鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

2012年01月

現在の政府には、現段階を下降・調整局面にあると見るのか否かの判断が窺われません。「財政再建」だけが浮き上がっています。

たしかに国内市場だけを見れば、円高不況で失業率は高止まりし、そこへ持ってきて大震災・原発事故と散々です。
しかし不況局面かといえば、企業は最高の利益を上げ、配当を増やし、内部留保を積み増しています。円はジャブジャブに溢れかえっています。

そういうことで、判断は難しいと思いますが、政府が判断し着手する以外に誰も出来ないことでもあります。すなわち単純な財政出動ではなく、所得再配分の思い切った断行をともなう景気回復措置です。

これまで「財源はある」とか「無い」とかやってきましたが、結論ははっきりしてきたように思います。「今のままでは無い」のです。
いまのままの仕掛け、大衆から収奪して大企業に与える仕掛けを続ける限り、消費税が10%になっても、20%になっても賄えません。増税論者はそのことをはっきり言うべきです。

先日のダボスの賢人たちの見解に引き続き、今度は国際機関の代表11人が共同声明を発表した。
11代表とは、IMF、世銀、WTO、OECD、アジア・アフリカ・米州の開発銀行とカナダ銀行の八つの国際金融・貿易機構。これにILO、WFP、さらにWHOが加わる11機関の代表。
欧州中銀が入らないのがちょっと気になるが、一応主だったところは網羅している。この顔ぶれだけでも、一面記事の資格は十分ある。
主な内容は
①財政再建は成長と雇用を促進しながら行うべきだ。
②格差を拡大させない包括的な成長モデルを。
ということで、言い方はきわめて抽象的だが
端的に言えば、1980年から90年代にかけてIMFがとったような方法をとるな、ということである。
つまり、いま日本がやろうとしているような財政再建策をとるな、ということでもある。


これには二通りの見かたができる。
かつて途上国に押し付けたネオリベラリズム政策に対する反省ともとれるし、今度は自分のことになったのでダブルスタンダードを持ち出したのかと皮肉な見かたをすることも出来る。

いづれにせよ、身命を賭して一体改革に取り組もうという日本政府にとって、この問いかけは重い。

赤旗の記事は少々分かりにくい。小玉記者は本気で書いていない。たしかにこれだけでは一面記事にはできない。
IMF・世銀は往々にして、言うこととやることが違っている。もう少し支配層全体の雰囲気や流れが分かるような解説やフォロー記事がほしい。
(9月29日の当ブログ記事でOECDとILOの共同声明を紹介したが、そこではもっとはっきりした形で雇用が景気回復の鍵であることを強調している。ILO・世銀・各開銀は、少し薄めた形ではあるが、その方向を受け入れたことになる)

日曜大工で箱作り。こちらが高いから削ると、今度はあちらが高いからといって削る。何とか平らになったものの、結局全部が寸足らずになってお釈迦、というのはいかにもありそうです。
肝心なことは寸法を合わすことで、平らにすることではないんですが、やっているうちにそんなことは忘れてしまう。
大事なことは絶対尺度を忘れないで、その範囲で平準化することです。
もっともこれは削る話。
伸ばしていくときには、不ぞろいでも競い合えばよいのです。

経営でも同じことで、全体として経営が上昇期にあるのか、下降期にあるのかの判断がまず重要です。そして上昇期であれば、それ行けどんどんでやればよいし、大いに競争すればよいのです。
その代わり下降期に入ったときは、①何が経営のコアーなのか、②どこまでスリム化するのか、③それでやっていけるのか、が戦略課題となります。同時にそのなかでも将来成長していく上で鍵を握るいくつかの芽は大事に育てていかなければなりません。
経営が厳しいときほど、原理・原則に立った凛とした姿勢がもとめられます。

むかし、私たちはそれを「不平等・団結路線」と呼びました。つまり相対評価ではなく絶対評価でやっていこうという意思の表現です。


相対評価は競争社会の原理です。それは大事な原理です。競争社会は人間をばらばらに切り離し、すべての紐帯を切り捨てる限りにおいて自由を生み出し、個性を生み出します。

ただ、押さえておかなければならないのは、競争社会は人倫的な共同社会の上に乗っかったものだということです。ここは人間社会のコアー部分であり、絶対的評価の世界です。

かつては「公務員に比べ民間企業は高すぎる」といって削り、今度は「公務員は高すぎる」といい、カンナをかけているようでは、いまの時代乗り切れません。削減の論理に相対評価を適用するのは根本的に間違っています。

金持ちがもらいすぎているという議論も、やっかみだけでは、いまの時代を乗り切る思想にはなれません。人倫的な共同社会を守り育てていくために何をなすべきか、そのための絶対的尺度をどう設定していくか、が求められているのではないでしょうか。



(67) ホテル・ビクトリア (Gran Hotel Victoria)

これは本当はフォルクローレのジャンルに入れたい曲だ。HPでもロス・インディオス・タクナウの演奏をトップに上げている。

Historia del tango y del Hotel Victoria

こちらはフランシスコ・カナロの演奏。晩年の演奏だろうか、モノだが音は良い。ゆったりとした演奏でカナロらしく奇をてらわず上品だ。

QUINTETO REAL - Hotel Victoria 

こちらは対照的に奇をてらいまくった演奏。これではとても安心して踊れない。しかしさすがにキンテート・レアル、水準は高い。盗み撮り音源のようだが音は悪くない。かなり年季の入った盗み撮りだ。

JUAN D'ARIENZO - HOTEL VICTORIA - TANGO

ダリエンソの演奏で、いちおう標準盤だろうが音質は相当悪い。不思議なことに(というよりよくあることだが)こちらのSP盤のほうがはるかに音が良い。

Horacio Salgán y Ubaldo De Lío. Hotel Victoria.

