鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

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2012年09月

 日本列島の地体構造 読後感想

① えれぇものに手を着けてしまったと思う。なにやら分からない言葉がずらずらと並ぶが、困るのは論理の行く先が果てしなく遠く、何を言わんとしているかが見えなくなってしまうことである。

②勉強になったのは、研究方法の進歩により、「大胆な仮説」など不要になったということだ。それがいまや「土に語らせよ、岩(とくに蛇紋岩)に語らせよ。語らなければ、爆弾で語らせよ」と、著者は主張している。

③1980年代までは、日本列島形成論は「邪馬台国論争」レベルだったらしい。結構地方研究家のレベルが厚くて、ということは中央のアカデミーにあまり権威がなくて、その間隙を縫って大風呂敷を広げる「専門家」が登場するという時代があったようだ。

基本的なストーリーはこういうことのようだ。

④日本は最初南中国地塊の辺縁に位置していた。南中国地塊と北中国地塊は最初別のものだったが2,3億年前に衝突した。そのときヒマラヤ並みの巨大な山脈が形成され、そこから出た膨大な土砂が日本列島を形成する。

⑤その後海洋プレートの沈み込みにより6回の造山運動があり、付加体が成長した。日本列島は構造侵食を乗り越えて、約5億年間に約500 km 海洋側へと成長した。

⑥日本列島の形成はこれですべて説明できる。フォッサマグナや中央構造線は、二次的・部分的な変化でしかない。観音開きや1000キロ横滑りはもう忘れたほうが良い。

とはいえ、これは地学雑誌だ。考古学で邪馬台国を読み解くようなものだ。荒唐無稽なセオリーは排除されるにしても、これではちょっと物足りない。

もともとの私の疑問は、

①中央構造線はなぜあんなにきれいなのか。

②弧状列島はどうしてできるのか

③日本列島はどうして大きいのか

ということだった。そしてすこし勉強してみて、

④東北・北海道が北アメリカプレートならば、南西日本となぜ、どうやって一つになったのか。

ということだった。

①については「若いから」ということで、とりあえず分かった。

③については、南北中国の衝突の影響ということで分かった。

②はとりあえず、他の文献でわかった。観音開きは不必要だと納得できた。

④については、依然分からない。著者は南西日本こそが日本で、北海道など日本ではないと思っているようだ。

VIII. 日本列島の大構造と太平洋型(都城型)造山帯の新たな視点

 1980 年代から本格的にはじまった日本列島のプレート造山論研究は、受動的大陸縁が活動的大陸縁に転換するという大筋を1990 年代前半に解明した。そしてさらに新たな視点が解明されつつある。

一方で,従来の素朴な造山帯形成史の理解は多くの誤りを含んでいたことが露呈しつつある。

現時点での日本列島の地体構造の特徴およびそこから導かれる太平洋型(都城型)造山帯の基本構造について議論する。

 1)忘れるべきこと

 近年の研究によって誤りであることが明白になった既存の理解・概念が少なからずある。日本列島のテクトニクスを議論する際に無用な混乱を避けるためには,それらは忘れさらねばならない。

 代表的なものは,以下の通りである。

(1)日本列島は地理的に近接する北中国地塊の周辺で生まれ,成長した,

(2)日本列島で最も重要な地質構造はフォッサマグナと中央構造線である,

(3)中央構造線の起源は白亜紀までさかのぼる

(4)日本海は観音開きの回転運動で開裂した,

(5)日本列島の主要な地体構造境界は高角度断層で画される,

(6)黒瀬川帯などの蛇紋岩メランジュ帯は地殻深部から上部マントルにまで達する高角度横ずれ断列帯である,

(7)日本列島の複数の横ずれ断層は1000km を越える変位をもち,日本のある部分はベトナムの近辺から移動してきた,

(8)日本列島は,横ずれ断層で境された複数のテレーンから構成され,それらは両隣の地質体とは成因的関係をもたない,

(9)付加体が形成されなかった期間はプレートが大きく斜め沈み込みしていた,

(10)付加体の成長はつねに海側へと前進する方向でおきた,

(11)いったん形成された弧地殻は消滅せず,大陸縁は海側へ成長し続ける,

(12)島弧が衝突するたびに造山帯の地殻総量が増える,

などの考えである。

今後の日本列島形成史ならびに太平洋型造山運動に関する議論は,これらの誤った概念から脱却して進めなければならない。

 2)日本から世界の造山帯研究へ

 2-1) 造山帯の中核部としての広域変成帯の三次元構造

造山帯の形成は,定常的なものではなくきわめて間欠的である。欧州ではカレドニア,バリスカン,そしてアルプスという3 回の独立した古典的造山運動が識別されてきた。

日本列島には少なくとも6 回の高圧変成作用が起きた。すなわち6 回の造山運動のクライマックスがあった。それらはおのおの間欠的な海嶺沈み込みに対応していた。そのなかで三次元形態が明示されたのは,石炭紀,トリアス紀,白亜紀である。構造浸食に伴う二次的改変のために、相対的に古い高圧変成帯はその形態を失ってしまった

 2-2)造山帯の後背地変遷

 LA-ICP-MS による砕屑性ジルコンのU-Pb 年代測定は,これまでまったく知られていなかった大きな変化が古生代から中生代における日本の後背地で起きたことが示された

トリアス紀中頃におきた南北中国塊同士の衝突によって接合した大陸内に巨大な山脈が形成され,大陸から膨大な量の陸源粗粒砕屑物が海洋側に供給された。それは衝突帯の東北端から太平洋岸の海溝沿いに日本近辺へ運ばれた。

中新世に明瞭な背弧盆である日本海が形成されると,その時点で大陸からの流入は根絶した。中新世以降,日本が完全に大陸から独立した島弧になったことが実証された。

 2-3)花崗岩バソリスの消失

 日本では5 回の花崗岩バソリスの形成と4 回の大量消失が起きた。

従来は斜め沈み込みによる付加プロセス自体の停止というad hoc な説明に終始してきたが,実は構造浸食によっていったん形成された付加体が消失したことになる。

日本列島内の造山帯構成要素の体積比較に関して最も印象的なのは,BTL より下位を占める白亜紀後期以降の付加体および高圧変成岩が莫大な総量をもつことである。

 2-4)構造浸食と蛇紋岩メランジュの形成

 2-5)地体構造境界の階層性

 2-6)大陸地殻の沈み込み

IX.おわりに

 プレートテクトニクスに基づいた造山論は1960 年代末にはじまったが,とくに海洋プレート沈み込みが支配する太平洋型(都城型)造山帯については,日本列島での研究が最も進んだ。とくに構造浸食プロセスと蛇紋岩メランジュ帯形成がもつ地質学的意義は強調されるべきである。

