鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

2011年06月

震災復興債をめぐり議論が対立している。

ライブドアのブロゴスでは以下の論調が出ている。

震災国債」の日銀引き受けには反対する。理由は次の3点だ。 

1)市場メカニズムを歪め、財政規律が失われる。

マーケットを通すことで、国債には需給メカニズムが働き、価格(金利)が決まる。しかし、日銀による国債の直接引き受けは、マーケットを通さない。そのため、国債価格を政府が一方的に決めることが可能になり、日銀券が乱発され財政規律の崩壊につながりかねない。

2)インフレや円安を招く

日銀券に対しての信頼が失われ、円安が進行し、長期金利が上昇し、インフレになることが想定される。

すでに、震災と東電の計画停電によって多くのメーカーが打撃を受けており、今後数ヶ月は輸出が減少する一方で、燃料その他の輸入の増加も見込まれるため、貿易収支が悪化し、円安が進行することが考えられる。

それに加えて国債の日銀引き受けが行われれば、円安とインフレは加速する。

3)マーケットの国債消化能力がないと受け取られかねない

日銀が引き受けるのは、国債がマーケットで消化できないからだ、日本の国債消化能力はぎりぎりのところに来ていると見られる可能性が高い。


この文章を批判するのは問題がある。というのもこれが書かれたのは4月4日のことだからだ。2)については、為替の動きを完全に読み間違えている。

今進行しているのは円高とデフレなのだから、2)の理由は逆に国債発行を促す理由となる。

1)財政規律の原則は間違いなく正しい。しかしそれは日銀が丸呑みすることについての話で、マーケットを通すか通さないかという問題ではない。マーケットを通す普通の国債をさらに増発するなら、それはそれで別の問題が生じる。

復興債発行派は、「さはさりながら」と問題提起しているわけだから、これでは水掛け論だ。

そこで残るのが3)の問題、国債を発行したとして、果たして国内に消化能力があるのかどうかという問題だ。考えてみれば、最初から問題は誰が買うのかこの一点に尽きる。

それは共産党が言うように250兆円の大企業の内部留保しかない。これをマーケットを通さずに直接に、復興債引き受けという形で拠出してもらうしかない。消化能力が落ちた日本社会の中では、埋蔵金と呼べる資産はそれしかないのである。

これがマーケットを通さず、日銀丸投げをしないで国債を発行する唯一の方法である。そして日本の持つ資産を短期に集中的に復興に投下するための唯一の手段である。

もちろんこれは要請になる。いやだといわれれば強制力はない。しかしその際には企業減税、金持ち減税を撤廃し、累進課税を厳密に適用し、海外逃避資本に対し正当なペナルティーを課せばよいのである(これらはそうでなくても断行すべき事柄であるが)。

それにしても、5月末の日銀総裁の「無から有を生み出す打ち出の小槌はない」発言以来、復興債の論議はまったく止まっています。財源スキーム、どうするんでしょうかねぇ

ストロスカーンの後釜にラガルドが選出された。
ある意味どうでもよいのだが、報道記事の中で勉強したのは、アメリカがIMFの決定権を握っているということだ。
IMFの理事会の議決では85%の賛成が必要であるのに対して、アメリカは17%の投票権を持っているというのです。だからどんな提案でもアメリカの支持を得なければ議決できないのです。
IMFの投票権は株主総会と同じで、出資比率により配分されるのでこういうことになるのです。歴代ヨーロッパ出身の専務理事が選出されていますが、これはヨーロッパに力があるからでなく、アメリカがポストを分け与えているだけです。
中南米の経済危機のときドイツ人のケーラー専務が調整に乗り出しましたが、結局はアメリカの意思のままに新自由主義を押し付けるだけに終わりました。ストロスカーンも初めての左派専務理事として期待されましたが、この大枠がある限りやれることはたかが知れています。
今後IMFが生き延びていくためには、出資比率の見直し、アメリカの独裁権を奪い取ることが必要になるでしょう。

日本と元の関係と言えば北条時代の元寇だろう。中国を征服した蒙古帝国が朝鮮半島も制圧し、朝鮮との連合軍艦隊が博多に押し寄せ、最後は神風によって壊滅するというストーリーである。
しかし実はもひとつの関係があった。それがアイヌによる中国侵攻である。海保嶺夫氏の「エゾの歴史」(講談社)の内容を紹介しておこう。
最初の記録は1264年、骨き(山冠に鬼)が樺太から侵攻したため、元が黒龍河河口近くに遠征してこれを征服したというもの。以後1308年までおよそ1世紀半にわたって、繰り返し骨きとの戦いが記録されている。
すごいのはアイヌを駆逐するため動員した兵の数が数万人とただ事ではないことである。万という数が白髪三千丈的な表現であるにせよ、1278年に元が征東元帥府創設したり、名だたる将軍の率いる三つの大部隊を船千艘に乗せ樺太に送り込んだというからやはり大事である。
アイヌはこれらの攻撃に耐えた。降伏・帰順はしたが滅亡はしていない。
海保氏は、これらの記録から、元の数万の兵と正面から戦って負けない勢力が樺太に存在したと推定する。そして少なくとも鉄製の武器で武装した万を超える兵力がアイヌの側に組織されていたと見ている。これは魏志倭人伝よりはるかに面白い。
日本側の文献は皆無に等しいのだが、考古学的に見て樺太にそのような勢力が土着・成長していた証拠はなく、そのような強力な武装集団は津軽十三湊に根城を置く安藤氏が組織し派遣したと見る以外には考えられないだろうと筆を進める。
海保氏以外には骨鬼=安東氏論を展開している人はいないようだが、否定している人もいないようだ。

