鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

13年4月、ぷらら・Broachより移行しました。 中身が雑多なので、カテゴリー(サイドバー)から入ることをおすめします。 過去記事の一覧表はhttp://www10.plala.or.jp/shosuzki/blogtable001.htm ホームページは http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」です。

2012年06月

ダウンロードを違法とする法案が成立したようだ。
いくら情報の自由とはいえ、若干の後ろめたさも感じていただけに、
仕方ないか、とも思う。
ただ、youtubeは国際的なものだから、法律の有効性は疑わしいが…

今のうちと思って、せっせと聞いている。
クライバーのブラームス4番が、youtubeでは4種類の演奏で聴ける。いまはそれを聞き比べているのだが、どうも一番古いウィーンフィルとのライブ盤が一番よいようだ。たぶんこれが評判になってCDが発売になったのだろうが、何か熱気が乏しい。4楽章のパッサカリアのところなどライブ盤では「よし、やったれ」という雰囲気がむんむんするのが、消えてしまう。

日々雑録 または 魔法の竪琴 によると、

1979年12月のヴィーンフィル定期演奏会が、それまでにあのベートーヴェンの第5番、7番を録音しているにも関わらず意外にも定演デビューで、このブラームスの4番などを演奏して大成功を収め、そして、翌年3月にこの録音を完成させたのだという。

とすると、ライブ盤というのは「幻の録音」なんだろうか。思い出してみると、クライバーの「すごい」っていう演奏は、みんな78とか79年あたりのものだ。

残りの二つはバイエルン国立管弦楽団との演奏で、一つは89年の新年コンサートの録音、もうひとつが96年のコンサートライブだ。
とくに96年の演奏は、のりが悪い。この人は躁うつ病ではないだろうか。オケも手兵だけに細かいニュアンスを良く表現しているのだが、田舎娘が精一杯に踊っているみたいだ。やはり踊りは色気のある美人で楽しみたい。

ついでながら、おそらくこの曲のベスト盤はセルとクリーブランドの演奏だろう。うますぎる! すさまじい、有無を言わせない、恐れ入りましたという演奏だ。
「好きか嫌いか」なんて言っている場合じゃないでしょう、と叱られているような気分もする。とはいえ、「後ろ姿のブラームス」は期待できない。

緒方さんの「生態保全」報告が良さそうだ。というのは、詳細が分からないからだ。

経過はこうだ。中国で第2回生態保全全国際会議というのが開催された。日本共産党から緒方靖夫副委員長が出席した。緒方さんは三人の基調報告者の一人として発言した。その内容の一部が記事になって紹介されている。

緒方氏はまず、環境・開発・平和は一体であることを強調した。(これは92年のリオ宣言の趣旨である)
その上で、
①環境: 人間の生存基盤である環境と資源の保全
②開発: 人間が生きる上での公正な社会の必要性
③平和: 戦争・紛争・核兵器など安全保障にかかわる問題
と差し迫る課題との関連で読み込んだ。これらの課題で総合的に前進しない限り、「生態保全」は実現し得ないという提起である。
このことを前提とした上で、地球温暖化防止を「猶予できない」緊急課題として取り上げる。
この議論は先日リオで開かれたサミットの議論を念頭に置きながら展開されている。
すなわち「共通だが差異ある責任」の原則の捉え方である。
緒方さんは「共通だが差異ある責任」というのは、つまるところ「先進国の二重の責任」ということに帰するとする。
それは
①温室効果ガス削減の義務を率先実行すること
②「同じ道でない発展」を可能とするにふさわしい途上国援助を行うこと
ということだ。とくに、②の「同じ道でない発展」が「環境」と「開発」をつなげるキーワードだろう。
ほかに途上国の努力の問題、原発の「異質の危険」などにも触れられているが、これはとくに目新しいものはなさそうだ。

おそらく、同じような提起がサミットやそれに結集したNGOのなかでも議論されているのだろうが、不勉強のため知らなかった。

「同じ道でない発展」というのは、従来のロストウ型発展モデルの否定なのだろうか?
おそらく、開発そのものより開発援助モデルの変更なのだろうが、開発援助の中身を替えれば、発展のしかたが変化するのだろうか?
そもそも開発援助というのは何なのだろう。少し勉強しなければならない。

後日報で良いので、もう少し詳しい内容が分かるとよいが…


ラテンアメリカ各国の反応

エクアドル、ブラジル、ベネズエラ、ボリビア、アルゼンチンなどは、フェデリコ・フランコ政権を承認しないことを明らかにした。

エクアドルのコレア大統領は、いちばん怒っている。「ルーゴが罷免を受け入れたことは承知しているが、これはわれわれのアメリカの民主主義の問題だ。エクアドル政府はパラグアイの新政権を承認せず、ルーゴのみを合法的な大統領と認める」と、若干の無理筋発言。

ブラジルのジウマ・フセフ大統領は、「UNASUR、MERCOSURは民主条項を持っており、パラグアイのルーゴ罷免はこれに違反している」とし、パラグアイがこれらの機構から追放される可能性を示唆した。

