鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

2012年11月


イスラエル系圧力団体とは何か?

①イスラエル系圧力団体とは、個人や組織の緩やかな連合であり、支配的な指導力を有する統一された運動ではない。

②ユダヤ系アメリカ人の大多数を結集しているわけでもない。2004年の調査では、36%のユダヤ系アメリカ人は「全く」又は「ほとんど」イスラエルに心理的に帰属していないと答えている。

③アメリカ・イスラエル公共問題委員会(AIPAC)など重要な組織の多くは、リクード党の拡張政策を支持する。しかし「ユダヤの平和の声」の様な幾つかの集団はリクードを支持しない。しかし穏健派も強硬派も、共にイスラエルの忠実な支持者である。

④ユダヤ人の主流派にとって、イスラエル政府=リクードの安全保障に関連する政策に批判的な議論を行う余地は絶対に存在しない。彼らは事実上、外国政府の代理人となっている。

イスラエル系圧力団体の影響力

①1997年のフォーチュン誌: 議員対象の最も強力な圧力団体アンケートでAIPACは米国退役軍人協会に次いで二番目だった。AFL-CIOや米国ライフル協会より上位。2005年3月のナショナルジャーナル: ワシントンでの「影響力番付」で全米退職者協会と同点の二位であった。

②AIPACのメンバーはユダヤ系ばかりではない。著明なキリスト教福音主義者も含まれる。彼らは全員、イスラエルの復活が聖書の預言の成就であると信じており、イスラエルの拡張主義政策を支持する。

③AIPACは資金、選挙、報道などから米国議会議員を締め付けており、議会がAIPACから指示される以外の政策を持つことはできなくなっている。

④ユダヤ人は選挙資金を通じて大統領と政府に影響力を行使する。ワシントンポスト紙は、民主党の大統領候補がユダヤ系の支援者から選挙資金の60%を得ていると推計している。すでにクリントン政権時代、米国の中東政策は主有力な親イスラエル組織とその代表としての幹部スタッフによって形成された。

マスメディア・世論の操作

①ウォールストリートジャーナル紙は明確な親イスラエル、ニューヨークタイムズは時折イスラエルを批判するがイスラエルよりのスタンスは変わらない。CNNがイスラエルを批判すると6000通の電子メールが送りつけられる。

②ボストンのナショナルパブリックラジオ局であるWBURはイスラエルを批判して100万ドル以上の寄付金を失った。米国議会にいるイスラエルの友人からは報道に関する監視に加えて内部監査を要求される。親イスラエル団体はラジオ局の周りで示威運動を組織的に行った。

③イスラエル系圧力団体は、世論形成役のシンクタンクを影響下に置く。国策研究会(AEI)、ブルッキングズ研究所、安全保障政策センター、外交政策研究所、ヘリテージ財団などを実質的に支配している。

学問の世界への攻撃

イスラエル系圧力団体が最も苦手としたのが大学だった。

①彼らは「大学観察」というウェブサイトを立ち上げた。批判的な研究者の人物調査書が投稿され、密告が奨励された。とくにエドワード=サイードが在籍していたコロンビア大学が標的となった。サイードを糾弾し、制裁又は解雇することを要求する何百もの電子メール、手紙が送りつけられた。

②2004年の年末に、コロンビア大学の中東研究の教授陣はユダヤ系の学生を脅迫しているとのフィルムが制作された。実際にあったのは、ある教授がある学生の質問に「怒りを持って返答した」ことであった。その教授は、イスラエル系圧力団体による脅迫作戦運動の対象であった。

③イスラエル系圧力団体は米国議会に教授の発言を監視する機構を設立するよう圧力をかけた。彼らの努力は失敗に終わったが、もし議案が成立していれば、反イスラエル的と判定された大学は、連邦政府の資金援助を拒否されていただろう。

「反セム主義だ!」という攻撃

イスラエルの行動を批判する者は反セム的と名付けられる十分な機会を持つ。「イスラエル系圧力団体が存在する」と言えば、反セム的であると告発される。反セム主義は誰も批判されたくない事柄だ。(解放同盟の“差別だぁ!”に似ていますね)


舌鋒は鋭さを増す

ユダヤ人の倫理的価値への疑問

ユダヤ人はイスラエルへの支援を倫理の問題として提示する。しかし客観的に見て、イスラエルの過去及び現在の行動からはパレスチナ人よりも優遇されるべき道徳的根拠は何ら認められない。イスラエルの存在を支持する強い倫理的主張は存在するが、それは危機的状態にあるわけではない。

A イスラエルはアラブに囲まれ孤立したか弱い国なのか

①イスラエルは米国の大規模な援助が始まる前にも三度の戦い(独立戦争、スエズ紛争、6日戦争)に圧勝している。

戦略的 な均衡は決定的にイスラエルに有利であり、その軍事能力と抑止力における近隣諸国との量的格差は拡大し続けている。

負け犬を支援することが動機なら、米国はイスラエルの敵を支援すべきだ。

B イスラエルは守られるべき民主主義国家なのか

イスラエルは民主主義国の仲間であり敵対的な独裁国家に囲まれているという。

世界には多数の民主主義国家があるが、イスラエルのような破格の援助を受ける国は存在しない。民主主義であることだけでは現在の援助水準を説明できない。

②米国は自国の国益を向上させると考えたときは独裁者を支持してきた。そのために民主的政府を転覆させてもきた。

イ スラエルの民主主義には米国の中核的な価値観に対立するところがある。人種・民族・宗教に関わらず平等の権利を享受できるわけではない。130万人のアラブ人は二流市民でしかない。

C 人類はユダヤ人に責めを負っているのか

ユダヤ人は何世紀にも渡って迫害されてきた。イスラエルは米国から特別な扱いを受けるべきだ、という。しかし、それは第三者であるパレスチナ人に対するユダヤ人の犯罪行為を許容することなのか。

ユダヤ人の悲劇的な歴史があるからといってイスラエルへの無条件支持を米国が強制されることはないのだ。

D 高潔なイスラエルと邪悪なアラブ

イスラエルの行動は残忍であることが多く、高い道徳性へのあらゆる要求を裏切ってきた。

①独立後の10年間、イスラエル軍は5000人のアラブ人を殺し、た。イスラエルは26万人をヨルダン川西岸から追放した。そして、ゴラン高原から8万人のシリア人を追いやった。

②パレスチナ青少年のインティファーダの最初の日、イスラエル軍は百万発の銃弾を発射した。一人の殺されたイスラエル人のために3.4人のパレスチナ人を殺した。

そして、もし戦略論も道徳論も米国のイスラエルに対する支援を説明できないとすれば、我々はどうやってそれを説明するのか

ミアシャマイヤーとウォルトの論文の抜書きです。国際情勢の分析と予測というブログで「要約版」を訳してアップロードしてくれたので、それを抜書きしたものです。

2006年3月の出版といいますから、まだ第二期ブッシュ時代。ちょっと古いのですが、貴重な文献です。あの時期にこれだけ書く勇気は尊敬に値します。


アメリカのイスラエル援助は突出している

米国政府は、1970年代から、総額1400億ドルを越える援助をイスラエルに供与してきた。これは対外援助予算のほぼ五分の一をしめる。

イスラエルは毎年約30億ドルの直接援助を受ける。これは国民一人あたり約500ドルに相当する。

対イスラエル援助はさまざまな点で破格である。

①軍事援助の資金はその全額を米国で支出することになっているが、イスラエルは約25% を自国の軍需産業に使うことを許されている。

②イスラエルは援助資金の支出内容を説明する必要のない唯一の国である。ヨルダン川西岸での住宅建設などに使用することも可能である。

③イスラエルは通常の援助のほかに、武器システムの改善費として、30億ドル近くの金を与えられている。これによりF-16戦闘機などの最新兵器を入手している。

④イスラエルは、NATOの同盟国にも与えないような機密情報を供与されている。

⑤米国はイスラエルが核兵器を保有することに目をつぶっている。

米国政府はイスラエルに外交的支持を与え続けててきた。

1982年以降、米国はイスラエルを批判する32の安保理決議に拒否権を行使した。

②米国はアラブ諸国がイス ラエルの核兵器をIAEAの議題にすることを妨害してきた。

ブッシュ政権の中東介入は、部分的には、イスラエルの戦略に沿っている。

イスラエルの「戦略的価値」への疑問

イスラエルを支援するために支払った対価

①「10月戦争」(73年)の時のアメリカの緊急軍事援助は、OPECの石油禁輸の引き金を引いた。

第 一次湾岸戦争では米国はイスラエルの軍事基地を使用するために、反イラク同盟を破壊することを余儀なくされた。その後はアラブ諸国の反対を考慮してイスラエルに援助を求めなかった。

9/11以降に顕著になった傾向として、米国のイスラエル支持は、テロリスト集団と「ならず者国家」に両国が脅威を受けているという主張によって正当化された。この主張は、イスラエル政府がパレスチナ人「テロリスト」を自由裁量で取り扱うのを認めさせた。さらにイランやシリアの様な国を、「イスラエルの敵は米国の敵」という理由で敵視させることになった。

以上のごとく、イスラエルとの同盟は、テロとのたたかいと、ならず者国家に対処する為の広汎な努力にとって重荷になっている。(割と勝手な理屈ですね)

イスラエルとの同盟による対テロリスト戦略の誤り

イスラエルに脅威を与えるテロリスト組織は米国には脅威を与えない。米国が彼らに干渉する場合は別である。

パレスチナ人のテロリズムは手当たり次第の暴力ではない。それは、おおむねイスラエルの「入植」作戦への反応である。

米国のテロ問題の多くは(唯一の原因ではないが)、米国がイスラエルと非常に親密な同盟国であることによる。「イスラエルと米国が共通するテロリストの脅威により結びつけられている」というのは因果関係の逆転だ。

ならず者国家論の誤り

彼らはイスラエルにとっての脅威であるという点を除いては米国の重要な利益にとって差し迫った脅威ではない。

②彼らが核兵器を保有したとしても、米国もイスラエルも脅迫されることはない。脅迫者は圧倒的な報復を受けることなしには脅威を実行することができないからだ。

イスラエルの核兵器は、近隣国が核兵器を欲する理由の一つである。彼らを脅すことはその欲望を増大させることになる。

イスラエルこそならず者国家(とまでは言ってないが…)

イスラエルは忠実な同盟国としては行動していない。

イスラエルの当局者は米国の要求を頻繁に無視し約束を破る。住宅建設を強行し、パレスチナ人の指導者の暗殺をやめない。

②イスラエルは、国務省の査察官が「公的に承認されない供与」と呼ぶ、軍事技術の供与を中国などに供与してきた。

③イス ラエルは「米国の全ての同盟国の中で米国に対し最も活発なスパイ活動を行って」いる。

小泉記者の記事の一文が気になっています。

チュニジアのアブデッサラーム外相は停戦合意直前にガザ入りし、「イスラエルは状況が変わったことを理解しなければならない。イスラエルはもはや自由に行動することなど出来ない」と語りました。

「状況の変化」とはなんでしょうか。

私には中東の変化ということだけではないように思えます。とくにヒラリーの動きに示されたアメリカの変化がかなり本格的なものなのか、イラク侵攻のときにパウエル国務長官を退陣に追い込んだ国防省対国務省の対立が、第2ラウンドを迎えているのか、気になるところです。

基本的には国務省と国防省は一体であり、矛盾は一時的、相対的なものです。たとえばネオコン・グループとして名をはせたウォルフォビッツもエデルマンも本籍は国務省で、転籍先の国防省で頭角を現した組です。しかし大統領が民主党から共和党に変わった時など、折にふれ人脈間の対立が表に出ることもあります。

今回の動きがその露頭なのかも知れません。

まずは、一世を風靡したネオコングループはどこへ行ったのか、その影響力は依然残っているのか? というあたりから探ってみたいと思います。

中岡治さんのブログから

国防省は2人のネオコンにリードされてきました。ウォルフォウィッツ副長官とフェイス次官です。ともにユダヤ系です.

彼らの力はチェイニー副大統領と結びついていました。父ブッシュの時代、当時、国防長官だったチェイニーの下で、「Defense Policy Guidance」が策定されました。これがネオコンの防衛政策の基本となって行きます。その作業の指揮をとったのがウォルフォウィッツです。

チェイニーはアホブッシュを抱き込んで、政権の全面掌握に乗り出しますが、その尖兵となったのがネオコン・ボーイズたちでした。ラムズフェルドは元々は中道右派でしたが、チェイニーのおかげで見事に悪の花を咲かせました。国家安全保障会議もネオコンのエーブラムスが掌握します。こうして副大統領首席補佐官のリビーとのあいだに鉄のトライアングルが形成されました。

このなかで、イスラエル・コネクションの役割を担ったのはフェイス次官とエーブラムスでした。フェイスはユダヤ関連の組織「Jewish Insititute for National Security Affairs」や「Center for Security Policy」と緊密な関係にありました。彼は国防省の機密情報をイスラエルに漏洩していたことがばれ、職を追われることになります。

チェイニーはパウエルが握る国務省内にも手を伸ばしました。国務省出身で中東専門のエリック・エデルマンを国防省に引き抜き、フェイスの後任国防次官にすえています。さらには国連大使にネオコンのジョン・ボルトンを送り込みました。

中岡さんは次のように総括しています。

第一期ブッシュ政権は、国防省と副大統領オフィスのネオコンとパウエル国務長官が率いる国務省の間で外交政策を巡るヘゲモニーがあったのです。結果的には、ネオコン派が勝利し、パウエルは放逐されます。

ただ、このあたりがネオコンの花だったようです。ブッシュ政権の終わる前に、すでに彼らは凋落の道を辿り始めていました。イラク統治の失敗からラムズフェルドは退陣に追い込まれ、ウォルフォビッツは世銀総裁の座を射止めますが、愛人問題で辞任に追い込まれます。共和党は伝統的右翼がふたたび仕切るようになり、キリスト教原理派やティーパーーティの党になって行きました。

それでは、国務省や国防省における彼らの影響力は消失したのでしょうか。もし消失したとすれば、どうしてイスラエル・パレスチナ問題での政策は、オバマの積極的姿勢にもかかわらず変化しないのでしょうか。



青森県農協の衆院選推薦基準というのが赤旗で報道されている。

「JAグループが実施しているTPP交渉参加断固阻止運動に賛同する」とともに
①所属する党がTPP交渉に反対
②候補者(自身)がTPP交渉参加に反対
としている。

これだと自・公・民は自動的に排除されることになる。TPPに反対が明確なのは、共産党、社民党、亀井新党くらいか。小沢派はイマイチはっきりしないので、候補者個人に踏み絵を踏ませることになるだろう。

