鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

13年4月、ぷらら・Broachより移行しました。 中身が雑多なので、カテゴリー(サイドバー)から入ることをおすめします。 過去記事の一覧表はhttp://www10.plala.or.jp/shosuzki/blogtable001.htm ホームページは http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」です。

2011年12月

11月1日

11.01 カダル第一書記、ハンガリー社会主義労働者党結成のための準備委員会メンバーを発表。

11.01 カダール、アンドロポフと会見。そのままモスクワに飛ぶ。

11.01 ナジ首相、ソ連大使アンドロポフと会見。ソ連軍の即時撤退に関する交渉を開始したいとのハンガリー政府の意向を伝える。またソ連軍の不穏な動きについて説明を求める。アンドロポフは侵攻を否定した。

11.01 午後4時 閣議が開催される。ソ連介入の国際法上の根拠を封じるため、ワルシャワ条約からの脱退と、ハンガリーの中立国化を決定。ハマーショルド国連事務総長に通告した。この決定はカダル第一書記の了承を得ていたとされる。(時間経過から見て、これはソ連軍介入の根拠にはなっていない)

11.01 フルシチョフ、中国に戻る劉少奇代表団を空港まで送り、車中でソ連の決断を説明する。

11.01 フルシチョフ、マレンコフ、モロトフらからなるソ連共産党代表団、ポーランドとの国境の町ブレストに飛び、ゴムウカと会談。軍事制圧作戦の了解を求める。

11.01 フルシチョフとマレンコフは、ルーマニアの首都ブカレストに飛ぶ。ルーマニア首脳とブカレストに滞在していたチェコのノヴォトニ第一書記から了解を取り付ける。これらの国は、民主化の自国への波及とハンガリーのファシストの復活を恐れていた。

11.01 CIAの運営する自由ヨーロッパ放送、さらなる暴動を扇動し、西側の支援が間近に迫っていると励まし、ソ連軍との戦い方についての戦術指導を与える。(アイゼンハワーはすでに不介入を決めていたので、これは無責任な煽り行為)

 

11月2日

11.02 ナジ政権の改造新内閣が発足。共産主義者は閣内少数派に転落する。

11.02 ソ連軍の撤退とリンチの応酬の終息により、ブダペスト市内の平穏化は進み、店舗営業も再開されはじめる。

11.02 フルシチョフ、ブルガリアに飛ぶ。ブルガリアと指導部と会談。

11.02 クレムリンでソ連共産党政治局会議が開かれる。

チトーとの会談のため不在のフルシチョフに代わり、ブルガーニンが議長を務める。
ハンガリー後継者をめぐり議論となる。ハンガリーの事情に詳しいミコヤンとスースロフがカダールを推したのに対し、反フルシチョフ派のカガノヴィッチ、モロトフ、ノヴォシロフは、ミュニッヒを擁立すべきと主張する。

11.02 午後7時、フルシチョフ、ユーゴのブリオニ島に到着。ブリオニ島はアドリア海に浮かぶ小島で、チトーの静養地。

11.02 フルシチョフ、マレンコフとチトーがハンガリー情勢について協議。会談は3日早朝まで及ぶ。

ソ連側はナジに代えてミュニッヒを首班とする臨時政府構想を提示した。ティトーは「現在ハンガリーで誠実なものを代表しているのはカダルである」と述べ、カーダールを首班とする労農臨時政府の樹立を主張した。

 

11月3日

11.03 ソ連共産党政治局会議が再開される。午後にモスクワに戻ったフルシチョフはすぐに会議に加わり、チトーとの会談内容を報告。これによりカダル擁立が決まる。介入作戦の本部長にはマレンコフが指名される。

11.03 ナジ政府、ソ連軍撤退問題についてソ連側と交渉開始。パル・マレーテル国防相がブダペスト近郊テケルのソ連軍司令部に赴く。

11.03 午後9時30分 ソ連軍のブダペスト包囲が完了。ハンガリー東部はソ連軍の制圧下に入る。

11.03 午後12時 ソ連軍、パル・マレーテル国防相ら代表団を拘束。

 

11月4日 第二次介入

午前3時 戦車および機械化師団などソ連軍21個師団が市内に突入。戦車2500両、装甲車1000両、歩兵15万人の大部隊。(最近の開示文書によれば、実際は31,550人、戦車は1,130台だった)

午前4時 ラジオで、「革命労農政府が樹立され、反撃を開始した」との声明が流される。

午前4時25分 ソ連軍、ドナウ川を渡りブダ中心部に入り戦闘を開始。ゲリラを対象とする市街戦を想定した虱潰しの無差別破壊作戦をとる。ハンガリー軍部隊は抗戦体制に入る。

午前5時20分 ナジが最後の演説。放送時間は35秒。「我が軍は戦っている。政府は存在している」と述べる。

午前6時 カダール、モスクワから首都東南100キロのソルノーク空港に到着。革命労農政府樹立を発表。「反革命分子の暴行をやめさせなければならない」とうったえ、新政府への協力を呼びかける。その後ソ連の戦車に乗って、ブダペストに入る。

午前8時 市民の防衛組織は街頭から消失。一斉に地下に潜る。

11.04 ナジ・イムレはユーゴ大使館に避難。ミンズセンティ枢機卿はアメリカ大使館に避難。

11.04 ブダペスト郊外のレアーニィファルにある社会主義労働者党の幹部用保養施設に、ソ連共産党の最高司令部が設置された。マレンコフ政治局員が最高司令官となり、中央委員会書記のスースロフとアリストフが側近として配置された。ソ連共産党の意向はこの本部からカダールに伝えられた。

(ほとんどの文献で、このあとの数日は空白になっている)

11.07 市内の抵抗は“Pockets of resistance”を残すのみとなる。

11.08 カダルが革命労農政府首相兼社会主義労働者党第一書記となる。

11.10 市の南部労働者地区で抵抗を続けた労働者評議会や学生・知識人たちが、占領軍と直接交渉により休戦に応じる。

11.10 ソ連共産党政治局、ナジ・グループの存続をいかなる形でも許さない方針を決める。

カーダールは①ナジ・イムレが首相辞任と政府消滅を認めれば国外亡命を容認する、②グループから新政府の協力者を受け入れる、という線で考えていたとされる。ユーゴスラヴィア政府もカダール路線での解決を望んでいた。

11.11 チトーの演説。「スターリン主義者の支配に対する正当な反逆が、ナジ政権の無能と不決断、反動勢力による主導権掌握により反社会主義的・反ソ的な運動に転化したため、再度の介入が不可避になった」と述べ、ソ連の軍事介入を支持する。

11.16 ソ連共産党、ナジ・グループをユーゴに亡命させずに粛清する方針をカーダールに伝える。

11.16 ハンガリー学生同盟内に勤労青年同盟系の活動家がなだれ込み、主導権を掌握する。

11.22 ユーゴ大使館に逃げ込んだナジ・イムレは、ソ連の策略によって大使館を出たところをら致される。他のナジ・グループ員も軍事学校内のKGB本部へ連行され、そこからルーマニアへ移送された。

 

56年12月

12.02 社会主義労働者党、ラーコシとゲレーの「教条主義」とともに、ナジの「修正主義」を非難。カダールは事前にレアーニィファルの占領本部で報告内容の概要を提示し、マレンコフの了承を取り付けたとされる。

カダール報告: 「動乱」を三期に分ける。
第一期(10月23日から30日まで)は「反革命分子が現状の不満を訴える労働者大衆の正当な要求を、自らの目的のために利用しようとした時期」 
第二期(10月31日から11月4日まで)は反革命が勢いづいた時期で、共産党組織、国家保安局、警察が襲撃され、多数が殺害された。
第三期(11月4日以後)は、反革命を鎮圧する時期。

12.02 暫定中央委員会総会の決議。「事件の中で立ち上がった大衆の圧倒的多数は、その目的、意図、感情の点で反革命ではなかった。しかし武装蜂起の基本性格は反革命であった」と事件の性格を規定する。党員数は80万人から10万人に激減。

12月 マレンコフの占領本部が撤収。アンドロポフ大使を頂点とする現地スタッフに委ねられる。

 

