鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

2012年02月

ところで「聖衣」は1953年の製作です。「笛吹童子」より前です。シネマスコープは、日本ではたしかシネラマと同時期に入ってきたはずです。シネラマは東京に2つだけ見られる所がありましたが、私達には高嶺の花でした。その代わりにシネスコが日本中に広がりました。
静岡では一番上等なオリオン座がそのために改装して、そのこけら落としに上映したのが「聖衣」でした。多分昭和31年だと思います。天然色はその2年くら い前でしょう。天然色映画の記憶はどちらかといえば「ファンタジア」とか「ダンボ」とかディズニー系です。
立体映画はシネスコよりちょっと前だったと思います。赤と青のセロファンを貼った紙メガネを掛けて「遠い太鼓」を見て、画面から飛んでくる インディアンの矢に思わずのけぞった覚えがあります。
日本映画に色がついたり、シネスコになったのはずいぶん後のことではないでしょうか。その頃はもうそれほど映画に興味はなくなっていました。

最近のYouTubeはすごい。1年前はクライスレリアーナはケンプとキーシンしかなかった。ケンプの演奏はかわいそうなくらいよれよれで、どうして録音したの? と聞きたいくらい。シューマンの曲は下手うまでも味が出るというような中身ではない。
一方でキーシンの方は、この人の悪い癖が出て「どんなもんだ」という曲弾きになってしまっている。
そういう中で河村尚子さんの音源がある。09年の紀尾井ホールのリサイタルの録画のようだ。結構朝6時の衛星3チャンネルの放送は聞いていたつもりだが、聞き逃したらしい。たぶん前の晩が深酒だったのだろう。
これが意外にいい演奏で(ただアップ時にだいぶ音質が損なわれている)、もっぱらこれを聞いていた。。
ところが最近このサイトに行くと誰か、ネガティブなコメントをつけたらしい。

そこであらためて、この曲はどう弾けば良いのか考えてみた。というか、たくさんの演奏がアップされているので聞き比べてみた。

Schumann Kreisleriana : Vladimir Horowitz (1/4) ホロヴィッツ

検索するとまっさきにこれが飛び出してくる。思わず叫んでしまうような強烈な演奏だ。何か初めてこの曲を聞いたような感じすらする。キーシンが刀の切れ味を吹聴したのに対して、ホロヴィッツはその刀で人を切ってみせたような迫力だ。
ホロヴィッツに好き嫌いはあっても、この曲が指の運動だけのものではなく、一種のケレン味が命だということはわかった。

内田光子 Mitsuko Uchida, Schumann / クライスレリアーナ Kreisl

コメントに「さすが、内田光子。気品ある、知的な素晴らしい演奏だ」というのがあった。しかしシューマンはベートーベンではない。「用心棒」でいうなら三船敏郎ではなく仲代達矢の方だ。

Heinrich Neuhaus plays Schumann "Kreisleriana" Op.

YouTubeもありがたいもので、ノイハウスまで聞かせてもらえる。この人はギレリスやリヒテルを育てたことで有名な教師で、演奏家としては一流とは言いがたい。当然ながら演奏はひどいものだが、シューマンがこの曲を書いた時、一流ピアニストの腕前はこんなものだったということを押さえておくには重要かもしれない。つまりこの程度の演奏を前提として、シューマンは聴衆に何を訴えようとしたのか。そこには技巧以上のものがあったはずだ。そこをつかみとる必要がある。

Argerich plays Schumann Kreisleriana part 1

世間でこの人の評価は非常に高いようだが、私にはさっぱり分からない。大仰な演奏の割にはとりとめがない。色々引っ掻き回して最後にどっかに行ってしまうのである。この曲でも同じだ。

Elisso Virsaladze plays Schumann's Kreisleriana op. 1

トウシロウ演奏の代表。出だしは8分の力で腰貯めを作りながらにじり寄って、直前に腰を落として一気に爆発させるのが当たり前。問題は前後で三回来る上行パッセージの何番目に刃を抜いて切るかだ。

