鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

2012年09月

 日本列島の地体構造 読後感想

① えれぇものに手を着けてしまったと思う。なにやら分からない言葉がずらずらと並ぶが、困るのは論理の行く先が果てしなく遠く、何を言わんとしているかが見えなくなってしまうことである。

②勉強になったのは、研究方法の進歩により、「大胆な仮説」など不要になったということだ。それがいまや「土に語らせよ、岩(とくに蛇紋岩)に語らせよ。語らなければ、爆弾で語らせよ」と、著者は主張している。

③1980年代までは、日本列島形成論は「邪馬台国論争」レベルだったらしい。結構地方研究家のレベルが厚くて、ということは中央のアカデミーにあまり権威がなくて、その間隙を縫って大風呂敷を広げる「専門家」が登場するという時代があったようだ。

基本的なストーリーはこういうことのようだ。

④日本は最初南中国地塊の辺縁に位置していた。南中国地塊と北中国地塊は最初別のものだったが2,3億年前に衝突した。そのときヒマラヤ並みの巨大な山脈が形成され、そこから出た膨大な土砂が日本列島を形成する。

⑤その後海洋プレートの沈み込みにより6回の造山運動があり、付加体が成長した。日本列島は構造侵食を乗り越えて、約5億年間に約500 km 海洋側へと成長した。

⑥日本列島の形成はこれですべて説明できる。フォッサマグナや中央構造線は、二次的・部分的な変化でしかない。観音開きや1000キロ横滑りはもう忘れたほうが良い。

とはいえ、これは地学雑誌だ。考古学で邪馬台国を読み解くようなものだ。荒唐無稽なセオリーは排除されるにしても、これではちょっと物足りない。

もともとの私の疑問は、

①中央構造線はなぜあんなにきれいなのか。

②弧状列島はどうしてできるのか

③日本列島はどうして大きいのか

ということだった。そしてすこし勉強してみて、

④東北・北海道が北アメリカプレートならば、南西日本となぜ、どうやって一つになったのか。

ということだった。

①については「若いから」ということで、とりあえず分かった。

③については、南北中国の衝突の影響ということで分かった。

②はとりあえず、他の文献でわかった。観音開きは不必要だと納得できた。

④については、依然分からない。著者は南西日本こそが日本で、北海道など日本ではないと思っているようだ。

VIII. 日本列島の大構造と太平洋型(都城型)造山帯の新たな視点

 1980 年代から本格的にはじまった日本列島のプレート造山論研究は、受動的大陸縁が活動的大陸縁に転換するという大筋を1990 年代前半に解明した。そしてさらに新たな視点が解明されつつある。

一方で,従来の素朴な造山帯形成史の理解は多くの誤りを含んでいたことが露呈しつつある。

現時点での日本列島の地体構造の特徴およびそこから導かれる太平洋型(都城型)造山帯の基本構造について議論する。

 1)忘れるべきこと

 近年の研究によって誤りであることが明白になった既存の理解・概念が少なからずある。日本列島のテクトニクスを議論する際に無用な混乱を避けるためには,それらは忘れさらねばならない。

 代表的なものは,以下の通りである。

(1)日本列島は地理的に近接する北中国地塊の周辺で生まれ,成長した,

(2)日本列島で最も重要な地質構造はフォッサマグナと中央構造線である,

(3)中央構造線の起源は白亜紀までさかのぼる

(4)日本海は観音開きの回転運動で開裂した,

(5)日本列島の主要な地体構造境界は高角度断層で画される,

(6)黒瀬川帯などの蛇紋岩メランジュ帯は地殻深部から上部マントルにまで達する高角度横ずれ断列帯である,

(7)日本列島の複数の横ずれ断層は1000km を越える変位をもち,日本のある部分はベトナムの近辺から移動してきた,

(8)日本列島は,横ずれ断層で境された複数のテレーンから構成され,それらは両隣の地質体とは成因的関係をもたない,

(9)付加体が形成されなかった期間はプレートが大きく斜め沈み込みしていた,

(10)付加体の成長はつねに海側へと前進する方向でおきた,

(11)いったん形成された弧地殻は消滅せず,大陸縁は海側へ成長し続ける,

(12)島弧が衝突するたびに造山帯の地殻総量が増える,

などの考えである。

今後の日本列島形成史ならびに太平洋型造山運動に関する議論は,これらの誤った概念から脱却して進めなければならない。

 2)日本から世界の造山帯研究へ

 2-1) 造山帯の中核部としての広域変成帯の三次元構造

造山帯の形成は,定常的なものではなくきわめて間欠的である。欧州ではカレドニア,バリスカン,そしてアルプスという3 回の独立した古典的造山運動が識別されてきた。

日本列島には少なくとも6 回の高圧変成作用が起きた。すなわち6 回の造山運動のクライマックスがあった。それらはおのおの間欠的な海嶺沈み込みに対応していた。そのなかで三次元形態が明示されたのは,石炭紀,トリアス紀,白亜紀である。構造浸食に伴う二次的改変のために、相対的に古い高圧変成帯はその形態を失ってしまった

 2-2)造山帯の後背地変遷

 LA-ICP-MS による砕屑性ジルコンのU-Pb 年代測定は,これまでまったく知られていなかった大きな変化が古生代から中生代における日本の後背地で起きたことが示された

トリアス紀中頃におきた南北中国塊同士の衝突によって接合した大陸内に巨大な山脈が形成され,大陸から膨大な量の陸源粗粒砕屑物が海洋側に供給された。それは衝突帯の東北端から太平洋岸の海溝沿いに日本近辺へ運ばれた。

中新世に明瞭な背弧盆である日本海が形成されると,その時点で大陸からの流入は根絶した。中新世以降,日本が完全に大陸から独立した島弧になったことが実証された。

 2-3)花崗岩バソリスの消失

 日本では5 回の花崗岩バソリスの形成と4 回の大量消失が起きた。

従来は斜め沈み込みによる付加プロセス自体の停止というad hoc な説明に終始してきたが,実は構造浸食によっていったん形成された付加体が消失したことになる。

日本列島内の造山帯構成要素の体積比較に関して最も印象的なのは,BTL より下位を占める白亜紀後期以降の付加体および高圧変成岩が莫大な総量をもつことである。

 2-4)構造浸食と蛇紋岩メランジュの形成

 2-5)地体構造境界の階層性

 2-6)大陸地殻の沈み込み

IX.おわりに

 プレートテクトニクスに基づいた造山論は1960 年代末にはじまったが,とくに海洋プレート沈み込みが支配する太平洋型(都城型)造山帯については,日本列島での研究が最も進んだ。とくに構造浸食プロセスと蛇紋岩メランジュ帯形成がもつ地質学的意義は強調されるべきである。

蛇紋岩メランジュ帯は造山帯内の第一級の地体構造境界であり,最優先の検討課題である。

 最後に,本稿で述べた主要な結論を以下に整理する。

 (1)大陸側に分布する飛騨帯および隠岐帯はアジア形成以前に存在した大陸塊の破片をなし,ともに北中国地塊に由来する。

 (2)西南日本の肥後帯は,北中国と南中国地塊との間の2.3 億年前衝突帯の東方延長にあたり,その構造的下位の日本列島の大部分は南中国地塊の縁辺で形成された。

 (3)花崗岩を除く日本列島の表層地殻主部のほとんどは,古生代から新生代の付加体およびその高圧変成部から構成される。しかし古い単元は形成後に二次的に消滅した。前弧域は海洋側への付加・肥大と,大陸側への構造浸食・縮退を繰り返した。

 (4)蛇紋岩メランジュ帯は,過去に起きた構造浸食作用の痕跡である。この面に沿って膨大な弧地殻の消失が起きた。

 (5)太平洋型造山帯内部の地体構造単元境界には,異なる性質のものが含まれる。(略)

 (6)海洋プレートの沈み込みという体制が維持されても,つねに付加体が成長するわけではない。日本列島の海側への成長はきわめて間欠的であった。構造侵食を乗り越えて、約5億年間に約500 km 海洋側へと成長した。

VII. 日本の主要な構造線:

目立つ副次的構造線 vs. 造山帯の大構造を規制する主要構造線

 1)目立つ構造線

 日本列島全体の地質構造を記述する際,これまでは中央構造線やフォッサマグナ(糸魚川—静岡構造線)の説明からはじめるのが一般的・伝統的であった。その背景には,ナウマン以来広く知られたこの2 つの明瞭な構造が日本列島の大構造を支配しているという暗黙の合意があった。

明治初期にはじめてこれらの目立つ構造を発見・記載したナウマンの貢献は特筆されるべきだが,しかし現在のプレート造山論の観点からは異なった解釈となっている。この2つの構造は長期間にわたって日本列島の骨格をつくってきた主要なプロセスとは無関係で,むしろきわめて新しくかつ副次的なプロセスの産物である。

若い地質構造,とくに高角度断層や褶曲軸は、その形成後に二次的な改変を被る時間が短いため,比較的明瞭な直線性を保持していることが多く,その結果として地形図ならびに地質図上で目立つことが多い。古期の地質構造は,重複変形を被った結果,地表での直線性としては認識されにくくなる。

本章では,まず伝統的に注目されてきた日本列島の主要な目立つ構造線についての現代的解釈を整理する。

 1-1) 中央構造線(Median Tectonic Line; MTL)

その起源を中生代白亜紀までさかのぼると考えられてきた。またMTL 沿いに大規模な横ずれ変位を想定する強い固定観念が日本の地質学者の間にできあがった。MTL の両側の基盤岩の年代や地殻深部での三次元形態が不明であったため,MTL 出現期の解釈についてはこのような大きな誤解・混乱が存在していた。

しかし白亜紀から現在に至るまでMTL が横ずれ変位をし続けてきたとみることは,その間に対曲構造やフォッサマグナの形成をはさんでいるのできわめて不自然である。

最近の研究成果に基づくと,中央構造線の本質は大規模な横ずれを伴う高角度断層ではなく,弧に直交する方向の短縮を主体とする低角度衝上断層であることが示された。

古中央構造線(Paleo-MTL)は,おそらく新第三紀の日本海拡大に前弧域の短縮の結果として活動した。

 1-2) 棚倉構造線(Tanakura Tectonic Line; TTL)

 この断層は中新世に日本海が開裂した時にその東端で活動した高角度横ずれ断層である。基本的に日本列島形成史のなかではきわめて若い地質構造であり,主要な造山帯の構造ができた後に二次的に改変をもたらした要素である。

TTL とMTL とを、一連の大規模な大陸縁横ずれトランスフォーム断層とみなす解釈があるが、互いに異質なTTL とMTL がかつて連続していた可能性はまったくない。北米西岸のサンアンドレアス断層と比較することも大きな誤解に基づいている。起源,形成機構,オーダーのどれをとってもまったく異なる。

 1-3)フォッサマグナ(Fossa magna)

 フォッサマグナの西端を限る糸魚川—静岡構造線は,ゆるくS 字状に波曲しながらもほぼ明瞭な直線性を示す断層である。この構造線は西南日本の帯状配列を明瞭に切断している。このことから,フォッサマグナが造山帯の主要構造を二次的に改変する若い地質構造であることは伝統的に理解されてきた。

フォッサマグナは日本海内に生じたトランスフォーム断層の南方延長で弧地殻がリフト化した結果とみなされる。

一方,フォッサマグナの東縁関東平野の厚い堆積物の下に埋没しているため詳細は不明である。しかし,西南日本の東西方向の帯状配列に対し,東北日本は南北方向の地体配列で特徴づけられ,その間に明瞭な構造ギャップがあることは明白である。

フォッサマグナは日本列島の大構造が形成された後にできた副次的な構造の1 つであり,古生代以来の主要な大構造の成立にはほとんど貢献していない。

 2)造山帯の大構造を規制する主要構造線

 上述の見かけ目立つ構造線は,いずれも造山帯の構造を二次的に改変するものにすぎない。日本列島の造山帯全体の構造を規制するより重要な構造線は別に存在する。それらのなかには,いまだに相対的な認知度が低いものも含まれている。

日本列島の形成史を考察する上でとくに重要な5つの構造線がある。長門—飛騨外縁構造線、大佐山—青海構造線、石垣—玖珂構造線、古中央構造線、仏像構造線である。なかでも後三者は太平洋型(都城型)造山帯の内部構造を規制する重要な構造線である。

 2-1) 長門— 飛騨外縁構造線

 山口県西部から山陰地方の海岸沿いに東方へ追跡され,新潟県西部で日本海へと消える。地図上に追跡されるさまざまな時期に変形・変位した断層群の総称である

この境界よりも大陸側の地質体はすべて既存の大陸地殻由来の物質で構成される。これに対し海側に産するものはすべて古太平洋底の海洋プレート沈み込みによってマントルおよび海洋プレートから新たに分離・形成された新規地殻物質である。

日本列島に関係する新規大陸地殻の形成開始を画する第一級の構造境界とされる。日本が南中国地塊縁辺の受動的大陸縁から,活動的大陸縁に転換したことを象徴する境界で,約5億年前にはじまった日本列島独自の地殻形成の開始線と意義づけされる。

 2-2) 大佐山— 青海構造線

 中期高圧変成岩の代表的産地である岡山県の大佐山地域と新潟県の青海地域にちなんで大佐山—青海構造線と呼ぶ。広域の地図上ではNg-HmTL とほぼ一致するようにみえる。

弧—海溝系を特徴づける,弧花崗岩,付加体,高圧変成岩,そして前弧盆帯堆積物という4 種の要素が存することから,前弧地殻がいったん形成され、二次的に消去されたことを意味している。

 2-3) 石垣—玖珂構造線

周防帯の下底として東方へ追跡され,中部日本の上越地域で日本海に没する。西方延長は瀬戸内海西部を横断して九州北部で大きく東へ反転・迂回し,再び豊後水道をわたって四国西部で中央構造線(Neo-MTL)に断たれる。 一方,石垣島において同様な累重関係が確認され,広域に連続する石垣—玖珂構造線と命名された。

石垣—玖珂構造線は日本の付加型造山帯を古生代と,ジュラ紀以降に分ける大きな構造境界をなす。

おそらくジュラ紀付加体の形成がはじまる前に大規模な構造浸食が起こり,先行して形成された古生代後期の造山帯産物が大量に消失したことを暗示している。

 2-4) 古中央構造線

Paleo-MTL は,関東から九州まで追跡されるが,九州東部でS 字状に屈曲し,肥後帯の南縁を通って有明海に抜ける。Neo-MTL は,リニアメントが明瞭な四国と紀伊半島に限定され,Paleo-MTL を切断している。

 2-5) 仏像構造線

沖縄本島から関東まで,ほぼ連続的に2000 km 以上追跡される。

先白亜紀の前弧地殻が構造浸食で消失した前線の痕跡とみなされる。


IV.日本列島の基盤岩の大区分

 

 

V.地体構造区分の単元

 

VI.地体構造境界の分類

中略

 4-1)背弧海盆の両端

 背弧海盆である日本海が開裂したのは中新世である。その開裂テクトニクスについては,海洋底の地磁気縞から復元される南北展張パタンと、陸上の古地磁気データから復元されたの間に大きな不一致があった。現在では観音開きパタンは否定的である。100 km 近い厚さのプレートを回転運動させると反対側でプレートの重複・衝突が生じることになる。しかし,九州西南方の地質にはそのような証拠が見当たらない。

