鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

2012年12月

下の図も「岩間の栗」のページからの転載である。気温の繰り返す激変がいかに縄文→弥生の移行に関係したかが覗われる。

http://livedoor.blogimg.jp/shosuzki/imgs/6/4/647cd7d9.jpg

注目すべき点はふたつある。
一つはBC500年頃に平均気温が3度も下がるというミニ氷河期があって、縄文人は激減し、縄文文化はほぼ終焉を迎えていたということである。
もう一つは、AD500年頃までに人口は一気に550万人まで爆発していることである。これは温暖化と、温暖化が可能にした水田耕作の普及が支えたのだろう。

そこで不思議なのは、縄文人が絶滅状態になったところに弥生人が新たな生産様式を持ち込んで、それが人口爆発の原動力になったとすれば、日本人のほとんどが弥生人になっていなければならないのに、実際にはハーフ・アンド・ハーフということだ。(しかも、女性=mtDNAをとっても、男性=Y染色体DNAをとってもそうなのだ)

これは両者のあいだにかなり水平型の混交が行われたことを意味するのだろうか。それとも早期の段階で縄文人が水田技術を習得して、弥生人と同じような人口爆発を経験したのだろうか。だとすれば、人類史上かなり稀有なケースとなるのではないか。

考えてみると、縄文→弥生の変化は狩猟・採集文化から水田耕作文化への移行である。ただ縄文がたんなる狩猟・採集文化であったとは考えにくい。おそらくその中間項として栗と雑穀の栽培を行う粗放農業の時代があり、むしろそれが縄文文化を担う生産様式なのではないか。

三内丸山では栗の栽培が確実となっており、稲をふくむ雑穀が栗の収穫の不安定性をカバーしていたのではないか。それでなければあれだけの人口が定着できるわけはない。だから縄文→弥生の交代は栗畑+焼畑文化から水田稲作文化への交代を伴っていたのではないか。

ということで、まずは栗の生産様式について学ばなければならない。それに格好のページがあったので紹介する。

国産・茨城県岩間の栗を ぜひ食べてください。

縄文海進期

約一万年前に氷河期が終わり、気温が上がるとともに海面も上昇し、日本列島が大陸と分離され、暖流が日本海に入り現在の日本列島が形成された。

このときの温度上昇は 約6500年前まで続き平均気温は現在より約2℃上がった。

ナラ林文化

縄文海進とともに東日本に やコナラなどの落葉樹林帯が拡大した。縄文人は豊かな落葉樹林帯で東日本に文化の花を咲かせた。いっぽう、西日本は照葉樹林帯(シイ・カシ・クスノキ)におおわれ、人はあまり住んでいなかった

三内丸山遺跡

その代表が三内丸山だ。BC3500からBC2000年まで存続した定住型都市型社会だったとされる。遺跡の周辺の森は大半が栗の林だった。三内丸山遺跡は栗とともに栄えた。

栗は栽培されていた

栗が栽培されていたとする根拠は4つある。

①DNA分析でパターンが一致する。これは野生種では見られない。

②山栗が自然に純林を形成することは、通常ありえない。生態学的に見ると栗は弱者なので、人為的に育てられたと考えられる。

③発掘された栗は大粒だが、実生の芝栗から大粒の栗は取れない。品種改良あるいは接木の技術を持っていた可能性がある。

④肥料を与えなければ栗畑を1500年にわたり維持することはできない。

三内丸山だけではない

三内丸山は当時としては想像を絶するほどの大集落である。しかしその頃の縄文人人口は26万人といわれるから、その程度の集落は他にもあった可能性が高い。

下の図は「栗の遺体出土の縄文遺跡分布図」(渡辺 1984)というもので、これを見ると宮城・福島、関東、甲信越にもかなりの集積が見られる。

四万十や吉備地域の飛び地は、これらの地方の独特の地名と考え合わせると、興味ある知見である。


国内メディアは、円安株高を背景に、安部体制受け入れの方向にキャンペーンを開始しつつある。

安部首相がテレビで写ると、その目は狂気の影を宿している。ちょび髭つければ、そのままヒットラーだ。
巳年にふさわしく蛇目の石破幹事長は、「明日から戦争」とちろちろ赤い舌で煽り、安部とタッグを組んでいる。