どの程度までこの基準を押し通せるかは不明だが、基準を明確にしたことによって、逆に農協幹部のまじめさが問われることになるだろう。

ガザ問題を知るために、宮田律さんがすばらしいレジメを用意してくれています。
それほど長いものでもないので、直接ご覧になるようお勧めしますが、「なるほど」を納得したポイントをいくつか箇条書きにしておきます。

①ガザは街ではなくゲットーである。縦が50キロ、横幅が最大10キロの地区内に150万人が押し込められている。8つの難民キャンプがあり、そこに100万人が暮らしている。
②難民といっても「避難」したのではない。1948年の第一次中東戦争のときに土地を奪われ、押し込められ、65年間押し込め続けられてきた人々である。
③ガザの周囲は、壁によって完全に囲まれている。海は、イスラエル軍によって封鎖されている。パレスチナ人がガザを出入りする自由はない。壁のなかに生まれ、壁のなかに死んで行く。
④ガザの失業率は70%以上。貧困ライン以下の家庭が85%。多くの子どもたちに栄養失調の徴候が見られる。

ついでガザをめぐる交渉経過ですが、
①オバマの二つの発言
オバマは就任早々、パレスチナ問題の解決に積極的な姿勢を示しました。一つが2009年6月のカイロでの演説で、60年間以上もわたって続いている占領に対する遺憾の念が表明されました。もう一つは2010年5月のネタニヤフ首相との会談です。そこでオバマは「将来のイスラエルとパレスチナの境界は1967年の第三次中東戦争以前の境界を基本に考えるべき」と発言しました。
②イスラエルのさらなる強硬化
イスラエルはオバマ発言に対し、真っ向から挑戦する姿勢をとり続けました。入植地を拡大し、トルコの人道支援船を攻撃し、ガザの全面封鎖を継続しています。宮田さんは、これに対しオバマがまったく無反応であったと非難しています。



今回の事件はハマスの最高軍事指導者と報道されていますが、これはイスラエル側の発表を鵜呑みにしたもので、実はイスラエルとの和平交渉の担当者だったようです。和平交渉はアメリカとエジプトも支援していたはずですから、両国が怒るのも無理ありません。

和平交渉を自らつぶすというのは、テロに対する報復とは訳が違います。アメリカ国務省に対する挑戦です。退任予定のクリントン国務長官にとっては顔に泥を塗られたことになります。

このような作戦がネタニヤフ首相の一存で実行されたとは思えません。米軍の高いレベルでの判断があったと思います。端的に言えば、米軍トップ(ネオコン・グループ)はオバマ=クリントンをなめていたのではないでしょうか。その背景には大統領選挙における軍産複合体の共和党シフトがあり、オバマ憎しの気分が昂揚していたのかもしれません。

しかしクリントンを怒らせたのはちょっとまずかったと思います。彼女は停戦を仕切ったにもかかわらず、この停戦がエジプトの主導の下に実現したと強調しています。これはネタニヤフに対する強烈な当てこすりでしょう。

国務省にも国防総省にも、それなりの縄張りがあります。当選早々のオバマに、先制パンチを食らわしたつもりだったのでしょうが、民主党の主流派や外交官僚に恥をかかせ、敵対心を抱かせることになりかねません。だからあせって、ネタニヤフに全面屈服を強いたというところでしょうか。


世の中のこと、歴史上のすべての出来事をロスチャイルドとロックフェラーの仕業とみなす「ユダヤ本」に付き合うつもりはないが、今度の停戦合意に関しては、やはりアメリカのユダヤ人社会の動向を見ておかなければならないだろう。

ちょっと調べてみての感想なので、これから変更するかもしれないが…

まず、ユダヤ人社会といってもけっして一枚岩ではないということである。一般論としては、当然だが、パレスチナ問題についても同様だということだ。もう一つ、ユダヤ人は基本的には社会の中下層を形成しているのである。ユダヤ人=ロスチャイルドのような考えは、在日がみんなパチンコ王だと思うくらいばかげたことである。

ユダヤ人のマジョリティーは、都市に住み、WASPと近縁の生活を送り近縁の考えを持つ。しかしその生活が実現したのは高々50年前のことである。彼らは一般的にリベラルであり、シオニズムに関しても批判的である。しかし必要悪と見ている側面もある。

前回大統領選では、白人系ユダヤ人の83%がオバマを支持した。彼のミドルネームがムスリムのそれであってもである。

去年、オバマが67年の境界を国境確定交渉の基礎とすると提唱したとき、米国最大のユダヤ人団体である名誉毀損防止同盟 (ADL)は、これに対して肯定的な評価を行った。とにかく二国間交渉による境界確定というゴールにむけて、その土台を構築すること、そのための譲歩は認めなければならないという考えである。アメリカ・ユダヤ人委員会(AJC)もほぼこのラインと思われる。

選挙戦終盤に行われたユダヤ人への世論調査では、ロムニー候補が57%で、オバマ大統領の22%を大きく上回った。もっともこれはテルアビブ大学が行った調査なので、相当バイアスがかかっている可能性はある。

シオニズムを声高に主張するのは、遅れてきたユダヤ人であり、人種的には中東系であったりアフリカ系であったりする。彼らはリベラルでもなくインテレクチュアルでもない。イスラエル政府を背景とするアメリカ・シオニスト組織(ZOA)は、オバマを「かつてなくユダヤ人に敵対的な大統領」と非難する。彼らが多く住むフロリダでは、共和党への鞍替えの動きも出ている。


ユダヤ人内の富裕層は、アメリカの権力の中枢を成す軍産複合体に、何らかの形でかかわっている。一般的な政治信条はユダヤ人マジョリティーと共通するものを持っているが、軍産複合体の利害が絡む問題に関しては徹底的に党派性を発揮する。故国なき民にとっては、彼が何をしているかが、彼が誰であるかを規定するのである。

したがって、これまでのアメリカのパレスチナ政策に影響を与えてきたのがユダヤ系ロビーだとするのは正確でない可能性がある。むしろ軍産複合体や石油メジャーを通じての圧力が規定的なのではないかと思う。

テレビでガザの停戦合意が実現したと聞いたときは、「あれっ」と思った。
過去の経験から言えば、イスラエルは必ずやると思っていたからだ。

①とくに「イラン攻撃をやる、やる」といいながらやれないでいることで、国内の強硬派には相当フラストレーションがたまっている。次の選挙を控え、ガス抜きという観点から見ても、ネタニヤフはやらざるを得ないだろうと思っていた。
②もうひとつは、シリアの内戦状態がイスラエルにも不安をもたらしていることから、近隣諸国へのイスラエルの軍事的プレゼンスを改めて確認させるためにも、「ガザを叩いて置いて損はない」という発想になるのが自然だろう。
③ハマスも、かつてない規模のロケット弾を打ち込むほどに戦闘力が強化されており、これを放置することは重大な禍根を残すことにつながりかねない。

軍事的には、やらない理由は一つもない。それが出来なかった。その意味するところはかなり重大である。

少しづつ情報が流れてきている。まず赤旗の小泉大介特派員の報告から。(それにしても大ちゃんいつまで居るつもりなんだろう)

まず注目するのは今回の調停役がエジプト一国だといういうこと。しかもその態度は、たんなる中立的介入ではないということである。

モルシ政権は、空爆開始2日後の16日にカンディール首相をガザに派遣し、「イスラエルの侵攻を停止させるために全力を尽くす」と表明しました。


しかもその介入を、ほかならぬアメリカ政府が支援したということである。

エジプト政府はハマス最高幹部とイスラエル高官との個別の停戦協議を主催。国連の潘基文事務総長が後押ししたことに加え、イスラエルの最大の後ろ盾である米国のクリントン国務長官も協力する状況が生まれました。


アメリカはたんにモルシにまる投げしたというわけではない。21日にはオバマがモルシに電話し、ガザの状況改善に向け協力することで合意している。アメリカはモルシ調停に積極的にかかわっていたのである。

オバマはモルシに謝意を表明するとともに、両首脳が悪化するガザの状況の改善に向け協力することの重要性を指摘しました。

さらに、決定的な要素ではないが、もう一つのムスリムの強国トルコも、明確にハマス支持の立場をとったことである。

かつてイスラエルと「戦略的関係」にあったトルコのダウトオール外相も、アラブ代表団とともにガザ入りし、犠牲者遺族を見舞いました。

このような地政学的なバランスの変化がどうして生まれたのか。

小泉特派員は中東地域の諸国の変化こそが最大のポイントだとしています。そしてその象徴的なメッセージを紹介しています。

チュニジアのアブデッサラーム外相は停戦合意直前にガザ入りし、「イスラエルは状況が変わったことを理解しなければならない。イスラエルはもはや自由に行動することなど出来ない」と語りました。

その意味するものの内容は不明ですが、発言にはそれなりの裏づけがあってのものであり、それが停戦合意で明らかになったということでしょう。

停戦合意の骨子は次の通り(時事)
①すべての敵対行動の停止
②移動制限の緩和(封鎖の全面解除ではなく、実施も即時ではない)
③問題がある場合は、自体を調整するために、合意を発案したエジプトに通知。

ということで、最後の一文が非常に利いている。これではイスラエルにとっては全面敗北に近い。ガザの民衆が大喜びするわけである。

今回の出来事ではっきりしたのは、イスラエルという国は「虎の威を借る狐」であり、アメリカの支援がなければまったく無能力だということである。

しかしこれでイスラエルが治まるとは到底思えない。問題はこれからである。オバマがユダヤ系圧力団体の攻勢をどう受け止めるかが見ものである。


大企業20社で、年間利益剰余金が1兆5千億増えたそうだ。
さすがに電気産業はパナソニックのみ、しかも16位だ。トヨタが圧倒的で、一社だけで12兆円溜め込んでいる。つまり日本は今やトヨタ帝国となっているということだ。まさに一将なりて万骨枯るという構図になっている。
えげつないのが銀行筋で、三菱UFJは8千億も内部留保を増やした。三井住友も、あのみずほでさえ増やしている。結局、金融緩和でありあまる金は、その預け先である銀行に儲けをもたらしているようだ。銀行なくして経済なしというのは認めるにしても、国債だけ買っているんでは銀行の意味がない。銀行栄えて国滅ぶというんでは困る。

ところで、共産党はこの膨大な内部留保を経済活性化に役立てようというのだが、その仕掛けは意外に難しい。賃上げと増税というのだが、賃上げはあまり即効性が期待できず、手続きもかなり厄介だ。法人税の増税はそれ以上に難しい。逆に経済状況さえ良ければ、投資意欲は一気に膨らむと思われ、まさに民間活力が爆発するだろう。

内部留保を収奪するという北風政策は、筋としては正しいが有効かどうかは分からない。太陽政策も組み合わせないとなかなか進まないだろう。地デジ対応とエコカー減税はかなりの有効性があった。しかし金のばら撒き先が間違っていたから、不況構造を変えるどころかかえって深刻化させた。もうこの愚は繰り返すまい。

この間の政府の政策で最も優れたものは電気の買い取り制度だろう。菅首相、どさくさにまぎれてたいしたことをしでかしたと思う。新エネルギー関連はもっとも有望な産業分野であり、中小企業の参加も比較的容易である。さまざまな試行のなかで、日本に最も良いエネルギーミックスが形成されていくだろう。発送電分離も早期に実現すべきだろうと思う。

日本の戦後の高度成長、とくに70年以降の成長を支えたのは、皮肉なことに公害闘争だった。公害防止のための新技術開発が、結果的に日本経済を支え、国際競争力をも高めたのである。あのときも財界は「公害防止などやっていたら、国際競争に負けてしまう」と主張していたことを思い出す。

以上のことは、当面の緊急政策としての話題であり、長期的には雇用条件の改善が安定的循環をもたらすことは明らかである。97年以降、次々と崩されてきた労働法規を元に戻し、保険料負担もしっかり徴収することで、「一体改革」の中身はすべて実現される。

ただそれまで待っても居られないということを前提にしての緊急策である。

SSDというのは見たことないが、最近の流行らしい。
早い話がメモリースティックの大容量版ということで、手持ちのメモリースティックは4ギガしかないが、いまは500ギガのSSDまで出てきているようだ。
これに対抗してHDDは果てしなき大容量化の道を突き進んでいる。
うちのかみさんは、さすがに最近は飽きてきたようだが、韓流ドラマのファンで、DVDが何枚もある。しかし東芝のレグザを買ってからはHDDになんぼでも落とせるので、さすがにやらなくなった。当然、膨大な量のDVDにも見向きもしない。
買いっぷりのいい人で、数年前に出始めの1テラを数万円で買ってきて、それに溜め込んでいる。

ところがタイの水害以来、HDDの大容量・低価格化がストップしているらしい。そこへSSDが低価格化攻勢をかけてきた。私などは恐ろしくてやらないが、パソコンの裏ブタを開けて、HDDを外してSSDに取り替えることも出来るらしい。(メモリーの増設はやってもらったことがある)

熱は発生しないし、アクセスも早いと、言うことなしのようだ。

これからは内臓記憶媒体はSSDで、HDDは外付けの大量記憶装置というすみわけになるのかもしれない。ただメモリースティックと同じで寿命があるらしいが、短くても数年は持つから、その頃にはパソコンごと買い替えになるだろうと書いてある。

HDDもそのまま安楽死を迎えるわけには行かないと、あの手この手の対応を試みている。そのなかに、ハードディスクのケースをまるごとヘリウムで充填するというのがあるようだ。

たしかに抵抗は落ちるし、熱も発しなくなるだろう。ただそれで一桁二桁の改良が測れるかというと、どうもそうはならないようだ。

まぁ、このデジタル時代に、円盤をぐるぐる動かすなんていう前世紀的なものは消えて行くしかないのだろうとは思うが。

何でこの話になったかというと、朝のラジオでヘリウムが国際的な品不足で、ディズニーランドでは風船の販売を中止したというのを聞いたからである。
それでヘリウムって、どんなになってんだろうと調べ始めたら、けっこう泥沼。
そもそもの物性論から、宇宙の歴史、核との関係、超伝導理論からマーケット動向と、大変幅広い。
読んでは見たものの、どうまとめたらよいかと、目下は思案投首である。