しかし九州西部において,西南日本の帯状配列は南北方向にずれている。おそらく八代海を南北に通過する右横ずれ断層が存在すると思われる。また朝鮮半島の東南方でも,同様に右横ずれ断層が見られる。

 4-2)トランスフォーム断層の延長

 背弧海盆の拡大に伴う変位は,その両端だけで起きるわけではない。日本海の中央部において複数の海嶺が拡大した際にいくつかの大トランスフォーム断層を生じた痕跡がある。

フォッサマグナの起源はこのトランスフォーム断層に沿った右横ずれ変位であった。南方へ押し出されたこの断層の両側は,リフト化して開き,その間に厚い地層を堆積させた。そのリフト西端の崖をなした断層が現在みる糸魚川—静岡構造線に,また東端の崖が関東構造線(柏崎—銚子線)にあたる。

 4-3)島弧前面の短縮境界

良く分からないので略

 4-4)前弧スリバーの陸側境界

 海溝に海洋プレートが大きく斜めに沈み込む場合に,海溝軸に平行な沈み込み成分が前弧域の一部を弧地殻主部から分断し側方へ移動させる。これは前弧スリバーと呼ばれる。四国と紀伊半島を含む南海前弧スリバーがその代表である。

南海前弧スリバーの陸側境界断層にあたるのが右横ずれセンスの中央構造線である。とくに豊後水道から紀伊半島中央部にかけての直線性のよいリニアメントをもつ部分は,活断層として挙動している。しかしその変位は,さほど大きくない。

 4-5)別の島弧の衝突境界

 大陸縁に成長し続ける弧—海溝系に別の島弧が衝突すると,大陸縁の弧—海溝系の地質構造に大きな変化をもたら。とくに伊豆—小笠原弧の衝突は西南日本の帯状配列を大きく湾曲させている。

東海地方の赤石裂線も伊豆小笠原弧の衝突・付加に関連した左横ずれ断層である。


III. 東アジアのなかでの地体構造上の位置づけ

1980 年代には,近隣国でも地質情報の詳細化が進んだ。最も重要だったのは,中国主要部と朝鮮半島の解明であった。またフィリピンやロシア沿海州など造山帯の延長方向にあたる部分との対応関係が明らかになった。

日本列島の地体構造を論じる際には,東アジアの地体構造の枠組みのなかで,その位置づけを確認しておく必要がある。

留意すべき点がふたつある。①日本列島の起源が北中国(中朝)地塊縁か南中国(揚子)地塊縁か,②東アジアの造山帯との関連、である。

まず東アジアと日本列島との地質学関連に関する最近の知識を整理する。

 1) 南北中国間の大陸衝突帯の東延長と古生代日本の帰属

 日本がプレート収束型造山帯として形成されはじめたのは古生代初頭である。その誕生期に最も縁の深かったのは南中国であった。それは三つの理由から説明される。

(1)現在の東シナ海を介した九州と南中国の地殻の連続性,

九州から南西諸島にかけての先新生界基盤はそのまま東シナ海底,そして南中国東縁の大陸地殻に連続するとみなされる。そしてそれに連続する東北日本も南中国地塊に近縁と判断するのが最も自然である。

(2)南北中国の地塊が衝突したとき発生した造山帯の東方延長

南中国が北中国の下に沈み込んで衝突型変成帯が形成された。これは中国本土の秦嶺から山東半島へと連続し,黄海を渡って朝鮮半島では臨津江帯に追跡 される。その東方延長が飛騨山地と北関東の日立地域に存在する。飛騨片麻岩中の砕屑性ジルコンは,現在の北中国地塊の基盤岩の年代とよく一致する。

(3)古生物地理学の所見

古生代化石群集の特徴は南中国との強い関連を示す。

以上のことから,日本列島の主部は基本的に南中国地塊の縁辺で形成・成長したと考えるのが妥当である。

 2) 東アジアの大陸の原型

トリアス紀前半には南中国地塊が南方のインドシナ地塊と衝突・合体した。続いてトリアス紀中頃以降に北中国地塊や北方のモンゴル+ブレヤ地塊の一部が衝突・合体した。

こうして東アジアの大陸の原型がほぼ完成した。その東アジア大陸の外縁を覆うように,付加体などからなる単元が順次形成された。


II. 地体構造区分の研究略史:

これまでに日本に段階的に導入された重要な年代決定手法は次の4 つであった。すなわち,(1)大型化石による生層序学・年代学,(2)火成岩と変成岩の放射性年代測定,(3)微化石層序学・年代学,そして21 世紀初頭の研究前線を切り開く(4)砕屑性ジルコンのU-Pb 年代測定である。

 1)大型化石年代

 近代地質学が日本に定着するまでの19 世紀末から20 世紀半ば(明治から昭和前半)では,堆積岩から産する大型化石が唯一の年代決定基準であった。構成岩石の種類とそれらの化石年代をもとに,複数の地体構造 単元が識別された。これによりフォッサマグナ,中央構造線などの代表的な大規模地質構造が解明された。

しかし,各単元間の定義および帯相互の境界位置などはまだかなり曖昧な状態であった。

 2)放射性年代と微化石年代I

 第二次世界大戦以後は,火成岩および変成岩について放射性年代測定が可能となった。これによって化石を産しない火成岩や変成岩の年代がはじめて具体的に示されるようになった。堆積岩についてもより高い年代分解能をもつ微化石が頻繁に利用されるようになった。

しかし,年代測定を行う機器をもつ研究施設は少なく、日本列島のすべての地体構造単元の年代が明らかにされたわけではなかった。

 3)微化石年代II

1980 年前後には,造山運動の原動力がプレートの収束プロセスであったことが確認された。複雑な堆積岩複合体の実態が過去の付加体であると認識されるようになった。この付加体の年代決定において,微化石層序が決定的な役割を果たした。

簡便な微化石抽出法は急速に普及し,地域地質学と結びついて日本全土から短期間に大量のデータが生み出された。また1990 年前後には,放射性年代マッピング法が導入され,弱変成付加体に明確な年代基準を与えた。この場合も地域地質学と密着した多数の年代測定がなされた。

これらの研究によって,日本列島の基盤岩をなす地体構造単元のほとんどが過去の付加体とその高圧変成部であることが明示された。

 4)砕屑性ジルコン年代学

 21 世紀初頭の現在,新手法として注目されるのが砕屑性ジルコン年代学である。近年の性能改良により,多数試料の迅速測定が可能となった。

この手法の導入により,日本列島の地体構造論において次の2 点について大きなブレークスルーがおこりつつある。

(1)粗粒砕屑岩主体の地層の年代推定が可能となった

(2)高圧変成作用を被った付加体の原岩形成年代を明らかにできるようになった。


日本列島の地体構造区分再訪

磯﨑行雄ほか

http://ea.c.u-tokyo.ac.jp/earth/Members/Isozaki_JG/10Isozaki.pdf

という論文が、包括的で勉強になる。以下はその摘要。

I.はじめに

 日本列島は世界地図のなかでみると極東にあるほんの小さな島国だが,そこには大陸縁辺に発達する造山帯を特徴づける地質学的・地球物理学的特徴が多く観察され,世界で最も詳しく解析されている島弧と呼んでも過言ではないだろう。

日本列島の表層地殻は,おもに強く変形した堆積岩類や変成岩類,そしてそれらに貫入した花崗岩類から構成される。これらの強い変形作用は、日本列島が長期間存続した造山帯の一部であったことを示している。

 造山帯の大構造を理解する際には,地体構造単元の識別およびそれらの間の境界の認定がすべての議論の出発点となる。日本列島の場合,列島にそって帯状配列する複数の「帯」に区分される。

20 世紀後半ではプレートテクトニクス的地質観のもとで,分類や定義が大きく改訂された。しかしその後も一部の潜在的な問題が未可決のままもち越されて現在に至っている。

 21 世紀最初の10 年が経過し,「砕屑性ジルコン年代」測定など、次世代を切開く新しい研究手法が導入され,いま再び新しい変革の時期が訪れた。日本列島を構成する各種地体構造単元や隣接単元間境界の再定義が不可欠となった。

本稿では,地体構造区分に関して,現状の混乱を改めるには具体的にどのように対処すべきかを論じ,再定義を試みる。



…てなことを考えていたら、「大鹿村中央構造線博物館」というページにあたった。
英語ではOshika museum of Japan Median Tectonic Line というのだそうだ。
恥ずかしながら、プレート・テクトニクスというのをテクニックだと思っていた。
構造という意味なんですね。
ここの掲示板で、「やはり」と思わせる論議が盛んに繰り返されている。セオリーそのものが形成過程にあり、けっこう百花斉放のようだ。
それにしても、こんな名称の博物館を作ってしまうなんて、やはり伊那の人は違う。静岡県人なら思いつきもしないろう。

ということで、花サイ列島の話題からは退散することとする。

昨日、日本列島の成り立ちをまとめてみて、なんとなく分かった気になっていたが、なんとなく変だと思う。
いくつかの異なるセオリーが、アマルガムのように接着されているが、どうもおたがいに矛盾があるのではないか?
ユーラシアプレートと太平洋プレートの単純なぶつかり合いであれば、“日本弧状列島”の形成は容易に理解できる。しかし日本がそもそもユーラシアと北アメリカプレートの両方にまたがっているとすれば、俄然話は複雑だ。

大陸プレートと海洋プレートのこすれあいによって生じる変化は、所詮は、接合面の近辺に生じる小規模なものだ。しかし大陸プレートと大陸プレートとの関係というのは、はるかにマクロなものだ。だから二つの大陸プレートの境界で起きる事象は、まずもってこの関係から判断しなければならない。

二つの大陸プレートの経時的な位置関係はどうなっているのか、つまり二つは近づいているのか、それとも遠ざかっているのかということがまず明らかにされなければならない。漂流説の流れに従えば、遠ざかっていると見るのが自然だと思うが。

私には、北アメリカプレート関与説は、「フォッサマグナ」屋さんが、少々図に乗ってぶち上げているだけではないかと思えてくるのだが。

第二にフィリピンプレートを考えに入れないでモデル化すると、日本は三つのプレートの交点になる。その場合に太平洋プレートは両方の大陸プレートに平等の関係でもぐりこんでいくのか、たとえばユーラシアプレートに直角の関係でもぐるなら、北アメリカプレートには斜め45度とかということはないのだろうか。もう一つ、太平洋プレートはただひたすらにもぐるだけなのだろうか。二つの大陸プレートのあいだを押し広げたりすることはないのだろうか。

いろいろ考えていくと、どうも北アメリカプレートをこの議論に持ち込むのは、あまり生産的ではないような気がする。とりあえず陸地のほうはユーラシア・プレート一本で十分説明可能だ。

観音開きセオリーは両方のヒンジが同一のプレート上にあるという前提を要求しているのではないか。(もっとも観音開きセオリーも一方のヒンジを知床岬の先におくという無理を犯している。日本海の膨隆による放射型変形で十分説明可能と思うが)

北アメリカプレートの関与を主張するためには、ユーラシアプレート一本説で説明困難な事象を挙げ、それが二つの大陸プレート説でうまく説明できることを、説得力を持って証明しなければならない。

第三にフィリピン・プレートの関与である。日本列島をほかの弧状列島から分けている最大の特徴はフィリピンプレートによりもたらされているとおもう。つまり大陸プレート側の事情ではなく、海洋プレート側の事情により規定されているのではないか、と思う。

その割にはこのフィリピンプレートの全体像ははっきりしていない。学生時代にはフィリピンプレートなどという言葉すら聞いたことがなかった。(というより、私の情報不足であるが)

これから少し情報を集めてみる。

まずは弧状列島の一般的な成り立ち。

①大陸プレートの下に海洋プレートがもぐりこむ。そのとき海岸線に表面の土を残していく。それがつみあがって海岸べりに山脈が形成される。
②もぐりこんだ海洋プレートはマグマだまりに接して膨らむ。内陸部に入ってから膨らむと、山脈は放射状に縁のほうに押し寄せられる。海の方に落ち込んで行けば山の頂きが列島として残る。

次は日本列島の特殊性
③日本列島の場合真ん中が切れてしまって、弧状の形態を維持できなかった(フォッサ・マグナ)。一説では伊豆諸島が邪魔になって、北側は東の日本海溝へ、西側は南の南海トラフに落ち込んだという。
④やがて海洋プレートのふくらみは消失し、カルデラのようにへっこむ。そこにフォッサマグナを通じて海水が入り込み、日本海を形成した。
⑤フォッサマグナには、その後伊豆諸島方面のフィリピン・プレートが入り込み、新たな陸地を形成した。かつての水路は本州で最大の幅を持つ区域となった。

こんなもんでいかがでしょう。

http://www.saitama-med.ac.jp/jsms/vol31/03/jsms31_183_193.pdf

埼玉医科大学雑誌 第31 巻 第3 号 平成16 年7 月

 

もうやめようと思ったが、ルソーについての面白いペーパーを見つけてしまった。

『ルソーの泌尿器疾患について』という論文で、埼玉医科大学の斉藤先生という泌尿器科のお医者さんが書いたものだ。ルソーのいわば持病だった「尿閉症」を中心に病蹟学(Pathography)的な分析を行っている。

少しそのさわりを紹介しておく。斉藤先生は『告白』をじっくり読み込んで、そのなかから病気についての記載を引き出している。

 

①出生時から小児期まで

「私は死なんばかりの状態で生まれ,育つ望みはほとんどなかった」

②青年期

「息切れがし,圧迫を感じ,知らないうちにため息し,動悸が高まり,喀血した.微熱がでた」

「私は健康な体質だし,それにいかなる不摂生もしないのに,眼に見えて衰弱して行った原因が,どこにあるかわからない」

(ルソーは死ぬと思い,遺言書を書いた)

「眼に見えて衰弱,死人のように青ざめ,骸骨のようにやせていた.動脈は恐ろしくうち,動悸はますます早くなり,たえず息苦しく,ついに衰弱があまりひどくなったので,動くのも苦になった」

「医者たちは,私の病気がぜんぜんわからず,私を気で病んでいるとみなした」

③壮年期(1742~1762,30~50歳)

(ヴェネチアの娼婦と10フランで関係)「私は病気を移されたと,全く確信して館に帰ったので,戻ってやった最初のことは,医師に人をやって,煎じ薬を求めることだった.

彼(医師)は私が特別の体質だから,簡単には感染しないのだと納得させた。そういう病気(梅毒)にはかからない体質だ」

{1758,45歳}

「彼ら(医者)の指示に従えば従うほど,私は黄色くなり,やせて,衰えた。私は大金を払って,消息子を大量に買い込んだ。こんなに高く,苦しくて,つらい手当てをして,気を散らさずに,仕事ができるはずがない」

{1761,49歳}「結石はないが,前立腺が硬性腫瘍にかかって,異常に肥大している。彼は(コーム),私はひどくくるしむだろうが,長生きするだろうとはっきり言った」

 

④晩年・死亡時

1778年7月2日,例のごとく早朝起床して散歩,8時帰宅,朝食,しばらくして突然気分がわるくなる.