ファシズムは前面に迫っている。このコンビは在任中にどこかで鉄砲をぶっ放すだろう。本人が「やる、やる」といってるんだから、これ以上たしかなことはない。

平和を願う心は、いま憲法を守る声となってあげる以外にない。いまにあげられなくなる。

護憲・九条共闘が必要だ。安部・石破の狙いを暴露しなければならない。

A型は「エデンの東」を目指す
能見正比古と分子人類学

恥ずかしながら、昔は能見正比古の「血液型人間学」の愛読者だった。
まぁ科学的装いを凝らした性格占いの一種なのだろうが、日本人のほとんどが自分の血液型を知っているという特殊状況の下で、その信仰は意外なほどに根強い。日本で最大の宗派ではないだろうか。
ところで、mtDNAの論者、HLAの論者、T細胞白血病ウィルスの論者、Gm遺伝子の論者など、その理論構築の方法が驚くほど能見と似通っている。
かれらも能見の「血液型人間学」を読んで理論構築の方法を学んだのではないかと、思わず疑ってしまうほどである。

かくいう私も、隠れ信者として、古畑の「A型」分布説を見ながら思ったのだが、日本人に特異的にA型が多いのは、A型だから日本に集まったのではないかと思ったのである。

私がA型人間の典型として思い浮かべるのは、健さんとか鶴田浩二である。きわめて常識的な人間で、忍従に忍従を重ねるが、「もがまんならねぇ!」となると、よほど思い切った行動に出る。美学の世界にスリップインするのである。

B型は生存本能で生きるから、大きな間違いはしでかさない。AB型はA型より過激だが根性がない。

縄文人はA型は少なかったようだから、A型頻度を上げているのはもっぱら弥生人である。
日本には、なにかA型弥生人を惹きつけて熄まない「エデンの東」的な要素があるのではないか。

これまでの分子生物学的解析法の変遷を年表形式にまとめてみて、一定の傾向が分かってきた。
まず、この世界がきわめて日本的な世界だということである。方法論的な妥当性がほとんど吟味されずに垂れ流されている。相互批判がないから、一方では学会の大御所が幅を利かせ、他方では一匹狼的な研究者が大衆の受けを狙う。
何かしら外国で新たな技術が開発されると、それを使って「画期的な大発見」が生み出される。
今回のゲノム研究に基づく研究の発表も、その王道を踏み外すものではない。

研究者が前のめりになって、風呂敷を広げたくなる気持ちは大いに分かる。ただし推計学の許容する範囲を超えた場合は、それをしっかり批判するジャッジが必要だろうが、この学会では大御所自らがが風呂敷を広げるのに忙しいようで、余り期待はできそうもない。


…にもかかわらず、全体の認識とコンセンサスは一歩一歩踏み固められつつあるのだろう。
Y染色体の研究が、アジア全体の動向を見るのに役立つ。つまり縄文人をふくむ旧北方系が東アジア全体を覆っていたところに、ネオ北方人が進出してきて旧北方系はその周辺に押しやられたということだ。(ただ血液型のA型はこの枠にはまらない。ネオ北方人にA型は少ないにもかかわらず、A型が多いのは縄文ではなく弥生人なのである)

したがって、旧北方系はアッサム、シッキム、ブータンから環状に雲南まで来て、華南、台湾でいったん切れる。そして琉球、アイヌとつながって行くのだ。(琉球人が北海道から来たと考える必要はない。かつて旧北方系が暮らしていた本土あるいは台湾から移住し、その後故郷がネオ北方系に奪われたとすれば、矛盾はない)
ネオ北方人がいつ中原を征服したかは分からないが、もし台湾で、それより古層から旧北方人の存在が証明できれば、このミッシングリングは完成する。



とにかく縄文人のサンプルは希少なのだから、速やかに解析可能なすべてのゲノムを解析し、データを公的に開放すべきであろう。一部の人間がデータを小出しにして、メディア相手に商売するのは困る。

第二に、推計学的には現日本人のサンプル数が十分に大きければ、縄文人の数が少なくても精度は増すはずである。
コスト的にはゲノム解析とは行かないだろうが、mtDNAとY染色体のデータ収集でもいいんではないだろうか。ただし無作為抽出であることが不可欠だ。

日本人が混血であることはよいとして、ハーフ・アンド・ハーフというのは驚きだ。どうすればそうなるのか、社会融合のあり方を推理しなければならない。

日本人起源をめぐる分子人類学研究史

1962年 古畑種基、血液型A遺伝子の分布頻度が南西部に高く、東北に進むほど段階的に低下することを明らかにする。(ただし古畑には捏造癖あり)