インスピレーションにあふれた名演。音も最高。タンゴかと言われると…

TANGO入門(3)オテル・ビクトリアHOTEL VICTORIA(F.Latasa)Or

ishizakiさんのファイル。オルケスタ・ダリエンソという楽団の演奏らしい。音質は秀逸。

Gran Hotel Victoria (Hotel Victoria) .- Tita Merello / O

ティタ・メレージョの歌入り。どうって言うことない歌だがカルロス・フィガリ楽団の伴奏が小粋である。

 

(68) 7月9日 (9 de Julio)

7月9日はアルゼンチンの独立記念日。私の年表を参照していただきたい。

TANGO入門(9) 7月9日NUEVE DE JULIO(JLPadula) Osvaldo P

プグリエセの演奏で、この曲の標準とも言える演奏。非の打ち所のない堂々たる演奏だが、不思議に印象に残らない。

Orquesta de Horacio Salgán - 9 de julio (tango)

YouTubeで聞ける貴重なサルガン楽団の演奏。50年代はじめの演奏だが非常に響きが新しい。これを聞くと「7月9日は名曲だ」という感じがしてくる。サルガンはメロディーラインを弾いているわけではないのに、聞き終わるとピアノの音ばかりが印象に残る。

Bandoneon Tango " 9 de Julio" Juan D'Arienzo

これでもかとばかりにダリエンソ節が炸裂する。“それほどの曲かという感じもしないでもない。映像音源で音はひどい。


最初に、「世界政治」の紹介した時嫌な感じがしたんですね。またも泥沼だぞ、と。
案の定でした。

とりあえず、感想めいたことをひとつ、2つ。

①日本における情報量のすごいこと、ほとんど英語文献には手をつけていないのに、これだけの量です。我らが高林先生の「西アフリカ研究室」の情報には圧倒されますが、それだけではなくネット上には多数のすぐれた文献がアップされています。Wikipediaも充実しています。
これだけあると、突き合わせが可能になるので、相当精細な経過が追えます。
参照したネット文献は下記のとおりです。

(西サハラ問題研究室:高林敏之)

35年の占領:西サハラ人の抵抗キャンプをモロッコ治安部隊が弾圧 ...

このビデオはぜひ見るべきです。解説者は本質を見事に捉えています。

ポリサリオ戦線 - Wikipedia

西サハラ - Wikipedia西サハラ問題 - Wikipedia西サハラ

西サハラ:アフリカ大陸基本情報

西サハラ

スペイン領サハラ

モロッコ解放軍

ハラカト・タハリール  

ゼムラ蜂起  

西サハラ (サハラ・アラブ民主共和国) 

ディプロ2006-1 - Inextricable, le conflit du Sahara occidental rebondit 

地誌Wiki - 西サハラ


②「西サハラは東チモールと同じだ」と言われていますが、重要な違いがあります。それはモロッコはインドネシアではないということです。
アメリカはアジア債務危機の際、スハルト政権を見殺しにしました。当時新聞は民衆蜂起が成功したと書きましたが、沖合いには沖縄の海兵隊を満載した第7艦隊が上陸準備していたことには触れませんでした。
一方、「アラブの春」で、本来なら真っ先に倒されなければならないはずのモロッコ王制は、民衆の抗議などどこ吹く風、我が世の春を歌っています。
だいたい「英明な君主」なんていうのは「硬い豆腐」と同じで形容矛盾です。もし英明な君主なら君主制など廃止するはずではありませんか。(丸い豆腐はありますねぇ)
正直いって私も、2009年の「インティファダ」は今回はじめて知りました。ちゃんと赤旗読んでいたはずなんだけどなぁ。

③重要なもう一つの違いはアルジェリアというバックの存在です。アルジェリアがあったからこそ、ここまでやって来れたのですが、この先もこのままで良いとは思えません。
せっかくモロッコから独立してもアルジェリアの属国になってしまったのでは意味がありません。70年代の戦闘を指導した人々ももう60歳台に入るはず、キャンプで生まれた人ももう30歳を越えてきます。90年代末にコロンビアのFARCが社会復帰のチャンスを逃したのも、あまりにも長くゲリラ闘争を続けてきたからです。
とにかく今のままでは闘えないのは事実です。大事なことは闘うことです。人々の生活する現場で人々と共に闘うことです。
トップが筋をつらぬくことと、30万の難民に「帰国して祖国で闘う自由」を与えることは、矛盾しないと思いますが…

④これはちょっとオタクめいた感想になりますが、「砂の壁」の有効性です。これまでゲリラ戦では「戦略村」が最も普遍的な対ゲリラ作戦でした。ベトナムはこれでだいぶ苦労しましたが、トンネル作戦でこれを乗り切りました。
戦略村とトンネル作戦(あるいは塹壕作戦)は朝鮮戦争から最近のメキシコ麻薬戦争まで拮抗してきましたが、これからは万里の長城作戦が復活していくのでしょうか。

1992年

1月 モロッコの異議により住民投票が延期される。スペインが1970年代に住民投票のため作成した住民名簿を基礎とした有権者名簿にたいし、12万人のモロッコ側名簿を加えるよう要求。

1997年

9月 ベーカー元米国務長官、国連事務総長「個人特使」として当事者間仲介。有権者認定作業を再開することで合意(ヒューストン合意)。

1998年

6月 ベーカー提案が暗礁に乗り上げる。

1999年

7月 モロッコ国王ハサン2世死去、ムハンマド6世が即位

2001年

2月 アナン国連事務総長、5年間のモロッコ主権下での自治のあと、独立・自治・モロッコ統合のいずれかを選ぶ住民投票という2段階・三択計画を提案する。ポリサリオ戦線はこれを拒否するが03年には受け入れる。

2002年

11月 ムハンマド6世、テレビ演説で「国連の住民投票計画はもはや有効でなく、住民投票は受け入れられない」と声明。

02年 東チモールが国連投票で独立を実現。

2003年

5月 「西サハラ人民の自決のための和平プラン」が提案される。5年間の暫定自治を経て、独立・自治・モロッコ統合のいずれかを選択するというもの。

7月 ポリサリオ戦線が「和平プラン」を受諾。これを受け、国連安保理が「和平プラン」を支持する決議を採択。

11月 ポリサリオ戦線は、モロッコ人捕虜300人を解放したと発表。捕虜たちの本国帰還は赤十字国際委員会に委ねられる。モロッコ政府は捕虜の存在を認めていなかった。

2004年

4月 モロッコは「和平プラン」を正式に拒否。自治のみが唯一の解決であるとの姿勢を鮮明にし、独立を選択肢に含む住民投票という構想を拒否。

2008年

2月 サハラ・アラブ民主共和国、ティファリティを臨時首都として宣言(正式の首都はラユーン)。

2009年

インティファダの女性指導者アミナトゥ・ハイダー、アメリカで市民の勇気賞(Civil Courage Prize)を受賞。モロッコから帰国を拒否され、カナリア諸島の空港で30日間のハンストを行なう。

