鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

AALA関連記事は「aala_newsの編集日記」http://blog.livedoor.jp/aala_news/ に移りました(6Nov.2023) 中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 「ラテンアメリカの政治」(http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ )がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

2012年01月

チリのピニェラ大統領が大企業増税の方針を明らかにした、と赤旗が報じている。
ただし記事を読むと、大統領が新聞のインタビューで「一流企業、つまり大企業に対する税金を引き上げようではないか」と語ったということ。ピニェラという人物を考えると、そうはしゃぐほどのものでもなさそうだ。

ただピノチェト支持者の力を背景に大統領となった人物が、インタビューでの談話とはいえこのような意見を述べざるを得なくなっている、チリの状況の変化はしっかり見ておく必要があるだろう。

誤解されることが多いのだが、チリはこの間一貫して親米、ネオリベラリズムの政策を採ってきた。
89年に軍事独裁を終わらせ、キリスト教民主党を中心とするコンセルタシオンと呼ばれる民主勢力が政権を勝ち取った。その後、民主化が進展するにつれて政権内部でも左派の社会党の比重が高まり。前とその前の大統領は社会党員だった。

だからといって、社会主義的な政策をとってきたわけではない。経済運営についてはピノチェト時代の政策がそのまま踏襲されているといってもいいくらいだ。

南米諸国でアメリカとFTAを結んでいるのはペルーとチリのみである。


TPPとの関連で必ず引き合いに出されるのがメキシコ農業の荒廃。
NAFTAでアメリカの農産物にすっかりやられて主食であるトウモロコシが自給 不可能になったとされる。

生き残った農場も手入れが行き届かない状況、そこに過去70年間で最悪の旱魃がやってきた。

北部高原地帯のチワワ州は乾燥した半砂漠地帯ながら、灌漑農業に支えられてメキシコ農業を支えてきた。しかし昨年の降水量は例年の3割以下。主食トウモロコシの生産は320万トンの減少、家畜6万頭が死んだ。

現在でもトウモロコシなど農産物輸入額は210億ドル(約2兆円)であり、今後予想される国際価格の上昇を織り込めば、それが跳ね上がるのは必至だ。

灌漑農業は一端破壊されれば新たな水源の確保を含め、復興はきわめて困難である。

天災は必ず来るが、それを劇症化させるのは人災である。メキシコでまさにそれが表現されているのではないか。

Lars David Kellner: MUSSORGSKY Pictures at ... - Fanfare Magazine

に紹介が載っていた。1ヶ月前の記事だから注目されてきたのは最近らしい。キャリアはすでに10年以上あるようだが。

Robert Schumann - Dreaming

Schumann - Kinderszenen, der Dichter spricht (Lars David Kellner ...

Frédéric Chopin - Ballade No. 1 G Minor

Mussorgsky - Pictures from Crimea (Lars David Kellner) - YouTube

Mussorgsky - 3 piano pieces (Lars David Kellner, live).mpg - YouTube

Janáček - V pláci In Tränen in tears (Lars David Kellner).mpg ...

Janáček - Naše večery / our evenings / unsere Abende (Lars David ...

Prokofiev - Folk Dance (from 'Romeo and Juliet') (Lars David Kellner ..

Satie - Gymnopédie No. 1 (Lars David Kellner).mpg - YouTube

以上がただで聴ける演奏。


…と思ったら自分で自分の演奏を47曲もアップロードしていた。

これがそのサイト

http://www.youtube.com/playlist?list=UU_bSUKIH-xlpTPUsrOmwWgw&feature=plcp

Margaret Fingerhut というピアニストが弾いた「ロシアピアノ音楽」という演奏を聞いている。
中学の音楽の授業で、ロシアの五人組というのを習った。私の頃は高校入試は9科目、音楽、保健、家庭科も試験科目だった。
音楽の試験のヤマは五人組だったから懸命に憶えた。バラキレフ、キュイが憶えられない。なにせ聞いたことなどなかったからだ。
音楽というのは贅沢なもので、金がなければ聞けない。恥ずかしながら、YouTubeのお陰ではじめてバラキレフ、キュイを聞くことができた。
5人の音楽をまとめて聞いた印象としては、ショパンくらいの作曲家はロシアにはゴロゴロいるということだ。とくにバラキレフ、キュイは「私がショパンです」という人だ。バラキレフの「ポルカ」はショパンの「マズルカ」に紛れ込ませれば区別できない。
そこへ行くとムソルグスキーはやはりひと味違う。ロシアっぽさをぐいと突き出す趣がある。リムスキー・コルサコフはもうショパンのコピーを完全に脱しており、ロシアらしさに胸をはっている。
ということで、アンコールしてくれるなら、ムソルグスキーの「涙の一滴」をお願いしまーす。

ということで、涙の一滴の音源を探していたら、もういいやと思う頃に、Lars David Kellner の演奏が出てきた。また素人の自己満足かと思いながら聴いてみたら、とたんにしびれました。ストイックなほどに感情を抑制しながら、最後までその緊張感を聴衆に強いるのです。思わずYouTubeにBravo!と書き込んでしまいました。
気になって他の演奏を調べたら、ショパンのバラード1番がある。これがすごい! とんでもない人がいたものです。あしたはLars David Kellner を総まくりして、追っかけをしようと思います。おやすみなさい。

本日からEU首脳会議が開かれる。
「成長と雇用のために積極策が必要」としてEU基金を取り崩して各国に配分するとの方向のようだが、それ自体は悪いことではないが、そんな悠長なことを言っている場合ですかね。
とにかくユーロ共同債がドイツの反対でダメ、次ぎには金融取引税にイギリスが反対ということで、先が見えない。目下のところ欧州安定メカニズム(ESM)の発足待ちになっているが、「3月危機」には間に合いそうもない。
結局はIMFが音頭取りすることになるだろうが、欧州以外の諸国は相当厳しい態度が予想される。とくにユーロ・リスクの最終引受人であるドイツへの責任追及が持ち出されるだろう。
どうせなら早いところ観念したほうが出血は少なくてすむのだが、いまだ国内には分からず屋が横行しているのだろう。

ポルトアレグレの世界社会フォーラムが6月5日の世界同時行動を呼びかけた。
が、呼びかけは下記のようになっている。

6月下旬にリオで開かれる「国連持続可能な開発会議」に対し、「環境と社会の公正を守る世界大行動」を呼びかける。各国首脳に対し環境保護と社会問題の解決に配慮した新しい経済のあり方を追求するよう圧力をかける。

メインテーマが「地球環境を守る」ということになっているのが、ちょっとピンぼけ感がある。圧力をかければ首脳の態度が変わる、かのような言い方もちょっと気になる。

一言で言えば、相変わらず社会フォーラムは社会フォーラムだなという感じ。私なら「社会の公正と雇用と環境を守る世界行動」とするところだ。

しかし6月世界同時行動の呼びかけは時宜を得ている。なによりも世界社会フォーラムには2003年3月の世界同時行動の実績がある。

エジプト、イタリア、スペイン、アメリカと連鎖して起きた若者の闘いや各国労働運動の復活の動きを、グローバルなものに一体化していく結節点が必要だ。


消費税が5%上がるとして考えてみた。
私はあまり家計には詳しくないが、たとえば
生活必需品50%、娯楽・文化30%、貯蓄20%と使っていたとする。
家計を5%節約しようとすればそれはすべて娯楽・文化費に押し付けられる。
<30-30x0.05-(50+20)x0.05>/30=83.3%
であり、消費抑制効果は17%に達する。
初めて消費税が導入された時期、それが5%に引き上げられたとき、まだ家計には余裕があった。あの頃から平均所得は2割ほど下がっている。
もし分母が30%でなく20%なら、抑制効果は25%だ
これだと間違いなく消費税が国を負の螺旋に陥れ、滅ぼすことになる。

すごく数字に弱い人なんですが、この計算式間違っていますか? 

北京で住宅売買が昨年比83%も減ったという。
中国では激しい住宅バブルが続いていたが、政府が抑制策を打ち出したことで一気に収まった。
正確に言うと、「北京市における1月第三週の新規分譲住宅の契約件数」が、前年同期比の17%にまで落ち込んだというもの。
政府のとった手段は金利引き上げによる住宅市場からの資金還流、そして投機目的と見られる住宅購入の規制などである。この結果、不動産開発会社の倒産が相次ぎ、北京市内で約3000のデヴェロッパーのうち、473社が営業許可を取り消されたそうだ。

ただ中国の土地ブームは90年の日本のバブルとはまったく性格が異なり、大変な住宅不足が背景にあるだけに、当局が自画自賛するような話ではないはずだが。
これは入り口問題だが、出口問題として有り余る人民元の向かう行方をどう方向付けるのかがある。別な形の資産形成に向かうだけなら、歪みは改善はされない。


労働者と貧困層への富の流入を可能としつつインフレを招かないような政策誘導が求めれれるだろう。具体的にはILO勧告の完全実施、これまでないがしろにされてきた労働者の権利保護、団結権・団体交渉権・争議権の確立が望まれる。これにより「労働力商品」の市場価格の流動性が確保され適正化されるだろう。

週末は三食の支度、後片付けに洗濯、ゴミ分別に買い物、さらに除雪となるからなかなかに忙しい。業者に集金と財布も軽くなる。嫁さんはテレビの調子が悪い、パソコンが動かない、トイレが、風呂が、暖房が…とつぎつぎに求めるがこちらも分からない。字が読めない、メガネを取りに行く間に何をしていたかを忘れる。書かないと忘れるが書けば書いた紙を忘れる。
合間を縫ってYouTubeの音楽を楽しんでいる。
忘れないうちに書いておこう。もっともすでに半分以上忘れているが…
Ruth Slenczynska という女性ピアニストのリストのパガニーニ大練習曲が良かった。1925年サンフランシスコ生まれの人で、10歳かそこらでヨーロッパにわたりコルトーやシュナーベルの薫陶を受けたそうだ。経歴から言うとメニューヒンに似ている。
一度挫折した後50年代の後半に復帰し、これは59年の演奏。最初は何だと思って聞いていたが、なかなか座りが良い。初めて本物のリストを聞いたような気さえしてくる。「普通に」名人の弾くリストを聞いていると聴覚の識別能力を越えて音が飛び出してくる。あとに残るのはピアニストの腕の達者ぶりばかりだ。スレンシンスカ(この名前もずいぶん音符が詰まっている)を聞くと、一つひとつの音が、意味を持って飛び込んでくる。そして音の流れの必然性が伝わってくる。そうすると「あぁリストはこういうふうに言いたかったんだ」とわかってくる。リストが意外に良い人なのだということがわかってくる。これはかなり貴重な経験である。
スレンシンスカは下手だから、早く弾けないからゆっくりしているんだと思ったら間違い。音の意味は前後の余白があって初めて伝わるということを示しているのだ。(とは言っても身長150センチの小柄な女性がリストを弾くのはかなり厳しいとは思うが…)

その逆がグルダで、モーツァルトのソナタ第一番はえらく早い。早いなりの迫力はあるが、失われるもののほうがはるかに多い。リストで速さを競うのは良いが、モーツァルトで速さを競うのはお門違いだ。音を大事にするというのは音と音の間の余白を大事にすることだ。そして次の音への以降の必然性を聞くものに訴えることだ。音楽は理工系が強い分野だが、それでも最終的には文科系である。

考えてみるとピアノ弾きは理工系が多いようだ。ポリーニやグールド、グルダ、ミケランジェリなどどう考えても文科系ではない。ホロビッツやリヒテルは理工系というより体育会系か。たしかにピアノというのは体操やアクロバットに近いが、シフラのように腕まくりして出てこられると「ちょっと待って」ということになる。

リパッティやケンプのように人柄だけでも困るが、やはり人には優しさというものが必要なのである。ということで、そろそろ寝る時間なので結論から言うとギレリスとツィマーマンしかないのである。


 

 重大ニュースを逃していたようだ。

18日、カタールを訪れた温家宝首相が「イランの核兵器製造と保有に断固として反対する」と語った。そして「中東非核地帯の創設」をあらためて主張した。また記者団の質問に答え、イスラエルを非核地帯の例外とすることはありえないと述べた。

23日、イスラエル副首相は「中東非核地帯についての中国の考えに賛同する」と表明した。


これが26日付の赤旗記事。あわててネットで各紙報道をあたってみた。

2012年1月18日、カタールを訪問中の温家宝首相は記者会見に臨み、イランに対する国連制裁を支持する方針を示した。(新華網)

産経新聞は北京特派員記事

中東を歴訪していた中国の温家宝首相は18日、訪問先のカタールの首都ドーハで記者会見し、イランが示唆しているホルムズ海峡の封鎖について「いかなる状況にあっても、ホルムズ海峡の安全と正常な航行は保証されねばならない」と述べ、封鎖に反対の立場を示した。

温首相は「(ホルムズ海峡での正常な航行は)世界的な利益、全人類の利益だ。どんな問題が発生しても極端な措置を行うことは世界の各国と人々の願いに反する」と強調した。

一方で、「中国のイランとの石油貿易は通常の通商行為であることを明確にしておきたい。正当な貿易は保護されるべきだ。さもなければ世界の経済秩序が混乱に陥る」とし、中国がイランからの石油輸入を継続する方針を言明した。