蛇紋岩メランジュ帯は造山帯内の第一級の地体構造境界であり,最優先の検討課題である。

 最後に,本稿で述べた主要な結論を以下に整理する。

 (1)大陸側に分布する飛騨帯および隠岐帯はアジア形成以前に存在した大陸塊の破片をなし,ともに北中国地塊に由来する。

 (2)西南日本の肥後帯は,北中国と南中国地塊との間の2.3 億年前衝突帯の東方延長にあたり,その構造的下位の日本列島の大部分は南中国地塊の縁辺で形成された。

 (3)花崗岩を除く日本列島の表層地殻主部のほとんどは,古生代から新生代の付加体およびその高圧変成部から構成される。しかし古い単元は形成後に二次的に消滅した。前弧域は海洋側への付加・肥大と,大陸側への構造浸食・縮退を繰り返した。

 (4)蛇紋岩メランジュ帯は,過去に起きた構造浸食作用の痕跡である。この面に沿って膨大な弧地殻の消失が起きた。

 (5)太平洋型造山帯内部の地体構造単元境界には,異なる性質のものが含まれる。(略)

 (6)海洋プレートの沈み込みという体制が維持されても,つねに付加体が成長するわけではない。日本列島の海側への成長はきわめて間欠的であった。構造侵食を乗り越えて、約5億年間に約500 km 海洋側へと成長した。

VII. 日本の主要な構造線:

目立つ副次的構造線 vs. 造山帯の大構造を規制する主要構造線

 1)目立つ構造線

 日本列島全体の地質構造を記述する際,これまでは中央構造線やフォッサマグナ(糸魚川—静岡構造線)の説明からはじめるのが一般的・伝統的であった。その背景には,ナウマン以来広く知られたこの2 つの明瞭な構造が日本列島の大構造を支配しているという暗黙の合意があった。

明治初期にはじめてこれらの目立つ構造を発見・記載したナウマンの貢献は特筆されるべきだが,しかし現在のプレート造山論の観点からは異なった解釈となっている。この2つの構造は長期間にわたって日本列島の骨格をつくってきた主要なプロセスとは無関係で,むしろきわめて新しくかつ副次的なプロセスの産物である。

若い地質構造,とくに高角度断層や褶曲軸は、その形成後に二次的な改変を被る時間が短いため,比較的明瞭な直線性を保持していることが多く,その結果として地形図ならびに地質図上で目立つことが多い。古期の地質構造は,重複変形を被った結果,地表での直線性としては認識されにくくなる。

本章では,まず伝統的に注目されてきた日本列島の主要な目立つ構造線についての現代的解釈を整理する。

 1-1) 中央構造線(Median Tectonic Line; MTL)

その起源を中生代白亜紀までさかのぼると考えられてきた。またMTL 沿いに大規模な横ずれ変位を想定する強い固定観念が日本の地質学者の間にできあがった。MTL の両側の基盤岩の年代や地殻深部での三次元形態が不明であったため,MTL 出現期の解釈についてはこのような大きな誤解・混乱が存在していた。

しかし白亜紀から現在に至るまでMTL が横ずれ変位をし続けてきたとみることは,その間に対曲構造やフォッサマグナの形成をはさんでいるのできわめて不自然である。

最近の研究成果に基づくと,中央構造線の本質は大規模な横ずれを伴う高角度断層ではなく,弧に直交する方向の短縮を主体とする低角度衝上断層であることが示された。

古中央構造線(Paleo-MTL)は,おそらく新第三紀の日本海拡大に前弧域の短縮の結果として活動した。

 1-2) 棚倉構造線(Tanakura Tectonic Line; TTL)

 この断層は中新世に日本海が開裂した時にその東端で活動した高角度横ずれ断層である。基本的に日本列島形成史のなかではきわめて若い地質構造であり,主要な造山帯の構造ができた後に二次的に改変をもたらした要素である。

TTL とMTL とを、一連の大規模な大陸縁横ずれトランスフォーム断層とみなす解釈があるが、互いに異質なTTL とMTL がかつて連続していた可能性はまったくない。北米西岸のサンアンドレアス断層と比較することも大きな誤解に基づいている。起源,形成機構,オーダーのどれをとってもまったく異なる。

 1-3)フォッサマグナ(Fossa magna)

 フォッサマグナの西端を限る糸魚川—静岡構造線は,ゆるくS 字状に波曲しながらもほぼ明瞭な直線性を示す断層である。この構造線は西南日本の帯状配列を明瞭に切断している。このことから,フォッサマグナが造山帯の主要構造を二次的に改変する若い地質構造であることは伝統的に理解されてきた。

フォッサマグナは日本海内に生じたトランスフォーム断層の南方延長で弧地殻がリフト化した結果とみなされる。

一方,フォッサマグナの東縁関東平野の厚い堆積物の下に埋没しているため詳細は不明である。しかし,西南日本の東西方向の帯状配列に対し,東北日本は南北方向の地体配列で特徴づけられ,その間に明瞭な構造ギャップがあることは明白である。

フォッサマグナは日本列島の大構造が形成された後にできた副次的な構造の1 つであり,古生代以来の主要な大構造の成立にはほとんど貢献していない。

 2)造山帯の大構造を規制する主要構造線

 上述の見かけ目立つ構造線は,いずれも造山帯の構造を二次的に改変するものにすぎない。日本列島の造山帯全体の構造を規制するより重要な構造線は別に存在する。それらのなかには,いまだに相対的な認知度が低いものも含まれている。

日本列島の形成史を考察する上でとくに重要な5つの構造線がある。長門—飛騨外縁構造線、大佐山—青海構造線、石垣—玖珂構造線、古中央構造線、仏像構造線である。なかでも後三者は太平洋型(都城型)造山帯の内部構造を規制する重要な構造線である。

 2-1) 長門— 飛騨外縁構造線

 山口県西部から山陰地方の海岸沿いに東方へ追跡され,新潟県西部で日本海へと消える。地図上に追跡されるさまざまな時期に変形・変位した断層群の総称である

この境界よりも大陸側の地質体はすべて既存の大陸地殻由来の物質で構成される。これに対し海側に産するものはすべて古太平洋底の海洋プレート沈み込みによってマントルおよび海洋プレートから新たに分離・形成された新規地殻物質である。

日本列島に関係する新規大陸地殻の形成開始を画する第一級の構造境界とされる。日本が南中国地塊縁辺の受動的大陸縁から,活動的大陸縁に転換したことを象徴する境界で,約5億年前にはじまった日本列島独自の地殻形成の開始線と意義づけされる。

 2-2) 大佐山— 青海構造線

 中期高圧変成岩の代表的産地である岡山県の大佐山地域と新潟県の青海地域にちなんで大佐山—青海構造線と呼ぶ。広域の地図上ではNg-HmTL とほぼ一致するようにみえる。

弧—海溝系を特徴づける,弧花崗岩,付加体,高圧変成岩,そして前弧盆帯堆積物という4 種の要素が存することから,前弧地殻がいったん形成され、二次的に消去されたことを意味している。

 2-3) 石垣—玖珂構造線

周防帯の下底として東方へ追跡され,中部日本の上越地域で日本海に没する。西方延長は瀬戸内海西部を横断して九州北部で大きく東へ反転・迂回し,再び豊後水道をわたって四国西部で中央構造線(Neo-MTL)に断たれる。 一方,石垣島において同様な累重関係が確認され,広域に連続する石垣—玖珂構造線と命名された。

