鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

2011年06月

震災復興債をめぐり議論が対立している。

ライブドアのブロゴスでは以下の論調が出ている。

震災国債」の日銀引き受けには反対する。理由は次の3点だ。 

1)市場メカニズムを歪め、財政規律が失われる。

マーケットを通すことで、国債には需給メカニズムが働き、価格(金利)が決まる。しかし、日銀による国債の直接引き受けは、マーケットを通さない。そのため、国債価格を政府が一方的に決めることが可能になり、日銀券が乱発され財政規律の崩壊につながりかねない。

2)インフレや円安を招く

日銀券に対しての信頼が失われ、円安が進行し、長期金利が上昇し、インフレになることが想定される。

すでに、震災と東電の計画停電によって多くのメーカーが打撃を受けており、今後数ヶ月は輸出が減少する一方で、燃料その他の輸入の増加も見込まれるため、貿易収支が悪化し、円安が進行することが考えられる。

それに加えて国債の日銀引き受けが行われれば、円安とインフレは加速する。

3)マーケットの国債消化能力がないと受け取られかねない

日銀が引き受けるのは、国債がマーケットで消化できないからだ、日本の国債消化能力はぎりぎりのところに来ていると見られる可能性が高い。


この文章を批判するのは問題がある。というのもこれが書かれたのは4月4日のことだからだ。2)については、為替の動きを完全に読み間違えている。

今進行しているのは円高とデフレなのだから、2)の理由は逆に国債発行を促す理由となる。

1)財政規律の原則は間違いなく正しい。しかしそれは日銀が丸呑みすることについての話で、マーケットを通すか通さないかという問題ではない。マーケットを通す普通の国債をさらに増発するなら、それはそれで別の問題が生じる。

復興債発行派は、「さはさりながら」と問題提起しているわけだから、これでは水掛け論だ。

そこで残るのが3)の問題、国債を発行したとして、果たして国内に消化能力があるのかどうかという問題だ。考えてみれば、最初から問題は誰が買うのかこの一点に尽きる。

それは共産党が言うように250兆円の大企業の内部留保しかない。これをマーケットを通さずに直接に、復興債引き受けという形で拠出してもらうしかない。消化能力が落ちた日本社会の中では、埋蔵金と呼べる資産はそれしかないのである。

これがマーケットを通さず、日銀丸投げをしないで国債を発行する唯一の方法である。そして日本の持つ資産を短期に集中的に復興に投下するための唯一の手段である。

もちろんこれは要請になる。いやだといわれれば強制力はない。しかしその際には企業減税、金持ち減税を撤廃し、累進課税を厳密に適用し、海外逃避資本に対し正当なペナルティーを課せばよいのである(これらはそうでなくても断行すべき事柄であるが)。

それにしても、5月末の日銀総裁の「無から有を生み出す打ち出の小槌はない」発言以来、復興債の論議はまったく止まっています。財源スキーム、どうするんでしょうかねぇ

ストロスカーンの後釜にラガルドが選出された。
ある意味どうでもよいのだが、報道記事の中で勉強したのは、アメリカがIMFの決定権を握っているということだ。
IMFの理事会の議決では85%の賛成が必要であるのに対して、アメリカは17%の投票権を持っているというのです。だからどんな提案でもアメリカの支持を得なければ議決できないのです。
IMFの投票権は株主総会と同じで、出資比率により配分されるのでこういうことになるのです。歴代ヨーロッパ出身の専務理事が選出されていますが、これはヨーロッパに力があるからでなく、アメリカがポストを分け与えているだけです。
中南米の経済危機のときドイツ人のケーラー専務が調整に乗り出しましたが、結局はアメリカの意思のままに新自由主義を押し付けるだけに終わりました。ストロスカーンも初めての左派専務理事として期待されましたが、この大枠がある限りやれることはたかが知れています。
今後IMFが生き延びていくためには、出資比率の見直し、アメリカの独裁権を奪い取ることが必要になるでしょう。

日本と元の関係と言えば北条時代の元寇だろう。中国を征服した蒙古帝国が朝鮮半島も制圧し、朝鮮との連合軍艦隊が博多に押し寄せ、最後は神風によって壊滅するというストーリーである。
しかし実はもひとつの関係があった。それがアイヌによる中国侵攻である。海保嶺夫氏の「エゾの歴史」(講談社)の内容を紹介しておこう。
最初の記録は1264年、骨き(山冠に鬼)が樺太から侵攻したため、元が黒龍河河口近くに遠征してこれを征服したというもの。以後1308年までおよそ1世紀半にわたって、繰り返し骨きとの戦いが記録されている。
すごいのはアイヌを駆逐するため動員した兵の数が数万人とただ事ではないことである。万という数が白髪三千丈的な表現であるにせよ、1278年に元が征東元帥府創設したり、名だたる将軍の率いる三つの大部隊を船千艘に乗せ樺太に送り込んだというからやはり大事である。
アイヌはこれらの攻撃に耐えた。降伏・帰順はしたが滅亡はしていない。
海保氏は、これらの記録から、元の数万の兵と正面から戦って負けない勢力が樺太に存在したと推定する。そして少なくとも鉄製の武器で武装した万を超える兵力がアイヌの側に組織されていたと見ている。これは魏志倭人伝よりはるかに面白い。
日本側の文献は皆無に等しいのだが、考古学的に見て樺太にそのような勢力が土着・成長していた証拠はなく、そのような強力な武装集団は津軽十三湊に根城を置く安藤氏が組織し派遣したと見る以外には考えられないだろうと筆を進める。
海保氏以外には骨鬼=安東氏論を展開している人はいないようだが、否定している人もいないようだ。

安藤氏はエミシの末裔であることを自認している武装集団である。おそらくは平泉の安倍・藤原一族の系統と想定される。源頼朝は厨川の合戦で、藤原一族を滅ぼしたことになっているが、実は平泉を明け渡して津軽に本拠地を移したに過ぎないかもしれない。
さすがに元帝国と戦ったのが義経だというわけにはいかないが、案外その孫あたりがアイヌ軍を率いていたかもしれない。北海道各地に義経伝説が残っているのもそれと関係あるのかな。

大事なことは岩手にせよ津軽にせよ当時の農業限界地であり、そこでの政治支配体制は農業生産を基盤として成立したものではない。ハンザ同盟のごとく武装商人集団の支配する世界である。彼らの力の源は、アイヌに対する鉄製品の独占的供給力にあったとされるが、ポーランドを越えてロシアにまで領地を形成したドイツ騎士団のような集団があったとしても不思議ではないだろう。


不破さんがテレビで語ったのが赤旗に掲載されている。
さすがと唸ったのは、福島原発事故が峠を越えたのではなく、これからが非常事態の瀬戸際に向かうときなのだという指摘だ。
炉心にあった「死の灰」の1%が空中に出たといわれる。ということは、まだ99%がそこにあるということだ。それがどうなっているか。

11万トンたまった汚染水は、10万トンの大きな集中処理施設を作って、大部分移したはずなんですよ。しかし移しても減らないんですね。ということはそれが地下水とつながってもっと巨大な汚染水となっているのではないかと考えられるんです。
…放射能を原子炉の中に閉じ込められないで、水が担い手になってどんどん外に出つつあるというのが現状なのですね。

ようするに、事態はいまも進行中で、それどころか、これからがもっとも重大な局面に入るのだという認識を持つべきだ。原発再開論を語るにはまだ早い。
「それでも原発だ」というときの"それ"の中身が恐ろしい勢いで膨らんできますよ。もう少し経過を見てからでないと恥をかくことになりますよ、ということだ。


放射能が降っています。
静かな夜です。

赤旗の文芸欄に紹介された、和合亮一のつぶやき詩。6月に徳間書店から「詩の礫」として発刊されたそうである。世の終わりの夜もこのように静かなのだろうか?
ところで著作権は大丈夫かな?
金子兜太が紹介した句もすごい。

奥底の しれぬ寒さや 海の音

これは実は江戸時代の女郎か川の辞世の句だそうだ。

ソニーの話を書いていて、ふと「あなた、明日が見えますか」という一節が浮かんできた。
ネットで探してみたら「山茶花の宿」という演歌の一節.…曇りガラスを手で拭いて、あなた明日が見えますか…と続いていく。
演歌の世界では定番のようで、元の歌の流れからすれば…赤く咲いても冬の花、咲いて淋しい山茶花の宿…というところが聞かせどころになるのだが、インパクトとしては最初のフレーズがはるかに強い。これだけでひとつの句だ。だからこれが山茶花の宿の出だしとは知らず、メロディーさえも知らず、「あなた、明日が見えますか」という一節だけが浮かんできたのだろう。

大川栄作の元歌を聞くと、実にがっかりする。「このフレーズをそんなに歌い飛ばすなよ」と悲鳴を上げたくなる。たとえばフォーク系の人で、あるいはニューミュージック系の歌手でこの曲を歌っていないかとYOUTUBEをあたってみたが皆無である。

本来は不倫のカップルが世を忍びどこかの温泉宿で密会している場面だが、女性のほうはめくらめっぽうで突き進んできて、少々切羽詰っている。このまま死んでもいいとまで思いつめている。そんな女性が、ドテラ姿で布団から起き出して、ガラス戸(しかも曇りガラス)をこすって外を見ている男性を少々なじりながら、吐くせりふが「あなた明日が見えますか」ということになる。のっけから剣呑なのである。

これはソニー多賀城工場の労働者の気分とぴったり合う。「世界のソニー」よ、世界は見えているかもしれないが、明日は見えているのか?
この私は見えているのか? 見えているんだったら教えておくれ!