2010年

9.21 モロッコ自治領化を主張したポリサリオ監察総監がポリサリオ武装派により誘拐・監禁される。人権団体がいっせいに非難したためまもなく解放。

9月 モロッコ政府、1月以降1360人がティンドゥフを脱走しモロッコに帰還していると報道。

10.13 西サハラ・モロッコ占領地でのインティファーダが始まる。首都ラユーンから15キロ離れた砂漠で「蜂起キャンプ」を設営。経済上の正義の要求を前面に抗議活動を開始する。キャンプへの結集者は瞬く間に拡大し、女性・子供・老人を含め1万人以上が参加する。

10.25 モロッコ占領軍が「蜂起キャンプ」に物資を運ぶ14才の西サハラ人少年を射殺。少年の兄二人をふくむ7人も銃撃され、病院に運ばれる。

10.29 モロッコ内務省、「検問に当たっていたモロッコ兵に向け2台の四輪駆動車が突然発砲してきた。モロッ コ兵は応戦し、14才の少年が死亡、7人が軽傷」と発表。「モロッコ国王に刃向かう国際テロリストの犯罪行為」と非難する。

11.02 現地の人道援助団体、「モロッコ軍が居留区に乱入し活動家を拘束している」とBBCに通報。国際支援をもとめる。

サンフランシスコ大学のズーヌス教授は「デモクラシー・ナウ!」で次のように語っている。
 西サハラの活動は、女性の権利と民主主義を求める非暴力の闘争です。それこそ西洋の国々がアラブに求めたものではないのか? それなのに欧米は専制君主を助けて非暴力の抵抗を弾圧させている。…西サハラの唯一の希望は東チモールで見られたような世界の市民社会が団結した国際連帯運動です。

11.08 モロッコの治安部隊が抗議キャンプを攻撃。アイウンは封鎖され、報道関係者は強制的に国外追放される。

11.11 モロッコ当局、死者は12人、そのうちモロッコ警察が10人と発表。モロッコ国内では事件は報道されず。

11.09 ポリサリオ戦線、サハラ人の死者は11人、723人が負傷、行方不明159人と発表。

つい読み流すので、今日は気合を入れて読む。

原発の格納容器内の内視鏡写真が公開された。ほとんどホワイトノイズで砂嵐状態。これが放射線によるものと説明されても良く分からない。入った場所からいうと水の中ではないからあぶくではない。とすればダストか?しかし本来ダストがあるような場所ではない。
放射線によるノイズといわれても、ガンマ線が目に見えるわけないし、まったく納得できないが。

ということで、赤旗を読む。
これで見ると粒状の物質は水滴だと書いてある。無数の水滴が落下しており、水蒸気が篭もって視界が数メートルだそうだ。容器内の湿度が極めて高いことは分かった。

温度は45度、かなり暑い。銭湯の室内よりは暑い。蒸気浴の室内くらいだろうか。サウナよりは低いが、湿度100%で45度は耐えられる温度ではない。

どうしてこんなに温度が高いのかといえば、溶け落ちた核燃料がいまだに反応しているからとしか考えようがない。おそらく煮立っているのだろう。でなければ45度出ることはないはずだ。

ここから先が分からないのだが、気圧はどうなっているのだろうか、内視鏡を入れたということは1気圧ということなのだろうか。であれば、水が煮立って湯気になれば膨張するわけだから、その水蒸気は外に流れっぱなしになっているのだろうか、もし密閉されているとすれば圧力が高まって爆発する恐れはないのだろうか。

これが出口の問題。

もう一つ入り口の問題としては、どんどん水蒸気が発生しているとすれば、水はなくなってしまう。そうなれば核燃料の制御は利かなくなりふたたび臨界に達してしまう。水は補給されているのだろうか。補給されているのなら、どうして期待したレベルまで水位が上昇していないのだろうか。

こうやって考えてくると、放射線のノイズ云々というのは目くらましのような気もする。肝心なことは水位が期待したほどには上昇していないということなのではないか?
その原因がはっきりするまでは、事故処理が前進したということにはならないようだ。


つい読み流すので、今日は気合を入れて読む。

原発の格納容器内の内視鏡写真が公開された。ほとんどホワイトノイズで砂嵐状態。これが放射線によるものと説明されても良く分からない。入った場所からいうと水の中ではないからあぶくではない。とすればダストか?しかし本来ダストがあるような場所ではない。
放射線によるノイズといわれても、ガンマ線が目に見えるわけないし、まったく納得できないが。

ということで、赤旗を読む。
これで見ると粒状の物質は水滴だと書いてある。無数の水滴が落下しており、水蒸気が篭もって視界が数メートルだそうだ。容器内の湿度が極めて高いことは分かった。

温度は45度、かなり暑い。銭湯の室内よりは暑い。蒸気浴の室内くらいだろうか。サウナよりは低いが、湿度100%で45度は耐えられる温度ではない。

どうしてこんなに温度が高いのかといえば、溶け落ちた核燃料がいまだに反応しているからとしか考えようがない。おそらく煮立っているのだろう。でなければ45度出ることはないはずだ。

ここから先が分からないのだが、気圧はどうなっているのだろうか、内視鏡を入れたということは1気圧ということなのだろうか。であれば、水が煮立って湯気になれば膨張するわけだから、その水蒸気は外に流れっぱなしになっているのだろうか、もし密閉されているとすれば圧力が高まって爆発する恐れはないのだろうか。

これが出口の問題。

もう一つ入り口の問題としては、どんどん水蒸気が発生しているとすれば、水はなくなってしまう。そうなれば核燃料の制御は利かなくなりふたたび臨界に達してしまう。水は補給されているのだろうか。補給されているのなら、どうして期待したレベルまで水位が上昇していないのだろうか。

こうやって考えてくると、放射線のノイズ云々というのは目くらましのような気もする。肝心なことは水位が期待したほどには上昇していないということなのではないか?
その原因がはっきりするまでは、事故処理が前進したということにはならないようだ。


西サハラの記事をいろいろ探しているうちに、こんな写真に出会った。

中部地雷問題支援ネットワーク

というページだ。とりあえず写真を転載させていただく。
元々の記事は(CNN 2008.4.2)からのようだ。
http://livedoor.blogimg.jp/shosuzki/imgs/2/7/275138d2.jpg

 約30年にわたって内戦状態が続いたアフリカ南西部アンゴラで2日、地雷の被害を受けた女性のミス・コンテストが開催される。まだまだ土中に埋もれてい る地雷の危険性を多くの人々に伝えるために企画されたコンテストで、優勝賞品はカスタムメイドの義足。また、参加者全員が政府の援助を受けられる。