中国筋によると、温首相の一連の発言は、中国政府内の国際協調派の意見を代表しているが、軍や保守派を中心にイランを支持する声は少なくないという。

ラジオ・イランの日本語版というページがあるんですね。

そこでも温家宝発言を紹介しています。

「イランと中国の関係が、敵対的な措置の影響を受け、世界の秩序を乱すようなことがあってはならない」

「今後も中国は、アメリカの一方的で不当な対イラン制裁には同調しない」

「中国はイランの石油を必要としており、地域におけるアメリカのダブルスタンダードに従うことはできない」

この発言は、中国が、イランをはじめとする中東諸国の石油を必要としており、アメリカなど、西側の理不尽な要求に屈するつもりはないことを示しています。(この一文はラジオ・イランのコメント)


メディアのめがねは油で曇っているようです。

温家宝発言の一番のポイントは、「イランの核兵器製造と保有に断固として反対する」態度を明らかにしたことです。その前提として、イランの核開発が決して平和目的ではなく、核兵器の開発にあると断定したことです。ここが一番大事です。

第二には、イランとイスラエルを含めた中東地帯の非核化を目標として掲げたことです。核の競争ではなく平和の競争を地域の目標として提起したことです。

第三に、制裁に加わるかどうかという踏み絵を突きつけるのは正しくない。石油貿易が正当な貿易である以上、世界の経済秩序はそのようにして決められるべきではない、ということです。

産経新聞は第三の主張のあとに、“…とし、中国がイランからの石油輸入を継続する方針を言明”とコメントをつけちゃっていますが、たしかに現実にはそうなるのでしょうが、温家宝が言っているのは原理・原則の問題なので、このコメントは真意を歪める結果になっています。

一般メディアの報道は一番目と二番目の問題にはほとんど触れていません。言い訳になりますが、私が温家宝発言を見逃したのもそのためです。しかし非同盟諸国がこの問題に関して曖昧な態度をとり続けている中で、またロシアが二枚舌外交を展開する中で、中国のきっぱりとした態度は鮮やかに映ります。

イランはかつて米大使館人質事件で経済制裁を受け、その後も実質的なアメリカの軍事支援を受けたイラクとの戦いを経験してきました。経済制裁の有効性も否定はしませんが,それだけでは核開発をやめさせる決定的な力にはならないと思います。

非同盟諸国、途上国を含めた世界の国々の世論の包囲が、結局は一番有効だろうと思います。そういう点から見て、中国の意見表明の効果は決して少なくないと思います。

昨年暮のASEANとの南沙諸島問題での合意実現といい、いよいよ今世紀初頭の華々しい中国外交が復活するのか、楽しみになってきました。

24日のオバマの一般教書演説が赤旗で紹介されている。

国内経済に関する部分は、読んでいて胸がすく思いがする。どこかの国の首相の胸くそが悪くなるような美辞麗句とはえらい違いだ。

「少数が豊かで多くの国民が生活苦を強いられる国を選ぶのか、全国民が公平な機会を得て、公平な負担を背負い、同じルールに従う経済に復活させるかの選択だ。問われているのは民主党か共和党かではなく、アメリカの価値観だ」

そのとおり~

「アメリカ自らの製造業、技術力を持った労働者、アメリカの国に基盤を置いた持続可能な経済の構築へ向けた青写真を示す」

ええどお~

「海外に労働力を求める企業に税優遇は行わない。減税は国内にとどまり、国内で雇用を生む企業を対象とする。大企業の税金逃れを防止するため、多国籍企業に一定の税を課す」

しびれますねぇ

「国防費5千億ドルを節減する。戦費縮小で浮いた財源の半分は債務返済に、残りは国家建設のために使う」

かっこいい~

「大富豪の4分の1が中間層家庭よりも税率が低い。公正な税負担のため税制改革が必要だ。100万ドル以上の所得があるのなら、最低でも30%以上の税金は払うべきだ。減税措置の撤廃も必要だ」

30%ねぇ、あほブッシュの前は最高70%なんだけど…

「経済回復への動きがまだ弱いのに、1億6千万人の勤労者への増税を避けることこそ、最も差し迫った優先課題だ。アメリカ国民の98%をしめる年収25万ドル以下の家計の増税をしてはならない」

25万ドル=1900万円? ちょっと高過ぎ?

「こうした政策を“階級闘争”だと呼びたいのであれば、そう呼べばいい。億万長者に、少なくとも自分の秘書と同じ程度の税率で納税してもらう。ほとんどのアメリカ人はそれを“階級闘争”ではなく常識と呼ぶだろう」

わお~、言っちゃった。

「金融危機の引き金になった住宅担保証券に対し、不正調査にむけた特別チームを立ち上げる。庶民の金で危ない賭け事をすることはもう許さない」

日本でこれだけ啖呵切ったら、支持率80%だよね。

一部が下記で見られる。

http://www.cnn.co.jp/usa/30005397.html

日本語訳(抄訳)は下記で見られる。

必読!オバマ演説

英語全文はここで見られる。

http://jp.wsj.com/US/Politics/node_380666

消費税引き上げ反対の議論の中で、有力な論拠とされているのが、1997年に橋本内閣が行った消費税2%引き上げをふくむ9兆円の国民負担増だ。

これが実施されたあと、日本は現在まで続く長い低迷期に入っている。この間、01年から数年間にわたりGDPの着実な上昇を伴う「好況」期があったが、国民の側にはなんらの恩恵もなかった。

そういう日本の近過去史において、97年の9兆円負担増はたしかに一つのランドマークとなっている。

ただ、消費税が2%上がったことがすべての根源なのか、郵便ポストの赤いのもすべて消費税が悪いのかといわれると、もう少し正確な議論が必要だろう。

この15年間、着実に庶民の暮らしは後退している。これは疑いのないところだ。一方、消費税こそその後引き上げはないが、社会保障・年金等で国民負担は確実に増加しているにもかかわらず、財政赤字は天井知らずで増え続けている。

したがって、消費税そのものをめぐる一番の論点は、国家財政改善に対して消費税の増税は有効なのかという点にあるのだろう。

答えは明確だ。97年問題をめぐる議論はいろいろあるにせよ、それが財政改善には役立たなかったということははっきりしている。消費税が財政健全化のツールとはなりえないことは、すでに証明されたといえる。

さらにいえば、消費税には天井がある。しかもこれは、まごうことなき大衆収奪であるから、3割4割というには軍事独裁並みの暴力的支配が必要になる。そのさきに打つ手はなくなるという最後の手段である。

いまそれを使うんですか? という疑問があっても当然ではないだろうか。

かねてより中東地域への介入に慎重な姿勢を示していたロシア、それなりに一理あるのかとも思っていたが、軍用ジェット機をシリアに売却するに至って、馬脚を現した。

ヤク130というジェット練習機だが、武器を装備すればそのまま戦闘機になる。全36機で総額5億5千万ドルだという。

これが介入でなくてなんなのだろう。その武器がどう使われるかは火を見るより明らかだ。それがビジネスというのなら、死の商人と呼ばれても止むを得まい。

一番の問題は、今後国際問題に関するロシアの発言が、他国から信用されなくなることだろう。これは国家外交にとって致命的なことだ。

日本の将来に向かって二つの道が提示されている。
ひとつの道は野田内閣の後ろに控える、大企業・財界の示す道だ。もう一つは、2年前に民主党を押し上げ、さらに変革を進めようとする一般国民の道だ。
最大の争点は景気か財政かという点にある。
大企業・財界は国内景気については関心がない。したがって消費税で景気が落ち込んでも、TPPで国内産業がつぶれても一向に構わない。肝心なことは円の安定にある。したがってその裏づけとなる国家財政の安定が何よりももとめられるものなのだ。
大企業につながり、何がしかの利益を享受する一部の人以外の一般国民は、財政よりも景気と雇用に真剣な関心がある。国際競争力よりも目の前の、そして将来の暮らしを真剣に取り上げるべきだと考えている。そして世の中の不公平ぶりに怒っている。

国際的状況はいよいよ剣呑になっている。富の著しい偏在が、需要の抑制と相対的な生産過剰を生み出している。端的に言えば、1980年代からの新自由主義経済の最終的な行き詰まりであり、小手先の対応で済む話ではなくなっている。

自由化ではなく、規制の強化が今後の流れである。金融資本を尖兵とする大企業の横暴と貧富の差の拡大を食い止めることが、世界経済の回復に不可欠の条件となっている。
そしてそのことを前提として、雇用にやさしい経済再建策がもとめられるようになっている。これは支配層の多くをふくめた世界の大勢となっている。その具体的戦略はいまだ明らかではない。誰もが納得できるような特効薬はないだろう。「収奪者が収奪される」ようなシーンが必ず登場するだろう。

そういうシナリオも潜めた2012年となっていくのではないだろうか。

こちらは日経新聞の記事

日本経済新聞

1月24日(火曜日)


2号機では溶け落ちた燃料が格納容器の底に達しているとみられる。燃料の過熱を防ぐため冷却水を入れている。従来、水位は格納容器の底から4.5メートルとみられていたが、内視鏡の写真から東電は「4メートル以下ではないか」としている。

奈良林直・北海道大学教授は「(撮影箇所より)もっと下部にある配管のつなぎ目などの弱い部分が破損し、水がたまらなくなっている」とみる。ただ、水位が低くても冷却には問題がないと考えられるという。
奈良林教授は「格納容器内で燃焼が起きていた可能性もあり、痕跡が見えれば事故がどう進んだかの理解につながる」としている。

これで冷却水を継続注していることが分かった。そしてそれが事実上ざる状態であることも分かった。後は注入量と実際にたまっている量との関係である。そうすれば失われた水のどのくらいが蒸発によるものなのか、どのくらいが漏水によるものなのかが推定できる。

最近は東大教授=うそつきという評価が固まったようで、北大教授を引っ張り出してきたが、このコメントにも疑問がある。

配管からの漏水もそれはそれで深刻な問題ではあるが、問題はそういうことではないだろう。
明らかに冷却水は高温となり蒸発している。そのために冷却水がたまらない可能性がある。確率は低いにしてもより危険な意味を持つ可能性だ。どうしてそこを無視するのか。
水位が低くても冷却には問題ないというが、それでは容器内の45度という温度はどう説明するのか。暖房でも入れてあるというのか。

「格納容器内で燃焼が起きていた可能性」というが、そういう悠長な話なのか。今現在、「起きている可能性」はないのか。
「核物質は燃焼はしなくても発熱はする」ということを前提にしての議論だが、たしかに臨界以上と以下の核分裂のありようは分けて考えなければならないにしても、発熱の原因は核分裂であり、「安心せぇ」というのは無責任だと思うが。

水位が低くても冷却には問題がないというのも変な話で、現に45度にまで冷えているから、必要な水位は確保されているのだろうという推測に過ぎない。水位がゼロになればふたたび臨界に達するのは明らかで、4メートル以下が1メートルなのか50センチなのかも分からずに「問題ない」と断言するのは科学者のとるべき態度ではない。



朝日新聞 2012.1.19 によると、

東電の記者会見での発言は、この北大教授のコメントとも真っ向から対立している。

東電は「推定に用いた圧力値が正しくないのが原因だろう。予想より(格納容器から外への)水漏れが激しいということではない」としている。

さぁ分からない。先ほどの記事では窒素を注入し約1.1気圧になるように設定していたと書かれていた。これはウソか?

注水した冷却水がまったく漏れていないとすると、そのほとんどは気化しているはずだ。恥ずかしながら忘れたが、10の何乗かの容積になるはずだ。ということはとんでもない高圧だ。格納容器が水蒸気爆発してもおかしくない。
もし圧力のみで水位を説明するのなら、そんなところに穴を開けたのか?

そもそも推定に用いた圧力はなんぼだったのか? 水位を推定した方程式を提示してもらわないととても納得は出来ない。


こちらは日経新聞の記事

日本経済新聞

1月24日(火曜日)


2号機では溶け落ちた燃料が格納容器の底に達しているとみられる。燃料の過熱を防ぐため冷却水を入れている。従来、水位は格納容器の底から4.5メートルとみられていたが、内視鏡の写真から東電は「4メートル以下ではないか」としている。

奈良林直・北海道大学教授は「(撮影箇所より)もっと下部にある配管のつなぎ目などの弱い部分が破損し、水がたまらなくなっている」とみる。ただ、水位が低くても冷却には問題がないと考えられるという。
奈良林教授は「格納容器内で燃焼が起きていた可能性もあり、痕跡が見えれば事故がどう進んだかの理解につながる」としている。

これで冷却水を継続注していることが分かった。そしてそれが事実上ざる状態であることも分かった。後は注入量と実際にたまっている量との関係である。そうすれば失われた水のどのくらいが蒸発によるものなのか、どのくらいが漏水によるものなのかが推定できる。

最近は東大教授=うそつきという評価が固まったようで、北大教授を引っ張り出してきたが、このコメントにも疑問がある。

配管からの漏水もそれはそれで深刻な問題ではあるが、問題はそういうことではないだろう。
明らかに冷却水は高温となり蒸発している。そのために冷却水がたまらない可能性がある。確率は低いにしてもより危険な意味を持つ可能性だ。どうしてそこを無視するのか。
水位が低くても冷却には問題ないというが、それでは容器内の45度という温度はどう説明するのか。暖房でも入れてあるというのか。

「格納容器内で燃焼が起きていた可能性」というが、そういう悠長な話なのか。今現在、「起きている可能性」はないのか。
「核物質は燃焼はしなくても発熱はする」ということを前提にしての議論だが、たしかに臨界以上と以下の核分裂のありようは分けて考えなければならないにしても、発熱の原因は核分裂であり、「安心せぇ」というのは無責任だと思うが。

水位が低くても冷却には問題がないというのも変な話で、現に45度にまで冷えているから、必要な水位は確保されているのだろうという推測に過ぎない。水位がゼロになればふたたび臨界に達するのは明らかで、4メートル以下が1メートルなのか50センチなのかも分からずに「問題ない」と断言するのは科学者のとるべき態度ではない。



朝日新聞 2012.1.19 によると、

東電の記者会見での発言は、この北大教授のコメントとも真っ向から対立している。

東電は「推定に用いた圧力値が正しくないのが原因だろう。予想より(格納容器から外への)水漏れが激しいということではない」としている。

さぁ分からない。先ほどの記事では窒素を注入し約1.1気圧になるように設定していたと書かれていた。これはウソか?