1957年

57年1月

1.17 Nepszabadsag 紙、中央統計局の犠牲者推計を掲載。

犠牲者推計: ブダペスト市街の戦闘で死亡した市民は1969名、各種医療施設に運ばれた負傷者は17000名に上る。また、地方の犠牲者は300名に及ぶ。さらに、ハンガリーの軍・警察の犠牲者は423名に上り、このうち内務省管轄組織の犠牲者が155名で、そのほとんどが保安局に属する者である。
ソ連軍の被害も大きく、669名の死亡、51名の行方不明、1986名の負傷者で、ソ連軍の死亡者のほとんどはブダペスト第8区および第9区における市街戦での犠牲者である

1月 カダールが新政府を組織

1月 フルシチョフはハンガリー、ブルガリア、ルーマニア、チェコスロバキアとの5ヵ国共産党会議を開催。周恩来とのモスクワ会談にカーダールを呼んで三者会談。

1月 中国共産党代表団がハンガリーを訪問し、「反革命」にたいする国際的連帯を謳う。

 

3月 カダール、モスクワを訪問しソ連共産党・政府との協議をおこなう。ソ連はカダールに信任を与え、ラーコシ一派のハンガリー帰還を認めないと決定。

57年半ば 武力抵抗は終わる。ウィキペディアによれば、ハンガリー側では死者が17000人に上り、ソビエト側も1900人の犠牲者を出した。国連の「ハンガリー問題報告」では戦闘による死者3千人とされる。

57年半ば 動乱勃発時からオーストリア国境が開放され、20万人が国外亡命した。

6.17 マレンコフ、ブルガーニンらがモロトフら旧スターリン派と結託、ソ連共産党政治局会議でフルシチョフ解任決議を提案する。政治局員の多数がこれに賛成する中、ミコヤン、スースロフ、キリチェンコが反対し、議決権をもたないブレジネフとジュコフも反対に回った。

7.04 ソ連共産党中央委員会、マレンコフ、モロトフ、カガノヴィッチを除名し、ヴォロシロフとブルガーニンを政治局員から格下げする。

8.21 社会主義労働者党政治局、ナジ・グループに対する処罰を決定。「ナジ、ロションツィ、ドナート、ギメシュ、マリーテル、スィラージ、キライには最も重い刑を科し、その他の者については罪状と改悛に応じて罰する」決議を採択。

12.21 社会主義労働者党の中央委員会が開かれる。内務省に登録されている反革命分子リストには120万人が記載されていることが報告された。カーダールは20万人まで削減するよう指示する。

 

1958年

2.05 ナジ・グループ裁判が開始される。翌日、訴追準備の不足という理由で裁判が中止される。

2.26 学生同盟、農村青年組織などが勤労青年同盟を改組した共産青年同盟に一本化される。

5月末 カダール、政治局会議で裁判再開を決定した。

6.15 最高裁判決、ナジのほかマレーテル国務相、ミクローシュ・ギメシ(ジャーナリスト)に死刑宣告がくだる。シャーンドル・コパーチ警察長官らに12~15年の刑が宣告される。ティルディは懲役6年の判決。

6.16 ナジが絞首刑に処せられる。

6.17 ナジ・イムレの処刑発表される。

11.16 動乱後初の総選挙

 

1959年

59年末 ここまでに200余名の動乱参加者が死刑判決を受け、即刻処刑された。他にも動乱参加者の逮捕・起訴が相次いだ。

1962年

8.19 ラーコシとゲレーを党から除名。

11.20 社会主義労働者党第八回大会開催。社会主義の基礎建設完了を宣言。

1963年

4.22 宥和特赦令が発布される。56年動乱参加者4千名に対する大赦。

 

82年6月 「56年6月協議会」の25周年記念シンポでベレツ・ヤーノシュ党書記がハンガリー事件に関する報告。多くの新事実が明らかにされる。

1989年2月 ハンガリー社会主義労働者党が総括文書「四十年間に関する報告」を発表。動乱の評価を修正。「ナジはハンガリー史において重要な人物であり、国家救済のために闘い、スターリン主義を抑え、不正を許さず反革命と闘った。彼は道筋は誤ったが、民主的複数政党制を認める社会主義の道と一体化した」とする。

1989年3月 ナジの遺体発掘と再埋葬。

 

 

1956年

56年2月

2.14 ソ連共産党第20回大会。秘密会議でフルシチョフがスターリン批判演説。

2月 ラーコシ第一書記、ハンガリー勤労者党代表として大会参加。

56年3月

3.17 勤労党内のペテーフィ・サークルが最初の集会開催。当初は文学・芸術クラブだったが、スターリン批判後、ナジの復職などを要求する拠点的役割を担う。ペティーフィは1848年革命の英雄。

3.27 ラーコシ書記長、ラィク・ラースロー元外相の裁判は「挑発」であったと認める。

56年4月

4.17 コミンフォルム解散

56年5月

5.18 ハンガリー勤労者党ブダペスト市委員会活動者会議でラーコシが演説。そのなかで個人崇拝に彼自身も責任の一端があることを初めて認める。

56年6月

6.07 ソ連共産党幹部会員ミハイル・スースロフがハンガリー訪問。

6.26 トリアッティがイタリア共産党中央委員会総会でスターリン批判に関する報告。スターリンによる党と国家の「官僚主義化」が、1928年の第1次5ヶ年計画期に発生したと指摘。「プロレタリア独裁の再検討」を求める。

6.28 ポーランドのポズナニ市ジスポ工場で発生したノルマ増加反対のストが、市民全体をまきこむ抗議運動に発展。治安当局との市街戦が始まる。数十人の死者を出すが、ポーランド統一労働者党の改革派が結集し、事態を終息させる。

6.30 党機関紙に公然たる指導部批判が掲載される。作家協会と学生組織はラコシの解任と逮捕をもとめる。中央委員会はペトフィ・サークルを解散させ、知識人を党から追放。

6月 ソ連とユーゴが関係修復に動く。チトーがモスクワを訪問。

56年7月

7.17 ポズナニ事件に危機感を抱いたソ連指導部は、アナスタス・ミコヤン幹部会員をブダペストに派遣、ラーコシの解任に動く。

7.18 勤労者党中央委員会総会、ラーコシを第一書記から解任する。しかし後任にはラーコシの腹心で第二書記のゲレー・エルネー(Gerő)が昇格。

(ウィキペディアによれば、ミコヤンはラーコシに対し、「病気の治療のため」という名目で、ソ連への出国を命じた。彼は余生をキルギス共和国で過ごした)

56年10月

10.04 ナジ・イムレ、勤労者党中央委員会に手紙を書き、復党を要請する。

10.06 ライク・ラースローおよびその他の共産党指導者の葬儀。30万人の市民が参列する。

10.13 ナジ・イムレが復党をはたす。

10.15 ゲレー第一書記を団長とするハンガリー勤労者党代表団がユーゴスラビア訪問。チトーと会談をおこなう。

10.16 セゲド市(ハンガリー第二の都市)で大学生同盟(MEFESZ)を再建。反共右翼学生の拠点となる。

10.19 ポーランドで権力の交代。長らく獄中にあった改革派のゴムルカを党第一書記に任命する。

10.21 ポーランド統一労働者党中央委員会総会、ゴムウカを第一書記に選出する。ポズナニ暴動は反革命的暴動ではなく、勤労者の正当な不満の表明と宣言

10.22 ブダペストの工科大学で学生集会が開かれる。ソ連軍の撤退、ナジ・イムレの首相への任命、複数政党参加の総選挙、言論と出版の自由、政治囚の釈放など16項目の要求を採択。

10.22 プダペスト工科大学と建築大学の無党派学生が、23日にポーランドとの連帯デモを行うと発表。

10月23日

10.23 午後 約2万の群衆がベム広場に集まる。作家組合の議長ペーテル・ヴェレスが、ポーランドとの連帯を訴える「宣言」を読み上げる。次いでハンガリー国旗から共産党をかたどった真ん中の紋章部分が切り取られる。

(一説では参加者約20万人とされるが、ここでは英語版ウィキペディアにしたがう)

(ベレツ・ヤーノシュによれば、集会では国旗から紋章が切り取られ、赤旗を掲げることが禁止される)

10.23 午後 群衆はデモ行進を開始。ドナウ川を渡り国会議事堂を包囲する集会に合流する。

(日本語ウィキペディアでは、“ゲレーの退陣を求めて学生たちがブダペストをデモ行進し、多数の労働者もそれに加わった”とある)