「彼は足の裏がちくちくしてとても気持ちが悪い,背骨にそって氷水が流れるような寒気がする.胸が苦しい,発作のときのようなとても激しい頭痛がする.とつぎつぎと訴えました.彼が両手で頭をかかえたのはこのことの表現だったのでしょう.そして,頭蓋骨が割れるようだといいました.この発作ののちに,彼の生命は絶え,椅子から下にたおれました.すぐだき起こしましたが,彼はもう死んでいました」

これはテレーゼの口述だが、死の間際にこれだけの症状を次々に訴えるのはすごいです。

 

以上のごとき論述から、斉藤先生は以下のように推論しています。

診断根拠となる検査所見はないが,ルソーのような尿道のひどい苦しさを訴える疾患には,除外診断として,前立腺症,心身症や神経症的不定愁訴を訴える疾患として,前立腺痛(症)も考えられる.

 いわゆる前立腺症には意思の疎通のはかり難い患者が多い.(臨床医としての実感がこもっています

ルソーが前立腺症かは不明であるが,類似点も認められる.

前立腺症は致死疾患ではないが,患者の訴えに対して,疾患を証明する検査所見が乏しく,精神病との境界領域の疾患とも考えられている.

晩年になって,尿閉症,尿意切迫感が悪化・進行したという記載は見当たらない.あれだけ苦しんだ症状の記載がないことは,青・壮年期にひどかった症状が,老年になって軽減したためと考えられる.

ルソーは医学の知識もあり,ヒポクラテスも知っており,医学を信用しているが,医師を信用せず,医師に対して極端な敵対意識を持っている.さすがに,医師に対して,刃傷沙汰や,暴力行為はしていないが,文の剣で,医師を突きまくっている.

自分の疾患に対する不満がつのって,後に社会に対する不満と重なり,『人間不平等起原論』の起原になったと推測出来なくはない.(ここはちょっと言い過ぎかも知れません)

斉藤先生は精神医学的な評価を慎重に避けていますが、一昔前の精神科医なら、こういうケースには間違いなくパラノイアの診断を下すでしょう。


ついでですが、ルソーの医者の悪口は相当なものです。医者とか坊主なんてのは、陰口を叩かれるのが商売みたいなものですが、それにしてもすごい。

 「自然状態の人間にはほとんど薬が必要はなく,医者はなおさら必要ではない」(『不平等論』48).

 「わたしは医者がどんな病気をなおしてくれるのかは知らない.医者が非常に有害な病気をもたらすことを知っている」(『エミール』上56).

 「自分のためには決して医者を呼ばない.生命があきらかに危険状態にあるときは別だ.その場合には医者もかれを(エミール)を殺す以上に悪いことをするはずはない」(『エミール』上58).

 「賢明なロック(イギリスの思想家)はその生涯のある時期を医学の研究にすごしたが,用心のためにも軽い病気のためにも,子どもには決して薬を与えないように熱心にすすめている」(『エミール』上58).

 「かれらが(医者)なおした病人のうち幾人かはかれらがいなければ死んでいたかもしれない.しかし,かれらが殺した幾百万の人は生きていたことだろう」(『エミール』上108).

 「医者と哲学者は,自分の説明できることしか真実とは認めず,自分の理解力を可能の尺度としている」(『告白』6 巻284).

 「わたしはかれらの技術のむなしいこと,その診療がなんの役にもたたないことの生きた証拠なのだ」(『散歩』115)


もう40年も前のことですが、村上孝太郎という人が参議院選挙に出て当選したのですが、まもなくガンが発見されてそのままなくなってしまったという出来事がありました。運輸省か通産省の次官か局長まで行った人で、ちょうどその頃はやったフォークソングの「走れコータロー」という歌をそのまま選挙運動に使っていました。

この人は、入院してから猛烈に医学書を読み漁ったそうです。たちまちのうちに医者どもの知識を追い抜いてしまい、研修医に指図したそうです。

しかし、そういうことはよくあることなので、医者というのは例え専門医であろうと、臨床医であるかぎりは、深さより広さが求められるものなのです。

言い訳っぽくなりますが、人間というものが全面的である以上、医療の側も全面的であることが要求されるのです。

お叱りをいただきましたが、すみません。うろ覚えというのは知らないのと同じことだと痛感しました。なにせ学生時代にはこんなこと習っていません。

ウィキペディアのフォッサマグナの項を見るとこう書いてありました。

日本近海の海溝は向きが異なる南海トラフ日本海溝の2つだったため、日本列島は中央部が真っ二つに折られる形でアジアから離れた。折れた原始日本列島の間には日本海と太平洋をつなぐ海が広がり、新生代にあたる数百万年間、などが堆積していった。そして数百万年前、フィリピン海プレートが伊豆半島を伴って日本列島に接近した時に、真っ二つになっていた列島が圧縮され始めた。この時、間にあった海が徐々に隆起し…

おお、そうだったのか。こういうのを『観音開き説』というんだ。
日本列島というのは沖縄・千島・アリューシャンのような弧状列島ではないんだ。

もう一つわかったのは糸魚川-静岡線に対応して東側にもうひとつの構造線があり、そこから北は北アメリカプレートに乗っているということだ。
地図を見るとどうも苫小牧から石狩に抜ける線がプレート境界ではないかと思っていましたが、地球の歴史はもっとずっと大規模なものですね。

ついでに、ある情報では「横滑り説」と言うのもあって、日本列島の北と南が中央構造線を境に1500キロもずれたんだそうです。
1500キロというとほぼ日本列島の全長並み、ずれる前は一直線にきれいに並んでいたということになります。
しかしどうも観音開き説との相性が悪い。とりあえずは仮説ということでしょう。

お叱りをいただきましたが、すみません。うろ覚えというのは知らないのと同じことだと痛感しました。なにせ学生時代にはこんなこと習っていません。

ウィキペディアのフォッサマグナの項を見るとこう書いてありました。

日本近海の海溝は向きが異なる南海トラフ日本海溝の2つだったため、日本列島は中央部が真っ二つに折られる形でアジアから離れた。折れた原始日本列島の間には日本海と太平洋をつなぐ海が広がり、新生代にあたる数百万年間、などが堆積していった。そして数百万年前、フィリピン海プレートが伊豆半島を伴って日本列島に接近した時に、真っ二つになっていた列島が圧縮され始めた。この時、間にあった海が徐々に隆起し…

おお、そうだったのか。こういうのを『観音開き説』というんだ。
日本列島というのは沖縄・千島・アリューシャンのような弧状列島ではないんだ。

もう一つわかったのは糸魚川-静岡線に対応して東側にもうひとつの構造線があり、そこから北は北アメリカプレートに乗っているということだ。
地図を見るとどうも苫小牧から石狩に抜ける線がプレート境界ではないかと思っていましたが、地球の歴史はもっとずっと大規模なものですね。

ついでに、ある情報では「横滑り説」と言うのもあって、日本列島の北と南が中央構造線を境に1500キロもずれたんだそうです。
1500キロというとほぼ日本列島の全長並み、ずれる前は一直線にきれいに並んでいたということになります。
しかしどうも観音開き説との相性が悪い。とりあえずは仮説ということでしょう。

北海道の景観は、たとえば狩勝峠から十勝の大平原を見下ろしたときとか、根釧の果てしなき牧草地帯とか、内地の細やかさとは異なるおおらかな印象である。
しかし地図を見ていると、どうもそう単純ではないという思いがしてくる。

日本地図を見ていると、変だなと思うのは、本州から北上してくる陸地の線が積丹半島で終わってしまっていることだ。樺太から南下してくる隆起もえりも岬で海中に没してしまう。大雪から東に伸びる山並みも知床半島で海中に没し、千島列島のアーチとは微妙にずれる。逆に国後まで南下した隆起は根釧平野のどこにも名残を感じさせない。そしてその南方には釧路から海岸線沿いに歯舞・色丹まで伸びる低い隆起がある。

つまり北海道は大きく言えば、本州系、樺太系、千島系の三つの地質学的構造の交差点になっているということなのだろう。北海道の地形は本州、特に西日本に比べたらずいぶん単純だと思っていたが、地質学的にははるかに複雑なようだ。

ウィキペディアで調べると、本州まではユーラシアプレートの上に乗っかっているが、北海道は北アメリカプレートという別の棚の上に乗っているようだ。

もう少し勉強してみよう。

九州も小さな割に複雑な地形だ。というより、メリハリのない島だ。
鳥瞰してみると、背振山地から五島列島につらなる隆起と、佐賀の関から甑島につながる隆起と、大隅半島からトカラ列島につながる隆起の三本が見て取れる。
しかしいずれも薄ぼんやりとしたもので、たんなる眼の錯覚かといわれれば、そうも思われる。
一応脊梁を成すと思われる熊本・宮崎県境の山地も日田から国分で終わってしまう。むしろ雲仙・阿蘇・霧島の三大火山が地形を規定している。九州島の短い足となる薩摩・大隅半島も、そうなるべき必然性が見えてこない。
北海道が千島のアークと日本列島のアークのヒンジであるのと同様に、九州は沖縄からつながる南西諸島と日本列島のヒンジであるはずなのだが、それを象徴するような地形的特徴が見て取れないのである。

ついでにもう一つ
西日本の天気予報のとき、とても気になるのが佐田岬半島から吉野川河谷を通って紀ノ川河谷とつながる一本の線。この線を西に追っていくと、阿蘇山をもぐって宇土半島から甑島へと続く一本の線が見えてくる。
これって、本当にただの偶然なんだろうか?


毎朝、出掛けにテレビの天気予報が流れる。
たいていは地図がでてそれに気圧の等圧線がかぶさる。気圧はどうでもいいのだが、結果として我々は毎日日本列島の地図を頭に叩き込まれていることになる。
ということで毎日見せられているうちに、ふと頭に浮かんだこと。
日本というのはユーラシア大陸に対して辺縁に並ぶ。それはフィリピン諸島、沖縄諸島、日本列島、千島列島、アリューシャン列島といういくつかの花綵を形成している。そのつなぎ目のところに台湾、朝鮮半島、樺太、カムチャッカ半島が位置している。
それでつなぎ目というのはどういう風につなぎ目なのかということだ。
この四つは見たところの違いが余りにも大きくて、共通点を見出すのは難しい。プレート理論もこれらの四つの接点の共通性をまったく説明していない。
第二には日本列島が琉球諸島、千島列島、アリューシャン列島に比べて桁違いに大きいことだ。果たして同列に論じてよいものなのか?
第三には、フィリピン諸島が厳密な意味では花綵を形成していないことだ。これを花綵の一つとして括ってよいものなのか。それともインドネシア諸島、ボルネオ、ニューギニアなどとまとめて論じるべきなのか。おそらくプレート理論の応用として判断しなければならないのだろうが…
ということで、余りにも見事な花綵形成と余りにもぶざまなユーラシア大陸への接合のしかたとが、どうも納得できない気がしてしようがない。


そろそろ疲れたので、ルソーはお開きにしようかと思う。

ルソーの文章は、そもそもからしてポレミックなものだ。自然人は高貴であり、社会がそれを堕落させていくという筋立ては、一種の反文明論であり。文字通りに受け取ることは出来ない。

ただ、自然人が野蛮人であり、それが社会の中で洗練されていくという常識に対するアンチテーゼとして、逆の面もあるんだよという点では説得力を持つ。

また人間がエデンの園を追われたアダムとイブ以来、原罪を担った存在であるというキリスト教の教えに対する反論でもある。

しかし、それだけではこの議論は持たない。じゃぁどうするんだということになる。そこで「自然に帰れ」ということになるのだが、これ自体も一種のレトリックである。もう一度自然を踏まえて、そこから自由とか理性とかを構築して行こうではないかということだ。

後半になると、こちらのニュアンスのほうが強くなる。それはおそらく論敵との10年間の論争の赴くところであったろう。それが「教育論」という形をとった人倫的共同体の形成への志向であろうと思う。

しかし政治の話は、共同体レベルでは済まされない。「国家主権」の問題が浮かび上がらざるを得ない。そこで自由の意志の発現としての国家主権への自発的従属の主張が登場する。

しかしこれも勢いのなせるところ、「従属こそが自由だ」的なニュアンスで語られる。

しかしこの時代にはそもそも「民主主義」とか「主権在民」という概念はないのだから、「みんなで決めたらみんなで守りましょう」というレベルの話ではないだろうか、「みんなで決める」ことに意義があるのであって、王制主義者が「そんなことでは無政府状態になる」と反論すれば、「決めたら守るのは、決め方がどうであろうと同じだ」てな売り言葉に買い言葉の乗りではないでしょうか。

ルソーは徒党を組むということをしていないので、常に異論派と直接向かい合って暮らしていたはずだ。だから、ルソーを読むときは、ルソーだけでなく、ルソーの向こう側にいる論敵の姿を思い浮かべながら読む必要があるだろう。

橋本努さん、ありがとう

http://www.econ.hokudai.ac.jp/~hasimoto/Resume%20on%20Rousseau%20Emile.pdf

で、『エミール』の梗概を作ってくれている。北大経済学部の人らしい。

えっ!というか、あの「ハイエク+マルクス」の橋本先生じゃん。経過については私のホームページの 更新記録 2008.05.20 を参照してください。

それで、一時間もあれば、さわりには触れることができるし、「さしあたり全文を読む必要はなさそうだな」ということも分かる。

気に入ったところだけ抜き出しておく。教育に興味のある人は橋本先生のページへどうぞ。

第一編(上巻)

・【社会秩序と自然秩序】

「自然の秩序のもとでは、人間はみな平等であって、その共通の天職は人間であることだ。両親の身分にふさわしいことをするまえに、人間として生活するように自然は命じている。
生きること、それがわたしの生徒に教えたいと思っている職業だ」

・【活動重視の教育】

「生きること、それは呼吸することではない。活動することだ。」

・【自然の弟子】

「教育は生命とともにはじまるのだから、生まれたとき、子どもはすでに弟子なのだ。教師の弟子ではない。自然の弟子だ」

第二編 子ども時代(~12,13 歳)

・【将来に備える教育について】

「人間よ、人間的であれ。それがあなたがたの第一の義務だ。あらゆる階級の人々に対して、あらゆる年齢の人々に対して、人間に無縁でないものに対して、人間的であれ」

第三編 青年期の直前(12,13 歳~15 歳)

第四編 第二の誕生(中巻)

・【人間の弱さから生まれる社会】

「人間を社会的にするのはかれの弱さだ。わたしたちの心に人間愛を感じさせるのはわたしたちに共通のみじめさなのだ。人間でなかったらわたしたちは人間愛など感じる必要はまったくないのだ。愛着はすべて足りないものがある証拠だ。

わたしたちのひとりひとりが、ほかの人間をぜんぜん必要としないなら、ほかの人間といっしょになろうなどとはだれも考えはしまい。こうしてわたしたちの弱さそのものから、わたしたちのはかない幸福が生まれてくる。

・【自分自身に満足することの幸福】

「神は、人間が自分で選択して、悪いことではなくよいことをするように、人間を自由な者にしたのだ。神は人間にいろいろな能力をあたえ、それを正しくもちいることによってその選択ができるような状態に人間をおいている」

・【人々を高く評価しないが軽蔑しない】

「一般的にいって、エミールはだれの考えにも反対しないで、自分の考えを述べる。かれはなによりも自由を愛好しているし、率直に語ることは、自由の最も美しい権利の一つなのだから。」