石垣—玖珂構造線は日本の付加型造山帯を古生代と,ジュラ紀以降に分ける大きな構造境界をなす。

おそらくジュラ紀付加体の形成がはじまる前に大規模な構造浸食が起こり,先行して形成された古生代後期の造山帯産物が大量に消失したことを暗示している。

 2-4) 古中央構造線

Paleo-MTL は,関東から九州まで追跡されるが,九州東部でS 字状に屈曲し,肥後帯の南縁を通って有明海に抜ける。Neo-MTL は,リニアメントが明瞭な四国と紀伊半島に限定され,Paleo-MTL を切断している。

 2-5) 仏像構造線

沖縄本島から関東まで,ほぼ連続的に2000 km 以上追跡される。

先白亜紀の前弧地殻が構造浸食で消失した前線の痕跡とみなされる。


IV.日本列島の基盤岩の大区分

 

 

V.地体構造区分の単元

 

VI.地体構造境界の分類

中略

 4-1)背弧海盆の両端

 背弧海盆である日本海が開裂したのは中新世である。その開裂テクトニクスについては,海洋底の地磁気縞から復元される南北展張パタンと、陸上の古地磁気データから復元されたの間に大きな不一致があった。現在では観音開きパタンは否定的である。100 km 近い厚さのプレートを回転運動させると反対側でプレートの重複・衝突が生じることになる。しかし,九州西南方の地質にはそのような証拠が見当たらない。

しかし九州西部において,西南日本の帯状配列は南北方向にずれている。おそらく八代海を南北に通過する右横ずれ断層が存在すると思われる。また朝鮮半島の東南方でも,同様に右横ずれ断層が見られる。

 4-2)トランスフォーム断層の延長

 背弧海盆の拡大に伴う変位は,その両端だけで起きるわけではない。日本海の中央部において複数の海嶺が拡大した際にいくつかの大トランスフォーム断層を生じた痕跡がある。

フォッサマグナの起源はこのトランスフォーム断層に沿った右横ずれ変位であった。南方へ押し出されたこの断層の両側は,リフト化して開き,その間に厚い地層を堆積させた。そのリフト西端の崖をなした断層が現在みる糸魚川—静岡構造線に,また東端の崖が関東構造線(柏崎—銚子線)にあたる。

 4-3)島弧前面の短縮境界

良く分からないので略

 4-4)前弧スリバーの陸側境界

 海溝に海洋プレートが大きく斜めに沈み込む場合に,海溝軸に平行な沈み込み成分が前弧域の一部を弧地殻主部から分断し側方へ移動させる。これは前弧スリバーと呼ばれる。四国と紀伊半島を含む南海前弧スリバーがその代表である。

南海前弧スリバーの陸側境界断層にあたるのが右横ずれセンスの中央構造線である。とくに豊後水道から紀伊半島中央部にかけての直線性のよいリニアメントをもつ部分は,活断層として挙動している。しかしその変位は,さほど大きくない。

 4-5)別の島弧の衝突境界

 大陸縁に成長し続ける弧—海溝系に別の島弧が衝突すると,大陸縁の弧—海溝系の地質構造に大きな変化をもたら。とくに伊豆—小笠原弧の衝突は西南日本の帯状配列を大きく湾曲させている。

東海地方の赤石裂線も伊豆小笠原弧の衝突・付加に関連した左横ずれ断層である。


III. 東アジアのなかでの地体構造上の位置づけ

1980 年代には,近隣国でも地質情報の詳細化が進んだ。最も重要だったのは,中国主要部と朝鮮半島の解明であった。またフィリピンやロシア沿海州など造山帯の延長方向にあたる部分との対応関係が明らかになった。

日本列島の地体構造を論じる際には,東アジアの地体構造の枠組みのなかで,その位置づけを確認しておく必要がある。

留意すべき点がふたつある。①日本列島の起源が北中国(中朝)地塊縁か南中国(揚子)地塊縁か,②東アジアの造山帯との関連、である。

まず東アジアと日本列島との地質学関連に関する最近の知識を整理する。

 1) 南北中国間の大陸衝突帯の東延長と古生代日本の帰属

 日本がプレート収束型造山帯として形成されはじめたのは古生代初頭である。その誕生期に最も縁の深かったのは南中国であった。それは三つの理由から説明される。

(1)現在の東シナ海を介した九州と南中国の地殻の連続性,

九州から南西諸島にかけての先新生界基盤はそのまま東シナ海底,そして南中国東縁の大陸地殻に連続するとみなされる。そしてそれに連続する東北日本も南中国地塊に近縁と判断するのが最も自然である。

(2)南北中国の地塊が衝突したとき発生した造山帯の東方延長

南中国が北中国の下に沈み込んで衝突型変成帯が形成された。これは中国本土の秦嶺から山東半島へと連続し,黄海を渡って朝鮮半島では臨津江帯に追跡 される。その東方延長が飛騨山地と北関東の日立地域に存在する。飛騨片麻岩中の砕屑性ジルコンは,現在の北中国地塊の基盤岩の年代とよく一致する。

(3)古生物地理学の所見

古生代化石群集の特徴は南中国との強い関連を示す。

以上のことから,日本列島の主部は基本的に南中国地塊の縁辺で形成・成長したと考えるのが妥当である。

 2) 東アジアの大陸の原型

トリアス紀前半には南中国地塊が南方のインドシナ地塊と衝突・合体した。続いてトリアス紀中頃以降に北中国地塊や北方のモンゴル+ブレヤ地塊の一部が衝突・合体した。

こうして東アジアの大陸の原型がほぼ完成した。その東アジア大陸の外縁を覆うように,付加体などからなる単元が順次形成された。


II. 地体構造区分の研究略史:

これまでに日本に段階的に導入された重要な年代決定手法は次の4 つであった。すなわち,(1)大型化石による生層序学・年代学,(2)火成岩と変成岩の放射性年代測定,(3)微化石層序学・年代学,そして21 世紀初頭の研究前線を切り開く(4)砕屑性ジルコンのU-Pb 年代測定である。

 1)大型化石年代

 近代地質学が日本に定着するまでの19 世紀末から20 世紀半ば(明治から昭和前半)では,堆積岩から産する大型化石が唯一の年代決定基準であった。構成岩石の種類とそれらの化石年代をもとに,複数の地体構造 単元が識別された。これによりフォッサマグナ,中央構造線などの代表的な大規模地質構造が解明された。

しかし,各単元間の定義および帯相互の境界位置などはまだかなり曖昧な状態であった。

 2)放射性年代と微化石年代I

 第二次世界大戦以後は,火成岩および変成岩について放射性年代測定が可能となった。これによって化石を産しない火成岩や変成岩の年代がはじめて具体的に示されるようになった。堆積岩についてもより高い年代分解能をもつ微化石が頻繁に利用されるようになった。

しかし,年代測定を行う機器をもつ研究施設は少なく、日本列島のすべての地体構造単元の年代が明らかにされたわけではなかった。

 3)微化石年代II

1980 年前後には,造山運動の原動力がプレートの収束プロセスであったことが確認された。複雑な堆積岩複合体の実態が過去の付加体であると認識されるようになった。この付加体の年代決定において,微化石層序が決定的な役割を果たした。

