鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

2012年07月

「産経ビジネス」で「なぜ日本の天然ガス価格はアメリカの9倍も高いのか」という特集記事を出している。

一橋大学の橘川武郎という先生の書いたものだ。

読んでいくと、情報はそれなりにためになるが、結局LNG購入価格が高いことの言い訳を書き連ねている感じだ。(ただし最後にサプライズがある)

理由その①

全体として脱原子力依存の方向性が打ち出されることは間違いないが、代替エネルギーをいかに確保するかについてはコンセンサスが形成されていない。

これは9倍の値段で買う理由にはならない。ただ電力会社が価格引下げにまじめに取り組もうとしない理由にはなる。

理由その②

日本に輸入するには、現地で冷却して液化し、LNG専用船で運搬したうえで、わが国に着いたのち再び気化しなければならないため、コストがかかる。した がって、mmBTUあたり2ドルでシェールガスを購入しても、日本ではmmBTUあたり10ドル程度になるといわれている。

これはウソとは言わないが相当の過大評価だ。3.11の前、日本の購入価格は10ドル前後、この頃アメリカやヨーロッパの購入価格は5ドル前後だから、その差額がすべて輸送コストと見ても、mmBTUあたり5ドル前後だ。

なお、ヨーロッパの購入価格が3.11前後に大幅上昇しているのはロシアの値上げ攻勢によるものである。日本も今後の購入先選定の際に、近いからといってロシアものに手を出すのには慎重でなければならない。

理由その③

天然ガス・パイプライン網の整備という点でわが国は、国際水準に比べて、「2周遅れ」の状況にある。

韓国では国内の天然ガス・パイプライン網が整備されている。

長期的に見るとその通り、原発頼みのエネルギー政策を続けてきたツケである。

ただ海外のLNG生産基地と直接パイプラインをつなぐわけではないから、高い購入価格の説明にはならない。

理由その④

安定供給確保を第一義的に追求し長期契約方式をとったこともあって、LNG価格の原油価格リンク(油価リンク)を外せないことにある。

油価リンクを解除できない限り、わが国の天然ガス調達価格は高くならざるをえない。

これが一番もっともらしい理由だが、そのウソは簡単にばれる。まず基礎的なことだが、日本だけが油価連動方式をとっているように表現されているが、ヨーロッパとロシアの契約も油価連動方式だ。もちろんこれを変更しようという動きは出ているが。

第二に、LNG購入価格が上がったのは油価リンクとは関係のないスポット買いのためである。もともと日本のLNG購入価格は10ドル前後だった。たしかに原油価格は乱高下しているが、3.11以前にすでに原油価格は高騰しており、それ以降1.5倍には上がっていない。

第三に、日本の主要なLNG購入先は中東産油国ではない。マレーシア、インドネシア、オーストラリアが御三家であり、インドネシアを除いて非産油国である。ロシアからも輸入されているが、サハリン天然ガスでのロシアの強引な態度は嫌われている。

第四に、これは商売のイロハだが、いかに油価リンクしようと、同じものを売るのに、他国に販売する価格の9倍を吹っかけるなどありえない話である。

理由その⑤

日本の電力会社やガス会社が、韓国や中国のライバルたちに比べて、LNGを「まとめ買い」する点で立ち遅れており、それが調達価格の差となって表れている

http://livedoor.blogimg.jp/shosuzki/imgs/9/2/9202bdf4.jpg

ということで、韓国と中国の購入価格を比較している。このグラフはけっこう衝撃的である。率直に言って「まとめ買いでお得」のレベルではない。日本の購入価格が実勢レベル以上に吊り上げられているとしか取れない。

なお、「まとめ買い」云々は、スケール・メリットという観点からは事実に反する。財務省のホームページで見る限り、日本の購入規模は段違いである。

http://livedoor.blogimg.jp/shosuzki/imgs/d/2/d2fa9e7f.jpg

理由その⑥

わが国の総合商社は総じて、今世紀に入ってからビジネスモデルを改め、コミッション・マーチャントから資源の産地等に対する投資者へと姿を変えつつある。

産地(ガス田)に利権を持つようになった者にとって、天然ガスを安価で売買することは利害に反する側面があるだろう。

橘川先生、最後にそっと本当のことを書いた。これが9倍の真のカラクリだ。当然東電の子会社へのキックバックはあるのだろう。つまり三菱商事と東電がグルになって価格を引き上げて、濡れ手に粟のぼろもうけをしているということだ。

世間ではふつう、こういうのを「火事場泥棒」という。泥棒のなかでもとりわけ卑劣で許せない奴だ。しかもその泥棒が放火犯でもあるとすれば、八つ裂きにしても足りない。

一体どこが守秘義務だ!


吉井質問は、LNG高値買い入れのカラクリを明らかにしている。

現地会社とつるんだ三菱商事が高値の仕掛け人だ。

ここで、もう一度LNGの国際価格の動向を振り返ってみたい。国際価格の単位は立米で表されたり、BTU(英燃料単位)という単位で表されたりするが、ここではBTUで見ておく。

日本の輸入価格は全日本通関CIF価格(JLC)と呼ばれる。震災前は11ドル前後で安定していたが、震災後一気に17ドルに跳ね上がった。1.5倍になっているわけだ。

これに対し欧州では9ドル前後、これに対してアメリカでは5ドルから2.5ドルへと半減している。17/2.5で約7倍の開きとなっている。

これは言うまでもなく、アメリカでのシェールガスの採掘開始による値崩れである。オマーンのLNGもこのあおりを食らっているから、アメリカ向けはそのレベルまで下がっている。

しかし同じLNGなのだから、オマーンから買わないでアメリカの会社を経由して買えばいい話だろう。あるいはそれを材料にして、せめて5ドルくらいに値切ることは出来るはずだ。

結局独占企業だから、購入価格がいくらでも、全部利用者に転化してしまえばよいと思っているのかもしれない。

もっとうがった見方をすれば、LNG価格を高止まりさせることで、“コストの安い”原発の再稼動を狙っているのかもしれない。

もちろん、アメリカから直接買うという方法もある。ただ戦略資源であるシェールガスの輸出については、アメリカは慎重のようだ。資源戦略に利用しようとするもくろみもある。

以前(今年の6月13日記事)、天然ガスの需給事情について触れ、
①アメリカが自給体制に入ったことから、供給過剰が生じており、供給そのものには問題ない。中東への極度の依存関係にある原油と違い、輸入先を選択する幅があり、エネルギー安全保障の面からも有利である。
②問題は価格であり、緊急用のスポット価格で購入しているが、これは順次長期契約化され下がっていくだろう。むしろ値崩れを起こす可能性もある。
と書いた。

スポット価格は長期契約価格の3,4倍といわれている。数字は未検証だが、もし特殊状況における価格だとすれば、今年以降は半分程度に下がると予測される。

しかし輸入額は1年以上を経た今も下がってこない。これが日本の貿易を圧迫している。どうも変だと思っていた。

そこに、吉井議員の爆弾質問。

東京電力は、子会社からLNGを対米販売価格の8~9倍の高値で購入しているという。

問題の会社は、東電の子会社「TEPCOトレーディング」と、三菱商事が共同出資し、オマーン産LNGの購入・販売権を有するセルト社。
同社は米国向けに百万BTU(英式熱量単位)あたり2ドルで販売する一方、東電には9倍も高い18ドルで販売しています(今年の実績)

この質問のすごいのは、オマーンで採掘され液化されたLNGに話が絞られていることだ。
つまり、アメリカのシェールガスでも、ヨーロッパのパイプラインでもなく、まったく同じものの船出し価格が9倍の差があるということだ。
もうひとつは三菱商事の現地子会社が、この価格操作を行っており、東電自体もこの話に絡んでいるということだ。

吉井議員は衆院消費者問題特別委員会で東電社長に問いただしたが、広瀬社長は「守秘義務があり、存じ上げていない」との答弁だった。

一体誰に対する守秘義務だろう。それは国民に対する公開義務を上回るものなのか? 
相場の9倍で商品を売りつければ、それは限りなく犯罪に近い。それも反人道的な犯罪だ。誰がその差額を懐に入れているのだろう?東電社長がそれを隠し通そうというのなら、犯人隠匿罪ではないか?

LNGの購入価格は電気料金の最大の要素である。その最大の根拠が明らかにされないなら、値上げ申請は認められないのではないだろうか。
だとしたら、そもそも政府は何を根拠に値上げを認可したのだろうか。


人民網があきれた記事を載せている。

第3世代原子炉は福島相当の衝撃にも耐えられる

 国家原発技術公司と米ウェスティングハウス・エレクトリック社は、新型原子炉AP1000が福島第1原発事故のような設計基準を超えた巨大な衝撃にも耐えられると説明した。

 福島第1原発事故後、ウェスティングハウスは直ちに国家原発技術公司と連絡を取り、事故の教訓を十分に汲み取り、ストレステストを実施した。評価の結果、AP1000は設計基準を超える衝撃にも耐えられることが明らかになった。(それって設計でしょう。設計基準が甘いということでしょう)

AP1000は

①事故後72時間以内に、原発を徐々に安定状態へ導き、操作員の関与と外部動力源への依存を減らす。

②炉心または燃料プールの燃料破損も起こり得ない。

③原子炉格納容器も完全な状態を保つことができる。

④許容値を超える放射能漏れもない。

⑤72時間は外部の支援も必要としない。

 「人民網日本語版」2012年1月20日

我が家も職場も北電の計画停電対象地域に入っているようだ。私はどうせブラフだとたかをくくっているが、嫁さんはパニック状態だ。

何せ重度身体障害者だから、電気が止まればいろいろ起きる可能性はある。したがって私としては非常に腹を立てている。人の命を的にしてゲームをしてはいけない。

私としては、計画停電は万策尽きれば断行せざるを得ないと思っている。しかしそれはあまりにも危険な方法であり、かなり最後の手段に近いものと思っている。

したがって、90%以上の確率で計画停電が避けられないという場面では、一時的な原発再稼動もありうると思っている。

市民はまじめに考えているのだ。それなのに会社側には、まじめさが感じられないから怒っているのだ。


2ちゃんを見ると、推進派が書きまくっているが、中身は同じだ。原発反対派は電気使うな反原発厨はクーラー禁止だからな日本全体で経済損失いくらか分かってるのか反原発厨?

これらの「反論」は、もはや周回遅れになっている。「電気使うな!」というのが「原発由来の電気を使うな!」ということなら、すでに原発ゼロになっているからだ。

「原発由来の電気」を使っている人は誰もいない。ただ関電圏内の人は使いたくなくても使わされている。もし断れるものなら断りたいところだ。その分の我慢はしても良い。

もう一つ、こちらのほうが大事なことなのだが、「使うな!」というのが「我慢せよ!」ということなら、それは賛成・反対のいかんを問わず、すべての日本国民が我慢しなくてはいけない ということだ。賛成なら我慢しなくて良いのか?

震災直後の関東の計画停電を住民は受容し、耐え忍んだ。なぜか? それは福島の苦難に寄り添おうとしたからだ。

これは原発賛成とか反対ではない、市民としての矜持の問題だ。一方に原発事故で苦しんでいる人がいるというのに、のうのうとクーラーで自分が楽してよいのか、と誰もが考えた。

原発事故のような大災害を免れた人々は、一種の後ろめたさを抱く。それは、今を生きるすべての日本人にとって共通の感覚だろう。核被害が後代にまで続くものだけに、それは、われわれ「福島世代」の負い目となって残っていく。

原発反対派は電気使うなと書いた人間もわれらが世代である。そういう人間の存在した責任、そういう人間を許した責任も含めて我らが世代は、後世に対して責任を負わなくてはならないのだろう。

独裁政権の終焉

2002年

12月 モイ大統領、総選挙を前に後継大統領候補にケニヤッタの息子ウフル・ケニヤッタを推す。これに反対するKANU活動家はオディンガを中心に大挙離党。自由民主党を再建する。

12月 キバキとケニア国民連合 (NAK)はKANU政権の継続反対を掲げ自由民主党 (LDP)と選挙協定を締結。国民虹の連合(NARK)を結成する。

12月27日 大統領選挙でキバキが当選。初めての政権交代が実現する。議会においても虹の連合は212議席中、125議席を獲得する。キバキ与党の民主党自体は36議席にとどまる。

キバキは自由民主党との合意に際し、オディンガを首相に据え、大統領権限の多くを移譲する密約を交わしていたという。

2003年

1月 キバキが新大統領に就任。これまで認められていなかったケニア土地自由軍の名誉を回復する。いっぽうでオディンガとの密約を破棄し、大統領の専制体制を継続。オディンガは憲法改正に期待し、政権に加わり、道路・公共事業・住宅相に就任する。

ケニヤ土地自由軍の名誉回復は、我々から見れば当然の話で、どうして賞賛されなかったのか、そちらのほうが不思議だ。ウィキペディアによれば、独立時に政権を握ったのは皆、親植民地派の流れをくむケニア人だったため、解放闘争の担い手と承認されなかったそうだ。
元闘士は一貫して冷遇された。植民地政府によるケニア土地自由軍の非合法化も独立後もいっこうに解除されなかった。