ベネズエラのチャベス大統領: 「我々は新政権を承認しない。弾劾裁判は右派ブルジョアジーによる革命過程にたいする策謀であり、ホンジュラスでおこなわれ、ベネズエラで2002年におこなわれたものだ。これはパラグアイにたいするゴルペ(クーデター)であると同時にウナスールにたいするゴルペである」

ボリビアのエボ・モラレス大統領は、「パラグアイの議会クーデターは、ネオリベラリスタが地主と帝国と結んでおこたものだ。ボリビアは選挙で選ばれた政権でない違法な政権を承認しない」

アルゼンチンのフェルナンデス大統領は、「ルーゴにたいする弾劾は疑う余地のないクーデターである。アルゼンチンはクーデターを認めないし、今後の行動について周辺諸国とともに決定する」と語った。アルゼンチン外務省は、「パラグアイにおける憲法上の大統領の罷免と民主主義秩序の破壊に抗議して、即時にラファエル・ロマ大使の召還を決定した」というコミュニケを発表した。

ウルグアイはエンリケ・フィッシャー大使を召還した。ルイス・アルマグロ外相はホセ・ムヒカ大統領との協議ののち記者会見をおこない、メルコスールとウナスールの民主条項が尊重されなければならないことを述べた。

キューバ外務省は「議会によるクーデター」と弾劾決議を非難し、新政権を承認しない方針を表明。

チリのモレノ外相は、「ピニェラ大統領は民主的手続きを取るように主張していた。しかしルーゴ罷免は最低限の民主的手続きを踏んでいない」と言明した。チリの新政権への態度は数日中に決定される。

米州機構(OEA)は臨時会議を開催、「パラグアイが大統領がみずからの権利を守る手段が尊重されていない」と批判した。ホセ・インスルサ事務総長は、「(パラグアイ憲法には弾劾規定があるにせよ)余りにも早急な決定で、正当な手続きを踏んでおらず、大統領に十分な釈明機会が与えられなかった」と厳しく批判した。

中米議会: 「パラグアイ議会の決定はクーデターである。国際社会がこれを承認しないように勧告する」

ALBA諸国(ベネズエラ、キューバ、ボリビア、エクアドル、ニカラグアなど)は、フランコ政権を承認しないことを全体で確認している

23日 ルーゴ前大統領は、来年の次期大統領選挙に出馬する可能性を示唆した。また、弾劾に同調したフランコ副大統領(現暫定大統領)を名指しせずに非難した。

6月27日 ウナスールの首脳会議がペルーのリマにおいて開催される。パラグアイにたいする民主条項が発動される可能性。ウナスール内での右派政権はコロンビアとチリのみであるが、憲法秩序の擁護に関してはこれまでのウナスールのなかで合意があり、パラグアイにたいして資格停止の処分、フランコ政権の不承認が決定される予定。(この首脳会議は延期となった)

経過については英文資料をあたる他ないだろうな、と覚悟を決めていましたが、「ラテンアメリカの政治経済-変革の現在を厳選して伝える」というサイトがあって、かなり詳しく経過を紹介してくれています。それを主体に各種報道で補う形で、経過を追ってみたいと思います。


2008年8月 ルゴ大統領はかつて「貧者の司教」と呼ばれた聖職者で、40%の投票を得て大統領に就任した。しかし議会に支持勢力を持ないルーゴは、政権維持のために右派の自由党(PLRA)との連立を組んだ。自由党のフランコ党首が副大統領に就任した。しかし自由党との政策、考え方の違いは明らかで、その関係は疎遠なままであった。

パラグアイは大豆生産地として知られる農業国である。そこでは農民の2%が農地の80%を占有する昔ながらの大土地所有が続き、土地をめぐる紛争が後を絶たない。ルーゴは土地改革案を提出したが、右派勢力の抵抗によってほとんど前進していない。

そんな中で今年、首都アスンシオンから北東に約240キロ離れた農村クルグアティ(Curuguaty)で暴力事件が発生した。土地なし農民が土地占拠闘争を展開。現地警察と衝突するようになったのである。これは全国各地で長いあいだ続く土地闘争のひとつに過ぎない。

そして6月15日、流血の事態が発生した。農民11人、警官6人が死亡した。農民11人が死んでも、「かわいそうね」とか「どうせ自業自得よ」くらいで終わるのだろうが、誰でも警官犠牲者の多さに驚くであろう。

私から言わせれば、これが典型的なCIAの手口である。そしてこの日をXデーとして、およそ1週間くらいのあいだに猛烈なキャンペーンを組んで、最後にクーデター、というのが絵に描いたようなCIAの戦術だ。

パラグアイ農地運動(MAP)の指導者は「我々は生存のために土地闘争をたたかっているが、銃器は持っていなかった。どのようにして発砲が始まったのかは分からない」と語っている。当局の陰謀説を唱えるリーダーもいた。

ベネズエラのクーデターのときもビルに隠れたスナイパーが民衆を大量虐殺した(ベネズエラ…何が起きたのか?)。半年後のゼネストの際も挑発者による反チャベス活動家の射殺事件が何度も起きている(2002年 ベネズエラ・ゼネストに学ぶ)。警官の5人や6人殺すのに何の躊躇もない連中だ。以前報告したように、ボリビアのサンタクルスにはコロンビアのAUC(パラミリタリー)崩れの殺し屋連中がごろごろいる。現地の米領事館が呼び寄せ、地元の大地主が養っているそうだ(ボリビアの国内対立激化と米国の陰謀)。日曜の朝にサンタクルスの下街を散歩していて、教会前の歩道に鮮やかな血だまり(動脈血)を見つけたときには、さすがに食欲がなくなった(エクアドルとボリビアの旅)。