10.23 午後6時 国会議事堂を取り囲む群衆は2万人以上に膨れ上がる。スローガンは自由選挙、民族独立、そしてナジ復帰であった。

午後8時 ゲレのラジオ演説。民衆の政治要求を全面的に拒否し、デモ隊を「挑発者」と罵倒する。

午後9時30分 群衆の一部はブダペスト放送局に集結。市民の要求を放送するよう求める。放送局を守るAVH兵士は群衆に無差別発砲。死傷者が多数出る。

AVH兵支援に送られた兵士は群衆につく。軍の兵器庫から銃が奪われ民衆に手渡される。事態はハンガリー軍の一部を巻き込む市街戦に進展する。

午後9時30分 群衆の一部はスターリンの銅像(9メートル)を取り壊し始める。

10.23夜 (フォーミンによると、ヘゲドゥシュ首相がアンドロポフ大使にソ連軍出動を要請。1時間半後にソ連国防相から駐留軍のレシェンコ司令官に出動命令がくだされる)

10.23深夜 ゲレは勤労者党中央委員会総会を緊急招集する。ナジ・イムレを首相職に復職させるいっぽう、ソ連軍介入を要請する決定。「アメとムチ」で事態収拾をねらう。ヘゲドゥシュ首相は副首相に横滑りする。

10.23深夜 ナジ、ソ連の軍事介入を要請する文書への署名を拒否。これに代わりヘゲドゥシュ副首相が署名する。

10月24日

午前2時 ソ連軍の第一次介入が始まる。ソ連軍戦車がブダペスト市内に侵入する。歩兵なし戦車隊のみの行動で、本来は威嚇目的の作戦と思われる。

正午 ソ連軍戦車が議事堂周囲に配備される。武装した民衆は放送局を占拠。街頭にバリケードを構築して対抗。ソ連軍戦車数台を鹵獲する。一説によれば、一定数のソ連軍戦車がハンガリー民衆側に寝返り、ハンガリー治安当局との戦闘に加わったといわれる。

10.24午後 市内各所でソ連軍戦車隊との戦闘が始まる。ハンガリー軍は中立を宣言、一部は民衆側に合流した。ソ連軍は、市内の建物を無差別砲撃する戦術をとり、民衆側はゲリラ戦術で応戦。

10.24 アンドロポフの要請を受けたイムレ・ナジが群衆に向けた演説。政治改革の開始を宣言し、暴力の終了を呼びかける。

10.24 群衆が刑務所を襲い、Mindszenty 枢機卿らを解放。秘密警察要員にリンチを加える。

10.24 学生は多くの政府関係施設や区域を占拠し、自分たちで決めた政策や方針を実施しはじめた。多くの工場に「労働者評議会」が結成されてゼネスト状態に入った。

10.24 ユーゴスラビア、ソ連の軍事介入を厳しく批判する声明を発表。

10.24 ソ連共産党政治局、ポーランドとハンガリーの政治状況について議論。モロトフは軍事介入を主張。フルシチョフとジューコフ元帥は自体を思想闘争と見るべきではないとして、干渉に反対。政治局はミコヤンとスースロフを再度ブダペストに派遣することで合意。

10.24 ブダペストのソビエト軍は戦闘を停止した。


10月25日

「人の数ほど多様な56年が存在する」と、56年動乱で死刑判決を受けたグンツ元大統領は語っている。10月25日はその典型である。

25日 国会前広場の集会に約700人が集まった。周囲のビル屋上のAVH兵士は群衆に向け発砲。広場は血の海と化し約100人が死亡、約300人が負傷した。ソ連軍は動かず、一部はAVHに銃口を向ける。

25日 ウィキペディアによれば、最も激しい戦闘はコルビン劇場のあるコルビン広場で起こった。(民衆は火炎瓶を用いてソビエト軍部隊に抵抗したとあるが、ソ連軍は戦闘を停止していたのではないか)

10.25 József Dudás の率いる民兵隊400人がソ連支持者やAVH要員への襲撃・殺害行動を開始する。その後の1週間で少なくとも労働者党員213人が殺される。

10.25 全国各地に革命評議会が設立される。27日までにすべての地方政府の権能を掌握。

10.25 労働者・下部党員は、各工場内に「労働者評議会」を結成。工場幹部を放逐して自主管理を宣言した。

10.25夜 全国レベルの労働者評議会と国民評議会が組織され、ゼネストを呼びかけた。(ウィキペディアによると、大衆はワルシャワ条約機構からの脱退をナジ政府に迫った)

10.25 ハンガリー勤労者党中央委貝会総会、ナジ・イムレを首相に選出。ナジは戒厳令を取り下げ、AVHの解体を指示。教会の名士たちを含む多くの政治囚たちを釈放する。

10.25 ナジがラジオ演説。「まもなく国民議会を招集する。この議会で私は包括的な、根拠のある改革プログラムを明らかにする」と述べる。(レオニードフ論文によると、ナジはこの時点で、「武力行動を革命と認めよ」との要請を拒否したとされる)


10月26日

10.26 ハンガリー勤労者党中央委員会総会、ゲレーを第一書記から解任。新第一書記にカダル・ヤーノシュを選出。Gerő とAndrás Hegedüs 前首相はソ連大使アンドロポフの指示を受け、ソ連に向け飛び立つ。

10.26 労働者評議会はゼネストに突入。労働者評議会の要求はソ連軍の撤退、党の経済問題への干渉排除、ワルシャワ条約の再交渉であった。

10.26 ナジ首相、ファシスト(矢十字党)を除外したすべての旧党派(小地主党・農民党など)員を入閣させ「民族戦線政府」を結成すると発表。同時にソ連軍の撤退を要請する。

 

10月27日

10.27 ナジが組閣を終え演説。「広範な民主的大衆運動」を訴える。政府閣僚には数名の非党員がふくまれる。またAVHの解体、単一政党制の破棄を提案する。

10.27夜 (ウィキペディアによると、ミコヤンとナジとの会談が行われ、その結果ソビエト軍の撤退が宣言された=ミコヤン報告)。

 

10月28日

10.28 ハンガリー勤労者党中央委員会が声明を発表。これまでの政治局と書記局を解散し、6名から成る幹部会に党指導を委任。

10.28 民族戦線政府が結成される。ハンガリーは事実上、複数政党制に復帰

10.28 ナジは全党派に停戦命令を発する。蜂起を民族民主運動と規定、評議会を合法的なものと認める。反徒への大赦、ハンガリー旧国章の復活、AVO解散、蜂起参加者をふくむ新たな軍と警察の設立を発表する。

10.28 一説によれば、“ポーランドの「ゴムルカ」的役割を期待していたソ連は、この複数政党化時に、ナジを見放しはじめた”とされる。勤労党が少数野党化することは目に見えていたからである。(今となっては憶測にすぎないことが明らかである。そもそもナジが複数政党制そのものについて言及したのは30日ではないか)


 10月29日

10.29 (ウィキペディアによると、この日警察、軍隊、市民による国民防衛隊が結成された)

10.29 ハンガリー全国の代表がナジに面会を求め、さらなる自由化を訴える。(これが労働評議会との正規の会見であれば、重要な情報だが…)

10.29 スエズ動乱がはじまる。イギリス・イスラエル・フランス軍がエジプト領内に武力侵攻。

10.29 (鹿島正裕『ハンガリー現代史』ではこの日、ソ連指導部、第二次介入とナジ政権の打倒を決定とあるが、誤りであることが実証されている)

 

10月30日

30日午前9時頃 ベム広場の学生が共産党系活動家に対し集団リンチを開始。

10.30 暴徒が党のブダペスト市委員会を襲撃。(ウィキペディアによると、建物から出る武器を持たない秘密警察隊員らが次々と民衆により射殺された。その後も命乞いをしながら出てくる秘密警察隊員や勤労者党書記らがリンチされた挙句、遺体が街路樹に晒し者にされる事態になった)

10.30 勤労者党幹部会は勤労者党の解散と社会主義労働党への再編、および複数政党の復活を全会一致で決定。地方評議会の活動を公式に承認。ナジ政府はこれを「自治的・民主的な地方組織」として政府への支援を求める。

ナジ・イムレの国民向け演説: ハンガリーの兄弟の皆さん、愛国者の皆さん、祖国に忠実な市民の皆さん。革命の成果を擁護しようではないか。全力を上げて秩序を守り、平静を取り戻そう。我が祖国でこれ以上の内乱が続かないようにしようではないか。 

