鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

AALA関連記事は「aala_newsの編集日記」http://blog.livedoor.jp/aala_news/ に移りました(6Nov.2023) 中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 「ラテンアメリカの政治」(http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ )がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

2012年12月

下の図も「岩間の栗」のページからの転載である。気温の繰り返す激変がいかに縄文→弥生の移行に関係したかが覗われる。

https://livedoor.blogimg.jp/shosuzki/imgs/6/4/647cd7d9.jpg

注目すべき点はふたつある。
一つはBC500年頃に平均気温が3度も下がるというミニ氷河期があって、縄文人は激減し、縄文文化はほぼ終焉を迎えていたということである。
もう一つは、AD500年頃までに人口は一気に550万人まで爆発していることである。これは温暖化と、温暖化が可能にした水田耕作の普及が支えたのだろう。

そこで不思議なのは、縄文人が絶滅状態になったところに弥生人が新たな生産様式を持ち込んで、それが人口爆発の原動力になったとすれば、日本人のほとんどが弥生人になっていなければならないのに、実際にはハーフ・アンド・ハーフということだ。(しかも、女性=mtDNAをとっても、男性=Y染色体DNAをとってもそうなのだ)

これは両者のあいだにかなり水平型の混交が行われたことを意味するのだろうか。それとも早期の段階で縄文人が水田技術を習得して、弥生人と同じような人口爆発を経験したのだろうか。だとすれば、人類史上かなり稀有なケースとなるのではないか。

考えてみると、縄文→弥生の変化は狩猟・採集文化から水田耕作文化への移行である。ただ縄文がたんなる狩猟・採集文化であったとは考えにくい。おそらくその中間項として栗と雑穀の栽培を行う粗放農業の時代があり、むしろそれが縄文文化を担う生産様式なのではないか。

三内丸山では栗の栽培が確実となっており、稲をふくむ雑穀が栗の収穫の不安定性をカバーしていたのではないか。それでなければあれだけの人口が定着できるわけはない。だから縄文→弥生の交代は栗畑+焼畑文化から水田稲作文化への交代を伴っていたのではないか。

ということで、まずは栗の生産様式について学ばなければならない。それに格好のページがあったので紹介する。

国産・茨城県岩間の栗を ぜひ食べてください。

縄文海進期

約一万年前に氷河期が終わり、気温が上がるとともに海面も上昇し、日本列島が大陸と分離され、暖流が日本海に入り現在の日本列島が形成された。

このときの温度上昇は 約6500年前まで続き平均気温は現在より約2℃上がった。

ナラ林文化

縄文海進とともに東日本に やコナラなどの落葉樹林帯が拡大した。縄文人は豊かな落葉樹林帯で東日本に文化の花を咲かせた。いっぽう、西日本は照葉樹林帯(シイ・カシ・クスノキ)におおわれ、人はあまり住んでいなかった

三内丸山遺跡

その代表が三内丸山だ。BC3500からBC2000年まで存続した定住型都市型社会だったとされる。遺跡の周辺の森は大半が栗の林だった。三内丸山遺跡は栗とともに栄えた。

栗は栽培されていた

栗が栽培されていたとする根拠は4つある。

①DNA分析でパターンが一致する。これは野生種では見られない。

②山栗が自然に純林を形成することは、通常ありえない。生態学的に見ると栗は弱者なので、人為的に育てられたと考えられる。

③発掘された栗は大粒だが、実生の芝栗から大粒の栗は取れない。品種改良あるいは接木の技術を持っていた可能性がある。

④肥料を与えなければ栗畑を1500年にわたり維持することはできない。

三内丸山だけではない

三内丸山は当時としては想像を絶するほどの大集落である。しかしその頃の縄文人人口は26万人といわれるから、その程度の集落は他にもあった可能性が高い。

下の図は「栗の遺体出土の縄文遺跡分布図」(渡辺 1984)というもので、これを見ると宮城・福島、関東、甲信越にもかなりの集積が見られる。

四万十や吉備地域の飛び地は、これらの地方の独特の地名と考え合わせると、興味ある知見である。


国内メディアは、円安株高を背景に、安部体制受け入れの方向にキャンペーンを開始しつつある。

安部首相がテレビで写ると、その目は狂気の影を宿している。ちょび髭つければ、そのままヒットラーだ。
巳年にふさわしく蛇目の石破幹事長は、「明日から戦争」とちろちろ赤い舌で煽り、安部とタッグを組んでいる。

ファシズムは前面に迫っている。このコンビは在任中にどこかで鉄砲をぶっ放すだろう。本人が「やる、やる」といってるんだから、これ以上たしかなことはない。

平和を願う心は、いま憲法を守る声となってあげる以外にない。いまにあげられなくなる。

護憲・九条共闘が必要だ。安部・石破の狙いを暴露しなければならない。

A型は「エデンの東」を目指す
能見正比古と分子人類学

恥ずかしながら、昔は能見正比古の「血液型人間学」の愛読者だった。
まぁ科学的装いを凝らした性格占いの一種なのだろうが、日本人のほとんどが自分の血液型を知っているという特殊状況の下で、その信仰は意外なほどに根強い。日本で最大の宗派ではないだろうか。
ところで、mtDNAの論者、HLAの論者、T細胞白血病ウィルスの論者、Gm遺伝子の論者など、その理論構築の方法が驚くほど能見と似通っている。
かれらも能見の「血液型人間学」を読んで理論構築の方法を学んだのではないかと、思わず疑ってしまうほどである。

かくいう私も、隠れ信者として、古畑の「A型」分布説を見ながら思ったのだが、日本人に特異的にA型が多いのは、A型だから日本に集まったのではないかと思ったのである。

私がA型人間の典型として思い浮かべるのは、健さんとか鶴田浩二である。きわめて常識的な人間で、忍従に忍従を重ねるが、「もがまんならねぇ!」となると、よほど思い切った行動に出る。美学の世界にスリップインするのである。

B型は生存本能で生きるから、大きな間違いはしでかさない。AB型はA型より過激だが根性がない。

縄文人はA型は少なかったようだから、A型頻度を上げているのはもっぱら弥生人である。
日本には、なにかA型弥生人を惹きつけて熄まない「エデンの東」的な要素があるのではないか。

これまでの分子生物学的解析法の変遷を年表形式にまとめてみて、一定の傾向が分かってきた。
まず、この世界がきわめて日本的な世界だということである。方法論的な妥当性がほとんど吟味されずに垂れ流されている。相互批判がないから、一方では学会の大御所が幅を利かせ、他方では一匹狼的な研究者が大衆の受けを狙う。
何かしら外国で新たな技術が開発されると、それを使って「画期的な大発見」が生み出される。
今回のゲノム研究に基づく研究の発表も、その王道を踏み外すものではない。

研究者が前のめりになって、風呂敷を広げたくなる気持ちは大いに分かる。ただし推計学の許容する範囲を超えた場合は、それをしっかり批判するジャッジが必要だろうが、この学会では大御所自らがが風呂敷を広げるのに忙しいようで、余り期待はできそうもない。


…にもかかわらず、全体の認識とコンセンサスは一歩一歩踏み固められつつあるのだろう。
Y染色体の研究が、アジア全体の動向を見るのに役立つ。つまり縄文人をふくむ旧北方系が東アジア全体を覆っていたところに、ネオ北方人が進出してきて旧北方系はその周辺に押しやられたということだ。(ただ血液型のA型はこの枠にはまらない。ネオ北方人にA型は少ないにもかかわらず、A型が多いのは縄文ではなく弥生人なのである)

したがって、旧北方系はアッサム、シッキム、ブータンから環状に雲南まで来て、華南、台湾でいったん切れる。そして琉球、アイヌとつながって行くのだ。(琉球人が北海道から来たと考える必要はない。かつて旧北方系が暮らしていた本土あるいは台湾から移住し、その後故郷がネオ北方系に奪われたとすれば、矛盾はない)
ネオ北方人がいつ中原を征服したかは分からないが、もし台湾で、それより古層から旧北方人の存在が証明できれば、このミッシングリングは完成する。



とにかく縄文人のサンプルは希少なのだから、速やかに解析可能なすべてのゲノムを解析し、データを公的に開放すべきであろう。一部の人間がデータを小出しにして、メディア相手に商売するのは困る。

第二に、推計学的には現日本人のサンプル数が十分に大きければ、縄文人の数が少なくても精度は増すはずである。
コスト的にはゲノム解析とは行かないだろうが、mtDNAとY染色体のデータ収集でもいいんではないだろうか。ただし無作為抽出であることが不可欠だ。

日本人が混血であることはよいとして、ハーフ・アンド・ハーフというのは驚きだ。どうすればそうなるのか、社会融合のあり方を推理しなければならない。

日本人起源をめぐる分子人類学研究史

1962年 古畑種基、血液型A遺伝子の分布頻度が南西部に高く、東北に進むほど段階的に低下することを明らかにする。(ただし古畑には捏造癖あり)

日本は東アジアの中でA遺伝子の出現率が突出して高いことが知られている。他にA遺伝子が高率を占めるのは西欧諸国である。

1963年 マーギット・ナス、ミトコンドリアが核本来のDNAとことなるDNAを持っていることを発見。mtDNAと名づける。

1967年 アラン・ウイルソンら、「人類進化のための免疫学的時間尺」を提唱。ヒトとチンパンジーの分岐を400万年前から500万年前と推定した。

1970年 沖縄の具志頭村港川で、旧石器時代人(18,000年前)の骨格化石4体分が発見される。

1978年 小山修三ら、日本地図の上に32×32kmのメッシュを置いて、縄文の時代ごとの遺跡数を集計し、地域別人口の推移を推計。縄文時代は、列島の人口の90%以上が東日本に分布していたことを明らかにする。

1980年 日沼頼夫ら、成人T細胞白血病(ATL)ウィルスのキャリアの分布を調査。九州で7.8%に達するのに対し、他地域では1%以下に留まること。中国・朝鮮では存在しないと発表。さらに琉球人では34%、アイヌ人では45%に達することも明らかになる。

1981年 分子人類学の分野でmtDNAに注目が集まる。

mtDNAの特徴: ①1細胞中に数千個あり、化石となっても残りやすい。②塩基置換は通常のDNAと比べると5~10倍早いとされ、個体間差が出やすい。③母方のみを継承するので朔及が容易。④核DNAの20万分の1で無駄な記述がないとされる。

1985年 松本秀雄、Gm遺伝子(血液型の一種を決定する遺伝子)による解析を行ない、日本人・アイヌ・琉球人の共通性を指摘。縄文人・弥生人のいずれもが北方系に属することを明らかにする。(バイカル湖云々はどうでも良いことで、南方系ではないという一点が重要である)

1986年 スバンテ・ベーボらアメリカ先住民ミイラの脳組織からミトコンドリアDNAの抽出に成功。その一部(Dループ)について塩基配列を解析する。

1987年 アラン・ウイルソンら、すべての現代人は15万年前から20万年前にアフリカにいた一人の女性を子孫とするミトコンドリア・イブ説を発表。

父系の系統をたどるためには、Y染色体の分析、或いは核DNAそのものを分析する必要がある。南米コロンビア人においては、ミトコンドリアDNAは、ほぼ全てがモンゴロイド系だが、Y染色体はほぼ全てがヨーロッパ系に特徴的なタイプであった。