安藤氏はエミシの末裔であることを自認している武装集団である。おそらくは平泉の安倍・藤原一族の系統と想定される。源頼朝は厨川の合戦で、藤原一族を滅ぼしたことになっているが、実は平泉を明け渡して津軽に本拠地を移したに過ぎないかもしれない。
さすがに元帝国と戦ったのが義経だというわけにはいかないが、案外その孫あたりがアイヌ軍を率いていたかもしれない。北海道各地に義経伝説が残っているのもそれと関係あるのかな。

大事なことは岩手にせよ津軽にせよ当時の農業限界地であり、そこでの政治支配体制は農業生産を基盤として成立したものではない。ハンザ同盟のごとく武装商人集団の支配する世界である。彼らの力の源は、アイヌに対する鉄製品の独占的供給力にあったとされるが、ポーランドを越えてロシアにまで領地を形成したドイツ騎士団のような集団があったとしても不思議ではないだろう。


不破さんがテレビで語ったのが赤旗に掲載されている。
さすがと唸ったのは、福島原発事故が峠を越えたのではなく、これからが非常事態の瀬戸際に向かうときなのだという指摘だ。
炉心にあった「死の灰」の1%が空中に出たといわれる。ということは、まだ99%がそこにあるということだ。それがどうなっているか。

11万トンたまった汚染水は、10万トンの大きな集中処理施設を作って、大部分移したはずなんですよ。しかし移しても減らないんですね。ということはそれが地下水とつながってもっと巨大な汚染水となっているのではないかと考えられるんです。
…放射能を原子炉の中に閉じ込められないで、水が担い手になってどんどん外に出つつあるというのが現状なのですね。

ようするに、事態はいまも進行中で、それどころか、これからがもっとも重大な局面に入るのだという認識を持つべきだ。原発再開論を語るにはまだ早い。
「それでも原発だ」というときの"それ"の中身が恐ろしい勢いで膨らんできますよ。もう少し経過を見てからでないと恥をかくことになりますよ、ということだ。


放射能が降っています。
静かな夜です。

赤旗の文芸欄に紹介された、和合亮一のつぶやき詩。6月に徳間書店から「詩の礫」として発刊されたそうである。世の終わりの夜もこのように静かなのだろうか?
ところで著作権は大丈夫かな?
金子兜太が紹介した句もすごい。

奥底の しれぬ寒さや 海の音

これは実は江戸時代の女郎か川の辞世の句だそうだ。

ソニーの話を書いていて、ふと「あなた、明日が見えますか」という一節が浮かんできた。
ネットで探してみたら「山茶花の宿」という演歌の一節.…曇りガラスを手で拭いて、あなた明日が見えますか…と続いていく。
演歌の世界では定番のようで、元の歌の流れからすれば…赤く咲いても冬の花、咲いて淋しい山茶花の宿…というところが聞かせどころになるのだが、インパクトとしては最初のフレーズがはるかに強い。これだけでひとつの句だ。だからこれが山茶花の宿の出だしとは知らず、メロディーさえも知らず、「あなた、明日が見えますか」という一節だけが浮かんできたのだろう。

大川栄作の元歌を聞くと、実にがっかりする。「このフレーズをそんなに歌い飛ばすなよ」と悲鳴を上げたくなる。たとえばフォーク系の人で、あるいはニューミュージック系の歌手でこの曲を歌っていないかとYOUTUBEをあたってみたが皆無である。

本来は不倫のカップルが世を忍びどこかの温泉宿で密会している場面だが、女性のほうはめくらめっぽうで突き進んできて、少々切羽詰っている。このまま死んでもいいとまで思いつめている。そんな女性が、ドテラ姿で布団から起き出して、ガラス戸(しかも曇りガラス)をこすって外を見ている男性を少々なじりながら、吐くせりふが「あなた明日が見えますか」ということになる。のっけから剣呑なのである。

これはソニー多賀城工場の労働者の気分とぴったり合う。「世界のソニー」よ、世界は見えているかもしれないが、明日は見えているのか?
この私は見えているのか? 見えているんだったら教えておくれ!