2005年

7月 議会で与党提案の憲法改正案が承認される。首相職権限がほとんど認められないなど大統領権限の強い性格のものであったため、自由民主党は反対を表明。オディンガは閣僚を辞任。改正案に反対する運動を呼びかけ、オレンジ民主運動 (ODM) を結成。キバキ政権との対決姿勢を強める。

11月 憲法改正をめぐる国民投票。与党提案の改正案は否決される。オレンジ民主運動は旧政権党のケニア・アフリカ民族同盟 (KANU)と共に反対運動を担う。

「オレンジ」の名称は、国民投票における賛成票のイラストがバナナ、反対票がオレンジで表されたことに由来する。

11月 国民投票後、オレンジ民主運動からKANUが離れ、さらにオディンガのODMとカロンゾ・ムショカのODM_Kenyaに分裂。(ODM_Kenyaはさらに再分裂し影響力を失う)

大統領選挙と内乱

2007年

12月27日 大統領選挙。キバキ大統領が新たに結成した国家統一党(PNU)と、ライラ・オディンガのODMとの一騎打ちとなる。

12.28 出口調査でオディンガの得票が上回っているとの報道。オディンガが勝利宣言を発する。

12月30日 選挙管理委員会がキバキ大統領の勝利を発表。結果発表と同時に大統領の出身部族キクユ人への暴力が始まる。リフトバレー州では教会に逃げた避難民が教会もろとも焼かれ、30人以上の死者を出す。

2008年

1月3日 ナイロビのウフル公園で、ODMと支持者の抗議行動。一部が警官隊と衝突し暴動へと発展。ODM議員の暗殺事件も相次ぐ。

1.05 キバキ、米国務次官との会談後に連立政権を提案。オディンガはあくまで再選挙をもとめる。ナイロビでは暴動が拡大する。

1.08 オディンガ、抗議行動を中止すると宣言。国際的な調停があれば、和解に応じるとの見解を示す。

1.09 ガーナのクフォー大統領がケニヤ入りしキバキ・オディンガと面談。調停案を提示するがキバキが署名を拒絶。

1.16 ODMが抗議行動を再開。警官による鎮圧で2名の死者を出す。

1.22 アナン国連事務総長がナイロビに入り両派との調停活動を開始。

1.25 オンディンガ、アナン調停案の受け入れを拒否。リフトバレー州ナクルではキクユ人に対する暴力や破壊事件が相次ぎ少なくとも64人が死亡。ナイバシャでは逆にキクユ人が避難民19名を殺害。

2.01 アナンの調停により和解が成立。国家調和推進委員会が樹立される。

2.28 キバキとオディンガが、大統領と首相を分け合う連立政権が成立。政治的混乱は収拾される。この間の騒動により少なくとも1000 人が死亡し、国内避難民も一時は30 万人を超えた

4月17日 オディンガが首相に就任。憲法改正に向け作業を開始。

12月 政党法が改正される。それまで160を超えていた政党・政治団体が38に整理される。

2010年8月27日 憲法改正をめぐる国民投票で、賛成票が過半数を超えた。大統領権限の縮小や地方分権、行政のスリム化などが盛り込まれる。

2010年12月 国際刑事裁判所、07年大統領選挙をめぐる暴力事件について、ウフル・ケニヤッタKANU党首、カレンジン族指導者のウィリアム・ルトらが関与していたことを明らかにする。

英政府と連携した独立

1959年12月 非常事態が解除される。再び独立運動が高揚。獄中のケニヤッタの解放を求める。

60年 連邦内独立を認める新憲法が制定される。

61年 初の総選挙が施行される。植民地当局の支持を受けた「ケニア・アフリカ民族同盟」(KANU)が「ケニア・アフリカ民主同盟」(KADU)を破り勝利。

KANUが大部族を中心とする中央集権的国家体制を主張したのに対し、「ケニア・アフリカ民主同盟」(KADU)は少数部族を尊重する連邦制を主張する。…とあるが、五十歩百歩ではなかったろうか?

62年 KANUの要請を受ける形でケニヤッタが9年ぶりに解放される。

1963年12.12 英連邦内で独立。ケニヤッタが初代首相に就任。

1964年 共和制へ移行。ケニア共和国が成立する。初代大統領にケニヤッタが就任。アフリカ社会主義を掲げる。親西側政策を採り、アフリカにおける反共の防波堤として支援を受け、経済成長を遂げる。

66年 オギンガ・オディンガ副大統領(ルオ族)、白人入植者の土地分配政策を巡ってケニヤッタ大統領と対立。ケニヤ人民同盟(KPU)を設立。

反共独裁政権への移行

1969年 政府はKPUの活動を禁止。「事実上の」単一政党国家に移行。オディンガも逮捕される。独立の英雄の一人トム・ムボヤは暗殺される。

1978年8月 ケニヤッタが死去。副大統領ダニエル・アラップ・モイが二代目の大統領となる。その後24年間にわたり独裁政治を続ける。副大統領には政権テクノクラートのトップであるキバキが就任。

アラップ・モイ: 少数民族カレンジン族の出身。反体制派を弾圧し多数を投獄。この間経済は停滞を続けた。自民族を優遇しキクユ族等多数派を冷遇したとも言われる。

1982年6月、ケニアは国会によって一党国家であることを正式に宣言。

1983年9月 一党国家として初の国会選挙。

民主化への胎動

90年 オギンガ・オディンガ、非合法野党として民主主義回復フォーラム(FORD)を結成する(このとき79歳)。

1991年

5月 ケニアの独裁政治に対して西側諸国からの圧力が高まる。モイ大統領は、「植民地主義者は部族でアフリカ人を分断し、いままた舞い戻ってきて今度は複数政党制でアフリカ人をさらに分断しようとしている。複数政党制化を主張する者は、ケニアが混沌と流血に陥ることを望んでいる」と非難。

7月 民主回復フォーラムを中心に民主化を要求する集会・デモが拡大。国際社会に影響を広げる。

11月26日 パリでアフリカ援助国会議が開催される。ケニアの民主化、構造調整計画の遅れを非難、新規援助を停止する。

12月02日 長引く不況と国際社会の圧力を受けたKANU幹部会、憲法の一党条項を無効とし複数政党制の導入を決定。キバキ元副大統領はKANU を離れ、民主党 (DP) を結成する。

1992年

12月 総選挙を目前にして民主主義回復フォーラム(FORD)がケニヤ党とアシリ党に分裂。

12月29日 複数政党制の下での最初の選挙。モイが4選を果たし、その後も実質的なKANUの独裁が続く。二位がアシリ党のケネス・マティバ、キバキが三位、オギンガ・オディンガは4位にとどまる。

アシリ党は、長老政治家オギンガ・オディンガを担ぐことに反発する若手活動家が結成したもの。92年総選挙ではケニヤ党とならぶ31議席を獲得したが、その後路線の動揺と内部争いを繰り返し、凋落する。「アシリ」はスワヒリ語で「元祖」「本家」「オリジナル」の意。

12月 議会選挙でライラ・オディンガがFORDケニヤ党から出馬し、当選する。

オディンガはオギンガ・オディンガの息子でエンジニアであった。東ドイツの大学の出身で、長男の名はフィデル、娘の名はウィニーという、“いかにも”の人。

1996年 FORDケニヤ党が分裂。ライラ・オディンガ派は自由民主党 (LDP)を結成する。

1997年

11月 国会改革、政治的権利が拡大されたことから、政党数が爆発的に増える。キバキが、民主党 (DP) を中心にケニア国民連合 (NAK) を結成、第一野党の地位を確保する。自由民主党(LDP)は第三党の地位を確保。

12月 モイが大統領に再選される。与党KANUは議会で過半数を制することができず、ライラ・オディンガの率いる自由民主党 (LDP) との連立を迫られる。

2001年 ライラ・オディンガ、モイ政権の下でエネルギー相をつとめる。自由民主党 (LDP)は解消され、KANUに吸収される。

ケニア歴史年表 その1

植民地時代以前の経過

紀元前2000年 北アフリカからクシ語系のケニア地域への民族移動。

7、8世紀頃 アラブ人が海岸地域に定住。モンバサやマリンディなど交易の拠点を建設する。

西暦1000年頃 バンツー語系、ナイル語系の民族がケニアの地域に移動。今日のケニア国民を形成する民族として定住。

15世紀初め ケニア沿岸部にバンツーとアラブの言語が混ざったスワヒリ語のスワヒリ文明が栄える。

1418年頃 明の鄭和の艦隊の一部がマリンディにまで到達。

1498 ヴァスコ・ダ・ガマの来訪。

18世紀 アラブ人の影響力が内陸部にまで及び奴隷貿易や象牙貿易などが活発になる。

1828年 オマーン帝国のスルタン・サイードがモンバサを攻略。

植民地時代の経過

1885 ベルリン会議で、欧州列強がアフリカの分割植民地。ケニア沿岸にはイギリスとドイツ帝国が進出。スルタンはザンジバルに根拠地を移す。

1888年 イギリス勢が勢力争いに勝利。イギリス領東アフリカとなる。沿岸部は帝国イギリス東アフリカ会社 (IBEA) が統治する。

1895年 イギリス、東アフリカ保護領を設立。モンバサからキスムまでの鉄道建設が開始される。肥沃な高地が白人移住者たちに開放され、内陸部にまでイギリスの影響が及ぶ。

1902年 現在のケニア全域がイギリスの保護領となる。

1903年 鉄道はキスムを越えウガンダまで延びる。

1920年 英領東アフリカの統治が東アフリカ会社を離れ、英国政府の直轄植民地「英領ケニヤ」となる。

独立運動の開始

1921年 ケニア国内最大の部族であるキクユ族のあいだに、キクユ青年協会が設立される。1924年にはキクユ中央協会(KCA)も結成される。

1942年、キクユ族、エンブ族、メルー族、カンバ族の独立運動家が秘密裏に結束。種族の壁を越えた民族解放運動が始まる。

植民地時代、キクユ族エンブ族メル族は一括してGEMAと呼ばれ、先住民の中でも軍務につけないなど差別された。イギリスお得意の分断政策である。

1946年 ケニア・アフリカ学生同盟(KASU)が設立される。のちにケニア・アフリカ民族同盟(KANU)に発展。ジョモ・ケニヤッタとトム・ムボヤが指導者となる。

キクユ族の出身。ケニヤッタはペンネームで「ケニヤの光」を意味する。本名はウェ・ンゲンギ。建国の父としてムゼー(おじいさん)とも呼ばれる。

1952年10月 キクユ族を中心とする「ケニア土地自由軍」(KLFA)が武装蜂起。白人農場、警察署、政府軍用地、親植民地派のケニア人を襲撃。「マウマウ団の乱」と呼ばれる。

マウマウはイギリス人による蔑称。語源はいろいろあるが定かでない。キクユ族の貧農を中心に一般の都市労働者や労働組合員によって構成され、最盛期には20万人が所属していた。

10月 植民地政府は非常事態を宣言。イギリス軍正規軍5万人、戦車、爆撃機などが投入された。当局は、ナイロビで2万7千人、農村で107万人の反乱支持者を逮捕してマウマウを山林内に封じ込める。

1953年 ケニヤッタはマウマウの乱を指揮したとして起訴され、7年間の重労働を宣告される。実際には北西の辺境地ロドワーに移送され、保護監察下での執行猶予処置がとられた。

54年 黒人、インド人の議会への参加が認められる。

1956年 マウマウ団の闘いは5年に及ぶが、指導者のデダン・キマジの逮捕により最終的に敗北。キマチは絞首刑に処せられる。

反乱による死者は白人入植者95人、親植民地派とみなされたアフリカ人1920人、マウマウ側は、11503人だった。イギリスは植民地予算の4年分に匹敵する戦費支出を余儀なくされた。

昨日、ケニアに行ってきた人の報告会があったので、ついでにケニアの歴史をすこし調べてみた。とりあえずはほとんど日本語版ウィキペディアの孫引きである。

ケニヤの最大の特質は、その地政学的位置にある。周囲の国の名を挙げただけでも、その重要性が浮き彫りになる。

南スーダンはいまが旬の紛争国だ。エチオピアは20年前に空前の飢餓で有名になった。メンギスツ政権は国民が餓死していても内戦をやめなかった。ソマリアはいまなお国家の体をなしていない。最大の売りが海賊というのはなんとも悲しい話である。ウガンダは昔、怪物大統領アミンで有名になった国だ。その隣が100万人虐殺のルアンダ、コンゴもいまだに内戦が収まる気配がない。

これら国家に対応するための拠点がすべてケニアに置かれている。国連や欧州諸国にとってケニアは民主主義の防波堤でなければならない。今やナイロビは世界有数の国際都市だ。国際機関のマフィアが「援助村」を形成している。

こうした「産業構造」が、きわめて外圧に弱い政治構造を作り出している。下品な表現をするなら、「援交」漬けの「パンパン国家」である。日本と似ていなくもない。

感想としては、西側の優等生といわれてきたこの国が、内実としてはさまざまな問題を引きずっていて、真の民主化が急がれているということである。

しかもその民主化は、先進国の要求するような近代化ではなく、財の均等な配分と内発的発展を可能にするような政治・経済システムの確立である。

同時に、国内経済は奇形的で不均一ではあるが、それなりの発展を遂げており、そこそこの内需もあり、国民の経済統合が進んでいるということである。

したがって、多民族国家であるにもかかわらず国民統合は進んでおり、国を分断するような内戦に至る危険性は低いと思われる。2007年の大統領選挙をめぐる紛争は、ぎゃくにそのことを証明したものとも考えられる。

