選挙直後の16日(火)から北海道AALA50周年の記念展が行われて、連日詰めていた。その間毎日パソコンを持ち込んで、会場でシコシコと作業をやっていたのだが、本日戻ったところ見事にその作業分が消えていた。
電気を入れたら、たしかに変な画面が出た。「バックアップしますか?」みたいな画面で、「します」とこらえたら火曜日の時点に戻っていた。
私の脳の生産可能年齢はあと10年となっているので、5日間の作業が消えるのは結構痛ましいが、仕方あるまい。それよりはるかに多くのメリットを受け取っているのだから、ここは受け入れるしかあるまい。願わくば、二度とこういう事態が起きないように。
ということで、途中までだがブログに乗せておく。
中身は大久保利通年表の増補版だ。一応1866年(慶応元年)までの年表である。どうせまだまだ補充しなければならないので、途中経過版だが…

1861年(文久元年) 

大老井伊直弼が倒れたあと、公武一体論が幕府の主流となる。薩長もそれぞれの思惑から公武合体論を主張。これに対し草葬層(下級武士、豪農商層)は天皇への一極集中を主張。

薩摩藩(島津久光)は朝廷をトップとする諸藩の連合として、公武一体論を説く。

久光、率兵上洛計画を進める。朝廷主導の公武合体と現実的開国を図り、あわせて攘夷を唱えた長州藩に対抗することが目的だったとされる。

以降の月数は陰暦のようである。前後関係が合わないところがあり、とりあえずそのまま書く。

11月 下士の出身であったが、島津久光のもとで抜擢され藩政に参与するようになる。この時31歳。この頃先代斉彬についた西郷は流罪になっていた。(このへんはややこしく、本線に関係ないので省略)

12月 大久保は年末に京都に出て、久光上洛の根回しを行う。実に「根回し」こそ大久保の真骨頂であった。(ただしこの時は不調に終わった模様)

1862年(文久2年)

2月 久光、大久保の仲介により西郷の流刑を解き要職につける。藩内の尊王攘夷派の抑え役が期待されたようである。

2月 朝廷に国事参政と国事寄人の二職が設けられる。三条実美と姉小路公知らの急進派がこのポストを確保。真木和泉、久坂玄瑞らが影響力を持つようになる。

このころ京都では、尊王攘夷運動がピークを迎える。各地で農民一揆や都市騒擾が多発。幕藩意識が急速に解体。

3月 久光、藩兵1千人余りを率いて京に向かう。西郷が先乗りし、大阪の攘夷派を鎮撫。しかしこれが独断による行動であったため、帰藩・謹慎を命じられる。

4月16日 島津久光が兵を率い京に入る。有馬新七を指導者とする藩内攘夷派は、伏見の寺田屋をアジトに、幕府派要人襲撃を画策。

4月23日 寺田屋事件が発生。薩摩藩兵が過激派を武力鎮圧。これを機に藩内過激派組織は壊滅する。

5月10日 「攘夷決行の日」を機に、長州藩がアメリカ商船を砲撃。欧米艦隊から報復攻撃を受ける。

5月 久光、孝明天皇の信任を受け、幕政改革の建白。一橋慶喜の将軍後見職、福井藩主松平慶永の政事総裁職就任などを主張。

5月 この間に、大久保は有力公卿の岩倉具視に接近。朝廷内の足がかりを築く。

5月21日 朝廷より久光の意向を受けた「三事策」と呼ばれる勅許がくだされる。

三事策: 1.幕府は速やかに将軍・徳川家茂を上洛させ、朝廷と攘夷について協議する。2.薩摩・長州・土佐・仙台・加賀の五大藩を五大老とし、国防・攘夷に当らせる。3.徳川慶喜を将軍後見職に、松平春嶽を大老とする。
三事策のうち、薩摩藩の要望は3のみであり、1は尊攘派とその背後にいる長州藩、2は岩倉具視による発案である。
1については、徳川家茂を京都に呼びつけて攘夷決行の勅命を下そうという尊攘派の、2は薩摩藩の独走を牽制する岩倉の思惑に基づいている。
 (ニコニコ大百科)