この事態を受けて、カルロス・フィリソラ内相と警察幹部が辞任したが、議会は納得せず、責任はフェルナンド・ルゴ大統領にあると追及。また内相の更迭は自由党との連立を崩壊させた。コロラド党など、ルーゴ政権発足以来クーデターの機会をねらっていた右派勢力の動きが開始された。

6月21日、つまり事件発生からわずか6日後に、パラグアイ下院は弾劾裁判の開始を決定した。「大統領が占拠問題に適切に対応せず、農民をあおった」とというのがその理由。しかもその翌日に上院の開会を求め、即日判断を下すことを求めている。

パラグアイの大統領弾劾制度は、下院が発議し上院が裁判所の役割を果たすことになっている。上院は45人で構成され、2/3の賛成で弾劾が決定される。上院は圧倒的に保守派が優位だから、下院の過半数があれば成立してしまうことになる。この憲法上の抜け道を知りぬいた上で計画が立てられたことは間違いないだろう。

問題はこの水際立った手際の良さだろう。彼らの主張は“占拠農民が警官を銃撃し4人を射殺した”という前提に基づいている。しかしどう考えても、これはつじつまが合わない。時間がたてば民衆のあいだに疑問がわいてくる。真相調査をもとめる声も高まるだろう。その前に決着をつけなければならない。この考える暇を与えないスピード感はCIA独特のものだ。

ルーゴ側は弁明期間を延長するよう議会に求めた。また、今回の議会の行動は憲法違反であると最高裁に訴えた。ルーゴを支持する社会運動、農民たち2,500人以上が憲法広場前に集結した。

いかにも歩みがのろい。私なら人殺しに情けをもとめる前に、ただちに全力動員で国会を包囲させる。野党の有力議員を缶詰にする。軍をスクランブル体制に置く。メディアを抑え声明をバンバン流す。場合によっては市民武装もちらつかせる。周囲の友好国に支援と連帯の証しを求める。要するに断固たる対決姿勢を鮮明に示す。

UNASUR諸国首脳ははるかに敏感だった。たまたまリオで開かれていたリオ+20に出席するため、全員が集結していた。その場で開かれた緊急首脳会議で、エクアドルのコレア大統領がぶち上げた。「パラグアイ議会がルーゴを罷免した場合、これはクーデターであって、南米諸国連合はパラグアイとの国境を閉鎖するべきだ」

そしてUNASURの外相が現地に飛ぶことが合意された。外相たちは一つの飛行機に相乗りしてアスンシオンに向かった。外相団はルゴ大統領と協議した。ルゴは残留の決意を明らかにした。このあと外相団は国会指導者と会談した。ウナスールのアリ・ロドリゲス事務総長と各国外相は、「ルーゴを罷免した場合には、パラグアイのウナスールからの追放する可能性がある」と警告した。ホルヘ・オビエド議長は「投票するのはパラグアイ議員であって、ウナスールの外相ではない」と開き直り、提案を拒否した。

翌22日午前、上院の弾劾裁判が開廷された。赤旗によると、「審理は大統領を一方的に中傷する文書にもとづいて行われました。弁護側に与えられた反論時間は2時間だけでした。事実関係の調査は一切ありませんでした」ということで、文字通りの略式・即決裁判。戦場での銃殺刑並みの無法なものであった。

そしてその日の午後5時半には、ルーゴ大統領が「その任に適さない」という理由の弾劾の評決をおこない、賛成39票反対4票欠席2で弾劾が成立した。

我々は近い過去に三度、大統領弾劾の成立を経験している。もっとも有名なのがウォ-ターゲート事件に絡むニクソン弾劾だ。残りの二つは90年のブラジルにおけるコロール大統領の弾劾と、94年のベネズエラにおけるペレス大統領の弾劾だ。この三つに共通しているのは明確な刑法上の犯罪を犯している点だ。しかもその審議には年余の審議をかけてあらゆる物証が検討された後に弾劾に到達している。犯罪を犯したわけでもない、一国の大統領を弾劾するのに、わずか2日というのは、クーデターと呼ばれても仕方ない。

午後7時、ルーゴは議会の罷免の決定を受け入れると表明した。それまで彼は辞任することはないと言明していた。

ルーゴの声明の要旨: わたしは議会の決定を受け入れる。わたしは常に行動で答える準備がある。…これはパラグアイの歴史を、民主主義を、深く傷つけることになった。かれらは弁護のあらゆる原則を破り、卑怯で計画的におこなった。わたしはかれらがその行為の重大さを知るべきだと思う。…わが国で異なった利益のために血が流れることのないように、わたしは今日共和国大統領をやめる。しかしパラグアイ市民をやめることはない。わたしを必要とするこの国に自分を捧げる」