演歌としては屈指の名曲であるがゆえに、YOUTUBEには美空ひばり、森昌子、川中美幸、テレサ・テン、八代アキ、三沢あけみなどたくさんの演奏がアップロードされている。しかしいずれも歌詞の生々しくも毒々しい情景を見事に切り棄て、ディズニー映画のように美しく歌ってしまっている。
どういうわけか男の五木ひろしだけが「明日が見えない」苦しさを歌いこんでいる。曇りガラスを一生懸命拭いて、見えるわけのない明日を見ようとしている男と、そしてひそかに見えるわけのない明日を別れの口実にしようとしている男と、そこに明日を見つけてほしいと期待する女とのそれぞれの苦しさ、そうして、それはそれでまたそれなりのお互いの葛藤があって…



26日の赤旗にソニー多賀城工場の大量解雇事件の続報が載った。
ソニーは5月26日の連結決算発表で「原状回復費用として109億円が発生」したが、「ほぼ全額は受け取り保険金で相殺されるものと考えています」と述べている。
何じゃこれは?
これではまったく便乗リストラではないか。これでは首になった150人の期間社員は騙し討ちにあったようなもので、まったく立つ瀬がないではないか。ウラで「やったぜ」とほくそ笑んでいる「多賀城以外の世界のソニー」の幹部の姿がなんともおぞましく思われる。

ソニーはすでに2年前から世界中の労働者1万6千人の首切り・合理化に乗り出している。フランスでは首切りに反対する労働者が工場を占拠してストを決行。ソニーは手痛い目にあっている。それから見れば今回の大震災はまさしく渡りに船というわけだ。
しかし今日のソニーは明日のトヨタでありキャノンであり、パナソニックなのではないか。国際競争力を価格競争力のみに矮小化し、目先の利益率だけ追い求めて行ったとして、その先に何があるのか。
大企業の国際競争力強化のために苦難を耐え忍んでいる日本の労働者、国民にとってはそこが見えないのが辛いところである。


不勉強で知りませんでしたが、信金・信組などの金融機関は協同組織金融機関と呼ばれるのだそうです。赤旗の解説によると、組合会員が出資し、会員の相互扶助を基本理念とする非営利法人を総称するのだそうです。各種銀行は利潤追求を第一義目的とする株式会社経営であり、両者は理念的には峻別されています。
協同組織金融機関には信金・信組のほか労働金庫、農協、漁協などがふくまれます。

(非営利・協同などというと、一昔前に民医連で流行った標語を思い出してしまいます。危うく綱領にまで入れられそうになった言葉ですが、要するに目標概念ではなく法的な枠組み概念に過ぎないのです。これについてはわたしの論文集「非営利ではなく反営利を,協同ではなく統一ををご参照ください)

と、前置きが長くなりましたが、静岡大学鳥畑教授によると、宮城県内被災地の信金・信組では返済猶予の申請が殺到し、貸出額の2割に達しているそうです。
このうち半分が最終的に返済不能となったとすると、鳥畑教授の計算では信金・信組がこれを取り戻すためには平均35年間かかることになります。これは死刑宣告に等しい状況です。
これを救うには債権放棄や免責などの措置が不可欠ですが、これをめぐって二つの批判があるそうです。
ひとつは、企業の失敗は自己責任でありこれを救うのは「モラル・ハザード」だという批判です。しかし東電と信金・信組は違います。誰が見たって、向こう35年間、逆さにしても鼻血も出ない状況なのは明らかです。
もうひとつは被災企業間の公平性が損なわれるという批判です。しかし、これも現場を見れば明らかなとおり、地域復興の金融ツールとして信金・信組の役割は決定的です。また相互扶助を基本理念とする非営利法人を、一般企業と同列に置くのが公平性の明示とは言い切れないでしょう。


欧州議会が3月に金融取引税の導入を求める決議を採択したのに続き、フランス下院でも同様の決議が採択された。
その内容は
①すべての金融取引に0.05%を課税する。
②すべての株式、債券、金融派生商品を課税対象とする。外為取引も課税する。
とのことで、これによりEUレベルで2兆円の税収が見込まれるとしている。

EU圏域では、国境を越えた課税逃れが年間25兆円となっている。このため投機の規制、市場の透明性の確保、実体経済の保護が迫られている。

最近では原油など原材料の価格を組み込んだ金融商品(上場投資信託:ETF)などが出回っており、国際決済銀行(BIS)では実勢価格との乖離傾向が強まっていることに警鐘を鳴らしている。

復興構想会議の議長に就任したとたんに「復興税」と称する大衆課税構想を打ち出し、世の顰蹙を買った五百旗頭氏だが、今度はあの竹中平蔵と対談し、「公助」や「共助」に頼りがちになるが「自助」の精神が必要とお説教をたれている。
「せめてゼロからの出発」ではなく、基本的には被災者はそのまま放置することになる。そのうえで復興会議の主目的を「創造的復興」とし、大企業のもうけ話を持ち込むのがこの人の狙いだ。これでは火事場泥棒に現場監督を任せるようなものである。
この評価についてはもう少し事実の裏打ちが必要だが、大筋は間違いなくそういうことだろうと思う。
経団連を筆頭とする財界主流は、リスクは国民へ、犠牲は国民へ、もうけは大企業へという立場をこの期に及んでも取り続けている。そうしないと日本経済が悪くなるから、そうしないと国際競争に負けるから、というのが口癖だ。しかし現実に目の前で起こっている恐怖を無視して、ありもしない恐怖で国民を縛り付ける手口はいつまでも通用しないだろう。