日本語の情報は、この2,3年間についてほとんどない。本当は英語情報に行かなければならないのだが、この暑さが邪魔をする。


草稿集②_p740


マルクスは、マルサスの「人口論」を剽窃だと断ずる。そのネタ本がJ.タウンゼンド師という人の「救貧法論」という本だと言う。以下がマルクスの引用部分。

貧民はある程度まで無思慮なものである。共同社会にはいつでも、最も卑しく不潔で下賎な仕事を遂行する人々がいる。こういう人々があってもいいということは、一つの自然法則であるように思われる。
このことによって、彼らより上品な人々は骨折り仕事を免れ、何にも煩わされることなく、もっと高尚な職業に従事することができる。

ここはまあいいだろう。そうも言える。肝心なのは次のくだり。

労働への法律的強制は、必要以上に多くの煩労や暴力や騒動を伴い、悪感情を生み出す。
これに対して、飢餓は、平和的で無口である。それは絶え間ない圧力であるばかりでなく、勤勉と労働を促すもっとも自然な動機となる。
そして飢餓は、貧困者の力を最大限に引き出し、発揮させる動機となる。


もう政権も終わりに近くなると、関電の社長も東電の社長も政府の言うことなど聞きもしない。
野田首相は、何がどうなろうともう関係ない。首相を降りた後の就職先のことしか念頭にないのだろう。

枝野大臣が「不快」と怒って見せても、マスコミも相手にしない。この国はどこかねじが抜けてしまったみたいだ。

だいたい「身命を賭す」というのは武士の言葉だ。どこかの馬の骨がしゃべってはいけない。

国民のあいだに「今度は共産党」という声が広がってくれると良いのだが。

カリフォルニア州でフォアグラが禁止されたと聞いても、別に痛痒は感じない。
しかしこれがTPPにまでおよんでくると話は違う。

禁止の理由は動物虐待の禁止であり、健康上の問題ではない。だからニューヨークのポテトチップス禁止とはニュアンスが異なっている。

しかし、家畜というのはある意味で虐待され、奇形化されながら出来上がった生物である。そもそも殺して食うというのは最大の虐待だし、生きている間も何らかの拘束をし続けるわけで、これも虐待だ。

和牛や養殖マグロは屠殺する前に「肥育」と呼ばれる過食を強いて、霜降りとか大トロを作らせる。これなぞ、フォアグラとまったく同じだ。鶏の飼い方などはまさに虐待そのものだ。

そうなると、誰かが虐待といえば、明日にはシーシェパードがやってきてもおかしくはない。

ところで、これはTPPに違反している疑いが濃厚だ。フォアグラ生産・販売業者はWTOに提訴することが可能だ。御本家フランスはいまのところ静観の構えだが…

逆切れの場合もある。アメリカはかつて、国内法のスーパー301条を日本の輸出に適用した。フォアグラ禁止が貿易にまで適用される可能性もある。

こういうダブルスタンダードが拡大していくとどうなるだろうか。

消費税法案の付則にこうあるそうだ。
「成長戦略ならびに、事前防災および減災などに資する分野に、資金を重点的に配分する」
これは詐欺だ。「税と社会保障の一体改革」と言っていたのは誰だ。

自分たちの懐を潤すためなら、どんな嘘でも平気でつく、こんな連中が国民の代表として大手を振って歩いているのだ。

これでは消費税を上げても、その金は借金の返済にも社会保障にも回らず、連中の懐に納まるだけだ。その後にはめちゃめちゃになった日本経済だけが残るという寸法だ。

いま彼らは「ゆとり財源」といっている。消費税の5%引き上げで年間10兆、10年で百兆円という歳入がある。それでゆとりが出るなら、そもそもそんな税金取るな。こちとら、ゆとりどころか、さかさまにしても鼻血一滴でやしない。

アメリカ大統領選が接戦だという。わたしは50年近く前、反共の狂信者ゴールドウォーターが惨敗を喫したように、ロムニーが候補になった時点で共和党は惨敗するだろうと踏んでいたが、どっこいそうは行かぬようだ。

あのアホのブッシュが圧倒的な大差で勝利したときと同じ極右ヒステリーが、米国民のあいだには抜きがたく残存しているようだ。

これはかなり恐ろしいことで、24日のロムニー演説をみると、憂慮すべき事態と考えなければならない。(ただ歴代大統領は実際に就任すると選挙中の論調をかなり緩めるのではあるが…)

1.世界情勢の認識
世界は危険であり、破壊的であり、混沌としている。

2.対ロシア政策
東欧へのミサイル基地建設を断念したことは、ロシアへの一方的な譲歩であり、「同盟国を突然に見捨てた」行為だ。

3.中東政策
イランによる核保有は「世界にこれ以上の危険はない」とし、うらん濃縮活動の停止のために「すべての必要な手段を行使する」と強調。
また、イスラエルを軽く扱ってはならないとし、現政策を破棄する方向を示す。

4.中国政策
「当局が許す自由も選択的で、自由の圧迫には容赦がない。米国との貿易では、特許や知的所有権の恥知らずな違反を行っており、通貨を操作している」
と口を極めて非難するが、具体的な対応には触れず。

5.南北アメリカ
チャベスの脅威を軽く見てはならない。「独裁者チャベスはヒズボラを西半球に招いている」

6.軍事力増強を主張
軍事費の抑制政策をやめると表明。
「私は米国の指導力を明け渡すようなことはしない」
「21世紀は米国の世紀となるべきだ」

高村泰雄さんという北大教育学部の先生が

自己意識と科学的認識の形成過程」という文章を書かれており、そのなかで大田信二さんという方の論文の紹介をされています。

以下はその孫引きです。


へーゲルの自己意識論の出発点は,「我は我である」というトートロジーの克服である。(フィヒテの自我論)

ヘーゲルは運動を欠いた抽象性を「欲望の過程」を組み込むことで克服しようとする。

①欲望の過程は、端初的な自己意識が対象のうちに自己を見いだすことに始まる。

②そして実際にその他者としての自己 を活動的にわがものとすることに続く。

③言い換えれば、対象的仕方で自己を確証することによって,初めて自己を意識しうるに至る過程なのである。

感性的仕方(身体活動)で外なるものとかかわりあうという活動があってはじめて、「我は我である」という自己確誌が,客観的活動との統一のもとで論じうる問題となる。

「与えられた客観が主観的なものとして定立されるのと同様に,主観性は(たんに主観的なものにすぎないという)自己の一面性を自己から疎外し,自己に対して客観的になる」 (エンチュクロペディー)

前半は、身体として与えられた所与が、自我に属するものとして主体化されるということだ。後半は自己の身体をふくめ主体化することで、自我は身体をふくめた自らを一人の“生身の人間”として自覚するということだ。

なお、ヘーゲルの言う主観とは自我(Ego)のことであり、“意欲する自我”と考えたほうがよいであろう。()内は余分な注釈で、かえって分かりにくい。日本語で主観的というと「独りよがり」というニュアンスが強くなるので注意が必要。


感想になるが、

ヘーゲルが自我の過程に欲望の過程を組み込んだとき、すでに「我は我である」から「我は欲するものである」という言い換えがなされていることになる。

「自我」という車体にエンジンが積み込まれて、自動車として動き出すことになるのだが、果たして本当に「欲望」というエンジンが良かったのか、ここのところが定かでない。

①の中身は一読してちんぷんかんぷんである。「端緒的な自己意識」なるものが存在するかどうかさえ分からない。本能的な欲望ならたとえば食欲、性欲など動物にも存在する。

ただ、はっきりしているのは動物の本能的欲望もふくめて、それは具体的で客観的な活動である。意識活動のように内面的で本人にしか分からないような活動ではない。ヘーゲルはこのような活動を「対象的活動」と名づけているのであろう。

“対象の内に自己を見出す”というのも、まことに持って回った言い方である。ヘーゲルは稀代の悪文家というほかない。前後から判断すれば、自己というのは自己の欲望のことである。

というわけで、対象的活動である欲望が起点となることにより、自己意識は具体性を獲得し、抽象性を克販するのである。

②は多少は分かりやすいが、似たようなものである。“他者としての自己というのは、①の“対象の内なる自己”と同じで、対象に投影された自己の欲望ということだろう。

③はまさしく
トートロジーだ。主語が省略されているのは大田信二さんの苦し紛れだろうか。

対象的仕方というのは、普通に言えば“具体的な方法
ということだ。実践であり経験である。つまり経験が自己を対象化するということである。

その結果、実践の主体となった自己に思いが至る。このとき自己は実践した自己の身体と、欲望を抱いた自己意識に分離して理解されるのである。

前後関係からして、この一文の主語は“端緒的な自己意識”だ。そして“初めて自己を意識しうる
”という際の“意識は対象化された自己意識だろう。

それにしても解説者ごとに十人十色である。よく言えばそれだけの内容をふくんでいるからであろうが、悪く言えば「頭おかしいんじゃないの」というくらいの悪文だということだろう。


樋口さんの論文を読んで、あらすじは良く分かった。
しかし、そこからメロディーが聞こえてこない。
くねくねと曲がった論理の骨組みは見えたが、干からびていて実につまらない。
たぶん、樋口さんはヘーゲルが好きではないのでしょうね。

それはともかく、宗教への帰依のところを別にすれば、自然的意識が「主観」を手がかりに実体へと切り込んでいくという筋道があって、それがどこかの時点で「それは自分自身なのだ」という気づくところがある。

そのとき自分の目的が現実のなかに自分を直接的に表現することにあると感得するのである。

これでは、宗教家の「悟り」とあまり選ぶところはない。こんなことにマルクスが感激するとも思えないし、ましてそれを一生の指針とするとは思えない。

樋口さんの要約・解説には何か大事なものが抜けているようだ。やはり楽しようと思っちゃいけない。自ら原著に当たるしかなさそうだ。

4.主観(主体)と客観の「直接的」な同一性

哲学的思惟の成立の為には、意識あるいは精神の持つ主観性(主体性)が必要である。しかし主観性(主体性)が無条件にその思惟を成立させるのではない。そこには条件が必要だ。

自然的意識は、対象の真理性のみを確信する意識と、自分の真理性のみを確信する自己意識の葛藤を経て、主観と客観の同一性の概念に達する。これが理性(定理)である。さらに自然的意識は観察や行為を経て、普遍的理性の立場に達し、実体に辿り着く。(この辺がヘーゲルの怪しいところである)

いまや普遍的理性に至った自然的意識は、現実を、観察されたり変革されたりするような疎遠なものとは見なさない。むしろ自分の目的が現実のなかに自分を直接的に表現することにあると自覚している。(このあたりがマルクスに結びついてくるんでしょうね)

しかし意識はまだ、この自己表現が可能であると無邪気に確信しているに過ぎない。意識は現実に関わり、そこに自分の意図が正しく表現されたと主張する。一見したところでは、たしかに主観と客観の同一性の概念が実現されているように見える。

だがたとえば他人の意識もこの現実に関わったとする。そして意図について口を挾むようになると、個人の意識が主張する“現実の同一性”は脅かされることになる。意識は、「この現実が自分個人のものでなく、現実の形成には他者も招かれている」と自覚せざるを得なくなる。

それによって意識はより高い段階に立つことになる。

各人の参与の産物であることが自覚された現実は、各人の自然本性をなす実体である。ここに集団的自然意識が発生する。個々人の自然的意識は、各人が作り上げ各人が拠って立つ、この精神的実体を、自分の自然本性の表現として自覚するようになる。主観性は大きく転換し、精神性・共同性を含んだ主観性が成立する。

しかしまだ自然的意識と精神的実体との隔壁は完全に取り除かれたわけではない。自然的意識と精神的実体との関係が「直接的」である為に、そこには容易に分裂が入り込む。

 

5.人倫的共同体から「法状態」への移行

自然的意識と精神的実体との「直接的」関係にもとづく「人倫的世界」では、意識は精神的実体を自分の自然本性と知る。「確かな信頼」によって人倫的共同体と結び付いている。

しかし意識の主観性によってそこには容易に分裂が入り込み、意識と実体とは切り離されてしまう。この悲惨な無秩序の状態から抜け出る為に、意識は自分の主観性(主体性)を放棄し、他なる実体に譲り渡す。この切り離された状態は「法状態」と呼ばれる。

意識はそこでは行為の規範を欠いたアトム的人格となる。主観性を失った精神的実体が形成する世界は、「教養形成の世界」と呼ばれる。

しかし意識は啓蒙と革命を通じて譲り渡された主観性を再度取りもどし、失われた人倫性を再興しようとする。これが「道徳性の世界」である。

 