演歌としては屈指の名曲であるがゆえに、YOUTUBEには美空ひばり、森昌子、川中美幸、テレサ・テン、八代アキ、三沢あけみなどたくさんの演奏がアップロードされている。しかしいずれも歌詞の生々しくも毒々しい情景を見事に切り棄て、ディズニー映画のように美しく歌ってしまっている。
どういうわけか男の五木ひろしだけが「明日が見えない」苦しさを歌いこんでいる。曇りガラスを一生懸命拭いて、見えるわけのない明日を見ようとしている男と、そしてひそかに見えるわけのない明日を別れの口実にしようとしている男と、そこに明日を見つけてほしいと期待する女とのそれぞれの苦しさ、そうして、それはそれでまたそれなりのお互いの葛藤があって…



26日の赤旗にソニー多賀城工場の大量解雇事件の続報が載った。
ソニーは5月26日の連結決算発表で「原状回復費用として109億円が発生」したが、「ほぼ全額は受け取り保険金で相殺されるものと考えています」と述べている。
何じゃこれは?
これではまったく便乗リストラではないか。これでは首になった150人の期間社員は騙し討ちにあったようなもので、まったく立つ瀬がないではないか。ウラで「やったぜ」とほくそ笑んでいる「多賀城以外の世界のソニー」の幹部の姿がなんともおぞましく思われる。

ソニーはすでに2年前から世界中の労働者1万6千人の首切り・合理化に乗り出している。フランスでは首切りに反対する労働者が工場を占拠してストを決行。ソニーは手痛い目にあっている。それから見れば今回の大震災はまさしく渡りに船というわけだ。
しかし今日のソニーは明日のトヨタでありキャノンであり、パナソニックなのではないか。国際競争力を価格競争力のみに矮小化し、目先の利益率だけ追い求めて行ったとして、その先に何があるのか。
大企業の国際競争力強化のために苦難を耐え忍んでいる日本の労働者、国民にとってはそこが見えないのが辛いところである。


不勉強で知りませんでしたが、信金・信組などの金融機関は協同組織金融機関と呼ばれるのだそうです。赤旗の解説によると、組合会員が出資し、会員の相互扶助を基本理念とする非営利法人を総称するのだそうです。各種銀行は利潤追求を第一義目的とする株式会社経営であり、両者は理念的には峻別されています。
協同組織金融機関には信金・信組のほか労働金庫、農協、漁協などがふくまれます。

(非営利・協同などというと、一昔前に民医連で流行った標語を思い出してしまいます。危うく綱領にまで入れられそうになった言葉ですが、要するに目標概念ではなく法的な枠組み概念に過ぎないのです。これについてはわたしの論文集「非営利ではなく反営利を,協同ではなく統一ををご参照ください)

と、前置きが長くなりましたが、静岡大学鳥畑教授によると、宮城県内被災地の信金・信組では返済猶予の申請が殺到し、貸出額の2割に達しているそうです。
このうち半分が最終的に返済不能となったとすると、鳥畑教授の計算では信金・信組がこれを取り戻すためには平均35年間かかることになります。これは死刑宣告に等しい状況です。
これを救うには債権放棄や免責などの措置が不可欠ですが、これをめぐって二つの批判があるそうです。
ひとつは、企業の失敗は自己責任でありこれを救うのは「モラル・ハザード」だという批判です。しかし東電と信金・信組は違います。誰が見たって、向こう35年間、逆さにしても鼻血も出ない状況なのは明らかです。
もうひとつは被災企業間の公平性が損なわれるという批判です。しかし、これも現場を見れば明らかなとおり、地域復興の金融ツールとして信金・信組の役割は決定的です。また相互扶助を基本理念とする非営利法人を、一般企業と同列に置くのが公平性の明示とは言い切れないでしょう。


欧州議会が3月に金融取引税の導入を求める決議を採択したのに続き、フランス下院でも同様の決議が採択された。
その内容は
①すべての金融取引に0.05%を課税する。
②すべての株式、債券、金融派生商品を課税対象とする。外為取引も課税する。
とのことで、これによりEUレベルで2兆円の税収が見込まれるとしている。

EU圏域では、国境を越えた課税逃れが年間25兆円となっている。このため投機の規制、市場の透明性の確保、実体経済の保護が迫られている。

最近では原油など原材料の価格を組み込んだ金融商品(上場投資信託:ETF)などが出回っており、国際決済銀行(BIS)では実勢価格との乖離傾向が強まっていることに警鐘を鳴らしている。

復興構想会議の議長に就任したとたんに「復興税」と称する大衆課税構想を打ち出し、世の顰蹙を買った五百旗頭氏だが、今度はあの竹中平蔵と対談し、「公助」や「共助」に頼りがちになるが「自助」の精神が必要とお説教をたれている。
「せめてゼロからの出発」ではなく、基本的には被災者はそのまま放置することになる。そのうえで復興会議の主目的を「創造的復興」とし、大企業のもうけ話を持ち込むのがこの人の狙いだ。これでは火事場泥棒に現場監督を任せるようなものである。
この評価についてはもう少し事実の裏打ちが必要だが、大筋は間違いなくそういうことだろうと思う。
経団連を筆頭とする財界主流は、リスクは国民へ、犠牲は国民へ、もうけは大企業へという立場をこの期に及んでも取り続けている。そうしないと日本経済が悪くなるから、そうしないと国際競争に負けるから、というのが口癖だ。しかし現実に目の前で起こっている恐怖を無視して、ありもしない恐怖で国民を縛り付ける手口はいつまでも通用しないだろう。

福島民報6月25日付の論説で、東電の埋蔵金を数字を挙げて分析している。 電力業界の「埋蔵金」である「原子力環境整備促進・資金管理センター」が管理する関係積立金も活用できる。再処理等積立金の残高が約2兆4400億円、そのほか「埋蔵金」の総額は3兆2800億円に及ぶ。 支援機構法案に盛り込まれている電力会社の「相互扶助」の考えに沿って、積立金の一部を、まず賠償に回すよう求めたい。

南沙諸島をめぐり緊張が続いていた中国とベトナムの間で、高官級の会談が持たれ、「平和的解決」の方向で一致したと報道された。
中国側の交渉代表は戴乗国であり、合意は党レベルのものと考えられる。とりあえず、紛争化の危険は回避されたと見てよいだろう。

以前、「中国外交史ノート: 多極化論の軌跡」 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/edit/asia/china/chinadiplo.htm

で、中国外交の歴史的分析
をした際に感じたのだが、中国外交には二つの流れがある。
ひとつは多極化論を掲げ、昔ながらのバランス・オブ・パワーの立場に固執する流れである。実際上は中国一国主義である。
これは鄧小平以来の路線であり、対米・対日では隠忍自重をこととする一方、目下の相手には必要とあれば「懲罰」も辞さない。
これに対し、江沢民政権時代の後半から、多国間主義と協調を訴える積極外交が展開されるようになった。中国がイラク紛争初期の時代に示した国際舞台での活躍はいまも記憶に鮮やかである。鄧小平の直系と言われる現在の湖錦湯政権ではその印象が薄れつつあるが、いずれ国際的に括目されるような中国外交が再登場すると確信していた。
今回の外交成果がその一歩となることを期待する。

ちょっとしつこいようだが、葛西中電会長の論説をもう少し考えたい。
結局葛西氏の原発維持論の根拠は電力供給の不安定化と、電力料金の高騰ということになる。つまりはコスト問題に収斂される。

原発事故の被害はコストとして算定することができない

まず基本的立場での相違をはっきりさせておきたいが、原発問題はコスト問題ではない。
それは途方もない地球的災害なのである。しかも事故はまだ進行中なのである。
その放射能の99%はまだ原子炉の地下に潜んでいる。そして巨大な異形を現しつつある。これが地表に出れば、現代科学のすべてを以てしても対抗できない可能性すらある。

JRにたとえるなら、乗客を乗せた新幹線が時速300キロで暴走中なのだ。止める術はもはやない。とりあえず乗客には死んでもらうしかない。しかしそのあとに別の列車が走っている。こちらは止めなければならない。少なくとも安全が確認されるまでは絶対止めるべきだ。
なぜか? 経済より人の安全のほうが大事だからだ。ここが分からないと、JR西日本の山崎社長の二の舞だ。信楽・宝塚の悲劇が再現されることになる。
 
これまで起きてしまった具体的被害もコストとして算定できるものではない。今回の事故で失われたものは10万人規模の人々の生活であり、そこに何世代にもわたって積み重ねられてきた地域の伝統・文化であり、半径30キロの国土の半永久的喪失である。他にももろもろあるが、この三つはもはや取り返しがつかない。

それらをすべて受忍・受容したとして、「せめてゼロからの出発」のために10兆円強の金が必要なのである。

原発コストには三つの構成部分がある

そのうえで、コスト問題に取り掛からなければならないが、葛西会長はコストの三つの構成部分のうちひとつしか語っていない。つまりこれまでのように、何の事故もなしに通常運転を継続している場合のコストのみである。

しかしこれからは、最低でももうひとつのコストを計上しなくてはならない。すなわち10兆円の賠償金を支払っても会社が経営を継続できるだけの保険コストである。
JR東海も過酷事故が起きた場合の保険をかけているだろうし、当然運賃に上乗せしているはずである。しかし東電はしていなかった。
それがどのくらいの規模になるのかは知らないが、これを電力料金に上乗せすれば、コスト論はそれだけでも吹っ飛ぶだろう。

三つ目はこれまでツケ回しにしてきた廃棄物処理コスト、老朽化原子炉の廃炉コストである。
もうすでにそれは目前に迫られている。福島第一原発を廃炉にするためのコストである。浜岡原発もどうせ老朽化はしてきており、いずれは迫られた問題だった。

原発国策論はコスト論の放棄だ

こうやっていろいろ詰めていくと、原発論者は必ず、「原発は国策だった。民間に押し付けられただけ」と開き直るが、それは結局、低コスト論の破綻の自己告白としかならない。
原発擁護論者は、つまるところその理由が低コストだからなのか、安全なのだからか、クリーンだからなのか、それとも原子力推進が国策だったからなのか、そこの立場を明らかにしてから議論を展開すべきだろう。
せめてJRは人命の安全を経営の最高理念として堅持してもらいたい。列車の運行確保はその後の話である。それが分からない人に会長を務めてもらいたくはない。

運転再開には二つの条件が必要だ

ただ、私としては当面の原発運転再開に絶対反対しているわけではない。点検中の原発の再開を認めなければ、それは事実上「すべての原発の即時・無条件・全面廃止」ということになる。
神戸でも、そして今回の救援・復旧活動でも確認されたように、電気はさまざまなインフラのなかでも水・食料に次いで重要な資源である。少なくとも日本においては、電気がなければ人間的生活を送ることはできない。
一定の激変緩和措置が必要という現場の声があれば、耳を傾ける必要があるだろう。

その際には、ひとつは今回の地震と津波の教訓を踏まえた客観的で合理性のある再開基準を提示して、それをクリアできれば再開してもかまわないと思う。
もうひとつは、運転再開がなし崩し的に未来永劫の原発継続にならないという保証が必要だろう。ここを明らかにしない再開論は不誠実であり、脅迫でしかない。
再開論者といえども、国民的合意を目指すのなら、できるだけ速やかに原発の縮小廃止と代替エネルギーへの転換を行う姿勢を明らかにし、誠実に将来エネルギーを探求することで合意を求める姿勢が必要だろうと思う。

あと1年ですべての原発が止まり、深刻な電力危機がやってくるかもしれない、という葛西市の危機感は分からないでもない。しかし、再開した後、人の命と安全性をどうするのかは語られない。そこには葛西氏はまったく危機感を感じていないように見える。葛西氏の論説は、そこの点でどうしても容認できないのである。

というわけで
「それでも原発動かすしかない」とはどこにも書いてない。
ネットで読めるもうひとつの記事がある。「賠償スキーム 東電だけが悪者か」という編集部の論説である。申し訳ないが、こちらの文章は相当質が悪い。自家撞着がいたるところに目に付き、何よりも主張の中身が先ほどの論文「発送電分離より大規模化を」で実質的に論破されているからである。
というわけで、
華々しい見出しの割にはこの特集には「原発動かすしかない」ことを論証した部分は見当たらないのである。こういうのを「羊頭を掲げて狗肉を売る」というのであろう。
というわけで仕方ないので
御大葛西会長の論説を見てみよう。

