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AALA関連記事は「aala_newsの編集日記」http://blog.livedoor.jp/aala_news/ に移りました(6Nov.2023) 中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 「ラテンアメリカの政治」(http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ )がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

2011年12月

11月1日

11.01 カダル第一書記、ハンガリー社会主義労働者党結成のための準備委員会メンバーを発表。

11.01 カダール、アンドロポフと会見。そのままモスクワに飛ぶ。

11.01 ナジ首相、ソ連大使アンドロポフと会見。ソ連軍の即時撤退に関する交渉を開始したいとのハンガリー政府の意向を伝える。またソ連軍の不穏な動きについて説明を求める。アンドロポフは侵攻を否定した。

11.01 午後4時 閣議が開催される。ソ連介入の国際法上の根拠を封じるため、ワルシャワ条約からの脱退と、ハンガリーの中立国化を決定。ハマーショルド国連事務総長に通告した。この決定はカダル第一書記の了承を得ていたとされる。(時間経過から見て、これはソ連軍介入の根拠にはなっていない)

11.01 フルシチョフ、中国に戻る劉少奇代表団を空港まで送り、車中でソ連の決断を説明する。

11.01 フルシチョフ、マレンコフ、モロトフらからなるソ連共産党代表団、ポーランドとの国境の町ブレストに飛び、ゴムウカと会談。軍事制圧作戦の了解を求める。

11.01 フルシチョフとマレンコフは、ルーマニアの首都ブカレストに飛ぶ。ルーマニア首脳とブカレストに滞在していたチェコのノヴォトニ第一書記から了解を取り付ける。これらの国は、民主化の自国への波及とハンガリーのファシストの復活を恐れていた。

11.01 CIAの運営する自由ヨーロッパ放送、さらなる暴動を扇動し、西側の支援が間近に迫っていると励まし、ソ連軍との戦い方についての戦術指導を与える。(アイゼンハワーはすでに不介入を決めていたので、これは無責任な煽り行為)

 

11月2日

11.02 ナジ政権の改造新内閣が発足。共産主義者は閣内少数派に転落する。

11.02 ソ連軍の撤退とリンチの応酬の終息により、ブダペスト市内の平穏化は進み、店舗営業も再開されはじめる。

11.02 フルシチョフ、ブルガリアに飛ぶ。ブルガリアと指導部と会談。

11.02 クレムリンでソ連共産党政治局会議が開かれる。

チトーとの会談のため不在のフルシチョフに代わり、ブルガーニンが議長を務める。
ハンガリー後継者をめぐり議論となる。ハンガリーの事情に詳しいミコヤンとスースロフがカダールを推したのに対し、反フルシチョフ派のカガノヴィッチ、モロトフ、ノヴォシロフは、ミュニッヒを擁立すべきと主張する。

11.02 午後7時、フルシチョフ、ユーゴのブリオニ島に到着。ブリオニ島はアドリア海に浮かぶ小島で、チトーの静養地。

11.02 フルシチョフ、マレンコフとチトーがハンガリー情勢について協議。会談は3日早朝まで及ぶ。

ソ連側はナジに代えてミュニッヒを首班とする臨時政府構想を提示した。ティトーは「現在ハンガリーで誠実なものを代表しているのはカダルである」と述べ、カーダールを首班とする労農臨時政府の樹立を主張した。

 

11月3日

11.03 ソ連共産党政治局会議が再開される。午後にモスクワに戻ったフルシチョフはすぐに会議に加わり、チトーとの会談内容を報告。これによりカダル擁立が決まる。介入作戦の本部長にはマレンコフが指名される。

11.03 ナジ政府、ソ連軍撤退問題についてソ連側と交渉開始。パル・マレーテル国防相がブダペスト近郊テケルのソ連軍司令部に赴く。

11.03 午後9時30分 ソ連軍のブダペスト包囲が完了。ハンガリー東部はソ連軍の制圧下に入る。

11.03 午後12時 ソ連軍、パル・マレーテル国防相ら代表団を拘束。

 

11月4日 第二次介入

午前3時 戦車および機械化師団などソ連軍21個師団が市内に突入。戦車2500両、装甲車1000両、歩兵15万人の大部隊。(最近の開示文書によれば、実際は31,550人、戦車は1,130台だった)

午前4時 ラジオで、「革命労農政府が樹立され、反撃を開始した」との声明が流される。

午前4時25分 ソ連軍、ドナウ川を渡りブダ中心部に入り戦闘を開始。ゲリラを対象とする市街戦を想定した虱潰しの無差別破壊作戦をとる。ハンガリー軍部隊は抗戦体制に入る。

午前5時20分 ナジが最後の演説。放送時間は35秒。「我が軍は戦っている。政府は存在している」と述べる。

午前6時 カダール、モスクワから首都東南100キロのソルノーク空港に到着。革命労農政府樹立を発表。「反革命分子の暴行をやめさせなければならない」とうったえ、新政府への協力を呼びかける。その後ソ連の戦車に乗って、ブダペストに入る。

午前8時 市民の防衛組織は街頭から消失。一斉に地下に潜る。

11.04 ナジ・イムレはユーゴ大使館に避難。ミンズセンティ枢機卿はアメリカ大使館に避難。

11.04 ブダペスト郊外のレアーニィファルにある社会主義労働者党の幹部用保養施設に、ソ連共産党の最高司令部が設置された。マレンコフ政治局員が最高司令官となり、中央委員会書記のスースロフとアリストフが側近として配置された。ソ連共産党の意向はこの本部からカダールに伝えられた。

(ほとんどの文献で、このあとの数日は空白になっている)

11.07 市内の抵抗は“Pockets of resistance”を残すのみとなる。

11.08 カダルが革命労農政府首相兼社会主義労働者党第一書記となる。

11.10 市の南部労働者地区で抵抗を続けた労働者評議会や学生・知識人たちが、占領軍と直接交渉により休戦に応じる。

11.10 ソ連共産党政治局、ナジ・グループの存続をいかなる形でも許さない方針を決める。

カーダールは①ナジ・イムレが首相辞任と政府消滅を認めれば国外亡命を容認する、②グループから新政府の協力者を受け入れる、という線で考えていたとされる。ユーゴスラヴィア政府もカダール路線での解決を望んでいた。

11.11 チトーの演説。「スターリン主義者の支配に対する正当な反逆が、ナジ政権の無能と不決断、反動勢力による主導権掌握により反社会主義的・反ソ的な運動に転化したため、再度の介入が不可避になった」と述べ、ソ連の軍事介入を支持する。

11.16 ソ連共産党、ナジ・グループをユーゴに亡命させずに粛清する方針をカーダールに伝える。

11.16 ハンガリー学生同盟内に勤労青年同盟系の活動家がなだれ込み、主導権を掌握する。

11.22 ユーゴ大使館に逃げ込んだナジ・イムレは、ソ連の策略によって大使館を出たところをら致される。他のナジ・グループ員も軍事学校内のKGB本部へ連行され、そこからルーマニアへ移送された。

 

56年12月

12.02 社会主義労働者党、ラーコシとゲレーの「教条主義」とともに、ナジの「修正主義」を非難。カダールは事前にレアーニィファルの占領本部で報告内容の概要を提示し、マレンコフの了承を取り付けたとされる。

カダール報告: 「動乱」を三期に分ける。
第一期(10月23日から30日まで)は「反革命分子が現状の不満を訴える労働者大衆の正当な要求を、自らの目的のために利用しようとした時期」 
第二期(10月31日から11月4日まで)は反革命が勢いづいた時期で、共産党組織、国家保安局、警察が襲撃され、多数が殺害された。
第三期(11月4日以後)は、反革命を鎮圧する時期。

12.02 暫定中央委員会総会の決議。「事件の中で立ち上がった大衆の圧倒的多数は、その目的、意図、感情の点で反革命ではなかった。しかし武装蜂起の基本性格は反革命であった」と事件の性格を規定する。党員数は80万人から10万人に激減。

12月 マレンコフの占領本部が撤収。アンドロポフ大使を頂点とする現地スタッフに委ねられる。

 

1957年

57年1月

1.17 Nepszabadsag 紙、中央統計局の犠牲者推計を掲載。

犠牲者推計: ブダペスト市街の戦闘で死亡した市民は1969名、各種医療施設に運ばれた負傷者は17000名に上る。また、地方の犠牲者は300名に及ぶ。さらに、ハンガリーの軍・警察の犠牲者は423名に上り、このうち内務省管轄組織の犠牲者が155名で、そのほとんどが保安局に属する者である。
ソ連軍の被害も大きく、669名の死亡、51名の行方不明、1986名の負傷者で、ソ連軍の死亡者のほとんどはブダペスト第8区および第9区における市街戦での犠牲者である

1月 カダールが新政府を組織

1月 フルシチョフはハンガリー、ブルガリア、ルーマニア、チェコスロバキアとの5ヵ国共産党会議を開催。周恩来とのモスクワ会談にカーダールを呼んで三者会談。

1月 中国共産党代表団がハンガリーを訪問し、「反革命」にたいする国際的連帯を謳う。

 

3月 カダール、モスクワを訪問しソ連共産党・政府との協議をおこなう。ソ連はカダールに信任を与え、ラーコシ一派のハンガリー帰還を認めないと決定。

57年半ば 武力抵抗は終わる。ウィキペディアによれば、ハンガリー側では死者が17000人に上り、ソビエト側も1900人の犠牲者を出した。国連の「ハンガリー問題報告」では戦闘による死者3千人とされる。

57年半ば 動乱勃発時からオーストリア国境が開放され、20万人が国外亡命した。

6.17 マレンコフ、ブルガーニンらがモロトフら旧スターリン派と結託、ソ連共産党政治局会議でフルシチョフ解任決議を提案する。政治局員の多数がこれに賛成する中、ミコヤン、スースロフ、キリチェンコが反対し、議決権をもたないブレジネフとジュコフも反対に回った。

7.04 ソ連共産党中央委員会、マレンコフ、モロトフ、カガノヴィッチを除名し、ヴォロシロフとブルガーニンを政治局員から格下げする。

8.21 社会主義労働者党政治局、ナジ・グループに対する処罰を決定。「ナジ、ロションツィ、ドナート、ギメシュ、マリーテル、スィラージ、キライには最も重い刑を科し、その他の者については罪状と改悛に応じて罰する」決議を採択。

12.21 社会主義労働者党の中央委員会が開かれる。内務省に登録されている反革命分子リストには120万人が記載されていることが報告された。カーダールは20万人まで削減するよう指示する。

 

1958年

2.05 ナジ・グループ裁判が開始される。翌日、訴追準備の不足という理由で裁判が中止される。

2.26 学生同盟、農村青年組織などが勤労青年同盟を改組した共産青年同盟に一本化される。

5月末 カダール、政治局会議で裁判再開を決定した。

6.15 最高裁判決、ナジのほかマレーテル国務相、ミクローシュ・ギメシ(ジャーナリスト)に死刑宣告がくだる。シャーンドル・コパーチ警察長官らに12~15年の刑が宣告される。ティルディは懲役6年の判決。

6.16 ナジが絞首刑に処せられる。

6.17 ナジ・イムレの処刑発表される。

11.16 動乱後初の総選挙

 

1959年

59年末 ここまでに200余名の動乱参加者が死刑判決を受け、即刻処刑された。他にも動乱参加者の逮捕・起訴が相次いだ。

1962年

8.19 ラーコシとゲレーを党から除名。

11.20 社会主義労働者党第八回大会開催。社会主義の基礎建設完了を宣言。

1963年

4.22 宥和特赦令が発布される。56年動乱参加者4千名に対する大赦。

 

82年6月 「56年6月協議会」の25周年記念シンポでベレツ・ヤーノシュ党書記がハンガリー事件に関する報告。多くの新事実が明らかにされる。

1989年2月 ハンガリー社会主義労働者党が総括文書「四十年間に関する報告」を発表。動乱の評価を修正。「ナジはハンガリー史において重要な人物であり、国家救済のために闘い、スターリン主義を抑え、不正を許さず反革命と闘った。彼は道筋は誤ったが、民主的複数政党制を認める社会主義の道と一体化した」とする。

1989年3月 ナジの遺体発掘と再埋葬。

 

 

1956年

56年2月

2.14 ソ連共産党第20回大会。秘密会議でフルシチョフがスターリン批判演説。

2月 ラーコシ第一書記、ハンガリー勤労者党代表として大会参加。

56年3月

3.17 勤労党内のペテーフィ・サークルが最初の集会開催。当初は文学・芸術クラブだったが、スターリン批判後、ナジの復職などを要求する拠点的役割を担う。ペティーフィは1848年革命の英雄。

3.27 ラーコシ書記長、ラィク・ラースロー元外相の裁判は「挑発」であったと認める。

56年4月

4.17 コミンフォルム解散

56年5月

5.18 ハンガリー勤労者党ブダペスト市委員会活動者会議でラーコシが演説。そのなかで個人崇拝に彼自身も責任の一端があることを初めて認める。

56年6月

6.07 ソ連共産党幹部会員ミハイル・スースロフがハンガリー訪問。

6.26 トリアッティがイタリア共産党中央委員会総会でスターリン批判に関する報告。スターリンによる党と国家の「官僚主義化」が、1928年の第1次5ヶ年計画期に発生したと指摘。「プロレタリア独裁の再検討」を求める。

6.28 ポーランドのポズナニ市ジスポ工場で発生したノルマ増加反対のストが、市民全体をまきこむ抗議運動に発展。治安当局との市街戦が始まる。数十人の死者を出すが、ポーランド統一労働者党の改革派が結集し、事態を終息させる。

6.30 党機関紙に公然たる指導部批判が掲載される。作家協会と学生組織はラコシの解任と逮捕をもとめる。中央委員会はペトフィ・サークルを解散させ、知識人を党から追放。

6月 ソ連とユーゴが関係修復に動く。チトーがモスクワを訪問。

56年7月

7.17 ポズナニ事件に危機感を抱いたソ連指導部は、アナスタス・ミコヤン幹部会員をブダペストに派遣、ラーコシの解任に動く。

7.18 勤労者党中央委員会総会、ラーコシを第一書記から解任する。しかし後任にはラーコシの腹心で第二書記のゲレー・エルネー(Gerő)が昇格。

(ウィキペディアによれば、ミコヤンはラーコシに対し、「病気の治療のため」という名目で、ソ連への出国を命じた。彼は余生をキルギス共和国で過ごした)

56年10月

10.04 ナジ・イムレ、勤労者党中央委員会に手紙を書き、復党を要請する。

10.06 ライク・ラースローおよびその他の共産党指導者の葬儀。30万人の市民が参列する。

10.13 ナジ・イムレが復党をはたす。

10.15 ゲレー第一書記を団長とするハンガリー勤労者党代表団がユーゴスラビア訪問。チトーと会談をおこなう。

10.16 セゲド市(ハンガリー第二の都市)で大学生同盟(MEFESZ)を再建。反共右翼学生の拠点となる。

10.19 ポーランドで権力の交代。長らく獄中にあった改革派のゴムルカを党第一書記に任命する。

10.21 ポーランド統一労働者党中央委員会総会、ゴムウカを第一書記に選出する。ポズナニ暴動は反革命的暴動ではなく、勤労者の正当な不満の表明と宣言

10.22 ブダペストの工科大学で学生集会が開かれる。ソ連軍の撤退、ナジ・イムレの首相への任命、複数政党参加の総選挙、言論と出版の自由、政治囚の釈放など16項目の要求を採択。

10.22 プダペスト工科大学と建築大学の無党派学生が、23日にポーランドとの連帯デモを行うと発表。

10月23日

10.23 午後 約2万の群衆がベム広場に集まる。作家組合の議長ペーテル・ヴェレスが、ポーランドとの連帯を訴える「宣言」を読み上げる。次いでハンガリー国旗から共産党をかたどった真ん中の紋章部分が切り取られる。

(一説では参加者約20万人とされるが、ここでは英語版ウィキペディアにしたがう)

(ベレツ・ヤーノシュによれば、集会では国旗から紋章が切り取られ、赤旗を掲げることが禁止される)

10.23 午後 群衆はデモ行進を開始。ドナウ川を渡り国会議事堂を包囲する集会に合流する。

(日本語ウィキペディアでは、“ゲレーの退陣を求めて学生たちがブダペストをデモ行進し、多数の労働者もそれに加わった”とある)

10.23 午後6時 国会議事堂を取り囲む群衆は2万人以上に膨れ上がる。スローガンは自由選挙、民族独立、そしてナジ復帰であった。

午後8時 ゲレのラジオ演説。民衆の政治要求を全面的に拒否し、デモ隊を「挑発者」と罵倒する。

午後9時30分 群衆の一部はブダペスト放送局に集結。市民の要求を放送するよう求める。放送局を守るAVH兵士は群衆に無差別発砲。死傷者が多数出る。

AVH兵支援に送られた兵士は群衆につく。軍の兵器庫から銃が奪われ民衆に手渡される。事態はハンガリー軍の一部を巻き込む市街戦に進展する。

午後9時30分 群衆の一部はスターリンの銅像(9メートル)を取り壊し始める。

10.23夜 (フォーミンによると、ヘゲドゥシュ首相がアンドロポフ大使にソ連軍出動を要請。1時間半後にソ連国防相から駐留軍のレシェンコ司令官に出動命令がくだされる)