6.「良心の立場」

道徳性の世界は、「良心の立場」に於いてその頂点に達する。しかし「良心」が人倫性の再興をもたらすには様々な問題がある。たとえば、良心は「正義」に基づくのであるが、その正義の「確からしさ」は、どれだけ状況を把握しているかに依存する。さらに、良心の内容は個別的な感性に由来するので、普遍性について不確実さが付きまとう。

そこで人は自らの信念を他者に対して表明し、承認を求めようとする。その信念は他の個別性にも普遍的なものにも対立する形で提示される。

しかし他者の意識も、実は自分のうちに良心に関する一定の確信を持っているので、両者は実質的には同じである。

このあとヘーゲルは啓示宗教へと進み、絶対知へと到達するのであるが、基本的にはあほらしい話なので省略。

最終的には、自己意識は実体全体を意識からもぎ取る。そして実体の様々な実在性の構造全体を自分自身のうちに吸収する。そして様々な実在性を自分から生み出す。

以下は樋口先生の解説へと移行する。

ヘーゲル独自の哲学的思惟はどのような性質のものなのだろうか

①さしあたり,諸対象の隠された必然的な結び付きを捉える作業。

②意識と対象との間に前提されていた「精神」の自覚的発動。

哲学的思惟は世界史によって媒介されつつ、精神的財を自己化する自己意識である。

この自己意識は、精神性・共同性を含んでいる。なぜなら、良心にもとづく自覚的な自己放棄を通して絶対知に辿り着いた意識だからである。それは自分の主観性に対するこだわりを自覚的に放棄しているからである。

哲学的思惟は、自分の自己を放棄し内容のロゴスの動きとともに歩みながら、同時に自分を失わず進んでいく。

自己意識の働きを理解すること

ヘーゲルの学的体系は哲学的思惟によって支}られている。その哲学的思惟とは、歴史上の精神的財を記憶・内化し豊かになった自己意識である。ヘーゲルの学的体系は、この自己意識を理解してこそ充分に理解されるのである。

自己意識は対象を自己化して豊かになり、逆に対象のうちに自分を認識し、対象の必然性を取り出してくる。ここにヘーゲル哲学に於ける自己意識の問題性が存しているのである。

国際面のトップは「ブラジルで格差縮小」というものだ。
元々ブラジルは経済格差ではあまり自慢できた国ではない。ルーラが大統領に就任した年、ブラジルのジニ係数は0.58だった。それが2年後には0.51程度まで下がる見通しだというもの。しかも国内民間機関のバルガス財団による試算だから、あまり当てにはならない。11年時点の実数では0.53とされている。

とはいえ、世のなか西も東も格差拡大という中で、経済成長を遂げながらの格差縮小というのはたいしたものだといわざるを得ない。

現在、1300万世帯が貧困世帯向けの家族手当を受給している。また最低賃金を連続的に引き上げ、正規雇用の拡大、融資条件の拡大などを行ってきた。この結果、極貧層は2800万人減少した。


ルーラもルセフも経済政策の基本は新自由主義的なポジションである。ルーラも就任前にアメリカに一札入れているし、就任後も前政権の厳格な緊縮政策を踏襲した。

そのなかで経済政策としてではなく、補完的な社会対策として「飢餓ゼロ」計画を打ち出したに過ぎない。だから旧共産党(PCB)系のリベラル派はルーラを厳しく批判したし、ラテンアメリカの革新勢力のあいだにも、「ルーラは革新ではない」とか「独占資本に魂を売った」などとの冷ややかな雰囲気が漂っていた。

結果として、貧富の差が縮まったのだから、ルーラとしては鼻高々だろうが、私はもう少し冷めた見方をしている。

ルーラは決して金持ちのフトコロに手を突っ込んでいない。極端に言えば、貧困層相手にバラ撒きをやったに過ぎない。しかしその程度でジニ係数が5%も下がるような目覚しい変化が出るわけはない。

これはおそらく産業構造の変化がもたらしたものだと思う。植民地・帝政時代以来の寄生階級(地主や商人や銀行主)がますます肥え太るような産業分野ではなく、製造業を中心とした新たな資本家層による新興産業の発展がブラジルに成長をもたらしたのではないか。(少し裏付け資料を探してみよう)

だとすれば、ルーラの功績はメルコスールを中核とする域内貿易を発展させ、それを南米全体に拡大し、そのなかで盟主としての地位を確立したことにあるのではないか。
とくに、南米諸国間にウィン=ウィンの関係を作り出したことがブラジルに対する信頼を獲得しえた最大の要因と思われる。(60年代中米共同体では域内強国エルサルがエゴを剥き出したために崩壊した。それは80年代中米ゲリラ戦争へと導いた)

盟主は我慢しなければならない。そういう場面が必ず二、三度はある。そういうときに国内の資本家階級を押さえられるか、この政治力が決め手だろう。(いまのメルケルにも同じことが言える)

たとえばボリビアが天然ガスの国有化に踏み切った。ペトロブラスの所有するガス田も接収された。このときルーラは国内を押さえた。パラグアイとの国境にかかるイタイプ・ダムではパラグアイの要求した電力料金の引き上げを呑んで、国内を押さえた。
アルゼンチンとの自動車摩擦も乗り切り、キルチネルとの盟友関係を維持することに成功した。
チャベスが突出しても、南米全体の利益になる限り、それを影から支えた。(カナリヤと思えば腹も立たない)

これらの外交手腕にはなみなみならぬものがある。そしてそれらの判断が結果として、ブラジルの成長と繁栄をもたらしたとなれば、新興資本家階級としても歓迎せざるを得ないことになる。

この路線がチリやコロンビアの保守党政権にも少なからぬ影響を与えていることは間違いない。エルサルバドルのFMLN政権は明確にルーラ路線を目標に掲げている。

ブラジルの成長と発展を見る際には、ここがキーポイントとなるだろう。


人類を主体とすることと、諸個人を主体とすることでは、議論が違ってくる。諸個人(諸階級と言い換えたほうが良い)が人類へと回帰することは、主体放棄にはなるが、新たな主体の獲得でもある。

ということになるのだろうが、何か騙されているような気もする。

とりあえず、ネットにあった下記の論文の摘要を作ってみた。



ヘーゲル哲学に於ける自己意識の問題性

『精神の現象学』を手掛かりにして一

樋口善郎

1.哲学と必然性

哲学は諸対象の持っている必然的な結び付きを示す。

「哲学の内容は、生きた精神の領域そのもののうちで生み出される意識の世界、意識の外的及び内的世界の内容にほかならない」

しかしそれ以前に、諸対象はそれ自身必然的な結び付きを持っていなければならない。

人間の意識内容は「感情や直観や表象」などの形式を取って現われるため、これらの形式によって諸対象の本来持っているはずの必然性が覆い隠されている。

では、この必然性は一体どうやって捉えられるのだろうか。それは「思惟」である。これが「哲学固有の認識方法」である。(思惟は哲学者の仕事だということ)

思惟は「現象界の一見無秩序とも見える素材に向かって」いく。そしてそのなかに「確かな基準及び普遍的なもの」を認識する。さらに必然性や法則を認識する。(近世以降の経験諸科学がこれに該当する)

しかしこれらの一般的な思惟は不十分である。なぜなら一つには、これらの一般的思惟には「自由・精神・神」などの「無限的な対象」が含まれていないからであり、もう一つには経験諸科学の事実が「必然性の形式」を満足していないからである。

これらを満足させるのが「哲学的思惟」である。それは諸対象のなかに埋もれている必然性を捉え、それらの「本来の姿」を照らし出し、「自覚的な理性と現実との調和」を作り出す。(ここでヘーゲルは「現実」を、“存在しているが自覚されない理性”と述べている)


2.精神的財と自然的意識

「いまや世界史の歩みが、これまでの精神的財を内化(erinnern)し、新しい質的飛躍を遂げるような臨界点に立っている」 (精神現象学序論)

ここで言う“内化された精神的財”は、意識の自然本性を規定するものであるが、それは意識にとっての「非有機的自然」である。それは「精神的実体」ではあるが、有機化されていないがゆえに自覚されていない。

自然的意識は経験から始まる。経験とは、「直接的なもの」がその現実性の姿に於いて表現され、「意識の所有物」になるということである。経験された「直接的なもの」は、それまでは意識にとって未経験であったものであり、したがって疎遠な抽象的なものであった。

自然的意識は多くは不完全であり、「もっともらしい理由付け」の域を出ない。それは哲学的思惟以前の表象や経験諸科学的思惟と同質のものである。それは自分自身で作り出したさまざまな表象(理屈)によって自然本性との間に隔壁を立ててしまう。そのことによって自然本性が自分の自然本性であることを自覚できないでいる。

この「理屈をこねたがる思惟」は人間のあいだに根強くある。手を変え品を変え後から後から出てくる。だから意識が「直接的なもの」を自分の自然本性として自覚することは容易ではない。自然的意識は逐一それぞれの表象に足を止め、それぞれを自分の経験に照らして吟味していくことになる。


3.精神と自然的意識(主観)

この自然的意識の過程は個々人の中ではどう展開されているのだろうか。

個々人の自然的意識(主観)は、自分で作り出した表象(理屈)によって、自分自身の自然本性たる精神的実体(身体)を区別してしまうのだが、この作業の結果人間の精神は一方で意識として、他方でその対象たる精神的実体として分裂して存在するようになる。

自然的意識(主観)は、その経験に照らし合わせ、諸表象(理屈)を取り除き、自分の自然本性を精神的実体(身体)のなかに見出そうとする。

それは「精神」が、その実体の一部である主観の力によって、自己の分裂を再統一する過程ともとらえられる。

この再統一は、たんに「エデンの園」に戻ってしまうような再統一ではない。なぜなら、この過程を通じて自然的意識が精神的実体を自分の自然本性として知るからである。


とにかくはまず足慣らし、用語を覚えることから入らないと。

このセクションでは、経済学批判要綱との関連で言えば、

「精神」が、その実体の一部である主観の力によって、自己の分裂を再統一する過程

というあたりがキーワードになってくるだろう。

赤旗の労働面に以下の記事が掲載された。
要約紹介しようと思ったが、記事が非常に良くまとまっていて、まったく無駄がない。
しかたがないので、そのままコピーして転載する。

“生保論争”は、こうした切り口から反撃する必要があるという見本のような文章だ。

http://livedoor.blogimg.jp/shosuzki/imgs/2/f/2f1052a8.jpg

一日中、マルクスの言葉が気になっていた。
「個別労働は、資本に包摂された具体的有用労働ではなく、直接に価値生み労働と措定されることにより、疎外を免れることになる」という一節である。

おそらくマルクスにも分かっていたわけではなく、ただ「ヘーゲルの論理を突き詰めればこうなるはずだ」という強烈な予感のみがあったのだろうと思うが、この、いわば「主客の再逆転」みたいな論理が、どのような形態をとるのか、150年後の我々にもいまだに分からない。

ただうっすらと分かるのは、主語が逆転するのだろうということだ。諸個人は主体であることをやめる必要があるということだ。

マルクスの説いているのは、「神への合体」に他ならない。人間は神と合体することによって疎外を免れることができる。この場合、主体は神だ。

では労働の疎外という状況を克服する主語は誰なのか。もちろん資本家ではないが、あれこれの政治家でもなく、「生きた労働」の担い手である労働者自らですらない。
それは生産力である。有り余る段階にまで到達した生産能力である。それも現存する生産力ではなく、人類史の過去にまでさかのぼる対象化された労働の総体、「死んだ労働」の総体なのである。

発展する生産力は、一定の段階において資本主義を欲した。しかしそれはさらなる段階においては、資本主義を欲しなくなる。その代わりに諸個人の直接の合体を欲するようになる。

ここにヘーゲル左派出身者としてのマルクスの思いがあるのではないか。
この点はもう少し詰めてみたい。

草稿集②p706

要綱のなかでも、さらに補足・ノートの場所なので、ひどい文章だ。まずは句読点をつけてメリハリをはっきりさせる。

生産諸力が発展すると、労働のための諸条件が生きた労働と比べて増大しなければならない。ここで言う労働条件とは原料や設備などのことである。すなわち過去の労働の生産物(対象化された労働)である。
これは厳密に言えば同義反復である。
なぜなら、ある労働の生産性が向上するというのは、ひとつの生産物に加えられる直接的労働の量が減少するということだからである。
逆に言えば、社会的活動の結果として作られた生産物が、もう一方の社会的活動である「生きた労働」の身体をさらに強化するからである。ヘーゲル風に言えば、対象化された過去の労働が、現在の主体的な労働に合体していくからである。

しかし資本の立場からはそうは見ない。
資本の立場からは、労働は賃労働である。
その賃労働に対して、施設・設備が巨大化し、原料が大量化することは、生産過程において「生きた労働」に頼る部分がますます小さくなっていくということである。労働者に「働いてもらう」立場から、労働者を「あごで使う」立場に移行するのだ。
それらの労働条件は「生きた労働」から自立し、「疎遠かつ圧倒的な力」となって労働に立ち向かうようになる。

ここで大事なのは、「生きた労働」に対置されたこの膨大な力が、労働者にではなく資本に属しているということである。だからそこには「転倒」が生じる。「生きた労働」の過程は、他人への譲渡の過程である。資本の立場から見れば、それは他人の労働の取得である。

ここから、疎外の止揚に向けた「信仰告白」へと移行する。

しかしこの「転倒」は、必然性はあるが、人類史の一こまに過ぎない。ある一定の生産力の発展段階にとっての必然性に過ぎない。それは決して生産の絶対的必然性ではなく、ある種の過渡的段階の持つ必然性である。
絶対的な必然性は、この過程の土台や形態がいずれ止揚されるということである。

ブルジョア経済学者たちは、社会の生産力が施設や設備などの形で固定化されていくことの必然性を強調する。それは正しい。しかしその必然性が、これらの生産力が「生きた労働」から疎外される必然性と切り離すことができないと考える。それは誤りだ。

このあと、論理が突然飛躍する。

「生きた労働」は個別に見れば、直接的・具体的な労働である。しかし(資本主義の次に来る社会では)労働の持つ、このような直接的な性格は止揚される。諸個人の活動は直接的に一般化され、社会的な活動として措定される。(思いが先走って何を言っているのか分からない。今日はもう仕事止めて、飲みに行ったほうがいいでしょう)

ところが、ここからがマルクスの粘着質。さらに十行ほど訳の分からないせりふが続く。
分からないながらに、気になる文章。

生産の対象的諸契機は所有物として、有機的な社会的身体として措定されるのであって、諸個人はこの社会的身体の中で社会的諸個体として再生産される。

ということなので、諸個人が生産設備やその他の社会的富を取り返すのではなく、諸個人が「有機的な社会的身体」に自らを併合することによって疎外は解消されるということになる。

ありていに言えば、これは「出家」と同じではないか? これはヘーゲル左派シュトラウスも真っ青の主観的観念論ではないか?


