰れないかの大騒動になっていいて、
そこから魑魅魍魎が飛び出してきていて、
今回の問題も、そういうとばっちりの一つらしい。
そうなると、迂闊にどうこう言える話ではない。
女性議員が“超党派”で徳田を詰めているようだが、これも背景を見ておかないと、そんなに素直にうなずける話でも無さそうだ。

どっちにしてもいい機会だ。
徳州会を総括することは民医連を総括することにもなる。

一言でいえば、徳洲会は「ニセ民医連」だ。共産党でなくても、共産党の趣旨は実現できるというのが売りである。
学生時代、「全共闘」なるものがあった。共産党より左だというのが売り物だった。メットを被って角材をもって火炎瓶を投げれば革命的だと信じていた。
つまり共産党に入らなくても左翼のフリが出来るというのが「全共闘」とか「新左翼」とかの売りだった。
学生時代に一生懸命に説得しても共産党に入らなかった奴が、急に「左翼」になって「共産党は右翼だ」と攻撃し始めた。

さすがに徳洲会に行った連中はそこまでのぼせ上がらなかったが、メディアは彼らを医療変革の担い手として誉めそやした。その一方で、同じことを民医連がやれば、「票目当て」だとか「医療を活動資金集めのために利用している」とか言って攻撃したものである。

つまり共産党が強くて、民医連が強くて、これに対して反動の攻撃も強くて、という時代の象徴として徳洲会の存立基盤はあったのである。その徳州会が弱体化し、内部で混乱が起きたということは、共産党の力が弱まったことの反映でもある。

民医連の力が十分に弱まればもう徳洲会は必要ない、だから遠慮なしにやっつけられる状況になった。それが今回の「強姦事件」ではないのだろうか。

一つの時代の終わりの象徴でもある。

徳洲会がもっとうまく立ち回ろうとするなら、「自由連合」などという政治団体に固執せずに、創価学会のように露骨に自民党に擦り寄るべきだったのだろう。


メンデルスゾーンのイタリアが無性に聞きたくなる時がある。

YouTubeにはゴタゴタ取り混ぜて10種類くらいの音源がある。しかしどういうわけかまともな音質の演奏はほぼ皆無である。カラヤンもヤンソンスもぺけだ。

唯一、セルとクリーブランドの演奏だけが素晴らしい音質である。内声部の風通しの良さはただ者ではない。

町田高校吹奏楽部の皆さんがアップしてくれたらしい。
しかしまことに残念なことに第一楽章と第4楽章のみである。

セルのこの演奏は、音質だけでなく、演奏そのものも群を抜いている。すべてが完璧だ。第4楽章の出だしなどまるでダイアモンドだ。こんなうまいオーケストラ、今後も出ないのではないか。(これをうまさというのかという異論も出そうだが…)

録音も67年ころからセルがなくなるまでの数年間については文句なし素晴らしい。おそらくCBS廉価盤だったエピックのマイナー技師に代わって、CBSの本家が本気で取り組んだのだろう。

その3 銅鐸文化の変遷

①銅鐸の原基

すでに記したように、銅鐸の原基となるものは長江流域で生み出されたと考えられる。それが朝鮮にわたり、九州北部まで到達した。

この時点では、小型で無銘の実用的器物であり、「カウベル」類似のものであった。しかし実用的に必要とされる以上の銅鐸が作られていることから、祭祀用に用いられ始めていた可能性はある。吉野ヶ里遺跡でも九州初の銅鐸が発見されている。

紀元前2世紀の弥生時代中期初頭にさかのぼる。九州の銅鐸は朝鮮式で高さ20センチメートル位、吉野ケ里の銅鐸で28センチだが、紀元前100年ころには、早くも40センチを超す大型銅鐸が現れ、朝鮮の伝統から離れる。

銅鐸は大型化することによって、「銅鐸文化」となった。

ところで、考古学者はしばしば弥生時代/中期/中葉などの時代区分で表現するが、これが門外漢にはわかりにくい。以下若干解説しておく。外向けには西暦表記してほしいものだ。

弥生時代というのは、「稲作技術導入によって日本での水稲耕作が開始された時代」というのが規定である
一般には、紀元前250年ころから紀元250年ころまでの500年間を指す。ただし始まりはさらに遡る可能性が強くなっている。
弥生時代の時期区分は新たな知見が加わり大幅に変更されている。現在主流となっているのは、炭素同位体比を用いたもので、早期(紀元前1000年頃から)・前期・(紀元前800年頃から)中期(紀元前400年頃から)・後期(紀元100年頃から)の4期区分論が主流になりつつある。
さらにそれぞれの時期に亜区分があり、中期は紀元前230年までの前半、紀元前60年までの中葉、紀元100年までの後半に分けられている。
旧区分で表現された文献もあるので要注意。旧区分では
縄文晩期と弥生早期の境界は紀元前430年頃とされている。

