鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

2013年01月

「脱原発のドイツを訪問」という連載がある。増山さん(画家)の寄稿連載という異色の記事。
それだけのことはある。
このなかで、原発解体会社の担当者の発言が重い。

「原発解体は建設や稼働中の売電利益よりもずっと多額。小規模原発1基で660億円以上、少なくとも70年の期間がかかります」

この会社はドイツの全原発の解体作業を請け負っているというから、情報は確かだ。

とくに旧東ドイツのソ連製原子炉が劣悪で危険なようだ。

「熱い核燃料を冷まして、放射性レベルを落としてからでないと作業できないため、5年間寝かしてから作業を開始しました。
徐々に放射性レベルが高い部品の解体作業にかかりますが、22年経った今も床の掃除が終わらず、建物自体はさらに50年間待たないと解体できない」

インドのレイプ事件はきわめて痛ましく、またおぞましい事件である。
インドにおける人権意識は経済レベルに比べ相当低い。下位カーストの人間は人間と思われていない。虫けら同然だ。
ここまで平然とやられると、思わずこちらの価値観が揺らいでしまう。10年前のムンバイでの経験は、思い出しただけでもめまいがする。子供をさらって臓器をとったり、骨格標本を作ったりとやることがすごい。

ただ不思議なのは、虐待事件のほとんどが社会的にもうやむやにされていることである。これがラテンアメリカだったら、女性の家族が放っては置かない。かならず復讐する。手塩にかけた可愛い娘に何をしてくれた、と詰め寄るものである。

もう一つ、レイプというのは婚姻外交渉という側面も持つ。したがって婚姻制度のゆがみの反映という視点も必要なのではないか。インドには法外な結納金を吹っかけたり、嫁した嫁は死をふくめいかなる処遇をも甘受すべきという風習がある。

このような風習はかつて日本にも存在していたが、最近ではさすがに聞かれなくなった。女性の社会進出もあるが、主要な側面は古い家制度を支えていた社会基盤が崩壊したことだと思う。

インドでも古い家制度は崩れつつあり、そのゆえにレイプ問題が露出してきているのではないだろうか。そうでなければ、良家の子女の代表であるデリー大学医学部の学生がレイプに遭うなどありえない。法の手にかかる前に凄惨なリンチが待っているはずだ(と、感じたのだが、目下のところ根拠なし。少し調べてみなければ…)

嬉しいような嬉しくないようなニュースだ。
40年ぶりにビクトル・ハラの虐殺犯が逮捕されたという。

時間の問題だったようだ。
すでに昨年5月に、チリのテレビ局が軍人の証言を紹介していたそうだ。
「犯人は、ハラが質問に答えなかったことに激怒し、至近距離で彼を撃った」と語っている。

クーデターの直後、ハラは逮捕されサンチアゴ市内のサッカースタジアムに収容された。彼はそこでもギターを弾き、歌をうたい、抵抗を貫いたため、「二度とギターが弾けないようにしてやる」といわれて両手を切断された。
その上で射殺されて死体は遺棄された。側溝から遺体が発見されたのは、1973年9月15日のことである。

これらのいきさつは妻のジョアンが調査し明らかにしている。

今回はその下手人が特定されたということだ。すでに4人が逮捕されたが、主犯のペドロ・バリエントスなる人物は、チリを離れフロリダ州内にいるようだ。

感想といわれても、なんとも答えにくい。ただ、これは正義とか恨みという問題ではなく、二度とあのようなおぞましい事件を起こさないための努力の一環として評価すべきだろう。

暗い歌だが、好きな歌を紹介する。

Manifiesto

歌いたいから歌うわけではない 声がいいから歌うわけではない

それはわたしのギターが心と主張を持っているからだ

わたしのギターが 大地の心と鳩の翼をもってるからだ…

ビクトルハラのことなどに、ずっとうまい訳詩が載っていました)


赤旗に「IBM解雇撤回訴訟の原告陳述」が掲載された。
まったく以ってひどい話だ。
原告は49歳男性で、名は秘されている。

以下は要約

私は1987年4月に日本IBMに入社し、…今日まで仕事第一に、お客様のために一生懸命がんばってきました。
そのかいあって、08年には所属部門の月間最優秀賞を、09年には所属チームのリーダーから感謝状と盾を受賞しました。
また12年4月には勤続25年の表彰を受け、複哨として1ヶ月の休暇取得の権利が授与され、8月に休暇を取得することになっていました。