論文はのっけからけんか腰だ。

現場の映像や風説に恐慌を来した人々が原発反対を唱え、定期点検を終了した原子炉の運転が再開できない状況である。

原子炉が運転再開できないことに憂慮する気持ちは分からないでもないが、言うに事欠いて、その責任が「恐慌をきたした人々」にあるというのはあんまりだと思う。「人々」を愚か者と見下す姿勢が露骨だ。公的企業を預かる経営者として、これだけでも十分「謝罪」ものだ。
現状での運転再開に反対している立派な人もたくさんいる。原発所在地の知事さんはほとんどが保守系の「良識ある」人たちだが、こぞって反対している。恐慌をきたしているのは、被災者を傍らにおいてそろばん勘定に夢中になっている葛西氏自身なのではないか。
この「人々」には強制避難を余儀なくされた数十万の人々もふくまれるのだろうか? このような傲慢な状況判断をする人の意見など聞きたくはないが、もう少し我慢してみよう。

原発を止めれば電力供給の不安定化と電力単価の高騰を招き、それに続く企業の業績悪化、設備投資・雇用の縮小、経済の停滞・空洞化、税収の減少、財政の悪化、国債の信用崩壊などの連鎖は日本経済の致命傷となりかねない。

よくもまぁ並べたものだと感心するが、電力供給の不安定化と電力単価の高騰は混同してはいけない。一時的な不安定化は当然あるし、誰もそのことは否定していない。しかし電力単価の高騰については論証が必要である。

少なくともこれから支払われるべき天文学的な賠償金は、これまで享受してきた電力の単価の一部なのである。日本が半永久的に失った半径30キロの国土は電力単価の一部なのである。いままで払ってこなかっただけなのである。それがもし致命傷なのなら、私たちは間違いなく死ぬのである。

緊急時の責任体制と対処方法を明確に定め必要な資機材を適切に配置し、迅速な動員体制を整え、日常の訓練により十分に習熟しておけば同じ災害に直面しても今回の事態は避けられる。

これって戦時中の隣組長の訓話みたいですね。まさかバケツリレーで火が消せると思っているのではないと思いますが。

原子力を利用する以上、リスクを承知のうえで、それを克服・制御する国民的な覚悟が必要である。今やこの一点に国の存亡がかかっていると言っても過言ではない。

国の存亡とか、日本経済とかいっているけど、結局あなた方の商売のことでしょう。そのために国民にリスクを担えっていうことでしょう。国土が失われたっていいということでしょう。

本件については与党も野党もない。声を一つにして国民に語りかけ、日本経済の血液循環である電力の安定供給を守り抜いてほしい。この一案件だけに限った挙国一致内閣があっても良いのではないかと思う。

やはり、大連立構想の本音はここにあった。

最初の記事は「発送電分離より大規模化を」と題する署名記事

著者はまず菅首相の無能ぶりを批判。その例として「工程表」作成と浜岡原発の停止要請をあげている。しかしこの二つは、アメリカの強い要請を受けて行われた決定であったことが現在でははっきりしている。だから今では原発派でも表立って文句は言わなくなっている。

後は会話体で進める。

確かに原子力利用を推進してきたのは自民党政権だ。しかし14基以上の原発を新設し、電力の5割近くを原子力に依存する「エネ ルギー基本計画」を決めたのは民主党だ。

そうだね、これは同感。

約50年前の原子力損害賠償法の策定時、専門部会の検討では、「原子力の平和利用による利益は大きいが、万一の場合損害は甚大となる。政府が原子力推進を決意するなら、被害者に対する関係ではすべて政府が責任を負う」という答申が出た。
それが政府段階で、「原子力事業といえども民間企業であり、被害者に対して国が責任を負うということはありえない。賠償責任を負う企業がつぶれないように助成を行うことはありうる」という考え方に変化して、 今の原賠法が成立した。

ほう、そうだったのか。これは専門部会のほうが正しいね。

万一被害が生じた場合、本当にこの法律が機能するのかどうかは、先の答申作成に携わった民法学者の我妻栄教授が最も心配していた点である。

まさしくそのとおりになったわけだ。

今回の賠償スキームは、民間企業である東京電力が賠償の前面に立つことになった。

法律どおりだね。

そのため、資金面や人材面での電気事業自体の遂行能力が格段に劣化していくことは免れない。

そうだよね。

政府が補助する段になれば大きな抵抗が発生するだろう。金融機関に債権放棄するよう求めたようなリスクも十分ある。

立法の趣旨からすれば当然だよね。破綻処理に準じることになるね。

結果として、同法の目的の一つである「原子力事業の健全な発達」という点は実現できなくなるだろう。

それは当然だね。そもそもそんなことを原賠法の趣旨に掲げたことが間違いだよね。

原子力事業を民間企業に続けさせるという政策的選択を継続する限りは、今の賠償スキームは持続可能ではない。

そうだね、もうこれっきりにしたいね。

見直しに当たって、重要視しなければならないのは次の2点である。第一に、国と東京電力が連帯して損害賠償を行う仕組みに変更する必要がある。
第二に、法的に電力供給義務が課されている電気事業者の資金調達を確保することである。

たしかに持続しようと思えば、そういう選択しかないね。

冷静に検討されるべきは、東京電力を存続させて、数十年間にわたって賠償事務を行わせるべきなのかどうかである。

そこだよね、問題は。

遠くない時点で、賠償を果たすための組織と、新たに電力供給を担っていく組織とを分離した方がより合理的ではないか。

つまり破綻処理ということだね。当然会社更生法の適用ということになるね。おやおやそこがはっきりしないね。

ということで、最終論旨はあいまいなままだが、さほど目くじら立てるような文章ではない。ただ原発の形を変えた存続を暗黙の前提としていることが根本的な相違だが。

後半の発送電分離構想批判については部分的に共鳴するところも多い。ただし、いま問題なのはそんなことではない。原発以後のエネルギーを、どう新技術により確保していくかだ。それにより電力事業のあり方は規定されてくる。

WEDGEという雑誌が、7月号で「それでも原発動かすしかない」と題する特集を組んだ。いまどきある意味で「勇気ある」発言である。
http://livedoor.blogimg.jp/shosuzki/imgs/5/e/5e039f9e.jpg

しかし赤旗の報道を見ると、発行の背景に問題がいくつかあるようだ。
①この雑誌が新幹線グリーン車に無料で置かれている。ということは公共的企業であるJR東海がこの雑誌を買い取り、閲覧を促していることになる。(グリーン車など乗ったことのない私には無縁だが)
②ウェッジ社はJR東海が出資する出版社である。(ウェッジ社の会社概要を見ると、当初は月刊誌『ひととき』と呼ばれ、10年前から 東海道・山陽新幹線グリーン車に搭載していた。このときの発行者はジェイアール東海エージェンシーであり、ウェッジ社は編集を引き受ける形になっていた。もしそのままだったら、JR東海は発行人として社会的責任を問われることになっていただろう)
③JR東海の葛西社長は、政府の東電に関する経営・財務調査委員会の委員を務めており、この問題に関して公的な立場にある。
④葛西社長は産経新聞5月24日付けで「原発継続しか活路はない」と主張しており(その行為自体が公的立場を逸脱している)、特集とその論調は完全に一致する。
ということだ。会社のアセットの私的流用の疑いが濃厚だが、すれすれ、告発するほどの違法性はない。なかなかうまい手口である。しかしJR東海が、会社全体として原発継続論を広めたがっている異様な雰囲気は漂わせている。東電といい、JRといい、公益に携わる事業の経営者が公的意識を持たないのはいつから始まった悪弊だろうか。
全16ページというから、赤旗の記事紹介だけでは物足りない。ネットで探してみるとメイン記事が掲載されていたので紹介する。(以下は次の枠へ)

2月頃に書いた文章です。とりあえず載せておきます。 事務局からチュニジア・エジプト・リビアの情勢を書けといわれましたが、私には分かりません。チュニジアは海外旅行通の穴場的存在となっており、会員の中にはチュニジアで暮らした方もおられるので、下手に触れると怒られそうです。とりあえずネットで情報を漁って見ました。 とりあえず分かったいくつかのこと。 1.なぜチュニジアだったのか? リビアからモロッコに至るアフリカ大陸北岸、地中海沿いの諸国はマグレブと呼ばれます。歴史的にヨーロッパ諸国の植民地支配を受け、独立を勝ち取った今も深い影響下にあります。なかでもチュニジアはヨーロッパ資本を積極的に受け入れ、マグレブの優等生と呼ばれてきました。 なぜその優等生のチュニジアで革命が起きたのか、それは優等生だったからこそ起きたと考えられます。 チュニジアにしがらみを持たない私のような人間にとっては、今度の革命はきわめて分かりやすい革命です。外資依存の経済開発を進めてゆけば、GDPは増加しても一般国民の窮乏化は進み、対外債務は増え続けます。輸出型産業だけが特権を謳歌し、それに群がる利権集団が政治を牛耳ることになります。 20世紀初頭のメキシコ革命から87年の韓国民主化運動、その他もろもろの革命はすべてこのパターンです。 2.なぜ民衆革命だったのか アラブを知る人にとって、これまでの政治闘争の枠組みはアラブ民族主義かイスラム主義でした。今回の民衆革命はその目標とする価値観がまったく異なっています。経済的不平等に対する怒りと、人間が人間らしく生き、働く権利をもとめる要求がその基礎となっています。これらは一言で言って民主主義の要求です。 まともに考えると、これまでアラブ世界で民主主義という概念がどうして成立しなかったのか不思議なことです。「異なる文明」論で済ますわけにはいかない検討課題です。それが今回の革命によって、民主主義の価値の全世界における共通性が証明されたのだろうと思います。 3.なぜ国民革命だったのか? 前の項の発展形になりますが、今回の革命はチュニジア国民が一体となって闘われた点に大きな特徴があります。宗派もなく人種や部族もありません。逆に言えばアラブの大義もイスラムの原理もありません。民族国家としてのチュニジアという枠組みが統一の基礎となっています。 これは政府の権威が強大化し、その統制の下に国民統合が遂行されたことの裏返しです。そうなると政府も国民の支持がなければ維持することが不可能になります。国民統合が完成しているチュニジアやエジプトでは、基本的には流血を見ることなく革命が成功しました。これに対し、イエーメンやリビアで難航しているのは国民統合の水準がまだ低いためではないでしょうか。 4、アラブ民族主義とイスラム主義の行方 これらの国はかつてアラブ民族主義の旗頭でした。独立闘争の流れを汲む支配政党は、欧州列強の支配に反対しアラブ民族の結束を訴えました。それは同時にイスラムによる宗派支配の否定と国家の近代化、富国強兵主義でした。それまでの伝統社会は近代化という名の収奪強化と労働力の流動化による社会の崩壊に直面し、昔ながらの価値観であるイスラムの教えを盾に抵抗しました。 この流れが決定的に転換したのは第三次中東戦争の惨敗、アラブ民族主義の旗頭であったエジプトのナセル大統領の死、そして1980年のキャンプ・デービッド会談におけるエジプトとイスラエルの「和解」でした。国と民族を守るための富国強兵策が、大量に流れ込む外資の中で権力者の致富の手段に変わり、その外資がやがて債務となって首を締め上げるようになると、かつての愛国者たちは国民の犠牲を省みることのない「売国者」へと変質していくのです。 そのために強圧的な手段がとられるようになり、民主主義的な制度は骨抜きにされ、共産党などの革新政党は非合法化され、労働運動も抑圧されました。シュタージ(秘密警察)国家への変質です。 一時、アラブ民族主義に代わるものとしてイスラム主義が注目されましたが、イランの原理主義政府の抱える矛盾を見ても、その先に未来が期待できないことは明らかです。チュニジアでの新しい変革の波が、民族主義の伝統を踏まえながらどのような形に発展していくのか、これからが注目されます。 蛇足: 「チュニジアの夜」は、youtubeの 「Art Blakey & the Jazz Messengers - A Night in Tunisia」 がお勧めです。URLは http://www.youtube.com/watch?v=FHKyVJ5YfNU&playnext=1&list=PL5E2BF0D93DB4A4B0 です。騒々しいのがお嫌いに人には「Jim Brock - A Night In Tunisia」がよろしいかと思います。URLは http://www.youtube.com/watch?v=MlUTRhNBD4w です。

