鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

2012年08月

おぎゃあと生まれた赤ん坊に「私」という概念はない。体内においては母体の一部であり、生まれる瞬間まで臍帯を通じて命を共にする母親の一部である。

ヘーゲルのいう「自己意識」はここから出発する。

今日では、ここから人間として成長していく経路はふたつに大別される。一つは成長すべくプログラムされた遺伝子の発現であり、ひとつは自らが行動・実践により学び成長していく過程である。ヘーゲル以後の科学の進歩は、それまで学習・成長の過程と考えられていたものの多くが、実は内在する先天的な素質の発現によるものでありることを明らかした。かなり高等な社会的行動までも、生下時にはすでにインプリントされているとされるようになっている。

いっぽうで、「本能」としてインプリントされた遺伝的素質も、その発現には一定の条件が必要であることも明らかになっている。

たとえばこれまで当然と思われた「母性本能」すら、今では怪しくなっている。動物園の獣が授乳を拒否したり、赤ん坊を殺してしまうなどのニュースを耳にすると、そういう思いを抱かざるを得ない。もっと言えば、本能としてインプリントされたものの中には、実は「子殺し本能」とも言うべき素因も含まれているのではないか。

レミング(ネズミ)が集団で水に飛び込み溺死する話は有名だが、ウィキペディアによると、実際には一部が渡河の際に事故死するだけのようだ。

ここまで、個別にはあまりたしかでない根拠に基づいて論を進めてきたが、それにもかかわらず、確実なことが一つある。それは人間がたとえプログラムされた素質に基づいて発達していくにせよ、他者=人間集団の介在は不可欠だということだ。

ヘーゲルの自己意識論はこの辺をうまく説明していると思う。自然科学的な厳密さで証明できるのは、赤ん坊における生きる力はまず欲望として表出するということ、赤ん坊が学習するのはその欲望が満たされることを通じてであること。満たされない欲望は学習の対象とはならない。

欲望を表出しそれが受容されるという円環は、パブロフの条件反射にも似たサーキットを形成する。

この過程は二つの他者を形成する。一つは欲望を表現する自己の身体機能であり、もう一つはそれを受容するものとしての他者である。自我の分離は二重に進んでいく。今までは胎盤を通じて押し込まれていた栄養が、何らかの身体機能を通じた信号(ひらったく言えば泣くこと)によってしか獲得できなくなるというのは一つの危機である。

母体との分離という生物学的事象は、母親との結合という人間的事象によって代償される。“生物学的には分離するが社会的には一体化する”という現象が生起することになる。しかしこれらの過程はまったく意識することなしに進行する。なぜなら赤ん坊には「自己意識」はないからである。

ここのところはヘーゲルにとっては勘所であり、絶対にはずせない過程なのだが、世間一般では割とどうでも良いプロセスになっている。最近は産休後引き続き育休に入るのが当たり前になっているが、我々の世代では女性は歯を食いしばって働いていた。ゼロ歳児保育といって、3ヶ月の産休明けには職場に復帰し、赤ん坊は物心つく頃には保育所で哺乳瓶を吸っていた。

ではそれより前の母親たちが赤ん坊と一体化するほどに濃密な母子関係を形成していたかというと、それも違う。昭和20年と21年は谷間であり、その後にベビーブームが来るのだが、実はその前もベビーブームではあったのである。戦前から戦中にかけては「生めよ増やせよ」の掛け声の下、子供が量産された。10人兄弟など珍しくもなかった。「おそまつ君」の世界は当たり前だったのである。

実態としては赤ん坊は放置されていた。洗濯機も冷蔵庫も電子レンジもない時代、主婦の労働は大変だったのである。

そんでもって何をいいたいかというと、母親との関係を持って最初の人間関係だとは言い切れないということだ。もちろんそれは大切だが、基本は家族を中心とするコミュニティー関係が彼と一体のものとしてまず登場するということだ。

