鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

AALA関連記事は「aala_newsの編集日記」http://blog.livedoor.jp/aala_news/ に移りました(6Nov.2023) 中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 「ラテンアメリカの政治」(http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ )がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

2013年01月

イポリット「ヘーゲル精神現象学の生成と構造」ノート

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ヘーゲルは意識のなかにあるままの「知」を考察している。これが現象知である。

みずからが絶対知に高まっていくのは、この現象知を出発点とするからである。そしてこの現象知が自らを批判するからである。

イポリットの解説

現象知と絶対知の対立はシェリングが生み出した。しかしシェリングはこの関係が引き起こす2つの矛盾について展開していない。

一つは絶対知が絶対者の知であるなら自己知(主観)との関係はどうなるのか、もうひとつは絶対知が一旦確立すれば、現象知は絶対的同一の中に消滅していくのかという問題である。

ヘーゲルは哲学の枠組みについてはシェリングの立場に立ち、カントやフィヒテの「反省の哲学」を批判する。

哲学は論理学ではない。知を扱う学問ではなく、認識すべき対象に直接肉薄しなくてはならない。

カントは範疇を演繹しているにもかかわらず、その原理においてたんに「批判的」でしかない。その主観主義は出発の時からの結論でしかないのである。

シェリングはこの「批判」の見地を乗り越えた。主観的なものと客観的なものとが、知の中において“絶対的に同一である”という事態から素直に出発しなければならないのだと。

ここでイポリットは言う。

序論において、ヘーゲルは「哲学は認識論ではない」とし、カントへの批判を繰り返した。しかし「現象学」は、まさしくカントやフィヒテへの復帰を示している。このことはどう理解すべきなのだろうか。

私は考える。

①主観も客観も過程であり流動する。それが知(主体)の中において統一される。そういった過程抜きに知(主体)はありえない。その故に、主観と客観は絶対に同一でなければならない。

②この過程が統一的に知となるためには、知が主体化されなければならない。客観的なものは主観化されなければならない。この過程抜きにはカント流の概念操作に終わってしまう。

虚弱高齢者シェルターとしての老健

美しい言葉でなく、リアルな有り様として見ると、老健は虚弱高齢者のシェルターとなっている。

低収入の階層においては、とりあえず、もっともアクセスの容易な施設となっている。4人収容のいわゆる大部屋であれば、介護付き有料老人ホームのほぼ半額の費用で入ることができる。

そこでは高齢者下宿では得られない介護ケアが受けられる。

ただ、こういう実態は老健を作った本来の政策的趣旨と著しく乖離している。

肝心なことは高齢者向けの施設体系の見直しであろう。これらの人々は政策的には特別養護老人ホームに括られるべき人々だ。

老健がシェルターであるとすれば、特養へのスムーズな移動が保障されなければならない。

一方では、療養型病床の政策的削減が続けられており、本来は医療メインのケアーが施されなければならない人が、老健にしわ寄せされつつある。時によっては事実上の看取りをも強要される場面がある。

老健は中間施設であり、終末施設ではない。老健には3つの出口がある。在宅か、特養か、医療施設かだ。タクシーか、送迎バスか、救急車かという三択でもある。霊柩車はお呼びではない。

出口がきっちりと確保されていれば、老健はシェルターとしての機能をもっと発揮できると思う。とりあえずは、施設長としては、療養型病院との連携を強化していこうと思う。

生活再構築施設としての老健

これまで、老健では在宅復帰に向けてのリハビリという観点から、リハビリ医学の用語で語られることが多かった。

リハビリ医学は生活再構築の面で先進的な歩みを続けてきたし、そこには学ぶべき多くのものがある。

ただリハビリ医学は基本的に右肩上がりの思考なので、老健の現場では必ずしも適合しているとは言いがたい。機械的にリハビリ医学を適用しようとすれば、むしろ現場のケアワーカーの反発すら招きかねない。

現場に必要なのは右肩下がりの思考ツールなのである。

①人間の生理機能が、どういう順番でどのように落ちていくかについての理解がなければならない。

②そのうえで、落ちた機能をどのように補うか、どのように支えるかの戦略を立てなければならない。

③そして、落ちた状態での新たな生活をどう再構築していくか、の目標を立てなければならない。

ほとの住む部屋がだんだん水で満たされてくる。ぎりぎりになった時に、背伸びをすれば、息ができる。それでも足りなくなったらつま先立ちする。それでもダメなら顔を上に向けて口だけは水面上に顔を出す…

これが適応であり、踏み台に乗せてやるのが支援である。

おそらくそのイメージをデザインするのはリハ技師の仕事になるのだろうが、現場では未だそこまでの進出は果たせていない。

ミニマムコアーは「笑顔」

私は、生活していく上でのミニマムコアーは「えがお」だと思う。気持ちいいという笑顔、楽しいなという笑顔、「お世話になりますね」という感謝の笑顔である。

これは以前、重度障害者施設「びわこ学園」で長年、療育に携わった先生の文章を読んで感じたことである。

生きていてこそ感じられる感覚であり、生活していてこそ湧き出てくる喜びであり、「笑顔」はその表出である。そしてその積み上げが「生きていてよかった」という実感をもたらすのだろうと思う。

人生は苦しみでもあり悩みでもある。とくに病を負い、障害を抱える人にとって悩みは深い。

現場のスタッフは苦しみをとることしかできない。生活援助と除苦・除痛が二本柱となる。その積み重ねの中で、「笑顔」の生まれる環境を整えることが任務の基本となる。

逆に言うと、現場の関わりがポジティブに進んでいるかどうかの指標として、「笑顔」は最も重要なポイントとなるだろう。

いわば、老健の職員の日々の目標は、入居者の「笑いをとる」ことにある。その点では「お笑い芸人」と通じるところがあるのかもしれない。

ついで、この事件を最も系統的に報道した赤旗から

チーフ・プロデューサーが証言した改変内容

1月29日 NHKの松尾放送総局長らが安倍、中川両氏を訪ね、番組への理解を求める。了解を得られず。番組を変更するので放送させてほしいと説明。幹部はスタジオへ取って返し、作り直しを指示。

編集作業は深夜に及び、44分ものだったのが43分になって完成した。

編集作業は

(1)日本軍による強姦や慰安婦制度は「人道に対する罪」であり、日本国と昭和天皇に責任があるとした「判決」の部分を全面的にカットする。

(2)スタジオ出演者の米山リサさんの話を数カ所でカットする。反対の立場をとる秦郁彦教授の話を大幅に追加する。

1月30日夕方 再度追加カットの指示。夜10時の放送まぎわまで編集が続く。(内容は略)


ということなので、中川経産相は嘘を付いている可能性がある。

安倍晋三の方はもっと変な言い訳をしている。

「NHK幹部が予算の説明で来た。NHK側が自主的に番組内容を説明」したというもの。

これでは「私は嘘を付いています」と告白したようなもの。予算の説明なら松尾放送総局長がしゃしゃり出るような話ではない。もし予算説明が主目的なら、明日の番組の説明を“自主的に”行うのはどう見ても理屈が立たない。そもそもNHKが予算案について根回しすることが正しいことなのか、という問題も残る。

この問題は集会を主催したNGOが誰なのかも、朝日新聞がどう絡んだのかも重要なポイントではない。

政治家が事実上の事前検閲を行い、介入し、それにNHKが従ったことにある。憲法21条「思想と言論の自由」にもろに絡む問題だ。

一方で政治家としての資質が、一方で日本を代表するジャーナリズムの中核としての基本姿勢が問われているのである。

それが、12年後の今もまったく同じ顔ぶれで再現されている。ここにNHKの異様な報道姿勢の根底的な危険性が示されているのである。

慰安婦報道問題がうまむやのまま幕引きとなったあと、今度は台湾報道でまた恫喝をかけている。09年4月の話しである。

ただしこれは野党時代の話で、しかも安倍晋三は首相を辞任して町村派に居候中の話だから、大した話題にもならなかった。


安倍、町村氏らがNHK番組を批判「偏っている」 

自民党町村派の23日の総会で、5日放送のNHK番組(NHKスペシャル シリーズ・JAPANデビュー 第1回『アジアの“一等国”』)について、批判が相次いだ。

番組は日本の台湾統治を取り上げたが、稲田朋美衆院議員は「台湾は李登輝元総統など親日家が多いのに番組は反日の部分だけを偏向して報じた」と批判。町村信孝前官房長官も「番組をみたが率直に言って首をかしげた」と同調した。

安倍晋三元首相は「週刊新潮も取り上げたが、番組はひどすぎる。関心を持ってこの シリーズを見てほしい」と呼びかけた。

中山成彬(なりあき)元文部科学相も記者団に、自らが会長を務める議連「日本の 前途と歴史教育を考える議員の会」としてNHKへ公開質問状を出す意向を示した。

しかしNHKはこの出来事を忘れていないだろう。
相当ビビっているはずだ。


従軍慰安婦問題で安倍晋三がNHKに圧力をかけた経過については、ウィキペディアのNHK番組改変問題が詳しい。まずはそこから紹介する。(ただしこの項目については「この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です」というコメントがついている。)


(以下は私の文章であって、ウィッキペディアの記載を読んだ上での感想である)

改変された番組の名前は、ETV特集シリーズ「戦争をどう裁くか」の第2夜「問われる戦時性暴力」というもの。NHKはこの番組を2001年1月30日に放送した

番組の内容に、「日本軍性奴隷制を裁く女性国際戦犯法廷」という模擬法廷の紹介がふくまれていた。この集会は2000年12月12日に開催された。

この集会は、「“戦争と女性への暴力”日本ネットワーク」(VAWW-NETジャパン)というNGOが主催したものである。VAWW-NETジャパンは、「戦争と女性への暴力のない21世紀をめざして」活動している。(この団体の政治的背景についてはここでは省略する)

集会での「判決」は、「天皇裕仁及び日本国を、強姦及び性奴隷制度について、人道に対する罪で有罪」という、かなり過激な表現であった。

すでに放映前にいろいろあったようで、右翼団体が抗議行動を開始している。内部でも内容変更の指示があったと思われ、秦という人物の批判発言が挿入された。

番組そのものは、「肝心の判決内容が一切紹介されず、誹謗や批判が一方的に放送された」(VAWW-NETジャパン)ものとなり、時間も40分に短縮された(週刊新潮)。

と、ここまでが放映までの経過。

そして2月2日には中川昭一(経産相)が番組制作局長と会見した。伊藤局長は「実は内部で色々と番組を今検討している最中です」と述べている。

この情報の出所はフジテレビの報道番組とされている。おそらく中川サイドからの情報と思われるが、すでに放映終了後とすれば、内容がチグハグである。週刊新潮は「局長を呼び出し釘を刺した」と書いている。

おそらく中川の介入は放映前から始まっていると思われる。

この話はいったん収まるが、4年後の05年1月にNHKで内部告発があった。ほぼ同時に朝日新聞でも報道があり、おそらく同じソースと思われる。

これによると、

安倍晋三(官房副長官)と中川が番組内容を知り、「公正中立な立場でするべきだ」と求め、やりとりの中で「出来ないならやめてしまえ」という発言もあったという。

NHKは二人との会見の事実を認めた上で、安倍との会見が“放送前日あたり”、中川との会見は放送後だったと発表した。

ここは相当やばい橋を渡っていると思う。もし制作局長が“恐れながら”と喋りだせば、NHKの幹部は総辞職だ。逆に中川の方は“記憶違いかもしれない”と切り抜けられる。

ここから安倍晋三がはしゃぎ始める。

ウィキペディアによると、

各社の 報道番組に出演し、朝日新聞の報道を否定し、放送法に基づいていればいいという話 であったと述べた。

この放送法に基づいていればいい というのがクセモノで、そのあとに放送法に抵触しているかのようなほのめかし発言を行なっている.いわば内部告発を逆手に取った右翼のキャンペーンである。

①「法廷」の検事役として北朝鮮の代表者が2人入っている

②この2人は、日本政府により北朝鮮の工作員(=スパイ)と認定されている。そしてペルソナ・ノン・グラータとして査証の発行を止められている

②の話は重大で、査証の発行を止められている人物が、日本国内にいること自体が犯罪行為である。あちこちのテレビの特番で、官房副長官がペラペラ喋って良いことではない(05年時の肩書きは知らないが)。

ウィキペディアではこれについて、下記の如き<注>が添えられている。

但し、当該人物がどのような理由で工作員とされたのか、またどの官庁が認定したのかは明らかにされなかった。

つまり、自らの責任を問われた安倍晋三は、出所不明の情報を至る所で飛ばしまくることで、ウヤムヤにしてしまったのである。

「相手が悪いやつなら、どんな手を使ったっていいんだ」ということだ。しかも「悪いやつ」かどうかさえ定かではない。

「攻撃は最大の防御である」ということになるのだろうが、そこには安倍晋三という人間の狂気が透けて見える気がする。日本国を担う人間として、民主主義に関する感覚に根本的な欠落を感じる。

この「狂気」にNHK幹部は恐怖を感じたのではないか。

このあと、NHKは安倍とつるんで朝日新聞に逆襲をかける。NHKは安倍の共犯となる道を選んだ。

なおこれはひとつの憶測にすぎないが、次のような説がある。

NHKにとって一番の恐怖は、朝日が持っているとされたNHKトップ幹部のインタビューの録音記事だった。

しかしこのテープは当人の承諾を得ないまま録音された可能性が高かった。したがって朝日は証拠として提出できなかった。そこに権力が動いた可能性は否定出来ない。

あるいは他の要因かもしれない。しかしどうもこの事件でNHKは安倍晋三に借りを作った経過があるような雰囲気だ。


のちに安倍晋三は最高裁判決の後に以下のごとくコメントしている。

「最高裁判決は政治的圧力を加えたことを明確に否定した東京高裁判決を踏襲しており、(政治家介入があったとする)朝日新聞の報道が捏造であったことを再度確認できた」とコメントした。

要するに一片の反省もないということだ。

NHK自らが、会見の事実は認めている。それが放映の前だったことも、話の内容が番組の内容に及んだことも認めている。当時の安倍の肩書きは官房副長官だ。

なお、「政治的圧力を加えたことを明確に否定した」とされる東京高裁判決であるが、ウィキペディアによれば産経新聞さえ下記のごとく書いている。

高裁判決は「NHK幹部が政治家の意図を忖度した」と指摘している。最高裁判決では、これに関してまったく触れられなかった。

ところで高裁判決のこの部分は、「…忖度して改変を繰り返し、編集の自由を自ら放棄した」と続いていく。

さすがは産経らしい引用の仕方だと思うが、肝心なことはそれではない。高裁判決のこの部分については、最高裁判決は否定も肯定もせず、憲法判断をスルーしているだけだということである。


全くの勘だが、「NHKと安倍晋三は何かある」と思う。
前の首相就任の時もそうだったが、今回もひどい。ほとんどデマ宣伝に近いことを平気でやっている。
憲法改正、国債の日銀への無制限押し付けなど、とんでもないことをやろうとしている。
一方で、生保基準の切り下げなど弱者を崖から突き落とすような政策にも全く批判しない。