③銅鐸の巨大化

銅鐸の大きさは、九州、出雲、山陰、畿内の順に大きくなっている。これが出雲では約50センチ、近畿では1メートルを超えるようになる。これが本来のベルとしての役割を果たしていたか否かについては議論があり、一節では紀元前後に聞く銅鐸から見る銅鐸への変化が起きたとしている。しかし最後まで鳴らす機能は失われなかったという説もある。国立民族博物館のホームページで実際に鳴らした音を聞くことができるが、絶対的音量は不明である。

巨大化を可能にしたのは土製鋳型の開発である。それまでの石製の鋳型は大きさに限りがあったが、土製鋳型によりその制限は大幅に緩和された。同時に肉厚の薄い銅鐸を作る技法も開発され、銅などの原料の節減が可能になった。1メートルをこす鋳造物を厚さ2、3ミリで鋳出すことは現代技術でも極めて困難なのだそうだ。

銅鐸の鋳造は同じ形の鋳型を合わせ、その内部に銅鐸の厚み分を削った土製の中子型を据え、青銅を流し込みます。鋳型には石製と土製鋳型の外枠があります。土製鋳型の外枠は、土器と同じように粘土を野焼きした丸瓦状のものです。(唐古・鍵考古学ミュージアムサイトより)

④銅鐸の装飾化

朝鮮半島では、朝鮮銅鐸と言われる文字も絵もない小型のものが出土する。これに対して、銅鐸文化を担った銅鐸には例外なく文様が施されている。銅鐸紋様はすべて弥生土器に共通する紋様である。

また文様の他に絵が描かれている銅鐸も数多く存在する。そこでは弓矢をもつ狩人、矢を負ったシカ、盾と戈をもつ武人、舟、高床式家、臼、脱穀や漁の様子が描かれる。またカラスが神聖な動物として描かれる。これらの絵柄は、農耕的性格を示しつつも、採集にも大きく依存していた生活を想像させる。水田耕作を主体とする弥生式のものとはやや異質な感を受ける。

文字または文字様の紋様は全く描かれない。

⑤青銅の原料は渡来物質?

弥生時代中期は朝鮮半島産、後期は中国華北産の鉛が用いられ、日本産の鉛はまったく認められない。原料は銅銭である可能性が高いようである。九州王朝(もしくは朝鮮との直接交易)に産物を売り、その対価として銅銭を受け取ったが、貨幣経済がなければ無用の長物である。

この渡来説には異論もある。国産でなければこのように長期にわたり製造し続けることは難しいという主張である。最近の研究では、化学分析の結果島根県の銅鐸の鉛は神岡のものだと言われています。(森浩一同大教授)

⑥銅鐸の分布

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全銅鐸の分布

北部九州からも出土しているが、実用品としての鈴であった。

大きな銅鐸は圧倒的に近畿周辺が多い。近畿地方で考案され、周辺地域へ波及していったと考えられる。

銅鐸の分布は時代とともに移り変わり、特に、弥生時代の中期までと後期ではその分布に大きな違いがある。最初は中国地方、四国、瀬戸内に集中するが、扁平鈕式新段階になると、各地に地域的な銅鐸群が生み出される。突線鈕式銅鐸の段階になると、その中心は畿内周辺部と東海地方へ移っていく。

同じように形態・文様も時期により変化している。

⑥銅鐸は大きくなって、突如として消えた

紀元前後、いったん銅鐸文化は衰えた可能性がある。この時代に埋められた銅鐸もかなりの数に上る。しかしこの時代に何が起きたのかを知る手がかりは全くない。

紀元100年頃から、銅鐸文化は再び隆盛を迎える。倭国内乱により九州政権が弱体化した可能性もある。畿内ではこれまでにもまして大きく装飾的な近畿式銅鐸が開発された。銅鐸時代の末期となる200年頃には、銅鐸の高さは1メートルを超えた。

紀元200年を過ぎると、畿内からの大形銅鐸の出土例が著減する。近畿式銅鐸の終焉には、故意に壊すような行為が行われている。新たに台頭した権力者にとっては邪魔だったのかもしれない。


と、とりあえずこの辺でやめておく。玉が少なくなって、石が多くなってきた文献読みがしんどくなってきた。


 