ところが、7月20日午後5時過ぎに、上司から呼び出されて会議室に入ると、上司と部門の人事担当者がおり、突然解雇を告げられたのです。

…それ以降、私は職場を奪われたままです。

私は、…過労死水準の残業をさせられたあげくに残業代が一部しか支払われなかったことから、12年4月に残業代の支払いを求めて提訴しています。今回の解雇は、提訴に対する報復の仕打ちとしか思えません。

収入を絶たれたいま、食費を1食300円以内に切り詰め、貯金を取り崩しながら何とか暮らしています。同居している両親は、…毎日嘆き悲しんでいます。

この年で再就職などとてもおぼつきません。

私には、解雇されなければならない業績不良などありません。なんとしても職場に戻してまともなくらしをさせてください。

花の外資系、しかもIBMと来ればトレンディー・ドラマに出てくるようなトップエリートと思っていたが、首を切られれば1食300円の生活に転落する。
ここまで企業は酷薄になっている。

しかしこういう企業に未来がないこともたしかだろう。

このあいだテレビを見ていたら、桜井よし子という人が出てきて、ディベートをやっていた。
彼女の議論のしかたは交差点で衝突事故を起こした女性ドライバーと同じだ。
「あなたが100パーセント悪い」と主張することにより、「私は100%正しい」ことを証明しようとする論法である。
自分の論理が正しいことをポジティブに立証するためには、それなりの根拠や論証が必要だが、その根拠や論証は100%正確ではなかったり、推論が入り込まざるを得ないところもある。
その論理の瑕疵に刃を突き立て、キリキリと刺しこみ、グリグリと抉れば、勝てるかもしれないが、それでは討論ではなく口論に堕してしまう。
こういう女性ドライバーと議論するのははなはだ消耗であり、第三者の早期介入をもとめた方がよい。


村山談話は読む価値のある文章だ。全文は外務省のサイトで読める。そんなに長いものではない。

1.二つの目的と二つの行動

①私たちは平和の尊さ、有難さを忘れがちになります。私たちは過去のあやまちを二度と繰り返すことのないよう、戦争の悲惨さを若い世代に語り伝えていかなければなりません。
②近隣諸国の人々と手を携えて、アジア太平洋地域ひいては世界の平和を確かなものとしていく。そのために、これらの諸国との間に深い理解と信頼にもとづいた関係を培っていく。

というのが国の目的

そのために「日本と近隣アジア諸国との関係にかかわる近現代史研究を支援」すること、「各国との平和友好交流の飛躍的な拡大をはかる」ことの二つの行動を掲げている。


2.わが国の過ちと責任、そして反省と謝罪

そして反省の段に入る。

わが国は、遠くない過去において国策を誤り、戦争への道を歩んだ。

それは国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。

と、かなりはっきりと責任を明らかにしている。右翼からはかなりの抵抗を呼びそうなフレーズだ。そして次が謝罪の部分となる。

私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます。

まさにこれこそが未来志向・国際志向ではないか。


3.深い反省に立ち、未来志向・国際志向の政治を目指す


そして最後が首相としての決意表明だ。

わが国は、深い反省に立ち、独善的なナショナリズムを排し、責任ある国際社会の一員として国際協調を促進し、それを通じて、平和の理念と民主主義とを押し広めていかなければなりません。

これこそ、過去に対するつぐないとなり、犠牲となられた方々の御霊を鎮めるゆえんとなると、私は信じております。

核の問題での不十分さは残るが、全体としてなかなか立派な文章である。なによりも、安倍首相に対する何よりも有力な反論となっていることに、ある種の感銘を受ける。

これは保守派もふくめた戦中・戦後派の、戦無派に対するコンセンサス・メッセージととらえて良いのではないだろうか。

私は安部談話の危険な狙いを暴露するだけでは不十分だと思う。彼の攻撃のターゲットとなっている村山談話のどこが、どのように攻撃されているのかを明らかにしていかなければならない。
そして、逆にその積極的な中身を広く知らせていくことにより、我々の目指すべきこの国の将来像を語り、国民の判断をもとめるべきではないだろうか。