福島民報6月25日付の論説で、東電の埋蔵金を数字を挙げて分析している。 電力業界の「埋蔵金」である「原子力環境整備促進・資金管理センター」が管理する関係積立金も活用できる。再処理等積立金の残高が約2兆4400億円、そのほか「埋蔵金」の総額は3兆2800億円に及ぶ。 支援機構法案に盛り込まれている電力会社の「相互扶助」の考えに沿って、積立金の一部を、まず賠償に回すよう求めたい。

南沙諸島をめぐり緊張が続いていた中国とベトナムの間で、高官級の会談が持たれ、「平和的解決」の方向で一致したと報道された。
中国側の交渉代表は戴乗国であり、合意は党レベルのものと考えられる。とりあえず、紛争化の危険は回避されたと見てよいだろう。

以前、「中国外交史ノート: 多極化論の軌跡」 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/edit/asia/china/chinadiplo.htm

で、中国外交の歴史的分析
をした際に感じたのだが、中国外交には二つの流れがある。
ひとつは多極化論を掲げ、昔ながらのバランス・オブ・パワーの立場に固執する流れである。実際上は中国一国主義である。
これは鄧小平以来の路線であり、対米・対日では隠忍自重をこととする一方、目下の相手には必要とあれば「懲罰」も辞さない。
これに対し、江沢民政権時代の後半から、多国間主義と協調を訴える積極外交が展開されるようになった。中国がイラク紛争初期の時代に示した国際舞台での活躍はいまも記憶に鮮やかである。鄧小平の直系と言われる現在の湖錦湯政権ではその印象が薄れつつあるが、いずれ国際的に括目されるような中国外交が再登場すると確信していた。
今回の外交成果がその一歩となることを期待する。

ちょっとしつこいようだが、葛西中電会長の論説をもう少し考えたい。
結局葛西氏の原発維持論の根拠は電力供給の不安定化と、電力料金の高騰ということになる。つまりはコスト問題に収斂される。

原発事故の被害はコストとして算定することができない

まず基本的立場での相違をはっきりさせておきたいが、原発問題はコスト問題ではない。
それは途方もない地球的災害なのである。しかも事故はまだ進行中なのである。
その放射能の99%はまだ原子炉の地下に潜んでいる。そして巨大な異形を現しつつある。これが地表に出れば、現代科学のすべてを以てしても対抗できない可能性すらある。

JRにたとえるなら、乗客を乗せた新幹線が時速300キロで暴走中なのだ。止める術はもはやない。とりあえず乗客には死んでもらうしかない。しかしそのあとに別の列車が走っている。こちらは止めなければならない。少なくとも安全が確認されるまでは絶対止めるべきだ。
なぜか? 経済より人の安全のほうが大事だからだ。ここが分からないと、JR西日本の山崎社長の二の舞だ。信楽・宝塚の悲劇が再現されることになる。
 
これまで起きてしまった具体的被害もコストとして算定できるものではない。今回の事故で失われたものは10万人規模の人々の生活であり、そこに何世代にもわたって積み重ねられてきた地域の伝統・文化であり、半径30キロの国土の半永久的喪失である。他にももろもろあるが、この三つはもはや取り返しがつかない。

それらをすべて受忍・受容したとして、「せめてゼロからの出発」のために10兆円強の金が必要なのである。

原発コストには三つの構成部分がある

そのうえで、コスト問題に取り掛からなければならないが、葛西会長はコストの三つの構成部分のうちひとつしか語っていない。つまりこれまでのように、何の事故もなしに通常運転を継続している場合のコストのみである。

しかしこれからは、最低でももうひとつのコストを計上しなくてはならない。すなわち10兆円の賠償金を支払っても会社が経営を継続できるだけの保険コストである。
JR東海も過酷事故が起きた場合の保険をかけているだろうし、当然運賃に上乗せしているはずである。しかし東電はしていなかった。
それがどのくらいの規模になるのかは知らないが、これを電力料金に上乗せすれば、コスト論はそれだけでも吹っ飛ぶだろう。

三つ目はこれまでツケ回しにしてきた廃棄物処理コスト、老朽化原子炉の廃炉コストである。
もうすでにそれは目前に迫られている。福島第一原発を廃炉にするためのコストである。浜岡原発もどうせ老朽化はしてきており、いずれは迫られた問題だった。

