鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

2011年07月

アマデウス弦楽四重奏団の録音はどれをとっても劣悪だが、モーツァルトのピアノ四重奏曲だけは素晴らしい。
ヴァルター・クリーンがピアノを弾いている。クリーンと言えばずいぶん昔の演奏家だと思っていた。かつてウィーンの三羽烏と呼ばれたピアニストがいた。イエルク・デムス、バドゥラ・スコダにグルダだった。彼らと同じ頃にクリーンやアルフレード・ブレンデルもウィーンを中心に活躍していた。1950年から55年頃ではなかったろうか。
ウエストミンスターというレコード会社だったと思う。この会社はどちらかというの二流の演奏家を中心としていた。ウィーン・コンツェルトハウス四重奏団というのはウィーンフィルの並びの楽員たちが組織した四重奏団で、カンパーという第一バイオリンの情緒テンメンたる演奏が売り物だった。ウィーン国立歌劇場管弦楽団というのはウィーンフィルではなくフォルクスオーパーの方のオケという具合。
ブレンデルはリスト弾きという売り出しで、わりと荒っぽい演奏をしていたように記憶している。クリーンで憶えているのは、ユリウス・パツァークの美しき水車小屋の娘の伴奏で、極めてのりの良い音を出していたことくらいだ。

というクリーンとアマデウスSQの組み合わせなので、これは相当古い録音かと思い期待もしていなかった。
ところがギッチョン、きょう日の録音などとてもかなわない音が出る。音の広がりがなくモノっぽい、かすかにプチ音も入る。強音はわずかだが割れる。しかし60年代の録音とはとても思えない。
と思ったら、やはり60年代ではなく1981年録音だった。何でもその年の最優秀録音賞をとったらしい。
これは絶対聞くべきだ。

共産党の宮本議員のブログに面白い記事が載っていた。
ドイツ大使との会談で大使が語った話の内容。宮本議員は感銘を受けたようで、詳しく紹介している。その一部…

 大使の話では、ドイツでは原発の安全技術という点で世界最高の技術を持つ国は日本だと考えられてきたと言うのです。

 「ソ連はチェルノ ブイリの事故を引き起こした。アメリカもスリーマイル島の事故があった。米ソはダメでも日本ならばという思いがあった。その日本で今回の原発事故が起こっ たということは、もはや人類はこの技術を安全にコントロールできないと、ドイツではみんなが考えている」とおっしゃっていました。

実は改正貸金業法(サラ金法)は大変実効性の高い法律なのです。よくもまぁこんな法律が通ったものだと感心してしまうほどです。
特に有効なのが
総量規制: 借入残高を年収の三分の一以下に制限する、
金利規制: 金利の法定上限を20%以下にする、
の二つです。
施行以来1年半で、多重債務者は100万人以上減り、個人破産・多重債務を原因とする自殺も顕著に減少しています。
30歳以上の方なら、10年前と街の光景が一変したことがお分かりと思います。10年前、駅前や繁華街はサラ金の看板が林立していました。今はどこにもありません。見事に消えてしまいました。街を歩いていても、もうティッシュはもらえません。ティッシュは買うものになってしまったのです。

サラ金法は、国際経済・金融情勢をどう見るのか、どう改革すべきかを考える上でも大変参考になる法律です。世界には経済ルールがありませんから、サラ金の手法を用いた大国の横暴(貸込み)が続いています。だから新たな世界の経済秩序を構築しようとする際、具体的に何をどうすべきかが良く分かるからです。

しかしいま、「高金利地獄」をふたたび目指す動きが強まっています。一部の議員(共産党・社民党を除く全会派)は、「勉強会」を開いて法律の再改正に向けて動いています。 今月「勉強会」のメンバーが提言を発表しました。それは上限金利をかつての30%に引き上げ、総量規制を大幅に緩和するというものです。
勉強会の意見では「規制が過剰で、業者が苦しんでいる」とか「金融行政が消費者保護に偏りすぎている」とか「金利は自由にすべきだ」という「暴論」も出ているとのことです。
それらの反応は、いかにこの法律が問題を芯で捕らえているかの証明となっています。


第2面記事の三つ目、志位委員長が記者会見で、政局についての見解を表明した。
「菅内閣の問題は明らかだが、首相がやめれば被災地の問題が解決する」というわけではないことを、まず示している。そして「誰が総理であれ」被災地の立場で解決の道筋を示していくポジションを明らかにする。
そのうえで、政治が行き詰ったら国民の審判を仰ぐのは憲政の常道だが、「今の被災地の実態ではできない」と述べ、「各党に求められているのは震災復興と原発問題の解決をしっかりやらせる」ことだと訴えた。
きわめて説得力のある提起で、胸にすとんと落ちる。ただ「そんなことをしている場合か」という切り返しがあると、さらに良かったと思う。銭にもならない「復旧」を早く切り上げて、「復興」に移りたくてじたばたしている連中が背後にいるからだ。
共産党の国対筋は時々ぶれるが、今度は修正が早かった。今後は記者団に水を向けられたら、「そういう発想がそもそも間違っている」と説くべきだろう。

参院復興特別委員会で債務買い取り法案が可決された。変わった成立で、自公案に共産党が賛成。与党は反対に回るという採決。
公的機構が2兆円規模の債務買取を行い、二重債務の解消を図るというもの。民主党も賛成はしなかったが、政府閣僚は積極的で、財務副大臣が「二次補正予算の予備費をすぐに出動させる」と答弁している。
このように超党派で議員が動くと、国会というのは本来の機能を発揮できるということが証明された。それも第二次補正予算が成立したためである。
議員にはできることがたくさんある。それどころかできないことは何もない。政府の無能ぶりを槍玉に上げていても事態は改善しない。それは翻って議員の無能ぶりを証明することになる。名を惜しめ、時間を惜しめ、後世の人々が見ているぞ。
復興のあり方については意見が分かれるだろうが、復旧については一致できることがたくさんあるはずで、それをどんどん進めてほしい。

本日の赤旗は二面が面白い。
まず最初は松本で開かれている国連軍縮会議で、菅谷市長が講演。「地球規模での原子力政策について立ち止まって再考する必要がある」とした上で、「私たちは産業経済優先か、いのち優先かその岐路に立たされている」と述べた。
これは原発について語られた言葉だが、当節の経団連・経済同友会あたりの、社会的責任感ゼロの発言を聞いていると、やはり正面からこの言葉で問いかける必要があると思う。少しのぼせ上がった金持ち連中を黙らせるべきだ。
「ここはあんたらの国じゃないよ。金も出さずに四の五の言うんじゃないよ!」

先日トヨタをほめて、ソニーは爪の垢でも煎じて飲めと書いたが、取り消す。トヨタの爪は結構汚いようだ。
2008年のリーマンショックのときには、トヨタは期間従業員を6000人以上雇い止めした。ただ震災の被災者の生首を切るのとは次元が違うが…

トヨタで生きるという日本共産党トヨタ自動車委員会のブログで

こうした支援策は一方で、愛知県に集中している工場のリスク分散とみられています。東日本大震災で部品が調達できなかったことから、想定されている東海地震に対応しようというものです。

また、東北地方は愛知県に比べ人件費が安いことから、コスト削減とみられています。たとえば、関東自動車岩手工場の期間従業員の賃金は、月給で17万4132円。トヨタが愛知県で募集している期間従業員は、18万9000~21万6300円です。

という記事がある。ようするに愛知の高岡工場に立ち上げられる予定だった小型ハイブリッド車の生産ラインが東北に移ることになったようで、愛知の労働者が雇い止めになる可能性があるということだ。
副社長は「老朽化したラインはいずれ止めることになる」と述べたとされる。



6月にペルー大統領選挙の結果を報告した。左派のオジャンタ・ウマラ候補が、右派のフジモリ候補を僅差で破り勝利した。そのとき好景気にもかかわらず左派候補が勝利したのはなぜか、という答えとして、これはオジャンタ・ウマラの勝利というよりは南米諸国連合(UNASUR)の勝利と呼ぶべきだろうと書いた。
ペルー大統領選の勝者はUNASUR

ピンと来なかった人もいるかもしれないが、本日の赤旗で、この十年間のUNASUR諸国の前進を示す記事が掲載されたので紹介する。

国連の中南米・カリブ経済委員会(ECLAC)が南米諸国の経済社会状況に関する調査結果を発表した。
これによると、
①失業率は03年の13.4%から10年の7.9%に減少した。減少率は41%ということになる。
②10年の貧困層の割合は31.7%、極貧層の割合は13.1%となった。(これでもひどいが、90年以降では最低の水準とされる)
③ジニ係数は過去10年間で9%低下した。(ものすごい低下率だが、これでも南米は世界一所得格差が大きい地域だとされる)

私のコメントだが、①,②を合わせ読むと、貧困・極貧層でも仕事はあるということが分かる。それなりに安定した生活を送る貧困者ということになる。
また②,③を合わせ読むと、相対的貧困率はこれよりも低く、生活実感としての窮乏感は数字以上に改善していると思われる。
貧困・極貧の規定はドル換算で行われているから、現地平価が為替相場で過小評価されている可能性もある。

ECLACは更なる格差解消に向けて、直接税に支えられたより累進的な徴税構造を確立すべきだと提言している。これについては以前のブログを参照していただきたい。
ラテンアメリカ諸国の財政状況: とくに歳入部門
累進税率アップが増税の本道

これがUNASURの実績だとすれば、それに背を向けて対米従属と大企業優遇の経済政策を続けてきたペルーでも、路線転換を求める声が高まることは自然の流れだろう。

7月20日、経済同友会の長谷川代表幹事が記者会見を開いた。
例によって「原発再開、さもなくば海外移転」の脅しだったようだ。
終了後の記者の質問。「それほど簡単に海外に出ることができるのか。受入国の電力供給が確保できるのか」
長谷川氏の答え。「ご指摘の点はごもっとも。そう簡単に海外移転ができるわけではない」

赤旗の背景説明によると、
急速な経済成長が続くアジアの途上国では深刻な電力不足が蔓延している。一部地域では輪番停電が実施されるなど、生産への下押し圧力が高まっている(第一生命経済研究所)。
設備の故障や劣化のため、発電設備の定格出力まで出力が出せないケースが多い(ジェトロ)