参加者の写真やプロフィールなどは、大会の公式サイト(http://www.miss-landmine.org/)で見ることができるそうだ。

笑えないジョークではあるが、この際は遠慮しないで笑って泣くのが一番だろう。

 結局、全面的に着手してしまいました。意外に日本語資料が多く、読みこなすだけで数日が費やされてしまいました。

日本語版ウィキペディアにはいくつか不正確な記述があるようです。別に論争的なテーマではないので、早めに訂正されるよう期待します。



怖いもので、載せて送ったつもりが送られていませんでした。焦ってバックアップ・ファイルを除いたら、運よく残っていました。ただし、これは最終版ではなく、いくつか重要な事項が抜けています。

とりあえず載せておきますが、近日中に補充します。

1860年 モロッコ南部のイフニ地方がスペインの植民地となる。イフニは港町ジジ・イフニを中心とする1900平方キロほどの地域で、西サハラからは離れている。

1885年 スペインはボジャドールを南端とする「西サハラ」の保護領化を宣言。それまで西サハラはモロッコ王国の影響下にあったが、支配関係にはなかった。

もともとの住民は黒人であったが、北部から「ベルベル人」が移動してきて多数派となり、その次に13世紀頃に東からやってきた「アラ ブ人」と混淆していった。主に遊牧を営み、みんなひっくるめて「サハラウィ」(サハラの民)と総称される。

1910年 マー・アルアイニン、モロッコを攻撃。マラケシュを占領しフェスに向かうがフランス軍に敗れる。内陸部に逃れスマラの町を建設。

マー・アルアイニン: 本名はモハメッド・ムスタファ・ウーラッド・シェイク・モハメッド・ファデル。マー・ア ルアイニンは「目の水」という意味の通称。モーリタニアから西サハラまで の部族を統率、植民地支配者に対する抵抗の指導者となる。モロッコ攻撃は植民地解放運動へのスルタンの不誠実な対応に抗議するものといわれる。
 マー・アルアイニンは1911年に世を去ったが、息子たちがさらに6年にわたり抵抗運動を続けた。

1912年 モロッコ、スペイン・フランス協定によって保護領となる。「アラウィー朝」王室は存続したが外交権等を剥奪される。

1912年 スペインとフランスの協議により西サハラの境界線が確定。スペインは西サハラにモロッコ南部の保護領タルファヤ地方とイフニ飛び地を加え、スペイン領西アフリカとして再編する。

一説によれば、スペインはモロッコ南部に侵入し、16年にジュビィ岬(Cape Juby)を占領、ビリャ・ベンスを建設。20年にさらにラ・ゲーラを占領し、この地帯を南部保護領とした後、西アフリカに編入したとされる。この前後にビリャ・ベンスはタルファヤと改称され、スペイン領西アフリカの首都とされた様子。

1928年 サンテグジュペリのレポート「リオ・デ・オロ」に拠れば、スペインの植民地支配は海岸線に限定される。この年ラユーンの街が建設される。

1934年 スペイン軍、サハラウィの抵抗を抑える。西サハラはスペイン領サハラと改称。南部のリオ・デ・オロと北部のサギア・エル・ハムラより構成される。

1947年 ブークラーで燐鉱石鉱脈が発見される。

1956年 モロッコがフランスから独立。スペインにも南部支配地イフニ、タルファヤの返還をもとめる。

1957年 

8.11 「サハラ解放軍」が西サハラ北部のリン鉱山の町シジ・イフニで蜂起。イフニ戦争が始まる。スペインはカナリア諸島から落下傘兵連隊を送り、「サハラ解放軍」を退ける。

サハラ解放軍: モロッコの主要政党のひとつイスティクラール党の組織した義勇兵部隊。サハラウィも大挙参加した。

1958年

2月 ハッサン二世、「サハラ解放軍」を再編し、援助を強化する。スペインはフランスの「軍事協力」を得て掃討に乗り出す。

4.01 アングラ・デ・シントラ協定が成立。モロッコはジジ・イフニ周辺のスペイン支配を認め。「サハラ解放軍」への支援を打ち切る代償としてタルファヤとタンタンをふくむ南部保護領の返還を獲得する。

1962年 アルジェリアがフランスから独立。北アフリカにおける民族解放運動のリーダーとなる。

1963年 西サハラ北部ブーカラー (Bou Craa) のリン鉱床の埋蔵量が最大規模の鉱脈であることが明らかとなる。世界の採掘可能燐鉱石の9パーセントに達するとされる。

1965年 西サハラが国連の「独立すべき植民地リスト」に載せられる。翌年にはアフリカ統一機構(OAU)が西サハラの自決権を支持する決議を採択。

1967年 バシリらが中心となり、アイウンに独立を目指す組織が結成される。

1968年 騙されて外人部隊に入隊した日本人2人が砂漠越えの脱走を企てる。3日後には暑さに耐えられなくなって外人部隊駐屯地に引き返し、重営倉(軍隊の懲罰施設)入りとなっ た。

1969年 スペイン、西アフリカの首都となっていたイフニをモロッコに割譲。これに代わりラユーンに総督府がおかれる。

ラユーンは欧米での発音。元々はアラビア語で “al-Aiyun” なのでアル・アイウンが正しい。征服したヨーロッパ人が “Laayoune” と呼び表記した(綴りはスペイン語というよりフランス語ですね)。現地でもラユーンで通用する。東京がトキオになった感じ。
ヨーロッパ語読みは邪道と言われるかもしれないが、それならメヒコ、クーバ、オンドゥラス、ベネスエラ、アルヘンティーナ、チレと呼びますか? 中華民国、朝鮮民主主義人民共和国と呼びますか?

69年 北部スマラの聖職者ムハンマド・バシリ、秘密結社「ハラカト・タハリール」(解放運動)を結成。正式には「サギア・エル・ハムラおよびリオ・デ・オロ解放運動」とされる。

サギア・エル・ハムラはアラビア語で「赤 い運河」を意味する。州都ラユーンを水路が横切っていることから名付けられた。西サハラの北1/3をなす。リオ・デ・オロはスペイン語で「黄金の川」の意味。国の南部2/3を成す。州都ダクラに川が走っていたことから名付けられたという。

1970年

6.17 ハラカト・タハリールがラユーンのスペイン総督に対しサハラの独立と公正な扱いをもとめる請願デモ。市内ゼムラ地区で警察との衝突とな り、外人部隊が出動。少なくとも11人が死亡し、多数が負傷、数百名が逮捕される。指導者バシリは数日後に逮捕されたあと消息を絶つ。