10年前の従軍慰安婦問題での放映中止が依然としてトラウマになっているようだ。

赤旗でこの異常な「安倍礼賛キャンペーン」の背景を探ってもらえないだろうか。

異常な内部留保の根っこにはお金に対する無理解がある。
お金というのには足が生えていて、世間を回るものなのだ。
回ることで増えるものなのだ。
これはもちろん、社会全体をトータルに見た時に初めて分かるものなので、
個人や個別企業にとっては貯められるだけ貯めたいものだ。
しかしみんながお金を貯めこんでしまったら。世の中に金がなくなってしまう。
そうすると、みんなお金の山に埋もれて死ななければならなくなってしまう。

お金はいろいろなことに使われるが、仕事にも使われる。
材料を仕入れて、物を作って、それが売れると儲かる。
だからお金は儲かるためにも使われる。

なぜ儲かるかというと、材料費より販売価格のほうが高いからだ。
この差額は仕入れたり、加工したり、販売したりした仕事が生み出したものだ。
つまりみんなが仕事をすると、その分お金の量は増えることになる。

と言っても、日銀が発行するお金の量が増えないと計算は合わない。
だから日銀は景気を見ながらお札を刷り足していくことになる。

これは、富の量が増えてそれに見あってお金の量が増えたことになるから、
インフレにもデフレにもならない。
これはみんながその分だけ豊かになったというだけのことである。

つまりお金が回ることは、お金が増えることにつながっていくということだ。
お金が回るということは社会にとって大事なことだ。
だから、個々人はできるだけお金を沢山持っていたいのはやまやまだが、
社会全体としてはお金が回ってくれないと困るのだ。

だから行き過ぎた内部留保は、社会にとっては大変困ることだ。
社会が窒息してしまう。


労働総研の牧野さんが赤旗に寄稿している。
この文章で大事なポイントは、大企業と対決しているのが誰なのかを明らかにしていることだ。

牧野さんは今年度版の「労働経済白書」をまず掲げる。白書冒頭の骨子の部分である。

「労働者の所得の増加が、消費の増加を通じて日本経済の活性化につながるという、日本経済のマクロの好循環を取り戻すことが必要である」

ついで牧野さんはこう書き継ぐ。

だが、このあたり前の主張も「経済や企業の実態を無視したものと言わざるを得ない」となってしまう。

財界には、当たり前のイロハが通じないのだ。


つまり、政府の一部まで含めた国民の大多数と大企業の対立という図式になっているということだ。

ここを抑える必要がある。

もう一つは当たり前の考えを「経済や企業の実態を無視したもの」と切り捨てる問答無用の姿勢だ。これを国民が切り返すとすれば、「経済や国民の実態を無視したもの」ということになる。

国民は大企業の実態を無視はしていない。だから「痛みを伴う改革」にも協力したではないか。
しかし大企業は自らが国民の実態を無視していることについては言及しない。「苦しい時にはお互いさま」という感覚が欠落しているとしか言いようがない。

今度はあんたの番だよ。

白川総裁が記者会見を行った。
以下が発言の要旨

金融緩和はやる。しかし国債をやみくもに買うような金融緩和はやらない。
それは実体経済に悪い影響を与えることになる。

2%のインフレ目標はめざす。しかしその手段として国債の購入を当てることは考えていない。

2%のインフレ目標は「アンカーとしての効果」にあり、物価の急変動を抑えるのが狙いだ。

そして質疑応答では、さらに具体的に述べている。

「日銀が2%を機械的に達成するために、国債をやみくもに買う政策レジームに転換した」
と人々が思えば、

「これは財政(のための)ファイナンスではないか」
ということになる。

そうなると、国債の長期金利は上昇し、国債価格は下落する。

そうなると困るのは、国債を大量に抱える金融機関だ。
それは「大きな影響をあたえる」ことになるだろう。

二度も“やみくも”という言葉を使っているところに、白河総裁の憤りがにじませられている。


リベルタード号歓迎集会での大統領演説

1月9日に、リベルタード号がアルゼンチンのマル・デル・プラタ港に帰還した時には、20万人が集まって歓迎集会を開きました。

そこでアルゼンチン大統領フェルナンデスが演説を行いました。赤旗はこの演説の内容をかなり詳しく紹介しています。

フェルナンデス大統領は、故キルチネル前大統領の未亡人。国会議員として、キルチネルとともにアルゼンチンの経済再建に尽力し、キルチネルの任期終了に伴い、後継大統領に就任した。




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我々は新自由主義路線と手を切った。そして自主的な経済発展と国民生活の向上を目指して頑張っている。

これに対し「ハゲタカ・ファンド」と呼ばれる国際投機資本は攻撃を仕掛けてきた。今その攻防は先鋭化している。

現在の国際状況は「無政府資本主義」だ。投機ファンドが国境を超えて国の主権と尊厳を踏みにじっている。これと闘うことが重要だと強調したい。

ガーナの司法当局は我が海軍の訓練用帆船リベルタード号を拘束した。これはアルゼンチンの国債を保有するヘッジファンド「NMLキャピタル」の仕業だった。彼らは債務の未払いを理由にガーナに差し押さえを要請した。この要請を受けたガーナ当局が行った措置であった。

アルゼンチンは2001年に債務不履行を宣言した。その後、新政府は国債を保有する債権者と交渉を開始した。そして価値を7割削減した新国債との交換を提案した。

債権者の93%はこの提案を受け入れたが、これに同意しないものも残っている。ヘッジファンドは元々の債権者ではない。彼らはこれら同意しない債権者の債権を二束三文で買い取った。そして100%の償還を求め、アルゼンチンの国有資産を差し押さえる動きを活発化させてきた。

投機ファンドはハゲタカだ。彼らは借金漬けや債務不履行になった国々の上を飛び回っている。そして降りてきて、額面の10%で債権を買い集め、それを100%で回収しようとしている。

我々は改めて宣言する。ハゲタカファンドへの支払いは一切拒否すると。

今回の闘いもその一つだ。リベルタード号の帰還は、その闘いの末に実現した。ロイター通信は「“無政府資本主義”に対する主権の勝利」と報じた。リベルタード号はアルゼンチンの主権と民族の尊厳を守る闘いの象徴となった。

故キルチネル前大統領が大統領に就任した、2003年以降の政府の活動を振り返ってみたい。政府は債務再編で合意した債権者に対して誠実に支払いを行なってきた。

それと同時に国内産業を立て直し、約530万人の雇用を生み出してきた。これは投機資本の横暴や新自由主義政策の破壊策動と闘いながら生み出した成果である。

いま投機資本は、アルゼンチンの政府専用機の差し押さえすら狙っている。それを防ぐため、1週間後の大統領のアジア各国歴訪に際して、専用機の使用を控えなくてはならなくなった。

投機資本との激しい攻防はこれからも続くだろう。それは他の国でも繰り返される可能性がある。だから諸国民の幸福を擁護するためには各国の共同した闘いが必要だ。

投機資本は世界を股にかけた略奪者である。そのことを念頭にいて、世界が堅固で真剣な立場をとることが必要になっている。

この闘いにおける国際的共同を心から呼びかける。

一体にラテンの人たちのこの手の演説は極めてレトリカルで読みづらい。これを読み通して記事にまとめた菅原記者には敬意を評したい。

今のうちにメモしておかないと忘れるので書いておく。

一番の問題は、どうして敗北後16年を経て、サンディニスタが政権に再び就いたかということだ。

大使のまとめは分かりやすかった。

まず客観的条件。

勝利のためには、まず何よりも国民の間の恐怖心を払しょくすることが必要だった。サンディニスタが勝利すれば、またアメリカが攻めてくるという恐怖心は、実体験に根ざしているだけに、極めて強かった。
しかしベネズエラが2002年に反革命に勝利し、2003年にブラジルでルーラが政権に就き、その後雪崩を打つようにラテンアメリカ諸国の多くで革新・左翼政党が勝利した。2006年までには南米諸国のほとんどが左翼政権となっていた。米国はこれに対してなんの手も打てなかった。
これを見た国民は、政権の維持を確信できるようになった。

もう一つの客観的条件は、保守政権と米国への幻滅だ。
ニカラグアで親米保守政権が誕生して以来16年間、ニカラグアが豊かになるという約束は守られず、援助するといった米国はひたすら収奪するばかりだった。ニカラグアはハイチにつぐ中南米第二の最貧国のままだった。
国民はもうネオリベラリズムにあきあきとした。そしてサンディニスタ政権の再登場への期待が広がった。

3つ目の客観的条件は、保守・支配層の分裂だ。元大統領と前大統領がもめた。原因は元大統領の汚職・腐敗だ。彼は麻薬取引にまで手を伸ばした。前大統領は元大統領の腐敗を厳しく摘発し、監獄へ送り込んだ。
しかし、前大統領は清廉潔白だからそうしたのではなく、米国に忠実だったからそうしただけだった。新自由主義をさらに推し進める上でも彼は米国に忠実だった。そのためにカトリック教会を中心に激しい反発が起きた。
このために保守層の分裂は修復不可能なものとなってしまった。

主体的な条件としては2つある。

まず第一に、90年の敗北後もFSLNが「人民の権力」を守り抜いてきたことにある。FSLNは野党となったが、80年代の統治システムを維持した。
それは懐の深い直接民主主義的な決定システムであり、決定に基づいてみずから統治する能力のことである。
「人民の権力」は、議員候補や党の役員も草の根選挙で選ぶなど、国民の声を結集することに努めてきた。
だから大統領選挙や国会議員選挙で過半数を獲得できなくても、地方議会や首長選挙ではつねに多数を維持してきた。
こうした下からの力がつねに中央政治に強い影響力を与え続けてきた。

第二に、こうした草の根の声に忠実であることによって、保守勢力の中の反動腐敗・勢力や、親米勢力を孤立化させてきた。
例えば前大統領が腐敗により弾劾されたときはこれを支持したが、現大統領が新自由主義経済をさらに推し進めようとしたときは、保守派内部の反主流派とも手をつないでこれに反対した。

これらの努力の積み重ねの結果、直接的には大統領選挙の決選投票制の変更により、オルテガは39%の得票率でありながら、大統領に選出されることが可能になったのである。

大統領になってしまえば、後は当然辿るべきコースを辿ることになる。
国民はもともとサンディニスタの政策を支持していたのであり、ただアメリカが怖いから、もう戦争はコリゴリだから、保守政権を支持していたに過ぎない。

オルテガ政権は、当初極めて慎重な政策をとった。節目節目でアメリカの反応を伺い、性急な政策は避けた。しかし貧困層への緊急対策や教育・医療への対策は着実に実践した。実践にあたってはカトリック教会との協同を重視した。

これらの結果が、5年目、二度目の大統領選挙で60%の得票率となって表されたのである。


これらの成果は、我々日本の革新勢力にとっても極めて貴重な経験を含んでいると思われる。

開かれた「人民権力」、地方政治の重視、保守層との積極的な共闘、が政治権力獲得のための3つのキイ概念である。

なかでもとりわけ、党と「人民権力」の関係が考察されるべき課題であろう。


「アトランティック」紙電子版が帆船乗っ取りの手口を説明したTim Fernholz記者の記事を載せている。以下に紹介する。


あなたがアルゼンチンに若干の債権を所有するとしよう。

国は、債務返済不能に陥る。

しかし、あなたはまだ全部支払われたいと望む。

解決法は?

彼らの船のうちの1台を抑えなさい。もちろん身代金目当てだ。

ウォール街はそういう考え方をするものだ。それはどんな政府よりはるかに重要である。

それが、ヘッジファンドが過去のローンを取り戻すためにアルゼンチンの海軍船を押収したしても驚かない理由である。

Elliott Capital Managementの子会社は、9月2日に地元の法廷から仮処分命令を得て、ガーナの港でリベルタード号と200人のクルー・メンバーを拘束した。

アルゼンチンは2001年に総額1000億ドルのデフォルトを起こした。その負債は再構成したとき、1ドルの債権に対する支払いを30セントまでカットされた。ファンドは、減額を納得せず、そのとき失ったお金を集金しようとしている。

リベルタード号は、全長100メートルの長い高い帆船である。1950年代に建造され、アルゼンチン海軍のトレーニング船として就航した。現在の評価額は1千ないし1千5百万ドルとされる。押収されたときは、海軍士官候補生の卒業航海中であった。

億万長者ポール・シンガーが創設したエリオット社は、アルゼンチンの債務リストラを拒絶した数社のうちの一つである。

エリオット社は債務の完全な支払いを要求して、米国内、国際的な法律の場を通して問題を追求してきた。法的手続きは、とてもフォーマルと呼べるものではなかったが。

2001年のアルゼンチンのように、財政的に問題を抱えた国から減価した債券を買い集める。そして国が経済的に回復した時に全額を額面通りに回収しようとする。

1990年代にペルーの政府債務支払で、エリオットが投資額の400%を回収するのに成功した時、この戦略はポピュラーなものになった。

明らかに、ファンドは慎重に船のコースを見守ってていた。そして、船を押さえて要求を突きつける機会を待っていた。

アルゼンチンが船を返して欲しければ、ガーナの法廷に債券に相当する現金を払わなければならない。伝えるところによると、それはエリオットの懐に入ったという。

いわゆる「ハゲタカ」ファンドは、すでにヨーロッパの金融危機がもたらした機会を利用している。

今回の行動は、遠くない将来を映す試写会であるかもしれない。融資者が政府資産を追いかけている。飛行機、船舶、そして不幸なケースにおいては国際援助資金さえもが狙われる。

世界中の、債務で鞭打たれた政府がついに倒れようとするのを、彼らは狙っている。


昨年10月に起きたリベルタード号事件は憶えておくべきニュースだ。
赤旗報道から概要を書きだしておく。
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リベルタード号はアルゼンチン海軍の保有する訓練用帆船。大西洋を横断する航海を終えて、ガーナの港に寄港した。

これを知ったヘッジファンド「NMLキャピタル」社は、債務の未払いを理由に同船の差し押さえをはかり、ガーナ司法当局に要請した。

要請を受けたガーナ司法当局はこの要請を受け、停泊中のリベルタード号を拘束した。

アルゼンチン政府はこの措置に抗議するとともに、船舶の解放を求め、国連国際海洋法裁判所に提訴した。

12月15日、裁判所はリベルタード号を解放せよとの判決を下した。判決の主要な根拠は、リベルタード号が「軍用船」であることとされた。(この根拠付けはよくわからない)

ガーナ側はこの判決を受け入れ、リベルタード号を解放した。リベルタード号は1月9日にアルゼンチンのマルデプラタ港に入港した。

現地での歓迎集会にはフェルナンデス大統領始め、20万人の市民が結集した。

フェルナンデス大統領は、「リベルタード号の帰還はアルゼンチンの主権と民族的尊厳の尊重を守る立場」の勝利と演説した。









紀元前4~5世紀の中国の矢尻が、岡山の遺跡から発見されたそうだ。
写真を見ると実に見事なもので感動を覚える。
https://livedoor.blogimg.jp/shosuzki/imgs/f/7/f7415173.jpg

少し記事を引用しておく。

この矢尻は「双翼式銅鏃」と呼ばれるもので、青銅製、重さ3.7グラム。
全体に平たく、先端から左右に分かれた「翼」部分が、末端に向かって長く伸びているのが特徴だそうである。