日本は東アジアの中でA遺伝子の出現率が突出して高いことが知られている。他にA遺伝子が高率を占めるのは西欧諸国である。

1963年 マーギット・ナス、ミトコンドリアが核本来のDNAとことなるDNAを持っていることを発見。mtDNAと名づける。

1967年 アラン・ウイルソンら、「人類進化のための免疫学的時間尺」を提唱。ヒトとチンパンジーの分岐を400万年前から500万年前と推定した。

1970年 沖縄の具志頭村港川で、旧石器時代人(18,000年前)の骨格化石4体分が発見される。

1978年 小山修三ら、日本地図の上に32×32kmのメッシュを置いて、縄文の時代ごとの遺跡数を集計し、地域別人口の推移を推計。縄文時代は、列島の人口の90%以上が東日本に分布していたことを明らかにする。

1980年 日沼頼夫ら、成人T細胞白血病(ATL)ウィルスのキャリアの分布を調査。九州で7.8%に達するのに対し、他地域では1%以下に留まること。中国・朝鮮では存在しないと発表。さらに琉球人では34%、アイヌ人では45%に達することも明らかになる。

1981年 分子人類学の分野でmtDNAに注目が集まる。

mtDNAの特徴: ①1細胞中に数千個あり、化石となっても残りやすい。②塩基置換は通常のDNAと比べると5~10倍早いとされ、個体間差が出やすい。③母方のみを継承するので朔及が容易。④核DNAの20万分の1で無駄な記述がないとされる。

1985年 松本秀雄、Gm遺伝子(血液型の一種を決定する遺伝子)による解析を行ない、日本人・アイヌ・琉球人の共通性を指摘。縄文人・弥生人のいずれもが北方系に属することを明らかにする。(バイカル湖云々はどうでも良いことで、南方系ではないという一点が重要である)

1986年 スバンテ・ベーボらアメリカ先住民ミイラの脳組織からミトコンドリアDNAの抽出に成功。その一部(Dループ)について塩基配列を解析する。

1987年 アラン・ウイルソンら、すべての現代人は15万年前から20万年前にアフリカにいた一人の女性を子孫とするミトコンドリア・イブ説を発表。

父系の系統をたどるためには、Y染色体の分析、或いは核DNAそのものを分析する必要がある。南米コロンビア人においては、ミトコンドリアDNAは、ほぼ全てがモンゴロイド系だが、Y染色体はほぼ全てがヨーロッパ系に特徴的なタイプであった。

1992年 茨城県取手市の中妻貝塚から約100 体の縄文人骨が掘り出される。

1994年 ハーバード大学のMaryellen Ruvolo、すべての人類の生物学的構成は近似していていることを、遺伝子解析を通じて立証する。これにより「人類は民族や人種で進化の度合いが異なる」という「多地域進化説」を粉砕。

1995年 徳永勝士、「HLA遺伝子群から見た日本人のなりたち」を発表。HLAがきわめて多様なため、読み取りに主観性が入る危険が高いことから、注目されずに終わる。

2000年 イングマン、世界のいくつかの人種についてミトコンドリアDNAの全文字解析を志向。人類展開の系統樹を提唱する。

2003年 ゲノム・プロジェクトが完成。人類の全遺伝子情報が解読され公開された。

2006年 HammerらがY染色体のゲノム解析により、mtDNAとほぼ同様の結果を得る。

日本においてもmtDNAとY染色体の頻度に差がないことから、渡来人による先住民の征服という可能性は否定された。かなり長期にわたり、棲み分けをしながら共存したと考えられる。

  

話の要点がようやく見えてきた。
縄文人というのは常識的に見て、紀元前3千年の三内丸山の人たちである。それが紀元前800~300年頃の弥生人の侵入までを生き抜いた。そして弥生人=半島からの渡来人に駆逐され同化された。という筋書きである。
となれば、それは埴原氏の言うごとく南方系ではなく、樺太から南下した人々である。
だから、琉球人が縄文の流れを汲む北方人であることが証明できれば、この推理は完成する。縄文人は黒潮の流れに逆らって、九州から沖縄にまで進出したということだ。
そしてその間、南方系の人々は、水田耕作という文化を伝えることには関与したが、日本人のDNAに影響を与えるほどには侵入していないということになる。