参考までにメルケル演説の要旨を紹介する。本日の赤旗に詳報が掲載されている。

  あの恐るべき3月11日から90日たった今日、われわれは次のことを知っている。原子力発電所の三つの原子炉ブロックでは炉心が溶融している。今でも放射 能を帯びた蒸気が大気に排出されている。広い範囲の避難地域はなお長期わたって残存するだろうし、事態収束のめどはなおたっていない。

 日本の劇的な事態が世界にとっての転機であることは疑いない。それはまた、私個人にとっても転機だった。日本のような高度な技術国ですら原子力の危険は確実には制御できないという事実を、われわれは福島の事態から認めざるをえない。

 その認識に立てば、必要な結論を引き出さねばならないし、新しい見方が必要になる。だからこそ私は“新しい見方をすることにした”と明言したのだ。

 私は「福島」以前には原子力の残存リスクを容認していた。高い安全基準をもつ高度技術国ではおよそこうした事故は起こらないと確信していたからだ。しかし、事故は現に起こった。

 問題は、ドイツで同じように恐ろしい地震がおこるかどうか、日本のような破局的な津波があるかどうかではない。「福島」後に重要なのはそんなことではない。

 確かに私は昨年秋、わが国の包括的なエネルギー基本計画でドイツの原発の稼働期間の延長を支持した。しかし私は本日、本議会において誤解の余地がないよう、こう断言する。「福島」は原子力に対する私の見解を変えた。

赤旗の紹介は、各論部分の抄訳なのでかなり読みにくい。つまみ食いのさらにつまみ食いを箇条書きにしておく。

*エネルギー転換についての決断は、社会の価値判断に基づく。それは技術的側面や、経済的側面の判断に先立つ。価値判断のキーワードは持続可能性と社会的責任である。

*福島の事故は三つの事実をもたらした。①日本のような高技術国でも事故は起こる。②事故が発生すれば、収束のめどは立たない。③設計上、絶対安全な原子炉そのものが破壊されることもある。

*人間は、技術的には可能なことでも、すべて行うというわけにはいかない。とりわけ技術の結果が「永遠の負担」という性格を持つ場合は、きわめて厳しい姿勢をとる必要がある。

*いま安全、リスク、危険という概念を新しく規定しなおす必要がある。大規模技術施設においてはゼロリスクということはありえない。技術的なリスク評価は、これまで危険事象の確率で推し量られてきたが、これは原子力の評価については十分ではない。それはリスクの容認しがたい相対化に系統的に導くことになる。

*通常の対リスク戦略では、損害が実際に起こり、そこから徐々に対処法を学んでいく。しかし核施設ではこうした学習過程は排除される。最悪の核事故は未知で予見困難であり、そのリスクを現実の事故の経験から導き出すわけにはいかない。

*結論として、事故の可能性をなくすためには、核技術はもはや使うわけにはいかないということになる。

この報告のキーポイントはリスクの容認しがたい相対化 という点に尽きるのではないでしょうか。
一般にリスク管理の技術学は、どのような技術にもリスクは必ず存在することを前提としています。そして二重の意味でリスクを相対化します。ひとつはリスクの許容範囲を定め、「ゼロではないが安全」というレベルに押さえ込みつつ、もう一方でコスト・ベネフィット比とのバランスを図ることになります。
ところが、「ゼロではないが安全」という安全度の相対化は、こと核技術に限っては、現在の科学・技術水準では不可能なのです。それが今回の福島原発事故で明らかになったのです。
したがって、コスト・ベネフィット比などに今の時点でなお固執するならば原発の内包するリスクの容認しがたい相対化 に系統的に導くことになるのです。ひらったくいえば「煮ても焼いても食えないぞ」ということでしょうか。



菅首相が突然、ソーラー発電などの電力を固定価格で買い取ると言い始めた。
真意がよく分からないが、通産省の一部で主張されている発送電分離へのアドバルーンとも考えられる。いま東電が地域独占によって吸っている甘い水は、他企業にとってはよだれが出るほどの利権だ。発電事業が事実上自由化されるなら、参入を求める企業が続出するだろう。
経団連主流派は既得権益を侵すような企てには猛反発するだろうが、アメリカや韓国の数倍の料金で電気を売り続けてきた連中が「なにをいまさら」で、説得力は皆無に等しい。
しかしいま肝心なことは、東電に公的企業としての責任をとらせることであり、国民のしっかりした監視下に置くことである。そしてエネルギー転換に関する基本的視点をきっちりと打ち立てることである。それ以上のことは菅政権のなすべきことではない。
国民は、原産複合体の解体的出直しを求めてはいるが、エンロン社スキャンダルの再現を望んでいるわけではない。

材料が少なく、感想的な意見である。
 第一にオジャンタ・ウマラの勝利は、左からも右からも極めてクールに受け止められている。選挙についての論評をネットで探したが、少なくとも英語の文章は皆無と言ってよい。「来るべきものが来た」という感じなのだろうと思う。ことに決選投票にすら自派の候補を送り込めなかった伝統的右翼の無力感は察するに余りある。
 第二に、意外なほどの僅差の勝利であった。ケイコ・フジモリが意外なほどあっさりと敗北を認めたため事なきを得たが、これまでのラテンアメリカの伝統から言えば「不正選挙」と騒いでもなんの不思議もない票差である。
 第三に、選挙の過程で党派関係が捻じれ、国政の争点がぼけてしまったことである。一般には革新のウマラ対右翼のケイコという構図なのだが、実は右翼の中に反フジモリ感情は根強い。そして伝統的左翼はと言えば、これも反フジモリなのだ。逆に民衆の中にフジモリ支持層は分厚い。
 ケイコを支えるべき右翼の中からも多くの造反が出た。ノーベル文学賞を受賞したバルガス・リョサはフジモリが当選した時の対立候補で、フジモリを毛嫌いしている。彼は「エイズよりもガンを選ぶ」としてウマラへの投票を選択した。 フジモリの後に大統領を務めたネオリベラリズムの信奉者トレドもウマラ支持を明らかにし、ウマラ陣営に自らの政治スタッフを送り込んだ。
 選挙戦で劣勢に追い込まれたウマラは、反フジモリを前面に押し立てることによって辛うじて勝利をモノにすることができたのだが、これが今後の政策展開の上で足かせとならないだろうか。気がかりではある。
 かつてチャベスがクーデター未遂事件を起こしたあと政界に登場したとき、フジモリ派の装いをとっていた。実は彼は紛れもない左翼であったことが後から明らかになるのだが、ウマラの思想的経歴にはチャベスのような左翼的傾向は明確ではない。
 目下のペルーの経済情勢を見ると、政策選択の幅はそれほど大きいとは言えない。オマラがエクアドルのグティエレス元大統領のような経過を取る可能性も絶無とは言えないのである。

 第4には、これからの中南米を見ていく上で大事なことだと思うが、この選挙が「上り坂の経済」を背景に行われた選挙だということである。これまでの革新候補の勝利は、どちらかといえば「絶望の10年」の末に国民が選び取った選択だった。それに対しこのたびの選挙は、好調な経済を背景に、「これからさらにどう進んでいくべきか」を問う選挙だった。
 そういう点では、戦いの勝利者はウマラというよりUNASUR(南米諸国連合)だったというほうが正しいかもしれない。ということで、これまでちょっと敬遠してきたUNASURの勉強に着手するか。

「窓」と題する久下格さんのブログに、この間(といっても災害発生から5月あたままで)の米政府の動きが詳細に跡付けられています。
もともと私は政治・経済面からのアプローチを主として行うつもりでした。敵は経団連、仇は米倉会長という構図です。
アメリカの戦後支配と干渉の経過については、あまり触れるつもりはなかったのですが、この文章を読むとやはりそこまで見通しながら分析していかないと分からないのだな、と改めて感じました。
ただ、この間の経過では「毒をもって毒を制す」という側面もあったと思います。やはり経団連=東電を軸とするムラ社会構造は我慢ならないものです。
ともあれご一読をお勧めします。

本日の赤旗に内藤正則氏の発言が掲載された。14面の左肩で見逃すかもしれないので紹介しておく。
非常にすっきりした見解である。内藤さんという人の肩書きは「財団法人エネルギー総合工学研究所原子力工学センター」の安全解析部長。相当「偉い」人のようで、日本原子力学界賞を4回も受賞している。しかも東大ではなく東北大学卒だ。

私は、チェルノブイリの後、通産省の委託を受け、過酷事故の拡大を防止するためのプログラムに関わりました。その結論は速やかなガスの放出(ベント)と冷却のための代替注水でした。
ベントと海水注入は、全電源喪失という事態に直面したとき、実施する、しないという選択肢はありません。やるしかないのです。それが何らかの理由で遅れたのであれば、その理由を明確にすべきです。
全電源喪失に直面したら、東電は、事業者としての義務と責任で決断しなければなりません。「官邸の指示」を待たずとも実施すべきことでした。
東電が速やかにベント、代替注水を実行できなかったことの検証が迫られます。

「誰か、東電内部に、判断を遅らせ実施を妨害した人物がいる」ということを内藤さんは言外に指摘している。ぜひとも検証してもらおうではないか。

ドイツ倫理委員会の勧告の文章を米倉会長ならどういうかと考えてみた。

ドイツ経済はその強さを、最高の質の製品を作り出すその創造性と能力に負っている。ますます多くの企業が、そのビジネス分野を持続可能な経済の方向に求めるようになっている。原子力利用からの撤退は、そうした企業にさらに多くのチャンスを与えることになる。

日本経済はその強さを、かつて最高の質だった製品を低コストで売りつなぐ能力に負っている。ますます多くの企業が、そのビジネス分野をタコ足食い的な経済の方向に求めるようになっている。原子力利用からの撤退は、そうした企業に決定的なピンチを与えることになる。
日本は原子力からの撤退において世界的に重要な先駆者の役割と責任を断固として拒否する。