10.23深夜 ゲレは勤労者党中央委員会総会を緊急招集する。ナジ・イムレを首相職に復職させるいっぽう、ソ連軍介入を要請する決定。「アメとムチ」で事態収拾をねらう。ヘゲドゥシュ首相は副首相に横滑りする。

10.23深夜 ナジ、ソ連の軍事介入を要請する文書への署名を拒否。これに代わりヘゲドゥシュ副首相が署名する。

10月24日

午前2時 ソ連軍の第一次介入が始まる。ソ連軍戦車がブダペスト市内に侵入する。歩兵なし戦車隊のみの行動で、本来は威嚇目的の作戦と思われる。

正午 ソ連軍戦車が議事堂周囲に配備される。武装した民衆は放送局を占拠。街頭にバリケードを構築して対抗。ソ連軍戦車数台を鹵獲する。一説によれば、一定数のソ連軍戦車がハンガリー民衆側に寝返り、ハンガリー治安当局との戦闘に加わったといわれる。

10.24午後 市内各所でソ連軍戦車隊との戦闘が始まる。ハンガリー軍は中立を宣言、一部は民衆側に合流した。ソ連軍は、市内の建物を無差別砲撃する戦術をとり、民衆側はゲリラ戦術で応戦。

10.24 アンドロポフの要請を受けたイムレ・ナジが群衆に向けた演説。政治改革の開始を宣言し、暴力の終了を呼びかける。

10.24 群衆が刑務所を襲い、Mindszenty 枢機卿らを解放。秘密警察要員にリンチを加える。

10.24 学生は多くの政府関係施設や区域を占拠し、自分たちで決めた政策や方針を実施しはじめた。多くの工場に「労働者評議会」が結成されてゼネスト状態に入った。

10.24 ユーゴスラビア、ソ連の軍事介入を厳しく批判する声明を発表。

10.24 ソ連共産党政治局、ポーランドとハンガリーの政治状況について議論。モロトフは軍事介入を主張。フルシチョフとジューコフ元帥は自体を思想闘争と見るべきではないとして、干渉に反対。政治局はミコヤンとスースロフを再度ブダペストに派遣することで合意。

10.24 ブダペストのソビエト軍は戦闘を停止した。


10月25日

「人の数ほど多様な56年が存在する」と、56年動乱で死刑判決を受けたグンツ元大統領は語っている。10月25日はその典型である。

25日 国会前広場の集会に約700人が集まった。周囲のビル屋上のAVH兵士は群衆に向け発砲。広場は血の海と化し約100人が死亡、約300人が負傷した。ソ連軍は動かず、一部はAVHに銃口を向ける。

25日 ウィキペディアによれば、最も激しい戦闘はコルビン劇場のあるコルビン広場で起こった。(民衆は火炎瓶を用いてソビエト軍部隊に抵抗したとあるが、ソ連軍は戦闘を停止していたのではないか)

10.25 József Dudás の率いる民兵隊400人がソ連支持者やAVH要員への襲撃・殺害行動を開始する。その後の1週間で少なくとも労働者党員213人が殺される。

10.25 全国各地に革命評議会が設立される。27日までにすべての地方政府の権能を掌握。

10.25 労働者・下部党員は、各工場内に「労働者評議会」を結成。工場幹部を放逐して自主管理を宣言した。

10.25夜 全国レベルの労働者評議会と国民評議会が組織され、ゼネストを呼びかけた。(ウィキペディアによると、大衆はワルシャワ条約機構からの脱退をナジ政府に迫った)

10.25 ハンガリー勤労者党中央委貝会総会、ナジ・イムレを首相に選出。ナジは戒厳令を取り下げ、AVHの解体を指示。教会の名士たちを含む多くの政治囚たちを釈放する。

10.25 ナジがラジオ演説。「まもなく国民議会を招集する。この議会で私は包括的な、根拠のある改革プログラムを明らかにする」と述べる。(レオニードフ論文によると、ナジはこの時点で、「武力行動を革命と認めよ」との要請を拒否したとされる)


10月26日

10.26 ハンガリー勤労者党中央委員会総会、ゲレーを第一書記から解任。新第一書記にカダル・ヤーノシュを選出。Gerő とAndrás Hegedüs 前首相はソ連大使アンドロポフの指示を受け、ソ連に向け飛び立つ。

10.26 労働者評議会はゼネストに突入。労働者評議会の要求はソ連軍の撤退、党の経済問題への干渉排除、ワルシャワ条約の再交渉であった。

10.26 ナジ首相、ファシスト(矢十字党)を除外したすべての旧党派(小地主党・農民党など)員を入閣させ「民族戦線政府」を結成すると発表。同時にソ連軍の撤退を要請する。

 

10月27日

10.27 ナジが組閣を終え演説。「広範な民主的大衆運動」を訴える。政府閣僚には数名の非党員がふくまれる。またAVHの解体、単一政党制の破棄を提案する。

10.27夜 (ウィキペディアによると、ミコヤンとナジとの会談が行われ、その結果ソビエト軍の撤退が宣言された=ミコヤン報告)。

 

10月28日

10.28 ハンガリー勤労者党中央委員会が声明を発表。これまでの政治局と書記局を解散し、6名から成る幹部会に党指導を委任。

10.28 民族戦線政府が結成される。ハンガリーは事実上、複数政党制に復帰

10.28 ナジは全党派に停戦命令を発する。蜂起を民族民主運動と規定、評議会を合法的なものと認める。反徒への大赦、ハンガリー旧国章の復活、AVO解散、蜂起参加者をふくむ新たな軍と警察の設立を発表する。

10.28 一説によれば、“ポーランドの「ゴムルカ」的役割を期待していたソ連は、この複数政党化時に、ナジを見放しはじめた”とされる。勤労党が少数野党化することは目に見えていたからである。(今となっては憶測にすぎないことが明らかである。そもそもナジが複数政党制そのものについて言及したのは30日ではないか)


 10月29日

10.29 (ウィキペディアによると、この日警察、軍隊、市民による国民防衛隊が結成された)

10.29 ハンガリー全国の代表がナジに面会を求め、さらなる自由化を訴える。(これが労働評議会との正規の会見であれば、重要な情報だが…)

10.29 スエズ動乱がはじまる。イギリス・イスラエル・フランス軍がエジプト領内に武力侵攻。

10.29 (鹿島正裕『ハンガリー現代史』ではこの日、ソ連指導部、第二次介入とナジ政権の打倒を決定とあるが、誤りであることが実証されている)

 

10月30日

30日午前9時頃 ベム広場の学生が共産党系活動家に対し集団リンチを開始。

10.30 暴徒が党のブダペスト市委員会を襲撃。(ウィキペディアによると、建物から出る武器を持たない秘密警察隊員らが次々と民衆により射殺された。その後も命乞いをしながら出てくる秘密警察隊員や勤労者党書記らがリンチされた挙句、遺体が街路樹に晒し者にされる事態になった)

10.30 勤労者党幹部会は勤労者党の解散と社会主義労働党への再編、および複数政党の復活を全会一致で決定。地方評議会の活動を公式に承認。ナジ政府はこれを「自治的・民主的な地方組織」として政府への支援を求める。

ナジ・イムレの国民向け演説: ハンガリーの兄弟の皆さん、愛国者の皆さん、祖国に忠実な市民の皆さん。革命の成果を擁護しようではないか。全力を上げて秩序を守り、平静を取り戻そう。我が祖国でこれ以上の内乱が続かないようにしようではないか。 

10.30 政府は公式に一党制を否定する。民族戦線政府に参加した諸党派を公認。

10.30 ソ連共産党政治局、ハンガリー新政府を除去しないことを決定。ジューコフ元帥は、「我々はブダペストから引き揚げるべきだ。必要ならばハンガリー全土から」と述べる。

10.30 ソ連政府が声明を発表。

ソ連と他の社会主義国間の友好・協力を発展・強化するための宣言: 社会主義諸国間に存在していたかつての誤りや一面性を認めるとともに、ハンガリー大衆の運動の中には正当な要求があることを認める。
「ソ連政府はハンガリー人民共和国政府やその他のワルシャワ条約加盟国と、ハンガリー領内のソ連軍駐留問題について話し合う用意がある」とする一方、反革命勢力がこれらの要求に乗じて反革命を進めていると警告。反革命との断絶を呼びかける。(公式発表は31日か)

10.30 ソ連共産党のミコヤンとスースロフかブダペスト再訪。ソ連政府声明を伝達。ナジは中立政策は長期の目標であること、この問題に関してはクレムリン指導者との議論を行いたいと述べる。(ただし学生や一部評議会指導者はワルシャワ条約からの即時離脱を主張していた)

10.30 ミコヤンはナジとの会談を経て、ハンガリー軍に統制を任せるべきとモスクワに報告。これを受けて、ソビエト軍撤退が開始された

10.30 ソ連軍のブダペスト撤退がはじまる。市内を撤収したソ連軍は、郊外の空港・ハンガリー軍基地を包囲する体制に入る。

10.30 ユーゴのチトー、ナジ政権が複数政党制を容認し、コシュート紋章(ハンガリー王国の紋章)の使用を許可したことを厳しく非難。複数政党制はユーゴスラビア体制の否定をも意味し、コシュート紋章は大ハンガリーの野望とも結びついているためとされる。

10.30 劉少奇を団長とする中国代表団がモスクワを訪問。ハンガリー問題について意見を交わす。劉少奇は「反革命が事態を支配している」とし、より断固とした行動をとることを求める。

 

10月31日

10.31 ソ連政府の声明がプラウダ紙に掲載される。アレン・ダレスCIA長官はこれを「ミラクル」と呼んだ。

10.31 ブダペスト滞在のミコヤンらは、反ソビエト活動の活発化をモスクワに報告。

10.31 フルシチョフはチトー大統領との会談で軍事介入の可能性に言及。

10.31 ソ連共産党幹部会、前日までの不介入方針を変更し、第2回目の軍事介入に踏み切る。

解禁文書による会議の経過http://www.gwu.edu/~nsarchiv/NSAEBB/NSAEBB76/doc6.pdf: フルシチョフは「過日(28日)の結論は再検討されなければならない。ソ連軍はハンガリーからもブダペストからも撤退してはならない。逆にソ連はハンガリーの秩序回復のイニシアチブをとるべきである」と語った。
彼はその理由としてハンガリー共産党政府の弱体をあげたが、むしろその論点は、ソ連帝国の名誉を守ることに置かれていた。「今日はエジプト、そして次はハンガリーだ」
奇妙なことに、彼は正常化過程にナジを含める可能性も否定しなかった。採決で侵攻案に反対したのはサブロフ副首相のみであった。(ミコヤンとスースロフはブダペスト滞在中)

10.31 ソ連軍は、ブダペスト再攻撃に向け移動を開始。ソ連本国の大増援部隊が東ハンガリーに結集しはじめる。

10.31 回顧録によれば、ハンガリーから戻って真相を知ったミコヤンは、フルシチョフの自宅に押しかけて、自らの自殺をほのめかして派兵の撤回を求めたという。

10.31 ナジ、ソ連軍の機甲師団が国境を越えたことを知る。

ハンガリー事件年表

1945年

2月 第二次大戦で枢軸側についたハンガリーの敗北。ハンガリーはソ連の占領下に置かれる。

2月 ソ連占領直後の政府指導者は親ナチス派のダールノキ・ミクローシュ・ベーラだった。治安警察は親ナチス派のホルティ・ミクローシュ以下のメンバーがそのまま残存した。

2月 ソ連に亡命していたラーコシ・マーチャーシュがハンガリー共産党の書記長に選出される。「スターリンの最も優秀なハンガリーの弟子」を自称する。

9月 「解放」後最初の国政選挙。独立小農業者党が大勝しティルディ・ゾルタンが首相となった。(マジャール語では日本語と同じく人名の最初が苗字、後が名前)

1946年

2月 ハンガリー共和国が樹立される。ティルディが大統領に選出される。ティルディの後任の首相はフェレンツ・ナジが務める。

46年 通貨のペンゲーが暴落してハイパーインフレーションがおこる。

1947年

47年 パリ条約。ハンガリーはソ連、チェコスロバキア、ユーゴスラビアに対して30億ドルの戦争賠償を払う義務を負わされ、さらに赤軍の駐屯費も負担することとなった。これは、当時の国内総生産の2割程度に相当する。

47年 マーシャル・プランが導入される。ポーランドとチェコの共産党政権は加入を検討。

9月 スターリン、東欧の漸進的改革を放棄しコミンフォルムを創建。東欧諸国の直接支配を強化する。

10月 ソ連軍を後盾とする共産党がクーデター。ラーコシの率いるハンガリー共産党が全権を握る。小農業者党のディンニェーシュ・ラヨシュが首相の座に留まる。

47年 ハンガリーの非共産主義政治家、新たな連合政権に協力するか国外に亡命するかの選択を迫られる。

1948年

6月 ハンガリー共産党は社会民主党を吸収してハンガリー勤労者党(Magyar Dologozok Part)となる。小農業者党は、勤労者党の率いる人民解放戦線に吸収された。

12月 カトリック教会の国内最高位 Jozsef Mindszenty 枢機卿が逮捕され、終身刑を言い渡される。

48年 「社会主義への独自の道」を主張するユーゴがコミンフォルムから除名される。

1949年

5月 現職の外務大臣で共産党政治局員のライク・ラースローが、スパイ容疑で逮捕される。ライクはチトーと同じく「独自の道」を提唱していた。

8.10 新憲法が公布され、国名をハンガリー人民共和国と改める。

10月 ライク・ラースローが処刑される。

12月 労働者の99%が国家公務員となる。農村では強制集団化、農産物の強制供出が進められた。

49年 国家警察(AVO)がハンガリー国家保安局(AVH)と改称。7千人以上を捕らえ、見せ物裁判(Koncepcios per)にかけた。対抗勢力をサラミを薄切りするように徐々に抹殺していく、「サラミ戦術」と呼ばれる。

49年 ソ連との間に経済相互援助協定が締結される。ソ連はハンガリーに恒久的基地を配置する。

1950年

50年 粛清の嵐が吹きすさぶ。社会民主党出身のサカシッチ最高幹部会議長の逮捕(1950年4月)、リース法務大臣の虐殺(1950年9月)、保安警察幹部のスーチ兄弟の虐殺(1950年10月)が続いた。

1951年

4.21 党政治局員および内務大臣カダール、スパイ容疑で逮捕される。カダールは清廉潔白な身ではなく、ライク処刑や社会民主党幹部処刑においてはみずからも重要な役割を担ったといわれる。

1952年

8月 ラーコシ書記長、ハンガリー首相を兼任することとなる。

1953年

3.05 ソ連共産党書記長スターリンが死去。

3.14 ソ連共産党、首相にマレンコフ、第一書記にフルシチョフを選出する。


6.13 モスクワでハンガリー勤労者党とソ連共産党政治局の会談。ソ連側参加者はマレンコフ、モロトフ、フルシチョフ、ミコヤン、カガノビッチ、ベリヤだった。

6月 会談の席上、ベリヤ第一副首相はユダヤ人をハンガリーの最高指導者にすえたとラコシを叱責した。そしてラコシが「ハンガリーのユダヤ王」になろうとしていると非難した。そして労働環境の改善や言論の自由を要求。ナジを首相に指名するよう促した(人種差別発言のように聞こえるが、実際、党の中心幹部はラコシを含めユダヤ人で固められていたのである)

6.15 ソ連、ユーゴスラビアと外交関係を復活。

6.17 東ベルリン暴動が発生。これに危機感を抱いたソ連共産党指導部は事件の責任者としてベリヤを追放。東欧諸国のスターリニスト体制の調整に乗り出す。

6.27 ハンガリー勤労者党中央委員会総会。勤労人民の利益を無視した行き過ぎた工業化と、農業の強制集団化の誤りを指摘する。さらに集団指導の欠如と個人崇拝の責任がラーコシらにあると名指しで非難。新首相にナジ・イムレを選出する。しかしラーコシは第一書記に留任することに成功。

ウィキペディアによれば、ラーコシらはみずからの誤りが暴露されないよう画策した。その結果、総会決議は公表されなかった。

7.04 国会でナジが首相に選出される。ナジはまず政治犯を釈放。一方でラコシがテロを支配手段としていたと攻撃、この発言は党機関紙で発表された。

7月 ナジによる「新路線」がスタート。農業集団化は過度の重工業化を中止、軽工業・食品工業への重点移行などを打ち出す。

12月 集団農場の農民は半分に減少。しかし農業生産は激減する。ラーコシ派党官僚のサボタージュによるものとされる。

1954年 

5.22 ハンガリーとユーゴスラビアのあいだに通商関係復活。

5.24 ハンガリー勤労者党第3回大会。第一書記にラーコシを再選する。

10.23 ハンガリー愛国人民戦線創立大会。ナジ首相が演説。

1955年

2.08 マレンコフ首相が辞任し新首相にブルガーニンが就任。フルシチョフ第一書記が主導権を掌握する。

3.02 勤労者党中央委員会総会。ナジ・イムレを右翼日和見主義者と非難。

4.14 勤労者党中央委員会総会。ナジ・イムレを政治局と中央委員会から追放する。

4.18 国会がナジ首相を解任。新首相にヘゲドゥシュ・アンドラーシュを選出。背景に経済「新路線」の失敗。

5.14 NATOに対抗するワルシャワ条約機構が成立。

5.26 フルシチョフ第一書記を団長とするソ連共産党代表団がユーゴスラビアを訪問し関係修復を図る。ベオグラード宣言を発表。それぞれの国が独自の社会主義への道を追求する権利を持つとされる。