1992年 茨城県取手市の中妻貝塚から約100 体の縄文人骨が掘り出される。

1994年 ハーバード大学のMaryellen Ruvolo、すべての人類の生物学的構成は近似していていることを、遺伝子解析を通じて立証する。これにより「人類は民族や人種で進化の度合いが異なる」という「多地域進化説」を粉砕。

1995年 徳永勝士、「HLA遺伝子群から見た日本人のなりたち」を発表。HLAがきわめて多様なため、読み取りに主観性が入る危険が高いことから、注目されずに終わる。

2000年 イングマン、世界のいくつかの人種についてミトコンドリアDNAの全文字解析を志向。人類展開の系統樹を提唱する。

2003年 ゲノム・プロジェクトが完成。人類の全遺伝子情報が解読され公開された。

2006年 HammerらがY染色体のゲノム解析により、mtDNAとほぼ同様の結果を得る。

日本においてもmtDNAとY染色体の頻度に差がないことから、渡来人による先住民の征服という可能性は否定された。かなり長期にわたり、棲み分けをしながら共存したと考えられる。

  

話の要点がようやく見えてきた。
縄文人というのは常識的に見て、紀元前3千年の三内丸山の人たちである。それが紀元前800~300年頃の弥生人の侵入までを生き抜いた。そして弥生人=半島からの渡来人に駆逐され同化された。という筋書きである。
となれば、それは埴原氏の言うごとく南方系ではなく、樺太から南下した人々である。
だから、琉球人が縄文の流れを汲む北方人であることが証明できれば、この推理は完成する。縄文人は黒潮の流れに逆らって、九州から沖縄にまで進出したということだ。
そしてその間、南方系の人々は、水田耕作という文化を伝えることには関与したが、日本人のDNAに影響を与えるほどには侵入していないということになる。

「弥生革命」という勇ましい表現があった。
たしかに生産様式の革命的変更があったことは間違いない。しかしそれが日本民族を形成する人種の変更を伴ったのか、もっと率直に言えば半島からの渡来人がそれを担ったのか、半島からの渡来人=弥生人と考えてよいのかという問題である。
これは日本人の形成過程における南方要素の全面否定を意味する。これまでの文化人類学者の諸説は根底から崩れることになる。また埴原の縄文人=南方系説も瓦解する。もっとも埴原説は二重構造が証明できればよいのであって、縄文人が北方系であっても、それ自体は決定的な問題ではない。

以下に紹介するのは2010年2月20日の公開シンポジウム「日本人起源論を検証する」の一部抄録である。


弥生時代の幕開け-渡来系弥生人はどうひろまったのか?
中橋孝博・飯塚 勝

 日本人の形成には弥生時代に大陸から渡来した人々が大きな役割を果たした。北部九州はその最初の入植地と見なされる。しかしそれは謎の空白期となっている。
 弥生開始期の遺跡では、縄文伝統による生活用具が大半を占める。おそらく少数の渡来人が水稲稲作文化をもって入植したのだろう。
 ところが、数百年後の弥生中期頃になると、住人の殆どが渡来人集団に占められている。縄文人が新文化を受け入れて弥生社会を形成したとは考えられない。
 当地で起きた弥生革命は、土着集団による先進文化の受容現象というよりは、渡来人が自身の人口を増やしながら実現していったものと考えられる。
 弥生革命の最初の発火点となった北部九州の変革のあり方は、列島各地に波及して行ったと思われる。

目下の感想。
日本人の起源は4段階あると考えるべきだ。
①まずは、旧石器時代に始まりBC3千年頃の山内丸山でピ-クを迎える、北方系の古典縄文人、
②その後、埴原が渡来人VS縄文人という形で提起した「縄文人」の時代。
③おそらくそれより古くから始まったと思われる、水田耕作を持ち込んだ南方系の弥生人、これも渡来人である。
④朝鮮半島から渡来した、埴原の言う「弥生人」
このうち、とくに②と③の異同が問題となるが、突っ込めば突っ込むほど、埴原の縄文人・弥生人規定そのものが邪魔になってくる。

縄文・弥生の規定は、まずなによりも食を中核とする文化の差異と考えるべきではないか、そしてまずこのグロースな把握を前提にしつつ、遺伝子解析を進めるべきではないか。そうしないと話が逆立ちしてしまう。

いつまでも、渡来民vs先住民と縄文vs弥生という二つの対概念を混同して用いていれば、ろくなことはないと思う。

2012年自薦記事を作ろうとはじめたのだが、ダメですね。みんな推薦したくなってしまう。

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ヘーゲルは手段が目的を規定するといった。
我々の日常生活においては目的が手段を規定するのだが、歴史においては手段が目的を規定し、目的を実現する中で手段がさらにステップアップし、さらに高次の目的を設定して行くのである。
食料の歴史の場合、この関係が典型的に現れる。
人類の食料は、最初は狩猟と採取の二種類であった。アダムとイブの時代ならともかく、この方法では食料を安定的に確保するのはきわめて厳しい。
採取による食糧確保は、当初は補助的なものであったが、その安定性のためにやがて主流となる。そのとき最大の価値観は通年保存できる保存性であった。この点で最も優れていたのが栗だった。だから三内丸山は栗の文化となった。
これに対し、雑穀は虫がつく、調理が難しいなどの困難を抱えているが、投下労働量に対する見返りが相当良いのだろう、最終的に人類が農耕生活に入る決定的な契機となった。逆に言えば、栗は増大する人々の食料要求にこたえ切れなかったのではないだろうか。


1978年、小山修三らは日本地図の上に32×32kmのメッシュを置いて、縄文の時代ごとの遺跡数を集計した。
小山は、オーストラリア先住民の人口変動についての研究を行った実績があり、このときの経験から作り出した独自の推計法を元に地域別人口の推移を推計した。この結果、縄文時代は、列島の人口の90%以上が東日本に分布していたことが明らかになった。

まあ、これ自体は難しい数式を用いなくても、日本地図の上に縄文遺跡をドットしていけばわかる話である。私が感心したのは小山の時代を見る目である。時あたかも列島改造華やかなりし時分、全国いたるところで地面が掘り返されていた。とすれば、全国どこでも遺跡の発見率に差はないだろうという前提が成立しうる。

例えて言えば、縄文遺跡は圧倒的に東日本に多いが、それは東日本において特別に開発が進んだということはなく、掘れる所は片っ端から掘るというイーブンな状況が存在し、それが研究者のあいだでコンセンサスになっていたのである。

もう一つ感心したのは、遺跡を時系列に沿って配列し、縄文時代の盛衰をプロットしたということである。これにより東日本の優位がベタなものではなく、何かしら必然があってそうなったことが示され、結果として東日本優位説を補強していることである。

誰にでも分かる事実から出発し理論を構築しているだけに、この理論は重みがある。いくらDNAやゲノムに基づく精緻な理論が提出されても、小山のセオリーの核心は揺るがない。すなわち典型的縄文人は北方から侵入してきたという事実である。

そして「弥生人による縄文人の征服・支配・排除・混交」などのすべての議論は小山の議論とガチンコ勝負になるのだが、そこを説明するのは小山の側の義務ではない。

「渡来人=弥生人」派の人たちはこの点についての説明義務を果たす必要がある。さもなくば「渡来人=弥生人」説の安易な導入は控えるべきである。

小熊秀雄の最後の詩か、昭和15年12月に発表された詩(遺稿)の一部。

つかれて
寝汗浴びるほど
鍬をもって私は夢の畑を耕しまわる
ここに理想の煉瓦を積み
ここに自由のせきを切り
ここに生命の畦をつくる
疲れて寝汗掻くまでに
夢の中でも耕やさん

おどろきやすい者は
ただ一人もこの世にいなくなった
都会の堀割の灰色の水の溜りに
三つばかり水の泡
なにやらちょっと
語りたそうに顔をだして
姿をけして影もない


昼の疲れが母親に何事も忘れさせ
子供は寝床からとおく投げだされ
彼女は子供の枕をして寝ている
子供は母親の枕をして――、
そして静かな祈りに似た気持で
それを眺めている父親がいる。

どこから人生が始まったか――、
父親はいくら考えてもわからない、
いつどうして人生が終わるのかも――、

ただ父親はこんなことを知っている
夜とは――大人の人生を一つ一つ綴じてゆく
黒い鋲のようなものだが
子供は夜を踏みぬくように
強い足で夜具を蹴とばすことを、

そんなとき父親は
突然希望で身ぶるいする
――夜は、本当に子供の
   若い生命のために残されている、と


とんでもないところに嵌った。
日本の古代史と日本人起源論は、日本列島論をはるかに上回る魑魅魍魎の世界。アマチュア歴史学者がひしめいている。とてもうかつにものをいえるところではない。
とは言いつつ、それだけ面白い世界でもある。
ここ数日の記載は、寝言と聞き流していただく以外にない。正月は口をつぐんで目と耳を鍛えることにしよう。ただ物覚えが悪くなっているので、素通りしていくかもしれないが…

今度の記事で衝撃なのは、アイヌと琉球人が近縁だという話より、本土人が琉球人より朝鮮人に近いということだ。琉球人を封印された原日本人とすれば、現在の本土人は原日本人ではなく朝鮮人の由来ということになる。

自分のルーツが何なのかは、実はどうでもよい話だ(嫌韓ネトウヨにとっては死活問題だろうが)。重要なのは、これが両者の混交過程がかなりシビアーに行われたことを示唆する所見だということである。
朝鮮人の血統が優位になるためには少なくとも祖先の半分以上が朝鮮人でなければならない。これは簡単な理屈だ。

なお朝鮮人といわずに「渡来人」と表現しているが、これも「縄文人」同様に誤解を招く表現だ。実際に調べたのは現代韓国人の染色体なのだから、そこから導かれる結論は、渡来人一般ではなく、任那や伽耶の「縄文期朝鮮人」でもなく、現代韓国人に直接つながる朝鮮人だということである。

アメリカ大陸では南北で白人の侵入形態は異なっている。南ではコルテスやピサロが先住民の王国を征服し、自らが支配者となった。天孫降臨である。混交が盛んに行われ、多くの国では人口の過半数を混血(メスティソ)が占めるようになった。しかし混血とは言うものの、その顔は先住民そのままである。人口比はだいたい1対5くらいではないだろうか。(カリブ諸島では先住民は死に絶えた)
それから見ると渡来人優勢のパターンというのはかなり異常である。

他方北アメリカでは先住民は混交することなく駆逐された。アメリカ人はほぼピュアーな白人である。この混交率0%~80%の中間に日本は位置することになる。

理由は二つ考えられる。ひとつは、これまで考えられていたよりはるかに多くの朝鮮人が渡来したということ、そして人口構成をひっくり返してしまうほどの徹底した簒奪を行ったということである。あるいは原日本人の数が極めて少なかったとも考えられるが…

この観点から、もう一度古代史を考えてみなければならないだろう。

なお「縄文人」という概念には注意が必要であろう。渡来人がやってきたとき、そこに先住していた人々ということであれば、原日本人と呼ぶほうが適切である。中南米の先住民(インディヘノス)はコロンブスが名づけたごとくインド人(インディオ)ではなかったのである。

縄文と弥生の違いは直接には使用した土器の形態であるが、今日では米作文化を中心とする農耕社会の到来が、弥生時代を画する指標とされていると思う。

ジャポニカの原産地が中国南部であることは良く知られており、米作文化をもたらしたものが半島からの渡来人ではないことは、さまざまな形で立証されている。
とすれば、一般的には原日本人は弥生人だったと考えるのが素直ではないか。もちろん渡来人が先で、米の伝来が後という可能性もあるが、やはり米は米作りの文化と、それを担う人々とが一式セットで入ってくるものと考えたくなる。