「人間は社会的動物」だといわれる。その言葉はいろいろな意味にとれるが、一番狭い意味で考えると、こういう損得抜きのコミュニティー=家族・親族という義理の及ぶ世界が最少単位なのではないか。(それは現在日本で流通している家族・親族範疇よりもう少し広いと思うが…)

AudioGate への賞賛を多少割り引かなければならない。
たしかに高音は伸び、輝きを増す。低音は唸るように迫る。ダイナミックレンジは広がり、弱音も手にとるように聞こえる。
しかし細かいパッセージは消えてしまう。切れ込むような鋭い音もカドが取れてしまう。バイオリンの弱音でのかすれるようなため息も聞こえない。
ようするに音色は派手になるが、ばばあの厚化粧で、濁りが出てしまうのである。

このところムーティ指揮バイエルンRSOの演奏するシューマンの交響曲第4番が気に入っていて良く聞いている。この録音はコンサートライブで、ダイナミックレンジも押さえられ、高音も詰まる。しかし中音弦がよく聞こえて、室内楽を聴いている趣があって、これはたぶんムーティの演出なんだろうと思うが、とても興奮させる。

これをいつものfoobarでなくAudioGate で聞くと、もうまったく違う演奏を聴いているようだ。肝心の中音弦のトレモロやグリッサンドがどこかに消えてしまっている。つまりシューマンではなくなってしまっているということだ。

ところが、モーツァルトのバイオリンソナタを聞くとこれが猛烈にいい。ギル・シャハムのK305もお気に入りの演奏だが、AudioGate で聞くとクリームのように濃厚だ。アンネ・ゾフィー・ムターのボディコン・ドレスを思い浮かべてしまう。

AudioGate の編集→設定でレイテンシーという項目があって、デフォールトでは1024になっているが、これを下げるとだいぶ事情は改善するようだ。もちろんWASAPIはオンにしなければならない。

たぶん一定の時間幅の音を重ねて、それから演算してFレンジやDレンジを稼いでいると思うのだが、その分時間分解能が犠牲になっているのだろうと思う。

もう少しいろいろな曲・演奏・録音で聞き比べて見なければならないが、曲や演奏の性格にあわせてfoobar とAudioGateを使い分けしていくことになる化も知れない。どちらが基本かといわれれば、当面はfoobar ということになるのだろう。

原田靖博の内外金融雑感 から

ボルカールールをめぐる米国内の論争の状況がまとめられているブログを見つけたので紹介する。かなり話は難しい。

ボルカールールの概要 

公的支援により経営が支えられている金融機関においては、「投機的取引」を禁止させることを骨子とする。

公的支援とは

①中央銀行から与信を受けている状況、②預金保険が不十分な状況、③経済困難のため公的資金を注入されている状況、などをさす。

投機的取引とは

①自己勘定での有価証券トレーディング(ただし連邦国債、米国内の公債は除く)、

②ヘッジファンドやプライベート・エクイティ・ファンドへの出資(スポンサー行為をふくむ)、

ただし②については三つの例外が設けられる。

a.本来のヘッジのための取引 

b.引受と値付けは短期間で、代行取引であれば認められる。

c.中核自己資本の3%までは少額取引として認める。

 

ボルカーの思い

ボルカー元連銀議長は金融事情に精通しているにもかかわらず、何故、金融界の大勢に抗して、ボルカールールの適用を主張するのであろうか。

ボルカーは1979年から新金融調整方式による金融引締政策を断行した。これはマネーサプライ指標を基準にドル発行高を決めるオーソドックスなドル本位制で、その際短期市場金利の上昇は無視された。

その結果、短期市場金利は、1979年の平均11.2%から、1981年には20%に達した。これにより米国のインフレ率は、1981年の13.5%から1983年には3.2%まで低下し、相当の出血を伴いつつもスタグフレーションは解決された。これが彼の確信となっている。

 

