時系列で見た

東アジア共同体とASEAN

雑誌「前衛」2004年9月号 特集「アジアの安定と平和への前進」などより作成しました.

2004年10月

増補 2014年10月

増補 2015年1月

 

54年5月にディエンビエンフーの歴史的戦闘、8月にはジュネーブ条約が締結された。

9月、インドシナ情勢に危機感を抱いた米国が、南アジア条約機構(SEATO)を結成。

加盟8カ国中、東南アジアからの参加国はフィリピン、タイのみ。他はオーストラリア、フランス、イギリス、ニュージーランド、パキスタン。

55年 インドネシアのバンドンで、アジア・アフリカ諸国首脳会議が開かれる。非同盟志向を反映した「平和十原則」を採択。

61年 マラヤ連邦のラーマン首相が提唱し,タイ、フィリピン、マラヤ連邦の親米3カ国をメンバーとして東南アジア連合(Association of Southeast Asia, ASA)が結成される.インドネシアのスカルノはこれに強い警戒感を抱く。

63年9月 マラヤと北ボルネオが統合しマレーシア連邦が成立。インドネシアとの関係が悪化する。

64年9月 トンキン湾事件。米国の東南アジア干渉が本格化する。

65年8月 経済的苦境の中、シンガポールがマレーシア連邦より離脱する。

65年9月 インドネシアでクーデター。スハルトが共産党員数十万を虐殺。強力な反共政策を実行。

66年 第1回南東アジア開発閣僚会議、アジア開発銀行の設立で合意。ほかにアジア太平洋協議会(ASPAC)などを通じて地域協力の動きが活発化.米国は親米・反共諸国による一連の地域主義イニシアチブを歓迎。

66年 ASAにインドネシア、シンガポールを加え、新たな機構設立の気運が高まる.

インドネシアは反共に転じたものの、武装闘争で独立を勝ち取った国として強いナショナリズムを保持していた。インドネシアとの窓口となったマレーシアは、インドネシアの主張を受け入れる形で(形だけ)、ASEAN結成にこぎつけたと言われる。


1967年

8.08 ASEANがバンコクで創設される.5カ国外相がバンコク宣言に署名。反共同盟としての色彩が濃厚だが地域の独自性と自決も掲げた.年1回の外相会議のみで、組織としての実体はなし.

バンコク宣言: “東南アジア諸国が地域としての独自性を確固なものとし、地域の問題を自らの手で解決 していくことが、地域の平和と安定に繋がる”
 ①域内における経済成長、社会・文化的発展の促進,②地域における政治・経済的安定の確保,③域内諸問題の自力解決,を柱に掲げる.

67年 ビルマ、セイロンなど非同盟諸国は加盟招待を辞退。社会主義諸国は「SEATOの補完物」と非難。

68年1月 南ベトナムでテト攻勢。ベトナム問題が重大化する。SEATOは機能せず、タイとフィリピンが個別に関与。

71年11月 クアラルンプールで第4回ASEAN特別外相会議を開催。インドネシアのイニシアチブのもとで、共通の外交路線たる「東南アジア平和・自由・中立地帯」(ZOPFAN)宣言に署名。主要目標は反共産主義ではなくなる。

ZOPFAN宣言第1項 東南アジアが域外大国からのいかなる形態や態様の干渉からも自由な平和・自由・中立地帯としての承認と尊重を確保するため当面必要なあらゆる努力を払う。このため,地域としての強靱性(RESILIENCE)を構築することを目指す。「平和と自由」はバンドン宣言を下敷きにしたもの。

73年 パリ条約調印。ベトナム戦争が終結する。

1974年

74年 ジャカルタにASEAN中央事務局が設置される.

74年 田中角栄首相がインドネシアを訪問。日本の経済進出に反対するデモが発生。

5月 マレーシアが中国との国交を樹立。「共産中国に対して東南アジアの中立化を保障するよう求めながら、他方で中国を承認しないとはいえない」とする。その後フィリピン、タイが相次いで中国承認。

1975年

75年4月 サイゴン陥落.これを機にドミノ理論と対米追随路線に対する深刻な反省が生まれる。

75年 「ZOPFAN宣言」の具体化を目指す事務折衝会議(CSO)が平和・自由・中立の定義に関する最終報告を作成。

平和: 域内諸国間に調和と秩序ある関係が普及している状態。国内状態には関わらない。
自由: 域内諸国の内政外交に他国から規制・支配・干渉を受けない状態。
中立: 国際法上の国家間紛争にいかなる形態でも加担しない(非党派性)

75年 CSO、域内外諸国の内外政の指針となるべき14項目の「行動基準」を作成。TACの原型となる。

1.独立・主権・領土的一体性、2.国家的アイデンティティの尊重、3.内政不干渉、4.紛争の平和的解決、5.外国の軍事基地の不在、6.核兵器の使用・貯蔵・実験・通過の禁止、7.対外貿易の自由、8.国家的強靱性強化のための援助受け取りの自由などを提示

1976年

2月 バリ島で第1回ASEAN首脳会談.政治、安全保障、経済協力のための6つの原則を盛り込んだ「ASEAN協和宣言」(DAC)を発表.