戦闘用ではなく、儀礼用だったようだ。道理で美しすぎる。

紀元前4,5世紀というのは中国の戦国時代。七カ国が覇を争っていた。同型の矢尻は燕と魏の遺跡から出土しているという。

矢尻が見つかったのは岡山の南方遺跡。弥生時代中期にあたる紀元前二世紀ころの集落とされている。

岡山は日本で最古の南方ジャポニカ米が発見されるなど、弥生時代の先進地だったようで、すでに部族間の戦闘もあったことになる。

燕と魏に由来する武器が見つかったということは、長江流域由来の弥生人に加えて、すでに北方系の武装渡来人も存在していた可能性がある。

政治というのは武力が決定するものだから、弥生人の上に北方系渡来人が君臨していたことになるのだろうか。

そういうロマンもふくめて、なかなかの見ものである。

 生活保護の基準切り下げに関する議論で、しばしば出てくるのが「自助・共助・公助」と言う言葉である。自助と公助はともかくとして、「共助」というのがわからない。

切り下げ派の論理としては、「公助の前に共助があるでしょう」ということになるようなのだが、その割に共助の内容がクリアーでない。

もし共助というのが家族のことを指すのであれば、これはもう時代遅れだ。事の良し悪しは別として、もはやそれは不可能になっているし、ますます不可能になっていくだろう。

情勢はそう甘いものじゃない、切り捨て派にはその覚悟が不足しているようだ。ピラミッド型人口構成は過去のものであり、それを根拠とする家族の支えあいはもはや幻想だ。

確かに自助も共助も大切だ。しかしこれからの共助のあり方について一定のモデルを持ち、育成する方針を作り、必要な財政措置をとらないと、これらの言葉は無責任な空語になる。

 

レセプションでの挨拶の原稿です。

お帰りなさい、サンディニスタ!
これが今の私の心境です。

90年に選挙で敗れた時、私は全然へこたれていませんでした。
セルヒオ・ラミレスが去った時も、ウィーロックやカルロス・チャモロが去った時も、カルロス・メヒア・ゴドイやエルネスト・カルディナーレが去った時もまだ頑張れると思いました。

しかしウーゴ・ティノコとモニカ・バルトダーノが去ったときは、さすがにがっくり来ました。
いろいろ噂も聞きました。ダニエルのソイラメリカ事件、ウンベルトが社長になって稼いでいるという話…
そのころからインターネットのニカラグア・ニュースも途切れました。週刊ラテンアメリカ・ニュースもストップしました。

ここにいるデュルセ・マリアもいつの間にかいなくなった一人でした。風のうわさで結婚して横浜にいるらしいと聞いていました。

それがどうでしょう。いまやサンディニスタは不死鳥のごとく復活しました。その代表をニカラグア政府特命全権大使として迎えることができるなんて夢のようです。

そしてデュルセマリアは、大使館に現われ、ふたたび私たちの前に姿を現わしたのです。彼女の心のなかでサンディニスタ革命の火は灯り続けていたのです。

今年は北海道のニカラグア連帯運動にとっても記念すべき年です。はじめてサンディニスタの代表を迎えてから30年になります。

あのころ連帯の相手はキューバとニカラグアだけでした。いま連帯の相手はベネズエラ、エクアドル、ボリビア、そして中南米のほとんどすべての国です。

サンディニスタ、万歳。中南米の革命の前進、万歳。日本とラテンアメリカ人民の連帯万歳。

知らなかったが、中国は12年間ジニ係数を発表して来なかった。
ためらったのも無理はない。たしかに社会主義国にあるまじき経済格差だ。しかも格差は広がっている。
今回発表に踏み切ったのには、12年度のジニ係数がピーク時に比べてやや減少したためだろう。

00年

0.412

03年

0.479

08年

0.491

12年

0.474


社会不安が生じる警戒ラインは0.4とされる(ちなみに日本は0.329)

赤旗によると、これは実際の格差を反映していない可能性もある。
先月、ある研究センターが実施した調査によると、2010年度のジニ係数は0.61に達したとされる。
この理由は高収入家庭の“灰色収入”を反映していないからだという。“灰色収入”とは“違法ではないが正規の賃金でもない収入”を指している。

ということは中国の社会不安は、過去十年にわたって続いており、ますます臨界状態に近づきつつあるということになる。

ただ、鄧小平路線というのは格差拡大を承知のうえでやってきたのであり、たとえ格差が広がっても、最貧層でもそれなりに生活が向上すれば、それで良いという路線だ。

これは右肩上がりの時には確かに通用する議論だ。しかしそのたまには絶えず高度成長を続けなければならない。これは経済の各分野に相当の歪みを生む。市場には、どこかで調整期、踊り場が必要だ。

しかしそれが許されないような状況は果てしなく危機的だ。

もしそれが中国国民の不満の空気抜きとして位置づけられているのなら、尖閣諸島問題は極めて危険である。
景気が減速傾向に入っている時に、中国の最大の経済基盤である日本との関係を悪化させれば、本格的なリセッションを招きかねない。

GDP二位といっても上げ底経済で、基盤は脆弱である。韓国の深刻なバブル後不況を見ているだけに、「第二の天安門」の可能性について、いささか恐怖感をもって見つめざるをえない。



生保の最も深刻な問題は質の問題ではなく量の問題にある。

生保のあり方について議論するのは、それ自体は否定しない。ただ生保が対象者の1/5しか捕捉していないという事実が最大の問題だ。捕捉していないというより、捕捉能力を超えて生保対象者が激増しているという方が正確だろう。

これは小泉時代に構造改革路線に大きな責任がある。当時、竹中は「セーフティ・ネットをしっかり張ってあるから大丈夫」と繰り返したが、結局そんなものはなかった。

だから失業すれば即生保ということになってしまった。母子家庭も、他に救う手段がないから生保になってしまう。生保は外堀を埋められてしまっているのだ。

ここが生保が急増した原因だ。そこをなんとかしようというのが本筋の議論ではないか。失業保険の延長、職業訓練の充実、教育・医療への個別援助の拡大等が必要だ。

もう一つ、これは派生的な議論になるが、生活保護への出費は決して冗費的なコストではないということだ。

受給者は受け取った生活費をほぼ100%使用する。したがってこれは日用品や必需品の生産・流通業者への財政支出と同じ意味を持つ。投資効果は単純計算でも2倍だ。実際にはG-W-G' で利潤がついてくるから、3倍にも4倍にもなる。内需拡大政策そのものだ。

生保財政への支出は地場産業の支えとなる。これが大企業への優遇処置なら、投資した金はそのまま内部留保として塩漬けにされてしまう。

政府が10兆円の財政出動をすると言っているが、内需拡大につなげようと思うなら、それを全部生保枠の拡大と、生保以外のセーフティー・ネットの拡充につぎ込むのが最も効率的だ。

「冗談でしょう」と思われるかもしれない。しかしブラジルの経済成長はルーラ政権の貧困層かさ上げ政策がもたらした。この事は世銀も米州開銀も確認している。

インフレがお望みなら、貧困層へのバラマキほど有効な手立てはない。貧困層のさらなる貧困化と、大企業へのバラマキ政策は、海外からの貿易外収支の大幅黒字化と“ドル余り”をもたらし、結局円高へと導くことになる。

経団連は認めたがらないが、事実が証明しているから仕方ない。

産業競争力会議の議論がすごい。
財界の要望を聞く会議だが、財界がいかに日本経済の行方に対して無責任かが浮き彫りにされている。史上最悪の会議だ。
彼らの描く明日の日本を列挙してみよう。

医療体制は根本的に見直します。医療機関に経営競争をさせ儲け主義へと転換させます。儲けの上がらない医療機関は淘汰を行います。
保険制度を見なおして、高額医療では自費部分を拡大し、公費負担部分を減らします。
法人税率をもっと下げ、企業の収める税金を減らします。それで財源が不足するなら消費税を上げます。
労働者の首切りを容易にして、会社都合でいつでも整理できるようにします。非正規などという言い方をやめて、すべて非正規にします。
貸金業の金利規制をやめ、サラ金をもう一度自由化します。
原発ゼロの方針を取り下げ、早期再稼働を実現させます。
TPPは予定通り推進して、この国の農業は基本的にやめます。アメリカから農産物を買い、その代わりに自動車を買ってもらいます。

彼らこそ究極の利己主義者だ。「自分だけが儲かり他の人は苦しめばいい」と心底思っている。自分の「国際競争力」さえ上がれば、日本の国力が落ちようとどうでもいいと思っている。

アルジェリア、なんとなく以前からノドにひっかかっている話題だ。

とにかくアルジェリアといえば「アルジェの戦い」だ。
白黒の映画で主人公の青年が、カスバの中のアジトで、迫り来るフランス軍を待ち受ける、凄まじい緊迫感だけが記憶に残っている。
それは確実な死であり、我が身が虫けらと化す一瞬である。

それしか憶えていない。

多分カミユと記憶が二重になっているのではないか。世界が遠くなっていくようなめまいと、吐き気を伴わない嘔吐、カスバの生活の臭いと硝煙の臭い、そして吐物と傷口から滲み出す血の匂い。それすらも感覚から遠ざかっていく。

その後図書館で、フランス軍に拷問されレイプされた少女の手記を読んだ覚えがある。

とにかくそれでアルジェリアのイメージが形成された。かなり特異な過程だろう。

ベンベラのイメージは、ニュース映画の一こましかない。

ついでアルジェリアが登場するのは、ブーメディエンの統治下に第三世界の旗手としてである。たしか流産しかけた非同盟首脳会議をひろって、なんとか開催にこぎつけた時、アルジェリアは輝いていた記憶がある。

(この後書いていた文章が、一瞬にして消えました。今夜はもうやめときます)

サヘル地帯(Wikipediaより)

サヘル地帯は様々な紛争を抱えており、いまや世界の火薬庫となっている

https://livedoor.blogimg.jp/shosuzki/imgs/5/3/5327a6f5.jpg

思いつくままにあげてみても、スーダンのダルフール・南スーダン問題、チャド戦争、ナイジェリア北部での宗派対立、モーリタニアとセネガルの国境紛争、マリ・ブルキナファソ・ニジェールでのトゥアレグ人の抵抗などがあげられる。

これらの紛争はいずれも60年代後半に起源を持ち、旧宗主国フランスやリビアのカダフィの介入が問題を複雑化し、40年を越える長期の紛争となっている。

紛争が長期化する要因は、サヘル地帯の自然上の、あるいは文明上の特殊性にも規定されている側面がある。

私は過去に、ダルフール・南スーダンの問題も勉強してみたが、マリとの驚くほどの共通性を見出した。

サヘル地帯はサハラ砂漠とサバンナ層、さらに熱帯雨林地帯へと続く中間層をなす。基本的にはステップ地帯であるが、サバンナ地帯との境界は多様で、一部は定着型農業地帯となる。

サヘル地帯は人種的にもアラブ系と黒人系の境界をなす。アラブ系(ベルベル人)はステップ地帯での牧畜産業を担い、黒人は亜サバンナ地帯での定着型農業を担う。

この地域では一般に乾燥化が進行していると言われ、それはとりわけ牧畜に携わるアラブ系住民にとって厳しいものとなる。

一方で、灌漑農業が発達すれば亜サバンナ地帯は有力な農業地帯となる。それは黒人住民の進出をもたらす。それは同時に固定資本の発生を意味するから、黒人内部での階級分化をももたらす。

端的に言えば、黒人層には明日があるのに、アラブ系にとっては明日はないのである。

トンブクトゥと南スーダンの北部国境地帯は、これらの矛盾のすべてが集中して表現されているところであろう。

日本には「サヘルの森」とか「緑のサヘル」などというNPOがあるようだ。それらのホームページを訪ねてみて感じたのだが、支援の対象はどうも黒人定着農民が中心のようだ。国際的にも「国境なき医師団」などNGOは、黒人側からの情報発信が中心となっている。

これだと今回のトゥアレグ人の蜂起はなかなか説明しにくいのではないか。どうも何かあるとひたすら、黒人が犠牲者でアラブ人の側が悪者になっしまうのだが、ことはそう簡単ではないように思える。


牧畜民の生活は漁民と似ている。海はたしかに広大ではあるが、魚が集まる漁場というのは、その中でも限られている。そういう“漁場”を大切にしながら、牧畜民は長年生活してきた。

その漁場は、農業をやるのにも最適のところだから、農民が進出してくる。農業は牧畜に比べればはるかに生産性が高いから、合理的ではあるのだが、牧畜民にとってはまことに不合理である。

諫早湾を海として守るか、干拓して水田とするかという議論とも似ている。一般的な経済合理性では語れない性格を持っている。

しかし、牧畜民にとっては草場を守るのは、まさしく命がけの戦いなのだ。ここのところは理解しておく必要がある。

さらに人種とか文明が異なるのだから、余計慎重でなければならないと思う。Nation は国家とも民族とも訳すが、かなり厄介なものである。

ベルベル人は過去において黒人狩りをして、奴隷として売り飛ばした歴史を持っている。それだけに非妥協的にならざるをえない。これはきっちりと歴史的に総括しなければならない。


市田書記長の農民連大会での挨拶。

安倍・自公政権が誕生しましたが、これは民主党政権への怒りの表われであって、自民党の政策が支持されたわけではありません。
まして、冬の時代の到来ではありません。国民が新しい政治を求める探求の一過程です。

たしかに安倍晋三の再登場によって、憲法改悪とファシズム、戦争国家への転化の危険性は高まったが、その面だけを強調してはいけない。主要な側面はどこにあるかということだ。戦後史の大きな流れの中に位置づけなければならない。

こちらの側も確かに苦しいが、あちらさんはもっと厳しい。なにせ八方塞がりで展望がないのだから。

体罰論をめぐる橋下市長の考えのブレが甚だしい。
基本的に橋下市長は体罰容認論であったはず。
それが今度は逆ぶれして、体罰を加えた側に猛烈なバッシング。
結局この人は、物事を突きつめて考えたことがない人だということがわかる。

体罰、教育、スポーツの三題噺

今回の体罰は教育と体罰の関係、スポーツと体罰の関係ということで、異なった2つの議論が錯綜している。

体罰は教育の一環だから許されてきたのだろうか、スポーツ指導の一環だから許されるのだろうか。

一般にスポーツの世界では体罰容認、教育の世界では体罰否定の雰囲気が強いが、私は逆だろうと思う。スポーツというのはある意味で戦闘行為を平和的に行うことであり、暴力の否定なしには成立し得ない。

いっぽう、教育というか、しつけの一定の段階では、私は体罰に違和感は感じない。犬や猫のしつけと同じ事だ。(うちのガキは35歳にもなって片づけ一つ満足にできない。しつけが足りなかったと反省している)
それに、痛みというのは、とくに人から与えられる痛みというのは、究極的には味わってみなければわからないものである。
いったん体罰を容認すれば、無原則的に拡大されるのではないかといわれるが、そこは常識だ。

しかし高校生を相手というのは非常識だろう。義務教育を終了した高校生は、基本的には紳士・淑女として扱われなくてはならない。クラブ活動での体罰も言語道断だ。自由意志を前提とした課外活動において、体罰を加えるいかなる権限も発生する余地がない。