注水した冷却水がまったく漏れていないとすると、そのほとんどは気化しているはずだ。恥ずかしながら忘れたが、10の何乗かの容積になるはずだ。ということはとんでもない高圧だ。格納容器が水蒸気爆発してもおかしくない。
もし圧力のみで水位を説明するのなら、そんなところに穴を開けたのか?

そもそも推定に用いた圧力はなんぼだったのか? 水位を推定した方程式を提示してもらわないととても納得は出来ない。


消えた水の行方
なんぼの水を入れれば容器の水面の高さがどのくらいになるかは、中学の数学でも解ける。それが予想外れということは、数学の問題ではないということだ。

少しネットであたったら、下記の記事があった。
騙されてはいけない143―今起こっている福島原発事故・原子炉格納容器圧力について(2012.01.24)

(炉内圧は)若干高めです。内部で水素が発生した場合にそなえて窒素を封入していて、「高め」でないといろいろな隙間から酸素が流入すると爆発する可能性があるからです。

ただ、困るのは「高め」と言うことは内部の放射性物質(特に揮発性のもの)が外に出てくる可能性があり、防ぐことが困難になります。


このサイトの別の記事では、内視鏡を入れるために逆流防止弁をつけたドリルで穴を開けたそうだ。

これで出口論の疑問は少し明らかになった。多少窒素で加圧してあるとはいえ、容器内はほぼ大気圧だ。ということは放射能をふくむ水蒸気は事実上垂れ流しになっているということになる。ただ量が比較的少ないために拡散されているということだろう。

入 り口論を語るにはまだ材料がそろわない。どこからどのくらい水が注入されているのかという数字が分からない。関係者は水がもう少したまっているのではない かと期待していたようだから、その根拠として何がしかの水が継続的に注入されているはずだ。そして注入量と蒸発量がほぼバランスの状態にあるということのはずだ。



消えた水の行方
なんぼの水を入れれば容器の水面の高さがどのくらいになるかは、中学の数学でも解ける。それが予想外れということは、数学の問題ではないということだ。

少しネットであたったら、下記の記事があった。
騙されてはいけない143―今起こっている福島原発事故・原子炉格納容器圧力について(2012.01.24)

(炉内圧は)若干高めです。内部で水素が発生した場合にそなえて窒素を封入していて、「高め」でないといろいろな隙間から酸素が流入すると爆発する可能性があるからです。

ただ、困るのは「高め」と言うことは内部の放射性物質(特に揮発性のもの)が外に出てくる可能性があり、防ぐことが困難になります。


このサイトの別の記事では、内視鏡を入れるために逆流防止弁をつけたドリルで穴を開けたそうだ。

これで出口論の疑問は少し明らかになった。多少窒素で加圧してあるとはいえ、容器内はほぼ大気圧だ。ということは放射能をふくむ水蒸気は事実上垂れ流しになっているということになる。ただ量が比較的少ないために拡散されているということだろう。

入 り口論を語るにはまだ材料がそろわない。どこからどのくらい水が注入されているのかという数字が分からない。関係者は水がもう少したまっているのではない かと期待していたようだから、その根拠として何がしかの水が継続的に注入されているはずだ。そして注入量と蒸発量がほぼバランスの状態にあるということのはずだ。



さんさ時雨という歌がある。
えらく難しい割にはぱっとしない歌で、どこが良いのか分からないが、仙台では絶大な人気だそうだ。

時雨といえば晩秋の雨だが、この歌では霧のような小ぬか雨という設定である。さびしく冷たくまとわりつく雨が、さんさ時雨ということになるが、そこにはひそやかな恋が溶かし込まれている。

「音もせで来て濡れかかる」と続く歌詞は、濡れたうなじの後れ毛を掻きあげる女の反った指に、おのが顔(かんばせ)を寄せなんとする危ない風情である。
その刹那が見事に切り取られている。

伊達正宗公お気に入りの曲と伝えられているが、元は花街で芸者が歌う小唄であろう。さんさは“さのさ”ではないかという説もあるようだ。ただし二番以降はしょうもないインスピレーションゼロの歌詞である。

しかし私には歌というより踊りが気になっている。
むかしNHKの「現代の映像」シリーズで、東北からの出稼ぎ労働者を取り上げた番組があった。高度成長のはしりの頃だろうと思う。番組の最後、東京の工場街のアパートで、出稼ぎ労働者が物干場かどこかで、作業衣のままで、一人踊る。それを望遠カメラで延々と長撮りしている。それがえらく格調が高い踊りで、仕舞のようにも見える。
カメラは徐々に引いて、とりつくしまのない工場街の全景を映し出し、あのテーマ音楽がかぶさってくるというエンディングだった。

それがさんさ時雨だった。
日本経済はこういう文化や伝統を踏みつけにしながら成長しているのだな、としみじみと実感させられた覚えがある。
それが、東北大震災の記録映像を見ながら、ふと思い出された。

武士が舞をひとさしという景色、もう見れないでしょうね。

赤旗に市田書記局長のテレビ・インタビューが載っていた。
内容がすばらしいので紹介する。
①消費税が10%になると、被災三県で5300億円の税がとられることになる。現在の住民税は4050億円だから2倍以上だ。
②消費税上げても財政は改善しないことは実証されている。97年の9兆円負担増のとき消費が落ち込み、景気も引きずられて落ち込んだ。歳入減少により国と地方の借金は449兆円(対GDP比88%)から645兆円(128%)に膨らんだ。
③財政改善策としては、企業優遇税特例の廃止により1.7兆円、証券取引税を10%から30~40%に、
④法人税“実効”税率はウソで、実際に払っているのはソニー13%、京セラ16.7%、住友化学17.2%しかない。少なくともこれからさらに1.7兆円減税するのは止めよ。

現在の政府には、現段階を下降・調整局面にあると見るのか否かの判断が窺われません。「財政再建」だけが浮き上がっています。

たしかに国内市場だけを見れば、円高不況で失業率は高止まりし、そこへ持ってきて大震災・原発事故と散々です。
しかし不況局面かといえば、企業は最高の利益を上げ、配当を増やし、内部留保を積み増しています。円はジャブジャブに溢れかえっています。

そういうことで、判断は難しいと思いますが、政府が判断し着手する以外に誰も出来ないことでもあります。すなわち単純な財政出動ではなく、所得再配分の思い切った断行をともなう景気回復措置です。

これまで「財源はある」とか「無い」とかやってきましたが、結論ははっきりしてきたように思います。「今のままでは無い」のです。
いまのままの仕掛け、大衆から収奪して大企業に与える仕掛けを続ける限り、消費税が10%になっても、20%になっても賄えません。増税論者はそのことをはっきり言うべきです。

先日のダボスの賢人たちの見解に引き続き、今度は国際機関の代表11人が共同声明を発表した。
11代表とは、IMF、世銀、WTO、OECD、アジア・アフリカ・米州の開発銀行とカナダ銀行の八つの国際金融・貿易機構。これにILO、WFP、さらにWHOが加わる11機関の代表。
欧州中銀が入らないのがちょっと気になるが、一応主だったところは網羅している。この顔ぶれだけでも、一面記事の資格は十分ある。
主な内容は
①財政再建は成長と雇用を促進しながら行うべきだ。
②格差を拡大させない包括的な成長モデルを。
ということで、言い方はきわめて抽象的だが
端的に言えば、1980年から90年代にかけてIMFがとったような方法をとるな、ということである。
つまり、いま日本がやろうとしているような財政再建策をとるな、ということでもある。


これには二通りの見かたができる。
かつて途上国に押し付けたネオリベラリズム政策に対する反省ともとれるし、今度は自分のことになったのでダブルスタンダードを持ち出したのかと皮肉な見かたをすることも出来る。

いづれにせよ、身命を賭して一体改革に取り組もうという日本政府にとって、この問いかけは重い。

赤旗の記事は少々分かりにくい。小玉記者は本気で書いていない。たしかにこれだけでは一面記事にはできない。
IMF・世銀は往々にして、言うこととやることが違っている。もう少し支配層全体の雰囲気や流れが分かるような解説やフォロー記事がほしい。
(9月29日の当ブログ記事でOECDとILOの共同声明を紹介したが、そこではもっとはっきりした形で雇用が景気回復の鍵であることを強調している。ILO・世銀・各開銀は、少し薄めた形ではあるが、その方向を受け入れたことになる)

日曜大工で箱作り。こちらが高いから削ると、今度はあちらが高いからといって削る。何とか平らになったものの、結局全部が寸足らずになってお釈迦、というのはいかにもありそうです。
肝心なことは寸法を合わすことで、平らにすることではないんですが、やっているうちにそんなことは忘れてしまう。
大事なことは絶対尺度を忘れないで、その範囲で平準化することです。
もっともこれは削る話。
伸ばしていくときには、不ぞろいでも競い合えばよいのです。

経営でも同じことで、全体として経営が上昇期にあるのか、下降期にあるのかの判断がまず重要です。そして上昇期であれば、それ行けどんどんでやればよいし、大いに競争すればよいのです。
その代わり下降期に入ったときは、①何が経営のコアーなのか、②どこまでスリム化するのか、③それでやっていけるのか、が戦略課題となります。同時にそのなかでも将来成長していく上で鍵を握るいくつかの芽は大事に育てていかなければなりません。
経営が厳しいときほど、原理・原則に立った凛とした姿勢がもとめられます。

むかし、私たちはそれを「不平等・団結路線」と呼びました。つまり相対評価ではなく絶対評価でやっていこうという意思の表現です。


相対評価は競争社会の原理です。それは大事な原理です。競争社会は人間をばらばらに切り離し、すべての紐帯を切り捨てる限りにおいて自由を生み出し、個性を生み出します。

ただ、押さえておかなければならないのは、競争社会は人倫的な共同社会の上に乗っかったものだということです。ここは人間社会のコアー部分であり、絶対的評価の世界です。

かつては「公務員に比べ民間企業は高すぎる」といって削り、今度は「公務員は高すぎる」といい、カンナをかけているようでは、いまの時代乗り切れません。削減の論理に相対評価を適用するのは根本的に間違っています。

金持ちがもらいすぎているという議論も、やっかみだけでは、いまの時代を乗り切る思想にはなれません。人倫的な共同社会を守り育てていくために何をなすべきか、そのための絶対的尺度をどう設定していくか、が求められているのではないでしょうか。



(67) ホテル・ビクトリア (Gran Hotel Victoria)

これは本当はフォルクローレのジャンルに入れたい曲だ。HPでもロス・インディオス・タクナウの演奏をトップに上げている。

Historia del tango y del Hotel Victoria

こちらはフランシスコ・カナロの演奏。晩年の演奏だろうか、モノだが音は良い。ゆったりとした演奏でカナロらしく奇をてらわず上品だ。

QUINTETO REAL - Hotel Victoria 

こちらは対照的に奇をてらいまくった演奏。これではとても安心して踊れない。しかしさすがにキンテート・レアル、水準は高い。盗み撮り音源のようだが音は悪くない。かなり年季の入った盗み撮りだ。

JUAN D'ARIENZO - HOTEL VICTORIA - TANGO

ダリエンソの演奏で、いちおう標準盤だろうが音質は相当悪い。不思議なことに(というよりよくあることだが)こちらのSP盤のほうがはるかに音が良い。

Horacio Salgán y Ubaldo De Lío. Hotel Victoria.

インスピレーションにあふれた名演。音も最高。タンゴかと言われると…

TANGO入門(3)オテル・ビクトリアHOTEL VICTORIA(F.Latasa)Or

ishizakiさんのファイル。オルケスタ・ダリエンソという楽団の演奏らしい。音質は秀逸。

Gran Hotel Victoria (Hotel Victoria) .- Tita Merello / O

ティタ・メレージョの歌入り。どうって言うことない歌だがカルロス・フィガリ楽団の伴奏が小粋である。

 

(68) 7月9日 (9 de Julio)

7月9日はアルゼンチンの独立記念日。私の年表を参照していただきたい。

TANGO入門(9) 7月9日NUEVE DE JULIO(JLPadula) Osvaldo P

プグリエセの演奏で、この曲の標準とも言える演奏。非の打ち所のない堂々たる演奏だが、不思議に印象に残らない。

Orquesta de Horacio Salgán - 9 de julio (tango)

YouTubeで聞ける貴重なサルガン楽団の演奏。50年代はじめの演奏だが非常に響きが新しい。これを聞くと「7月9日は名曲だ」という感じがしてくる。サルガンはメロディーラインを弾いているわけではないのに、聞き終わるとピアノの音ばかりが印象に残る。

Bandoneon Tango " 9 de Julio" Juan D'Arienzo

これでもかとばかりにダリエンソ節が炸裂する。“それほどの曲かという感じもしないでもない。映像音源で音はひどい。


最初に、「世界政治」の紹介した時嫌な感じがしたんですね。またも泥沼だぞ、と。
案の定でした。

とりあえず、感想めいたことをひとつ、2つ。

①日本における情報量のすごいこと、ほとんど英語文献には手をつけていないのに、これだけの量です。我らが高林先生の「西アフリカ研究室」の情報には圧倒されますが、それだけではなくネット上には多数のすぐれた文献がアップされています。Wikipediaも充実しています。
これだけあると、突き合わせが可能になるので、相当精細な経過が追えます。
参照したネット文献は下記のとおりです。

(西サハラ問題研究室:高林敏之)

35年の占領:西サハラ人の抵抗キャンプをモロッコ治安部隊が弾圧 ...