2月 「東南アジア友好協力条約」(TAC)が調印される.元々はインドシナ諸国への和解のジェスチャーとされる。現在は域外国の調印も得て,行動枠組みを規定した実質的な根拠法となっている.

東南アジア友好協力条約Treaty of Amity and Cooperation in Southeast Asia
国連憲章を土台に,
域内諸国間の平和的関係を維持する規範として定める.
①独立・主権・領土保全などの相互尊重,
②外部からの干渉なしに自国を運営する権利,
③相互の内部問題への不干渉,
④紛争の平和的手段による解決,
⑤武力行使と武力による威嚇の放棄,
⑥諸国間の効果的協力

1977年

6月 東南アジア条約機構(SEATO)が解散される。

8月 クアラルンプールで第2回首脳会議。引き続き、日本との首脳会議。

8月 ASEAN+日本首脳会議で福田首相が対ASEAN政策を説明.

福田ドクトリンの骨子: ASEAN が地域機構として確立していることを確認し連携する。
日本は①軍事大国とならず,東南アジアと世界の平和と繁栄に貢献.②心の触れあう信頼関係の構築.③ASEAN連帯強化に協力し,インドシナ諸国との相互理解を醸成する。

1979年

1月 ベトナム軍のカンボジア侵攻。ASEAN諸国はカンボジアの自決権を侵すものとして非難。

79年 ポルポトを支援する中国はベトナムに武力「懲罰」作戦を展開。

80年3月 インドネシアとマレーシア、タイの安全確保とベトナムの中ソとの関係整理を条件に、インドシナ地域におけるベトナムの主導権を容認。「クアンタン原則」と呼ばれる。

ベトナム軍侵入と中国のベトナム攻撃をめぐりASEANは二派にわかれた。シンガポール・タイはベトナムの軍事的脅威を重視し中国への傾斜を強めた。インドネシア・マレーシアは中国を真の長期的脅威とみなし、ベトナムを緩衝国家と位置づけた。

6月 カンボジア駐留ベトナム軍がタイ領内に越境攻撃。ASEAN外相会議でベトナムを名指しで非難。

81年 マハティール・ビン・モハマド,第4代マレーシア首相に就任.「ルック・イースト政策」を発表する.

84年 独立して間もないブルネイが加盟。6カ国となる。

85年 プラザ合意成立.急激な円高を背景に,日本の対ASEAN直接投資が拡大.各国は輸出指向の開放的経済政策を推進.

86年2月 フィリピンで「黄色い革命」。マルコス独裁政権が倒れ、アキノ政権が成立。スハルトは開放政策に舵を切る。

1987年

12月 10年ぶりとなる第3回ASEAN首脳会議がマニラで開催される.マニラ宣言を採択。

マニラ宣言(ASEAN行動計画): 1.東南アジア平和中立地帯構想(ZOPFAN)の早期達成と東南アジア非核兵器地帯(SEANWFZ)の早期創設。
2.東南アジア友好協力条約を修正し,域外諸国の加入も可能とする.
3.特恵貿易取り極め(PTA: Preferential Trading Arrangements)の推進。

12月 ASEAN首脳会議に引き続き、日本との首脳会談。竹下首相は、ASEANの民間経済部門の発展と、域内経済協力への支援を表明。

89年11月 オーストラリアのホーク首相がアジア太平洋経済協力閣僚会議(APEC)を提唱.べ-カー米国務長官が協賛する形で実質的な合意がなされた.第1回会合がオーストラリアで開催される.

90年末 マハティール首相が東アジア経済グループを提起.APEC に対抗する形で打ち出された。

東アジア経済協議体(EAEC): 翌年にマハティールはグループ構想をさらに展開。当面協議体(EAEC)として出発することでASEAN各国(とくにインドネシア)の了解を取り付ける.今日の東アジア共同体構想につながるものと位置づけられている.

91年 カンボジア和平協定が成立.