「弥生革命」という勇ましい表現があった。
たしかに生産様式の革命的変更があったことは間違いない。しかしそれが日本民族を形成する人種の変更を伴ったのか、もっと率直に言えば半島からの渡来人がそれを担ったのか、半島からの渡来人=弥生人と考えてよいのかという問題である。
これは日本人の形成過程における南方要素の全面否定を意味する。これまでの文化人類学者の諸説は根底から崩れることになる。また埴原の縄文人=南方系説も瓦解する。もっとも埴原説は二重構造が証明できればよいのであって、縄文人が北方系であっても、それ自体は決定的な問題ではない。

以下に紹介するのは2010年2月20日の公開シンポジウム「日本人起源論を検証する」の一部抄録である。


弥生時代の幕開け-渡来系弥生人はどうひろまったのか?
中橋孝博・飯塚 勝

 日本人の形成には弥生時代に大陸から渡来した人々が大きな役割を果たした。北部九州はその最初の入植地と見なされる。しかしそれは謎の空白期となっている。
 弥生開始期の遺跡では、縄文伝統による生活用具が大半を占める。おそらく少数の渡来人が水稲稲作文化をもって入植したのだろう。
 ところが、数百年後の弥生中期頃になると、住人の殆どが渡来人集団に占められている。縄文人が新文化を受け入れて弥生社会を形成したとは考えられない。
 当地で起きた弥生革命は、土着集団による先進文化の受容現象というよりは、渡来人が自身の人口を増やしながら実現していったものと考えられる。
 弥生革命の最初の発火点となった北部九州の変革のあり方は、列島各地に波及して行ったと思われる。

目下の感想。
日本人の起源は4段階あると考えるべきだ。
①まずは、旧石器時代に始まりBC3千年頃の山内丸山でピ-クを迎える、北方系の古典縄文人、
②その後、埴原が渡来人VS縄文人という形で提起した「縄文人」の時代。
③おそらくそれより古くから始まったと思われる、水田耕作を持ち込んだ南方系の弥生人、これも渡来人である。
④朝鮮半島から渡来した、埴原の言う「弥生人」
このうち、とくに②と③の異同が問題となるが、突っ込めば突っ込むほど、埴原の縄文人・弥生人規定そのものが邪魔になってくる。

縄文・弥生の規定は、まずなによりも食を中核とする文化の差異と考えるべきではないか、そしてまずこのグロースな把握を前提にしつつ、遺伝子解析を進めるべきではないか。そうしないと話が逆立ちしてしまう。

いつまでも、渡来民vs先住民と縄文vs弥生という二つの対概念を混同して用いていれば、ろくなことはないと思う。

2012年自薦記事を作ろうとはじめたのだが、ダメですね。みんな推薦したくなってしまう。

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ヘーゲルは手段が目的を規定するといった。
我々の日常生活においては目的が手段を規定するのだが、歴史においては手段が目的を規定し、目的を実現する中で手段がさらにステップアップし、さらに高次の目的を設定して行くのである。
食料の歴史の場合、この関係が典型的に現れる。
人類の食料は、最初は狩猟と採取の二種類であった。アダムとイブの時代ならともかく、この方法では食料を安定的に確保するのはきわめて厳しい。
採取による食糧確保は、当初は補助的なものであったが、その安定性のためにやがて主流となる。そのとき最大の価値観は通年保存できる保存性であった。この点で最も優れていたのが栗だった。だから三内丸山は栗の文化となった。
これに対し、雑穀は虫がつく、調理が難しいなどの困難を抱えているが、投下労働量に対する見返りが相当良いのだろう、最終的に人類が農耕生活に入る決定的な契機となった。逆に言えば、栗は増大する人々の食料要求にこたえ切れなかったのではないだろうか。


1978年、小山修三らは日本地図の上に32×32kmのメッシュを置いて、縄文の時代ごとの遺跡数を集計した。
小山は、オーストラリア先住民の人口変動についての研究を行った実績があり、このときの経験から作り出した独自の推計法を元に地域別人口の推移を推計した。この結果、縄文時代は、列島の人口の90%以上が東日本に分布していたことが明らかになった。

まあ、これ自体は難しい数式を用いなくても、日本地図の上に縄文遺跡をドットしていけばわかる話である。私が感心したのは小山の時代を見る目である。時あたかも列島改造華やかなりし時分、全国いたるところで地面が掘り返されていた。とすれば、全国どこでも遺跡の発見率に差はないだろうという前提が成立しうる。