「エミール」の第4巻に「サヴォア助任司祭の信仰告白」という節があるそうだ。そこが当局の気に入らなかったところで、その後のルソーの運命を決めたようである。

それはまた、後のカントの自由観に大きな影響を与えたという。

以下は、土橋貴さんの「ルソーについて-自律としての自由」という文章の要約

http://wwwlib.cgu.ac.jp/cguwww/03/24_0102/24-01.pdf

人間の意志を決定する原因は何か。それは彼の判断だ。では、判断を決定する原因は何か、それは彼の知的能力だ、判断する力だ。決定する原因は人間自身のうちにある。それ以上のことになると、私にはもうなにも分からない

あらゆる行動の根源は自由な存在者の意志であり、私の外にある何者によっても決定されないでそうすること、まさにそういうところに私の自由がある

このポイントを、カントが自律という言葉で展開していった。

「だからルソーは、自律の精神としての“自由を通し平等を作っていく”決意を固めたのである」

土橋貴さんによれば、「社会契約論」では以下のように述べられている。

人間は、自然環境下では自然の法則下で生き、脱自然状態下では他者に縛られ生きてきたが、今後は新しい共同関係を作りながら、自律としての自由を作っていかなければならない。

どこかで聞いたようなせりふですね。

 とりあえず、グーグルで検索して上のほうからの文章に眼を通した。多くはエッセー風であり、それほど中身の濃いものではないが、とりあえず感じはつかめると思う。


「学問・芸術論」 1750年

「学問と芸術の進歩は人間の風俗を堕落させたか、それとも磨き上げたか」

ルソーは「堕落させた」と答えた。

人間は自然状態では自分の能力と欲求が一致していた。文明が進歩すると、自分の力以上の欲望が生まれた。これにより社会的な不平等、悪徳や争いが生まれる。

 

  「人間不平等起源論」 1755年

市村正也さんのページなどから引用)

①「人間とは本質的に善いものであり、堕落しているのは社会のほうである」

「人間の社会を礼讃したければいくらでもするがよい。しかし、実際の社会は利害が入り乱れ、人間が互いを憎み合い、想像しうる限りのあらゆる悪を互いにし合っている」

「人間は自由なものとして生まれた。しかしいたるところで鉄鎖につながれている」

「あらゆる人間の知識のうちで最も有用でありながら、最も進んでいないものは、人間に関する知識であるように思われる」

②自然人のあり方

「(自然人たちは)他人に危害を与えようと考えるよりは、受けるかもしれない危害から身を守ることに注意を払った。」

「自分が受けた乱暴はちょっとした不運とみなされた。乱暴を罰すべき不正とは見なさず、仕返しも考えなかった」

「彼らは虚栄心も尊敬も軽蔑も知らず、君のもの自分のものという観念も持たず、正義の観念もなかった」

「真の自然状態においては、人は自分のことを、自己を見つめるただ一人の観察者と見なしている。そして、宇宙のなかで自分に興味を持つただ一人の存在と見なしている。そして、自分自分の価値を判断できるただ一人の人間と見なしている。
だから、自分の能力の範囲を越えるものと比較することはありえない。だから、その比較によって生まれる感情、すなわち優越感や劣等感が、心の中に芽生えることはあり得ない。同じ理由で、自然人たちは憎悪も復讐の欲望も持つことができないだろう」

③社会が人間のゆがみをもたらす

「人々は知ることもできないものを少しも欲しがりはしない。未開人は自分の知っているものしか欲しが らない」

「(人々の行き来が始まると)人々は様々な事物を比較するようになる。そして無意識のうちに価値と美の観念を獲得し、それが選り好みの感情を生み出す。お互いに会うことによって、人々は会わずにいられなくなる。嫉妬心が愛とともに目覚める。

「人間たちがお互いに相手を評価し始め、尊敬という観念が彼らの精神の中に形成され始めると、誰もがその権利を主張した。侮辱された人間は、そこから起こる被害よりも自分個人に対する軽蔑が我慢ならない。自分に示された軽蔑を、自分で自分を尊敬する程度に応じて罰したので、仕返しは猛烈になり、人間は残忍になった」

「すべてに人間は、真の欲求ではなく他人の上に立ちたいという熱意を持つようになり、その結果お互い危害を加え合う傾向が生まれた」
「富めるものは、支配する快楽を知ると、たちまち他のあらゆる快楽を軽蔑した」

④贅沢と欲求

ルソーは人間が家族を作り、住居を持ち、簡単な道具を使うようになるにつれて欲求がどう変化するかを述べている。

「欲望が自然でなく、差し迫ったものでなくなると、それにつれて情念はますます増加する。いっぽう、それを満足させる力も増加するのである」

「簡素な生活と、限られた欲求とを持った人々が、多くの余暇を持つようになる。そしていろいろな安楽を手に入れるために、その余暇を利用した。 
「自分の肉体と精神とを軟弱にし続けると、これらの安楽は習慣となる。それによって安楽の魅力は失われる。同時にその安楽が真の欲求に変質してしまうから、それを奪われる苦しみは、それを持つことが心地よかっただけにいっそう激しいものとなった」

 

長山雅幸さんによれば、人間の不平等には八つの段階があるとされる。

第一段階: 人間関係が全く欠如している状態。純粋自然状態と呼ぶことができる。そこでは「自然人」は、野獣のような生活をし、その本能が求め る以上の欲求を持たない。

ルソーはこのような孤独な野蛮人を完全に幸福なものとして描いている。なぜならば、彼は独立しており、満たされているからである。

第二段階: 各自がお互いに一時的に関係を結ぶのにとどまる。

第三段階: 人口の増大、幾多の偶然による火や石器、金属器の発明などにより、固定した住居・家族が発生する。すなわち、社会組織の始まりである。

諸個人の交流が一般化し、それを通して競争と優越の観念など、様々な悪徳が生まれる。そして財産の発生によって、人間の平等の危機は本格化する。しかし、これはまだ社会の原初的段階にすぎない。

第四段階: 農業と冶金の技術の発明により、原初的社会状態から更に発達した社会状態へと移行する。分業が生まれ、その中から不平等が発生する。この不平等はその諸形態の中でも最も有害なもの、貧富の差へと帰着する。

「或る土地に囲いをして『これは俺のものだ』と宣言することを思いつき、それをそのまま信じるほどおめでたい人々を見つけた最初の者が、政治社会の真の創始者であった」

第五段階: 終わりなき戦争そして恐怖の時代。富者と貧者とは容赦なく憎しみあう。悪徳は今や普遍的なものとなる。

第六段階: 終わりなき戦争と恐怖から逃れるために「政治社会」が設立される。

第七段階: この政治社会から政府が生まれる。

第八段階: 政府は専制政治へと転化し、個人が無となることによって諸個人間の平等が再建される。これこそが不平等の最終段階であり、「自然状態」への回帰なのである。

 

「社会契約論」 1762年

長山雅幸さんによれば…

人間は自由なものとして生まれたはずなのに、今日の社会では「いたるところで鎖につながれている」、しかも「自分が他人の主人であると思っているような者も、実はその人々以上に奴隷なのである」

こういう疎外状況を、何が正当なものにしているのか、ということである。すなわち政治的権力であり、それを可能にした政治体としての社会契約である。

主権」とは政治についての決定権である。それまでは君主に「主権」があるとされてきた。君主主権の観念は絶対王政を支える強力な根拠となっていた。(王権神授説)

 ロックやモンテスキューは、「主権概念」を、理論的には不必要なものとして、実践的には危険なものとして退けてきた。それに対し、ルソーはこの観念を転用し、人民にこそ主権が存すると言う「人民主権」の概念を打ち立てた。

ただ、「主権」は民衆の意志とは異なる「一般意志」の表現であり、独裁権も排除していなかった。他方において、民主制は神々から成る人民にしか適さない程に「完全な政府」であり、「人間には適しない」とされている。

彼はその証拠としてイギリスの選挙制度をあげる。

「イギリスの人民は自由だと思っているが、それは大間違いだ。彼らが自由なのは、議員を選挙する間だけのことで、議員が選ばれるやいなや、イギリス人は奴隷となり、無に帰してしまう」

(Wikiquoteより)

「自由を放棄することは、人間としての性質を放棄することである」

「単なる欲求への服従は奴隷となることであり、人が自らの命じる規律に従うのは自由となることである」

「社会の秩序は自然から生じたものではない。社会の秩序は慣習の上に基礎付けられている」

 

 「エミール」 1762年

苫野一徳さんの文章などから引用)

①最初のテーゼ: 「すべてのものは、造物主の手から出たときは善であるが、人間の手の中では悪になる」

「自然の秩序においては、人間は皆平等であって身分など関係がない。従って人はまず人間にならなければならない。生きること、活動することが大切なのだ」

自然は決して我々を欺かない。我々自身を欺くのは常に我々である」

「人間の不幸は自分の為し得ること以上に欲望を満たそうとするところに生まれる。不幸は物がないということではない。むしろ物が欲しいと感じるから不幸なのである」

②「人は子ども時代というものを知らない。…いつも子どもを大人に近づけることばかりに夢中になり、大人になるまでの子どもの状態がどのようなものであったかを考えようとはしない」

「私達はいわば二回この世に生まれる。一回目は存在するために、二回目は生きるために」

「知識を与える前に、その道具である諸器官を完成させよ。感覚器官の訓練によって理性を準備せよ」

③「あらゆる情念の源は自己愛である。ここから、自らに近づく人たちへの愛が生まれる。人が人間愛を感じるのは、わたしたちが弱いからだ。だから人といっしょになりたいと思うのだ」

④「エミール」が禁書となった理由は、〈サヴォワ助任司祭の信仰告白〉という部分。

「人間は自由だ。神は、人間が自分で選択して善を行うように、人間を自由なものにしたのだ」という一節で、カントはこれに感激し『実践理性批判』を構想したとされる。

⑤苫野さんによれば、

よく言われる「自然に帰れ」というルソーの言葉とされるスローガン。しかしルソーは、実は「自然に帰れ」とはひと言も言っていない。

これはただちには首肯しがたい。言葉通りには言っていないかもしれないが、それに近いことはけっこう言っていると思う。すこし他の文献を当たってみる。

 

朝ラジオを聞いていたら、今年はルソーの生誕300年ということ。世界史の授業ではおなじみだが、まじめに勉強したことはない。これからもあまり勉強しようとも思わないが、一応年譜だけは作成しておく。

ねたは主にルソー音楽年譜とウィキペディアによる。


1712年 ルソー、スイスのジュネーヴに生まれる。父イザーク・ルソーは時計職人、母シュザンヌ・ベルナールは出産直後に死亡。 叔母のシュザンヌ・ルソーに育てられた。

25年 父と兄が家を出てしまい、ルソーは牧師や法律家に預けられたのちに彫金工に弟子入りをする

28年3月 奉公先を出奔し、ジュネーヴを離れ、放浪生活を送る。

アヌシーでヴァランス夫人に出会う。トリノの救済院に入り、カトリックに改宗する。

29年6月 アヌシーのヴァランス夫人のもとに帰り、そこで生活することになる。ヴァランス夫人から歌と音楽を習う。

29年10月 アヌシーの大聖堂聖歌隊員養成所の寄宿生となり、楽長ル・メートルに音楽を学ぶ。

30年 ふたたび放浪の旅に出る。

31年 シャンベリに逗留していたヴァランス夫人に再会を果たす。一説では「愛人」となったとされる。このあと10年間はシャンベリにとどまり、音楽家の道を歩む。

1740年 シャンベリを出て、リヨンでマブリ家の家庭教師を務める。

1741年5月 家庭教師の仕事に失敗しシャンベリのヴァランス夫人のもとに戻る。

1742年 パリに出て数字記譜法を売り込むが失敗。このころディドロ、コンディヤックらと親しくなる。

1743年 ヴェネツィア駐在大使モンテギュの秘書としてヴェネツィアに向かう。

1744年 大使モンテギュとたびたび衝突した結果、職を辞して、フランスに帰る。

1745年 リシュリュー公の依頼で、ヴォルテール作詩ラモー作曲のコメディ・バレエ『ナヴァールの王女』の修正を行う。ラモーはこれを不快に感じ圧力をかけたという。

1745年、下宿の女中テレーズ・ルヴァスールを愛人とする。10年間で5人の子供を産ませ、5人とも孤児院に送った。

1749年 ディドロの依頼で、『百科全書』の音楽関係項目を執筆する。

1749年 ディドロ、『盲人書簡』を発表。王制批判の罪で逮捕・投獄される。神の存在を否定するような「過激な唯物論哲学」を展開したため、教会の怒りを買ったといわれる。

1750年 ディジョンアカデミーの懸賞論文に応募。ここで投稿した論文「学問・芸術論」で一等を獲得する。ルソーの「学問・芸術否定論」は各界に反響を呼ぶ。

ルソーは49年夏のある日、ヴァンセンヌ城に幽閉されたディドロに会うために、パリの街から8キロの道を歩いていた。途中、携えていた雑誌「メルキュード・フランス」に眼を通していると、ディジョン・アカデミーの懸賞論文の告知に目が留まった。そして「学問・芸術の進歩は風俗を堕落させたか、それとも深化させたか」という論文テーマに感情がほとばしったという。(土橋貴さんによる)

1751年 ポーランド王が批判。ルソーは、「悪の第一の源は不平等であり、不平等から富が生じた」、そして「富から奢侈と無為とが生まれ、奢侈から美術が生じ、無為から学問が生じた」と反論。

1751年 百科全書の刊行が開始される。1780年までの30年間に全35巻が刊行された。ディドロやダランベールが中心となり,ヴォルテール,モンテスキュー,ルソー(音楽担当)なども加わった。

1753年3月 『村の占い師』がオペラ座で初演され、大成功。

1752年 ルソー、「ボルド氏への最後の回答」を発表。社会の不平等の源が「所有」であると展開される。

1755年6月 初めての大作『人間不平等起源論』が出版される。

1755年9月 ルソーが百科全書の記載でラモーを批判したことから、ラモーが激怒。公開論争になる。

1756年春 パリ郊外のモンモラシに移り住む。危険思想とみなされたためとされる。『政治制度論』の執筆に取り掛かる。

1756年 ヴォルテールの『リスボンの災禍にかんする詩』を批判。絶交状態となる。

ルソーは上昇志向が強く、俗に言う「目立ちたがりや」で他人からの高い評価を求めた人だった。自分の主張を完全に受け入れないと許せないという性格から、しばしば友人とも絶交状態となった。(ルソーの教育論

1761年 書簡体の恋愛小説『新エロイーズ』を発表。ベストセラーとなる。

1762年 『社会契約論』を発表。『政治制度論』からの抜粋・要約として書かれたもの。『政治制度論』そのものは未完に終わる。

1762年5月 教育論『エミール』が刊行される。自然宗教的な内容がパリ大学神学部から断罪され、『エミール』は禁書に指定される。

「エミール」という架空の生徒(金持ちの孤児で、健康な子ども)が、生まれたときから一人前の人間になっていくまでの教育論。このなかの「サヴォア助任司祭の信仰告白」と題する部分が問題にされた。