原発再開を声高に叫ぶ理由は、海外移転のおそれではなく、海外移転しようとしてもできないことにあった。移転するときはしれっと黙ったまま出て行くだろう。

南沙諸島(スプラトリー)に関する中国の主張には道理がない。「疑いもなく固有の領土だ」とするが、疑いは大ありだ。
これらの島は歴史的には無住・無有の地である。初めて領有を主張したのは日本であり、第二次大戦前にこの地を占領し、台湾に帰属せしめた。しかしこれは帝国主義的侵略とみなされ、サ条約により最終的に放棄したとみなされた。それ以降はふたたび無住・無有の地に戻ったと見るのが妥当である。
中国の主張は、フォルクロアの寄せ集めであり、同様の話はベトナム側にもいくらでもあるだろう。
本音は、台湾に帰属した過去の経過から、その領有権を中華民国が引き継ぎ、その正当な後継者である中華人民共和国が引き継いだということに基づいているのではないか。(中国自身はその話題は回避しているが…)
だとすれば、これはサ条約の枠外の話ということになり、元来が無住・無有の地であった南沙諸島は現在もなお日本の領土と考えてもおかしくはない。台湾は大日本帝国の行政単位の一つでしかなかったからである。
南沙諸島は、隣接するいずれの国から見ても12海里の領海内に付属する島嶼とはいえない位置にある。(一部はベトナムに近接しているが)
経済水域は交叉しているが、中国の主張を退ける以上、ベトナムやフィリピンの領有権も否定されるべきだろう。すなわち基本的には現在も無住・無有の地と判断するのが妥当であろう。

これを前提とした上で、資源開発の問題がでてくる。ここで「無有の地」という原則を出発点とすれば、話し合いは二国間協議で済ますわけには行かない。何らかの国際機関が形式上の領有者となり、関係国の合議制で話を詰めていくしかない。
もうひとつの問題、開発主体についても、開かれた入札制度の下で国際的なコンソーシアムが編成されなければならない。利益の分配も、出資比率だけではなく各国が平等に恩恵を受ける形で合意される必要がある。たとえば不測の事故により周辺国に影響が及んだときのことなどを考えると、この原則は守っていく必要がある。

大事なことは、何よりも南シナ海を平和の海にすることである。中国の一方的な武力展開は、周辺諸国の警戒を招き、逆の強硬派をはびこらせることとなる。これが続けばASEAN諸国政府の対中国政策の柔軟性は大きく損なわれる。
最も警戒すべきは、この地域におけるアメリカ帝国主義の再進出である。中国の手法は客観的にはその呼び水となっているとも言える。
南沙諸島周辺から武力を一掃することがもっとも肝要である。保安活動は国際機関の責任においてなすべきであろう。

さらに一言、余分なことかもしれないが、これらの問題が解決するまでは地下資源の探査は停止したほうが良いのではないか。欲得づくの話がでてくると大変ややこしくなる。
中東並みの規模の資源が眠っているとでもいうなら話は別だが、「良い夢を見たね」と済ませられるものならそれが一番良い。むしろ観光開発にでも力を注いだほうが、はるかに金になりそうな気もする。

21日、EU首脳会議が18兆円相当の追加支援を決めた。同時に大手銀行にギリシャ国債の割引をもとめ、新発債へ乗換えることで資金回収の先送りを容認する、という内容だ。さらに欧州中央銀行(ECB)も4兆円の信用保証に合意した。
昨年5月の第一次支援より規模も大きく、内容も深化している。おそらくこれが最後の切り札だろう。これがだめなら“アルゼンチン”だ。しかし母体がアメリカ・ドルとユーロでは格が違う。ギリシャのアルゼンチン化は即、EU圏内大銀行の倒産、ユーロシステムの崩壊につながる。
それどころかアメリカの債務危機と結びついて、1929年大恐慌の再現すら招きかねない。そういう危機感が支援の背景にはある。だからことの本質はギリシャ支援ではなく、銀行と投機資本への支援 なのだ。間違いないのは、ギリシャの民衆は決して救われないということだ。

ユーロの発想そのものを否定するわけではない。しかし金融資本の好き勝手を抑える術を持たずに走り出せば、いずれこうなることは分かっていたはず。
打つ手は打った。これでだめならギリシャをいったんデフォルトに追い込み、ユーロ圏から離脱させ、平価の思い切った引下げを断行するしかない。ギリシャはそれでよいが、残された大銀行には、自業自得とはいえ膨大な焦げ付き債権と破産の道が広がっている。
これを機会にトービン税やその他の規制により金融資本の暴走を抑えることが必要だ。というより、そこに「もうひとつの世界」とつながる鍵があるのかもしれない。

帝国データバンクの調べによれば、被災地三県+山形の9銀行で“貸倒引当金繰り入れ積み増し額”が984億円に達した。これは貸出残高に対して0.92%を占める。
ということだが、“貸倒引当金繰り入れ積み増し”というのが良くわからない。ネットで調べると次のような記載があった。

マネー用語辞典

不良債権を処理したことにより、その期の損益計算書に算出される損失額のこと。

つまり貸倒金のことだ。それをどうしてむずかしく言うかというと、その処理の方法の違いによるものだということだ。

処理の方法としては、

①間接償却: 倒産などで債権回収がまったく出来ないと判断された債権を資産から差し引き、貸借対照表(バランスシート)上で処理を行う処理法。

②引当て: 経営破綻となる懸念がある取引き先などに対する貸し出しを資産に残したまま、将来の経営破綻に備えて事前に費用として貸倒引当金計上する処理法。

③直接償却: 民事再生法などの法的整理債権放棄などの私的整理による処理法。

他にも「不良債権の売却」などがある。

この内の②の処理をした場合、“貸倒引当金繰り入れ積み増し”という表現になるわけで、気分としては「焦げ付いてはいるがまだ燃え尽きてはいない」というニュアンス。実質的に貸倒れとなっていることに変わりない。

焦げ付き率1%というのがどのくらい危険なのかはよく分からないが、地銀にとって1千億円という数そのものはやはり尋常ではない。七十七銀行、岩手銀行など大手でさえこうだから、信金・信組が存亡の危機に立たされているのは間違いないだろう。

内閣府が年次経済財政報告を発表した。内閣府といってもなじみが薄い。というか私は今日まで経企庁が内閣府に統合されたことを知らなかった。担当大臣はあのミスター財界の与謝野である。

ウィキペディアを見たらこう書いてあった。
戦前の企画院の流れを汲み経済白書の編纂・発行を行い、いわゆる官庁エコノミストの輩出に寄与するなど、大蔵省通商産業省等とは一線を画し、比較的政治的に中立的な姿勢で国民経済などマクロ経済ミクロ経済の動向を分析するなど、その分析成果や経済政策への影響は決して無視できない「影のエリート官庁」と言われた。

まぁつまり影の薄い公家集団的存在であるということだ。その代わり多少はまともなことも言って来たということだろう。
ところが今度は大企業中心、外需依存の「開国論」の旗振り役に回った。これでは通産省と変わるところはない。まるで自殺宣言だ。

開国論はわざわざ白書を作るほどの内容はない。「通商白書を参照されたし」の一行ですむ。
問題はそれが国民経済に与える影響をどう受け止め、どう対処していくかだが、赤旗によると以下の処方箋が提示されているに過ぎない。

企業活動のグローバル化は雇用に影響を与え、「従業員の利益配分を抑制する」が、海外からの直接投資が日本の経済成長につながり、「配分の原資」が拡大されるため、賃金にはプラスの効果がある。

執筆者はこの段を、おそらく臍をかむ思いで書いたのだろうと想像する。「苦渋を察してくださいね」という感じがよく出ている。




しかたがないので2チャンネルなど掲示板を見回ってみる。
明らかにソニーの回し者と分かるメールは、あまりの下劣さに相当胸が悪くなる。非正規労働者と共産党に対するその“上から目線”は、いつから身につけたのだろう。


たとえばこんな記事がある。「内部留保の意味も知らずに内部留保を切り崩せと言わないでほしい」という題で、赤旗の記事に対して、「後ろ盾となっている理屈がめちゃくちゃ。嘘つきなのか無学なのか」と切りつけている。
この人はソニーではなくトヨタの人のようだ。どういう人かと見たら別に会計や経理の専門家でもないSE系の人のようだ。「嘘つき」はありうるが、共産党が「無学」なんてありえないでしょう。

で、赤旗のどこが滅茶苦茶かというと、

①「内部留保は隠し利益ではない」
こ れはたしかにあたっています。赤旗の記事は「内部留保(隠し利益)を…1.5倍も増やしています」と書いていますが、これは不正確です。ふつう「隠し利 益」というのは各種引当金の過大評価で税金逃れをしようとすることを指して言います。
ただしウィキペディアによると、日銀統計ではこれも内部留保にカウントして いるようです。

②「内部留保は実は現金ではない」
内部留保の総額は大幅に増え、現金・預金資産は逓減し、設備投資は抑えられてい る。その代わりに「投資有価証券」は倍増している。これらの事実は誰の目にも明らかです。赤旗の記事はこれをもって「隠し利益」だといっているのではないでしょうか。赤旗はそれほど無学ではないと思います。

③「有形固定資産(土地・建物・装置など)が内部留保にふくまれている」
この文章は「トヨタの20年度の有形固定資産は8兆円弱ほどあります。これは実際にはお金を使っていますが、コストには換算されないので、利益を押し上げています」と続く。要するに内部留保とされているものは、実際には固定資産だと言いたいようだ。

このことをもって共産党は滅茶苦茶といっているのなら、言っている本人が滅茶苦茶です。内部留保は貸借対照表の右側に明記されますが、その運用は左を見てもわからないのです。他の諸表に当たるか、バランスシートの経年変化から追っていくしかないものです。
この20年間のあいだに内部留保が1.5倍に増えて、それに対応して左側項目の数字がどう動いているかが問題です。固定資産に行っていないことは一目瞭然です。

「内部留保は必ずしも現金や預金として保有されている わけではない」というくだりは、実は経団連の受け売りです。2011.2.28 の更進記録にも書いたのですが、経団連は今やこの主張を取り下げています。そのくだりを再掲します。

経団連の経労委報告が大きく書き換えられていたことが発覚しました。「内部留保は必ずしも現金や預金として保有されている わけではない」、現金や預金も「仕入れ代金や給与などの運転資金として確保する必要がある」という記述が削除されたのです。
日銀が昨年12月に発表した資金循環統計によれば、民間法人が保有する金融資産のうち「現金・預金」は206兆円で過去最高となっています。今回の措置は、もはやこの種の詭弁が事実と食い違うことを取り繕えなくなったための変更でしょう。


④選挙前ということで確信犯でウソをばらまいているならまだかわいいのですが、本当に会計を理解せずに、間違った判断をばらまいているのなら問題は深刻です。

 これは慢罵です。言っていることはこれだけです。①だけにとどめておけばよかったものを…

共産党の山下議員がソニー多賀城の首切りについて質問した。
youtubeで見たが、「彼らは雇用の姿こそ非正規だが、仕事の中身と志はプロフェッショナルだ」と、胸のすくような質問だった。ただ質問時間があまりに短く、衝いてほしい問題が展開できなかったことが残念だ。
それにしてもこの静けさは何だろう。マスコミ各社は完全黙秘だ。ただの一社も報道しない。天下の東電に比べればソニーなど落ち目の電機産業、さほどの実害はないと思うが…




新自由主義者が、結局はジャングルの掟の信奉者・唱導者に過ぎないことは良く知られている。
彼らはある意味で自然主義者であり、自然のおきてに従うことを「科学的」で「客観的」であり、したがって「合理的」な態度と信じている。その限りではナチの生物学・優生学主義と似ていないでもない。

