年表を作ってみて思うのだが、大久保利通は一言で言って「戦略家」であると思う。

一つの目的を立てると、その目的にそって計画を立て、目標を定める。そしてそのための陣どりを着々とすすめるのである。

陣どりというのは、誰を味方とし誰を敵とするのかということである。味方は多いほどいいし、敵は少ないほど良い。しかし数を集めるために目標を引き下げてはならない。

彼は交渉の達人であり、落とし所をよくわきまえている。それだけではなく、自分の望む地点に少しでも近く落とすすべを心得ている。落とせないと踏めば脅してでも妥協を迫る。

ここが革命家たる所以であり、たんなるマキャベリアンではない。その妥協には筋が通っている。

大久保の行動の大目的は、途中で変わっている。薩摩のためという目的から日本という国家のためという変更である。

これが何時のことなのかははっきりしない。何を指標にするかでずいぶん異なってくる。

決別の系列で言えば、徳川との決別、島津久光との決別、西郷隆盛との決別という3つのポイントが有る。

一方で結合の系列としては岩倉具視との結合、長州藩との結合、とりわけ伊藤博文との結合が挙げられる。

大久保は思想家ではない。彼は維新に何かを期待したわけではない。西洋との力の差を知りつつ、日本という国を守ることにすべての価値観を集中したに過ぎない。

その限りにおいて、進歩的な考えが有用であればそれを採用した。日本を守るために保守反動が有益であれば、彼は躊躇なくそれを採用しただろう。

大久保が大量に採用したのが吉田松陰スクールの人材だった。なぜなら薩摩にはそれだけの人材がいなかったからである。

吉田松陰スクールの本来の指導者は木戸孝允だった。彼は進歩的思想家でもあり、土佐の板垣や肥前の大隈もその影響下にあった。

しかし大久保は思想を欲せず、能力だけをもとめた。なぜなら彼は薩摩だったからである。維新を遂行したのは薩摩である。彼には西郷をも島津久光をも説得出来るだけの能力があった。その能力は大久保にしかなかったのである。

彼にはカリスマ的魅力もなかったし、カリスマたらんとする気もなかった。調整役に徹しつつ、日本を守るという決意に忠実だったのである.だから岩倉、西郷、島津久光、木戸が大久保の判断を尊重せざるを得なかったのである。

まさに「書記長」である。