1762年6月 ルソー自身に対しても逮捕状が出たためスイスに亡命する。

1765年 『コルシカ憲法草案』を著わす。個人の自由のためには平等が必要であると考え、極端な富の不平等を否定し、私有財産に対する批判を強めた。

1766年 ルソー、ロンドンに到着し、大歓迎を受ける。

1770年 亡命先のイギリスで、パトロンだった哲学者ヒュームと不仲になり、偽名でパリに戻る。当局は「過去の人」となったルソーを、高齢を理由に黙認。

亡命中から執筆していた『告白』、「対話」を書き上げる。自己の魂の世界や自然の中での自己の安らぎの世界を描く。

1775年 コメディー・フランセーズで『ピグマリオン』が上演され、熱狂的な大成功をおさめる。

1778年7月 『孤独な散歩者の夢想』を執筆中にエルムノンヴィルにて死去する。


年譜を通じて浮かび上がってくるのは、ルソーというのはフランスの石川啄木だなということだ。

人に取り入るのがうまいというのか、人を虜にする魅力があるというのか、一般教養もそれほどなく、音楽も正規の教育を受けたわけでもない。それなのに、あれよあれよと出世の階段を昇っていく。

それなのに、いつも誰かとぶつかっては喧嘩を始める。面倒を見てくれた人を平気で足蹴にする。子供を産ませては孤児院に放り込むという具合だ。

この人はおそらくそううつ病だと思う。欝のフェイズがはっきりしないが、とにかく1750年から60年までの10年余りを全力疾走で駆け抜けたのではないだろうか。

もうひとつ、この人の「自然人」には「はぐれもの」としての孤独な生い立ちが反映していると思う。人間が類として、群れとして把握されない。しかも自分より上流の人々に対する憧れが、ひそかに投射されている。

だから出来上がった自然人のモデルは、階級社会の現実にはありえないおとぎ話の主人公であり、リアリティーに欠けている。


私が何をやっているかというと、9月16日の記事
「米国従属経済」シリーズの「金融編」が始まる
で以下の問題を自問したが、まだ答えが出せないでいるためだ。


①ユーロ円の由来
②ユーロ円を用いた債券を発行することの意味は? それを外国銀行が扱うことの意味は?
③何の金利が自由化されたのか。市中銀行? 海外金融機関の日本国内での営業?
③円転換とはドル売り円買いのこと?ドル買いについてはとうなった?
④為替先物取引とは? 実需原則とは?
⑤海外銀行の「内国民待遇」とは、銀行経営の完全自由化ということか?
⑥ドル高政策を採れば、円安になるのは当然だ。なぜそれをドル高政策失敗の原因とするのか?
⑦大蔵省はどう抵抗し、どう押し切られたのか?
ものすごい宿題が残された。ここが分からないと次回の記事には進めない。



見えてきたのは、最初は日本の「護送船団方式」に焦点が当てられたことだ。大蔵省・日銀が外貨割り当てを通じて支配し、各銀行が横並びで企業に資金を提供する方式が、日本の輸出をドライブした。その結果が円とドルの不均衡をもたらした、という理屈だ。

そして護送船団方式を支える二つの柱として、為替先物取引の制限と円転換の規制が槍玉に上がった。

ここまでが第一部だ。この規制を取っ払えば、円・ドル間の流通は盛んになり、市場原理がはたらいて、為替レートは落ち着くところに落ち着くだろうと考えられた。

ところが、実際にはうんともすんとも反応がなかった。この二つが円安・ドル高傾向を支えていたとする見方は、結果として間違っていたことになる。

それはつまるところ、ドル高万歳論を唱えていたリーガン財務長官の間違いであった。アメリカにとっての課題は「ドル高とそれに見合う円高」ではなく、「ドル安・円高」を導くことにあったのである。

ここからが第二部である。方針の変更は、第二期レーガン政権の発足とそれに伴う財務長官の交代によって促進された。リーガンに代わったベイカーは、G5による協調介入路線を打ち出した。

それは日本だけでなく世界の主要通貨に対する「ドル安」を容認する政策だった。そして、そういう協調体制の下で日本に円切り上げを迫ったのである。この時点で日本に選択肢はなかった。

つまり、レーガンを“団長”とする使節団=黒船の来航は、プラザ合意とは異なる思想と戦略の下に行われたということである。

ここを一緒くたにした議論は、混乱を生むのではないか。

第一の論理 安全神話
3.11の前、原発を支えていたのが「原子力は安全」という論理だった。途中からは「地球に優しいクリーン・エネルギー」という宣伝も加わった。
これは3.11そのものにより破綻した。
第二の論理 原発は安いという論理
これも3.11前から流布されていた宣伝だが、3.11のあともしばらく続いた。今でも経営者の一部はそう考えている。しかし、安全コストがふくまれていないという点では、反論できない。
それにLNG専焼の火発のコストを隠していたが、これだと実際にはコストは同等である。送電コストを載せれば低くなる。
第三の論理 原発がなければやっていけない
これが目下の最大のアピールポイントだが、これはいつまでも使えるわけではない。火発の建設そのものは原発よりはるかに容易である。都会に隣接した埋立地さえあれば用地取得や、送電設備などは1年以内に可能である。
第四の論理 貿易収支の悪化。同等の発電量生産に要する価格はLNGよりウランのほうがはるかに安い。これは事実である。
しかしトータルコストとしてはLNGのほうがはるかに安い。経団連が好きな「国際競争力」の観点から見てもLNGのほうが有利である。
さらにLNGの高価格は、商社等の不当な吊り上げによる影響が大きい。文句を言うなら、そちらに言って欲しい。

結局、論争を通じて明らかになったのは、これらのいくつもの論理は原発維持の本当の理由ではないということだ。

真の理由は核開発能力の維持にある。
24日付赤旗の15面に森本防衛大臣の発言が載っている。

国の基本として、原子力を持つということは、たんにエネルギーの問題ではない。
…非常に大事な抑止的機能を果たしている。
…(原子力を)決して捨てるべきではない。


この発言は、今年1月に北海道で行った講演会でのものだ。まだ防衛大臣に就任する前のことだが、財界をふくめた米日支配層の「本当の理由」を述べたものとしてとらえるべきだろう。


結局、「対米従属」の連載を読むために、参考書を一編読むことになった。

西田達昭さんの論文を勉強させてもらい、例によって年表風にまとめてみた。ネタ本は宮崎義一「複合不況」(岩波新書92年)という本らしい。

「転換期の日本経済 -プラザ合意・バブル経済・グロ-バリゼ-ション-」

http://www.tuins.ac.jp/library/pdf/jinbun-PDF/09.nishida.11.pdf

 

Ⅰ レ-ガノミックスと金融自由化

1.レ-ガノミックス

1981年1月 レ-ガン政権が発足。軍事力の強化と経済の再建を柱とした「強いアメリカ」の復活をめざす。

経済の再建策は「レ-ガノミックス」と呼ばれる。①所得税を中心とする大幅な減税、②歳出削減、③政府規制の緩和、④金融引締め政策の4本柱を骨格とする。

これらの政策のうち、歳出の削減は実現せず、逆に支出は拡大した。それは財政赤字の急拡大をもたらすことになる。

1982年11月 米国の景気が好調に転じる。以後長期にわたり好況が続く。減税の持つ所得拡大効果が反映したものとされる。この好況は一言で言えば「借金バブル」であった。

同時に行われた金融の強力な引締めが、アメリカの実質金利を大幅に上昇させた。(どうもこの景気拡大政策と禁輸引き締め政策の並行が良く分からない)

この高金利に引き寄せられ、資本が世界中からアメリカに流入し、ドル高が生じた。

1984年末 アメリカは経常収支赤字の急拡大により純債務国へ転落する。

 

2.日本の金融自由化

1983年11月 レ-ガン大統領一行が訪日。日本の金融市場・資本市場の開放を強く迫る。

アメリカ側主張の背景となったのは、「ソロモン報告」といわれる。これはスタンフォ-ド大学のエズラ・ソロモン教授が執筆したことから名づけられたもの。ドル高の原因は、日本の金融市場・資本市場に問題があると指摘する。「郵便ポストが赤いのも、みんなあなたが悪いのよ」の世界だ。
①ドル高は円安のせいだ。②円安は外国資本が流入しにくいからだ。③外資が流入しにくいのは円が投資先としての魅力に乏しいからだ。④魅力に乏しいのは閉鎖的で規制が多すぎるからだ。…という具合で、「風が吹けば桶屋が儲かる」風の強弁である。まともな学者の議論ではない。実態として日本国内にはすでに金余り現象が生じていた。トレンドとしては金は出て行くものであり、入ってくるのものではなかった。

1983年11月11日 竹下大蔵大臣とリ-ガン財務長官が共同記者会見。先物為替取引における「実需原則」の撤廃など8項目の合意内容を発表。

1984年2月、3月、4月 3回にわたって日米円ドル委員会が開かれる。

1984年4月1日 先物為替取引における「実需原則」が撤廃される。

1984年5月末 日米円ドル委員会が「報告」と「金融の自由化および円の国際化についての現状と展望」を発表する。

1984年6月1日 円転換規制が撤廃される。事実上の外資の自由化。外貨資金が自由に円に転換できるようになり、国内資金として使えるようになる。(円転換規制は一部、1980年12月の新外為法によって緩和されていた)

円転換規制: 銀行がドルやユ-ロ円などの外貨を円貨に転換することを制限するもの。これにより外貨を円に転換し資金を調達することが可能になる。ただしコ-ル・手形、国内CDの調達コストに比べ有利でなければ、あまり意味はない。

1984年末 ドルレ-トもドルの長期金利も低下せず、日米金利差は3%程度を持続。実需原則と円転換規制の撤廃を受け、日本企業のいわゆる「財テク」が本格化し、対米証券投資が増大。法人企業の対外証券投資が金融機関による投資を上回る。アメリカの財政赤字をファイナンスする結果となる。(ファイナンス畑の人は書かないのだが、80年代前半は日本が第二次石油ショックに苦しみ、その苦境をアメリカへの“集中豪雨型輸出”で打開し、その結果、日米貿易不均衡が一気に顕在化した期間として記憶しておくべきだろう)

 

Ⅱ 「プラザ合意」から「バブル経済」へ

1.プラザ合意

1985年1月 レ-ガン政権第2期がスタート。楽観主義者ドナルド・リ-ガンに代わりジェ-ムズ・ベ-カ-が財務長官に就任する。ベ-カ-は、これ以上のドル高政策は継続できないと判断。

1985年9月20日 東京外国為替市場の円相場、1ドル=242円まで上昇。

1985年9月22日 G5の大蔵大臣および中央銀行総裁が、ニュ-ヨ-クにあるプラザ・ホテルで会談。

プラザ合意は、一言でいえば、アメリカが日本に対し円高誘導により対日債務を半減させるための“合意の強制”であり、他の三国はただの立会人に過ぎない。ただ、為替レートの変更は債務削減にとどまらなず、日本の対米投資の激増など多面的な影響を及ぼすことになるが、そこまでの思いがあったとは思えない。

1985年9月24日 日銀が協調介入を開始。「ドル売り円買い」のための市場介入をおこなう。円、一気に200円台前半に上昇。

1986年1月29日 澄田日銀総裁、公定歩合を0.5%引き下げ4.5%とすると発表。この時点で1ドル=200円の大台を突破。

1986年3月18日 円相場が1ドル=180円を突破。日銀はニュ-ヨ-ク市場で「ドル買い円売り」介入に踏み切る。4月1日からは東京市場でも介入開始。

円売りと外貨準備の蓄積に伴い、新券が大量発行された。円の余剰資金は政府短期証券の売却(売りオペ=要するに逆向きのインフレ政策)によって吸収される予定であったが、市中には未吸収の過剰流動性が滞留し、「カネ余り現象」を来たした。

1986年末 対ドル円、150円台まで上昇。巨額な外国為替差損が発生する。法人企業部門の対外証券投資は、対前年ほぼ25%減少する。

1987年2月 公定歩合、2.5%まで引き下げられる。ここまで5回の引下げが繰り返される。この後再び生命保険等の機関投資家を中心に対米投資が活発化。前年比75%の増加を示す。

日本の生命保険24社の総資産は、87年3月末で対前年17.4%増の65兆4000億円に達する。このうち40%が有価証券形態での運用、さらに11.47%(7.5兆円)が対外証券投資に当てられる。「ザ・セイホ」の名はウォ-ル・ストリ-トで注目を浴びる存在となる。しかしその後もさらに進行した円高のため、1兆7000億円(投資額のの20%強)という巨額の外貨建て損失を生じた。この損失は株式相場の高騰から得たキャピタル・ゲインで埋め合わされた。

1988年1月 円高が1ドル=121円のピークに達する。

2.バブルの発生 大企業の銀行離れと企業財テク

1987年2月9日 中曽根臨調路線がすすむ。低金利のなかでNTT株が上場。160万円の初値がつき、一時301万円にまではね上がるなど、証券ブ-ムに拍車をかける。

企業は銀行借入金を抑制し、転換社債・ワラント債の発行や増資など有価証券発行を通じて資金を獲得するようになった(エクイティ・ファイナンス)。株式の発行は本来の長期的収益を目指す設備投資ではなく、キャピタル・ゲイン目当ての短期的運用(一種の自己勘定取引)にも用いられるようになった。

1987年4月 東証1部平均株価が2万3216円まで上昇。時価総額は350兆円にまで達する。これは1986年度名目GNPの335兆円に匹敵する規模で、完全にバブル状態。

1987年 全国銀行の貸出残高に対する不動産担保融資の割合が20%台に達する。株式等有価証券担保融資の割合も2.5%まで及ぶ。企業の銀行離れ現象が進み、銀行の貸し出し業務が停滞したための現象とされる。これにより資金を調達した企業は、土地・株式購入や特金・ファントラへの運用をさらに拡大。

1989年5月 公定歩合が引き上げられる。以後1年のあいだに3回引き上げられ、最終的にバブル崩壊の引き金となる。

1990年 株価の崩落が始まる。株式、債権、円がそろって値下がりしたため「トリプル安」と呼ばれる。株価は2年後に最高値の半分に落込む。


結局、実需原則円転換規制 が分かれば良かったのだ。
読んでいて、こんな気もしてきた。
バブルというのは銀行が斜陽産業となっていく過程に咲いたあだ花だったのだ。従来型の通常業務における銀行というのは、バブル崩壊で屋台骨が揺らぎ、ビッグバンでとどめをさされたのだとも考えられる。
生き残りを図る銀行は、自ら自己勘定取引を行うようになり、投機資本そのものと化していく。
これをおかしいと指摘したのがボルカーだ。


1997年問題にヒントを与えるグラフを見つけた。

第5章 金融自由化 - 経済社会総合研究所

というファイルで、図は下に示したものである。

http://livedoor.blogimg.jp/shosuzki/imgs/c/6/c6c3058f.jpg

64年というのは東京オリンピックの年で、日本が本格的に高度成長を開始した年である。

驚くべきは、この成長の時代を通じて、日本の企業は資金不足に悩むことはなかったのである。74年のオイルショックのときさえ、手元資金はいくらか減少にしても資金調達額そのものはかげりを見せなかった。民の懐は豊かで、奥行は深かったのである。

78年以降は明らかに変化が見られる。調達額の増加と平行して手元資金の余剰額も増加し始める。高度成長が一段落し、企業が成熟し、資金を使いきれない状況が生まれ始めたことになる。金余り時代の到来である。

この余り金が行き先を求めてもがいていたのが84年~85年の状況である。その一部は米国債や海外投資に向かった。そこで日米委員会・プラザ合意・前川レポートの三点セットが登場する。

そこから90年までの5年間は“狂気の5年間”である。企業は本業そっちのけで資金をかき集め、手元資金さえ突っ込んで投機に熱中した。いま思えば、この時期の経営責任者こそは“A級戦犯”である。

90年に見事にバブルははじけとんだ。その後92年までは落ち込んだとはいえ資金調達には余裕はあったが、資金不足には歯止めがかからなかった。そして92年にはついに手元資金がマイナスに落ち込む。

ここからがドラスティックだ。資金調達は急速に落ち込みほぼゼロとなる。ぎゃくに資金不足は一気に解消され、収支バランスがあわせられる。土地は塩漬けとなり、資産の簿価は下がり、現金・預金はタンスにしまいこまれた。企業はリストラに精を出し、経済は停止した。

この危機を公共投資が回復させる。赤字国債の発行と大規模公共事業だ。医療・福祉に向かうべき資金も、企業救済を目的とする公共事業に回された。

94年から97年にかけての動向は微妙で神経質だ。大規模公共投資で上向こうとするがすぐ中折れする、という状況が繰り返される。今から考えると、資金不足の解消は見せ掛けだけで、ほとんど粉飾に近いものだった。オリンパスの飛ばし事件は象徴的だ。

そして97年だ。これを機に企業は自己資本と内部留保の積み増しにひたすら励むようになる。一方でオイルショックにもびくともしなかった資金調達能力は、坂を転げ落ちるように低下していく。

国民と企業の関係が、97年を機に様変わりしていることがわかる。それまでは国民から資金を集め、生産に投資しその利益により手元資金を生み出すという構造であった。しかし97年以降は国民から収奪し、それを手元に蓄えることにより企業が維持されるという構造になっている。国民の富は日ごとに失われ、ひたすらに企業へと移転されている。

そういう風に、このグラフを読み解いたが、如何であろうか?