ウーム、分かりやすい。

昨日のメルケル演説に続き、本日の赤旗にはドイツ倫理委員会の勧告を掲載している。
これは2022年までに原発から全面撤退することを定めた政府法案の基礎となる文書だそうだ。
赤旗を直接お読みいただきたいが、気に入った一節を引用しておく。

ドイツ経済はその強さを、最高の質の製品を作り出すその創造性と能力に負っている。ますます多くの企業が、そのビジネス分野を持続可能な経済の方向に求めるようになっている。原子力利用からの撤退は、そうした企業にさらに多くのチャンスを与えることになる。ドイツの学術は卓越した位置にあり、エネルギー転換に向けて本質的な技術革新や高性能の解決法が引き続き期待できる。
ドイツは原子力からの撤退において世界的に重要な先駆者の役割と責任を担う。

いいですね。Deutschland, Deutschland über alles, über alles in der Welt ですね。

私たちもこれと似た経験を数多く持っている。70年代初めの公害闘争は大企業の抵抗を押し切って大幅な規制を加えた。その結果、生産は落ちるどころか、反公害技術はいまや日本の最大の技術資産として輝いている。乱開発から市民が守った自然環境はいまや観光日本の最大の資源となろうとしている。なによりもそれらの闘いは日本の民主主義にとって最大の知的遺産となっている。

それにしても、我らが米倉経団連会長もこのくらいのことは言ってみたらどうかと思うが、過去の発言における品性の低劣さはなんとも情けない。


東電病は人体の主としてエネルギー産出系をおかす寄生虫疾患である。この東電虫と呼ばれる寄生虫は、アメリカ原子力兵器産業という外来種と日本在来の大企業の交配から生じた。元来は政府が輸入したものであるが、その後野生化し、中電・関電など全国9ヶ所のエネルギー系に拡散している。 この寄生虫は尻から「利権」という蜜を分泌し、他の虫を呼び寄せる。正確には「東電を中核とする原子力産業複合体」と呼ばれる。これを東電病と呼ぶのは、発見のきっかけが東電の福島発電所で起きた福島シンドロームによるからである。 体内に入ると虫体を中心に腫瘤を形成する点でエヒノコックス病と類似する。しかし東電病においては腫瘤形成傾向が旺盛であり、50年をかけて巨大化する。ことに免疫機構が作動しなくなると急速に増大する。その結果、中心部は血流不全に陥り壊死・膿瘍化し、些細な外力によっても容易に決潰するようになる。その膿にひとたび触れれば、たちまち猛烈なかゆみを生じ、掻きむしるうちに皮膚は欠落し、真皮、筋肉、骨とともにどろどろの一体と化し、強烈な腐臭を発しながら血膿とともに脱落していく。 これが実際に起きたのが福島シンドロームと呼ばれるものであり、水素爆発、大気・土壌・海水の非可逆的汚染と深刻なエネルギーの欠損をもたらす。スリーマイル症候群、チェルノブイリ症候群と類似の徴候を示すが、腫瘤そのものははるかに大きい。 <症状>たまに小規模なデモなどの免疫反応は起こるが、一般的には自覚症に乏しく、時には膿瘍の破裂まで無症状のこともある。鎮痛作用のある麻薬様の物質を分泌するためと見られる。しかし長年の間に生体防御機構は破壊され、いったん福島シンドロームを発症すると病状は急速かつ不可逆的に進行し致死的結果をもたらすことが多い。 <診断>存在診断そのものはきわめて容易である。しかし有害とはみなされず、「自然放射能のごとく」無害な常在菌としてあつかわれ、ときにはビフィズス菌のように人体にとって有益なものと考えられたため、これまでは放置されてきた。無害学説形成に当たってはとくに東大学派の影響が強い。 <治療>福島シンドロームと呼ばれる終末期の急性症状に対してはほとんど打つ手がない。対症的治療としては「受容」、「受忍」があるが、その効果については「受忍させる」ことも含め多くの異論がある。 治療の基本は免疫賦活療法である。初期の段階では生体は東電虫を異物としてとらえ正常な免疫反応を生じ、排除の体制をとるが、繰り返す暴露により疲弊し免疫寛容を生じるようになる。それどころか東電虫が出す麻薬性物質に依存を生じ、東電虫を渇望するようにさえなる。 根治療法としては外科的切除があるが、これは相当進行してからの治療となるため救命的手術とならざるを得ない。血管豊富な腫瘍であるため、切除前には愛護的な用手剥離と徹底的な血管結紮により十分に周囲組織と離断する必要がある。それでも侵襲は大きく出血量は多い。したがって手術そのものの困難よりも、患者と家族に手術を説得し納得させるタフネスがもとめられる。 <予後>さまざまな困難と紆余曲折が予想されるが、肝腎なことは腫瘍といっても癌ではないということである。手術リスクは高いが、いったん腫瘍の完全切離に成功すれば予後は佳良である。術後も免疫賦活療法の継続は必要であるが、少なくとも放射線治療は不要である。

先ほどテレビのNHKニュースを見たが、どうもおかしい。 震災報道では国民一丸となってと呼びかけているのに、ニュース番組が始まるととたんに菅首相が早く辞めるようにという論調だ。 しかも大連立になったらどうなるのか、彼らが何をしようとしているのかはまったく語られない。いたずらに国内対立を煽っているとしか見えない。
公共放送として受信料を聴取しておきながら、明らかに不偏不党の立場を逸脱している。これは東電が公的企業として電気事業を独占しながら、「民間企業」と称して自民党への献金を続けてきたのと同じだ。明白な脱法行為だ。
自民党もおかしい。首相が辞めなければ第二次補正予算の成立を妨害するのか、それは突詰めると被災者を人質にすることではないのか、被災地の人々の救済より政権取りの方が優先するのか。そういう行為は世間では「卑劣」と呼ばれるのではないか?
 そもそも国会は国権の最高機関である。議会が率先して切り開いていくべき課題が目の前に山積しているはずだ。議員立法でも何でもどんどん出したらよい。国民はまさにそのことを国会に期待している。 目を覚ませ! 百年に一度の国家危機を前にこんなことをしていては国会議員として自殺行為ではないか。このままでは、一族の名折れとして将来に汚名を残すことになるぞ。
菅内閣に対する批判も的外れだ。初動の遅れを責任追及しているが、IAEAの指摘にもあるように、複雑な縦割り行政と、中立的独立的な保安機関の不備が初動遅れの最大の原因であり、そのシステムを作り上げた主要な責任は過去数十年の歴代自民党政権にある。まずは深く反省して、改善策を提示してその上で国民の判断を仰ぐべきではないか。 とくに原子力産業複合体にどうやってけじめをつけさせるのか、この方針を明示すべきだ。

21世紀の最初を十年間を、我々は「2001年9月11日」論の中に過ごした。平和と生命の問題ばかりではなく、人権と民族の尊厳、宗教と自由、異なる文明の共存の問題がそこにはふくまれた。
それは1990年11月9日、ベルリンの壁の崩壊に始まった激動の世界、新自由主義と国際金融の横暴、アメリカ帝国主義の専制支配の時代の頂点であり、そこから多国間協調主義への萌芽が生まれ出た時代でもあった。そして24時間の間に世界で1千万の人々が、平和をもとめ、アメリカ帝国主義に抗議して立ち上がった時期でもあった。
同じように、2011年3月11日を、2010年代の世界を特徴づけるモニュメンタル・デイとして位置づけようとする動きが始まっている。日本ではいまだそれどころではない悲惨な状況が展開されているのだが、ヨーロッパではいち早くそのような論調が登場してきている。

それは端的にいえばエネルギー革命だ。
エネルギー革命というと、すでに20世紀から展開されているようにも見えるが、それらは結局石炭なり石油に対するオルタナティブとしてのものであるか、反物質文明的色合いを持ったイデオロギー的運動に留まっている。
これからのエネルギー革命は、持続可能性をもとめる技術革命である。それは資源の持続可能性というよりは人類の持続可能性を模索していく革命となる。
この革命の特徴はもうひとつある。それがまずもって、原発という既存のエネルギーを放棄するところから始まることである。テレビの買い替えとは違う。完全な見通しを持って開始するわけには行かないのである。
しかしそれは人類にとって必ずしも初めてのことではない。東欧の民主主義革命は既存の命令主義的政治構造を破棄することから始まった。そして資本主義への復帰という形態をとって実行された。多国間協調主義は「多極化」=ウェストファリア体制への回帰という見掛けをとりながら進行中である。一時的な混乱と、生活上の困難は覚悟の上で臨まなければならない。

ラテンアメリカ財政の特徴は歳入にある。
第一に、歳入がGDPに対して低い。平均歳入額はOECD諸国でGDPの42%であるのに対し、ラテンアメリカでは23%に過ぎない。
第二に、税の捕捉率が低い。純粋な税収はGDP比16%で、OECD諸国の35%と大きな差がある。税収以外の収入がGDP比8%以上を占める。
第三に、直接税の比率(直間比率)が低い。OECD諸国が42%であるのに比し、ラテンアメリカでは25%にととまっている。
第四に、直接税の中でも所得税の占める比率が低い。OECD諸国が27%であるのに対し、ラテンアメリカではわずか4%である。
LATIN AMERICAN ECONOMIC OUTLOOK 2009 による

要するに金持ちがやらずボッタクリの生活を送り、それを政府が支持しつつ、大衆収奪路線を推し進めているわけだ。しかも政府には信頼がないから、取れるところからだけ取って済ましている…というのがラテンアメリカ諸国政府のありようだ。

所得の再配分機能など到底期待できない。共同体など「幻想」どころかお笑い種だ。

こういう歳入構造が歴史的に形成されてきた。そして民衆の上に覆いかぶさってきた。「失われた10年」と「絶望の10年」がその帰結を赤裸々に開示したのだから、この10年間に相次いで誕生した革新政権は、相当長期間にわたって支持され続けるだろうと思う。
ただしその革新政権も、まだ金持ちの懐に手を突っ込んで正当な税を徴収するところまでは至っていない。それが2008年におけるラテンアメリカの状況だ。

ところで、研究報告で、マックス・ウェーバーなどの近代政治学の手法を用いて分析しているのを見かけるが、それは無駄な作業だ。これらの国で通用するのはマルクスだけだ、

16日赤旗によると、ソニーは多賀城市の仙台テクノロジーセンターで首切りをやるという。浸水被害が出たからといって首を切るのは「世界のソニー」としてはなんとも情けないのだが、とくに許せないのは期間社員150人の全員解雇。彼らの平均年収は270万円、150人全員の年俸は4億円だという。
びっくりしたのはソニー会長の年俸。なんと8億円強です。私たち貧乏人にはこんなにたくさんのお金を何に使うのかさっぱり分かりませんが、とりあえず4億ではだめなのでしょうか。
もちろん困っているのは150人に留まるわけではありませんから、それだけでカタがつく話ではありませんが、そのくらいはしないと痛みを分かち合う「一体改革」の名が泣きます。
記事によると期間社員たちは自宅が被災したのに長時間かけて出勤し、泥のかき出し作業に参加したり、避難所から復旧作業に通っていたとのことです。