12.03 勤労者党、ナジ・イムレを除名。ラーコシが完全復活する。

一瞬目を疑ったが、いまどき原発推進を掲げる会社があった。
「こちら経済部」という囲み記事の一節なので、詳細はいまのところ不明だが、中身はこうだ。

①政府のエネルギー基本計画策定会議で、原発依存度の低減を盛り込むことを合意事項とした。
②東レの榊原会長は「原発依存度の低減」に反対した。
③その後の発言で、「原発依存度の低減」が見解の一致を得たとは受け止めていないとし、あくまで反対を貫く姿勢を明らかにした。

ということで、論理的結論としては原発を推進せよということになる。
総発電量が減少しない限り、依存比率を維持するということは、現状維持ないし増大以外にはないからだ。

福島の人にはこのニュース届いているのだろうか。
しばらくは東レの服は買わないようにしようか、といってもユニクロし買わない人には縁ないけど。いっそ榊原会長の顔写真つきのTシャツでも売ればいいのかな。

ネタを探したら、あった。
堂々と原発礼賛論を展開している。
http://www.meti.go.jp/committee/sougouenergy/kihon_mondai/002_07_10.pdf

短期的には
③既設原発については、徹底的な安全チェックを行った上で国民不安を払拭し、安全性が
確認できた設備については地元住民の合意を前提に逐次稼働させる。

中・長期的には
③原発については、今回の福島の事故の経験と教訓を活かし、日本の科学技術力を駆使して、安全性の格段に優れた原発技術を開発し、我が国の将来の基幹エネルギーの一つとして位置づけると共に、諸外国にも普及させ世界のエネルギー問題の解決に貢献する。

3.科学技術立国としての日本の役割
福島第一原発の事故を機に世界のエネルギー政策が大きな転換点を迎え、日本の政策対応が注目されている今こそ、わが国は科学技術立国として国家を挙げてエネルギー関連の革新的研究開発テーマに取り組むと共に、安全性の格段に優れた原子力発電技術の開発を推進して先進的なエネルギー政策を推進する国家像を世界に示し、また革新的技術を世界に発信して世界のエネルギー問題の解決に貢献すべき。

そのためには、我が国は第4期科学技術計画の中で挙げているエネルギー関連の革新的研究開発テーマ、原子力発電技術の進化を最重点テーマに掲げ、国家の研究・開発予算の思い切った傾斜配分をすべき。

囲み記事の紹介のようなもって回った言い方ではない。あからさまに推進を呼号している。
JR東海の葛西会長の時も感じたのだが、とにかく人格があまりに軽い。被災者に対する思いなどひとかけらも感じられない。人の上に立つものとしては、人としての思いやりとか、ときには心の痛みとか必要なはずなのだが、今の経営トップというのはここまでドライなのか。
ところでみなさん、どうします?

一瞬目を疑ったが、いまどき原発推進を掲げる会社があった。
「こちら経済部」という囲み記事の一節なので、詳細はいまのところ不明だが、中身はこうだ。

①政府のエネルギー基本計画策定会議で、原発依存度の低減を盛り込むことを合意事項とした。
②東レの榊原会長は「原発依存度の低減」に反対した。
③その後の発言で、「原発依存度の低減」が見解の一致を得たとは受け止めていないとし、あくまで反対を貫く姿勢を明らかにした。

ということで、論理的結論としては原発を推進せよということになる。
総発電量が減少しない限り、依存比率を維持するということは、現状維持ないし増大以外にはないからだ。

福島の人にはこのニュース届いているのだろうか。
しばらくは東レの服は買わないようにしようか、といってもユニクロし買わない人には縁ないけど。いっそ榊原会長の顔写真つきのTシャツでも売ればいいのかな。

ネタを探したら、あった。
堂々と原発礼賛論を展開している。
http://www.meti.go.jp/committee/sougouenergy/kihon_mondai/002_07_10.pdf

短期的には
③既設原発については、徹底的な安全チェックを行った上で国民不安を払拭し、安全性が
確認できた設備については地元住民の合意を前提に逐次稼働させる。

中・長期的には
③原発については、今回の福島の事故の経験と教訓を活かし、日本の科学技術力を駆使して、安全性の格段に優れた原発技術を開発し、我が国の将来の基幹エネルギーの一つとして位置づけると共に、諸外国にも普及させ世界のエネルギー問題の解決に貢献する。

3.科学技術立国としての日本の役割
福島第一原発の事故を機に世界のエネルギー政策が大きな転換点を迎え、日本の政策対応が注目されている今こそ、わが国は科学技術立国として国家を挙げてエネルギー関連の革新的研究開発テーマに取り組むと共に、安全性の格段に優れた原子力発電技術の開発を推進して先進的なエネルギー政策を推進する国家像を世界に示し、また革新的技術を世界に発信して世界のエネルギー問題の解決に貢献すべき。

そのためには、我が国は第4期科学技術計画の中で挙げているエネルギー関連の革新的研究開発テーマ、原子力発電技術の進化を最重点テーマに掲げ、国家の研究・開発予算の思い切った傾斜配分をすべき。

囲み記事の紹介のようなもって回った言い方ではない。あからさまに推進を呼号している。
JR東海の葛西会長の時も感じたのだが、とにかく人格があまりに軽い。被災者に対する思いなどひとかけらも感じられない。人の上に立つものとしては、人としての思いやりとか、ときには心の痛みとか必要なはずなのだが、今の経営トップというのはここまでドライなのか。
ところでみなさん、どうします?

リーマンショックの反動、アジアの好況持続などで輸出が伸びた。それは悪くはないのだが、今度はアジアの景気失速、リーマンショックの第二幕ともいうべきユーロ危機、それに端を発した超円高、長期的にはなによりも技術アドバンテージの減少があって、輸出はかげりというより失速状態に入りつつある。
財政赤字も深刻だから何とかしよう、年金・社会保障制度を持続させるために何とかしよう、というのは分かるが、それには景気の回復が一番だ。それしかない。ここは政府・財界もふくめて合意されるところだろう。
ということで、簡単な三段論法になるが、内需の拡大しかない。
これまで試されずみだが、企業減税は景気回復にはつながらない。金融の超緩和策も流動性の罠が待っている。要するに大企業優先の景気対策では景気は回復しない。金のばら撒きもいまのご時勢ではそのまま銀行預金となるだけ。
とにかく雇用を増やす投資が必要だ。国際競争力もよいが、競争に勝っても雇用に結びつかないのなら投資する意味はない。
関税や非関税障壁についてはいろいろご意見がおありかもしれないが、今は雇用を守るという一点で凍結だ。

とりあえず、有効求人倍率が0.8くらいになるまでは、雇用給付期間の延長が必要だ。最賃の引き上げ、とりあえず100円でも良い。その代わり全国一律だ。それでないと大都市に貧困層が集中する。
非正規の雇用条件改善が必要だ。常雇い並みの労働者には年金・保険の加入の義務づけ。使用者には刑法適用を含む罰則強化が必要だ。同時に雇用条件改善への支援も検討する必要がある。
労働者の団結権を最大限保証しなければならない。労基署や労働委員会の権限・機能を強化すべきだ。
生活保護は最後のセーフティーネットだ。これに風穴を開けることは許せない。貧困者を谷底に突き落とすことになる。同時に貧困ビジネスへの取締りが必要だ。生保を食い物にする連中を理由に生保を制限するのは卑劣なやり方だ。
生保基準以下の生活を送る人は受給者の5倍いると推定されている。嘆いたみたところで、いるんだからしょうがないじゃないか。生保を攻撃すれば、本来受給すべき人も出来なくなってしまう。もちろんそれが狙いなのだろうが。

自動車税の記事を紹介しながら思ったのだが、
自動車工業会は「空洞化」とか「雇用の喪失」とかをいえるだけ、たしかに国内に生産拠点を保持している。
もしこれと同じようなことを電気・電子機器メーカーが言ったらどうなるだろう。「何を寝ぼけているの」とせせら笑われるのではないか。

電子メーカーは空前の危機にあるといわれる。
国際競争力が失われ、空洞化が進み、雇用が失われている。
国内生産ゼロとなるのも時間の問題である。しかし利益はしっかりと確保している。なぜなら彼らはすでに生産実態としては海外企業になっているからだ。

海外生産が50%を越えれば、円高は追風だ。資産評価は膨らむと、良いことだらけだ。こういう連中を優遇する意味は、もはや失われているのではないか。

電機各社の海外生産比率の統計が見当たりません。ただ海外販売比率の増大計画は各社が立てており、数年以内に50%を越えることは間違いなさそうです。これは重電もふくむ数字なので、白物家電ではさらに比率は増大します。これらの商品は当然、海外生産によるものと考えられます。




たとえば経団連のいう通りに大企業優遇政策を推進した上で、国内生産率50%を切ったら、優遇措置をすべて外す、ということにしてみてはどうだろうか。
経団連としても、これまで主張してきた論理からすれば当然受け入れなければならなくなるのではないだろうか。

円高不況の中で歯を食いしばってがんばっている国内企業にこそ、救いの手が差し伸べられるべきだ。さらにいえば、円高時代でも成長を持続できるだけの技術的優位性(それこそが国際競争力だ)を育てるためにこそ優遇政策が適用されるべきだ。

経済面のコラム「こちら経済部」で山田記者が上記題名で書いている。

日本自動車工業会は「空洞化防止、雇用の確保」のため、自動車重量税と自動車取得税を廃止すべきだというが、2税があるために空洞化が進み雇用が減ったのか?

2税を廃止したら国内雇用を増やすとでも言うのでしょうか?

自工会は消費税率がアップされるから2税の廃止を、とコメントしました。
そんなにユーザーの負担が心配なら消費税増税に反対したらどうでしょうか。

これはまさにその通りである。


EU首脳会議で満座の非難を浴びたイギリスだが、19日に銀行改革の方向を表明した。
まだ正規の提案にも至らぬ財務省の個人的な意見表明にとどまるが、内容としては投資業務と小口金融の分離ということで、かなり核心を衝く提案だ。
オズボーン財務相は、「商店街向け業務と投資業務を分離し、英国経済と納税者を守り、大き過ぎて潰せないという事態をなくす」と語り、15年までに法制化を目指すとしている。

一般銀行の自己勘定取引の禁止というボルカールールに比べ、表現はソフトだが、実際の効果はほぼ同様であり、議会の賛同も得やすいと思われる。
さて、銀行がどう出てくるか。投資業務のうまみは一般商業銀行とは比較にならないだけに、最後は相当シビアーな戦いになるだろう。

11月貿易速報。まず輸入だが、総額で11%増。内訳でLPGが76%増、原油が15%増となった。これはほとんど仕方ない。いままでの原発依存のツケを当分支払わされることになる。
輸出は総額で4.5%減。内訳で電子部品が15%減、映像機器が48%減、地域別で対EUが4.6%減、対アジアが8%減となった。
ここできちっとしておかなければならないのは、貿易外収支は圧倒的な黒字になっているということだ。つまり企業が海外に生産拠点を移せばこうなるのは目に見えている。その結果はどうなるか、企業だけが儲け続け、庶民は職もなく貧困の底に突き落とされていくということである。
電子・電気機器会社でいまどき国内生産している会社などあるだろうか。いずれ輸出ゼロになってもまったく不思議ではない。正確に言えば企業は生産競争力を失ったのではなく、放棄したのだ。より大きな利潤を上げるために国内労働者を切り捨てたのだ。
日本全体の収支は決して悪くない。日本企業の国際競争力はまったく衰えていない。
どうするか、答えははっきりしている。大企業からしっかり税金をいただき、それを内需拡大に回すことだ。いやなら大企業は出て行けばよい。そのほうが良い。そのかわり海外リスクは自ら担え。

政府と財界は消費税増税、社会保障・福祉水準の切り下げを声高に主張する。
理由は何か「国の財政が厳しいからだ」
厳しい理由は短期的には分かる。これだけの大震災があって、しかも原発はいまだどうなるものやら分からない。
原発止めればとりあえずは火力に頼るしかないから輸入を増やさざるを得ない。
おまけに欧州の債務危機は見通し不透明で、悪くなることはあっても良くなる可能性はない。となれば財布の紐を引き締めたくなるのは当然である。
問題はそれが増税と福祉改悪に結びつくのかが分からないのである。

一体改革というのは、そもそもは社会保障を守るために増税も必要だから、セットでやりましょうというのが趣旨のはずだ。ところが税金は上げるは社会保障は悪くするわで、浮かぶ瀬がない。しかも取り立てた金がそっくり法人税減税で消えるというのでは、財政再建にもならない。

ひっくり返して言うと、増税と福祉切捨てをやれば国の財政が良くなるという道筋が示されていないのである。
道楽息子が金をせびるようなもので、金をやってもばくちや道楽に蕩尽するばかりではもう愛想も尽き果てる。消費税を作った時だって、それを5%に上げた時だって、福祉に使うんだといっておきながら、福祉は悪くなる一方ではないか。

第一、税金上げたら景気が悪くなるに決まっている。景気が悪くなったら税収は減るに決まっている。差し引き増収になる見込みはあるのかい。

政府は、税金上げたぶんを法人税減税にまわしてそれで企業の投資を促すっていう計算のようだけど、企業は使わないよ。少なくとも大企業は溜め込むだけだよ。使うとしても海外にしか投資しないね。

内部留保というのは当分使うつもりはありませんというお金だ。それが何百兆円もあって、それでも使わないというんだから、減税する意味はまったくないいでしょう。

それにしても最近の経団連とか同友会とか、どうなっているんでしょう、あの態度の大きいこと。一国の首相を馬鹿とか無能とか罵倒してはばからない、自分を何様と思っているんでしょう。



中国の次期主席と目されている習近平がハノイを訪問し、グエン・フーチョン書記長と会談。
ベトナム外務省の発表では、南シナ海問題について、平和的解決を目指す方針を再確認した、とのこと。
この再確認というのがミソで、9月の湖錦湯との党トップの合意内容が今後も継続されるということで、中国側が意思表明を行ったことになる。
しかも9月の合意は、いかにも湖錦湯がいやいや合意させられたという雰囲気だったのに比べると、わざわざハノイに出向いて合意を再確認したことの意義は大きい。
いずれにしても、すでに夏ごろには中国政治トップの事実上の交代があったことになる。湖錦湯が目指した鄧小平政治の復活は、党の大勢により拒否されたと考えてよいのだろうか。軍近代化派と経済関係省庁の力を背景にした、鄧小平=湖錦湯のプラグマチズムと覇権主義の流れが今後押さえ込まれていくのか、曾慶紅の復活はあるのか、期待半分・不安半分である。

読んでいるだけでむせてしまいそうな話。
タンザニアで人間がはいた後の靴下に似た臭いを人工的に作り出し、マラリア蚊をおびき寄せて一網打尽にするという研究が進んでいるそうだ。
同国のイファカラ研究所のフレドロス・オクム博士が人間の靴下に近い臭いを出す液体を開発。蚊は人間の足の臭いを好むためこの液体で蚊をおびき寄せるという.実験によるとこの液体は人間の足よりも4倍もの“魅力”で蚊をひきつけることができる。
蚊は人間を見て近寄るのではなく、汗をかいたときに出る乳酸などの物質の臭いに反応する。この液体を扇風機でふりまき、よってきたかを殺虫剤入の箱に閉じ込めて殺すという。
オクム博士は「もしあなたが研究室に入ったら、サッカーをしてきたばかりの人がいると思うかもしれないね」と笑った。
率直に言ってアフリカ系の人は臭いがきつい。そばに行っただけでもすえた臭いが鼻を衝く。その靴下の臭いだとすれば、日本人なら気絶してしまうのではないだろうか。

少しこだわってみた。

ニュースを読まねば というブログに同じねたが載っている。ブログ主の感想に「人間には分からない臭いにすべきではないか」という意見がある。同感だ。日本人なら必ずそうするはずだ。

この記事では、この研究がビル・ゲイツの支援を受けていると記載されている。その額80万ドル。だから世界にニュースとして発信されたのだろう。ありそうな話だ。しかし8千万円とは高すぎる。この研究、未完に終わりそうな気がする。残るのはビル・ゲイツの美名だけ…


もう一つ、科学ニュース保存というブログ。
これはCNNではなくAFP記事で、実験というのは下記の通り

ハウスを2棟作り、片方に被験者1人を寝かせ、もう片方に汚れた靴下のにおい成分を放出し、蚊を放した。すると、靴下のにおいのするハウスには、人間の寝ているハウスの4倍の蚊が集まったという。