実需取引の原則

為替の先物予約を行うときの原則である。
先物取引は「貿易取引(輸出入)や貿易外取引(投資)などの実需取引(キャッシュフロー)が背後にあるときに限られる」というもの。

外国為替管理法にもとづいて大蔵省令が発令され、為替先物取引を規制していた。
規制の根拠は、「実需を伴わない為替取引は投機につながり、為替相場の安定が損なわれる恐れがある」という考え方による。
これには欠点もあり、とくに企業が手持ち外貨を持たないことは、迅速な取引や契約に大きな制約となる。また為替変動に対する柔軟性がないため、為替リスクをまともにかぶることになる。

1984年4月に撤廃された。
要するに外貨不足時代の規制であり、時代遅れとなったことは否めない。しかしそれに変わり為替投機を規制する方策は採られないままだった。

現在では自由にいつでも為替予約が可能になったので、企業による為替投機取引も増加することになった。なぜなら為替リスクのヘッジをとる操作と、ディーリング操作には外見上の相違はないからである。

1985年のプラザ合意の後、劇的な円高が進行した。日本の機関投資家は膨大な為替損をこうむることになる。このときに先物為替予約のドル売りヘッジが爆発的に拡大することになる。

ということで、変動相場制に移行後も円安を続けられた制度的根拠として、目の敵にされたのではないだろうか。
大蔵省が反対したのも、高邁な理由というよりも、自己の権益が喪失することへの抵抗ではないだろうか。
もう一つはプラザ合意への布石としてみるということだろう。
ドル高につられてアメリカに吸い寄せられた日本のドルを、一気に半減させたのだから、アメリカとしては大成功だ。
二階に上げて、梯子をはずし、最後に突き落とすという寸法だ。ヘッジといっても二階から落ちてきた人に座布団1枚差し出すようなものだろう。


反日暴動は二つの側面を分けて考えなければならない。
ひとつは日本の歴史認識に対する怒りであり、これは十分理解できる。
もう一つは、政権の「のぼせ上がり」であり、これはいずれ、冷水を浴びせられるであろう。

別に反中国の立場を取るわけではないが、中国の経済力は日本ハムの中田翔のレベルである。たしかに10年に一人というほどの素質はあるが、打率は2割に満たない。(いまは上がってきています)

制裁合戦をやってどちらの犠牲が大きいかという議論が盛んに行われている。しかし議論するまでもなく、現時点では中国のほうが犠牲が大きい。この議論をする場合、民衆レベルの犠牲と大企業レベルの犠牲を分けて考えなければならない。民衆レベルでは日本に相当大きな犠牲を生むだろう。輸入の多くが消費財だからである。大企業レベルでは生産財の輸入に頼る中国側に大きな犠牲を生むだろう。代替がなければ致命的となる恐れもある。

もう一つは資金の問題である。生産レベルというのは積み重ねが必要で、成長(相対的価値の上昇)を続けようとする限り、資金不足は必ず生じる。そして資金ショートが生じれば、たちまちにして経済は奈落の底に沈むことになる。
日本もその道を辿ったし、20年遅れて韓国もその道を辿った。その韓国に中国はおそらく20年の後れを取っている。


尖閣問題に関して中国の論調を見ると、必ず、「今や日本を追い越してGDP第二位の大国となった」ことが強調されている。

これは「数の論理」であって「質の論理」ではない。
我々は戦艦大和も武蔵もアメリカの鉄屑で製造されたことを忘れてはならない。
(直接使ったというわけではないが、40年にアメリカが禁輸を行う直前まで年間30万トンを輸入している。これは粗鋼生産量の1割近く、特殊鋼ではさらに高い割合を占めていた)

日本シリーズで巨人をいかに打ち負かすか、想像するのは楽しいことだ。
チーム打率、防御率、交流戦での経験、相手選手の弱点…など話は尽きない。
いま中国は上から下まで、そういう話題に熱中している。いまが一番楽しいときだろう。
どうせ息の長い話だ。まともな話はそれが終わってからだ。


絶対の掘り出し物を紹介します。
セザール・キュイのバイオリンソナタとバイオリンとピアノのための小曲集です。とくに「万華鏡」(Kaleidoscope)と題した24の小曲集は良い。今までは第9曲の「オリエンタル」だけがアンコールピースとして有名でしたが、他の曲もすべてすばらしい。
César Cui: Kaleidoscope; Violin Sonata

申し訳ないけどただです。まったくCDをそのままアップしています。これではレコード会社が怒るのも無理ありません。
リンク先は示しません。自分で探してください。せめてもの“良心”です。もう削除されているかも知れません。
元のCDの情報を紹介します。

César Cui: Kaleidoscope; Violin Sonata
 Peter Sheppard Skærved
release date 1995
duration 62:54

Kaleidoscope, pieces (24) for violin & piano, Op. 50

Movement 1: Moment Intime
Movement 2: Dans la brume
Movement 3: Musette
Movement 4: Simple Chanson
Movement 5: Berceuse: 'Dors, petit gas'
Movement 6: Notturino
Movement 7: Intermezzo
Movement 8: Cantabile
Movement 9: Orientale
Movement 10: Questions et réponses
Movement 11: Arioso
Movement 12: Perpetuum mobile
Movement 13: Badinage
Movement 14: Appassionato
Movement 15: Danse rustique
Movement 16: Barcarola

Movement 17: Prélude

Movement 18: Mazurka

Movement 19: Valse

Movement 20: Novellette

Movement 21: Lettre d'amour

Movement 22: Scherzetto

Movement 23: Petit Caprice

Movement 24: Allegro scherzoso


淡谷のり子が、生前美空ひばりを嫌っていたそうだ。
嫌いなわけが面白い。「下品」だというのだ。「目くそ、鼻くそを笑う」の類だが、目くそに目くそたる自覚がないのがすごい。
美空ひばりはたしかに下品だが、歌は下手ではない。下手ではないが、それにしても下品だ。
淡谷のり子は盛大に音程を外すし、リズム感覚もほぼゼロに近い。しかも下品だ。救いようがない。
youtubeで淡谷のり子の「人の気も知らないで」と美空ひばりのカバーの両方が聞ける。
ただし、ともにダミアの気分からは程遠い。


素朴な疑問だが、ヘリモードで飛行するとき、両サイドにローターがあるのって変だと思う。
普通の大型ヘリは前後についている。それが普通だと思う。左右ということになると、機体は常に横風を受けているのと同じじゃないか。
この機体の発想は基本的に飛行機のものだ。プロペラモードで飛んでいるあいだは別に違和感はない。
それをヘリモードにするから危険が生じる。
特に飛行機事故の8、9割は離着陸時に生じるから、二重に危険になる。
基本的発想に無理があるんじゃないだろうか。

赤旗でオスプレイに関する日米合同委員会の議事録が紹介された。
見出しは “「自動回転」欠如認める”となっているが、興味あるのは日本側代表の質問のしかた。
「日本国政府は、MV22が既存の場周経路からオートローテーションによって安全に普天間飛行場へ帰還する能力を有していることを確認したい」
と聞いたのである。
どうも「日本側代表」氏は、きわめて素直にオートローテーションが利くと思っていたらしい。これだと日本政府は国民を騙したことにはならない。騙されたのである。
だとすると、ここで怒らないのは不思議だ。「話が違うんじゃないか」と食って掛かるべきなのである。

回答の筋書きとしてはこうだ。
たしかにオートローテーションの装置はついている。
しかしオートローテーション中の降下率が一般の回転翼機に比べて高いので、着陸の際、機体への損傷の可能性があり、実機での訓練は行われていない。
つまり、ついているにはついているけど利きませんよ、ということで、実際にはないのと同じだ。
私が日本側委員だったらこう質問する。
「オートローテーションが装備されていること、およびその作動が各種テストにより確認されていることを確認したい」







この間の動きを見ていると、一番残念でならないのは2002年の中国共産党第16回大会で打ち立てられた、階級的な外交路線が忘れ去られ、プラグマチックな自国中心主義がふたたび台頭してきているということである。

コソボ紛争で中国大使館が爆撃されたいわゆるコソボ・ショックは、多極化という現象が国際政治の移行形態であること、そのなかに階級関係が貫徹していることを示した。

このあと、江沢民政権の外交戦略は大きく転換していく。9.11からアフガン、イラクと続く一連の動きの中で、中国はアメリカ帝国主義と向き合う必要を痛感した。

同時にそれはアメリカ帝国主義の手を縛るべき国際的包囲網の形成をうながした。そしてそれが21世紀の世界の目指すべき発展方向に一致していると確信した。

それが16回大会に表現されている。
朱建栄は,第16回党大会前後の変化を「中国第三の革命」と呼んでいる.第一の革命は中華人民共和国建国であり,第二の革命は鄧小平が打ちだした「改革・開放」政策である.


外交の基本は、①世界平和を擁護し,共同発展の促進を前面に打ち出す.②国際社会へ積極的に参加する.③多様な形態の国際協力を発展させる、というものだ。

多極論は,大国間調整・構造としての「多極体系」観ではなくなった.途上国も多極化推進の重要な力とされ,大国のみならず,多様な力量を持つ諸国の調和的共存がうたわれるようになった.これは事実上多国間主義と重なる考えである.

この16回大会からの10年間、すなわち湖錦湯体制の10年間で、多国間主義は事実上放棄され、ASEANに対しては「二国間協議」という各個撃破政策が主流となった。

こうして、アメリカとの直接対決は避けつつ、「時機をうかがい、情勢を推し量り、総合国力の競争において有利な方向に向かう」ことが外交戦略の基本にすえられるに至ったのである。

なんとも情けない話ではないか。


本日は「金融」の2回目だが、「なぜ?」がない、しまりのない文章がだらだら続く。
とりあえず、ノートをとるのは見合わせる。中国関係が忙しいから、付き合っている暇はない。

シカゴ市場で大豆がストップ安だそうだ。大豆だけではない、トウモロコシも小麦も全面安だそうだ。旱魃による不作が意外とたいしたことがないらしい。それにしてもまさに投機ですね。ずいぶん損した連中もいるだろう。ざまぁみろ。

中国の騒動を受けて、円が下がっているみたいだ。日銀の金融緩和の動きも関連しているらしい。
大企業は今度は円安だ、原料高だ、コスト負担で国際競争力が低下する、といってわめくのだろう。
しかしもう国内に生産の余力はあらかた残っていませんよ。中国に行ってじきに灰になるでしょう。

湖錦湯外交の転換点となったとされる、09年の「大使会議における演説」というのが、どんなものなのか分からなかったが、高井潔司さんというかたが紹介してくれている。
21世紀中国総研というサイトの「ニュースペーパー・クリティク」第15号 2011.01.10発行 に載せられたものである。この論文は『週刊ポスト』(2011年1月 1-7日号)に掲載された「異形の大国・中国と自由主義陣営の闘い」という反共レポートに対する反論という形をとっており、外交政策の変化全般を取り上げたものではない。内容も「韜光養晦」路線に焦点を合わせたものである。
(「韜光養晦」については拙論「中国外交史ノート:多極化論の軌跡」の全方位独立自主外交の節を御参照いただきたい)

しかし、そこにはかなりの分量で演説内容が紹介されているので、その要旨を引用させていただく。

「09年7月 駐外使節会議での演説」

新華社はこの会議について、湖錦湯発言をふくめて、かなり詳細に報道した。ただし演説の全文は公表されていないとのことである。

①2004年の第10回大使会議以来の外交活動の総括と、当面する国際情勢の主要な特徴を分析した。

②当面の国際情勢は国際金融危機の衝撃により、複雑、深刻な変化を引き起こしている。それは現行の国際経済・金融システム、世界経済の運営メカニズムに重大な衝撃を与えた。

③わが国はまさに経済発展を保持できるか否かの重要な時期を迎えている。わが国は新たなチャンスと厳しい挑戦に直面している。

④外交活動が党と国家の全ての活動の中で占める地位と機能はさらに重要性を増している。

⑤世界のグローバル化、平和と発展は依然として重要だが、総合国力の競争も日増しに激化している。

⑥発展途上国の関与の要求が強まり、国際関係の民主化の呼び声も高 まっている。

世界の多極化 の前景はさらに明確になりつつある。われわれは時機をうかがい、情勢を推し量り、有利な方向に向かう 必要がある。

強調は私)


かつて私は文革以降の中国の外交路線を跡付けたことがある。それは、江沢民政権後期にきわめて魅力的な外交路線が出現した根拠を求めたものだった。(中国外交史ノート

そして、私はそのキー概念として「多極化論から多国間主義へ」ととらえた。
そこから、この演説を見直してみると、完全な逆コースをそこに発見することになる。

09年7月、世界は不況の奈落に落ち込んでいた。しかし中国だけは依然として高い成長率を維持していた。中国のGDPは日本を追い抜き世界二位に躍進した。湖錦湯は国際情勢の重大な変化の根本に、この“世界の退潮と中国の躍進”というトレンドをおいている。

多極化論への復帰はバランス・オブ・パワーを原理とするウェストファリア・システムの復元にある。それは自国の有利化、強大化に最大の価値を置く「大国主義」的なオポチュニズムと表裏一体となっている。

多極化論の本旨はみずからが強大な「極」のひとつとなることにある。そのために、「時機をうかがい、情勢を推し量り、有利な方向に向かう」ことにある。それは本質的に自国権益主義である。科学的社会主義とは縁もゆかりもない、19世紀的発想である。

おもんばかるに、高度成長の中で中国にも形成されつつあるであろう「軍産複合体」の意向が反映されているのではないか? これが当時の共産党幹部から指弾されたことは想像に難くない。

ただ、当時とは経済状況が根本的に変わりつつある。いまや中国経済も深刻なリセッション局面に向かいつつある。経済的苦境が政権に否定的な影響をもたらそうとするとき、この多極化論の方向は、かなり危険な役割を果たす可能性がある。