1971年 モロッコ軍内に、ハッサン二世の統治への不満が高まる。ムハンマド・アバドゥ大佐がクーデタを試み、72年には国王専用のボーイング機が狙撃されるなどテロの標的になったが、ハッサン二世は奇跡的に生還した。

1972年

5月 「統一と解放のための戦線」(FLU)を名乗る武装組織が西サハラに侵入。スペイン軍とポリサリオ戦線の双方を相手に戦闘を開始。実体としてはモロッコ軍の一部とされる。

1973年

5.10 モーリタニア領のアイン・ベンティリで、スペインからの独立を目指すポリサリオ戦線が結成される。

ポリサリオ戦線: Frente Popular de Liberación de Saguía el Hamra y o de Oro の頭文字をとったもの。正式には「サギア・エル・ハムラおよびリオ・デ・オロ解放人民戦線」となる。
 
モロッコの大学に留学するサハラウイ学生を中心に結成され、エル・ウアリ・ムスタファ・サイードが書記長に就任、アブデルアジズらが指導。

5.20 ポリサリオ戦線、エル・ハンガでスペイン軍部隊と最初の交戦。わずか7名のゲリラでスペイン兵16名に勝利。

73 モロッコ、アルジェリア、モーリタニアの3国首脳会談、西サハラの「自決」を求める。

73年 スペイン政府は、内政自治計画を声明。西アフリカを「海外県」とし、現地議会「ジェマー」を開設。本国議会にも3人の議員を送る。親スペイン政党「サハラウイ国民統一党」(PUNS)が結成される。

1974年

7月 スペインの独裁者フランコ総統が病に倒れる。このあと軟化したスペイン政府は国連の監視下において西サハラでの住民投票を行う方向を打ち出す。

74年 スペイン植民地当局が、住民投票の権利を有する西サハラ住民の名簿を作成。この時点では西サハラの登録人口は5万人しかいなかった。

74 モロッコは西サハラの独立を選択肢とする住民投票を拒否。「大モロッコ主義」を唱えて西アフリカの領有権を主張する。

大モロッコ主義: 16世紀以降にモロッコが支配してきた地域はみな現在のモロッコ王国に統合されるべきであるとの考えで、西アフリカだけでなくモーリタニアの全域・マリの北西部・アルジェリア西部までをも含んでいた。

1981年

3月 アメリカはモロッコに対し1億ドルの軍事援助を開始。アメリカ式訓練を受けたモロッコ軍特殊部隊がアガディールとタンタンに派遣される。部隊は人民解放軍の待ち伏せ攻撃を受け甚大な被害を出す。

6月 第一次の「砂の壁」が完成する。大西洋沿岸から内陸のアルジェリア国境の近くにまで達する全長700キロの長城が姿を現わす。

6.24 アフリカ統一機構の第18回首脳会議(ナイロビ)で、モロッコは西サハラでの住民投票受け入れを宣言。しかしポリサリオ戦線を紛争当事者と認めず、住民投票も「モロッコの主権を確認するためのもの」と主張。

8月 コジョOAU事務総長はRASDに加盟承認を通告

10月 アルジェリアの軍事支援を受けた西サハラ人民解放軍は国土の90%を解放。モロッコは派遣軍を8万人か ら13万人に増員して対抗。

“首都”ティンドゥフ: 4つの難民キャンプには合わせて約15万人が住み、モロッコ占領下の最も重要な都市名を取ってエル・アイウン、スマラ、アウセルト、ダクラと名付けられている。更に各省庁、キャンプ各地域の管理局、病院や診療室、幼稚園、小学校、女性のための職業学校、婦人団体、菜園、放送局などがある。

81年 劣勢に追い込まれたモロッコは、北部にエルアイウン(首都)・スマラ・ブクラを結ぶ「重要三角地帯」を設定する。人民解放軍はただちに三角地帯の拠点ゲルタ・ゼムールを攻撃し甚大な被害を与える。

1982年

2.22 アジスアベバでOAU外相会議。RASDが出席。モロッコおよび18か国が退席し流会に追い込む。

5.27 ハッサンがワシントンを訪問し軍事援助をもとめる。EUを経由して1億ドルの軍事援助が提供されることとなる。

1983年

6.08 OAU首脳会議、モロッコとポリサリオ戦線を紛争当事者として初めて明記。直接交渉を求める決議を採択。

83年末 ハッサン二世、参謀本部を全面更迭。アメリカ式の装備に切り替える。

1984年

2.27 モーリタニアがRASDの独立を承認。

10月 ポリサリオ戦線、三角地帯の壁を同時攻撃。ズムール・二ランで防御線を突破する。その後は砂の壁を攻めあぐねる。

11月 OAU首脳会議にRASDが正式加盟。モロッコはOAU脱退を宣言する。

1987年

モロッコが建設を進めて来た「砂の壁」が完成。

砂の壁: 国土を東西に隔てる全長2千キロの防衛線。イスラエル軍の協力によって建設された。砂を高さ数メートルに積み上げて作ったもので、その周辺は鉄条網と地雷原で防御されている。

1988年

モロッコとポリサリオの双方が、国連事務総長の和平提案を受諾。

1989年

1月 ポリサリオ上級幹部がマラケシュでハサン2世と秘密会談。モロッコは住民投票の受け入れを了承する。

1990年

6月 包括和平案が国連安保理決議658として採択される。独立かモロッコ統合かを住民投票で選択することが骨子で、OAU枠組み案を踏襲する。

1991年

4月 国際連合の仲介でポリサリオ戦線とモロッコが停戦。モロッコ帰属か独立かを問う住民投票を実施することになる。

8月 国連西サハラ住民投票監視団(MINURSO)が創設される。

9月 ポリサリオ戦線とモロッコとの停戦が発効する。

1975年

2月 「統一解放戦線」(FLU)が北部で戦闘を開始。スペイン軍とポリサリオ戦線の双方に敵対する行動。実態はモロッコ政府軍の一部とされる。

その頃のモロッコは国王ハッサン2世が国防相・参謀総長を兼任していた。ハッサン独裁への軍部の不満は強く、王宮襲撃事件や国王専用機銃撃事件が続いていた。これらの矛盾を国外にそらすことに最大の目的があったとされる。

75年前半 国連現地調査使節団、圧倒的多数のサハラウイが併合ではなく独立を支持と報告。都市部以外のすべてはポリサリオ戦線が支配するにいたる。

75年 カルロス皇太子がエルアイウンを訪問、西サハラの独立をあらゆる方策で保障すると述べる。

10月 国際司法裁判所、モロッコの西サハラ領有権を否定する裁定。ハッサン2世は裁定受け入れを拒否し、「緑の行進」を呼びかける。

判決の要旨: 西サハラとモロッコ、あるいはモーリタニアの間には、歴史上いかなる領土上の主権関係もなかった。スペインによる植民地化の時点では西サハラは「主なき地」ではなかった。