簡便な微化石抽出法は急速に普及し,地域地質学と結びついて日本全土から短期間に大量のデータが生み出された。また1990 年前後には,放射性年代マッピング法が導入され,弱変成付加体に明確な年代基準を与えた。この場合も地域地質学と密着した多数の年代測定がなされた。

これらの研究によって,日本列島の基盤岩をなす地体構造単元のほとんどが過去の付加体とその高圧変成部であることが明示された。

 4)砕屑性ジルコン年代学

 21 世紀初頭の現在,新手法として注目されるのが砕屑性ジルコン年代学である。近年の性能改良により,多数試料の迅速測定が可能となった。

この手法の導入により,日本列島の地体構造論において次の2 点について大きなブレークスルーがおこりつつある。

(1)粗粒砕屑岩主体の地層の年代推定が可能となった

(2)高圧変成作用を被った付加体の原岩形成年代を明らかにできるようになった。


日本列島の地体構造区分再訪

磯﨑行雄ほか

http://ea.c.u-tokyo.ac.jp/earth/Members/Isozaki_JG/10Isozaki.pdf

という論文が、包括的で勉強になる。以下はその摘要。

I.はじめに

 日本列島は世界地図のなかでみると極東にあるほんの小さな島国だが,そこには大陸縁辺に発達する造山帯を特徴づける地質学的・地球物理学的特徴が多く観察され,世界で最も詳しく解析されている島弧と呼んでも過言ではないだろう。

日本列島の表層地殻は,おもに強く変形した堆積岩類や変成岩類,そしてそれらに貫入した花崗岩類から構成される。これらの強い変形作用は、日本列島が長期間存続した造山帯の一部であったことを示している。

 造山帯の大構造を理解する際には,地体構造単元の識別およびそれらの間の境界の認定がすべての議論の出発点となる。日本列島の場合,列島にそって帯状配列する複数の「帯」に区分される。

20 世紀後半ではプレートテクトニクス的地質観のもとで,分類や定義が大きく改訂された。しかしその後も一部の潜在的な問題が未可決のままもち越されて現在に至っている。

 21 世紀最初の10 年が経過し,「砕屑性ジルコン年代」測定など、次世代を切開く新しい研究手法が導入され,いま再び新しい変革の時期が訪れた。日本列島を構成する各種地体構造単元や隣接単元間境界の再定義が不可欠となった。

本稿では,地体構造区分に関して,現状の混乱を改めるには具体的にどのように対処すべきかを論じ,再定義を試みる。



…てなことを考えていたら、「大鹿村中央構造線博物館」というページにあたった。
英語ではOshika museum of Japan Median Tectonic Line というのだそうだ。
恥ずかしながら、プレート・テクトニクスというのをテクニックだと思っていた。
構造という意味なんですね。
ここの掲示板で、「やはり」と思わせる論議が盛んに繰り返されている。セオリーそのものが形成過程にあり、けっこう百花斉放のようだ。
それにしても、こんな名称の博物館を作ってしまうなんて、やはり伊那の人は違う。静岡県人なら思いつきもしないろう。

ということで、花サイ列島の話題からは退散することとする。

昨日、日本列島の成り立ちをまとめてみて、なんとなく分かった気になっていたが、なんとなく変だと思う。
いくつかの異なるセオリーが、アマルガムのように接着されているが、どうもおたがいに矛盾があるのではないか?
ユーラシアプレートと太平洋プレートの単純なぶつかり合いであれば、“日本弧状列島”の形成は容易に理解できる。しかし日本がそもそもユーラシアと北アメリカプレートの両方にまたがっているとすれば、俄然話は複雑だ。

大陸プレートと海洋プレートのこすれあいによって生じる変化は、所詮は、接合面の近辺に生じる小規模なものだ。しかし大陸プレートと大陸プレートとの関係というのは、はるかにマクロなものだ。だから二つの大陸プレートの境界で起きる事象は、まずもってこの関係から判断しなければならない。

二つの大陸プレートの経時的な位置関係はどうなっているのか、つまり二つは近づいているのか、それとも遠ざかっているのかということがまず明らかにされなければならない。漂流説の流れに従えば、遠ざかっていると見るのが自然だと思うが。

私には、北アメリカプレート関与説は、「フォッサマグナ」屋さんが、少々図に乗ってぶち上げているだけではないかと思えてくるのだが。

第二にフィリピンプレートを考えに入れないでモデル化すると、日本は三つのプレートの交点になる。その場合に太平洋プレートは両方の大陸プレートに平等の関係でもぐりこんでいくのか、たとえばユーラシアプレートに直角の関係でもぐるなら、北アメリカプレートには斜め45度とかということはないのだろうか。もう一つ、太平洋プレートはただひたすらにもぐるだけなのだろうか。二つの大陸プレートのあいだを押し広げたりすることはないのだろうか。

いろいろ考えていくと、どうも北アメリカプレートをこの議論に持ち込むのは、あまり生産的ではないような気がする。とりあえず陸地のほうはユーラシア・プレート一本で十分説明可能だ。

観音開きセオリーは両方のヒンジが同一のプレート上にあるという前提を要求しているのではないか。(もっとも観音開きセオリーも一方のヒンジを知床岬の先におくという無理を犯している。日本海の膨隆による放射型変形で十分説明可能と思うが)

北アメリカプレートの関与を主張するためには、ユーラシアプレート一本説で説明困難な事象を挙げ、それが二つの大陸プレート説でうまく説明できることを、説得力を持って証明しなければならない。

第三にフィリピン・プレートの関与である。日本列島をほかの弧状列島から分けている最大の特徴はフィリピンプレートによりもたらされているとおもう。つまり大陸プレート側の事情ではなく、海洋プレート側の事情により規定されているのではないか、と思う。

その割にはこのフィリピンプレートの全体像ははっきりしていない。学生時代にはフィリピンプレートなどという言葉すら聞いたことがなかった。(というより、私の情報不足であるが)

これから少し情報を集めてみる。

まずは弧状列島の一般的な成り立ち。

①大陸プレートの下に海洋プレートがもぐりこむ。そのとき海岸線に表面の土を残していく。それがつみあがって海岸べりに山脈が形成される。
②もぐりこんだ海洋プレートはマグマだまりに接して膨らむ。内陸部に入ってから膨らむと、山脈は放射状に縁のほうに押し寄せられる。海の方に落ち込んで行けば山の頂きが列島として残る。

次は日本列島の特殊性
③日本列島の場合真ん中が切れてしまって、弧状の形態を維持できなかった(フォッサ・マグナ)。一説では伊豆諸島が邪魔になって、北側は東の日本海溝へ、西側は南の南海トラフに落ち込んだという。
④やがて海洋プレートのふくらみは消失し、カルデラのようにへっこむ。そこにフォッサマグナを通じて海水が入り込み、日本海を形成した。
⑤フォッサマグナには、その後伊豆諸島方面のフィリピン・プレートが入り込み、新たな陸地を形成した。かつての水路は本州で最大の幅を持つ区域となった。