予想外に長くなってしまったので、少しポイントごとに分けて整理していく。

銅鐸を見る視点

まず、銅鐸に注目したきっかけだが、普通の人とちょっと変わっている。

この間、遺伝子から見た「日本人の起源」からずっとはまって調べているうちに、縄文人に二系統あって、樺太→北海道→東北の系列と、朝鮮半島東側を海岸伝いに降ってきた系統があって、後者は環日本海文化を形成したと考えるようになった。

この流れは縄文時代だけでなく、紀元300年ころまで何波にもわたって繰り返された。それは中国→朝鮮南部→北部九州という流れの文化と別個に、おそらく同時代的に進行していたのだろうと思う。

九州北部に集中的に入った弥生人系に比べると、環日本海人は山陰から福井あたりまで面で入っている。そして海岸から入れそうなところには食い込んで行った。それが岡山から香川、阿波にかけての流れ、但馬から播磨への流れ、山城から難波、大和への流れ、福井から近江、尾張への流れとして入ってきたのだろう と思う。

これらは生産技術的には九州北部に後れを取っていた。したがってある意味で従属関係にあったろうと思う。そして九州北部から技術を吸収した。これは朝鮮半島南部における馬韓・弁韓と辰韓との関係に比べられるべきものである。

この人達が後世に残した唯一の遺産が銅鐸である、と考えた。銅鐸そのものというより、銅鐸を“よるべ”とした、いわば「銅鐸教」社会がそこにはあったのではないか。これが銅鐸に着目するきっかけである。

だから銅鐸の様式や紋様などについてはあまり興味はない。銅鐸社会がどのように九州北部の権力から自立して成立したのか、そして、どうして地上から姿を消してしまったのか、それを知ることが、銅鐸と運命を共にした環日本海人を偲ぶ“よすが”になると思ったのである。


「女性問題」一般では辞任の理由にならない。徳田毅国土交通・復興政務官が辞職した理由がどうもよくわからない。

一般的にはへそから下の問題と不問に付されるのがオチである。それが良いか悪いかは別にして、辞任に至った理由は女性問題プラスアルファがあるのでは、と思っていた。

この手のネタは大好きな週刊文春が暴露するのではないかと思っていたが、まったく音無しの構えである。

気になるので、ネットをあたってみたら、やはりあった。

「泥酔状態で無理やり性的関係」と主張 当時19歳女性が提訴、1千万円で和解成立

報道によれば、

徳田氏は2004年、泥酔状態にあった当時19歳の女性をむりやり強姦した。

2007年に被害女性が2000万円の損害賠償請求を起こした。

徳田氏は訴えの一部を認め、提訴から3か月後に和解していた。

条件は、①謝罪と1千万円の慰謝料、②訴訟内容について口外しないこと

和解金のうち800万円は、父親の徳田虎雄元衆院議員が理事長を務める徳洲会グループが用立てた。

『週刊新潮』誌に記事が掲載されることが明らかになり、批判の広がりを避けるため辞任を決意した。

菅官房長官は、「身体検査」の甘さを認めた。民主党の細野豪志幹事長は、「どういう状況なのか全く分からない」と繰り返すのみ。超党派女性議員が、徳田氏および内閣府に責任ある対応を求めている。


このブログもだんだん品がなくなってきた。一応「?」をつけておく。


ところでこの「告発文書」なるもの、内容が明らかにされていない。

とりあえず、1月31日の「スポーツ報知」で“関係者からの取材”というかたちで内容がうかがわれる。(この読売・報知報道以外に暴行の内容に関する記事が探せなかった。これも不思議だ)