気持ちは分からないでもないが、せめてあと1週間はがんばってほしかった。当面はすぐ逮捕される危険はないのだから。まだ裁判所に訴える道は残されているのだから。軍が動いているという確かな証拠もないのだから。1週間で国内世論はあっという間に変わる。もともとデマと扇動だけで作り上げた筋書きなのだから。

この声明を受けた形で、フランコ副大統領が大統領に就任した。副大統領といってもルーゴには何の忠義感もない。むしろルーゴを引き摺り下ろす影の主役の一人だった(パラグアイ政変劇の背景)。警察部隊は議会外に集まっていたルーゴ支持者にたいして、催涙ガス、放水車、騎馬警官を使ってこれを解散させた。

これで一巻の終わりである。

パラグアイで政変がありました。UNASURやALBA諸国は“事実上のクーデター”と非難していますが、肝心のルーゴ大統領が受け入れてしまったので、着地にはちょっと苦労しそうです。

もちろん、この政変が02年のベネズエラに始まり、ホンジュラス、エクアドル、ボリビアと続いた系統的な政府転覆策動の上に位置づけられるものだということは、疑いないでしょう。ただ今回の行動に武力による威圧ないし行使はふくまれておらず、一種の変化球攻撃です。CIAにしてみれば「してやったり」とほくそ笑んでいることでしょう。

それに実体としてルーゴ政権はすでに瀕死状態でした。採決の票差を見れば分かるように議会内での力関係は圧倒的です。民主化を促進するような法律は何一つ成立せず、行政レベルで辛うじて改良を行う程度でした。さらにルーゴ自身がガンを患っており、隠し子問題などもあわせ影響力を失っていました。任期もあと1年を切っています。10月の選挙の後はレームダックと化することは間違いありません。

それなのに、事実上のクーデターと非難されるような弾劾をなぜやったのか、といえば「やれるのならやりましょう」とのCIAの差し金と考えるほかありません。やることに意義があるのです。

ネットからいろいろ情報を拾ったのですが、どうしようかなぁと思案していました。ところが次のような記事があったので、「書くしかないな」と覚悟を決めた次第です。

「主観的アルゼンチン/ブエノスアイレス事情」: 「素顔のブエノスアイレス」のTOMOKOです、というブログがあって、ここの記事そのものは別にどうということはないのですが、このブログのコメント欄にある人が書き込みしています。

ルゴは非常に専制的で余り目立つ存在では無く、今年行われる大統領選挙の青党候補の予備選では惨敗しほとんど存在感を示せなくなっていました。

悪口を並べ立てるために書いたような文章で、支離滅裂です。「非常に専制的で、あまり目立たない存在」ってどんな存在でしょう。それよりも、「もしそうだったとしたら、クーデターまがいの弾劾が許されるのか」という問題が残ります。こちらのほうがはるかに重大なポイントです。こういうヨタコメントがネット上でまかり通ってしまうのは大変困ります。

123ではなく132運動である。 なんと安売り旅行で有名な阪急旅行社のサイトにこんな記事があった。私も利用させてもらっている。貧乏人にはありがたい会社だ(医者といっても、はばかりながら民医連だ)

現地情報ブログ: 中南米
http://blog.hankyu-travel.com/kaigai/latin-america/mexico/2012/096811.php
2012年5月31日 の記事

著者は現地記者:サッチーという方で、メキシコに語学留学後、1977年に渡航。のべ28年間メキシコ生活。現在、観光ガイドの仕事をしている
という経歴の方である。計算すると50歳を越えておられると思われる。

自分でも
観光会社のブログの記事に政治的な話はどうか?とも思うが、今のメキシコの最大関心事といえる事なので、勝手に許してもらちゃおう。
と書いているので、かなり本音の記事だろう。

以下、かいつまんで紹介させていただく。

選挙戦が始まって以来、PRIのペニャ・ニエトが他の候補者に2桁ポイントの差をつけている。PANのバスケス・モタとPRDのロペス・オブラドールは、すごいスキャンダルか致命的な失敗でもない限り、勝つことは難しい。

とされてきた。しかし5月11日から風向きが変わった。

ペニャ候補がイベロアメリカ大学をその選挙運動で訪れた。学生達が、州知事の時の農民への弾圧などに対して抗議した。そのニュースは、瞬く間にユーチュブやフィエスブック、Twitterによって広まった。
PRI党は、抗議行動はAMLOによる扇動で、彼らはイベロの学生ではないと主張した。

それに対して、131人のイベロの学生が学生証を手に、「自分達はイベロの学生で、けっして扇動されたものでない、自分達の行動だ」との動画をアップ。
http://www.youtube.com/watch?v=P7XbocXsFkI&feature=channel&list=UL

5月18日、イベロの学生はじめ学生達若者が行動を起こした。操作された情報を流すメディアへの抗議である。テレビサの前での学生達のデモは、"yo soy el 132"(「自分は132である」)と叫んだ。131人に継ぐものという意味だ。
5月19日、メキシコの色んな都市で、 Anti-EPN(エルネスト ピニャ ニィエト)デモが若者達を中心に繰り広げられた。それはインターネットによって、瞬く間に多くの参加者を得た。