これだけの根拠で8千万円とは…

カザフスタンといえばナザルバエフ大統領の独裁の国。これまでも反独裁闘争が報じられてきたようだが、今度はかなり深刻なようだ。
状況はかつてのベネズエラに似ている。カザフスタンは面積から言えば中央アジアの大部分を占める大国で、首都アスタナのある北東部、中国国境に近いアルマトイ地方、そしてカスピ海沿岸の砂漠地帯と分かれているが、カスピ海地方にマンダギスタウ州という油田地帯があり、ここが国家の富のほとんどを生み出している。いわばマラカイボだ。
今回はマンダギスタウ州のジャナオゼン油田でストライキが発生した。スト参加者1千人が解雇され、激しい抗議運動が起こった。16日、労働者のデモに警察が介入し14人が死亡、100人を越えるけが人が出る事件となった。
他にも外国との合弁企業で大量解雇と抗議運動の連鎖が起きているという。
問題は政治トップに道徳観念が極めて希薄なことで、これだけの貧富の差と、人民抑圧と支配層の腐敗の三点セットが重なれば、政権が維持されていることそのものが奇跡だ。
おそらく来年中には、何らかの政変が起きるのではないだろうか。それがどのような形態になるのかを推し量るのはもう少し情報が必要だが、問題は軍上層部の腐敗の程度、命知らずの雇い兵の存在、ロシアなどの石油マフィアの干渉だろう。

(65)ミロンガよ永遠に  (Alfredo De Angelis - Siempre Milonga)

アルフレード・デ・アンヘリス楽団がよいです。これぞミロンガというリズムを刻みながら、ギターと低音楽器のピツィカートが雰囲気を駆り立てます。歌も歌曲の旋律とは程遠い不安な気分をあおります。録音も秀逸です。

Ricardo Pérez con Los Caballeros de Siempre (milo

youtubeにはこの1曲しかありません。上げるのはやめようと思いましたが、やはり好きな曲なので入れることにします。今後のアップに期待します。

MILONGA PARA FIDEL - (Osvaldo Pugliese)

シエンプレ・ミロンガで探していたらこんな曲に当たりました。プグリエセの自作自演、歌手はホルヘ・マシェルです。プグリエセは共産党員として有名で、バンドも共産主義的に運営していたと聞いたことがあります。

(66)心の花 (Flores del Alma)

ピアノの伴奏で男女のデュエットです。最初はスペインの古い民謡かと思いましたが、れっきとしたタンゴでした。元歌を歌っているのは、デ・アンヘリス楽団の男性歌手二人で、こちらも大変良い演奏です。

それにしても、この曲タンゴというよりは限りなくフォルクローレに近いですね。アンヘリートスとかクアルテート・スーパイあたりが歌いそうな感じです。

Flores del alma -Tango

元は映画「タンゴ」のサウンドトラックからとったものです。私のホームページの「今月の名曲」にも取り上げました。A. Lucero y García Ferrari のデュエットです。どうもアルゼンチンでは「銀・恋」みたいになっちゃってしまったようです。

FLORES DEL ALMA.-Alfredo De Angelis-Carlos Da

こちらがオリジナル。悪くないでしょう? 実はダンテとマルテルのデュエットはたくさんあって、もっと良い曲もあります。これを機会にアルフレド・デ・アンヘリスがもっと聞かれると良いのですが(ラジオ・タンゴでは5位です。ピアソラやディサルリより上なのです)

FLORES DEL ALMA

アンヘリスがオリジナルと思ったら、さすがラジオタンゴ・ロサリオ、SP盤をアップしてきました。DOMINGO FEDERICO楽団にCARLOS VIDALと OSCAR LARROCAのドゥオという組み合わせです。

Flores del Alma - 1942 vals (Música: Juan Larenza

Bruna Pintus という人が歌っています。いかにもそれっぽいですが、もうちょっとうまいといいのですが…

(63)ロス・アンヘリートスのカフェ (Cafe De Los Angelitos)

なにかこのカフェは由緒あるところらしくて、観光名所になっているようです。ホームページではOcteto Tibidabo の演奏を採ったのですが、そんなものはyoutubeにはないでしょうね

Libertad Lamarque "Café de los Angelitos"

なんとも、絶唱とも言うべき演奏です。むんむんと迫ってきます。

Francisco Canaro - Carlos Roldán - Café de los ang

これも十分良いです。カナロらしく、過不足なく、ダンサブルに仕上げています。しかしラマルケの前には影が薄い。

ORQUESTA JOSÉ MARQUÉZ - BLANCA MOONEY - C 

ムーニーは私のお気に入りの一人です。しかしラマルケの前には…

Chabela - Cafe de los Angelitos

なんでしょう?、やたらうまくて美声で、抑制が効いてて、チャーミングです。絵は見ないほうが良いかも…

(64)私のパティオ (Patio Mio)

PATIO MIO

アイーダ・ルスの一発ヒットです。オメナヘの番組がエアチェックされていますが、かなりがっかりします。

JACQUELINE SIGAUT - PATIO MIO - TANGO

これはお勧めです。シンプルに、しかし情感をこめて歌いこんでいます。グラナダでのライブ・ヴァージョンもありますが、こちらはだいぶ崩しています。

Anibal Troilo - Jorge Casal - Patio mío

作曲者トロイロの自演で、さすがに迫力があります。

Yamila Asero Patio Mio Pal

若くてお色気があって、というのはうらやましい。素直に歌っても魅力的です

PATIO MIO-MERCEDES SIMONE.

メルセデス・シモーネも歌っていますが、かなり年取ってからの録音で、すでに魅力は失われています。Patio Mio Mercedes Simone.wmvのほうはさらにひどい。Patio mio Susana Rinaldi HQ M というスサナ・リナルディの演奏もありますが、こちらもお勧めできません。

Patio Mio

バレンティン・アルシナの歌で例によってうっとうしい歌い方ですが、バックのオルケスタが意外に良くてお勧めです。

前原氏はコメや小麦などの関税率が高いことを挙げた上で、「こんにゃくなんて(関税率は)1706%だ。主要な産地は群馬県で、群馬からたくさんの首相が出ていることに(関税率の高さが)現れている感じがする」と指摘した。(2011.2.16)

このときは現職の外相。閣僚発言としてはかなり下品だ。

それにしても1706%という数字、只者ではない。本当だろうか、どこから出た数字なのか、グーグルを当たってみた。

WTO農業交渉とこんにゃく産業

清水徹朗

調査と情報 2005. 11

①輸入価格の決まり方

関税率は品目ごとに定められているがこんにゃくの場合、40%の一次関税がかかり、さらに現地流通・販売価格の如何にかかわらずキロ当たり2796円の二次関税がかけられる。

だから原価が100円とするとこれに1.4をかけて140円、さらに2790円が乗せられるから2930円になる。この場合関税率は2930÷100×100で2930%になる。

生いもはこのくらいの価格だ。しかしたとえば中国からは「精粉」の形で入ってくるから原価はキロ600円くらい。そうすると1.4をかけて2796を足すと3600円くらい。これを600で割ると600%ということになる。

つまりこんにゃくの関税率はあくまで実勢であり、定率ではない。

正確には下の表を参考にしてほしい。

https://livedoor.blogimg.jp/shosuzki/imgs/f/1/f1349ce2.jpg

そうするとこんにゃくがどういう形態で入ってくるのかが実際の関税率を決めることになる。これについては具体的な数字は示されていないが、過去5年間の平均輸入価格はキロ306円とされているので、生いもの形で入ってくるものは少なく、荒粉と精粉が半々の割合というところであろう。

これは914%の関税率に相当するとのことなので、1700%というのは少なくともこの10年に限っては妥当な数字とはいえない。

なおウィキペディアには下記のごとき記載があった。

2009年8月31日、こんにゃく芋に対してセーフガード(緊急輸入制限)が発動し、2次税率が1kgあたり2796円から3728円へ上げられた[12]

ウルグアイ・ラウンド合 意によってこんにゃく芋の関税化が始まった1995年当時は輸入品価格が安価であったために、それに対する2次税率の関税率は1706%に相当した。しか し、近年は輸入品価格も上昇し、2008年は1キロ当たり800円程で取引されているため、関税率は350%程度である

「こんにゃく原料市場」というサイトでは下記の記載がある。
 
コンニャク原料は、情報の非対称性が多い産業構造になっているが、「正直な話として」「ここだけの話として」と切り出される場合、 その逆の「フィクションとして」「スピーカーつきの話」と解釈したほうが良さそうである。

②棲み分けは進むだろう

こんにゃく製品の輸入量は3万トンあまり、額にして25億円となっている。こんにゃくいもの輸入量より大きい。

こんにゃく製品の輸入は既に自由化されており、関税率は20.3%である。輸入価格は70~80円であり、これは国産価格(卸売価格)の約5分の1で、関税を払っても国産価格の4分の1である。

ただし、輸入品は品質が劣るため、国産品が輸入品にシェアを大きく奪われるという現象は起きていない。

日本でのこんにゃく製造は機械化しているが、日本の機械を中国に持ち込んで日本に製品を輸出するメリットはそれほど大きくはないとされている。

③こんにゃく生産の将来

中国や韓国では、日本のように日常的にこんにゃくを食べる習慣がなく、中国では自生しているこんにゃくいもを農民が掘り出して工場に持参するという形態が主である。

つまり原価はタダといって良い。

日本の一部のこんにゃくメーカーは中国に進出して日本向けに製品輸出を行なうようになっている。

こんにゃくいもの生産コスト引き下げには限度があり、中国の低賃金による生産とは対等には競争できないため、関税率を大幅に引下れば生産は崩壊するだろう。

ECBのドラギ総裁が欧州議会で証言。
来年1~3月期に満期を迎える銀行の債券が230億ユーロ、国債が250~300億ユーロあり、債券市場が直面する圧力は深刻だと語った。とくに金融の緊張の高まりが経済活動を阻害していることに懸念を表明した。

二つの問題がある。
一つは金融不安が解消されないばかりでなく、解消に向けた確固たる対策が打ち立てられていないことだ。
欧州債はドイツにより拒否され、その代替として一つは欧州安定化メカニズム(ESM)の前倒し施行。もう一つはIMFを介した融資が打ち出されたが、そのIMF融資計画がはやくも破綻の兆候を示している。12月19日に拠出金の目標不足が明らかになり、メドが立っていないのである。
もう一つは、財政規律の強化は当然のこととしても、引き締めによるマイナス効果が計算されているとは思えないことだ。経済活動の落ち込みと歳入低下を織り込めば、もっと問題は深刻なはずだ。1千億ユーロ程度で済む話ではない。
3月の決算期を迎えて、銀行の破綻が現実のものとなれば、一気に崩壊へと向かう筋書きもありうる。
そもそもユーロを守るべきかの議論も浮上してくるだろう。大企業・富裕層の増税を含めたもう一段の努力が避けられないだろう。

1週間ほど、イタリアとスペインにかかりっきりで、赤旗が積まれた状態になっています。後ろ髪引かれつつも、一段落とします。本日は赤旗のまとめ読み。

金正日の死去に際し、志位さんが発言している。日朝平壌宣言(02年)、6カ国共同声明(05年)を重視し外交努力を行えというもので、大変筋が通った発言だ。
平壌宣言の重要な点は、諸懸案の包括的解決という点にある。

当時、私は長距離ドライブ中でラジオのニュースを聞きながら、感慨にふけったおぼえがある。とくに金正日が拉致問題を認め、謝罪し、生存者の帰還を約束したことに対し、驚くとともに「良くそこまで踏み込んだものだ」と感じたものだ。北朝鮮側の並々ならぬ決意が伝わってきた。

ところが自宅に戻ると、家族はかんかんになって怒っている。拉致なんて許せない。それを今まで隠してきたことも許せない。国交回復なんてとんでもない、ということだ。

家族だけではない。巷中が北朝鮮への怒りに沸きかえっている。これはどうしたことだ。後から分かってきたのだが、これはテレビ報道、とくに民放の影響だ。というのも、タクシーの運ちゃんと会話をすると、私に近い見解だ。なぜなら、彼らもラジオで経過を知ったからである。

あるいは、スムーズに行けば第2陣、第3陣があったのかもしれない。交渉カードとして保留されていたのかもしれない。しかし国民の怒りはそのような交渉を許さなかった。
言ってみれば返せないような状況を作っておいて、「返せ、返せ」と迫り、結果として日朝平常宣言を無力化させ、準戦争状態に追い込んだことになる。背後で誰かがほくそ笑んでいるのだろう。

包括交渉というのは、個別イシューの枠を超えてバーゲニングを行うということである。たとえば拉致問題は、日本による強制連行と同質の課題であるから、この二つを連動させるとにっちもさっちも行かなくなる。むしろ平和課題や開発課題との取引のほうがスマートであろう。

いずれにせよ、好むと好まざるとにかかわらず日朝両国は隣人である。転居してことを済ますわけには行かない。未来永劫お付き合いしなければならないのである。
“win-win”の関係を作る以外にはないのだ。そういう点では指導者の交代はひとつの転機となりうるし、そうしなければならない。
とにかく提案が必要だ。そして提案するのはこちらの番だ。


今年も押し迫りました。いろいろ十大ニュースが登場すると思いますが、ここでは世界民主勢力にとっての十大ニュースを勝手にまとめてみました。

ついでに、それぞれについての過去記事をリストアップしておきます。

今年2011年は「青年の年」でした。キーワードは“オルタナティブ”(展望/革新)です。この30年世界の民主勢力はネオリベラリズムと戦い、ようやく勝利の兆しが見えてきました。

まだオルタナティブというほどのものではありませんが、十大ニュースをじっくりと分析してみると、いくつかのキーワードが浮かんできそうな感じがします。

1 世界が原発廃止に動く

2 アメリカのオキュパイ運動

3 青年たちによるアラブ革命

4 南欧諸国の抗議 欧州左翼の再生

5 金融規制法の動き 富裕税創設の動き

6 UNASURからラテンアメリカ・カリブ諸国連合へ

7 南米の学生運動

8 ASEANの力で南シナ海の平和確保

9 NTBTの活性化

10 ITOの復権と新国際経済秩序

番外 イラク戦争の終結


今回は

1 世界が原発廃止に動く

関連の記事一覧です。

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日本の電気料金

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日本とドイツ、ここが違う 2

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破綻処理は依然として選択肢

自販機の消費電力

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日本がだめなら原発だめ(ドイツ大使)

アルファ線による内部被曝

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安全・保安院はよい戒名だ

アメリカの原発事情

東電系調査会、稲わら汚染は「火事場泥棒」と罵倒

ドイツ 電力をめぐるいくつかの数字

電力買取の現状

風力発電て、なにか胡散臭いな

浜岡原発と公明党

浜岡原発と公明党 追補

東電が「想定外」はウソだったと告白

太陽電池が26%増

原発はウソのかたまり

電力制約の影響なしだって

大野陽朗の発言 ストロンチウムと牛乳

大野陽朗の発言 エネルギー問題、6つの方策

原発廃止が98% ほんとかいな?