このビデオはぜひ見るべきです。解説者は本質を見事に捉えています。

ポリサリオ戦線 - Wikipedia

西サハラ - Wikipedia西サハラ問題 - Wikipedia西サハラ

西サハラ:アフリカ大陸基本情報

西サハラ

スペイン領サハラ

モロッコ解放軍

ハラカト・タハリール  

ゼムラ蜂起  

西サハラ (サハラ・アラブ民主共和国) 

ディプロ2006-1 - Inextricable, le conflit du Sahara occidental rebondit 

地誌Wiki - 西サハラ


②「西サハラは東チモールと同じだ」と言われていますが、重要な違いがあります。それはモロッコはインドネシアではないということです。
アメリカはアジア債務危機の際、スハルト政権を見殺しにしました。当時新聞は民衆蜂起が成功したと書きましたが、沖合いには沖縄の海兵隊を満載した第7艦隊が上陸準備していたことには触れませんでした。
一方、「アラブの春」で、本来なら真っ先に倒されなければならないはずのモロッコ王制は、民衆の抗議などどこ吹く風、我が世の春を歌っています。
だいたい「英明な君主」なんていうのは「硬い豆腐」と同じで形容矛盾です。もし英明な君主なら君主制など廃止するはずではありませんか。(丸い豆腐はありますねぇ)
正直いって私も、2009年の「インティファダ」は今回はじめて知りました。ちゃんと赤旗読んでいたはずなんだけどなぁ。

③重要なもう一つの違いはアルジェリアというバックの存在です。アルジェリアがあったからこそ、ここまでやって来れたのですが、この先もこのままで良いとは思えません。
せっかくモロッコから独立してもアルジェリアの属国になってしまったのでは意味がありません。70年代の戦闘を指導した人々ももう60歳台に入るはず、キャンプで生まれた人ももう30歳を越えてきます。90年代末にコロンビアのFARCが社会復帰のチャンスを逃したのも、あまりにも長くゲリラ闘争を続けてきたからです。
とにかく今のままでは闘えないのは事実です。大事なことは闘うことです。人々の生活する現場で人々と共に闘うことです。
トップが筋をつらぬくことと、30万の難民に「帰国して祖国で闘う自由」を与えることは、矛盾しないと思いますが…

④これはちょっとオタクめいた感想になりますが、「砂の壁」の有効性です。これまでゲリラ戦では「戦略村」が最も普遍的な対ゲリラ作戦でした。ベトナムはこれでだいぶ苦労しましたが、トンネル作戦でこれを乗り切りました。
戦略村とトンネル作戦(あるいは塹壕作戦)は朝鮮戦争から最近のメキシコ麻薬戦争まで拮抗してきましたが、これからは万里の長城作戦が復活していくのでしょうか。

1992年

1月 モロッコの異議により住民投票が延期される。スペインが1970年代に住民投票のため作成した住民名簿を基礎とした有権者名簿にたいし、12万人のモロッコ側名簿を加えるよう要求。

1997年

9月 ベーカー元米国務長官、国連事務総長「個人特使」として当事者間仲介。有権者認定作業を再開することで合意(ヒューストン合意)。

1998年

6月 ベーカー提案が暗礁に乗り上げる。

1999年

7月 モロッコ国王ハサン2世死去、ムハンマド6世が即位

2001年

2月 アナン国連事務総長、5年間のモロッコ主権下での自治のあと、独立・自治・モロッコ統合のいずれかを選ぶ住民投票という2段階・三択計画を提案する。ポリサリオ戦線はこれを拒否するが03年には受け入れる。

2002年

11月 ムハンマド6世、テレビ演説で「国連の住民投票計画はもはや有効でなく、住民投票は受け入れられない」と声明。

02年 東チモールが国連投票で独立を実現。

2003年

5月 「西サハラ人民の自決のための和平プラン」が提案される。5年間の暫定自治を経て、独立・自治・モロッコ統合のいずれかを選択するというもの。

7月 ポリサリオ戦線が「和平プラン」を受諾。これを受け、国連安保理が「和平プラン」を支持する決議を採択。

11月 ポリサリオ戦線は、モロッコ人捕虜300人を解放したと発表。捕虜たちの本国帰還は赤十字国際委員会に委ねられる。モロッコ政府は捕虜の存在を認めていなかった。

2004年

4月 モロッコは「和平プラン」を正式に拒否。自治のみが唯一の解決であるとの姿勢を鮮明にし、独立を選択肢に含む住民投票という構想を拒否。

2008年

2月 サハラ・アラブ民主共和国、ティファリティを臨時首都として宣言(正式の首都はラユーン)。

2009年

インティファダの女性指導者アミナトゥ・ハイダー、アメリカで市民の勇気賞(Civil Courage Prize)を受賞。モロッコから帰国を拒否され、カナリア諸島の空港で30日間のハンストを行なう。

2010年

9.21 モロッコ自治領化を主張したポリサリオ監察総監がポリサリオ武装派により誘拐・監禁される。人権団体がいっせいに非難したためまもなく解放。

9月 モロッコ政府、1月以降1360人がティンドゥフを脱走しモロッコに帰還していると報道。

10.13 西サハラ・モロッコ占領地でのインティファーダが始まる。首都ラユーンから15キロ離れた砂漠で「蜂起キャンプ」を設営。経済上の正義の要求を前面に抗議活動を開始する。キャンプへの結集者は瞬く間に拡大し、女性・子供・老人を含め1万人以上が参加する。

10.25 モロッコ占領軍が「蜂起キャンプ」に物資を運ぶ14才の西サハラ人少年を射殺。少年の兄二人をふくむ7人も銃撃され、病院に運ばれる。

10.29 モロッコ内務省、「検問に当たっていたモロッコ兵に向け2台の四輪駆動車が突然発砲してきた。モロッ コ兵は応戦し、14才の少年が死亡、7人が軽傷」と発表。「モロッコ国王に刃向かう国際テロリストの犯罪行為」と非難する。

11.02 現地の人道援助団体、「モロッコ軍が居留区に乱入し活動家を拘束している」とBBCに通報。国際支援をもとめる。

サンフランシスコ大学のズーヌス教授は「デモクラシー・ナウ!」で次のように語っている。
 西サハラの活動は、女性の権利と民主主義を求める非暴力の闘争です。それこそ西洋の国々がアラブに求めたものではないのか? それなのに欧米は専制君主を助けて非暴力の抵抗を弾圧させている。…西サハラの唯一の希望は東チモールで見られたような世界の市民社会が団結した国際連帯運動です。

11.08 モロッコの治安部隊が抗議キャンプを攻撃。アイウンは封鎖され、報道関係者は強制的に国外追放される。

11.11 モロッコ当局、死者は12人、そのうちモロッコ警察が10人と発表。モロッコ国内では事件は報道されず。

11.09 ポリサリオ戦線、サハラ人の死者は11人、723人が負傷、行方不明159人と発表。

つい読み流すので、今日は気合を入れて読む。

原発の格納容器内の内視鏡写真が公開された。ほとんどホワイトノイズで砂嵐状態。これが放射線によるものと説明されても良く分からない。入った場所からいうと水の中ではないからあぶくではない。とすればダストか?しかし本来ダストがあるような場所ではない。
放射線によるノイズといわれても、ガンマ線が目に見えるわけないし、まったく納得できないが。

ということで、赤旗を読む。
これで見ると粒状の物質は水滴だと書いてある。無数の水滴が落下しており、水蒸気が篭もって視界が数メートルだそうだ。容器内の湿度が極めて高いことは分かった。

温度は45度、かなり暑い。銭湯の室内よりは暑い。蒸気浴の室内くらいだろうか。サウナよりは低いが、湿度100%で45度は耐えられる温度ではない。

どうしてこんなに温度が高いのかといえば、溶け落ちた核燃料がいまだに反応しているからとしか考えようがない。おそらく煮立っているのだろう。でなければ45度出ることはないはずだ。

ここから先が分からないのだが、気圧はどうなっているのだろうか、内視鏡を入れたということは1気圧ということなのだろうか。であれば、水が煮立って湯気になれば膨張するわけだから、その水蒸気は外に流れっぱなしになっているのだろうか、もし密閉されているとすれば圧力が高まって爆発する恐れはないのだろうか。

これが出口の問題。

もう一つ入り口の問題としては、どんどん水蒸気が発生しているとすれば、水はなくなってしまう。そうなれば核燃料の制御は利かなくなりふたたび臨界に達してしまう。水は補給されているのだろうか。補給されているのなら、どうして期待したレベルまで水位が上昇していないのだろうか。

こうやって考えてくると、放射線のノイズ云々というのは目くらましのような気もする。肝心なことは水位が期待したほどには上昇していないということなのではないか?
その原因がはっきりするまでは、事故処理が前進したということにはならないようだ。


つい読み流すので、今日は気合を入れて読む。

原発の格納容器内の内視鏡写真が公開された。ほとんどホワイトノイズで砂嵐状態。これが放射線によるものと説明されても良く分からない。入った場所からいうと水の中ではないからあぶくではない。とすればダストか?しかし本来ダストがあるような場所ではない。
放射線によるノイズといわれても、ガンマ線が目に見えるわけないし、まったく納得できないが。

ということで、赤旗を読む。
これで見ると粒状の物質は水滴だと書いてある。無数の水滴が落下しており、水蒸気が篭もって視界が数メートルだそうだ。容器内の湿度が極めて高いことは分かった。

温度は45度、かなり暑い。銭湯の室内よりは暑い。蒸気浴の室内くらいだろうか。サウナよりは低いが、湿度100%で45度は耐えられる温度ではない。

どうしてこんなに温度が高いのかといえば、溶け落ちた核燃料がいまだに反応しているからとしか考えようがない。おそらく煮立っているのだろう。でなければ45度出ることはないはずだ。

ここから先が分からないのだが、気圧はどうなっているのだろうか、内視鏡を入れたということは1気圧ということなのだろうか。であれば、水が煮立って湯気になれば膨張するわけだから、その水蒸気は外に流れっぱなしになっているのだろうか、もし密閉されているとすれば圧力が高まって爆発する恐れはないのだろうか。

これが出口の問題。

もう一つ入り口の問題としては、どんどん水蒸気が発生しているとすれば、水はなくなってしまう。そうなれば核燃料の制御は利かなくなりふたたび臨界に達してしまう。水は補給されているのだろうか。補給されているのなら、どうして期待したレベルまで水位が上昇していないのだろうか。

こうやって考えてくると、放射線のノイズ云々というのは目くらましのような気もする。肝心なことは水位が期待したほどには上昇していないということなのではないか?
その原因がはっきりするまでは、事故処理が前進したということにはならないようだ。


西サハラの記事をいろいろ探しているうちに、こんな写真に出会った。

中部地雷問題支援ネットワーク

というページだ。とりあえず写真を転載させていただく。
元々の記事は(CNN 2008.4.2)からのようだ。
https://livedoor.blogimg.jp/shosuzki/imgs/2/7/275138d2.jpg

 約30年にわたって内戦状態が続いたアフリカ南西部アンゴラで2日、地雷の被害を受けた女性のミス・コンテストが開催される。まだまだ土中に埋もれてい る地雷の危険性を多くの人々に伝えるために企画されたコンテストで、優勝賞品はカスタムメイドの義足。また、参加者全員が政府の援助を受けられる。

参加者の写真やプロフィールなどは、大会の公式サイト(http://www.miss-landmine.org/)で見ることができるそうだ。

笑えないジョークではあるが、この際は遠慮しないで笑って泣くのが一番だろう。

 結局、全面的に着手してしまいました。意外に日本語資料が多く、読みこなすだけで数日が費やされてしまいました。

日本語版ウィキペディアにはいくつか不正確な記述があるようです。別に論争的なテーマではないので、早めに訂正されるよう期待します。



怖いもので、載せて送ったつもりが送られていませんでした。焦ってバックアップ・ファイルを除いたら、運よく残っていました。ただし、これは最終版ではなく、いくつか重要な事項が抜けています。

とりあえず載せておきますが、近日中に補充します。

1860年 モロッコ南部のイフニ地方がスペインの植民地となる。イフニは港町ジジ・イフニを中心とする1900平方キロほどの地域で、西サハラからは離れている。

1885年 スペインはボジャドールを南端とする「西サハラ」の保護領化を宣言。それまで西サハラはモロッコ王国の影響下にあったが、支配関係にはなかった。

もともとの住民は黒人であったが、北部から「ベルベル人」が移動してきて多数派となり、その次に13世紀頃に東からやってきた「アラ ブ人」と混淆していった。主に遊牧を営み、みんなひっくるめて「サハラウィ」(サハラの民)と総称される。

1910年 マー・アルアイニン、モロッコを攻撃。マラケシュを占領しフェスに向かうがフランス軍に敗れる。内陸部に逃れスマラの町を建設。

マー・アルアイニン: 本名はモハメッド・ムスタファ・ウーラッド・シェイク・モハメッド・ファデル。マー・ア ルアイニンは「目の水」という意味の通称。モーリタニアから西サハラまで の部族を統率、植民地支配者に対する抵抗の指導者となる。モロッコ攻撃は植民地解放運動へのスルタンの不誠実な対応に抗議するものといわれる。
 マー・アルアイニンは1911年に世を去ったが、息子たちがさらに6年にわたり抵抗運動を続けた。