ボルカールール適用を巡る争点

ボルカールールに関して4つの反対意見が提起されている。

①商業銀行による自己勘定取引は、金融システムにとって重要なリスクではない

②自己勘定取引を制限すると、トレーディング市場での必要な流動性が損なわれる

③自己勘定取引を制限すると、米国を本拠とする商業銀行の競争上の地位に悪影響を及ぼす

④規制案はあまりに複雑で遵守のためのコストが大きい

金融界からは

①ボルカールールを厳しく運用すると、市場の流動性が低下し、資本コストが上昇するなど、資源配分が非効率化する。

② 規制の少ない市場(ファンド・ノンバンク等のシャドーバンキング)への資金が流出する。

③海外資本市場との競争が不利となる

④個別金融機関のリスク管理行動に制約を加えることになる。

⑤ボルカールール遵守のために、膨大な報告の作成および対応要員の確保等コスト負担が大きくなる。

 

金融庁および日銀の批判(カナダ、英国、および欧州委員会もほぼ同様の懸念を表明)

①ボルカールールの適用は、グローバルな金融市場の流動性に影響を与える

②外国債の取引が規制されるため、日本国債の市場に対して深刻な悪影響が生じ得る。

③短期の為替スワップ取引が規制されるため、米ドルの資金調達が困難になる惧れがある。

 

ボルカーの反論

「規制当局に対するコメントレター」(2012年2月13日付)ではこのような批判に対してボルカー自身の反論が展開されている。

①に対しては、

自己勘定取引は本質的に投機であり、重大なリスクを伴うことは明らかである。自己勘定取引だけが危機の原因ではないが、重要な金融機関の自己勘定取引における損失発生が要因の一つであることは事実である。

②に対して

トレーディング市場での流動性は必要を大幅に上回っており、高い流動性自体が投機的な取引を促進している可能性がある。過剰な流動性は抑制されるべきである。

③に対して、

自己勘定取引の制限は、利益相反のない体制を構築することとなる。そして銀行の目を本来の目的である顧客のニーズの方に向けさせる。このことにより米国の商業銀行の競争力はむしろ向上するだろう。

④に対して

複雑さと潜在的なコストの高さはボルカールールの責任ではない。それは現代の金融界における大きな課題である。ただし、大規模金融機関の既存のリスク管理実務には根本的な欠陥があることも間違いない。これらのコストはいずれにしても必要だ。

金融規制に際しては単純・明快であることが重要だ。そのためには、銀行業界の前向きな努力が必要だ。そもそも隠そうとするから複雑になるのではないか。具体的には、これまで以上の広範な内部管理と報告制度の整備が求められる。

あまり政局とかには詳しくないのだが、内閣不信任案の提出で野党七党が合意したというのはすごい。
頂門の一針というのか、これで自民党は身動きできなくなる。自民党が不信任案に賛成すれば、参院では成立してしまう形勢だ。
もし不信任案が通れば、衆院で否決されたとしても、そのあいだに会期は終了し、消費税法案は流産に至る。

自民党の二枚舌の間を切り裂くように刃が突き立てられたことになる。

七党合意の不信任案が消費税引き上げ法案の成立阻止のためということなら、賛成するのは困難である。
しかし、もし不信任案に反対すれば、それは野田内閣を支持するということになる。その瞬間、自民党の早期解散や政権交代の大義名分は消滅する。

この瞬間しか出来なかったことを野党七党はみごとにやってのけた。みんなの党の渡辺代表によれば、この間の根回し役を勤めたのは共産党の市田書記局長だという。拍手喝采だ。