政府電力見通しのウソ

Ⅵ リャマサレス幹事長の時代

00年12月のIU第6回定期大会で激変が起きた。ガスパル・リャマサレスが「開放左翼」グループを形成。共産党員でありながらフルトスに反旗を翻した。僅差で勝利し幹事長に就任する。(ウィキペディアではアンギータがリャマサレスを推したとされるが真偽は不明)

リャマサレスはPSOEとの共闘路線を破棄し、独自路線への転換を図った。

リャマサレスは医師でマドリード大卒業後ハバナ大学で公衆衛生の学位をとったという珍しい経歴。なかなかの色男だが、どういうわけかオサマビンラディンに似ているといわれる。アストゥリアス州で議員となり共産党州委員会の書記をつとめた。

労働者を基盤とした伝統的な闘争スタイルに対し、エコ・ソーシャリズムなるキャラを打ち出し、IUのイメージアップ作戦を展開した。いわば「新左翼」路線である。

しかしこの路線での失地回復はならなかった。むしろ共産党のフルトス書記長とのあいだで路線が股裂き状態になり、混迷したことから、共和主義左翼や社会主義行動党などIUを構成する主要政党が離れていった。

04年3月の同時爆弾テロは社会労働党の逆転勝利をもたらした。統一左翼はさらに後退しわずか3議席となった。サパテーロ新政権は、直ちに外交政策を転換し、欧州との関係改善に努めるとともに、イラクからの派兵を引き上げた。

社会労働党の支持が高まるのと逆比例して、統一左翼の人気は失墜し、存続すら危ぶまれるようになった。

04年12月に第8回臨時大会が開かれた。この度はフルトス書記長は立候補せず、共産青年同盟のエンリケ・サンチアゴが対立候補となった。リャマサレスは一位となったが過半数を取れず、決選投票で2,3位連合が組まれると負ける状況になったが、州の地評に1票を与えるという奇策を生み出して勝利した。

大会の模様を報じる文章があり、以下のように記されている。

リャマサレス派は社会労働党政府と協調しながら、社会・メディア活動に組織の力点をおくよう主張する。サンチアゴ派は、社会労働党と一定の距離を保ちながら独自の社会運動を展開するよう主張。

どうも、00年の記載から見ると両者があべこべのようだが、リャマサレスはかなり振幅の激しい人なのかもしれない。

Ⅶ 新たな旅立ちへ

結局、04年の大会は統一左翼の弱点をそのまま引き継ぐ結果にしかならなかった。組織の股裂き状況は解決されず、政策も一貫性を欠いていた。

統一左翼からはさらに「赤い潮流」や「革新空間」などの小組織が離れていった。

08年3月の総選挙は、さらに厳しいものだった。統一左翼はIUは100万票に届かずわずか2議席と惨敗を喫した。その後もリャマサレスは去就を明らかにしないまま経過したが、大会を直前に控えた10月25日、ついに辞意を表明するに至った。

11月、統一左翼の第9回大会が開かれた。共産党はカヨ・ララを推し、リャマサレス派はマドリード地評のイニェス・サバニェスを推した。ララは農民運動の出身で70年代末に共産党に入党した比較的若手の党員である。

結果はララ43%、サバニェス27%で最終決定は連邦政治評議会に一任されたが、12月14日65%の支持を得てララが幹事長に就任した。

なおリャマサレスは引き続き統一左翼の議員団長の席にある。その容貌もあいまって、いまなお人気は絶大である。10年初めには、FBIがウサマ・ビンラディン容疑者の「現在の顔」として作成した合成写真に、彼の修正された写真が無断で使われていた。これで世界中に有名になってしまったので、グーグル検索するものにとっては大迷惑である。

これまで共産党の中にも統一左翼は無意味だとして脱退をもとめる声があったが、それらは一掃された。

09年11月には党大会が開かれ、フランシスコ・フルトスに代わりホセ・ルイス・センテリャが書記長に就任。対立候補はなく85%の信任を受けた。統一左翼からの撤退動議は13%の支持にとどまった。つまり共産党は統一左翼と心中する覚悟を決めたことになる。

10年1月には統一左翼全国大会が開かれ、これまでの政治組織に加え種々の社会組織が参加した。共和主義左翼も復帰した。労働者委員会と労働総同盟がオブザーバー参加した。大会は「変革の受け皿となりうる左翼の再建」をスローガンに掲げた。

7月には統一左翼の「再建会議」が開催され、「社会変革のための有用で活力のある提案」をおこなう「新しいタイプの政治勢力の形成」を追求することで合意した。

そして「五月15日運動」の昂揚を経て、11月の総選挙を迎えた。統一左翼は得票を71万増やし、得票率を倍近くの6.92%に引き上げた。この結果一気に二桁の11議席を獲得することになった。

地獄を見てきた統一左翼の復活は本物であろう。

Ⅳ フリオ・アンギータの時代

フリオ・アンギータは大学の歴史の先生で、フランコ時代に秘密党員となった。民主化されて間もない1979年、彼はコルドバ市長に当選した。

7年にわたってコルドバ市長を勤めたあと、党再建を託され、88年2月の党大会で共産党書記長に就任した。彼は統一左翼の強化を主張し、その第1回大会で幹事長に就任した。

アンギータは統一左翼を率いる立場から、社会労働党との正確な関係を打ち立てるのに心を尽くした。彼のモットーは“programa, programa, programa”であった。つまり個別の計画ごとに協定を結ぶべきであり、システムとして縛るような協定はいけないということである。

これはとりわけ社会労働党が右傾化を強めている状況の下では、守るべき鉄則であった。しかし党幹部のあいだからは、社会労働党との関係を強めようとする圧力が絶えずかかっていたとされる。

アンギータは心臓に持病を持っていた。98年に心臓発作を起こした。12月の第14回党大会で共産党書記長を辞任する。

しかし任期の関係で統一左翼の幹事長には引き続きとどまった。99年、二度目の発作に襲われたアンギータは、00年に統一左翼の幹事長からも引退することになる。

Ⅴ 国民党政治と統一左翼

社会労働党は10年間の政権時代に制度疲労を起こしつつあった。EU加盟により経済成長が始まったが、89年には原油価格の高騰により不況を迎えた。政府は雇用契約の自由化など労働者への犠牲しわ寄せによって苦境の打開を図った。

国内に貧富の差が拡大し、新富裕層は独自の政党として国民党を結成し、政権奪取を図るようになった。

政府は起死回生の手段としてバルセロナ・オリンピックとセビリャの万国博で人気回復を図ったが、いずれも思わしい経済効果を上げることなく終わった。むしろ逆に政府債務を増大させ、経済危機を深刻化させた。また事業にかかわる汚職・腐敗が横行し、ますます国民の信頼を失う結果となった。

96年3月、総選挙で社会労働党は惨敗。これに代わり国民党右翼政権が登場した。この間統一左翼は一貫して国民本位の立場を堅持し、得票率を11%にまで伸ばした。

この方針が揺らいだのが99年、フランシスコ・フルトスが共産党書記長に就任してからである。統一左翼の筆頭候補となったフルトスは国民党政府打倒の立場から、社会労働党と手を組むことを決めた。(ウィキペディアには“a polemic agreement”と記載されている)

00年3月の総選挙で、統一左翼は社会労働党と協定を結んで闘った。結果はどちらのためにもならなかった。国民党は過半数を握る大勝利。社会労働党は敗れた。悲惨なのは統一左翼で得票率は5%、議席は20から8にまで低下する惨敗振りだった。

スペイン統一左翼の歴史 その1

正直言って、「世界政治」が廃刊になってからの欧州共産党の動きはさっぱり分からなくなっている。赤旗の報道は断片的で、勝ったときしか載らないから、ずっと調子が悪いままだとずっと載らなくなる。

ということで、ネットで情報を集めてみたが、載らないのは赤旗ばかりではなく、少なくとも英文情報でも情報不足は同じだ。したがって今回集めた情報にもバイアスがかかっている可能性はある。そのことをご承知の上でお読みいただきたい。

 

Ⅰ カリリョ失脚の顛末

77年4月に共産党が合法化され、地下から25万人の党員が姿を現したときは、みんなびっくりしたものだ。40年近くの非合法の時代を生き抜いて、冗談でなく命がけで党を守り抜いた人々がいたということで、あらためて人民戦線の偉大さに感動した。

この数字がダテでなかったことは、わずか2ヵ月後の総選挙で証明された。共産党は171万票(6%),19議席を獲得したのである。逆にフランコ派の大衆同盟は16議席と惨敗した.

社会労働党もこの頃はまだ左翼としての立場を堅持しており、明日にでも人民戦線政府が成立するのではないかとさえ思わせた。

ところがその後数年のあいだに状況は一変する。

政権獲得を狙う社会労働党は党内のマルクス主義傾向を一掃し一気に右傾化を強めた。ソ連はユーロコミュニズムを標榜するスペイン共産党とカリリョ書記長を攻撃し、ソ連派を集めて統一スペイン共産党を結成する一方、党内にも親ソ派フラクションを形成した。

地下に建設された党としては当然であろうが、鉄の規律がもとめられ、その上にスペインの徳田球一、カリリョ書記長の独断専行が乗っかるという構造がそのまま持ち越された。こういう組織は守りには強いが、合法化されさまざまな分野での活動が一気に広がるあらたな状況には対応できない。

さらに国会に23議席を持ち、国民に対して責任を持つ政党としては、国民政党としての論理を併せ持つことが迫られる。端的に言えば、カリリョの唱えたユーロコミュニズムがカリリョの思惑を乗り越えてどんどん進行し、カリリョを追い詰めて行ったのである。

82年10月の選挙は国民の共産党に対する失望の現われだった。国民は「変革のために」のスローガンを掲げた社会労働党を政権につかせる一方、共産党はわずか4議席に後退することになる。

これを受けたカリリョは責任をとり書記長を辞任するが、腹心のヘラルド・イグレシアスを書記長にすえ院政を諮ろうとした。

 

Ⅱ 党の混乱から統一左翼の結集へ

文字通りの「ユーロ・コミュニズム」の党となるためには、家父長的支配の秘密結社的体質は似合わない。開かれた国民政党への全面的なイメージ・チェンジが必要だった。

党はゴンサレス社会労働党政権の政策に反対し、政治変革を求める広範な左翼との共同を求め、「左翼の結集」路線を打ち出した。

この方針はしかしながら茨の道を辿ることになった。カリリョは親方針に大いに不満で「社民主義、清算主義」と非難した。

党内部の混乱を見たソ連は、ここぞとばかりに分裂をあおった。統一スペイン共産党ばかりでなく、党内のソ連派を動かし「新党」結成に動いた。84年1月、ガジェゴらが離党しスペイン人民共産党を結成すると、ただちに新党支持のキャンペーンを開始した。

混乱がようやく収束したのは85年のことだった。4月に開かれた中央委員会でカリリョら19人を指導部から解任することを決議したのである。その後の全国協議会では賛成209、反対0、棄権3で中央委員会決定が承認されている。

10月にカリリョ派は党を離れ、別党を結成したが、まもなく影響力を失っていく。しかし77年に25万だった党員は8万6千まで減っていた。北風には強かったが、太陽には弱かったのである。

しかし人民の力が衰えたわけではない。そのことは85年6月の年金改悪反対行動で示されている。統一行動には全国50か所で100万人が結集した。労働者委員会(共産党系)と労働総同盟(社会労働党系)の二大労組の呼びかけによるストライキには400万人が参加している。

そして86年に入ると、スペインのNATO加盟に反対する闘争が盛り上がった。3月には国民投票が行われ、加盟反対は40%に達した。

注目すべきは、加盟を推進したのが社会労働党政府であり、反対派は政党としては共産党しかなかったということである。つまり無党派左翼が極めて大きな力を発揮したということになる。

 

Ⅲ 統一左翼の模索

6月の総選挙を目指して、急遽「統一左翼プラットフォーム」が結成された。共産党、カタロニア統一社会党、社会主義行動党、共和主義左翼、カルロス主義党などが参加した。ガジェゴらのスペイン人民共産党も加わった。

しかし国民投票でNATO加盟反対に賛成した人々はそのまま統一左翼に来るということにはならなかった。前回選挙で共産党が獲得した議席数から言えば、3議席増えたが、結局地力を持つ共産党にプラスアルファというのが、最初の結果だった。

わずか2ヶ月でこれだけの成果を生み出したと見るべきではあろうが、無党派層はそれでは満足しなかった。あきらめの早いのは無党派層の特徴で、根っこに抜きがたい反共思想もあるだろう、次々と歯が抜けるように統一左翼を離れていった。

それから3年間、統一左翼はそのアイデンティティを求めて模索が続いた。88年にはイグレシアスが共産党書記長を辞任、フリオ・アンギタが後任となった。カリリョの影響力がなくなるのに伴い人民戦争の英雄リステル、別党を創設したガジェゴらが復党した。ソ連追従を貫くグループはガジェゴと分かれ、統一左翼からも離脱していった。

状況打開のきっかけとなったのは、またしても大衆闘争だった。共産党系の「労働者委員会」と社会労働党系の労働総同盟は、社会労働党のネオリベラル政策に反対し、88年12月に統一ストを実施した。このストライキには800万人が参加した。このストの後、労働総同盟は社会労働党への支持を取りやめるようになる。

こうした中で89年2月に、第一回の統一左翼全国大会がもたれた。発足以来実に3年ぶりになる。事実上の再スタートといってよいだろう。

統一左翼は「政治的・社会的」運動と指定され、将来の政党化に含みを残す表現となった。8ヶ月にわたる準備を経て臨んだ総選挙で、9.07%、17議席を獲得し、得票数で第3位、議席で第4位政党となった。

こうして8年ぶりに中央政界に確固とした左翼の拠点が形成されることとなった。

どうじまるさんのホームページのスペインの占拠運動の紹介が非常に面白い。
バルセロナより愛を込めてというのがメインページで、スペインの5月15日運動が全8部にわたり紹介されている。
豊富な事実を元に展開されているので説得力があり、示唆に富む。
オキュパイ運動が将来どこにつながっていくのか、ということは私たちにとってとても大きな問題だ。そのひとつの答えが、スペインの統一左翼の勝利だろう。
 これまで大規模な大衆闘争や労働運動や、ゼネストや占拠闘争が何か目に見えた形で残ることはなかった。それは時期を限って、90年からの20年間という区切りの中で、例外なく真実であった。
私たちの闘いが蟷螂の斧に終わるのか、私たちの歴史に残すものは必死で掻いた爪あとだけなのか。
 この1週間ほど、イタリアとスペインの20年の闘いのあとをたどってきた。率直に言って悲惨である。 スペインで2議席しか残っていない。イタリアはなんとゼロだ。
内部は分裂を繰り返している。しかし分裂しているから弱くなったのではない、弱くなったから分裂しているのだ。
 一方でイタリアでは国民投票で原発を拒否し、水道民営化を拒否した。新自由主義を拒否する集会には100万人が結集している。
 問題はオルタナティブだ。すごく訳しにくい言葉だが、日本語で言うと「展望」だろう。展望があれば一気に情勢は展開すると思う、そういう情勢だ。 その萌芽かもしれない、今度のスペイン統一左翼の勝利を注意深く見つめていく必要があるだろう。

「喫煙OK」のバーがある村

という記事があったので転載する
今年の1月よりスペインでは、タバコに関する新しい法律が施行されている。それは「レストランやバーを含む屋内の公共スペースなどでの喫煙を禁止」するものだ。 
しかしマドリード州にはその法律を無視し、いまだに大多数のバーで普通にタバコが吸える小さい村がある。その村の名前はトーレス・デ・ラ・アラメダ。マドリード北東にある世界遺産の町アルカラ・デ・エナーレス近くにある
そこの住民にとって、喫煙のことは‘公然の秘密’になっている。住民の一人は「実際、他からここに来ている人がいる。なぜなら彼らの町のバーは禁煙だが、ここではタバコを吸うことができるから 」とコメントしていた。

じきに、こうなっていくんでしょうねぇ


Ⅶ 「虹の左翼」連合とその惨敗

左翼民主党の右傾化は果てしなく続いていきます。98年には「左翼民主主義者」と改称。シンボルから鎌と金槌をとり、その代わりにバラを挿入するという小細工を演じました。要するに階級性の放棄ということです。

そして07年10月にはマルゲリータ(旧キリスト教民主党左派グループ)との統合により民主党が結成されました。日本で言うと社会党が自民党の一部とくっついて民主党を作ったのと同じです。

ここまで来るともう付き合っていられません。というよりここまで付き合ってしまったことの責任が問われます。

再建党はこれに対抗して「虹の左翼」連合を結成しました。これにはイタリア共産主義者党(再建党の旧コスッタ派)、民主的左翼(民主党結成に反対した左翼民主党内グループが結成)、それに「緑の連盟」が加わりました。

こうして臨んだ08年4月の総選挙ですが、結果は上下両院共に3%台。4%未満の政党には議席配分しないという足切り条項により、再建党も虹の左翼も議席を全て失ってしまいました。

いっそ気持ちのいいくらいの大敗北です。

Ⅷ 再建党の再建に向けて

ジョルダーノ書記長は敗北を受け、左翼建て直しと幅広い「左翼党」の結成のための公開大討論をおこしたいと訴えました。これは「まるっきり分かっちゃいない」ことの告白となりました。

議席を取るための員数合わせをやってる場合ではありません。それは究極の「議会主義クレチン病」でしょう。いまは生き延びること、党としての基本路線をあらためて検討し、左翼政党としてのアイデンティティーを確保することこそが、もっとも緊急の課題でしょう。

08年7月に党大会が行われました。「一歩前進二歩後退」を地で行く論戦が繰り広げられました。

主流派であるベルティノッティ派が核分裂を起こしました。そして指導部の提案した基本路線は否決されました。ジョルダーノ書記長は罷免されました。

そして主流派内の反指導部派が、非主流派や反主流派と組んで提出した「民主党との連携を原則的に拒否し、共産主義政党としての独自性を追求する」大会最終文書が採択されました。

大会最終日の29日、新しい書記長を決める選挙が行われました。主流派はアプリア(Apulia)州知事で公然ゲイのニキ・ヴェンドラを推しました。これに対して非主流4派はパオロ・フェレーロ前社会連帯相を統一候補として推し出し、両者の一騎打ちとなりました。結果は53%対47%でフェレーロの勝利となりました。

フェレーロは元フィアット自動車の労働者で、元々共産党員ではなく、プロレタリア民主党から政治的キャリアを出発させた人です。しかしベルティノッティ時代にはその中心的役割を担ってきました。

Ⅸ 再建党はこれで終わる政党ではない

ニキとジョルダーノはただちに「左翼のための再建(党)」を掲げる党内潮流の結成を宣言しました。そして09年1月には党機関紙「解放」の編集方針をめぐり衝突した後、集団離党し「左翼のための運動」(Movimento per la Sinistra:MpS)を結成しました。

ニキは再建党を「亡霊の巣窟」と批判するにいたっています。

しかし選挙での議席回復はいまだ果たせていないものの、大衆運動への積極的かかわりは続けられています。

09年11月にはPdCI、消費者統一などが左翼連合を結成し、水道民営化反対、原発建設の中止をもとめる国民投票では中心的役割を果たしました。労働センターCGILのなかにも強固な基盤をもっています。