原発国策論はコスト論の放棄だ

こうやっていろいろ詰めていくと、原発論者は必ず、「原発は国策だった。民間に押し付けられただけ」と開き直るが、それは結局、低コスト論の破綻の自己告白としかならない。
原発擁護論者は、つまるところその理由が低コストだからなのか、安全なのだからか、クリーンだからなのか、それとも原子力推進が国策だったからなのか、そこの立場を明らかにしてから議論を展開すべきだろう。
せめてJRは人命の安全を経営の最高理念として堅持してもらいたい。列車の運行確保はその後の話である。それが分からない人に会長を務めてもらいたくはない。

運転再開には二つの条件が必要だ

ただ、私としては当面の原発運転再開に絶対反対しているわけではない。点検中の原発の再開を認めなければ、それは事実上「すべての原発の即時・無条件・全面廃止」ということになる。
神戸でも、そして今回の救援・復旧活動でも確認されたように、電気はさまざまなインフラのなかでも水・食料に次いで重要な資源である。少なくとも日本においては、電気がなければ人間的生活を送ることはできない。
一定の激変緩和措置が必要という現場の声があれば、耳を傾ける必要があるだろう。

その際には、ひとつは今回の地震と津波の教訓を踏まえた客観的で合理性のある再開基準を提示して、それをクリアできれば再開してもかまわないと思う。
もうひとつは、運転再開がなし崩し的に未来永劫の原発継続にならないという保証が必要だろう。ここを明らかにしない再開論は不誠実であり、脅迫でしかない。
再開論者といえども、国民的合意を目指すのなら、できるだけ速やかに原発の縮小廃止と代替エネルギーへの転換を行う姿勢を明らかにし、誠実に将来エネルギーを探求することで合意を求める姿勢が必要だろうと思う。

あと1年ですべての原発が止まり、深刻な電力危機がやってくるかもしれない、という葛西市の危機感は分からないでもない。しかし、再開した後、人の命と安全性をどうするのかは語られない。そこには葛西氏はまったく危機感を感じていないように見える。葛西氏の論説は、そこの点でどうしても容認できないのである。

というわけで
「それでも原発動かすしかない」とはどこにも書いてない。
ネットで読めるもうひとつの記事がある。「賠償スキーム 東電だけが悪者か」という編集部の論説である。申し訳ないが、こちらの文章は相当質が悪い。自家撞着がいたるところに目に付き、何よりも主張の中身が先ほどの論文「発送電分離より大規模化を」で実質的に論破されているからである。
というわけで、
華々しい見出しの割にはこの特集には「原発動かすしかない」ことを論証した部分は見当たらないのである。こういうのを「羊頭を掲げて狗肉を売る」というのであろう。
というわけで仕方ないので
御大葛西会長の論説を見てみよう。

論文はのっけからけんか腰だ。

現場の映像や風説に恐慌を来した人々が原発反対を唱え、定期点検を終了した原子炉の運転が再開できない状況である。

原子炉が運転再開できないことに憂慮する気持ちは分からないでもないが、言うに事欠いて、その責任が「恐慌をきたした人々」にあるというのはあんまりだと思う。「人々」を愚か者と見下す姿勢が露骨だ。公的企業を預かる経営者として、これだけでも十分「謝罪」ものだ。
現状での運転再開に反対している立派な人もたくさんいる。原発所在地の知事さんはほとんどが保守系の「良識ある」人たちだが、こぞって反対している。恐慌をきたしているのは、被災者を傍らにおいてそろばん勘定に夢中になっている葛西氏自身なのではないか。
この「人々」には強制避難を余儀なくされた数十万の人々もふくまれるのだろうか? このような傲慢な状況判断をする人の意見など聞きたくはないが、もう少し我慢してみよう。

原発を止めれば電力供給の不安定化と電力単価の高騰を招き、それに続く企業の業績悪化、設備投資・雇用の縮小、経済の停滞・空洞化、税収の減少、財政の悪化、国債の信用崩壊などの連鎖は日本経済の致命傷となりかねない。

よくもまぁ並べたものだと感心するが、電力供給の不安定化と電力単価の高騰は混同してはいけない。一時的な不安定化は当然あるし、誰もそのことは否定していない。しかし電力単価の高騰については論証が必要である。

少なくともこれから支払われるべき天文学的な賠償金は、これまで享受してきた電力の単価の一部なのである。日本が半永久的に失った半径30キロの国土は電力単価の一部なのである。いままで払ってこなかっただけなのである。それがもし致命傷なのなら、私たちは間違いなく死ぬのである。

緊急時の責任体制と対処方法を明確に定め必要な資機材を適切に配置し、迅速な動員体制を整え、日常の訓練により十分に習熟しておけば同じ災害に直面しても今回の事態は避けられる。

これって戦時中の隣組長の訓話みたいですね。まさかバケツリレーで火が消せると思っているのではないと思いますが。

原子力を利用する以上、リスクを承知のうえで、それを克服・制御する国民的な覚悟が必要である。今やこの一点に国の存亡がかかっていると言っても過言ではない。

国の存亡とか、日本経済とかいっているけど、結局あなた方の商売のことでしょう。そのために国民にリスクを担えっていうことでしょう。国土が失われたっていいということでしょう。