1992年

1月 シンガポールで第4回ASEAN首脳会議.AFTA(ASEAN自由貿易地域)の形成を目指す「シンガポール宣言」が採択される.

①CEPT 93年1月から15年以内に「共通効果特恵関税」制度を導入する,2010年までにはASEAN原加盟6カ国、18年までに他の4カ国の域内関税を完全撤廃
②AFTA 上記の積み上げの中からASEAN自由貿易地域の創設.
③TAC拡大 
東南アジア諸国の「東南アジア友好協力条約」への加盟を促進

6月 マハティール,東アジア経済協議体(EAEC)を改めて提唱.米国の妨害により、一旦挫折する。

米国はEAEC構想に対し,自らを排除する地域組織と敵視し、成立を妨害した.この結果,ASEAN外相会議は,「ASEAN経済閣僚会議がEAECに支援と方向を与える」と決議するに留まった.

7月 バンコクで第27回ASEAN外相会議,ベトナム、ラオス、カンボジア、ミャンマーの加盟に関する協議。ジャカルタにあるASEAN事務局を拡大・強化することで合意.

7月 ASEAN外相会議,「南シナ海におけるASEAN宣言」を発表.南沙諸島紛争の平和的解決の諸原則を提示.

7月 ASEAN外相会議に引き続き第1回ARF閣僚会合。アジア太平洋地域17か国とEUの外相を結集した歴史的会議となる。

9月 インドネシアで第10回非同盟諸国会議.南北の経済格差問題がクローズアップされる.

9月 第26回ASEAN経済閣僚会議。CEPTスキームに関する協議。引き下げ期間の短縮と対象品目の拡大で合意。

9月 マハティール,国連で演説。非同盟とASEANの立場を強調.

マハティール演説の骨子: 
1.ヨーロッパは保護主義的貿易ブロックを選択してきた。自分たちの高い生活レベルと生産コストを守 り通すために、東アジア諸国との競争を拒絶し、EAECを阻止しようとている。
2.欧米は今後も、民主主義、人権、労働条件、環境破壊、知的所有権などあらゆる問題であら捜しをして、それを口実に私たちへの差別政策を正当化しようとするだろう。それはアジア人に対する人種差別である.
3.米国が反対しても,東アジアはEEC,NAFTAとならぶ三つの主要地域グループのひとつになるだろう

92年 ベトナム,ラオスが東南アジア友好協力条約へ加盟.ミャンマー、カンボディアは95年に加盟.

1993年

1月 AFTAがスタート.域内貿易の関税を5%以下に下げることを目標とする.

1月 クリントンが大統領に就任.EAECの結成を妨げる立場から,APECの強化に乗り出す.

7月 クリントン大統領が早稲田大学で講演.「新太平洋共同体」構想を発表。

新太平洋共同体: ソ連崩壊後のアジアでの覇権確立を目指す構想。経済から軍事協力まで視野に入れ、APECの中核的重要性を強調する.

11月 シアトルでAPEC非公式首脳会議が開かれる.アジア・太平洋諸国の首脳を網羅。マハティールは,「身内の結婚式に参加するため」会議を欠席.

1994年

7月 東南アジア諸国連合地域フォーラム(ARF)の第1回閣僚会議が開かれる.「アジア太平洋地域の政治,安全保障協力強化の主要なフォーラム, 平和と安定構築の主軸」となることを目指す.

対話パートナー国: 米・日・韓国・露・中国・印・豪・カナダ・ニュージーランド・EUの10カ国ヴィエトナム、ラオス及びパプア・ニューギニアの5カ国も正式メンバーとし て加わる.その後さらにカンボディア、ミャンマー、モンゴル、北朝鮮が加わる.

11月 インドネシアのボゴールで,APEC首脳会議が開催される.「APEC加盟の18国・地域は2020年まで に域内貿易の自由化目標を達成する」とするボゴール宣言を発表.

ボゴール宣言: ①自由化のみが強調され,域内協力が進展しなかったこと,②APEC構成国 の中で,南北アメリカとアジアとの間に格差がつけられたことから,ASEAN諸国の失望を呼ぶ.

1995年

7月 ブルネイで第28回ASEAN外相会議。ベトナムがASEAN加盟、カンボジア・ラオスがオブザーバー地位取得、ミャンマーがTACに加入。

8月 ASEAN外相会議に引き続き第2回ARF閣僚会合。①信頼醸成の促進、②予防外交の進展、③紛争へのアプローチの充実という3段階に沿って漸進的に進めることで合意。

12月 バンコクで第五回ASEAN首脳会議.東南アジア10ヶ国が初めて勢揃いする。

バンコク宣言: 
1.東南アジア非核兵器地帯条約(SEANWFZ)に署名.97年に発効.
2.AFTA域内関税制度の前倒し実施
3.一般的紛争処理メカニズム(DSM)の設置、

12月 日本が東アジア首脳会議への不参加を表明したもとで,中国と韓国のみで地域協力機構の設立に動く.