うっすらとそんな感じがするのだが、
未来社会論としての社会主義論で、「結合した労働」とか「アソシエーション」というのがキーワードのように用いられているが、少なくとも57年草稿段階でのマルクスはそのように考えていたとは思えない。
彼のいう結合した労働への転化は、ヘーゲルの自己意識の理念への転化のなぞりでしかない。それは「労働者階級の歴史的使命」の受け入れであり、「法社会」において知識人=非労働者である自らの否定であり、資本主義社会における生産力の担い手への「帰依」でしかない。
それは資本主義社会から次の社会への「過渡期」における変革の推進力の規定であり、来るべき社会主義社会の担い手に関する規定ではない。だから「フランスにおける内乱」が起きるや、それはコミューン礼賛に取り替えられる。この点に関してマルクスは理論家ではなく実践家である。
社会主義論はむしろオウウェンの実験とそれに対するマルクスの「感想」の中から紡ぎ出されてくるのではないか。マルクスは来るべき社会のあり方についてエンゲルスと同意していない。だからヘーゲルを持ち出してくるのだろう。ここもチェックしておく必要がある。
近日中にマルクスとエンゲルスの往復書簡集が出るそうだが、買うしかなさそうだ。


フランス議会は政府提案の補正予算案を可決した。
これにより金持ち増税が実現することになった。総額は72億ユーロというからたいした額ではない。しかし世界中に金持ち減税と課税逃れが横行する中で、これは快挙だ。フランスの金持ちは日本に比べればだいぶ規模が小さいから、同じ法律を日本に当てはめれば相当の巨額になると思うが、赤旗で試算してくれないだろうか。
もうひとつだいじなのは、この新たな課税により付加価値税の引き上げが不要になったことだ。

野党はこの増税案を「粗暴」で「復讐心」からの措置だと非難したそうだが、一体どんな根拠に基づいてそんな意見が出てくるのだろう。

民衆の反撃が開始された。次は、金融取引税だ。10年前には夢と思っていたような政策がどんどん実現していく時代になっている。

原水禁国際会議で、アラブ連盟代表の挨拶があり、赤旗に要約が紹介されている。

その中に次の一節があった。

今年は英国の豪華客船タイタニックが沈没して百年です。約1500人が死亡しましたが、救助されたのは一等船室の客、金持ちでした。
タイタニックの差別と人命軽視の精神は今も続いています。ギャンブルのような資本主義の下で苦しんでいるのは貧しい国の人々と、先進国の貧しい人々です。

ということで、一応数字を確認しておこうとネットを当たったが、意外と正確な数字は挙げられていない。

そのなかで次のような記載があった。

タイタニック号の悲劇より

一等船客の数は325名、名だたる大富豪が目白押しで、それはまさに今をときめく名士語録のようだった。一等のチケットは8日間の船旅で約550万円もしたらしい。とりわけ2部屋しかない特別スイートルームなど、専用の遊歩デッキを持ち各部屋の調度品は豪華このうえなく、費用はなんと1千万円もした。二等 船客は285名、一等よりもやや落ちるが、それでも他の船の一等に相当するほどで200万円もした。

乗客の大多数を占める3等客は706名で費用は5万円前後。三等客は船底近くの薄暗い相部屋に押し込められていた。言うなれば、船の余ったスペースを埋めるだけの存在であると言ってもよかった。

タイタニック号の悲劇は多くの教訓を残こすことになった。救命ボートの数が足らず、一等客から優先的に回されたという事実は救助の在り方に問題を投げかけた。

これは生存率を見れば一目瞭然で、女性客だけとって見ても、一等は145人中140人(97%)、二等は106人中80人(75%)、三等は447人中 296人(66%)となっている。子供の生存率になると、一等は6人(100%)、二等は24人(100%)に対して、三等は57(34%)しかない。

つまり、ボートに乗り移る際、女子供を最優先と言いながら、等級順に歴然と差別待遇した事実が浮かび上がって来る。実際、三等客は一等客が乗り終えるまで デッキに出ることも許されず、順番が来るまで閉じ込められたままであった。この結果、ボートに乗ることが出来ずに多くの三等客が我が子を道連れに死んで いったのである。

こちらは別の記事

山林、杜の人のブログ先日NHKテレビがタイタニックの1等客、2等客、3等客の生存者が、それぞれ65%、45%、25%であったと報じていました。

710名の3等客には救命胴衣も用意してなくて、救命ボートのある上層デッキに通じる鉄扉に鍵がかかっていたことも報じてしました。一部の乗組員は3等客も助けようとしましたが、海運会社の方針として3等客のための救命胴衣や救命ボートは用意していなかったのです。