1912年 モロッコ、スペイン・フランス協定によって保護領となる。「アラウィー朝」王室は存続したが外交権等を剥奪される。

1912年 スペインとフランスの協議により西サハラの境界線が確定。スペインは西サハラにモロッコ南部の保護領タルファヤ地方とイフニ飛び地を加え、スペイン領西アフリカとして再編する。

一説によれば、スペインはモロッコ南部に侵入し、16年にジュビィ岬(Cape Juby)を占領、ビリャ・ベンスを建設。20年にさらにラ・ゲーラを占領し、この地帯を南部保護領とした後、西アフリカに編入したとされる。この前後にビリャ・ベンスはタルファヤと改称され、スペイン領西アフリカの首都とされた様子。

1928年 サンテグジュペリのレポート「リオ・デ・オロ」に拠れば、スペインの植民地支配は海岸線に限定される。この年ラユーンの街が建設される。

1934年 スペイン軍、サハラウィの抵抗を抑える。西サハラはスペイン領サハラと改称。南部のリオ・デ・オロと北部のサギア・エル・ハムラより構成される。

1947年 ブークラーで燐鉱石鉱脈が発見される。

1956年 モロッコがフランスから独立。スペインにも南部支配地イフニ、タルファヤの返還をもとめる。

1957年 

8.11 「サハラ解放軍」が西サハラ北部のリン鉱山の町シジ・イフニで蜂起。イフニ戦争が始まる。スペインはカナリア諸島から落下傘兵連隊を送り、「サハラ解放軍」を退ける。

サハラ解放軍: モロッコの主要政党のひとつイスティクラール党の組織した義勇兵部隊。サハラウィも大挙参加した。

1958年

2月 ハッサン二世、「サハラ解放軍」を再編し、援助を強化する。スペインはフランスの「軍事協力」を得て掃討に乗り出す。

4.01 アングラ・デ・シントラ協定が成立。モロッコはジジ・イフニ周辺のスペイン支配を認め。「サハラ解放軍」への支援を打ち切る代償としてタルファヤとタンタンをふくむ南部保護領の返還を獲得する。

1962年 アルジェリアがフランスから独立。北アフリカにおける民族解放運動のリーダーとなる。

1963年 西サハラ北部ブーカラー (Bou Craa) のリン鉱床の埋蔵量が最大規模の鉱脈であることが明らかとなる。世界の採掘可能燐鉱石の9パーセントに達するとされる。

1965年 西サハラが国連の「独立すべき植民地リスト」に載せられる。翌年にはアフリカ統一機構(OAU)が西サハラの自決権を支持する決議を採択。

1967年 バシリらが中心となり、アイウンに独立を目指す組織が結成される。

1968年 騙されて外人部隊に入隊した日本人2人が砂漠越えの脱走を企てる。3日後には暑さに耐えられなくなって外人部隊駐屯地に引き返し、重営倉(軍隊の懲罰施設)入りとなっ た。

1969年 スペイン、西アフリカの首都となっていたイフニをモロッコに割譲。これに代わりラユーンに総督府がおかれる。

ラユーンは欧米での発音。元々はアラビア語で “al-Aiyun” なのでアル・アイウンが正しい。征服したヨーロッパ人が “Laayoune” と呼び表記した(綴りはスペイン語というよりフランス語ですね)。現地でもラユーンで通用する。東京がトキオになった感じ。
ヨーロッパ語読みは邪道と言われるかもしれないが、それならメヒコ、クーバ、オンドゥラス、ベネスエラ、アルヘンティーナ、チレと呼びますか? 中華民国、朝鮮民主主義人民共和国と呼びますか?

69年 北部スマラの聖職者ムハンマド・バシリ、秘密結社「ハラカト・タハリール」(解放運動)を結成。正式には「サギア・エル・ハムラおよびリオ・デ・オロ解放運動」とされる。

サギア・エル・ハムラはアラビア語で「赤 い運河」を意味する。州都ラユーンを水路が横切っていることから名付けられた。西サハラの北1/3をなす。リオ・デ・オロはスペイン語で「黄金の川」の意味。国の南部2/3を成す。州都ダクラに川が走っていたことから名付けられたという。

1970年

6.17 ハラカト・タハリールがラユーンのスペイン総督に対しサハラの独立と公正な扱いをもとめる請願デモ。市内ゼムラ地区で警察との衝突とな り、外人部隊が出動。少なくとも11人が死亡し、多数が負傷、数百名が逮捕される。指導者バシリは数日後に逮捕されたあと消息を絶つ。

1971年 モロッコ軍内に、ハッサン二世の統治への不満が高まる。ムハンマド・アバドゥ大佐がクーデタを試み、72年には国王専用のボーイング機が狙撃されるなどテロの標的になったが、ハッサン二世は奇跡的に生還した。

1972年

5月 「統一と解放のための戦線」(FLU)を名乗る武装組織が西サハラに侵入。スペイン軍とポリサリオ戦線の双方を相手に戦闘を開始。実体としてはモロッコ軍の一部とされる。

1973年

5.10 モーリタニア領のアイン・ベンティリで、スペインからの独立を目指すポリサリオ戦線が結成される。

ポリサリオ戦線: Frente Popular de Liberación de Saguía el Hamra y o de Oro の頭文字をとったもの。正式には「サギア・エル・ハムラおよびリオ・デ・オロ解放人民戦線」となる。
 
モロッコの大学に留学するサハラウイ学生を中心に結成され、エル・ウアリ・ムスタファ・サイードが書記長に就任、アブデルアジズらが指導。

5.20 ポリサリオ戦線、エル・ハンガでスペイン軍部隊と最初の交戦。わずか7名のゲリラでスペイン兵16名に勝利。

73 モロッコ、アルジェリア、モーリタニアの3国首脳会談、西サハラの「自決」を求める。

73年 スペイン政府は、内政自治計画を声明。西アフリカを「海外県」とし、現地議会「ジェマー」を開設。本国議会にも3人の議員を送る。親スペイン政党「サハラウイ国民統一党」(PUNS)が結成される。

1974年

7月 スペインの独裁者フランコ総統が病に倒れる。このあと軟化したスペイン政府は国連の監視下において西サハラでの住民投票を行う方向を打ち出す。

74年 スペイン植民地当局が、住民投票の権利を有する西サハラ住民の名簿を作成。この時点では西サハラの登録人口は5万人しかいなかった。

74 モロッコは西サハラの独立を選択肢とする住民投票を拒否。「大モロッコ主義」を唱えて西アフリカの領有権を主張する。

大モロッコ主義: 16世紀以降にモロッコが支配してきた地域はみな現在のモロッコ王国に統合されるべきであるとの考えで、西アフリカだけでなくモーリタニアの全域・マリの北西部・アルジェリア西部までをも含んでいた。


西サハラポリサリオ戦線の戦い

西サハラの闘い その3

西サハラの闘い その2



1981年

3月 アメリカはモロッコに対し1億ドルの軍事援助を開始。アメリカ式訓練を受けたモロッコ軍特殊部隊がアガディールとタンタンに派遣される。部隊は人民解放軍の待ち伏せ攻撃を受け甚大な被害を出す。

6月 第一次の「砂の壁」が完成する。大西洋沿岸から内陸のアルジェリア国境の近くにまで達する全長700キロの長城が姿を現わす。

6.24 アフリカ統一機構の第18回首脳会議(ナイロビ)で、モロッコは西サハラでの住民投票受け入れを宣言。しかしポリサリオ戦線を紛争当事者と認めず、住民投票も「モロッコの主権を確認するためのもの」と主張。

8月 コジョOAU事務総長はRASDに加盟承認を通告

10月 アルジェリアの軍事支援を受けた西サハラ人民解放軍は国土の90%を解放。モロッコは派遣軍を8万人か ら13万人に増員して対抗。

“首都”ティンドゥフ: 4つの難民キャンプには合わせて約15万人が住み、モロッコ占領下の最も重要な都市名を取ってエル・アイウン、スマラ、アウセルト、ダクラと名付けられている。更に各省庁、キャンプ各地域の管理局、病院や診療室、幼稚園、小学校、女性のための職業学校、婦人団体、菜園、放送局などがある。

81年 劣勢に追い込まれたモロッコは、北部にエルアイウン(首都)・スマラ・ブクラを結ぶ「重要三角地帯」を設定する。人民解放軍はただちに三角地帯の拠点ゲルタ・ゼムールを攻撃し甚大な被害を与える。

1982年

2.22 アジスアベバでOAU外相会議。RASDが出席。モロッコおよび18か国が退席し流会に追い込む。

5.27 ハッサンがワシントンを訪問し軍事援助をもとめる。EUを経由して1億ドルの軍事援助が提供されることとなる。

1983年

6.08 OAU首脳会議、モロッコとポリサリオ戦線を紛争当事者として初めて明記。直接交渉を求める決議を採択。

83年末 ハッサン二世、参謀本部を全面更迭。アメリカ式の装備に切り替える。

1984年

2.27 モーリタニアがRASDの独立を承認。

10月 ポリサリオ戦線、三角地帯の壁を同時攻撃。ズムール・二ランで防御線を突破する。その後は砂の壁を攻めあぐねる。

11月 OAU首脳会議にRASDが正式加盟。モロッコはOAU脱退を宣言する。

1987年

モロッコが建設を進めて来た「砂の壁」が完成。

砂の壁: 国土を東西に隔てる全長2千キロの防衛線。イスラエル軍の協力によって建設された。砂を高さ数メートルに積み上げて作ったもので、その周辺は鉄条網と地雷原で防御されている。

1988年

モロッコとポリサリオの双方が、国連事務総長の和平提案を受諾。

1989年

1月 ポリサリオ上級幹部がマラケシュでハサン2世と秘密会談。モロッコは住民投票の受け入れを了承する。

1990年

6月 包括和平案が国連安保理決議658として採択される。独立かモロッコ統合かを住民投票で選択することが骨子で、OAU枠組み案を踏襲する。

1991年

4月 国際連合の仲介でポリサリオ戦線とモロッコが停戦。モロッコ帰属か独立かを問う住民投票を実施することになる。

8月 国連西サハラ住民投票監視団(MINURSO)が創設される。

9月 ポリサリオ戦線とモロッコとの停戦が発効する。

1975年

2月 「統一解放戦線」(FLU)が北部で戦闘を開始。スペイン軍とポリサリオ戦線の双方に敵対する行動。実態はモロッコ政府軍の一部とされる。

その頃のモロッコは国王ハッサン2世が国防相・参謀総長を兼任していた。ハッサン独裁への軍部の不満は強く、王宮襲撃事件や国王専用機銃撃事件が続いていた。これらの矛盾を国外にそらすことに最大の目的があったとされる。

75年前半 国連現地調査使節団、圧倒的多数のサハラウイが併合ではなく独立を支持と報告。都市部以外のすべてはポリサリオ戦線が支配するにいたる。

75年 カルロス皇太子がエルアイウンを訪問、西サハラの独立をあらゆる方策で保障すると述べる。

10月 国際司法裁判所、モロッコの西サハラ領有権を否定する裁定。ハッサン2世は裁定受け入れを拒否し、「緑の行進」を呼びかける。

判決の要旨: 西サハラとモロッコ、あるいはモーリタニアの間には、歴史上いかなる領土上の主権関係もなかった。スペインによる植民地化の時点では西サハラは「主なき地」ではなかった。

10.31 モロッコ軍8千人が国境を越え軍事占領作戦を展開。(この項真偽不明)

11.06 モロッコは35万人を動員した「緑の行進」を強行。ハッサン2世は「いかなる専制君主といえど も。非武装の35万人に発砲を命じることは出来まい」と扇動。

緑の行進の実態: ①35万人は主催者発表であり実数は不明、②行進団の上空にはモロッコ空軍機が旋回しており、非武装とはいえない、③モロッコ政府軍の別働隊であるFLUがポリサリオ戦線との衝突を繰り返していた、④行進団は国境から12キロの地雷原で反転、そのまま国内に戻った。

11.06 モーリタニアが南部から侵入。2万の軍が南部リオ・デ・オロ地方の中心地ゲラを占領。(この項真偽不明)

11.06 国連決議380号、「行進に参加した全モロッコ人の即時引き上げ」をもとめる。アルジェリア領内に大量の難民が流出。スペイン政府は民間人や兵士の家族に退去を命じる。

11.14 マドリードでスペインとモロッコ、モーリタニアの三国会談。秘密協定で、スペインは西サハラの分割譲渡を認める。燐鉱山は、所有権をモロッコ2、スペイン1の割合で分割することで合意。

11.20 フランコ総統が死去。スペインは西サハラへの関心を完全に失う。

11.25 モロッコ正規軍4000名が国境を越えて侵攻。

11.28 諮問議会「ジェマー」、独立を支持する「ゲルタ・ゼムール宣言」を発する。ジェマーを解散するとともに、ポリサリオ戦線こそが西サハラ唯一の合法的権威であるとする。

「ジェマー」はスペインが開設した現地人の諮問議会。宣言には議員の3分の2のほか、西サハラ選出のスペイン国会議員3人、60人の族長が署名した。

12.10 モーリタニア軍が侵入。スペイン駐留軍基地の撤収跡を確保するためポリサリオ戦線との戦闘が繰り返される。

ポリサリオ戦線はモーリタニア軍の後方基地を襲い、越境してモーリタニア軍拠点を攻撃するなど多彩な攻撃を展開。司令官エル・ワリは神出鬼没の活躍ぶりから「サハラの狼」と呼ばれた。