阿部首相が見直しを打ち出した村山談話と河野談話について、もう一度確認しておこう。
ウィキペディアから

①村山談話

は、1995年(平成7年)8月15日の戦後50周年記念式典に際して、第81代内閣総理大臣の村山富市が、閣議決定に基づき発表した声明「戦後50周年の終戦記念日にあたって」を指す

全体として4段からなるが、そのうちの第三段が肝心な箇所となっている。

日本が「植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与え」たことを「疑うべくもないこの歴史の事実」とし、「痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明する」

日本語では「談話」と表現しているが、英語では「ステートメント=声明」という、より明確な意思表示を表す表現になっている。

②河野談話

1993年(平成5年)8月4日に、当時の河野洋平内閣官房長官が発表した「慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話」を指す。

慰安婦関係調査

内閣官房
内閣外政審議室が
1993年8月4日に発表したいわゆる従軍慰安婦問題について」を指す。

慰安婦の存在を認めた。
慰安所の設置は日本軍が要請し、直接・間接に関与したこと、
慰安婦は、数多くの事例で本人たちの意思に反して集められた。官憲等が直接に加担したこともあった。
慰安所の生活は強制的な状況の下で痛ましいものであった。

同日に行われた河野談話

河野談話では、「強制連行」の評価にスポットが当てられている。

河野は強制を認めた根拠として「募集・移送・管理等の過程全体をみてであり、自由行動の制限があったこと」を挙げている。

そして、「組織として強制連行を行っていても、無理にでも連れてこいという命令書や無理に連れてきましたという報告書は作成されることはないだろう」と付け加えている。

ということで、いずれの記載についても周辺事情の説明が長く、内容そのものの紹介はきわめて不十分である。


Y染色体の解説を読んで感じた。

日本人のY染色体は世界でも特異的な多様性を持つといわれる。したがって「縄文人と弥生人との混血」のみで割り切るのは正確ではない。

おそらく、旅する人類にとって日本列島は終着駅的性格を担っていると考えられる。ここから先はないのだから、戻れぬとすれば立ち止まるほかないのである。そして折り重なっていくしかないのである。

ユ-ラシア大陸の西の端のイギリスやイベリア半島にも、同じような傾向が見られるのではないか。バスクが来て、ケルトが来て、ローマ人が来て、バンダル人が来て、ゴートが来て、サラセンが来て、ノルマンが来てという具合だ。

ゲノム分析もいいが、せっかくのツールを生かすとすれば、床屋談義の片棒を担ぐよりは、もっと気宇壮大に、これらの多様性と重畳性の全体を解き明かす方向で研究を進めてもらいたい、

その上で、生産技術上の画期、政治体制上の画期を解き明かすのは、もっと学際的にやればよい。科研費ほしさに、余りそちらのほうにでしゃばらないほうが良い。


三韓の歴史を見る上で百済本記はものさしとして利用できるのではないか。基本的に百済には建国神話はない。だから時間尺を延ばしたり縮めたりする理由はない。必要なのは支配を合理づける「天孫降臨」神話のみである。
第二に、百済政権は満州からやってきて真番の先住民社会の支配権を奪ったいわば"外人政権
"であり、現地住民に対して客観的と想定されるからである。
第三に、山東半島からの渡来人のプライマリーな受け入れ先であり、国際色が強く神話の生まれる余地がないことである。
ただし建国がBC18では、米作りと弥生文化の流入よりはだいぶ遅れてしまう。実際に伝来を担ったのは、その前の真番かさらにその南の馬韓の人々であったろう。

以下に「百済を見よう」のページから引用させていただく。

百済は伝説によれば紀元前18年に建国した。始祖の温祚王は、北夫余から逃れ卒本(中国桓仁)にいた趨牟(朱蒙=高句麗始祖)の子だという。温祚たちは南の肥沃な地へ逃れ、弟の沸流は仁川 で、温祚は河南慰礼城に生活し て国名を「十済」としたという。高句麗と同系と言うことを強調している。