オルテガが大統領に当選した2006年に、離党者モニカ・バルトナードが書いた文章がネットで読める。
Nicaragua: From Sandinismo to "Danielismo"
という題だ。ダニエリスモというのは、オルテガのファーストネームがダニエルであることからつけられたのであろう。
第一次サンディニスタ政権の全国指導部9名のうち、現在も指導部に残るのはダニエル・オルテガとバジャルド・アルセのみである。アルセはサンディニスタ経営者会議の議長をつとめている。
読んでみると、怒りの理由がかなり分かりそうな気がする。分かるけれども、その下に多くの民衆がいるので、怒ってばかりいても仕方ない。とにかく何か始めなさい、いじけてばかりいてもしようがないでしょう、と言いたい。それだけでは形を変えたダニエリスタでしかない。
もうすでにあなたとオルテガはイーブンではない。ダニエルははるか高みにいる。貴方はただの市井の人だ。
だがあなたには人民がいる。「正義」のために闘うのではなく、人民のために闘うべきだ。人民とともに闘う人間の心の内にのみサンディニスモは存在するのではないだろうか。
もうひとつ、ソイラメリカのことは、赦せとも忘れろとも言わないが、ぐっと胸に飲み込め。事は個別に片がつく問題ではない。活動家の中に残るマチスモと反フェミニズムとの闘いだ。

今朝のテレビで、米倉会長が出てきて、安部晋三を批判した。インフレ・ターゲットで景気が良くなるわけないでしょう、と言っている。
これは当然の批判で、その限りでは正しいのだが、問題は自民党総裁の発言を頭から否定したことだ。
ひょっとすると、この発言は野田民主党に軸足を移すと言う宣言かもしれない。基本的に米倉はアメリカのメガホンだから、アメリカの意向が反映されている可能性もある。中身の重要性も考えると、米倉会長の一存でここまでは言えないだろうと思う。
アメリカの意向だとすれば、それはインフレ・ターゲット論ではない。むしろ再軍備や尖閣問題での突出にアメリカが不快感を抱いたためであろう。
それにしても、マスコミはどうしてこういう点を突っ込まないのか、不思議だ。

2012.11.13 の記事「GDPマイナス3.5%」で

今後、当面は外需がリバウンドがあり、ゼロ近くまで回復すると予想されるが、個人消費がどこまで回復するのか注目している。それ次第だ。設備投資は構造的に減少しており期待はできない。
<トヨタアセットマネジメント 投資戦略部 チーフストラテジスト 濱崎優氏>

との発言を引用したが、はやくも予想を裏切る数字が出た。
10月の貿易統計速報である。

貿易収支は5490億円の赤字だ。前年同月が2830億円だから倍になった計算だ。輸出がマイナス6.5%なのが利いている。10月からの環境税導入の影響もあり、輸入はマイナス1.6%で増えていない。

去年の今頃もすでに原発の多くは稼動停止しており、LNG・原油の輸入増だけでは説明は難しい。明らかに輸出減が主因で、しかも対中国輸出減(マイナス11.6%)が大きな比重を占めている。
しかもだ、トヨタのハマさんよ。自動車は44%減だぜ!

「当面は外需が(尖閣問題からの)リバウンドがあり、ゼロ近くまで回復する」との予想は明らかにはずれだ。

問題は消費税だ。本当にやるのか、大丈夫か? “エコノミスト”さんたちよ。


安倍さんの国債直接買い入れ論だが、
分からないことが二つある。
①なぜデフレだと不況なのか、
②こんなに金融緩和しているのになぜデフレなのか、
ということだ。
不況だからデフレになる、円高だからデフレになるというのは分かるが、
デフレだから不況になるというのが分からない。
もう一つは、ずっと金融緩和を続けているのにインフレにならないのは、お金が実体経済に回っていないからではないか。
その仕掛けを変えない限り、金融緩和してもデフレは変わらないのではないか、
という素朴な質問だ。

ユーロ危機が端的に示しているものは、もう後がないということだ。いまや投機資本に対抗できる力を持っているのは、アメリカ、ドイツ、日本の中銀だけだ。

それが眼いっぱいの金融緩和で辛うじて世界金融を支えている。これはいつまでも続かない。

総選挙必勝ー全国一斉決起集会が開かれ、志位委員長が報告している。
非常にすっきりした表現があるので紹介する。

①「アメリカ言いなり、財界中心」の政治システムを「自民党型政治」と一括する。
②このシステムの最大の危機は、展望を語れなくなったことである。


そして、かつてそのシステムが一定の“有効性”を示したことを認めた上で

自民党型政治という古い地盤に立つ限り、経済でも、外交でも、日本の直面する問題に何一つ答えを出すことが出来なくなっている。

と喝破する。この主張は党派を越えて共感を呼ぶのではないか。


レーニンの言う「革命的危機」が到来したといえる。
レーニンの「革命的危機」というのは次の三つの特徴がある。
①経済情勢の悪化により、国民のあいだに矛盾が深化すること
②国民のあいだに声をあげての抗議がが広がり、政治システムへの不信が広がること
③政府が情勢に対応できず、方針を指し示せなくなること
そして、最大の危機は政治システムが形を成さなくなり、事実上の無政府状態に陥ることである。
ただその危機は、抗議する国民がひとつとなり、現政府に代わりうる力を持った対抗勢力が形成されたときに、初めて現実の危機となる。

つまり我々がこれから相手にしなければならないのは、民主党や自民党ではなく、現政府でもなく、財界・官僚も含む政治システムなのである。
それが戦後,長きにわたって形成されてきた「自民党型政治」というシテムナのだということである。(志位さんは、その出発点を安保条約だといっているが、内容的にはもう少し広がりがあり、革マルっぽくサンフランシスコ条約体制というか、マッカーサー=吉田システムと言ったほうが良い気もするが


これって、赤旗に載りましたか?
広島市が音頭をとる世界平和市長会議(Mayors for Peace)にニカラグアのすべての市長が加入したんだそうです。
平和市長会議のホームページには "World's First Country to Have All Cities Become Members!" と!マーク付きで紹介され、その経過が載せられています。
最初のきっかけは2008年、オルテガ政権の Pablo Fernando Martinez Espinoza運輸大臣が広島を訪問したことに始まります。広島の要請に応え、マルティネスさんは全市長に署名を呼びかけました。
その年の8月の式典にはアラーナ大使が列席し、翌年8月には国連総会議長のデスコトさん(元ニカラグア外相)が広島を訪問しました。この頃から平和市長会に加入する市長がどんどん増えていきました。
2010年1月、当時の広島市長秋葉さんがニカラグアを訪れ市長の加入を要請しました。オルテガ大統領は秋葉市長にルベン・ダリオ勲章を贈りその努力を賞賛しました。
そして4月1日、ついに最後の3つの市で市長が署名、153の市長すべてが世界平和市長会議に参加することになったのです。これはすごい偉業です。日本でもできないことが、地球の裏側の小さな国で達成されたことに我々は敬意を払う必要があるでしょう。

或るサンディニスタの生き方

ニカラグア大使、アラーナさんの紹介をさせていただきます。

というより、アラーナさんに事寄せて、ラテンアメリカのこの40年を切り取ってみたいと思います。

1.アラーナさんのチリでの大学生活

アラーナさんは1973年(昭和48年)にチリのサンチアゴ大学経済学部を卒業されています。

ラテンアメリカでは学年末は8月ですから、きわめて微妙な時期に卒業されたことになります。つまり73年の9月11日にチリでは軍事クーデターが起こり、人民連合政権が圧殺されたからです。

無数の若者が街角で、あるいはサッカースタジアムに集められ射殺されました。その後も20年近く軍事独裁が続き、その間に多くの若者が「行方不明」(デサパレシードス)になりました。前の大統領だったバチェレ女史も捕らえられ、拷問を受けた経験を持っています。

その人民連合政府が誕生したのが1970年ですから、アラーナさんの大学生活は完全にその時代と結びついていることになります。サンチアゴ大学はチリ工科大学、コンセプシオン大学と並んで学生運動の中心的存在でした。

また学問の水準においても、当時の経済学部はラテンアメリカの経済学の進歩の牽引車となっていました。それは二つの特徴と結びついていました。

ひとつは、サンチアゴには国連ラテンアメリカ経済委員会(ECLA)の本部が置かれ、経済統計が集約されていたからです。ここではアルゼンチン出身のラウル・プレビッシュを中心に、「輸入代替政策」によるラテンアメリカ経済の離陸が提唱されていました。この方向は、1956年にアルゼンチンのペロン大統領が失脚したことによりいったん頓挫するのですが、1960年に国連が途上国の経済開発の重要性を打ち出したことから、ふたたび盛んになりました。

1962年にキューバを封じ込めるため、ケネディは「進歩のための同盟」を提唱し、ラテンアメリカにアメリカ流の開発政策を押し付けます。そのとき理論的なバックボーンとなっていたのがロストウという経済学者の「離陸」論でした。これに対抗して、ラテンアメリカの経済学者は「従属経済」理論というものを提唱します。これはアメリカ流の経済開発をやっても経済従属が強まるばかりだという批判でした。

「進歩のための同盟」の実験場となったのがチリでしたが、実際には経済はさらに悪化し、貧富の差はさらに拡大し、従属理論派の言う通りになりました。そこで民衆が立ち上がり人民連合政府を成立させたのです。そういう意味ではチリは二つの経済理論のぶつかり合う実践の場だったのです。

もう一つの特徴は、学問が実際の政治闘争と分かちがたく結びついていたことです。先日来札された佐藤さんがサンパウロから亡命してECLAで働いていたことは前に書いたとおりですが、当時軍事独裁を逃れて多くのブラジル人学者がチリにやってきていました。たとえばルーラの前の大統領だったカルドーゾもそうです。従属経済論で有名なドス・サントスもサンチアゴ大学で教鞭をとっていました。

アラーナさんの祖国、ニカラグアも当時はソモサという独裁者が三代30年以上にわたり政権を握り、反対者は保守派といえども容赦なく弾圧されていました。アラーナさんもたんに学問のためにチリに来たのではなく、政治的立場を貫くために祖国を離れざるを得なかった経過もあるのではないかと思います。

同じ頃、ニカラグアからサンチアゴ大学に留学していたもう一人の若者がいました。その名をウィーロックといいます。アイルランド系の移民の家系のようです。彼は「帝国主義と従属」という本を発表した後、ニカラグアに戻りサンディニスタ解放戦線の指導者となります。1979年に革命が成功した後は、農業改革大臣に就任します。84年にニカラグア訪問したとき、私たち訪問団はウィーロックと会見しています。

2.アラーナさんのアメリカでの大学生活

佐藤さんはクーデターの後チリを逃れ、祖国ブラジルに潜入し、そこで半ば非公然の生活を送ることになりました。しかしソモサの支配するニカラグアにそのような余裕はありません。アラーナさんはアメリカに移り住み、ワシントンのアメリカン大学でで研究生活を続けることになります。

アラーナさんは元々経済学を勉強していたのですが、ワシントンに移ってからは国際関係論に専門を移しています。国連かなんかの国際機関のポストを狙っていたのかもしれません。これが後々役に立つことになります。

履歴を見ると、78年で学業を終えています。そして79年にサンディニスタ革命が成功すると、いきなりワシントンの米州機構(OAS)の大使に就任しています。この間の空白はなぞですが、御本人に聞いてみたいと思います。

1978年、国内でのサンディニスタは活動を封じられていました。反ソモサの運動を担っていたのは保守党の指導者チャモロでした。そのチャモロがソモサの息子に暗殺されます。これに抗議する声は瞬く間に国中に広がりました。一時は国中が麻痺するほどになります。しかしソモサは逆に手当たり次第に反対派を粛清していきます。国民が合法活動の道を封じられるなかで、サンディニスタの武装抵抗運動への共感が広がっていきます。

79年の初頭にはサンディニスタの組織が統一を回復し、ついで保守党指導者ともソモサ打倒の目標で一致し、隣国コスタリカで救国臨時政府が結成されました。6月には全国総蜂起が始まり内戦へと移行していきます。そして7月19日、ソモサは国外に脱出し、入れ替わるようにサンディニスタが首都マナグアに凱旋することになります。

これが履歴書の空白期間にニカラグアで起きたことです。アラーナさんがどんなことをしていたかは、おおよそ察しがつこうというものです。だからサンディニスタ政権成立と同時に、「お前ワシントンで外交問題の研究をしていたんだから、そのままワシントンで外交やれよ」ということになったのでしょう。

3.アラーナさんのサンディニスタ政権時代の活動

外交官としての経歴を見て分かるのは、アラーナさんはただの職業外交官ではないということです。それどころか政権の中枢に座り、時々の国運を決するような外交の場に現場トップとして携わってきたということです。

アメリカに駐在する大使のポストは三つあります。一つは駐米大使です。これは外務大臣とほぼ同等のポストです。ほかの二つが国連代表と米州機構大使です。アラーナさんは米州機構大使としてスタートした後、国連代表の代理を務めています。なおアラーナさんの在任中、ニカラグアはラテンアメリカ諸国の強い支持を受け国連安保理の非常任理事国に選出されています。

これは好き好んでやった仕事ではないと思います。83年にはコントラが国境地帯で破壊活動を開始し、これに同調したクルース駐米大使が任を離れるという状況になりました。多くの職業外交官が去っていくなかで、サンディニスタ活動家がいやおうなしにポストを埋めていかなければならない状況が生じました。

83年にアラーナさんは本省に戻り北米局長になります。おそらく最高政策の策定に直接にかかわるためでしょう。当時のニカラグア外務省は解放の神学を奉じるデスコト神父が外相、次官にウーゴ・ティノコがいました。北米局長は実質ナンバー3に相当すると思います。

とにかく83年というのは大変な年でした。春にはコントラ兵5千名が本格的侵攻、首都マナグアから100キロまで迫ります。一方で、この年からコンタドーラ・グループの活動もスタートしました。コンタドーラ・グループというのはメキシコ、パナマ、ベネズエラ、コロンビアの4カ国で、パナマのコンタドーラ島で活動を開始したことからそう呼ばれます。

ニカラグアは最初、コントラなど相手にせず、アメリカとの直接交渉で事態を解決するとの姿勢をとっていましたから、コンタドーラの調停はあまり歓迎しませんでした。しかし自体が容易ならざるものと知った後は、コンタドーラ・グループの調停を積極的に受け入れるようになります。

コンタドーラ・グループの和平案を本線とする、この重大な転換が行われたのは84年9月のことです。私たちが8月にマナグアを訪問したときはまだ、コンタドーラの努力を是とするものの、あくまでもメキシコで続けられていたアメリカとの直接交渉に望みを託していました。

アラーナさんは86年に、本省の北米局長からユーゴスラビア大使に転出します。そしてその職に2年にわたりとどまります。経歴全体から見てきわめて異様なポストです。これはおそらく軍事的な意味が隠されているのだろうと思います。当時、コントラのあいつぐ侵攻に対抗するために急速な軍事力の増強がもとめられました。それは主としてソ連・東欧諸国の支援によって賄われました。そのハブとしての機能を果たしたのがユーゴスラビア大使館だったのだろうと思います。

内戦が激化するにつれ、国を離れる人材も少なくありません。そういうなかで裏活動も安心して任せられる人物といえば、政権内にそう多くはなかったのでしょう。

アラーナさんは88年に、コスタリカ大使に回ります。これが第一次サンディニスタ政権における最後の活動の場となります。アラーナさんの履歴書には、この期間にだけ注釈がつけられています。