うわさ話: 某外交官は日豪財界人会議で.「EAECは日本が参加しなければ成り立たない.日本は参加しないから,それは自然死する」と述べたとされる.

 

1996年

7月 ASEAN拡大外相会議.中国,インド,ロシアを対話パートナーとして承認.中国はこれに対応して銭基深外相を会議に派遣.

11月 ジャカルタで第1回ASEAN非公式首脳会議. カンボディア、ラオス、ミャンマーのASEAN同時加盟を決定。 東チモール問題に関しインドネシアへの支持を表明。

11月 バンコクで第1回ASEM 首脳会議(アジア・欧州)を開催.欧亜間の経済、政治、文化面での対話と協力推進を目的とする.以後隔年ごとに開催.

96年 ASEANの主催でメコン開発閣僚会議.ASEAN首脳会議の議論を経て,日本を招請せずにおこなわれたことから,日本政府に衝撃を与える.

1997年

1月 橋本首相がASEAN諸国を歴訪.関係修復を図る.対話緊密化と多角的な文化協力を謳うが,東アジア共同体構想への言及なし.

7月 後発国の追い上げで輸出停滞に陥ったタイ政府は、バーツ切り下げで打開を図る。これをきっかけにバーツの投機売りが始まる。

7月 タイが金融危機に陥る.投機資金が急激に逃避したことから,短期的なバーツの流動性危機を引き起こす.

8月 インドネシアでルピアの暴落が始まる.

8月末 日本が中心となりアジア通貨基金(AMF)構想.米財務省はIMFの権限を侵食するものとして猛反発.

9月 香港でIMF・世銀の年次総会.マハティール首相は,「実需を伴わない為替取引は不必要、不道徳で非生産的だ」と強く非難.ジョージ・ソロスは、「為替取引きの制限は破滅的な結果につながる」と脅迫.

9月 香港でIMF年次総会に引き続き先進七か国蔵相・中央銀行総裁会議(G7).AMF構想は中国が保留に回ったため流産.

11月 APEC非公式首脳会議.「市場参加者の役割についてIMFが行っている研究の結論を期待する」とし,通貨取引の在り方全般をIMFに丸投げ.

12月15日 クアラルンプールで第二回非公式ASEAN首脳会談.「2020年 ASEANビジョン」を発表.「2020年までにASEAN共同体となることを目指す」とする.

12月 ASEAN首脳会談、「思いやりある社会の共同体」の考えを打ち出す.

思いやりある社会の共同体: 社会的弱者を放置すれば,格差が広がり,社会が分裂して社 会の強靭さが損なわれるとし,
①思いやりある社会の建設,②経済統合の社会的影響の克服,③環境の持続性の促進,④ASEANとしてのアイデンティティーの創出などを掲げる.

12月16日 日・中・韓国の首脳が招待され,ASEAN首脳会談に引き続き東アジア首脳会議.ASEAN+3の始まりとなる.通貨の安定策、痛みを伴う構造調整、日本(など先進国)の支援強化で認識の一致。

ASEAN+3成立の裏側: 当初日本には参加の意思はなかった。ASEANが日本抜きで開催する方向を明らかにしたことから,動向を見て急遽日本政府も参加を決断したと言われる

12月16日 ASEAN9カ国首脳と江沢民主席の会談.共同声明を採択.

中国・ASEAN共同声明: 
1.21世紀に向けた親善相互信頼パートナーシップの形成。
2.中国はASEANの平和・自由・中立地帯構想を支持し東南アジア非核兵器地帯条約の発効を歓迎.
3.ASEANは「一つの中国」 政策を順守.南沙諸島問題では「武力に訴えることなく,平和的手段で意見の相違や紛争を解決する」ことを誓約.

12月 マハティール首相,国民経済行動評議会を組織.ダイム特別相、ノルディン・ソピー戦略国際問題研究所長らに通貨危機への総合的対応策の検討を命じる.

97年 インドネシアでスハルト独裁体制に対する政治危機が深刻化.米国は金融危機に対して一切の支援を拒否し,IMF基準の押し付けに終始した.米国とAPECへの失望が広がる.

1998年

5月 スハルト大統領が辞任.ハビビ副大統領が大統領に就任.