この若者達の行動は、ユーチューブなどで、今のメキシコの現状を是正したいと思う若者達の行動力となって広がっているのだろう。


4日後に迫ったメキシコ大統領選挙で、ロペス・オブラドール候補の人気が急上昇。すでに現与党のPANを抜いて、PRI候補に猛追をかけているようだ。
ラテンアメリカの大統領選挙は、たいていは一度では終わらずに、相対一位と二位の決選投票となる。二位に滑り込めば、その1ヶ月ほどあとに行われる決選投票までに追いつく可能性は十分ある。

ロペス・オブラドールといえば、前回大統領選挙で惜敗し、「俺が勝った」とがんばった人だ。名前の頭文字をとってAMLOと呼ばれることが多い。
旧共産党も加わる左派のPRDの候補で、元メキシコシティーの市長。その強引さにはとかくのうわさもないではないが、問題はそういうことではない。NAFTAをこれ以上続けるのかどうかという選択だ。
PANもPRIもNAFTA維持、ネオリベ路線踏襲という点では変わりない。それに対しPRDはラテンアメリカの経済統合を唱えるUNASUR派だ。とはいってもメキシコ国民の1割がアメリカで働いている状況の下では、そう簡単にアメリカとの渋滞を断ち切ることは容易ではなく、手探りしながらの改革となるだろうが。

前回の総選挙で民主党が大勝利したとき、日本の政治は過渡期に入ったと言われた。
民主党を支持した人々は、民主党が民主的な改革を次々と実現して文字通りの過渡期が実現すると思っただろうが、そうは甘くない。

むしろ情勢のいっそうの厳しさと緊迫感を持って「過渡期」は始まったのだと思う。原発、消費税、TPP、沖縄のいずれをとっても、国民の過半数と政権・財界のあいだには越えがたい溝が広がり、それが誰の眼にも明らかになっている。

国民の前には共産党とハシストという選択肢しか残されていない。ワイマール末期にも似て、きわめて剣呑な状況である。 

これからが「過渡期」本番だろう。

本日の朝刊を見て驚いた。

各紙とも、消費税などどこ吹く風だ。小沢派の造反が大々的に取り上げられるが、なぜ造反したのかの方がはるかに重要ではないか。第一、もし民主党が割れなかったら、ただの茶番劇ではないか。

そもそも消費税引き上げの採決は号外を発行してもよいくらいの重大ニュースだ。これがきっかけとなって日本経済が奈落の底に突き落とされるかもしれない危険を秘めている。

世論調査で国民の過半数が反対している法案を、消費税引き上げ反対の公約を掲げて政権を握った政党が強行するということも、世論を代弁するメディアとしては大変深刻な問題だ。一体改革といったのが、消費税だけ引き上げというのでは大義名分もない。
経済、さらには財政に与えるマイナス効果も分析されていない。

私が編集長なら、トップ見出しは「消費税引き上げが採決される」だろうし、中見出しは「民主と自民・公明の賛成で」となる。その上で小見出しには「民主の一部が造反」という構成だ。これが普通の常識というものだろう。さらに解説に「消費税引き上げでどうなる、日本経済」とつけ加えることになる。

それでは新聞各紙の見出しはどうなっているだろうか。

朝日 トップ見出し「消費増税法案、衆院を通過 民主、事実上の分裂状態」 サブ見出し「民主は反対57人、棄権・欠席16人」

毎日 「消費増税法案:民主57人反対」 サブ見出し「事実上の分裂状態に」

読売 「法案反対57、欠席・棄権16」 サブ見出し「民主は分裂状態」

なお読売は、その後の報道で、「《大義ない》造反議員に地元県連が悲鳴」と小沢バッシングを開始している。読売の大義は国民に対する大義とは別物のようだ。

日経 「経済界、消費増税を歓迎 財政不安の払拭に期待 サブ見出しは購買意欲減退に警戒も」

日経は企業側のサイドだが、ニュースの見方はまともだ。ややほっとする。

東京 トップ見出し
「消費増税 衆院可決」 サブ見出し「政権交代が終わった日」

東京新聞は準全国紙として、唯一まともな記事を書いている。若干紹介しておく。

二〇〇九年の夏が、はるか昔に感じられる。一二年六月二十六日は、政権交代が終わった日だ。国民の圧倒的な期待を受けて政権を獲得した民主党はこの日、事実上の分裂状態に陥った。民主党に寄せられた約三千万人の民意を分断させてしまった罪は大きい。
民意と無関係なところで政治が動いている。正すのは、私たちの一票しかない。そのためにも、(6月26日)日のことを記憶にとどめておく必要がある。

日刊ゲンダイ 「増税法衆院通過 反対57 棄権欠席19」

威勢の良さが売りの日刊ゲンダイだが、見出しからは消費税への怒りは感じられない。

「国民生活をどん底に突き落とす消費増税問題が、議員の頭数と造反ショーだけに矮小化されるのは間違いだし、そこに財務省と大マスコミの悪辣さが表れている」

と指摘しつつ、「全くどうしようもない国だ」と覚めちゃっている。少々あきらめが早すぎませんか。権力の投げた変化球とも受け止められかねません。

産経は読まなくとも分かっているので省略。


「おはよう ニュース問答」という囲い記事。
すごい写真が載っていた。http://livedoor.blogimg.jp/shosuzki/imgs/2/8/28aebf26.jpg
大飯原発のオフサイトセンター(原子力事故が起きたときの防災拠点)だ。

