東アジアの人種は黄色人種とマレー系にわかれる。

渡来はマレー系のほうが早かった。おそらくタミル人と同根の人種が繰り返し渡来したものと思われる。アボリジニーやパプアの先住民はそれより先に渡来していたかもしれない。

黄色人種は全てイルクーツク経由である。旧石器時代(と言っても1万年ちょっと)に一斉に南下した。チベットからインドシナ半島北部でマレー系と接触し、いったん南下は止まる。

間宮海峡を渡った旧石器系人種は本州の少なくとも大阪まで進出する。(それより先については目下不明)

私はこの旧石器人と縄文人との間に連続性はあると思う。両者はともに北方系であり、国府遺跡で見ると、その生活場所は重畳している。

縄文人と同時期に長江まで南下した北方人は稲作を始め、長江文明を築きあげる。これが紀元前10世紀頃から、南朝鮮、九州経由で西日本に入り始める。

縄文人は一様には扱えない。例えば北海道のアイヌは明治まで基本的には狩猟・採集生活を送っていた。それは彼らが遅れていたからではなく、農耕ができなかったからである。

縄文時代には北海道でも農耕が営まれていたことを示す遺構が多くある。北方の縄文人が狩猟・採集生活を強いられていたのに対し、南方の縄文人は農耕が可能であり、農耕生活に入っていた。

考えるまでもなく、土器というのは保存用の容器であり、たいていは穀物のためのものである。農耕しなければ不要のものだ。同時に土器は壊れ物であり定住生活のためのものである。遊牧民には皮袋のほうが似合う。

だから縄文人を狩猟民族と考えるのがそもそも不合理なのである。

三内丸山を見て「縄文人の主食はクリ」と考えるのも不合理である。なるほど山にはクリがあるが、同じように湿原には粟やヒエが自生していたろうし、鳥はそれをついばんでいたろう。人間が食べない理由はない。栽培しない理由もない。

弥生人が持ち込んだのは農業ではなく、水田耕作という技術だったのだろうと思う。だから縄文人・弥生人というのではなく、畑作人、水田人と言ったほうが良いのではないか。

ことに西日本の縄文人は、農業そのものには精通していたから水田耕作も容易に受け入れ可能であったと思う。

稲作の拡大は弥生人が縄文人を駆逐しながら拡大していったのではなく、縄文人がそれを受け入れることによって拡大していったのではないか。

おそらく国府の遺跡を仔細に検討すれば、そのような過程が確認できるのではないかと思うがいかがであろうか。そしてそのような「同化縄文人」の痕跡がかなり後代に至るまで継続していたことも確認できるのではないだろうか。

そして最大の謎である天孫族の襲来と支配が、いつ頃、どのようにして起こったのかを解く鍵も見つけることが出来るのではないだろうか。

私は、それは倭国大乱より後、卑弥呼の時代より前であろうと思う。おそらくそれは銅鐸文面の消失する紀元200年前後ではないかと思う。

専門家の方にはぜひ、そのへんのことを念頭に置きながら資料の再検討をお願いしたいと思う。