下記の文章は、6年前、60歳になったときに書いたものです。もう一度、自らを奮い立たせなければなりません。

2006.3.09
 情勢分析には、現実の動きと傾向をもとにするsituation分析と、もう少し長い目で時代を見るtrend分析があ ります。時代の基本が少子高齢化社会であることは間違いないでしょう。それは単純に考えればGDPの低下であり、総体としての貧困化です。社会心理学的に 見れば意欲や欲望の低下です。
 しかしそればかりでは困るわけで、高齢化社会なりに社会的活力を維持しなければなりません。これは若い人たちにとっての問題ではなく、実はこれから高齢者の仲間入りをする我々の問題なのです。
  日本の社会における強者たちは、「国際競争力を維持し企業活力を高めるためには、いっそうの富と資源の集中が必要だ」と考えています。それが「格差は当 然」の発言を呼び、社会保障の改悪に次ぐ改悪をもたらしています。しかし、この考えには無理があります。それは一時的に企業の意欲を強めたとしても、国内 需要の裾野をさらに冷え込ませ、社会全体の活力を弱める結果にしかならないからです。
 あるべき日本型高齢社会の基本目標として「国際競争力と企業活力の維持」を掲げるのには、そもそも無理があるのです。身の丈にあわせて「持続可能な発展」を追求していくべきです。そのことを国民的理解としなければなりません。
  目指すべき「日本型少子高齢化社会」の基本は、バランスのとれた貿易・財政と、均等社会の維持にあります。GDP成長率ゼロ、貿易黒字ゼロ、資本黒字ゼ ロ、財政赤字ゼロが数字目標となります。そのために大企業に対する社会的規制と裾野型産業の育成、行政による再分配機能の強化を強めなければなりません。
  同時にこの時代には終わりがあること、やがて出生と死亡のバランスが回復し、着実な増勢に向かう時期が来ることも理解しなければなりません。それまでの数 十年にわたる「移行の時代」をいかに作り上げていくのか、いかなる「日本型少子高齢化社会」を実現するのか、それこそが時代の要請する課題です。
 それはなによりも、自らが高齢者となって行く「われらが世代」の課題でもあります。「情勢負け」せず、当事者世代として旗印も掲げ、声も上げ、自らの社会活動のあり方を提示していくことがだいじです。

私には以下のように思われる。
利潤率低下によって恐慌がもたらされるという論理は、過剰生産によって恐慌がもたらされるということの裏返しである。率が下がるのを数で稼ぐためには、さらなる生産しかないからである。

それはそれとして、利潤率の低下を防ぐための手段を資本家階級は開発して来た。マルクスはそれらを列挙している。

①直接的生産の動因としては役立たない固定資本への転化(インフラ整備などのことか?)
②資本の一大部分の不生産的な浪費(莫大な広告費・交際費などのことか?)
③①と②によってもたらされる不生産部門の「対抗価値」の増大。たとえば建設産業、サービス産業、情報産業など。

これらの記述はマルクスの着想ではなく、「俗流経済学者」の論文の受け売りである。
ただ③については、さすがマルクスというところがある。というよりさすがに資本主義の先進国イギリス、明治維新の前夜にそこまで進んでいたのだということか。


「女性の目・アラカルト」というコラムが国際面に連載されている。
今回はエジプトから湯浅さんというかたが寄稿しているが、これが面白い。

中東では現地人と仲良くなるためにはお茶を飲めとよく言われている。
しかしお茶以上にエジプト人と仲良くなる方法を見つけた。それは一緒に昼寝をすること。
ただたんに同じ部屋で昼寝をしただけなのに、眼が覚めたとき、同じ空間で同じ時間を共有したというつながりが生まれます。

ここまでは、「うん、ありだな」という程度、学生時代の「合宿」なんて、そんな感じだ。しかし湯浅さんはそこからさらに話を進める。

寝るという行為はもしかしたら、集団行動なのかもしれません。だから一つ屋根の下で生活している家族には絆があるのかもしれません。

この指摘はグレイトな内容をふくんでいると思う。人類史や社会形成史の根幹にも迫っている感じがする。


寝るというのは無防備になるということだ。それを集団化することで乗り切ってきたのではないか。それが土地への定着化と家屋の分離により、「家」が生まれ、「家」単位への人々の分離と、「家」が密集することによる共同体への結合が進んでいった。(大都会への集中は資本の論理によるものであり、アノミー化であり、液状化である。共同体の論理によるものではない。だから安全の質は逆に低下してしまうし、夜もおちおち眠れなくなる)

その駆動力となったのが、眠る→寝るという行為であったのかもしれない。(人は無防備になるときに正反対の二つの行動をとる。たとえば排泄とかセックスとかは隠れるようにひっそりと行われるのが通例だ。入浴は日本では銭湯や温泉など例外的に開放的ではあるが…)

これまでは生産活動が人類の集団化を形成する規範と見られてきた。エンゲルスの「家族・私有財産」はその典型だ。しかしホモ・サピエンスが家族や共同体へと編成されていく過程は、生産活動からだけでは説明しきれないものをふくんでいる。(“労働”の度外れの強調はエンゲルスの一貫した傾向である)

40年近くなるが、子供が生まれた頃、「遊ぶ」ことの意義を考えてみたことがある。「遊ぶ」といえば、ホイジンガーの「ホモ・ルーデンス」が有名だが、実はマルクスも「余暇活動」にこそ人間の本質があると考えていた。

マルクスが社会主義社会のキーワードとして、「結合した労働」と「アソシエーション」を挙げているのも、この延長線上にとらえることが出来るだろう。

ただ、労働といい遊びといい、いずれも活動であり実践である。そこへいくと「寝る」とか「眠る」というのは、非活動そのものである。(生理学上は「睡眠行動」という用語もあるが…)

寝るという行動は、たとえば「三年寝た郎」とか「はぐれ雲」のように、“なにもしない”ことと思われてきた。しかし“なにもしない”至福の時間を確保するためには、人間はさまざまな“寝るための集団行動”を積み重ねなければならないのだ。

ある意味で人間の生活にとって“なにもしない”ことの大切さを、この文章は浮かび上がらせてくれたと思う。

昔から思うのだが、フロイトというのは精神医学から見れば異端に過ぎない。
たぶん、何にも診断・治療手段がなった頃の、精神病の「意味論」的解釈の一つだったのではないか。私は、「病気は何かの祟りだ」という「呪術」に近いと思っている。
しかし書店に行くと、あいも変わらずその手の本が並んでいる。しかも医学書コーナーではなく哲学・思想の書棚である。フロイトは精神医学論としてではなく、「人間論」として読まれているようである。学生時代のベストセラーはフロムの「自由からの闘争」だったし、その後はライヒでありマルクーゼだった。いわゆるフロイト左派である。
昭和40年というから、もう50年近くも昔の話だが、北大教養部の心理学の講義で最初に聞かされたのがフロイトだった。それから4年後に精神医学の講義が始まったが、そこではフロイトのフの字もなかった。
「お医者さんとして、フロイドについてどう思われますか」と聞かれても、「まぁあれはあれでいいんじゃないですか」と応えるしかないが、心の底では「そんなこと言わずにしっかりくすり飲めよ」と舌打ちしている。

利潤率低下法則と労働価値論という論文を鈴木明さんという人が書いている。

剰余労働がゼロになっても利潤は存在しうるという禅問答みたいなことをやっている。オートメーションでボタンさえ押せば製品がざくざくと出てくるという場面を想像しているようだ。

これでは商品にならない。たとえば究極のオートメーションというのは野山に自生する柿とか夏みかんとか山菜などと同じであり、元は誰かが植えて販売していたものかもしれないが、現在は商品ではない。

それを「道の駅」まで持ってくるという「労働」を加えれば、それは商品となり利潤を生む。

もう一つ、剰余価値ゼロまでいく商品というのは、現実の商業世界ではありえないことだ。それは無限大に生産しても、需要が無限に続くことを前提としている。しかしその前に需要が飽和するはずだ。だから業態として成り立たなくなる。

数理経済学というのは、そういうことを考えなくてもいいんだ、ということのようだが…


マルクスはこのことを強調して、利潤率の低下が生産過剰による恐慌へ結びつくと考えたのだが、さすがにそれは強弁だと思う。
ある製品の普及は絶えず改良を生み出し、新たな、より高度な欲望を生み出す。それは旧製品の淘汰をもたらし、いまの設備をパアにする。
マルクスの言葉を借りれば、消費(と余暇)が新たな欲望を生産するのだから、
そして欲望の生産こそが生産力の発展の最大の推進力なのだから、それを抑圧するようなシステムを作り出すことが、資本主義の最大の問題だろう。


大門議員の質問からもう一つのグラフ。
http://livedoor.blogimg.jp/shosuzki/imgs/f/f/ff8098b6.jpg

これはすげぇ説得力のある絵だ。内部留保をめぐるすべての擁護論は、この一枚の絵で吹っ飛ぶ。

出所資料を見ると、相当苦労して作ったものだとわかる。これだけの資料を駆使しているのなら、もっといろいろなグラフが作れるのではないだろうか。
ただ、いろいろいじると二次資料になってしまうので、もっと有無を言わせぬ官庁統計の一次資料で証明できるといいが。

それはそれとして、この5年間で日本の手元資金が2兆から3兆ドルへと1.5倍化していることが分かる。これは円レートの上昇幅とほぼ一致する。これは日本の大企業が円高の被害をまったく受けていないことを示す。被害はすべて国民へと転嫁したことになる。

もう一つ、健全な経済運営を行うにあたっては、現在の手元資金は不必要だということが分かる。
日本の手元資金は英・仏・独三国を合わせたより多い。しかし手元資金が日本の1/4しかないドイツの経済は、日本の経済パフォーマンスよりはるかに上回っている。むしろ過度な手元資金が長期の経済不況に関連していることがうかがわれる。

息子は「年寄りのおかげで我々はひどい生活をすることになる」と、文句を言う。
「誰のおかげで大きくなったんだ」といいたい。
俺たちの時代は親の世代に世話になったわけではない。むしろいい迷惑をかけられている。
俺たちが子供の世代に迷惑かけたか?

俺たちがもらう年金は、俺たちがかけたもので俺たちのカネだ。なんとなれば、後30年で使い切ってしまえばよい。
お前たちはお前たちで貯めればいいだけの話だ。お前たちの掛け金に手出しするつもりはない。

そのうえでだ。
お前たちの掛け金は少ない。それは三つ理由がある。
ひとつは人数が少ないからだ。これはどうしようもない。しかしもらう人もその分少ないのだから、出入りはチャラだ。
ふたつめには払える人が少ないからだ。これは非正規雇用ばかり増えて、収入が減ってしまったからだ。
三つ目、これが一番重要なんだが、払える人が払わないからだ。企業が掛け金の半分払わなければならないのに、それを払わないからだ。
不公平、不公平というが、これが一番不公平ではないか。
国の借金が増えているというが、中身を見れば企業が社会保障の掛け金を減らした分が、そのまま借金になっているのは明らかだ。

要するに、悪いのは俺たちじゃないということだ。きついこというようだが、それを許しているお前たちが悪い野田。俺たちは闘ったが、お前たちは闘わずに泣き言垂れるばかりだ。

このままでは、お前たちの子供たちから、「お前らのせいでひどい国になった」といわれるぞ。

毎回、大門議員の質問は楽しみで、かならずサプライズを用意してくれる。
今回は大企業の法人税率の実態を数字にしてくれた。
これまでも似たような数字が明らかにされていたが、今回は景気動向の影響を排除するため、過去9年間の総負担率を算出している。かなり有無を言わせない資料だ。
1342778998

とくに商社系企業が軒並み10%前後なのには驚く。
法定の税率が40%なので、払うべき金の75%を“ネコババ”していることになる。
いくら「御国のため」とはいえ、これでは世の中に顔向けできないと思うが、いかがか?