【百済の成長】 実際は国としてまとまったのは4世紀前後といわれる。3世紀半には朝鮮 半島西南部に馬韓が50カ国あったが、百済のおきた金浦平野は帯方郡に近く、その影響を受けて力 を強めたと考えられる。国政には 帯方郡の中国人も関与していたようである。帯方郡の消滅とともに高句麗と 直接対峙するようになった。

近仇首王(375-384)は平壌まで 攻め入り、高句麗故国原王を殺した(371年)。その一方、加倻に 進出し て親交を結ぶとともに、太子の時 代(近肖古王(346-375)のとき)に倭へ七支刀を 送った。それ以外にも大陸の文化を倭国 に積極的に伝えた。千字文などの文字を伝えたとさ れる王仁もこの時 期の人である。
     
【高句麗と百済】
高句麗、新羅が前秦(北朝)と結びついたのに対抗して、百済は東晋(南朝)や倭と結びついた。そのため中国南朝の影響が強く、384年に東晋から仏教が伝 わった。396年には高句麗の広開土王の 侵攻によって打撃を受けた。そのため阿莘王(392-405)は一度高句麗に下ったが、すぐ倭と通じて高句麗と対抗した。新羅が高句麗の勢力 下に 入ったのとは大きく異なる。

阿莘王の死後、日本に質として送られていた腆支が王(405-420)となり、倭との 関係を維持する。高句麗では長寿王の代となり、百済を攻撃した。蓋鹵王(455-475)は殺され、一旦滅亡し た(475年)。 王子文周は熊津へ逃げ て国を再興し た。


下線部分は私が引いたのだが、この伝承様式は米作りの伝承とも重なり合わないだろうか、というのが私の感想である。

結局、縄文人と弥生人の混血というところが、ずっと引っかかったままであるのが、この問題が尾を引いた理由だ。混血は良いとしても、それがmtDNA、Y染色体ともにフィフティー・フィフティーというのは、やはりありえない話だと思う。

朝鮮半島南部で混血した人々が、九州にやってきて、縄文人を排除しながら各地に展開したと見るほうが素直だ。

朝鮮半島に混血種が見られないとすれば、それは彼らが半島から排除されたからなのではないか。(台湾も同様の事例と見られる)

平壌に朝鮮王朝があり、これが中国公認の政府だった。その南方に真番があり、後の百済となっていく。しかしその南方には、さらに古朝鮮人の社会である馬韓があった。ここに山東半島経由で長江文明の衣鉢を次ぐものたちが流入した。馬韓はのちに百済に併合されるが、同じものではない。
おそらくは馬韓の連中が、水田栽培技術を携えて北九州にやってきたのだろう。これで話は完結する。
しかし、それでは新羅が意味を持たなくなる。

新羅というのは不思議な国だ。いくつもの顔を持つ。

①そこは“秦朝の亡命者”が住まったところである。この事実は何度も強調されており、間違いないであろう。その理由を説明するために、「朝鮮王が釜山に逃げ新たに政府を創設した」という伝説が作られたのだと思う。事実は秦朝時代に山東半島を経由して逃げ込んだ人々だ。しかしそれがこの国の基本的性格を規定しているわけでもなさそうだ。

②首都は慶州である。地図を見てつくづく思うが、慶州というのはまことに変な場所だ。地理的には洛東江の形成する平野の中心である大邱あたりが首都だってもおかしくないし、海の玄関口というなら釜山だとか補項だとかが首都になるべきであって、慶州というのはどう見ても中途半端だ。

③現在の慶尚道という区分から見れば対外的な窓口は釜山だろうが、当時の新羅にとってはむしろ迎日湾のほうが重要のようだ。新羅という国家の骨格は、迎日湾から慶州に至る一帯のようだ。慶州に首都を定めたのは倭寇(海賊)を避けるためなのではないだろうか。ラテンアメリカには海賊を避けるために内陸に都市を建設した例はいくらでもある。

④中国人の進出に押しやられた先住民は南方の諸勢力だけではなく東方の諸勢力もあったのではないか。彼らは太白山脈の東に追いやられ、日本海の海岸沿いに非中国系の文化を展開したのではないか。

⑤北九州~瀬戸内沿岸の渡来人が任那や百済と種族的一体性を感じたように、山陰から北陸にかけての渡来人は環日本海文化の一部として新羅、さらには高句麗と一体性を感じたのではないか。