ソニー多賀城の首切りに反対する2チャンの掲示板を見つけた。そこには、おそらくソニーの正社員の手になるであろう反論が寄せられている。その匿名性は九電社員の場合と似ているが、その冷酷さははるかに勝っている。

①会社が不景気だから社員を首切るのは当然でしょう。
②契約社員はそういう契約なんだから首切られて当然でしょう
この発想からは、当然次のような思想が生まれる。
③戦争なんだから人が死ぬのは当然でしょう
④武器は効率良い殺人のためにあるのだから、核兵器は当然でしょう

①から④まである意味すべて正論です。ジャングルのおきてに従えば、それらはすべて正しいのです。しかし人間がなぜジャングルのおきてにしたがなければならないのでしょうか。

種としてのヒトはジャングルの中で決して強い生き物ではありません。ジャングルの掟に唯々諾々と従っていれば、絶滅するほかありません。ヒトは集団を作ってその力で弱肉強食のジャングルの世界に耐え、種としての生存を図ってきました。
人間は社会的動物であるとよく言われますが、人間というのは群れを成していて、群れの一員であることにより生存を保障されてます。
つまり集団の力で自然の掟に逆らって、自然の掟を拒否することによって人間の社会は成立しているわけです。逆らい、拒否するということは自然の掟を否定することとは違います。むしろそれを承認し受け入れた上で、それを克服しようとするのです。
このような集団には、当然のことながら集団としての掟が発生します。その掟の第一は助け合いです。第二は協働です。そして第三が団結(見方を変えれば自己犠牲)です。この団結というのがなかなか曲者で、家族愛・隣人愛として昇華されることもあれば、コザノストラの血の掟のような排他的。攻撃的な性格を帯びることもあります。
もちろん原始共同体以来の共同体の掟には、封建的で個性を抑圧する性格もたぶんにあります。
それに対抗する近代的な個人の個性の開花、自主・自由の尊重は、集団の掟のさらなる発展段階として議論すべきものであります。しかしそれは人間社会が打ち立てた社会共同体の上に開花しているものであり、弱肉強食の世界の復活ではありません。

被災地の労働者が首になるのはジャングルの掟では当然ですが、人間社会の掟ではあってはならないことなのです。人間社会の掟においては、彼らは救われなければならないし、日本国民同士として受け入れられるべきだし、復興を目指してともに働くべきです。

いま世界の運命を決するような重みをもって語られているニュースが二つある。ひとつはアメリカの財政赤字問題であり、もうひとつはEU内後進国、とくにギリシャの債務問題である。
ギリシャの債務問題は、ラテンアメリカを研究するものにとっては2001年12月のアルゼンチン債務危機と二重写しになって迫ってくる。

20世紀末以来の20年余り、株屋=サラ金連合の支配 が強化されている。そして現在も世界のトレンドに変わりはない。手を拱いていればその先に恐ろしい破局が口をあけているのは間違いない。
いまは流行らないが、学生時代に学んだレーニンの帝国主義論に「資本主義の腐朽化・寄生化」という言葉があった。当時はこれに「不均等発展」論を結びつけて「革命の日は近し」と満足していたが、そんなに簡単なものではない。
ただ肩で風を切るネオリベと「株屋=サラ金連合」の横行を見ると、近代資本主義は放置すれば重商主義・重金主義へと先祖がえりしていくのかと感ぜざるを得ない。医学用語で言えば「退行反応」である。
一体どうしてこのような仕儀に相成ったのか、新自由主義者によれば、「それは戦後世界を支配してきたケインズ主義経済システムが突き当たった壁だ」といわれる。
確かに壁はあった。一種の行き詰まり状況はあった。しかしそれはほんとうにケインズ主義がぶち当たった壁だったのか、レーガン・クリントンによるアメリカ帝国主義の巻き返しに世界が屈した結果に過ぎないのではないか、そこをもう少し冷静に見極める必要がある。

ネオリベとケインジアンの対立は、直接には経済政策をめぐる意見の相違である。しかし本音はそこにははない。それは経済にモラルが必要か、恣意性を排し「神の手」にゆだねるべきかをめぐる対立なのである。
ネオという名はつけても、当節の支配階級の論理は人倫とはかけ離れた「ジャングルのおきて」である。我々はこの弱肉強食の論理が、1929年の大恐慌を初めとする多くの恐慌と、二度にわたる世界大戦争を引き起こしたことを記憶している。そして人類を絶滅させる可能性を秘めた原子爆弾を生み出したことを知っている。
ジャングルの掟は勝つためのすべての手段を正当化する。その典型が強引な資金投入である。サラ金の怖さは取り立てにあるのではない。詐欺的手法まで用いる「貸し込み」に最大の危険がある。
そして、本来国際金融秩序を守らなければならないIMFが貸し込みの旗振り役となったことに、ネオリベの最大の犯罪がある。



共産党の笠井議員が福岡で講演会。参加者の感想でこの言葉が出ている。
ルールなき資本主義では、こと原発問題については対処できないというのがこれまでの私たちの論調であり、これに対して財界はあくまで資本の論理、コストの論理を原発問題にも押し通そうとしているというのが、対決の構図だった。つまり原発問題は特殊なのか特殊ではないのかという対立だ。
しかし、もうひとつの対決の構図が必要だということを、この言葉は示唆している。私たちは原発問題とそれ以外の問題を、同じようにルールなき資本主義が抱える共通の問題としても取り組まなければならないということだ。
そのキーワードは未来破壊性ではないか。
「我が亡き後に洪水来たれ」という言葉が、ルールなき資本主義の本性を表す言葉としてよく使われる。つまり未来と、未来の安全性と、未来が保持すべき伝統を、ひっくるめて売り物にしちゃうということだ。
原発を撤廃すればそれですむという問題ではない。ルールなき資本主義を根本から改革しなければ、同じような未来を破壊するような問題はかならず起きる。
もちろん、原発の持つ「異質な危険性」を他の問題と一緒にしてはいけない。あるいは核兵器の持つ全人類的危険を兵器一般と混同してはならない。
しかし私たちはそこからさらに議論を一歩進める必要があるだろう。それらの持つ異形の危険性を強調した上で、それにもかかわらず危険な道を突っ走ろうとするルールなき資本主義の衝動こそが最も根本的な危険となっていること、その本質的特徴が未来に対する破壊性にあること、したがってルールなき資本主義の克服こそが事態の根本的解決となること、を訴えていく必要があるだろう。

1973年9月11日、ピノチェトによるクーが起こった。ピノチェトはアジェンデのこもる大統領宮殿を爆撃した後突入した。アジェンデは最後まで抵抗した後、遺体となって発見された。
これが自殺なのか軍による射殺なのかについては、長年議論が交わされてきた。
この論争に終止符を打つため、今年5月に遺体を運び出し、検視が行われていたが、19日に司法当局がその結果を発表した。
アジェンデは持っていた自動小銃で頭部に銃弾を2発発射。内1発は遺体内に残っていたとされる。
まぁとりあえず決着はつきましたね。それでピノチェトの罪が軽くなるわけでもないが。

心臓死とされてきたパブロ・ネルーダについても、「毒殺」の疑いがあるとして、今年5月控訴裁判所に対し告発がなされた。(ネルーダは国民的詩人にしてノーベル文学賞受賞者。共産党員で70年大統領選挙の候補となったが、アジェンデを統一候補とするため辞退した。クーの1週間後に自宅で“心臓発作”を起こし病院に運ばれたが、まもなく息を引き取った)

ソニーの首切り事件の続報が出た。多賀城の正社員280人を広域配転、基幹社員150人を全員雇い止めする計画に変わりはない。
分かったのはこれらの期間社員が「09年に労働局から偽装請負の是正指導を受けて直接雇用に切り替わった人たち」だということ。つまり最初から切る気満々だったということで、震災は勿怪の幸だったことである。
もうひとつは宮城労働局が、すでに5月に「労使でよく話し合うこと、雇用のルールを理解する」よう「啓発を実施」していたことである。
ソニー労組によれば、会社側は「ご理解をいただきたい」と繰り返すばかりだという。労働局もなめられたものだ。

それにしてもメディアは見事なまでにこの事件をネグレクトしている。週刊現代でさえ報道しない。地方紙もふくめて活字メディアは完全に沈黙。当然ながら放送メディアは一顧だにしない。赤旗の後追い報道ばかり続けるのもたしかに癪ではあるが。

トヨタ自動車の豊田章男社長が新小型ハイブリッド車の生産工場を岩手に建設すると発表した。
ものづくりより金作りに精出した奥田時代から見ると夢のようだ。
年産10万台規模。被災地の復興支援が狙いで、人材確保に向け、若手技術者を養成する学校を設立することも明らかにした。
ソニーよ、爪の垢でもせんじて飲め。

赤旗に乗った放射性物質の流れ図。九州大学と東大の研究グループの作成したもの。

http://livedoor.blogimg.jp/shosuzki/imgs/6/2/6202ebae.jpg

放射性物質は上昇気流で巻き上げられ、ジェット気流に乗って1日3千キロのスピードで移動。3月18日には米西海岸に到達。22日には欧州各国に到達した。
海水汚染については原子力研究開発機構が計算結果を発表。これによると、黒潮に乗って5年後に米西海岸に到達する見込み。

日本人は世界に対して二通りの挨拶が必要だと思う。
ひとつは地震と津波について、「ご心配いただいてまことにありがとうございました」
もうひとつは原発事故について、「ご心配をおかけいたし、まことに申し訳ございませんでした」
その後には「今後はご迷惑のないよういたしますので、ご安心ください」と加えるとなお良い。

私たちはちゃんと挨拶しているだろうか。
米倉会長は、ヨーロッパでちゃんと挨拶できたのだろうか?
「ごく微量で自然放射能と変わらない」とか「ただちに人体に影響を与えるものではない」などといってないだろうか。「それでも原発続けます」といっているのだろうか。まさか「少量の放射線は人体に良い」などとは言っていないだろうか。


東電による賠償の遅れがはなはだしい。
本来、処理委員会に入るようなケースは例外で、当然ただちに支払うべきケースが滞っている。率直に言って東電には事務処理能力がないし、その気もない。
法に照らせば一次責任が東電にあるのは当然だが、それを言っていても始まらない。行程表を明らかにし、政府が直接乗り出すべきだ。
同時に、基本的なガバナビリティが欠如している東電という会社そのものを破産処理すべきだ。こんな会社に将来の日本のエネルギー政策を任せておくわけには行かない。
とりあえず政府の管理する電力事業を立ち上げ、発電・送電・配電その他を移行すべきではないか。
もちろんこれは過渡的営業形態である。何が何でも国有化すればよいというわけではない。ただ地域独占の民間経営というのは、いかにも不自然である。現在の9電力会社体制というのはいずれ改変されなければならない存在である。
民営を貫くとしても、特殊な法人であることは間違いない。地域独占経営に企業秘密は必要ない。決定・実施過程を徹底的に透明化すべきだ。最低でもNHK並みの規制は必要だ。自民党に献金するなど正気の沙汰ではない。
現場の社員にとっても透明性と政治的中立は不可欠だ。いくら高給をもらったとしても、「あの人東電よ」と後ろ指指されるのは気持ちよいものではない。ここがすっきりすれば、よほどやる気が出るだろう。