10.31 モロッコ軍8千人が国境を越え軍事占領作戦を展開。(この項真偽不明)

11.06 モロッコは35万人を動員した「緑の行進」を強行。ハッサン2世は「いかなる専制君主といえど も。非武装の35万人に発砲を命じることは出来まい」と扇動。

緑の行進の実態: ①35万人は主催者発表であり実数は不明、②行進団の上空にはモロッコ空軍機が旋回しており、非武装とはいえない、③モロッコ政府軍の別働隊であるFLUがポリサリオ戦線との衝突を繰り返していた、④行進団は国境から12キロの地雷原で反転、そのまま国内に戻った。

11.06 モーリタニアが南部から侵入。2万の軍が南部リオ・デ・オロ地方の中心地ゲラを占領。(この項真偽不明)

11.06 国連決議380号、「行進に参加した全モロッコ人の即時引き上げ」をもとめる。アルジェリア領内に大量の難民が流出。スペイン政府は民間人や兵士の家族に退去を命じる。

11.14 マドリードでスペインとモロッコ、モーリタニアの三国会談。秘密協定で、スペインは西サハラの分割譲渡を認める。燐鉱山は、所有権をモロッコ2、スペイン1の割合で分割することで合意。

11.20 フランコ総統が死去。スペインは西サハラへの関心を完全に失う。

11.25 モロッコ正規軍4000名が国境を越えて侵攻。

11.28 諮問議会「ジェマー」、独立を支持する「ゲルタ・ゼムール宣言」を発する。ジェマーを解散するとともに、ポリサリオ戦線こそが西サハラ唯一の合法的権威であるとする。

「ジェマー」はスペインが開設した現地人の諮問議会。宣言には議員の3分の2のほか、西サハラ選出のスペイン国会議員3人、60人の族長が署名した。

12.10 モーリタニア軍が侵入。スペイン駐留軍基地の撤収跡を確保するためポリサリオ戦線との戦闘が繰り返される。

ポリサリオ戦線はモーリタニア軍の後方基地を襲い、越境してモーリタニア軍拠点を攻撃するなど多彩な攻撃を展開。司令官エル・ワリは神出鬼没の活躍ぶりから「サハラの狼」と呼ばれた。

12月 長老層や旧「サハラ解放軍」兵士らがポリサリオに合流し、「臨時サハラウイ国民評議会」を創設。

1976年

1.12 スペイン軍の最終部隊がダクラから引き揚げる。これに代わりモーリタニア軍がダクラに進駐。

1月 エル・ウアリ・ムスタファ・サイードのひきいるポリサリオ戦線は、住民を道連れに奥地への遅延撤退作戦を展開。モロッコ軍がナパーム弾で難民の列を爆撃。

1.21 モロッコ空軍のF5戦闘機がポリサリオ戦線によって撃墜される。対空兵器はアルジェリアから持ち込まれたものであった。

1月末 アルジェリア国営通信、自国軍がモロッコ軍と衝突したと公表する。

2.14 アルジェリア軍、難民の移動完了を見て、西サハラ領内より撤収。

2.26 スペインが最終的に西サハラの領有を放棄。

2.27 アルジェリア領内ティンドゥフに形成された難民キャンプを拠点として「サハラ・アラブ民主共和国」の建国を宣言。

サハラ・アラブ民主共和国: Sahrawi Arab Democratic Republic (SADR) と称される。アルジェリアとリビアが支援に回った。実質的行政機能はアルジェに置かれる。

3.01 アフリカ統一機構、西サハラへの支持を表明。

4.14 モロッコとモーリタニアが西サハラの分割ラインを決定。

6.07 ポリサリオ戦線、モーリタニアの首都ヌアクショットへの急襲作戦。ランドローバーやトラックに分乗した兵士600人がティンドゥフを出発。

6.09 ポリサリオ戦線がヌアクショット市内に突入。一時は大統領官邸付近に迫撃砲弾を撃ち込むが結局は撃退される。ポリサリオ戦線側の戦死者は200人を数え、この闘いでエル・ウワリが戦死。

7月 モロッコのラバトでハッサン二世とモーリタニアのウルド・ダッダ大統領が会談。「相互防衛条約」に調印する。モロッコ軍3千人がモーリタニア支配地域に展開。さらにフランス人の「ジャガール飛行部隊」が制空権を確保する。

8月 ポリサリオ戦線の第3回大会。エル・ウワリに代わりムハメッド・アブデルアジズが書記長に選出される。サハラ人民解放軍(ALPS)を編成する。

8.30 アブデルアジズ、第3代のサハラ・アラブ民主共和国大統領となる。

10月 ポリサリオ戦線が軍事攻勢を再開。ヌアクショットも少人数コマンドによる反復攻撃の対象となる。

1977年

5.01 西サハラ解放軍が「エル・ウアリ作戦」を実施。モーリタニアのゾエラットを攻撃。3週間にわたる戦闘の後占領。

ゾエラットには鉄鉱山があり、モーリタニア経済の心臓部とされる。モーリタニアは戦費増大に加え、資金源の鉄鉱山を叩かれたため経済危機に陥る。

5.01 ゾエラットに駐在していたフランス人6人が人質となる。ポリサリオ戦線は人質と交換にフランス政府の独立承認を要求。のちにフランス共産党の仲介によって解放される。

5.13 モーリタニア、モロッコとの相互防衛協定に調印。モーリタニア領へのモロッコ軍駐留が開始される。

7.03 エル・ウワリ戦死1周年を期して、西サハラ解放軍がヌアクショットを攻撃。攻撃は1週間にわたり続く。

7.20 モロッコ、モーリタニアに600人の増援部隊を派遣。

11月 モーリタニア軍と組んだフランスの「ジャガール」と「ミラージュ」の飛行部隊が進出し、制空権を握る

1978年

6月 モーリタニアのウルド・ダッダ大統領がクーデターにより失脚。

7.12 ポリサリオ戦線はモーリタニアに対する一方的戦闘停止を指示。

8.05 アルジェでポリサリオとモーリタニアの間に停戦協定成立。このあと戦いは西サハラ人民解放軍とモロッコ軍との間に絞られる。人民解放軍はリン鉱山を反復襲撃し操業停止に追い込む。