⑥新羅は日本に最も近い国である。多くの人々が海をわたり日本、とくに日本海沿岸の地方に渡った記録が残されている。神功皇后の祖先も丹波に上陸し近江に入った人々の末裔である。彼らは近畿に先着し、銅鐸文化を残し、神武の東征に抵抗した可能性がある。

⑦新羅は日本に徹底して苛め抜かれている。神功皇后の「三韓征伐」以前にも新羅侵攻の事実は山ほど残っている。百済に対してはこんな仕打ちはしていない。これは百済がどうこうというより、環日本海文明圏の覇権をめぐる争いとして捉える必要があるのではないか。だからこそ新羅との闘いは北方の盟主である高句麗との争いにならざるを得なかったのではないか。

つまり,我々が「渡来人」を考える場合、馬韓・任那→北九州という流れのほかに、新羅→日本海岸という渡来の流れを根拠におかないと事情は読みきれないということだ。

「朝鮮半島南部は日本人の揺籃地帯であり、それが最終的に北方人に押し出されるかたちで九州に渡ってきたのではないだろうか」と書いた。

時代で言えば箕子朝鮮の開かれたBC1000年から、衛氏朝鮮の開かれたBC200年、およそ800年間の時代に相当する。
「朝鮮王朝の支配域は平壌を中心とする範囲であった。それより南、現在の韓国は“真番”と呼ばれ、周にまつろわぬ民の住むところであった」と書いたが、その内容はほとんど分からない。

漢王朝が朝鮮を直接支配するようになって、“韓”は三韓として歴史に登場し、かなりの情報が得られる。とりあえずは、これらの情報からさかのぼって推理していく他ないようである。


BC1046年 周が殷を滅ぼす。このとき周の武王が殷の重臣の箕子が朝鮮侯に封じられたとされる。朝鮮半島に関する最古の記述。韓国側は檀君朝鮮がこれに先行していたと主張する。

朝鮮朝の南は真番と呼ばれた。後の4郡の内、真番郡は京幾道・忠清道あたりを指すと思われ、それより南については触れられていない。

BC214 朝鮮王「否」が秦に服属を誓う。

BC194 燕人「衛満」が朝鮮王朝を簒奪。衛満は燕王盧綰の部将だったが逃れ、朝鮮王朝の傭兵となっていた。

BC194 朝鮮王「箕準」、数千人を率いて逃亡し、馬韓を攻めて韓王となる。(後人の創作との説あり)

BC191 漢朝、衛満を遼東太守の外臣に任じ、東方からの異民族の侵入に備える。

BC108 漢の武帝、討伐軍を派遣し衛氏朝鮮を解体。楽浪郡、真番郡、臨屯郡、玄菟郡の四郡を置く。現在の慶尚道と全羅道南部は“韓”として管轄外に置かれる。

BC82 真番・臨屯が廃止され楽浪郡に編入される。玄菟郡もその後段階的に縮小され、事実上楽浪郡のみとなる。

BC45 「楽浪郡初元四年県別戸口簿」によると、楽浪郡25県の戸数は4万3251戸、人口は28万0361人であった。

朝鮮古代史を勉強しているうちに、ふと「東海」呼称問題が目に留まった。韓国ではこれを日帝支配問題と絡めている。竹島問題と同じのりだ。しかし日本海の「東海」化が過去の清算と結びつくとは到底思えない。

竹島もかなり勝手な思い込みとは思うが、日帝支配下という特殊事情は理解できないでもない。しかし、「東海」呼称問題は、対日本だけではすまない問題が根本的に横たわっている。
それは、いわば、韓国が周辺世界に対して中心的存在であることを、国際的に認めよという主張に等しいからだ。
韓国にとっては東海かもしれないが、日本にとっては北海であり西海である。ロシアにとっては南海である。内々で東海と呼んでいるうちはかまわないが、なんでそれを日本やロシアに押し付けなくてはならないのか。不合理だとは思わないのだろうか。
東海の呼称は北朝鮮にとってすら不合理である。かつて渤海国は日本海を南海と呼んでいた。対日貿易の拠点は南海府と呼ばれた。いまの清津あたりであろうか。