6月 米フィナンシャル・タイムズ紙,「日本株式会社は死にかかっている」と報道。金融市場が麻痺して円が対外責任能力を喪失した状況にあると評価。いっぽう元の防衛に成功した中国は,「世界の金融政策形成に対する影響力を持つものとして登場した」と述べる.

7月 中国,ASEAN拡大外相会議に参加.「東南アジア友好協力条約」への加入に前向きな姿勢を表明.

7月 マハティール,IMF路線で財政再建を図るアンワル副首相を更迭.短期資本を規制し,独自の為替管理で危機に対応.日本はマレーシア支持の姿勢を明確にする.この年マレーシアの成長率はマイナス7%.

10月 宮沢蔵相,先進7カ国蔵相・中央銀行総裁会議(G7)で新宮澤構想を発表.

新宮沢構想: ヘッジファンドなどによる短期的な資本取引の規制。アジア諸国に300億ドルの資金供与、を柱とする。

11月 米国防総省,東アジア戦略報告を発表.日米同盟を「21世紀においても米アジア安保政策のかなめ」と位置付ける.またARFの役割を積極的に評価.

12月15日 ハノイで第6回ASEAN首脳会議.経済回復を目指す特別対策「大胆な措置に関する声明」を発表.

大胆な措置声明: 
1.CEPT実施率の努力目標 を1年間前倒しする.
2.そのために6ヵ年行動計画(ハノイ行動計画)を実施する。
3.マクロ経済と金融に関する協力の強化を主柱とし,経済統合の強化,ASEANの機構とメカニズムの改善をはかる。

12月16日 ASEAN首脳会議に引き続いて第二回ASEAN+3首脳会議.並行して日中韓三国首脳会議も開催。以後,ASEAN首脳会議とASEAN+3首脳会議はセット となる.

各国の提案合戦: 金大中の提唱で,協力のための検討機構として,東アジア・ビジョン・グループ(EAVG)を設置.中国の胡錦濤副主席は,金融危機打開のため東アジア蔵相会議の開催を提案.小渕首相は新宮沢構想を発表する一方.蔵相会議への米国の参加をもとめ,顰蹙を買ったといわれる(外務省のホームページには記載なし)

98年 この年のASEAN経済成長率はマイナス7%,インドネシアでは13%の落ち込み.対米不信はロシア危機の際に米財務省がヘッジファンドの救済に乗り出したことからさらに増幅される.

 

1999年

8月 マハティール首相、中国を訪問.EAECを基礎に地域の安全保障問題などを協議する「東アジア共同体」を実現するよう呼び掛ける.

10月 インドネシア大統領にワヒドが選出され。本格的民政に移行する。

11月 マニラでASEAN首脳会議。通貨金融面の協力のため、ASEAN 監視システム(ASP)の設置で合意。南シナ海問題で地域的行動規範が必要との認識で一致。

11月 マニラで第三回ASEAN+3首脳会議.初の共同声明となる「東アジアにおける協力に関する共同声明」を発表.

共同声明の骨子: 金融安定のための「東アジアにおける自助・支援メカニズムの強化」で合意。他に経済・エネルギー・農業分野での協力をうたう。ASEAN側は安保問題も議論するよう提起.日本は安保条約を理由に安保問題の討議を拒否

99年 マレーシア,独自の経済再建に成功.成長率をプラス6%に戻す.

2000年

5月 チェンマイでASEAN+3蔵相会議,日本の提起した「チェンマイ・イニシアティブ」で合意.

チェンマイ・イニシアチブ: 通貨危機の再発に備え,ASEAN各国と日本、中国、韓国との間の二国間で総額 365 億ドルにのぼる通貨(外貨準備)のスワップ協定が調印される.IMFと連動するが、それ以前にも独自判断で総額の20%まで発動可能。

7月 バンコクでASEAN+3 外相会議。「東アジア協力に関する共同声明」の実施状況のレビュー。「インドネシアの主権、領土的一体性及び国家的統一を支持するASEAN+3 共同声明」を採択。

7月 外相会議に引き続き、ARF 閣僚会合。北朝鮮が初参加.

11月 シンガポールでASEAN首脳会議.ASEAN 統合イニシアティブ開始について合意。

ASEAN統合イニシアティブ(Initiative for ASEAN Integretion : IAI)
 先発6カ国が後発4カ国の発展を支援することで,域内の経済格差を縮小し、地域全体としてのASEANの競争力を強化することを目的とする.