10.30 政府は公式に一党制を否定する。民族戦線政府に参加した諸党派を公認。

10.30 ソ連共産党政治局、ハンガリー新政府を除去しないことを決定。ジューコフ元帥は、「我々はブダペストから引き揚げるべきだ。必要ならばハンガリー全土から」と述べる。

10.30 ソ連政府が声明を発表。

ソ連と他の社会主義国間の友好・協力を発展・強化するための宣言: 社会主義諸国間に存在していたかつての誤りや一面性を認めるとともに、ハンガリー大衆の運動の中には正当な要求があることを認める。
「ソ連政府はハンガリー人民共和国政府やその他のワルシャワ条約加盟国と、ハンガリー領内のソ連軍駐留問題について話し合う用意がある」とする一方、反革命勢力がこれらの要求に乗じて反革命を進めていると警告。反革命との断絶を呼びかける。(公式発表は31日か)

10.30 ソ連共産党のミコヤンとスースロフかブダペスト再訪。ソ連政府声明を伝達。ナジは中立政策は長期の目標であること、この問題に関してはクレムリン指導者との議論を行いたいと述べる。(ただし学生や一部評議会指導者はワルシャワ条約からの即時離脱を主張していた)

10.30 ミコヤンはナジとの会談を経て、ハンガリー軍に統制を任せるべきとモスクワに報告。これを受けて、ソビエト軍撤退が開始された

10.30 ソ連軍のブダペスト撤退がはじまる。市内を撤収したソ連軍は、郊外の空港・ハンガリー軍基地を包囲する体制に入る。

10.30 ユーゴのチトー、ナジ政権が複数政党制を容認し、コシュート紋章(ハンガリー王国の紋章)の使用を許可したことを厳しく非難。複数政党制はユーゴスラビア体制の否定をも意味し、コシュート紋章は大ハンガリーの野望とも結びついているためとされる。

10.30 劉少奇を団長とする中国代表団がモスクワを訪問。ハンガリー問題について意見を交わす。劉少奇は「反革命が事態を支配している」とし、より断固とした行動をとることを求める。

 

10月31日

10.31 ソ連政府の声明がプラウダ紙に掲載される。アレン・ダレスCIA長官はこれを「ミラクル」と呼んだ。

10.31 ブダペスト滞在のミコヤンらは、反ソビエト活動の活発化をモスクワに報告。

10.31 フルシチョフはチトー大統領との会談で軍事介入の可能性に言及。

10.31 ソ連共産党幹部会、前日までの不介入方針を変更し、第2回目の軍事介入に踏み切る。

解禁文書による会議の経過http://www.gwu.edu/~nsarchiv/NSAEBB/NSAEBB76/doc6.pdf: フルシチョフは「過日(28日)の結論は再検討されなければならない。ソ連軍はハンガリーからもブダペストからも撤退してはならない。逆にソ連はハンガリーの秩序回復のイニシアチブをとるべきである」と語った。
彼はその理由としてハンガリー共産党政府の弱体をあげたが、むしろその論点は、ソ連帝国の名誉を守ることに置かれていた。「今日はエジプト、そして次はハンガリーだ」
奇妙なことに、彼は正常化過程にナジを含める可能性も否定しなかった。採決で侵攻案に反対したのはサブロフ副首相のみであった。(ミコヤンとスースロフはブダペスト滞在中)

10.31 ソ連軍は、ブダペスト再攻撃に向け移動を開始。ソ連本国の大増援部隊が東ハンガリーに結集しはじめる。

10.31 回顧録によれば、ハンガリーから戻って真相を知ったミコヤンは、フルシチョフの自宅に押しかけて、自らの自殺をほのめかして派兵の撤回を求めたという。

10.31 ナジ、ソ連軍の機甲師団が国境を越えたことを知る。

ハンガリー事件年表

1945年

2月 第二次大戦で枢軸側についたハンガリーの敗北。ハンガリーはソ連の占領下に置かれる。

2月 ソ連占領直後の政府指導者は親ナチス派のダールノキ・ミクローシュ・ベーラだった。治安警察は親ナチス派のホルティ・ミクローシュ以下のメンバーがそのまま残存した。

2月 ソ連に亡命していたラーコシ・マーチャーシュがハンガリー共産党の書記長に選出される。「スターリンの最も優秀なハンガリーの弟子」を自称する。

9月 「解放」後最初の国政選挙。独立小農業者党が大勝しティルディ・ゾルタンが首相となった。(マジャール語では日本語と同じく人名の最初が苗字、後が名前)

1946年

2月 ハンガリー共和国が樹立される。ティルディが大統領に選出される。ティルディの後任の首相はフェレンツ・ナジが務める。

46年 通貨のペンゲーが暴落してハイパーインフレーションがおこる。

1947年

47年 パリ条約。ハンガリーはソ連、チェコスロバキア、ユーゴスラビアに対して30億ドルの戦争賠償を払う義務を負わされ、さらに赤軍の駐屯費も負担することとなった。これは、当時の国内総生産の2割程度に相当する。

47年 マーシャル・プランが導入される。ポーランドとチェコの共産党政権は加入を検討。

9月 スターリン、東欧の漸進的改革を放棄しコミンフォルムを創建。東欧諸国の直接支配を強化する。

10月 ソ連軍を後盾とする共産党がクーデター。ラーコシの率いるハンガリー共産党が全権を握る。小農業者党のディンニェーシュ・ラヨシュが首相の座に留まる。

47年 ハンガリーの非共産主義政治家、新たな連合政権に協力するか国外に亡命するかの選択を迫られる。

1948年

6月 ハンガリー共産党は社会民主党を吸収してハンガリー勤労者党(Magyar Dologozok Part)となる。小農業者党は、勤労者党の率いる人民解放戦線に吸収された。

12月 カトリック教会の国内最高位 Jozsef Mindszenty 枢機卿が逮捕され、終身刑を言い渡される。

48年 「社会主義への独自の道」を主張するユーゴがコミンフォルムから除名される。

1949年

5月 現職の外務大臣で共産党政治局員のライク・ラースローが、スパイ容疑で逮捕される。ライクはチトーと同じく「独自の道」を提唱していた。

8.10 新憲法が公布され、国名をハンガリー人民共和国と改める。

10月 ライク・ラースローが処刑される。

12月 労働者の99%が国家公務員となる。農村では強制集団化、農産物の強制供出が進められた。

49年 国家警察(AVO)がハンガリー国家保安局(AVH)と改称。7千人以上を捕らえ、見せ物裁判(Koncepcios per)にかけた。対抗勢力をサラミを薄切りするように徐々に抹殺していく、「サラミ戦術」と呼ばれる。

49年 ソ連との間に経済相互援助協定が締結される。ソ連はハンガリーに恒久的基地を配置する。

1950年

50年 粛清の嵐が吹きすさぶ。社会民主党出身のサカシッチ最高幹部会議長の逮捕(1950年4月)、リース法務大臣の虐殺(1950年9月)、保安警察幹部のスーチ兄弟の虐殺(1950年10月)が続いた。

1951年

4.21 党政治局員および内務大臣カダール、スパイ容疑で逮捕される。カダールは清廉潔白な身ではなく、ライク処刑や社会民主党幹部処刑においてはみずからも重要な役割を担ったといわれる。

1952年

8月 ラーコシ書記長、ハンガリー首相を兼任することとなる。

1953年

3.05 ソ連共産党書記長スターリンが死去。

3.14 ソ連共産党、首相にマレンコフ、第一書記にフルシチョフを選出する。


6.13 モスクワでハンガリー勤労者党とソ連共産党政治局の会談。ソ連側参加者はマレンコフ、モロトフ、フルシチョフ、ミコヤン、カガノビッチ、ベリヤだった。

6月 会談の席上、ベリヤ第一副首相はユダヤ人をハンガリーの最高指導者にすえたとラコシを叱責した。そしてラコシが「ハンガリーのユダヤ王」になろうとしていると非難した。そして労働環境の改善や言論の自由を要求。ナジを首相に指名するよう促した(人種差別発言のように聞こえるが、実際、党の中心幹部はラコシを含めユダヤ人で固められていたのである)