それでは縄文人から弥生人への交代はいつ成されたのだろうか。それは同一の人種だったのだろうか、それはまた別の問題である(多分別人種だと思うが)。

いづれにせよ、渡来人に対する対概念としての原日本人を、縄文と結びつけるのは混乱の元であろう。

この記事は紙面の下1/3を埋める大きな記事である。
見出しだけで5本もある。さらに図が四つ。さらに「1塩基多型」を解説したミニコラムが挿入されている。まさに情報てんこ盛りだ。
間宮記者の書いた文章が1/3その半分がリード、残りは研究者へのインタビューとなっている。このインタビューには独自のリードの他に三つの小見出しがついている。
とにかく読みにくい構成だ。
間宮記者は、本当はこの10倍くらい書きたかったに違いない。

今回は「核心的事実」について、学術論文風に整理してみた。

目的および方法
①研究の目的はゲノム解析の方法をもちいて、エスニックな諸集団の系統関係を整理しようというもの。
②研究の方法は、血液検体で人のゲノム上に散在するSNPと呼ばれる変異をチェックすることである。今回はアイヌ人36人(平取町)と琉球人35人について検討し、60万個のSNPをチェックした。
③また、これまでに解析された本土人、韓国人、中国人のSNPパターンと比較検討した。

結果
①アイヌ人に最も近いSNPパターンをとったのは琉球人であった。次に近いのが本土人であった。
②本土人と韓国人の類似度に比し、本土人とアイヌ人・琉球人の類似度は低かった。

考察
①これまでミトコンドリアやY染色体のDNAを用いた調査が行われてきたが、比較に用いた因子が60万という精密さは圧倒的である。(「解像度」が格段に良くなっている)
②本研究に先行するものとして、08年の理化学研究所グループの調査があり、ここでは本土人と沖縄の人のSNPに明確が違いがあること、本土人のなかでも混血の度合いに差があることが示されている。
③今回の調査結果は、琉球人とアイヌ人がともに原日本人であり、朝鮮から渡来した人々により両端に追いやられたという仮説を支持する所見である。
③アイヌ人は琉球人より個人差の幅が大きく、北方民族との混血を示唆する。

記事には、検査結果の考察からさらに踏み込んだ推測が載せられている。

たとえば混血の始まった年代が図示され、縄文人が本土人、琉球人、アイヌに分化したのが紀元前1千年前後、渡来人と本土人の混交が始まったのがそれから300~400年後となっている。したがって本土人はまず本土系縄文人として分離し、さらに渡来人と混交したのちに、あるいは混交したことによって弥生人となったということになる。

これはさすがに言い過ぎではないか。

60万もの調査ポイントを設定しているから、格段に精度が上がったと自慢するが、私としてはサンプル数の少なさのほうがむしろ気がかりだ。たとえば私が検体になったとしてこれまで身長・体重だけだったのが、視力、聴力、握力、背筋力と検査項目を増やしたからといって、日本人の特徴がより正確に分かるようになるわけではない。

60万という計測ポイントはそれ自体非常に重要ではあるが、対象が平取という町の38人の検体に過ぎないということも抑えておかなければならない。

60万を錦の御旗にして、これまでのDNA解析に基づくデータを否定するのは、早計である。とくに相反するような結果になった場合は、慎重なつきあわせが必要であろう。



日本人の起源説が覆されようとしている。沖縄の人とアイヌ民族は同根だというのだ。

たしか半年ほど前に、日本人のルーツの問題を取り上げて、日本人のルーツは基本的には中国南部に由来すると書いた覚えがある。
もちろん大本は他のアジア系人種と同じくシベリアから南下したモンゴロイドであるのだが、それが日本にまで来るには福建省あたりから船で来るのと、朝鮮半島からわたってくるのと、樺太から南下するのと三つある。

明治以来の学説は、1911年のベルツ博士の「アイヌ・琉球同系説」であり、ついで江上波夫が騎馬民族説を唱え、原日本人集団を朝鮮からの渡来者が征服し日本人が形成されたとした。
1980年代には植原和郎らが、これを縄文人vs渡来人として定式化し、「二重構造説」を提唱した。

ところが90年代のDNA研究でかなり様相が異なってきた。
縄文人という規定が適切かどうかは別として、原日本人という人種が住んでいるところにかなり大量の渡来人が入り込んで混血した。
このことは間違いないようだ。

しかし、もし弥生人を米作を担った人々というのなら、それは渡来人ではない。渡来人は日本に米作り文化が定着した跡に「降臨」したに過ぎないということになる。

しかもこれらの仮説は、日本人と琉球人との関係を説明するには役立つが、蝦夷や現代のアイヌ人の成り立ちを説明することにはならない。

樺太経由で南下してきた北方民族は単一ではない。東北北海道の気候は農業には厳しく、周期的に激変した。一時栄えた部族も絶滅し、代わりの集団が渡来した。そうやって何次にもわたり積み重ねられてきた可能性がある。
ヤマトタケルと闘った人々、埼玉のワカタケルの剣の持ち主、アテルイら田村麻呂とたたかった人々、そして中尊寺の安部一族、十三湊の安東氏が、現在のアイヌと同じ民族であったという保証はない。

そしてDNA分析の結果は外見上の類似にもかかわらず、アイヌと琉球人のあいだには遺伝的近縁関係は認められないというものであった。

ずいぶん長い前置きになってしまったが、私にはそれくらい強烈な理論なのだ。

私にとっては、琉球人は琉球民族ではなく日本民族であり、アイヌ人はアイヌ民族なのだ。人類学的な所見がどうであろうと、そうなのだ。しかし多少混乱はするわな。

記事の紹介はまた明日にする。もう10分で日付が変わる。吹雪いてきた。起きたら雪かきが待っている。

西部地域の経済発展センターを目指す「重慶モデル」


張紀潯  日本重化学工業通信社「アジアマーケットデビュー」

この記事は作成日時が記載されていない。内容から見ると2009年半ばに書かれたものと思われる。重慶モデルが注目され始めた最初期のものであろう。

 

西部地域の経済発展センターを目指す「重慶モデル」

1997年に直轄市 設立以降の10年間、重慶市は年平均10%以上の経済成長を続けてきた。08年の経済成長率は14.3%で全国平均値の9.1%より5.2ポイントも高くなっている。

今年に入って中国の新聞は、「重慶モデル」という用語を使い始めた。いったいどのような特色をもつモデルだろうか。

ここではその発展要因を、①産業構造、②経済の牽引力、③人的資源、④政府の役割、という四つの角度からみたい。

①潜在的な競争力をもつ重慶の産業構造

重慶の工業は重工業を主とする各部門が揃い、補完能力に優れている。抗日戦争がはじまった後、国民政府は都を重慶に移し、工業企業が次々に重慶に移ってきた。近年は、軍需産業をベースに誕生した自動車、オートバイ産業が急成長を遂げている。

重慶での外資系企業の生産額は重慶工業生産総額の 20%にすぎない。重慶は外資系企業と輸出貿易への依存度が相対的に低いため、世界的な金融危機の影響を免れている。

表5 2007年重慶の重要な工業製品

主要な工業製品

生産額

前年同期比±%

 石炭(万トン)

2,711.65

13.2

 天然ガス(億m³)

5.00

15.9

 発電量(億KW)

351.96

26.4

 鋼材(万トン)

436.57

13.9

 アルミ材(万トン)

81.13

20.0

 セメント(万トン)

2,819.92

11.0

 化学肥料(万トン)

154.20

18.3

 自動車(万台)

70.80

36.2

  うち 乗用車

41.80

58.9

 オートバイ(万台)

638.25

19.9

 タバコ(億本)

426.00

4.9

 ビール(万リットル)

76.49

7.5

②旺盛な投資と消費

重慶の固定資産投資は終始一貫2ケタの伸び率を保ってきている。07年度の社会消費品小売総額は、前年同期比18.4%増加している。さらに内需拡大政策の実施により、都市と農村住民の可処分所得が向上し、消費環境が大きく改善された。重慶経済への貢献率は24.1%に達している。

③経済格差を経済発展の原動力に変える人的資源

重慶市と沿海地域との経済格差が逆に重慶の経済発展を促す原動力になった。

全社会固定資産投資、社会消費品小売総額、輸出(外資導入)という三大需給関係から沿岸部と比較すると、まだ大きな格差が残されている。とくに輸出(外資導入)は大きく立ち遅れている。

07年に重慶市の常住人口が2,816万人に達 しているが、農村人口は60%以上を占めている。つまり工業都市でありながら、農業都市でもあり、多くの潜在労働力を抱えていることになる。

労働力の供給が豊富だけでなく、労働コストが安いという優位性をもっている。重慶市の従業員年平均賃金広州、上海、北京の約半分である。また重慶の工業用地価格は、北京、上海の3分の1程度で ある。

④経済成長を促す政府の役割

07年10月に中国商務部長を務めてきた薄煕来が重慶党書記として着任した。

薄書記は外資導入の拡大、農村改革、山峡ダム移民対策、都市建設、低所得層の底上げという五大政策を打ち出した。なかでも外資導入と都市建設(緑化)に力を入れており、大連モデルを重慶に適用しようとした。

結果として外資導入増加が際立っている。2008年の外資導入は27億ドルで前年比2.5倍に達した。また金融危機の対策として、都市インフラの整備が進められた。これは雇用創出、内需拡大、不動産活性化をもたらした。

重慶は農村経済を重点的に発展させるために、産業構造を調整し、農民工を大量に雇用する サービス業を優先的に発展させた。農民収入の増加が前述の個人消費と固定資産投入の増加につながっている。

習近平体制が発足するのにあわせ、その目指すべき経済モデルが注目される。

そのありようを示唆する一つのこころみとして、習近平の右腕と目された薄熙来による「重慶モデル」がある。24日の赤旗によると、重慶モデルは三つの柱からなる。

1.毛沢東の文化大革命の復活。文革当時の革命歌をうたう「唱紅歌」運動で、「人民の精神を奮い起こす」キャンペーン。

2.「打黒」キャンペーン。暴力団一掃のためと称し、民主的手続きや法律を無視した強権的捜査。

3.「共同富裕」のスローガンの下、低所得者向け住宅の建設など民政改善政策を進める。

そして、中央は「重慶モデル」を全面否定。温家宝首相が文化大革命の復活と封建制度の復権は許さないと力説した、と報じている。

はたして、この批判は当を得ているのだろうか? 率直に言って疑問を抱かざるを得ない。

第一に、習近平や薄熙来など太子党の連中は、親子ともども文化大革命ではひどい目にあっているはずだ。むかしの革命歌を歌って大衆を鼓舞したからといって、文革を再現しようとしたとは到底思えない。

薄熙来のやりかたが相当強引だったことはたしかだろう。その過程で蓄財にいそしんだ可能性も否定できない。ただ何をやろうとしたかという意味では、3.の「共同富裕」が唯一論争の対象とすべき問題だろう。それは暗に中央の経済政策に対する批判ともなる。

四川省の人口はきわめて多いが、その暮らしは依然としてきわめて貧しい。中国の経済発展の矛盾が集中して現れているところだと思う。逆に言えば、もっとも発展の可能性が残されている場所でもある。

そこで「共同富裕」の観点に立つ経済政策を実行しようとすれば、北京や上海にとってはあまり面白くはなかろう。「薄熙来が独立王国を作るのではないか」との疑心暗鬼に駆られたとしてもおかしくはない。