12月 長老層や旧「サハラ解放軍」兵士らがポリサリオに合流し、「臨時サハラウイ国民評議会」を創設。

1976年

1.12 スペイン軍の最終部隊がダクラから引き揚げる。これに代わりモーリタニア軍がダクラに進駐。

1月 エル・ウアリ・ムスタファ・サイードのひきいるポリサリオ戦線は、住民を道連れに奥地への遅延撤退作戦を展開。モロッコ軍がナパーム弾で難民の列を爆撃。

1.21 モロッコ空軍のF5戦闘機がポリサリオ戦線によって撃墜される。対空兵器はアルジェリアから持ち込まれたものであった。

1月末 アルジェリア国営通信、自国軍がモロッコ軍と衝突したと公表する。

2.14 アルジェリア軍、難民の移動完了を見て、西サハラ領内より撤収。

2.26 スペインが最終的に西サハラの領有を放棄。

2.27 アルジェリア領内ティンドゥフに形成された難民キャンプを拠点として「サハラ・アラブ民主共和国」の建国を宣言。

サハラ・アラブ民主共和国: Sahrawi Arab Democratic Republic (SADR) と称される。アルジェリアとリビアが支援に回った。実質的行政機能はアルジェに置かれる。

3.01 アフリカ統一機構、西サハラへの支持を表明。

4.14 モロッコとモーリタニアが西サハラの分割ラインを決定。

6.07 ポリサリオ戦線、モーリタニアの首都ヌアクショットへの急襲作戦。ランドローバーやトラックに分乗した兵士600人がティンドゥフを出発。

6.09 ポリサリオ戦線がヌアクショット市内に突入。一時は大統領官邸付近に迫撃砲弾を撃ち込むが結局は撃退される。ポリサリオ戦線側の戦死者は200人を数え、この闘いでエル・ウワリが戦死。

7月 モロッコのラバトでハッサン二世とモーリタニアのウルド・ダッダ大統領が会談。「相互防衛条約」に調印する。モロッコ軍3千人がモーリタニア支配地域に展開。さらにフランス人の「ジャガール飛行部隊」が制空権を確保する。

8月 ポリサリオ戦線の第3回大会。エル・ウワリに代わりムハメッド・アブデルアジズが書記長に選出される。サハラ人民解放軍(ALPS)を編成する。

8.30 アブデルアジズ、第3代のサハラ・アラブ民主共和国大統領となる。

10月 ポリサリオ戦線が軍事攻勢を再開。ヌアクショットも少人数コマンドによる反復攻撃の対象となる。

1977年

5.01 西サハラ解放軍が「エル・ウアリ作戦」を実施。モーリタニアのゾエラットを攻撃。3週間にわたる戦闘の後占領。

ゾエラットには鉄鉱山があり、モーリタニア経済の心臓部とされる。モーリタニアは戦費増大に加え、資金源の鉄鉱山を叩かれたため経済危機に陥る。

5.01 ゾエラットに駐在していたフランス人6人が人質となる。ポリサリオ戦線は人質と交換にフランス政府の独立承認を要求。のちにフランス共産党の仲介によって解放される。

5.13 モーリタニア、モロッコとの相互防衛協定に調印。モーリタニア領へのモロッコ軍駐留が開始される。

7.03 エル・ウワリ戦死1周年を期して、西サハラ解放軍がヌアクショットを攻撃。攻撃は1週間にわたり続く。

7.20 モロッコ、モーリタニアに600人の増援部隊を派遣。

11月 モーリタニア軍と組んだフランスの「ジャガール」と「ミラージュ」の飛行部隊が進出し、制空権を握る

1978年

6月 モーリタニアのウルド・ダッダ大統領がクーデターにより失脚。

7.12 ポリサリオ戦線はモーリタニアに対する一方的戦闘停止を指示。

8.05 アルジェでポリサリオとモーリタニアの間に停戦協定成立。このあと戦いは西サハラ人民解放軍とモロッコ軍との間に絞られる。人民解放軍はリン鉱山を反復襲撃し操業停止に追い込む。

11月 フランス人飛行部隊が撤退。モロッコ軍はフランス軍の援助を受け反ゲリラ部隊「緊急介入部隊」(DIR)を編成。ゲリラ根絶のため焦土作戦を実施する。

1979年 

1.29 ポリサリオ戦線、「ブーメジエン攻勢」を開始。国境を越えモロッコ国内に侵入。レムサイルの戦闘で勝利し、タンタンを一時占拠。モロッコ軍2個連隊を壊滅に追い込む。(ブーメディエンは当時のアルジェリア大統領)

7月 第17回OAU首脳会議、西サハラにおける自決住民投票を骨子とする決議を採択。サハラ共和国のOAU加盟についても過半数の国が賛同するが、モロッコの脱退の脅しの前に、採択を保留する。

8.05 モーリタニアとポリサリオ戦線が和平協定を締結。モーリタニアは西サハラに対する領有権主張を放棄、相互不可侵と国境の尊重、モーリタニア占領地域のポリサリオへの引き渡しを約す。

8.14 モロッコは和平協定を無効と宣言。モーリタニア占領地域もふくめ西サハラ全土を自国に併合する。

9月 ハバナで開かれた非同盟首脳会議、西サハラからの全占領軍撤退を求める決議を採択。

79年末 ポリサリオ戦線の大攻勢。解放区は西サハラ全体の8割に達する。サハラ・アラブ民主共和国を34カ国が承認する。

79年末 モロッコ軍、制空権確保を中核とするアメリカ式戦術への切り替えを開始する。モロッコ国内に5つの基地を持つアメリカが軍事支援を強める。

モロッコの新戦略: 「国家防衛評議会」を新設し国王の義兄弟アフメド・オスマンが議長に就任。装甲車やジープ、ヘリコプターなどで機動性を高め、対ゲリラ戦機能を強化。砂の壁の構築を柱とする。

完全小選挙区制は、議会制度の墓場だ。民意を反映すべき議会の自殺行為だ。
国民は自らの声を国政に伝える手段を失うことになる。

https://livedoor.blogimg.jp/shosuzki/imgs/3/b/3b5124d7.jpg

戦前の二大政党制度が12年戦争へとつながっていった道を忘れてはならない。現在のような流動的情勢において、“安定した政治制度”を求めることは、政治の不安定化をもたらすことになる。
国民の鬱積した不満は橋本のような扇動家を生み、閉塞した政治状況は非平和的勢力の跳梁をもたらす危険がある。民主党がひそかに目指す大連立は憲法改悪と翼賛政治への道である。
共産党、社民党、国民新党はただちに共闘体制を作らなければならない。減らすべきは小選挙区であり、比例代表制こそ増やすべきである。
減らすべきは政党助成金であり、国民の声を反映するためには、議員定数はもっと増やすべきである。

87年6月の韓国民主化闘争はまさに歴史的な闘いではあったが、これに続く現代グループ労働者の2ヶ月にわたる闘いも、韓国現代史にとって同じくらいの意義を持っている。
「世界政治」の87年10月上旬号には、現代グループ労働者の闘いを中軸に据えた萩原遼記者の素晴らしいレポートがある。
多分現在では入手困難と思われるので、韓国年表に組み込んだ。韓国の左翼運動を見ていく上で一つの原点となっていると思われるので、ぜひご参照いただいたい。

本日の赤旗トップは内部留保が増えているという記事。
労働総研の調査で、資本金10億円以上の大企業が保有する内部留保(連結ベース)が2010年度で266兆円に達した。前年度比9兆円の増加となる。
10年間の変化を見ると、特徴的なのは好況期といわれる04年から07年のあいだには30兆円の積み増しであるのに対して、リーマンショック後の不況期に入って46兆円も積み増していることである。
内部留保は基本的には使途を定めない投資ファンドと位置づけられている。不況期にあっては有効な投資先が減少することから、増加せざるを得ないのであるが、10年間着実に、年平均10兆円がつみあがるのは景気の局面からは説明できない。

さらに問題となるのは、内部留保+配当=税引き後純利益だから、そして配当金も着実に増加しているから、純利益が100兆円以上増えたことを意味するということである。

さらに国際競争力という観点から見るならば、ドル換算で評価しなければならない。2000年の円相場が120円、現在が76円だから、120/76=1.58 をかけなければならない。

そうすると
00年の内部留保 172兆円=1.4兆ドル
にたいして
10年の内部留保 266兆円=3.5兆ドルとなる。
実に日本の大企業は10年間でドル換算で内部留保を2.5倍に伸ばしたことになる。
すさまじい収益力であり、「国際競争力」である。
日本の国際競争力の弱体化が問題にされてきたが、むしろ強すぎることが主要な問題ではないか。

むかし囲碁の名人で坂田という人がいた。対局中に「ひどい」とか「参った」とかぼやきまくるのが有名だったが、周りの人にいわせると「あれは本人が参ったのではなく、相手が参っただろうといっているのだ」とのことだった。

大企業は「4重苦」とか「5重苦」とか、坂田栄男を真似ているのかもしれないが、決して騙されてはいけない。苦しいのは腹が膨れて、バンドがきつくて苦しいのである。

ところで、これら大企業の内部留保を賃金に回せというのはちょっと理屈が通らない。
企業の利益はすべて国内の労働者が稼ぎ出したものではない。ざっと見て半分は海外進出先で現地の労働者が稼ぎ出したものである。

もちろん、国内の労働者も権利を主張すべきだし、賃上げを要求するべきではあるが、それはあくまで生きていくための必要経費を基本とすべきだろう。儲けているんだから分け前よこせというのは筋が違う。
基本としては租税として徴課し、国家の再配分機能を最大限に働かせるべきではないか。

 サハラ・アラブ民主共和国(西サハラ)のたたかい

だいぶ古い「世界政治」(1987年4月下旬号)に紹介記事があった。いずれ役に立つかもしれないので紹介しておく。

1975年10月31日、「緑の行進」の美名のもとにモロッコ軍8千人が国境を越え侵入。

11.06 モーリタニアが南部から侵入。2万の軍勢が南部リオ・デ・オロ地方の中心地ゲラを占領。

11月 マドリードで三国間協定が調印される。

75年 エル・ウアリ・ムスタファ・サイードのひきいるポリサリオ戦線が抵抗闘争を開始する。解放軍は敵軍の後方基地を襲い、越境してモーリタニア軍拠点を攻撃するなど追い詰める。

76年3月 エル・ウアリ・ムスタファ・サイードのひきいるポリサリオ戦線は、住民を道連れに奥地への遅延撤退作戦を展開。

6月にはヌアクショット市内にポリサリオ戦線が攻め入るが、多数の死傷者を出して撤退。

76年7月 モロッコのラバトでハッサン二世とモーリタニアのウルド・ダッダ大統領が会談。「相互防衛条約」に調印する。モロッコ軍3千人がモーリタニア支配地域に展開。さらにフランス人の「ジャガール飛行部隊」が制空権を確保する。

76年9月 ポリサリオ戦線が第3回大会を開催。サハラ人民解放軍(ALPS)を編成し全面攻勢を開始する。ヌアクショットも反復攻撃の対象となる。

77年11月 モーリタニア軍と組んだフランスの「ジャガール」と「ミラージュ」の飛行部隊が進出し、制空権を握る

78年6月 モーリタニアのウルド・ダッダ大統領がクーデターにより失脚。ポリサリオ戦線はモーリタニアに対する一方的戦闘停止を指示。このあと戦いは西サハラ人民解放軍とモロッコ軍との間に絞られる。

78年11月 フランス人飛行部隊が撤退。モロッコ軍はフランス軍の援助を受け反ゲリラ部隊「緊急介入部隊」(DIR)を編成。ゲリラ根絶のため焦土作戦を実施する。

78年12月 ポリサリオ戦線、「ブーメジエン攻勢」を開始。レムサイル、タンタンの戦闘で勝利しモロッコ軍2個連隊を壊滅に追い込む。

79年6月9日 ポリサリオ戦線の指導者サイードが戦死。

79年 モーリタニア新政権とポリサリオ戦線が平和条約に調印する。

79年末 モロッコ軍、制空権確保を中核とするアメリカ式戦術への切り替えを開始する。モロッコ国内に5つの基地を持つアメリカが軍事支援を強める。

81年3月 アメリカ式訓練を受けた特殊部隊がアガディールとタンタンに派遣される。部隊は人民解放軍の待ち伏せ攻撃を受け甚大な被害を出す。

81年10月 アルジェリアの軍事支援を受けた西サハラ人民解放軍は国土の90%を解放。

81年 劣勢に追い込まれたモロッコは、北部にエルアイウン・スマラ・ブクラを結ぶ「重要三角地帯」を設定し、全長2千キロの防衛線により要塞化する。アメリカは1億ドルの軍事援助を開始。人民解放軍はただちに三角地帯の拠点ゲルタ・ゼムールを攻撃し甚大な被害を与える。モロッコは派遣軍を8万人から13万人に増員して対抗。

83年末 ハッサン二世、参謀本部を全面更迭。アメリカ式の装備に切り替える。

84.10.13 ポリサリオ戦線、三角地帯の壁を同時攻撃。ズムール・二ランで防御線を突破する。

85年12月 ポリサリオ戦線の第6回大会。防衛壁突破のための戦略を協議。

ダボスの世界経済フォーラムが「2012年グローバル・リスク」という報告を発表した。
この報告はユートピア(理想郷)の対極の世界「ディストピア」がやってくると警告を発している。

研究社英和辞典では、dystopia: (ユートピアに対して)ディストピア,暗黒郷,地獄郷.