11月 フランス人飛行部隊が撤退。モロッコ軍はフランス軍の援助を受け反ゲリラ部隊「緊急介入部隊」(DIR)を編成。ゲリラ根絶のため焦土作戦を実施する。

1979年 

1.29 ポリサリオ戦線、「ブーメジエン攻勢」を開始。国境を越えモロッコ国内に侵入。レムサイルの戦闘で勝利し、タンタンを一時占拠。モロッコ軍2個連隊を壊滅に追い込む。(ブーメディエンは当時のアルジェリア大統領)

7月 第17回OAU首脳会議、西サハラにおける自決住民投票を骨子とする決議を採択。サハラ共和国のOAU加盟についても過半数の国が賛同するが、モロッコの脱退の脅しの前に、採択を保留する。

8.05 モーリタニアとポリサリオ戦線が和平協定を締結。モーリタニアは西サハラに対する領有権主張を放棄、相互不可侵と国境の尊重、モーリタニア占領地域のポリサリオへの引き渡しを約す。

8.14 モロッコは和平協定を無効と宣言。モーリタニア占領地域もふくめ西サハラ全土を自国に併合する。

9月 ハバナで開かれた非同盟首脳会議、西サハラからの全占領軍撤退を求める決議を採択。

79年末 ポリサリオ戦線の大攻勢。解放区は西サハラ全体の8割に達する。サハラ・アラブ民主共和国を34カ国が承認する。

79年末 モロッコ軍、制空権確保を中核とするアメリカ式戦術への切り替えを開始する。モロッコ国内に5つの基地を持つアメリカが軍事支援を強める。

モロッコの新戦略: 「国家防衛評議会」を新設し国王の義兄弟アフメド・オスマンが議長に就任。装甲車やジープ、ヘリコプターなどで機動性を高め、対ゲリラ戦機能を強化。砂の壁の構築を柱とする。

完全小選挙区制は、議会制度の墓場だ。民意を反映すべき議会の自殺行為だ。
国民は自らの声を国政に伝える手段を失うことになる。

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戦前の二大政党制度が12年戦争へとつながっていった道を忘れてはならない。現在のような流動的情勢において、“安定した政治制度”を求めることは、政治の不安定化をもたらすことになる。
国民の鬱積した不満は橋本のような扇動家を生み、閉塞した政治状況は非平和的勢力の跳梁をもたらす危険がある。民主党がひそかに目指す大連立は憲法改悪と翼賛政治への道である。
共産党、社民党、国民新党はただちに共闘体制を作らなければならない。減らすべきは小選挙区であり、比例代表制こそ増やすべきである。
減らすべきは政党助成金であり、国民の声を反映するためには、議員定数はもっと増やすべきである。

87年6月の韓国民主化闘争はまさに歴史的な闘いではあったが、これに続く現代グループ労働者の2ヶ月にわたる闘いも、韓国現代史にとって同じくらいの意義を持っている。
「世界政治」の87年10月上旬号には、現代グループ労働者の闘いを中軸に据えた萩原遼記者の素晴らしいレポートがある。
多分現在では入手困難と思われるので、韓国年表に組み込んだ。韓国の左翼運動を見ていく上で一つの原点となっていると思われるので、ぜひご参照いただいたい。

本日の赤旗トップは内部留保が増えているという記事。
労働総研の調査で、資本金10億円以上の大企業が保有する内部留保(連結ベース)が2010年度で266兆円に達した。前年度比9兆円の増加となる。
10年間の変化を見ると、特徴的なのは好況期といわれる04年から07年のあいだには30兆円の積み増しであるのに対して、リーマンショック後の不況期に入って46兆円も積み増していることである。
内部留保は基本的には使途を定めない投資ファンドと位置づけられている。不況期にあっては有効な投資先が減少することから、増加せざるを得ないのであるが、10年間着実に、年平均10兆円がつみあがるのは景気の局面からは説明できない。

さらに問題となるのは、内部留保+配当=税引き後純利益だから、そして配当金も着実に増加しているから、純利益が100兆円以上増えたことを意味するということである。

さらに国際競争力という観点から見るならば、ドル換算で評価しなければならない。2000年の円相場が120円、現在が76円だから、120/76=1.58 をかけなければならない。

そうすると
00年の内部留保 172兆円=1.4兆ドル
にたいして
10年の内部留保 266兆円=3.5兆ドルとなる。
実に日本の大企業は10年間でドル換算で内部留保を2.5倍に伸ばしたことになる。
すさまじい収益力であり、「国際競争力」である。
日本の国際競争力の弱体化が問題にされてきたが、むしろ強すぎることが主要な問題ではないか。

むかし囲碁の名人で坂田という人がいた。対局中に「ひどい」とか「参った」とかぼやきまくるのが有名だったが、周りの人にいわせると「あれは本人が参ったのではなく、相手が参っただろうといっているのだ」とのことだった。

大企業は「4重苦」とか「5重苦」とか、坂田栄男を真似ているのかもしれないが、決して騙されてはいけない。苦しいのは腹が膨れて、バンドがきつくて苦しいのである。

ところで、これら大企業の内部留保を賃金に回せというのはちょっと理屈が通らない。
企業の利益はすべて国内の労働者が稼ぎ出したものではない。ざっと見て半分は海外進出先で現地の労働者が稼ぎ出したものである。

もちろん、国内の労働者も権利を主張すべきだし、賃上げを要求するべきではあるが、それはあくまで生きていくための必要経費を基本とすべきだろう。儲けているんだから分け前よこせというのは筋が違う。
基本としては租税として徴課し、国家の再配分機能を最大限に働かせるべきではないか。

 サハラ・アラブ民主共和国(西サハラ)のたたかい

だいぶ古い「世界政治」(1987年4月下旬号)に紹介記事があった。いずれ役に立つかもしれないので紹介しておく。

1975年10月31日、「緑の行進」の美名のもとにモロッコ軍8千人が国境を越え侵入。

11.06 モーリタニアが南部から侵入。2万の軍勢が南部リオ・デ・オロ地方の中心地ゲラを占領。

11月 マドリードで三国間協定が調印される。

75年 エル・ウアリ・ムスタファ・サイードのひきいるポリサリオ戦線が抵抗闘争を開始する。解放軍は敵軍の後方基地を襲い、越境してモーリタニア軍拠点を攻撃するなど追い詰める。