厚労省の国民生活基礎調査が発表された。
赤旗の報道では世帯当たりの所得が15年間に114万円も「ガタ減り」したとされている。
ただしこの間に核家族化と高齢化が進行しており、世帯の概念はかなり変わってきているので、「一概には言えないな」と思ったら、さすがに「児童のいる世帯」の比較も同時に出している。これだと減少幅は84万円だ。いずれにしてもありがたくない数字である。
もっともこれは年俸8億円の社長までふくめての平均だから、普通の日本人世帯がどうなっているかは所得階層別で最多の階層を見る必要がある。94年の最多階層は300~400万円だった。10年は200万~300万円台に移っている。これでみても100万円の年収減は明らかだ。
100万円の減少といっても、年収1千万の人が100万減ったわけではない。月給で言えば30万円の給料が20万に減った計算だ。これは生活保護水準ではないか。
この間GDPはどうなっているか。実質GDPで見ると96年が492兆円、10年が540兆円で約50兆円の増加となっている。ドル換算でも、購買力平価換算でも少なくともこれだけの収入減少を説明できるような指標はない。

では金はどこへ行ったのか?
それを示唆するのが共産党佐々木議員の作成した表である。

財務金融委員会配付資料1. 2008年2月19日 日本共産党 佐々木憲昭

国民所得、雇用者報酬、企業所得と家計の可処分所得、貯蓄の推移

(単位:兆円)

この表で96年と06年を比べると、次のことが読める。
①国民所得は6兆円減った。
②雇用者所得は10兆円減った。
③企業所得は16兆円増えた。
④雇用者所得の減少は貯蓄の減少をもたらした。庶民の懐はすっからかんである。
ただしここには当然08年リーマンショックの影響はふくまれない。

ラテンアメリカの転換の年となった2002年、ブラジルでどういうことが起きたかを振り返ってみたい。

この頃ベネズエラではチャベス政権打倒の運動が激しさを増していた。アルゼンチンではキルチネルが債権者を相手に丁丁発止のチャンバラを演じていた。

アメリカではブッシュがアフガンを襲い、さらにイラクに侵攻すべくキャンペーンを繰り広げていた。それらを念頭に置きながら見ていただきたい。

9月の大統領選挙を控え、革新候補として労働党のルーラが出馬した。前回も惜敗だったが、今度は序盤から圧倒的な優勢。6月の世論調査ではルーラの勝利はゆるぎないものとなったかのように見えた。

7月に入ってから海外資金の流出が急加速した。この結果、通貨レアルが2割近く急落し1ドル=3レアルの壁を越えた。官民あわせ2千億ドルの対外債務はその分ふくらむ。ふくらめば国債格付けは下がる。借り入れ金利は30%に達した.

素人計算だが、5年借りると1万円が3.7万円になる。しかもレアルは2割下がっているから、ブラジルの返済額はレアル換算で4万6千円となる計算だ。サラ金でもこれだけえげつない貸し出しはしないだろう。

8月、IMFは融資要請を受諾。その条件として従来の経済政策の維持を要求.カルドーゾ大統領がルーラに経済政策の維持を迫る.ルーラは基本的に要請を受諾する.

アルゼンチンのときも本当に腹が立ったのだが、IMFの融資というのは金利の支払い分だけだ。つまり支払猶予だ。払わなくてもいいとは言っていない。自分の腹はまったく痛んでいないのだ。それどころか、貸した金はとうの昔に取り返している。

同月末の世論調査では、ルーラ候補の支持率が下降。中道左派のシロ・ゴメス候補(労働者戦線党)とほぼ同率で並ぶ。

これら一連の経過は、すべてアメリカのやらせと見れば、つじつまがあう。しかしこれだけえげつないマッチ・ポンプ作戦を行えば、結局は自分の首を絞めることになる。それがこの10年の動きで実証されている。

ルーラは結局勝利した。カルドーゾ大統領は自党の候補の敗北を代償にして、ブラジルの国家の尊厳と民主主義を守り抜いたことになる。

カルドーゾは01年9.11のあと、以下のように語っている。骨のある政治家である。

我々は世界決定を管理する機構に関して未だ規則を決めていない.しかしそこでは,恐怖に頼らず,非対称でなく、平等かつ貧困の少ない,世界の誰もが望むグローバルな秩序を実現しなければならない.
いっぽうでは,文化、経済、技術、軍事に関して傑出した国が存在し、何かと注意を促し、従わない場合は更に強力なG7に持ち出し、自説を全世界の世論のように強要する。一国のみが世界に命令するのは避けるべきである.野蛮なのは卑怯なテロリストばかりでなく、地球規模で一方的な不寛容を課す側にもある。
一方的に言い分を押し付け、是非を強制するのは交渉ではない。富裕国の利害を先に決定した後で、我々に必要な事項を伝えるのではなく、同時に双方の言い分を聞き交渉することが必要である.

赤旗にドイツの原発代替計画が報道されている。簡単な内容で、風力に期待した計画のようだが、興味あるのはそこではない。
まず第一に、ドイツの原発依存度はそれほど低くはないということだ。現在のドイツの原発は稼働中のものが17基あり、発電量の22.5%を占めている。これを10年後に完全閉鎖するというのだから、日本の経団連が聞いたら眼をむきそうな話である。
第二に、ドイツは電力輸出国だということである。10年まではそうだった。これからは当分のあいだ輸入国になりそうだが、「ドイツは買電国家だ」との宣伝は間違いだ。ただ地域によってはフランスから買ったり、別な地方では売ったりとEU内で融通しあっている。
第三に、代替エネルギー計画の成否は送電・蓄電・節電にかかっていると見ている。高圧送電網の拡充に11億ユーロ、蓄電技術の開発に2億ユーロが投じられる。
とかく日本では「脱原発なんてできっこないよ」という議論が先行しがちだが、ドイツにできて日本ではできないというのでは、「技術立国」の名折れではないだろうか。
電気を湯水のように使うか、さもなくば海外に移転するという会社はどうぞ出て行ってください。長い目で見れば、泣くのはあなたたちだと思います。

2002年のパンチはより直接的で暴力的だった。ベネズエラでは石油会社を直接統制しようとしたチャベス大統領が、4月にクーデターにより倒された。しかしこのクーデターは実行者の不手際で混乱し、チャベスを支持する民衆と軍のチャベス派の逆襲により頓挫した。しかしこれはアメリカにとっては小手調べのようなもので、その年の12月から1ヵ月半にわたるゼネストこそが力勝負の決戦だった。

時を同じくしてブラジルの大統領選挙が行われた。ネオリベラリズムを信奉する現政権に対し、労働党のルーラ候補を押し立てた左翼が優位に立つと、アメリカはルーラ当選阻止のため大規模な金融介入を行った。ふたたびブラジル経済は大混乱に落ち入り、破綻の瀬戸際まで落ち込んだ。

しかしカルドーゾ大統領は、保守派ながら米国の干渉に対して毅然たる態度を取った。いっぽうでルーラに政策の穏健化を説く一方、このパニックを収拾し選挙への影響を最小限にとどめた。アメリカも現職大統領の捨て身の訴えに耳を傾けざるを得なかった。こうして11月、ルーラが決選投票に勝利し、ラテンアメリカ最大・最強の国ブラジルに革新政権が誕生することになったのである。

ルーラは大統領に就任するや否や、合法性の尊重の名の下にベネズエラの現政権支持を打ち出した。ルーラはフランス人記者に「チャベスが倒されれば次は私の番だ」と語った。こう着状態にあったベネズエラのゼネストは、このあと一気に収束に向かうことになる。

話は戻るが、キルチネルは本質的には保守系の政治家である。ただ次の三点は革新派もおよばないほどの強い信念を持っている。

第一にに反IMFである。IMFというが、アルゼンチン国民にとってIMFも世界銀行も変わりはない。国際金融機関の装いはとっているが、正体はアメリカ財務省である。軍事独裁時代の借金を高金利で膨らませ、国家の財産を身ぐるみはがし、国民を失業と貧困の渦中に突き落とし、とるものがなくなると、「自己責任だ」といって突き放す。

第二反軍事独裁である。彼自身が学生時代に投獄された経験を持っている。しかし最大の理由は軍事政権がアルゼンチン国民に塗炭の苦しみを味わせた対外債務を作り出したことにある。

第三に軍と癒着し、アメリカと癒着し、国を売った既成政治家と、国民を犠牲にして恥じない旧支配層である。デラルア大統領を追い出したデモのスローガンは「みんな出て行け!」であった。恐ろしくアナーキーなスローガンではあるが、当時の民衆の気分をこれだけ的確に表現したスローガンはない。

このなかでもっとも大事なのが、第二の視点である。IMFや既成政治家は目の前にいるから誰でも分かるが、軍事独裁政権についてはすでに30年近く前の話である。しかも軍事政権時代にその恩恵をこうむった人々もいるし、反軍政を唱えたゲリラが国民の支持を受けているわけでもない。

しかし肝腎なことは、いまの経済危機を軍政にさかのぼって構造化することである。そのことにより初めて、経済再建の問題と政治の民主化の課題が切り離しがたく結びついていることが理解できる。そこを抑えているからこそ、キルチネルの政策は一見過激で大衆迎合に見えても、根本のところで揺るがないのであろう。

30年にわたるアルゼンチンの貧困化
第一次軍政が終了した1971年と比較して,
①対外債務は76億ドルから1300億ドルに増加,
②失業率は3%から20%に増加,
③極貧層は20万人から500万人に,貧困層は100万人から1400万人に増える.ちなみにアルゼンチン総人口は3700万人.
非識字率は2%から12%に,機能的非識字率は5%から32%に増加.
これに対し,政治家,組合幹部,企業経営者が国外に移した資産は,総額1200億ドルにのぼる.