6.15 ソ連、ユーゴスラビアと外交関係を復活。

6.17 東ベルリン暴動が発生。これに危機感を抱いたソ連共産党指導部は事件の責任者としてベリヤを追放。東欧諸国のスターリニスト体制の調整に乗り出す。

6.27 ハンガリー勤労者党中央委員会総会。勤労人民の利益を無視した行き過ぎた工業化と、農業の強制集団化の誤りを指摘する。さらに集団指導の欠如と個人崇拝の責任がラーコシらにあると名指しで非難。新首相にナジ・イムレを選出する。しかしラーコシは第一書記に留任することに成功。

ウィキペディアによれば、ラーコシらはみずからの誤りが暴露されないよう画策した。その結果、総会決議は公表されなかった。

7.04 国会でナジが首相に選出される。ナジはまず政治犯を釈放。一方でラコシがテロを支配手段としていたと攻撃、この発言は党機関紙で発表された。

7月 ナジによる「新路線」がスタート。農業集団化は過度の重工業化を中止、軽工業・食品工業への重点移行などを打ち出す。

12月 集団農場の農民は半分に減少。しかし農業生産は激減する。ラーコシ派党官僚のサボタージュによるものとされる。

1954年 

5.22 ハンガリーとユーゴスラビアのあいだに通商関係復活。

5.24 ハンガリー勤労者党第3回大会。第一書記にラーコシを再選する。

10.23 ハンガリー愛国人民戦線創立大会。ナジ首相が演説。

1955年

2.08 マレンコフ首相が辞任し新首相にブルガーニンが就任。フルシチョフ第一書記が主導権を掌握する。

3.02 勤労者党中央委員会総会。ナジ・イムレを右翼日和見主義者と非難。

4.14 勤労者党中央委員会総会。ナジ・イムレを政治局と中央委員会から追放する。

4.18 国会がナジ首相を解任。新首相にヘゲドゥシュ・アンドラーシュを選出。背景に経済「新路線」の失敗。

5.14 NATOに対抗するワルシャワ条約機構が成立。

5.26 フルシチョフ第一書記を団長とするソ連共産党代表団がユーゴスラビアを訪問し関係修復を図る。ベオグラード宣言を発表。それぞれの国が独自の社会主義への道を追求する権利を持つとされる。

12.03 勤労者党、ナジ・イムレを除名。ラーコシが完全復活する。

一瞬目を疑ったが、いまどき原発推進を掲げる会社があった。
「こちら経済部」という囲み記事の一節なので、詳細はいまのところ不明だが、中身はこうだ。

①政府のエネルギー基本計画策定会議で、原発依存度の低減を盛り込むことを合意事項とした。
②東レの榊原会長は「原発依存度の低減」に反対した。
③その後の発言で、「原発依存度の低減」が見解の一致を得たとは受け止めていないとし、あくまで反対を貫く姿勢を明らかにした。

ということで、論理的結論としては原発を推進せよということになる。
総発電量が減少しない限り、依存比率を維持するということは、現状維持ないし増大以外にはないからだ。

福島の人にはこのニュース届いているのだろうか。
しばらくは東レの服は買わないようにしようか、といってもユニクロし買わない人には縁ないけど。いっそ榊原会長の顔写真つきのTシャツでも売ればいいのかな。

ネタを探したら、あった。
堂々と原発礼賛論を展開している。
http://www.meti.go.jp/committee/sougouenergy/kihon_mondai/002_07_10.pdf

短期的には
③既設原発については、徹底的な安全チェックを行った上で国民不安を払拭し、安全性が
確認できた設備については地元住民の合意を前提に逐次稼働させる。

中・長期的には
③原発については、今回の福島の事故の経験と教訓を活かし、日本の科学技術力を駆使して、安全性の格段に優れた原発技術を開発し、我が国の将来の基幹エネルギーの一つとして位置づけると共に、諸外国にも普及させ世界のエネルギー問題の解決に貢献する。

3.科学技術立国としての日本の役割
福島第一原発の事故を機に世界のエネルギー政策が大きな転換点を迎え、日本の政策対応が注目されている今こそ、わが国は科学技術立国として国家を挙げてエネルギー関連の革新的研究開発テーマに取り組むと共に、安全性の格段に優れた原子力発電技術の開発を推進して先進的なエネルギー政策を推進する国家像を世界に示し、また革新的技術を世界に発信して世界のエネルギー問題の解決に貢献すべき。

そのためには、我が国は第4期科学技術計画の中で挙げているエネルギー関連の革新的研究開発テーマ、原子力発電技術の進化を最重点テーマに掲げ、国家の研究・開発予算の思い切った傾斜配分をすべき。

囲み記事の紹介のようなもって回った言い方ではない。あからさまに推進を呼号している。
JR東海の葛西会長の時も感じたのだが、とにかく人格があまりに軽い。被災者に対する思いなどひとかけらも感じられない。人の上に立つものとしては、人としての思いやりとか、ときには心の痛みとか必要なはずなのだが、今の経営トップというのはここまでドライなのか。
ところでみなさん、どうします?

一瞬目を疑ったが、いまどき原発推進を掲げる会社があった。
「こちら経済部」という囲み記事の一節なので、詳細はいまのところ不明だが、中身はこうだ。

①政府のエネルギー基本計画策定会議で、原発依存度の低減を盛り込むことを合意事項とした。
②東レの榊原会長は「原発依存度の低減」に反対した。
③その後の発言で、「原発依存度の低減」が見解の一致を得たとは受け止めていないとし、あくまで反対を貫く姿勢を明らかにした。

ということで、論理的結論としては原発を推進せよということになる。
総発電量が減少しない限り、依存比率を維持するということは、現状維持ないし増大以外にはないからだ。

福島の人にはこのニュース届いているのだろうか。
しばらくは東レの服は買わないようにしようか、といってもユニクロし買わない人には縁ないけど。いっそ榊原会長の顔写真つきのTシャツでも売ればいいのかな。

ネタを探したら、あった。
堂々と原発礼賛論を展開している。
http://www.meti.go.jp/committee/sougouenergy/kihon_mondai/002_07_10.pdf

短期的には
③既設原発については、徹底的な安全チェックを行った上で国民不安を払拭し、安全性が
確認できた設備については地元住民の合意を前提に逐次稼働させる。

中・長期的には
③原発については、今回の福島の事故の経験と教訓を活かし、日本の科学技術力を駆使して、安全性の格段に優れた原発技術を開発し、我が国の将来の基幹エネルギーの一つとして位置づけると共に、諸外国にも普及させ世界のエネルギー問題の解決に貢献する。

3.科学技術立国としての日本の役割
福島第一原発の事故を機に世界のエネルギー政策が大きな転換点を迎え、日本の政策対応が注目されている今こそ、わが国は科学技術立国として国家を挙げてエネルギー関連の革新的研究開発テーマに取り組むと共に、安全性の格段に優れた原子力発電技術の開発を推進して先進的なエネルギー政策を推進する国家像を世界に示し、また革新的技術を世界に発信して世界のエネルギー問題の解決に貢献すべき。

そのためには、我が国は第4期科学技術計画の中で挙げているエネルギー関連の革新的研究開発テーマ、原子力発電技術の進化を最重点テーマに掲げ、国家の研究・開発予算の思い切った傾斜配分をすべき。

囲み記事の紹介のようなもって回った言い方ではない。あからさまに推進を呼号している。
JR東海の葛西会長の時も感じたのだが、とにかく人格があまりに軽い。被災者に対する思いなどひとかけらも感じられない。人の上に立つものとしては、人としての思いやりとか、ときには心の痛みとか必要なはずなのだが、今の経営トップというのはここまでドライなのか。
ところでみなさん、どうします?