それにしても、法人税の引き下げから始まって、不正規雇用の拡大、社会保障の企業負担の減額、証券優遇税制、海外輸出戻し税、トリガー税率の引き下げ、海外配当への非課税、研究開発減税などよくもまぁやってきたものだ。

おかげで大企業の海外競争力は維持されたかもしれないが、それは庶民の犠牲の上に粉飾された偽りの競争力であり、日本という国の競争力は著しく削がれて来たといえる。いい加減「日本=大企業」という呪縛から解き放たれるべきではないだろうか。

大企業に働く人たちは、こう言われるといやな気持ちになるかもしれないが、「こういうタケノコ生活いつまで続けられるんですか」という質問には、やはり真摯に向き合ってもらいたいと思う。

経済学批判要綱 (草稿集②_557)

ものすごい自画自賛が書き連ねられている。「生産力が発展すればするほど、利潤率は低下する」という法則だ。
それほどの話かいな、とも思わないでもない。

「資本が大きくなれば、総利潤は増えても増え方は減少する」ということで、剰余価値=利潤とすれば、これはごく自然な結論だ。オートメーションでロボットが導入されたりすれば、商品を作るのに必要な労働力は少なくて済むわけだから、一つの商品あたりの利潤も減る。要するに安くなるということだ。

安くても大量生産してそれが売れるなら、総体としては利潤は増える。ただ需要が一段落すれば値崩れが起きる可能性もある。新製品の開発で陳旧化してしまった商品なら、モロにアウトだ。

そういう単純な話だと思うが、なぜかマルクスは肩に力を入れる。

これは、あらゆる点で、近代の経済学の最も重要な法則であり、そしてもっとも困難な諸関係を理解するための最も本質的な法則である。それは歴史的見地から見て、最も重要な法則である。それは、その単純さにもかかわらず、これまで決して理解されたことがなく、まして意識的に言い表されたこともない法則である。

ついで資本の生産力の発展の諸相をるる述べた後、

生産諸力の発展がある一定の点にまで達すると、資本の自己増殖を措定するのではなく、それを止揚する、ということである。すなわち資本関係が労働の生産諸力の発展にとっての制限となる。そして生産の桎梏として必然的に脱ぎ捨てられる。

と話が進んでいく。

ここは「ちょっと待ってよ」と言いたくなる個所だ。これでは資本主義自動崩壊論ではないか。少し勉強して見ないと、なんとも判断しかねる。

要綱② 552ページ
果実をもたらすものとしての資本 流通過程における資本の姿態

資本は、生産と流通との統一として措定されている。
資本は、(生産という観点からは)自己を永遠に再生産し続ける価値であるが、(流通という観点からは)価値を生む価値としても措定されている。

流通過程における交換の運動は、資本自らの運動がもたらすものである。それは生産物の商品化という形をとる。そのなかで資本は新たな価値を生み出す。
女性は母親になるべく根拠を当てられた性である。女性は子供に対して母親として振舞う。それと同じように資本は価値を生産するものとして根拠付けられた価値である。資本は剰余価値に対して自らが生み出した価値として相対する。

農業だと収穫は年に一度なので、生産過程と剰余価値の関係はすっきりしているが、工業では生産過程の間隔は千差万別であり、その間に絶えず流通過程が挿入されてくるため、剰余価値の姿は見えにくくなっている。剰余価値をふくむ資本の姿態は、流通過程では異なっているからである。

剰余価値はもはや、資本が生きた労働に対して単純に直接的に関わることによって生み出されたものとしては現れない

のである。

資本はあらたに生産された価値を剰余価値によって測るのではなく、自己自身によって測る。今日の自己自身から昨日の自己自身を差し引いたものは利潤として表わされることになる。

「永遠の時相」ではなく、「資本の時相」のもとでのみ、剰余価値は利潤なのである。女性が嫁となり母となるように、資本は価値の源となり、子供がその息子となるように剰余価値は利潤となるのである。


このニュースは見逃していたようだ。9日付の赤旗。

 多くの国民が連日、関西電力大飯原発(福井県おおい町)の再稼働に強い反対の声をあげる中、関西電力は再稼働を強行、5日には同原発3号機が発電を再開、送電も始まり、9日にはフル稼働する見通しです。

 こうした中、“フル稼働すれば、代わりに燃料費が高い火力発電所を8基止める”と一部で報道され、国民から大きな怒りがあがっています。

 関西電力の「需給予想」によると、9日の需要を2080万キロワットと予測。それにたいする総供給量は、大飯3号機の再稼働で118万キロワット を得ることができ、火力や水力などを合わせて2434万キロワットになると試算。電気使用率は85%にとどまり、「安定」としています。

 このため、現在もっとも供給力の大きい火力発電(9日の試算は1088万キロワット)を一部停止しても「安定」供給が可能という計算です。


一部の報道とはどこだろう。関西電力は反論しているのだろうか?

ひこぱぱ

というページに根拠が載っている

■関電「でんき予報」
http://www.kepco.co.jp/setsuden/graph/index.html
ここの使用率のすぐ上の「供給力に関するお知らせ」に電力の内訳が書いてあります。
●7月4日
ピーク供給力=2495
原子力=0
火力=1245
●7月5日
供給=2352
原=35
火=1125
●7月6日
供給=2357
原=59
火=1125
●7月7日
供給=2193
原=89
火=969
この日より、停止火力発電所データ登場
●7月8日
供給=2170
原=118
火=766
7月5日に関電に電話して「原発が稼働しているのに総供給量が減っているのはなぜか?なぜ、火力が下がったのか?」と聞きましたら、京都支店の山本(男性)さんは「ご承知のように火力発電所の排水口にクラゲの大群がいて、能力が落ちている」との返事でした。
私が「舞鶴、姫路、堺とか全部の海にクラゲがいるのですか?」と聞いても、山本「そうです、なぜかよく分かりません」と答えました。
7日からの公開データをみたら、軒並み、意図的に火力発電を下げているので、山本さんはウソツキです。
マスコミの方にお願いします。
「原発稼働したので、火力を下げて総量調整をしている」「火力が下がったのはクラゲのせいだ」とウソを言っている。この事実を、赤旗さん以外でもマスコミが暴いて欲しいです。
結局、関電は、火力の燃料費を抑えたいだけ。「計画停電」なんて、全く必要ない!!
こんなに消費者をあざむく会社が、電気というライフラインを握っているなんて。
皆さん、もっと怒るべきだと思います。


ということで、一気に32%も発電量を減らした。これは点検のレベルを超えている。8基というのは誇張ではない。

この減らした時期に、2012年7月6日の11時~12時の電力使用率が関西電力管内でおよそ90.4%に達し、節電要請期間に入ってから初めての90%超えだ、などと危機感をあおっていた。


一部報道というのは日経のことだった。
2012年07月08日 | 原発ゼロ社会を目指して
からの重複引用

関電 節電功奏し当面は需給安定 要請から一週間

日本経済新聞 2012年7月7日

(前略)

 6日は91%まで上がり、今夏の節電期間としては初めて需給状況が「やや厳しい」ことを示す注意信号がともった。
 
 要因の一つは関電がコストのかかる石油火力発電所を数基止めていることだ。当初は今週は2基を止める予定だったが、安定した需給状況を踏まえて徐々に停止数を拡大。6日は6基の石油火力を止めた。6基の発電量は約300万キロワットで、原発3基分に相当する。
 
  計画的に止めている石油火力はいつでも再稼働できるが、日々の供給力からは差し引かれる。結果として使用率は高めの数字になってしまうが、 潜在的な供給力にはかなりの余裕がある。トラブルで停止している液化天然ガス(LNG)火力の姫路第2発電所4号機(兵庫県姫路市、出力45万キロワット)も1週間ほどで復旧する見通し。
 
 さらに9日未明にも大飯原発3号機(福井県おおい町)がフル稼働すれば、118万キロワットの供給力が上積みされる。
 
  関電が6日発表した9~13日の予想によると需要は2080万~2170万キロワット。対して供給力は大飯原発3号機のフル稼働も織り込ん で2400万キロワット台を確保できるとしている。電力の使用率は85~88%で、需給状況は「安定」との見通しだ。しかも、この期間は石油火力を7基停止する予定。約340万キロワットもの余力を残している。


外国子会社合算税制における新しい概念について

税務大学校研究部の保井教授が書いた論文に以下のくだりがある。

外国子会社合算税制の目的は、租税回避の防止に他ならない。租税回避とは我が国の課税 ベースの侵食であり、具体的には、軽課税国に設立した外国子会社を利用して、我が国においても運用し得る資産をそこで経済合理性なく運用することで当該資 産に係る所得を付け替え、また、実体のない外国子会社やその事業活動に経済合理性のない外国子会社を利用して所得を稼得することにより、我が国の課税ベー スが侵食されることとなることを防止することであると考えられる。

難しい用語がたくさん並ぶが、租税回避とは脱税のことであり、タックスヘイヴンを利用してさらに儲けて、所得を隠すことである。

合算税制というのはそれも企業の収益に付け加えて、脱税を防止することだ。

しかるに

我が国企業の連結所得に対する法人税の実効税率は、これまでは配当すれば我が国の法人税実効税率に近似せざるを得なかったが、外国子会社の所得については我が国の法人税実効税率に関係なくその所在地国における課税で終了することとなったことから、我が国の法人税実効税率よりも低い国で課税が終了する所得を増加させることにより、我が国企業の連結所得に対する法人税実効税率を引き下げることが可能となる。

恐ろしく難しい文章だが、噛み砕けば以下のようになると思う。

今度の改正では、20%以上の法人税がかかる国(たとえば中国)で税金を払ったら、それで終わり、日本ではいっさい払わなくて良いという事になる。

日本の法人税率の半分だ。これは企業にとって大変な誘惑である。

トリガー税率は、英国では法人税率27%に対し約20%とされ、米国では法人税の最高税 率35%に対し31.5%(最高税率の90%)であることと比較すると、現行の我が国のトリガー税率20%は国内実効税率の約半分となっており、国内実効 税率とトリガー税率との開きは約20%と大きい。

これが非合法の脱税まがいでなく堂々と通用することになった。こんなおいしい話があるだろうか。

もう一つの抜け道

20%以下の国(たとえばケイマン)なら、このほかもう一つの抜け道がある。海外配当への課税ゼロという法律だ。だからゲンナマで日本に持ってくれば20%の税金がかかるが、このカネで債券を買ってその配当を取得するという方法なら税金はただになる。

それどころか、日本で儲けたカネを子会社に「投資」してその配当をもらうことにすれば、利益隠しの手段としても有効だ。

保井教授は、

国際租税制度は、平成21年度改正で外国子会社配当益金不算入制度が導入された。この導入により、資産を軽課税の外国子会社に移転し当該資産に係る所得を配当として非課税で還流するといった誘因が高まった。

と悔しさをにじませている。

なお海外配当非課税制度については下記を参照されたい。

海外配当への非課税

保井教授は

適用除外基準を満 たす特定外国子会社に所得を付け替えるような租税回避行為を防止するため、新たに一定の資産運用的な所得を本制度の対象とした。剰余金の配当、債券の利子、特許権等の使用料、船舶又は航空機の貸付けの 対価等といった資産性所得を合算課税の対象に取り込んだ。

と「新しい概念」について書いているが、正直むなしい。こういうのをごまめの歯軋りというのだろう。とはいうものの、現場の皆さん、がんばってください。あなた方のガンバリが、辛うじてこの国を支えている。

大門議員の質問以来しばらく報道されていなかった、タックスヘイヴン問題が久しぶりに掲載された。

丸井さんという国会議員団事務局員の署名入り解説。
これがえらく難しい。

狭いコラムの枠内にぎゅっと詰め込んであるので、すこし水で薄めて読みやすくしようと思う。

タックスヘイヴンとは税金天国の意味。

なぜ税金天国なのか、どうすれば税金を逃れられるかという手口がまず分からないといけない。

①たとえばケイマンに子会社を作り、そこに投資する。この段階では税は発生しない。
②ケイマンの子会社がたとえば中国の孫会社に投資する。この段階でも税は発生しない。
③孫会社が利益を上げると、中国に対し税が発生する。これは普通に払う。
④孫会社は残余の利益をケイマンの子会社に送金する。これは税金はかからない。
⑤ケイマンの子会社は送金を受け取ることにより利益が発生する。ただしこの利益に対するケイマンの税はきわめて安い。タックスヘイヴンたるゆえんである。
⑥この子会社の利益は、さらに日本に送金され親会社の利益となる。親会社には日本政府に対して納税義務が発生する。ただし中国政府とケイマン政府に対して支払った税金分は差し引かれる。