もう一つ、朝鮮海峡問題がある。これは昔は日本でも朝鮮海峡と呼んでいたものが、バルチック艦隊との決戦のあとから対馬海峡と呼ぶようになったという経過がある。だから、日本側からしても国際的な呼び名に戻して朝鮮海峡としたほうが良いと思う。ただ朝鮮海峡というのは朝鮮との間の海峡という意味だから、日本側の視点であることに注意する必要がある。韓国から見れば日本海峡としたほうが主体的ではある。
韓国ではこれを「釜山海峡」と呼んでいるようだが、これは「対馬海峡」と同根の発想であり、いただけない。国際呼称を変えるという立場からすれば、これでは理屈が立たない。「人の足を踏むな」という主張は理解できるが、「今度は俺に踏ませろ」というのでは、まるでガキのけんかだ。

「それならいっそ東シナ海も西海にしたら」と思ったら、本気でそう主張していることが分かった。韓国政府は中国に、東方の海を「西海」と呼ばせたいらしい。
ここではもはや「日帝」は関係ないので、ただの横紙破りである。どんな理屈をつけているのかは知らないが、おそらくシッチャカメッチャカだろう。影でクスクス笑われているのが分からないらしい。せめて「西朝鮮海」にしたら…

だいたい地名などというものは実にいい加減なものである。オホーツク海もベーリング海もロシア人探険家の名前だし、東シナ海も南シナ海もずいぶん大雑把な名づけ方だし、第一「支那」なんて呼び方をするのは、いまどき石原慎太郎くらいのものだ。

その中では例外的に、「日本海」というのは合理的な命名だ。オーシャンからシーを分け隔てるものがシーの名称になるべきであって、太平洋から日本海を分離しているのが日本列島であるとすれば、「日本海」と呼ぶほかない。同じようにアリューシャン海、千島海、琉球海、フィリピン海と呼ぶのが地理学的には合理的だと思う。

朝鮮半島の東に海がある。それは間違いない。しかしもし日本がなければそれはシ-ではなく、のっぺらぼうのパシフィック・オーシャンでしかない。そもそも「東海」などという概念が成立しないのだ。それとも太平洋を「東海」と名づけるつもりか。

だからといって、慣用表現を地理学的表現に変えろとまで主張するつもりもないが、ただ南シナ海だけは、呼称問題と現実の領土・領海紛争がモロに絡んでいるだけに、正確に考えておく必要がありそうだ。

日本海と名づけられているからといって、日本海が日本のものだとは思わないし、南シナ海が中国のものだとは中国以外の誰もが思っていない。ましてベトナム守備兵を大量虐殺してまで西沙諸島を確保したやり口は、決して認められるものではない。

「東海」と名づけようとする動機が日本海を我が物にしようとする野心と結びついているとしたら、それは絶対に許されるものではない。

水田技術とは、詳しく言うと「水田田植法」ということで、これは当時の朝鮮にはなかったものらしい。ということになると、誰が渡って来たのだろう。

結局、古代朝鮮、とくに朝鮮海峡に面した半島南部に誰が住んでいたのだろうと言うことになる。日本に水田栽培の技術を持ち込んだあと、消滅してしまった人々の集団がいたと仮定しないと、ストーリーは完結しないようだ。

それは長江文明を担った人々と北方人の混住する集団であり、一部は日本から移住した縄文人を混じていたかもしれない。

米作り技術の伝播とDNA解析の示すところを統一的に把握しようとすると、選択肢は意外に狭い。

朝鮮半島南部は日本人の揺籃地帯であり、それが最終的に北方人に押し出されるかたちで九州に渡ってきたのではないだろうか。

以下に米作りの年表をまとめてみた。


BC1万年 江西省や湖南省で焼畑による陸稲栽培が始まる。(これまで稲作の起源といわれた雲南省の遺跡はBC2000年以降)