今回の財政危機をめぐっては、民主党などが財界支持と国民変犠牲推しつけの立場をとり続ける中で、国民と勤労者の利益を代表する政党としての役割がさらに期待されます。

Ⅳ 確立された反帝・反独占の立場

99年3月の第四回臨時大会ではベルティノッティが84%の支持を得ました。 党はベルティノッティの下で、たんなる反対派でもなく、ソ連追従派でもない独立自主の立場を確立したといえるでしょう。

大会の基調報告では、「オリーブの樹」の政策に反対の立場を再確認しました。そして左翼民主党に対する批判を強め、ネオリベラリズムに反対する立場を確認しました。

そして当面する課題を、新自由主義の経済的・イデオロギーとの対決と、独自の社会的プロジェクトの定式化におきました。さらに議会闘争ばかりでなく、大衆運動を重視する姿勢を打ち出しました。

それまで左翼民主党内にとどまっていた左派の重鎮ピエトロ・イングラオとピエトロ・フォレーナもあらたにせんれつにくわわりました。

2001年の総選挙で、中道左派政権は敗北し、金権とメディア支配のベルルスコーニ右翼政権が登場しました。再建党は得票率を5%まで落としました。しかし世界を席巻する新自由主義の雰囲気の中で、党を二分する路線論争の後の選挙ですから、こんなものでしょう。

Ⅴ ベルルスコーニの悪政とルニオーネ

選挙後、第二次ベルルスコーニ政権が登場すると、イタリア社会の状況は急速に悪化します。それまで曲がりなりにも中道左派政権の下で国民の暮らしは守られていましたが、貧富の差は拡大し、失業者は増加し、労働者の権利は奪われていきました。

さらに右派政権はブッシュの世界支配戦略に積極的に加担し、基地強化や海外派兵などの動きが強められていきます。

こうした中で進歩勢力の統一を求める声が急速に高まりました。この声に応えるため、再建党はふたたび中道左派との連合に乗り出します。

03年の6月にはベルティノッティ書記長が左翼民主党との違いを保留しつつ選挙連合を組む意向を表明。04年11月の全国政治委員会では、大民主連合(GaD)に参加することが決定されました。

翌年ルニオーネ(l'Unione)と改称した大連合では、06年総選挙に向けた政策協定作りが始まります。

ただこの時点でも、党内には選挙連合をめぐってかなりの異論があったことは見ておかなければならないでしょう。たとえば、05年3月の党大会ではベルティノッティに対する信任投票が行われていますが、賛成143、反対85、棄権2、無投票30という結果になっています。

Ⅵ 06年大躍進の功罪

06年4月に行われた総選挙ではルニオーネがベルルスコーニを破り勝利しました。。再建党は上院27議席・下院41議席を獲得するなど大躍進を遂げました。

この結果、ベルティノッティが下院議長に就任、パオロ・フェッレロ(Paolo Ferrero)が社会連帯大臣となるなど議会内に大きな比重を占めることになりました。

ただそのぶん、政府に対する責任も大きなものとなります。前回オリーブの樹時代には「是々非々」の閣外協力に過ぎませんでしたが、今回は政策協定を結び、閣僚を送り込んでの連立です。政権に対する誠実さが求められることになります。

その矛盾はただちに現れることになりました。雇用の問題などが一向に改善されない中で、国民に犠牲を押し付ける政策が次々に打ち出されてきます。さらに07年1月にはイタリア軍のアフガニスタン派遣延長が決定されます。

民衆はルニオーネ政権に対して抗議の声を上げ始めました。07年10月にはローマで不安定雇用に反対するデモが行われ、主催者発表で100万人を結集する大集会となりました。デモには老イングラオ(93歳)も参加しています。

再建党は股裂き状態となりました。下院議長に就任したベルティノッティに代わり、書記長に就任したフランコ・ジョルダーノ(Franco Giordano )ら党執行部は、現実路線への転換を模索し始めました。これはいままでのベルティノッティ路線とはまったく逆方向です。

「ダイヤモンドに目がくらんだ」執行部に対して下部からは強い反発が巻き起こります。こうなると寄せ集め政党の矛盾が露呈されることになります。

選挙後の1年で、4トロ系のバンデラ・ロッサ、共産主義変換党(Communist Alternative Party)グループ、マルコ・フェランドのグループ、ルイジ・イッツォのグループなど急進主義派が次々と党を離れました。99年に12万を数えた党員も10万を割り込むまで減少しました。

Ⅰ 党の創立。

1989年12月、ソ連・東欧の社会主義諸国の崩壊を目前にして、イタリア共産党は一気に右転換を行います。これが「ボローニャの転換」と呼ばれるもので、マルクス主義の放棄と社会民主主義の選択を宣言します。

それから1年間の議論を経た末に、91年の1月に最後のイタリア共産党大会が開かれました。

イタリア共産党には三つの潮流がありました。生協などが主体の右派、ベルリンゲル以来の中央派、そして労働運動を主体とする左派です。このうち中央派と右派が解党を支持しました。左派は共産主義の思想を守るよう主張しますが、解体と左翼民主党の結成に当たってはどうするか悩みました。

そのとき、ソ連追従派のコスッタが新党コースを提起したのです。コスッタ派は共産党大会終了後まもなく「共産主義再建運動」を起こしました。委員長にはコスッタが、書記長にはセルジョ・ガラヴィーニ(Sergio Garavini )が選ばれました。

この後、イングラオ派と呼ばれる左派から、続々と再建党に流れるようになります。ガラヴィーニは旧共産党ばかりでなく、「新左翼」と呼ばれる人びと、トロツキスト系にも結集を呼びかけました。

これに応じて「プロレタリア民主」の多数派は再建運動への合流し、共産主義者の単一党結成を呼びかけました。4トロ統一書記局派の流れを汲む「バンディラ・ロッサ」(赤旗)も合流してきます。

 

Ⅱ ベルティノッティ書記長の就任

こうして共産主義再建党が結成され、活動が開始されたのですが、どちらかといえば烏合之衆のようなもので、今後どうして行くのかをめぐってはなかなか意見がまとまりませんでした。

ガラヴィーニ書記長は左翼民主党との統一行動を提案しますが、全国指導部に拒否され辞任します。コスッタ委員長は左翼民主党に残っていたファウスト・ベルティノッティ( Fausto Bertinotti )に書記長就任を要請しました。ベルティノッティはイングラオ派で長い間CGILの指導者でもありました。

ベルティノッティが93年6月に書記長に就任したあと最初の総選挙がやってきました。左翼民主党は、これまで戦後一貫してきたキリスト教民主党による保守政治を打破するため、左翼勢力の大同団結を訴えました。

これに再建党も応え、左翼8党の進歩連合が結成されました。選挙は右派のベルルスコーニが勝利しますが、再建党も6%の得票を獲得し、議会に議員を送り込むことに成功します。さらに欧州議会選挙や地方選挙でも一定の議席を獲得するなど、政界の一角に確固たる地位を占めるようになりました。

 

Ⅲ オリーブの樹への加盟と脱退

96年の総選挙では、ベルルスコーニ政権打倒のためにふたたび野党連合が組まれました。中道左派連合「オリーブの木」はこの選挙で勝利、ロマーノ・プローディ率いる政権が誕生します。

再建党は得票率8.6%、35議席を獲得しました。そして閣外協力の形で与党の一角を占めることになりました。

ところが、左翼民主党の右傾化はこの期間を通じて一気に進行して行くのです。再建党はユーロ導入などの新自由主義的経済政策に反対し、ついに98年9月には内閣不支持を表明するに至ります。

こうして議会ではプローディ内閣不信任決議案が1票差で可決されました。左翼民主党から見れば裏切りでしょうが、民衆の立場からは筋を通したともいえます。

この判断をめぐり全国政治委員会が開かれました。ベルティノッティ書記長を支持するものが188票を獲得し、内閣支持を主張するコスッタ派112票を圧倒します。

党創始者コスッタ議長は再建党を離れ、イタリア共産主義者党を結成。オリーブの木に残留することになりました。すでにガラヴィーニ前書記長は、前政権時に保守政権を支持。その後左翼民主主義者に合流しています。

こうして創立以来10年で、議長と書記長を含め、創設時の7人の指導者のすべてが指導部を去りました。

Italian PRC National Congress - Growing Support for the Marxist tendency

マルクス主義者の労働者階級への訴え

(共産主義再建党大会決議:要約版)

 
 2008年以降、我々は巨大な真空状態に陥った。わが国には労働者の代表がいなくなった。組織的な意思表示も出来なくなった。議会からの左翼の消滅は、この真空状態のまさに最も壊滅的な現れであった。

(私注: 08年総選挙において、PRCは得票率を大幅に減らし、足切り条項によって議席がゼロとなった。敗北の総括をめぐり党内は混乱し、多くの活動家が党を離れた)

しかし、左翼の活動は消失していない。共産再建党もまた消滅していない。多くの分裂や少なからぬ党員の離党にもかかわらず、組織の遺産を何とか守り続けている。

 

「ポミグリアーノは負けないぞ!」闘争と大衆運動の再生

2010年10月16日、FIOMの訴えへの巨大な反応が示された。労働者階級の闘いが、わが国の全ての闘いの中心に座っていることが示された。

それはトゥリンのフィアット社ミラフィオリ・プラントの住民投票で確認された。それは12月14日のベルルスコーニ退陣を求める青年・学生のデモで確認された。それは1月28日の金属労働者の49時間ゼネストで確認された。それはスサ渓谷の高速列車反対闘争で確認された。

そして公共水道の防衛闘争と6月の国民投票の勝利によって確認された。

*ポミグリアーノ・ダルコはイタリアの町の名前。フィアットの工場がある。ナポリの近郊にあり国際ジャズフェスティバルが開かれる観光地でもある。昨年10月にフィアットが生産拠点をポーランドに移そうとしたことに対して、大規模な労働争議があった。「Pomigliano non si piega!」はそのときのスローガン。闘いの経過についてはIV Online magazine : IV434 - March 2011に詳しいが、詳しすぎて紹介できない。

また、5月6日のゼネストと9月6日のデモの成功は、我々が支配的右翼に直面して退却のアジェンダを組むのではなく、階級闘争をいっそうの高みに上らせる行程を組むようもとめている。

この30年で初めて、すなわち1980年のフィアットの敗北以来初めて、階級的性格を鮮明にした大衆運動が労働者階級のなかに広がった。そして労働者こそが我々の国の主人公となりうるということを示した。

危機の分析: 破産したケインズ政策への幻想

2007年に発生した経済危機は、基本的には古典的な周期的な危機であるが、その持続期間の長さにおいて前例を見ない。それは好況期と不況期の繰り返しのサイクルを越えて遷延している。

それはたんなる金融危機とはまったく異なる。それは膨大な生産過剰あるいは過剰な生産能力から生じ、流れ出したものである。

今日改良主義左翼を支配する考えは、公的資金の投入こそが必要なすべてだというものである。そうすれば、労働者と下層階級にも有益な効果をもたらすだろう、というのが彼らの考えである。

それは実際には、戦後の経済ブームの黄金時代に戻ろうという試みであり、古典的なケインズ主義政策に戻ろうとする試みである。

それは偽りの、そして、危険なユートピアだ。なぜならアメリカでもヨーロッパでも、この3年間、古典的なケインズ政策への復帰は不可能だったからだ。

公的負債は爆発的に増加したが、どの国も有効な手段は打てなかった。公的・私的債務の膨大な積み増しにより資源は充当されたにもかかわらず、それは効果を発揮しなかった。政治は行動の道筋を見失いつつある。


新たな計画の基本となるもの

我が党は確認されなければならない。個人資産にたいして公有資産の優位を主張する党だと、国有化を推進する党だと、組織された労働者による下からの統制を主張する党だと確認されなければならない。

いまの時代にあってはますます、そこが大事だ。いまや、国有化の必要性への理解が急速に広がっている。数百万の人々が、「経済を仕切る管制高地を国有化すべき」だと考えるようになっている。そういうときだからこそ、そこを確認することが大事なのだ。

そのような計画を実施することは、欧州連合によって課されるさまざまな制約から飛び出すことを意味する。

欧州連合を支配する資本主義者にたいして、我々はヨーロッパの人々の自発的な社会主義の連邦を対置する。


もう一つの中道左翼政権にノーを

ベルルスコーニ政権の危機は、暫定管理内閣という展開を導いた。それは新挙国一致政府と名づけられている。モンティ、モンテセモロ、プロヒューモといった連中を政治の表舞台に引き出そうという、気違いじみた努力も。行われている。

しかし彼らは銀行家であり、大企業主であり、それらの利益代表であって、おそらくは政党政治などおかまいなしの連中だ。

それは欧州中央銀行がイタリア政府に派遣した使者団であり、将来にわたって政府の政策を牛耳ろうとするものだ。

彼らがどのような代替案を出そうとも、それは必然的に民主党を巻き込むことになる。

この根本的な事実は、我々にとって決定的だ。それこそは我々が民主党への断固たる反対を堅持しなければならない理由だ。そして、どんな新しい中道左派の政治にも引き戻されることを拒否する理由だ。そういう戦略的立場を主張しなければならない。

我々はこの基礎的な原則を共有する労働者戦線左翼の構築を呼び掛ける。

(以下略)

萩原記者のレポートの続き。
夏休みにはソウル大学の場合、119チーム2600人が各地の農村活動に参加した。
ゼンラ北道に向かう学生は6月28日、龍山駅から夜汽車で出発した。この日10両編成の客車のほとんどが「農村活動隊員」で超満員。龍山駅前広場では盛大な歓送式が行われ、「農民歌」などを歌い、農村活動への決意を固めた。
学生たちは村の公民館や小学校に寝泊まりして、農家を戸別訪問して援農を行う。宿泊所の壁には「働かないものは食うべからず。労働しないものは生活を論ずべからず。我々の流した汗が、民衆に対する愛として心に刻まれるよう」などのスローガンが貼られる。
農民の間で活動するために細かく気を配っている。
服装はできるだけ教練服か作業服。女子学生は露出の多い衣服を避け、派手な色も避ける。履物はコムシン(ゴム靴)とする。ヒルがいても勇敢に田に入る。
米を研ぐ時は絶対にこぼさない。食事は残さず、こぼしたものも食べる。
農民の見ているところで横にならない。常に活気に満ちた姿で、怠けたり疲れた様子を見せない。村人に会えば必ずあいさつし言葉を交わす。農民のわからない言葉は禁句。タバコは年長者の前では絶対禁止。
5人ひと組になって出かけていく。水害で田に流入した土砂を取り除く仕事。農民たちが驚くほど彼らはよく働く。
農民は「手を土で汚したこともない尊い家庭の息子さんたちにこんな苦労をかけて申し訳ない。無理せんで下さいよ」と恐縮する。
女子学生は子供会を開き宿題を見てやったり歌や踊りを教える。
夜は村人や青年たちとの懇談会。そして夜11時から反省会。厳しい相互批判も出る。午前2時白熱した反省会はようやく終わった。

実によく、活動を活写している。延々と引用したが、これは私が学生セツルメントでやった活動そのものである。
我々(民青と呼ばれた)の世代と全共闘との違いはここにあるのではないかと思う。こういう活動を経験していると、全共闘の活動スタイルはどうしてもなじめない。我々のほうがエリート主義だと言われればその通りではあるが。


「悪平等」という言葉がはやっている。いやな言葉だ。
生活保護を制限しようとするときの言葉だ。老人医療を削ろうというときの言葉だ。年金を減らそうというときの言葉だ。
生保の金をもらってパチンコ屋に行く人を非難する言葉だ。母子家庭で働かない母親を非難する言葉だ。家に閉じこもってインターネットばかりやっている若者を非難する言葉だ。
そういう連中を弁護するつもりはない。いつも世の中にはそういう人たちはいるものだ。自分の周りに100人の人がいれば、その中にいやなやつは必ず1人2人はいる。
そういうやつを世の中からつまみ出し、はじき出す方法は、残念ながらないのだ。そういうやつほどうまく立ち回るから、もしそんな方法を見つけ出して実行すれば、関係ない人がとばっちりを食うだけなのだ。
そういう人もふくめての社会と観念するほかない。そんなことは世間の常識だろう。悪いことをすれば取り締まればいい。悪いことをしているのでなければ、それが私事であれば、お互い我慢するしかない。これはルール以前の問題である。
ルールはお互いの寛容を前提としている。「自由の尊重」ともいえる。それがその人の生き方であれば、善悪は別として尊重しなければならない。
髭、長髪、奇抜な服装、タバコ・酒、高歌・放吟の類など枚挙にいとまない。「悪平等」論はこういう連中のこういう行為をもって、こういう連中に平等な人としても権利を認めるのはけしからんという論理である。
北海道弁で言えば「めんこい奴には満額出すが、めんこくない奴には金やらない」という論理である。
それはおかしいだろう、どうやったってこうやったって、月10万では食えんだろう。そういう中でも精一杯突っ張っている人に、「めんこくないから金やらない」ではないだろう。人を馬鹿にするのはいい加減にしろ、切ればあんたと同じ真っ赤な血が流れているんだぞ。