Robert Schumann Kreisleriana op.16 Roberto Cominat

この演奏を聴いて、思わず「うーむ」と唸った。柔らかい!優しい!ショパンのようだ。 ホロヴィッツで作られたこの曲のイメージが真っ向から否定される。Roberto Cominati という人らしい。見たところまだ若い。どこからとってきたのか音はひどい。しかし凄い演奏だ。
シューマンをショパンのように聞かせるというとは、有り余る音符を全部音にしながら、そのなかからメロディーラインをくっきりと浮かび上がらせるということで、よほどの技量があって、指に余裕がなければ出来ないことだろう。
あせってグーグル検索すると、結構売出し中のようだ。ラトルとラフマニノフの2番をやっている。ここでもやはり地味な演奏にこだわっている。
見たところまだ20代、顔はビクター・マチュアをもっとクドクした感じで(ビクター・マチュア分かりますか、世界初のシネスコ映画「聖衣」に出ていた人ですよ。そのあと「サムソンとデリラ」にも出ていたでしょう)、イタリアというよりはギリシャ・トルコ系。

今日の赤旗で「消費税増税論のウソ」という連載の3回目。
リードはこう書かれている。
<ウソ> 消費税を増税しなければ、将来世代にツケを回すことになる。
<ホント> 税率引き上げは、将来世代に重税と借金を押し付けることになる。
ということでその論拠として赤旗が作成したグラフが掲載されている。

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要するにすべての要素を織り込んで、希望的観測を最大限に行って、なおかつ年間30兆円の債務がつみあがっていくという仕掛けだということだ。
つまり消費税は、どんなに楽観的に見ても財政改善の切り札にはならないということだ。97年の9兆円負担増のときに、そのことはすでに証明されているし、今度の試算でもますますはっきりした。


国債が増える原因を分析して、根治療法を行わなければならない。
国債が増えている原因は、直接的にははっきりしている。量的緩和でジャバジャバ国債を発行しているからだ。
国債発行は本来は景気刺激策であったが、景気浮揚には何の役にも立たなかった。そのことは日銀自身が認めている。しかし、一度発行したらやめられなくなった。国債発行を抑えればたちまち市場は貧血状態になってしまうからだ。
もう麻薬と同じである。当初は快感から麻薬を求めたが、今は禁断症状が恐ろしくて続けている。この蛇口を閉じない限り国債発行は止まらない。
日銀は総裁以下口をそろえて、「金融でやれることは限られており、時間つなぎに過ぎない。早く実体経済を何とかしてくれ」と叫んでいる。
つまりサプライサイド・エコノミーは完全に破綻しており、実体経済に照準を合わせた大胆な政策転換が必要になっているのだ。
その政策転換とは何か、有り余る金を生産的投資に振り向けることである。そのために、たとえば内需比率の5%増とかをターゲットとして、有効需要を喚起することである。一言で言えば小泉改革の逆張りを行うことである。
それは所得の再配分によってのみ可能であり、それが出来るのは政府を置いてほかにない。
その結果若干のインフレが喚起されるかもしれない。サプライサイド・エコノミーがやろうとして果たせなかった「インフレ・ターゲティング」は、この方法で初めて実現されるのである。

エクアドル クーデター未遂事件--報道と真実」を書き直しました。
木下氏の論文はとても刺激になりました。どうも普段は惰性で作業していますが、こういう文章が出ると、とたんにファイトがわきます。
現地で活躍されていて、スペイン語ができてというと、もう私よりそれだけで9点アヘッドを与えられているようなものです。
しかしこちらも30年仕込みをかけていますから、そうそう負けてはいられません。
年の割には血の気が多い方ですから、立身出世でしゃらくさいことを抜かす連中には、これからも突っかかっていきたいと思います。

2001年後半期の日銀議事録が公開された。
この年3月に、いまだに議論となっている量的緩和政策が導入された年である。
導入されただけではなく、その年の8月、9月、12月と三回にわたり量的緩和を強化している。
注目されるのは当時から、トップもふくめ誰も量的緩和の効果など信じていなかったということだ。
たとえば山口副総裁は「客観情勢の厳しさに比べて日銀がとりうる政策は非常に苦しい選択にならざるを得ない」と、問わず語りに効果を疑問視している。
須田委員は、日銀が供給した資金が日銀当座預金に滞留し、企業向け貸し出しなどに回らない状況を「死に金」と切り棄てている。
そして3月、8月、9月と3回にわたる緩和を経て10月の会合では、中原委員が項発言している。
「8月以降の緩和の実体経済への効果はいまやほとんどなく、当座預金残高目標を引き上げることの限界効果はほとんど見られない」