シャキーラがアントニオ ・デ・ラ・ルアと離婚した、とのニュースが流れた。ルアはデ・ラ・ルア元大統領の長男で、弁護士としてもマドンナやU2などの契約を仕切る大物。昨年8月には既に別れていたという。

そんなことはどうでもよいが、興味を引いたのは彼らが11年も付き合っていたということ。11年前、デラルアはまだ大統領だった。2001年の末、クリスマスを控えた12月20日ブエノス市内は騒乱状態となり、デラルアは刀折れ矢尽き、午後7時半、群衆に取り囲まれた大統領官邸からヘリコプターで脱出した.そして夜の9時、上院議長に辞表を提出したあと国外に飛び立った。

群衆は「みんな出て行け、一人も残るな!」(Que se vayan todos、Que no se quede ni uno )とのシュプレヒコールを繰り返した。

それは、ネオリベラリズムがアルゼンチンのような“大国”をさえ食いつぶす力を持つ怪物へと成長したことを示す、象徴的な出来事だった。アルゼンチンは破産し、立ち直るすべを失った。

しかし翌年5月に大統領となったキルチネルの下で、アルゼンチンはIMFに頼らずに国家を再建する道を選び、それに成功した。したがって2001年はラテンアメリカがアメリカとIMFの支配を拒否し、自力復興の方向に歩み始める上での画期的な年ともなった。

あまり日本では知られていないが、ラテンアメリカは98年と02年の二回アメリカ・IMFの必殺パンチを受けている。98年のパンチはテキーラ・ショックと呼ばれている。これの原因は二つある。ひとつはNAFTA後に国内経済が壊滅し経済危機に陥ったメキシコを震源として、パニックがラテンアメリカ全体に波及したことである。

この第一波の津波は各国とも辛うじて切り抜けた。その後この津波は東南アジアを襲い、中国や日本までも含めて深刻な経済危機をもたらした。その後津波はロシアを襲った。ここでパニックは攻守ところを変えた。東南アジア金融危機においてはヘッジファンドが仕掛け人だった。ところがルーブル危機の場合は欧米資本がかなりの資金を投資していたため、自らの放った火の粉が自らに降りかかってくる結果となった。

資金繰りに窮したヘッジ・ファンドや米証券会社は対ラテンアメリカ債権を現金化することで資金を充当しようとした。そもそも米政府の財務・商務トップは証券会社トップの横すべりである。米財務省はこれを支援するためにIMFの機能を最大限活用しようと図った。

これが地球を一周して戻ってきたテキーラ・ショックの第二波である。とりわけ攻撃が集中したのがブラジルだった。当時ようやく軍事政権時代の経済的混乱を正常化し、回復に向かおうとしていたブラジル経済は、債務の厳しい取り立てを受け、木の葉のように翻弄された。しかしほとんど破産しかかったブラジルは、最後に「潰すには大きすぎる」との米政府の判断で救済された。ヘッジファンドの送り込んだスタッフがブラジル政府の主要財政ポストを握るという条件付だった。

しかし同じように取立てを受けたアルゼンチンは、「どうでもよい国」との扱いを受け、それが最終的破綻へと後押ししたのである。

その象徴的な出来事が10月に起きている。アルゼンチンのカバージョ経済相が、金策のためニューヨークを訪問した.しかしIMFも米財務省も、面会予定がないという理由で会談を拒否した。ていの良い門前払いである.
カバージョといえばかつてドル化政策を導入し、アメリカから救国の英雄とたたえられた人物である。私はこれを「カノッサの屈辱」にたとえたい。


6月29日の記事で、中国とベトナムの南シナ海での紛争が解決の方向に向かい始めたと書いた。その後、フィリピンとの交渉なども始まり、事態は改善しつつあるものと考えていた。
その矢先の7月5日、中国海軍の艦船がベトナムの漁船を漁場から強制的に排除する事件が発生した。AFPの報道によると南シナ海で操業中のベトナム漁船に中国艦船が近づき、魚を差し押さえた上、漁場から連れ出したというもの。
情報の内容からして出所がベトナム側であることは明らか、報道が事件から10日たってからのものであることから、ベトナム側はさまざまな判断の上、この情報をリークしたものと見られる。
中身の異常さもさることながら、党レベルでの合意が軍によって破られたことに強い違和感を覚える。たとえ民主主義の内容やレベルに問題があるとはいえ、党・軍・政府の団結と統制が健在である点で、私たちは中国に対する信頼を構築してきている。党の方針が軍に貫徹しない状況になるなら、それは即中国の政治体制の危機である。
汚職・腐敗もたしかに深刻な問題であるが、東シナ海での石油掘削の事故を隠蔽したこともふくめ、中国の「内向き体質」が強まっているのではないか、鄧小平路線の否定的側面が復活・強化されているのではないか、と心配である。

ラフマニノフの前奏曲ト短調という曲がある。作品番号は23の第5.
YOUTUBEで何気なしに集めてみたら15種類も演奏があった。何となしに聞いてみたが、そんなに良い曲だとは思えない。こけおどし的なところがあって、コンサートで聴けばそのすさまじい音量で圧倒されるかもしれない。とにかく難しい曲だということは分かった。ひとつもミスタッチなしに弾いている人は誰もいない。とくにライブの演奏はほとんど聞くに堪えないほどのものもある。
聴いた順にいくと
1.ベレゾフスキー   やたらと好きな人がいるらしく大量にアップロードされている。ほとんどがロシアのテレビのエアチェックのようだが音質はひどい。この曲の演奏はあまりのミスタッチの多さにメロディーラインさえはっきりしない。
2.ガブリーロフ これもベレゾフスキーと似たり寄ったり。ロシア風のぺたぺた、べしょべしょのタッチだから、救いようがない。
3.ランラン 最初から遅めのテンポで間違いなく弾いている。しかし遅さに理由がなく、メロディーに不自然なアクセントをつけている。たぶんラフマニノフは好きではないのだろう。
4.キーシン コンサートのアンコールで弾いたライブ録音で、正直手抜き演奏。
5.アシュケナージ いまとなっては音が古い。間接音の多いくぐもった録音だ。むかしはこれを、「さすがはデッカ」といって伏し拝んで拝聴したことが懐かしい。ミスタッチは目立たないが、録音テープをつなぎまくっているのだろう、迫力もない。
6.リヒテル なぜリヒテルがヤマハなのか良く分からない。リヒテルの弾くピアノからはピアノの音がしない。札幌のコンサートでは大枚1万円を払って寝ていた。さすがにミスタッチはほとんどない。
7.ベルマン スタジオ録音ではこれが一番だ。一発どりのようでミスタッチもあるが、メロディーラインがすっきりと流れて聴きやすい。安心して身を任せられる演奏である。ただし器は小さい。
8.バレンティナ・リシツァ ソウルのコンサートの録音。コンチェルトのあとのアンコール演奏のようだ。アンコールとは言え相当力が入っている。前半は快調、乗っている。前半だけなら十点満点。ところが中間部の後ろで右手と左手が合わなくなってしまった。そのまま後半のクライマックスに突入していくが、しどろもどろ。最後に終わったときは「無事で良かったね」と拍手。
9.ホロヴィッツ これは良い。ラフマニノフを聴いている気がする。所々にホロヴィッツの独特のキラリが光る。ミスタッチも相当なものだが、終わった後に盛大な拍手があって、「えっ、これってライブだったの」とびっくりした。メトロポリタンでのコンサートとのクレジットがある。
10.ユリアナ・アヴデーバ これは掘り出し物。隠しどりの映像で、「わが子の発表会」を録画したのかと思ったが、何のなんのすごい演奏だ。ミスタッチは少なからずあるが破綻はしていない。しかもピアノが鳴り響いている。メロディーもくっきり浮かび上がり、さすがにホロヴィッツほどには芸術の香りは匂い立たないが技術は一番だ。クレジットを見るとパリのコルトー・ホールでのリサイタル、ピアノはヤマハ。


*ネットで検索したら、正確にはユリアンナ・アブデーエワというのだそうだ。去年のショパンコンクールの優勝者。さすがにうまいわけだ。タッチが深くロシアっぽくないが、最近はロシアも変わってきたのだろうか。ヤマハはショパンコンクールの前から先物買いでスポンサーになっているようだ。

*リシツァは音だけで聴いたときと画像つきで見るのとはだいぶ印象が違う。見事に弾ききってるようにさえ見える。それにしても大女だ。手の大きいことラフマニノフばり。音も大きいが、やはりロシア風のタッチで粒立ちは悪い。快速球ではなく剛球投手だ。
それにしても、こういう風に弾いちゃったらつまらない曲だ。

*驚いた。ベルマンの演奏は79年、ミラノのコンサートでのライブ録音なのだそうだ。ほとんど完全無欠。しかし味はない。音色もさえない。一世を風靡したソ連の「名演奏家」で芸術の香りがするのはギレリスのみ。(そういえばアシュケナージも良かった)

というわけでバリバリを聴きたければアブデーエワ、ミスタッチが気にならなければホロヴィッツというのがお勧めどころです。

安全のコストについての文章が舌足らずになっています。さらに書き込むのも面倒なので、09年11月に書いた更進記録を転載します。

  健康という言葉はきわめて多義的でそのとき、その人の思いによってニュアンスが随分変わって来ます。最大公約数で言えば、健康とは「不健康」でないという意味の形容詞です.「正常」とか「健常」と読み変えることも出来ます。
  「健康診断書」を書くときにいつも困るのですが、一通りの問診や診察、若干の検査結果を見て、「健康である」と診断するのは躊躇します。診断書では「健康 である」とはせず、「異常を認めない」と記載することが多いのですが、世間では「それを健康である」と書いてほしいといってくるのです。「それで良いじゃ ん」ということです。「無病息災」ということですね。
 これが健康に対する日本人の通念ですが、英語のヘルスというのはかなりニュアンスが違って いて、ヘルスというのはかなり意識的に作り出すものという感覚があります。風土の違いがあるのでしょうか、人間というのは放っとけば不健康になってしまう ので、絶えず健康でいられるように努力しなければならないという考えがあるようです。
 戦後教育の一環として「保健・体育」という教科がアメリカ から持ち込まれました。体育の先生といえば暴力団風の感じのいかついおっさんで、それが週1回、ジャージー姿で教室にやってきて、いかにも窮屈そうに「か らだの仕組み」とかの授業をやるのですが、まじめに聞いている生徒などあまりいませんでした。でも高校入試のときは受験科目の一つなので、それなりに参考 書に赤線を引いた記憶があります。昨今はどうなっているのでしょうか?
 余談はさておき、アメリカ人の心の中では、保健という活動と、体育という活動は一本線で結ばれているのです。体を育てる活動と同様に、健康も育てるものであって、たんに守るべきものではありません。健康という状況は自らが主体的に作り上げるべきものととらえられているのです。
  これに対し、日本では健康は一つの生得的な所与と考えられています。人間は放っとけば健康なのであって、それを不健康な生活をして壊してしまうから不健康 になってしまうという風に考えます。これは水に対する考えと似ていて、日本では「水は天からもらい水」なのに、他の多くの国では「水は苦労の末に獲得すべ き貴重な社会的資源」なのです。
 もっと話を膨らませると、結局健康に対する考え方は水に対する考え方によって規定されているのかもしれません。 人間の体の90%は水からできているわけですから、その水をどこからどのように獲得して来るかというのは、人間が自己を物理的に維持する上で決定的な条件 となります。水を獲得するのが困難なほどそれは社会組織の発達を促します。したがってその延長上にある健康・保健のとらえ方も社会的ニュアンスを帯びてき ます。

ということで書いていますが、この健康というところを安全という言葉に置き換えればそのまま通用するでしょう。安全は守るべきものではなく、社会の力で作り出していくべきもの、育てていくべきものなのです。したがってそれにはかなりのコストが必要なのです。それを電力料金の値上げという形でまかなうか、節電という努力でまかなうかということになります。
ただ、今の日本では、それだけではすみそうにありません。米倉会長や葛西会長をはじめとする「安全ぼけ」で「欲ぼけ」の財界と闘うというコストがそれに上乗せされるでしょう。