しかしこれではケイマンに子会社を作った意味がない。そこでその税率を負けろという話になる。

これがトリガー税率と呼ばれるものだ。そもそも変な税率なのである。

単純に考えれば、子会社と親会社が連結決算して、利益に見合う法人税を払えば済む話だが、実際には法人税より10%も安い25%で設定されている。
だから、ケイマンに子会社を作るだけで企業は10%節税できることになる。

これがありていに言うとトリガー税率の中身なのだが、話がややこしいのは、この10%も安い税率でさえ、税務当局ががんばった結果の税率らしいということだ。(当面、記事を読んでもこのくらいしか分からない)

最初はタックスヘイヴンはやり放題だったようだ。国内にカネを持ち込んでも、「税金はあちらで払っていますから」と開き直れたようだ。こんなにおいしい節税法はない。

記事によると、

子会社がタックスヘイヴンにあるかないかを判定する基準となるのが「トリガー税率」と呼ばれるものです。

海外子会社の所在国に払う税率が、この税率よりも低いと、「タックスヘイヴン対策税制」の適用を受けます。

ということだ。ということは、たとえばケイマンの税率が20%だとすると、トリガー税率の適用対象となるから、25-20=5%の上乗せ納税を迫られることになる。だから実際には税率25%となるわけだ。
(そう読んだが、間違いかもしれない)

じつはこの25%というトリガー税率、菅内閣時代に20%にまで引き下げられている。理由はアジア諸国の法人税率との関係が複雑だからということになっているようだが、引き下げられたことは間違いない。

海外進出企業は法人税引き下げで儲け、さらにトリガー税率引き下げで儲けているのである。これでは海外進出を政府がそそのかしているようなものだ。そして減税で開いた穴を消費税で埋めようというのだから、亡国政権と呼ばれてもしょうがない。

参考までに、アメリカのトリガー税率は31.5%だそうだ。

文芸欄に昆虫学者の吉村仁さんのインタビューがあって、
「絶滅回避が進化の第一原理」と書いてあった。
面白いですね。

従来、競争で「強い個体」が選択されることが生物進化を推し進めると考えられてきた。ダーウィンの「適者生存」は、俗流学者により「強者生存」と読み替えられてきたのではないか。

吉村氏はこれに対し、「絶滅回避」の適応こそが進化の「第一原理」ではないかと提唱します。

「試験管の中で培養されるショウジョウバエのように、環境変化も絶滅もない条件なら“強い固体”の子孫が生き残ります。しかし実際の自然のように、環境変化も絶滅もある条件では、どの環境でも“そこそこ”適応し、他者と共存するものが、生き残るんです」

「人間も長期的な“絶滅回避”の条件を満たしたから、現在大繫栄している。ところが今度は人間同士の競争が強まり、“絶滅回避”が弱まっています。…人類全体が危ない」

なるほど、これは「社会ダーウィニズムに対する有力な反論となりうるかもしれない。“強者”生存ではなくて、“適者”生存なのだが、“適者”というのは、いい加減なところがなくてはならないのである。

強者は他者を排除するが、適者は他者と共存する
とも言える

絶滅回避のためには、“不適でなきゃぁいいだろう”位の“いい加減さ”が大事ということだ。ひょっとすると、“いい加減さ”を拒否するような“強者”は、“適者”ではないのかもしれない。


このことに関連して明記しておかなくてはならないのは、アメリカはもはや、中国の膨張主義に対して関与するつもりはないということである。アメリカの目標は、少なくとも東アジアにおいては国益の追求のみである。

「日米同盟」は役に立たない。中国はこのことを見切っている。日本は「虎の威を借りる狐」として東アジアに君臨してきたが、アメリカは虎ではなくなった。

日本に出来ることは、東アジアに平和の網をかぶせ、多国間交渉の中で中国に自制を促すほかない。

これからの東アジアは中国という超大国と、日本・韓国・東南アジアという周辺諸国の調和・均衡の構造に移行する。日本が依拠するのはチェンマイ・イニシアチブを頂点とするASEAN+3経済共同体の強固な枠組みである。

そのなかで、経済的には、中国とそれ以外の諸国による競争的共存体制がしばらく続くことになるだろう。
ただ競争的共存が永続するわけではない。中国内部には確固とした多国間主義の潮流が存在するし、早晩、彼らが政治の主流に復帰するだろうと確信している。

13日付の人民日報が戦争を煽るかのような論評を掲載した。

尖閣諸島は、「国家の核心的利益」にかかわっており、「中国は半歩たりとも退くことはない」
すでに日本メディアは「戦争」の憶測を始めている。中国社会でも「日本に反撃せよ」などの発言が出ている。
尖閣諸島問題が制御できなくなる危険が絶対にないとはいえない。

中国は、尖閣諸島を日中二国間の問題のように扱っているが、その背景に東シナ海と南シナ海をみずからの領海としようとする野望が働いていることは言うまでもない。
しかも中国共産党の機関紙に掲載されるということは、これらの勢力が中国権力内部で大きな力を獲得したことを意味する。

この勢力が鄧小平の路線を受け継ぐものであるとすれば、かつてベトナムに武力攻撃を加えた記憶を呼び覚まさせずにはおかない。




「党創立90周年に寄せて」という有名人祝辞集の中で、映画監督の降旗康男さんが良い発言を行っている。

日本共産党には実績があります。…自治体で築いてきた豊かな実績を知らせることが大事だと思います。
その道を共産党が国の段階でも実現していくということを分かってもらうのです。

降旗さんは党員首長のことを言っているのだが、私は私たちの時代に実現した革新統一と革新自治体の経験を押し出す必要があると思う。

70年代革新自治体の、たとえば「十大実績」みたいな形で押し出し、これと今の政治を、とくに経済効果の面から対比するのは、争点を鮮明にするのに役に立つだろう。

公害廃絶、老人医療無料化、義務教育無償化…
これらの運動が、結果として日本の高度成長を支え、「一億総中流時代」の幕開けとなった。

これらはいま、すべて経団連の目の敵とされ、攻撃の対象となっている。その結果が格差の拡大と貧困・失業の増大、長期の「円高不況」を呼んでいる。

これだけでも結論は明らかだ。
「三町目の夕陽」の時代を懐かしむのではなく、経団連の手から、それを取り戻すのだ。

赤旗によると
米軍当局は、今年4月のモロッコでのオスプレイ墜落事故の調査結果を発表した。

まず結論としては「パイロットによる人為的なミスが原因」とした。
ただこの「人為的ミス」の内容はどうも人為的というには説得力に乏しい。

事故機は墜落時、経験の比較的浅い副操縦士が操作。
空中静止状態から水平飛行に移ろうとした際、マニュアルに定められた限界を超え可動式エンジンと回転翼を前方に傾けた。
このとき後方から追い風を受けた。
この二つが絡み合い、体勢を立て直せないまま機首から地上に落ちました。

ということで、はっきりしたのは、副操縦士の操縦に“致命的な過ち”はないこと、フェイルセーフがまったく働いていないということだ。

当然最初は誰でも初心者なので、この“人為的ミス”が続発する可能性は十分にある。
とくに、これまで水平から垂直への移行時の危険が指摘されてきたが、これは離陸時の問題で、民家に取り囲まれた普天間基地というシチュエーションからしてはるかに危険な事故だ。

悪いことは言わない、よしたほうがいい。これで事故が起きたら、当事者としては責任のとりようがない。

久しぶりにスティグリッツが発言した。ユーロ圏内先進国の態度に腹を立てて、「もうおしまいだ!」とけつをまくってから半年以上経つ。

例によってきわめてクリアカット、快刀乱麻を断つの趣がある。共同債構想からさらに一歩踏み込んで、「共通財務省」構想を打ち出していることが目に付く。

つまり、共同債などあれこれの形態ではなく、各国政府が歳入を増やすことがもっとも肝心な目標だといっている。その観点から、スペイン支援対策をブードゥー経済学 と批判する

2012年06月11日

[ニューヨーク 10日 ロイター] ジョセフ・スティグリッツが欧州連合(EU)によるスペインの銀行救済のための資金支援計画について、記者とのインタビューに答えたもの。

YOUTUBEで、彼のインタビューの模様を見たことがあるが、記者会見というよりは学生が講義を受けているような雰囲気だ。記者たちが食い入るような目つきでメモを取っているのが印象的だった。

1.スペイン支援策はブードゥー経済学だ。機能しない

ユーロ圏財務相会合は9日、銀行問題に絡むスペイン支援で合意。インタビューはこれに先立って実施された。

スティグリッツは支援策を批判して次のように述べた。

スペイン銀行(中央銀行)の報告によると、2011年のスペイン新発国債の主な買い手は中銀を含むスペインの銀行だった。

「スペイン政府がスペインの銀行を救済し、スペインの銀行がスペイン政府を救済する」相互扶助だ。こんなものは機能しない。

「これはブードゥー経済学(呪術的経済学)だ。現在もこれからも機能しない」

2.共通の金融システム創設に向けた議論を加速させるべき

スティグリッツは、

欧州はスペイン支援よりも共通の金融システム創設に向けた議論を加速させるべきだ。

景気が下降しているいま、欧州共通の金融システム無しで成長回復に向けた政策を持続的に実行することは不可能だ

と述べた。

3.火に油を注ぎながら防火壁を設けても意味がない

スティグリッツは長年、財政緊縮策への批判を展開している。

EUがこれまで実施してきた緊縮策は成長を抑制し債務を増やすだけだ。

「火に油を注ぎながら防火壁を設けても意味がない。根源的な問題、つまり成長を促進するという問題を直視する必要がある」

4.ドイツが最大の保証コストを支払い、最大の財源を提供すべき

ユーロ圏 は財政統合に向けた抜本改革を進めるべきだ。

何らかの形でユーロ圏共同債が発行されなければならない。

そのためには、最も富裕なドイツが最大の保証コストを支払い、公共投資についても最大の財源を提供すべきだ。

「ドイツは財政規律こそが強化策だと言い続けているが、それは完全に間違った判断だ」

5.共同債のほかにも策はある。それは共通財務省だ

ユーロ圏共同債構想は、機能し得る制度の1つであり、唯一の解決策ではない。

ほかにも策はあり、それは共通財務省だ。

最終的には「弱小国の景気が悪化した際に支援できるよう、欧州全体で歳入を増やす手段を整えなければならない」

6.ドイツは理解しないかもしれない

「ドイツは、ユーロ圏 解体が引き起こす代償と、ユーロ圏を存続させるコストのどちらを支払うことを望むのか、という問いかけに向き合わなければならなくなる。

私の考えでは、 ユーロ圏崩壊の方が維持よりもコストが高くつく。

彼らがそのことを理解するよう期待しているが、理解しないかもしれない。

これは去年10月と同じ論調で、いまだスティグリッツはペシミズムから脱却してはいないようだ。


ドルはアメリカの通貨であるが、アメリカ以外にも大量に流通している。これらをひっくるめてユーロダラーと呼んでいる。(いまはあまりこの言葉は使われないようだ。ユーロダラーでグーグルすると引っかかってくるのは70年代の論文ばかりである)

ユーロの名前はユーロ市場がヨーロッパで始まったためについたものである。東京であってもユーロなのである。

このドルの標準金利がLIBORということになる。したがって、ユーロダラーのことが分からないと、LIBORは理解できない(とくにアメリカとの関係)。

「ユーロダラー市場」は1950年代に誕生した。ソ連・東欧諸国などが、ドル預金の米国による凍結・没収を懸念し、欧州の銀行に預け替えたことがきっかけとされる。

70年代に入ると、ドルが兌換性を失い、変動相場制に移行した。

ヨーロッパは対米黒字を蓄積した。ユーロダラーの市場はそれまで4千億ドル程度のものが、70年代後半には1兆5000億ドル、さらにその十年後には5兆ドルという規模に拡大した。

1986年3月 英・米・日の中央銀行が協力して,外為市場の取引高を初めて調査。年間の取引総額は「実体経済」の15倍を上回る50兆ドルに達することが明らかとなる。また一日あたりの取引高はニューヨークが586億ドル,東京が480億ドルなのに対し、ロンドンは900億ドルと圧倒的な比重を占める。

ロンドンの「ユーロダラー市場」はその後も成長を続け、80年代後半には取引高が3000億ドルを超え、年間75兆ドルを扱うようになった。これは年間世界貿易の25倍に相当する。

世界のドル相場は、ロンドン市場のLIBORにより決定されるようになった。だからユーロダラーというよりはロンドンダラーあるいはシティーダラーと呼ぶほうが実態に即している。

ウィキペディアに書かれた次の一節は重要である。

ドルは、本来アメリカ国内の貨幣であり、米国内の貨幣需要を十分満たすドルが米国内に存在する。ユーロダラーはそれと別に存在し、世界金融市場を移動し続けているため、特定の国に著しい過剰流動性をもたらし、金融市場の混乱を招く元になっている。

つまりユーロダラーは実体経済には不要なあぶく銭であり、ドル市場に対して撹乱効果しか持たない。本質的に投機資本そのものなのである。

(もちろん各国において、ユーロダラーも当面の資金調達先のひとつとなっているのではあるが、ユーロダラーの上に発展した経済は、いったんことあれば砂上の楼閣に終わる。これはラテンアメリカの失われた十年で立証済みである)