要するにこの時点でサプライサイドの経済主導を説く新自由主義は、完全に壁にぶち当たっていたのである。
しかも厄介なことに、ばら撒いた金は放射性廃棄物のように回収が困難である。回収を急いだ日銀が、金融不況を生み出したことは周知の通りで、バーナンキが力説したところである。
しかしバーナンキはそこから逆の結論を引き出した。「やるんなら、もっと徹底的にやれ」というばかりに、QE2を主導した。これを博打と言わずしてなんと言う。
かくしてその後の10年、日本と世界の金融政策は奈落の底への一本道を転げ落ちていくことになる。

八ツ場ダム逆転着工の裏側を共産党塩川議員が暴露した。
なかなかの名質問だ。
塩: なぜ八ツ場ダム中止の立場を覆したのか。
国交相: 歴代大臣の下で予断を持たずに検証を行ってきた。
塩: 検証を行ってきた一都五県のダム担当部長による幹事会だが、群馬県の担当部長はどこの出身か。
国交相: 国交省からの出向者です。
塩: 茨城県土木部長は?
国交相: 国交省からの出向者です。
塩: 茨城県の企画部長は?
国交相: 国交省からの出向者です。
塩: 千葉県の県土整備部長は?
国交相: 国交省からの出向者です。
中井予算委員長: 何人国交省出向者がいるのか?

ということで、一都五県の関係部長のなかに国交相からの出向者が4人、総務省からの出向者が1人いたことが明らかになりました。

塩: ダム推進の立場の国交省の関係者ばかりの憲章委員会で、どうしてまともな検証ができるのか。
野田首相: ちょっと国交省の出向者が多いなという印象はあるが、それはそれとして予断なく検証して来た。

内閣を追い詰めた見事な質問であった。



高齢化社会の後に何が来るのか、ここを検討しなければならない。
あと30年で高齢化社会は終わりを告げる。戦後20年を一区切りとするならそのあとの30年は日本の繁栄期だった。そして90年からの下降曲線は後退期であった。
これからの30年は高齢化進行社会でありそれがどういう形で進行するかはいまのところ未知数である。どちらかといえば最悪のコースを辿りそうないやな予感もある。
しかし終局点ははっきりしている。人口が70%前後になったところで人口構成がほぼ正常化し、そこから新たな出発をしていく時代になるのである。
その出発点がどのような様相を呈するのか、これはさまざまな予想を立てることができる。とすれば、その終局点に向けてどのようなコースを辿れば、もっともスムーズな移行が出来、軟着陸できるのかはデザインできるはずだ。
わたしは、1970年をイメージしている。経済・財政マクロでそのくらいの指標を2040年イメージとして設定していいのではないか。
まぁこの辺の議論はいろいろあるだろうが、高齢化社会論を語るのなら、そういうグランドデザインを前提に行うべきであろう。いたずらに危機をあおり、大企業に都合の良い政策を押し付けるような手法は、邪道というべきである。

「ラテンアメリカ・カリブ研究」のネット版(ラテンアメリカ・カリブ研究第18号)に在エクアドル日本大使館専門調査員の肩書きを持つ木下直俊氏が論文を発表している。題名は

現地報告: 混迷を深めるエクアドル-『9月30日騒擾事件』に関する一考察

というものである。

最初にお断りしておきたいが、この報告は『現地報告』ならではの貴重な情報が豊富に含まれており、情報収集と文章化に至らしめた木下氏の努力は大いに評価するものである。

私も、発生直後の錯綜した情報を一生懸命整理して文章にしているが、どうしても分からない点がいくつかあり、今回の報告でかなり事実関係がすっきりした。

ただ今回の事件を取り巻く状況は、より全体的に歴史的に見なければならない。私が今回の事件を分析してそこから導き出した結論は、木下氏の報告とはほとんど正反対のものであった。

たしかにエクアドルの政情は安定しているとはいえない。しかしこの国は過去200年にわたり政情不安が続いている国だ。ここ10年あまりをとって見ても、政変が頻回に起きている。