非常に高価な乗船料金を払った1等船客を優先して救助することが当然だったのです。3等客は死んでも仕方がないのです。

という所
感情は篭もっているが論拠はあやふやというのがほとんど
英語の文献を探してみたら下記の表があった。結局、外国文献に当たるしかないことがまたしても実証されてしまった。

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from The Unsinkable RMS

ふと目にした音楽再生ソフト、AudioGate がすごい。これまで遍歴を重ねてきたが、その苦労が何だったのかと思ってしまう。このソフトの再生音は、Frieve Audio とか foobar とか Lilith のレベルとは段違いだ。とんでもないソフトが出てきたものだ。
もうなんと言ってほめてよいのか分からない、そのくらいすごい。
能書きはいろいろあって難しい。DSMとか1ビットだとか書いてあって、そもそもただの再生ソフトではないらしい。しかし単純に音楽再生ソフトとして、とにかくすごい。
以前Frieve Audio というのが良いソフトだとほめた。しかし重い、音が飛ぶ、なによりもWAVかMP3しか再生できないというのが致命的だ。私のようにyoutubeをダウンロードして只聞きしている人間にとってはAACが再生できないソフトは無意味だ。foobarも「聞けますよ」というレベル。

ところでこのソフト、暗証番号を獲得するのが意外に難しい。お酒が回ってからの操作だから、何をやったか憶えていないが、とにかく1時間くらいは時間がかかって、あきらめた頃にやっと番号が出てきた。

「飽食の時代」のはじまり
飽食の時代というのは、大量生産と大量消費、メディアに煽られた物質的欲望の急速な肥大と、それをさらに上回る生産能力の拡大の時代を指す。
実感論としては、1985年あたりから飽食の時代が始まったと思う。
プラザ合意で一気に円高が進み、不況局面に入った時、日本はアメリカへの集中豪雨型輸出で急場をしのいだ。その結果、国際水準から見て一気に日本は金満国となった。私は84年に初めて海外旅行したが、このときかなりの金額をトラベラーズ・チェックにしてそのまましまいこんでおいたら、280円から120円まで下がってしまい大損をした。
庶民の所得もそれなりに上がっていたから、ドルベースで言えば、日本人の所得は3倍くらいになったと思う。しかし欲望もそれに応じて肥大化した。庭付き戸建住宅、キッチン・ユニット、中型乗用車、当時出はじめのパソコン、ポケベルから携帯電話、CD・MD・ラジカセ、大型家電など物欲を刺激するものが次々と登場した。
しかしこれらのものが一通り行き渡ると、市場は成熟して来た。有り余る金は生産には向かわず、土地に向かうようになる。新宿駅東口が坪一億と言われた。
明らかに生産能力と欲望のあいだに乖離が生じた。旺盛な生産意欲と減退した消費意欲のあいだに齟齬が生じる。これがバブルの崩壊につながるが、これだけなら調整局面というだけの話だ。

後期飽食時代への移行
飽食感覚は、バブル後不況とあいまって倹約気分をもたらした。5年にわたる不況の後、96年には景気復活の兆候が現れ始めた。しかしその後の消費税増税、社会保障の改悪が景気の足を引っ張る。さらに金融ビッグバンの影響で銀行の貸し渋り、さらには貸し剥がしなどが横行するようになる。

97年を境に、「大量生産・大量消費」に支えられた高度成長時代は終焉を告げる。これに代わり登場すべきだった社会投資は未熟なまま流産してしまう。欲望に支えられた需要から、ニーズに支えられる需要への変換は実現しなかった。
ここから後期飽食時代が始まる。


