日本の古代史研究は、さながら古墳が全てという様相を呈しており、素人から見てきわめて異様である。

巨大古墳(前方後円墳)は大和地方を中心とする文化現象であり、歴史の全体に替わるものではない。

思うのだが、一物がデカイからといって、その持ち主がデカイかというと、そんなことは言えないのである。巨大古墳の時代、各種の鉄器は圧倒的に九州に多かった。

もう一つ、これだけの大規模な工事ができるというのは、それだけの人数を動員できるということであり、何よりも武威の表現だということだ。武力の誇示が必要なのは、その政権が武力制圧によって成立した政権=軍事政権だからだろう。纏向の時にも言ったのだが、前方後円墳を作ったのは出雲から流れてきた征服者であったと思う。彼らは故郷の地ですでに大規模墳墓を作っていた。それをさらに巨大化することで、地元民に威圧を与えていたのだろう。

もう一つ、最後には古墳時代には終りが来るのであるが、それがその権力の経済力の衰退を意味するのか、歴史的事実はむしろ逆であろう。そんなことでキラを張るのがバカバカしくなったからやめたのである。

とはいえ、とにかくこれだけ古墳研究が華やかである以上、一応の知識は持っておく必要があるだろう。

ところで、古墳年表を作ろうと思ったが、「古墳時代年表」というのはたくさんあっても、古墳そのものについてはほとんど触れていない。古墳がたくさん作られた時期が「古墳時代」として括れる根拠はほとんど示されていない。

古墳時代前期

3世紀後半 最初の大型方墳として島根県安来の大成古墳。

3世紀後半 奈良盆地に前方後円墳(200~300メートル)が出現。桜井の箸墓古墳、天理の西殿塚、行燈山、渋谷向山。

4世紀半ば 奈良盆地の北部に4基の大王墓クラスの前方後円墳が築かれる。

4世紀後半 河内平野に巨大古墳(300~400メートル)が作られる。堺の大仙、上石津ミサンザイ、羽曳野の誉田御廟山。

古墳時代中期

5世紀半ば 近畿以外の各地に巨大古墳が作られる。岡山、群馬にも200メートル級の古墳。

古墳時代後期

6世紀の前半 高槻の今城塚、松原の大塚山、橿原の見瀬丸山(300メートル規模)

6世紀 大王陵として最後の前方後円墳。100メートル未満。

6世紀後半 群集墳が登場する。古墳の99%までが6世紀以降のものとされる。(古墳の大衆化?)

古墳時代終末期

6世紀末 前方後円墳の建造が終わる。この後しばらくの間、方墳や円墳が造り続けられる。大王の墓は特別に八角墳として築造された。(ウィキペディア)

明日香の石舞台、ほかに高松塚、キトラなど。

6世紀末 仏教伝来によりトップの関心が墳墓から寺院に移行。

7世紀前半 近畿・西日本で古墳の築造が絶える。関東では8世紀の初め頃、東北地方では8世紀の末まで続く。


細かくやっていけばきりがないが、ざっとこんなものだ。

あくまでも印象論だが、前期としてくくる時期は明らかに二つの時期にわかれるだろう。ひとつは200年代後半のピークであり、それから100年おいてから、今度は奈良北部と河内に並行して巨大古墳が造営される。つまり奈良中部の「本拠地」はコケにされているわけだ。

そしてまた100年以上たってから(地方ではその間も造られているが)、近畿に巨大古墳のブームが再来する。これは継体天皇がらみかもしれない。しかしそれは短期で終わり、その後巨大古墳が建造されることはなくなった。


これで、卑弥呼以降推古までの時代を「古墳時代」と括るのは、やっぱり乱暴な時代区分だと思う。弥生時代には、水田耕作という生産様式の裏付けがあるが、古墳時代には何も裏付けとなる生産様式の変更がない。

あえて名付けるなら「倭王朝時代」というべきだろう。少なくとも好太王石碑から倭王武までは実在が確認されて入り、それは100年に及ぶのだから、立派に一つの時代だと思う。