11月 ASEAN首脳会議に続きASEAN+3首脳会議.東アジア研究グループの設置で一致。

東アジア研究グループ (EASG):金大中の提唱した東アジア共同体構想に基づき、これを具体化するための会議。

00年 中国とASEAN諸国,南沙諸島問題解決のための「南シナ海での関係諸国の行動に関する宣言」で合意.自由貿易地域(FTA)に関し意見交換するため中国・ASEAN合同協力委員会を立ち上げることで合意.

00年 ASEAN経済が復調する.この年の成長率は5.9%に達する.

2001年

2月 ASEAN 統合イニシアティブ(IAI)について検討するためのIAIタスクフォースが設置される.

7月 ハノイでASEAN外相会議.「より緊密なASEAN統合のための,発展格差縮小に関するハノイ宣言」を発表.後発諸国の引き上げに本腰を入れる姿勢を明らかにする.

11月 カタールのドーハでWTO閣僚会議が開催.新多角的通商交渉を開始することで合意.

11月 ブルネイでASEAN首脳会議.ASEAN+3協力をさらに促進するためASEAN+3事務局の設置を提案。 「テロリズムに対抗するための共同行動に関する2001ASEAN宣言」を採択.メコン地域の開発を優先課題とすることで合意。

11月 ASEAN+3首脳会議.

小泉首相の挨拶: 「福田ドクトリン」以降ASEAN 重視政策は一貫している。日本は軍事大国にはならない。自衛隊は戦闘行為に参加しない。
金大中の演説: 東アジア・ヴィジョン・グループ(EAVG)報告書を提出.「東アジア・サミット」・「東アジア自由貿易地域」の検討を進めるよう訴える.
朱鎔基首相の演説: 10年以内にASEAN諸国との自由貿易協定(FTA)を締結する。近隣諸国に市場機会を提供し、中国脅威感の軽減を図る。

12月 中国,世界貿易機関(WTO)に加盟.

01年 東アジアの貧困人口比率は84 年から2001年の間に38.9%から14.9%に低下し、絶対的な貧困人口も5億6,220万人から2億7,130万人に減少.

2002年

1月 小泉首相、シンガポールとのFTA成立に合わせ「東アジア拡大コミュニティ」の構築を提起。ASEAN+3にオーストラリア、ニュージーランドを含める。

4月 マハティール首相、小泉構想(と背後の米国)を厳しく批判。

マハティール批判: ヨーロッパやアメリカには排他的組織が認められ、アジアに独自のグループが形成できないのはおかしい.東アジアの国々が、ASEANプラス3などという名称で実態を隠さなければならないのは、恥じるべき措置だ。

7月 ASEAN外相会議。中国との協力関係の強化を掲げ、日本を牽制。

10年以内に中国・ASEAN 自由貿易地域を設置する。中国との経済協力の枠組み合意を目指す。来る首脳会議での署名を期待する。
…日本との緊密な経済連携が更に進展することを期待する

11月 小泉首相の私的懇談会「対外関係タスクフォース」が,「21世紀日本外交の基本戦略」と題した報告書を首相に提出.「米国追従一辺倒の路線の修正」を強調.

基本戦略の骨子:  アメリカは「反対意見や異なる価値への寛容の精神と道義性が弱まっている」との懸念を示し、日米関係について「安全保障関係を中心に総合的に再検討すべき 時期に来ている」と指摘.「日本は米国と同じ目的を持ちつつも、自らの座標軸を持って米国とは補完的な外交を行っていくべきだ」と主張.

11月 プノンペンでASEAN首脳会議.ASEAN 統合のロードマップ及び最終目標としてのASEAN 経済共同体のアイデアを検討。大メコン地域開発の推進で一致。

11月 プノンペンでASEAN+3首脳会議.東アジア研究グループが報告書を提出.東アジア共同体具体化のため,26項目の課題を提案.

26項目課題: 17項目が短期目標.①企業評議会の設置,②外資導入環境の整備,③投資情報ネットワークの設立,④技術移転と技術開発での協力,⑤シンクタンクの連絡網の確率,⑥東アジアフォーラムの設置,⑦貧困解消計画の作成など.
9項目が中長期目標.①東アジア自由貿易地帯(EAFTA)の設置,②東アジア投資地域の設定,③地域融資機関の確立,④地域為替管理機構の設立,⑤ASEAN+3首脳会議の東アジア首脳会議への発展など.

11月 朱鎔基首相は、日中韓3国がFTA締結に向けて協議を開始するよう提起.金大中大統領は、「東アジア・フォーラム」の開催を提案。小泉首相の発言は日・ASEAN 包括的経済連携の強化にとどまる。

 

2003年

1月 日本経団連,「活力と魅力溢れる日本をめざして」を発表.「東アジアの連携を強化」を提言.日本がリーダーシップを発揮し、2020 年までにアジア自由経済圏を完成させることを目指す.