体罰と刑罰

一般に刑罰というのは、国家による体罰だ。物理的暴力ではないにせよ、社会的に痛い目に遭わせることで、犯罪の再発を防ごうとするものだ。
もちろん「目には目を、歯には歯を」という復讐の原則ではない。それ自体は教育のための手段だ。それは復讐の禁止と鏡像関係にある。

とはいいつつも、もちろん、物理的暴力と非物理的暴力はしっかり分けなければならない。罰金刑や禁錮刑は認められても、ムチ打ちとか手足の切断等は許されない。これは人間の尊厳の尊重という別の論理である。

バッシングという不正常な罰
 
ところで法的刑罰以外に社会的刑罰というのも、不定形な形で存在する。いわゆるバッシングというのは、英語で文字通り叩くという意味だ。これはあまりいい事はない。しばしば度外れになる。その典型がリンチだ。

何よりもいけないのは、バッシングする側に、バッシングすることへの責任が問われないことであり、バッシングする側にはなんの痛みもないことだ。

いま橋下氏がやろうとしていることは、バッシングそのものではないか。橋下氏が私人であれば、軽蔑されこそすれ、それ自体が糾弾される内容ではない。しかし公人としては、その片棒を担いだり、先頭に立ったりするのは許されることではない。

体罰は、教育の中に厳密に位置づけられなければならない。バッシングとは峻別されなければならない。


経団連の経営・労働政策委員会が、春闘を前に例年のごとく「報告」を発表した。
この委員会は日経連の流れをくむもので、労組対策(ふるいですね)を基調としているから、その論調には駆け引きがある。
だから、文章を言葉通りに読むことにはならないのだろうが、それにしても古色蒼然としている。
我々が学生時代に書いた議案書と同じで、“人民の生活はますます困窮し、情勢はまますます緊迫している”という「万年危機論」のオンパレードだ。

構造的な把握が必要だ。そのためには聞きのよって来たる原因について分析しなければならない。そしてその危機からの根本的な脱却法を提示しつつ、当面の対処法を打ち出さなければならない。

赤旗の行沢記者は、そのことを端的に表現している。

では、なぜ「名目GDPはピーク時の1997年と比べて50兆円以上も減少」(経労委報告)したのか、その最も重要な分析はありません。

経労委報告は、自縄自縛に陥っている。

①個人消費が落ち込んでいる大きな要因は国民の将来に対する不安だ
②国民に安心感を与えるには、企業活動の活発化が必要
③そのためには、自助を基軸に据えた社会保障制度の改革、労働市場の柔軟化、労働規制の見直しが必要だ。

つまり個人消費の落ち込みを回避するためには、個人所得の引き締めと一層の収奪強化が必要だということになる。

私が構造的というのは、もはやそういうレベルを超えていると認識するからだ。
短期的には国民の犠牲の上に資金を集中させて、企業活動を活発化するという手法はありうる。しかし経労委が指摘するとおり、ことは1997年以来15年続いた話なのだ。

その間、大規模な公共投資もやってきた。労働規制の緩和もやってきた。国民に「痛みを伴う改革」もやってきた。ジャブジャブの金融緩和も続けてきた。

言うならば、あなた方がやりたい通りにやってきた。それがこのザマだ。

隋書、旧・新唐書の読後感

不勉強で、随分知らないことがいっぱいあった。

ダラダラと、箇条書きにメモしておく。

①倭国というのは筑紫城に居を構える王朝のことで、神武以前にすでに32代を数えていた。

②神武というのは32代筑紫王彦瀲の子で、故あって大和州に移って統治し始めた。平ったく言えば筑紫王朝の分家である。したがって、その建国に関するフォルクロアは共通する。

③筑紫王は尊を号としたが、大和政権は天皇を号とした。(ミコトとスメラミコトの関係か?)

④608年に来訪した隋官僚は、竹斯国より以東十余国がいずれも倭に附庸していることを確認している。そしてその先の海岸に接して倭国首都があったことを現認している。(豊前、長門、周防、安芸、備後、備中、備前、播磨、摂津、河内、大和で数は合う)

⑤この時会見した王は、礼儀を知らない田舎者であることを自ら認めている。

⑥その後の60年に渡り、東都の公式の接触は2回のみで、しかも不調に終わっている。それは663年の白村江の戦闘へとつながっていく。

⑦新唐書では651年の使節が「天智が死に、子の天武が立った」と述べたとされているが、これは間違いである。表仁の日本訪問の日時などかなり誤差が目立つ。

⑧670年の遣唐使は、大和朝廷はかつて小国で倭の属国だったこと、のちに倭国の地を合わせたこと、かつての倭国との違いを明確にするため、日本と改号したこと、を明らかにする。白村江での敗戦からわずか7年後のことで、「もう倭国のふりをするのはやめよう」という感じがよく出ている。

⑨マイナーな話題だが、「衣服の制、頗る新羅に類す」というくだりは目を引く。

隋書、旧・新唐書の記載

日本は、古の倭奴国なり。(新唐書)

新羅の東南に在り、大海の中で暮らす。代々中国と通交する。(唐会要)
魏より斉、梁に至るが、代々中国と相通じた。(隋書)

佛法を敬う。衣服の制、頗る新羅に類す。(旧唐書)
新羅や百済は皆、倭を大国で珍物が多いとして、これを敬仰して常に通使が往来している(隋書)。

欽明の十一年は、梁の承聖元年(552年)に当たる。(新唐書)

600年 倭王、姓は阿毎、字は多利思比孤、号は阿輩雞彌、遣使を王宮に詣でさせる。

遣使の言。「王の姓は阿毎氏。およそ三十二世、皆が「尊」を号として、筑紫城に居住する。(新唐書)

剣士の言。「彦瀲(第32世)の子の神武が立ち、改めて「天皇」を号とし、大和州に移って統治する。(新唐書)

607年 多利思比孤が遣使を以て朝貢。沙門数十人を仏法の修学させた。隋は「恙無きや」の国書に蛮夷の書に無礼あり。再び聞くことなかれ」と怒る。(隋書)

608年 隋、文林郎の裴世清を使者として倭国に派遣。竹斯国に至り、また十余国を経て、海岸に達した。竹斯国より以東は、いずれも倭に附庸している。(隋書)

王は、「我は夷人にして、海隅の辺境では礼儀を聞くことがない」と自己批判。裴世清は、「朝命は既に伝達したので、すぐに道を戒めることを請う」と応じる。(隋書)

631年、遣(唐)使が入朝。(唐は)高仁表を行かせて諭したが、王と礼を争い不平があり、天子の命を宣することができずに帰還した。(新唐書)

641年 表仁は海を乗り出し、数カ月で到達した。表仁には慎みと遠慮の才覚(外交の才能)がなく、王と礼式で争い、朝命を宣下もせずに帰還した。ここに再び通交が途絶えた。(唐会要)

648 久しく経って、改めて新羅の使者に付して表を奉し、以て日常の音信を通じた。(新唐書)

650年、新羅は高麗と百済の暴虐の為す所となり、高宗は璽書を賜い、出兵を出して新羅を援けさせた。(新唐書)

651年、遣唐使を派遣。「天智が死に、子の天武が立った。死に、子の総持が立った」と報告している。(新唐書)

654年 遣唐使を派遣(651年の記載と大要同じ)。遣唐使の言。「倭王の国は新羅と近接している。新羅は平素から高句麗や百済を侵略し、もし危急が生じれば、倭王は宜しく派兵してこれを救う」

670年 遣唐使が朝貢。①夏音(漢語)を習得し、倭名を憎み、日本と改号したと報告。②また日本は小国で、(過去に)倭に併合された故に、その号を冒すともいう。さらに領土は大山までで、その外には毛人が住んでいるとする。(新唐書)

日本は昔、小国だったが倭国の地を併せた。中国はこれを疑う(旧唐書)

701 初めて“まともな”遣唐使、朝臣真人粟田が派遣される。(新唐書)

倭国を両洋国家と書いた時に、イギリスとノルマンディーの関係と同じだと表現したが、ノルマンディーの歴史がうろ覚えだったので、気になっていた。
今回、ウィキペディアその他で、歴史的経過を調べてみた。

調べていくうちに、ひょっとしてこれは倭国と同じではないかと思われるようになた。伽耶国、あるいは任那がノルマンディーであって、イングランドが倭国だとすれば、鍵穴に鍵を差し込んだように話が見えてくる感じがする。


9世紀 ノルマン人がフランスに来襲。各地を荒らしまわる。

ノルマン人といっても一様ではなく、デンマーク人、ノルウェー人、ノルマン・ゲール人、オークニーヴァイキングおよび デーンロウから来アングロ・デーン人などの総称。

911年 ロロ(

Rollo

)の率いるヴァイキングが西フランク王国の首都パリを包囲。西フランク王シャルル3世は、ロロにルーアン地方の領有を認め、ノルマンディー公に叙する。ロロはロベール1世を名乗る

987年 ユーグ・カペーが即位。フランスでカペー朝が始まる。

933 チャンネル諸島がノルマンディー公国に併合される。ノルマン人はその後、ブルターニュ半島全域に支配を拡大。

ノルマン人征服者は自らの言語の古ノルド語を使わず、現地語のガロ・ロマンス語を採用した。古ノルド語からはいくつかの語彙が継承されている。

1013 デンマーク人がイングランドに侵入。デーン王カヌートがイングランド王につく。前王の係累はノルマンディー公を頼り避難。

1066年9月 イングランド王位を主張するノルウェー王がイングランド北部に上陸。ノルウェー軍はスタンフォード・ブリッジの戦いで壊滅。

1066年10月 ノルマンディー公ギョーム2世がイングランドに侵入。ヘイスティングスの戦いに勝利し、全土を支配下に収める。ウィリアムはイングランド王ウィリアム1世となりノルマン朝が成立する。

1204年 フランス王フィリップ2世、ノルマンディー公国を征服し、併合。ルーアンに強固な要塞を築く。その後の20年間に、フランス領土の西半分を占めていたアンジュー伯(プランタジネット家)の支配地のほとんどがフランス王の領地となる。

1337年 イギリス王がフランス王位の継承を宣誓。百年戦争が始まる。ノルマンディーがイングランドの手に渡る。

1341年 ブルターニュ公領の継承をめぐる戦争が始まる。イギリスはこれに介入しブルターニュ全域に支配を拡大。

1356年 イギリス軍、クレシーの戦いでフランス軍を殲滅。フランス王を捕らえロンドンに連行する。

1373年 フランス軍、ブルターニュのイギリス軍を駆逐し、支配下に収める。

1417年 イギリス軍が再上陸。ノルマンディーを掌握する。

1429年 イギリス軍、フランス主部を版図に収める。オルレアンまで進出したところをジャンヌ・ダルクの抵抗に会い撤退。

1431年 ジャンヌ・ダルク、ルーアンで火刑に処せられる。

1450年 フランス軍、ノルマンディーに総攻撃をかけ、イギリス軍を駆逐。

 

新羅本紀の中から倭国関連の事項を抜き出してみた。

繰り返すが、新羅は倭国よりはるかに成立は遅く、どちらかといえば未開の国であった。

日本書紀も信じないのにどうして新羅本紀を信じるかといわれると、たしかに困ってしまう。しかし倭国の本紀というものは過去に存在していて、それが527年に抹殺されたという仮定の上に立つのなら、その矛盾は解決する。

そして百済にも、高句麗にも本紀があるのだから、それと肩を並べる倭国にも本紀があったと考えるほうがむしろ合理的ではないだろうか。

もう一つ、高句麗との関係である。新羅が国家として初めて認知を受けたのは377年、しかも百済や倭国が魏とそれに連なる東晋、梁などの南方国家からお墨付きをもらったのに対し新羅は前秦という北方国家に国家関係を求めている。

新羅の地政学的位置からすれば、これは高句麗と同盟関係を結ぶ以外には不可能だったはずである。

それは倭国の朝鮮侵攻と時期的に重なっている。これらのことから考えて、この時新羅は国際政治のまっただ中に投げ込まれただろう。政治的には神話の世界にとどまることは許されていなかった。

然るが故に、遅くとも377年以降の記載はほぼ正確と考えて良いのだろうと思う。それをどのくらい、むかしまで遡れるかということになるが、まぁ1,2世代はいいんじゃないかと考えている。卑弥呼が新羅に使者を送ったなどというのは後世の創作と考えて間違いない。

そうすると台与と張政が別れてから、広開土王碑が出現するまでの100年余りのうち、後半50年くらいは新羅本紀でカバーしてもいいのではないかと思う。


BC50年? 倭人が新羅に侵攻、赫居世王の説得に応じて撤退

14 倭人が兵船100艘余りで、新羅に攻め寄せる

57 新羅で脱解王が即位。倭国から東北一千里の多婆那国の王の子とされる。(新羅本

紀)

59 新羅と倭国が国交を結び、互いに使者を交換

73年 倭人が蔚山に侵攻。新羅の司令官羽烏が戦死。

77年 新羅、伽耶と戦って大勝

85 百済が新羅に侵攻

96 伽耶軍が新羅に侵入。このあと20年間、伽耶との闘いが断続的に続く。

105 新羅と百済が和睦。

122 倭兵が攻めてきたという流言に人々が逃げ惑った。

123年 新羅、倭国と講和を結ぶ。

167年 百済との争いが再開される。

173年 倭の女王卑弥呼が使者を送ってきた。(後世の創作の可能性あり)

193年 倭人が飢饉に見舞われ、食を求めて1千余人が新羅に流入

201   伽耶が新羅に講和を求める

208年 倭人が新羅との国境を犯す

232 倭人が首都金城に攻め入る。王も出陣して倭人を壊滅させる

233年 倭人が東部国境に侵入。新羅軍は倭人の兵船を焼き払う。

238魏、遼東に遠征し公孫淵を誅殺。さらに海上から楽浪、帯方を攻撃し制圧。東夷の

民たちは中国の支配下に入る。

286 百済が新羅に講和を求める。

287 倭人が新羅領内に侵攻。集落に放火し、1千人を捕虜にして立ち去る

292年、倭兵が沙道城を攻略。

294年、倭兵が長峯城を攻略

300年 倭国と使者を交わす。倭国王は王子の通婚を要求

345 倭国は新羅に国書を送り国交断絶

346 倭国は新羅の首都金城を包囲。新羅は食料が尽きて退却しようとした倭軍を追撃して敗走させる。

364年 倭軍が侵入。新羅は金城付近で待ち伏せ戦を挑み、撃退に成功。

366 新羅、百済の使者を受け入れ。羅濟同盟成立。

377年 前秦に初めて新羅が朝貢。新羅の前身が辰韓の斯盧国であるとのべる。

391年 倭が渡海し、百残・○○・新羅を破り、以って臣民と為しぬ。(広開土王碑)

391年 高句麗、百済の關彌城を落とす。(百済本記)

392 新羅、高句麗の求めに応じ同盟を結ぶ。

393年 高句麗、百済を征伐して10城を陥落

393年 倭軍が侵入し首都金城(慶州市)を包囲。新羅は籠城戦の末に撃退。

396年 高句麗が百済を撃破。8千余を捕虜とした。

397年、百済は王子を人質として倭に送り通好する。

399年、新羅が倭の侵攻を受ける。王は倭の臣下となる。(広開土王碑)