私は交渉団の一員としてエスキプラス合意の具体化に取り組んだ。その結果ニカラグア政府と「ニカラグアの抵抗」(コントラ)との和平協定の調印にこぎつけた。

つまり、コスタリカ大使といっても、実際はコスタリカの首都サンホセでの和平交渉を取り仕切ったわけです。

4.アラーナさんのその後の活動

コントラとの和平が成立したものの、その後の総選挙でサンディニスタは敗れ、野に下ることになります。

アラーナさんも外務省を辞し、94年からは一般企業に就職しています。ただこのCOBIRSAという会社、ホームページを見ても何の会社か良く分かりません。サンディニスタとは関係なさそうな会社ですが。

いっぽうで、ふたたび学問を志し、メリーランド大学の外交・安全保障研究センターで、外交・安全保障政策の編制について学んでいます。ちょっと変人かもしれません。国際関係文献の “assiduous reader” と自己紹介しています。浪人のあいだにあっても刻苦勉励、いざ鎌倉に備え、おさ怠りなしといったところでしょうか。

ということで、ラテンアメリカ全体の歴史の流れとサンディニスタ運動の意義を語る上で、これほどふさわしい人はめったにいません。ぜひ御参加をお願いします。

兜町筋ではもう一つの狂気の発言が注目されている。
インフレターゲットを2.5%までかさあげし、日銀の国債消化でまかなえというのである。
一部ではこれで円安ムードが誘導され、輸出株銘柄が引き上げられるのではないかと期待する声もあるようだが、そういうのはゲスの株屋と相場は決まっている。
インフレだのデフレだのは通貨レベルの話に過ぎない。景気とは関係ない。鉱工業生産指数が上がって国民所得が上がって失業率が下がって初めて意味があるのである。回らないお金をいくら発行しても意味がない。それどころか中銀のへの信頼がますます毀損されることになる。
こんなことをやる政府への信頼は地に堕ちるほかない。まさに狂気の選択である。

差別用語の連発でまことに申し訳ございません。

まさに衝撃の発言だ。
この男、狂っている。
NHKは平気で流しているが、語っていることの中身は恐ろしい。
憲法を改正して、九条を無くして再軍備すると言っているんだぞ。
さらさらと流して良い話か。

号外を撒かなければならない中身だぞ。

かなりの確率でこいつが日本国首相になるんだ。こんな狂人にほんとに国を任すのか?

腐っても鯛、腐っても憲法だ。国の基本を変えるといっているのに、そんなにのほほんとしていいのか。

これこそ今度の選挙の最大の争点ではないか。

街頭の声では、中国が尖閣であんなことしているから再軍備は当然だとおっちゃんが言っている。
お前、戦争に行ったのか。
言ったこともないくせにえらそうな口たたくな、お前の親父にとっちめられるぞ。
いいか、戦争は二度としてはいけないんだぞ。戦争というのは人を殺しに行くことなんだぞ。命令されたら殺さなくてはならないんだぞ。
自分は行かなくて済むからそんなことを言うんだろうが、お前の息子は間違いなく人殺しになる。それも運がよければだ。そうして殺しまくって最後には殺される。

俺はお前を真っ先に戦場に送りたい。少なくとも息子を兵士として送り出して高みの見物をするのを許したくはない。

太陽光発電の記事を書いていて気になったのだが、結局、原発に代わるエネルギーってなんだろうという問題は、もう少しまじめにやっておく必要がある。

赤旗も、再生可能エネルギーへの転換というが、一足飛びにそこには行かないだろうと思う。当面LNGの確保に全力を挙げることが一番だろうと思う。その際一番の問題が価格だ。
このままの貿易赤字が続いて、しかもこれから円安に振れていくとなると、10ドルを切ることを目標に安定した輸入先を確保することが最優先課題だ。
もちろんLNGはCO2 を産出するから、それでOKとはならない。最低でも何らかの再生可能エネルギーとのミックスが必要だ。

GEのCEOは風力との組み合わせを説いているが、これが日本における解決策かといわれると、どうも問題なようだ。
とにかく故障が多すぎる。何とか公団のホームページを見ると運用停止の風車があまりに多いのに驚く。
10年ほど前、近くに大型パチンコ店が出来て、小型の風車を10本あまり取り付けた。2年も経ったら半分は回らなくなり、5年ほどですべて取っ払われた。どうも風力発電は日本の気候に向いていないのではないかという感じだ。

太陽光はいわば出戻りだ。一世を風靡したものの、コスト面でアウトになった。その問題はいまだ決着がついているとはいえない。積水ハウスのセールスマンですら、元を取るのは20年以上といっている。そのあいだに買い取り法律がどうなるかも分からない。下手をすれば始末に負えない粗大ごみとなる。これでは「武士の一存」というか趣味の世界だ。

私が考えるに、日本はこれまで資源を外国に頼ってきた。これからも外国に頼って生きていけばよいのではないかと思う。三井物産がアルゼンチンのパタゴニアに風力発電を作って、その電力を液体水素にして運ぶという計画を立てている。トルエンにくっつけても良い。そして火発でLNGと混焼する。私はこれだと思う。

基本エネルギーに関する政策はままごとではすまない。そこさえ覚悟しておけば、節電・省エネと並んで自家発電はおおいに意味があるし、比率としてもけっこう稼げるのではないかと思う。

このくらいのスタンスで行くべきではないか。

面白いデータが出た。
共産党の質問に答え政府が試算した結果である。

沖縄県内の米軍施設は230平方キロ。ここに太陽光発電設備を設置すると、年間160~240億KW時と出た。

沖縄電力の年間電気販売量は74億KW時だから、2~3倍に相当する。

とはいえ、むざむざ一等地にパネルを敷き詰めるだけというのも能がない話だが、最悪でもそれだけの価値はあるということだ。液体水素にして持ち出す技術が開発できれば、有力な産業となりうるかもしれない。

赤旗の女性面にこのような記事が載った

「管理職は転勤が条件」やめて
女性の昇格に壁
全労連が是正運動

というのだ。
私は、民医連に勤続していたあいだに17回転勤している。そのほとんどは単身赴任だ。
それが幸せだったか不幸せだったかは分からないが、必要だと思って受け入れた。けっこう言を左右にして拒否する人も多かった。「平等にやろう」といいながら、結局かぶらなければならない場面も多かった。

ただそれをやらないと、誰かが島流しになってしまう。それだけは避けたいと思っていた。そうなれば組織は崩壊してしまう。

幹部とはそういうものだ。管理職はそうでなければならない。行けない条件がある人はいるだろうが、行かないで、管理職に昇進されると、行った人間は浮かばれない。

これがさらに進行すると、幹部は現場に行かなくなり、それが制度化される。行きたくないものが幹部になるんだから当然だろう。

最初こそ多少は遠慮するが、じきに地方帰りを疎ましく感じるようになる。「彼らの考えは古いからな」と、正邪の問題を新旧の問題にすりかえる。

現場の責任者は当初は理事クラスの扱いだったのが、やがて課長職になり、係長職になり、主任職になる。

女性差別と結び付けて論じられると、話はややこしくなるが、転勤を受け入れる側の犠牲的精神の評価が、まずは論じられるべきではないだろうか。

本社の中だけ見ていれば、能力と役職のミスマッチが重大な問題に見えてくるのはしかたないが、組織は本社だけで動いているのではない。むしろ組織を動かしているのは地方であり、現場である。

現場を無気力化させてはならない。何よりも、現場主義の視点からの議論がもとめられると思う。


オバマがバンコクを訪問し、インラック首相との共同声明を発表。タイがTPPに前向きな姿勢を明らかにしたという報道。

赤旗によると、文章は以下の通り。
「タイはTPPをふくむ自由化水準の高い協定に“究極的”に参加するための要件について協議する」

日本政府の“究極”の核廃絶と同じで、入りませんという立場に近い。

タイの外相は記者会見で、「TPPに参加した場合の利益、損失について検討を始めた段階だ」と語っている。

国内の反応は、一言で言えば総スカン。そりゃぁそうでしょう。まだ1997年のことを忘れた人はいないでしょうから。

障壁、障壁というが、それはアメリカ側から見たときの話で、タイ側から見れば最後の防壁だ。

精一杯のリップサービスという感じだが、逆にこの一文をねぢこませたアメリカ側の圧力も相当なものだと思う。

とは言うものの、もし日本が入るとなれば、ASEAN諸国もそれなりに考えなくてはならなくなるだろうから、一応ツバはつけておこうということかもしれない。


前にブラームスの4番のことを書いたが、クライバーとウィーンフィルの演奏は80年のCD盤の前に79年の実況版がある。これがすごいハチャメチャで、天下のウィーンフィルが鼻面引き回されている。
CD盤はすこしそれよりおとなしくなっているが、ウィーンフィルは若き天才に参ったようだ。
88年の実況版のモーツァルトのリンツ交響曲は、ウィーンフィルが本気出している様子が伺える。とくに弦のパーツは、細かいニュアンスまでクライバーの指示を受け止め、音にしている。
カルロス・クライバー&ヒズ・オーケストラだ。まるでクリーブランド管弦楽団になったみたいだ。

そしてクライバーも、ウィーンフィルもこのあとは落ち目になっていく。

foobarの威力を試そうと思って、youtube で最高音質のこの演奏を選んだ。

この演奏はいろんな意味でミラクルである。1975年の録音で、しかも東ドイツでの録音だ。ライブ録音でオケはライプツィヒ放送交響楽団だ。ゲヴァントハウスではない。

ケーゲルという人はベルリンの壁崩壊の年、自殺したそうだ。いろいろあったのだろう。

私のブルックナーの聞きかたは一風変わっているのかもしれない。基本的にはBGMである。ブルックナーを流していると仕事がはかどる。難しいフレーズはない。実に単純な繰り返しである。
長いのはまったく苦痛でない。マーラーの長いのは苦痛だが…。静かなところはほとんど聴いていない、トランペットがガンガン鳴ると。「行くぞー、オラオラ」となる。

だからとにかく音=命である。強音の濁り、ハウリングは一番困る。高音のちょんぎれ便秘音も困る。耳が疲れるのは頭も疲れさせる。要するにうるさい音楽だから、うるさくなく聞こえてくれないと困るのである。

このケーゲル盤の演奏はそのどちらもクリアさせてくれる稀有な音源である。だから演奏の質は問わない。別にケーゲルがすばらしいとかオケの水準が高いとかは言わない。ただ私のような聞き方をする人間にとって、この演奏は音源としては最高である。


foobar2000_v1.1.11でずっと使っていたんだけど、
ふと最新版を見たら17になっていた。
何気なくヴァージョンアップしたが、何かしら音が良くなった気がする。
そもそも、11でWASAPIが標準仕様になって、突然音が良くなってびっくりしたが、そのときほどの驚きではないが、なにか音に艶が出た感じがする。
11のときはとにかく低音が鳴るようになって、一気に音に厚みが出たが、今度は中高音のざらつきがなくなってみずみずしさがある。たぶんWASAPIとの相性を微調整したのではないか。

以前は無理やりfoobarにASIOを載せて聞いていた。正直、あまり音質改善は見られず、しかも始終ハングアップした。他のソフトでは明らかにASIOで音質が改善したから、foobarとの相性が悪かったのだろうと思う。

何かこのことでコメントがないかと、ネットを当たってみたが、いまのところ反応はないようだ。

ただfoobarがこういう方向で音作りをするのはいかがなものか、という感もある。


さらに構図が明らかになってきた。
突然流れたNHKのニュース、それに続く読売の社説と、北海道狙い撃ちのキャンペーンが始まったが、それを受けて今度は政府が直接乗り出してきた。

赤旗道内版によれば、
2日に政府が道内電力需給対策として7%節電を要請し、「計画停電回避緊急プログラム」を全国で始めて策定した。
これに対し、日本共産党北海道委員会は以下のごときコメントを発表した。

①「危機」の根拠は不明確
2月の最大需要予測は563万KW、これに対し供給力は596万KWで、予備率は5.8%となる。
最低必要な予備率は3%とされており、その約2倍が確保されていることになる。危機感煽りは正しくない。

②もし危機とすればあまりにも遅い対応
東京電力や東北電力は、原発再稼動を見込めない下で、安定供給の責任を果たす立場から30万KW級の火力発電所を3台設置するなど緊急電源の対策を講じました。


とくに②が初耳だった。1年も前から不足が見込まれるのなら、どうして火発を建設しなかったのか、ここを明らかにすべきです。ちゃんと他所では出来たのですから、間に合わなかったでは済まされません。

おそらく北電は不足などと考えなかったからではないでしょうか。それを東京のほうから騒げとせっつかされているのではないでしょうか。
どちらにしても、社会の命綱とも言うべき電力をこのように弄ぶのは、社会紊乱の罪に問われてもおかしくないでしょう。不遜のきわみです。


今朝のニュースで、中国共産党の新指導部が紹介された。
それはそれで良いのだが、どうも中国通の解説が、一貫してぶれているような気がしてならない。

とりあえず感想的にしかいえないが、江沢民と湖錦湯の喧嘩というのはウソだろう。

一時は、失脚したかと思った習近平が、結局は主席に就任した。これは湖錦湯らの習近平追い落とし作戦が失敗したということだろう。逆に大会間近になってから、温家宝スキャンダルがばら撒かれるなど逆ねじを食わされた形だ。

それを跳ね返した力がどこにあったのかは、政治局常務委員の顔ぶれを見れば分かる。大方の予想をひっくり返す形で常務委員についたのは北京、天津、上海のトップだった。しかも彼らの多くは60歳を越えている。年齢から見れば、当然次はない。一期限りの就任だ。要するに現場の長老の合議体制が暫定的に敷かれたわけだ。

なぜそうなったか、理由は定かではないが、やはり湖錦湯ファミリーのはしゃぎすぎや、中央テクノクラートの強引な「改革」に危機感を持ったと考えるほかない。尖閣諸島での冒険主義も、民衆はともかく、幹部のあいだでは評判を落としただろう。

それで、とりあえず挙党体制を敷いて、少し時間を置きながら次世代へ委譲していくことを考えたのではないだろうか。
もともと湖錦湯は1年前の時点でレームダック化していた。それを政治権力を使って盛り返してきたのだが、基本路線で支持されてきたとは考えにくい。

そう考えると、今回の人事はきわめて妥当かつ健全なものだったと見てよいのではないだろうか。私としては、数年前までの鮮やかな中国外交の復活を期待したい。ただ、湖錦湯のバックには強大化した企業集団や軍産複合体が控えており、今後とも内部闘争は続くと考えなくてはならないだろう。