例えて言えば、縄文遺跡は圧倒的に東日本に多いが、それは東日本において特別に開発が進んだということはなく、掘れる所は片っ端から掘るというイーブンな状況が存在し、それが研究者のあいだでコンセンサスになっていたのである。

もう一つ感心したのは、遺跡を時系列に沿って配列し、縄文時代の盛衰をプロットしたということである。これにより東日本の優位がベタなものではなく、何かしら必然があってそうなったことが示され、結果として東日本優位説を補強していることである。

誰にでも分かる事実から出発し理論を構築しているだけに、この理論は重みがある。いくらDNAやゲノムに基づく精緻な理論が提出されても、小山のセオリーの核心は揺るがない。すなわち典型的縄文人は北方から侵入してきたという事実である。

そして「弥生人による縄文人の征服・支配・排除・混交」などのすべての議論は小山の議論とガチンコ勝負になるのだが、そこを説明するのは小山の側の義務ではない。

「渡来人=弥生人」派の人たちはこの点についての説明義務を果たす必要がある。さもなくば「渡来人=弥生人」説の安易な導入は控えるべきである。

小熊秀雄の最後の詩か、昭和15年12月に発表された詩(遺稿)の一部。

つかれて
寝汗浴びるほど
鍬をもって私は夢の畑を耕しまわる
ここに理想の煉瓦を積み
ここに自由のせきを切り
ここに生命の畦をつくる
疲れて寝汗掻くまでに
夢の中でも耕やさん

おどろきやすい者は
ただ一人もこの世にいなくなった
都会の堀割の灰色の水の溜りに
三つばかり水の泡
なにやらちょっと
語りたそうに顔をだして
姿をけして影もない


昼の疲れが母親に何事も忘れさせ
子供は寝床からとおく投げだされ
彼女は子供の枕をして寝ている
子供は母親の枕をして――、
そして静かな祈りに似た気持で
それを眺めている父親がいる。

どこから人生が始まったか――、
父親はいくら考えてもわからない、
いつどうして人生が終わるのかも――、

ただ父親はこんなことを知っている
夜とは――大人の人生を一つ一つ綴じてゆく
黒い鋲のようなものだが
子供は夜を踏みぬくように
強い足で夜具を蹴とばすことを、

そんなとき父親は
突然希望で身ぶるいする
――夜は、本当に子供の
   若い生命のために残されている、と


とんでもないところに嵌った。
日本の古代史と日本人起源論は、日本列島論をはるかに上回る魑魅魍魎の世界。アマチュア歴史学者がひしめいている。とてもうかつにものをいえるところではない。
とは言いつつ、それだけ面白い世界でもある。
ここ数日の記載は、寝言と聞き流していただく以外にない。正月は口をつぐんで目と耳を鍛えることにしよう。ただ物覚えが悪くなっているので、素通りしていくかもしれないが…

今度の記事で衝撃なのは、アイヌと琉球人が近縁だという話より、本土人が琉球人より朝鮮人に近いということだ。琉球人を封印された原日本人とすれば、現在の本土人は原日本人ではなく朝鮮人の由来ということになる。

自分のルーツが何なのかは、実はどうでもよい話だ(嫌韓ネトウヨにとっては死活問題だろうが)。重要なのは、これが両者の混交過程がかなりシビアーに行われたことを示唆する所見だということである。
朝鮮人の血統が優位になるためには少なくとも祖先の半分以上が朝鮮人でなければならない。これは簡単な理屈だ。

なお朝鮮人といわずに「渡来人」と表現しているが、これも「縄文人」同様に誤解を招く表現だ。実際に調べたのは現代韓国人の染色体なのだから、そこから導かれる結論は、渡来人一般ではなく、任那や伽耶の「縄文期朝鮮人」でもなく、現代韓国人に直接つながる朝鮮人だということである。

アメリカ大陸では南北で白人の侵入形態は異なっている。南ではコルテスやピサロが先住民の王国を征服し、自らが支配者となった。天孫降臨である。混交が盛んに行われ、多くの国では人口の過半数を混血(メスティソ)が占めるようになった。しかし混血とは言うものの、その顔は先住民そのままである。人口比はだいたい1対5くらいではないだろうか。(カリブ諸島では先住民は死に絶えた)
それから見ると渡来人優勢のパターンというのはかなり異常である。