致富欲だけが残った
後期飽食時代の最大の特徴は、欲望を上回る供給にあるのではなく、欲望の減退ないし萎縮による見かけ上の飽食にある。もう一つの特徴は富の退蔵にある。消費意欲も生産意欲も減退し、マネーゲームの意欲すら減退した。そして致富欲だけが残った。それはバブルを引き起こすのでもなく、ひたすらに溜め込まれ、経済から活力を抜き取り、日本経済にとって死重となってのしかかる。

例えて言えば、あれが出来なくなった王様が、若い娘をハーレムに囲い込むようなもので、千人を囲えば、若者千人が悲恋に泣くということになる。家にも後取りがいなくなる。

プレ小泉時代は、このような事態に対して無策の時代であった。「福祉大国」論は破棄され、社会資本への投資は財政均衡の立場により抑えられ、アメリカとの関係で迫られた公共事業のみがわずかな成長を支えた。しかしその多くは直接にも間接的にも生産に向けられない「巨大釣堀」の造成であった。

構造改革路線は経済原則の破棄
少子・高齢化社会を持ち出すまでもなく、明らかに日本国内にはニーズにもとづく実需が存在する。それを無視し抑制して、なおかつ生産を成長させるのは無理がある。その無理を承知で海外進出により乗り切ろうとするのが小泉路線だ。ここで需要と供給のバランスを図りながら成長を維持するという経済政策の基本は打ち棄てられる。

ここにおいて「国際競争力」が錦の御旗となる。これはいわば戦争路線だ。外国との経済戦争に打ち勝つためにはあらゆる艱難辛苦に耐えよというイデオロギー攻撃が系統的に展開される。社会資本の育成は、これまでは無視され抑制されてきただけだったが、いまや国際競争力強化のための「内部の敵」とみなされるようになった。

「国際競争力」路線は、「飛び地経済」路線でもある。多くの途上国にあるように、ビッグ・カンパニーの集積する「ムラ」だけが繁栄を享受し、それ以外の国民は貧困にあえぐという経済構造への転換だ。
以前にも消費税に関連して書いたが、この政策の最大の攻撃ターゲットは、日本の経済ヒエラルキーを支えてきた「小金持ち・中金持ち」の一掃にある。もはや大衆収奪には限界が見えている。次は地方経済と「小金持ち」、ロータリーやライオンズクラブのおれきれきだ。その後には中央直轄の道州制だ。


飽食の時代から絶望と怒りの時代へ
いまや「後期飽食時代」にも終焉が訪れようとしている。飽食感を持つ人々は日ごとに減少し、実際に飽食している人はさらに大きな割合で減少しつつある。
幸か不幸か、円高に助けられて絶望の時代に突入する時期は多少は遅れた。しかし、飽食の時代の記憶をつなげつつ、飢えの体験をやり過ごしてきた人々が、もはや記憶だけでは生きていけなくなっていることに気づきつつある。

これからやってくるだろう絶望と怒りの時代ができるだけ短く終わり、豊かな欲望と多彩なニーズに支えられた希望の時代へと移行していくことを祈る。

GEのCEOがファイナンシャル・タイムズとのインタビューで述べたという「原子力発電はもはや正当化できない」発言が話題になっている。

ただ、この記事は朝日新聞が紹介した部分だけが取り出されている。
悪いけど、朝日新聞はあまり信用しないたちなので、原文に当たってみた。

以下、拙訳(本当に拙い)で紹介する。


(ファイナンシャル・タイムズ)-

原子力器材の世界最大の供給元のひとつであるジェネラル・エレクトリックの最高責任者は語る。

原子力は他のエネルギーと比較して非常に高価である。原子力にこだわる十分な根拠を示すことは「本当に難しく」なった、

「本当に、今はガスと風力だ」、

二つの電力源について彼は語る。

天然ガスは永久に安い。多くの国がそちらにシフトしつつある。石油会社を運営する人と話すとこう言われる。“見ろ、ガスはどんどん出てくるぞ”と。ガスはあまりに安い。それはもう経済学を支配する法則みたいになっている。原子力を正当化することはもう難しい。もうだめだ。