こんなもんでいかがでしょう。

http://www.saitama-med.ac.jp/jsms/vol31/03/jsms31_183_193.pdf

埼玉医科大学雑誌 第31 巻 第3 号 平成16 年7 月

 

もうやめようと思ったが、ルソーについての面白いペーパーを見つけてしまった。

『ルソーの泌尿器疾患について』という論文で、埼玉医科大学の斉藤先生という泌尿器科のお医者さんが書いたものだ。ルソーのいわば持病だった「尿閉症」を中心に病蹟学(Pathography)的な分析を行っている。

少しそのさわりを紹介しておく。斉藤先生は『告白』をじっくり読み込んで、そのなかから病気についての記載を引き出している。

 

①出生時から小児期まで

「私は死なんばかりの状態で生まれ,育つ望みはほとんどなかった」

②青年期

「息切れがし,圧迫を感じ,知らないうちにため息し,動悸が高まり,喀血した.微熱がでた」

「私は健康な体質だし,それにいかなる不摂生もしないのに,眼に見えて衰弱して行った原因が,どこにあるかわからない」

(ルソーは死ぬと思い,遺言書を書いた)

「眼に見えて衰弱,死人のように青ざめ,骸骨のようにやせていた.動脈は恐ろしくうち,動悸はますます早くなり,たえず息苦しく,ついに衰弱があまりひどくなったので,動くのも苦になった」

「医者たちは,私の病気がぜんぜんわからず,私を気で病んでいるとみなした」

③壮年期(1742~1762,30~50歳)

(ヴェネチアの娼婦と10フランで関係)「私は病気を移されたと,全く確信して館に帰ったので,戻ってやった最初のことは,医師に人をやって,煎じ薬を求めることだった.

彼(医師)は私が特別の体質だから,簡単には感染しないのだと納得させた。そういう病気(梅毒)にはかからない体質だ」

{1758,45歳}

「彼ら(医者)の指示に従えば従うほど,私は黄色くなり,やせて,衰えた。私は大金を払って,消息子を大量に買い込んだ。こんなに高く,苦しくて,つらい手当てをして,気を散らさずに,仕事ができるはずがない」

{1761,49歳}「結石はないが,前立腺が硬性腫瘍にかかって,異常に肥大している。彼は(コーム),私はひどくくるしむだろうが,長生きするだろうとはっきり言った」

 

④晩年・死亡時

1778年7月2日,例のごとく早朝起床して散歩,8時帰宅,朝食,しばらくして突然気分がわるくなる.

「彼は足の裏がちくちくしてとても気持ちが悪い,背骨にそって氷水が流れるような寒気がする.胸が苦しい,発作のときのようなとても激しい頭痛がする.とつぎつぎと訴えました.彼が両手で頭をかかえたのはこのことの表現だったのでしょう.そして,頭蓋骨が割れるようだといいました.この発作ののちに,彼の生命は絶え,椅子から下にたおれました.すぐだき起こしましたが,彼はもう死んでいました」

これはテレーゼの口述だが、死の間際にこれだけの症状を次々に訴えるのはすごいです。

 

以上のごとき論述から、斉藤先生は以下のように推論しています。

診断根拠となる検査所見はないが,ルソーのような尿道のひどい苦しさを訴える疾患には,除外診断として,前立腺症,心身症や神経症的不定愁訴を訴える疾患として,前立腺痛(症)も考えられる.

 いわゆる前立腺症には意思の疎通のはかり難い患者が多い.(臨床医としての実感がこもっています

ルソーが前立腺症かは不明であるが,類似点も認められる.

前立腺症は致死疾患ではないが,患者の訴えに対して,疾患を証明する検査所見が乏しく,精神病との境界領域の疾患とも考えられている.

晩年になって,尿閉症,尿意切迫感が悪化・進行したという記載は見当たらない.あれだけ苦しんだ症状の記載がないことは,青・壮年期にひどかった症状が,老年になって軽減したためと考えられる.

ルソーは医学の知識もあり,ヒポクラテスも知っており,医学を信用しているが,医師を信用せず,医師に対して極端な敵対意識を持っている.さすがに,医師に対して,刃傷沙汰や,暴力行為はしていないが,文の剣で,医師を突きまくっている.

自分の疾患に対する不満がつのって,後に社会に対する不満と重なり,『人間不平等起原論』の起原になったと推測出来なくはない.(ここはちょっと言い過ぎかも知れません)

斉藤先生は精神医学的な評価を慎重に避けていますが、一昔前の精神科医なら、こういうケースには間違いなくパラノイアの診断を下すでしょう。


ついでですが、ルソーの医者の悪口は相当なものです。医者とか坊主なんてのは、陰口を叩かれるのが商売みたいなものですが、それにしてもすごい。

 「自然状態の人間にはほとんど薬が必要はなく,医者はなおさら必要ではない」(『不平等論』48).

 「わたしは医者がどんな病気をなおしてくれるのかは知らない.医者が非常に有害な病気をもたらすことを知っている」(『エミール』上56).

 「自分のためには決して医者を呼ばない.生命があきらかに危険状態にあるときは別だ.その場合には医者もかれを(エミール)を殺す以上に悪いことをするはずはない」(『エミール』上58).

 「賢明なロック(イギリスの思想家)はその生涯のある時期を医学の研究にすごしたが,用心のためにも軽い病気のためにも,子どもには決して薬を与えないように熱心にすすめている」(『エミール』上58).

 「かれらが(医者)なおした病人のうち幾人かはかれらがいなければ死んでいたかもしれない.しかし,かれらが殺した幾百万の人は生きていたことだろう」(『エミール』上108).

 「医者と哲学者は,自分の説明できることしか真実とは認めず,自分の理解力を可能の尺度としている」(『告白』6 巻284).

 「わたしはかれらの技術のむなしいこと,その診療がなんの役にもたたないことの生きた証拠なのだ」(『散歩』115)


もう40年も前のことですが、村上孝太郎という人が参議院選挙に出て当選したのですが、まもなくガンが発見されてそのままなくなってしまったという出来事がありました。運輸省か通産省の次官か局長まで行った人で、ちょうどその頃はやったフォークソングの「走れコータロー」という歌をそのまま選挙運動に使っていました。

この人は、入院してから猛烈に医学書を読み漁ったそうです。たちまちのうちに医者どもの知識を追い抜いてしまい、研修医に指図したそうです。

しかし、そういうことはよくあることなので、医者というのは例え専門医であろうと、臨床医であるかぎりは、深さより広さが求められるものなのです。

言い訳っぽくなりますが、人間というものが全面的である以上、医療の側も全面的であることが要求されるのです。

お叱りをいただきましたが、すみません。うろ覚えというのは知らないのと同じことだと痛感しました。なにせ学生時代にはこんなこと習っていません。

ウィキペディアのフォッサマグナの項を見るとこう書いてありました。

日本近海の海溝は向きが異なる南海トラフ日本海溝の2つだったため、日本列島は中央部が真っ二つに折られる形でアジアから離れた。折れた原始日本列島の間には日本海と太平洋をつなぐ海が広がり、新生代にあたる数百万年間、などが堆積していった。そして数百万年前、フィリピン海プレートが伊豆半島を伴って日本列島に接近した時に、真っ二つになっていた列島が圧縮され始めた。この時、間にあった海が徐々に隆起し…

