「国譲り」という言葉はそれだけで多くの含意がある。
1.おそらくは九州王朝と闘って敗れたということ
2.敗れたあと、その隷下には入らず、国を捨てたということ。
3.九州王朝も出雲王朝も、もともと日本に対しては外来勢力であり、日本(例えば九州、例えば出雲)をモノ(支配対象)として考えていること。
4.両者の間には“譲り、譲られる”という関係において共通性があること。
これは、状況は違うが、ゲルマン民族の大移動に似た関係である。
初めにバンダル人が、次いでゴート人、ゲルマン人、ノルマン人と、彼らは波のように押し寄せた。そして古い侵略者は追い払われ、新しい侵略者へと代わっていく。
この事情はおそらく朝鮮半島南部でも同じだったろう。まず縄文的な先住民がおり、そこに長江文明を持つ人が渡来した。そこにはいわゆる三韓地方が成立した。そこに北から漢が侵入し、山間の地を徐々に侵食していった。馬韓の地の多くは、満州由来の扶桑族が支配する百済となった。しかし後に百済も北からの新手に苦しめられることとなる。
日本でも最初に水稲耕作を行う弥生人が現れ、弥生式土器を持つ弥生人が現れ、最後に非常に武力的な天孫族が現れた。
天孫族の中でも非主流派の出雲族は九州王朝を離れ、東方に別の王朝を開いた。あるいは先行していた天孫族の一派が九州王朝に追いやられ、東へと移動したのかもしれない。
東への経路が日本海側が先行するのにはいくつか理由があるのだろうが、今日我々が考えるほど瀬戸内海というのは交通に適した経路ではなかったのかもしれない。