志位さんの予算委員会質問がすごい。
一気に読んだ。
日本の電気産業が、そのコアーとなる開発部門まで切り捨てにかかっていることが分かった。
NECはヒト減らしをして浮いた金で株主配当を復活させることが目的だという。

一昔前に、ハゲタカファンドとかハイエナファンドとか言って、企業を底値で買って解体してしまう投機資本が話題になったが、いまは会社そのものがわが身を解体しようとしているようだ。

まあ好きにしてくれという醒めた見方もできるが、彼らが経団連を介して国家にかぶりついている状況と付き合わせると、そうも言っていられない。彼らの次の獲物は国家そのものだからだ。

ニコニコで動画が見られるが、45分と、ちょと長い。


経団連の米倉会長が緊急記者会見しこう述べた。
「三党の信頼関係を作り出した上での解散表明で、非常に力強い」
また、総選挙で一党単独政権は難しいとし、
「三党が政策ごとに合意し実施する環境を、この機会に作って欲しい」
と述べた。

これは大変重大な発言だと思う。彼らは、これまで進めてきた「二大政党路線」とは明らかに異なる道を示している。
赤旗記者はこれを「三党談合路線」と評している。わたしは財界翼賛路線と呼びたい。

これはマニフェストを掲げて国民的支持を獲得した民主党を、忠実な飼い犬にしてしまったことへの自信の表れだろう。

それは、いかなる国民の声も、マスコミの力と小選挙区制のカラクリで抑え込めるという自信の表れでもある。

しかしそれは、日本をさらなる政治危機へと押しやる、きわめて危険な賭けでもある。

確かに、世論を意のままに操る点はたいしたものだと思う。しかし一番肝心なもの、この先の展望がない。

無謀な12年戦争へと迷い込んだ軍部・財閥の轍を踏もうとしているのではないか。

「海外生活の達人」というページにエルビルさんのインタビューが写真付きで載っていた。
若干長めに引用させていただく。

ニカラグア

初対面でも臆せず語り合う―“share & enjoy”の精神

 「さあ、何からお話ししたらよいかしら」午後の陽光が明るく差し込む執務室の長椅子に、エルビールさんは筆者と並んで腰をかけた。ここ、西麻布の ニカラグア共和国大使館で、アナ・パトリシア・エルビール(Ana Patricia Elvir)さんは総領事を務める。夫は駐日ニカラグア大使のサウル・アラナ・カステジョン(Saul Arana Castellon)氏。夫婦が大使と総領事として同時に任命されるのは、非常に稀なケースとのこと。

 エルビールさんは、元々外交官だったわけではない。ニ カラグアの大学で社会科学を専攻した後、約10年間(1980年代)はNGOで活動していた。その後は国家公務員としてニカラグア教育省に勤務し、 2007年に夫が駐日大使として赴任するのに伴い、総領事に任命された。

  大学卒業後に所属していたNGO組織は、“The Nicaraguan Committee for Solidarity, Friendship and Peace(「連帯・友情・平和のためのニカラグア・コミュニティ」注:現在は存在しない)”といい、エルビールさんはそこで海外との渉外活動を担当して いた。

当時のニカラグア情勢に触れると、1979年に「サンディニスタ革命」と呼ばれる政変が起こった後、米国のレーガン政権は、ニカラグアの反革命勢力である「コントラ」(右派武装ゲリラ)を支援するなどして軍事的圧力をかけ、同時に徹底した経済封鎖を行った。

その結果、ニカラグア経済はハイパーインフレに見舞われるなど大混乱をきたした。

「経済封鎖のダメージは半端 なものではなく、ニカラグア国民は生活物資にも事欠く事態に陥った。例えば、薬も食料も衣服も、練り歯磨きすら手に入り難い状況が続いた」―エルビールさ んはそう当時を振り返る。

エルビールさんが所属したNGOは、そうした困窮状態を国際社会に訴え、援助や経済投資などを促進してもらえるよう働きかけを行っていた。

 1990年2月の選挙で、親米保守派のチャモロ大統領が誕生。米国も10年間に及んだ経済封鎖を解 くに至った。

だが、チャモロ政権の発足当時、ニカラグアは約100億ドルの対外債務を抱えていた。国民所得は、1978年の水準の半分にまで減少し、人口の31%が貧困状態に、23%が極貧状態にあった。

貧困問題は依然として深刻で、現オルテガ政権も農村部での飢餓撲滅・生産振興を目的とした「飢餓ゼロ計画」を推進している。


先日も書いたが、やはりマイナス3.5%は衝撃である。
いわゆる「エコノミスト」と称する人々は、輸出低下は中国との関係悪化による一過性のものとし、国内生産低下はリストラに伴う一過性のものとし、財政出動があれば持ち直すと楽観視している。
というより、楽観論を流しているに過ぎないのだが、その先に何があるのかについては触れようとしない。

本日の赤旗主張は、この問題を正面からとらえている。といっても内容の大きさと深刻さから見て、主張欄の範囲では箇条書き的にならざるを得ないが。

構造不況の全体像
1.景気は後退局面に入った。これは一過性のものではない。
2.最大の原因は国民所得の低下である。とくに雇用者報酬の落ち込みにある。7年間で9兆円減少している。
3.過少消費による相対的過剰生産が景気後退を招いている。鉱工業生産指数は震災特需を除き継続的に低下している。

不況マインドの形成
4.消費税増税と社会保障の一体改悪で、国民負担は30兆円の増となる。これは内需の減少に拍車をかけるであろう。
5.消費税は中小下請け、商業など、雇用の柱となる分野にもっとも深刻な影響を与える。雇用不安に拍車がかかるであろう。
6.情報・電気産業での激しいリストラは、労働規制の破壊と労働環境のさらなる劣悪化をもたらし、ものづくり産業の衰退に拍車をかけるであろう。

不況の構造的背景
7.小泉内閣以降の構造改革で、企業活動への規制と労働規制が取り払われることにより、「トリクルダウン」の仕掛けが破壊された。そのツケが回されてきている。
8.現実にはすでに、東アジア経済が主体となっているにもかかわらず、日米同盟=中国封じ込めに固執し、システム上の軋轢を生んでいる。

というところでしょうか。かなり勝手読みしていますが…



これは10月15日のロイターの特ダネだそうだ。

喫茶店チェーンのスターバックスは、1998年にイギリスに進出。現在は735店舗を数え、1998年以来の売り上げは30億ポンド(約4千億円)に達している。
それにもかかわらず、通算納税額は840万ポンド(約10億円)に過ぎない。
とくにひどいのが2010年以降で、一文も払っていない。

英スターバックス社は、スイスのローザンヌにある子会社を通してコーヒー豆を購入し、その代金を支払っている。また買った豆をオランダの会社で焙煎し、その代金も払っている。これらの方法で費用を増大させ、納税を回避していた。

さらに各店舗から高額のロイヤリティーをとり、オランダのスターバック社のヨーロッパ本部に送金させていた。こうやって英スターバック社は赤字を作り出しているのである。

これに対し、MCDONALD'Sは36億ポンド の売り上げで、8千万ポンドの税金を払っている。KENTACKY FRIED CHICKENは11億ポンドの売り上げで、3600万ポンドを払っている。

議会での証言
スターバックスのヨーロッパ本部はオランダに置かれている。オランダ政府はスターバックス本部がイギリスからロイヤルティの支払いを受けることを承認し、特別税取り引きを与えた。

オランダの税率は約16%で、イギリスの法人税率は24%である。またスイスの法人税率は12%である。これによりスターバック社はイギリスでの営業によって得た利益について、差し引き8%の“節税”に成功したのである。

一方イギリスは自らの懐に入るべき税収をまるまる失い、オランダは濡れ手に粟のぼろ儲けをしたことになる。

日本のスターバックスはどうなっているのだろうか。そもそも日本の大企業はこのような売国的な“節税”対策を行っていないのだろうか。

以下に紹介するのは、メイン州選出の下院議員で女性のChellie Pingree さんという人が、地元紙の Huffington Post に寄稿したものである。

題名は“Recovering democracy after Citizens United”となっている。連邦最高裁判決で壊された民主主義をどう回復して行くのかという意味であろう。

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憲法がこのように修正されるのはクレイジーだ。つまり、アメリカ人の大多数にとってあまりにも明白な意見、「企業は人民ではない」という見解を明らかにする条項を付け加えることである。

しかし、そういうクレイジーな状況を、今日我々は眼のあたりにしている。

連邦最高裁が「シティズンズ・ユナイテッド」を支持する判決を下してからたった2年だというのに、我々はすでに破壊的な影響をひしひしと感じている。それは財政改革計画の深刻な後退となって現れている。

2010年の中間選挙は、これまでの歴史において最も高価な選挙であった。企業はありあまる利益を数億ドルも費やし、彼らを利するような人々を当選させようとした。そして大企業の懐をさらに膨らまそうとした。

「市民連合」はドアを開けた。さらにビッグ・マネーをつぎ込むことが許された。そこには企業の政治への影響力を強める目論見がある。いまや企業は豊富な選挙資金を無制限に寄付できるようになった。顧客や株主の金を同意なしに、制限なしに使うことが許されることになったからである。

私の故郷のメイン州では、匿名のドナーに支えられた州外のグループが、何百万ドルもの政治資金を使ってキャンペーンを行ってきた。そうやって連中の目論見に反対する動きを潰そうとした。我々はそれを見てきた。

メイン州では我々は幸運にも Clean Elections システムを持っていた。それは(最高裁判決に逆らって)、議員が企業の特別利益金を拒否することを認めるものだ。国家のレベルでもメイン州のやり方に従うべきだと思う。議会は小額のドナーの声を勇気づけるべきだ。

私は法案を作成した。超党派で提案することになる。その「Fair Elections Now Act」は、メイン州で行っているシステムを全国レベルで実施しようというものだ。

このシステムは少額ドナーを優遇した政治資金計画だ。これによって市民が選挙に主体的に参加できるようになる。「少額ドナー」システムは、それだけで全国レベルのすべての問題を解決するわけではないが、大きな力にはなるだろう。

すでにワシントンはビッグビジネスによって支配されているが、シティズンズ・ユナイテッド判決はさらに市民の敷居を高くした。普通の人々が声を上げても、その声はいくつものハードルによってさえぎられている。

我々の民主主義の中核は、誰でも平等に声を上げることだ。語り、聞くことだ。シティズンズ・ユナイテッド判決はその鍵となる価値を蝕んでいる。それは企業がたっぷりと金を使って彼らのスピーチを行ない、他のすべての人々の声を掻き消すのを認めている。

企業はそれなりに重要な目的をもって活動している。しかし人々に投票の仕方を教えることは企業の目的ではない。

私は彼らとともに働きたい。経済成長を維持し、社会の健康を増進させたい。だから私の政策について彼らの考えを聞きたい。そうすればもっとよくなるだろう。

しかし、彼らのものの見かたは労働者や雇用者のそれとバランスをとらなくてはいけない。彼らの顧客ともバランスがとれていなければならない。そして、彼らの決定が良かれ悪しかれ影響を与えるであろう多くの人々と、考えをすり合わせなければならない。

我々はこれ以上彼らに金を使わせてはならない。それは政策を彼らに都合の良いようにゆがめさせる為の金だ。

ミット・ロムニーは会社が人民であると思っている。私はそうは思わない。会社に人権手続きを行うといったって、第一、“straight-face test”にパスできないではないか。

悲しいことに、我々は憲法修正第一条を書き直さなければならないようである。すなわち「憲法により保護される権利とは人間の権利であって、企業の権利ではない」と。

これまでにも増して、ワシントンは政治活動へのビッグ・マネーの流れを止める必要に迫られている。強力なロビイストの地位を揺るがす必要がある。しかし「市民連合」はそうするための我々の能力を著しく弱めた。

下院議員の一人としての私の視線は、厳しい経済の時代に何とか生活を持ちこたえようとしている家族に注がれている。大企業ではない。彼らは議員に影響力を行使し、より多くの利益を搾り取ろうとしているだけだ。

我々は「市民連合」判決を無力化させる必要がある。そうすることで、ふたたび本業に戻ることができるのだ。

島崎桂記者の署名入り記事、「税金逃れは"不道徳"」というのがすごい
これはイギリスの話で、多国籍企業が一文の税金も払っていないということだ。
その代表がコーヒー・チェーンのスターバックスと、ネット通販のアマゾン、ネット検索のグーグルである。

この驚くべき“節税策”とは以下の通り。
①英国内での営業利益はいったん計上。
②外国に関連企業を立ち上げる。
③この関連企業に巨額の“経費”を払い込む。
④最終的に損失を計上し、法人税を免れる。
いわばおなじみの方法だが、やり方が徹底している。

これに対して、英議会決算委員会が参考人質疑を行った。
①スターバックス: イギリスで利益を出したのは2006年の一度きりで、利益の海外移転は行っていない。
②アマゾン: 委員会に出席はしたが、多くの質問に対して回答を拒否。
③グーグル: 納税回避のためにタックスヘイブンを利用していることを認める。

決算委員会の委員長はこう発言している。
委員会はあなたたちの違法性を非難しているのではない。不道徳性を非難しているのだ。

市民団体は、スターバックスへの抗議行動を呼びかけている。

記事は以上の通りだが、決算委員長の発言はちょっと変だ。
これはどう考えても違法な脱税行為だ。もしこれを取り締まる法律がないのなら、立法機能の代表者としては恥ずべきだ。

しかも国権の最高機関である議会に対し、「回答を拒否します」と言わせたままでは、議会の権威が無視されたことになる。

サッチャー以来の規制緩和の結果が、ここまで深刻化していることを真剣に受け止め、ただちに法改正に取り組むべきではないか。

GDPマイナス3.5%にはさすがにショックだ。

 内閣府が12日発表した2012年7~9月期の国内総生産(GDP)速報値は、物価変動の影響を除いた実質で前期比0.9%減、年率換算で3.5%減となった。(12日付け日経)

貿易赤字くらいでは別に驚きはしない。外貨はうなるほどある。しかも円高だ。

しかしGDPはマクロ中のマクロだ。GDP至上主義と非難した憶えもあるが、その重要性を否定したわけではない。とにかく諸指標がことごとく悪化するなかで、辛うじてゼロ成長を維持していた日本経済の底が抜けていく感じがする。

すこし経済政策との関係で調べてみた。

一般的論調は以下のごとくである。

0.9%の落ち込みのうち外需の落ち込みが0.7%、内需が0.2%を占める。輸出はマイナス5%で、尖閣諸島問題はあったものの、減少に歯止めがかからない状態になっている。