現場を目撃した複数の関係者が暴行の実態をスポーツ報知に証言した。

「死ね」「ブタ」など常軌を逸した暴言を受けるなど、日の丸を背負う選手がショッキングな扱いを受けていた。

園田監督らコーチ陣と女子選手しかいない密室の畳で横行したパワハラ・暴行指導の実態が明らかになった。

こうべを垂れ、泣きじゃくる選手を小突き、平手打ちし、どなりつける―。

園田監督らは背中や尻を竹刀で叩き、頭部にゲンコツ、顔面には平手打ちを浴びせていた。

「特にA選手に対してはひどかった。Aは実力はあるけど、何度、教えてもできないタイプ。腹を立てた監督に何度もひっぱたかれていた」

けがを抱えた五輪代表へのしごきも壮絶だった。

「1本6分の乱取りを10本ぶっ続けでやらされ、男性コーチに代わる代わる(乱取りで)まわされていた。グッタリしながら投げられて、見ていて、かわいそう。ひどかった」

言葉の暴力も目に付いた。

重量級の女子選手の髪の毛をわしづかみにし「お前なんか柔道やってなかったら、ただのブタだ」と人権無視の言葉で 小突きまわした。

JOCの平真事務局長は語る。「提出された文書には言葉の暴力について記載されていた。 『死ね』とか、そういった言葉が練習の中で出されていたということだ」


多少の誇張や脚色があるかもしれない。しかしこれらの内容を「ほぼ事実」と認めたうえでの全柔連の判断は、“終わっている”としか言いようがない。

監督を庇いたい気持ちはわかるが、これだけ事実を突きつけられたら「あぁ、こりゃもうダメだ」と観念しなければならない。これが普通の管理者だ。

ことは「わるぎ」の問題とかオリンピック精神とかの問題だとは思わない。刑法上の犯罪の要件を満たしているかどうかの判断だ。司直の手に委ねるべきか否かの判断である。

この監督は完全にストーカーの心境に入っている。明らかに精神に異常をきたしている。排除しなければ危険だ。


医療事故の対応にあたった私の経験からも、これは痛切な教訓だ。まずは自らを虚しくし、顧問弁護士か監査役にすべての情報を提供して意見を求める。

私なら、警察対応も選択肢に入れた上で、本人に詰め腹を切らせる。その上で、自らの処分については理事会に委ねる。もちろん辞表は懐に入れる。

これを31日ギリギリまでかばおうとした上村理事長は、確信を持った共同正犯と言われても仕方あるまい。百歩譲ったとしても、日本の柔道界を代表する全柔連理事長として、哀れなまでに愚昧で無能である。


多分まもなくニュースの世界から消えてしまうと思うので、少し情報を集めて経過上のポイントを整理しておきたい。

なお私はここではパワハラという言葉を使わない。そんな横文字は使わないほうが良い。これはただのハラスメントではなく、明白な暴行事件なのだから、被害届が出れば立派な刑事事件なのだから。


9月に全柔連は選手関係者の告発を受けた。全柔連は調査の上「厳重注意」処分。しかし園田監督は11月末まで謝罪をおこなっていない。

11月10日に処分が発表され、その翌日にトップ選手15人によるJOCあての「告発文書」が作成された。しかし実際に提出されたのは12月4日だった。

選手たちはまず暴行に怒り、ついで全柔連の甘い処分に怒り、最後に園田監督の「謝罪」でぶっちぎれたという三段階だ。

JOCは当初「告発文書」を重く受け止めなかった。しかし12月25日の女性スポーツ専門部会の要請を受けて、深刻さを感じ指導を強めた。

全柔連はJOCの指導を受けて再調査を施行。「告発文書」の内容が“事実に近い”と判断した。しかしその「著しい反倫理性」は認めなかった。

1月19日、二度目の「注意処分」が発表された。園田監督は続投となった。報告を受けたJOCは25日にこれを了承した。これは選手側にとって4回目のブチギレとなった。今度は園田-全柔連-JOCの串刺しである。

1月29日に「告発文書」がリークされた。事件はスポーツ界の外、一般常識の世界に飛び出した。まさにその時大阪のサッカー部主将の体罰・自殺問題が発生した。柔道メダリストの強姦事件の裁判が最終版を迎えた。

園田監督は辞任を発表し、全柔連はこれを受理した。園田監督は記者会見を開き、「辞任すりゃァいいんだろう」と開き直った。全柔連は頬っかぶりだ。JOCに至ってはまるで他人ごとだ。これも15人の怒りに火を注いだ。5回目の怒りである。

2月4日、強化選手たちは声明を出して、あらためて全日本柔道連盟の刷新を要求した。

スポーツ・ニッポンの経過表より)

マスコミの興味は誰が告発したのかという芸能番組感覚だが、告発文書の内容は意外に報じられない。それ以上に「著しい反倫理性・反社会性」と、「五輪ムラ」の良識の欠如への指弾の姿勢は感じられない。