自販機の記事を書いていて思ったのだが、日本は本当に安全な国である。外国なら自販機の半分はぶっ壊されるだろう。自販機は利の薄い商売だから、とても持たない。
よく右翼が憲法改悪=交戦権実現を持ち出すとき、「護憲論者は“平和ぼけ”だ」と言うが、平和ぼけはむしろ右翼のほうではないだろうか。あまりにも安易だ。戦争というもののもつ、不条理で有無を言わせぬ絶対的な怖さを感じていれば、もう少しぎりぎりまで平和でがんばるはずだ。
同じように、これだけの原発事故があってもまだ原発続けますとか、原発はコストが安いと考えるのは「安全ボケ」だ。もちろん作られた原発安全神話があり、国民がそれに乗せられていたというのが主要な問題ではあるが、神武のむかしより「水と安全はタダ」という経験に裏付けられた牢固たる信念もあるのではないか。
ことは原発だけではない。戦後の数年間を除けば日本は他国に侵略されたり占領されたりした経験を持たない。天然の「独立ぼけ」である。だから今も事実上の半占領状態に置かれている沖縄県民に対して、「お国のためにがんばれ」としかいえないのである。

赤旗文化面にデュラン・れい子さんというエッセイストが、日仏の文化の違いを書いている。その中で次のように自販機について触れている。

日本の自販機の設置台数は560万台、1台で家庭の電力消費量と同じだといわれています。

ちょっと気になったので、ネットで調べてみた。冷/温機能つきの販売機(おそらく一番使用電力が高いタイプ)について下記の記載があった。

自動販売機の消費電力と電気代
総容量1.2kWの自動販売機群(定格消費電力600Wの飲料用自動販売機×2台など)を24時間フル運転した場合、1.2kW × 24時間 × 30日 = 864kWh の消費電力が、月あたりに発生します。

これは、自宅付近に自販機を設置したいという人のためのアドバイスのページのようだ。この計算だと1台で月432キロワット・時、年間5千キロワット時というところ。相当なものだ。

ところが総合資源エネルギー調査会省エネルギー基準部会 自動販売機判断基準小委員会 最終取りまとめ という大変長たらしい名前の文書には、下記の表が掲載されている。

http://livedoor.blogimg.jp/shosuzki/imgs/9/5/95b6d578.jpg
これで見ると5000キロワット・時どころか半分以下の2,200キロワット時だ。ただこれはあまりに低すぎる。2200/365/24だと250ワットになってしまう。いったい自販機の消費電力はいくらくらいなのか。

台数もデュラン・玲子さんの示した数字とはだいぶ違っている。電力を食う飲料や食品自動販売機は280万台程度、他すべてを合わせても434万台に留まる。

顰蹙を買った石原都知事の発言

自販機の消費電力については腹立たしい「論争」があった。
石原慎太郎都知事が4月11日、当選直後の会見で「パチンコや自動販売機で余計な電力を喰うことで日本の経済を疲弊させる」と述べた。さらに15日にはこのふたつの業界に自粛を求め、政令の導入さえも匂わせた。

その根拠は「一日に使用される電力はパチンコが450万kW、自動販売機も450万kW。福島第一、第二原発の発電量(900万kW)とほぼ同じだ」というもの。

ところが、この「電力450万kW」発言はでたらめの数字だった。日本自動販売機工業会によると「自販機1台の消費電力は300ワットほど」。東電管区内の自販機台数は85万台(全国清涼飲料工業会)ということから、単純計算すると自販機の電力消費量は25万5千kWに過ぎない。(パチンコのほうは省略)

人品卑しい石原慎太郎らしい行動だ。やっつけても大丈夫そうな相手を見つけて、彼らをいじめることで巨悪に対する怒りをそらそうという意図が見えすいている。関東大震災のときの朝鮮人狩りと同じだ。しかもとんでもないデマを飛ばしても恬として恥じる気配がない。こんな男に投票した東京都民は全員福島に移り住んでもらうべきだ。

しかし、とりあえずここで言いたいのはそういうことではない。「自販機1台の消費電力は300ワットほど」ということで、250ワットもあながちウソではない。

2000年以前の自販機はかなり電力を消費したようだが、2005年ころから改良されて、約半分にまで軽減されているようだ。家庭一軒あたりの消費量と同じというのは、以前のデータなのかもしれない。

省エネが進んでいる

ウソか本当か知らないが、自販機工業協会はとんでもない数字を出している。こういう日本人が、私は嫌いではない。

省エネ法の特定機器に指定された缶・ボトル飲料、紙容器飲料、カップ式飲料自販機は、2005年度出荷機の消費電力量を基準として、2012年度までに業界平均で、次のように低減させることにしました。

指定品目別目標値
缶・ボトル飲料自販機1台当たりの消費電力量を36.3%低減
紙容器飲料自販機1台当たりの消費電力量を27.0%低減
カップ式飲料自販機1台当たりの消費電力量を17.9%低減

この目標がどう達成されたかがグラフで表示されています。


http://livedoor.blogimg.jp/shosuzki/imgs/c/b/cb777788.jpg


一世帯あたり消費電力

これは1ヶ月あたりなので、12をかけると3400キロワット時になる。自販機に直すと1.5台分だ。ただ世帯構成員数が急速に減っているので、たとえば一家4人の標準世帯では年間4千キロワット時を超えるというのが相場のようである。

http://livedoor.blogimg.jp/shosuzki/imgs/4/a/4a95e8e2.jpg


日本人はサービス精神が旺盛だが、ほとんどマニアックなほどの工夫好き、そして倹約が大好きな国民でもある。だから自販機も、もっと消費電力が減っていく可能性もある。
わたしは外国の暮らしをうらやましいとは思わない。自販機は社会の安全の証しでもある。自販機のある風景は、安全の風景である。街角から自販機が消える日に来てもらいたくもない。「贅沢は素敵なのだ」

原賠法の審議が本格的に始まった。
共産党高橋議員の質問を紹介する。
*東電は請求相手に「立証責任は被害者が行うのが原則」とし、21枚の書類を求め支払いを遅らせている。これまでの仮払額はわずか1064億円、事態に対しあまりにも遅い。相手企業がつぶれるのを待っているのでは?
*6月14日閣議決定で、国は東電を債務超過としないため、「上限を設けず」「何度でも援助する」ことになっており、これでは東電がリストラを実行する担保がない。海江田大臣は「リストラをしっかりやるよういっている」との答弁。
*法案には2兆円の国債を用いて東電に投入することを盛り込んだ。しかも無利子で金利分200億円は国民負担となる。
*東電本体以外の賠償責任がまったく問われていない。必要なのは電力事業の維持であって、債権者の保護ではない。三大メガバンクの債権だけで2兆円の残高がある。これを放棄させれば2兆円の国債はその限りでチャラだ。

当事者のあいだに誠意が感じられないようなら、破綻処理は依然として選択肢だ。せめてそのくらいのことは言えよ、海江田さん!

殺人と過失致死、どこが違うのか。人が死んでしまったわけで、人の命の重さはどちらにしても変わりはない。
両者の違いは加害者の意識の問題だ。ともに悪意はある。片方は殺意であるのに対し他方は未必の故意だ。ただこの未必の故意には相当の幅がある。この場合、個別の案件にしたがって故意の程度が議論の対象になる。
この場合の違いは、本人の意識ではなく、その故意がどのような結果をもたらしうるかという、予想結果の重大性に評価が移っていく。
その観点から考えると原発の事故は、放射能という異形の被害をもたらす点で未必の故意が厳しく問われることになる。
ただ水をさすようで申し訳ないのだが、未必の故意と殺意は、その対処法はまったく異なる。過失致死に対して最高刑はありえない。原発の場合はあくまでも国民の合意に基づいて進めるべきだろう。
しかし殺人事件ではその殺意が厳しく問われる。介護に疲れた夫が妻を殺して後追い自殺というような、情状酌量の余地が大いにある事件であっても、殺意という一点で、加害者は許されないのである。
誤解を恐れずに言うなら、殺人(大量かつ無差別・無制限の)を目的にした核兵器に対しては死刑宣告しかありえない。この点は死刑廃止論者も異論はないだろう。

*哲学的な記述が延々と続くが割愛。
*貨幣について: 貨幣は資本が実存するよりも前、銀行が実存するよりも前、賃労働が実存するよりも前から存在していた。なぜなら貨幣は単純な範疇であり、さまざまな段階の社会諸関係を表現できるからである。
いっぽうインカ帝国では協業、分業など高度な経済形態が生じているが、なんらの貨幣も存在していない。スラブの共同体では、共同体内部では貨幣は出現せず、その境界において、ほかの共同体との交易でのみ現れた。ローマ帝国では、その最大の発展の時代にあっても、現物税と現物給付が基礎となっていた。貨幣制度は軍隊の中でのみ完全に発達していた。

*過去の経済学のマルクスによる回顧と一口評
重金主義は富をたんなる物象として、貨幣の形で措定している。これに対し重商主義は富の源泉を商業活動に求めた。これは一大進歩であったが、この活動自体は金儲けという限定された目的で把握されていたに過ぎなかった。重農主義は労働の一定の形態である農業を富を創造するものとして措定し、富そのものについても貨幣という仮装ではなく、生産物一般として、労働の一般的成果として措定している。しかし重農主義は、農業に生産活動を限定することによって、富の源泉を労働生産物ではなく「土地生産物」と混同してしまった。富を生む活動のいずれの規定性も捨て去ったのはアダム・スミスの巨大な進歩であった。この移行がどんなに困難であり、また偉大なものであったかは、アダム・スミス自身が、なお時折、重農主義に逆戻りしていることからも分かる。

*経済学における「ロビンソン・クルーソー物語」の批判
人間はアリストテレスがいう通り「ポリス的動物」である。たんに社会的な動物であるだけではない。それは社会の中でだけ自己を個別化することのできる動物である。
大昔ほど個人は大きな全体に属するものであった。初めは家族の中に、のちには種族にまで拡大した家族の中に、そして諸種族の対立から生まれたさまざまな形態の共同体に属する。
「市民社会」において初めて、さまざまな社会的関連は個々人の私的目的のためのたんなる手段とみなされるようになった。それは同時に外的必然性として個々人に対立するようになる。
(これを分かりやすくいうと、近代社会になってはじめて「わたし対社会」という関係が成立するようになった。私にとって社会は利用すべきものとなったが、同時に私にのしかかってくる「よそよそしい」あるいは「まがまがしい」存在となった、ということになる)