問題は混迷が深まっているのか安定に向かっているのかの評価であり、国民の暮らしがさらに悪化しつつあるのか改善に向かいつつあるのかの評価だ。

第二に、もし不安定化していると仮定したとして、それはコレアの失政がもたらしたものなのか、何らかの勢力による不安定化工作の結果なのかを見なければならない。

第三に、以上を踏まえた上で、2010年9月の『騒擾事件』が自然発生的なものだったのか、クーデター計画をふくむ陰謀だったのか、その性格を分析しなければならない。

まず基本的なポジションとして木下氏は明らかに反コレアないし嫌コレアの立場をとっている。

それは以下のような記載で示されている。

①“コレア政権が抱える影の部分 は見過ごされ、静かに進行していた”

②“コレア政権が抱える内政問題が…噴出した”

③“政権発足からこれまで、政府に対する抗議活動は幾度となく発生している”

④“大統領主導による権威主義的な政治体制を敷いたが、強権的な政府に対する反発や不満は極限に達した”

<はじめに>という短い文章の中でこれだけ書き込まれていれば、ほとんど“アジビラ”のレベルであろう。現地報告というよりは、まるでシリアのアサド政権を糾弾するかのような文章である。

それだけではない。一方で、『多数の死傷者をもたらした』、警官や兵士、一部野党の行動の違法性には言及されず、むしろ警官たちを支持する立場を示唆している。

それは次の一文に象徴的に示されている

それはコレア政権が抱える内政問題が『9月30日騒擾事件』として噴出した瞬間であった。

これは米国政府もふくむ南北アメリカの共通の認識ともかけ離れた、いちぢるしく特異な見解である。

この言い方が許されるなら、73年にアジェンデ政権を倒したピノチェトのクーデターも、02年4月にチャベス政権を一度は倒したクーデターも、すべて美化されてしまう。

いくら私見とはいえ、大使館専門調査員としての節度をいささか外れているのではないかとの懸念を抱かざるを得ない。

次に本論に入ると最初の見出しが

1.先鋭化するコレア政権

どこが先鋭かという根拠は次の通り

①政府は審議を強硬に進めようとして…事前の協議もなく強硬に法律を改正しようとした。

②南米統合を謳い、米州ボリバル代替構想に加盟。南米諸国連合や米州機構といった域内組織との連携も積極的に進めた。

③市場原理を重視した新自由主義路線から、国家の役割を重視する社会主義路線 へと経済政策を転換した。

④安定した雇用環境を構築すべく、パートタイム労働や派遣労働を禁じている。さらに、経済の底上げを目指して、公共事業や社会政策への政府支出を大幅に増やしている。

これらを根拠にして木下氏は次のように結論付けている。

このように、コレア政権は社会主義的かつ急進的な諸政策を推し進めている

反論する気も起きない、ほとんど『お笑いの世界』である。


木下氏の「現地報告」はクーデター未遂事件を紹介する格好をとりながら、「背景説明」に異例の長さを割いている。

それは結果的にクーデター未遂事件を弁護することとなっており、少々行き過ぎがあったとしても「殴った気持ちは分かる」という論理と、「殴られたほうが悪いんだ」という論理とから構成されている。

しかも南米連合や米州機構がはっきりと、クーデターないしクーデターに近い計画性を指摘しているのを、あえて無視して、反乱の偶発性を強調するという点で、国際社会の見識をあからさまにコケにしている。

いまやアメリカは、いきなり軍の戦車が街頭に進出して政府機関を制圧するというような方式はとらないのである。あくまで、民衆の抗議運動が衝突に発展し、国内の混乱が極限に達したところで軍が仲裁に乗り出すという形をとるのである。

もちろんただの行きすぎた抗議行動であった可能性もある。私も最初はそう思った。しかし南北アメリカのほとんどすべての国が参加する(キューバを除いて)「米州機構」の事務総長がクーデター未遂であったと判断すれば、そうなのだろうと思わざるを得ない。それを否定するならよほどの証拠を出さなければならない。木下氏の「個人的に収集した情報」をふくめて、そのような論拠が提出されているとは思えない。クーデターではないとの主張は、たとえ個人的見解であるにせよ現職外交官のポジションを著しく逸脱したものと断ぜざるを得ない。

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