本件については与党も野党もない。声を一つにして国民に語りかけ、日本経済の血液循環である電力の安定供給を守り抜いてほしい。この一案件だけに限った挙国一致内閣があっても良いのではないかと思う。

やはり、大連立構想の本音はここにあった。

最初の記事は「発送電分離より大規模化を」と題する署名記事

著者はまず菅首相の無能ぶりを批判。その例として「工程表」作成と浜岡原発の停止要請をあげている。しかしこの二つは、アメリカの強い要請を受けて行われた決定であったことが現在でははっきりしている。だから今では原発派でも表立って文句は言わなくなっている。

後は会話体で進める。

確かに原子力利用を推進してきたのは自民党政権だ。しかし14基以上の原発を新設し、電力の5割近くを原子力に依存する「エネ ルギー基本計画」を決めたのは民主党だ。

そうだね、これは同感。

約50年前の原子力損害賠償法の策定時、専門部会の検討では、「原子力の平和利用による利益は大きいが、万一の場合損害は甚大となる。政府が原子力推進を決意するなら、被害者に対する関係ではすべて政府が責任を負う」という答申が出た。
それが政府段階で、「原子力事業といえども民間企業であり、被害者に対して国が責任を負うということはありえない。賠償責任を負う企業がつぶれないように助成を行うことはありうる」という考え方に変化して、 今の原賠法が成立した。

ほう、そうだったのか。これは専門部会のほうが正しいね。

万一被害が生じた場合、本当にこの法律が機能するのかどうかは、先の答申作成に携わった民法学者の我妻栄教授が最も心配していた点である。

まさしくそのとおりになったわけだ。

今回の賠償スキームは、民間企業である東京電力が賠償の前面に立つことになった。

法律どおりだね。

そのため、資金面や人材面での電気事業自体の遂行能力が格段に劣化していくことは免れない。

そうだよね。

政府が補助する段になれば大きな抵抗が発生するだろう。金融機関に債権放棄するよう求めたようなリスクも十分ある。

立法の趣旨からすれば当然だよね。破綻処理に準じることになるね。

結果として、同法の目的の一つである「原子力事業の健全な発達」という点は実現できなくなるだろう。

それは当然だね。そもそもそんなことを原賠法の趣旨に掲げたことが間違いだよね。

原子力事業を民間企業に続けさせるという政策的選択を継続する限りは、今の賠償スキームは持続可能ではない。

そうだね、もうこれっきりにしたいね。

見直しに当たって、重要視しなければならないのは次の2点である。第一に、国と東京電力が連帯して損害賠償を行う仕組みに変更する必要がある。
第二に、法的に電力供給義務が課されている電気事業者の資金調達を確保することである。

たしかに持続しようと思えば、そういう選択しかないね。

冷静に検討されるべきは、東京電力を存続させて、数十年間にわたって賠償事務を行わせるべきなのかどうかである。

そこだよね、問題は。

遠くない時点で、賠償を果たすための組織と、新たに電力供給を担っていく組織とを分離した方がより合理的ではないか。

つまり破綻処理ということだね。当然会社更生法の適用ということになるね。おやおやそこがはっきりしないね。

ということで、最終論旨はあいまいなままだが、さほど目くじら立てるような文章ではない。ただ原発の形を変えた存続を暗黙の前提としていることが根本的な相違だが。

後半の発送電分離構想批判については部分的に共鳴するところも多い。ただし、いま問題なのはそんなことではない。原発以後のエネルギーを、どう新技術により確保していくかだ。それにより電力事業のあり方は規定されてくる。

WEDGEという雑誌が、7月号で「それでも原発動かすしかない」と題する特集を組んだ。いまどきある意味で「勇気ある」発言である。
http://livedoor.blogimg.jp/shosuzki/imgs/5/e/5e039f9e.jpg

しかし赤旗の報道を見ると、発行の背景に問題がいくつかあるようだ。
①この雑誌が新幹線グリーン車に無料で置かれている。ということは公共的企業であるJR東海がこの雑誌を買い取り、閲覧を促していることになる。(グリーン車など乗ったことのない私には無縁だが)
②ウェッジ社はJR東海が出資する出版社である。(ウェッジ社の会社概要を見ると、当初は月刊誌『ひととき』と呼ばれ、10年前から 東海道・山陽新幹線グリーン車に搭載していた。このときの発行者はジェイアール東海エージェンシーであり、ウェッジ社は編集を引き受ける形になっていた。もしそのままだったら、JR東海は発行人として社会的責任を問われることになっていただろう)
③JR東海の葛西社長は、政府の東電に関する経営・財務調査委員会の委員を務めており、この問題に関して公的な立場にある。
④葛西社長は産経新聞5月24日付けで「原発継続しか活路はない」と主張しており(その行為自体が公的立場を逸脱している)、特集とその論調は完全に一致する。
ということだ。会社のアセットの私的流用の疑いが濃厚だが、すれすれ、告発するほどの違法性はない。なかなかうまい手口である。しかしJR東海が、会社全体として原発継続論を広めたがっている異様な雰囲気は漂わせている。東電といい、JRといい、公益に携わる事業の経営者が公的意識を持たないのはいつから始まった悪弊だろうか。
全16ページというから、赤旗の記事紹介だけでは物足りない。ネットで探してみるとメイン記事が掲載されていたので紹介する。(以下は次の枠へ)