他方北アメリカでは先住民は混交することなく駆逐された。アメリカ人はほぼピュアーな白人である。この混交率0%~80%の中間に日本は位置することになる。

理由は二つ考えられる。ひとつは、これまで考えられていたよりはるかに多くの朝鮮人が渡来したということ、そして人口構成をひっくり返してしまうほどの徹底した簒奪を行ったということである。あるいは原日本人の数が極めて少なかったとも考えられるが…

この観点から、もう一度古代史を考えてみなければならないだろう。

なお「縄文人」という概念には注意が必要であろう。渡来人がやってきたとき、そこに先住していた人々ということであれば、原日本人と呼ぶほうが適切である。中南米の先住民(インディヘノス)はコロンブスが名づけたごとくインド人(インディオ)ではなかったのである。

縄文と弥生の違いは直接には使用した土器の形態であるが、今日では米作文化を中心とする農耕社会の到来が、弥生時代を画する指標とされていると思う。

ジャポニカの原産地が中国南部であることは良く知られており、米作文化をもたらしたものが半島からの渡来人ではないことは、さまざまな形で立証されている。
とすれば、一般的には原日本人は弥生人だったと考えるのが素直ではないか。もちろん渡来人が先で、米の伝来が後という可能性もあるが、やはり米は米作りの文化と、それを担う人々とが一式セットで入ってくるものと考えたくなる。

それでは縄文人から弥生人への交代はいつ成されたのだろうか。それは同一の人種だったのだろうか、それはまた別の問題である(多分別人種だと思うが)。

いづれにせよ、渡来人に対する対概念としての原日本人を、縄文と結びつけるのは混乱の元であろう。

この記事は紙面の下1/3を埋める大きな記事である。
見出しだけで5本もある。さらに図が四つ。さらに「1塩基多型」を解説したミニコラムが挿入されている。まさに情報てんこ盛りだ。
間宮記者の書いた文章が1/3その半分がリード、残りは研究者へのインタビューとなっている。このインタビューには独自のリードの他に三つの小見出しがついている。
とにかく読みにくい構成だ。
間宮記者は、本当はこの10倍くらい書きたかったに違いない。

今回は「核心的事実」について、学術論文風に整理してみた。

目的および方法
①研究の目的はゲノム解析の方法をもちいて、エスニックな諸集団の系統関係を整理しようというもの。
②研究の方法は、血液検体で人のゲノム上に散在するSNPと呼ばれる変異をチェックすることである。今回はアイヌ人36人(平取町)と琉球人35人について検討し、60万個のSNPをチェックした。
③また、これまでに解析された本土人、韓国人、中国人のSNPパターンと比較検討した。

結果
①アイヌ人に最も近いSNPパターンをとったのは琉球人であった。次に近いのが本土人であった。
②本土人と韓国人の類似度に比し、本土人とアイヌ人・琉球人の類似度は低かった。

考察
①これまでミトコンドリアやY染色体のDNAを用いた調査が行われてきたが、比較に用いた因子が60万という精密さは圧倒的である。(「解像度」が格段に良くなっている)
②本研究に先行するものとして、08年の理化学研究所グループの調査があり、ここでは本土人と沖縄の人のSNPに明確が違いがあること、本土人のなかでも混血の度合いに差があることが示されている。
③今回の調査結果は、琉球人とアイヌ人がともに原日本人であり、朝鮮から渡来した人々により両端に追いやられたという仮説を支持する所見である。
③アイヌ人は琉球人より個人差の幅が大きく、北方民族との混血を示唆する。

記事には、検査結果の考察からさらに踏み込んだ推測が載せられている。

たとえば混血の始まった年代が図示され、縄文人が本土人、琉球人、アイヌに分化したのが紀元前1千年前後、渡来人と本土人の混交が始まったのがそれから300~400年後となっている。したがって本土人はまず本土系縄文人として分離し、さらに渡来人と混交したのちに、あるいは混交したことによって弥生人となったということになる。

これはさすがに言い過ぎではないか。

60万もの調査ポイントを設定しているから、格段に精度が上がったと自慢するが、私としてはサンプル数の少なさのほうがむしろ気がかりだ。たとえば私が検体になったとしてこれまで身長・体重だけだったのが、視力、聴力、握力、背筋力と検査項目を増やしたからといって、日本人の特徴がより正確に分かるようになるわけではない。