399 百残、誓いに違い倭と和通す。王、平壌に巡化す。(広開土王碑)

400 高句麗が新羅反倭派の求めに応じ、歩騎五万を派遣する。新羅城を制圧した後、倭軍を任那・加羅まで追撃する。

402 新羅政権が高句麗派から倭派に交代。王子を人質として倭に送って通交する(新羅本紀)

404 倭軍が帯方界まで進出するが高句麗に撃退される。(広開土王碑)

405 倭兵が侵入して明活城を攻めるが、撃退される。

406 後燕王自ら遼東に侵攻したが、勝てずに帰った。

407年 倭人が東部、南部をあいついで侵掠した。

413年 広開土王が死去。東晋は高句麗王を「高句麗王・楽浪郡公」に封じた。

415年 風島の戦い。新羅が倭軍を破る。

413年 高句麗・倭国および西南夷の銅頭大師が、東晋に貢物を献ずる。南史倭国伝では倭王讃があった。使いを遣わして、朝貢したとされる。

421 倭王讃、宋に遣使、武帝より除授される

438 讃没し弟珍が王となる。

438 珍、宋に遣使、安東将軍倭国王の号を受ける

440 倭人が南部と東部の辺境を侵掠した。

443倭王済、宋に遣使、安東将軍倭国王の号を受ける

444 倭兵が金城を包囲。将兵の多くが倒れ、王も囲まれたが難を逃れた。

459 倭人が兵船百艘余りで東海岸を襲撃、さらに進撃して月城を攻める。

462 済没し世子興たつ。

462 倭人が襲来して、活開城を陥れ、千人を連れ去る。

462 興、宋に遣使して安東将軍倭国王の号を受ける

463 倭人が歃良(ソウリョウ)城を攻めたが、勝てずに退却

476 倭人が東部の国境地帯を侵掠

477 倭軍が侵入したが、得るところなく引き上げる。このあと倭軍の侵攻は一旦ストップ。

478 倭王武が宋に上表文、安東大将軍倭王の号を受ける

479 宋滅び斉建国⇒称号安東大将軍倭王武無効

479 南斉の高帝、王朝樹立にともない、倭王武を鎮東大将軍に進号する

502 梁の武帝、王朝樹立にともない、倭王武を征東将軍に進号する

562年 伽耶(大伽耶)が新羅により滅亡。

564年 新羅が北斉に朝貢。568年には南朝の陳にも朝貢する。

600 大和朝廷による第一次新羅征討。新羅はいったん降伏。

602 第二次、第三次、新羅征討が企図されるが中止。

 

これだけでも分かるポイントがいくつか有る。


①紀元前後にすでに都市国家群を形成していたこと。それは馬韓に次ぎ、弁韓辰韓を上回る規模の社会であったこと。
②三韓、濊などとともに楽浪郡を通じて漢に対して主従関係を結んでいた。
③57年には倭の奴の国だが、107年には倭国王として朝貢しており、この間に単一国家としての形成が進んだ可能性がある。
④帥升王のあと倭国は内乱時代に入った。その内乱は絶対権力者の勝利で終わることはなく、シャーマンの擁立による和議制に移行した。そこには信仰の共通性が存在した。
⑤卑弥呼の治世は60年におよぶ。常識的に見て長すぎる。前半部分が創作なのか、あるいは「卑弥呼」がシャーマン職を指す名だった可能性がある。

⑥卑弥呼に関する核心的事実は、239年に魏の招集に応じて楽浪郡に使者を派遣したことにある。これにより「親魏倭王」という地位が国際的に確定した。

⑦魏が楽浪、帯方郡を設置し嶺東地方を編入した際に、辰韓(後の新羅)が大規模な反乱を起こしたことは重要かもしれない(新羅本紀に記載なし)。安東・鎮東将軍の役割は新羅の監視なのではないか。

⑧倭国が二度目の内乱状態となった時、魏は張政を現地に派遣した。張政は1年に渡り倭国に滞在し、狗奴国との戦闘、卑弥呼の死、内乱、台与の女王就任、国内の平定の経過のすべてを現地で体験した。そして台与に見送られて倭国を去った。したがって倭人伝は紀行記ではなく滞在記としての重みを持っている。

⑨辰韓の出自である新羅が377年に前秦に朝貢している。これが国際舞台への初登場である。東普でなく、前秦に朝貢していることは意味があるのか。高句麗の仲介があったと考えるべきか。

⑩384年には早くも百済まで仏教が伝来している。仏教は支配階級に必須のアイテムだ。本来ならほぼ同時に日本にも仏教が伝えられておかしくない。

⑪広開土王碑の記載とも合致しており、これ以降の新羅本紀はほぼ信用して良さそうである。後進国の新羅さえ歴史書を編纂しているのに、大和朝廷には600年ころまでまともな史実が記録されていない。なかったのではなく。失われた、あるいは抹殺されたと見るべきではないか。

⑫台与に関する記事の後、413年の東普への遣使までの間、中国との関係は途切れる。これは主として中国側の事情によるものらしい。その間隙を埋めるのが広開土王碑である。比較的正確とされる百済本紀には倭国の情報は意外に乏しい。

⑬問題は新羅本紀であるが、とにかく倭国が新羅を上から目線で見ていたことは間違いなさそうだ。新羅側にあまり強い敵意は感じられず、格の違いが互いに意識されていたのではないだろうか。

 

人間が死んで、最終的に残るのがご位牌とお骨だ。
スピリチュアル系の人はご位牌が大事だが、ものに執着する人はお骨が気になる。
考えてみれば遺体を焼いた瞬間に、魂は煙となって、風になって流れていくのだから、お骨などどうでもよいのだ。人間の中のカルシウム成分にすぎない。遺体を焼くというのがそもそもそういうことなのだ。まるごと残したいのなら焼いてはいけない。物理・化学的には同じ事なのだが、気持ちの問題としてはそういうことだ。

本当は焼き場の人がそのまま処分してくれればよいのだが、御大層に壷に入れて返してくれる。しかたがないから引き取るが、これが始末におえない。一番クリアカットなのは、燃えないゴミの日に黄色い袋に入れて出してしまえば済む。しかしさすがにこれは忍びない。

一番いやなのは、そこにつけこんでお寺や葬儀屋や有象無象が刺さり込んでくることだ。とにかく国民的マニュアルを作らなければならない。我々の下の世代はカネがない。連中には絶対迷惑をかけてはいけない。死ぬのが不始末というわけではないが、死んで下の世代に迷惑かけるのは不始末だ。

くたばりかけたジジババがいろいろ言っても、聞いてやろう。あんた方もそれなりに苦労してきたんだから。だがそれを下の世代に押し付けてはならない。俺達の死を理由にして、下の世代が寺や葬儀屋や墓地会社にふんだくられるようなことがあってはならないのだ。そんなことでGDPを上げる必要はない。

まず、お骨を本人の形見と考える風潮をやめることが必要だ。私なら一番の形見はこのブログだ。このブログを入れたハードディスクを位牌代わりにしてほしい。そこにアルバムの写真もすべて突っ込んでくれれば、そこに私の生きた証はほぼすべてアップロードできる。
永代供養が数百万円だというが、それだけの金をサーバーの会社に入れておけば、数百年は私のページは消えないで残るだろう。

いま私の脇に500ギガのハードディスクがUSB接続されている。色といい形といいご位牌にピッタリだ。消されるのが嫌ならブルーレイに焼き付けておけばいい。

所詮、人間の一生なんてせいぜい100ギガの世界だ。


BC108 前漢の武帝、衛氏朝鮮を滅ぼし、楽浪、真番、臨屯、玄菟の4郡を東北に置く。

BC82 前漢、行政区画を変更。真番郡を楽浪郡に併合、臨屯郡は廃止。臨屯郡も事実上廃止され、吉林省方面に改めて設置。その後遼東郡に吸収される。

0年頃 楽浪海中、倭人あり、分かれて百余国となる。歳時をもって来りて献見す。各々が楽浪郡と通交。(後漢書)

25 後漢の光武帝が即位する。

30 漢の支配力が弱体化する。中国人系の豪族が楽浪郡で反乱、半年以上にわたり占拠。

49 倭・韓が漢王朝に朝貢。(この「倭」は文脈から見て朝鮮南部の国との説あり)

57 倭の奴国、後漢の光武帝より「漢委奴国王」の金印を賜る。

107 倭国王帥升、後漢の安帝に生口160人を献上。

132 高句麗、遼東郡で楽浪郡太守の妻子を捕らえ、帯方県令を殺害。

168前後 倭国の大乱(後漢の桓霊間とされる。桓帝から霊帝への交代が168年)。

180頃 和平が成立し、卑弥呼が擁立される。(霊帝の治世は189年までであり、それを降ることはない)

204 遼東太守公孫度、後漢の放棄した楽浪郡に進出。その南方に帯方郡を開設。「是より後、倭・韓遂に帯方に属す」と布告する。公孫度は元は嶺東玄菟郡の太守であった。

楽浪郡が平壌を中心とした平安南道にあたることはほぼ確定。帯方郡は前漢時代の真番郡に相当し、開城を中心とする黄海道一帯を指すとされる。

220 曹操の子曹丕、魏を興す。遼東太守は魏へ恭順。

234年 百済が帯方郡南方に国家形成。(三国史記で、百済の古爾王が即位したとの記載あり)

当初の根拠地はソウル周辺と考えられる。公孫淵からは自立した一国家としては認められていない。百済の支配者は、もともと高句麗北方の扶余からの流れ者だった。

237 遼東太守の公孫淵、独立を宣言。燕王を自称する。帯方郡も楽浪郡も燕に属する。

237 新羅本紀に倭女王卑弥呼が新羅に遣使したとの記載あり。

238 魏が高句麗の支援を得て遼東の燕を滅ぼす。帯方郡は魏の直轄地となる。太守は東濊・韓族の首長との支配関係を確認。

238 魏、遼東に遠征し公孫淵を誅殺。さらに海上から楽浪、帯方を攻撃し制圧。東夷の民たちは中国の支配下に入る。

239 卑弥呼が魏(帯方郡)に朝貢使の難升米を派遣。難升米はさらに洛陽まで派遣される。卑弥呼には「親魏倭王」(倭の親魏派の王)の称号が贈られる。

240 帯方郡太守、魏の詔書・金印紫綬を配下の梯雋に持たせて卑弥呼のもとへ送る。

244 卑弥呼、二度目の朝貢。

245 帯方郡太守、嶺東へ遠征して東濊を討つ。これに伴い、嶺東地方一帯の管轄権が一括して楽浪郡に移動。帯方郡が所管していた辰韓八国が楽浪郡へ編入される。

245 これに抗議する辰韓が反乱。帯方郡太守を誅するが、反乱は敗北に終わる。(このとき生じた環日本海地域の“反魏感情”は、親魏を公称する馬韓・倭国との関係にも影響を及ぼしたかもしれない)

247 帯方郡太守、倭の使者から邪馬台国と狗奴国との交戦の報告を受ける。太守自ら上洛して官の決裁を仰ぐ。魏朝政府は張政邪馬台国に派遣し、少帝の詔書と黄幢を渡す。

248 卑弥呼が没する。倭国再び乱れ、台与を女王となす。台与は即位当時13歳とされる。(としても、卑弥呼の治世は最短でも60年を超えることになり、同一人物ではない可能性あり)

248 国中遂に定まる。壱與は使者を遣わし張政らの還るを送らしむ。

265 魏の禅譲を受け晋(西晋)が起こる。

266 晋に倭の壹与が朝貢。

274 晋、平州5郡(昌黎・遼東・楽浪・玄菟・帯方)を設置。

300 晋王朝、内紛から混迷状態に入る。混乱に乗じて匈奴が洛陽を占領。

313 高句麗が楽浪郡を占領。これに伴い帯方郡も崩壊(晋派の政権そのものは400年頃まで存続)。

316 五胡十六国時代が開始。記録のない「謎の4世紀」へ。

317 江南地方に晋(東晋)が再建される。

340 百済王は太子を倭国に送って人質とする。

356 奈勿尼師今が新羅国王に即位。新羅の実質上の建国。

369 高句麗、百済を攻める。倭の支援を得た百済は雉壌の戦いで高句麗を撃退。

375 百済の近肖古王、倭国に七枝刀を送る。

377 新羅が前秦に朝貢。新羅の前身が辰韓のひとつ斯盧国であると陳述。

384 百済、東晋から僧侶を迎え仏教導入。

391年 倭が渡海し、百残・○○・新羅を破り、以って臣民と為しぬ。(広開土王碑)

391年 倭国が百済北方まで進出し高句麗と戦う。(好太王の碑文)

391年 高句麗、百済の關彌城を落とす。(百済本記)

392 新羅、高句麗の求めに応じ同盟を結ぶ。

393年 高句麗、百済を征伐して10城を陥落

394 倭大王崩御。倭の将軍一部の将兵を残し、帰国する。高句麗は百済を攻め、帯方を奪回。百済を臣下とする。

396年 高句麗が百済を撃破。8千余を捕虜とした。

397年、百済は王子を人質として倭に送り通好する。

397 百済王、倭に従わず。倭は百済領土を侵す。百済は王子直支を倭におくり和を講う。

399年、新羅が倭の侵攻を受ける。王は倭の臣下となる。(広開土王碑)

399 百残、誓いに違い倭と和通す。王、平壌に巡化す。(広開土王碑)

400 高句麗が新羅反倭派の求めに応じ、歩騎五万を派遣する。新羅城を制圧した後、倭軍を任那・加羅まで追撃する。

400 倭は百済と連合して新羅に侵入。高句麗はこれと対抗し、新羅から倭軍を撃退。

404 倭軍が帯方界に進入するが、高句麗軍の前に多大の犠牲を出し敗退する。(広開土王碑)

406 後燕王、自ら遼東に侵攻したが、勝てずに帰った。

413 広開土王が死去。

413年 東晋は高句麗王を「高句麗王・楽浪郡公」に封じる。

413年 高句麗・倭国および西南夷の銅頭大師が、東晋(安帝)に貢物を献ずる(普書)。南史倭国伝では倭王讃が使いを遣わして、朝貢したとされる。

414 倭、百済に援軍を送り、高句麗に侵攻す。(広開土王の碑文)

416 百済王、東晋に使者をおくり、「使持節都督百済諸軍事鎮東将軍百済王」の称号を下付さる。

420 東晋の政権禅譲を受け、宋が興こる。南北朝時代開始。

421 倭王讃、宋に遣使、武帝より「安東将軍倭国王」の位を除授される (『宋書』倭国伝)

425 倭王讃、司馬曹達を遣わし、宋の文帝に貢物を献ずる。(百済の宋への朝貢は457年、高句麗の朝貢は463年)

427 高句麗、南方に進出。平壌へ遷都。

430 倭国、宋に使いを遣わし、貢物を献ずる(『宋書』文帝紀)

438 倭王讃が没し、弟の珍が即位。この年、宋に朝献し、自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」と称し、正式の任命を求める。

438 4月 宋文帝、倭王珍を安東将軍倭国王とする(珍の自称を認めず)。倭隋ら13人を平西・征虜・冠軍・輔国将軍に任命することは許される。(こちらは『宋書』倭国伝あるいは夷蛮伝となっているが詳細不明)