*生産、分配、交換、消費は外面的には円環をなしている。生産は一般性、分配と交換は特殊性、消費は個別性を表現する。しかし共同体社会の本質は生産と分配である。交換は偶発的なものであり、消費は本来は経済学の外にあるものだ。
*生産は一般的な自然法則に規定されるが、分配は社会的な偶然により規定されており、両者の関係は矛盾をはらんでいる。ところが経済学者の中には分配にも自然的法則があるとして、生産と同列視しようとする見解がある。
*生産と消費の直接的同一性について この論理は資本論第一部の商品の分析にそのまま用いられている。今回は割愛。なお生産を出発点として位置づけるのはリカードゥの視点。
*現代社会では直接的な分配は、少なくとも主流ではない。自給自足経済では分配のあとの再分配として位置づけられた交換が、市場経済の下では圧倒的な比重を占めている。かつての分配は政府による租税徴収というかたちで、残されているに過ぎない。それにもかかわらず、マルクスは生産すなわち消費という大枠、そして生産と消費が分配に基づいて結合する社会を経済のプロトタイプとして押し出す。そしてその上で、交換がどういう位置づけになるのかを定めようとする。その際、ヘーゲルの「論理学」(本質論)を意識的に適用している(したがって非常に抹香臭い)。

分配と同様、交換も、明らかに生産のうちに契機として含まれている。第一に分業(生産の社会的あり方)がなければ交換もない。第二に私的交換は私的生産(私的可処分性)が前提条件となる。第三に交換の規模や形態(物物交換から貨幣経済まで)は生産の発展段階(可処分物資の余剰量)によって規定される。

バスティア「経済的調和」

*近代経済学はぺティとボアギュベールに始まる。そしてリカードゥとシスモンディに終わる。JSミルは諸説を折衷し融合して作った概論物に過ぎない。
そのなかでアメリカ人ケアリとフランス人バスティアは例外をなしている。
*アメリカはブルジョア社会が、封建制度の土台なしにそれ自身で始まった国である。そこでは、ブルジョア社会の諸矛盾それ自身が消滅していく契機としてだけしか現れていない。
*バスティアは遅れたフランスにあって、イギリスを観察していた。そして「イギリスにおいては経済学に属する多くの事柄がフランスでは社会主義とみなされる」状態を嘆いている。
*現実の歴史の中では、賃労働は共同所有の崩壊から生じる。それが「労働の全社会的定在」となるのは、身分制、賦役と現物収入が没落することによってである。したがって賃労働は労働を固定し報酬を固定させている諸関係の破壊・解体として現れる。したがって、歴史的には非固定性が賃金制度の性格なのである。
*賃労働は、それに先行する段階より高度の生産諸力の発展を前提とする。この社会的生産諸力の高度な発展が、賃金労働者の高度な要求の前提なのである。
*最初の賃金労働者は雇い兵である。それは国民軍と市民兵の衰退に伴い出現した。


日本語には非常に翻訳しにくい言葉がある。それも和言葉ではなく、漢字熟語に多い。
われわれの関係する言葉でいうと、「医療」、「療養」、「技術」などがその典型だ。
医療は、医療問題ならmedical issue, 医療機関ならmedical institutes とかなるが、「医療とはなにか」といわれるとなんとも困ってしまう。
技術も、技術革新ならtechnological evolution とか言えるが、「技術とは」と問われると、うまい訳語がない。technology はどう見ても技術学、工学であって「技術そのもの」ではない。
療養に至っては、そもそも概念がなかったから、「結核療養所」の療養を借りてきた一種の造語だ。
これを英訳しようとしたときは非常に困った。とりあえずself-treatment としてみたがきわめて落ち着きが悪い。
療養所がsanatorium だからsanitate にしようかとも思ったが、これは「保清」などの訳語がかなり定着している。cure が一般的だろうと思うが、看護婦さんが大夫手垢をつけてしまって、cure とcare などと頻用している。この場合cure は治療あるいは診療ということになり、care つまり看護あるいは介護と対立概念に絞り込まれている。
癒しとかヒーリングという言葉が最近はやっている。自分で治すという感じが出ていて使えると思ったが、どうも傷口を治す意味に限定されている言葉のようだ。それから発展して、心のササクれを癒す意味にも使われているようだ。
いろいろ辞書を見ていたらremedy という言葉にあたった。おなじ治療でも民間療法に近いイメージがある。病者の側の主体性がかなり強く響く。また治療だけでなく、状況に適合していく、足らざるを補う(compensate)というニュアンスもあるようだ。
語源上は元に戻るというらしい。
キューバにレメディオスという町があったが、こちらは復活という意味だと聞いた。田舎だが良い町だった。街角で買ったローストビーフのサンドウィッチがうまかった。横にご機嫌な58年製の赤のビュイックがいて、なぜかアンちゃんがえらく愛想良かった。
ということで、「療養」をremedy 、療養権をremedying rights と訳すことにした。なおright to remedy は補償請求権という法律用語となっているようなので、そちらは使わない。

療養権の考察 (日本語 英語




あまり品のない文章は書きたくないが、7月5日のブログで、米倉会長の経営する住友化学の子会社がセシウム除去剤をドイツから輸入・販売という「うわさ」についてはっきりさせておきたい。
米倉会長がこの件について承知していた可能性は低いと思われる。すくなくともそれを示唆する情報はまったくない。
米倉会長がヨーロッパ訪問に際して、輸入元の会社と接触した可能性はない。少なくともそれを示唆する情報はまったくない。
住友化学は系列の会社を含めて巨大な企業であり、社長といえども個別案件に至るまで掌握しているわけではない。まして米倉氏にとっては経団連会長という重責を果たすことが最大の任務である。しかも密かに首相を操って政治を牛耳ろうという野心を持っているわけだから、子会社が何を輸入しようと知ったことではない。

ということを前提として、知りえた事実を書き留めておく。

ラディオガルダーゼについて

3月15日 日本メジフィジックスが、放射性セシウム体内除去剤を緊急輸入したと発表。これは「ラディオガルダーゼカプセル」(商品名)で、製造供給元はドイツのハイル社。広報担当者によれば「関係当局からの要請を受けたもので、今後、東日本大震災の被災地に輸送され、国主導で患者に無償提供される」こととなっている。

一般名はヘキサシアノ鉄(II)酸鉄(III)水和物というから一種のキレート剤で、腸管内でセシウムと結合し、もろとも排泄される仕掛けのようだ。原理的には下痢または便秘、低カリウム・カルシウム血症などが考えられるが、それほど危険な薬ではなさそう。報道ではゼオライトでも吸着できるという。さらに市販のポット型の浄水器でも放射性ヨウ素の98%、セシウムの93%が吸着されるという。

要は、こんなことさえこれまで研究もされず、まして備蓄もマニュアル化もされていなかったということであり、それが最大の恐怖だ。

なお日本メジフィジックス社は昨年11月に同薬品の輸入販売承認を取得している。このとき日本メジフィジックス社が報道関係者各位あての「お知らせ」を発表しているが、なんとも奇妙な内容だ。

本剤は、国際的には、米国において Strategic National Stockpile の制度に基づき国家備蓄が開始されているほか、世界保健機関(WHO) においても Essential Medicine の一つとして備蓄推奨のリストに上げられるなど、標準的な放射性セシウム体内除去剤として位置付けられています。
 一方国内では、厚生労働省による「医療上の必要性の高い未承認薬・適応外薬検討会議」において、関係する学会等からの導入要望を受け、今回迅速な承認取得に至りました。(
ドイツでは35年以上前から販売されている

世界標準として位置づけられている大事な薬が、どうしてそれまで原発先進国日本に導入されていなかったのでしょうか。人権後進国の証明なのでしょうか。しかも導入後4ヶ月を経過しても備蓄はなく、事故後にあわてて緊急輸入をしたという顛末のようです。こういうのを「泥縄」というのでしょう。

日本メジフィジックスについて

「お知らせ」では自社をこのように紹介している。

日本メジフィジックス株式会社は、疾病の早期診断に有用とされる核医学診断に用いら れる高品質な放射性医薬品の開発、製造、供給に取り組んでまいりました。今後もわが国の医療のさらなる発展のために貢献を続けてまいる所存です。

日本メジ フィジックス株式会社は、住友化学株式会社とGEヘルスケアの合弁企業です。

くどいようだが、これは儲かるような薬ではない。米倉会長はもっと正攻法で叩かなくてはいけない。




政府が原発再開の条件としてストレステストを義務付けるとして以来、マスコミがさらにやかましくなった。毎日新聞は、新たなハードルを建てたことが混乱を生んでいると批判している。余分なことをするなという論調だ。朝日、読売は辺りを見回して様子をうかがっている風で、いまだに見解を明らかにしていない。

しかし地方紙の論調はこの方針変更を全体として支持しているようだ。

神戸新聞は社説で以下のように述べている。

「立地自治体に求めたいのは、性急な再開の結論ではなく、安全を確かめた上で判断する慎重な姿勢である」と述べている。

なぜなら 原発を推進してきた経産省主導の検査で、公正さや透明性を保てるだろうかという疑念が残るからである。IAEAが日本を名指しで指摘したのが安全規制当局 の独立性だった。

国際原子力機関(IAEA)が先の閣僚級会合で打ち出した国際的な原発安全検査ス トレステストに匹敵する検査にしなくてはならない…

日本国内には54基の原発があり、うち35基が停止中だ。来春には残る全てが定期検査 に入る予定である。一方で、地震の活動期に入ったとの指摘もある。稼働から40年もたつ高経年化した原発などへの不安も根強い.…

検査基準を厳しくし、基準に満たない原発は廃炉も辞さない。それくらいの姿勢で臨まないとだめだ」

きわめてすっきりした結論だ。世界最高の安全基準を誇ってきたわが国原発としては何も恐れる必要はないだろう。

西日本新聞は玄海原発のいわば当事者の一人として、政府方針への戸惑いを率直に明らかにしている。

「安全と言いながら追加検 査をする。一人芝居だ。性格付けも目的も、どこかあやふやで思い付きにも見える」とケチョンケチョンだ。

しかし政府の対応の拙劣さは厳しく批判するが、安全検査の新たな提起そのものについては賛同している。感情におぼれず、肝腎なところはしっかり抑えている。

「事業 者と規制当局のいわば身内のチェックでは国民の理解が得にくい。きちんとした基準や態勢を整えて厳正な検査を実施すべきだ」というのが結論だ。

NHKの右往左往ぶりとはえらい違いだ。

大企業も「思い切った再建策を」と叫びます。それは新たな投資に対するインセンティブです。税制面での優遇措置、地域限定の大規模な規制緩和です。 帝国データバンクが行った企業に対するアンケートの回答にこんなのがありました。 被災地域において投資促進税制・経済特区化などの投資インセンティブを与えるような施策が必要。これらがないと、企業は被災地域に再投資するのではなく、ますます海外展開を進展させる」(自動車部品製造、東京都)などの声が聞かれた。 「それはちがうでしょう!」と叫びたくなります。復興課題は人助けの話であって金儲けの話ではありません。悪質な金貸しが「いやならいいんだよ。こちらも商売なんだから…」と薄ら笑いを浮かべている感じで、実にいやな感じです。 このまま資本の論理が貫徹するに任せては被災地は犬死です。思い切った手段とは、この資本の論理を押さえ込み、国民一人ひとりの相互扶助の立場に立つことではないでしょうか。具体的には、大企業を引き受け先とする特別債の発行、そして金持ち優遇税制の廃止、最低でも一時凍結ではないでしょうか。 それには政治ががんばるほかありません。