2月頃に書いた文章です。とりあえず載せておきます。 事務局からチュニジア・エジプト・リビアの情勢を書けといわれましたが、私には分かりません。チュニジアは海外旅行通の穴場的存在となっており、会員の中にはチュニジアで暮らした方もおられるので、下手に触れると怒られそうです。とりあえずネットで情報を漁って見ました。 とりあえず分かったいくつかのこと。 1.なぜチュニジアだったのか? リビアからモロッコに至るアフリカ大陸北岸、地中海沿いの諸国はマグレブと呼ばれます。歴史的にヨーロッパ諸国の植民地支配を受け、独立を勝ち取った今も深い影響下にあります。なかでもチュニジアはヨーロッパ資本を積極的に受け入れ、マグレブの優等生と呼ばれてきました。 なぜその優等生のチュニジアで革命が起きたのか、それは優等生だったからこそ起きたと考えられます。 チュニジアにしがらみを持たない私のような人間にとっては、今度の革命はきわめて分かりやすい革命です。外資依存の経済開発を進めてゆけば、GDPは増加しても一般国民の窮乏化は進み、対外債務は増え続けます。輸出型産業だけが特権を謳歌し、それに群がる利権集団が政治を牛耳ることになります。 20世紀初頭のメキシコ革命から87年の韓国民主化運動、その他もろもろの革命はすべてこのパターンです。 2.なぜ民衆革命だったのか アラブを知る人にとって、これまでの政治闘争の枠組みはアラブ民族主義かイスラム主義でした。今回の民衆革命はその目標とする価値観がまったく異なっています。経済的不平等に対する怒りと、人間が人間らしく生き、働く権利をもとめる要求がその基礎となっています。これらは一言で言って民主主義の要求です。 まともに考えると、これまでアラブ世界で民主主義という概念がどうして成立しなかったのか不思議なことです。「異なる文明」論で済ますわけにはいかない検討課題です。それが今回の革命によって、民主主義の価値の全世界における共通性が証明されたのだろうと思います。 3.なぜ国民革命だったのか? 前の項の発展形になりますが、今回の革命はチュニジア国民が一体となって闘われた点に大きな特徴があります。宗派もなく人種や部族もありません。逆に言えばアラブの大義もイスラムの原理もありません。民族国家としてのチュニジアという枠組みが統一の基礎となっています。 これは政府の権威が強大化し、その統制の下に国民統合が遂行されたことの裏返しです。そうなると政府も国民の支持がなければ維持することが不可能になります。国民統合が完成しているチュニジアやエジプトでは、基本的には流血を見ることなく革命が成功しました。これに対し、イエーメンやリビアで難航しているのは国民統合の水準がまだ低いためではないでしょうか。 4、アラブ民族主義とイスラム主義の行方 これらの国はかつてアラブ民族主義の旗頭でした。独立闘争の流れを汲む支配政党は、欧州列強の支配に反対しアラブ民族の結束を訴えました。それは同時にイスラムによる宗派支配の否定と国家の近代化、富国強兵主義でした。それまでの伝統社会は近代化という名の収奪強化と労働力の流動化による社会の崩壊に直面し、昔ながらの価値観であるイスラムの教えを盾に抵抗しました。 この流れが決定的に転換したのは第三次中東戦争の惨敗、アラブ民族主義の旗頭であったエジプトのナセル大統領の死、そして1980年のキャンプ・デービッド会談におけるエジプトとイスラエルの「和解」でした。国と民族を守るための富国強兵策が、大量に流れ込む外資の中で権力者の致富の手段に変わり、その外資がやがて債務となって首を締め上げるようになると、かつての愛国者たちは国民の犠牲を省みることのない「売国者」へと変質していくのです。 そのために強圧的な手段がとられるようになり、民主主義的な制度は骨抜きにされ、共産党などの革新政党は非合法化され、労働運動も抑圧されました。シュタージ(秘密警察)国家への変質です。 一時、アラブ民族主義に代わるものとしてイスラム主義が注目されましたが、イランの原理主義政府の抱える矛盾を見ても、その先に未来が期待できないことは明らかです。チュニジアでの新しい変革の波が、民族主義の伝統を踏まえながらどのような形に発展していくのか、これからが注目されます。 蛇足: 「チュニジアの夜」は、youtubeの 「Art Blakey & the Jazz Messengers - A Night in Tunisia」 がお勧めです。URLは http://www.youtube.com/watch?v=FHKyVJ5YfNU&playnext=1&list=PL5E2BF0D93DB4A4B0 です。騒々しいのがお嫌いに人には「Jim Brock - A Night In Tunisia」がよろしいかと思います。URLは http://www.youtube.com/watch?v=MlUTRhNBD4w です。