443 倭王済が即位。宋に朝献して、安東将軍倭国王とされる。(『宋書』倭国伝)

450 高句麗、新羅を攻撃。

451 倭王済、宋に朝貢。朝鮮半島における失地の回復を所望する。「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・倭国王」と加号される。

451年7月 宋の文帝、倭国からの朝貢に対し、「安東将軍」から「安東大将軍」への進号を認可。さらに一行23人に対し軍・郡に関する称号を与えられる。(『宋書』倭国伝)

460 倭国、宋の孝武帝に遣使して貢物を献ずる。

462 百済武寧王、九州の島で生誕。(この記事は日本書紀にも記載)

462 倭王済没し世子興たつ。興、宋に朝貢。宋の孝武帝、済の世子の興を(格下げして?)安東将軍倭国王とする。(『宋書』孝武帝紀、倭国伝)

477 倭国、遣使して貢物を献ずる。(『宋書』順帝紀)。これより先、倭王興没。弟の武立つ。武は自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王」と称する。(『宋書』倭国伝)

478 後継者の武が、宋の順帝に遣使。「昔より祖禰みずから甲冑をつらぬき、山川を跋渉し寧所にいとまあらず」の書き出しの上表文を送る。自ら開府儀同三司と称し、叙正を求める。

478 順帝、「持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍・倭王」の称号を賜る。(百済を含むか否かについては諸説あり)

479 宋の政権禅譲を受け、南斉が起こる。

479 倭王「武」南斉建国を祝って使いを遣わす。南斉の高帝は倭王武を安東大将軍から鎮東大将軍に進める。(『南斉書』倭国伝)

502 倭王武、梁王朝樹立にともない朝貢。鎮東大将軍から征東大将軍に進号される。(『梁書』武帝紀)

554 百済救援のため新羅に出兵する。

562 加羅(任那)が新羅に滅ぼされる。

589 隋が中国を統一。

 

日本書紀以外の資料で年表を作ってみると分かるのだが、倭国は九州に本拠を置きつつ朝鮮半島南部にも根拠を置く「両洋国家」である。
その目は常に半島と中国に向けられている。

かつてのイギリスと同じように、ノルマンジー半島の確保は政権の至上課題である。ノルマンジーを確保するだけでなく、そこからフランス全土の支配へと志向している。その本拠地はロンドンであって、リバプールでもグラスゴーでもない。

倭の五王が九州王朝の王であることは、ほとんど疑いのない事実だろうと思う。そしてその本拠地は博多湾岸から筑後川に至る回廊の何処かでなければならない。
五王の最後である武が、中国の政権と関係したのは502年まで確認されている。そこから527年の磐井の敗死まではおそらく1,2世代であろう。したがって磐井は間違いなく倭王武の直系である。

527年の時点で九州王朝と大和王朝の力関係が如何であっったかは想像できない。ただ少なくとも大和王朝が九州王朝を凌駕するほどの経済力を蓄えていたことは間違いない。
この両勢力がガチンコの大勝負をすれば、血を血で洗うほどの内戦になっていただろう。九州王朝も、わずか一度の決戦でむざむざ破れてしまうほどの弱体政権とも思えない。

とすれば、事件は大和王朝のだまし討ちだった可能性がある。
だいたい、九州王朝が新羅とくっつくなどありえない話だ。だいいち新羅側文書にそのような雰囲気は毛ほどもない。それは大和王朝が九州王朝との戦争を始めるためにでっち上げた口実にすぎない。

倭王武の路線がそのまま継続されていたとするならば、九州王朝は依然として新羅主敵論だったはずで、むしろそのために物部軍は動員されたと見るべきではなかろうか。だからこれだけの大軍が九州王朝の領内に入っても、九州王朝側は全く警戒していない。

それが突如、磐井が新羅と内通していると騒ぎ出し、刃を九州王朝の方に向けたのだから、みな唖然としてしまう。
本拠地の甘木周辺には守備兵くらいしかいなかったろうから、大和王朝軍の軍勢の前にはひとたまりもなく敗れた。

大和王朝側の本音としては、半島進出や新羅との戦争などやりたくなかったのではないだろうか。とくに物部は国内派の代表みたいな人物だから、も九州王朝への義理立てなどまっぴらということだったのだろうと思う。

一応大義名分は保たなければならないから、新羅にもちょっと顔は出すが、まじめにやったとは思えない。まもなく橋頭堡の任那は失われ、盟邦の百済は苦境に陥っていく。そして日本は600年初めまでの間、物部氏のもとで内向き政治の時代に入っていく。

なお、百済本紀531年に、「日本の天皇及び太子・皇子、供に崩薨」の記事がある。日本書紀では継体天皇という幽霊みたいな天皇の時代になっているが、その継体とて、一家全滅というような記事はない。これは九州王朝の天皇が死んだと読むべきだろう。

ニカラグア大使が札幌で講演

1月26日、北海道AALAの招きでニカラグア大使が来道し、ニカラグアの民主的発展の現状を報告してくれることになりました。

苦節20年、今どう革命の道を進めようとしているのか、ぜひ多くの人に聞いてもらいたいと思います。

ニカラグアってどんな国?

地図を開くとメキシコの南に小さな国がいくつかありますが、その中で最も大きい国です。と言っても北海道の2倍くらい。人口は北海道の半分くらいの小さな国です。

住んでいるのは先住民とスペインの混血、スペイン語が公用語です。

農業が盛んで砂糖・コーヒー、それにロブスターが名物です。大ぶりのコーヒー豆「マラゴジペ」と、サトウキビで作ったお酒「フロール・デ・カーニャ」は国際ブランドです。

どうしてニカラグアに関心をもつのですか?

今から30年前、独裁者ソモサを倒す民衆革命が成功しました。

革命を担った若者は、貧しい人たちの生活を改善し、医療と教育を充実させようと頑張りました。しかしその時、アメリカが干渉して来ました。

「第二のキューバにするな」というのが合言葉でした。

日本をふくめ世界中の人達は、「アメリカは干渉をやめよ」と声を上げ、ニカラグアの戦いを支援しました。

結局、革命政府は数万の犠牲者を出して敗れてしまいましたが、多くの人々の心には今でも「ニカラグアは生きている」のです。

どうして革命勢力が再び勝ったのですか?

10年間の戦いで国の経済は破壊されてしまいました。アメリカは親米政権ができたら復興を支援するといったのですが、実際に押し付けたのは資金ではなく債務でした.

国民はだまされたことに気づいたのです。

もう一つはラテンアメリカの状況が変わったことです。ニカラグア革命が成功した時、ラテンアメリカ諸国の殆どは軍事独裁政権でした。しかし今では軍事独裁政権はひとつもありません。

逆に、当時ニカラグアが目指したような民主的発展の方向を目指す国が大多数になっています。そして現実に発展しています。

だから国民は自主的・民主的な方向に舵を切り替えたのです。

革命勢力が勝利してから、国はどう変わりましたか?

それは大使に聞いてみましょう。

ただ、6年前に革命勢力が大統領選に勝利した時、得票率は40%弱でしたが、最近の選挙では60%を越えています。国民の支持は非常に厚いといえるでしょう。

情勢は一気に展開するのです。それが現在の世界です。「深部の力」を信じましょう。


アルジェリアでイスラム原理派による大量誘拐事件が発生した。おそらく直接の引き金となったのはフランス軍のマリ進駐と武力介入であろう。

ポイントは3つほどある。

1.この“原理派”グループは、もともと“アフガン聖戦”に参加したアルジェリアの若者たちで、帰国後はアルジェリア各地で血に飢えた凶獣となって、無差別テロを繰り返した。最終的には国内のイスラム原理派からも放逐され、アルカイーダにしがみついて生き延びてきた。いわば“片手に剣、片手にカラシニコフ”という狂気の集団である。(狂気の裏にはそれなりの計算があるのだろうが)

2.マリの北部からアルジェリア南部にかけてはトゥアレグという砂漠地帯で、勇猛をもって鳴るベルベル人のふるさとである。若者たちはカダフィの用心棒としてリビア反革命を戦ったが、敗れ、職を失い、トゥアレグに戻ってきた。マリ南部の黒人政権の風下に入るのを快しとせず、反乱を起こした。そしてトンブクトゥ以北および以東を支配下においた。

3.この機に乗じた原理派崩れのグループはトンブクトゥを支配下に置くことに成功した。彼らはサヘルを実効支配するベルベル人とは無関係で、おそらく彼らにとってもありがた迷惑な助っ人だろう。

このへんの経過については下記にかなり詳しく解説した。

2012.8.26 マリとトゥアレグ

コピペでグーグルの検索窓に突っ込んでくれれば、行けます。

その後の経過だが、原理派には武力以外の統治手段はない。キャラバンで砂漠を往来する通商などはるか昔の話だ。頼るべき闇経済も存在しない。いずれ自壊するだろうと見ていた。


フランス軍が出張ってきた理由はよくわからない。武力干渉はテロを呼ぶ、これは試され済みの教訓だ。ルワンダのようにならなければ良いが、と心配している。

不思議なのは、フランスの対外侵略が左翼政権の時に起きていること。ベトナム然り、ルワンダ然りだ。マリもその轍を踏むことになるのか?

トゥアレグ地方の自然環境はルワンダよりはるかに過酷だ。現に飢饉とイナゴの大群が迫っている。戦闘が再開され、生産活動が止まれば、たちまち死人の山が築かれるだろう。


3日前に

応神・仁徳不在説/森博達の『日本書紀』音韻分類

というページを紹介したが、

日本史の怖いところは、一つ意見が出れば、かならず反論が出るということである。

この森博達理論についても、相当の論争になっているらしい。

聖徳太子研究の最前線

というページが、その場になっているようで、井上亘が批判論文を書き、それに森博達が反論している。売り言葉に買い言葉だろうが、相当激烈な表現で、読者をたじろがせるに十分である。

森博達という人は、もともとは古代史ではなく音韻学の専門家である。相当の自信家らしく、中公新書「日本書紀の謎を解く」の最後では

「日本書紀」成立の謎は、本書によって解明された。

と自賛している。普通の学者はこういう言い方はしない。古田武彦タイプの人物かと想像される(最も10年以上前の出版だが)

なおブログ主は森博達に近く、一方の井上のバックには大山誠一という大物がいるらしい。森は井上のことを、大山の放った刺客と見ているようだ。


Paul Krugman 「債務、デレバレッジング、流動性の罠」

November 18, 2010

はじめに

現在先進国経済の政策論議で「債務」が焦点になっている。債務ショックとそれに対する政策反応に対し、「債務が原因で生じた問題を、債務(政府債務)をさらに増やすことを通じて解決することなどできない」として、多くが反対している。

最近になって考案されたエッガートソン=クルーグマンモデルは、 「貯蓄のパラドックス」を無理なく説明するばかりか、サプライサイドにおける新たなパラドックス-「精励のパラドックス」と「伸縮性のパラドックス」も説明できる。

これにより、大半の経済学者が現下のマクロ経済問題を間違って捉えてきたこと、アメリカ やEUにおける現実の政策は間違った方向に向かっていること、を示す。

不足するフォーマルなモデル

現在、債務をめぐる議論には、フィッシャーの債務デフレ理論(1931年)、ミンスキー(Hyman Minsky)の金融不安定性仮説(1986年)、そしてクー(Richard Koo)のバランスシート不況モデル(2008年)などがある。

しかし、特に財政政策と金融政策に関するモデルは驚くほど不足している。

多くの分析は「代表的個人モデル」に基づいているが、このモデルでは、ある経済主体が債務者であり、他の経済主体が債権者である、という関係を取り扱うことができない。

モデルのコアとなる経済学的なロジック

我々のモデルでは「代表的な個人」の代わりに、2つのタイプの経済主体、すなわち「気長な」タイプと「気短な」タイプの存在が想定されている。「気短な」エージェントが「気長な」エージェントから借入れを行う。借り入れ可能である債務の水準には上限が存在している。

デレバレッジング=債務圧縮の結果として、今現実に世界経済が直面しているような危機をモデル化することが可能となる。受け入れ可能な債務水準の上限が低下することによって債務者は支出の急速な切り詰めを強いられることになる。このような状況で、経済が不況に陥ることを防ごうとすれば、他のエージェント が支出を増加させるような刺激策をとる必要がある。例えば金利の低下である。

しかしデレバレッジングショックがあまりにも大規模であれば、金利がゼロ%にまで引き下げられてもなお十分ではない。結果として不況に巻き込まれ、経済が流動性の罠に陥ってしまう可能性がある。このようにしてフィッシャーの債務デフレの過程が導き出される。

債務契約が貨幣で締結されている状況のもとで、デレバレッジングによって物価が下落すれば、債務の実質的な負担は増加する。債務負担が増加すれば、債務者が直面する支出切り詰め圧力はさらに高まる。支出切り詰め圧力がさらに高まれば、当初のショックはさらに増幅される。

さ らに我々のモデルは、大規模なデレバレッジングショックの発生によって、これまで妥当であったルールの多くがもはや通用しなくなる世界に突入することも明らかにしている。この真っ逆さまの世界では、長らく無視されてきた「貯蓄(節約)のパラドックス」=個々人がもっと貯蓄しようと試みることで全体としての総貯蓄が減少してしまう=が実現する。

サプライサイドにおいても、新たな2つのパラドックスが生じる。すなわち、「精励のパラドックス」=潜在GDPが上昇することで現実のGDPが減少してしまう=というパラドックスと、「伸縮性のパラドックス」=労働者が名目賃金のカットを受け入れることで現実の失業が増加してしまう=というパラドックスが生じる。

財政政策へのインプリケーション

しかしながら、我々のモデルが特に新しい視点を提供するのは、財政政策の分析においてである。

債務は、拡張的な財政政策をもとめる主張を撥ねつける論拠のひとつとなっている。「債務によって引き起こされた問題を債務をさらに増やすことによって解決することはできない」 と。「家計の借り入れが行き過ぎだった。今度は政府に借り入れをもっと増やしてもらいたいと言うのか」という わけである。

このような財政出動批判論の、どこがおかしいのであろうか?

そこでは暗黙のうちに、「債務は債務である」、だから誰がお金を借りているかは重要ではない、と想定されている。そんなことはあり得ない。もし誰がお金を借りているかが重要ではないとし たら、そもそも債務が問題を生じさせることはないだろう。(このあと文章がわかりにくいが、個人が借りるのと国家が借りるのは性格が違うということを言いたいようだ)

すべての債務はまったく同じものとして創造されるわけではない。ある経済主体(民間)による過剰な借り入れが原因で生じた問題を、別の経済主体(国家)による借り入れによって解決することは可能である。

国債発行によって賄われた政府支出は、多額の債務を抱えた民間の経済主体が再生を進めている最中でも、失業の増加やデフレーションを経験せずにすますことを可能とする。この点は我々のモデルが非常に明瞭に示している。我々のモデルによれば、政府はデレバレッジングの危機が過ぎ去ったのちに、自らの債務を返済するという選択肢をとることが可能である。

要約

債務のもたらす影響と、債務者が直面する困難を真剣に考えるなら、世界経済が直面している問題は明らかであり、解決の方向は明白である。我々の分析が示 唆していることは、危機下の財政政策を支配する現在の通念はほぼ完璧に間違っている、ということで ある。


VOXを訳す!

