5.「利子生み資本論」のイントロ

前節で、第5章の粗々の筋を述べたが、もっとも肝心な部分は第5節にふくまれていて、それまでの4つの節は、第5節のためのイントロみたいになっている。

では金融市場はいかに成立し、いかに機能し、そこにどのように利子生み資本が投入されるか。

という部分が、それに当たるのだろうと思う。

この4つの節(エンゲルス版では第21章から第24章までの4章)について、大谷さんはさらりと流れを述べている。あくまでも本チャンは第5節にあるのだ。

ところがぎっちょん、本人はさらりのつもりがこちらには全然さらりではない。

もう一つ別の参考書を読まないと、とてもついていけないのである。

と言いつつ、とりあえず書き出してみる。かなり的を外しているかもしれないがご容赦を。いづれ修正を加えることを約束します。

 


A 利子生み資本の論理

貨幣市場では、貨幣が商品として売買されている。なぜならここでは貨幣が資本という性質を持つからである。

貨幣は、資本として機能すれば平均利潤をもたらす。つまり利潤をもたらすという使用価値を持つ商品なのである。

利子はその商品の価格として現れる。これは実は、貨幣が生産的資本として機能することによって生み出される平均利潤なのである。

ここまでが第1節、つまり第21章だ。本質論に沿った展開だから分かりにくいが、現代の金融市場、とくに債券市場に当てはめれば分かリやすくなる。

貨幣というのは債券の意味だ。貨幣市場というのは債券市場のことだ。マルクスの時代の主要な金融市場は債券の売買だった。今よりはるかに単純だったのだ。

債券は会社にとってはお金と同じだ。これを資本として工場を建て、労働者を雇い、材料を買い商品を生産する。その儲けの一部は債券の利子となって出資者に戻される。

出資者にしてみれば債券を購入することで利潤を得ることになる。この際、債券の価格は利子を上乗せした額となっている。(購入価格は割引されている)

すなわちそれは,本質的には産業資本が生産過程で取得する剰余価値の一部分にほかならない。しかしそれ(利子生み資本)は生産過程から自立している。

そこでは再生産過程における生産的資本の運動はすっかり消え失せている。

おそらく、産業資本と直接向き合う銀行家にはこれらは自明のことだが、一般投資家は銀行が作り出したさまざまな金融商品を利率やリスクなどを勘案しながら購入するので、彼らの眼にはこれらの本態は消え失せている。

ということなら、分かるだろう。


B 利子(利子率)を決めるのは貨幣市場

第2節、エンゲルス版の第22章がこれに当たる。

これは当たり前の話で、どんな高利の融資でも、他になければ借りるしかないのだ。商品の価値とは無関係だ。

この利子はたしかに利潤の一部分ではあるが、商品価値のうちの特定の部分ではない。利子率を決めるものは,貨幣市場での利子生み資本の需要供給関係でしかない。

この市場では、元本としての資本の増殖分として利子が生み出される。それは利子率という規定を受けとる。

債券市場を想定しながら読んでみるとよく分かる記述だ。

古典派経済学者が考えたような利子の「自然率」のようなものは存在しない。あくまで貨幣市場での競争関係が基礎となる。

「利子率の持つ量的諸法則」はややこしいので省略。


C 利潤から利子が引かれ、残りが企業利得となる

第三節、エンゲルス版の第23章となる。

利潤のうちから、貨幣資本家が利子をとり、残りの部分を生産的資本家(産業資本家および商業資本家)が自分のものにすることになる。

これも当たり前の話で、粗利益から利子その他を引いたものが純利益となるということだ。ただ利息は金融市場の方で決められるので、必然性はない。

しかし利子のほうは,資本を所有していることの果実となり,残りの部分は,資本を機能させたことの果実となる。後者は企業利得と呼ばれるようになる。

こうして,もともとは利潤をただ量的に分割した二つの部分であるのに,まったく別の根拠から生まれる,質的に異なったものとして現れるようになる。

まぁ、言われればたしかにそのとおりだが、だから何だというのが分からない。

(ここから先は本筋と外れるが、資本主義的生産の発展とともに,1.指揮・監督労働が,機能資本家が果たす機能として資本の所有から完全に分離すること、2.それがたんなる機能者としての賃労働者に委ねられること、3.それによって,資本家は生産過程からは不必要な人格として消えていくこと、が述べられています)


D 利子生み資本は「ひとりでに増えていく貨幣」という形態をとる

草稿の第4節。エンゲルス版の第24章。

ここでの大谷さんの表現はえらく晦渋である。一言で言えば1,2,3節を総括して、貨幣資本が利子を「生む」かの如き外観をとるに至る機序が、るる語られる。

利子生み資本および利子の形態では,資本という性質をもった貨幣という果樹が、自ずから剰余価値という果実を実らせるように見える。

ここでは,いままでの叙述のなかに含まれていた,「利潤にたいする利子の自立化 」の展開を総括している。

ここでは,ひとりでに増えていく貨幣,という資本の形態だけが,完成した姿で現われている。これは資本の物神的な姿である。

そこから資本物神の表象,観念とが生じる。マルクスはその過程を解明していく。

学生が講義を聞くだけで理解できるとは到底思えないセンテンスです。4つの文に解読・分割するだけで30分かかりました。

まぁ、言われればたしかにそのとおりかも知れないが、だから何だというのが分からない。

私の感じでは、マルクスは金融市場というのを、その完成した姿態で観察していなかったのではないかと思う。だから金融市場の商品流通市場からの自立化という段階を置かないで、直で利子生み資本と商品市場の関係に持って行ってしまう。そのために話が難しくなるのではないかと思う。

今の我々にとっては、ある意味当たり前の事象だ。

さてここからが、問題の第5節だ。一応項を改めよう。(第1節のところは一昨日上げたところで、重複しますが、きりを良くするために再掲します)