今回の落ち込みは、これまで景気を支えてきた内需が低下に向かったことが特徴となっている。これはGDPの約6割を占める個人消費が1.8%減となったためである。

主要な原因。直接には、エコカー補助金終了に伴う自動車販売の減少が利いている。電気・ガスなどの光熱費を含む非耐久財も節電などの影響で減少した。

しかしそのベースには、景気の先行きが不透明となっていること、それにより消費者マインドが悪化していることがある。これを反映して企業の設備投資も3.2%減となっている。


ロイターの「識者はこう見る」によると、今回の数字を深刻に受け止める「識者」は意外に少ない。

「家計の所得環境が限界的に悪化し始めていること」を挙げる声があったくらいである。

一方で、楽観的な見通しを打ち出すエコノミストもいる。

1ドル80円台が定着すれば、輸出は安定基調に乗る。復興需要は続いており、赤字国債が承認されれば公共事業が増える。

ここまではまだ良いとして、「来年は消費税率引き上げ前の駆け込み需要も想定される」とまで書いているから、「識者」としての「良識」を疑ってしまう。<三井住友アセットマネジメント チーフエコノミスト 宅森昭吉氏>

中間的な受け止めの代表が以下の発言である。

対中関係が悪化していため、外需の悪さは予想の範囲内のことだが、問題は内需の方で、個人消費と設備投資が思った以上に悪かった。とくに個人消費の落ち込みが激しい。

今後、当面は外需がリバウンドがあり、ゼロ近くまで回復すると予想されるが、個人消費がどこまで回復するのか注目している。それ次第だ。設備投資は構造的に減少しており期待はできない。<トヨタアセットマネジメント 投資戦略部 チーフストラテジスト 濱崎優氏>

総じて「識者」は企業の業績を基本指標にしながら、日銀・為替の動きを織りこんで先行きを判断しようとする傾向がある。これは1997年のときと同じ手法である。これでは時代の潮目は読めない。「エコノミスト」と称する人々にはそういう反省がないようだ。しょせん「株屋」だ。


ということで、この数字が出てくれば「ホンマに消費税やるんかいな」ということになる。

藤村修官房長官は「我が国の景気が弱めの動きだったことを確認する内容になった」との認識を示した。この認識から消費税増税は出てこないはずだが、「予定通りに引き上げられるように経済環境を整えていくことが重要だ」と述べるに留まった。

翌日の予算委員会で野田首相は「危機感を持って対応していきたい」と答弁し、11月中にさらなる経済対策を取りまとめるとした。消費税については言及しなかった。

もう一つ紹介の紹介。
「ルポ イチエフ-福島第一原発レベル7の現場」という布施祐仁さんの本を、丸山重威さんが紹介している。

「捨て場のない核廃棄物」とともに原発の「非倫理性」の筆頭にあげられているのが、正常に運転していても被曝で健康をむしばまれる人が必ず出る「原発労働」の問題だ。
…犠牲者を出さずには成り立たない原発という技術は、非倫理的だ。

「イチエフ」とは福島第一原発の意味だ。
…東電は7万~10万円の日当を出しているのに現場では1万円ちょっとの下請け構造だ。
…「線量パンクしたら使い捨て」という汚染水処理の作業員の言葉。
…多くの人が語り、随所に見られる「使い捨て」という言葉が印象的だ。

廃棄物問題と同列に置くのは、さすがに同意しがたいが、深刻な問題だということは間違いない。

それにしても20年以上も前に読んだ「原発ジプシー」と同じ構造がそのまま温存されているんですね。

日曜の赤旗は読書欄だ。
きっと買わないし読まないだろう本の紹介だけを読んでいる。

平川由美さんの「食欲の秋-文は食なり」が面白かった。嵐山光三郎「文人悪食」の紹介である。

森鴎外の好物は饅頭茶漬けで、ご飯の上にアンコ入りの饅頭を割ってのせ、煎茶をかけて食べたとか。
ばい菌恐怖症だった泉鏡花は大根おろしを煮て食べ、芥川龍之介は「羊羹の文字は毛が生えているようだ」と字面から羊羹を嫌い…
極貧のなかで生きてきた林芙美子は、蒲焼とお汁粉を食べたその夜に47歳で亡くなります。

「財政の崖」はたしかに存在する。しかしその崖は富裕層が作り上げているものだ。
それは、大統領選挙でオバマが勝利したことで、基本的には解決された。
一つは、歳出の自動削減を唱える共和党右派の敗北である。もちろん民主党が勝利したわけではないから、下院の壁は依然として残っている。しかし鉄壁ではなくなった。
もう一つは、今回の選挙が残した置き土産が、富裕層に対するいっそうの不信感だということである。4年前、自らの招いたリーマン・ショックで破産の危機に陥ったのを、オバマの財政出動で救われた。そのことを忘れて、極右の尻馬に乗って、ありあまる金を使って、ネガティブ・キャンペーンに奔走した富裕層の姿は、国民の目に焼き付けられた。

選挙後、これまで減税について中立的だった議会事務局(CBO)が、減税延長の経済効果について新たな試算を発表した。

赤旗の報道によると以下の通り。
①富裕層を含めて減税を延長した場合のGDP押し上げ効果は1.5%弱
②世帯年収25万ドル(2千万円)以上の層への減税を打ち切った場合の、押し上げ効果は1.25%
ということで、差し引き0.25%にしかならない。

歳出の自動削減が不可能となれば、共和党の矛先は医療保険に向かうことになるだろう。医療保険に対する国民の反感はたしかに根強い。日本における生活保護への反感と同じである。

富裕層から金を取るだけではダメだ。それが貧困層、社会的弱者に回されて初めてチェンジのうねりが始まる。ここが踏ん張りどころであろう。


以前にも、法人と個人の本質的な違いについて言及したが、法人の選挙運動を容認することがいかなる結果をもたらすかは、今回の大統領選挙を通じて明らかになった。
これを容認した連邦最高裁の「シティズンズ・ユナイテッド判決」への批判も強まりつつある。
アメリカが違うのは、ダメとなったら専門家や知識人の批判を待たずに住民が直接立ち上がることだ。
今度の大統領選挙で、コロラド州とモンタナ州ではこの判決の是非を問う住民投票が行われ、両州とも勝利した。

法律の話なので、少し解説を加えておかないと分かりにくい。

2010年1月に、シティズンズ・ユナイテッド(NPO)が選挙資金の企業献金の自由化を求めて裁判を起こした。
これに対し連邦最高裁は次のような判断を示した。
①政治献金に対する規制は、言論の自由を保障する憲法修正第1条に違反する。
②企業・団体も「自由人」として選挙への参加を認められるべきだ。

この辺の経過は英語版Wikipediaを参照のこと。

これに対してモンタナ州の住民投票は、「企業に自由人の資格はない」という主張をめぐり行われた。この主張は75%の支持を得て可決された。

コロラド州では、選挙への献金は制限されるべきだ。それは集や連邦の憲法に盛り込まれるべきだ。という主張が住民投票にかけられた。ここでも74%の支持で可決された。

カリフォルニア州では企業や労組の政治献金を禁止するという主張が住民投票にかけられた。さすがにこれは、正しくはあるが多少過激だったようで、55%が反対に回り否決された。

ということで、今回の大統領選挙は、企業の野放図の活動が許された最初で最後の選挙になるだろう(と期待する)。

カリフォルニアではこの投票は敗北したが、州知事の提案した富裕層の増税提案が住民投票にかけられ成立している。
州財務省によれば、これにより今後4年間で140億ドル(約1兆円)の増収が見込まれ、その全額が教育関連にまわされるという。
1兆円というのはすごいですね。これで富裕層がカリフォルニア州から逃げ出すか、そこが最大の見ものになりそうだ。


初めて聞いた「非定型BSE」
とりあえず、赤旗に載った山内一也さんの談話をメモしておく。
(山内さんは東大名誉教授で、元食品安全委員会プリオン専門調査委員会の委員)

1.BSEとは何か
「牛海綿状脳症」の英語の頭文字をとったもの。基本的にはプリオンというウィルスもどきの物質による感染症である。
病気としては、人間のクロイツフェルト・ヤコブ病と同じ。

2.非定型とは何か
定型とは、プリオンをふくむ飼料を摂取することにより、感染するBSEのこと。非定型とは、そういう因果関係がはっきりしないケースを指す。
「弧発性」とも言う。そのほかに「遺伝性」のものもあり、これらを総称して非定型BSEと称している。

3.非定型BSEの発見
2003年9月、日本で「弧発性」のBSEが確認される。その後世界各国から60頭あまりの報告がある。
2006年、米国で遺伝性BSEが発見された。

4.非定型BSEの問題点
a 非定型BSEも感染性を持つ。
b 病原体の対内分布が広範である。脳脊髄だけではなく食肉部分にも分布。
c ほとんどは無症状であり、検査しなければ分からない。したがって報告件数より頻度は高いことが予想される。

5.いまなぜ非定型BSEか
厚労省は
①米国産肉牛の輸入月齢制限を20ヶ月以下から30ヶ月以下に緩和する
②国産牛の検査対象を21ヶ月以上から31ヶ月以上に緩和する
という方針を打ち出した。
つまり高齢牛を避ければ安全は担保されるということだ。
しかし、日本での非定型BSE牛は23ヶ月だった。

有能な記者さんで、良くまとめているが、さすがにこのスペースではややきつい。医者の私でも、ちょっと分からないところもある。

もう少し勉強が必要ですね。

本日は老健施設所長としてのデューティーとして研修会に参加した。

研修会のゲスト演者は北海道ではおなじみらしい料理番組の専門家で、何でも出演回数の多いことでギネスに載るほどの人と言う。
話は徹底して庶民的で、面白く人をあきさせない。おばさん風の決め付けが多少気になるが、さすが人気タレントと思った。
演題は「高齢者の食事」ということで、私の興味の中心点のひとつでもある。

1.食べることは無条件に楽しみなのだろうか

聞いていて、ふと思ったのだが、「高齢者にとっては食事は必ずしも楽しみではないのではないか」、ということである。

人は日に三度飯を食う。人生80年として、3x365x80=87600回飯を食わなくてはならないのである。老健に入ってる人なら軽く9万回は越すだろう。考えてみるとこれってカルマですよね。

この人は料理研究家だから、当然人間は食事が楽しみだという前提に立っている。

2.性欲は無条件に必要ではない

ここでちょっと下世話になるが、セックスの話と比較して見たい。
人間、みんなセックスが好きというわけではない。毎日でもやりたい人もいれば、一生しなくてもすむ人もいる。若いときはお盛んだったが、最近では悟りを開いたという人もいる。
しかしさすがに日に三回という人はいない。人間にとって性欲はどちらかというと厄介者で、なくても済むくらいのものだ。

それでは食欲って何なんだろう。性欲と同じで、なくても良いものであってはいけないのだろうか。

現に高齢者だけでなく多くの人が性欲なしでも生きている。「欲がないと生きていけない」というのは、それだけでも嘘なのだと分かる。開き直るようだが、「欲なしに生きていたんじゃいけないんですか?」ということだ。

3.人間、食べられなくなったら終わりだろうか

人間、食べられなくなったら終わりだよね」という考えはみんな持っている。果たしてそうなんだろうか。飯なんか食わなくても生きていけるんなら、そのほうがよっぽどいいんじゃないだろうか。

人間の一日の内で8時間は眠らなくてはいけない。少なくとも8時間は仕事しなければならない。残りの8時間のうち、3度の飯に費やす時間は、料理と後片付けをあわせると下手すれば3時間を越える。

言いたいことはこういうことだ。

入所中のお年寄りが飯が食えなくなる、あるいは食わなくなる、こちらとしては「胃ろう」を勧めることになるが、家族はたいてい反対する。「人間、食べられなくなったら終わりだよね」ということだ。

本当にそうなんだろうか。「立たなくなったら男じゃないよね」という論理が、何のためらいもなく、そのまま持ち込まれているだけではないか。

4.何の欲もなくウツラウツラと暮らすのが解脱の境地

そうではないでしょう。物欲、性欲、食欲という欲望がなくなるというのは、80年も90年も生きてきて、そういう解脱の境地に到達したということでしょう。

一時代前に「恍惚の人」という言葉が流行った。恍惚というのは、本来悪い言葉ではない。我々の時代には、「恍惚」というのは女性がセックスの最中に絶頂に達して「アヘアヘ」とあえぐのを表現した言葉である。川上宗薫のお得意だった。

そうやって現世の欲望から離脱して、涅槃の状態に入って死ぬのは、むしろ人生の目標ではないか。そのためにこそ日に三度のカルマを積み、週に1度(?)の嫁さんとの(?)カルマを積んで来たのではないか。

5.食欲への過度のこだわりは世相の反映

錠剤1錠飲めば、その日の食事は終り、みたいな話が、子供の頃読んだSF漫画にあった。人生他にもっとやりたいことがあれば、それもまた一案であろう。

むしろ最近の異様に肥大した食文化こそが、問題なのではないかという気もする。一昔前はセックス産業花盛りだったが、それが衰えて食文化に移行したとすれば、グルメブームの偏った隆盛は、ある意味で人間社会の衰えの表現なのかもしれない。


いまfidelizerが音質改善の本命として人気だ。
基本的には悪く言う人はいないようなので、私も入れてみた。
最初は度肝を抜かれる。いままで聞こえてこなかったような音が聞こえてくる。音が粒だってびっくりするほどきれいだ。一年間拭かなかった窓ガラスを拭いたようだ。
音の定位も良くなり広がりも出る。これはすばらしいソフトが出たと思っていろいろ聴いてみた。聴いているうちに、だめなものはだめだということがわかった。
もともとの音が高音がだめだと、だめさ加減がむしろシャリシャリと強調される。
そのうち大変なことが分かった。管弦楽から弦の音が消えてしまうのだ。
たとえば小沢指揮シカゴ交響楽団の「展覧会の絵」、弦の音がまったく聞こえず、ブラスバンドになってしまう。スペクトログラフを見ているとコントラバスがガンガン鳴り響いているはずなのに、耳にはまったく届かない。
このプログラムはおそらく音の立ち上がりに微分計算でエッジをかけ、強調するのだろう。それはそれでよいのだが、それは変わらない弦の持続音を犠牲にして行われるようである。
よく「芸術写真」で白黒のコントラストを強調して、毛穴の一つ一つまで見えるような超くっきりの写真があるが、あんな感じである。あるいは超高速シャッターで、飛び散る汗の粒まで見える写真である。
第一、聴いていて疲れる。高音ちょんぎれのキンキンの音とは違う疲れ方である。テレビのシャープネス調節と同じように、音源に応じて微調整できればよいのだが、それが不可能な今は、使わないほうが無難であろう。
ただこれは、foobar+WASAPI で聞いた感想なので、AudioGate や Frieve Audio+ASIO だともうすこし違ってくるかもしれない。