メダル獲得を煽ってきたマスコミの共犯者意識がそうさせるのか、スポーツ担当部門の発言力に対する恐怖なのか…


彼女たちの怒りは、この経過の中に示されているといっていいと思う。つまり「民主主義の欠如」だ。

彼女たちがためらいながらも、次のステップに進んでいく原動力は、理不尽さへの怒りだ。

現場からの不信任の声をコケにして、ヒラメのように上ばかり見ている連中への義憤だ。これは「スパルタカスの反乱」だ。


紀元前5万年ころに、第一次の南下があったとしよう。氷河期の寒さを逃れてイルクーツクあたりから旧石器時代人が降りてくる。
A.内蒙古から黄河流域に降りた人々が主流派で、中国の主部に分布した。この内最も南方まで進んだ人々が1万年前に長江文明を築いた。
B.もう少し東に進んだ人々は満州から朝鮮半島へと進んだ。
C.更に東に進んだ人は1万年前に間宮海峡から樺太・北海道と進み、日本の旧石器時代を形成した。
D.それと同じ経路で三内丸山遺跡に代表される北海道・東北縄文文明を形成した人々がやってきた。
遺伝子解析からは、これらのことがほぼ確実となっている。

次に考古学的研究から確実に言えること。
東北・北海道の縄文文化は、明らかに本州中部を境としそれより西には進出していない。照葉樹林と落葉樹林の境界が、東西の縄文文化の境界を形成している。
しかし密度は低いとはいえ西日本にも縄文文化はあるので、これは朝鮮海峡をわたって西から来た縄文文明と考えられる。

ここからさきは私の推測になるのだが、北満アムール川流域で、人々は二手にわかれ、別のルートを経由して日本にたどり着いたのではないだろうか。

先ほどの分類でいえば、B の人々の存在がもっと研究されていいのではないかと思う。私はこれを環日本海文化として括るべきだと思う。渡来人で一括するのではなく、環日本海系か馬韓・弁韓系かの分析が必要ではないだろうか。

流れからいえば豆満江の河口に出て、海岸沿いに南下し、迎日湾あるいは蔚山あたりから対馬海流に乗って出雲、伯耆、但馬、丹波、若狭、越前、加賀と基地を形成していく流れである。

弥生時代に入って長江文明の流れをくむ百済系が日本に流入してきた時、これを迎えたのはこうした環日本海文化を担った人々だったのではないだろうか。

彼らは北九州を百済系に渡し、日本海を東に向かった。そして定着できそうな所があれば定着した。その中で最大の植民地が山城から大和にかけての平野部、そして琵琶湖を囲む滋賀の一帯であり、長脛彦の銅鐸系一族だった。


弥生=渡来=水田耕作と、3つを同じに見てしまうのは間違いの元だ。水田耕作は基本的には受容の問題だと思う。環日本海系も遅ればせながら水田耕作を受容し、独自の生産システムを構築したと思う。

問題は武器だ。社会を支配するのは武器であり武装集団である。高度に発達した長江文明が北方からの侵入者に蹴散らされたのも、金属製の武器と馬の使用によるものである。

だから縄文・弥生や水田耕作を本質的な時代区分としてはならず、武器としての石器・青銅器・鉄器で区分しなければならない(弥生式土器を作るためにはより高温の火がなければならず、それは金属器の使用と一致するとも考えられるが)

南沙諸島をめぐる一連の流れを見ていると、中国軍はかなりの程度で「関東軍」化していると思う。革命以来、中国軍は政府の管轄下にはなく、共産党の統制下にある。薩長同盟の私兵みたいなものだ。だから政府としては「それは共産党の方で考えてください」ということになる。

と なれば政府と党を統括する立場の習近平が責任を負わされることになる。これは死に体に近いところから復活したばかりの習近平にとっては大変辛い課題だ。し かし天安門を軍の力で乗り越えた中国共産党にとって、軍との関係を正常化することはいずれ避けられない課題でもある。さらに根本的には、社会主義とは無縁 の鄧小平路線を見直すことも避けられないだろう。(毛沢東はもうたくさんだが)

幸いなことに現指導部はかなりオールスターで固めているから、この数年間で党中央が軍事委員会から実権を取り戻すチャンスでもある。習近平にとってはのっけから「関東軍」を相手の命がけだが、ここは踏ん張って欲しい。

現下の情勢において主要な問題は、腐敗問題でも官僚統制でもなく、軍幹部を頂点とする軍産複合体との闘いである(ところで戴秉国はどうしているだろう?)

