内語(Inner Speach)と内言語

「内語と自己知」という宮園健吾さんの考察を読んだ。

大変難しい文章なので、パラパラと抜書きしていく。

1.思考とは脳の中でしゃべっている言葉だ

プラトンは(ソクラテスの口を借りて)「思考とは沈黙の中に自己自身を相手として述べられた言論のことである」と述べた。

…そうだ。

要するに自分が喋りかける自分と喋りかけられる自分に分かれて、それが議論を交わすということだ。沈黙してなくても、ブツブツ独り言を言いながらでもいいだろう。

世間には腹黒い人がいて、「あいつは腹の中で何を考えているかわからない」というが、もし考えるということが頭のなかでしゃべっているということなら、その信号は口に出す寸前の所まで来ているはずだから、線をつないでやれば引き出せる可能性がある。

…ということになる。

とすれば、「どこに線をつなげれば脳の中の言葉が引き出せるのか」ということが問題になる。もう一つは、そこまで来ているのに口にまで出てこないのには、なにか仕掛けがあるはずだが、それがどうなっているのか。

もう一つは思考というのは、本当にすべて表出志向なのかということだ。むしろそれは一部であって、多くの思考というのは分析的で内に向かっているものなのではないか。ただそのツールとして、元来自己表出の手段である言葉を用いなければならないことに矛盾があるのではないか。

…とも思う。

2.「…である」思考と「…と思う」思考

宮園さんは、まず思考を二つに分ける。一つが命題的思考であり、もう一つが生起的思考である。

宮園さんによれば、大部分の思考は命題的(Propositional)思考なのだそうだ。「…である」は、厳格に言えば「…であると確信する」である。

しかし時々ある考えが思い浮かぶことがある。思いつきだから確信はない。だから「…と思う」ことになる。

これが「…である」思考に固まっていくためには、その過程を整理してみなくてはならない。

…というのが、宮園さんの提起のようである。

ただし「…である」思考と「…と思う」思考という言葉は私の勝手な造語である。「そういうことを言いたいのかな?」という考えが「生起」したにすぎない。

私はこのアプローチはちょっと雑駁にすぎるのではないかと思う。

ようするに感想、印象、思いつきがだんだん固まって確信に至る、ということだが、事実はさほど単純なものではないような気がする。

3.思考は Thoughts なのか

思考に形容詞を付ける前に、思考という言葉のターミノロジーをやって置かなければならないと思う。

宮園さんの本線からは外れるが、宮園さんが西洋哲学を基盤にして考えている以上、この問題は無視できない。

じつはこの問題は、「技術」とか「健康」とかをめぐって、私が散々やってきたことでもある。

西洋の術語を日本に移植する場合、元来中国語である漢字を当てて、それから日本語化するという二重の手続きを踏んでいる。

その過程で多くの術語が「名詞」化されるのだが、そのさいそれが普通名詞か動名詞なのか、そのニュアンスがわからなくなってしまう。

そこで、後に続く宮西さんの論理展開を見ると、「思考」は“考えること”ではなくて、“考えられたこと”というふうに用いられているようである。しかもそれは数えられる“粒々”であるようだ。

普通の日本語では、これは「思考の諸過程」である。さらにその結果としての“思考されしことども”である。少なくとも「思考すること」という動名詞ではない。

こういうものは規定だから、最初に紛れの無いようにきちっと規定しておけばよいのである。私なら「諸思考」と書く。

…とりあえずはそういうことにして進んでいこう。

4.内観―内なる諸思考を把握する

諸思考は内なる対話として語られているわけだから、それを聞くことができれば理解できる。それは“沈黙の内に”語られているから、本人のみに可能である。

そしてこの観察を元に「自己知」という体系が形成されていく。

これを「内観」というのだそうだ。宮西さんはこれを前提に話を進めていくが、私はまだ納得はしていない。これだけでは「座禅」のCMだ。

前頭葉でさまざまな「思考」の過程が生起し、湯気を伴って沸々と湧いてくるさまは、イマジナティブな光景ではある。

しかし、それは精神現象を説明するにあたっての仮説モデルのひとつに過ぎず、かつ大脳生理学的理解との親近感は持てない。

…というわけで、このあと、るる話は展開されるが、省略。

5.内語は生起的思考にのみ存在する

やめようと思った時に、ちょっと目についた箇所があったので、ついでに引用しておく。

「…である」思考と「…と思う」思考の大きな違いは、前者には内語は伴わないということである。「…と思う」思考でもすべて内語が伴うわけではないが。

「である」思考へのアクセスは内語を経由しない別の種類のアクセスと考えるべきであろう。

…ということで、はからずも内語と内言語の重層性を証明してくれた感がある。内語はしゃべり言葉で、内言語は基本的には書き言葉なのだろう。

この後、宮園さんは迷路に迷い込んで行くようにみえる。さようなら。