記事によると、

施設が海沿いにあったんだよ。護岸から70メートルしか離れていない。海抜もわずか2メートルなんだ。まるで「海の家」だよ。

一帯は20年ほど前に原発の建設残土で埋め立てたところなんだ。
施設周辺を歩くとあちこちで地盤が隆起し、道路にひびが入っていた。元々はヘドロが堆積した入江で、いまだに地盤が安定していないんだよ。

この写真と、原発事故が起きたときの汚染予想地図をビラにして、京都市内に配布したいものだ。

消費税増税法案の可決をめぐり、最も感慨深いのは「連合」の右傾化が行き着くところまで行ってしまったということだ。

鳩山は「民主党は私たちの政党であって、おなたがたの政党ではない」とはっきり言うべきだった。

連合の右傾化はすでに自社さ連立の村山内閣のときに完成していた。しかし多少の社会党の残渣らしきものはあった。今はまったくそれも消えうせた。

たしかに全労連系の脱退が右傾化に拍車をかけたかもしれないが、脱退しなくてもそれは進行しただろうし、いまとなっては脱退は正しかったといわざるを得ない。体制内でたんなる批判者にとどまるより、いまの全労連のほうがよほど生き生きと活動は出来る。ただその分連合批判が弱まっていることも間違いない。

問題なのは、連合系勢力の役割が、傘下の労働者はもとより、世のなか全般に十分明らかにされているとは言いがたいことである。

この点で赤旗の積極的な報道に期待したい。

「ほんとうは泣きたいのに」という歌があって、さだまさしの名曲の一つだ。
察するところ、「泣くのがいやさに笑ってござる」というせりふがあって、そういう人の心の内面のひだがどうなっているだろうと、想像をめぐらせ、シチュエーションを作り上げていくことで出来た詩なのだろう。ただ夜のドライブの助手席というのは二番煎じの感がないでもないが、旋律の美しさがそれを補って余りある。
声が出なくなってからの曲で、ちょっと苦しいが、やはり本人の歌唱が良い。
女性歌手がこの曲をカヴァーしていて、思い入れたっぷりに歌っているが、正直のところシラける。
泣いちゃったんじゃ、しようがない。
心持ちは凛として、歌い方はさらりとして、一瞬のレガートとかディミニュエンドに思いをこめなければならない。

昨晩は、BSの「名もなく貧しく美しく」を嫁さんと二人で見て、ぼろぼろと泣いていた。

子供の頃に見たような見なかったような思い出があるが、昭和34年頃に作った映画としては、時代遅れの感がある。
たとえば「二十四の瞳」とか、「ひめゆりの塔」だったら、戦後7,8年だったから、みんな思いっきり泣いた。もちろん戦争と犠牲者への思いもあっただろうが、泣くことに飢えていた時代でもあった。

三益愛子の母物映画のポスターで「三倍泣かせます」といううたい文句があったのを憶えている。泣いた後は心が雨上がりのようにしっとりとして、ささくれが取れて、すがすがしい気分になる。心理学ではカタルシスという。本当に辛いときは泣いてなどいられないのである。

しかし戦後15年近くたつと時代の雰囲気は変わる。同じような映画を作っても、いささか食傷気味だったのではないだろうか。
この映画は聾唖者への賛歌ではない。ハートウォーミングどころか、相当塩っ辛い映画だ。ふつう、この手の映画では脇役が絵に描いた様な善人ばかりだが、この映画ではさほど善人らしき人物は出てこない。まさに昭和20年代のリアルワールドだ。
聾唖者をテーマにして、手話で話が進行するところは先駆的ではあるが、テーマが所詮古い、障害者をあしらっているだけではないか? ということであまり高い評価は受けなかったようだ。

ところが、これが今見ると意外に新しい。
当時はやたらと登場人物が死んでしまうことが不評だったようだが、団塊世代にとっては-周囲が結構死に始めている、人と会えば「あいつが死んだ」とか、「あいつがガンで手術した」とか、そんなことから会話が始まる集団-にとっては、きわめて現代的なシチュエーションなのである。

障害者のけなげな生き方が感動的、という受け止めでなく、もっと普遍的に「ころっと死んでしまう人間というちっぽけな生きものが、その生を懸命に生きるというのはどういう意味なのか」という問いかけが、心に沁みてくる。

難しくいうと、「死があるから生があるのだ。死があるから生が意味を持つのだ」という提起だ。それは今だからこそ心に響いてくるのかもしれない。
もうひとつは、その発展系であるが、「生とは死への抗いである」ということだ。面と向かってたたかうわけではない。運命は運命として甘受する。しかし、だからこそ、生は何の躊躇もなく、「生きるものの務め」として積極的、全面的に肯定される。
それは「死があるから生に意味を持たせなくてはならないのだ」という呼びかけにつながる。

昔の映画が絵も音もきれいになってリバイバルされているが、その多くは中身の古さがいかんともしがたい。しかしこの映画は、昨日作られた映画のように新鮮だ。幾百もの闘病記より、生きる力を教えてくれるこの映画を、多くの人に見てもらいたいと思う。