何か戦争ニュースで見たことがあるが、飛行機の上からレーザーで人影を補足して、機体を固定した後、ボタンを押すと対象がボンと煙を上げて消えてなくなる。
それを見たら、「レーザー画像上に固定されたら、それはほとんど死と同じだ」と思う。だからレーザー照射はミサイル発射とほとんど同義語である。

果たして海上艦同士のレーダー照射が同じ意味を持つのか、即座にこちらからミサイルを発射しなければならないものなのか、そこが分からない。(その数日前にヘリが照射されたとの報道もあるが)
目下の所、いろんな報道を見てもレーダーとレーザーの違いが分からない。大した問題ではないのかもしれないが、ことが重大なだけに気にかかる。

もうひとつ分からないのは、事件発生から発表までの1週間、外交ルートを通じての通告なり警告が行われた形跡がないことである。

中国政府外務省が「知らんかった」と言明していることは、極めて重大である。


中国外務省が知らなかったと言っているのだから、日本政府は中国政府に知らせなかったことになる。少なくとも外務省ルートを通じての通告はなされなかったことになる。

なぜだろう。なぜ中国外務省に対応させなかったのだろう。「政府」という国家を代表する装置が極めてないがしろにされている感じがする。

中国外務省は知らなかったと言っているが、日本の外務省は知っていたのだろうか。これも気になるところだ。

もちろん事件そのものも怖いが、これを政治的に利用しようとする政治トップと「闇の力」の姿勢はさらに怖い。

もし中国外務省が知っていた「知らなかった」と答えたのなら、それはそれで重大な問題だ。政府が軍を突き放したことになる。


あまりこの話は絡みたい気がしないのだが、NHKニュースに出た以下のクダリは記憶しておいてよのではないか。

第三者委員会の委員を務めた、教育評論家で法政大学教授の尾木直樹氏の談。

「どの教師もいじめを見過ごそうと思っていないし、親も気付きたいと思っているの に、なぜいじめを発見しにくいのか。
これまで科学的な解明や丁寧な分析が無かった。
今回の報告書では、いじめがなぜ発見できず、どうして友人関係の中で不幸な事件が起きてしまうのかが解き明かされている と思う。
報告書が、本当に子どもを救うことができる施策を打ち出すためのきっかけになることを願っています」

ということで、報告書は12の問題点を指摘している
その中で目につくものをあげておくと、
①いじめ認知の遅れ クライテリア(診断基準)の不統一
②教員間の「情報共有化」の遅れ 全体化プロセスの欠如
③教員間の日常的な意思疎通の不足 プラットフォーム(場)の欠如
④学級帰属意識の喪失傾向 学級の広場化とグループの優位化
⑤いじめ防止教育の限界 “いじめ”イメージの極大化という副作用
⑥マンモス校、教員の多忙化など周辺問題


これらの指摘から感じることを幾つか挙げておく。

①いじめは学校の抱えるいくつもの問題の中の一つであり、学校の抱える問題を解決していく道筋と共通している。それだけを切り離して解決することはできない。

②いじめはそれ自体がひとつの日常なのであり、常に存在するのであり、「いじめを無くす」ことは不可能である。担当クラスにいじめがあっても、それ自体は深刻でも恥ずべきことでもない。気軽く、腰軽く取り組まれるべきだ。

③“いじめ行動”の中に、具体的なかたちで危険な傾向を察知することが必要である。そのための簡単明瞭な診断基準がもとめられる。

④子供は本能的で残酷なものであり、自制心と思いやりの心は育てられるものである。いじめは「無くす」べきものではなく、「止めさせる」べきものである。

⑤いじめを止めさせることは、子供を大人にすることである。それは「対応」ではなく、それ自体が教育の中核となる実践である。

⑥情操教育が教育実践の中核的な一つであるとすれば、いじめを止めさせる、いじめをさせない実践は、教師集団の日常的・集団的実践として取り組まれなければならない。

⑦集団的実践の要となるのが職員会議である。それは上位下達の会議ではなく、職能集団の知恵を出し合う会議として位置づけなければならない。学び合い、励まし合いながら、教員の自発性を引き出すよう、民主的運営に心がけなければならない。

⑧学級形成が抜本的解決の鍵であるのはいうまでもない。しかしこの課題はますます困難な課題となっている。子供は兄弟や地域の中で社会的訓練を積むこと無く入学してくるからだ。根本的にはマンモス校の解消や、少人数学級の実現以外にない。

やはり、反論が出てきた。これはイスラム系通信社の“Cii”の発信したもの

“Cii Broadcasting is a global Islamic media brand”と称している。

2013年1月28日

南アフリカのエブラヒム外務次官は、フランスのマリ軍事介入に対する南アフリカ政府の姿勢を明らかにした。

「ジェイコブ・ズマ大統領は、南アフリカがフランスを支持するとは決して言っていない。西アフリカ諸国における紛争に対してフランスが軍事介入するのは、認められることではない」

これは、金曜日に放送された番組「国際展望」でCii の質問に答えた発言である。

「我々が実際に言ったことは、我々が国連安保理決議を支持するということだ。つまり過激派勢力の進出を抑えるために、アフリカ人の指導する兵力が、マリに関与するということだ」