おお、そうだったのか。こういうのを『観音開き説』というんだ。
日本列島というのは沖縄・千島・アリューシャンのような弧状列島ではないんだ。

もう一つわかったのは糸魚川-静岡線に対応して東側にもうひとつの構造線があり、そこから北は北アメリカプレートに乗っているということだ。
地図を見るとどうも苫小牧から石狩に抜ける線がプレート境界ではないかと思っていましたが、地球の歴史はもっとずっと大規模なものですね。

ついでに、ある情報では「横滑り説」と言うのもあって、日本列島の北と南が中央構造線を境に1500キロもずれたんだそうです。
1500キロというとほぼ日本列島の全長並み、ずれる前は一直線にきれいに並んでいたということになります。
しかしどうも観音開き説との相性が悪い。とりあえずは仮説ということでしょう。

お叱りをいただきましたが、すみません。うろ覚えというのは知らないのと同じことだと痛感しました。なにせ学生時代にはこんなこと習っていません。

ウィキペディアのフォッサマグナの項を見るとこう書いてありました。

日本近海の海溝は向きが異なる南海トラフ日本海溝の2つだったため、日本列島は中央部が真っ二つに折られる形でアジアから離れた。折れた原始日本列島の間には日本海と太平洋をつなぐ海が広がり、新生代にあたる数百万年間、などが堆積していった。そして数百万年前、フィリピン海プレートが伊豆半島を伴って日本列島に接近した時に、真っ二つになっていた列島が圧縮され始めた。この時、間にあった海が徐々に隆起し…

おお、そうだったのか。こういうのを『観音開き説』というんだ。
日本列島というのは沖縄・千島・アリューシャンのような弧状列島ではないんだ。

もう一つわかったのは糸魚川-静岡線に対応して東側にもうひとつの構造線があり、そこから北は北アメリカプレートに乗っているということだ。
地図を見るとどうも苫小牧から石狩に抜ける線がプレート境界ではないかと思っていましたが、地球の歴史はもっとずっと大規模なものですね。

ついでに、ある情報では「横滑り説」と言うのもあって、日本列島の北と南が中央構造線を境に1500キロもずれたんだそうです。
1500キロというとほぼ日本列島の全長並み、ずれる前は一直線にきれいに並んでいたということになります。
しかしどうも観音開き説との相性が悪い。とりあえずは仮説ということでしょう。

北海道の景観は、たとえば狩勝峠から十勝の大平原を見下ろしたときとか、根釧の果てしなき牧草地帯とか、内地の細やかさとは異なるおおらかな印象である。
しかし地図を見ていると、どうもそう単純ではないという思いがしてくる。

日本地図を見ていると、変だなと思うのは、本州から北上してくる陸地の線が積丹半島で終わってしまっていることだ。樺太から南下してくる隆起もえりも岬で海中に没してしまう。大雪から東に伸びる山並みも知床半島で海中に没し、千島列島のアーチとは微妙にずれる。逆に国後まで南下した隆起は根釧平野のどこにも名残を感じさせない。そしてその南方には釧路から海岸線沿いに歯舞・色丹まで伸びる低い隆起がある。

つまり北海道は大きく言えば、本州系、樺太系、千島系の三つの地質学的構造の交差点になっているということなのだろう。北海道の地形は本州、特に西日本に比べたらずいぶん単純だと思っていたが、地質学的にははるかに複雑なようだ。

ウィキペディアで調べると、本州まではユーラシアプレートの上に乗っかっているが、北海道は北アメリカプレートという別の棚の上に乗っているようだ。

もう少し勉強してみよう。

九州も小さな割に複雑な地形だ。というより、メリハリのない島だ。
鳥瞰してみると、背振山地から五島列島につらなる隆起と、佐賀の関から甑島につながる隆起と、大隅半島からトカラ列島につながる隆起の三本が見て取れる。
しかしいずれも薄ぼんやりとしたもので、たんなる眼の錯覚かといわれれば、そうも思われる。
一応脊梁を成すと思われる熊本・宮崎県境の山地も日田から国分で終わってしまう。むしろ雲仙・阿蘇・霧島の三大火山が地形を規定している。九州島の短い足となる薩摩・大隅半島も、そうなるべき必然性が見えてこない。
北海道が千島のアークと日本列島のアークのヒンジであるのと同様に、九州は沖縄からつながる南西諸島と日本列島のヒンジであるはずなのだが、それを象徴するような地形的特徴が見て取れないのである。

ついでにもう一つ
西日本の天気予報のとき、とても気になるのが佐田岬半島から吉野川河谷を通って紀ノ川河谷とつながる一本の線。この線を西に追っていくと、阿蘇山をもぐって宇土半島から甑島へと続く一本の線が見えてくる。
これって、本当にただの偶然なんだろうか?


毎朝、出掛けにテレビの天気予報が流れる。
たいていは地図がでてそれに気圧の等圧線がかぶさる。気圧はどうでもいいのだが、結果として我々は毎日日本列島の地図を頭に叩き込まれていることになる。
ということで毎日見せられているうちに、ふと頭に浮かんだこと。
日本というのはユーラシア大陸に対して辺縁に並ぶ。それはフィリピン諸島、沖縄諸島、日本列島、千島列島、アリューシャン列島といういくつかの花綵を形成している。そのつなぎ目のところに台湾、朝鮮半島、樺太、カムチャッカ半島が位置している。
それでつなぎ目というのはどういう風につなぎ目なのかということだ。
この四つは見たところの違いが余りにも大きくて、共通点を見出すのは難しい。プレート理論もこれらの四つの接点の共通性をまったく説明していない。
第二には日本列島が琉球諸島、千島列島、アリューシャン列島に比べて桁違いに大きいことだ。果たして同列に論じてよいものなのか?
第三には、フィリピン諸島が厳密な意味では花綵を形成していないことだ。これを花綵の一つとして括ってよいものなのか。それともインドネシア諸島、ボルネオ、ニューギニアなどとまとめて論じるべきなのか。おそらくプレート理論の応用として判断しなければならないのだろうが…
ということで、余りにも見事な花綵形成と余りにもぶざまなユーラシア大陸への接合のしかたとが、どうも納得できない気がしてしようがない。


そろそろ疲れたので、ルソーはお開きにしようかと思う。

ルソーの文章は、そもそもからしてポレミックなものだ。自然人は高貴であり、社会がそれを堕落させていくという筋立ては、一種の反文明論であり。文字通りに受け取ることは出来ない。

ただ、自然人が野蛮人であり、それが社会の中で洗練されていくという常識に対するアンチテーゼとして、逆の面もあるんだよという点では説得力を持つ。

また人間がエデンの園を追われたアダムとイブ以来、原罪を担った存在であるというキリスト教の教えに対する反論でもある。

しかし、それだけではこの議論は持たない。じゃぁどうするんだということになる。そこで「自然に帰れ」ということになるのだが、これ自体も一種のレトリックである。もう一度自然を踏まえて、そこから自由とか理性とかを構築して行こうではないかということだ。