ギリシャをめぐる日本の報道で明らかな誤りが一つある。
それは、緊縮政策の内容にある。
ユーロ圏諸国が、金融支援と引き換えに迫っているのは緊縮政策を続けるかどうかではない。
これまでの緊縮政策に、さらに厳しい歳出削減計画を新たに上乗せし、それを飲ませるのかどうかという問題なのだ。

新たな削減計画についてはすでにたびたび触れているので、ここでは繰り返さないが、その典型が医薬品費の国庫負担2千億円相当を減額することだ。

これではギリシャ国民は死んでしまう。「死んでも返してもらわなけりゃぁならねぇ」というのは強欲な借金取りのセリフだが、それはものの例えであって、まさか「死んでもらいましょう」ということにはならない。

やっと、ほかのユーロ圏諸国でも、「これはやばいぞ、これ以上やると死んでしまうぞ」という声が出されるようになった。ギリシャのほうも「さぁ殺せ。死んだら化けて出てやる」と開き直った。

さらに強欲な連中の中にも、これでギリシャが死んでしまうと、スペイン・イタリアも道連れになる。いったん手を引くしかないな、という声が上がりつつある。

これが現状だ。過去においてギリシャがどうだったのかという問題は、いまは議論の外だ。ギリシャバッシングをして済ましていられるご時勢ではない。

これは相当ショッキングなニュースだ。

イラク戦争は終わったもののアフガン戦争は続いている。9.11から2ヵ月後にアフガン侵攻が始まった。すでに10年以上続いている戦争だ。
おそらく戦闘の激しさというより、この長さと永遠の繰り返しが絶望感をもたらしているのだろう。
それが10年を経て、ついに精神の限界に達したということだ。

赤旗によると

米兵の自殺は、今年に入って5ヶ月間ですでに130人を上回り、1日に1人のペースとなっています。
バネッタ国防長官は「繰り返される戦地派遣、絶えず戦闘にさらされること、戦争の悲劇などが軍にストレスをもたらしている」と述べました。

自殺の決行というのは精神の究極の爆発である。これは恐るべき数だ。少なくともその背後に10倍の重症のうつ状態(自傷・他傷をふくむ)、さらにその100倍の精神・神経障害がいると予想される。つまり派遣兵士全員である。

兵士というのは、少なくともリクルートされた時点では、大多数が「健康な青年男子」である。一般社会に比べれば、はるかに対応力の高い集団である。

このままでは米軍は崩壊する。もうアフガンでの戦争は続けられない。大統領選を控えてなかなか身動きが取れないかもしれないが、どんな形であろうと、一刻も早くやめるべきだ。
少なくともやめるという選択肢が残されているだけ米国は恵まれている。アフガンの人々にはそういう選択肢は残されていない。闘って死ぬか、黙って殺されるかの選択しかない。

同じ「国民運動」面の大門議員の参院での委員会質問。

金融庁と経産省、農水省が金融商品と商品先物を一括して扱う「総合取引所」を整備するための議論を行っている。
このなかで、年金資産の商品先物への運用を促進することを検討していると指摘しました。

要約記事なので、委細不明だが、

①この議論の中で経産省の分科会が年金の資産をリスクの高い商品先物での運用に振り向けるべきだとしている。

②その背景には、東京工業商品取引所が「先物商品市場活用の普及」を求めていることがある。

まことにもって、とんでもない話だ。日本の官僚機構そのものが、発想としてはUIJ化していることになる。
人さまのお金に対する感覚が麻痺していること、それが背任罪になりかねないということに対する感覚が麻痺していることに慄然とする。

「国家は泥棒だ」と国民が感じ始めたとき、どんな状況が生まれてくるのだろうか。

普段は「国民運動」面は素通りなのだが、本日の記事には注目する情報があった。

ひとつは全労連の国際局長の談話で、TPP交渉の会場外の模様。

市民団体が会場外でロビー活動を行っている。交渉官との個別交渉になるが、各国の担当官の話では、すでにルール作りは最終案に近いところまで固まっており、日本にとっては飲むか飲まないかの選択しか残されていないということだ。有名な毒素条項(ISD条項)も同じだ。
山下奉文大将ではないが、「無条件降伏あるのみ」だ。

もうひとつは、反TPP団体のシンポでのニュージーランド研究者の発言。
すでに合意は形成されており、このルール変更は不可能だということが強調された。9月のAPEC首脳会議までに合意を取り付けようとする圧力が強まっている。

ISD条項は「文書案が明らかになった。オーストラリアが反対している」と紹介された。
また、ニュージーランドは乳製品の関税撤廃を求めているが、米国はこれを拒否しているということ。

このシンポで田代さんという教授は、日本政府と財界の立場の違いを指摘、民主党政権は沖縄で不信を買った見返りに、TPP参加を日米同盟強化の証しとしようとしている、財界は海外進出で利益を得ようとしている、と分析しているが、あまり根拠はなさそう。

ただTPP推進を呼号する大企業の現場が、その真の意味(=いっそうの規制緩和)をあまり深く考えていないという状況は伝わってくる。


そこに登場したのがパソコンとインターネットです。とはいっても私がホームページを立ち上げてインターネット情報を集め始めた95年頃にはまともな情報はありませんでした。