どうもそんな考えがして仕方ないのだが…

以前、安本美典さんの「神武東征」を読んですっかり信者になってしまった。
安本さんの説は、天皇の在位が長すぎるということに尽きる。在位期間がはっきりしている後世の天皇と比べると数倍の長さだ。これを常識的な長さに縮めると、神武天皇の即位は西暦300年前後だ。たしかに神武東征を西暦300年頃とすると、分かる話が多い。

神武以来の経過を記した日本書紀は、現代につながる文書として残されている。史書として扱おうという人たちもたくさん居る。それに対して邪馬台国は卑弥呼はあえて言えば、存在したという事実さえ分かればそれで良いとさえいえる。

それが、「日本書紀は800年サバを読んでいる」ということで学問的合意が成立すると、ある程度史書として読めるようになり、大助かりだ。
とにかく邪馬台国が西暦300年頃には崩壊していたようだ。神武の一族が邪馬台国の政権中枢とどういう関係にあったかは知らないが、とにかく邪馬台国の勢力範囲内に居たことは間違いない。そこから海路東にくだり、迂余曲折の末、大和盆地に根拠地を構えた。

それから数代を経て、神功皇后が登場する。そしていわゆる三韓征伐を行う。ここが再び日本が世界史に登場する時期となる。この三韓征伐が朝鮮側の資料で確認できれば、時間の空白は埋まり、大和王朝の全国支配が確定されることになる。

神功皇后の治世は69年にわたっており、これは明らかに嘘だろう。
ただ日本書紀は『百済記』と照合しており、これは西暦と照応している。ただ干支なので120年ごとに同じ日付が繰り返される。それによると三韓征伐の文献的事実は明らかに存在し、一番古いもので西暦上は246年または366年となっている。
しかし246年であれば、卑弥呼の記事との整合性は難しい。したがって366年と読むのが妥当だろう。

こうなると、安本さんの言うごとく、九州の邪馬台国がいったん滅亡し、その系統を継ぐ可能性のある神武一族が長駆近畿に攻め入り、大和王朝を創設した。そして50年ほど後に九州をも平定し全国政権となり、さらに新羅へも攻め込むという時間的経過になるのではないだろうか。

神功皇后は卑弥呼と同じくシャーマンの色彩が濃厚であり、仲哀天皇に対してクーデターを起こしたのは武内宿禰であっただろう。天皇家はもともと九州に土地勘があり、熊襲進攻を主張したのに対し、もともと新羅系の出自と思われる神功皇后は新羅への進攻を主張し対立したのではないだろうか。

三韓征伐の後、神功皇后らは、地元が不穏になったのを聞き、大和に戻っている。この後『百済記』では382年にも再度新羅進攻があったことが確認されている。

と、分かったようなことを書いたが、ウィキペディアによると、新羅は有史以来日本の侵略を受けっぱなしで、台風のように日本軍(といっても海賊みたいなものだろうが)がやってきては首都を攻められているようだ。これではどれが神功皇后の関連か分からない。

youtubeに誰かがレイボヴィッツ・ロイアルフィルのベートーヴェン交響曲全集をアップしてくれた。しかもAAC195kbpsという飛び切りの音質で。
「音色は今なお古さを感じさせない」とよく言われるが、それどころではない。RCAのダイナグルーヴ録音の精華だ。

高校三年のときに買ってもらった。リーダーズダイジェストで信じられない値段で全集が出るという、チラシを枕の下に敷いて寝たものだ。
豪華なボックスを開けると、何枚ものレコードから“レコードの匂い”がしたものだ。

何十回となく聞いたから、フェルマータの延ばし方からアッチェランドの持ち上げ方までまで良く分かる。自分としては、レイボヴィッツがベートーヴェン演奏の基準として刷り込まれている。友達がワルターだのカラヤンだのといっても、貧乏人の神様はレイボヴィッツだ。絶対口には出さないが…


青空文庫で川端康成の作品を探したが、「有がたうさん」どころか、何も載っていない。
代わりに宮本百合子の川端批判があった。「東京朝日新聞」の 1932(昭和7)年1月28~31日号に載ったものらしい。

一九三一年は、日本をこめて資本主義世界の一般的経済恐慌が、金融恐慌にまで発展したすさまじい一年間だった。
 特に一九三一年の後半期は、ブルジョア独裁がブルジョア文化の全機能をひきいてはっきりとファッショ化した点で、日本の歴史的モメントであった。
 支配階級とともに急速にファッショ化したのは、大衆作家直木三十五や三上於菟吉ばかりではない。川端康成もこの「抒情歌」で、ファッシズムのために道をひらく危険にさらされている。


と大上段に振りかぶり、川端をファシストないしその類として一刀両断にする。

現実の激しい社会生活から遊離した川端康成の主観玩弄の癖は一つの特徴だ。有閑なブルジョア・インテリゲンチアらしく脳みそは一秒間にどれだけ沢山のものを連想し得るかを暇にまかせて追求し主観の転廻のうちに実現と美を構成しようとしている。

そして、川端にブルジョア文学者というレッテルを張った上で、

ブルジョア・インテリゲンチアが政治的危機においては、その紛糾をいとわしいものとして避けようとする。…ブルジョア文学はブルジョア階級のがたつきと一緒に、美のうちにあるべき正しいいきどおりという理論を失っている。

と喝破する。
まぁ、当時の雰囲気の中で読まなければならないだろうが、ずいぶんきつい物言いである。ただ百合子にとっては、「かわいそうだね、でも僕には関係ないよ」という態度が許せなかったんだろうね。

戦後、川端はペンクラブの会長として反ファシズム運動を担ったこともあるが(おそらくその功績をふくめてのノーベル賞であろうが)、やがて「美しい日本」の提唱者として右翼のイデオローグに再転回していく。そこに、高見順との違いが基層の相違として見えてくるようだ。

書評欄のもう一つは 森善真 著 「啄木の親友 小林茂雄」という本の、望月善次さんによる書評

小林の名を多くの人に知らしめたのは、「一握の砂」のなかの

近眼(ちかめ)にて
おどけし歌をよみ出(い)でし
茂雄の恋も悲しかりしか


という歌だそうだが、

その自家本に、啄木の妹、光子がこう書き込んでいたそうだ。

誰が破りし恋ぞ、
詠み人にあらで


こうなると、俄然、話は怖くなってくる。
「誰が破りし恋ぞ!」だけでも十分きついのに、さらに「お前じゃないか!」と追い討ちする。
光子さんは、この一件、よほど腹に据えかねているようだ。

ひょっとすると、題名の「啄木の親友」は、「啄木の『親友』」と書き換えなければならないのかもしれない。これから啄木を読むときは「光子の眼」が必要になるだろう。

書評欄のもう一つは 森善真 著 「啄木の親友 小林茂雄」という本の、望月善次さんによる書評

小林の名を多くの人に知らしめたのは、「一握の砂」のなかの

近眼(ちかめ)にて
おどけし歌をよみ出(い)でし
茂雄の恋も悲しかりしか


という歌だそうだが、

その自家本に、啄木の妹、光子がこう書き込んでいたそうだ。

誰が破りし恋ぞ、
詠み人にあらで


こうなると、俄然、話は怖くなってくる。
「誰が破りし恋ぞ!」だけでも十分きついのに、さらに「お前じゃないか!」と追い討ちする。
光子さんは、この一件、よほど腹に据えかねているようだ。

ひょっとすると、題名の「啄木の親友」は、「啄木の『親友』」と書き換えなければならないのかもしれない。これから啄木を読むときは「光子の眼」が必要になるだろう。

昨日たまたま、寝しなにテレビのスイッチを入れて、思わず映画に引きずりこまれた。
「有がたうさん」という不思議な映画で、山田洋次のお勧めということでテレビにかかったらしい。
途中からなので、まったくそういう背景は分からなかったが、とにかく絵がなつかしくて見始めた。これは間違いなく戦前だなと思った。
どことなく見覚えのある風景で、でもこれは古すぎる。自分の子供のころには、どこかにガラス窓やトタン屋根やベニヤ板があったり、大きなお屋敷は塀囲いで瓦葺だったりしていたと思う。
もう一つの違和感は、なにか豊かなのである。羊羹を乗り合わせた客に振舞うなどありえない話だ。バスがずいぶん豪勢だ。自分の頃は「田舎のバスはオンボロ車」という歌のとおり、ひどいものだった。木炭自動車も記憶にある。盛大に煙が上がり始めると、運転手さんが自動車の前にクランク型の金具を差し込んでぐるんぐるんと回すとエンジンがかかるという仕掛けだ。
その辺の理由は話が進んでいくにつれ分かってきた。このバスは乗り合いバスではあるが峠越えの長距離バスなのである。だからバスも外車なのである。現地の人も乗るには乗るが、それは本家の旦那さんと奥さんであり、使用人や女子供ではない。

いまの人にはわかりにくいかもしれないが、マイカーが普及する前は路線バスも長距離バスだった。私の家の近くを走る路線バスにも御前崎行きというのがあった。そういう長距離だからこそ、バスに乗ったのである。10キロまでの距離なら歩くか自転車に乗るのが常識だった。だからこの映画でも、乗客が平気でバスを降りて歩き始めるのである。

鉄道もそうだった。東京に行くのに東海道線に乗るのだが、これは各駅停車だった。袖師も根府川もしっかり停まった。だから東海道線の駅の名前は全部言えたのである。

そういうわけで、路傍の人にとってはかなり非日常的な世界だが、まったく異次元というわけでもない、という「よそゆき」の関係がバスの中と外にはある。

そういうことが時間の経過とともに徐々に分かってきた。

この運転手は良い人だ。快活で朗らかでやさしい。ただ、現実に対して物分りが良すぎる。辛い現実や不正義に対しても、それを認識しつつ「そういうこともありだな」となってしまう。チョゴリを着た女性労働者にも、惜しみなくやさしさを与えるが、結局は他所の社会である。

彼のやさしさがわかるから、そのもどかしさが徐々に募ってくる。そして最後にそのもどかしさが一挙に解決されるのだが、このあたりは映画屋さんの腕なのであろう。

すこしネットでこの映画の背景を調べてみた。原作は川端康成。「伊豆の踊子」が天城峠を下田のほうに進んで行くのと反対に、下田からの帰り道の途中の見聞を短編小説にしたもののようだ。行きは旅芸人たちと一緒に歩いて峠越えをしたのが、帰りは疲れたとみえてバスで帰る寸法だ。

川端もまた「浅草紅団」など浅草物を残している。情景の掬い方や、人情の機微の描き方などさすがに上手いのだが、どうも高見順と違って上から目線のところがある。ファインダーを通して周囲を見渡すような、アリの巣穴を覗き込んでいるような、みずからの立ち位置がどうも気になるのだ。

だからこの映画の監督は、あえて役者にせりふを棒読みさせて、登場人物があたかも書割のような類型的存在だと強調しつつ、最後に小説とは別のどんでん返しをつけくわえて、操り人形のごとき主人公に生命を吹き込んだのではあるまいか。

この映画が作られたのが昭和11年、私が生まれる10年前だ。その10年は恐ろしい激動の10年であったが、たった10年でもある。大恐慌をようやく抜け出て、何とか息をつき始めた時期だ。そのかわり左翼は根絶やしにされ、世の中がどんどん軍国化し始めた時代だ。翌年には支那事変が始まる。5年後には日米開戦が迫っている。

安堵と鬱屈がないまぜになった時代、「自由」と「豊かさ」が最後の残り香を放ったつかの間の日々、そういう時代に「明るく、やさしく」生きる道はこんな風にしか存在しなかったのかもしれない。そういう時代は真っ平だ!