代替エネルギーについて彼は語る

それで、私はガスと風力またはソーラーの何らかのコンビネーションを考えている。それは御存知の通り、いま世界上のほとんどの国で進んでいる光景だ。アメリカのシェールガス革命、福島の核のメルトダウン、再生可能なエネルギーのコストの減少など、世界的なエネルギー景観が衝撃的に変わりつつある。

シェールのブームは、天然ガスの価格を10年前の水準まで押し下げた。この傾向は天然ガス以外にも拡大していくだろうと見られている。

ほかにもある。ソーラーパネルの市場価格は過去3年間で75%も下がった。これによりいくつかの国では、ソーラーパワーが昼間小売電気価格に対して競争力を持つようになってきている。ブルームバーグ・ニュース最近のレポートによると、沖合風力タービン価格も着実に落ちてきている。

いっぽう、原子力産業は福島の後、コストの増大と将来の不確実性に直面している。

GEはEUのカーボン削減目標を追風と見ている。

私は思う。 こういう規制というものは時々本当に技術革新を駆りたてると。少なくともある程度は、規制の中身を知りそれに対して革新することができるなら、それは我々にとって悪いものではない。

彼はこれらの激変について楽観している。

GEのような大企業にとって、エネルギーをめぐるトレンドが変化してもその影響は大きくないと考える。GEは2011年に$142bnの収益と、$13bnの利益を上げている。天然ガスと風力タービン、そして原子炉、石油採掘まで、あらゆる主要なエネルギー源に関する製品を販売している。

GEの原子力関連収益は、日立によるジョイントベンチャーからの $1bn程度だから、全収益の1%にも満たない額だ。

我々はそれらのすべてをゲットしている。御心配は要りません。


彼の言葉には倫理のかけらもない。人類の将来とか、安全・環境への配慮もまったくない。

彼の言わんとするのは、もうそろばんが合わない。そろばんが合わない事業にこだわるのは、経営者として「正当化できない」ということだけである。

だからこそ重みがあると、言えないこともない。しかしそれはギャングがギャングのおきてに従って判断したというだけの話で、決して賞賛するような話ではない。

ただシーメンスのように、国に損害賠償せよなどと難癖つけるよりは、いっそさっぱりしてはいる。ましてや欠陥原子炉を外国に売り込もうなどという企業にいたっては、何をかいわんやである。右翼の言葉を借りれば、“国辱”企業以外の何者でもない。東芝さん、聞いてますか?

橘川教授の解説のネタと思われる文献がみつかった。
「エネルギア地域経済レポート」という中国電力のリサーチ誌に掲載された
将来の原油・天然ガス価格見通し」というペーパーで、複数の国際機関の見通しをレビューしている。
論点としてはほぼ同じだが、より実証的で、それなりの迫力はある。いくつかのグラフを転載させていただく。
https://livedoor.blogimg.jp/shosuzki/imgs/7/e/7efd15ee.jpg

https://livedoor.blogimg.jp/shosuzki/imgs/e/e/eee60b60.jpg

現在、輸入しているのは油田に付随した天然ガスだが、シェールガスの埋蔵分布はこれとはまったく異なる。

したがって油価連動の意義はほとんど消失したといってよい。こうなると、在来型天然ガスは、原油を買った「おまけ」みたいなものだ。

現にアメリカはそうやって中東から原油を買っている。だから2ドル弱などというべらぼうな価格になるのだ。

シェールガスにも難点はある。

①高度な技術力を要するという点(ただしアメリカ現地の情報を見ると意外に簡単そうだが)

②これからはこちらのほうが大問題だと思うが、土壌汚染の問題である。これが必ずしもクリアーされているようには思えない。

③シェールガスをアメリカから輸入しようとすれば、TPP加入を迫られる、現にこの動きは起きている。

ただ、必ずしも非在来型にこだわる必要はない。要は在来型が安くなればよいのである。一番手っ取り早いのはアメリカの会社が安く買ったLNGを転売してもらえばよいのだろう。

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