ユーロ・ダラーは投機資本としての特徴を兼ね備えている。

①無担保の信用取引であること

旧社会主義諸国の隠し口座という出自からして、秘密性が強い。ゴルゴ13に出てくるスイスの秘密口座が大規模になったものという感じだ。

②無国籍のマネーであり、貨幣としての規制を受けないこと。

「ユーロカレンシー市場はもっとも自由で規制がない市場として、さまざまな金融商品が開発され、先進の金融技術が利用されている」ということで、先物、ジャンク債、空売り、ヘッジなどかなりやばい商品でもなんでもござれということ。

③無限の信用創造が可能なこと、(空手形OK)

資金運用形態が銀行預金から証券へと変化している。証券化(FX化)によって、ユーロカレンシー市場はさらなる“発展”をとげた。銀行は仲介業務にシフトするようになり、信用リスクから解放された。そのリスクは市場リスクに転換され取引参加者全体に分散した。

「みんなで渡れば怖くない」世界の出現である。彼らのなかに「世間の裏街道」を歩いている気分は皆無である。


不正操作はほとんど慣行化しており、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」状況だったと思われるが、そこに強引に突っ込んできたのがアメリカ政府だ。

バークレイズを屈服させたのはイギリス政府ではない。アメリカ司法省だ。屈服せざるを得ないような情報を握ったのであろう。

アメリカといえども、かのJPモルガンなど大手銀行が共犯関係にあり、連銀もどうやら怪しいとなると、それらとは別の力が働いていることになる。この辺の事情はどうもよく分からない。

アメリカはナンバーツー(会長)の首を取って幕を引きたかったようだが、さすがにこれではイギリス政府は納得しない。なぜならトップ(CEO)はアメリカ人であり、これでは国辱モノだからだ。

それでアメリカ人CEOも辞職することになったが、このアメリカ人CEOは物騒な最後っ屁を放った。中銀まで事件に巻き込もうというのである。

この辺の経過は、また稿を改めて…

LIBOR問題は金融業界にとってかなり深刻なので、いろいろ解説も多い。まずは不正操作の手口から見ていく。

 LIBORと闇カルテル

LIBORは London InterBank Offered Rate の頭文字をとったもので、直訳すればロンドン銀行間貸し出し金利。

銀行間で短期資金をやり取りする際に、「うちはこの金利でお貸ししますよ」というもの。「付け値」だから、端的に言えばいくらでも良いことになる。

借り手市場であれば金利は安くなる。資金繰りが苦しくなれば金利は上がる。これは銀行間では当然だ。しかし最後の借り手は企業なり一般市民だ。銀行が闇取引を結んで金利を吊り上げれば、最終的に損をするのは企業と一般市民で、銀行は濡れ手に粟のぼろもうけだ。

これが、不正操作の基本パターン。毎日新聞に載った図は、これを示している。

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LIBOR不正操作の全体像

リーマンショックまでの金利操作は大体この手のものだった。ところがリーマンショック後、資金繰りが行き詰るようになると、今度は貸し手市場になる。金利はどんどん上がる。

それではたまらないと、銀行は実勢より低い金利を出す。銀行といえども打ち出の小鎚ではないから、一般の投資家から金を集めることになる。そうすると今度は一般投資家が不当に鞘をとられて、損をかぶることになる。

これが第二のパターンだ。

この二つのパターンはいずれも一種のカルテルであり、好況カルテル、不況カルテルという亜種として考えられる。その旗振り役をしたのがバークレイズということになるのだろう。

LIBORとインサイダー取引

こちらは基本的にはバークレイズの単独犯。

バークレイズは総資産高で世界第2位の大銀行。銀行、投資銀行、証券業からクレジットカードまで扱っている。ボルカーがもっとも嫌いなタイプの銀行。もちろん自己勘定取引もバンバンやっている。

その自己勘定部門のデリバティブ・トレーダー14人が、LIBOR金利を提示する行員に対し金利操作を要求していた。明らかになっただけでも257回、証拠もしっかり残っている。

一番分かりやすい手口は、金利を高く申告すると銀行の業績悪化と判断され、貸し倒れ引き当て証券(CDS)の価格は上昇する。ヘッジの悪用である。これで売り抜ければ巨額のあぶく銭が転がり込む寸法だ。

リーマン以前の景気のいい頃の話で、まぁ、これは小遣い銭稼ぎのいたずらレベルかもしれないが、立派に犯罪要件を構成している。

LIBORと財務危機の隠蔽

こちらも基本的にはバークレイズの単独犯。いわば粉飾決算と似たような性格を持つ。

今年初め、バークレイズは他行を下回る金利を設定した。低金利は資金が豊富であることの表現である。

しかし、これは実体と乖離していた。同じ時期、CDSによるバークレイズの債務保証コストは33%上昇したのである。

実はこれは必ずしも単独犯とはいえない。どこの銀行も金利を低く設定していたようだ。だからLIBORそのものが実勢に比して低めに経過した。

早くも08年の4月には、ウォールストリート・ジャーナルが、銀行間取引のレートとCDSスプレッドを比較して、「調達金利が不自然に低いまま維持されているのはおかしい」と指摘している。

5月にはさらに踏み込んで、「実勢よりも低く見えるように数値が操作されている」と報じた。そしてLIBORがもはや信頼できないかもしれないとの懸念を銀行家やトレーダーが抱いていると書いている。

LIBORと政策誘導

LIBORの不正操作の第五のパターンで、最近になって急浮上して来た問題である。事実であるとすれば、不正操作に中央銀行がかかわっていたということで大変深刻な問題だが、いまのところ当局は否定している。

バークレイズのダイヤモンド前CEOによれば、リーマンショック時にイングランド銀行(日本でいえば日銀)のタッカー副総裁と電話会談し、このときタッカーが「英国中央銀行および英国政府が暗黙のうちに借り入れコストの実態隠しを認めていた」とし、電話記録を提出した。

こうなると単純な金融機関の「不正」ではなく、2008年の金融危機を乗り切るために中央銀行および政府も「関与」していたことになる。

フランスの資本が逃避してくるなら「赤絨毯を敷いて歓迎する」といったキャメロン首相もいまどき青くなっているだろう。

LIBOR不正操作の続報、といってもさほどたいした記事ではない。

明らかになったのは、

①LIBOR不正操作がバークレイズにとどまる問題ではなくなってきたこと。具体的に名前が挙がっているのはオランダのラボバンクだが、すでに20以上の銀行に調査の手が入っていること、邦銀(三菱UFJ)も名前が上がっていることなどだ。
②さらにイギリスのセントラルバンクであるイングランド銀行が不正操作にかかわっていた可能性も出てきた。バークレイズの内部資料に基づき副総裁が公聴会に喚問されている。
③EUがLIBORなどの指標を不正操作する行為に刑事罰を科す方向を打ち出したことだ。

LIBORについての簡単な説明も脇に載せられているが、どう不正操作できるのか、不正操作するとどのような利益が得られるのか、不正操作されるとどのような被害が生じるのかは良く分からない。別途、勉強が必要だ。


TBS系列の「サンデーモーニング」にコメンテーターとして登場した寺嶋氏が、「消費税引き上げ」に関連して、「国会も身を切るべきだ。比例代表の80議席削減に踏み切れ」と発言した。

野党の国会からの締め出し
ほかのコメンテーターから反論はなかったが、とんでもない話だ。自民・民主以外の野党議員のほとんどは比例区からしか当選できない。比例区削減とは、野党の締め出しを意味する。

自民党が構造改革の強行で、この国をめちゃめちゃ二した。だから怒った国民が民主党に政権を託した。ところが民主党は何もかも投げ捨て権力に擦り寄る政党に変質した。国民はこれに代わる選択肢をもとめるだろう。その選択肢を奪い取るのが比例区削減だ。

国民の民意との乖離
第二に、国会はますます民意を反映しなくなる。消費税も原発も世論調査では政府の方針に反対する声が過半数だ。しかし国会内では国民の声とはマギャクの勢力が圧倒的多数を占めている。

議会制民主主義制度の崩壊
こうなると、国民は議会制民主主義という制度を信用しなくなる。そしてより直接的な圧力の手段に移行せざるを得なくなる。

これは議会にとって「身を切る」というより自殺行為なのではないのか?

寺嶋氏の意見は、議会制度などやめてしまえと言うに等しい。このような不見識なキャスターは一刻も早く降板させるべきだ。この番組の性格にふさわしくない。いっそ「そこまで言って委員会」の方に移られてはいかがか。

ついでに、この番組はよいと思う。おそらくギリギリのところでやっているのだろうと思うが、立場に一定の枠を持ってよいと思う。影響力のある番組だから、いろいろな意見もあろうが、所詮はテレビである。

それにしても、この人、見る間に肥えてきた。肝臓はフォアグラ状態であろう。あまり貪らないほうが身のためと思う。
過去の言動から見て、最近の立ち居振る舞いは明らかに不自然であり、原監督ではないが、大方ヘソ下問題で弱みを握られているのであろう。
(…とのゲスのかんぐりも成立しうるような今日この頃である)

という訳で、条例はひどいものだが、反対運動の側の視点がどうもすっきりしない。
労働者の闘いになってしまっている。
これまでの闘いの流れからすれば、まず思想調査があって「これはあまりひどい」と各界の反撃にあって無条件撤退したものだ。
それにもかかわらず、またぞろ、それを変えて出してきたものだというところが最大のポイントだ。
この二つは一連のものとして考えなければならない。
つまり前回が「思想調査」だとすれば、今度は「思想の禁止」だ。だからこの条例は「思想禁止」条例として反対することが必要だ。
思想というものは、隠れキリシタンのようにひっそりと閉じこもるものではない。おのずからほとばしり出るものなのだ。だから思想の表現を禁止するということは、思想を禁止することと同じなのだ。

私がもし公務員だったら、このブログも禁止の対象となるだろうし、懲戒免職の対象となる。
それでもいいんですか? これを認めたら次はあなたですよ、そのとき反対できますか? と、市民に問いかけていかなければならない。

もうひとつ橋下ネタ。
「職員の政治的行為の制限に関する条例案」が市議会に提出された。
まことに唖然たる内容。
その骨子を転載する。

http://livedoor.blogimg.jp/shosuzki/imgs/9/4/9436c16f.jpg

記事の本文によると、「原発反対」もダメだそうだ。集会に出ていて公安に写真でも撮られたらアウトだ。
「政治的目的を有する」演劇もダメだそうだが、演劇や映画など政治的中身に触れないようなものなどない。水戸黄門だって政治批判だ。
「核兵器なくせ」の署名もダメ、「デモには出られないけど」と渡すカンパもダメ、震災義捐の寄付だって赤十字ならよいが、共産党経由ならダメ、ということになる。


中身もさることながら、違反したら解雇という発想が恐ろしい。

むかし、バカボンの漫画にメンタマつながりの警官が出てきて、ことあるごとに「死刑だ!」と叫んで、ピストルをぶっ放してた。
このあいだの思想調査のときもそうだったが、この男も見境なくぶっちぎれる。気に食わなければ、その瞬間「懲戒免職」と叫んでしまう。頭の中の回線がショートしていて、難しい理屈が分からなくなっているようだ。

どうやって司法試験を受かったのか知らないが、これらはすべて憲法違反だ。憲法違反の事例集みたいなものだ。ただこいつはあほの本官だが、その背後にこいつを躍らせているやつがいる。カネの亡者どもだ。


メンタマつながりの「本官」ってこの人です。

http://livedoor.blogimg.jp/shosuzki/imgs/f/1/f1f00bd8.jpg

こんなやつを知事にし市長にした人の気が知れない。

橋下は以前から、大阪の交通局に異常な敵意を燃やしてきた。職員の怠慢など根拠の不明な個別の事例をあげつらって、メディアと共闘でキャンペーンを繰り広げてきた。
その理由がどうやら見えてきた。やはりカネだ。
大阪市の「統合本部」は3年後までに市営地下鉄、バス、ごみ収集、下水道管理を民営化すると決めた。

このなかで市営地下鉄が問題だ。過去7年間、黒字経営が続いている。その額は単年度で150億だ。こんな経営、いまどきめったにない。

ただ地下鉄はバスとは別経営になっていて、バスのほうは赤字になっている。本来はバス・地下鉄合わせての交通網だから、連結させるべきだろう。(もちろんそれでバスの慢性的赤字体質を糊塗してはならないが)

少なくとも、財政的な面から見て民営化の必要はまったくない。統合本部の幹部すら、「地下鉄は日銭が4億円も入る独占的事業。…超優良会社だ」と認めている。

これを売っぱらおうというのだから、ほとんど泥棒だ。

「大阪市を良くする会」の成瀬さんはこういう。

地下鉄はいま建設すれば3兆円以上かかる市民の財産です。橋下さんはそれを財界に売り渡そうとしているとしか思えません。

交通労働者バッシングの背景が見えてきた。

赤旗が「国会事故調 福島原発報告書を読む」シリーズを開始した。(10日付2面、左肩)
私の希望したように、膨大な資料編のアンケートから抜粋・紹介してくれるようだ。
さすがは赤旗である。
裏づけもとりながら取材してくれるともっといいのだが、課題山積の折、そこまでは大変でしょうね。

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