60万という計測ポイントはそれ自体非常に重要ではあるが、対象が平取という町の38人の検体に過ぎないということも抑えておかなければならない。

60万を錦の御旗にして、これまでのDNA解析に基づくデータを否定するのは、早計である。とくに相反するような結果になった場合は、慎重なつきあわせが必要であろう。



日本人の起源説が覆されようとしている。沖縄の人とアイヌ民族は同根だというのだ。

たしか半年ほど前に、日本人のルーツの問題を取り上げて、日本人のルーツは基本的には中国南部に由来すると書いた覚えがある。
もちろん大本は他のアジア系人種と同じくシベリアから南下したモンゴロイドであるのだが、それが日本にまで来るには福建省あたりから船で来るのと、朝鮮半島からわたってくるのと、樺太から南下するのと三つある。

明治以来の学説は、1911年のベルツ博士の「アイヌ・琉球同系説」であり、ついで江上波夫が騎馬民族説を唱え、原日本人集団を朝鮮からの渡来者が征服し日本人が形成されたとした。
1980年代には植原和郎らが、これを縄文人vs渡来人として定式化し、「二重構造説」を提唱した。

ところが90年代のDNA研究でかなり様相が異なってきた。
縄文人という規定が適切かどうかは別として、原日本人という人種が住んでいるところにかなり大量の渡来人が入り込んで混血した。
このことは間違いないようだ。

しかし、もし弥生人を米作を担った人々というのなら、それは渡来人ではない。渡来人は日本に米作り文化が定着した跡に「降臨」したに過ぎないということになる。

しかもこれらの仮説は、日本人と琉球人との関係を説明するには役立つが、蝦夷や現代のアイヌ人の成り立ちを説明することにはならない。

樺太経由で南下してきた北方民族は単一ではない。東北北海道の気候は農業には厳しく、周期的に激変した。一時栄えた部族も絶滅し、代わりの集団が渡来した。そうやって何次にもわたり積み重ねられてきた可能性がある。
ヤマトタケルと闘った人々、埼玉のワカタケルの剣の持ち主、アテルイら田村麻呂とたたかった人々、そして中尊寺の安部一族、十三湊の安東氏が、現在のアイヌと同じ民族であったという保証はない。

そしてDNA分析の結果は外見上の類似にもかかわらず、アイヌと琉球人のあいだには遺伝的近縁関係は認められないというものであった。

ずいぶん長い前置きになってしまったが、私にはそれくらい強烈な理論なのだ。

私にとっては、琉球人は琉球民族ではなく日本民族であり、アイヌ人はアイヌ民族なのだ。人類学的な所見がどうであろうと、そうなのだ。しかし多少混乱はするわな。

記事の紹介はまた明日にする。もう10分で日付が変わる。吹雪いてきた。起きたら雪かきが待っている。

西部地域の経済発展センターを目指す「重慶モデル」


張紀潯  日本重化学工業通信社「アジアマーケットデビュー」

この記事は作成日時が記載されていない。内容から見ると2009年半ばに書かれたものと思われる。重慶モデルが注目され始めた最初期のものであろう。

 

西部地域の経済発展センターを目指す「重慶モデル」

1997年に直轄市 設立以降の10年間、重慶市は年平均10%以上の経済成長を続けてきた。08年の経済成長率は14.3%で全国平均値の9.1%より5.2ポイントも高くなっている。

今年に入って中国の新聞は、「重慶モデル」という用語を使い始めた。いったいどのような特色をもつモデルだろうか。

ここではその発展要因を、①産業構造、②経済の牽引力、③人的資源、④政府の役割、という四つの角度からみたい。

①潜在的な競争力をもつ重慶の産業構造

重慶の工業は重工業を主とする各部門が揃い、補完能力に優れている。抗日戦争がはじまった後、国民政府は都を重慶に移し、工業企業が次々に重慶に移ってきた。近年は、軍需産業をベースに誕生した自動車、オートバイ産業が急成長を遂げている。

重慶での外資系企業の生産額は重慶工業生産総額の 20%にすぎない。重慶は外資系企業と輸出貿易への依存度が相対的に低いため、世界的な金融危機の影響を免れている。

表5 2007年重慶の重要な工業製品

主要な工業製品

生産額

前年同期比±%

 石炭(万トン)

2,711.65

13.2

 天然ガス(億m³)