この赤旗記事は、ぜひ皆さん読んでください。泣けること請け合いです。

若い頃は金などなく、レコードなどめったに買えなかった。せいぜいフォンタナの1200円盤しか手が出なかった。時たま、レコード屋でパンチ穴の開いた今で言うアウトレット盤が出ると、引き出しから大枚二千円をポケットに入れ出かけたものだった。 下宿代が賄いつきで月7千円、生協のC定食が90円の時代である。 そうやって買ったのがクレンペラー指揮フィルハーモニア管弦楽団のワーグナー序曲集だった。だからこの曲のこの演奏はクレンペラー以外にない。シノーポリ指揮のフィルハーモニア管弦楽団の演奏はまさにクレンペラーそのものだ。それだけで最高だ。 テンシュテットの演奏はそれとはだいぶ違う。しかしこれも良い。 ショルティは、いつも思うのだが、この人は一流ではない。この人からは知性が感じられない。ロゴ付きジャージで高校のブラスバンドを指揮しているのがお似合いだ。 YOUTUBEではもうひとつゲルギエフの演奏が聴かれるのだが、この人はもっと知性がない。ソ連崩壊のドサクサで出現したオナラみたいな人である。猛烈に臭い。行者にんにくが好きな人にはお似合いであろう。 高校時代に駿府会館でショルティ指揮ロンドン交響楽団を聴いた。ベートーベンの4番と7番、いま考えるとクライバーの十八番だ。しかしその頃は4番も7番も知らなかった。 アンコールのハンガリア舞曲第5番だけは鮮烈に覚えている。トロンボーン3本の迫力はすさまじかった。 このときのメイン指揮者は当時89歳のピエール・モントゥー。ドサ回りをショルティとアンタール・ドラティが引き受けた。いま思うととんでもない顔ぶれである。

http://jp.wsj.com/Opinions/Opinion/node_224799

Wall Street Journal Japanese Edition  オピニオン 2011年 4月 19日

東電は必要なら破綻も-電力会社は銀行ではない

星岳雄、アニル・カシャップ、ウルリケ・シェーデ

きわめて論旨明瞭、分かりやすい文章だ。

最初に結論部分から紹介する。

 東電は銀行ではなく、元世界最大手のエネルギー取引会社「エンロン」と同様に考えるべきだ。エンロンは誤った経営判断で破綻に追い込まれた。その破綻は混乱を引き起こしたが、システム全体を不安定化させることはなかった。

 東電は重要な日本企業だ。だが、通常の企業に課された法律を免れるほど重要ではない。

 論文はまず、90年代の金融破たんとは違うことをはっきりさせる。

東電は1998年の一部の銀行と同様に支払い不能に陥る可能性が ある。規模も大手行並みに巨大で、経済を機能させるために不可欠である。

だが、銀行と東電のような企業の間には根本的な違いがある。銀行の調達資金は、預金者やその他投資家からの信認が失われればたちまち枯渇してしまう。さらに、ひとつの銀行で支払い不能に陥れば、他の銀行に連鎖する可能性がある。こうした危機の飛び火は金融システムの大部分を危険に陥れかねない。

これに対し、東電の調達資金の大半は長期債券であり、債権者が直ちに返済を要求する仕組みにはなっていない。東電は競争にさらされていない地域的独占企業であり、安定的な収益源があることだ。しかも、東電の破産によって他の電力会社が危機に陥ることはない。

会社更正法に基づく通常の破綻処理では、企業は営業を続けたまま何の問題もなく破産と債務再編の手続きを進めることができる。

東電を通常の破綻処理から免責しようとすれば、安全性と効率を求める市場圧力から東電を隔離することとなり、モラル・ ハザード(倫理の崩壊)という新たな問題が発生する。


毎日新聞の特ダネ  三沢耕平記者の署名入り記事だ。

 政府の支援策の前提となった東電の財務試算が、毎日新聞が入手した内部資料で明らかになった。
 ①賠償総額を10兆円と仮定し、これに火力発電切り替えコストを上乗せする。
 ②電気料金を16%(一般家庭の場合月額1000円程度) 値上げして東電に収益を確保させる。
 ③東電はこの収益を原発事故の賠償に回す。

 試算によると、12年3月期から年2兆円の賠償費用を5年間計上。廃炉費用も2年間で1兆円を計上する。これに年約9000億~1兆円の火発燃料費が上乗せされる。

 電気料収入は約4.6兆円から約5.8兆円に増加。15年には1735億円の最終黒字を確保するシナリオだ。金融機関や社債権者への支払利息は据え置き、株主配当も19年の再開を見込む。

これって賠償というんでしょうかね。さらに銀行からの融資、株、電力債はすべて満額保障どころか利息までつけるというのだから、図々しいにもほどがある。これで株価が一気に上がったわけだ。

 今後は「経営・財務調査委員会」による資産査定が東電の「聖域」にどこまで切り込むかが注目される。
 東電を電力事業部門と債務を引き継ぐ部門に切り分ける「新旧分離」や「発送電分離」など、事実上の東電解体論 にも発展しそうだ。

と書いてあるが、とても発展しそうにはない。

くどいようだが東電は一民間企業だ。その企業が債務超過に陥っている。破たん処理を速やかに行わなくてはならない。いろいろな意味で、これがけじめだ。
問題は二つあって、ひとつは電力という公共財を扱う会社だということ、もうひとつは地域独占会社で、代替をもとめるのが困難ということである。
しかしそれらのことは破たん処理を不可能とするわけではなく、その過程で配慮が必要だということ、国と政府が最終責任を負わなければならないということを意味するに過ぎない。
"too big to fail "は問題ではない(経団連にとってはこれこそが大問題だろうが…)。

不信任案が否決されたあと、さらに菅降ろしの動きが強められている。
問題はアメリカ、とくに軍関係がどういう態度をとるかだ。アメリカが菅を支持すれば、一巻の終わりだ。そういう点では東電ムラも必死だ。
ムラ社会の「なぁなぁ管理」にゆだねられるほどに原子力は甘いものではない。東電の危機管理の内実は惨憺たるものであった。それが白日の下に晒された。
しかしその後の対応こそが深刻であり、そこには目を覆うほどに当事者の開き直りと、ムラ社会の「庇いあい」が横行している。「きっちりとけじめをつけよう」とする構えはまったく感じられない。
原発に対する危機意識よりも、危機意識のなさに対する危機意識が深刻である。
いまや原発問題は電力問題ではない。主要な問題はコストではない。原発管理は端的にいえば核管理なのである。このようなずさんな「原子力大国」をこのままに放置してよいか。このような倫理的に締まりのないムラ社会構造を手付かずで温存し、核の管理をゆだねてよいのか。
このような思いはアメリカ国防総省も国務省も共有していると思われる。

菅降ろし策動は、紛れもなく東電問題に対する幕引き策動である。もちろん菅政権が東電問題を適切に対処できる保証はない。むしろできないと見たほうがよい。しかし自公との連立政権となれば、"やれない"というより"やらない"政府になるだろう。

これは国際的な核管理の戦略に背馳する可能性がある。なぜなら核の管理は一切のあいまいさを許さないからだ。臭いものにふたをして、何もなかったようにやり過ごそうという財界・政界の姿勢に、かつてけじめのない12年戦争へと突き進んだ軍部の体質が二重写しとなってくる。

国際世論は今後原子力に対してさらに批判的になっていくだろう。日本における原発問題のあいまいな幕引きは、各国の戦略専門家の警戒の的となろう。

みずほアジア・オセアニア インサイト 6月14日号
 http://www.mizuho-ri.co.jp/research/economics/pdf/asia-insight/asia-insight110614.pdf

震災はアジア経済にもさまざまな影響を及ぼすと予測されている。

第一に、サプライ・チェーン問題がある。日本からの部材輸入が途絶えることにより、アジアの生産が減少する可能性である。日本からアジアへの輸出のうち、部材(中間財)の占める割合は、90年の62%から09年の71%に増大している。

第二に、日本経済の悪化に伴う対日輸出の落ち込みである。しかしアジアの輸出先としての日本の存在感は低下しており、現在では10%前後に過ぎない。

第三に、日本企業の対アジア投資・進出の停滞である。シンガポールの経済紙は「国内の復興投資に専念するため、日本企業の対外投資ペースは低下する」との見通しを示している。
しかしこれについては、「日本企業は自然災害のリスクを分散するために、生産拠点のアジア移転を加速させる」との期待も持たれているという。

しかるにタイ現地調査では、自動車生産はすでに旧に復している。その理由は、タイにおける自動車生産の2/3が商用車、残りの乗用車も安価な小型車が主力であり、カーナビやエアコン、高度な駆動系制御装置は搭載していないからだ。

日本総研アジア・マンスリー 2011年6月号
http://www.jri.co.jp/page.jsp?id=19672

内外需の拡大に支えられてアジア経済は安定成長を続けているが、インフレ圧力の増大と東日本大震災の影響が懸念材料となっている。

今年第一四半期の統計を見ると、実質GDPは中国+9.7%、シンガポール8.5%、イン ドネシア6.5%、台湾6.2%、韓国4.2%となっている。輸出の拡大に加えて、民間消費や固定資本形成などの内需が成長を支えている。

いっぽうで、旺盛な資金需要と原油や食料品価格の高騰からインフレ圧力が強まっている。しかし各国通貨の対ドルレート上昇によりかなり相殺されている。各国は金利引き上げで引き締めを図っている。ベトナムでは13%にまで達している。インドでは自動車販売の伸び率が10%台へ低下するなど、利上げの影響が表れ始めている。

こうした中で東日本大震災の影響が顕在化しつつある。マイナス効果として、①日本向け輸出の減少、②原材料・生産部品輸入の減少、④サプライチェーン途絶による減産などがあげられる。いっぽうでは、①日本国内で品薄となった財の調達需要、②日本製品からアジア製品へのシフト、③アジアへの生産移転の加速などがあげられる。

短期的には復興特需などプラス面が前面に出てくる(たとえば韓国では、日本企業による石油製品や LNGなどのエネルギー、ミネラルウォーター、ラーメン、乾電池などの日用生活品調達により対日輸出額が70.1%増となっている)

Asia Weekly (5/23~5/27) 第一生命経済研究所 経済調査部
http://group.dai-ichi-life.co.jp/dlri/asia/pdf/as11_022.pdf

シンガポール経済動向

4月の鉱工業生産は前年同月比▲9.5%となり、17 ヶ月ぶりにマイナスに転じた。前月+97.2%と大きく増加したバイオ・化学関連が同▲31.6%の大幅減少になるなど、全般的に生産が縮小している。

東日本大震災による部材供給問題は短期的に生産活動の足かせとなる可能性があり、貿易量の縮小も懸念される。

ざっと見てみたが、大震災の影響評価に関しては隔靴掻痒の感を免れ得ない。アジア経済は日本の大企業を頂点とする垂直分業の関係にあるわけで、たんなる市場関係ではない。

とすれば、その指標は資本関係の諸表に現れてくるはずだが、それはこれからの動きということになるのだろうか。

第二に、この国際分業はそもそも対米貿易摩擦の回避、プラザ合意後の円高不況からの脱却策として80年代後半から進行したものであり、元来は対米迂回輸出のためのシステムであった。

