私の叔父、故望月政司の論文をネットで探してみた。

「プラチナ電極による酸素測定法について」という論文が読める。

計算式についてはちんぷんかんぷんだが、生体内の酸素濃度を測定する方法だと分かる。

はじめに酸素濃度測定法の歴史について簡単に触れられている。

最初に考案された方法は水銀の滴下電極を用いるものだった。しかしこれは水銀そのものが流動的で毒性もあることから使いにくいものだった。

1939年ころから、水銀の代わりにプラチナを用いる方法が開発された。この研究は米国で行われていたものであり、戦時下の日本には伝えられなかった。

戦後48年になって開発者が訪日し、プラチナ電極法が紹介された。そして現在は広範に用いられるようになっている。

原理はえらく難しく書かれているが、大要は如何の如きものだ。

水溶液中に電極を入れると電子が金属表面に集まる(電流が流れる)。

しかしこれは一瞬の話で、電極の周りに“二重層”が出来上がってしまうと電流は流れなくなってしまう。

ここで溶液中に酸素があれば、酸素は“復極剤”となり、電極の電圧が高くなった時に電子を受け入れる。この状態が続けば、電極周囲には微弱電流が流れ続けることになる。

これは溶液中の酸素濃度により規定されるので、論理を逆立ちさせると、この持続的微弱電流が測定できれば、そこから溶液中の酸素濃度を計算できることになる。

ここまではなんとかわかるが、溶液、生体内で言えば血液ということになるが、この溶液がトータルでどのくらいあって、どのくらいのスピードで回ってきて、電極の周囲を通過していくのか、ということまで計算するとなれば、これはえらく複雑な話になる。

Fickの拡散式というのから、いくつもの仮定を入れながら計算しているのだが、省略する。(この式は我々も心拍出量の計算のために憶えさせられた記憶がある)

これで問題が解決したわけではない。もう一つ重大な障壁がある。それが「酸素の還元形式」というものである。

一言で言うと、電極上で酸素が還元されることで、電流が維持されるのだが、この還元が二段階の還元過程に分かれているということだ。

酸素はまず、電子二つを取り込んで過酸化水素(HO)になる。そして過酸化水素から水になる。過酸化水素から水になるについては水素二つと電子二つが加わる。

これでは安定した電流を得られるまでに時間がかかってしまい、他の環境因子からの影響も受けやすい。

ところが水銀の代わりに白金電極を使うと、この過程を一発でやってくれるらしいのである。この場合は電子4つを加えて水酸基4つを作ることになる。水酸基がたくさんできると、溶液にフェノールフタレインを垂らせば、「あれ、見よかし」と赤くなる。この過程を解明するにあたっては望月政司らが貢献しているようである。

あとは文字通り応用的な技術に関するもので、電極に流す電流を矩形波にしたり、交流にしてみたりすることで、電極の劣化を防ぐ方策、電極をビニールみたいなもので被覆するなどの方法が紹介されている。

何時頃の文章か分からないが、参考文献の最新のものが1963年になっているから、その頃のものだろう。

私が北大に入る頃、実験道具を手製で作成していた頃の文献だ。



これだけ見ても、この研究にどんな意味があるのかは良くわからない。

ところが、望月らを賞めた論文があった。そこだけ紹介する。

オキシグラフによる組織の酸素代謝に関する研究という論文で、1960年のものである。

Ⅰ 緒言

Heyrovsky が1924年に滴下水銀電極によって酸素を測定出来ることを発見して以来,電気化学的に,生体の酸素量を測定しようとする多数の研究がなされてきた。

ところが滴下水銀電極は,液体であること,生体に有毒であること等の欠点のため,そのまま生体の酸素消費に利用することは出来なかった。しかし1941年に Latininen および Kolthoff が微小白金電極を用いた際に定量的な酸素の還元波が得られることを見出し,更に Davies, Bronk 等の研究によってポーラレグラフの生理学への応用が始められたのである。

固定白金電極を滴下水銀電極と比較した場合,操作が簡単なこと,毒性のないこと,生体の限られた組織の酸素濃度の測定が可能であること等の利点を持っているが,不安定なこと,再現性に乏しいこと等の難点がある。

これに対し,簑島,望月は、この数年来白金電極法の実用化に対して多くの苦心を重ねた結果,これらの難点を解決して,生体酸素濃度記録装置(Oxigraph)の作製に成功した。
…現在オキシグラフによる生体組織の酸素消費測定の実験例はかなり多い。

望月,切替 は大脳内の酸素を,井上,後藤は皮下の酸素を,浅野は蛙の心臓の酸素消費と搏動について測定している。最近浜本は酸素以外の物質の定量分析についての実験を行っている。

以下略


次は北大応用電気研究所の歴史から


本研究所が設置された一九四三年(昭和一八)医学及び生理第一部門が専任部門として、医学及び生理部門生理第二部門が兼任部門として発足した。第一部門の教授には小溝協一ニが就任したが、一九四六年辞任した。

第二部門の兼任教授には初代所長箕島高が就任し、一九五七年(昭和三二)退官するまで、医学及び生理第一、第二両部門全体の研究を替励推進した。一九四四年寿原健吉が助教授になり、一九四五年岩瀬吉彦、一九四六年望月政司がともに助手になった。

岩瀬は一九四八年(昭和二三)助教授になり、一九五二年第一部門の教授に昇任したが、一九五八年(昭和三三)京都府立医科大学教授に転出するまで、生理学のうち主として動物性機能と呼ばれる分野の研究を展開し、生体組織の電気的特性、心電図、大脳生理の研究に成果をあげた。

望月は生理学のうち植物性機能の分野に研究を進め、一九五二年第二部門の助教授となり、一九五八年(昭和31年)岩瀬のあとをうけて第一部門の教授に就任した。

酸素分圧の測定、肺でのガス交換、赤血球の酸素化について詳細な研究を展開し、望月の考案になる多線白金・酸素電極、円形スパタ酸素電極はこの分野の多くの欧米の著書に引用されている。

肺でのガス拡散に関する理論、ミクロの光電比色による赤血球の酸素化測定法も、未解決であった呼吸生理学上の多くの問題を解く鍵となり、国際的に高く評価され、毎年のように国際学会の座長をつとめた。

当部門から内外の専門誌に発表された論文著書は200編に近い。

七三年(昭和四八)望月教授が、新設医学部の基礎作りに請われて山形大学医学部へ転出し、望月教授の薫陶をえていた小山助教授が一九七五年、(昭和50年) 生理部門の教授に昇任し、笹嶋唯博が助手になった。

(笹島くんは私と入学同期で、同じ「青雲荘」という下宿だった。しかしあまり口を利いたことはなかった)