むかし、週刊ベースボールを買ってきて打撃30傑の所属球団とかやったことがある。今年のパ・リーグは打撃10傑の6人がソフトバンクで、日本ハムには一人もいなかった。

古墳のランク表(日本の大規模古墳一覧)を見ていて、そんなことをふと思い出した。3割バッター、つまり300メートル以上というのが7つある。30傑の一番下がちょうど2割、200メートルだ。

「大きさだけが能ではない、内部の構造とか石棺の位置とか副葬品とかも見て総合的に判断しなければならない」、という人がいるかもしれない。しかし古墳の政治的意義は大きさに尽きるのであって、他のことなど玄人の考えることであろう。

それで30傑の分類だが土地別、年代別という分け方ができる。ずべて前方後円墳である。

土地別だが、奈良は北部と南部に分けられるだろう。南部をさらに南東と南西に分けることも考えられる。大阪は河内が有名だが意外と淀川水系にもある。あとは近畿外だ。

年代別は単純に3,4,5,6世紀と分けるのが良さそうだ。ただどうも波がありそうなので、むしろ谷を見つけることがだいじかもしれない。

それで、横罫に土地、縦罫に年代という風にして表を作ってみた。

奈良盆地北部

奈良盆地南部

河内・摂津

3,4世紀

★★★★★

★★★★★★

★★

5世紀

★★★★★★★

★★★

★★★★★★★★

6世紀


表を作ってみて気づくのは、箸墓以降古墳の中心だった奈良盆地南部(桜井近辺)が、紀元400年を境に凋落していることである。5世紀の三つの古墳はいずれも葛城氏由来のものと見られ、天皇家ゆかりと思われるものは絶えてない。

これに代わるものとして河内が興隆する。墳墓の地をそう簡単には変えないという前提に建てば、纏向に続く盆地南部王朝は没落したと見る他ない。

一方で、盆地北部は河内には及ばないものの、対抗馬としての位置を確保し続けた。あるいは盆地南部の旧勢力を併合したのかもしれない。そして両者の中間に第三勢力として葛城が勃興した。

これが古墳から見た5世紀畿内地方の勢力地図である。

もう一つは、西暦500年を境にして巨大古墳の築造がピタッと止まることである。奈良盆地の南北、河内のすべてが全滅するのである。

このとき何が起きたのか。それは天変地異だったのか。それとも大イクサだったのか。記紀にそれを示唆するような記述はあるのか。

6世紀に入って作られた巨大古墳はわずかに2基のみである。河内松原の大塚山と奈良橿原の見瀬丸山である。

この二つはその大きさ、山を挟んで東西という対称性、造られたのが500年代後半という時期において瓜二つである。意識的に並行して築かれた可能性もある。とすれば奈良北部の古墳築造者はどうなったのか。

しかも他の古墳がすべて5世紀後半までに建てられたものだから、この二つだけが孤立して、巨大古墳ブームの終了後100年もしてから築かれている。しかもこの二つが巨大古墳のピリオドとなっている。そしてそれを境に河内の権力者も歴史から姿を消す。橿原・飛鳥の権力者のみが残り、文献史へとつながっていく。

「古墳マップ」というサイトによると、2010年に河内大塚山古墳の立ち入り調査が行われ、「前方部は未完成だった可能性が高いことが判明した」とある。どうもこの頃、河内王朝にはガッツがなくなっていたようだ。

人間の知恵がどう受け継がれるかを考えてみると、100年の空白はかなり長い。想像してみると、長い苦難の末に王朝を再興した人物が、「もうこれでやめようよ」という象徴として築いたのかもしれない。