3月 アメリカ,国連決議を無視してイラクに侵攻.

3月 アセアンでの対応は割れる。タイ,フィリピン,シンガポールなど非イスラム国がイラク「復興支援」に派兵.マハティール首相は 「国連は今すぐにアメリカに戦争をやめさせ、イラクからの撤退を求めるべき」と主張する.

03年6月

6月 ASEAN外相会議(引き続きASEAN+3外相会議、ARF閣僚会合)がプノンペンで開催。国際紛争について突っ込んだ見解を共有。

共通見解: 1.米国のユニラテラリズムを批判.「国連憲章をふくむ国際法の諸原則を厳密に遵守することの重要性を再確認」する.
2.南シナ海における関係国の行動に関する宣言。行動規範の策定を目指す。
3.北朝鮮にかかわる6カ国協議を支持。

8月 クアラルンプールで第一回東アジア会議開催.マハティール首相はアジア通貨基金(AMF)について強調.「理念や哲学を語り合う時期は終わった.これからは、どうやって作り上げるかを検討しよう」と述べる.

9月 北京で東アジア・シンクタンク・ネットワーク(NEAT)が設立される.「東アジア共同体」の現実化に向けロードマップ作りを開始.東アジア会議と内容的には重複.

03年10月

10月 バリ島で第9回ASEAN首脳会議.第二次ASEAN協和宣言(第二次バリ宣言)を発表.

バリ・コンコードⅡ: ASEAN共同体の2020年創設を確認。ASEANを「単一の市場,単一の生産拠点として確立」することを目指す.安保共同体行動計画の起草をイン ドネシアに,社会文化共同体計画をフィリピンに委託.
 第1回のASEAN首脳会議は76年に同じバリ島で開かれた.ここで協和宣言が発表され,東南アジア友好協力条約が締結された.第二次というのはこれを念頭に置いたもの.

10月 ASEAN首脳会議に引き続き,ASEAN+3首脳会議.中国とインドが東南アジア友好協力条約(TAC)に署名.

王毅外務次官(中国): TACは内部問題への不干渉,紛争の平和的解決,主権や領土保全の相互尊重など,各国が従うべき原則そのものだ.
シクリ外務次官(インド): 
TACの原則は,平和共存の五原則と一致しており,地域の平和,安定,進歩の利益や誓約を反映している.
小泉首相: 
TACの有無に関わらず,独自の立場でASEANとの協力関係を強める」としてTACへの加入を拒否.

10月 ASEANと中国、「戦略的パートナーシップ共同宣言」を採択.2010年までにASEANとの間でFTAを実施.貿易の拡大を確認.

ストレーツ・タイムズ紙(マレーシア)の論評: 中国の魅力ある攻勢は明白で,中国は日本を完全に凌駕した.中国はまた,東南アジア非核兵器地帯条約への加入を積極的に検討している.日本の官僚主義は,その慎重さと伝統的な思考を捨てなければならない.なにより対米追随を脱却し,自分自身の独立を図る必要がある.

12月 日本政府,東京でASEAN諸国との特別首脳会談を開催.これまでの消極的態度を改め,TAC加入を決定.中国のTAC加入へのあせりの表現と見られる.

03年 APEC首脳会議.ブッシュ大統領は対テロ戦争路線への支持を取り付けようとするが,「政治課題はなじまない」と拒否される.APECの存在感は急速に薄れる.

03年 中国と香港、台湾を合わせた中国圏への輸出が約13兆7000億円に達し、アメリカ向け輸出(約13兆4000億円)を上回る.

2004年

5月 日本政府の肝いりで,東アジア共同体評議会が設立される.関係省庁、シンクタンク、企業代表が参加。「日米同盟との両立を如何に図るか」を検討.議長の中曽根元首相,東アジア共同体について「中国に先に出られている」と危機感を表明.

04年6月

6月 クアラルンプールで第二回東アジア会議.アブドラ首相が基調演説.

アブドラ首相の基調演説: 東アジアのいかなる国,いかなる国民も,いかなる装いの下であれ,「大東亜共栄圏」の再現を望んでいない。
いかなる国家エゴイズムも,帝国的野望も,不平等国際条約も強制も,脅しも,威圧も,侮辱も,覇権もあってはならないと強調。

6月29日 ジャカルタで第37回ASEAN外相会議.多国間協調主義を基調とするASEAN憲章の作成を決議.