本日の文芸欄はなかなか面白い。
一つは安久津英 著 「方代を読む」 の中野和子さんによる書評

ほいほいと ほめそやされて
生命さえほめ殺されし人が
ありたり


この歌の作者が山崎方代という人。

昭和16年に召集され、台湾、シンガポール、ジャワ島を経て、チモール島で戦傷し野戦病院を転々とし、ふたたび戦場に出て右眼失明、左眼視力0.01。終戦後、病院船で帰還した。


という経歴の持ち主だ。




 

「ラプソディ・イン・ブルー」と書いてあるから、日本人の方だろう。
youtubeにプレヴィンのピアノ、コストラネッツ楽団のラプソディ・イン・ブルーをアップロードしてくれている。アップロードの音質もすばらしいが、やはり原音がよいのだろう。現役盤に負けない音だ。
この録音は確かFMで聞いている。たぶん、これでプレヴィンの名前を憶えたのだろうと思う。この演奏といい、モートン・グールドの演奏といい、とにかく当時のアメリカ・メジャーのレコードは滅茶苦茶音がよかった。とくに金管楽器はすごかった。
ジャズ系の人は50年代後半のビニール盤が今でも最高の音だという。

いっぽう、クラシック系の人は、アメリカは人工的に音をいじっているとくさし、EMIが一番中音重視のナチュラルな音作りをしていると主張し、ウェストミンスターやアルヒーブを後生大事にしていた。
いま聞いてみるとたしかに、当時のアメリカの録音はドンシャリで、弦の音はつぶれてひしゃげている。しかし音そのものはしっかり捕まえている。

ヨーロッパ系の音は、はるかにひどい。スピーカーに座布団をおっかぶせたような音しかしない。これを中音重視のナチュラルな音作りというのは、「惚れた欲目にゃあばたもえくぼ」とは言え余りに強引である。

ヨーロッパ系だって、デッカはFFRRといって随分良い音を出していた。フルトヴェングラーがドロドロのくぐもり声の録音していた頃、ワルターがデッカから出した「大地の歌」やコリンズのシベリウスや、ベイヌムのブラームスはいま聞いても十分OKである。

アルコールのせいで話があらぬ方向に行った。とにかくこの演奏を褒めなければならない。


アンドレ・コステラネッツ(1901~1980)はサンクトペテルブルクの貴族の家に生まれ8歳でピアニストデビュー、その後指揮を学び、マリンスキー劇場の副指揮者を経て1922年にアメリカへ移住。自らオーケストラを組織し、いわゆる軽めのクラシック音楽や映画音楽、ムード音楽といった分野の録音を数多く残しています。
この演奏は、1960年3月25日 ハリウッド リジョンホールでのスタジオ録音だそうです。

当時バリバリの現役のジャズピアニストとして活躍していたアンドレ・プレヴィンの活気に溢れ即興的なピアノは、まさにラプソディックそのものです。

…だそうです。
「ラプソディー・イン・ブルー」を聴く7



先日お亡くなりになった福原真志さんの「裸婦」です。
絵の迫力に圧倒されました。青が良い。
行きつけのバーに何年も飾ってもらっていたのですが、扇情的なのでしょうか、嫌がる客も結構居たそうで、マスターもがんばったらしいのですが、ついに撤去されました。
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手持ちのデジカメでは心霊写真風にしか写りません。

ビルマ情報ネットワーク(BurmaInfo)

というサイトに

高見順を知っていますか?(2005年11月25日配信)

 という文章がある。田辺寿夫さんという方が書いたものだ。

すこし紹介しておく。

高見順という作家がいた。1907(明治40)年福井県三国町生まれ。1965(昭和40)年没。太宰治らとほぼ同時代に作家として活躍した。一高から東京帝国大学英文科に進んだインテリであり、学生時代からマルキシズムの影響を受けた文筆活動を開始した。左翼くずれのインテリの苦悩を描いた『故旧忘れ得べき』(1936)や浅草を舞台に庶民の哀歓を描写した『如何なる星の下に』(1940)などの長編小説が代表作としてあげられる。

その高見順はビルマにも行っていた。陸軍報道班員として徴用され、1942年1月頃から始まった日本軍のビルマ侵攻作戦に帯同した。それから1年ほど日本 軍軍政下のヤンゴン(ラングーン)で、新聞・雑誌の編集・発行、ビルマ文学作品や映画の検閲などにかかわった。ビルマの文化人や知識人との交流もあった。

日本軍のアジア侵略を「東亜の解放」をめざすものとして正当化し、それを出版物や催し物を通して占領地の人々に宣伝をするという報道班員の本来の任務をはたしながら、高見順はビルマ、ビルマ人、ビルマ文化について実によく勉強をした。それは検閲や宣撫のために必要だからという範囲をはるかに越えている。

田辺さんという方、存じ上げないが、すばらしい文章力だ。要点を書き抜こうと思ったが、まったく文章に無駄がない。高見順が「独裁者」を鑑賞できた理由も、ビルマで英軍の没収資産を点検したとすれば納得される。(後付注: ウィキペディアによれば、高見順1941年ジャワ島でイギリス軍からの押収品の中に『独裁者』のフィルムがあり、それを見た )

もう少し続ける。

高見順は戦争当時の日記を公刊するにあたって次のように複雑な心境を吐露している。

「この巻は私にとっていわゆる戦争協力の証拠をさし出すようなもので、こっそり捨て去ったほうが利口なのにとおもう人があるかもしれないが、これが当時のいつわらざる私の姿なのだから、そのままそっくり公開することにする」(第二巻上序)。

結論のところで田辺さんはこう書いている。

その題材なり、作品のトーンなり、込められた主張なりは、これはもう誰がどう読んでも「戦意高揚」、「戦争協力」以外のなにものでもない。陸軍宣伝班員としてはこのようにしか書けなかったのだろう。

とあるが、「このようにしか書けなかった」から、こう書いたのかは疑問が残る。そこがチャプリンへの「罵倒」という話と結びついているからだ。

思想的「転回」の事実はもう少しシビアに見るべきではないか。だから、そこからの総括を通じて、戦後の進歩的文士としてのゆるぎない立場が形成されたと見るべきではないだろうか。

蛇足だが、田辺さんの紹介してくれた高見の日記の抜粋を読むだけでも、高見が現地の人を見る目の、“目線の低さ、立ち位置の低さ”と、良い意味での好奇心、“学ぶ”姿勢が印象的だ。

浅草の浮き草稼業の人々を見る目と、それはつながっている。ここに高見のもつ本質的な確かさを感じる。

恥ずかしながら知らなかった。
最近は小説などトンと読まぬが、高校時代は高見順は大好きな作家の一人だった。浅草モノの本を片手に六区の裏通りをほっつきまわったこともある。

赤旗で日本チャプリン協会会長の大野裕之さんがチャプリンのエッセイを書いている。
その中の一節で高見を鋭く批判した。

戦時中に作品を見た作家の高見順は、連戦連勝のヒトラーに立ち向かうのは何事だとばかりに、映画「独裁者」を「天に唾を吐くがごとき行為」と罵倒した。
むろん、天に唾を吐いたのは高見の方で、歴史はチャプリンの正しさを証明する。


このことを高見がどのくらい恥じていたのか、あるいは恥じることなく忘れ去ったのか。かつて高見に限りなく共感した私の責任として、そこは押さえておかなければならないだろうと思う。

笹野一刀彫が赤旗で紹介されていた。初めて聞く名前である。
記事にちょっと惹かれた。千数百年前からの伝統工芸だというのである。
千数百年前といえば坂ノ上田村麻呂より古い。その頃は沼垂(新潟)以北は毛人の国であったはずだ。それではアイヌの工芸と何か脈絡があるだろうかと気になった。刀のことを「サルキリ・チジレ」というそうで、いかにもアイヌっぽい呼び名だ。

しかし調べてみると、どうも関係はなさそうである。プロトタイプは鷹の一刀彫らしいが、それが発展してさまざまなバリエーションがあるようだ。貧弱な知識で偉そうなことはいえないが、鷹猟は基本的には大和朝廷の文化だろう。それが中世以降は武士にも広がっていった。生業というよりは支配層の文化のひとつと思われる。
ただ鷹探しはけっこうな知識と技能を要する職業のようで、古くは能代あたりの毛人が朝廷に献上したり、鷹探しが北海道に入り、その片割れがシャクシャインの反乱に参加したりしている。そういう意味では鷹の供給地として蝦夷、ないしアイヌは鷹とかかわっていたといえる。

笹野一刀彫にはいろいろ流派や家元があったりして、ただの民芸品とか、農家の手遊びというレベルのものではない。鳴子のこけしと似たところがあって、一種の美術品として評価されているようだ。

なせそうなったかというと、笹野という村は直江兼重(信州上田の出身)という戦国武将の家臣たちが住んでいたところで、農民といっても元はひとかどの武将であった人々の住むところだからである。赤旗の取材した人も6代目・戸田寒風という立派な雅号の持ち主である。米沢にはほかに相良人形というのもあって、これも武士の副業だったようだ。

直江兼重は没後は、あまり地元では評価されなかったようで、家臣達も笹野という村に押し込められた。笹野は現在では米沢と街続きになっているが、当時は米沢盆地の西のヘリの純農村、山裾に笹野観音を祭った寺があって、その門前町だったようだ。なかなか立派な構えのお寺で、お参りする人も多かったろうと思われる。おそらく一刀彫は観音様の参詣のお土産みたいなものだったのではないか。

鷹狩は五代将軍綱吉の時代に公式には禁止されたが、その後も武士の精神の象徴の一つとして鷹が尊ばれたため、一刀彫も鷹をシンボルとするなど独特な発展を遂げたのであろう。

幕末になって上杉鷹山が直江を再評価したという。ことのついでに、旧家臣のすむ笹野の一刀彫を鷹の字にちなんで持ち上げたのだろう。直江はいまでは米沢市民の精神的象徴となっているとのことだ。

ということで、アイヌとの関連はあまりなさそうだが、それなりに勉強にはなった。なにせにわか仕込みで間違いも多々あると思う。お気づきの方はご指導をお願いしたい。

「千数百年」の記載について

「千数百年というと、坂ノ上田村麻呂より古い」と書いたが、笹野民芸館のホームページを見ると

千百余年前、坂ノ上田村麻呂が東征の際、戦勝祈願に開基した千手観音と共に信仰玩具として興ったとされています。

と書いてある。千数百年というのは間違いだ。
しかしこの間違いは赤旗記者の責任ではない。

この民芸館の記載の上には「千数百年」と書いてあるし、記事の見出しにも「千数百年」と書いてある。
民芸館の方がもう少し丁寧に書いてくれれば、こういう間違いはせずに済んだのだが。