したがって日本・アジアの関係からだけ見ても問題は浮かび上がってはこない。これに米国を加えた総体としてみておかないと、何も見えてこない可能性がある。

とりあえずは日本企業のアジア新規投資の動きに注目しよう。

GDPは日本の経済・社会のパフォーマンスを示すのに有効な指標ではなくなってきている。むしろそれは国民収奪の指標となっている。このことは以前のブログでも書いた。

とくに小泉改革の後はそれが顕著に現れている。20年前と現在を比べて経済がよくなっていると実感する人は誰もいないはずだ。もちろん大量消費のバブル景気がすばらしかったというわけではないし持続可能であったとも思われない。

賃金は横ばいないし微減、非正規労働の急増、社会保障水準の絶え間ない低下、膨大な財政赤字、人口高齢化…。間違いなく日本経済は疲弊しつつある。その疲弊を後押ししたのが小泉改革だが、不思議なことにその間GDPは一貫して増加を続けた。

ここから分かることは、国民の富の総体というものがあって、それは年間総生産の中から蓄積され生産のためのリソース(資源)となっているということ、そしてその総体の増減を表す指標はまだ作られていないこと、しかしそれは間違いなく減少しているということ、すなわち日本がタコ足生活に入っているということ、などである。食う足がなくなった瞬間、日本のGDPが劇的な減少を遂げることは容易に予測できる。

そしていまやGDPではなく国民の生産リソースの総体を増加させるべく、経済・社会政策を転換する必要があるということである。目に見える経済活動ばかりではなく、生産のためのリソースを増勢に転化する必要がある。短期的には「庶民の懐をあたたませる」政策であり、中長期には雇用の安定、収入の安定、老後の安定、教育・育児環境の充実などであろう。

高度経済成長を続けている間は、GDPで経済活動のあらましは判断できるが、生産活動の統計に表れにくい「生産活動」は経済の成熟とともにその比重を増してくる。何をしているのか分からないような商売が増えてくる。

経済学者のなかには、環境=自然資源とGDPとのトレードオフが最大の課題とする意見もあるが、価値が人間の労働によって生まれる限りにおいては、人的ソース (human resources) の量的・質的拡大こそが最大の資源開発と、私には思える。無尽蔵の自然資源が地下に眠っていながら経済発展が大きく立ち遅れた国などいくらでもある。

ともあれ、GDPを経済・社会開発の最高の指標とする時代は終わり、少なくともそれと並んで国民の富の総体の変化を示す指標をさまざまに試みていくことが必要になっている。

http://www.foreignaffairsj.co.jp/essay/201011/Wolverson.htm

GDPの考え方は、上記の論文「GDPは万能ではない。だが、代替経済指標はあるのか?」(フォーリン・アフェアーズ リポート2010年10月号)が簡潔にして要を得ている。

GDPでは、経済活動が環境の持続可能 性に与える影響などの長期的要因は考慮されないし、所得格差もカウントされない。したがって、GDP成長ばかりを追い求めれば、環境悪化、所得格差の問題 が深刻化する可能性がある。GDPは万能ではない。だがGDP をいかに改善すべきか、あるいは、他のアプローチに置き換えるかについて、エコノミストの間にコンセンサスはない。

大きくいって二つの考えがある。

ひとつは「政治家と有権者が、GDPは社会的充足度を計るための指標と間違って信じ込んでいる以上、たんにGDPをいじる程度では問題の解決にな らない」とするラジカルな考えである。

もうひとつは、たとえばスティグリッツは、「経済政策決定がもっぱらGDPだけを基準に下されるのを避けるために、追加的な指標をGDPに 加える必要がある」と主張し、これにより政策決定者に経済決定のインパクトの全体像を理解させることができると考える。

私の感想だが、それらの意見には、生産活動を根本的に規定するものは総体としての「人間の労働」だ、という観点がない。さらに、人間の豊かな欲望の創出こそが生産活動の推進力だ、という発想がない。

魯迅のせりふ「打落水狗」(水に落ちた犬は叩け)の訳だそうです。 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1313698513

私は毛沢東の言葉だとばかり思っていましたが、毛沢東が魯迅の言葉を引用したのでしょうね。

最初に聞いたときには「正しいかも知れないが、飲み込みにくい言葉」だと思いました。そのあと、文化大革命が始まって、ますますその感は強まりました。

ふと最近思い出して、思わず膝を叩きました。犬というのは愛玩犬としての犬ではなく「権力の走狗」のことだということです。すなわち東京電力です。

彼らは世渡り上手ですからめったなことでは水に落ちません。落ちたとしても、しおらしくしているのはほんの一時です。そのままにしておけばやがて水から上がってまた悪さを始めるに違いありません。時間の勝負なのです。

 第二次世界大戦はファシズムに対する民主主義の戦いであり、平和と民主主義を奉じる世界の人民が勝利を収めました。
ところが日本には民主主義をになうべき人民は存在しませんでした。天皇制ファシズム国家の敗北を我が敗北として受け止めるほかなかったのです。一億総懺悔です。

言ってみれば溺れる犬を叩くべき民衆が一緒になって溺れていたのですから、数百万国民を死に追いやった戦犯への追及は行われないままに終わり、東京裁判という「外圧」として受け止めるほかありませんでした。

肝腎なことは、日本人民はいまだに戦争責任を主体的には追及していないということです。

東電という国策会社、国家に匹敵するスーパーパワーを相手に面と向かって断罪するのは、日本国民にとって初めての経験です。
それはある意味で、あいまいなままにしてきた第二次大戦、あるいは国家というもののありように対する国民的総決算です。

「七人の侍」で馬に乗った野盗を泥沼に追い落とし、やっつける場面がありました。溺れかけた東電に止めをさすこのチャンスを逃してはいけないでしょう。
その野党が家に帰れば良き夫であったり、パパであったりする情景を想像する必要はとりあえずありません。


自動車Aは便利だが危険もある。ゆえに必要悪Bだ。
同様の論理においで原発A'も必要悪B'だ。

これはAutomobileとAtomic powerの危険度の質的違いを無視している。

兵器の例えで言うと良く分かるが、「爆弾は殺人兵器であるが、防衛のための必要悪だ」として、だから「原子爆弾も防衛のための必要悪だ」とは行かないであろう( 持って行く人もいるが)。

市井の論理を持ってくるわけには行かないのである。

私も原子力イコール邪悪と考えるのは躊躇するものの一人だが、おそらく小出先生もそうだろうが、すくなくとも自動車と同列において議論するつもりはない。

そのような詭弁を掲げてまで懐を暖めようなどとは考えない。

それにしても、下世話な話だが、中電からいくらもらって寝転んだのでしょうね?

北野武さんも糾弾されている。月刊誌『新潮45』(2010年6月号)で、原子力委員会委員長の近藤駿介東大名誉教授と対談し、 「原子力発電を批判するような人たちは、すぐに『もし地震が起きて原子炉が壊れたらどうなるんだ』とか言うじゃないですか。ということは、逆に原子力発電所としては、地震が起きても大丈夫なように、他の施設以上に気を使っているはず。だから、地震が起きたら、本当はここへ逃げるのが一番安全だったりする(笑)。でも、新しい技術に対しては『危険だ』と叫ぶ、オオカミ少年の方がマスコミ的にはウケがいい」 (週刊金曜日) 前半の部分に関しては素人だから許せるが、最後の一言は「マスコミ的専門家」たる北野氏としては、見過ごせない事実誤認を含んでいると思います。少なくとも原発がらみで、「オオカミ少年の方がマスコミ的にはウケがいい」と思われる事例があったのでしょうか? 多くの事例が示しているのはマギャクの事実ではないでしょうか。

東電に対する論調はいつから変わったのか わたしのかんじとしては連休明け、10日から15日あたりが潮目ではないかという感じがしていた。 政府が思いもよらぬ強気に打って出て、形だけでも東電の全面的な賠償責任を押し通した。 通産省の官僚がテレビに出て来て分割論をぶち上げた。 このあたりから民放メディアがいっせいに東電たたきを始めたという印象がある。民放というのは実にいやな性格の持ち主で、いままでヨイショしてきた相手が弱ったと見たら、今度は鳥の毛をむしるように徹底的にいじめる。 ではマスコミが態度を豹変させたきっかけはいったいなんだったのだろう。それが気になってインターネットをいろいろあたってみた。 論調の変化はそれよりずっと早いようだ。 調べてみて分かったのは、メディアの東電離れは三つのステップがあったということである。 第一の波は4月の初めから、いっせいに週刊誌が東電批判を開始したことである。実はその前、ほとんど事故の直後からインターネットでは東電批判が始まっていたが、社会的影響力はさほど大きいものとは言えなかった。 NHKは御用学者を動員して「安全」神話を振りまいていた。危険性を指摘するものは、むしろパニック煽りとして糾弾の的となるほどだった。 週刊誌の読者は比較的限られているとは言え、電車の中吊り広告、喫茶店のサラリーマン、病院や銀行の待合室などネット世界とは無縁の人々に事実を提示し、それが会社帰りの居酒屋の会話で広がっていく。 マスコミの伝える情報とのあまりの較差は衝撃を与えたに違いない。口コミの強烈な伝播力がマスコミを揺るがせ始めた。 そして第二の波、大手日刊紙の東電批判が4月下旬になると始まる。 「市況かぶ全力2階建 2ちゃんねる市況板」という投稿サイトがあって、ここでは4月9日を潮目としている。 http://kabumatome.doorblog.jp/archives/65547090.html 62 名前:山師さん@トレード中[] 投稿日:2011/04/09(土) 22:30:09.79 ID:m86G7oV/0 金曜の日経と土曜の日経では 東電に対するスタンスが変わってる 316 名前:山師さん@トレード中[sage] 投稿日:2011/04/09(土) 23:44:25.38 ID:tw4h1IWf0 日経新聞も「発電・送電分離案」「原子力事業分離案」かよ 348 名前:山師さん@トレード中[sage] 投稿日:2011/04/09(土) 23:53:13.32 ID:tw4h1IWf0 日経で出たのが痛い と書き込みがしてあって、10日の日経記事が掲載されている。  福島の危機はすでに1カ月。まだ「収束の見通しが立たない」前例のない長期の放射能汚染事故の様相を呈する。  目下の脅威は高濃度の放射性物質を含む大量の水だ。原子炉を安定な状態に戻す作業を続けるため、危険な高濃度の汚染水を海に流さざるを得ない最悪の選択すら想定される。 いま読むとずいぶんおとなしい表現だなと思うくらい、世間の論調は変わっているが、この時点では衝撃の文章だった。 622 名前:ウリ命[] 投稿日:2011/04/10(日) 01:31:24.18 ID:yAmAgHg70 テレ朝、NHKの報道は政府筋の影がハッキリ見え隠れしてる。 新聞社各社もこぞって政府側のポジションで動き始めてる。 こうなると東電も辛いよね。とにかく、最初から誠意をもって被災者対応やメディア対応していれば、また違った展開があったはずだよ。