つけくわえると、Firefoxはまちがいなく壊れる。youtube のダウンロード・ソフトは消え、再起動しても戻らない。再インストールが必要になる。ウィルスに近いソフトである。誰かが書いていたが、オフラインのオーディオ再生専用のパソコンがあったほうがいいのかもしれない。

60年代プロテストソング Top 10

http://www.toptenz.net/top-10-protest-songs-from-the-1960s.php

というのがあって、下記がそれである。ほとんど知らない。

1.  Give Peace a Chance

これはさすがに知っている。ジョンレノンとオノヨーコのコラボということになっている。John Lennon and the Plastic Ono Band in 1969。ほう、そうかね、これが一番かね。

http://www.youtube.com/watch?v=v8NkBZC6rO0&hd=1

2.  Masters of War

イギリス民謡にディランが歌詞をつけたものだそうだ。Odetta, Leon Russellらがカバーしている

http://www.youtube.com/watch?v=orlE6bVKzE0&hd=1

これは63年、ブランディス大学でのコンサートの録音。私としてはボブ・ディランとエリア・カザンにはアレルギーがある。

Tatiana Moroz sings "Masters of War" at Paul Festival 2012

という人のライブ演奏が良い

3.  With God on our Side

ボブ・ディラン、64年の曲。ジョウン・バエズのカバーも有名らしい。どちらにしても知らない。

Bob Dylan and Joan Baez singing "With God on Our Side

ということでその二人のデュエットが聞ける

4.  I Feel Like I’m Fixin’ to Die Rag

ジョー・マクドナルドが作った曲で、67年にサンフランシスコのバンド「カントリー・ジョーとフィッシュ」がカバーして有名になったそうだ。

Joe McDonaldが69年のウッドストックでうたっている。カントリー・ジョーの演奏はあまり好きになれない。

5. The War Drags On

英国のミック・ソフトリーが作曲。65年にドノヴァンがカバーして有名になった。

本家Mick Softleyの方がフォークっぽい。Donovanの歌はこちら HDではないが音質は悪くない

6.  I Ain't Marching Any More

フィル・オチスが作った、ベトナム反戦と公民権運動を結ぶ曲だそうだ。

Phil Ochsの演奏はこちら 「シカゴ8」という映画では、歌詞をメロディなしギターなしで吟じている。この映画は69年のシカゴの民主党大会のときのたたかいを描いたものらしい。

7. A Change Is Gonna Come

サム・クックというR&Bの歌手が差別と偏見に抗議して64年に作ったものだそうだ。しかしこれがProtest Songかといわれると、?

ここで歌詞付きで聞くことができる。Beth Hart のRock a Ballade 風の歌い方も悪くない。

8. Universal Soldier

Buffy Sainte-Marie が1964年に作曲. Donovan が1965に歌ってヒットした。

Buffy Sainte-Marie の自演は「なつかしのメロディ」風で聞く気にならない。Donovanの演奏はこちら。

9.  Blowin' in the Wind

これは、リンクを貼るまでもないでしょう。加えておきたいのはAlanis Morissetteの演奏で、ウp主が、"best version of this great song by far"と書いている。

10. Turn! Turn! Turn!

ピート・シーガーが62年に作曲し録音した。歌詞は聖書の伝道の書からの引用。フォークロックのバンド、The Byrdsが歌ってヒットした。

Begger というバンドのカバー演奏が聴ける。


4)米国留学のいきさつ

チュディは小学校、中学校と彼の生まれ故郷で過ごしました。彼はしばしば学校を休んで、サトウキビ刈に行かなければなりませんでした。彼はまた母の家庭菜園を手伝って、出来た野菜を売りに出かけました。母親はその売り上げの一部を彼が受け取ることを許しました。

父は正規の教育の必要を痛感していました。チュディが15歳のとき、首都ジョージタウンの官立中学であるクイーンズ・カレッジに、息子を送ろうと決めました。そこは故郷の村から160キロも離れたところでした。

チュディは三つの家を転々としながら何とか卒業することが出来ました。しかし学校を卒業した後、彼には就職のあてがありませんでした。インド人の青年には、官庁への就職は絶望的でした。

学校の先生になろうと思ったらキリスト教徒になるしかありませんでした。ヒンズー教を信じる両親にはとても受け入れることが出来ない選択です。しかしチュディがそのままプランテーションに戻ることも、とても耐えられないことでした。

ついに彼の父は、チュディをアメリカに行かせることに決めました。そしてワシントンD.C.のハワード大学で歯科医の資格を取るために、チュディは留学することになりました。

チュディはワシントンDCのハワード大学で2年間、歯科医となるための進学コースを送りました。そしてニューヨークでさらに2年間学び、それからシカゴのノースウエスタン大学で、歯科医になるべく最後の5年間を送りました。

チュディは一生懸命勉強して、ハワード大学の2年目には授業料が免除される奨学制度を獲得しました。そして1938年にはノースウェスタン大学歯学部へ進学することが出来ました。

ハワード大学での経験は、チュディを大きく成長させました。南部での公然と認められた人種隔離の現実は、彼の目をアフリカ系アメリカ人の状態に向き合わせました。ニューヨークとシカゴでの生活は社会科学の研究、社会主義者の書物に接する機会を与え、彼の教養の幅を広げました。

両親の仕送りで生活することはとても出来ませんでしたから、チュディはさまざまなアルバイトを経験しました。ボタン・ショップでのつくろい、怪しげな薬のセールスマン、皿洗い、夕刊紙の配達員、洗濯屋のアイロン掛け、エレベーターボーイなどたいていのことはやってのけました。

5) 祝福されない結婚

1942年、チュディはノースウェスタン大学を卒業し口腔外科(DDS)の学位をとりました。そんなことのあいだに、友人のパーティーでジャネット・ローゼンバーグと出会ったのです。それは衝撃的な愛でした(It was love at first sight!)。

その後8ヶ月のあいだ、二人は慈しみあいました。そして二人はシカゴのシティーホールで簡素な結婚式を挙げました。その結婚式にはどちらの両親も同意もせず、祝福もしませんでした。チュディは研修先の歯科ラボで、お手製の金で出来た結婚指輪をこしらえました。

この写真は、1943年8月5日、彼らの結婚式のときの写真です。“プリクラ”でとった一枚25セントの写真ですが、彼らにとってはこれが唯一の結婚記念写真です。

それから2ヶ月経った10月、“ジャガン博士”は故郷に戻りました。そしてその2ヵ月後、もうじきクリスマスというとき、彼の妻ジャネットは、英領ギアナに到着しました。旦那以外の誰もジャネットの来るのを祝福しませんでした。

「彼女は貧しいもの、恵まれないもの、障害を負うもの、抑圧されたもの、社会からのけ者にされ、爪はじきされた者への変わらぬ誠意と愛情を持ち込んだ。そして、政治というものはまず何よりも誠実であるべきだと主張し、譲らなかった。それが私に与えた影響は計り知れない。その結果、いろいろなことが起こったが、私にはひとつも後悔することはない」

「私は彼女とぴったり一緒になって働いた。どんな心配事も相談し決して隠し事などしなかった。彼女は私に心の安らぎを与えてくれた」

6) 歯科医としてのジャガン

ジャガンは首都ジョージタウンでクリニックを開業しました。政治活動にとびこんだ後も歯科医のしごとをやめることはありませんでした。1943-1957までフルタイムの診療を続けていました。その後政務が多忙になっても、昼食時間はパートタイマーとして働き続けました。

ジャネットは看護学生として受けた教育を生かし、優秀な歯科助手となりました。ジャネットはこう言っています。「幸いなことに彼は決してのぼせ上がることはなかった。そして彼が獲得した“名声”に影響されることもなかった」

彼はきわめてせわしない(meticulous)性格で、数秒単位で同じ場所にたっていることは出来ない人で、いつも最も有効な動き方を追求していたということです。

彼は一緒に働く人々にもいつもベストを尽くすことを要求しました。そして患者が貧乏であろうと金持ちであろうと最良の治療を行おうとしました。彼は決して「つり銭を少なく渡す」ような人ではなく、正直そのものの人でした。ほかの歯科医は彼の治療代が安いのに顔をしかめました。しかし彼は、自分には患者から搾取することなど出来ないと分かっていました。

そのころ歯に金冠をかぶせるのが流行でしたが、彼は金冠をかけるために良い歯までいぢる様な治療を拒否しました。

ジャガンは、クリニックの中にとどまることがありませんでした。いろいろな場所に“歯科クリニック”を立ち上げ、すべての治療を無料で行いました。

仲間の一人はこう語っています。「彼らは、これまで英領ギアナでは見たこともない“草の根”型のキャンペーンを行った。彼らは村々に行って人々に語りかけた。それだけではない。彼らは彼らとともに食べ、彼らの小屋に寝泊りし、農園労働者に彼らの献身ぶりを納得いくまで示した」

彼にはもうひとつの責任がありました。彼を育ててくれた家族に対する責任です。米国での勉強から戻ったその日から、彼は弟や妹に系統的な教育を始めました。彼らを外国に送り、歯科、法学、薬学、検眼、看護の勉強を行わせました。

7) 政治活動の開始

故郷の砂糖農場で働く労働者が次々に彼の元を訪れては、さまざまな問題や闘いにおけるアドバイスを求めるようになりました。彼らは、彼らの身内の一人が「ドクター」となり、このような大きな「管制高地」を獲得したことを誇りにしていました。ジャガンもその願いに誠実に応えようとしました。

1946年11月6日、ジャガン夫妻が中心となり「政治委員会」(PAC)が創設されました。ほかの創設メンバーはジョスリン・ハバード、アシュトン・チェイスという労働運動指導者です。ジャガンは米国留学中に科学的社会主義に触れ、すでに確固とした信念をもっていました。

委員会は労働運動とともに行動しました。そして運動の中に新しい進歩的な思想を広げ、地方と外国企業の労働者に連帯を広げ、マルクス・レーニン主義のクラスを開いて哲学を教え、国際主義を鼓舞しました。

同じ年、英領ギアナにおける最初の女性組織「女性のための政治・経済機構」(WPEO)も結成されます。ジャネットが書記長に就任し、ウィナフレッド・ガスキン、フランセス・スタッフォードらが中心となって活動を開始します。

PACは週刊の機関紙を発行し始めました。それはジャガンが米国で買ってきた小さな謄写版印刷機で刷られました。この機関紙は国内の反動派にとってとんでもない怪物(bugbear)となりました。その発行を禁止すべきかどうかが、国の内外で絶えず議論されるようになりました。しかしその議論は、結局のところ機関紙がますます影響力を広げるのに役立っただけでした。

ジャネットはジャーナリストとして習熟し、やがてブレティンの編集者を任されるようになりました。

8) ジャガン、国会議員に

47年12月18日 チュディはデメララ中部選挙区から独立系候補として国会議員(総督府付属の立法審議会)に立候補し当選しました。このときチュディは29歳、最も若い議員でした。そして、議会でただ一人の野党議員としてやがて国中に知られるようになりました。

「私が立法院に初めて議席を獲得したのは45年前のことだった。それは私の人生のうちで最も刺激的で、楽しくて、生産的な期間であった。私は使える報告を片っ端から読んで、全力を注いで議案作成の仕事に集中した。

それから本当の戦いが始まった。私は地主たちと既得利益層を代表するもっとも頑迷な連中と立ち向かわなければならなかった。私の経験は、いつの日か権力を獲得した暁には、論理とか熱情以上のものが必要になるということを教えてくれた。

私は自らに言い聞かせた。私が成功するとすれば道はただひとつ、私に投票してくれた人々の要求を掲げ、彼らとともに行動することだけだと」

チュディ・ジャガンの生涯

 チュディ・ジャガンは、その妻ジャネット・ローゼンバーグ・ジャガンとともに、ガイアナのシンボルともいえる人物です。ジャガンなくしてガイアナの歴史は語れません。と言うよりジャガンの生涯がそのままガイアナの歴史といっても過言ではないでしょう。

ジャガンが97年になくなった後、ガイアナに記念館が出来ました。その記念館のホームページには、豊富な写真とともに彼の生涯がとても詳しく紹介されています。ここでは彼の活動を編年記風に追ってみたいと思います。ガイアナ年表のほうもご参照ください。

チュディジャガンの生い立ち

1)サトウキビ農場に生まれる

チュディ・ジャガンは1918年3月22日、ガイアナの海岸地帯、アンカービルのサトウキビ農場で生まれました。父親は砂糖農場で働く労働者でした。

生まれたところはベルビセ県ポート・ムーランという町の近く、アンカービルという村です。(Ankerville、Port Mourant、Berbice)

ポート・ムーランは首都ジョージタウンから海岸沿いの道路を120キロほど東に行った所です。

ポートといっても、海岸に直接面しているわけではなく、海岸線とハイウエイのちょうど中間あたりに位置しているようです。街道町というわけでもなさそうで、運河の船着場に接して、農場の集荷場や粗糖工場、オフィスなどがあって職員などの住宅や購買所などが集落を形成しているのでしょう。

地図を見ると分かるように、ジョージタウンから第二の都市ニュー・アムステルダム、そしてスリナムとの国境までのあいだの海岸線は運河の網の目が帯状に広がっています。ガイアナはかつては英領ギアナと言いましたが、そもそもこの地域に植民したのはオランダ人でした。彼らはお得意の運河をこの国でも目いっぱい作ったのです。

青々としたサトウキビ畑とそれを取り囲むジャングル、そのあいだを縫うようにしてゆったりとした川の流れ…、絵のような光景が思い浮かびます。

2)インド系ガイアナ人であることの意味

美しい風景とは裏腹に、人々の生活は大変厳しいものでした。サトウキビ農場の仕事というのは刈り入れ時が勝負です。マチェーテと呼ばれるなたのような山刀で、2メートルはあろうかというサトウキビを根元から切って、それを束ねていくのです。これが集荷場に集められ、工場で圧搾されて最終的には黒砂糖の塊となって出荷されます。

この時期(キューバではサフラという)が過ぎれば、仕事は俄然ヒマになります。労働者はお払い箱となって、あとの9ヶ月を自分の才覚で生き延びなければなりません。

昔はこの刈り入れ作業を黒人奴隷が行っていました。しかし英領植民地では19世紀の中ごろ奴隷制度が廃止になり、労働力が不足するようになってきました。自由の身になった黒人たちは、より良い生活を求めてジョージタウンやニューアムステルダムに行ってしまいました。困り果てた農園主たちは、黒人奴隷の代わりにインド人を連れてくることを思い立ちました。

黒人ほどではないにしてもインド人なら暑さに強いだろう、インドも同じくイギリスの植民地だから言葉には不自由しないだろう、と考えたのです。こうして19世紀の後半から大量のインド人労働者がやってくるようになりました。彼らは契約労働制といって、給料の前払いを条件に5年間の“年季奉公”を強いられていました。その代わり農閑期には与えられた居住地の範囲内で“自由に”生活することが出来ました。