後半になると、こちらのニュアンスのほうが強くなる。それはおそらく論敵との10年間の論争の赴くところであったろう。それが「教育論」という形をとった人倫的共同体の形成への志向であろうと思う。

しかし政治の話は、共同体レベルでは済まされない。「国家主権」の問題が浮かび上がらざるを得ない。そこで自由の意志の発現としての国家主権への自発的従属の主張が登場する。

しかしこれも勢いのなせるところ、「従属こそが自由だ」的なニュアンスで語られる。

しかしこの時代にはそもそも「民主主義」とか「主権在民」という概念はないのだから、「みんなで決めたらみんなで守りましょう」というレベルの話ではないだろうか、「みんなで決める」ことに意義があるのであって、王制主義者が「そんなことでは無政府状態になる」と反論すれば、「決めたら守るのは、決め方がどうであろうと同じだ」てな売り言葉に買い言葉の乗りではないでしょうか。

ルソーは徒党を組むということをしていないので、常に異論派と直接向かい合って暮らしていたはずだ。だから、ルソーを読むときは、ルソーだけでなく、ルソーの向こう側にいる論敵の姿を思い浮かべながら読む必要があるだろう。

橋本努さん、ありがとう

http://www.econ.hokudai.ac.jp/~hasimoto/Resume%20on%20Rousseau%20Emile.pdf

で、『エミール』の梗概を作ってくれている。北大経済学部の人らしい。

えっ!というか、あの「ハイエク+マルクス」の橋本先生じゃん。経過については私のホームページの 更新記録 2008.05.20 を参照してください。

それで、一時間もあれば、さわりには触れることができるし、「さしあたり全文を読む必要はなさそうだな」ということも分かる。

気に入ったところだけ抜き出しておく。教育に興味のある人は橋本先生のページへどうぞ。

第一編(上巻)

・【社会秩序と自然秩序】

「自然の秩序のもとでは、人間はみな平等であって、その共通の天職は人間であることだ。両親の身分にふさわしいことをするまえに、人間として生活するように自然は命じている。
生きること、それがわたしの生徒に教えたいと思っている職業だ」

・【活動重視の教育】

「生きること、それは呼吸することではない。活動することだ。」

・【自然の弟子】

「教育は生命とともにはじまるのだから、生まれたとき、子どもはすでに弟子なのだ。教師の弟子ではない。自然の弟子だ」

第二編 子ども時代(~12,13 歳)

・【将来に備える教育について】

「人間よ、人間的であれ。それがあなたがたの第一の義務だ。あらゆる階級の人々に対して、あらゆる年齢の人々に対して、人間に無縁でないものに対して、人間的であれ」

第三編 青年期の直前(12,13 歳~15 歳)

第四編 第二の誕生(中巻)

・【人間の弱さから生まれる社会】

「人間を社会的にするのはかれの弱さだ。わたしたちの心に人間愛を感じさせるのはわたしたちに共通のみじめさなのだ。人間でなかったらわたしたちは人間愛など感じる必要はまったくないのだ。愛着はすべて足りないものがある証拠だ。

わたしたちのひとりひとりが、ほかの人間をぜんぜん必要としないなら、ほかの人間といっしょになろうなどとはだれも考えはしまい。こうしてわたしたちの弱さそのものから、わたしたちのはかない幸福が生まれてくる。

・【自分自身に満足することの幸福】

「神は、人間が自分で選択して、悪いことではなくよいことをするように、人間を自由な者にしたのだ。神は人間にいろいろな能力をあたえ、それを正しくもちいることによってその選択ができるような状態に人間をおいている」

・【人々を高く評価しないが軽蔑しない】

「一般的にいって、エミールはだれの考えにも反対しないで、自分の考えを述べる。かれはなによりも自由を愛好しているし、率直に語ることは、自由の最も美しい権利の一つなのだから。」

「エミール」の第4巻に「サヴォア助任司祭の信仰告白」という節があるそうだ。そこが当局の気に入らなかったところで、その後のルソーの運命を決めたようである。

それはまた、後のカントの自由観に大きな影響を与えたという。

以下は、土橋貴さんの「ルソーについて-自律としての自由」という文章の要約

http://wwwlib.cgu.ac.jp/cguwww/03/24_0102/24-01.pdf

人間の意志を決定する原因は何か。それは彼の判断だ。では、判断を決定する原因は何か、それは彼の知的能力だ、判断する力だ。決定する原因は人間自身のうちにある。それ以上のことになると、私にはもうなにも分からない

あらゆる行動の根源は自由な存在者の意志であり、私の外にある何者によっても決定されないでそうすること、まさにそういうところに私の自由がある

このポイントを、カントが自律という言葉で展開していった。

「だからルソーは、自律の精神としての“自由を通し平等を作っていく”決意を固めたのである」

土橋貴さんによれば、「社会契約論」では以下のように述べられている。

人間は、自然環境下では自然の法則下で生き、脱自然状態下では他者に縛られ生きてきたが、今後は新しい共同関係を作りながら、自律としての自由を作っていかなければならない。

どこかで聞いたようなせりふですね。

 とりあえず、グーグルで検索して上のほうからの文章に眼を通した。多くはエッセー風であり、それほど中身の濃いものではないが、とりあえず感じはつかめると思う。


「学問・芸術論」 1750年

「学問と芸術の進歩は人間の風俗を堕落させたか、それとも磨き上げたか」

ルソーは「堕落させた」と答えた。

人間は自然状態では自分の能力と欲求が一致していた。文明が進歩すると、自分の力以上の欲望が生まれた。これにより社会的な不平等、悪徳や争いが生まれる。

 

  「人間不平等起源論」 1755年

市村正也さんのページなどから引用)

①「人間とは本質的に善いものであり、堕落しているのは社会のほうである」

「人間の社会を礼讃したければいくらでもするがよい。しかし、実際の社会は利害が入り乱れ、人間が互いを憎み合い、想像しうる限りのあらゆる悪を互いにし合っている」

「人間は自由なものとして生まれた。しかしいたるところで鉄鎖につながれている」

「あらゆる人間の知識のうちで最も有用でありながら、最も進んでいないものは、人間に関する知識であるように思われる」

②自然人のあり方

「(自然人たちは)他人に危害を与えようと考えるよりは、受けるかもしれない危害から身を守ることに注意を払った。」

「自分が受けた乱暴はちょっとした不運とみなされた。乱暴を罰すべき不正とは見なさず、仕返しも考えなかった」

「彼らは虚栄心も尊敬も軽蔑も知らず、君のもの自分のものという観念も持たず、正義の観念もなかった」

「真の自然状態においては、人は自分のことを、自己を見つめるただ一人の観察者と見なしている。そして、宇宙のなかで自分に興味を持つただ一人の存在と見なしている。そして、自分自分の価値を判断できるただ一人の人間と見なしている。
だから、自分の能力の範囲を越えるものと比較することはありえない。だから、その比較によって生まれる感情、すなわち優越感や劣等感が、心の中に芽生えることはあり得ない。同じ理由で、自然人たちは憎悪も復讐の欲望も持つことができないだろう」