参考までにメルケル演説の要旨を紹介する。本日の赤旗に詳報が掲載されている。

  あの恐るべき3月11日から90日たった今日、われわれは次のことを知っている。原子力発電所の三つの原子炉ブロックでは炉心が溶融している。今でも放射 能を帯びた蒸気が大気に排出されている。広い範囲の避難地域はなお長期わたって残存するだろうし、事態収束のめどはなおたっていない。

 日本の劇的な事態が世界にとっての転機であることは疑いない。それはまた、私個人にとっても転機だった。日本のような高度な技術国ですら原子力の危険は確実には制御できないという事実を、われわれは福島の事態から認めざるをえない。

 その認識に立てば、必要な結論を引き出さねばならないし、新しい見方が必要になる。だからこそ私は“新しい見方をすることにした”と明言したのだ。

 私は「福島」以前には原子力の残存リスクを容認していた。高い安全基準をもつ高度技術国ではおよそこうした事故は起こらないと確信していたからだ。しかし、事故は現に起こった。

 問題は、ドイツで同じように恐ろしい地震がおこるかどうか、日本のような破局的な津波があるかどうかではない。「福島」後に重要なのはそんなことではない。

 確かに私は昨年秋、わが国の包括的なエネルギー基本計画でドイツの原発の稼働期間の延長を支持した。しかし私は本日、本議会において誤解の余地がないよう、こう断言する。「福島」は原子力に対する私の見解を変えた。

赤旗の紹介は、各論部分の抄訳なのでかなり読みにくい。つまみ食いのさらにつまみ食いを箇条書きにしておく。

*エネルギー転換についての決断は、社会の価値判断に基づく。それは技術的側面や、経済的側面の判断に先立つ。価値判断のキーワードは持続可能性と社会的責任である。

*福島の事故は三つの事実をもたらした。①日本のような高技術国でも事故は起こる。②事故が発生すれば、収束のめどは立たない。③設計上、絶対安全な原子炉そのものが破壊されることもある。

*人間は、技術的には可能なことでも、すべて行うというわけにはいかない。とりわけ技術の結果が「永遠の負担」という性格を持つ場合は、きわめて厳しい姿勢をとる必要がある。

*いま安全、リスク、危険という概念を新しく規定しなおす必要がある。大規模技術施設においてはゼロリスクということはありえない。技術的なリスク評価は、これまで危険事象の確率で推し量られてきたが、これは原子力の評価については十分ではない。それはリスクの容認しがたい相対化に系統的に導くことになる。

*通常の対リスク戦略では、損害が実際に起こり、そこから徐々に対処法を学んでいく。しかし核施設ではこうした学習過程は排除される。最悪の核事故は未知で予見困難であり、そのリスクを現実の事故の経験から導き出すわけにはいかない。

*結論として、事故の可能性をなくすためには、核技術はもはや使うわけにはいかないということになる。

この報告のキーポイントはリスクの容認しがたい相対化 という点に尽きるのではないでしょうか。
一般にリスク管理の技術学は、どのような技術にもリスクは必ず存在することを前提としています。そして二重の意味でリスクを相対化します。ひとつはリスクの許容範囲を定め、「ゼロではないが安全」というレベルに押さえ込みつつ、もう一方でコスト・ベネフィット比とのバランスを図ることになります。
ところが、「ゼロではないが安全」という安全度の相対化は、こと核技術に限っては、現在の科学・技術水準では不可能なのです。それが今回の福島原発事故で明らかになったのです。
したがって、コスト・ベネフィット比などに今の時点でなお固執するならば原発の内包するリスクの容認しがたい相対化 に系統的に導くことになるのです。ひらったくいえば「煮ても焼いても食えないぞ」ということでしょうか。



菅首相が突然、ソーラー発電などの電力を固定価格で買い取ると言い始めた。
真意がよく分からないが、通産省の一部で主張されている発送電分離へのアドバルーンとも考えられる。いま東電が地域独占によって吸っている甘い水は、他企業にとってはよだれが出るほどの利権だ。発電事業が事実上自由化されるなら、参入を求める企業が続出するだろう。
経団連主流派は既得権益を侵すような企てには猛反発するだろうが、アメリカや韓国の数倍の料金で電気を売り続けてきた連中が「なにをいまさら」で、説得力は皆無に等しい。
しかしいま肝心なことは、東電に公的企業としての責任をとらせることであり、国民のしっかりした監視下に置くことである。そしてエネルギー転換に関する基本的視点をきっちりと打ち立てることである。それ以上のことは菅政権のなすべきことではない。
国民は、原産複合体の解体的出直しを求めてはいるが、エンロン社スキャンダルの再現を望んでいるわけではない。

↑このページのトップヘ