「我が家の猫です」みたいなホームページばっかりの時代、情報を求めるとすればWinnyみたいなものしかありませんでした。通信速度も現在の1000分の1くらいではないでしょうか。100キロの画像1枚落とすのに2,3分はかかっていました。

それが、高々この2年ですさまじい量の音楽ファイルが入手可能になりました。音質も飛躍的向上しています。10年前には夢のようことだった音源収集が現在では当たり前のことのように実現しています。

でもやはり、音楽ファイルのダウンロードがいまでもだめなのに、youtubeで動画にするとOKというのは理解できません。「絵など載せてほしくなかった」というようなプレーヤーがたくさんいます。

元の曲が変わるわけでもないし、演奏も変わらない。とすれば変わるのはこちらの事情でしょう。

その事情とは二つあります。一番は音楽鑑賞メディアが激変したことです。80年頃にCDが登場してLPにとって代わったわけですが、実はこれは干渉スタイルに大きな変化をもたらしたわけではありません。

基本的には値段が高いのは同じで、音源というのがお宝であることには変わりありません。

ところがその後のカセットテープは音楽鑑賞のスタイルを一変させました。音源は、場合によっては、ただで手に入るようになったのです。いまは流行らない言葉ですが、「ダビング」というのがキーワードです。

もう一つは音楽を聴く時の儀式が極めて簡略されたことです。レコードを聴くときの一連の儀式にはついては以前も書いたので省力しますが、カセットテープは文字通り「カセット・ポン」で終わりです。

これで、元手要らず、手間要らずで音楽が聴けるようになりました。ここからが「ながらリスニング」の始まりです。

カセットテープはあっという間に進化しました。時間は片面45分まで延長され、クロームテープ、メタルテープとテープが深い音を出すようになり、ドルビーでヒス・ノイズも解消されました。

いま考えるとカセットテープとMDはどちらが革新的な技術だったかと思い直さざるを得ません。

私はすでに昭和42年頃にソニーのオープンリールのテープレコーダーを持っていましたから、カセットテープの登場にはさほど衝撃を受けませんでした。むしろMDがデジタル(無劣化)であることと、圧縮という発想に大いに感じ入っていました。

しかしユーザーの発想から言えば、カセットテープとMDは機能的には同じアイテムでしかありません。CDの代替品であり、ある意味ではまがいものです。

この壁は技術的な壁ではなく、「著作権」という法律的な壁でした。それはお金の壁でもあります。

たとえば未完成の名演を聞きたいとしたら、解説書を見るとワルターがいいがクライバーも捨てがたいとか書いてあります。お金持ちならそれを買い揃えて聞き比べするのでしょうが、普通の人はそこまでは行きません。

ワルターの未完成というのは、むかし田園と抱き合わせのLPで、中学校の音楽室のガラス戸棚に並んでいて、授業で聞かされたんだったかなぁ?
とにかくあの頃の高校受験には音楽もあって、ベートーベン=運命、シューベルト=未完成というのが定番だった。

とにかくこの未完成という曲がすこぶるつきにつまらなくて、曲は第二楽章で未完成だが、こちらは二楽章に達する前に沈没だ。だから、ワルターの、とくに第二楽章は聞いたことがなかったというのが正確だ。

LPというのは片面30分、両面で1時間だから、この曲の長さは埋め合わせようにちょうどいい長さで、だからやたらと出たんじゃないかと思う。開き直るようだが、私は眠くなるような名曲というのはうそだと思う。

高校に入って、新世界が無性にほしくて、ちょうどエピックからセルの新世界と未完成の抱き合わせが出たのを買った。

その頃、普通のLPは2千円、新盤の話題盤は2300円とかした。それが1800円だからお買い得だ。しかも新世界に未完成までおまけがついてくる。

あの頃は新世界一曲でLP1枚、という売りかたも平気でしていた時代だ。リヒテルとカラヤンのチャイコフスキーは1曲で裏表、それが2300円だった。

しかもFM放送で大宮真人さんという解説の人が、「セルの未完成はいいぞ」とほめまくるから、ついに清水の舞台から飛び降りた。

田舎の中学だったから、卒業生の3割は就職組みだった。初任給は3千円くらいだったと憶えている。だから私の1ヶ月の小遣い千円というのは申し訳ないくらいの高額なのだが、その2か月分をこんなものに叩こうというのだから、思わず震えてしまう。

レコード屋さんのケースからいったんは取り出すものの、結局またケースに戻してという逡巡を2,3度繰り返したあと、ついに買ってしまった。片思いの彼女に声をかけたときの気分だ。

それで聞いてどうだったかというと、ベアトリーチェが普通の可愛い子ちゃんだったということだ。

いま聞いてもこの演奏はつまらない。だいたいセルはつまらない指揮者だ。走者が出たらバントで送る。打率2割5分なら打者二人のどちらかがヒットを打つ確率は5割、チャンスが二度あれば1点は入るという計算で動く監督だ。

というわけで、未完成とはしばらくおさらばした。それがケルテス(昔はケルテッシュといった)の演奏で、「未完成って面白いじゃん」となった。

ちょっと長くなったので、ここでいったん切ります。

↑このページのトップヘ