NHKニュースで偵察衛星の打ち上げが成功したと大々的に報道している。
まず変だと思わないのか、そこが変だ。
①偵察といえば間違いなく軍事行動だ。憲法に違反する。少なくともその可能性はある。もし成功したとしても、それは兵器としての水準の証明にしか過ぎない。
②ニュースでは商業衛星みたいな取り上げ方をして、これから外国に売り込むのだといっている。しかし説明を聞けば性能も価格も、とても太刀打ちできるようなレベルではない。お上が好きな言葉で言えば、国際競争力はゼロだ。
③国民生活には何の役も立たない、100%無駄なロケットだ。大震災のときも原発事故についても、一切の情報開示を拒否した。被災者にとっては怒りの対象だ。

2011.9.21-11:36:22の記事
情報衛星、写真の公開を拒否 許せない!をご参照いただきたい

追い出し屋規正法というのがあるそうだ。正式には賃貸住宅居住安定確保法案という。
①家賃債務保証業者の登録義務付け、②不当な取立行為の禁止などを柱とするものである。
これが廃案になってしまった。
穀田議員らによると
追い出し屋問題はいっそう深刻になっている。追い出し行為の相談は依然減少していない。現状では賃貸人の居住の安定が阻害されている。
とのこと。
問題なのは、この法案が参院で全会一致で可決された法案だということ。穀田議員は「議会制民主主義を守る立場からも、せめて継続審議に」と要求したが、認められなかったという。
どうもこの野田内閣、ベースのところが相当ひどいようだ。

少し調べてみたらこんな記事があった。

賃借人居住安定法は、少子高齢化、人間関係の希薄化等により、連帯保証人の確保が困難なために家賃債務保証会社を利用するケースが急激に増加している中 で、家賃債務保証会社により、鍵の交換、深夜に及ぶ督促等、家賃等の悪質な取立て行為の発生が増加していることから、急遽国土交通省において作成されるに 至った法案です。
 しかし、賃借人居住安定法は、単に家賃債務保証会社を対象としているだけでなく、家賃等弁済情報のデータベースを作成する事業者や、家賃等の取り立てを行う一般の賃貸人も対象にしており、規制の対象が極めて広範に及ぶものであるため、賃貸事業を行っている人にとっては、法人、自然人を問わず、その法律案の内容を施行されるまでに正確に理解し準備しておく必要があります。


ということで、単純に与党議運の判断というだけでなく、多少それなりの臭いがしないでもない。なにせヤミ金・マルチの元締めが消費者担当大臣になる御時勢だ。

本日の赤旗1面にフランスの研究機関が発表した「世界所得高位データベース」の結果が報道されている。日本の上位1%の所得占有率は9.2%で、2000年の8.2%から一気に増加している。
しかしどうも日本の高所得者の実態は霧に包まれているようだ。赤旗でもいろいろ試算をしたり数字を出しているが、間接的なデータが多くはっきりしない。
国民全体の議論にするには、やはり、企業の内部留保との関係や、オフショア資産をふくめた有無を言わせぬデータが必要だろう。

「世界政治」の85年9月下旬号に良い記事があったので紹介する。
「韓国:高揚する学生運動と学園安定法」という報告で。著者は萩原遼記者である。
学園安定法そのものは、いまとなってはどうでも良いのだが、その背景として光州事件から半年で弾圧に抗して立ち上がった韓国学生の英雄的な闘いが紹介されている。そしてその心理的背景として、光州大虐殺を許してしまった運動の弱点を、わが身に刃を突き立てるような厳しさで総括する韓国学生運動の文章が引用されている。
以下は、そのさわりのさわり


第一に、我々は敵の本質と状況を明確に把握できなかった。第二に、我々は形式的民主主義を実践的に克服できずに、民衆から決定的に遊離してしまった。第三に、学生大衆は全体の力量すら効果的に発揮できなかった。それはまさに学生運動が70年代以来担ってきた理念と闘争力量の限界それ自身であった。

光州抗争は、闘争の内容の急激な進展を受容し、主導していくべき担当勢力、すなわち組織された民衆の力量なしには、現在の敵を殲滅できない。(ということを教えている)
それは我々に投げかけてくる我が民衆の血の宣言 である。


萩原記者は上記の文章を80年12月11日のソウル大学でのデモの際まかれた「反ファッショ学友闘争宣言」というビラからの文章として紹介している。
そしてこの内容はたんにソウル大学の学生のものではなく、この10年間地下で運動を指導してきた張琪杓(ジャン・キピョ)らの総括に基づくものだろうと解説している。

張琪杓というひと、いまでも尊敬されているようだ。というか、正確に言うと敬して遠ざけられているようだ。


世界政治の86年1月下旬号に「分裂活動と戦うスペイン共産党」という記事がある。
これを書いたのは、モザンビークの記事と同じ加藤長さんという赤旗記者である。最近聞かない名前なので、グーグルで検索してみた。東大文学部69年卒ということだから、現役なら私と同じ年ということになる。現在は福祉関係の仕事に携わっているようだ。まぁ、いろいろあったのかもしれない。

余談はさておき、

サンチアゴ・カリリョといえば「ユーロコミュニズム」のスターとして一世を風靡した人物だ。フランコ独裁下での地下活動を長年にわたり指導してきた人で、日本で言えば宮本顕治か野坂参三かというくらいだ。
82年、スペイン民主化が成功して総選挙が行われたが、共産党はこの選挙で大敗した。日本なら普通によくある話で、社会労働党に油揚げをさらわれた形である。
カリリョは大敗の責任を取って書記長を辞任した。しかしこれはポーズに過ぎず、子飼いのゴンサレスに書記長のポストは渡したものの、執行委員には残留し、一言で言えばやる気満々だったのである。
ところが話はそれではすまなかった。民主党ブームではないがこれまでの支持基盤まで社会労働党に持っていかれ、しかも社会労働党は政権をとったとたんに激しく右ぶれしていく。これもありそうな話だ。
ただ違うのは、40年にわたるフランコ独裁が終わったばかりで、一種の権力の真空状態が存在していたことである。新執行部は大胆に諸政党との連合と「統一左翼」の展望を打ち出した。
これがカリリョには気に入らなかった。「俺を差し置いてなんてことをしてくれるんだ」ということになる。
降りて1ヵ月後には早くも指導部批判を公言し始めた。指導部もさぞかしこまっただろう。首都マドリードをはじめバレンシア、ガリシアなど共産党の拠点としたところの古参党員がカリリョの支持基盤でもある。
指導部はずいぶん我慢したようだが、「統一左翼」形成の方針だけは譲れない。なぜならそれはカリリョが唱えてきたユーロ・コミュニズムの必然的ともいえる論理的帰結なのだから。
こうなるとカリリョ派対カリリョの対立という変なことになる。カリリョはかつて攻撃したソ連と手を結び、指導部を攻撃するようになる。
そうやって「指導部は右派だ」と攻撃すればするほど、カリリョの論理的破綻が誰の目にも明らかとなる。
最後はカリリョは党を飛び出し、「スペイン共産党:革命的マルクス主義」なる新党を作って飛び出してしまった。しかしついて行ったものはほとんどいなかった。これが1985年末のことである。
細かく見ればもう少しいろいろあるのかもしれないが、結局カリリョは自分で言い出したユーロ・コミュニズムがどういうものなのか理解できず、その流れについていけなかったというのが真相のようである。いっそポルトガル共産党のクニャール書記長のように、何もしゃれたことを言わずにひたすらオールド・ボリシェビキ路線を走っていれば、わが身は安泰だったかもしれない。それが良いことかどうかは分からないが。

世界政治 89年9月下旬号
モザンビークの政権党FRELIMOの第4回党大会に出席した赤旗特派員の報告。日本語で読める資料としては貴重なものだ。とくにこの当時、レナモというニカラグアのコントラみたいな組織が盛んに破壊活動をやっていた時期で、緊迫感が伝わる。

南アの支援を受けたレナモの兵力は2万人に達した。彼らは対話を拒否し、無差別大量虐殺を繰り返している。

10万人が破壊・テロ分子によって殺害。国民1500万のうち国外難民70万、国内難民170万人、550万人が食糧援助の必要な状況にあるとする。

しかしその中でも党員が6年間に倍増し20万人に達したとされている。



ついでに
世界政治 90年3月下旬号 「マンデラ氏の南ア大統領あて文書」も良い。

89年7月04日 ボタ大統領,拘禁中のマンデラと会見.秘密裏にケープタウンの大統領官邸に入ったマンデラと懇談.ただしこの時点で,ボタはすでにレームダックとなっていた.このときマンデラが提出した文書は広く流布され、ANCの公式文書として扱われた。とくに共産党との関係について詳説している。
 

ANCと南ア共産党との協力は1920年代にさかのぼる。協力は常に人種的抑圧と公正な社会を求める闘争に厳しく限定されてきた。
ANCの構成員の中にさえ、一度ならずこの協力に反対し、ANCから共産党員を追放しようと欲した人がいた。その中には大きな尊敬を集め、影響力を持っていた人もいた。これらの行動に固執したものたちは、最後には追放されるか、絶望して脱退して行った。
実際それは我々に自殺を迫るものである。信義を重んじる人間が共通の敵の依頼によって生涯の友を見捨て、なお人民の間で一定の信頼を保持しようとできるだろうか。誰がこのような裏切り者の自由の闘士を信用するだろうか。



すこし暇があったので、むかしの「世界政治」を引っ張り出している。
当時あまりまじめに読んだ記憶がないのだが、84年の12月上旬号に「ジンバブエ・アフリカ民族同盟第2回大会報告」という記事がある。
ムガペが報告したジンバブエ解放闘争史で、かなり面白い。今日ではムガペは決して運動の本流ではなく、中国とのパイプの太さでのし上った人物と考えられるが、当時は独立の英雄としてもてはやされていた。
年表に組み込みながら、これまでの事実とつき合わせていくのはなかなか面白い。
大きな図書館に行けば閲覧可能かもしれない。とりあえずは私の南部アフリカ年表をご参照ください。


再結集の動き

1994年に「第1回アラブ・ナショナリスト-イスラム主義者会議」が開催された。それはアラブ民族主義者知識人の国家からの決定的な離脱がもたらしたものと考えられる。

それはまた、アラブ・イスラム主義者が1970年代後期と1980年代に味わった楽天主義が、結局は流産に終わったという認識の結果でもあった。

たしかに、1979年のイランでのイスラム革命の勝利をきっかけとして、アラブ世界の至る所で、イスラム政治勢力は著しい増強を遂げた。それはアラブの政治的・知的集団にも新たな方向性を示唆していた。

しかし、結局分かったことは、1979年の勝利を繰り返すのは難しいということである。

もうひとつ重要なことは、イスラム主義者は民衆のあいだで多数派となったが、アラブのエリートの中での影響力を欠如しているということである。イス ラム主義は、イラン以外の大部分のアラブ諸国では、支配層内部に共感を呼び起こすことに失敗している。このことが、政治的な行き詰まりを打破し、民主主義 への転換過程を成功させることができなかった主な理由である。

アラブ民族主義者とイスラム主義者との再結集は、イスラム主義プロジェクトの合法性を強めた。イスラム主義者は表現のベースを広げることができた。

会議の成功が明らかにしたことは、両者がまた、アラブ社会の直面する深刻な課題について明確に意識しているということである。

両者はともに、中東和平交渉を通じて、アラブ市場の世界経済への統合を通じて、アラブ・西洋関係の緊張強化を通じて、アラブ社会が世界の恐るべき挑戦を受けていると自覚している。

しかしもちろん、アラブ民族主義者とイスラム主義者の緊張の歴史がこれで終わったわけではない。

会議では、積年の対立のにがい遺産はほとんど全て避けられたけれども、アラブの政治的・知的生活の地平の底深くに、自覚されない疑念は依然尾を引いている可能性がある。

新たな章

アラブ民族主義者-イスラム主義者の関係再構築が始まった。しかし、本気の取組となっているわけではない。まだ手探り状態にあることは明らかである。

い ま激しく政治戦が続いている諸国家においても事情は同じだ。理論上の共通フレームワークを考案することも、本気でとり組まれているとは思えない。民主主義 のあり方の問題、信仰の場を社会と政治の中でどう位置づけるかの問題などで、改革の道筋をどう示していくのかが問われている。

しかし、アラブ民族主義者とアラブ・イスラム主義者の会議は、現代のアラブ歴史において新しい章を開けたことも間違いない。多くの点で、イスラム主義とアラブ民族主義は、アラブの政治的・文化的な流れのなかで最も強力な運動であったし、ありつづけている。

いずれの陣営も、現実にはアラブ国家の権力を握っているわけではない。たしかにその通りではあるが、しかし、社会での、市民組織での彼らの影響は疑いなく強大である。

ここ数十年の間に、アラブの文化的システムにおいては多様化が進行している。そのために、民族主義とイスラム主義は、もはやアラブ人の思想世界における独占的権威とは言えなくなって来ている。

しかしながら、そのことは彼らの存在の重要性を減弱するものではない。アラブ世界の政治と文化の将来を見る上で、彼らの再結集の意味は問われ続けなければならない。

半世紀以上にわたって、アラブ人には堅固な、耐久性のあるコンセンサスが不足していた。政治的なプロセスが通常に進行し、政治的な安定性が定着することを目指してコンセンサスを形成しなければならない。

まだあまり明白でないけれども、イスラム主義者-民族主義者の再結集はそのようなコンセンサスを開発するために大きい意義を持つだろう。


元の字数の2,3倍に膨らんでしまいました。アル・ジャジーラの読者にとっては常識的な事実でも、われわれにとっては解説が必要な場合がけっこうあります。

また1994年の会議の意味をいまなぜ強調するのかが良く分からないところがあります。

そうかなるほどと納得したのは、イラン革命後の運動に反省を加えていること、イスラム主義者も現下の厳しい国際環境を踏まえて政治にアプローチしていることです。

原理派の妄動とは別に、イスラム主義の主流派は確固とした姿勢を確立しつつあること、それは民族主義とも接点を持つ可能性があること、ただ過去の行きがかりなどもあることから、少し長期的に見て行く視点が必要なことがわかりました。

アラブ・アイデンティティの再確認

多くの点で、20世紀初頭のアラブ民族主義(当時はArabism と呼ばれた)は改革主義者の議論の政治的な表現であった。それはたとえばRashid Rida, Abd al-Rahman al-Kawakbi, Tahir al-Jaza'iri, Abd al-Hamid al-Zahrawi らであり、その学徒たちであった。

アラブ・イスラム改革主義者にとって、アラブ民族主義はアラブ・アイデンティティを再び確認する手段だった。そしてオスマントルコがイスラムを保護 できず、アラブとムスリムの土地を守ることに失敗したことに抗議し、アラビズムに同調するアラブ人の数を増やすことによって、それに対する答えとしようと した。この点において、アラブ民族主義はたんなるイスラムのアイデンティティの再規定にとどまらず、イスラムの再生と不可欠のものとして想定されるように なった

両大戦間の期間、アラブ・イスラム改革運動の学生がアラブ反帝国主義者闘いで主な役割を演じ続けた。そしてアラブのエリートの社会的・知的構成の段階的な変化は、倫理的にはアラブ主義者の主張に完全に沿う形で発展を遂げていくことになる。

第一次世界大戦のあと、統一し独立したアラブ国家の創設に失敗するという経験に直面して、若いアラブ民族主義者、たとえばDarwish al-Miqdadi, Zaki al-Arsuzi, Edmond Rabat and Qunstantin Zurayq らのようなベイルートのアメリカ大学、英仏の大学卒業生らは、想像上の民族の本質的パワーを用いてアラブ統一のプロジェクトをもとめた。

1920年代半ばのフランスによるダマスカス爆撃、パレスチナへのユダヤ人の移住(イギリスがアラブの反対を押し切って強行した)、1936-39 におけるパレスチナ人反乱への無慈悲な弾圧、モロッコの帝国主義的分断などなど、これらすべてはアラブ人の敗北の感覚を強めた。そして、アラブ民族主義者 の主張の急進化をもたらした。

アラブ民族主義の確立

1930年代と1940年代、植民地支配者の手がふたたび伸びて来た。アラブ国家の崩壊の危機に直面して、アラブ知識人は、排他的なアラブ民族主義イデオロギーの土台を作ることによって応答した。

アラブ主義の初期の世代は、一方において抱合的性格を持っている。たとえばアラブ化したクルド人Muhammad Kurd Ali やKhayr al-Din al-Zirikli などは、「アラブ運動」の旗を立ち上げた。アラブ主義(Arabism)は、「アラブ民族主義」(Arab Nationalism)として言語・人種・地理的境界を乗り越える形で再定義された。

アラブ・イスラム改革主義者にとってはイスラム教の復興が究極のゴールである。これに対して、アラブ民族主義にとっては、イスラム教はその一つの要素として位置づけられた。こうした思想は Sati' al-Husari and Zaki al-Arsuzi ら大戦間世代の多くの知識人が打ち出したものである。

しかし大戦間の時代においては、すべてのアラブ政治勢力にとって最も重要なのは民族解放と諸国家における独立という目標だったから、諸国家を超える アラブ主義は前景には出てこなかった。それが政治の場面に登場するのは、1950年代初期に諸国家において政治分裂の気配が高まってからである。

50年代初め、アラブ主義はイスラム教の世界にも飛び火した。イスラム青年協会やムスリム同胞団のような強力な団体さえ、その内部はアラブ統一とアラブ・アイデンティティの強い信念に彩られていた。