小玉記者によれば、最大のリスクは①深刻な所得格差、そして②不安定な政府の財政状態、とされている。

ここまでは良いとして、これらが解決されないと

「実行可能な代案がなければ、保護主義や国家主義、ポピュリズムにあおられ、世界経済は下降の渦に巻き込まれかねない」

というのがシナリオで、ここには素直に首肯できないものがある。

つまり、“ダボスの賢人たち”も、一体改革をもとめていることになる。
さすがわが国の政府は先見の明があると言いたいところだが、残念ながら、一体改革の中身が違う。
①所得格差の解消という視点がまったく入っていない。それどころか、消費税はその逆進性により、社会保障は実質的な改悪により、①の問題をさらに深刻化することになる。

ダボスの提起する一体改革は、まずは深刻な所得格差の解消であり、それと並行して国家財政を改善していくということである。

野田首相が国際会議の場で、ここのところを取り違えて大恥をかくことがないよう祈る次第である。

ロシアの外務次官が「一方的な石油禁輸はイラン国民や経済に悪影響を与える。こうした動きで国際社会によるイランの核問題解決への努力は水泡に帰する」と述べたそうだ。
同時にイランが地下施設でウラン濃縮を始めたことに対しては「懸念を抱かせる」と不快感を示した。

結局、核兵器が開発される危険と、戦争が起こる危険性を秤にかけて、戦争の危険性のほうを重く見た判断であろう。もちろんそれで核開発を容認するわけではないが、ぎりぎりのところでは、核開発を容認しかねない議論である。

中南米など非同盟諸国のあいだにも、こうした意見は根強い。ことの良し悪しは別として、それは民族の主権にかかわる選択だということになる。

たとえば基本的人権の問題や言論の自由などという課題は、民族・国家の垣根を乗り越えるものではない。これを曖昧にすれば、ユーゴ内乱の二の舞だ。リビアでは明らかにこの基準を超えてしまった。

しかし、こと核の問題については話は別ではないか。もちろん核拡散防止条約は根本的な矛盾を抱えた条約ではあるが、それでもこれ以上核保有国をふやしてはならないという世界の人々の強い決意に支えられて、一つの有効なアイテムとなっている。

核は政治の中で相対化されてはならない。武力をもってこれを粉砕するというのは論外であるにしても、核開発を試みる国と政府に対して国際的なボイコットを訴えることは理にかなっていると思うが。

被災地の失業手当が期限切れになった。
小宮山洋子厚労相は「失業手当でやることによって、就労意欲が薄れる」と言い放ったそうだ。
よくも言ったものだ。
仕事がないから失業しているのか、意欲がないからなのか、そんなことは分かっているはずだ。ハローワークはあんたの管轄だろう!
知っていて、ニコニコしながら平気でこういうウソをついて、神様に申し訳が立つのか?ご先祖様の墓には入れないぞ。

第一、失業保険切ったらどうなるんだ。みんな生保にするのか。それこそ「就業意欲をそぐ」ことになるぞ。

80議席削減の試算が赤旗に掲載された。
国会議員の歳費は月130万円、これに550万円の期末手当が加わる。
130x12 + 550 = 2110万円だ。
これに80をかけると約17億円となる。
一方で政党助成金は年間320億円に達する。これなら助成金を300億に減額するだけでもおつりが来る計算だ。
比礼を80人減らせば、共産党は0だ。助成金をもらってない政党が減っても助成金は減らない。
減るのは二大政党制に反対する国民の声の代表だけだ。

80議席削減の試算が赤旗に掲載された。
国会議員の歳費は月130万円、これに550万円の期末手当が加わる。
130x12 + 550 = 2110万円だ。
これに80をかけると約17億円となる。
一方で政党助成金は年間320億円に達する。これなら助成金を300億に減額するだけでもおつりが来る計算だ。
比礼を80人減らせば、共産党は0だ。助成金をもらってない政党が減っても助成金は減らない。
減るのは二大政党制に反対する国民の声の代表だけだ。

以前にも神戸大震災の被災者が借金で苦しんでいるとの記事を紹介した(8月31日“神戸大震災の負の遺産”)が、別なケースが実名入りで掲載されていたので紹介する。

神戸市兵庫区の印刷業者、塚本さん(71歳)は震災で家が全焼し、プレハブの仮住居を経てマンションを購入し移住。営業を再開しました。
震災後、住宅ローン3千5百万円、災害援護資金300万円、店の再開に営業用融資1千万円、合計4800万円借りました。
現在もなお月20万円近く返済中です。住宅ローンは93歳まであります。
収入はほとんど返済に回り、残らず。蓄えはとうになくなり、生命保険も解約しました。

17年前といえば、塚本さんは54歳、まだバブルの余波もあって景気の良い時代で、少し豪気に構えたかもしれません。しかしそのツケを死ぬまで払い続けるというのは辛い話です。
印刷業といえば、不況業種の代名詞みたいなもので、「収入は笑うほど少ない。月にたった3万円のこともある」というんでは、まさにお先真っ暗です。


以前にも神戸大震災の被災者が借金で苦しんでいるとの記事を紹介した(8月31日“神戸大震災の負の遺産”)が、別なケースが実名入りで掲載されていたので紹介する。

神戸市兵庫区の印刷業者、塚本さん(71歳)は震災で家が全焼し、プレハブの仮住居を経てマンションを購入し移住。営業を再開しました。
震災後、住宅ローン3千5百万円、災害援護資金300万円、店の再開に営業用融資1千万円、合計4800万円借りました。
現在もなお月20万円近く返済中です。住宅ローンは93歳まであります。
収入はほとんど返済に回り、残らず。蓄えはとうになくなり、生命保険も解約しました。

17年前といえば、塚本さんは54歳、まだバブルの余波もあって景気の良い時代で、少し豪気に構えたかもしれません。しかしそのツケを死ぬまで払い続けるというのは辛い話です。
印刷業といえば、不況業種の代名詞みたいなもので、「収入は笑うほど少ない。月にたった3万円のこともある」というんでは、まさにお先真っ暗です。


書棚の整理をしたら、というよりしかけたら、安本美典の「神武東遷」という本が出てきて、何気なく読み始めてはまった。
昨日の記事は、酒飲みながら読んでいて、寝る前に上げたもので、結構よれている。さて本日もすでにかなり回り始めているので、まともな記事になるかどうか自信はない。

安本氏がこの本を書いたのが1968年、34歳のときというからおどろく。よほど斬新だったのであろう。

いわゆる古田史学が登場するのより早い。しかもこちらのほうがまともだ。

この本の一番の味噌は、神武天皇が実在していたとすれば、おそらく西暦280年ころだということを説得力を持って主張しているところにある。

前書きというか、方法論の所が結構長くて鬱陶しいが、要するに飛鳥天平の頃の天皇の平均在位期間が平均10年ちょっとだから、それに天皇の人数をかけて逆算すれば280という数字が出てくるということだ。
それは卑弥呼から100年くらい後のことで、それから兄弟と計ってヤマト征服に出陣したということだ。

そうすると、古事記や日本書紀の記述は概ね正確で、ただ年月日がでたらめだということになる。

巻末に古事記と、日本書紀の現代語訳が付いているのはありがたい。
これを見ると、どこに何年いてそれからどこに移って、と時間経過が書きこまれているが、これはは一切無視して読めばいいということになる。

征服というのは、平和時にいる我々にとっては信じがたいほどのスピードと冷酷さで進行する。とにかく見ず知らずの土地に突っ込んでいって、逆らうものは皆殺しにして、という闘いだから、戦略などというものはない。中国人ギャング団みたいなもので、とにかく出たとこ勝負だ。

一番大事なのは勢いである。勢いがあれば現地で軍備も到達できるし、兵士も寄ってくる。これが一旦勢いが弱まれば、世の中すべて逆回転し始める。

古事記の記述ではあまりにも悠長だ。おそらく九州を発ってから長くとも半年くらいの間に片がついたと考えるべきだろう。吉備で軍勢を整えてから出陣したにしては、吉備勢が戦闘場面に登場しない。

私はコルテスやピサロの征服譚、ドレーク船長やモルガン船長らの海賊話をつい思い起こすのだが、勝利の条件はいくつかある。まず何よりも武器の圧倒的な差だ。「文明の衝突」並みの隔絶が必要だ。スペイン人にとっては鉄砲と馬、犬だったと言われるが、私は槍・刀だったのではないかと思う。とにかく鉄の刀は切らずに突くのなら一振りで10人は殺せる。

500年後のアテルイの闘いでも同じような場面が出現する。弓矢は奇襲戦には有効だが正規戦では楯に防がれる。射ち尽くせば後は逃げるしかない。

神武軍は長髄彦に奇襲戦法で攻撃され、壊滅的打撃を受けた。本当は兄貴が総司令官だったと思うが、戦死してしまう。残る兄弟のうち二人も敗走の途中に死んでしまう。結局神武しかいなくなった。

そこから再び陣列を立て直し、吉野川から山中に入り、背後から敵を衝く大作戦を敢行するのだから、相当のガッツである。こういう日本人てありなのだろうか。

神武東征記には「何故?」という所が完全に欠落している。しかしこの死に物狂いの闘いぶりが、「なぜ?」という問いに対する答えを暗示しているのではないか。

彼らにはもはや帰るところはなかった。背水の陣で戦いに臨むほかなかった。彼らは九州の権力者の名により派遣された軍ではなく、追い立てられた逃亡者の群れなのではなかったのか、そういう気がしてくる。

卑弥呼の時代に九州に大乱が起こり、それが何年続いたかは分からないが、結局大乱の当事者のいずれか一方が九州を追われ、オデッセイアの旅に出て、宇佐の連中とつるんで瀬戸内を荒らしまわる海賊になり、それが大和をやっつけようという話になったのではないか。

大和盆地の中心は昔は湖で、大和川を遡っていけばそこに出て湖畔の町を襲撃しようという事なら、海賊の作戦としては極めてありふれた話だ。
それが生駒山麓の所で土砂崩れかなんかあって、河が通れなくなってしまった。それで船を降りて陸路進もうとしたところを現地住民の待ち伏せにあって逃げ出した。
こう考えてみると、船に乗ったり降りたり、時化にあったりの経過が理解できるのである。

そう思ってみると、神武東征記はモルガン船長のニカラグア・パナマ攻略作戦と非常によく似ていることに気づく。海賊というと海の上での商船乗っ取りというイメージが強いが、実は連中、海兵隊みたいな所があって、結構陸戦に強いのである。

とにかくこの神武という男、何人殺しているか分からない。しかも殺すことに何の大義もない。「誅す」と書いてあるが、「天誅」とすべきいわれはなんらない。他人の土地に踏み入り、富と命を簒奪することにひたすら執念を燃やしている殺人鬼である。
今なら中国人ギャング団のボスみたいな人物である。
それが万世一系の皇祖皇統のてっぺんになっちゃったんだから、歴史は分からない。

いまパソコンに向かっている椅子から、外側に広げて行こう。
私の部屋は二階で、4部屋あるが、誰もいない。パラサイトの息子がもうじき帰ってくるだろう。
階下の寝室には嫁さんが寝ている。他に居間と食堂、台所があるが、誰もいない。
私が生まれた静岡の家は、診察室と待合室があって、家族のいるところは二間と台所だった。子供はまだ私一人だったが、戦争が終わって朝鮮から祖父と叔父が引き揚げて、我が家の一員となった。山形さんだか山梨さんだか忘れたが、そういうおじさんがいた。復員帽をかぶっていた。叔父が独立すると、今度は叔母が転がり込んできた。
おふくろはそういう父親周りの人々が嫌いだったようだが、とにかくしかたがない、一緒に暮らしていた。親父は始終ヒステリーを起こして、私に八つ当たりした。
まぁそれはいいが、大の大人が5、6人、2DKの一つ屋根に暮らしていたことになる。そのうち私の兄弟が次々と生まれたが、建て増ししたし、みんな独立していったから、昭和30年ころにはじいさんを入れて6人で暮らすことになった。戦後の終わりである。
おふくろの兄弟は病院長だったり大学教授だったりするから、どうしても幼心にそちらになびく。付き合う友達も工場長の息子だったり開業医の息子だったりするものだから、子供の頃の私は劣等感のかたまりだった。自分で自分のへそを見てもまっすぐだと思うが、傍から見れば相当曲がっているのだろう。こういう育ち方をした人間が左翼にならないわけがない。

ということだが、そんなことを書きたかったわけではなく、昔は家一軒見たら、その中に10人の人間がいると見なければならないということを言いたかったんです。
それで本家、分家など10軒も家があれば、そこは100人の集落で、田持ちなら田んぼの掘っ立て小屋みたいなところに使用人の家族が住んでいて、物置きみたいなところに二世代10人余りが詰め込まれたりすると、字(あざ)全体では数百人に達して、店屋もあれば、局やら公民館もあって、小学校がひとつ立つくらいの人間が住んでいるというのが50年前の日本だったのではないでしょうか。

それで、こういう集落をどうやったら攻略できるかということになりますが、多分20人くらいの軍勢があればやっつけれるのではないでしょうか。継続支配しようと思ったら、もう少し兵隊が必要かもしれませんが、例えば500人の村でも家長は10人です。この10人を押さえ込めれば何とかなります。10人中、7人はどうでもいい連中ですから、3人を抑えてそれなりのポストを作ってあげれば、後は思うままです。肝腎なことはこの3人にドスを利かせることで、それにはこちらにも一人や二人命知らずを置いとかなければなりません。