5.00

15.9

 発電量(億KW)

351.96

26.4

 鋼材(万トン)

436.57

13.9

 アルミ材(万トン)

81.13

20.0

 セメント(万トン)

2,819.92

11.0

 化学肥料(万トン)

154.20

18.3

 自動車(万台)

70.80

36.2

  うち 乗用車

41.80

58.9

 オートバイ(万台)

638.25

19.9

 タバコ(億本)

426.00

4.9

 ビール(万リットル)

76.49

7.5

②旺盛な投資と消費

重慶の固定資産投資は終始一貫2ケタの伸び率を保ってきている。07年度の社会消費品小売総額は、前年同期比18.4%増加している。さらに内需拡大政策の実施により、都市と農村住民の可処分所得が向上し、消費環境が大きく改善された。重慶経済への貢献率は24.1%に達している。

③経済格差を経済発展の原動力に変える人的資源

重慶市と沿海地域との経済格差が逆に重慶の経済発展を促す原動力になった。

全社会固定資産投資、社会消費品小売総額、輸出(外資導入)という三大需給関係から沿岸部と比較すると、まだ大きな格差が残されている。とくに輸出(外資導入)は大きく立ち遅れている。

07年に重慶市の常住人口が2,816万人に達 しているが、農村人口は60%以上を占めている。つまり工業都市でありながら、農業都市でもあり、多くの潜在労働力を抱えていることになる。

労働力の供給が豊富だけでなく、労働コストが安いという優位性をもっている。重慶市の従業員年平均賃金広州、上海、北京の約半分である。また重慶の工業用地価格は、北京、上海の3分の1程度で ある。

④経済成長を促す政府の役割

07年10月に中国商務部長を務めてきた薄煕来が重慶党書記として着任した。

薄書記は外資導入の拡大、農村改革、山峡ダム移民対策、都市建設、低所得層の底上げという五大政策を打ち出した。なかでも外資導入と都市建設(緑化)に力を入れており、大連モデルを重慶に適用しようとした。

結果として外資導入増加が際立っている。2008年の外資導入は27億ドルで前年比2.5倍に達した。また金融危機の対策として、都市インフラの整備が進められた。これは雇用創出、内需拡大、不動産活性化をもたらした。

重慶は農村経済を重点的に発展させるために、産業構造を調整し、農民工を大量に雇用する サービス業を優先的に発展させた。農民収入の増加が前述の個人消費と固定資産投入の増加につながっている。

習近平体制が発足するのにあわせ、その目指すべき経済モデルが注目される。

そのありようを示唆する一つのこころみとして、習近平の右腕と目された薄熙来による「重慶モデル」がある。24日の赤旗によると、重慶モデルは三つの柱からなる。

1.毛沢東の文化大革命の復活。文革当時の革命歌をうたう「唱紅歌」運動で、「人民の精神を奮い起こす」キャンペーン。

2.「打黒」キャンペーン。暴力団一掃のためと称し、民主的手続きや法律を無視した強権的捜査。

3.「共同富裕」のスローガンの下、低所得者向け住宅の建設など民政改善政策を進める。

そして、中央は「重慶モデル」を全面否定。温家宝首相が文化大革命の復活と封建制度の復権は許さないと力説した、と報じている。

はたして、この批判は当を得ているのだろうか? 率直に言って疑問を抱かざるを得ない。

第一に、習近平や薄熙来など太子党の連中は、親子ともども文化大革命ではひどい目にあっているはずだ。むかしの革命歌を歌って大衆を鼓舞したからといって、文革を再現しようとしたとは到底思えない。

薄熙来のやりかたが相当強引だったことはたしかだろう。その過程で蓄財にいそしんだ可能性も否定できない。ただ何をやろうとしたかという意味では、3.の「共同富裕」が唯一論争の対象とすべき問題だろう。それは暗に中央の経済政策に対する批判ともなる。

四川省の人口はきわめて多いが、その暮らしは依然としてきわめて貧しい。中国の経済発展の矛盾が集中して現れているところだと思う。逆に言えば、もっとも発展の可能性が残されている場所でもある。

そこで「共同富裕」の観点に立つ経済政策を実行しようとすれば、北京や上海にとってはあまり面白くはなかろう。「薄熙来が独立王国を作るのではないか」との疑心暗鬼に駆られたとしてもおかしくはない。

どうもそんな考えがして仕方ないのだが…

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