しかしバース党、アラブ・ナショナリスト運動(Harakat al-Qawmiyyin al-'Arab)などが興隆し、アラブ民族主義者の青年将校が決起し権力を握ると、アラブ民族主義者とアラブ・イスラム主義者は分裂し敵対するようになる。そして両者の対立は危機的な段階に達した。


1952年7月23日、自由将校団はクーデターを起こして国王ファールーク1世を追放し、権力を掌握した。農地改革を皮切りに、主力産業や銀行を国有化するなど、いわゆるアラブ社会主義政策を推進した。54年、ムスリム同胞団がナーセル暗殺未遂事件を起こすと、反ナセル派を追放し革命指導評議会議長に就任した。(ウィキペディアより)


アラブ国家内の対立

アラブ諸国家はナセル派と王政・親西欧の反ナセル派に分かれ対立した。長年にわたるアラブ国家間の対立は、アラブ主義とイスラム主義との政治的な分裂を強化した。

それはアラブ主義の形成過程に関する記憶喪失の重い地層を重ねる結果となった。そしてイスラム改革運動とのあいだに解けることのないわだかまりをもたらした。

アラブ・イスラミストとアラブ・ナショナリストは互いに、自らの歴史を書き直すことによって自らの存在を意義付けした。書き直された歴史の中で、他方の存在は無視され、あるいは敵対視された。

1967年の「6月戦争」での敗北は、アラブの政治的・文化的構造の転換点であった。敗戦はアラブ主義国家の究極の失敗とみなされるた。それはアラブ知識人と支配的な党派との間の同盟が終わりに向かう最初のシグナルでもあった。

アラブ知識人の大多数にとって選択肢はなかった。ナセルとその後裔らが支配する国家からの離脱は、アラブ主義が生き残るための唯一の方法とみなされた。

民族主義者知識人がアラブの政治世界において反対派に加わるのと同時に、国家はポスト-民族主義者の世代に入った。そこではイデオロギー剥き出しの統制と権威主義政策は、政治・経済の限定的開放と取り替えられた、

それまでの「反帝国主義」のスローガンは、西の大国とのいろいろな程度の協調に変えられた。そしてアラブ・イスラエル間の「対立の図式」は、「交渉と平和条約」の方向に切り替えられた。

アラブ民族主義はもはや政権を掌握することなく、アラブ知識人は国家機構から立ち去った。彼らの説教は、ますますイスラム主義者のそれに似るようになった。

(その3 に続く)


2008年6月時点のアメリカ合衆国の債券の発行残高と日本の保有率は次に記載するとおりである。

財務省の長期債券(米国債)発行残高は2兆2106億5900万ドルで、そのうち、日本の保有額は5681億5900万ドルでシェアは25.7%

これはウィキペディアの「対米従属」という項目からの引用。数字の出所は アメリカ合衆国財務省 のペーパーである。

78円をかけると172兆円だ。購入価格は200兆円を越していただろう。おそらくアメリカは返すとは思わないから、これだけふんだくられたことになる。

問題はそれだけの見返りがあるだろうかということ、TPPを考えるときも、そのことを念頭に置かなければならない。

まずはウィキペディア

平成22年度現在、国には18の特別会計がある(5年前には31だった)。

平成22年度の歳出額は約367.1兆円となっている。ただし会計間の重複があり、純計額は約176.4兆円である。更にうち74.2兆円ほどは国債償還費となっている。

ということで真水としては100兆円程度。これでも本予算より大きい。

このうち圧倒的に大きいのが事業特別会計。

平成22年度には13種類の事業特別会計がある。

主なものは、

①保険事業

労働保険特別会計 (労災保険、雇用保険など)、年金特別会計 (各種年金と児童手当など)、農林漁業関係の保険特別会計

②公共事業 

これは社会資本整備事業特別会計として国土交通省が一括管理している。

③行政的事業

食料安定供給特別会計 として農業経営基盤強化、土地改良、米・麦などの食糧管理など

登記特別会計特許特別会計自動車安全特別会計など

もう一つの柱が資金特別会計で、財務省の管轄下に 外国為替資金特別会計財政投融資特別会計が立てられる。

これらとは別に、一般の歳入に組み入れた後、必要額を充当する特別会計がある。

エネルギー対策特別会計 がこれにあたり、原発のつかみ金で有名になったものである。

次に依存症の独り言 というブログからの引用。6年前のものなので多少数字が古い。

特別会計は独自の特定財源を持っている。

例えば、厚生保険特別会計は厚生年金や健康保険、国民年金特別会計は国民年金、労働保険特別会計は雇用保険や労災保険、道路整備特別会計は揮発油税(ガソリン税)や自動車重量税といった具合である。

したがって、財務省も歳出に口出しし難く、査察も形式的にならざるを得ない。また、歳入・歳出の仕組みが複雑で国会などで追及しづらいようにできている。こうして、特別会計が各省庁や族議員の既得権益の温床になるのである。

公共事業関係費について言えば、その2/3を特別会計分が占めている。つまりそれがブラックボックス化しているのだ。

以下垂れ流しの事例を挙げている。その中に「私のしごと館」も入っている。

京都の郊外に建てられたこの建物は、野中広務氏の「ごり押し」で誘致されたと言われている。580億円を掛けて建設され、20億円/年の運営赤字を垂れ流している。


次は阿修羅のページから

日本が自滅する日 殺された石井 紘基 (著)  全文 1-2 究極の“裏帳簿”特別会計


第一章 利権財政の御三家―特別会計、財投、補助金

第二節 究極の“裏帳簿”特別会計

…このうち、とくに公共事業関係の特別会計に問題が多い。国営土地改良事業特別会計、港湾整備特別会計、空港整備特別会計、道路整備特別会計、治水特別会計の五つが代表的である。

図表1-9 特別会計に投入される特定財源

税 目

使 途

揮発油税

道路整備

地方道路税

道路整備

石油ガス税

道路整備

自動車重量税

道路整備(公害補償対策)

航空機燃料税

空港維持・整備

電源開発促進税

電源立地・多様化対策

石油税

石油及びエネルギー 需給構造高度化対策

特別とん税

港湾施設設置市町村の財源

原油等関税

石炭対策

これら九種類の税金は一般会計を素通りして特会に入れられる。

第三節 官制経済を支える“闇予算”財投

 「財投」は「特会」「特殊法人」と不離一体「特別会計」が“裏予算”であり財政の黒幕であるとすれば、「財政投融資計画」はその裏予算を支える“闇予算〟である。

財投の原資となるのは、国民の税金の一部のほか、郵便貯金や簡易保険、さらには厚生・国民年金の積立金などである。

財投は投資・運用(公会計と国家財政法になじまない)であるために決して「予算」とはいわない。

国民が預けた郵便貯金や厚生年金・国民年金の保険料などが、政府の「資金運用部」へ預託される。その「資金運用部」は国債の引き受けに一部を使い、残りのほとんどは「財投」に入ってくる。 年金、郵貯、簡保などのこうした手法での「運用」は無惨な〝失敗”を示している。大失敗は決して「バブル」 のせいなどではない。年金も郵貯も基本的に不良債権化しているのである。請求書は必ず国民に回される。そのとき「知らなかった」では済まないツケなのである。

「自主運用」制度の導入に当たって政府は「市場原理に則した資金調達方式」などと喧伝してきた。いわんとするところは「ダメなものなら引き受け手がつかないから自然淘汰される」というのだ。これは笑えない話である。

 国債買い切りオペ

だぶつき気味の国債が市場で売れず、価格が下落するというのは、いわば国の財政政策に対する「市場の批判」である。財務省が財投を利用して行った買い切りオペは、この市場の批判を封じる意味があった。

買い切りオペによって、国債価格は上昇し、長期金利は下がった。

とても長くて読みきれません。しかしかなり全貌はつかめます。おぼろげながらですが。

凶刃に倒れた石井議員に敬意を表します。

赤旗経済面のコラムで「特別会計」に触れている。

…日本の本予算は80兆円。これに対して特会は300兆から400兆を計上したこともある。
最近は170兆円となっているが、それでも本予算の2倍強である。この特会を合わせた260兆円が本当の予算で、これはアメリカの2兆ドルを上回る。
「特会は公債発行、借金もしたい放題。高速道路や空港、ダム、港湾、原発などの盲流的建設。年金基金の乱用。宿泊所、「しごと館」など各種箱物行政。お手盛りの娯楽設備からタクシーチケットまで、すべて借金まみれで水ぶくれの「別勘定」から出ています」…

なんとも粗雑な文章で、特に後半は何のことやら分からない。財政問題でも、財源議論でも、さほど取り上げてこなかった話題であり、本当にそれだけ重要なのか、にわかには判断しがたい。

少し独自に資料を集めてみよう。(また宿題が貯まる)

ブラジルの第三四半期の経済統計が発表された。GDPは前期比0%となり明らかに失速傾向となった。欧州債務危機の影響といわれる。
外需は前期比1.8%増と伸びているが、伸び率は低下傾向。主力輸出商品の鉄鉱石や大豆の伸び悩みが目立つ。
内需では個人消費が0.1%の減少。ロイターの評価では「ブラジルはここ数年、借金便りの消費が続いており、限界が近づきつつある」とされているから、数字以上に深刻な可能性がある。
財務省は、景気減速は一時的のものと楽観視しているが、世界不況をよそに、昨年7.5%の伸びを記録したブラジル経済も、失速の可能性が強まったと見たほうがよいだろう。
その際危険なのは、高度経済成長を前提として組み立てられた経済が脆さを露呈し、ふたたび債務危機へと移行する可能性である。

世界にとっての問題は、リーマンショック以降の世界経済の牽引車であったBRICsの一角が崩れることである。もしそれが現実となれば、世界経済は底なしの泥沼へ移っていく可能性もある。しばらくブラジルの景気からは目が離せないだろう。

実は同じような話題で、以前にも「更新記録」に書いていた。ブログには転載してなかったのでもう一度載せておく。

2011.4.07
 
震災報道がなければトップニュースになっていたかも知れない記事。「中南米カリブ海の18カ国/貧困層6年で11ポイント減」というタイ トルだ。ちょっと解説が必要だが、ECLACという国連の地域機構が行った調査で、貧困層と極貧層の年次経過を見たもの。表にするとこうなる。
アリシア・バルセナECLAC事務局長/IMFの機関誌「F&D」より

全人口に対する割合

2002年

2008年

減少率

貧困層

44%

33%

25%

極貧層

19%

13%

32%

貧困層+極貧層

63%

46%

27%

バルセナ事務局長は、これについて以下のように説明している。
 02年経済危機の後の年月は、中南米カリブ 諸国にとって繁栄のときだった。1.貧困層が顕著に減り、収入格差はやや縮小した。2.その背景には「経済成長と政府の社会政策の相互作用」があった。 3.90年に貧困層救済のための予算はGDPの12%だったが、08年には18%に増えている。4.労働者保護が推進され、非正規労働者の減少と正規雇用 の増加が進んだ。
これに加え記者の解説にはこうある。
 調査対象国の多くは革新政権で、貧困者対策や就学手当てなどを充実させてきた。

私がこの表から読み取ることは
1.2002年における中南米のすさまじい貧困。人口の2/3が貧困層という数字はただものではない。
2.この貧困をもたらした80年代の「失われた10年」と90年代「絶望の10年」における、先進国のすさまじい収奪。
3.左翼ナショナリズムの「チャベス・モデル」、そして左翼リベラルの新自由主義との決別、その相乗効果がもたらした大成功。
4.対米依存型開発モデルの破綻と影響力喪失。ただしこれは読みすぎかもしれない。
  いっぽうで、メキシコなど対米依存型開発をさらに強化せざるを得ない状況に置かれた国も存在する。また経済制裁下にあるとはいえ、中南米各国の支援を受け たキューバの経済改革の動きも注目される。もちろん日本との比較はできないし、チャベス・モデルを引き写しににすることもできない。しかし、その気になれ ばわずか6年でもこれだけのことができるということは、心にとどめておくべきだろう。
 それにしても2002年という年、中南米の歴史的転換にとって決定的な年のようだ。少し「2002年」をテーマに振り返ってみる必要がありそうだ。

赤旗の山田記者の解説は、ちょっと分かりにくい。
①08年のリーマンショックで、国内経済が冷え込むとともに、海外子会社からの配当金も減少した。
②経団連は08年9月16日に「09年度税制改正に関する提言」を発表した。この中で、海外子会社から受け取る配当金の全額を“益金に算入しない”ことを求めた。
その理由は配当金を「国内成長に結びつける」ためとされる。(この日付はリーマンショックの発生前ではないか?)
③この要請を受けた政府税調は、09年度の税制改正に合わせ、配当金の95%を非課税とする答申を行った。
答申は、「企業が必要な時期に必要な金額だけ戻すことができる」ことは経済の活性化につながるとしている。
そしてその金が設備投資、研究開発、雇用など幅広く多様な分野で、「わが国経済の活力向上のために用いられることが期待される」と述べている。
④これを受けた政府は、09年4月から95%非課税措置を実施にうつした。

というのが経過のようです。
どうも信じられない経過です。提案した経団連も、受けた政府税調も本気で経済活性化に結びつくと思っていたのでしょうか。片方で膨大な内部留保の積み上げを見ながら、見てみぬふりをしたのでしょうか。日銀の白川総裁が、企業はずぶずぶの金余りになっていると報告したのを聞かなかったのでしょうか。

財務省の国際収支状況によると、10年度の海外子会社からのもうけは3兆1300億円だ。
正確に言うと、日本に籍をおく企業が海外企業に投資し、その配当として受け取った金額の総計である。
今年はタイの水害などあるものの9月までですでに2兆7千億、記録更新は間違いなさそう。
赤旗の作成したグラフでは、01年におよそ1兆円だから、10年間で3倍化したことになる。
しかもこの金は、まるまる儲けとなって企業の懐に入る仕掛けになっている。その仕掛けというのは09年度税制改正である。この改正で海外子会社からの配当金の95%が非課税となったことである。


この税制改正は非常に分かりにくい。説明を読んでも何のための改正かが分からない。
私の感想としては、
①受け取る企業側から見れば、これは収益ではなく、純利益であり、税金がかからないことは不当と言わざるを得ない。税の校正の観点から見て著しく逸脱している。
②配当といえば不労所得のようなもので、高い税率がかけられて当然と思う。少なくとも5%というただ同然の税率が許されるとは思えない。
③自らの無知を承知で言えば、そもそも海外子会社からは、配当以前に利益の一部が還元しているのではないか? そうでないと一般の株主と同じことになってしまう。
海外進出企業は、一般投資家の投資リスクとは別に経営リスクを背負っているはずだ。当然それに見合うリターンがあるべきだ。それについては一定の配慮があっても良いのかも知れない。
④海外投資からの配当に対して減税するということは、資金の海外流出を奨励する措置ではないか。空洞化を抑制しようとする国策とはマギャクの方向ではないか。




テレビ桟敷でブロムステット指揮NHK交響楽団のブルックナー交響曲第7番を堪能した。かみさんはしかめっ面しているが、構うことはない大音響だ。
玄人は8番、9番だろうが、私ごときには4番と7番で十分である。いい演奏だった。ベームとウィーンフィル以来である。
それにしても客席ががらがらだ。いったいどうしたんだろう。この組み合わせで空席など考えられない、と思って調べた。
台風の襲来日だった。しかも並みの台風ではない。テレビでは大騒ぎだった。翌日も同じプログラムで公演が行われて、この日は満員だったそうだ。
しかし考えてみると録音には良かったのかもしれない。ただでさえ良く響くサントリーホールがこれだけ客が少なければ、残響は普段の2割り増しくらいになるかもしれない。観客は「死んでもいい」と決意してきた人ばかりだから、乗りも違う。
さすがに演奏が終わると、そそくさと席を立つ人も目立ったが、残った人の拍手は楽団員が消えてもまだ鳴り響いていた。これはCD化する値打ちのある演奏だったのではないか。(最もこの曲は誰がやってもそこそこ鳴るので"名演奏"は星の数ほどある)
三楽章のトランペットとワグナーチューバがちょっと危うかったのと、4楽章のホルンが1箇所音をはずした以外は、気がつかなかった。

今日の赤旗国際面で、二つの国の左翼の動きが報道されている。
     
まずイタリア
共産主義再建党が第8回党大会を開催。幅広い左派勢力の連合を呼びかける決議案を賛成多数で採択。パオロ・フェレーロを書記長に再選した。フェレーロは「モンティ政権が緊縮政策を強行するなら、ゼネストで応えよう」と訴えた。

次いで韓国
来年の総選挙に向け、左派三党が「統合進歩党」を発足させた。昨年6月の地方選での合計得票率は14%で、台風の目となる可能性がある。
新党の中心となる民主労働党は08年に分裂する中で10から5議席に後退。今年1月から他の左派政党等とのあいだで統合を模索してきた。

両党ともに、ここ数年は内部分裂から停滞を繰り返し、民衆の期待を裏切ってきた。とくに韓国の場合は北との関係が背景にあるだけに、再建はむずかしいと思っていた。
それが、どのようにして統合が可能となったのか、少し勉強して見たい。

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