リーマンショックの反動、アジアの好況持続などで輸出が伸びた。それは悪くはないのだが、今度はアジアの景気失速、リーマンショックの第二幕ともいうべきユーロ危機、それに端を発した超円高、長期的にはなによりも技術アドバンテージの減少があって、輸出はかげりというより失速状態に入りつつある。
財政赤字も深刻だから何とかしよう、年金・社会保障制度を持続させるために何とかしよう、というのは分かるが、それには景気の回復が一番だ。それしかない。ここは政府・財界もふくめて合意されるところだろう。
ということで、簡単な三段論法になるが、内需の拡大しかない。
これまで試されずみだが、企業減税は景気回復にはつながらない。金融の超緩和策も流動性の罠が待っている。要するに大企業優先の景気対策では景気は回復しない。金のばら撒きもいまのご時勢ではそのまま銀行預金となるだけ。
とにかく雇用を増やす投資が必要だ。国際競争力もよいが、競争に勝っても雇用に結びつかないのなら投資する意味はない。
関税や非関税障壁についてはいろいろご意見がおありかもしれないが、今は雇用を守るという一点で凍結だ。

とりあえず、有効求人倍率が0.8くらいになるまでは、雇用給付期間の延長が必要だ。最賃の引き上げ、とりあえず100円でも良い。その代わり全国一律だ。それでないと大都市に貧困層が集中する。
非正規の雇用条件改善が必要だ。常雇い並みの労働者には年金・保険の加入の義務づけ。使用者には刑法適用を含む罰則強化が必要だ。同時に雇用条件改善への支援も検討する必要がある。
労働者の団結権を最大限保証しなければならない。労基署や労働委員会の権限・機能を強化すべきだ。
生活保護は最後のセーフティーネットだ。これに風穴を開けることは許せない。貧困者を谷底に突き落とすことになる。同時に貧困ビジネスへの取締りが必要だ。生保を食い物にする連中を理由に生保を制限するのは卑劣なやり方だ。
生保基準以下の生活を送る人は受給者の5倍いると推定されている。嘆いたみたところで、いるんだからしょうがないじゃないか。生保を攻撃すれば、本来受給すべき人も出来なくなってしまう。もちろんそれが狙いなのだろうが。

自動車税の記事を紹介しながら思ったのだが、
自動車工業会は「空洞化」とか「雇用の喪失」とかをいえるだけ、たしかに国内に生産拠点を保持している。
もしこれと同じようなことを電気・電子機器メーカーが言ったらどうなるだろう。「何を寝ぼけているの」とせせら笑われるのではないか。

電子メーカーは空前の危機にあるといわれる。
国際競争力が失われ、空洞化が進み、雇用が失われている。
国内生産ゼロとなるのも時間の問題である。しかし利益はしっかりと確保している。なぜなら彼らはすでに生産実態としては海外企業になっているからだ。

海外生産が50%を越えれば、円高は追風だ。資産評価は膨らむと、良いことだらけだ。こういう連中を優遇する意味は、もはや失われているのではないか。

電機各社の海外生産比率の統計が見当たりません。ただ海外販売比率の増大計画は各社が立てており、数年以内に50%を越えることは間違いなさそうです。これは重電もふくむ数字なので、白物家電ではさらに比率は増大します。これらの商品は当然、海外生産によるものと考えられます。




たとえば経団連のいう通りに大企業優遇政策を推進した上で、国内生産率50%を切ったら、優遇措置をすべて外す、ということにしてみてはどうだろうか。
経団連としても、これまで主張してきた論理からすれば当然受け入れなければならなくなるのではないだろうか。

円高不況の中で歯を食いしばってがんばっている国内企業にこそ、救いの手が差し伸べられるべきだ。さらにいえば、円高時代でも成長を持続できるだけの技術的優位性(それこそが国際競争力だ)を育てるためにこそ優遇政策が適用されるべきだ。

経済面のコラム「こちら経済部」で山田記者が上記題名で書いている。

日本自動車工業会は「空洞化防止、雇用の確保」のため、自動車重量税と自動車取得税を廃止すべきだというが、2税があるために空洞化が進み雇用が減ったのか?

2税を廃止したら国内雇用を増やすとでも言うのでしょうか?

自工会は消費税率がアップされるから2税の廃止を、とコメントしました。
そんなにユーザーの負担が心配なら消費税増税に反対したらどうでしょうか。

これはまさにその通りである。


EU首脳会議で満座の非難を浴びたイギリスだが、19日に銀行改革の方向を表明した。
まだ正規の提案にも至らぬ財務省の個人的な意見表明にとどまるが、内容としては投資業務と小口金融の分離ということで、かなり核心を衝く提案だ。
オズボーン財務相は、「商店街向け業務と投資業務を分離し、英国経済と納税者を守り、大き過ぎて潰せないという事態をなくす」と語り、15年までに法制化を目指すとしている。

一般銀行の自己勘定取引の禁止というボルカールールに比べ、表現はソフトだが、実際の効果はほぼ同様であり、議会の賛同も得やすいと思われる。
さて、銀行がどう出てくるか。投資業務のうまみは一般商業銀行とは比較にならないだけに、最後は相当シビアーな戦いになるだろう。

11月貿易速報。まず輸入だが、総額で11%増。内訳でLPGが76%増、原油が15%増となった。これはほとんど仕方ない。いままでの原発依存のツケを当分支払わされることになる。
輸出は総額で4.5%減。内訳で電子部品が15%減、映像機器が48%減、地域別で対EUが4.6%減、対アジアが8%減となった。
ここできちっとしておかなければならないのは、貿易外収支は圧倒的な黒字になっているということだ。つまり企業が海外に生産拠点を移せばこうなるのは目に見えている。その結果はどうなるか、企業だけが儲け続け、庶民は職もなく貧困の底に突き落とされていくということである。
電子・電気機器会社でいまどき国内生産している会社などあるだろうか。いずれ輸出ゼロになってもまったく不思議ではない。正確に言えば企業は生産競争力を失ったのではなく、放棄したのだ。より大きな利潤を上げるために国内労働者を切り捨てたのだ。
日本全体の収支は決して悪くない。日本企業の国際競争力はまったく衰えていない。
どうするか、答えははっきりしている。大企業からしっかり税金をいただき、それを内需拡大に回すことだ。いやなら大企業は出て行けばよい。そのほうが良い。そのかわり海外リスクは自ら担え。

政府と財界は消費税増税、社会保障・福祉水準の切り下げを声高に主張する。
理由は何か「国の財政が厳しいからだ」
厳しい理由は短期的には分かる。これだけの大震災があって、しかも原発はいまだどうなるものやら分からない。
原発止めればとりあえずは火力に頼るしかないから輸入を増やさざるを得ない。
おまけに欧州の債務危機は見通し不透明で、悪くなることはあっても良くなる可能性はない。となれば財布の紐を引き締めたくなるのは当然である。
問題はそれが増税と福祉改悪に結びつくのかが分からないのである。

一体改革というのは、そもそもは社会保障を守るために増税も必要だから、セットでやりましょうというのが趣旨のはずだ。ところが税金は上げるは社会保障は悪くするわで、浮かぶ瀬がない。しかも取り立てた金がそっくり法人税減税で消えるというのでは、財政再建にもならない。

ひっくり返して言うと、増税と福祉切捨てをやれば国の財政が良くなるという道筋が示されていないのである。
道楽息子が金をせびるようなもので、金をやってもばくちや道楽に蕩尽するばかりではもう愛想も尽き果てる。消費税を作った時だって、それを5%に上げた時だって、福祉に使うんだといっておきながら、福祉は悪くなる一方ではないか。

第一、税金上げたら景気が悪くなるに決まっている。景気が悪くなったら税収は減るに決まっている。差し引き増収になる見込みはあるのかい。

政府は、税金上げたぶんを法人税減税にまわしてそれで企業の投資を促すっていう計算のようだけど、企業は使わないよ。少なくとも大企業は溜め込むだけだよ。使うとしても海外にしか投資しないね。

内部留保というのは当分使うつもりはありませんというお金だ。それが何百兆円もあって、それでも使わないというんだから、減税する意味はまったくないいでしょう。

それにしても最近の経団連とか同友会とか、どうなっているんでしょう、あの態度の大きいこと。一国の首相を馬鹿とか無能とか罵倒してはばからない、自分を何様と思っているんでしょう。



中国の次期主席と目されている習近平がハノイを訪問し、グエン・フーチョン書記長と会談。
ベトナム外務省の発表では、南シナ海問題について、平和的解決を目指す方針を再確認した、とのこと。
この再確認というのがミソで、9月の湖錦湯との党トップの合意内容が今後も継続されるということで、中国側が意思表明を行ったことになる。
しかも9月の合意は、いかにも湖錦湯がいやいや合意させられたという雰囲気だったのに比べると、わざわざハノイに出向いて合意を再確認したことの意義は大きい。
いずれにしても、すでに夏ごろには中国政治トップの事実上の交代があったことになる。湖錦湯が目指した鄧小平政治の復活は、党の大勢により拒否されたと考えてよいのだろうか。軍近代化派と経済関係省庁の力を背景にした、鄧小平=湖錦湯のプラグマチズムと覇権主義の流れが今後押さえ込まれていくのか、曾慶紅の復活はあるのか、期待半分・不安半分である。