エブラヒムの発言は、一部メディアの報道をフォローするものである。南アフリカは2011年に、コートジボアールにおけるフランスの軍事行動を非難しているが、一部報道は「今回の発言は、南アフリカが態度を360度転換したサインだ」としている。

「我々はマリを援助することはAUの責任であると言った。しかし種々の事情により、マリ政府は、直接フランスからの軍事援助を求めた」

質疑応答では、「反乱軍によってトンブクトゥの歴史遺産が破壊されつつある。南アフリカはマリに軍を派遣する意志があるのか」との質問があった。

イブラヒムは「ジェイコブ・ズマ大統領は補給作戦に関して“前向きに考える”だろう」と答えた。

「政治的不安定がサヘルの危機を増悪している。すでに干ばつの影響を受けている地域に居住者と難民が押し寄せている。南アフリカ政府はマリ政府の要請に基づき包括的人道援助の法案を作成中である」

と締めくくった。


南アとしては辛いところだ。
原則的には認められるものではない。
しかし、いまAUにイスラム過激派を食い止める力はない。
だからマリはフランスに直接介入を要請した。
それに対して我々が反対を唱える立場にはない、という苦渋の発言だ。
そもそもズマ大統領へのインタビューは、リビアへの国際介入が正しかったかどうかというテーマのものであり、マリ介入問題は事のついでに触れられたという性格のものだ。
AFPは若干ルール違反をしていることになるだろう。



AFP・時事の配信。
南アのズマ大統領は、フランス放送局とのインタビューで、フランス軍のマリ介入を支持した。
理由について問われると、「マリ軍にイスラム過激派を止める力はない」と突き放し、「他に選択肢はなかった」と現実的な判断を強調 した。

以下英文

Zuma however backed the French-led intervention to oust Islamists in Mali, praising French President Francois Hollande for consulting African leaders before deploying troops.

"We supported that because there was no other alternative," he said, pointing out that the Malian army had no ability to stop the insurgents.


時事は記事をちょっと潤色しており、赤旗はこれをそのまま掲載しているが、フランスのメディアの行った会見をフランスの通信社が配信しているので、「ハイそうですか」とはならない。

たしかにトンブクトゥの「原理派」組織が、マリ全土の制圧を狙い動いていたことは間違いないようだ。AUにそれを食い止める力がないだけに、ぎりぎりの判断としてフランスの介入やむなしとなるかもしれない。
しかし、フランスはマリ南部だけを守って満足するとは思えない。目的はサヘルのウラン鉱確保にある。したがってマリ政府はトゥアレグ人勢力との全面対決に追い込まれることになる。これはマリ政府にとって決して良い選択ではない。

この数ヶ月間、マリ政府及びAUとトゥアレグ人勢力との対話はどうなっていたのか、何よりもそこが疑問である。

1日の赤旗に下記の記事

中国共産党中央対外連絡部(中連部)のアジア二局副局長が共産党の緒方副委員長と懇談。

訪日中の趙世通副局長は、緒方副委員長、森原国際委員会事務局長と「夕食を共にしながら懇談」した。
懇談では日中両国関係の問題や両党関係、アジアの情勢などについて意見交換したというから、相当全面的だ。たんに旧交を温めたというわけでも無さそうだ。

中国の人物は、肩書きからだけではなかなか判断がつきにくいが、緒方・森原の揃い踏みであれは、日本共産党側としてはかなりの力の入れ方と思う。

06年8月の胡錦濤談話以来、両党はかなりパイプが細くなっていただけに、関係再強化に向けてのステップとなってほしいと思う。

同時に、紆余曲折を経た習近平体制だが、鄧小平→胡錦濤の無思想路線への一定の手直しが行われることに期待したい。

なお趙世通副局長という人物であるが、
日本処副処長、処長、第二局副局長と出世してきた経歴の持ち主。不破さんの「北京の5日間」では、お世話係みたいな感じで登場している。
https://livedoor.blogimg.jp/shosuzki/imgs/5/b/5b2242e1.jpg
日本語はペラペラ、共産党と言っても、現場に関わったようなふうには見えない。しゃべることも外務省官僚とあまり変わりない、如才さが目に付く。年齢は40そこそこで、自ら評価・判断するポストかどうかは疑問が残る。
第二局というのは、北東アジア・インドシナ地域を担当する部局らしい。