というページに載っていた文章を読みましたが、良く分かりません。

ここに掲載したのは私なりの読解ノートであり、間違っているかもしれません。

クルーグマンは財政出動論者と言えます。その限りでは安倍首相と同じです。

彼の財政出動論は、現下の不況がデレバレッジング・ショックによってもたらされたものであるとの評価のもとに展開されています。

そして、貯蓄(節約)のパラドックス、精励のパラドックス、伸縮性のパラドックスという特徴づけを行います。

そして最大のパラドックスである財政政策、すなわち不況打開・雇用確保と財政再建の矛盾に切り込みます。

内需拡大という点では、我々とも一致しています。しかし財政出動は、その内容を問わなければ無意味でしょう。クルーグマンのアベノミクスへの「評価」は、彼自身の理論の危うさの反映かもしれません。

朝のNHKニュースで、クルーグマンがアベノミクスを評価したという報道をしていてびっくりした。

ニュースはまず、クルーグマンを天まで持ち上げる。ノーベル賞を受賞したアメリカの一流の経済学者だという。彼がオーソドックスな、したがってNHK好みのエコノミストと取っ組み合いのけんかをやっていて、自ら異端の学者であると称していることには触れない。

彼の売りは、かつてケインズが大恐慌期に打ち出した「流動性のワナ」セオリーが、現代のネオリベラリズム経済の下でも適用されるという主張だ。
おまけにウォール街占拠行動を支持する「サヨク」なのだ。(まぁ、レッテル貼りはどうでもよいが)

こんな学者が安倍首相を支持するわけがない。
しかしニュースのセリフだけ追っていくと、あたかもアベノミクスが世界の経済学の権威からも認められたかのごとくに聞こえる。そして最後に、「とはいうものの、皮肉を利かせることも忘れていない」みたいな感じで逃げを打っている。

案の定、ネットの世界では早くも、「ノーベル賞受賞の経済学者がアベノミクスを支持」という部分だけが、飛び回っている。

クルーグマンの元の文章は下記で日本語で読める。ちゃんと英語もついていて、ちょっと変な訳のところも分かるようになっている。

クルーグマンのアベノミックス評

要するに、クルーグマンはこういっている。
安部というのは右翼で軍国主義者でどうしようもないやつだ。経済学にも無知で、関心もない。ところが世論に乗ってぶち上げた「政策」が、無知であるがゆえに、結果として私の非オーソドックスな経済理論と一致してしまった。
しかも、目下のところうまく滑り出している。ちょっと注目してみておこうかな、

それにしても、ちょっとした連中ならクルーグマンやスティグリッツの名前くらいは知っている。彼らが安倍晋三を評価するなどありえないことも知っている。
それを承知で、これだけのデマ情報を流すとはいい度胸だ。今後NHKの経済情報は信用しなくてもいいですよという宣言だろうか。
大学のゼミの同窓会には、ちょっと顔を出せないだろうね。

それにしてもMS-IME辞書はひどい。「安部晋ぞう」としかでてこない。

赤旗経済面のコラムに次のような見出しの記事

“人災だから再稼動しても安全”
原産協会会長のトンデモあいさつ


原子力発電所の業界団体である「原子力産業協会」の今井敬会長が、年頭にあたっての挨拶を公表しています。

この中で今井氏は、国会事故調査委員会が東京電力福島原発の事故について、「明らかに人災である」と結論付けたことを指摘。

人災であるがゆえに、その原因をはっきりと究明して対策を講ずれば、原子力を再稼動しても大きな災害は起こらないということです」と述べています。



思わず言葉を失う。「ウーム、そういう読み方もあったのか」と、思わず唸ってしまう。

ただ、今井会長が国会事故調報告を本当に読んだのかということが気になる。

国会事故調が何ゆえに、何を以って「人災」と表現したのかが分かっていないのではないだろうか。

国会事故調は、原産協会と東電が、経産省を縛り付け、安全神話を押し付け、必要な対策を怠ってきたことが原発事故の究極の原因であり、その故にこそ、事故を「人災」と糾弾したのである。

国会事故調は、経営陣の経営優先と安全軽視の姿勢を厳しく問い、「原子力を扱う事業者としての資格があるのか」という疑問を投げかけている。

だから「その原因をはっきりと究明して対策を講ず」 るということは、あなた方の責任を明らかにし、あなた方を原発から遠ざけ、口出しさせないようにするということなのだ。

私の読み方が間違っているのだろうか、国会事故調の委員長にぜひお話をうかがってみたいところである。

国会事故調報告については、私もだいぶ勉強させてもらった。
2012年7月12日の記事、あるいはブログ内検索の欄に「国会事故調」と入れると、逐条解説が読めます。

ネット漁りしていたら、次のような文章に出会った。

応神・仁徳不在説/森博達の『日本書紀』音韻分類


『日本書紀』作文製作者は二種類に分けられる
森博達という偉大な学者は『日本書紀』漢文体を厳密に音韻分析した結果を1999年に発表した。『日本書紀の謎を解く』中公新書がそれである。

これによれば、『日本書紀』はあきらかに漢文を知っている渡来人の作風と、あまりよく知らないだろう日本人の作風の二種類に分類できると言う。

『日本書紀』は全30巻ある。
そのうち巻14(雄略紀)~巻21(用命・崇峻天皇紀)プラス巻24(皇極紀)~巻27(天智天皇紀)はあきらかに正しい漢文の書ける人が作者。候補者は中国人の薩弘恪・続守言の二人。


なるほど、そういう角度から資料批判するという手もあった。これなら別に“厳密に音韻分析”しなくても、中国人に見せればすむわけだから、追試・確認してほしいものだ。

これが事実として確認できれば、「一書に曰く」とかの問題も解決の糸口がつかめることになるかもしれない。

大和王朝のフォルクロアに過ぎない古事記を、捏造もまじえて“グローバル化”させたお雇い外国人、その存在を、これからは前提としながら資料批判していかなくてはならないのだろう。

もう一つ、日本書紀に先立つこと200年、倭王武の堂々たる駢儷体の上表文。

「昔より祖禰みずから甲冑をつらぬき、山川を跋渉し寧所にいとまあらず」

と、お雇い外国人に頼る日本書紀作成スタッフの貧弱さが、整合しないのである。やはりこれは九州王朝を想定するしかないのではないか。

インドの民衆運動

今日,インドは世界最大の人口を抱える国です.現代インドのイメージはしばしば貧困・低開発などに象徴されますが,それはインドという巨大な国を表すイメージの一面に過ぎません.

インドには言語・宗教・社会・文化の驚くべき多様性があります.したがってそのあいだには常に強い緊張が存在しています.それは混乱を生むこともあります.しかしそれらが統一の方向に進めば,その多様性は創造力をはらむものでもあります.

インドで産業の発展が遅れた理由

もともとインドに産業がなかったわけではありません.それらは英国植民地時代に破壊されたのです.

独立後,インドは強力な公共部門を建設することで産業発展を図りました.化学,電力,鉄鋼,輸送,石炭,繊維,金融などの基幹産業は急速に拡大しました.

しかし1980年代に入ってそれまでの産業政策は大きく転換しました.LPGと呼ばれる経済構造の変革が急速に進行しました.LPGというのは自由化(Liberalization),民営化 (Privatization),世界化(Globalization)の頭文字をとったものです.

農産物の価格保証・食糧配給制度は解体されてしまいました.これらの矛盾は最下層カーストであるダーリットにしわ寄せされ,封建制度の残滓である筈のカースト制度がむしろ強化される結果となっています.


ダーリットについて

正確に言えばダーリットはカーストの一つではありません。社会の外に排除され,かつて不可触賎民と呼ばれていた人たちです.インドで4人に一人はダーリットです.ダーリットの権利は憲法に保障されていますが,社会からの非人間的な排除,資源からの排除で苦しまなければならない状況は変わっ ていません.

インドのカーストは4つのバルナ(階層)からなっています.最上位がバラモン,次がクシャトリヤ,これは士農工商の 士にあたります.次がバイシヤ,これが商です.最下層にあたるのはシュードラで,日本語で言えば奴婢ということになります.ここから先がよく分らないので すが,不可触賎民(dalits)ということで,これは階層とは関係なしに特定の職業にかかわる人ということで,日本語で言うとエタ・非人です.

他の階層の区別は分りにくくなっているのですが,ダーリットだけは特定の職業と結びついているだけになかなか差別が 解消されないようです.もうひとつは,ダーリット階層の政治力が信じられないほど強いことです。例えばビハール州の政権は長年ダーリット政党(ジャナタ・ ダル)が握っており,ウッタルプラデシュ州でも,もうひとつのダーリット政党(Bahujan Samaj)が,他の低位カースト政党と連立政権を組んでいるそうです.


民衆の苦しみ

インドでは,大都市における貧困層の爆発的増大が問題になっています。

あなたは世界の十大都市を言えますか? いろいろな統計のとり方はありますが,ムンバイ・ブエノスアイレス・カラチ・マニラ・デリー・サンパウロ・ソウル・イスタンブール・上海・ダッカというのが現在のランクです.インド亜大陸の都市が1,3,5,10位を占めているのです.絶好調のときの日本ハム並みです。ちなみに東京は15 位.ニューヨーク17位,ロンドンが20位となっています.

そこでは古臭いカースト制度がむしろ強化され,宗教原理主義の温床となっています.そして貧困者や低位カースト,女性や子供,人権活動家などに対して血生臭いテロ.虐殺・拷問が繰り返されています.

なかでもすごいが,やはり子供の人身売買の問題です。「インド・タイムス」のレポートを紹介します.

インドでは年平均3万人の子供が失踪している.その4分の1は地上から消滅したようだ.臓器移植に用いられた可能性もある.保護された女子のうち,9割は売春行為で起訴されている.そして8割が有罪となっている.いっぽう取引業者160人のうち警察に記録があるものはわずかに二人だ.明らかに警察のシステムに問題がある。


さまざまな運動の統一

この国の女性も,進んだものと遅れたものの双方から被害を受けている階層です.この国の多くの人々が生活に苦しんでいるからこそ,女性にそれがしわ寄せされているのです.

だからこの国の女性運動は,たんに性差別の問題を取り上げるのではなく,政治の革新を中心課題として離さないのです.そして異なるタイプの運動を幅広く統一する柔軟さを失わないのです.

ガンジー主義者,社会主義者,共産主義者,さまざまな社会運動,ダーリット組織がともに立ちあがりつつあります.それはただ選挙のときだけではなく,日常の市民活動の中でさえそうなのです.

コミューナリズム(宗派主義)は,グローバリズムと並んで,インド社会が闘わなければならない重大な問題となっています.世俗主義(セクラリズム)を守り支えるために,多くの組織が立ちあがりつつあります.

世界社会フォーラムのホームページから


松本清張の「清張通史4 天皇と豪族」という本が半額本屋で買ったまま積んであった。
ぱらぱらとめくっていて、思わずうなづいた箇所がある。

古墳時代の文化は弥生時代の生活文化から自然に起こったのではなく、弥生時代とは次元の違うものが大陸文化の流入によってできたのである。
古墳を築いた民族はいわゆる弥生人ではなく、大陸文化を受けた朝鮮からの移民であった。


ということで、渡来人を弥生人とその後の征服者に分けている。
さらに征服者に関しても第一波と第二波に分けている。

前方後円墳を築いたのは4世紀に渡来してきた移民である。これに対し4世紀の後半から5世紀初めに第二次移民が到来した。彼らは土着の弥生人と第一次移民の上に君臨した。


この段落についてはおそらく多くの異論があるだろう。しかし、渡来人が弥生人一般には解消し得ないことが良く分かる。
(わたしは、出雲から越前にかけて渡来したのは"環日本海民族"(新羅をふくむ)だと思う。彼らの一部は畿内に入り、神武東征前に小国家群を形成していた。これを弁韓→百済系の北九州軍が制圧したとみたい)

これと、DNA解析により得られた結果を組み合わせると、日本人は旧石器人、縄文人(樺太経由の縄文人と半島から渡来した縄文人がいたようだ)、弥生人、新渡来人(これも松本説では二波に分かれることになる)
そして以下のことは間違いなさそうだ。すなわち、それらのいずれも、遠い祖先は北方・シベリア方面から移動してきたこと、弥生人は長江文明を背負って渡来したことである。

DNA屋さんの「縄文+弥生人=日本人」というパターンはあまりにも歴史を単純化しすぎているようだ。


最近、ユジャワンがめっぽう色っぽくなって来たと思っていたが、
なんとセミヌードが見られる。
youtubeのこのページ

Yuja Wang - Scriabin, Selections for Solo Piano

御用のない方、ぜひ一度お立ち寄りを。殿方は二倍楽しめる。

北電の苫小牧火発で火事があったそうだ。
NHKは電気が足りなくなるかもしれないと市民の不安をあおっている。
家の嫁さんはパニックになっている。
福島原発のときには、根拠もなく「安心だ安心だ」と垂れ流していたのが、今度は手のひらを返したようだ。

NHKに言いたい。いたずらに市民の不安をあおるのはきわめて危険な行ないだ。パニックになった市民が何をやるか、ルアンダで証明済みではないか。

北電に言いたい。あなた方には道民の生活を守る義務がある。不安をあおる権利はない。
あなた方には1年半の猶予があったはずだ。他の電力会社は火発を増強して電力不足に備えている。
あなた方はそうしなかった。それだけの需給見通しがあったからやらなかったのだろう。
それなのに、いまになって電力不足を訴えるのは、なぜなのか。

ことは命にかかわる問題だ。はっきりさせてほしい。見通しが誤っていたのなら、そのことをはっきりとさせて道民に謝罪すべきだろう。

これでもし停電になれば、今の北海道、間違いなく凍死者が出る。それはあなた方の不作為が殺したことになる。

人々は北電に葬儀デモで押しかけ、社長を捕まえて人民裁判にかけるかもしれない。なぜならそれは人災としか言いようがないからだ。そしてNHKが人々をパニックに追い込んだからだ。

インドから人権を考える、というのは私にとって宿題だ。
とにかくインドというのは想像を絶するひどい国だ。人間が虫けらのごとく扱われている。なぜなら虫けらのごとく大勢の人が住んでいるからだ。しらみのごとく人間が湧き出してくるからだ。
この国では何でもありだ。人間を殺すのは犬畜生を駆除するのと変わりない。
とにかくインドに行くということは、脳ミソを洗濯機に放り込むことだ。
「一切衆生」の考えはその“カオス”から生まれてくる。
「人権」という言葉も一回そこで洗いなおさなくてはいけない。



まずはブログ主自身による解説。

ボルト埋め込みの方式

ケミカル・アンカー方式とは、ボルトの径より少し大きい穴を、振動ドリルで穴を開け、そこに接着剤を充填して、ボルトを埋め込み、定着させるという方法だ。分かりやすく言うと、接着剤アンカーだ。

1975年に笹子トンネルが出来たころは、まだ一般的ではなかった。

それまでの常識は、まず生コンクリートに埋め込む一体方式アンカーと、後打ちアンカーと云われるホールイン・アンカーだ。

ホールイン・アンカーとは、まず特殊なナット(メス)を打ち込む。このナットは、先端にクサビのようなものがあり、打撃で内部で広がり、固定される。そこにボルト(オス)をネジ込み固定する。