年限は限られているものの実際には奴隷と余り変わらない生活ですが、それでも故郷での労働条件よりはまだましだったため、希望者は後を絶ちませんでした。年季奉公を終えた後も少なからぬ人々がガイアナに居残りました。その結果、今ではインド系住民が人口のほぼ半数に達し、最大のエスニシティーを構成するまでにいたりました。

雇うほうは、心中は奴隷を使うのと同じ気分でインド人を雇っていましたが、インド現地の口入れ屋はきっと夢のような景気のいい話で人々をだましていたでしょう。だから当然ガイアナ入りしてから「話が違うじゃないか」という手のクレームは頻発したことと思います。ガイアナの解放闘争が黒人の抵抗運動とは違った組織性と革新性を持っていることには、こういう背景があります。

3)チュディの両親

チュディの父親も母親も、実は「戻り入植者」です。二人は1901年にも5年契約でガイアナに来たことがあり、ベルビセの別々のサトウキビ農場にいました。

二人の両親はともにインドのウッタルプラデシュ州のバスティというところからやってきました。生活は大変厳しいものでした。一家の生活の足しになるため、二人も小さいときから働きました。父は幸運にも3年ほど学校に通うことが出来ましたが、母はまったく学校に行っていません。

二人はウッタルプラデシュに戻り、その後縁あって夫婦となりました。結局インドでうだつがあがらないまま日々を過ごしていた父親は、ふたたびガイアナにわたる決断をします。乗っていたのは当時インドからの移民を運んでいたエルベ号という船でした。

チュディは両親を回想して次のように語っています。

「私の母は、背が低くて、もの静かで、倹約家で、とても信心深い人だった。私の家族の生活が成り立つよういつも懸命だった。彼女は底知れぬ我慢強さで、長い苦しみに耐えてきた。私は母からやりくりの知恵を学んだ」

「いっぽう私の父は、金もないのに気ばっかり大きくて、大胆というか派手好みの性格だった。クリケットと競馬にかけては“偉大な選手”として郡内に知れ渡っていた。賭け事も大好きだった。背が高く色白で、絵のような美男子で、口髭は郡で最も大きいと自慢していた。もし私が指導者としての資質を持っているとするなら、それは父親から受け継いだものだ」


Vmax の思い出

循環器学会の会長講演で懐かしい話しがずいぶん出てきた。VmaxはロスJrの提唱した概念で、その後前負荷や、後負荷の影響を排除し得ないということで棄てられた概念だ。私が卒業したばかりの73年頃に一世を風靡したものだ。このロスがUCデービス、そしてその元になった心筋のCE、SEの概念を提起したのがニューヨークのゾンネンブリック、あと一人誰か有名な人がいたように思う。Emaxの佐川先生や、名前は忘れたがもう一人の日本人の有名な先生は、このグループの流れを引いているはずだ。

なぜ、このような基礎的研究が臨床屋の必須の知識になったかというと、やはりエコーだろう。特に日本では心音図研究会の存在が大きい。東大の坂本先生はもともと心音図の第一人者だったが、心エコーが日本で使われ始めると、いち早くこれに取り組み、とくにエコーを心機能の評価に利用することで,その有用性を飛躍的に高めた。

私が最初にエコーのデモを見たのは74年頃で、MSの患者を連れてきては矩形派のようなM弁を見て、感心したのを覚えている。それまでは「ズットロー」というOS+ランブルの音だけが頼りで、怪しいと思うと、患者を第二内科に連れてゆき、田辺先生に音を聞いてもらったものだ。田辺先生はひそかにあだ名をつけられていて、「ゲロちゃん」というのだ。ゲロというのはドイツ語のゲロイシュ、つまり雑音、英語で言えばマーマーだ。おそらくその声が割りと甲高く、音量も大きいことからつけられたのだろうが、心雑音の専門家でもあった。彼がMSといえばMS、ARといえばARだった。

診察はたっぷり30分はかかったと思う。今にして思えばカロティス(頚動脈派)、ジャギュラー(頚静脈、当時はユグラーといっていた)、アペックス(心尖拍動)などを見たあと、おもむろにステートを取り出し、メンブランとベルで聞き比べ、呼吸変動をしらべ、亜硝酸アミルを嗅がせて…という手立てを踏んでいたのであろう。そんなことは知らない私らにしてみれば、それは一種の神秘的な儀式のように見えたものである。「Ⅲ音というのは聞くもんじゃなくて触れるものなんだよ」と言われたのが、今でも思い出される。

そしてありがたいご託宣をいただいた後、患者さんと二人で菊水の病院まで帰るのである。結構患者さんも満足していたような気がする。しかしたいていは手術もしないまま亡くなっていた。手術死亡率は恐ろしく高かったのである。

「内科」という雑誌に連載された坂本先生の「心音図の臨床」という文献が、当時のバイブルだった。いま思えば、それはTavelの焼き直しだったかもしれない。しかし私たちはそれをコピーのコピーで、それこそ眼光紙背に徹するほどに読み込んだ。

しかしその坂本先生を直に目にする頃、もはや「教祖」に出会ったときのような感激はなかった。私はすでに東京女子医大でCCUを経験し、スワン・ガンツとフォレスター分類を日常の基準としていたからである。当時、血管拡張剤療法が一世を風靡しようとしていた。私が東京女子医大で研修した時期はまさしくその時期に当たる。あの頃は向かうところ敵なしだった。日本でスワンガンツをルーチンとしていたのは東京女子医大しかなかった。日本医大がそれに次いでいた。

天下の坂本先生といえども、スワン・ガンツのデータの前には沈黙するほかなかった。

私が心音図研究会に参加するようになったのはその頃のことである。私が東京女子医大にいる限りは心音図の連中がどう言おうとカテ屋の勝ちである。心音図屋がどう言おうとエコー屋がどう言おうと連中にはPCWPは出せない。心拍出量は出せないのである。

心筋梗塞の患者が入ってきたら、まずはCCUに入れて、フェモラールからスワンガンツを入れ、RAに入ったら造影剤を10cc入れて、ピコピコとPAまで進めたら液を抜いて、紙を流しながらゆるゆるとカテを進めると、ストンと圧が下がって「ハイ、楔入圧です」ということになる。

楔入圧を計ったら、また少し抜いて、カテ先がPAメインになったあたりで、今度は生食を冷やした氷水を注入する。手のひらが真っ赤になるくらい気合を込めてボーラス注入する。1秒か2秒すると、電光掲示板に心拍出量が掲示される。これを記録すると,今度はいろんな薬剤を注射してそのたびに肺動脈拡張期圧と心伯出量を記録するのである。

患者さんの負荷たるや大変なもので、体温も相当下がったであろう。私は心からお勧めする。心筋梗塞になったら、決して大学病院などには行かないことを。

 

北海道新聞の夕刊に、東直子さんという歌人が、山田航第一歌集「さよなら バグ・チルドレン」の紹介を書いている。この文章自体が大変良いのだが、図書館に行って縮刷版でも見ていただくしかないでしょう。

作者の山田航さんという人は「二十代半ばの若さで有名な賞を立て続けに受賞した注目の新人」だそうである。

いつだって こころと言葉を結ぶのが 下手だね どうしても固結び

世界ばかりが輝いてゐて この傷が痛いのかどうかすら わからない

たぶん 親の収入超せない僕たちが ペットボトルを補充していく

鳥を放つ。 ぼくらは星を知らざりし犬として 見るだろう 夜空を

打ち切りの漫画のやうに 前向きな言葉を交はし 終電に乗る

地下鉄に轟いたのち すぐ消えた叫びが ずっと気になってゐた

いつも遺書みたいな喋り方をする友人が 遺書を残さず死んだ

雑居ビル同士のすきま 身を潜め 影が溶け合う時刻を待った

ウーム… と、すぐには言葉がない 暗い その透き通った暗さの底がひりひりと輝いている 暗さの底にやさしい顔の人がいる

ただ時代の心象風景を鮮やかに切り取ってはいるが、時代を超えるようなものを掬い出しているのか、となると、またしてもウーム… である。

しかしそれを“甘え”といってはいけない。世の中、十分以上に厳しいのである。出来上がり、目標を喪失した砂のような社会のなかで、突き放した自己に寄りかかり、硬質な美意識を持ち続けることが、かすかな甘みをかもし出しているのだと思う。

評者の東さんは「打ち切り」という言葉に情念の尻尾をつかんだようだ。

ペルーとアルゼンチンへの支援

1960年代初期に、Saldanaはアルゼンチンとペルーのゲリラ戦線のために支援活動に取り組んだ。

1963年後半に、ホルヘ・リカルド・マセッティの率いるゲリラ戦線がアルゼンチンで開かれた。彼はゲバラの指示の下に動いていた。

マセッティはアルゼンチンのジャーナリストで、1958年にシエラ・マエストラに取材旅行に出かけ、キューバの革命の支持者になった。彼はキューバへ引っ越し、通信社プレンサ・ラティーナの創設を手伝った。

アルゼンチンのゲリラに対するロジスティックな支援は、ボリビアで組織され、ボリビア共産党のメンバーも参加している。Abelardo Colome Ibarra (Furry)も当時の仲間の一人で、現在はキューバ軍中将で内相の座にある。

アルゼンチンのゲリラは、1964年の初めに軍によって根こそぎにされた。Masettiと大部分の彼の僚友が、死んだ。

Saldanaは、彼の経験について話した。

「20世紀鉱山」から戻った後、私は自動車修理工場を開業しました。車修理、塗装、板金作業など何でもやりました。

その仕事はニャンカウアスで軍事行動を始めるまでのあいだ続けました。もちろん、そのあいだに店を留守にしたことは何度かありました。たとえば南の闘争を支援したときです。

Q: “南”というのは?

S: アルゼンチンのマセッティのことです。

Q: ペルーについてはどうでしたか? ペルーのゲリラも支援していたのですか?

S: そうです。そちらもです。

Q: ペルーではプエルト・マルドナドのゲリラ闘争もありましたが、それもですか。

S: そうです。彼らの使うすべての装備は私の手を通っていました。私は装備を集め、保管しました。そして積み出しの準備をしました。

私の作業は、私の修理工場で運営されました。とくに南への供給についてはすべてです。

多くのものが必要でした。私は物資を詰めて出荷するのに知恵を絞りました。たとえば上げ底方式です。ドラム缶を持ってきて油を抜きます。それから蓋を外して底の方にアイテムを詰めます。その上に中蓋を置いて溶接します。そしてふたたび油で満たします。

ドラム缶が到着すると、ゲリラたちは逆さにしてノミで穴を開けて中身を取り出すのです。


ここまで読んでがっかり、ゲバラとともに戦ったゲリラ闘争のことは省略されています。70年から後の話がまだ続きますが、もうやめます。
詳しくは雑誌を買って読んでくれということでしょう


Rodolfo Saldaña はゲバラのボリビアでのたたかいを生き抜いた一人で、ボリビア人である。
彼は1997年4月にハバナで「ミリタント」誌のインタビューに応じている。その要旨が下記のページで読める。
http://www.themilitant.com/2001/6503/650350.html

少し紹介しておこう。

Q: あなたの経歴について話してください。どのようにして政治活動にかかわるようになったのですか。

S: 私の最初の政治的な闘いは、高校に入学したときからです。私は、それからずっと革命勢力の味方でした。

Q: それはどんな年でしたか。

S: 1947年に、私はスクレの高校に入りました。その1年前、Villarroelの政府に対して人民の反乱が起きました。Villarroelは、ラパスの街の街灯に吊るされました。

Q: その政権はどんな性格のものだったのですか。

S: Villarroelは軍人でした。彼は帝国主義のあいだの国際的な矛盾をうまく利用しようとしました。彼の政府は、アルゼンチンやブラジルと密接な関係を持ち、第二次世界大戦ではドイツに共感を抱いていました。同時にアメリカの圧力も受けており、どちらにも偏らないようにしていました。

それは反ファシスト人民戦線の時代でした。最も強い人民からの支持をもつ政党はPIR(革命的左翼党)でした。

私はPIRのメンバーでなかったのですが、デモ行進に参加し、よく投石をしていました。

Q: PIRは、当時ありましたか?

S: PIRはその後共産党にその座を譲っています。PIRの左派は党を去り、あらたに共産党を作ったのです。

1950年に、共産党は主にPIRの若者たちによってつくられました。私は実質的のその創設メンバーでした。その時、私はラパスに住んでいました。私は街頭行動やストライキに参加しました。それらは権力との対決、そして虐殺に終わりました。

1952年に、MNR [革命的民族運動]が権力を握り、鉱山の国有化や土地改革の旗手になりました。それらはもともとPIRのスローガンでした。

1950年代初期にボリビアの学生運動のリーダーとなったサルダーニャは、世界民主主義青年連盟の大会に出席するためにチリに送られた。彼はその後、ブラジルとモスクワへ旅立った。

1950年代半ば、MNR政府は大学の自治を奪い取ろうとした。サルダーニャはそれとたたかう学生運動の先頭で活躍した。

その後、私は共産党の組織委員会のメンバーになりました、そして、何をなすべきか、いかに党を組織するか考え始めました。

我々は、最も重要なことはプロレタリアートの間で党を組織することだと決定しました。しかしプロレタリアートのどんなセクターが重要なのか、この国のどの地域に主要な関心を向けなければいけないのか。

その結果が鉱山での活動だということです。そして当時この国で最も重要な鉱山を見出しました。それはPotosi とPulacayo の二つの山を持ち、6千人の労働者を抱え、この大陸で最大の鉱山だった「20世紀」鉱山会社です。

最初は、我々は通常通りの活動を行いました。指導者が鉱山へ行って、党員やめぼしい活動家たちと会い、細胞を作り、同志たちが結集しました。しかし散会した同志たちは何も行動を起こそうとはしませんでした。「元の木阿弥」です。

今度は三人の同志が三つの山に別れ、およそ1ヵ月そこにとどまって、核になりそうな人々を見つけて、彼らに会って、党を組織することにしました。

しかし、我々はこれでもまだ十分ではないという結論に達しました。党を真に建設するためには、我々3人が鉱山会社に入るしかない。それも現場に入らなければならない。そして私は「20世紀鉱山」の鉱夫となったのです。

私は最初に配属された職場で200人の労働者の大半を党に組織することが出来ました。彼らは細胞を組織して、定例会議を開きました。ゲリラ戦士の一人Rosendo Garci'a Maisman は、そこからリクルートしたのです。

しかし私は重労働ですっかり体を壊してしまい、58年にはラパスに戻って療養することになりました。





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