ヴァント・NDRのベートーベン7番、8番を聞いた。クライバーで決まりと思っていたが、世の中広い。
最初はごつい演奏でなんだと思っていたが、聞いているうちにすごいことになってきた。
セルとクリーブランドを想い起こしたが、すこし違う。
なんと言っていいかわからないが、とにかくハーモニーはもとめない。リズムを厳格に守ることが第一、すべての音をしっかり出しても、リズムが狂わなければ音は濁らないという確信がある。
後はすべてのメロディーラインを、徹底して引き出す。ティンパニーさえメロディーに加わる。そして結果としてそれらが響きあえばいいわけだ。
したがって音はシンフォニックというよりポリフォニックに響く。弦楽四重奏曲を聞いている感じだ。
8番の第一楽章の展開部など、まるでモーツァルトのジュピターを聞いている気分になる。終楽章のコーダは不思議な音がするが、「これでいいのだ」と強烈に主張する。
オケもすごい。NDRなど二流と思っていたが、ウィーンフィルにはこんな演奏などできないだろう。

ただ、おもしろいかといわれると、「たしかにそこが弱点ではあるね」と答えざるを得ないところもある。

「検証 超円高」は、不況・デフレ・円高の三社関係についてイマイチすっきりしないまま、円高の下で大企業が何をしているかという問題に移ってしまった。

ただ今日の記事でわかったのは、輸出減少の原因が円高でも、中国問題でもなく、生産の海外移転によるものだということを明らかにしている。(間接的には円高の反映でもあるが)

図表から読んでいるのでアラアラの数字にしかならないが、リーマンショック後に海外生産比率が急増している。
製造業全体で09年度31%から11年度34%と3%の増加だ。二択の比率だから国内生産は3%減少していることになる。自動車は33%から36%へ増えている。
そしていま話題の電機は44%から49%に一気に5%増えている。つまり国内工場のリストラは、不景気のためではなく海外への移転のためなのだ。その御三家がソニー・パナソニック・東芝ということになる。

政府の対応は股裂き状態だ。「円高対応緊急ファシリティ」は海外での大企業のM&Aを後押ししている。
そのいっぽうで、「昨今の円高はさらなる国内事業環境の悪化を招き、国内設備投資の縮小を招く可能性がある」(ものづくり白書)と危惧する声もある。

GDPの基幹を成す鉱工業生産が年間1%強のスピードで落ちていけば、数年後には生産の危機を迎えることは明白だ。オバマの言うように、海外に出て行く企業にはペナルティを科す、少なくとも優遇はしない、くらいの態度をとる必要がある。
民主党政権は連合を基盤とする政権であり、その故に自民党以上に大企業よりだったことは間違いない。しかし自民党も早くも財界に尻尾を振っており、期待はできない。そもそも大企業本位の流れを作った張本人が小泉だったのだから。


Organisation for Economic Co-operation and Developmenthttp://stats.oecd.org/Index.aspx?datasetcode=SNA_TABLE4#

から拾った数字。

日本のPurchasing Power Parities (PPPs)の推移。1ドルの使いでが何円くらいかという数字。

'83 217円  '88 195円  '93 183円  '98 166円  '03 139円  '08 116円  '12 103円

実質的な円高は大きな変動もなく着実に進行している。アメリカ人観光客にはあまりうれしくない数字だろうが、この30年間にドルの使いでは半減したことになる。この数字を見ると、コザの目抜き通りで、店にも入らず、通りにたむろする海兵隊員の姿が眼に浮かぶ。

次が為替の変遷で、概数である。

'83 230円  '88 130円  '93 125円  '98 130円  '03 125円  '08 100円  '12 85円

で、時に円買いブームのオーバーシュートはあるものの、長期に見れば、購買力平価にほぼ平行していることが分かる。

そのなかで、(95年末の80円割れを除けば)、90年頃からリーマンショックまでの20年間は、かなり人為的に抑えられていた可能性もある。したがって今回の円高は、その跳ね返りとも取れる。

結論として、円高の主要な原因は長期にわたる持続的な円の購買力平価の上昇にある。その上で、動きを抑制したり、オーバーシュートしたりする短期的な要因が絡んでいるという見方が正しいだろう。

なお、為替レートとの乖離要因についてはたくさん説があるようだが、円安の方向にシフトさせているという点では同じだ。


購買力平価というのが良く分からない。

OECDで出している統計だから、心情的にはドルを基準としているのだろうと思う。アメリカ人になったつもりでこの数字を見なければならない。

たとえば外国へ行くとする。現金で払う機会は、タクシー、食事、コーヒー、ビール、ミネラルウォーターというところか。私が行くのはたいていは途上国だから、一般的には物価は安いことが多い。韓国なら1/5、中国なら1/10くらいだろうか。もっともだいぶ前の話だが。
逆にユーロ圏に行くと物価が高いのに驚かされる。アメリカでもマイアミ空港のスタンドバーでビールの小瓶が1本で5ドルもしてびっくりした。

そういう日本も一昔前は1ドルの実勢価値は約180円といわれていたから、現在が110円であれば、ドルに対する価値は1.5倍くらいに上がっていることになる。当時の為替相場が120円見当だったから、結局、実勢価値と為替相場は約1.5倍の乖離=実質的円安を伴いながら、平行して1.5倍円高に振れたことになる。(この“構造的”乖離の原因については、それ自体としての検討が必要であるが、この際はパスする)

とすれば、投機資本の撹乱はありつつも、結局円の実質価値が上がったことが円高の原因ということになる。これはデフレーションである。
デフレーションはそれ自体は価値中性的なものであり、一つの均衡状態からもう一つの均衡状態への移動である。移行過程においてはさまざまな事象を呼び起こすが、あるところに落ち着けば、それはそれとして一つの状況である。

むしろ、その移動が何によってもたらされたかによって、表現のしかたは変わってくるだろう。一般的には、デフレをもたらすものは過剰所得か過少消費か、あるいはその組み合わせである。そして富の不均衡、分配の不均衡が過剰所得と過少消費をもたらす。そのゆえにデフレーションは社会病理現象となることが多いのである。

うーん!
たしかに購買力平価という概念を挿入することによって、かなりすっきりしたぞ。

円高の原因は富の不均衡にあるのだ。

だれか、経済学者(エコノミストでなく)がこのアイデアを立証してくれないかなぁ。

アレキサンドル・フォン・ツェムリンスキの名前は憶えておいたほうがよい。
名前はご大層だが、実態はどこの馬の骨とも分からぬユダヤ人。
シェーンベルクの義理の兄だが、シェーンベルクほどに世渡りは上手くなかった。ベルク、ウェーベルンをふくむ新ウィーン楽派の仕切りをやっていたが、今ではすっかり陰に隠れている。

理由は彼の曲を聴けばわかる。ブラームスも真っ青というくらいのウルトラ保守派なのだ。この人が第一次大戦後のベルリンでクレンペラーのアシスタントをやっていたなんて、信じられますか?

しかし保守派で何が悪い、何もみんな世紀末派にならなくたっていいだろう。一人くらいヨゼフ二世に殉じたって良いだろう。
ありがたいことにyoutubeで代表作のいくつかが聞ける。抒情交響曲はなかなか良い。マーラーより良い。
今後上演機会が増えて行けば、けっこうフアンもつくのではないか。

2回目は投機筋が円を買う理由。今宮謙二先生がこの連載にかかわっているようだ。
三つが挙げられている。
1.経常収支
貿易収支は赤字構造化したが、所得黒字が増えて経常収支を押し上げている。日本は約10兆円(1千億ドル)の黒字、これに対しアメリカが5千億ドル、EUが1千億ドルの赤字だ。これなら円に群がるわけだ。
2.外貨準備
日本の外貨準備は1兆ドル強。中国に次いで世界第二位。その9割が米国債であり、円の強さはドルで補強されている。
3.対外純資産
対外純資産残高(海外勢による対日投資を引いたもの)は、国としての余剰マネーを意味する。
対外資産・負債残高は250兆円。これは21年連続でダントツの世界一。

ここまではよく整理されており、良いのだが、これは日本のパーフォーマンスが意外に悪くないのだぞという事実であって、それ自体は投機筋が円を買う理由にはならない。

おそらく、それに付け加えて、ドルにきわめて忠実であること、円とドルとがエクイヴァレントと考えられていることが大きいのではないか。

さらにそのあとの今宮先生のコメントもちょっと引っかかる。

対米従属は安保条約第二条、「日米両国は国際経済政策における食い違いを除く」という条項のためである、と指摘しているが、そう単純なものではないだろう。それでは中国が米国債保有ナンバーワンという事実が説明できない。これについては2011.10.25のブログ記事
「弱者の自由」の実現が真の自由化だ: 「国際通貨」パネルディスカッションの読後感」を参照されたい。

記事の最後はこう結ばれている。

ドルにとって代わる基軸通貨が見えてこないため、ドル体制は当分続かざるを得ません。
日本がドルを支える姿勢を変えないと、円高も続くことになります。


前段はその通り、後段はほとんど間違いといってよい。ドル基軸通貨体制の下でも円高は是正できるはずだし、しなければいけないのだ。
スティグリッツは「つまるところ為替問題は貿易不均衡によりもたらされるのだ」といっている。
内需を拡大し、労働者の雇用と所得を守れば、日本の経常収支は急速に「悪化」し、貿易不均衡は解消される。景気が上向けは海外資産は国内に還流し、金満国家の贅肉はそぎ落とされる。

ただし、現在の貿易赤字は高いLNGを買い続けていることによるものであり、貿易不均衡の真の解消とは程遠いものであることは、付け加えておかなければならない。

小選挙区制度の下で、自民党は4割の得票率で8割の議席を確保した。
これ自身も問題だが、実は棄権率の大幅上昇のほうがはるかに重大な問題ではないだろうか。
4割という数字は、それほど低くはない。決選投票制のない大統領選挙なら勝利できる。

しかし各種世論調査では自民党は2割だ。
だから「4割の得票で8割の議席」ということよりも、「2割の支持で8割の議席」ということのほうが本質的だ。

小選挙区制は二択制である。自民党か民主党のどちらを選ぶしかない。そこには「より少ない悪を選ぶ」という選択もありうるが、今度のように両方ともひどいと、事実上選択肢はゼロとなる。「選挙で自民党も民主党も拒否し、政治を変える」という展望を失った国民は、棄権に回ることになる。
この棄権率の高さこそが、日本における民主政治の危機の表現だろう。

結論としては、「小選挙区制が怒れる国民からその表現の手段を奪い、政治不信を増幅している」ということになる。国民は所得を奪われ、それに抗議する手段を奪われた。これがファシズムと暴力に結びついていかなければよいが…

赤旗で「検証 超円高」というシリーズが始まった。

1.円高は購買力平価との比較で決まる
まず眼を引くのが、円高のもう一つの定義、購買力平価との比較である。
これまで円高といえば、一日前、1ケ月前、1年前という風に、傾向でみることが多かったが、赤旗では購買力平価との比較で見るべきだという提起である。
購買力平価の定義だが、これはOECDが決めているそうだ。それによると11年が1ドル=107円。円相場が80円なら、(107-80)÷107=25%の円高ということになる。ドルの側で見れば分母が80になるから、30%を越える。この差益を輸入業者が吸い取っていることになる。

2.円高をもたらしているもの
赤旗は、直接の原因として欧米諸国の金融緩和競争、円高が解消されない原因として、輸出大企業の「国際競争力強化」路線を挙げている。

A)金融緩和競争
各国政府側の問題と、市場側の問題がある。
①ユーロ圏諸国政府は、ソブリン危機により国債発行が困難となり、財政が逼迫している。欧州中銀の金融緩和以外の積極策はとり得ない状況となっている。アメリカも財政の崖問題を抱え、QE3の発動に追い込まれた。
②内需の冷え込みより、市場は資金を消化できず、そのほとんどが投機資金となっている。
③この投機資金が、雨宿り先として、日本の金融資産を買い付けるために円高を招いている。
ということで、これは多くのエコノミストの見解と一致しており、とくに新鮮味はない。しかし、逆に、これまで赤旗が強調してこなかったこの側面を、円高の主因としてあげたことが意外感をもたらす。