昨日、帝国データバンクの調査報告を赤旗から転載したが、気になって直接ホームページを当たってみた。
この調査の良いところは、対象企業の数が膨大なだけでなく、相当の零細企業まで網羅しているところにある。そのため経済三団体のような大企業志向の意見ばかりでなく、現場の庶民感覚に近い。このような調査を「タダ」でやってくれるのはまことにありがたい。

まずは昨日引用した「特別企画 : 東北3県・沿岸部"被害甚大地域"5000社の現地確認調査」を見てみる。
リード部分で、
「倒産判明は少数にとどまるが、壊滅的な被害を受け実質的に営業不能状態の企業はその70倍も多く、今後さらなる増加が見込まれる」

調査対象
5000社の内訳であるが、市区町村別にみると、石巻市が989 社(19.8%)を占めた。以下、仙台市宮城野区(7.6%)、大船渡市(6.4%)、福島県浪江町(6.1%)が続いた。(人口2万の浪江町で307企業が登録されているなど、その対象は広範であることが分かる)
土建王国ともいわれる東北地域だけに、業種別には建設業が1742 社(34.8%)で最も多く、全体の3 割超を占めた。次いで、サービス業(16.1%)、小売業(15.4%)となり、製造業は比較的少ない。

http://livedoor.blogimg.jp/shosuzki/imgs/5/2/529f69e2.jpg


問題は「実態判明せず」が、どのような努力の結果、判明しなかったかということです。「実態判明せず」は「調査不能」ではない。調査不能の720企業はこの統計にふくまれていない。
「実態判明せず」の定義は「震災前の本社所在地に建物が存在しない、または代表及び会社関係者と連絡が取れず、取引先からも消息が聞けないケース」とされる。
すなわち「消え去った企業」の数である。現地調査の強みです。この調査に迫力があるのはそのためです。

調査の結果、2360 社で「事業継続」の意向を確認できた。しかし、このなかには「会社は全壊して何もなくなり先行きの見通しが立たないが、事業をなんとか続けたい」といった希望的な意向も多数含まれている。実際に事業継続が「可能」な企業数はさらに低い。
「未定・検討中」とした企業は226社。これは輪をかけてひどい。「自宅も店も流され、商売ができるわけがない。今後のことを考えられる状況ではない」など、今後の事業継続について全く見通しが立たずにいる。「廃業の予定」とした企業も62 社にのぼった。

要するに「生きている会社も死ぬ元気もないから生きている。カラ元気だけで生きている。死ぬのが面倒くさいから死なないでいる」状況にあり、4ヶ月もたったら、とてもカラ元気だけでは生き続けられなくなっていくでしょう。

かなり手遅れ状態になりつつあります。まずは酸素投与(生活支援)、点滴による栄養確保(金融支援)、そして思い切った輸血が必要です。
企業の35%が建設関係であることからも、かつて悪評高かった「公共事業」はきわめて有効な手段です。地域を限定し市町村を主要な発注主体とする建設・建築に資金投入することが重要と思われます(特区はだめ。積水ホームをもうけさせるだけで、金はそのまま東京に還流してしまう)

実質営業不能状態の企業が少なくとも2070 社という数字は、現状判明している東北3 県の関連倒産31 社のおよそ70 倍にのぼり、「倒産判明はあくまで氷山の一角」との従来からの指摘を裏付けるものだ。
今後、復旧・復興までの期間が長引くほど、これらの企業が先行き見通し難から事業継続を断念し、倒産手続きに移行する可能性は高く、関連倒産の件数が急増する可能性も十分にある。

改めて繰り返しますが、この調査、対象数といい調査方法といい、きわめて優れたものです。調査担当者に敬意を表したいと思います。


帝国データバンクの調査に触れたが、その下のコラムには被災地企業の苦境が例示されている。 大船渡市では漁業協同組合の建物が全壊しました。船の90%が使用不能となりました。 船を建造・修理しようと思うのですが、造船所が動きません。漁業者の訴えによると、造船所は再建を目指しているのですが、そのための銀行融資が得られないといいます。これまでの運営債務がそのままになっているため、追加融資は二重債務となってのしかかってくるからです。 復興スキーム、財政投入のスキームが一刻も早く打ち立てられなくてはなりません。すでに4ヶ月がたちました。もうすでに企業の半分が事実上倒産に追い込まれています。このままではあと1ヶ月で壊滅します。

帝国データバンクの調査によれば、被災地に本社のある4280社を対象にした調査で、「事業を再開した企業」が2210社(52%)、これに対し「事業休止中の企業」が10%だった。 同時に、「震災前の本社所在地に建物が存在しない」、「代表者および会社関係者と連絡が取れず、取引先からも消息が聞けない」ことから「実態判明せず」と判断される企業が38%にのぼりました。 帝国データは、事業継続企業のなかにも「携帯電話ひとつで細々と営業を続ける経営者も多い」とし、調査からは「被災地企業の厳しい状況が浮かび上がる」と指摘している。 なんとも厳しいデータだ。「実態判明せず」の中身は「事業休止」よりもっと厳しい。地上から消え去ってしまったのだ。死体すら確認できない「行方不明者」と同じだ。「音信不通」、「消息不明」というべきだろう。 震災から4ヶ月たった時点で、すでに企業の半分がアウトになっている。そこで働いていた人たちはどうなってしまったのだろう。 われわれが怒らなければならないのは、この「音信不通」企業が地震や津波で音信普通になったのではなく、震災後に支援の手を差し伸べなかったために音信普通になったということだ。 「いまこそ国際競争力強化を、いまこそ一体改革を」などと叫ぶ政策担当者が、「自立・自助」とかいいながら見殺しにしたのだ。

かつて「原発是か非か」という問題が正面から取り上げられたことなどあったろうか。いままさに歴史が音を立てて流れようとしている。いまや原発廃止は震災からの復興という課題以上の歴史的課題となっている。
ということを前提としつつ、運動論的にはこの課題は「震災からの復興」という枠組みのなかで語っていかなければならないと思う。少なくとも議論の積み重ねのうえに国民的合意を勝ち取るためには、復興課題との整合性が避けて通れない。

原発問題はいのちと安全と未来にかかわっており「金のことなどにかまっていられない」問題だが、復興問題はいのちと安全と未来を金に換算しながら進めていく課題である。
したがって経済政策全体との整合性が求められる課題である。

議論を進める上で、抑えておかなければならない問題が二つある。ひとつは通商白書批判でも書いたが、「震災それ自体が大変な事態だ」ということだ。終わっていないどころかこれから本格的になる。ここだけは絶対に抑えておかなければならない。

もうひとつは震災被害の本質は雇用問題だということだ。だから経済の議論をするときには、それが雇用にとってどうなのかという観点から評価しなければならない。雇用問題は社会福祉の課題であって、経済問題ではないという考えなら、復興問題に言及する資格はない。

復興会議が自立・自助を声高に主張するが、自立とは何か? まずもって自分で稼いで自活することである。しかし仕事がないのではどうしようもない。自立・自助を言うのであればまず職を与えければならない。
それが復興のための経済政策というものである。

そのためには地元の企業活動を維持させ、必要な援助を与えなければならない。金融面でも支えなければならない。これが復興のための経済政策の柱である。経済特区の創設とか輸出型産業への転換などは、雇用には何の足しにもならない。少なくとも雇用が最小限確保されてその後の話である。


経産省も白書を出した。今年のテーマは「震災を越え、グローバルな経済的ネットワークの再生強化に向けて」
まず題名が気に食わない。そう簡単に乗り越えるな! いまは震災に面と向き合って救援から復興へと乗り出す時期ではないか。後段の「グローバル」云々は震災前から行っていたことと同じだろう。ということは「もう震災のことなんか忘れちまえ」といっているのと変わらないではないか。
中身を見ると、そういう危惧がぴったり当てはまる。震災それ自体が大変な事態だ、何とかしなくてはという認識はまったく感じられない。彼らにとって問題なのは震災によって失われた国際競争力のことなのだ。せっかく進めてきた国際競争力強化のための努力が震災のせいで台無しになってしまったというのが彼らの嘆きだ。
一体人の血が通っているのだろうかといぶかしんでしまう。人々が安心して豊かな暮らしができるように、経済を発展させなければならないという大前提がないから、彼らの論理は三段論法にならない。人々が貧しく不安な生活を送ってでも、国際競争力を強化しなければならないことになる。なぜか、「国際競争力が落ちると大変なことになるから」だ。
この根っこのところがへんちくりんだから、そのあとの論理もわけが分からなくなる。正しいとか間違いというより、論理の筋が見えないのである。
たとえば震災により国際競争力が落ちる。国際競争力が落ちれば国内空洞化が進むという。ここまでは分からないでもない。ここからが難問だ。国内空洞化を防止するには海外市場を開拓しなければならない。そのためには貿易自由化のさらなる推進が必要だという結論を導き出すのだ。(もっともこれは赤旗記者の要約の仕方がまずいせいかもしれない)
経産省の立場から言えばしょうがないのか、とにかくひたすら輸出、輸出だ。そのために次のような理屈を持ち出す。
「内需喚起による国内経済への波及効果は外需の効果に比べ小さい。経済活性化のためには輸出の振興を行う必要がある」
これは、控えめに言っても相当特異的な理論だといえる。理屈の上では変数の入れ方次第でどのような結論も出せるが、ここ10年間の経済実績からはどこを押してもそのような結論は出てこない。輸出企業が元栓をきっちり閉めて、国内に利益を還流させない限り、外需の波及効果は限りなくゼロだ。せいぜい大金持ちの道楽や贅沢の需要が喚起されるに過ぎない。
経産省の目は一体どこに着いていて、どっちを向いているのだろう。

本日の経済面は情報てんこ盛りだ。
まずは労働経済白書。バブル崩壊後の雇用について分析を行っている。
*20代前半の完全失業率、非正規雇用比率が上昇。さらに完全失業者のうち長期失業者(1年以上の完全失業)が36%に達した。白書は「職業生活を始める入り口の段階が、年々厳しくなって」来たと述べる。
*非正規労働者の増加が賃金の大きな低下要因となった。
これらの原因は二つある。
①90年代に大企業が新規採用を厳しく制限したこと ②「制度の改正も影響していた」
そして制度の問題として労働者派遣法を指摘する。派遣労働の規制緩和が「今日の非正規雇用における諸問題を惹起した側面もあった」と批判する
*そしてそれらの傾向を大企業の利益至上主義と結び付けている。
「利益の拡大や株式価値の増大が志向され、賃金の支払いに向かう部分はあまり大きくはならなかった」 「企業の資本構成(内部留保)を強化する傾向が強まっている」

これらの事実はすでに指摘済みの内容だが、政府当局が認めざるを得ないほどに、状況が深刻化しているという点で、意味がある。


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