6月7日 久光、江戸に入る。大久保も随行。勅許をカサに幕閣と協議するが交渉は難航。大久保は要人テロの脅しで人事案を認めさせる。

8月21日(新暦では9月14日) 久光、江戸を発ちふたたび京に向かう。この帰路で生麦事件が発生。薩摩藩士がイギリス人3名を斬殺。

閏8月7日 久光らは再び入京。

閏8月20日 岩倉具視、朝廷を罷免され出家。尊攘派が朝廷の実権を握る。

閏8月23日 久光と大久保、京を離れ薩摩に向かう。

10.27 江戸幕府は朝廷による攘夷の督促を受け入れ、将軍家茂が上洛することを決定。

12月 大久保が京都と江戸を回り、松平春嶽と山内容堂を説得。幕府の方針を雄藩ですり合わせることで合意を得る。この辺りから大久保は久光の代理的存在として存在感を示すようになる。

1863年(文久3年)

3月 将軍家茂、久光が相次いで上京。尊攘派の抵抗にあった久光と大久保はわずか2週間で薩摩に戻る。

5月 薩摩藩の田中新兵衛が姉小路を暗殺。薩摩藩は御所への出入りを禁止される。

5月30日 孝明天皇が久光に対し尊攘派排除を要請する密勅。

7月8日 薩英戦争。生麦事件の補償をもとめる英艦隊が鹿児島を攻撃。沿岸部の民家500戸、工場、蒸気船数隻、砲台などが破壊される。

8月18日(新暦の9月30日) 公武合体派の会津藩と薩摩藩が、朝廷における尊攘派を一掃。七公卿と長州藩を京都より放逐。

8月18日政変: 京都守護職の会津藩が1500名、薩摩藩は150名。他に淀藩、徳島藩、岡山藩などが参加。

10.03 久光と大久保、1万5千の兵とともに上洛。慶喜・春嶽・容堂・伊達宗城ら公武合体派の諸侯が次々に入洛。

1864年(文久4年2月-元治元年3月)

1.13 国事に係る朝議機関として参預会議が成立。久光・慶永・豊信・松平容保・一橋慶喜・伊達宗城による合議制をとる。

2.15 参預会議、横浜鎖港をめぐり対立。幕閣の立場に立つ慶喜は参預会議を解体に追い込む。久光の「雄藩連合」構想は事実上の終焉を迎える。

3月 久光の許を得て政界に復帰した西郷、京都の薩摩屋敷を委ねられる。西郷は会津との関係を絶ち独自の情報収集に努める。

6月 池田屋事件が発生。長州藩はこれをきっかけに京都に出兵。

7月 蛤御門の変。会津藩との衝突で約3万戸が焼失。

7月 幕府は機に応じ長州藩主の召喚、長州藩追討の方向を打ち出す。徳川慶喜、松平容保の罷免や参勤交代の復活も提起したことから反発を呼ぶ。

7月 薩摩の大久保、御所を守るために長州藩と対決するが、長州征討に関しては中立を守るとの立場を明らかにする。

1865年(元治2年-慶応元年)

2月 大久保、京都に入り、幕府の暴走阻止の工作に乗り出す。

この年大久保は京都と薩摩のあいだを3往復している。①1月25日~、②5月21日~、③8月25日~ そのほとんどが第二次長州征伐阻止のために注がれている。

3月2日 朝廷、長州藩主親子・三条実美の江戸召喚を拒否、参勤交代の復活に反対する「御沙汰書」を発する。原案は大久保が作成したものと言われる。

3月29日 第二次征長論が幕府と朝廷のあいだで進む。幕府は長州再征のための将軍再上洛を布告、全国諸藩に従うよう命じる。

閏5月 大阪城に入った家茂、諸藩に長州征伐への参加を促す。殆どの諸藩は財政難や厭戦気分に陥っており、再征伐に消極的だった。

6月 大久保、朝廷と諸藩に対し西郷とともに長州征伐反対と諸侯会議での解決を主張。各方面に説得活動を展開。

9.21 一橋慶喜の圧力のもと、長州征伐の勅許がくだされる。

9.21 大久保は朝廷に対し、「至当の筋を得、天下万民ごもっとも」の義を求める。「非義の勅命は勅命に非ず」と訴える。

10.3 慶喜、諸藩の反対を押し切り、通商条約への勅許を獲得。薩摩は諸藩の連携だけでは幕府の暴走を抑えられないと見て、長州との連携に乗り出す。

この頃、農民一揆が最大の高揚を示す。