B)「国際競争力強化」路線
輸出大企業はこの間も国際競争力を維持してきた。それは主要には労働コストの削減によるものであったが、その是非はここでは問わない。
結果として大量のドルを獲得し、それを円に還元するために円高が維持される構造が出来上がった。

ということで、上がる原因と下がらない原因とを並列表記している。たしかに事実としてはその通りだろうが、両者を統一的に把握する視点がないために、いささか飲み込みにくい論立てになっている。
とくに、これだけの円高のなかで円売り外貨買い圧力がどうして強まらないのか。3割もの需給ギャップがあるのに、市場メカニズムがどうして働かないのかについての分析がない。これは輸出大企業うんぬん以前の問題だ。

購買力平価との比較で円高を見ていく着想は良いのだが、そのあとが息切れしている。第2回目以降に期待したい。


株価が上がって円が下がる
この奇妙な現象を、エコノミストはどう説明するのだろう。
円高→デフレ→不況の図式で展開してきた人々にとってはなんとも説明に窮するのではないだろうか。
たぶん、もう説明なんか拒否するだろうね。「エコノミストは経済学者じゃない」なんてね。

日本の一番のリスクは経団連だろうね。今回の選挙で円が下がったのは、経団連独裁体制に対する危機感ではないだろうか。今の日本の経済はアメリカとアジア、とりわけ中国との二本足で立っている。これを一本足打法に代えようということになる。日米同盟へのさらなる傾斜と中国敵視政策の強化は、セキュリティー分野での日本のリスクをさらに高めるだろう。

今後円安がすすんで、株価がどうなるかだが、おそらくヘタレるだろうと思う。日本を見つめる国際的な目はずっと厳しくなる。日本の株式市場を支えているのは、実際は海外資金だ。それが国債に対する不安へとつながると、そうとう大変なことになるかもしれない。

いまは奥田→御手洗→米倉、そして長谷川へと続く経団連新世代路線=アメリカ支店長路線を根本的に見直さなくてはいけない。

米倉会長が記者会見で、
「日本は内憂外患の状況にある。山積する重要政策課題をどのように解決するのか」が問われていると述べた。
一番の内憂はあんただ。

おお友よ、このような音ではない!

ベートーベンの第9交響曲の合唱の歌いだしの文句だ。
今度の選挙結果にぴったり当てはまる。

今回の選挙の特徴は二つあると思う。
一つは、財界・メディアとアメリカがさまざまな手練手管をもちいて、とりあえず勝利したということである。彼らは前回選挙での歴史的大敗北のあと、民主党を囲い込み鎖につなげることに成功した。そして民主党の人気ががた落ちとなったあとも、それがさらに革新の方向に向かうのを食い止めることが出来た。
戦術的には大成功であったが、それは政治のゆがみをさらにひどくしている。このままでは行かないことは、彼らが一番良くわかっているだろう。
もう一つは、国民の怒りが爆発したということである。小選挙区制の下では民主党を落とすことは自民党の勝利につながるが、そんなことは関係ない。とにかく許せないという怒りが爆発した。その怒りの強さを我々は目の当たりにしたわけだ。
この怒りは、今後の日本の流れとしてみる場合、二つの側面から見ることができる。一つはこの怒りが、国民の強まる「不寛容」の表現であることだ。いらだち、ささくれ立っていることの表れだ。
他方、この怒りは、いやおうなしに政治革新の方向に向かって動かざるを得ないということだ。政治革新というのは国民の希望があり主体化があって前進するものだ。
そもそもこの怒りは何によってもたらされたかを思い起こそう。4年前に日本が旧来型の体制から大きく踏み出そうとしたから、それに多くの人が期待したからこそ湧き出した怒りではないか。だから、失望と怒りの底には希望があるのではないか。

われらが口にすべき歌は、「怒りや恨みの歌」ではなく、「希望と歓喜の歌」でなければならない。その怒りを新たな社会への希望へと結び付けていかなければならない。


「ロザムンデ」を聞いて、「真夏の夜の夢」を聞いて、本当にぶるぶる震える。
21世紀のこの世に居て、お祭り小屋を覗いているような気分になってしまうのだ。
お尻はわずかな月の光が頼りの闇夜。突っ込んだ肩から先はまばゆいばかりのろうそくの明かり。こんなにもくっきりしているのに、まるで夢か幻の世界。
この世のものとは思えない音が、媚薬のように空間を満たし、空気をつつみこみ、そこいら中を飛び交っている。
その音を紡ぎ出しているのは恐ろしい顔の大男、謹厳な顔をして女歌手に片っ端から手をつけるむっつりスケベだ。
しかし彼が両手のあいだから作り出すのは、体がしびれるほどに官能的な音なのに、どこかとても上品で堂々としていて、旅回りの芸人とはまったく別の音だ。

こんな空間を作り出したのは、クレンペラー以外にいない。
これからももう出てこないだろう。光まばゆい近代都市の現代的なコンサートホールでなく、ろうそくの炎の下で演奏しない限り、この怪しげで妖しげな音を聞くことはできないだろう。

クレンペラーは、夜の恐怖を知る子供にとって、そういう子供時代を過ごした大人にとって、永遠の神様だ。

森林総合研究所が高知県仁淀川の上流地域で小水力発電のシミュレーションを行った。

おそらく熊野川水系と並んで、水量の安定的確保には最も適したところであろう。小水力発電は、100KW以下の出力の発電施設で、基本的にはダムを作らない。
これまでの100KW以上の発電規模は中小水力発電と呼ばれてきたので、マイクロ発電と呼ぶべきかもしれない。

実際に調査したところでは、多いところでは100KW近くに達するが、ほとんどのところでは流水量が秒あたり100リットル、発電量としては10~20KWという。1世帯あたりの使用電力は1.5~2KWと考えられるので、5~10軒程度にしかならない。
もちろん年間を通して毎秒100リットルの水が確保されるわけではないので、補助電源は必要だ。さらに、治水・利水というのはそれだけでも大仕事だ。川筋が変わったり、ちょっとした崖崩れがあったりすれば、それで設備は無用の長物と化す。

九州発電の良いところは、治水・利水の水路をそのまま用いて、ついでに発電にも利用するということなので、コストやリスクはゼロとは言わないにしても、かなり転嫁できるところにある。

当面は、発電の問題としてよりも、環境問題として扱っておいたほうが良さそうだ。

昔から、ロシアのマイナー作曲家は気になる人々である。

マイナーといっても、ではメジャーとは、といわれると案外いないもので、チャイコフスキーにムソルグスキー、ボロディンにリムスキー・コルサコフ、すこし下ってラフマニノフ、さらにショスタコービッチにプロコフィエフといったあたりか。学校の音楽室に飾ってある写真はこんなものだろう。ストラビンスキーはロシアに入れるべきかどうか分からない。

したがってマイナーという範疇にはそれ以外の人々が入るのだが、マイナーというには躊躇する人もたくさんいる。

とりあえずグリンカ、バラキレフ、キュイ、リアドフ、グラズノフ、アレンスキー、スクリアビン、タネーエフ、イッポリトフ・イワノフ、降ってハチャトリアンとカバレフスキー、それにシュニトケあたりか。ロシアには「幻の…」という連中がごろごろいるから要注意だが。

これだけの連中の重い曲を聞くのはさすがにヘビーなので、まずはアンコール・ピース的なものからということで、手を着け始めた。

最近はありがたいもので、youtubeで、音質さえ目をつぶればたいていの曲が聞けるようになっている。そうなると逆にどう手をつけたらいいか分からない。とりあえず何かガイドはないかと思ったら、手ごろなCDがあった。

ウラジミール・トロップという人の演奏した3枚組みのロシア・ピアノ小品集というCDである。

1枚目 「アルバムの綴り」

チャイコフスキー

1. 夜想曲*2つの小品  2. 6つの小品から「アルバムの綴り」  3. 中級程度の12の小品から「ワルツ」嬰ヘ短調

リャードフ

4. 3つの小品から「前奏曲」ロ短調  5. 音楽玉手箱 

スクリャービン

6. 3つの小品から「練習曲」嬰ハ短調  7. マズルカ嬰ハ短調  8. 夜想曲嬰ヘ短調  9. 3つの小品

メットネル

10. おとぎ話ロ短調  11. 3つの小品から「葬送行進曲」  12. 8つの情景画

ラフマニノフ

13. 前奏曲変ト長調  14. サロン小品集から「ユモレスク」ト長調  15. 断片  16. 前奏曲嬰ト短調


2枚目 「ロシアン・メランコリー」

グリンカ

1.  夜想曲《告別》   2.  マズルカの思い出  3.  《小組曲》より「修道院にて」   

ボロディン

4. 《小組曲》より「夢」  5. 《小組曲》より「間奏曲」  6. アルバムの頁から「瞑想」    7. 即興曲 作品16の1  8. メランコリー 作品51    

9.  おとぎ話オペラ《クリスマス・ツリー》より 「ワルツ」  10. マズルカ イ短調 作品8の9   11. 無言歌ニ長調  12. 悲歌  13. エレジー        

3枚目 「夕べの夢想」

チャイコフスキー

1. 夕べの夢想  2. 熱い告白  3. 涙  

ムソルグスキー

4.  カンタービレ 作品20の5

キュイ

5. ワルツ 作品31の2  6. 前奏曲ヘ長調  7. ロマンス 作品53の3  8. 即興曲 作品25の1  9. 「晩祷」より 第5曲 「汝のしもべを逝かしたもう」(シメオンの歌)  10. 舟歌 作品10の3  11. カノン  12. 前奏曲 作品27_1 ト短調  13. 前奏曲 作品27_2変ロ長調   14. ワルツ   15. 辻音楽師 作品39の24  16. 教会で 作品39の23

チャイコフスキー、ボロディン、キュイが圧倒的に多いことが分かる。少なくともトロップというピアニストが、キュイに非常に傾倒していることが分かる。私も同感で、キュイの曲はまず平明で、一度聞いてすぐその良さが分かる。私はロシアの中山晋平ではないかと思う。

ウィキペディアによると、

キュイの才能は、歌曲や器楽の小品に具現されているように、雰囲気を瞬間的に結晶することにある。作風は、他の「五人組」に比べると、さほど民族主義的でない。シューマンや同時代のフランス音楽に比すべきものである。

ということなので、初心者にはとっつきやすいのかもしれない。

ヴァイオリンとピアノのための24の小品『万華鏡』Op.50(有名な『オリエンタル』がふくまれる)

ピアノのための25の前奏曲op.64 (1904年)

がしばしば演奏される。

youtubeでは、「万華鏡」の全曲がPeter Sheppardのバイオリンで聞けるが、前奏曲の全曲演奏はないようである。

自民党の石破という人物がいる。戦争大好きオタクで、戦闘機や戦艦のプラモデルを一生懸命作ったりとかで有名らしい。
一部にはこのことを以って石破は好戦的で軍国主義者だとか言う向きもあるようだが、それは違う。
そういう趣味の世界と現実がごちゃ混ぜになって、人が死ぬことなどどうでも良くなっているとかいうのは、なおさら間違いだ。まともな大人ならそういうフィクションと現実の世界を取り違えることなどありえない。