読んでいるだけでむせてしまいそうな話。
タンザニアで人間がはいた後の靴下に似た臭いを人工的に作り出し、マラリア蚊をおびき寄せて一網打尽にするという研究が進んでいるそうだ。
同国のイファカラ研究所のフレドロス・オクム博士が人間の靴下に近い臭いを出す液体を開発。蚊は人間の足の臭いを好むためこの液体で蚊をおびき寄せるという.実験によるとこの液体は人間の足よりも4倍もの“魅力”で蚊をひきつけることができる。
蚊は人間を見て近寄るのではなく、汗をかいたときに出る乳酸などの物質の臭いに反応する。この液体を扇風機でふりまき、よってきたかを殺虫剤入の箱に閉じ込めて殺すという。
オクム博士は「もしあなたが研究室に入ったら、サッカーをしてきたばかりの人がいると思うかもしれないね」と笑った。
率直に言ってアフリカ系の人は臭いがきつい。そばに行っただけでもすえた臭いが鼻を衝く。その靴下の臭いだとすれば、日本人なら気絶してしまうのではないだろうか。

少しこだわってみた。

ニュースを読まねば というブログに同じねたが載っている。ブログ主の感想に「人間には分からない臭いにすべきではないか」という意見がある。同感だ。日本人なら必ずそうするはずだ。

この記事では、この研究がビル・ゲイツの支援を受けていると記載されている。その額80万ドル。だから世界にニュースとして発信されたのだろう。ありそうな話だ。しかし8千万円とは高すぎる。この研究、未完に終わりそうな気がする。残るのはビル・ゲイツの美名だけ…


もう一つ、科学ニュース保存というブログ。
これはCNNではなくAFP記事で、実験というのは下記の通り

ハウスを2棟作り、片方に被験者1人を寝かせ、もう片方に汚れた靴下のにおい成分を放出し、蚊を放した。すると、靴下のにおいのするハウスには、人間の寝ているハウスの4倍の蚊が集まったという。

これだけの根拠で8千万円とは…

カザフスタンといえばナザルバエフ大統領の独裁の国。これまでも反独裁闘争が報じられてきたようだが、今度はかなり深刻なようだ。
状況はかつてのベネズエラに似ている。カザフスタンは面積から言えば中央アジアの大部分を占める大国で、首都アスタナのある北東部、中国国境に近いアルマトイ地方、そしてカスピ海沿岸の砂漠地帯と分かれているが、カスピ海地方にマンダギスタウ州という油田地帯があり、ここが国家の富のほとんどを生み出している。いわばマラカイボだ。
今回はマンダギスタウ州のジャナオゼン油田でストライキが発生した。スト参加者1千人が解雇され、激しい抗議運動が起こった。16日、労働者のデモに警察が介入し14人が死亡、100人を越えるけが人が出る事件となった。
他にも外国との合弁企業で大量解雇と抗議運動の連鎖が起きているという。
問題は政治トップに道徳観念が極めて希薄なことで、これだけの貧富の差と、人民抑圧と支配層の腐敗の三点セットが重なれば、政権が維持されていることそのものが奇跡だ。
おそらく来年中には、何らかの政変が起きるのではないだろうか。それがどのような形態になるのかを推し量るのはもう少し情報が必要だが、問題は軍上層部の腐敗の程度、命知らずの雇い兵の存在、ロシアなどの石油マフィアの干渉だろう。

(65)ミロンガよ永遠に  (Alfredo De Angelis - Siempre Milonga)

アルフレード・デ・アンヘリス楽団がよいです。これぞミロンガというリズムを刻みながら、ギターと低音楽器のピツィカートが雰囲気を駆り立てます。歌も歌曲の旋律とは程遠い不安な気分をあおります。録音も秀逸です。

Ricardo Pérez con Los Caballeros de Siempre (milo

youtubeにはこの1曲しかありません。上げるのはやめようと思いましたが、やはり好きな曲なので入れることにします。今後のアップに期待します。

MILONGA PARA FIDEL - (Osvaldo Pugliese)

シエンプレ・ミロンガで探していたらこんな曲に当たりました。プグリエセの自作自演、歌手はホルヘ・マシェルです。プグリエセは共産党員として有名で、バンドも共産主義的に運営していたと聞いたことがあります。

(66)心の花 (Flores del Alma)

ピアノの伴奏で男女のデュエットです。最初はスペインの古い民謡かと思いましたが、れっきとしたタンゴでした。元歌を歌っているのは、デ・アンヘリス楽団の男性歌手二人で、こちらも大変良い演奏です。

それにしても、この曲タンゴというよりは限りなくフォルクローレに近いですね。アンヘリートスとかクアルテート・スーパイあたりが歌いそうな感じです。

Flores del alma -Tango

元は映画「タンゴ」のサウンドトラックからとったものです。私のホームページの「今月の名曲」にも取り上げました。A. Lucero y García Ferrari のデュエットです。どうもアルゼンチンでは「銀・恋」みたいになっちゃってしまったようです。

FLORES DEL ALMA.-Alfredo De Angelis-Carlos Da

こちらがオリジナル。悪くないでしょう? 実はダンテとマルテルのデュエットはたくさんあって、もっと良い曲もあります。これを機会にアルフレド・デ・アンヘリスがもっと聞かれると良いのですが(ラジオ・タンゴでは5位です。ピアソラやディサルリより上なのです)

FLORES DEL ALMA

アンヘリスがオリジナルと思ったら、さすがラジオタンゴ・ロサリオ、SP盤をアップしてきました。DOMINGO FEDERICO楽団にCARLOS VIDALと OSCAR LARROCAのドゥオという組み合わせです。

Flores del Alma - 1942 vals (Música: Juan Larenza

Bruna Pintus という人が歌っています。いかにもそれっぽいですが、もうちょっとうまいといいのですが…

(63)ロス・アンヘリートスのカフェ (Cafe De Los Angelitos)

なにかこのカフェは由緒あるところらしくて、観光名所になっているようです。ホームページではOcteto Tibidabo の演奏を採ったのですが、そんなものはyoutubeにはないでしょうね

Libertad Lamarque "Café de los Angelitos"

なんとも、絶唱とも言うべき演奏です。むんむんと迫ってきます。

Francisco Canaro - Carlos Roldán - Café de los ang

これも十分良いです。カナロらしく、過不足なく、ダンサブルに仕上げています。しかしラマルケの前には影が薄い。

ORQUESTA JOSÉ MARQUÉZ - BLANCA MOONEY - C 

ムーニーは私のお気に入りの一人です。しかしラマルケの前には…

Chabela - Cafe de los Angelitos

なんでしょう?、やたらうまくて美声で、抑制が効いてて、チャーミングです。絵は見ないほうが良いかも…

(64)私のパティオ (Patio Mio)

PATIO MIO

アイーダ・ルスの一発ヒットです。オメナヘの番組がエアチェックされていますが、かなりがっかりします。

JACQUELINE SIGAUT - PATIO MIO - TANGO

これはお勧めです。シンプルに、しかし情感をこめて歌いこんでいます。グラナダでのライブ・ヴァージョンもありますが、こちらはだいぶ崩しています。

Anibal Troilo - Jorge Casal - Patio mío

作曲者トロイロの自演で、さすがに迫力があります。

Yamila Asero Patio Mio Pal

若くてお色気があって、というのはうらやましい。素直に歌っても魅力的です

PATIO MIO-MERCEDES SIMONE.