BC5000年 揚子江下流の浙江省河姆渡遺跡で水田耕作が始まる(水田遺構は発見されていないが耕作の遺物が発見されている)。長江文明の始まりとされる。

BC4000年 揚子江下流江蘇省呉県の草鞋山遺跡で最古の水田遺構。

BC4000  縄文前期 三内丸山遺跡で栽培されたイヌビエのプラントオパールが発掘されている。

BC4000年 岡山県彦崎貝塚で確認された陸稲(熱帯ジャポニカ種)プラントオパールがこの頃のものとされる。

BC3500年 朝鮮半島で雑穀などの小規模な栽培が始まる。

BC3000年 淮河(中国の畑作・米作境界ライン)を越えて山東半島まで稲作が到達。同じ頃の平壌市南京遺跡から、山東半島と同形の短粒米が出土。

BC2500年 寒冷化が進む。落葉樹の南限も下がり、東北縄文人が近畿地方にまで南下する。

BC2000年 長江流域の諸都市が相次いで消滅。長江文明が崩壊したとされる。(一説にはBC1000年まで存続)

BC1500年 縄文後期の岡山県南溝手遺跡、岡山大学津島遺跡などで陸稲による稲作が確認される。ほかにオオムギ、アズキ、アワなども確認されている。

BC1050年 「殷」が滅亡。「周」朝が興る。周は殷の重臣だった箕子を朝鮮王に封じる。朝鮮王朝の支配域は平壌を中心とする範囲であった。それより南、現在の韓国は「韓」と呼ばれ、周にまつろわぬ民の住むところであった。

BC1000年 遼東半島の最古とされる米(陸稲)がこの頃のものとされる。

BC800年 南朝鮮で大規模な水田が開発される。伝来経路は山東半島→朝鮮半島中部説、江南→南海岸地方の2説がある。

BC800 唐津市菜畑遺跡で日本最古の水田が確認される。出土した生活道具は、すべて縄文文化に由来するものだった。

BC800 縄文晩期初頭 熊本県上南部(かんなべ)で稲のプラントオパールが発掘される。

BC500 縄文晩期後半 水田田植法を用いた日本最古の水田址遺跡。岡山県津島江道遺跡、福岡平野の板付遺跡などで発見され、この頃のものと確認される。最初の水田はいずれも低湿地に作られる。水田遺跡に木製農具が登場する。諸手鍬、鍬、エブリ、竪杵など

BC473 長江流域を支配する「呉」が「越」に滅ぼされる。「越」もBC334年に「楚」に滅ぼされる。

BC223 「楚」が滅亡。秦が中国全土を統一。楚の成立に関しては北来説が有力だが、独特の文字や憑依系シャーマニズムなど土着の文化を担っていた。

BC200 津軽平野の田舎舘で水田耕作が確認される。現地では稲を上回るイヌビエのプラント・オパールが発掘されている。

BC194年 燕の衛氏が朝鮮に王朝を開く。

AD1500 朝鮮で水田田植法が開始される。それまでは水田直撒き法で、田植は日本から持ち込まれた可能性がある。

下の図は日本人の源流を探してより転載したものである。DNA解析をベースにしており、説得力がある。

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一応、日本人起源論はこのくらいで打ち止めにしておこう。
1.縄文人・弥生人・渡来人のうち、弥生人=渡来人という判断には、依然として疑問が残るが、基本的には受け入れる。
2.埴原の縄文人=南方系説は、その後の知見によりほぼ否定された。縄文人は樺太方面から南下した人々だ。
3.縄文人と同じ北方由来の人々が、揚子江流域に広く分布していた。
4.BC1000年以降、弥生系と同じ新たな北方系が東アジア全土に南下した。旧北方系の人々は辺境に追いやられた。
5.日本においては一方的に駆逐されるのではなく、かなり多くの縄文人が弥生系と混交した。
6.米作りの伝播は、これらの流れとは別に考えなければならない。

*4の時代はもっとさかのぼるかもしれない。水田栽培の起源は長江中流域とされているが、それを担ったのが現代中国人なのか縄文系なのかが目下不明である。
*5の縄文系と弥生系の混交は、九州でなく朝鮮半島南部ですでに行われていた可能性もある。琉球まで進出した縄文人が、朝鮮半島に渡らなかったと考えるのも、むしろ不自然であろう。
そこで混血した人々がふたたび海をわたり、縄文人を排除しながら全土へと拡散したと考えると、ハーフ・アンド・ハーフという遺伝子学的人種構成ははるかに説明しやすくなる。

上記記事は重要な誤りを多数含んでいます。

2013年、明けましておめでとうございます。
本年もご愛読のほど、よろしくお願いいたします。

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