強度が不足なために、それほどの強度が必要ない時に利用される。

ケミカル・アンカーの問題点

その後、ブログ主は施工時の表面平滑化処理の不確実性、経年劣化の問題を挙げ、ケミカル・アンカーに懐疑的な移行を表明している。ただその後の接着剤の改良の可能性について含みは持たせている。しかしそれは75年時点の接着剤の弁護にはならない。

最後に、ブログ主は「北米の建築思想」というオブラートに包んで、思想としての「ケミカル・アンカー」を否定している。

北米の建築思想を学んで、一番感心したことは、施行に接着剤を用いないことを前提としている。なぜか、未だ永久的な接着剤はないから…

このブログ主に対する反論コメントが掲載されている。Gooの自作自演っぽいコメントに比べるとかなりまじめな反論だ。

(ケミカル・アンカーの強度は十分である)この配置なら、2本や3本死んでも余裕で持つはずです。

可能性があるのは、

①地震などの影響による地盤の変形によってトンネル構造に歪を生じた

私としてはトンネル構造のゆがみは、基本的にはせん断力として働くはずで、アンカーが抜け落ちる現象の説明にはならないと思う。折れたとか曲がったというなら別だが。

②施工不良で定着長が短かった。

(天災とヒューマン・エラーを強調する中抜き論で、よくある議論である。ただ、施工のよしあしによって安全性が規定されるような工法は好ましいとはいえない)

としている。

ブログ主が主張する劣化論は、コンクリートの中性化が3~5センチの深さにとどまっているだろうとの推測の下に否定する。

「劣化因子である、熱および紫外線はトンネル内では考えられません」とあるが、湿度や温度はどうなのだろうか。「コンクリートの劣化原因」というページに劣化因子の一覧表が載っているが、熱と紫外線のみを取り出すのはいかにも恣意的であろう。

素人的感想になるが、外気下にある建築物に比べ、絶え間ない高圧というストレスは、それだけではるかに苛酷な環境と思われる。もしそれが逆であるのなら、レトリックではなく根拠となるデータを示してもらいたいが。

ブログ主が問題にしているのは接着剤の劣化であり、コンクリートの劣化ではない。今回の脱落も周囲のコンクリートごと剥落したわけではない。これは明らかな問題のすり替えである。

最後のコメントが傑作で、

35年で大きくとってある安全率を超える劣化をするようなら、もうあちこちで問題が出ているはずです。

と書いたが、いまやあちこちで問題が噴出して危機一髪状況だ。


付け加えておきたいが、別にケミカルアンカーを否定するわけではない。きちっと安全性が担保されているなら、それ自体は革新的な技術だと思う。

むかしは、胃がんの手術といえばR3といって腹の中を空っぽにするくらい、リンパ節隔清を行ったものだ。乳がんの手術といえば、乳房切断に腋下リンパ節、さらには鎖骨上果まで隔清した。

5年生存率を1%でも上げるために、どこの大学も拡大手術に血眼になったものだ。最近ではこれらの考えはだいぶ廃れてきている。どこかでQOLとのトレードオフが必要なのだと思う。


本日のニュースは愕然とさせるものだった。

下り線では確認されなかったボルトの欠落が27カ所あり、昨年9月の目視中心の定期点検で見落とした可能性が出てきた。

会社は打音検査はやっていなかったと認めている。これだけでもマニュアルからの逸脱だ。しかし今回の調査結果で、目視検査すらも、まともにやっていなかったことになる。
ようするに怠け心がどんどんエスカレートしていたということだ。会社のトップはどんどん交代するから、過去のやり方はいつの間にか「伝説化」する。そうやって会社は腐っていく。

とりあえずの感想だが

古い設備の維持・補修がこれから大問題になっていくが、設備の補修より、モラルの補修がもとめられているのではないか。

「愛情」が必要だ。西欧では100年前の建物でも現役だ。愛情をこめて大事にしているからだ。ボルト問題での論争を読んでみて、論者の多くがトンネルに愛情を持っていることが分かった。この現場の感情を大事にすることだ。

結局、戦後日本は三代目、4代目が潰すことになるのだろうが、肝心なことは国民一人ひとりが各々の労働現場に即して、自分の頭で考えることだ。メディアの洗脳に騙されないことだ。テレビをつけっぱなし、流しっぱなしにしないことだ。

笹子トンネル崩落の原因は「アンカーボルト」の腐食ではなかった

週プレ・ニュース 12月10日号

12月2日、中央自動車道「笹子トンネル」で発生した「吊り天井板落下事故」はなぜ起きたのか?

NEXCO中日本の発表では、崩落したコンクリート板は約330枚。これらは天井裏に換気用スペースを作るためのものだ。コンクリート板は1枚当たり約1トン。これが6本の鋼鉄製「アンカーボルト」でトンネル天井のコンクリート壁とつながれていた。

今回の事件で、第一の「容疑者」に挙げられたのが、この「アンカーボルト」だった。しかし、建設資材業界などでは「アンカーボルトに、ぬれぎぬを着せるな!」という反対意見が多く出ている。
神奈川県内の金属建材部品メーカーの担当者は語る。
「笹子トンネルの天井に打ったアンカーボルトは今の荷重なら50年以上はビクともしないはず。それこそコンクリート板を1枚 ずつ重機でガンガン引っ張る
か、ボルトを焼き切らなければ、笹子トンネルの天井板は簡単には壊せません」

国交省の「調査・検討委員会」も、「アンカーボルトには目立った腐食などは見られなかった」と報告している。

防災建築工学の専門家・三舩康道氏は、1996年か ら98年にかけて起きた山陽新幹線のコンクリート剥落事故との共通性を指摘する。いわゆる「アルカリ骨材反応」が同時期に建設された笹子トンネルにも発生したのではないかという意見だ。


なおこの記事では、以下の衝撃的な事実も明らかにされているが、どうもあまり裏づけが取れなかったようで、控えめな表現にとどまっている。

大月~勝沼間開通直前の1976年11月に、会計検査院が旧・日本道路公団総裁に対して「工事監督不行届による笹子トンネルの強度不足」を指摘したのだ。その指摘の中でいわれた規定の厚さの約半分しかコンク リートが打たれなかった工事箇所こそが、トンネルの天井部分だった。

これが事実であれば、公団トップの刑法上の責任も問われることになるが…

新ベンチャー革命 新ベンチャー革命2012124日 No.686

というブログに赤旗記事とほぼ同じ内容の記事が載っていました。おそらくこのブログを見た赤旗記者が、ブログ主に直接インタビューしたのでしょう。この記事は事故の翌々日にアップされているので、その後の調査結果を反映していない可能性があります。

26日に載った赤旗記事については、やはり気になる人が居たと見えて、この記事の内容の適否を

  • 教えて!
  • goo

に問い合わせた人がいる。

赤旗の記事では、現場監督経験者のインタビューで
梁の中の鉄筋に直接アンカーボルトを溶接する。 
これなら絶対に抜けることはない。

施工の基準はこれでやることになっていなかったのでしょうか?

これに対する答えは、

あまりに。無知ですな・・・・次に釣りボルト交換する時に配筋(鉄筋)を傷つけます。そうなると弱くなるから・・・駄目ですね。 
 それに、釣りボルトは、溶融亜鉛めっきされていますが、配筋はど鉄でメッキもされてないので錆びやすいのです。

 鉄が錆びるとどうなるのか・・・大きく膨張します。膨張すればコンクリートが破壊されますから・・・やってはいけない工法なんですね・・・・

と一蹴されている。ただこの質疑応答はどうも、赤旗報道に反応した誰かさんによる自作自演の匂いがする。

少なくとも過去には、少なくともJRでは、この工法が普通に行われていたという事実を、この回答者は知らないということになってしまうからだ。

いずれにしても、これでは素人は混乱してしまう。ケミカル・アンカーそのものの信頼性について建築屋さんのあいだに一致した見解がないのだ。

ミーチャンハーチャン Miicyan Haacyan

というページではブログ主が自説を展開した後、それに対するコメントというかたちで、一種の論争が発展している。

素人にはかなり難しい議論なのだが、やはり理解しなければいけないのだろう。(それにしてもミーちゃんハーちゃんというのは御年が知れますな)


遠藤記者の調査記事で12月26日付け社会面のトップ。
見出しをまず並べる。

笹子トンネル事故 常識はずれの中日本高速
現場監督経験者語る

その下に白抜き見出しで

大震災後も目視点検のみ
「仮設」用ボルトを本設に


ということで、とにかく引っかかるのが「仮設」用ボルトがそのままというところ。

以下記事を引用する。

今回抜け落ちた天井のアンカーボルトが、「ケミカル・アンカーボルト」だったと聞いて、度肝を抜かれました。
アンカーボルトというのは天井のつり金具を最上部で支えるものです。
通常、アンカーボルトは、トンネル天井部のコンクリートを"打設"する前に、中の鉄筋と溶接して一体化し、コンクリートの中に「埋め込む」もので、絶対抜けません。
自分が工事を担当したJR新幹線のトンネルではすべて「埋め込み式」でした。

これに対しケミカルアンカーボルトというのは、トンネル天井部のコンクリート壁に穴をあけ、接着剤で固着する方式です。
ケミカルアンカーボルトは、あくまでもトンネルの内部で重い荷物を移動させるために、天井にフックを取り付けるときなどに「仮に」使用するものです。

なぜなら、強度の点で極めて不安があるからです。トンネル工事を施工した後に、コンクリートに穴を開け、それも重力と反対の上向きでケミカル・アンカーボードを使用するのは、ありえないことです。

しかもそれを「仮設」としてではなく、永久構造物に近い「本設」に用い、長期に使用していたことは驚きであり、信じられません。

ほかにも打音検査の問題とか、派遣の技師に施行管理を任せていたとか、いろいろあげられているが、やはりこの「設計ミス」というか手抜き設計の問題が一番衝撃的だ。

姉歯事件のときの手抜き設計と根っこは同じだ。これらが事実とすれば、当然、刑事責任が問われてくるだろう。

この記事は赤旗の特ダネと思われるが、他紙ではどのような扱いになっているだろう。

インド共産党(M)機関紙「人民民主主義」1月6日号

集団強姦事件: 犯人達はもっとも厳しく罰せられなければならない


インド共産党(M)政治局の声明(2012年12月29日)

インド共産党(M)政治局は、勇敢な若い女性の悲劇の死に対し、心からの悲しみを表明する。彼女は、都心を走る公共バスの中で起きた残忍な輪姦の被害者であった。政治局は彼女の家族に心からの哀悼を表する。政治局は、現在において、また将来において、可能な全ての援助を差し伸べるよう、政府に求める。

さらに悲劇的なことは、政府と警察がその義務を果たしていればこの恐ろしい事件は避けられただろうということである。

共産党政治局は、被告の犯人に最も厳しい罰を要求する。

これは、孤立した出来事でない。性的暴行事件は、インドで最も急速に増加している犯罪である。

中央政府にとっても州政府にとっても、最も根本的ななすべきこと、それは女性への暴力を防ぐための手段を講ずることである。それは長いあいだうやむやにされてきた。女性組織と左翼政党はそれを求め続けてきたが、政府は要求を受け入れず、実施をサボってきた。

行うべき措置には以下のものが含まれている。すなわち安全確保のための手段、期限付きの裁判(time-bound justice)への簡単なアクセス、警官の無作為に対する罰則、性犯罪に関する訴訟の迅速裁判(fast track courts)への移行、性犯罪への罰則の改革と強化などである。


死は、無駄にされてはならない: 全インド民主女性協会(AIDWA)の声明

我々は、23歳の女性の逝去に最も深甚な哀悼を表明する。彼女はデリーで2012年12月16日に勇敢に輪姦の犯人と戦った。

この少女の死において、インドは勇敢なもう一人の女性をまたも失った。彼女は不平等な社会秩序によってもたらされた不条理な暴力とたたかったのだ。そして家父長的価値観と戦ったのだ。

それらは我々の社会が露呈するに至った悪弊だ。それらは女性に対する過去の恥ずべき犯罪記録でも明白だ。

我々は彼女と連帯する。彼女の戦いと彼女の死に連帯する。そして我々、男も女も、インド中の我々は、いま起きたことに恥ずかしさを感じ頭を垂れる。そして決意する。彼女の死を無駄にすることは許さないと。

この犯罪は、罰せられなければならない。我々は罰せずには置かない。

彼女の闘いは、その生と死をふくめ、すべての者への呼びかけとしての役割を果たすだろう。インドの女性は決意する。そして性暴力(gender violence)を許さないと声を上げる。性的暴行にノーを突きつける。この国の女性市民の尊厳を否定するものを許さない。

レイプ事件に抗議するインドの若い勇敢な市民に官憲は弾圧を加えた。その襲撃は許せないと。広範な人々の抵抗と抗議が巻き起こりつつある。その抗議は、「性的暴行にたいするゼロ寛容」という明快な声に代えられなければならない。

AIDWAは、この国で犠牲者・家族との団結を示す女性と人々に加わって、ともに正義のための闘争を進めることを誓う。暴力の全ての形に対して、女性への襲撃を支える不平等社会に対して我々はたたかう。

(この声明はえらく文学的で難しい文章で、かなり意訳しています)


インド学生連合の中央執行委員会の声明

…この犯罪は、世界最大の民主主義センターからわずか15キロはなれたところで実行された。犯罪が実行されてから犠牲者の女性が悲しい終焉を迎えるまで、我が国の人々、特に学生・青年と女性は先例のない反応を示した。彼らは自発的に街頭に出た。そして大勢で女性の安全を要求した。

いまやこの民衆の感情は具体的な運動に置き換えられなければならない。その転換点に立って、我々は具体的な要求で迫らなければならない。速やかな判決のための迅速裁判所、義務を果たさない警官への処罰、警官隊のジェンダー感覚の高揚、全ての男女共学の機関での性的いやがらせ防止委員会の設立、公共輸送機関の改善などである。


インド民主青年同盟(DYFI)の中央執行委員会の声明

DYFIは、犠牲者の死去を哀悼すると同時に、この悲劇がインドに現実と向き合うことを強制したと指摘する。

その現実とは、性的に襲撃された女性がしばしば犯罪を犯したと非難されることである。そのことによって彼女達は沈黙を強いられ、当局へ事件を届け出ないように強制される。

また、もし勇敢な人がレイプを告発しても、警察はしばしば受理することを拒否する。だから強姦事件の処分はきわめて遅い。このことは文書記録によっても明らかである。



DYFIとSFIの全ての支部は、12月30日のキャンドル・サービス行動を組織した。彼らは女性のあまりにも悲しい死を悼んだ。そして中央政府の恐るべき怠慢ぶりに抗議した。そして性的な暴力事件を抑制するためのポジティブな処置を打ち出すようもとめた。

DYFIはさらに1週間にわたる女性への暴力反対のキャンペーンを行った。女性への暴力は、社会に深く根をおろした差別意識の表れであること、ゆがんだ文化的価値の表れであることが訴えられた。またキャンペーンは社会に潜む反動的な女性観とのたたかいを緊急の課題と位置づけた。


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