メルセデス・シモーネも歌っていますが、かなり年取ってからの録音で、すでに魅力は失われています。Patio Mio Mercedes Simone.wmvのほうはさらにひどい。Patio mio Susana Rinaldi HQ M というスサナ・リナルディの演奏もありますが、こちらもお勧めできません。

Patio Mio

バレンティン・アルシナの歌で例によってうっとうしい歌い方ですが、バックのオルケスタが意外に良くてお勧めです。

前原氏はコメや小麦などの関税率が高いことを挙げた上で、「こんにゃくなんて(関税率は)1706%だ。主要な産地は群馬県で、群馬からたくさんの首相が出ていることに(関税率の高さが)現れている感じがする」と指摘した。(2011.2.16)

このときは現職の外相。閣僚発言としてはかなり下品だ。

それにしても1706%という数字、只者ではない。本当だろうか、どこから出た数字なのか、グーグルを当たってみた。

WTO農業交渉とこんにゃく産業

清水徹朗

調査と情報 2005. 11

①輸入価格の決まり方

関税率は品目ごとに定められているがこんにゃくの場合、40%の一次関税がかかり、さらに現地流通・販売価格の如何にかかわらずキロ当たり2796円の二次関税がかけられる。

だから原価が100円とするとこれに1.4をかけて140円、さらに2790円が乗せられるから2930円になる。この場合関税率は2930÷100×100で2930%になる。

生いもはこのくらいの価格だ。しかしたとえば中国からは「精粉」の形で入ってくるから原価はキロ600円くらい。そうすると1.4をかけて2796を足すと3600円くらい。これを600で割ると600%ということになる。

つまりこんにゃくの関税率はあくまで実勢であり、定率ではない。

正確には下の表を参考にしてほしい。

http://livedoor.blogimg.jp/shosuzki/imgs/f/1/f1349ce2.jpg

そうするとこんにゃくがどういう形態で入ってくるのかが実際の関税率を決めることになる。これについては具体的な数字は示されていないが、過去5年間の平均輸入価格はキロ306円とされているので、生いもの形で入ってくるものは少なく、荒粉と精粉が半々の割合というところであろう。

これは914%の関税率に相当するとのことなので、1700%というのは少なくともこの10年に限っては妥当な数字とはいえない。

なおウィキペディアには下記のごとき記載があった。

2009年8月31日、こんにゃく芋に対してセーフガード(緊急輸入制限)が発動し、2次税率が1kgあたり2796円から3728円へ上げられた[12]

ウルグアイ・ラウンド合 意によってこんにゃく芋の関税化が始まった1995年当時は輸入品価格が安価であったために、それに対する2次税率の関税率は1706%に相当した。しか し、近年は輸入品価格も上昇し、2008年は1キロ当たり800円程で取引されているため、関税率は350%程度である

「こんにゃく原料市場」というサイトでは下記の記載がある。
 
コンニャク原料は、情報の非対称性が多い産業構造になっているが、「正直な話として」「ここだけの話として」と切り出される場合、 その逆の「フィクションとして」「スピーカーつきの話」と解釈したほうが良さそうである。

②棲み分けは進むだろう

こんにゃく製品の輸入量は3万トンあまり、額にして25億円となっている。こんにゃくいもの輸入量より大きい。

こんにゃく製品の輸入は既に自由化されており、関税率は20.3%である。輸入価格は70~80円であり、これは国産価格(卸売価格)の約5分の1で、関税を払っても国産価格の4分の1である。

ただし、輸入品は品質が劣るため、国産品が輸入品にシェアを大きく奪われるという現象は起きていない。

日本でのこんにゃく製造は機械化しているが、日本の機械を中国に持ち込んで日本に製品を輸出するメリットはそれほど大きくはないとされている。

③こんにゃく生産の将来

中国や韓国では、日本のように日常的にこんにゃくを食べる習慣がなく、中国では自生しているこんにゃくいもを農民が掘り出して工場に持参するという形態が主である。

つまり原価はタダといって良い。

日本の一部のこんにゃくメーカーは中国に進出して日本向けに製品輸出を行なうようになっている。

こんにゃくいもの生産コスト引き下げには限度があり、中国の低賃金による生産とは対等には競争できないため、関税率を大幅に引下れば生産は崩壊するだろう。

ECBのドラギ総裁が欧州議会で証言。
来年1~3月期に満期を迎える銀行の債券が230億ユーロ、国債が250~300億ユーロあり、債券市場が直面する圧力は深刻だと語った。とくに金融の緊張の高まりが経済活動を阻害していることに懸念を表明した。

二つの問題がある。
一つは金融不安が解消されないばかりでなく、解消に向けた確固たる対策が打ち立てられていないことだ。
欧州債はドイツにより拒否され、その代替として一つは欧州安定化メカニズム(ESM)の前倒し施行。もう一つはIMFを介した融資が打ち出されたが、そのIMF融資計画がはやくも破綻の兆候を示している。12月19日に拠出金の目標不足が明らかになり、メドが立っていないのである。
もう一つは、財政規律の強化は当然のこととしても、引き締めによるマイナス効果が計算されているとは思えないことだ。経済活動の落ち込みと歳入低下を織り込めば、もっと問題は深刻なはずだ。1千億ユーロ程度で済む話ではない。
3月の決算期を迎えて、銀行の破綻が現実のものとなれば、一気に崩壊へと向かう筋書きもありうる。
そもそもユーロを守るべきかの議論も浮上してくるだろう。大企業・富裕層の増税を含めたもう一段の努力が避けられないだろう。

1週間ほど、イタリアとスペインにかかりっきりで、赤旗が積まれた状態になっています。後ろ髪引かれつつも、一段落とします。本日は赤旗のまとめ読み。

金正日の死去に際し、志位さんが発言している。日朝平壌宣言(02年)、6カ国共同声明(05年)を重視し外交努力を行えというもので、大変筋が通った発言だ。
平壌宣言の重要な点は、諸懸案の包括的解決という点にある。

当時、私は長距離ドライブ中でラジオのニュースを聞きながら、感慨にふけったおぼえがある。とくに金正日が拉致問題を認め、謝罪し、生存者の帰還を約束したことに対し、驚くとともに「良くそこまで踏み込んだものだ」と感じたものだ。北朝鮮側の並々ならぬ決意が伝わってきた。

ところが自宅に戻ると、家族はかんかんになって怒っている。拉致なんて許せない。それを今まで隠してきたことも許せない。国交回復なんてとんでもない、ということだ。

家族だけではない。巷中が北朝鮮への怒りに沸きかえっている。これはどうしたことだ。後から分かってきたのだが、これはテレビ報道、とくに民放の影響だ。というのも、タクシーの運ちゃんと会話をすると、私に近い見解だ。なぜなら、彼らもラジオで経過を知ったからである。

あるいは、スムーズに行けば第2陣、第3陣があったのかもしれない。交渉カードとして保留されていたのかもしれない。しかし国民の怒りはそのような交渉を許さなかった。
言ってみれば返せないような状況を作っておいて、「返せ、返せ」と迫り、結果として日朝平常宣言を無力化させ、準戦争状態に追い込んだことになる。背後で誰かがほくそ笑んでいるのだろう。

包括交渉というのは、個別イシューの枠を超えてバーゲニングを行うということである。たとえば拉致問題は、日本による強制連行と同質の課題であるから、この二つを連動させるとにっちもさっちも行かなくなる。むしろ平和課題や開発課題との取引のほうがスマートであろう。

いずれにせよ、好むと好まざるとにかかわらず日朝両国は隣人である。転居してことを済ますわけには行かない。未来永劫お付き合いしなければならないのである。
“win-win”の関係を作る以外にはないのだ。そういう点では指導者の交代はひとつの転機となりうるし、そうしなければならない。
とにかく提案が必要だ。そして提案するのはこちらの番だ。


今年も押し迫りました。いろいろ十大ニュースが登場すると思いますが、ここでは世界民主勢力にとっての十大ニュースを勝手にまとめてみました。

ついでに、それぞれについての過去記事をリストアップしておきます。

今年2011年は「青年の年」でした。キーワードは“オルタナティブ”(展望/革新)です。この30年世界の民主勢力はネオリベラリズムと戦い、ようやく勝利の兆しが見えてきました。

まだオルタナティブというほどのものではありませんが、十大ニュースをじっくりと分析してみると、いくつかのキーワードが浮かんできそうな感じがします。

1 世界が原発廃止に動く

2 アメリカのオキュパイ運動

3 青年たちによるアラブ革命

4 南欧諸国の抗議 欧州左翼の再生

5 金融規制法の動き 富裕税創設の動き

6 UNASURからラテンアメリカ・カリブ諸国連合へ

7 南米の学生運動

8 ASEANの力で南シナ海の平和確保

9 NTBTの活性化

10 ITOの復権と新国際経済秩序

番外 イラク戦争の終結


今回は

1 世界が原発廃止に動く

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