76年3月 エル・ウアリ・ムスタファ・サイードのひきいるポリサリオ戦線は、住民を道連れに奥地への遅延撤退作戦を展開。

6月にはヌアクショット市内にポリサリオ戦線が攻め入るが、多数の死傷者を出して撤退。

76年7月 モロッコのラバトでハッサン二世とモーリタニアのウルド・ダッダ大統領が会談。「相互防衛条約」に調印する。モロッコ軍3千人がモーリタニア支配地域に展開。さらにフランス人の「ジャガール飛行部隊」が制空権を確保する。

76年9月 ポリサリオ戦線が第3回大会を開催。サハラ人民解放軍(ALPS)を編成し全面攻勢を開始する。ヌアクショットも反復攻撃の対象となる。

77年11月 モーリタニア軍と組んだフランスの「ジャガール」と「ミラージュ」の飛行部隊が進出し、制空権を握る

78年6月 モーリタニアのウルド・ダッダ大統領がクーデターにより失脚。ポリサリオ戦線はモーリタニアに対する一方的戦闘停止を指示。このあと戦いは西サハラ人民解放軍とモロッコ軍との間に絞られる。

78年11月 フランス人飛行部隊が撤退。モロッコ軍はフランス軍の援助を受け反ゲリラ部隊「緊急介入部隊」(DIR)を編成。ゲリラ根絶のため焦土作戦を実施する。

78年12月 ポリサリオ戦線、「ブーメジエン攻勢」を開始。レムサイル、タンタンの戦闘で勝利しモロッコ軍2個連隊を壊滅に追い込む。

79年6月9日 ポリサリオ戦線の指導者サイードが戦死。

79年 モーリタニア新政権とポリサリオ戦線が平和条約に調印する。

79年末 モロッコ軍、制空権確保を中核とするアメリカ式戦術への切り替えを開始する。モロッコ国内に5つの基地を持つアメリカが軍事支援を強める。

81年3月 アメリカ式訓練を受けた特殊部隊がアガディールとタンタンに派遣される。部隊は人民解放軍の待ち伏せ攻撃を受け甚大な被害を出す。

81年10月 アルジェリアの軍事支援を受けた西サハラ人民解放軍は国土の90%を解放。

81年 劣勢に追い込まれたモロッコは、北部にエルアイウン・スマラ・ブクラを結ぶ「重要三角地帯」を設定し、全長2千キロの防衛線により要塞化する。アメリカは1億ドルの軍事援助を開始。人民解放軍はただちに三角地帯の拠点ゲルタ・ゼムールを攻撃し甚大な被害を与える。モロッコは派遣軍を8万人から13万人に増員して対抗。

83年末 ハッサン二世、参謀本部を全面更迭。アメリカ式の装備に切り替える。

84.10.13 ポリサリオ戦線、三角地帯の壁を同時攻撃。ズムール・二ランで防御線を突破する。

85年12月 ポリサリオ戦線の第6回大会。防衛壁突破のための戦略を協議。

ダボスの世界経済フォーラムが「2012年グローバル・リスク」という報告を発表した。
この報告はユートピア(理想郷)の対極の世界「ディストピア」がやってくると警告を発している。

研究社英和辞典では、dystopia: (ユートピアに対して)ディストピア,暗黒郷,地獄郷.

小玉記者によれば、最大のリスクは①深刻な所得格差、そして②不安定な政府の財政状態、とされている。

ここまでは良いとして、これらが解決されないと

「実行可能な代案がなければ、保護主義や国家主義、ポピュリズムにあおられ、世界経済は下降の渦に巻き込まれかねない」

というのがシナリオで、ここには素直に首肯できないものがある。

つまり、“ダボスの賢人たち”も、一体改革をもとめていることになる。
さすがわが国の政府は先見の明があると言いたいところだが、残念ながら、一体改革の中身が違う。
①所得格差の解消という視点がまったく入っていない。それどころか、消費税はその逆進性により、社会保障は実質的な改悪により、①の問題をさらに深刻化することになる。

ダボスの提起する一体改革は、まずは深刻な所得格差の解消であり、それと並行して国家財政を改善していくということである。

野田首相が国際会議の場で、ここのところを取り違えて大恥をかくことがないよう祈る次第である。

ロシアの外務次官が「一方的な石油禁輸はイラン国民や経済に悪影響を与える。こうした動きで国際社会によるイランの核問題解決への努力は水泡に帰する」と述べたそうだ。
同時にイランが地下施設でウラン濃縮を始めたことに対しては「懸念を抱かせる」と不快感を示した。

結局、核兵器が開発される危険と、戦争が起こる危険性を秤にかけて、戦争の危険性のほうを重く見た判断であろう。もちろんそれで核開発を容認するわけではないが、ぎりぎりのところでは、核開発を容認しかねない議論である。

中南米など非同盟諸国のあいだにも、こうした意見は根強い。ことの良し悪しは別として、それは民族の主権にかかわる選択だということになる。

たとえば基本的人権の問題や言論の自由などという課題は、民族・国家の垣根を乗り越えるものではない。これを曖昧にすれば、ユーゴ内乱の二の舞だ。リビアでは明らかにこの基準を超えてしまった。

しかし、こと核の問題については話は別ではないか。もちろん核拡散防止条約は根本的な矛盾を抱えた条約ではあるが、それでもこれ以上核保有国をふやしてはならないという世界の人々の強い決意に支えられて、一つの有効なアイテムとなっている。

核は政治の中で相対化されてはならない。武力をもってこれを粉砕するというのは論外であるにしても、核開発を試みる国と政府に対して国際的なボイコットを訴えることは理にかなっていると思うが。

被災地の失業手当が期限切れになった。
小宮山洋子厚労相は「失業手当でやることによって、就労意欲が薄れる」と言い放ったそうだ。
よくも言ったものだ。
仕事がないから失業しているのか、意欲がないからなのか、そんなことは分かっているはずだ。ハローワークはあんたの管轄だろう!
知っていて、ニコニコしながら平気でこういうウソをついて、神様に申し訳が立つのか?ご先祖様の墓には入れないぞ。

第一、失業保険切ったらどうなるんだ。みんな生保にするのか。それこそ「就業意欲をそぐ」ことになるぞ。

80議席削減の試算が赤旗に掲載された。
国会議員の歳費は月130万円、これに550万円の期末手当が加わる。
130x12 + 550 = 2110万円だ。
これに80をかけると約17億円となる。
一方で政党助成金は年間320億円に達する。これなら助成金を300億に減額するだけでもおつりが来る計算だ。
比礼を80人減らせば、共産党は0だ。助成金をもらってない政党が減っても助成金は減らない。
減るのは二大政党制に反対する国民の声の代表だけだ。

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