③社会が人間のゆがみをもたらす

「人々は知ることもできないものを少しも欲しがりはしない。未開人は自分の知っているものしか欲しが らない」

「(人々の行き来が始まると)人々は様々な事物を比較するようになる。そして無意識のうちに価値と美の観念を獲得し、それが選り好みの感情を生み出す。お互いに会うことによって、人々は会わずにいられなくなる。嫉妬心が愛とともに目覚める。

「人間たちがお互いに相手を評価し始め、尊敬という観念が彼らの精神の中に形成され始めると、誰もがその権利を主張した。侮辱された人間は、そこから起こる被害よりも自分個人に対する軽蔑が我慢ならない。自分に示された軽蔑を、自分で自分を尊敬する程度に応じて罰したので、仕返しは猛烈になり、人間は残忍になった」

「すべてに人間は、真の欲求ではなく他人の上に立ちたいという熱意を持つようになり、その結果お互い危害を加え合う傾向が生まれた」
「富めるものは、支配する快楽を知ると、たちまち他のあらゆる快楽を軽蔑した」

④贅沢と欲求

ルソーは人間が家族を作り、住居を持ち、簡単な道具を使うようになるにつれて欲求がどう変化するかを述べている。

「欲望が自然でなく、差し迫ったものでなくなると、それにつれて情念はますます増加する。いっぽう、それを満足させる力も増加するのである」

「簡素な生活と、限られた欲求とを持った人々が、多くの余暇を持つようになる。そしていろいろな安楽を手に入れるために、その余暇を利用した。 
「自分の肉体と精神とを軟弱にし続けると、これらの安楽は習慣となる。それによって安楽の魅力は失われる。同時にその安楽が真の欲求に変質してしまうから、それを奪われる苦しみは、それを持つことが心地よかっただけにいっそう激しいものとなった」

 

長山雅幸さんによれば、人間の不平等には八つの段階があるとされる。

第一段階: 人間関係が全く欠如している状態。純粋自然状態と呼ぶことができる。そこでは「自然人」は、野獣のような生活をし、その本能が求め る以上の欲求を持たない。

ルソーはこのような孤独な野蛮人を完全に幸福なものとして描いている。なぜならば、彼は独立しており、満たされているからである。

第二段階: 各自がお互いに一時的に関係を結ぶのにとどまる。

第三段階: 人口の増大、幾多の偶然による火や石器、金属器の発明などにより、固定した住居・家族が発生する。すなわち、社会組織の始まりである。

諸個人の交流が一般化し、それを通して競争と優越の観念など、様々な悪徳が生まれる。そして財産の発生によって、人間の平等の危機は本格化する。しかし、これはまだ社会の原初的段階にすぎない。

第四段階: 農業と冶金の技術の発明により、原初的社会状態から更に発達した社会状態へと移行する。分業が生まれ、その中から不平等が発生する。この不平等はその諸形態の中でも最も有害なもの、貧富の差へと帰着する。

「或る土地に囲いをして『これは俺のものだ』と宣言することを思いつき、それをそのまま信じるほどおめでたい人々を見つけた最初の者が、政治社会の真の創始者であった」

第五段階: 終わりなき戦争そして恐怖の時代。富者と貧者とは容赦なく憎しみあう。悪徳は今や普遍的なものとなる。

第六段階: 終わりなき戦争と恐怖から逃れるために「政治社会」が設立される。

第七段階: この政治社会から政府が生まれる。

第八段階: 政府は専制政治へと転化し、個人が無となることによって諸個人間の平等が再建される。これこそが不平等の最終段階であり、「自然状態」への回帰なのである。

 

「社会契約論」 1762年

長山雅幸さんによれば…

人間は自由なものとして生まれたはずなのに、今日の社会では「いたるところで鎖につながれている」、しかも「自分が他人の主人であると思っているような者も、実はその人々以上に奴隷なのである」

こういう疎外状況を、何が正当なものにしているのか、ということである。すなわち政治的権力であり、それを可能にした政治体としての社会契約である。

主権」とは政治についての決定権である。それまでは君主に「主権」があるとされてきた。君主主権の観念は絶対王政を支える強力な根拠となっていた。(王権神授説)

 ロックやモンテスキューは、「主権概念」を、理論的には不必要なものとして、実践的には危険なものとして退けてきた。それに対し、ルソーはこの観念を転用し、人民にこそ主権が存すると言う「人民主権」の概念を打ち立てた。

ただ、「主権」は民衆の意志とは異なる「一般意志」の表現であり、独裁権も排除していなかった。他方において、民主制は神々から成る人民にしか適さない程に「完全な政府」であり、「人間には適しない」とされている。

彼はその証拠としてイギリスの選挙制度をあげる。

「イギリスの人民は自由だと思っているが、それは大間違いだ。彼らが自由なのは、議員を選挙する間だけのことで、議員が選ばれるやいなや、イギリス人は奴隷となり、無に帰してしまう」

(Wikiquoteより)

「自由を放棄することは、人間としての性質を放棄することである」

「単なる欲求への服従は奴隷となることであり、人が自らの命じる規律に従うのは自由となることである」

「社会の秩序は自然から生じたものではない。社会の秩序は慣習の上に基礎付けられている」

 

 「エミール」 1762年

苫野一徳さんの文章などから引用)

①最初のテーゼ: 「すべてのものは、造物主の手から出たときは善であるが、人間の手の中では悪になる」

「自然の秩序においては、人間は皆平等であって身分など関係がない。従って人はまず人間にならなければならない。生きること、活動することが大切なのだ」

自然は決して我々を欺かない。我々自身を欺くのは常に我々である」

「人間の不幸は自分の為し得ること以上に欲望を満たそうとするところに生まれる。不幸は物がないということではない。むしろ物が欲しいと感じるから不幸なのである」

②「人は子ども時代というものを知らない。…いつも子どもを大人に近づけることばかりに夢中になり、大人になるまでの子どもの状態がどのようなものであったかを考えようとはしない」

「私達はいわば二回この世に生まれる。一回目は存在するために、二回目は生きるために」

「知識を与える前に、その道具である諸器官を完成させよ。感覚器官の訓練によって理性を準備せよ」

③「あらゆる情念の源は自己愛である。ここから、自らに近づく人たちへの愛が生まれる。人が人間愛を感じるのは、わたしたちが弱いからだ。だから人といっしょになりたいと思うのだ」

④「エミール」が禁書となった理由は、〈サヴォワ助任司祭の信仰告白〉という部分。

「人間は自由だ。神は、人間が自分で選択して善を行うように、人間を自由なものにしたのだ」という一節で、カントはこれに感激し『実践理性批判』を構想したとされる。

⑤苫野さんによれば、

よく言われる「自然に帰れ」というルソーの言葉とされるスローガン。しかしルソーは、実は「自然に帰れ」とはひと言も言っていない。

これはただちには首肯しがたい。言葉通りには言っていないかもしれないが、それに近いことはけっこう言っていると思う。すこし他の文献を当たってみる。

 

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