私が育った時代は、一方では平和とか民主主義とか憲法とかが幅を利かせていたが、庶民のレベルでは軍国主義がモロに息づいていた。
軍隊帰りのおじさんたちが、子供を集めては手柄話をしていた。

静岡の連隊は中支が主戦場だったらしい。銃剣術の実演入りで、「切って切って切りまくった」話とか、「チャンコロねぇちゃん、やり放題」などというヒソヒソ話に聞きいったのである。だから「南京虐殺はなかった」なんて聞くとチャンチャラおかしいのである。

それらはすべて「討匪」ということで合理化されていた。敵は作り上げられるのである。

それが大嘘だというのが分かったのは、すこし大きくなってからである。犠牲者は匪賊でもなんでもない、普通の人々だった。彼らは殺された後、事後処理的に匪賊のレッテルを貼られたのである。

だから、戦争には二つの嘘があるのだ。一つは殺したのに殺してないという嘘、これは我々の世代には通用しない嘘だ。
もう一つは、殺された側にも殺される理由があったのだという嘘。これは学習して納得する以外にない。

本当は第二の嘘について研究して真相を明らかにしなければならないのだが、その前の話にもならない嘘が公然と撒き散らかされるのには困ったものだ。

石破さんあたり、そういう話を信じている可能性がある。それは後世の人が作ったデマですよ。

ドイツ銀行関係、一つにまとめました
日本には類似の銀行がないために、なかなか想像がつきません。
えげつなさにおいてはかつての住友銀行とか三和銀行を思い浮かばせますが、もともと三井・三菱みたいなところが住友風にやり始めたところは想像を絶するものがあります。そこにがさ入れに入ったということは、想像もできない重みを持っています。
振り返って日本を見ると、政府の財界にたいする驚くべき弱腰は異常です。

鍋谷さんが亡くなった。
葬儀が北一条教会で行われると聞いて、いささか意外であった。
聞けば、晩年はクリスチャンとなっていたという。
鍋谷さんは十勝の田舎の出で、函館の教育大学を出て、党の専従となった。私が勤医協に入ったころは北海道委員会の委員だった。道委員会の知性を代表する人だった。
どういうわけか、いろいろ縁があって、親父さんの主治医でもあり、後に鍋谷さん本人の主治医ともなった。
弁膜症の手術が成功して以来、すっかり元気になって、私の手を離れた。道南勤医協の専務として活躍された後、北海道民医連の方で社会保障闘争を担当していた。私に「医療論」を書けとそそのかした人物の一人である。
50歳を過ぎてから一念発起して名古屋の日本福祉大学に入学し、社会保障の理論家となった。
その後はたまに街で出会う程度の付き合いだった。

と、ここまでは一般的な話だが、クリスチャンへの転向が良く分からない。というより、私としては首肯できないのである。
経過や事情はさっぱり分からないから、一般的に唯物論者が宗教を受け入れる過程について考えてみたい。
実は逆のケースは良くある。既成宗教は大なり小なり形式化しているから、まじめな宗教者は現実と向き合ったとき激しいショックに襲われる。そのとき解決の道を示すのがマルクスということになる。
しかしこれは過去の話だ。実際には対話を通じて両者は無限に近似化して行くのである。

マルクスは「すべてのものは疑いうる」と言っているが、実はそれこそが宗教者の態度ではないかと思っている。すべてのものを疑い、すべての仮象をそぎ落し、残ったものの中に事態の本質を見ていけば、そこに神が見えたとしても不思議ではない。お釈迦様の「悟り」である。

逆に唯物論者は「すべてのものは信じうる」と考える。マルクスは「すべてのものは信じうるし、疑いうる」というべきだったと思う。そこには存在すべき必然性があり、存在するものが必然的に持たざるを得ない「矛盾」がある。

ただ、存在すべき必然性を“存在の前提”にして議論すると、カントになってしまう。存在を“生きた矛盾”すなわち“存在の過程”としてとらえなければならない。つまり八百万(やおよろず)の存在を信じつつ、存在を非在=否定の過程としてとらえていくことになる。

これが唯物論だ。究極の汎神論だ。あるものをあるがままに受け入れる、しかも過去から未来への流れのなかに変化するものとして受け止める。
唯物論は、常に楽天的であることを要求される。「そのうち何とかなるだろうさ」の世界である。唯物論は能動的であることを要求される。「やってみなきゃわかんねぇだろう」の世界である。唯物論は反権威的である。なぜなら唯物論はあらゆるものを信じるからである。神様なんかいなくても、「この世はすばらしい」のである。

だから、鍋谷さんには申し訳ないが、私には宗教への帰依=唯物論の放棄が前進的な結論とは、どうしても思えないのである。

2012.12.13

ドイツ銀行の摘発の理由

整理して一本にまとめました

Ⅰ. ドイツ検察当局がドイツ銀行の一斉捜査に入った

出勤途中のラジオで聞いた。衝撃のニュースだ。ネットでもまだほとんど情報がない。午前10時現在の情報をとりあえず紹介する。

結局、NHKニュースが一番簡潔で要を得ているようだ。以下がその内容。

ドイツ大手銀行に巨額の脱税容疑

12月13日 7時56分

ドイツの検察当局は、国内最大の民間銀行「ドイツ銀行」が、温室効果ガスの排出権取引の際に巨額の脱税を行った疑いがあるとして、頭取らの取り調べを開始しました。最大手の銀行のトップを巻き込んだスキャンダルに波紋が広がっています。

ドイツのフランクフルト検察庁は12日、国内最大の民間銀行、ドイツ銀行が温室効果ガスの排出権取引の際に巨額の脱税や、いわゆるマネーロンダリングを行った疑いが強まったとして、フランクフルトにある本店や国内の複数の支店などを500人規模で捜索したと発表しました。

検察によりますと、取り調べの対象になったのはドイツ銀行の行員25人で、このうち5人はすでに逮捕したということです。また、残る20人にはトップのユルゲン・フィッチェン共同頭取が含まれているとしています。

ドイツのメディアは、ドイツ銀行が排出権取引の際に生じる売上税の支払いを免れるよう顧客の企業に助言していた疑いがあり、脱税の総額は少なくとも日本円で数百億円に上るとしています。

ドイツ銀行は「捜査には全面的に協力する」としていますが、検察側は行員が証拠を提出しなかった疑いがあることも明らかにし、ドイツ最大手の銀行のトップを巻き込んだスキャンダルに波紋が広がっています。

ユーロニュースによると、「ドイツ銀行のフランクフルト本部が急襲された」とありますが、まさしくそのようなものだったようです。下がロイターの写真です。

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Police vehicles are parked outside the headquarters of Germany's largest business bank, Deutsche Bank AG in Frankfurt December 12, 2012. (Reuters / Kai Pfaffenbach)

イッツ、ショータイム! という感じですね。ずいぶんド派手にやったもんだ。このド派手さも、重要な要素のひとつだろう。

ユーロニュースでNHKニュースと違うところを拾っていくと、5人の逮捕者のほかに、すでに6人の人物(ドイツ銀行員ではない)が逮捕され、有罪判決を受けているということだ。その背後にドイツ銀行が居るといううわさはずっと流れていたようだ。そこから芋づる式に全容が明らかになってきたのだろう。

脱税の手口も明らかになっている。6人は海外からの排出権買い取りに際して税金(付加価値税)を払わなかったが、国内でそれを転売した。このとき税の還付が発生し、彼らはそれを受け取った。という分かりにくい手口だ。

次に4時間前のCBSニュース。AP通信の配信によるものだ。

重複部分を除いて紹介する。

ドイツ銀行の共同最高責任者Juergen Fitschenと金融部長シュテファン・クラウゼが、脱税調査の一部として尋問を受けている。彼らが会社の2009年の税申告に関して、排出権取引事業の利益を隠匿した疑いがかけられている。しかし逮捕された人物のなかに二人は含まれていない。

フィッチェンは2009年当時には、ドイツ銀行の地区責任者であった。今年初め、co-CEOとしてAnshu Jainとともに業務を引き継いだ。

ドイツ銀行はほかにも、元従業員によるLiborなどの基準金利の不正操作で訴訟を起こされている。その問題で罰金が課せられたときに備えて、資金準備していたのではないかとも言われている。(has said it has put aside money for potential penalties in the matter.)

APの記事は散漫で分かりにくい。ロイター電の方が整理されている。

共同通信は週刊シュピーゲルの電子版を丸写しして送信している。

フィッチェン、クラウゼ両氏は2009年の納税証明書に署名しており、当時税務の責任者だった。

と、だいたいここまでが、現在までに判明した事実。

ドイツ政府の決断の背景は?

ドイツ銀行は二つの意味で新自由主義の象徴である。

一つはそれ自身が巨大な投機資本だということである。ユーロダラーの最大の仕手方の一つであり、自己勘定取引はやり放題で、かなり下品な経営を続けてきた。ユーロ圏諸国にとっては巨大な害虫である。

もう一つは、ユーロ共同債に抵抗するドイツ国内勢力の最大の柱だということである。ユーロシステム維持を最大の目標としているドイツ政府にとっては、いずれガチンコ勝負をやらなければならない相手だ。

この時期、ここまで踏み込むには、何か訳があるのだろう。

ということで、これが、ドイツ銀行へのガサ入れと関連するのか? というニュースが、手入れの前日にあった。

[ブリュッセル/ベルリン 12日 ロイター] 欧州中央銀行(ECB)による銀行監督一元化を柱とする銀行同盟構想をめぐり、ドイツが歩み寄りの姿勢を見せ始めており、難航している協議を打開できる可能性が出てきた。

という記事。

ショイブレ財務相は12日の欧州連合(EU)財務相理事会を前に、合意できる可能性について「楽観している」と閣議で発言した。

この発言に関連して、あるドイツ高官は、匿名を条件にロイターとの会見に応じた。

高官は、「われわれは大きな前進が見られると期待しており、おそらく(交渉の行き詰まりを)打開できるだろう」と指摘。 「われわれは銀行監督問題の解決に貢献する用意がある。多少の疑問点はあるが、今日の財務相会合で問題を解決できれば、ドイツは合意を妨げない」と語っ た。

ユーロ圏諸国はこれまで場当たり的な対応に終始してきたが、銀行監督一元化で合意できれば、3年前の危機発生以来初めて抜本策を打ち出すことが可能になるほか、経済・財政改革の深化への地ならしともなる。

これまでドイツ政府は、銀行同盟構想をめぐって、「銀行監督の最終権限をECBに委ねるべきではない」と主張してきた。これは「最終的な責任をECBが負うべき」 とるフランスとの対立点となり、協議がこう着していた。さらに、ECBが直接監督する銀行の数、監督開始時期などが主な争点となっている。

ロイターが入手したドイツ側の譲歩案では、ECBの日々の監督対象を資産規模が300億ユーロ以上、もしくは本国の経済規模の20%以上に相当する銀行に絞る。またユーロ圏で3カ国以上にまたがって事業を展開する銀行もECBの監督対象となる。

どうでしょう。モロにドイツ銀行が絡みますね。それにしてもこの“高官”、すごいことを言ってますね。まるでガサ入れを予期しているようです。

ドイツ銀行はバークレイズ、JPモルガンと並んでこの世界の悪の三大巨頭です。しかも唯一のユーロ圏銀行です。ドイツ銀行をどうするかを抜きにユーロ圏の金融再建は語れないでしょう。

カーボンとか排出量取引などはどうでもよいことで、たまたま使い勝手が良かっただけのことではないのでしょうか。

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