資本論第三部 第31章 貨幣資本と現実資本Ⅱ

マルクスはヒントだけを与えている。

資本主義生産様式から「結合された労働の生産様式」への移行の時期に、信用制度が有力な槓杆として役立つであろうことは、何の疑いもない。

とはいえ、それはただ、生産様式自体の他の大きな有機的諸変革と連関する一要素としてでしかない。

生産諸手段(私的土地所有をふくむ)が資本に転化することを止めるやいなや、信用そのものはもはや何の意味ももたなくなる。

他方、資本主義的生産様式が存続する限り、その諸形態の一つである利子生み資本も存続し、そして実際上、その信用制度の基盤を形成する。


この「結合された労働の生産様式」というのがよく分からない。

草稿では「全般的かつ直接に結合された労働の結合された生産様式」と書かれたあと、簡略化されている。

なおのこと分からない。

ドン・キホーテに付くサンチョ・パンサのごとく、我々としてはとにかく分かる範囲で解釈するしかない。

資本主義生産様式のあとに来る、新たな生産様式だとは推測できる。しかし我々が日常的に使う社会主義とか共産主義と同じなのか、同じであるのならなぜそう言わなかったのかが分からない。

とりあえず、理由は分からないが「共産主義生産様式」と同じだと考えておこう。

マルクスは3つのフェーズに分けて論じている。

①資本主義の時代には利子生み資本が存続し、信用制度の基盤を形成する。

②移行の時期には、信用制度が有力な槓杆として役立つ。

それはただ、生産様式自体の他の大きな有機的諸変革のための槓杆でしかない。

③共産主義生産様式では、信用そのものはもはや何の意味ももたなくなる。

生産諸手段(私的土地所有をふくむ)が資本に転化することがなくなるからである。

③の話はよく分からないが、当面我々が興味があるのは移行期の話である。

「大きな有機的諸変革」というのは社会主義革命のことだろうか。そうだと仮定すれば、話はそう難しいことではない。

つまり生産力を限界まで加速させることにより、過剰生産恐慌を促すということである。

ただ、移行の時期という表現はそれにとどまるものではないのかもしれない。

資本主義から社会主義への移行期に一定の幅があるとすれば、その時期において信用制度はどのような性格を付与されることになるのだろうか。

この時期において肝腎なことは革命を起こすことではなく、「労働時間の節約」である。それにより「結合した労働」の生産様式を準備することになる。

そういう視点から読むと、サン・シモン的な構想の批判的摂取も必要になるのかもしれない。


人間こそが人類にとっての固定資本

の記事で、

経済の真の目的は節約(世間で言う“経済する”こと)にある。

と書いていて気になった。

()内は私が書き加えたものだが、“世間で言う”というより、これがそもそも経済の本来の意味なのではないかと思ったのである。

経済という日本語は、たしかエコノミーの訳語を作るにあたって、中江兆民が漢書から「経世済民」という言葉を拾ってきてこれにあてたという話を聞いたことがあるが、エコノミーについては語源を聞いたことがない。確かに飛行機に乗るとエコノミー・クラスといって安い席を指している。ビデオにもエコノミー・モードといって、画質は悪いが長どりできるポジションがあった。

窪田恭史さんのブログで詳しく説明されていた。

 "Economy"(経済)という言葉の語源を辿ると、"Eco-"はギリシャ語で「家・家庭・家計」などをあらわす"oikos(オイコス)"に由来 する接頭語で、"-nomy"はギリシャ語で「法・秩序」をあらわす"nomos(ノモス)"に由来し、秩序や法則性、あるいは学問をあらわす語につく接尾語になります。つまり"Economy"というのは「家計の学問」という意味であり、いわゆる「家計のやりくり」から発展して今日の「経済」という意味 になったものと思われます。

ということで、「入るを測り出づるを制す」という感じ、言語に近い訳語をつけるなら「節約学」ということになるが、これではあんまり平ったすぎる、「理財学」に近いかもしれない。そうすると、「経済学批判」という題名にすでにある種の敵意がふくまれていることが感じ取れる。

節約、倹約と言いながら労働者をボロ雑巾のように使い捨てしているのは一体何なんだ。節約するんなら、労働者の能力こそ節約しなければならないんじゃないか、という論だてだ。

こういう、一種の言葉遊びみたいなものから、議論に入っていっているから、読者にも入りやすい。ところがそういう言葉のニュアンスに関する共通土台がないから、いきなり「経済の真の目的は節約にある」と言われると面食らってしまうのである。

小松善雄さんのページを見ていたら、下記の記事が引用されていた。面白いので転載させてもらう。

05年11月8日付の『赤旗』

フランス人の51%は社会主義を肯定的にとらえ, 資本主義を肯定的に見る人は33%にすぎないという世論調査結果を仏紙リベラシオンが報じました。

それによると, 社会主義, 資本主義を否定的にとらえる人は, それぞれ42%, 61%。資本主義を『人による人の搾取』と考える人は41%にのぼり, 少数者による『富の蓄積』と見る人は45%に達します。同紙は『フランス人に人気のない資本主義』と伝えました。

ちょっと前の記事ですが、基調は変わっていないと思います。

「そうなんだ…」と思わず感心してしまいました。国の造りがそもそも違うんですな。

スペインやイタリアでも左翼というのはポジティブなイメージがあるそうです。

そういえば昔の日本でも左大臣のほうが位が上ですね。関係ないけど…

でもアンダーボスのナンバーワンは「右腕」だなぁ…

ウィキペディアによると

中国では「吉事尚左、凶事右」と左を尊ぶ老子道教の影響で主に左が尊ばれたが、時代によって左右の優劣が変わり、は左を尊び、戦国は右を尊び、六朝は左を尊び、は右を尊び、は左を尊んだ。

日本は中国の歴代王朝の中でも特に左を尊んだとされる唐から強く影響を受けており、ゆえに日本では左大臣右大臣より高位である。なお、漢(右系)の時代に地位を下げることを左遷と表現した。

第二次大戦までの日本の士官学校では、最上位の者を最右に配置し、成績順に右から左に列べた。最右翼が「最上位」を意味するのは、その名残である。

世に物知りというのはいるものですね。


人間こそが固定資本

経済学批判要綱② 499ページ

このフレーズは読み解くのになかなか骨が折れる。マルクス自身が考えが固まっていないと見えて、いくつも書き込んだり抹消した跡がある。

一番肝心なことは直接的生産過程を鏡に映してみると、固定資本と流動資本の関係が逆転するということである。

しかしマルクスはそれに気づいたが、十分に消化・展開しきれないままに終わっている。論理が跳んでしまうので、それについていけなくなる感じ、精神医学で言う「観念奔逸」である。疲れていたんでしょう。


経済の真の目的は節約(世間で言う“経済する”こと)にある。これを人類史的な立場から考えると、労働に縛り付けられる時間を節約することが真の目的ということになる。

(他の動物を見ると、毎日の生活のほとんどは生命を維持することと種を維持することに費やされている。これから離脱し“自由な時間”を創造するのが人類の目的である 私注)

この労働の節約は歴史的に見ると生産力の発展と並行している。もし生産力の発展がなければ、労働を節約することは“享受”を断念する結果になる。文字通りの「働かざるもの食うべからず」の世界である。

(享受という概念はなかなかむずかしいが、とりあえずここでは“消費”という言葉に置き換えてもよいでしょう 私注)

生産力というのは、人類の持つ生産のためのパワーであり、個々人の具体的な能力でもある。

生産力の増大は消費力の増大でもある。人類の生産物を享受し消費する能力も高まるし、個々人の享受の仕方や手段・スキルも多様化する。

(マルクスはここで“欲望の生産”という概念を加えることを忘れている。これが媒辞に入らないと円環が閉じない 私注)

これを前提とするなら、労働を節約すれば、それは消費の能力を発展させる結果になる。そして消費能力の増大は(欲望の増大と多様化をもたらし、)生産力の発展を促すことになる。

(内需拡大論と似ていますね 私注)

個々の人間の生産能力は、その人の持つ資質によって決まる。人の資質というのは、享受の積み重ねを基礎とする能力の発展により決まってくる。

労働時間の節約は自由な時間の増大に等しい。自由時間の増大は個人の全面的な発展のための時間の増大を意味する。

かくして個々人が発展することは、それ自身が人類の生産力の増大を意味する。

(いまの言葉で言えば労働力の生産性、マンパワーの向上)

直接的生産過程の視点から見るならば、労働時間の節約は固定資本の生産とみなすことができる。そして人間それ自身がこの固定資本なのである。

ここはかなり解説が必要だろう。

直接的生産過程というのは人が物を作るという単純な過程のことで、人がいて原料があって、それをいろいろな手立てを講じて完成品にする過程のことである。

これは当たり前のものづくりの過程だ。

しかし資本主義的生産過程では話が違う。経営者が工場を建てて、機械を入れて、原料を買って、労働者を雇って物を作る。この過程は直接的生産過程と比べると、主客が転倒している。

主人は経営者だが、その顔は機械や建物といった「固定資本」に化態している。固定資本が主役で労働者は外からやってくる「流動資本」だ。

もしこの経営者が、たとえば木工職人や大工の仕事場を眺めてみると、人間が主人公であり固定資本であるかのように見えるだろう。

彼にとっては転倒して見える人間と道具との関係は、実はそれこそがまともな関係なので、経営者のほうが転倒しているのである。

ということを前提として、マルクスは人間自身が固定資本なのだといっているのである。

直接的労働時間と自由な時間は対立しているように見える。少なくともブルジョア経済の視点からはそう見える。両者の対立は(24時間マイナス何時間というような)抽象的かつ抜き差しならないもののようだ。

しかし(労働時間の節約が、生産性の向上と結びつきながら進行し、そのことによって、一方では需要が増大し、他方では労働の生産性が上がっていくということを前提とするならば、)これが絶対的な対立ではないことは明らかだ。

かつてフーリエという空想的社会主義者がいて、労働と自由時間の対立は、時間の分配をめぐる対立」ではないといった。これはただしい。だが、「労働は遊びとなり、遊びと一体化する」といったのは間違いである。労働は労働としてこれからも残るし、自由時間との対立も残る。

しかしフーリエはそれを、より高度の形態にすることが出来るだろうと示唆した。(主客の転倒した資本主義的な)生産様式をより高度なものに“止揚する”ことによって、それが可能になると主張した。これは彼の偉大な業績である。

自由な時間は、(グダっとした)余暇時間でもあれば、(仕事より辛いくらいの)高度な活動のための時間でもある。

(資本主義より高度の生産システムの下では)個々人の自由な時間は、個々人をこれまでとは違った人間に転化させていく。個々人は直接的生産過程に新たな主体として戻る。

そして直接的生産過程の中で、学び、育ち、鍛えられる。

ものづくり過程は科学でもある。それ自体が実験でもあり、物質を創造するだけなく、その物のうちに自己を表現する手段でもある。

(このあたりは、頭は回らずペンだけが動いている感じだ)


ようするに、ものづくりの過程というのは昔から変わらなくて人間が道具を使って素材を有用物に変化させることに本質があるのだが、資本主義的生産システムというのは、あたかも道具(資本)が人間を使って物を使うような関係になっていて、逆転している。

だから自由時間の積極的意義など認めないし、もっと働けと強制するし、働かないと食えないような賃金しか与えないのである。

しかしこの関係を逆転させて、人間のほうを固定資本だと考えてみると、固定資本の強化に最大の努力を傾注すべきということになる。

国際競争力の強化のためには、相対的剰余価値の増大が必要であるが、それは人間中心主義の立場からは、労働者の自由時間拡大こそが最も重要だということになる。(やや、強引な論理展開の感、無きにしも非ずだが)

しつこいようだが中島氏のレポートでやはりどうしても分からない所がある。

内部留保は、09年度末259兆円であり、前年より増加している。

と書いている次の段落では、

内部留保比率は08,09年で大幅なマイナスとなっている。

(内部留保比率が低下していることにより) 内部留保が取り崩されていることがわかる。

というくだりである。

取り崩されているのに増えるわけはないので、好意的に言えば、“舌足らずの表現”だったということになる。

つまり本当はもっともっと内部留保にまわしたかったのに、回せなかった部分があるということなのかも知れない。

内部留保比率は、税引き後の純利益をどう処分するかという配分比率である。大きく言えば配当、自己資本の増強、研究開発など長期計画への投下、などがあり、最後に残った使途保留金が内部留保ということになる。(使途が決まり移動するのは次年度会計になるので、長期資金もこれに含まれるが、それは次年度決算で減額されるので、まだ同額が繰り越されるのであれば、事実上は含まれていないのと同然である)

内部留保率は、いろいろな計算法がある。企業会計上は

内部保留額/事業費+管理費+固定資産取得支出(平準化基金、退職引当金除く)×100

というのが一般的なようである。

ウォーレン・バフェットはより単純に配当性向の逆数と見ている。

内部留保率 = 1 - 配当性向 ×100 (%)

つまり (純利益 - 配当金)/純利益 x100

ということだ

したがって内部留保比率が低下したということは、税引き後純利益が増えたことを意味する。そしてその金が基本的には配当金へと回されたことになる。「内部留保が取り崩されていることが分かる」、という結論はどこからも出てこない。

いずれにしても中島氏はまったく、内部留保率の根拠となる数字を示していないので、自分で調べるしかない。

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