赤旗の「朝の風」で艾青(がいせい)が紹介されていた。中国語読みするとアイチンとなるようだ。

記事では「広島 お前は最も信ずべき証人だ」との一節が引用されているが、いかにも情報不足で、紹介になっていない。

そこで少しネットをあたってみた。日本語の文献はほとんど皆無である。

Yaga-maak さんのブログで、少し詳しく紹介されている。その中の一節。

「技巧を楽しむために詩を書いてはならないが、しかし詩を書くのには技巧が必要である。話をする時にしても耳に入り易い話し方もあるし、そうでない話し方もある。」

「どの詩もがすべて自己を書くわけではない。とはいえ、どの詩にしても自己によって書かれている。――つまり書かれたものはすべて自分の心を通過している」

「艾青と何其芳を考えていると武田泰淳と木島始の幽霊が出てくる
http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/metadb/up/kiyo/AA11472506/AjiaShakaiBunka-Kenkyu_12_123.pdf

には「人の皮」をめぐるエッセーが収録されている。あまり愉快な詩ではない。

とりあえず日本語文献としてはこんなものだ。


たしかに、いったん悪循環に陥ってしまえば、どちらが原因かと言われても“卵が先か鶏が先か”という状況にはなる。

このへんは時系列的な分析が必要なのだが、97年ショックというのは消費税増税をふくめた8兆円の国民負担増と、金融危機の複合によるものだから、なかなか難しい。

ただ金融危機は、生産に対してかならずしも長期的な影響を与えているわけではない、ということははっきりしてきた。大手銀行が産業界に君臨するという構図は、すでに80年代に終焉を迎えていた。

デフレの直接の引き金となったのが低価格競争だというのは、かなり確からしい。

そうすると、内需の減退と低価格競争が先行して、それがコスト削減と人件費節約へと結びついていったというのが2000年代初頭にかけての風景ということになるのか。

そして、これによってもたらされた企業の苦境を、労働力の流動化という「痛みを伴う改革」で乗り切ろうとしたことの間違いが浮かび上がってくる。それは「構造改革」ではなく、低賃金と不安定雇用の「構造化」であった。

ただ、日本の産業全体を巻き込むような低価格競争が本当にあったのか、それが何をもたらしたのか、そのへんはもう少し丁寧にフォローすべきだろう。

赤旗では、「労働力の流動化はアメリカの外圧による」という解説がもっぱらなされてきた。しかしそれだけではやはり弱いと思いはじめている。やはり内発的な動因があって、そこを外圧が後押ししたと見るべきだろう。

デフレ脱却等経済状況検討会議 第一次報告

はじめに~デフレの現状と背景~

デフレの判断基準: 内閣府の月例経済報告では、消費者物価指数、特に基調を示す「生鮮食品、石油製品などの総合」(いわゆるコアコア)を重視している。日本銀行は消費者物価指数の前年比上昇率で示している。

①デフレから脱却できない状況

我が国経済は、過去10 年以上にわたり、デフレから脱却できない状況が続いている。

平成23 年度の名目GDP は約470 兆円となり、10 年前(平成13 年度)の約502 兆円に比べ約6%減少した。

この間、実質GDP は8%増加した。

GDP デフレーターは13%、年平均で1.4%の下落を続けた。消費者物価指数も、ほぼ全期間にわたり下落を続けた。

②デフレの背景

長期にわたるデフレの背景には、

需要が供給能力を下回る需給ギャップの存在を前提として、企業や消費者の成長期待の低下、デフレ予想の固定化といった要因がある。

需要不足や物価の下落が所得を減少させ、デフレ予想と成長期待の低下を生み、更なる需要の下押しと物価の下落圧力をもたらした。

急速な円高の進行もデフレ圧力となり、デフレが円高の背景となっている面もある。

③デフレの影響

コスト増が生じても、厳しい競争に直面している分野では価格を引き上げることができず、賃金や収益が圧縮された。

国民の実質的な購買力を示す実質GNI(国民総所得)は、この6年間の年平均で0.6%下がっている。

④デフレから脱却するために

需給ギャップの縮小等に伴い、物価の下落テンポが抑えられてきている。

デフレから脱却するためには、適切なマクロ経済政策が必要である。

それとともに、生産、分配、支出にわたる経済の円滑な循環を妨げている構造的要因の改革が必要である。

こうした取組により、賃金や収益の増加を伴う国民全体にとって好ましい成長を目指す。


これは昨年7月に行われた内閣府の会議へのレポートの冒頭部分である。

デフレの基本的要因は需給ギャップの拡大と、それによる商品価格の低下にあるとしている。

明示はされていないが、低価格競争が引き金になり賃金・収益の低下がもたらされ、内需の一層の冷え込みにつながっているという認識と思われる。

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