6月8日、衆院財務金融委員会で、被災金融機関を支援するための金融機能強化法改正案が全会一致で可決された。共産党の佐々木議員は「二重ローン解消のための一歩だ」と評価。具体的な運用について意見を述べる一方、より大きな救済の枠組みを速やかに作る必要があると主張した。これに対し自見金融相は「政府全体の問題として大至急取り組む」と応えた。
良くやった! 預金保険機構を使うというのはアイデアだ。しかしこのくらいの規模ではまだ不足だ。既存機構の流用であり雨宿りに過ぎない。5月31日の記事にも書いたが、被災地金融機関の融資残高は1兆2千億円。このうち中小企業向けは6千億、住宅ローンが4千億円となっている。単純に考えれば「ゼロからの出発」のためにはこの2倍、2兆5千億の融資が必要となる。
後は預金保険機構の健全性を保持するためにも、大手銀行による保険金の積み増しで財政規模を拡大すべきだろう。


6月8日の厚労省発表で、震災後から6月5日までに「離職票」の交付を受けた数が11万9776人。怖いのはこの10日間に5千人以上も増えているということ。福島の失業者数が宮城に迫りつつあること(4万3千vs5万2千)。
岩手が少ないのは自営業者、農・漁民の比率が高いからで、統計的に捕捉されないという意味ではより悲惨とも言える。

6月8日の政府税調での意見。
与謝野馨 一体改革担当相は、「5%の増税がどうしても必要というのが結論だ」と断言した。
五十嵐財務副大臣がこれに呼応して「その方向は出ている」と発言した。
平野内閣副大臣は「消費税5%くらい決められなかったら政治の意志が問われる」とぶち上げた。
以前褒めた峰崎内閣官房参与は「本当に5%で足りるのか」と的外れな意見。

同じ日、一体改革の「成案決定会議」が開催。こちらは菅首相自らが議長を務める。
「2015年度までに段階的に消費税を10%まで引き上げる」ことを前提にアジェンダ作りに乗り出した。20日までに成案決定まで持っていくというから、事態は切迫している。

一体改革というが、常識的に考えれば金持ちも貧乏人も、この際は我慢をというのが「一体」という言葉だ。大企業減税と一体というのではいったい何が一体なのかさっぱり分からない。
「被災者も国民も一体になって、金持ちのために尽くしてください」というのは、庶民の日本語では「一体」とは呼ばない。それにふさわしい名称は「変体」である。


情勢は次の三点に煮詰まってきている。
①財源スキーム(復興債の発行): 無利子・非課税の特例債の承認、大企業の引き受けと国民的キャンペーン。大企業減税の見直しを中心とする償還財源確保。
②復興スキーム(少なくともゼロからの出発を): 市町村の支援、地場産業の復興を中心とする財政・金融支援ファンドの創設。生活保護と就労支援を機軸とするセーフティ・ネットの拡充。
③東電賠償スキーム(東電の無限責任と原産複合体の連帯責任): 「原賠法」改正による企業・株主・銀行の賠償責任の法的確定。
これに
④財政一体改革、道州制などのモラトリアム
⑤国会議員の定員削減策動の停止と、国権の最高機関としての機能強化
が加わるべきと思う。
原発廃止とTPPについては、上記の課題遂行の中で、おのずから方向は明らかになっていくだろう。③については、法的整理に踏み込むかどうかは微妙なところで、東電側の出方にも規定されるだろう。⑤については異質な感じもあるが、大阪府議会における異常事態を見ると、未曾有の危機にあたり「大衆ファシズム」(Populism)の跋扈を許さないという国民共同の決意が必要となっている、と判断する。
これら五課題は、まったく超党派で取り組める内容であるし、国民の7,8割を結集できる可能性を持った提起である。さしあたり賛同議員の共同声明・アピールが望まれる。
 

もう20年も前でしょうかMDが発売になると日経新聞の速報欄で見て、これは絶対世界を制覇するリソースになると思い、みずてんがいで予約しました。MDウォークマン7万8千円、おそらく最初のロットだったろうと思います。それからの半年、悪夢のような日々が続きました。
4回も故障し、そのたびに修理に出してもう一台買えるくらいの修理費をぼったくられ、結局ご臨終となりました。
しかしあきもせず、据え置き型の新発売に飛びつきました。9万4千円だったと思います。さすがにこれは長持ちしました。故障知らずで15年間使い込みましたから二台合わせ技で元はとったと思います。
最新技術でリスクを承知で買ったので、これはソニータイマーというよりはソニーの技術の先進性の裏返しです。
私がソニータイマーを実感したのは5年前、500メガのUSBメモリ・スティックです。釧路には大きな量販店はなく、これしかないといってソニー製を買いました。5400円、当時としても高かったと思いますが、「ソニーだから」と納得して買いました。半年でうんともすんとも言わなくなりました。かなりのファイルがお釈迦になりました。物知りに相談したら、「あぁそれはソニータイマーですね」といわれ、初めてこの言葉を知りました。
実はそのちょっと前から、MDの圧縮ソフトATRACを公開しないことに強い疑問を感じていましたから、ソニーの経営者は後ろ向きになっているなとあらためて実感しました。やがてMDそのものが過去の遺物と化し、VAIOは不人気となり、プレステ技術を移植したDVDデッキも故障続き。「技術のソニー」は、見る影もない二流のアセンブリ会社へと落ちぶれていきます。

5月11日の記事で「貧困」という災難が最後にやってきたという文章を載せている。赤旗の山田町ルポだった。6月8日の新聞に続報が掲載されている。
弁当をもらうのに千人の行列ができると報道された(5日現在で948人)が、その弁当の配給が打ち切られるそうだ。

山田町は支援をもとめる避難所近隣の住民に対して、避難所で暮らす被災者と同様に弁当を配給してきました。6月からは(義捐金支給開始に伴い)被災していない人への弁当配給は中止しました。在宅被災者についても、いくつかの条件をつけてきました。しかし6月中旬からは在宅被災者への弁当配給を全面停止する予定です。
在宅被災者は「避難所でも在宅でも職を失い、金がないのは同じだ」と話しています。港は破壊され漁具も流されて漁に復帰できる見通しは立ちません。「震災で収入が途絶え、そのうえ町からの支援がなくなったら地獄が始まる…こわいね」と表情が暗くなります。


やはりどうも理屈が合わない。弁当一食300円として、一日30万円だ。これで1千人の命が支えられている。受け取る人が減っているわけではない。これらの人は、被災の形態のいかんを問わず、少なくとも現時点においては、疑いなく生活保護の対象だろう。もしこれらの人に生保を適用すれば、一日あたり300万円となるはずだ。
彼らが弁当をもらうのは日本国民としての権利だ。まさに生存権そのものだ。なだ萬の松花亭弁当ならともかく、300円の弁当をもらうのに「やれ不公平だ」とか「不正だ」などと他人から後ろ指さされるいわれはない(後ろ指さす人間などいないことを望むが…)。

とはいえ山田町の財政にとって、これまでざっと2千万の支出は決して軽いものではない。生保への切り替え等、速やかな行政措置が必要だろう。

電機メーカー8社の決算は、日本企業のアジアシフト、新興国シフトが怒涛の勢いで進んでいることをはっきりと示している。たとえば日立が営業利益を前期比2.2倍というとんでもない数字をたたき出した。主要な要因は「資材費低減」であり、ブラジル、インド、ベトナムなどからの資材調達の強化である。次年度には50%にまで増加させるという。
それ自体は結構なことであるが、海外調達が諸刃の刃であることも踏まえておかなければならない。長期的には企業の裾野を狭め、技術水準の低下につながる可能性があるからだ。
パナソニックはもっと露骨だ。強い競争力を追求するとして、国内外の従業員を1年で1万7千人に減らすとしている。
日本は貿易立国を国是としてきた。電機産業もそのフラッグシップとして活動してきた。しかし肝心なことを忘れてはならない。貿易立国は技術立国を前提として始めて成立しうるということだ。単純なコスト勝負ではない。
革新的な技術が生まれる母体は、ひとつは生産現場にあり、ひとつは旺盛かつ多彩で高レベルの国内需要、国内市場での熾烈な企業間競争にある。技術革新は海外工場からは生まれない。国内の拠点からのみそれは生まれるのだ。
生産現場の人材を失うということは、競争力の強化ではなく弱体化を意味する。それは本質的に守りの経営であり、いわばたこが自分の足を食っているようなものである。一時のソニーの沈滞の理由は、まさに「品質のソニー」が「ソニータイマー」と評されるまでに「粗悪なソニー」になったからだ。
生産企業は金貸しではない。総務畑の連中が肩で風を切って歩いているようではいけない。強い競争力は最大限利益からではなく、適正な利潤、豊富な人材から生まれる。「守銭奴」よろしく、ひたすらもうけてひたすら溜め込んでいるなら、いずれ札束の山に埋もれて窒息死してしまうことになるだろう。


マグニチュード10で世の中が揺れ動いている。未知の世界が広がり始めている。「大胆なれ、大胆なれ、さらに大胆なれ」とのダントンの叫びが耳を揺るがしている。いままさに力勝負で天岩戸をこじ開けつつある。かすかだが燦然たる光がたしかに見えた。

闘いの環は二つある。ひとつは東電の賠償責任だ。もうひとつは復興債だ。
東電がらみでは10兆円、復興債がらみでは15ないし20兆円の金が動く。

自公政権をあっという間に押し流した「深部の力」はどこに向かっているだろうか。それはさらに大きなうねりとなって、津波のように大阪府政を席巻した。自公、民主、共産党のすべてを足しても到底かなわない、有無を言わせないすさまじさである。
しかしこの奔流は、メディアがどう操作しようと、結局、二大政党制と大企業本位の政治体制の打破に向かわざるを得ない。
その際必要なのは「オールジャパン、国民総ぐるみ」の発想である。そして現場の創意を汲み上げ、それを科学的社会主義の大義と照らし合わせ、正確で魅力的なスローガンへと凝縮していく創造的な理論能力が何よりももとめられている。

5月6日記事の分割 市田発言との関連で再掲します。
労働運動総合研究所の財源提案が発表されている。提案によれば復興に必要な財源は15兆円。これに対し資本金1億円以上の3万3千社が持つ内部留保は317兆円となっている。このうち4.7 %を国債引き受けに当てれば15兆円はまかなえる。藤田事務局次長は「中堅・大企業が復興国債を引き受けても経営に影響はない。大企業は長年にわたり税制優遇策を受けてきており、国難に当 たって社会的責任を果たすべきである」と述べた。  内部留保の活用で復興を進めた場合、国内生産誘発額が26兆円、付加価値誘発額は13兆円となり、これは経済成長率にしてプラス2.6%の効果になる。元本が維持された上で経済成長の恩恵 に浴せるのであれば損はないといえる。

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