以下は去年11月13日の記事の再掲である。


赤旗の連載「9.11から十年 世界はどう変わったか」では、09年7月の在外使節会議(大使会議)での胡主席の演説が、この転換を規定していると見ている。
演説内容は詳しくは述べられてはいないが、湖錦湯は「外交を前向きに、主導的に行う」と述べ、国際秩序構築に積極的な姿勢を示したという。

これに対し、1年半後の10年12月、戴秉国国務委員が論文「平和発展の道」を発表。この中で「中国が米国に取って代わって世界に覇を唱えるというのは神話である」と述べた。これは湖錦湯の強硬路線を批判したものとされる。

こういう中国党・政府の二つの傾向を伏線に南沙問題を見ると、かなり見えなかった部分が見えてくる。それは戴秉国に代表される「正統派」が、湖錦湯の押さえに回っている流れである。

尖閣問題で最終的に落しどころを決めたのも戴秉国であった。南沙問題でベトナムと交渉し和解の方向を打ち出したのも戴秉国だった。

次は今年5月の人民網日本語版

戴秉国国務委員は、中国人民対 外友好協会・第10回全国理事会会議で以下のごとく述べた。

21世紀の今、過去と比べて 多大な変化が生じている。各国が相互依存し、利益の交流がより深まり、広範になる地球村の時代だ。中国もますます世界から切り離せなくなっている。覇権の道を歩むことはなおさらにできない。

われわれは引き続き平和的発展の道を揺るがず歩み、世界各国と政治面の相互尊重、経済面の相互利益、文化面の相互交 流・参考を真に実現していく。

わが国は巨大なうえ、急速な発展過程にある。他国を恐れさせてはならない。謙虚さと慎重さが特に重要だ。発展し、強大になるほど、謙虚でなければならない。

われわれには成し遂げた成果に誇りを抱くだけの理由があるが、傲慢であってはならない。小国・貧困国に対しても、大国・富裕国に対しても傲慢であってはならない。中国は常に自らの落差に目を向け、他国の長所や経験を研究し、学習し、批評し、参考にするよう心がけ、それによって自らを完全なものにすると同時に、世界の平和と発展にで きる限り貢献しなければならない



今回はこの戴秉国カードが出てこない。外務副大臣が親書を手渡したようだが、音沙汰はない。中国共産党内部に何らかの力関係の変化があったことがうかがわれる。

マネー辞典の記載はこうだ。

ユーロ円

ユーロ市場に集まる資金をユーロマネーといい、ユーロ円やユーロドルなどがある。通貨のユーロとは関係ない。

ユーロ円債

ユーロ市場は金融取引の場であるので、ここを発行市場として債券を発行することが可能である。それがユーロ債であり、なかでも円建てのものをユーロ円債という。日本非居住者でも発行することができる。

ユーロ円債を購入する時は、投資家は円で払い込み、発行体も円で受け取る。

ユーロ円債のメリットとして、発行者にとっては国内市場よりも発行コストが安く、より自由な形態で機動的な発行ができること、投資家側にとっては一般的に高利回りであることなどがあげられる。


つまり、「ユーロ円をもちいた債券発行」という赤旗の記載は、「誰がユーロ円を持っていて、誰が債券を発行しようとするのか?」という主語がはっきりしないから、何を言っているのかチンプンカンプンになっているのだ。

中身としてはこういうことになる。

たとえば日本の誰か金持ちとか、大企業の隠し資金とか、ゴルゴ13みたいな後ろぐらい連中が、スイスの銀行あたりに円建てで預金する。これが運用のためにロンドンの市場に顔を出す。

これがユーロ円だ。これを集めてどこかに投資したい連中が、円建ての債券を起債する。これがユーロ円債ということになる。これは面倒くさい規制もなく、匿名性が保たれるので、実においしい金融商品となる。

この「マネー辞典」には書いてないが、このユーロ市場というのは、じつはモルガンやバークレーなどがつるんだ金融シンジケートに他ならず、アメリカの支配する闇の帝国である。


ただ、実際の投資先はどうしても日本国内ということになる。そうすると、どうしても日本の国内規制を潜らざるを得なくなる。ここをどういう風にクリアーするかが起債する側の問題だ。

そこでアメリカ政府を通じて日本政府に圧力をかけることになる。言ってみれば脱税すれすれの金が、外国金融機関を通じて大手を振って入ってくるわけで、日本としてはこんな胡散臭い形での投資は願い下げにしたいところだ。

逆に、ユーロ市場を取り仕切る金融機関としては、他人のふんどしで相撲を取って、手数料や利ざやを稼げるわけだからウハウハである。

そこから先は政治的豪腕である。「内国民待遇」というのは、その昔イギリスが日本に進出して強引に「治外法権」を獲得するのと同じ、植民地支配の技法である。

なぜ中曽根首相がこのような屈辱的な「黒船外交」を受け入れたのか、ここが明らかにされないと、この連載の意味はないのだが…


だいぶ分かってきた。この赤旗記者は何もわからずに書いているということだ。分からずに書いてある記事が読者に分かるはずはない。ここは赤旗記者に「この文章はこういう意味なんだよ」ということを教えるつもりで、調べていかなければならない。


中国の反日デモが空前の激しさとなっている。
問題は中国政府が明らかに煽っていることだ。
そしてもう一つは、これを抑えようとする力が働いていないことだ。前回の漁船侵犯事件と比べれば、明らかに抑止力は働いていない。
おそらくは共産党内の抑止力が失われたのだろう。
非常に危険な事態だと思う。
党大会を控えて、習近平とその一派を抑え込もうとする力が働いていると思う。

日本側の問題でいえば、中国大使館や外務省の中国派の情報が伝わっていないことが最大の問題だ。その中国通たちも、湖錦湯を改革派と持ち上げ、習近平を二世集団の守旧派とあざけってきた。
その挙句が、中国のぎりぎりのメッセージを無視するという外交的失敗だ。
APECでの15分の立ち話で、湖錦湯は野田首相に直接、国有化を思いとどまるよう訴えたという。
その話の重要性が官邸筋には通じていなかった。だからその2日後に国有化を宣言してしまう。
これは外交史上に残るような失態である。

先ほど経団連と日商の会長が記者会見していた。内容はほとんど無意味だ。
政府は外交努力せよというが、どう外交努力せよというのか、さっぱり分からない。
日米同盟を攻撃的に強化し、TPPで中国包囲網を形成せよと呼号しながら、どう外交努力せよというのか。

自民党の党首選の街頭演説は、ほとんど戦争を煽る台詞ばかりだ。本人たちは国内向けと思っているのかもしれないが、全部それは中国に放送されている。この連中が中国の民衆の素朴な怒りに油を注いできたし、いまだにそれを繰り返そうとしている。
こういう微妙な問題を政争の具に利用してはならない。断固としてならない。

原則は三つだ。
①毅然として対処すること。過ちは過ちとしてはっきりと指摘すること。
②平和的に解決すること。この問題は長期戦になる。武力で解決するには無理がある。それを承知で対処するべきだ。
③相手の言い分に耳を傾けること。何が対立点かも分からずに、売り言葉に買い言葉でけんかをやるのは愚の骨頂である。耳を傾けた上で、認むべきは認める。これで相手も冷静になる。

国際決済銀行(BIS)が第二四半期の世界の債券純発行額を発表した。
第一四半期に比し92%減というから、ほぼゼロに近い。これは第一四半期が高すぎたことの反動とされる。
その特徴を見ると、
①ユーロ圏での落ち込みが著明。第一四半期プラス2400億ドルに対し、第二四半期マイナス920億ドル。
②金融機関での新規起債が急減。ユーロ圏金融機関はマイナス1100億ドルに達する。
ということだ。
これは第一四半期に行われた欧州中銀(ECB)の長期資金の供給を受け、新規起債で資金を調達。これで短期債務を解消したためとされる。
ただこれはユーロ圏の特殊事情だが、アメリカも新興国も新規発行は大幅に減少しており、全体としては、借り手不在と金融危機のいっそうの進行を反映したものと受け止めるべきであろう。
投機資本も相当の痛手を負っているだろうが、自業自得だ。

大和と日興がユーロ建てMMFの新規受付を停止した。野村とみずほは継続しているが、時間の問題だろう。
理由は欧州中銀の金融緩和で金利が低下し、ドイツ国債がマイナス金利になるなど資金運用が困難になったためとされている。とにかくこれでユーロ圏からの資金流出がさらに進むことは間違いない。
それにもかかわらず、ユーロが100円前後で張り付いているのはドイツの経済力によるものだろうが、ユーロ高がドイツ以外の国をますます痛め続ける結果になる。
このままでは欧州中銀がパンクすることになる。トランクいっぱいのユーロ札を抱えた貧困者が巷に溢れることになる。
いつドイツが共同債に踏み切るのか、遅れれば遅れるほど事態は深刻化する。

赤旗経済面の連載「米国従属経済」で金融編が始まった。やっと本編が始まったという感じだ。
①では、まず84年の日米円ドル委員会協議から始まる
赤旗はこう書いている。
6回にわたって両国財務省の事務レベルで作業が行われた後、大蔵省は「金融の自由化および円の国際化についての現状と展望」という報告を発表した。この会議は「日米円ドル委員会協議」と呼ばれる。これが“今に至る金融自由化のレール”を敷いたのだそうだ。
この報告の柱は以下の三つ
①ユーロ円市場の拡大: ユーロ円(海外金融資産)をもちいた債券発行。ユーロ円債の引き受け主幹事を外国企業に開放。
②日本の金融・資本市場の自由化: 金利の自由化、外貨の円転換規制の撤廃、為替先物取引の実需原則の撤廃、
③日本の金融・資本市場への外国金融機関の参入: 国内外の銀行を同等に扱う「内国民待遇」
いずれも米国が求め、日本が応じる一方的な取り決めだった。
とあるが、さっぱり分からない。

とにかく前に進もう。赤旗はこの「円ドル委員会」の背景を解説している。
アメリカ側の事情: レーガン政権は「強いドル」を掲げて高金利政策をとり、海外から資金を呼び込んだ。しかしその結果は過度のドル高を呼び、輸出の減少と貿易赤字の増大をもたらした。
高金利政策は「強いアメリカ」のために軍事費を確保することが目的だったが、貿易赤字の増大とあいまって財政の急速な悪化をもたらした。
アメリカはこれを円安のせいにして、日本が金融・資本市場を開放すれば円の需要が増し、円相場は上昇すると主張した。
日本の大蔵省はこの政策を「黒船到来」と呼んで抵抗したが、中曽根首相の政治判断に押し切られた。

以上が「金融」編の第一回のあらましである。
まったく分からない。私がシャッポを脱ぐんだから、ほとんどの読者にはちんぷんかんぷんだろう。
何が分からないかを列挙しておこう。
①ユーロ円の由来
②ユーロ円を用いた債券を発行することの意味は? それを外国銀行が扱うことの意味は?
③何の金利が自由化されたのか。市中銀行? 海外金融機関の日本国内での営業?
③円転換とはドル売り円買いのこと?ドル買いについてはとうなった?
④為替先物取引とは? 実需原則とは?
⑤海外銀行の「内国民待遇」とは、銀行経営の完全自由化ということか?
⑥ドル高政策を採れば、円安になるのは当然だ。なぜそれをドル高政策失敗の原因とするのか?
⑦大蔵省はどう抵抗し、どう押し切られたのか?
ものすごい宿題が残された。ここが分からないと次回の記事には進めない。

経済同友会代表幹事の長谷川閑史さん、武田製薬の社長さんでもあります。
医薬品を作るときにこんな論理が通用するでしょうか。
「懸念している。原発をゼロにするのであれば企業は事業会計の見直しをしなくてはならない。政府は無責任と言わざるを得ない」
つまり、安全とそろばんを秤にかけて、そろばんを優先せよと迫っているのです。
医薬品を作るときも、そういう考えでやっているのでしょうか?

私たちタケダグループは、「いのち」に携わるものとして、「優れた医薬品の創出を通じて人々の健康と医療の未来に貢献する」という使命を日本はもとよりグローバルで実現していきます。(タケダ薬品ホームページ 社長挨拶より)

5代目は“儲けよりも病人に効く薬”を第一義の経営理念としたそうです。

長谷川さんは営業現場畑の人のようです。グローバルな研究開発企業へのパラダイム・シフトを展開したいようなので、医療面での発想はどうしても希薄になり勝ちのようです。

こういう会社、いざというとき危険だという感じがしてなりません。

lenovo IdeaPad Y560 というのをハイスペックに幻惑されて買ってしまってから2年になる。
ちょいとわずらわしいのが、マウスをつないでも自動的にタッチパッドが無効化されないこと。文字入力中に変な動きをして、最悪の場合入れた文字が全部消えることもある。
Fn+F6 で無効にできるのだが、すぐ忘れる。何とかならないかと調べたが、ほぼ不可能と分かった。そもそも日本語にはそういう情報がなく、英語でいくつかあるのだが、全部リンク切れだ。
とりあえず、Touchfreeze というソフトがあるので入れてみた。Utility for Windows to disable touchpad automatically while you are typing text
と書いてある。説明は何もない。大丈夫かな?