04年7月

7月01日 引き続きASEAN+3外相会議.EASG提案の前進を確認.また「東アジア首脳会議」の開催で合意.

前進した課題: ①ASEAN10カ国による自由貿易協定(AFTA)の進行.②ASEANと中国とのFTA協議の進展.③アジア債権ファンド(ABF)の設立など

7月 日本外務省,ASEAN+3外相会議に対し,米国を東アジア共同体へ参加させるよう示唆.

7月 引き続きARF閣僚会合。中国が軍及び政府関係者による「ARF 安全保障政策会議」(ASPC)の設置を提案し承認される。

7月 米太平洋軍,マラッカ海峡軍事行動での共同作戦を提案.マレーシアとインドネシアは,マラッカ海峡の安全は両国が責任を持つとし,米軍の提案を拒否.

04年11月

11月 ビエンチャンで第10回ASEAN首脳会議.2020年のASEAN共同体創設を目指し,地域統合の深化と,加盟諸国間の格差縮小をテーマとする.

11月 ASEANと温家宝首相の会談.①イラク情勢を憂慮し,国連が重要な役割を果たすべきとの認識で一致.②中国は東南アジア非核地帯条約の付属議定書へ署名の意向.③「全面的経済協力に関する枠組み」で合意.

2005年

05年7月

ビエンチャンで外相会議、+3外相会議、ARF閣僚会合が開催される。

05年12月

クアラルンプールでASEAN首脳会議。ASEAN憲章の起草で合意。元首脳や有識者の賢人グループに委ねられる。

憲章の骨格: 民主主義の促進、核兵器の拒否、武力行使・威嚇の拒否、国際法の原則順守、内政不干渉などが含まれる。

このあと初のASEAN+ロシア首脳会議も行われ、プーチンが参加。

第1回「東アジアサミット」(EAS)が開催される。参加国はASEAN+3に豪州、インド、ニュージーランドを加えた16ヵ国。ASEAN+3の枠組みを嫌う日本が押し出したもの。「東アジア首脳会議に関するクアラルンプール宣言」は抽象的なものにとどまる。

05年 ASEANと米国、パートナーシップ協定で合意。

2006年

5月 第1回ASEAN国防相会議。2020年までにASEAN安全保障共同体 (ASEAN Security Community: ASC) を創設することを目指す。

7月 クアラルンプールでASEAN外相会議。これまでの過程を整理し、1.ASEAN が「driving force」であり続けること、2.ASEAN+3 が東アジア共同体形成の主要な手段であり続けること、3.EAS が東アジアの平和と経済的繁栄について対話するためのフォーラムであること、を確認する。

8月 経済閣僚会議、ASEANの経済発展を確認。5.5%の経済成長、輸出が前年比13.5%増、投資も前年比48%増の380 億ドルに達した。 

8月 引き続き第1回ASEAN+3+3 経済担当閣僚会議。日本が16カ国の自由貿易協定(FTA)を提案。

2007年

1月 ASEAN安全保障共同体 (ASC)、ASEAN経済共同体 (AEC)、ASEAN社会・文化共同体 (ASCC) の3つからなるASEAN共同体を2015年までに設立することで合意(当初目標より5年前倒し)

11月 シンガポールで首脳会議。ASEAN 憲章が採択、署名され、さらに「ASEAN 経済共同体のための青写真」(ロードマップ)が署名される。

2008年

11月 ASEAN憲章、各国の批准を受け発効。 

2009年

 4月 財務相会合。「ASEANインフラ基金」創設について確認。また「チェンマイ・イニシアティブ」への各国の拠出額で合意。

2月 AFTAが改定され、より強制力をもった 「ASEAN物品貿易協定 (ATIGA)」 に発展。

2010年

10年 中国とASEANの間で自由貿易協定(ACFTA)が締結される。

2011年

  11月 バリ島で一連の首脳会議。最後の東アジア首脳会議 (EAS) には米国とロシアがはじめて参加。ASEAN+3+3+2となる。18カ国の賛成で「バリ原則宣言」を採択。武力行使や武力による威嚇の放棄を明記する。

11年 ASEANと中国、南シナ海行動宣言(DOC)履行のためのガイドラインを承認。

 2014年

 8月 ASEAN外相会議、バリ原則宣言を踏まえ、東南アジア友好協力条約(TAC)を発展させた「インド・太平洋友好協力条約」を提唱。


 すみません。とりあえずドカンと載せてしまいました。元々はホームページに乗せていたものですが、もう10年も経つので、増補・改訂しました。

近日中にまたホームページに戻します。その際、ダイジェスト版は残しておこうと思っています。