いつの間にか、BAIDU IME なる曲者が入り込んでいた。
思い当たるのは、Mozilla でyoutube が聞けなくなったときのことだ。
Mozilla のサイトで調べてみたら、Real Player がバッティングしている可能性があるので、そちらを最新版にバージョンアップすべしと書いてあった。Real Player はむかしから嫌いなので使いたくなかったが、しかたがないのでやってみた。
どうもそのときにやられたらしい。
最近のアプリは、天気予報やらかにやら、いろいろ抱き合わせのソフトが勝手についてくる。セットアップのときにうかつに「次へ」ボタンを押していると、とんでもないことになる。
スタートアップ→プログラムからBAIDUのフォルダーに入ると、アインストールのExeファイルがあるので、これでアンインストールされるのだが、くどく念押ししたり、脅したりと不快極まりない。おまけに消えた後はIMEボタンまで消えてしまう。
結局再起動して元の画面に戻ったが、Real Player には手を出さないほうがいいとあらためて実感した。
なお、Quicktime は旧バージョンに戻せと書いてあったが、旧バージョンをセットアップするのに失敗。結局いったんアインストールして、もう一度最新版をセットアップしたところ、Youtubeが映るようになった。なんだか理由は良く分からない。

ワープロ替わりにパソコンを使っている人間にとっては、ThinkPad のFn キーはわずらわしいことこの上ない。
なんとか消せないものかとやってみたが、アプリで解決することはできなくて諦めていた。
ところが、BIOS をいぢれば何とかなるというので、早速やってみた。
①起動と同時に Fn+F1 を長押しする。これで BIOS 画面が出てくる。
②最初の画面の Config にカーソルを持って行って Return
③第二画面で、今度は Keyboard/Mouse にカーソルを合わせて Return
④第三画面で、Change to "F1~F12" Keys にカーソルを当てて Return
④子画面が出てきて、Default と Legacy のいずれかが選択されるようになる
⑤Legacy にカーソルを合わせて Return
⑥最後に Fn+F10 で変更を保存。
⑦再起動
やったぁ! できた
これで左の小指は Ctrl 専用だ。

念のため調べてみたら、ずいぶん安くなっていた。ホームページのほうは

あなたのご契約容量は、50 MB です。

 
使用領域37.6 MB70 %
 
空き領域15.5 MB30 %

月額使用料金 600円/月

ブログのほうは
ブログ Broach 105円~

これに基本料金が乗る

ぷららISP利用料金(12/08) 840.0

で、ウソみたいな値段だ。知らぬ間にずいぶん安くなったんだ。これなら、ガンガンいけるわな!
昔はピポパのヒュルヒュルジャーで、電話がつながるとあっという間に数百円の電話代が飛んでいった。うっかり切り忘れでもしようものなら、ビデオ屋の延滞料並みの請求書が来たものだ。だから夜中に医局で落として、それをフロッピーにコピーして、自宅でオフラインで作業するというのが恒例だった。

テキサス大学にラテンアメリカのデータベースがあって、そこからせっせこ落としてフロッピー10枚くらいになった。それが私の年表の骨格になっている。今思い返せば、この30年、とんでもないことをやったものだ。これだけでも日本のラテンアメリカ研究のレベルを一段引き上げたと、内心思っている。

このあいだ書いたのだが、内需というのはつまるところ欲求なのだ。年寄りにも欲求はある。しかし青年の欲求というのはたんなる欲望ではなく渇望なのだ。世の中はそれを「遊び」というが、それは人生かけての命がけの遊びなのだ。経済とか歴史の推進力というのはこの青年の渇望である。
車好きなら月収30万円でも300万円の車を買うし、リッター3キロでも運転する。音楽好きなら一夜のコンサートのために夜行列車で往復することもいとわない。「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」というのが「渇望」である。

だからなによりも、内需拡大はこの連中に金を持たせることだ。若者を大事にすることだ。若者は金を食って文化を産む。この連中を非正規とか失業とかに追い込むのはもっとも愚劣な政策なのだということを,あらためて強調したい。

一覧表、1月までしか入れていなかったのを、8月末まで入れました。
http://www10.plala.or.jp/shosuzki/blogtable001.htm

ホームページとは違って、なかなかカスタマイズできないのがブログの難点です。いっそのことブログのアーカイブをホームページに作ろうかとも思うのですが、値段が張るので、考えてしまいます。
昔に比べるとずいぶん安くなりましたが、できれば1ギガ100円くらいに下げてもらえませんかね。
95年にニフティでホームページ開設したのですが、あの頃は1メガで月1000円くらい取られました。
今は、30メガくらいまで膨らみましたが月3000円くらいで済んでいます。しかし音楽ファイルなどは二の足を踏んでしまいます。(まぁ著作権も絡みますから)

第三アーミテージ報告

これは、浅井基文さんのホームページに載せられた論文の学習ノートです。イタリック体の所は報告の原文です。

興味のある方、納得がいかない方、文章が変だと思われた方は原文に当たってください。

 

三つの報告の流れ

*2000年、2007年に続いて2012年8月に3回目のいわゆるアーミテージ報告が発表されました。3回の報告の内容を比較対照しつ、今回の報告の特徴点、問題点を検討します。

第一報告「アメリカと日本:成熟したパートナーシップに向けて」(2000年)

米ソ冷戦が終結して、ソ連に代わる敵を「見失った」アメリカは、軍事戦略を正当化する根拠・材料(新たな敵)を見いだせませんでした。

クリントン政権入りしたジョセフ・ナイは、いわゆるナイ・イニシアティヴによって日米軍事同盟の再編強化の処方箋を書きました。

自民党政権は、アメリカの「カネだけではなく血も流せ」という圧力を利用して、自衛隊の海外派兵への道筋をつけました。

第一報告は、冷戦後の漂流を払拭し、アメリカのアジア支配の戦略の方向性を明らかにすること、その中での日米同盟のあり方についての方向性を示すことを目的としていた。

 

第二報告「日米同盟 2020年に向けてアジアを正しい方向に持っていく」(2007年)

2007年は、ブッシュ(子)政権の2期目も後半に入り、対テロ戦争の破綻が誰の眼にも明らかになって来た時期です。

アーミテージ国務副長官は、対テロ戦略とアメリカ一国主義を、多国間協力を重視するものに見直すという意図で報告をまとめました。

ブッシュ・小泉の下で日米軍事同盟は、アメリカにとってもっとも望ましい方向に向けて大きく「前進」しました。このため日米軍事同盟はアメリカの対アジア政策の中心に据えられました。

 

第三報告「日米同盟 アジアの安定の錨となる」(2012年)

第三報告の最大の問題意識は、2009年の民主党政権登場以後「日米同盟関係が漂流」してきたという危機感です。アメリカが漂流状態の日本にカツを入れることに主眼が置かれています。

背景にあるもっとも重要な要素は対中認識の変化です。2007年には慎重な期待と警戒を織り交ぜていました。しかし今回は期待感は跡形もなく、台頭する中国に対する全面的な警戒感が根底に座っています。日米が協力して立ち向かう必要を強調するものになっています。

日本をアメリカの戦略につなぎ止めるためには、 アメリカとして日本に精一杯の大盤振る舞いをしなければならない。中国と対抗するために、日本の果たすべき役割・比重がそれだけ重くなっていることを示しています。

この戦略が民主党政権の危険を極める対中対決政策を促しているわけですから、第三報告はまったく危険きわまりない代物です。

 

第三報告の主要な内容

第三報告の内容には取り上げるべき点が数多くあるのですが、ここでは、第一報告及び第二報告との比較を心掛けつつ、主要点にしぼって解説しておきたいと思います。

<むきだしになった対中警戒認識>

第三報告の最大の特徴は、中国をアジア太平洋における最大の脅威とみなしていることです。したがって対中対決・軍事包囲網形成戦略を対アジア戦略の中軸にすえています。

中国が高い経済成長を続ける前提に立った、「関与と(軍事的)備えとのブレンド」という戦略はもはや確実ではなくなった。

中国が深刻に躓くようなことがあれば、指導者は、ナショナリズムに訴え、対外的脅威を利用して統一を組み立て直そうとするかもしれない。そのとき(日米)同盟にとっては…正に質の異なる挑戦に直面することになる。我々としては彼らがいかなる判断を行うかについて十分な備えを行うべきだ。

<朝鮮半島:韓国及び米日韓関係の重視>

第三報告は、「近隣諸国との関係」という項目において、「強固な米日韓関係」を強調しています。

李明博大統領は朝鮮と対決する政策を推進してきました。韓国は経済的躍進と米韓貿易自由協定(FTA) によって、アメリカにとって極めて重要な同盟国の地位を確かなものにしました。

米日韓は、北朝鮮の核兵器追求を共同で抑止し、中国の再台頭に対応する必要がある。

日米同盟がその可能性をフルに実現するためには、日本が対韓関係を複雑にしている歴史問題に立ち向かうことが不可欠だ。同時に、国内政治上の目的 のためにナショナリズムの感情を利用する誘惑に抵抗するべきだ。両者のいさかいは、戦略的に優先度の高い項目から目をそらすものである。

第三報告では、6者協議の枠組みにもはや期待を寄せず、中国 が主導してきた6者協議の枠組みに対しても懐疑的になっている。

<日米軍事同盟の変質強化と日本の軍事的役割>

第三報告における一大特徴は、日米軍事同盟の変質強化の方向性を極めて具体的に述べていることです。

日本は平和で法的な海洋環境、妨害のない海洋貿易、そして全般的な安寧を促進するために、パートナーとの協力を引き続き進めるべきだ。

このくだりは、中国海軍の外洋進出に対抗するために、日本がさらなる役割を担うことを求めているものです。

「日本防衛」と地域的安全保障との間の境界は薄い。日本は、国家防衛のために攻撃的な責任を必要としている。両同盟国は、日本の領域をはるかに越える…能力と作戦を必要としている。

という記述もあります。日米の対中対抗軍事戦略が止めどもない勢いで突き進められようとしていることが分かります。中国の日米軍事同盟に対する懸念と警戒が決して杞憂でもなければ、誇大妄想でもないことが分かります。

アメリカにとって最大の障害と見なされているのが日本側の集団的自衛権禁止という「制約」です。第三報告では、集団的自衛権禁止を「時代錯誤の制約」と決めつけます。

両軍は集団的に日本を防衛することを法的に妨げられている。この皮肉は、日本が集団的自衛権の禁止を変更することで完全に解決できる。政策の変更は、平和憲法を変更することをも必要としない。

第二報告では、「憲法問題を解決」することが望ましいとしていましたが、もはや憲法そのものを改定しなくても、集団的自衛権を「合憲」とする日本側の「政策変更」で、憲法第9条を底なしに空洞化させることが可能だと認識するに至っているというわけです。


人民日報系列の環球時報の9月11日付及び12日付社評(社説)

浅井基文さんが訳してくれたものの抜粋です。「強い反感を覚える方もいると思いますが、読む方一人ひとりが、これからの日中関係について考える際の材料として受けとめてくださることを希望しています」とのコメントが付いています。
強調文字は浅井さんによるものです。

<9月11日付社評「釣魚島 中国の「国有」の地位は変わらない」>

 中国のこの対日闘争は、釣魚島の支配の局面を変更することを長期目標とするべきだ。これは困難を極める、息の長い事業であり、中国人が意志、智恵だけでなく高度な団結を持すべきことを求めている。

① 釣魚島の主権は交渉の余地はない。日本側の釣魚島を「防衛する」決意と意志もまた固い。これは確固(とした意志)同士の対決であり、「海軍を出動しさえすれば問題は解決できる」という考え方は幼稚である。

② 衝突は現在のところ中日間で展開されているが、中国の圧力が強まればアメリカが前面に出て来て、中国対日米同盟という形態が出現する可能性がある。中国はこのような最悪に備える必要がある。

③ 中国は今もなお高度成長という戦略的チャンスの時期にある。しかしこの「チャンスの時期」を守るために領土主権を犠牲にすることはあり得ない。

④ 現在は未だ領土問題を「徹底的に解決する」チャンスとは言えない。それをやれば、中国がバカを見る可能性は極めて高い。

⑤ 現在やるべきことは、第一にすべての海上領土の法的主権を堅持することであり、第二に紛争的性格を拡大することである。

⑥ そのためには行動がなければならない。釣魚島問題における行動とは、民間の釣魚島防衛運動、漁船を組織して操業に赴かせること、中国の巡視船による頻繁な巡視活動などがある。日本が支配行動を増やすに従い、我々の行動 も不断にエスカレートする必要がある。

⑦ 日本の釣魚島に対する支配は固い。一日二日の闘いではなく、今後数十年にわたって釣魚島で圧倒し続ける必要がある。釣魚島はどこかに行ってしまうことはあり得ず、衰退する日本は最終的に守り切れない。

⑧ 中国が釣魚島を回復する過程は、日本という昔からの相手を屈伏させる過程にほかならない。

<12日付社評「二度と友好に幻想を持たず、真剣に日本に対処すべし」>

① 日本政府は釣魚島のいわゆる「地権者」との間で正式に「島購入」の契約に署名した。70年代から発展して来た中日友好関係は完全に崩壊した。

② 中日が再び相互に仇敵視する二つの民族となることは恐らく避けがたい。これは必ずしも悪いことではない。こういうライバルが身近で我々を刺激することは我々を励ますだろう。

③ 我々にとって中日友好の政治的意味は必ずしも大きくはない。日本の中国市場に対する依存度はすでに中国の対日市場依存度を超えている。中国は核兵器国であるの で、日本に対して強大な軍事的抑止を保持できる。日本は世界の一流国家の強大さからはほど遠いので、中国に対して致命的な脅威となるすべはない。

④ 日本は弱いものいじめをして強いものにはペコペコする国家だ。なんらかの形で日本に対してトータルな教訓を与え、明治維新以来の中国蔑視を徹底的に改めさせなければならない。

⑤ 我々はその力を十分に蓄え、なんらかの衝突の際に日本に対して思いきり見せつけ、日本をして中国の力に対する畏敬を新たにさせる必要がある。その時にはじめて中日友好が改めて開始する。


浅井さんの言いたいことは良く分かります。
とにかく、良いか悪いかは別として、中国の言い分を聞けということでしょう。
わかるのは、中国の人々には、心理の基層に日本に対する凄まじい怨念があるということです。ここが南沙諸島と違うところです。
かつて周恩来は「恕すが忘れない」といいました。「我々は恕した。しかし媚びたのではない。日本人が素直に謝れるように促したのだ」ということでしょう。

今は「忘れないし恕さない」と代わりました。
そうなったのは昔のことではないのです。日中国交回復以後の日本の態度が許せないのです。
侵略の歴史を知らないか、知っていても“誇張”にすぎないと思っている“現代の日本人の無神経さ”が我慢ならないのです。
それがいわば「一発カマシタレ」的な一種の「報復思想」に結びついたとしても、事の是非は別としてそれなりに理解可能です。というより、私自身が靖国族に一発かましたいくらいの気分です。
ただ、とにかく党のトップに近い部分が挑発を認め、煽っていることは事実です。おそらくレトリックもあるのでしょうが、かりそめにも共産党であれば、もう少し上品な発想であってしかるべきでしょう。
それと、一番気になるのは核兵器に対する考え方です。言って良いことと悪いことがあります。みずからを貶めるような言い方だけは、世界史の立場から、人類史の立場から断固として撤回をもとめたいと思います。

ニュースで
習近平(シーチンピン)国家副主席(59)の動静が過去約2週間、一切伝えられていない
と流している。
発表では肝臓に小さな腫瘍が見つかったため手術入院、ということになっているようだ。
しかし影響力の喪失はそれ以前からはっきりしている。内外政治にたいする重要発言は、この半年間は語られていない。
逆に湖錦湯路線がふたたび大手を振っている。南沙でも尖閣でも2年前の冒険主義が完全復活した。
薄熙来をめぐる騒ぎが、きっかけとなっていることは間違いなさそうだ。あれ以来、何もかも変わってしまった。
新人事をめぐっても湖錦湯が主導権を握っているという。(日経)
習近平追い落としにスキャンダルが利用されたのは間違いないが、実は同じ手口の公安警察がらみの「汚職摘発作戦」が2回あり、それは薄熙来追放作戦の予行演習だった可能性もある。
結局、党指導部と政府機構との矛盾があり、いったんは党のほうが指導権を握ったものの、政府機構側が権力と謀略を使って転覆させたということなのだろうか。
なおマスコミでは湖錦湯を改革派、習近平を守旧派と色分けしているが、こと外交上は湖錦湯のほうが右派である。しかも鄧小平譲りのプラグマチズムで倫理性は希薄である。いうなれば「中国商社」の発想でやっている。

復興特別所得税が来年1月から実施されるそうだ。
忘れっぽくていけないが、去年に12月に成立した復興財源確保法にもとづくものだ。これは合計8兆円の増税に相当する。

まぁ、期限付きだし、これは仕方ない増税だと思っていたが、10年だと思っていたのが自公民の三党合意で25年に引き伸ばされていた。私のような年寄りには、所得がある限り一生払えということだ。

いっぽうで腹が立つのは、大企業はこの間に20兆円も減税されるということだ。大企業も復興特別法人税を払うことになっているが、それはわずか3年でチョン。差し引き18兆円が懐に入るということになる。

大企業に痛みを分かち合おうという心意気はない。こういう火事場泥棒同然の連中に便宜を図っても、日本がよくなるという保証はない。

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